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京王電気軌道400形電車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
京王電気軌道400形電車
→東急デハ2400形電車
→京王デハ2400形電車
京王資料館に保存されていた当時のデハ2410(2003年撮影)
2013年に京王れーるランドへ移設された。
基本情報
運用者 京王電気軌道
東京急行電鉄
京王帝都電鉄
製造所 日本車輛
製造年 1940年
製造数 10
運用開始 1941年
運用終了 1963年8月3日
投入先 京王線
主要諸元
軌間 1,372 mm
電気方式 直流600V(架空電車線方式)
車両定員 100人
自重 25.0t
全長 14,118 mm[注釈 1]
車体長 13.420 mm
全幅 2,640 mm
車体幅 2,500 mm
全高 4,106 mm[注釈 2](集電装置あり)
車体高 3,600 mm[注釈 3](集電装置なし)
床面高さ 1,038 mm
車体 半鋼製
台車 日本車輛D-14
主電動機 東洋電機製造 TDK-31-2NまたはTDK-31-SN
主電動機出力 63.4kW×4基 / 両
駆動方式 吊掛駆動
歯車比 64:20(3.20)
制御方式 抵抗制御
制御装置 三菱電機 電空単位スイッチ式手動加速制御器
制動装置 AMA元空気溜管式空気ブレーキ
備考 デハ2402 - 2405の3両編成対応工事(三編工)施工後の1954年のデータ[1]及び竣工図[2]による。
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京王れーるランドに展示されている2400系2410
京王れーるランドに展示されている2400系2410

京王電気軌道400形電車(けいおうでんききどう400がたでんしゃ)は、京王電鉄の前身で現在の京王線に相当する路線(軌道線)を運営していた京王電気軌道が、1940年(昭和15年)に投入した電車である。

車両概説

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保存車デハ2410の車内の様子

1940年に日本車輌製造(日車)で401 - 410の10両が製造された、京王電気軌道最後の新造車である。

車体

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元から両運転台車であったが、当初は資材不足でモーターが搭載されておらず[3]、京王電軌史上唯一の制御車として登場している。1942年(昭和17年)9月には電装が実施され、新宿駅側にパンタグラフを搭載した制御電動車となった。

501形に続いての半鋼製3扉車で、運転台はそれまでの京王電軌の車両の大半と同様のHポールで仕切られた構造で、乗務員室扉はない。ドア配置は新宿側から1D(1)2(1)D3(1)D1[注釈 4]。それまでの京王線車輛は前面・側面に2か所ずつの計8か所に番号を表示していたが、この形式から一挙に2か所に減らし、正面には表示していなかった[4]。同じ年に梅鉢鉄工所で製造された501形502 - 504は全溶接構造だったが、日本車輌製の本形はシル/ヘッダーの部分などにリベットが残っている。

当時の京王電軌は、新宿駅付近などに道路上に軌道を敷設した併用軌道区間があったため、軌道法の規定に則り、車体前面には歩行者巻き込み事故防止用の救助網を装備した。客用ドアは501形と同様に両端はステップが1段、更に路面区間用低床ホーム対応の可動ステップ1段を装備し、中央扉にはどちらもない。なお乗降用ドアは、京王電軌としては初めてドアエンジンを採用し、車体中央には車側表示灯が装備されている[5]

主電動機

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京王線中型車共通で、イングリッシュ・エレクトリック (E.E.) 社が設計したDK-31を東洋電機製造ライセンス生産した、TDK-31Nを各台車1基ずつ、吊り掛け式で搭載する。歯数比は64:20=3.20である。

制御器

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三菱電機製HL電空単位スイッチ式手動加速制御器を各車に搭載する。制御段数は直列5段、並列4段で弱め界磁は搭載されていない。

なお、制御電源は架線からの600V電源をドロップ抵抗で降圧して使用する。このため本形式は電動発電機等の補助電源装置を搭載せず、前照灯や室内灯もドロップ抵抗の併用や回路を直列接続とするなどの処置により600V電源で動作するようになっている。

ブレーキ

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連結運転を実施するため、非常弁付き直通ブレーキ (SME) を搭載する。

台車

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日本車輛製のD-14台車を装着している[6][7]

集電装置

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300形が積んでいたパンタグラフの改良版である三菱電機製S-600Aを1基、新宿側[8][9]に搭載している。このパンタグラフはサイズ自体は200形が装備した東洋電機製C-5-Aと比べ大きかったが、150形125形が装備した三菱電機製S-514パンタグラフよりも軽量化が進められたものであった[10]

沿革

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先述のとおり当初は制御車だったため、300形と連結して新宿向き先頭車として使われていた[4][11][12]。なおドアエンジンを装備して自動扉となったものの、ステップと総括制御できないことや、他の車両との兼ね合いで使われないままになっていたという[5]。1942年に制御電動車となった後、1944年に京王電軌が東京急行電鉄大東急)へ併合された際、旧京王電軌の車両は2000番台とすることとなったため、デハ2400形(2401 - 2410)となった。

戦災復旧

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デハ2407は1945年5月25日東京大空襲で焼失。その後焼損したまま高幡不動検車区で休車になっていたが、他の被災車6両[注釈 5]とあわせて台枠を残して車体を桜上水工場で解体し、その台枠に日車が新造車体を構築して1949年5月に復旧した[11]

左側片隅式運転台で乗務員室扉が設けられ、他の6両ともほぼ共通の車体だったが、デハ2407は唯一両運転台車で復旧されたため、窓配置はdD4D4Ddとなっていた[11]。また後述する長編成化を見据え、ブレーキ装置を元空気だめ管式自動空気ブレーキ(AMM-R)に変更し、制御連動式のドアエンジンも装備していた他、パンタグラフもPS13に変更していた。

長編成化工事

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戦災に遭わなかった車輛も、戦後はヘッドライトの屋根上への移動や、方向幕の廃止、パンタグラフのPS13への変更、ドアステップの撤去が順次進められた。ステップ廃止後、全車とも裾部張り出しの撤去を実施している。また上記戦災復旧車がドアエンジンを装備したため、ドアエンジンも使われるようになった[5]1950年(昭和25年)から1951年(昭和26年)にかけては、ブレーキシステムSME直通ブレーキからAMM自動空気ブレーキへ変更などの3両編成対応工事(三編工)が施工された。

デハ2401の事故復旧

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1952年10月、デハ2401は衝突事故で破損し日車で復旧工事が実施された。八王子向き片運転台車となり[注釈 6]運転台も寸法を575mmから1,370mmに拡大して、Hポール仕切りのみから全室構造化[2]して乗務員扉を設置したことから、乗務員室側の客用扉が窓ひとつ分車体中央側に後退したほか、連結面寄り運転台跡の側面狭幅窓が埋められるという改造が実施され、窓配置がdD(1)2D(1)2(1)Dに変わった。この他に運転台以外の前面窓2枚の2段窓化、縦樋の車体内蔵等、他車と異なる特徴を有した[11]

スモールマルティー(t)への改造

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1960年4月に、2407が2010系の付随車「スモールマルティー」(t) に改造され、サハ2504となった。改造後は同じく戦災復旧車・日本車輛製の新造車体のデハ2205を改造したサハ2554と共に、新造されたデハ2014・デハ2064と4両編成を組んだ。これ以外の非戦災車9両について同改造が実施されたものはない。

1500V昇圧による終焉

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昇圧前の最終期には(t)改造から漏れた他形式と混結し、最大5両編成で運用された。本形式は前照灯が取付式のまま2灯化されたものが多く[注釈 7]、またデハ2401[注釈 8]・2410の新宿側連結面、デハ2409の八王子側連結面には広幅貫通路が設けられ、デハ2125形2130とともにサハ2110形2116・2120を中間に挟み、3両貫通編成2本を構成した。さらにデハ2409は、中型車が5両編成を組むようになったことから、新宿側運転台も機器のみ撤去[8][13]して、片面非貫通のまま中間電動車となった。

昇圧直前の編成表[注釈 9]
 
新宿


形式 デハ2125 サハ2110 デハ2400
区分 M[注釈 10][注釈 11] T Mc
車両番号 2130 2120 2410
 
新宿
形式 デハ2400 サハ2110 デハ2400
区分 M T Mc
車両番号 2409 2116 2401

このほか、デハ2406は新宿向き片運転台で八王子向きは非貫通、2402 - 2405・2408[注釈 12]の5両は両運転台のままとされ[13]競馬場線や本線区間列車、荷物電車での単行運転用としても用いられた。このうち2405は新宿駅地下駅開業前に地下新線へ吊り降ろし搬入され、試運転および習熟運転に供された。

1963年の架線電圧1500V昇圧時に2402 - 2406・2408が廃車され、広幅貫通路が設置された2401・2409・2410は井の頭線車両の電装品を流用し、支線用の220系デハ221・クハ232・デハ222に改造された。改造時にデハ2409(→クハ232),2410(→デハ222)も乗務員室扉を設置して、デハ2401(→デハ221)と同様に客用扉が窓一つ分車体中央側に後退している。

唯一付随車化改造されたデハ2407→サハ2504は昇圧後も働き、1966年(昭和41年)10月にデハ2713を改造したサハ2514に置き換えられ、翌1967年(昭和42年)3月に廃車となった[9]

他社への譲渡

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4両が地方私鉄に譲渡された。

庄内交通モハ8廃車体(現存せず)

庄内交通

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デハ2405[注釈 13]は昇圧直後の1963年11月より、東洋工機平塚工場でD-14台車を1,067 mmに改軌・正面両側窓の二段化・防寒対策のための運転台仕切増設・ヘッドライトを一灯に復元などの改造を実施し、庄内交通へ譲渡されて同社湯野浜線モハ8となった[22]

  • デハ2405 → モハ8

1964年(昭和39年)の春に入線[注釈 14]してから、京王より一足先に入線していた戦災復旧車デハ2119改造のモハ7とともに、1975年の同線廃線まで使用された。入線時に老朽化したモハ7にモーターを2個を譲って、2モーター車となっていた[24]

廃車後は鶴岡市内で車体が利用されていたが現存しない[25]

京福電気鉄道福井支社

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デハ2402・2404・2408[注釈 13]東急車輛製造でヘッドライトを一灯に復元、D-14台車を1,067mm軌間へ改造の上、同サイズの車両を多く運用していた京福電気鉄道福井支社(現・えちぜん鉄道)に譲渡され、ホデハ261形となった。

  • デハ2408 → ホデハ261
  • デハ2402 → ホデハ262
  • デハ2404 → ホデハ263

1964年の4月に入線し、ホデハ261と262はもっぱら同型車2両編成、ホデハ263は阪神電気鉄道の急行用861形を制御車に改造したホクハ31形と編成を組み使用された。外観は1966年(昭和41年)6月に運転台正面窓をHゴム固定化改造した[19]程度で、京王時代の原形をほぼ維持したまま運用されていた[26]

1974年(昭和49年)8月13日に越前本線の小型車しか運用できない勝山 - 京福大野間が部分廃止された際、他の小型車のように廃車にならず、同年11月に行われた同社の形式称号変更でモハ261形となった。しかし1976年に3両とも廃車[21]され、その後解体された[25]

保存・公開

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2410が京王れーるランドにて保存・一般公開されている。

1963年の京王線架線電圧1500V昇圧に伴い廃車される予定であったが、支線用の220系(デハ222)へ改造され昇圧後も京王線で運行された後、1969年10月の京王線ATS化に伴い同年9月に運用を離脱。その後桜上水工場にて保存のため修復された。車体色はグリーンになり、ヘッドライトは1灯に戻されたが、幕板の標識灯や乗務員室扉設置に伴う改造などはデハ222時代のままである。

修復後は京王動物園線多摩動物公園駅前に保存車として設置されていたが、高幡不動検車区の職員によって補修・修繕が行われた後、京王電鉄平山研修センター・京王資料館に移動して保存されていた(一般非公開、特別なイベント時のみ公開が行われていた)[27]2013年4月に京王れーるランドでの保存展示に備えて再び多摩動物公園駅付近に移設され、同年10月10日の同施設リニューアルオープン時から公開されている[28]

参考文献

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書籍

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  • 鈴木洋『【RM LIBRARY 111】京王線14m車の時代』株式会社ネコ・パブリッシング、2008年11月1日。ISBN 978-4-7770-5245-5 
  • 宮下洋一 編『鉄道車輌ガイド Vol.30 京王帝都のグリーン車』株式会社ネコ・パブリッシング、2019年5月1日。ISBN 978-4-7770-2350-9 
  • 高井薫平『昭和30年代~50年代の地方私鉄を歩く 第17巻  北陸の電車たち(3) 福井県の私鉄』株式会社ネコ・パブリッシング、2023年6月30日。ISBN 978-4-8021-3385-2 

雑誌記事

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  • 鈴木洋「他社に渡った京王の車両」『鉄道ピクトリアル』第278号、電気車研究会、1973年5月、57-58頁。 
  • 合葉博治「車両形態の変遷 -京王線70年・井の頭線50年の流れをたどる-」『鉄道ピクトリアル』第422号、電気車研究会、1983年9月、77-81頁。 
  • 向山真司「京王線中型車の素顔」『鉄道ピクトリアル』第422号、電気車研究会、1983年9月、86-92頁。 
  • 『鉄道ピクトリアル』1993年7月臨時増刊号(通巻578号)「特集・京王帝都電鉄」(電気車研究会)
    • 合葉博治・永井信弘「イラストで見る京王電車:1950」。 
  • 『鉄道ピクトリアル』2003年7月臨時増刊号(通巻734号)「特集・京王電鉄」(電気車研究会)
    • 出崎宏「京王電鉄 過去の車両」。 
    • 合葉清治「京王中型車の思い出」『鉄道ピクトリアル』第734号、電気車研究会、196頁。 
    • 「京王電鉄 現有車両プロフィール」 pp. 212-239
  • 『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション9 京王電鉄 1950-60』、鉄道図書刊行会、2005年8月。 
    • p.44 - 55 飯島正資「私鉄車両めぐり 京王帝都電鉄」※『鉄道ピクトリアル』第45号、第46号より再録
    • p.106 - 118 京王帝都レールファンクラブ「私鉄車両めぐり(72) 京王帝都電鉄 補遺」※『鉄道ピクトリアル』第197号より再録
    • p.144 - 153 読者短信に見る京王電鉄の記録 1950-1960
    • p.155 - 159 電気車形式図表 私鐵電車編(1954年 電気車研究会刊よりの抜粋)
  • 鈴木洋「【特集】京王電鉄 京王線220形をめぐって」『鉄道ピクトリアル』第893号、電気車研究会、2014年8月、167-168頁。 
  • 藤田吾郎「【特集】京王電鉄 京王電鉄 主要車歴表(2012年度末現在)」『鉄道ピクトリアル』第893号、電気車研究会、2014年8月、262-284頁。 

脚注

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注釈

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  1. ^ デハ2401は14,134 mm
  2. ^ デハ2401:4,158 mm
  3. ^ デハ2401:3,662 mm
  4. ^ 単に窓配置を書くだけなら1D4D4D1。
  5. ^ デハ22052304、230525002501、2502の6両
  6. ^ 復旧に際してデハ2400形で唯一パンタグラフが八王子向きになった。これはデハ221への改造後も変わっていない。
  7. ^ 当記事の各参考文献に掲載された写真では、少なくともデハ2401 - 2403、2405、2408、2410について、前照灯が2灯化されていることが確認できる。
  8. ^ 竣工図には、1961年11月に貫通路が設けられたことが記載されている[2]
  9. ^ 宮下(2019)p.126[14]では8月3日の編成表とされているが、デハ2130とデハ2401は1963年5月中旬に営業運転から離脱。7月末にはデハ221とクハ231に改造完了していた[15][16]
  10. ^ デハ2401同様に事故復旧車で全室運転台・乗務員室扉設置済み。
  11. ^ デハ2409同様運転台機器のみ撤去[13][17]し、新宿向きの先頭車を連結して運用していた。
  12. ^ デハ2408について鈴木(2008)は「1963年3月の編成表」として両運転台[18]宮下(2019)は「1963年8月3日の編成表」としてデハ2406と同じく新宿向き片運転台・連結面非貫通車としている[14]。鉄道ピクトリアル1962年11月号の読者短信には、京王線中型車の当時の状況が投稿されているが、デハ2408のみ記載がない[13]
  13. ^ a b 書類上は庄内に2402、京福に2403(実際は廃車)、2404、2410(実際は京王でデハ222に改造)が譲渡されていることになっている[6][19][20][21]
  14. ^ 直後に国鉄酒田機関区転車台で方向転換している[23]

出典

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  1. ^ 『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション9 京王電鉄1950-60』 「電気車形式図表 私鐵電車編」 p.157
  2. ^ a b c 鈴木洋『【RM LIBRARY 111】京王線14m車の時代』p.26
  3. ^ 鈴木洋『【RM LIBRARY 111】京王線14m車の時代』p.25
  4. ^ a b 『鉄道ピクトリアル』422号(1983年9月号)合葉博治「車両形態の変遷 -京王線70年・井の頭線50年の流れをたどる-」 p.79
  5. ^ a b c 『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション9 京王電鉄 1950-60』飯島正資「私鉄車両めぐり 京王帝都電鉄」(※『鉄道ピクトリアル』1955年4月号(通巻第45号)、5月号(通巻第46号)より再録)] p.48
  6. ^ a b 『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション9 京王電鉄1950-60』 京王帝都レールファンクラブ「私鉄車両めぐり(72) 京王帝都電鉄 補遺 p.117-118
  7. ^ 『鉄道ピクトリアル』422号(1983年9月号)向山真司「京王線中型車の素顔」 p.87
  8. ^ a b 宮下洋一編『鉄道車輌ガイド Vol.30 京王帝都のグリーン車』(2019) p.36
  9. ^ a b 宮下洋一編『鉄道車輌ガイド Vol.30 京王帝都のグリーン車』(2019) p.120-121
  10. ^ 『鉄道ピクトリアル』422号(1983年9月号)向山真司「京王線中型車の素顔」 p.88-89
  11. ^ a b c d 『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション9 京王電鉄 1950-60』飯島正資「私鉄車両めぐり 京王帝都電鉄」(※『鉄道ピクトリアル』1955年4月号(通巻第45号)、5月号(通巻第46号)より再録)] p.51-52
  12. ^ 『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション9 京王電鉄1950-60』 京王帝都レールファンクラブ「私鉄電車めぐり(65) 京王帝都電鉄 第2部 車両総論」 p.87
  13. ^ a b c d 『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション9 京王電鉄1950-60』 「読者短信に見る京王電鉄の記録」 p.146-147
  14. ^ a b 宮下洋一編『鉄道車輌ガイド Vol.30 京王帝都のグリーン車』(2019) p.126
  15. ^ 『鉄道ピクトリアル』2014年8月臨時増刊号(通巻893号)「京王線220形をめぐって」 p.167
  16. ^ 『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション9 京王電鉄1950-60』 「読者短信に見る京王電鉄の記録」 p.148
  17. ^ 宮下洋一編『鉄道車輌ガイド Vol.30 京王帝都のグリーン車』(2019) p.31
  18. ^ 鈴木洋『【RM LIBRARY 111】京王線14m車の時代』p.7
  19. ^ a b 『鉄道ピクトリアル』1973年5月増大号(通巻278号)鈴木洋「他社に渡った京王の車両」p.58
  20. ^ 『鉄道ピクトリアル』2003年7月臨時増刊号(通巻734号) 合葉清治「京王中型車の思い出」p.196
  21. ^ a b 高井 (2023) p.194-195
  22. ^ 宮下洋一編『鉄道車輌ガイド Vol.30 京王帝都のグリーン車』(2019) p.112
  23. ^ 鈴木洋『【RM LIBRARY 111】京王線14m車の時代』p.43
  24. ^ 『鉄道ピクトリアル』1973年5月増大号(通巻278号)鈴木洋「他社に渡った京王の車両」p.57
  25. ^ a b 『鉄道ピクトリアル』893号(1983年9月号)藤田吾郎「京王電鉄 主要車歴表(2012年度末)」 p.262-284
  26. ^ 宮下洋一編『鉄道車輌ガイド Vol.30 京王帝都のグリーン車』(2019) p.113
  27. ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻734号、p.235
  28. ^ 京王れーるランド展示車両が陸送される”. railf.jp(交友社). 2013年4月4日閲覧。

関連項目

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