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釈迦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
釈迦
生没年:旧暦4月8日誕生(灌仏会、伝承による)[1] - 旧暦2月15日没(涅槃会、伝承による)
Buddha in Sarnath Museum (Dhammajak Mutra)
生地 コーサラ国カピラヴァストゥ
没地 マッラ国クシナガラ
弟子 舎利弗摩訶目犍連摩訶迦葉
須菩提富楼那弥多羅尼子
摩訶迦旃延阿那律優波離
羅睺羅阿難
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ガウタマ・シッダールタ
गौतम सिद्धार्थ
王太子
在位 紀元前624年 - 紀元前595年(諸説あり)

人種 アーリア人ないしモンゴル系人種[2][3]
出生 紀元前624年4月8日
ルンビニー
死去 紀元前544年2月15日(80歳没)[4]
クシナーラー
配偶者 耶輸陀羅
家名 釈迦族
父親 浄飯王
母親 摩耶夫人
宗教 仏教
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釈迦
中国語
繁体字 釋迦牟尼
簡体字 释迦牟尼
発音記号
標準中国語
漢語拼音Shìjiāmóuní
注音符号ㄕˋ ㄐㄧㄚ ㄇㄡˊ ㄋㄧˊ
客家語
客家語拼音Sṳt-kâ-mèu-nì
粤語
粤拼sik1 gaa1 mau4 nei4
閩南語
閩南語白話字Sek-khia-mô͘-nî
朝鮮語
ハングル석가모니
漢字釋迦牟尼
発音記号
RR式seog-ga-mo-ni
MR式sŏk-ka-mo-ni
ベトナム語
クオック・グーTất-đạt-đa Cồ-đàm
チュノム悉達多瞿曇
タイ語
タイ語พระโคตมพุทธเจ้า
RTGSPhra Khotama Phuttha Chao
インドネシア語
インドネシア語Siddhartha Gautama
ビルマ語
ビルマ語ဂေါတမ ဗုဒ္ဓ
ヒンディー語
ヒンディー語गौतम बुद्ध

釈迦(しゃか、旧字体釋迦サンスクリット: शाक्यमुनिŚākyamuni)は、北インド[5]の人物で、仏教開祖。ただし、存命していた時代については後述の通り紀元前7世紀紀元前6世紀紀元前5世紀など複数の説があり、正確な生没年は分かっていない。

姓名はサンスクリット語の発音に基づいた表記ではガウタマ・シッダールタ: गौतम सिद्धार्थ Gautama Siddhārtha[6][7])、パーリ語の発音に基づいてゴータマ・シッダッタ[8]: Gotama Siddhattha)とも表記される。漢訳では瞿曇悉達多(くどんしっだった)である[7][注釈 1]

仏舎利と言われる遺骨は真身舎利、真正仏舎利として今も祀られ、信仰を集めている。

名前と呼称

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「釈迦」

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シャーキヤ(: शाक्य Śākya)は、釈迦の出身部族であるシャーキヤ族[6]またはその領国である、シャーキヤ国を指す名称である。「釈迦」はシャーキヤを音写[6]したものであり、旧字体では釋迦である[9]

シャーキヤムニ(: शाक्यमुनि Śākyamuni)はサンスクリットで「シャーキヤ族の聖者」という意味の尊称であり、これを音写した釈迦牟尼/釈迦牟尼仏(しゃかむに/〃ぶつ)[10]を省略して「釈迦」と呼ばれるようになった[6]天台宗や、臨済宗をはじめとする禅宗などで多く唱えられる念仏である「南無釈迦牟尼仏」も南無は「あなたにおまかせする」という意であるため「釈迦牟尼仏にすべてお任せします」という意味である[11][出典無効][12][出典無効]

姓名

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パーリ仏典では、釈迦の父方の従兄弟・アーナンダもゴータマと呼ばれており、釈迦の母のマーヤーと母方の叔母で養母のマハー・プラジャーパティーはゴータマの女性形であるゴータミー(: Gotamī)と呼ばれている[13][14][15]

ガウタマ(ゴートラ)はアーンギラサ族英語版: aṅgīrasa)のリシガウタマの後裔を意味する姓であり、この姓を持つ一族はバラモンである。クシャトリアのシャーキャ族である釈迦の姓がガウタマであることは不自然であり、先祖が養子だったとする説などがある[16]

名のシッダールタは、古い仏典に言及が無いこと、意味が「目的を達成した人」と出来過ぎていることから、後世に付けられた名前とする説がある[17][18]

尊称・敬称・異名

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ブッダ: बुद्ध buddha)は、「目覚める」を意味するブドゥ(: बुध् budh)に由来し、「目覚めた人」という意味である[8][注釈 2]。もともとインドの宗教一般において、すぐれた修行者や聖者に対する呼称であったが、仏教で用いられ釈迦の尊称となった[19]。このため、ゴータマ・ブッダ[8]ともいう。漢訳の音写は仏陀、旧字体では佛陀であり、意訳は覚者である。仏陀の略称がであり、「仏教」や「仏像」などの用語はこの尊称に由来する[20]。「仏陀」の発音については「ぶっ-だ」の他に「ぶつ-だ」とも読まれる。

釈迦の異名は多くあるが、その中でも十号がよく知られている[21]

タターガタ: तथागत tathāgata)は、「そのように来た者」または「そのように行った者」[22]を意味する釈迦の尊称である。音写は多陀阿伽度、意訳は如来であり[23][24]釈迦如来ともいう。また、バガヴァント英語版: भगवन्त् Bhagavant)は、世の中で最も尊い者を意味する釈迦の尊称であり[25]、音写は婆伽婆もしくは薄伽梵、漢訳は世尊である[25]

仏教では、釈迦牟尼仏[26][27]、釈迦牟尼如来[26]、釈迦牟尼世尊[28]としたり、またそれらを省略して、釈尊[7]牟尼[29]釈迦尊仏様お釈迦様と呼ぶ。

生涯

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釈迦について同時代の一次史料は乏しく、人種さえ不明である。

釈迦の死後に成立した経典が伝える釈迦の生涯いわゆる仏伝は、説話的な色彩が濃いうえに、後世の信仰や教義を釈迦の生涯と結びつけようとする傾向があるため、実在の人物としての釈迦の生涯を知る上では注意して取り扱わなければならない。

例えば、近年の研究では仏教の修行法や教義は釈迦の死後に、

  • 最古層経典:修行法はほぼ「戒」や「定」や「慧」に該当する内容で占められる。
  • 古層経典:新たな修行法もみられるようになる。その代表的な修行法が七種の修行法(三十七道品)である。中でも「五根」が最も早くみられ、続いて「八正道(八聖道)」が「四諦(四聖諦)」と一体で説かれる。
  • 新層経典:新たに「四念処」「四正勤」「四神足」「五力」「七覚支」という修行法が説かれる。

と段階的に発展してきた(並川2023a[30],p.14)。ところが、仏伝では釈迦は「初転法輪」の段階で(後年成立したはずの)四諦八正道を説いたとしている。

本項の以下の記述は、伝統仏教の信仰的説話(後世の創作)の内容を含むものである。

四住期

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釈迦族の王族として生まれた釈迦は、あとつぎの男子をもうけたあと、29歳で王族の地位を捨て、林間で修行し、悟りを開き、布教の旅に出て、遊行の身のまま世を去った。古代インドの人生の理想「四住期」(梵: āśrama)の考えかたにのっとった人生であった。

誕生から青年期

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十六大国時代のインド(紀元前600年
釈迦が白象になって母の胎内に入る場面

釈迦の父であるガウタマ氏のシュッドーダナは、コーサラ国属国であるシャーキヤラージャで、母は隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘マーヤーである[31]。マーヤーは、出産のための里帰りの途上、カピラヴァストゥ郊外のルンビニで子を産んだ[7][注釈 3]。この誕生に関して、釈迦はマーヤーの右脇から生まれ出て7歩あゆみ、右手を上に、左手を下に向けて、『天上天下唯我独尊』と言った(八正成道(はっしょうじょうどう)のうち降誕もしくは出胎)と物語られている[32]。マーヤーは出産した7日後に死んだ[33]。この子はシッダールタと名付けられた[31]。シャーキャの都カピラヴァストゥにて、シッダールタはマーヤーの妹マハープラージャーパティによって育てられた[7][31][注釈 4]

シッダールタはシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、教養と体力を身につけるが[要出典]、「教えることが無くなりました」と教師が辞任を申し出たという話があるほど聡明であったと言われている[34]。16歳または19歳で母方の従妹の[要出典]ヤショーダラーと結婚し、跡継ぎ息子としてラーフラをもうけた[7]

出家

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当時のインドでは沙門といった修行者が出現し、後にジャイナ教の始祖となったマハーヴィーラを輩出するニガンタ派をはじめとして、順世派などのヴェーダの権威を認めないナースティカが、アーリア人による伝統的価値観とは異なる新思想運動を展開していた[35]

釈迦が出家を志すに至る過程を説明する伝説に、四門出遊の故事がある[7]。釈迦が初めてカピラヴァストゥ城から外出したとき、最初の外出では老人に会い、2回目の外出では病人に会い、3回目の外出では死者に会い、この身には老いも病も死もある、との避けられない苦しみを感じた(四苦)[36]。4回目の外出では一人の沙門に出会い、老いと病と死にとらわれない違った生き方を知り、出家の意志を持つようになった[37]

なぜ私は、みずからの法(ダルマ)を有する者でありながら生まれるものを求め、みずから老の法を有する者でありながら老いるものを求め、みずから病の法を有する者でありながら病めるものを求め、みずから死の法を有する者でありながら死ぬものを求め、みずから憂の法を有する者でありながら憂いを求め、 みずから煩悩の法を有する者でありながら煩悩を求めているのだろうかと。[38][39]

シッダールタは王族としての安逸な生活に飽き足らず、また人生の無常を痛感し、人生の真実を追求しようと志して29歳で出家した[7][39]。ラーフラが産まれて間もない頃、深夜にシッダールタは王城を抜け出した[7]。当時の大国であったマガダ国ラージャグリハを訪れ、ビンビサーラ王に出家を思いとどまるよう勧められたがこれを断った[7]。また、バッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、バッカバは死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天上界の幸いも尽きればまた六道輪廻すると悟った[40]。シッダールタは、次に教えを受けたアーラーラ・カーラーマの境地(無所有処定)およびウッダカラーマ・プッタの境地(非想非非想処定)と同じ境地に達したが、これらを究極の境地として満足することはできず[7]、またこれらでは人の煩悩を救ったり真の悟りを得ることはできないと覚った。この三人の師はシッダールタの優れた資質を知って後継者としたいと願ったが、シッダールタはこれらのすべては悟りを得る道ではないとして辞し、彼らのもとを去った[41][40][7][42]

6年の苦行の後に山から出てくる釈迦を表した像。室町時代の15世紀から16世紀の作。奈良国立博物館蔵。

そしてウルヴェーラーヒンディー語版の林へ入ると、父のシュッドーダナは、シッダールタの警護も兼ねて五人の沙門(のちの五比丘)を同行させた。その後6年の間に様々な苦行を行った[7][42]断食修行でわずかな水と豆類などで何日も過ごした[41]。断食修行によりシッダールダの心身は消耗し、骨と皮のみのやせ細った肉体となっていた[41]

私はこれらの辛い苦行によっても、人法を超えた聖なる智見殊勝を証得しなかった。菩提のためには、別の道があるのではないだろうか。[41]

しかしスジャーターの施しを得たことで(乳粥供養)、過度の快楽が不適切であるのと同様に、極端な苦行も不適切であると悟ってシッダールタは苦行をやめた(苦行放棄[7][41]。その際、五人の沙門はシッダールタを堕落者と誹り[41][7][42]、彼をおいてワーラーナシーサールナート[要出典]去った[7]

悟り

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ブッダガヤの大菩提寺ゴータマ・ブッダの菩提樹

35歳のシッダールタは、ガヤー(現在のガヤー県内)の近くを流れるナイランジャナー川英語版沐浴したあと、村娘のスジャーターから乳糜布施を受け[9][7]、体力を回復してピッパラ樹の下に坐して瞑想に入り、悟りに達して仏陀となったとされる(成道)[7][注釈 5]

解脱したとき、「解脱した」という智が生じました。
「生は尽きた。梵行は完成した。なされるべきことはなされた。二度とこのような状態へ(至ることは)ない」と了知したのです。[41]

この後、7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起十二因縁を悟ったといわれる。8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかを考えた[43]。その結果、この真理は世間の常識に逆行するものであり、「を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った[44][38][41]

ところが梵天サハンパティが現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われたとされる(梵天勧請[41][38][44]。3度の勧請の末[44]、釈迦は世の中には煩悩の汚れも少ない者もいるだろうから、そういった者たちについては教えを説けば理解できるだろうとして開教を決意した[38][注釈 6]

五比丘

釈迦はまず、修行時代のかつての師匠のアーラーラ・カーラーマウッダカ・ラーマプッタに教えを説こうとしたが、二人はすでに死去していたことを知ると[46][42]、ともに苦行をしていた五人の沙門(五比丘)に説くことにした[46][42]

ワーラーナシーのサールナートに着くと、釈迦は五人の沙門に対して中道四諦八正道を説いた(初転法輪[46][7][44][42]。五人は、当初はシッダールタは苦行を止めたとして蔑んでいたが[46][42]説法を聞くうちに解脱した[46][7]。最初の阿羅漢コンダンニャであった[46][44]。法を説き終えた結果、世界には6人の阿羅漢が存在した[46]

教化と伝道

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ラージャグリハ霊鷲山
ラージャグリハ竹林精舎

釈迦はワーラーナシーの長者ヤシャスやカピラヴァストゥのプルナらを教化した。その後、ウルヴェーラ・カッサパナディー・カッサパガヤー・カッサパの3人(三迦葉)は釈迦の神通力を目の当たりにして改宗した[47]。当時、この3人はそれぞれがアグニを信仰する数百名からなる教団を率いていたため、信徒ごと吸収した仏教教団は1000人を超える大きな勢力になった。

釈迦はマガダ国の都ラージャグリハに行く途中、ガヤー山頂で町を見下ろして「一切は燃えている。煩悩の炎によって汝自身も汝らの世界も燃えさかっている」と言い、煩悩の吹き消された状態としての涅槃を求めることを教えた。

釈迦がラージャグリハに行くと、マガダ国の王ビンビサーラも仏教に帰依し、ビンビサーラは竹林精舎を教団に寄進した[47]。このころシャーリプトラマウドゥガリヤーヤナ倶絺羅マハー・カッサパらが改宗した。

以上がおおよそ釈迦成道後の2年ないし4年間の状態であったと思われる。この間は大体、ラージャグリハを中心としての伝道生活が行なわれていた。すなわち、マガダ国の群臣や村長や家長、それ以外にバラモンやジャイナ教の信者がだんだんと帰依した。このようにして教団の構成員は徐々に増加し、ここに教団の秩序を保つため、様々な戒律が設けられるようになった。

舎衛城祇園精舎

これより後、最後の1年間まで釈迦がどのように伝道生活を送ったかは充分には明らかではない。経典をたどると、故国カピラヴァストゥの訪問によって、釈迦族の王子や子弟たちである、ラーフラアーナンダアニルッダデーヴァダッタ 、またシュードラの出身であるウパーリが先んじて弟子となり、諸王子を差し置いてその上首となるなど、釈迦族から仏弟子となる者が続出した。またコーサラ国を訪ね、ガンジス河を遡って西方地域へも足を延ばした。たとえばクル国のカンマーサダンマ (kammāsadamma) や、ヴァンサ国コーサンビーなどである。成道後14年目の安居はコーサラ国のシュラーヴァスティー祇園精舎で開かれた。

このように釈迦が教化・伝道した地域をみると、ほとんどガンジス中流地域を包んでいる。アンガ (aṅga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathurā)、コーサラ (kosala)、クル (kuru)、パンチャーラー (pañcālā)、ヴァンサ (vaṃsa) などの諸国に及んでいる。

死までの1年間

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アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。たとえば古ぼけた荷車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ。[48]

最晩年の記録

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釈迦の伝記の中で今日まで最も克明に記録として残されているのは、死ぬ前の1年間の事歴である。漢訳の『長阿含経』の中の「遊行経」とそれらの異訳、またパーリ所伝の『大般涅槃経』などの記録である。

シャーキャ国の滅亡

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涅槃の前年の雨期は舎衛国の祇園精舎で安居が開かれた。釈迦最後の伝道はラージャグリハの竹林精舎から始められたといわれている。

プラセーナジットの王子ヴィドゥーダバが挙兵して王位を簒奪した。そこでプラセーナジットは、やむなく王女が嫁していたマガダ国のアジャータシャトルを頼って向かったが、城門に達する直前に死んだ。

ヴィドゥーダバは即位後、即座にカピラヴァストゥの攻略に向かった。この時、釈迦はまだカピラヴァストゥに残っていた。釈迦は、故国を急襲する軍を、道筋の樹下に座って三度阻止したが、宿因の止め難きを覚り、四度目にしてついにカピラヴァストゥは攻略された。 その後、このヴィドゥーダバも河で戦勝の宴の最中に洪水または落雷によって死んだ。

釈迦はカピラヴァストゥから南下してラージャグリハに着き、しばらく留まった。

自灯明・法灯明

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釈迦は多くの弟子を従え、ラージャグリハから最後の旅に出た。アンバラッティカ(: ambalaṭṭhika)へ、ナーランダを通ってパータリ村(後のパータリプトラ)に着いた。ここで釈迦は破戒の損失と持戒の利益とを説いた。

パータリプトラを後にして、増水していたガンジス河を渡り、コーティ村に着いた。 次に釈迦は、ナーディカ村を訪れた。ここで亡くなった人々の運命について、アーナンダの質問に答えながら、人々に、三悪趣が滅し預流果の境地に至ったか否かを知る基準となるものとして法の鏡の説法をする。次にヴァイシャーリーに着いた。ここはヴァッジ国の首都であり、アンバパーリーという遊女が所有するマンゴー林に滞在し、四念処三学を説いた。やがてここを去ってベールヴァ(Beluva)村に進み、ここで最後の雨期を過ごすことになる。釈迦はここでアーナンダなどとともに安居に入り、他の弟子たちはそれぞれ縁故を求めて安居に入った。 この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。この時、アーナンダは釈迦の病の治ったことを喜んだ後、「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができました」と言った。これについて釈迦は、

比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。アーナンダよ、如来の教法には、(弟子に何かを隠すというような)教師の握り拳(ācariyamuṭṭhi、秘密の奥義)はない。[49]

と説き、すべての教えはすでに弟子たちに語られたことを示した。

アーナンダよ、汝らは、自(みずか)らを灯明とし、自らをより処として、他のもの(añña)をより処とせず、法を灯明とし、法をより処として、他のものをより処とすることのないように[49]

と訓戒し、また、「自らを灯明とすこと・法を灯明とすること」とは具体的にどういうことかについて、

ではアーナンダよ、比丘が自らを灯明とし…法を灯明として…(自灯明・法灯明)ということはどのようなことか?阿難よ、ここに比丘は、身体について…感覚について…心について…諸法について…(それらを)観察し(anupassī)、熱心につとめ(ātāpī)、明確に理解し(sampajāno)、よく気をつけていて(satimā)、世界における欲と憂いを捨て去るべきである。[49]
アーナンダよ、このようにして、比丘は自らを灯明とし、自らをより処として、他のものをより処とせず、法を灯明とし、法をより処として、他のものをより処とせずにいるのである[49]

として、いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように説いた。

これが有名な「自灯明・法灯明」の教えである。

入滅

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涅槃

やがて雨期も終わって、釈迦は、ヴァイシャーリーへ托鉢に戻ると、アーナンダを促して、チャーパーラ廟へ向かった。永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サッタンバ廟、バフプッタ廟、サーランダダ廟などを訪ね、チャーパーラ霊場に着くと、ここで聖者の教えと神通力について説いた[50]

托鉢を終わって、釈迦は、これが「如来のヴァイシャーリーの見納めである」と言い、バンダ村 (bhandagāma) に移り四諦を説き、さらにハッティ村 (hatthigāma)、アンバ村 (ambagāma)、ジャンブ村 (jāmbugāma)、ボーガ市 (bhoganagara)を経てパーヴァー (pāvā) に着いた。ここで四大教法を説き、仏説が何であるかを明らかにし、戒定慧の三学を説いた。

釈迦は、ここで鍛冶屋のチュンダのために法を説き供養を受けたが、激しい腹痛を訴えるようになった。カクッター河で沐浴して、最後の歩みをマッラ国クシナガラに向け、その近くのヒランニャバッティ河のほとりに行き、サーラの林に横たわり、そこで死んだ。80歳没。

悲しむなかれ。嘆くなかれ。アーナンダよ、私は説いていたではないか。最愛で、いとしいすべてのものたちは、別れ離ればなれになり、別々になる存在ではないかと。[51][52]

アーナンダよ、あなた方のため私によって示し定めた「」が、私の死後は、あなた方の師である。[51]

仏教では死を入滅、釈迦の入滅を仏滅と言う。腹痛の原因はスーカラマッタヴァという料理で、豚肉、あるいは豚が探すトリュフのようなキノコであったという説もあるが定かではない。

死後

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釈迦の死後、その遺骸はマッラ族の手によって火葬された。当時、釈迦に帰依していた八大国の王たちは、釈迦の遺骨(仏舎利)を得ようとマッラ族に遺骨の分与を乞うたが、これを拒否された。そのため、遺骨の分配について争いが起きたが、ドーナ(dona、香姓。独楼那、徒盧那とも[53])というバラモンの調停を得て舎利は八分され、遅れて来たマウリヤ族の代表は灰を得て灰塔を建てた。

その八大国とは、

  1. クシナーラーマッラ族
  2. マガダ国のアジャタシャトゥル王
  3. ベーシャーリーリッチャビ族
  4. カピラヴァストゥシャーキャ族
  5. アッラカッパのプリ族
  6. ラーマ村のコーリャ族
  7. ヴェータデーバのバラモン
  8. バーヴァーのマッラ族

である。

弟子たちは釈迦の残した教えと戒律に従って跡を歩もうとし、何度か結集して、釈迦の教法と律とを阿含経典群にまとめた。

生涯についての歴史学的検証

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釈迦の生涯に関しては、釈迦と同時代の原資料の確定が困難で、一時期はその史的存在さえも疑われたことがあった。

阿含経典群のうち、いずれが古層であるかについて、中村元パーリ仏典の『スッタニパータ』の韻文部分が恐らく最も成立が古いとし[54]、日本の学会では大筋においてこの説を踏襲している。

文献

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釈迦の生涯を伝える経典

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注:以下〔大正〕とは、大正新脩大蔵経のこと。

アショーカ王の建てた石柱には、ブラーフミー文字で『ブッダ生誕地なのでルンビニでは税を免除する』と刻まれている。

遺跡

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ルンビニ

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1868年、ドイツ人の考古学者アロイス・アントン・フューラー英語版ネパールの南部にあるバダリアで遺跡を発見した。そこで出土した石柱には、ブラーフミー文字で、「アショーカ王が即位後20年を経て、自らここに来て祭りを行った。ここでブッダ釈迦牟尼が誕生されたからである」と刻まれており、同地が仏教巡礼の八大聖地のひとつ、釈迦の生誕地ルンビニだとわかった。

カピラヴァストゥ

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シャーキャの都であり釈迦の故郷であるカピラヴァストゥは、法顕が5世紀に、玄奘が7世紀に訪れてそれについて書いたように、釈迦の死後1000年ほどは仏教徒の巡礼の地であったという。だがその後、この地域で仏教は影響力を失い、ヒンドゥー教イスラム教にとってかわられ、釈迦のことは語られなくなり、やがて14世紀ごろにはカピラヴァストゥの正確な場所が分からなくなった。

ネパール中南部のティロリコート英語版と、インド側ではネパールとの国境に近いウッタル・プラデーシュ州バスティ県のピプラーワー英語版の両遺跡がカピラヴァストゥと推定され、ネパール側とインド側で、位置を巡って論争になっている。

1898年にイギリス駐在官W・C・ペッペが、ピプラーワーから、「ガウタマ・シッダールタの遺骨及びその一族の遺骨」であると書かれた壺を発掘した。ペッペが発見した遺骨の壺は、現在では真の仏舎利として最も信憑性があるとされている[55]。この壺は当時のイギリス領インド政府からタイ王室に譲り渡され、仏舎利の一部は日本では覚王山日泰寺に納められている[56]

生没年

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釈迦の没年は、アショーカ王の即位年(紀元前268年ごろ)を基準に推定されている。しかし、釈迦の死後何年がアショーカ王の即位年であるかは典拠によって違いがあり、特に北伝仏教南伝仏教経典で100年以上の差があるが、いずれが正確であるかを具体的に確認する術はない[注釈 8]

宇井伯寿中村元は北伝仏教の経典に基づき、タイスリランカなど東南アジア・南アジアの仏教国や欧米の学者の多くは南伝仏教の経典(パーリ経典)に基づいて没年を推定している。一方、『大般涅槃経』その他いずれの典拠においても釈迦が80歳で死去したとする記述は共通しているため、没年を決定できれば自動的に生年も導けることになる。

主な推定生没年は、

等があるが、他にも様々な説がある[注釈 9]

考古学による調査結果からの推定もあり、2013年にルンビニで紀元前6世紀の仏教寺院の遺構が見付かったと報道された[59]。この遺構の年代が正確であれば、釈迦は遅くとも紀元前6世紀またはそれ以前に存命していたことが確実となり、釈迦の生年を紀元前5世紀とする宇井説や中村説は否定されることになる。ただし、問題の遺構は必ずしも仏教寺院のものとは限らないとする反論もある[60]

評価

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他宗教

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上座部仏教では、釈迦は現世における唯一の仏とみなされている。最高の悟りを得た仏弟子は阿羅漢と呼ばれ、仏である釈迦の教法によって解脱した聖者と位置づけられた。一方、大乗仏教では、釈迦は無量の諸仏の一仏で、現在の娑婆の仏であると解釈された。また、後の三身説では応身として、仏が現世の人々の前に現れた姿であるとする。

釈迦の死後、インドで仏教とヴェーダの宗教は互いに影響を与え、ヴィシュヌ派プラーナ文献に釈迦はヴィシュヌアヴァターラとして描写されている。ただし、ヴェーダを否定した釈迦は、神の化身とはいえ、必ずしも肯定的な評価ではない。

この件に関して、20世紀新仏教運動を興したアンベードカルはヴィシュヌ派による釈迦の扱いを「偽りのプロパガンダ」と呼んで非難している[61]。一方で、新ヴェーダーンタ学派英語版サルヴパッリー・ラーダークリシュナンは、『法句経』を英訳した際の註釈で、釈迦の思想が極端に誇張されて伝わったのは当時とそれ以降の時代背景のせいで、釈迦の思想はウパニシャッドから派生したもの、と評価している[62]。なお、インド憲法でも仏教はシク教・ジャイナ教と並んでヒンドゥー教の分派のひとつとして扱われている[63]

マニ教の開祖であるマニは、釈迦を自身に先行する聖者の一人として認めたが、釈迦が自ら著作をなさなかったために後世に正しくその教えが伝わらなかった、としている。

マルコ・ポーロ

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マルコ・ポーロの体験を記録した『東方見聞録』においては、釈迦の事を「彼の生き方の清らかさから、もしキリスト教徒であればイエスにかしずく聖人になっていただろう」[64]あるいは、「もし彼がキリスト教徒であったなら、きっと彼はわが主イエス・キリストと並ぶ偉大な聖者となったにちがいないであろう」[65]としている。また『東方見聞録』の記述では仏教という言葉は無く、アブラハムの宗教以外の宗教は全て「偶像崇拝教」と記述されているが、その偶像崇拝の起源は、釈迦の死後にその生前の姿を作ったのものとしている。釈迦はマルコ・ポーロの時代より1世紀前に、ローマ教会よりヨサファトの名で聖人として加えられていた(仏教とキリスト教)が、マルコ・ポーロはそんな事はまったく知らなかった[66]

釈迦の像

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初期の仏教では釈迦の姿を直接描くことは忌避されていた。そのためいわゆる仏像が制作されることはなく、釈迦の生涯が描かれる際も「7つの足跡(誕生の場面)」「人の乗っていない馬(出家の場面)」など、釈迦のみが透明になったかのような情景描写がされている。

仏像が作られるようになったのはヘレニズムの影響によるものである。そのため初期のガンダーラ系仏像は、意匠的にもギリシアの影響が大きい。しかし、ほぼ同時期に彫塑が開始されたマトゥラーの仏像は,先行するバラモン教や地主神に相通ずる意匠を有しており,現在にも続く仏像の意匠の発祥ともいえる。

ラホール博物館英語版[67]ラホール)には苦行する釈迦の像が所蔵されている[68]

釈迦を題材にした作品

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小説

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漫画

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映画

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写真

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音楽

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演劇

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脚注

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注釈

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  1. ^ 名の漢訳は悉達多のほかに悉多もある[7]
  2. ^ ブッダの尊称を漢訳したのが「覚王」である(覚王山日泰寺の名称の由来ともなった)。
  3. ^ シャーキャ族が当時住んでいた地域は、現代ではネパールに属する[7]
  4. ^ 当時は姉妹婚の風習があり[31]、マハープラージャーパティはシュッドーダナの後妻となった[7]
  5. ^ 後世では、悟りに至るまでに様々な誘惑を斥けていく過程を、悪魔を降伏させるのにたとえて降魔ともいう[7]
  6. ^ 釈迦の教えは、一切衆生の救済を対象とするものではなかった[45]
  7. ^ 日本語訳:小部経典3:ウダーナ
  8. ^ 南北両伝の間には約100年の違いがあるが、これを会通し、万人を納得せしめる結論を導き出すことは、現在としては不可能である。[57]
  9. ^ 仏滅年代論については異説が極めて多く、100種以上ある[58]

出典

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  1. ^ 4月8日 灌仏会(かんぶつえ=花まつり)”. 2021年4月8日閲覧。
  2. ^ 『日本大百科全書(ニッポニカ)』「釈迦」の項 https://kotobank.jp/word/釈迦-75539
  3. ^ 『世界大百科事典 第2版』「釈迦族」の項 https://kotobank.jp/word/釈迦族-1172810
  4. ^ 仏滅紀元
  5. ^ 現在のネパール領も含む広義の「北インド」
  6. ^ a b c d 岩波仏教辞典第2版 1989, p. 376.
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 総合仏教大辞典 1988, p. 595-599.
  8. ^ a b c 中村・三枝 2009, p. 53.
  9. ^ a b 大島宏之 『宗教のしくみ事典―教えから歴史・系譜・宗派まで早わかり』 日本実業出版社、1999年、ISBN 4534029098、44-45頁。
  10. ^ 岩波仏教辞典第2版 1989, p. 380.
  11. ^ 南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)とは | 葬儀用語集”. www.hana-sougi.com. 2023年7月8日閲覧。
  12. ^ 南無釈迦牟尼仏とはなんですか?南無釈迦牟尼仏の意味”. 大人のためのbetterlife マガジン『enpark』. 2023年7月8日閲覧。
  13. ^ 中村元, Gotama Buddha: A Biography Based on the Most Reliable Texts, p. 396-397, - Google ブックス
    Ananda, Sakyamuni's cousin and attendant, was also called Gotama, and Mahāpajāpatī, his aunt and foster mother, was called Gotamī (a female member of Gotama clan).
    Māyā was called Gotami (Therag. 535)
  14. ^ テーラガーター 535.
    Sā gotamī kālakatā ito cutā, dibbehi kāmehi samaṅgibhūtā;
    Sāmodati kāmaguṇehi pañcahi, parivāritā devagakhehi tehi.
  15. ^ en:Paul Carus, The Gospel of Buddha, Compiled from Ancient Records, p. 281, - Google ブックス
    Pajāpatī, p., Prajāpatī or Mahā-Prajāpatī, skt., the sister of Māyā-devī, second wife of Shuddhodana, aunt and fostermother of Buddha. She is also called by her husband's family name Gotami (feminine form of Gotama).
  16. ^ The Life of Buddha as Legend and History, p. 23, - Google ブックス
  17. ^ 岩本裕, 仏教の内相と外相, p. 207, - Google ブックス
    佛伝文学によると,幼少時代の名をシッダールタといったと伝えられ,漢訳佛典では悉達とか悉達多などの写音が見られるが,この名は「目的を達成した人」という意味であるので,恐らくは後世の命名であると考えられる。
  18. ^ 春日井真也, インド仏教文化の学際的研究, p. 199, - Google ブックス
    またシッダールタ(悉達多)は釈尊の個人名であったと一般に伝えられているが、それは「目的を達成せる」「義を成した」という意味であるが、古い聖典にはこの名は現れて来ないので、後代の信者達が奉った尊称ではないかという疑いをもたれるのである。
  19. ^ 岩波仏教辞典第2版 1989, p. 702.
  20. ^ 以下ではブッダの音写として、佛陀、浮陀、浮圖、浮頭、勃陀、勃馱、部陀、母陀、没馱が、意訳として覺者と智者が挙げられている。
  21. ^ 「如来」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)
  22. ^ Damien Keown (2004). A Dictionary of Buddhism. p. 296. https://books.google.co.jp/books?id=985a1M7L1NcC&pg=PA296. "The term can mean either 'one who has thus come' or 'one who has thus gone'." 
  23. ^ 総合仏教大辞典 1988, p. 1124.
  24. ^ 音写は多陀阿伽度の他に多陀阿伽陀と怛他蘖多がある。
  25. ^ a b 「世尊」 - デジタル大辞泉
  26. ^ a b 玄奘大般若波羅蜜多経』。「今正是時。隨汝意往。即以千莖金色蓮花。其花千葉衆寶莊嚴。授普光菩薩而誨之言。汝持此花。至釋迦牟尼佛所。
    時彼十方殑伽沙等諸佛世界一切有情。尋佛光明。亦見此土釋迦牟尼如來應正等覺。」
     
  27. ^ 万仞道坦『禪戒鈔』。「我大師釋迦牟尼佛陀付授摩訶迦葉。迦葉付阿難陀。乃至嫡嫡相授既幾世到堂頭和尚。」 
  28. ^ 鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』。「善哉善哉。釋迦牟尼世尊 (sādhu sādhu bhagavan śākyamune)。能以平等大慧教菩薩法佛所護念妙法華經爲大衆説。」 
  29. ^ 櫻部 1981, p. 68.
  30. ^ 並川 孝儀「初期韻文経典にみる修行に関する説示 : 三十七道品と三界」(小野田俊蔵教授 本庄良文教授古稀記念号)佛教大学仏教学会紀要 28 1-21, 2023-03-25
  31. ^ a b c d 一冊でわかるイラストでわかる図解仏教 2014, p. 14.
  32. ^ 中村・三枝 2009, p. 263.
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  34. ^ 高森顕徹 監修 2021, p. 85.
  35. ^ 馬場紀寿『初期仏教――ブッダの思想をたどる』〈岩波新書)〉2018年、15-17頁。ISBN 978-4004317357 
  36. ^ パーリ仏典, 長部14,大本経, Sri Lanka Tripitaka Project
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  38. ^ a b c d パーリ仏典, 経蔵中部 聖求経, Sri Lanka Tripitaka Project
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  52. ^ 中村元『釈尊の生涯』〈平凡社ライブラリ 新書〉2003年、222頁。ISBN 978-4582764789 
  53. ^ 関口正之「尾道市持光寺所蔵釈迦八相図について(三)」『美術研究』第321巻、1982年9月30日、168頁、NAID 120006480507 
  54. ^ 中村(1984), 解説より。
  55. ^ 中村(1970) 武田龍1998
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  57. ^ "平川(1974), p.33.
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  59. ^ 紀元前6世紀の寺院跡発見、釈迦の生誕時期示す? ネパール
  60. ^ 世界最古の仏教寺院発見、ネパール
  61. ^ 『22 Vows of Dr. Ambedkar』
  62. ^ 『The Dhammapada: With introductory essays, Pali text, English translation and notes』
  63. ^ Constitution of India Part III article 25.
  64. ^ ポーロ&月村ほか(1998), p.156. fr.2810写本による。
  65. ^ ポーロ&愛宕(2000), p.206.
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参考文献

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関連文献

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関連項目

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外部リンク

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