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ジョー・モーガン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョー・モーガン
Joe Morgan
シンシナティ・レッズでの現役時代
(1972年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州の旗 カリフォルニア州ファニン群
生年月日 (1943-09-19) 1943年9月19日
没年月日 (2020-10-11) 2020年10月11日(77歳没)
身長
体重
5' 7" =約170.2 cm
160 lb =約72.6 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 二塁手
プロ入り 1962年
初出場 1963年9月21日
最終出場 1984年9月30日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
殿堂表彰者
選出年 1990年
得票率 81.8%
選出方法 全米野球記者協会による投票

ジョセフ・レナード・モーガンJoseph Leonard Morgan, 1943年9月19日 - 2020年10月11日)は、アメリカ合衆国テキサス州ファニン群出身のプロ野球選手内野手)。右投左打。

ビッグレッドマシンBig Red Machine)と呼ばれたシンシナティ・レッズの名二塁手で、アメリカ野球殿堂入りしている。後にESPNとESPN Radioの解説者を務めた。

経歴

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1962年にヒューストン・コルト45's(1965年よりヒューストン・アストロズと改称)と契約。

1963年9月21日にメジャーデビューを果たす。

当初はスイングに欠点があったが、チームメイトの先輩で殿堂入りの名二塁手ネリー・フォックスのアドバイスを受けてフォームを改造。球団名が現在と同じ「アストロズ」となり、世界初のドーム球場・アストロドームに本拠地を移転した1965年にはレギュラーに定着。故障のため10試合の出場に終わった1968年を除いて二塁手として活躍。

1972年シンシナティ・レッズに移籍。当時レッズは名監督スパーキー・アンダーソンの下、ピート・ローズジョニー・ベンチトニー・ペレスデーブ・コンセプシオンといった生え抜きの選手や、トレードで獲得した若手ジョージ・フォスターらがリーグを代表するスター選手に成長し、「ビッグレッドマシン」と呼ばれ、敵チームから恐れられる存在であった。移籍初年度の1972年にはオールスターでMVPを獲得。

1975年にはリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズ進出。このシリーズでは第3戦でサヨナラ安打、第7戦では同点の9回に決勝の適時打を打ち、チームをワールドチャンピオンに導いた。この年は打率.327、17本塁打、94打点、67盗塁の活躍でナ・リーグMVPに選ばれた。

1976年もチームは2年連続でワールドシリーズを制し、自身も打率.320、27本塁打、111打点、60盗塁の活躍で2年連続MVPに選ばれた。守備力にも優れ、1973年から1977年にかけて、5年連続でゴールドグラブ賞を受賞している。選球眼も非常に良く、全盛期にはほぼ毎年100以上の四球を選び、通算1865四死球に対して三振は1015であった。本塁打は最多でも27(1976年)で、通算268あったが、二塁打(通算449)、三塁打(通算96)が多く、通算打率.271に比して出塁率は.392、長打率は.427もあった。

1978年にはレッズが単独チームとして来日するが、モーガンは来日しなかった。この来日では各地で強さを見せつけたレッズだったが、帰国後、アンダーソン監督が突如解任され、「ビッグレッドマシン」の崩壊が始まった。1979年には地区優勝を果たすものの、その後、ローズをはじめ多くの主力選手が移籍し、モーガンもこの年限りでチームを離れ、1980年にアストロズに復帰する。この年アストロズは地区優勝を果たすが、プレイオフでローズの居るフィラデルフィア・フィリーズに敗れ、ワールドシリーズ進出を逃す。

1981年サンフランシスコ・ジャイアンツへ移籍。

1983年はフィリーズへ移籍。ここでかつてのチームメイトであるローズ、ペレスとともにリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズ出場を果たすが、ボルチモア・オリオールズに敗れる。

1984年オークランド・アスレチックスでプレーし、この年限りで現役を引退した。

モーガンのレッズ在籍時の背番号「8」。
シンシナティ・レッズの永久欠番1998年指定。

引退後は解説者を務める。資格初年度の1990年に81.8%の得票でアメリカ野球殿堂入りを果たした。もっとも活躍したレッズ在籍時の背番号8」は、レッズの永久欠番に指定されている[注 1]

晩年は多発性神経障害に侵され闘病生活を送った。2020年10月11日、カリフォルニア州ダンビルの自宅で30年間連れ添ったテレサ夫人を含む家族に看取られて死去。77歳没[1]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1963 HOU 8 30 25 5 6 0 1 0 8 3 1 0 0 0 5 0 0 5 0 .240 .367 .320 .687
1964 10 43 37 4 7 0 0 0 7 0 0 1 0 0 6 0 0 7 0 .189 .302 .189 .492
1965 157 708 601 100 163 22 12 14 251 40 20 9 3 4 97 1 3 77 4 .271 .373 .418 .791
1966 122 528 425 60 121 14 8 5 166 42 11 8 9 2 89 3 3 43 2 .285 .410 .391 .801
1967 133 580 494 73 136 27 11 6 203 42 29 5 1 2 81 5 2 51 2 .275 .378 .411 .789
1968 10 27 20 6 5 0 1 0 7 0 3 0 0 0 7 0 0 4 0 .250 .444 .350 .794
1969 147 657 535 94 126 18 5 15 199 43 49 14 7 4 110 1 1 74 5 .236 .365 .372 .737
1970 144 658 548 102 147 28 9 8 217 52 42 13 5 2 102 3 1 55 11 .268 .383 .396 .779
1971 160 689 583 87 149 27 11 13 237 56 40 8 10 7 88 2 1 52 4 .256 .351 .407 .757
1972 CIN 149 680 552 122 161 23 4 16 240 73 58 17 3 4 115 1 6 44 5 .292 .417 .435 .851
1973 157 698 576 116 167 35 2 26 284 82 67 15 3 4 111 3 4 61 12 .290 .406 .493 .899
1974 149 641 512 107 150 31 3 22 253 67 58 12 1 5 120 8 3 69 7 .293 .427 .494 .921
1975 146 639 498 107 163 27 6 17 253 94 67 10 0 6 132 3 3 52 3 .327 .466 .508 .974
1976 141 599 472 113 151 30 5 27 272 111 60 9 0 12 114 8 1 41 2 .320 .444 .576 1.020
1977 153 645 521 113 150 21 6 22 249 78 49 10 0 5 117 2 2 58 5 .288 .417 .478 .895
1978 132 533 441 68 104 27 0 13 170 75 19 5 0 11 79 3 2 40 6 .236 .347 .385 .733
1979 127 538 436 70 109 26 1 9 164 32 28 6 3 5 93 11 1 45 8 .250 .379 .376 .756
1980 HOU 141 562 461 66 112 17 5 11 172 49 24 6 3 5 93 6 0 47 4 .243 .367 .373 .740
1981 SF 90 378 308 47 74 16 1 8 116 31 14 5 1 3 66 7 0 37 3 .240 .371 .377 .748
1982 134 554 463 68 134 19 4 14 203 61 24 4 1 3 85 4 2 60 3 .289 .400 .438 .838
1983 PHI 123 504 404 72 93 20 1 16 163 59 18 2 1 6 89 1 4 54 13 .230 .370 .403 .773
1984 OAK 116 438 365 50 89 21 0 6 128 43 8 3 0 6 66 4 1 39 6 .244 .356 .351 .707
MLB:22年 2649 11329 9277 1650 2517 449 96 268 3962 1133 689 162 51 96 1865 76 40 1015 105 .271 .392 .427 .819
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

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内野守備


二塁(2B) 三塁(3B)
























1963 HOU 7 15 15 3 2 .909 -
1964 10 31 25 3 4 .949 -
1965 157 348 492 27 82 .969 -
1966 117 256 316 21 61 .965 -
1967 130 297 344 14 67 .979 -
1968 5 9 6 2 2 .882 -
1969 132 303 328 18 79 .972 -
1970 142 349 430 17 98 .979 -
1971 157 336 482 12 93 .986 -
1972 CIN 149 370 436 8 92 .990 -
1973 154 417 440 9 106 .990 -
1974 142 344 385 13 92 .982 -
1975 142 356 425 11 96 .986 -
1976 133 342 335 13 85 .981 -
1977 151 351 359 5 100 .993 -
1978 124 252 290 11 49 .980 -
1979 121 259 329 12 74 .980 -
1980 HOU 130 244 348 7 68 .988 -
1981 SF 87 177 258 4 61 .991 -
1982 120 254 364 7 69 .989 3 1 2 1 0 .750
1983 PHI 117 231 331 17 63 .971 -
1984 OAK 100 201 229 10 62 .977 -
MLB 2527 5742 6967 244 1505 .981 3 1 2 1 0 .750
外野守備


左翼(LF) 中堅(CF)
























1967 HOU 1 2 0 0 0 1.000 -
1968 1 1 0 0 0 1.000 -
1969 12 10 0 0 0 1.000 2 1 0 0 0 1.000
MLB 14 13 0 0 0 1.000 2 1 0 0 0 1.000

表彰

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記録

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背番号

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脚注

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注釈

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  1. ^ 英語版によれば、レッズ野球殿堂入りした1987年に永久欠番に指定されたとあるが、永久欠番リストによれば、1998年6月6日に指定されたとなっている。

出典

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関連項目

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外部リンク

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