利用者:Takajoe1-1-1/sandbox
静岡鉄道国吉田営業所
[編集]静岡鉄道国吉田営業所(しずおかてつどうしずおかくによしだえいぎょうしょ)は、かつて静岡市に存在した静岡鉄道自動車部の事業所である。管轄路線を鳥坂営業所、唐瀬営業所に移管し1989年(平成元年)に廃止された。
所在地
[編集]静岡市国吉田535-2(地番変更により現在は静岡市駿河区国吉田2丁目1番付近)
車庫開設時の停留所名は運動場入口、1960年代初頭に国吉田車庫前となり、営業所廃止後は東芝前となった。さらに現在はは国吉田一丁目停留所となっている。
概説
[編集]1957年(昭和32年)に開催された第12回国民体育大会(静岡国体)の輸送力増強のために、メイン会場となる静岡県草薙総合運動場および静岡鉄道静岡清水線の運動場駅に最寄りの国道1号(通称 静清国道)沿いに開設された静岡鉄道自動車部静岡営業所静岡第二営業区を前身とする。[1]静岡国体開催の前年に、静岡営業所静岡営業区(静岡市鷹匠町)を、主に市内路線を管轄する静岡第一営業区(静岡市鷹匠町)と、郊外路線や貸切バスを管轄する静岡第二営業区(静岡市国吉田)に分離増強し、静岡駅近く(静岡市日之出町)には第二営業区日の出町車庫を開設し国体輸送に対応した。[2]静岡国体終了後には静岡第二営業所となり、静岡市内のバス路線競願問題[3]の決着によって開設された新規路線も担うようになった。[4]
さらに1960年代初頭には静岡鉄道が「体質改善五ヶ年計画」を策定し、静岡清水線を除く鉄軌道を廃止し、路線バスへの転換によりバス事業を会社の根幹に据える方針を打ち出し、1960年代半ば迄に車両の増強と旧静岡市内営業所の郊外移転、バスターミナルの整備拡充が進められた。[5]静岡市内の事業所では静岡第一営業所を廃止の上で、静岡丸子営業所、静岡小鹿営業所を新たに開設し、静岡第二営業所は静岡国吉田営業所に改称。これにより、新静岡バスターミナル1営業所、郊外1営業所の2営業所体制から、新静岡に運行管理所(静岡地区自動車支配人室)を残し郊外3営業所体制へと移行し、新静岡には新たにターミナルビル(新静岡センター)と新バスターミナルの建設が開始された。[6]静岡第二営業所が所管していた郊外路線のうち、安倍川以西の長田地区、藁科川流域を起終点とするものを丸子営業所に移管する一方、廃止となった静岡第一営業所が所管していた市内路線のうち、主に中心市街地の北東側を巡回する「東部循環」等が静岡国吉田営業所に移管された。
さらに、貸切業務の一元的な調整、効率化のために1960年代前半に静岡第二営業所から分離して開設された静岡観光営業所が1960年代半ばには廃止され、施設の整備拡張が進んだ静岡丸子営業所に移管された。また、静岡国吉田営業所から教習センターも丸子営業所に移転した。
1960年代後半以降は国吉田営業所が管轄する静岡市北東部の千代田、瀬名地域では大規模住宅団地が次々と建設されており、また近隣には常葉学園系列の短期大学や高校が開校するなど、輸送力の増強が必要となっていた。一方で、国吉田営業所に接続する静清国道(国道1号)の交通量は年々増加し、慢性的な渋滞が運用に支障を来たすようになっていた。[7][8][9]このため、現在の県道67号線(通称 北街道)と静清バイパス建設予定地の交差する清水市鳥坂付近に車庫の建設が開始された。
1970年(昭和45年)に静岡鳥坂営業所が竣工し、国吉田営業所からツーマン運行を要する市内路線や「安倍線」「竜爪山線」等の山間路線、都市間急行路線や貸切バス事業が移管され、国吉田営業所は主に市内のワンマン路線を担当する営業所へと転換された。一方で、国吉田営業所構内には新たに静岡鉄道傘下となった貸切バス事業者である静岡観光バス(のちのしずてつジョイステップバス)の本社営業所が開設され、東名高速道路開通によって増大した観光バス需要に対応した。[10]
1970年代以降も、千代田、麻機地域では宅地造成や病院施設、流通団地や卸売市場などの建設が相次ぎ、それらを結ぶ新系統が開設された。[11]加えて1975年からの導入車にはバックカメラが採用され、道路事情に合わせた中型車の導入により狭隘路線のワンマン化が進んだことにより[12] 更なる運用の効率化が図られる事となり、1970年代末期に静岡市岳美に唐瀬車庫が開設され、1980年代初頭には鳥坂営業所の一部路線も唐瀬車庫の拡張と共に移管され、唐瀬営業所が開設された。
また、郊外路線の増強と共に瀬名新田、足久保、麻機、麻機北、大浜などの郊外の起終点に車庫が分散化され、小鹿営業所も隣接する用地の買収により敷地を拡張したことにより管轄路線を再編し、1980年代末期に国吉田営業所は廃止された。また、営業所構内を共用していた静岡観光バスも東名高速道路静岡IC近く(静岡市下川原)に移転し、跡地には賃貸用物流倉庫が建設された。[13]現在は静鉄グループのバスの車検、重整備を担う東海自動車工業の本社および整備工場のみが国吉田営業所付近に所在している。
沿革
[編集]- 1945年(昭和20年)戦時統合による5社合併後の社内組織の整理の前に静岡市内に空襲が続き甚大な被害を受けたため、終戦後はまず静岡市内に車両を重点的に配置し、組織づくりから開始した。[14]
- 1946年(昭和21年)- 銀行支援によって軍用車の払い下げも含め車両の増強を行い、同年5月には静岡 - 用宗間などの路線を再開した。旧静岡市に自動車部静岡営業所および静岡営業区を、旧清水市には清水営業区を開設した。[15]
- 1947年(昭和22年)1月25日 - 静岡市内循環線の運転を再開した。 [16][17]
- 1952年(昭和27年)- 当時の国鉄と静岡市から静岡駅前広場をバスターミナルからタクシー駐車場に変更するためターミナルを移転するよう勧告を受け、これを機に折から計画されていた鷹匠町駅周辺への本社社屋建設と鷹匠町駅の大改築に併せてバスターミナルの移転を決定し、鷹匠町駅の改良工事が開始された。[18]
- 1953年(昭和28年)時期不詳 - 増資により「東部循環線」に重点を置いた市内路線の増強を図り、日の出町車庫を当時の東町停留所付近に新築した。[19]
- 1954年(昭和29年)
- 1955年(昭和30年)
- 3月25日 - 新静岡駅南広場に事務室、出札室件待合室用の2階建て1棟と乗車ホーム等の施設が完成し、それまで静岡駅構内の駅前案内所(静岡市黒金町)に置かれていた自動車部静岡営業所とバスターミナルを新静岡駅(静岡市鷹匠町1-71)に移転し、4月1日より新静岡バスセンターとして供用を開始した。[22][2][23]
- 9月 - 静鉄商事から
- 10月1日 - 静岡県草薙総合運動場をメインスタジアムとする第12回国民体育大会(静岡国体)の輸送に対応するため社内に国体輸送委員会が設置され、増資や以降4期間の自己資金と4億円の借入により、電車の新造・購入のほか136両のバス購入や施設の拡充等が計画された。[1]
- 1956年(昭和31年)
- 2月27日 - 静岡市議会協議会が市営乗合バス事業案を発表した。[24]
- 4月1日 - 静岡国体を見据え、静岡鉄道静岡清水線の運動場前駅近くの国道1号沿いに国吉田車庫(静岡市国吉田535-2 運動場入口停留所) を開設し、静岡営業区を主に市内路線を担当する静岡営業所第一営業区(新静岡駅構内)と、郊外路線と定期遊覧バス、貸切バスを担当する静岡営業所第二営業区(国吉田車庫、日の出町車庫)に改編した。日の出町車庫(静岡市日之出町8-2 東町停留所)には第二営業区貸切係が配置された。[2][25][26]
- 5月 - 東海観光バスが市内外5路線の免許を申請した。[27]
- 7月 - 名古屋陸運局で静岡市内バス競願問題に関する1回目の聴聞会が開かれた。[25][28]
- 8月 - 静岡鉄道の自動車整備・点検を担う東海自動車工業の新工場が国吉田車庫に隣接して建設され、同年10月には本社を藤枝市から移転した。[29]
- 1957年(昭和32年)
- 3月25日 - 静岡市、東海観光バス株式会社、静岡鉄道の3社が提出した新路線の営業免許申請が運輸審議会の件名表に登載された。[30]
- 5月17日 - 静岡市および東海観光バスとの競願となった「静岡市内バス営業免許申請」に関し、運輸審議会による公聴会が開催された。[2]
- 10月26-30日 - 静岡国体が開催され、静岡県草薙総合運動場と各地の輸送を完遂した。
- 1958年(昭和33年)[2]
- 1960年(昭和35年)
- 1961年(昭和36年)
- 1962年(昭和37年)
- 3月15日 - 国吉田寮(国吉田545-1)が増築され第二女子寮が竣工した。[37][38]
- 4月23日 - 「丸子線」(静岡駅 - 二軒家)間の運行を開始した。
- 9月15日 - 静岡市内線(静岡駅前 - 安西間)の廃止に伴い新静岡駅の電停バースをバスホームに転換し、代行バス運行を開始した。[2][39]
- 10月1日 - 機構改正により、静岡第二営業所日の出町車庫に静岡観光営業所(静岡市日之出町8-2)が開設され、貸切業務の一元的な調整による効率化が図られた。[40][41]
- 11月1日 - 静岡市内線の線路跡に新ターミナルを建設し、新静岡バスセンターの増改築が完成した。[42]
- 11月20日 - 静岡県下初のワンマンカーが「西部第二循環線」に導入された。[2][39][43]
- 12月1日 - 静岡駅前の渋滞の緩和のため、各路線の新静岡 - 静岡駅前間の運行経路が変更された。
- 12月21日 - 新静岡駅車両留置場跡地に静岡第一営業所の新社屋が落成した。[44]
- 1963年(昭和38年)9月 - 静岡丸子営業所、静岡小鹿営業所が開設され、「藁科線」「用宗線」「丸子線」等が移管された。[6][38][注 1]
- 1965年(昭和40年)
- - 静岡駅から現在の東静岡駅周辺に操車場や貨物駅等が移転し、静岡駅北口東側の引込線跡地(現在のホテルアソシア静岡付近)にバス駐車場が整備された。
- - 静岡観光営業所が廃止され、静岡市内の貸切バス事業および定期遊覧バスが静岡丸子営業所に移管、集約された。
- 8月 - 新静岡の新バスターミナルの一部が供用を開始した。
- 9月10日 - 静鉄観光サービス株式会社が設立された。
- 10月15日 - 静鉄観光サービスが、旅行あっ旋業および旅券販売代行業を静鉄商事から譲受した。これに伴い静鉄観光サービスステーションとして駅前や自動車営業所の売札所に併設していた観光案内所・旅行代理店窓口が静鉄観光サービスの運営となった。また、静鉄商事は新静岡ターミナルビル株式会社に社名変更された。
- 1966年(昭和41年)[39]
- 1968年(昭和43年)-
- 1969年(昭和44年)[46]
- 1970年(昭和45年)
- 1978年(昭和53年)時期不詳 - 静岡市岳美に唐瀬車庫が開設された。
- 1981年(昭和56年)静岡ターミナルホテル建設に伴い静岡駅北口東側のバス駐車場が閉鎖された。
- 1983年(昭和58年)
- 2月 - 管轄路線の再編が行われ、静岡唐瀬営業所が開設された。
- 3月24日 - 静岡駅北口に駅前広場とバスターミナルが竣工し、これに合わせて新静岡と静岡駅前の乗降場を変更した。
- 1989年(平成元年)[13][48]
市内路線
[編集]静岡市内循環線
[編集]- 概説
- 1937年(昭和12年)に、それまで「東部循環線」「西部循環線」として市内循環路線を運行していた静岡自動車と駿遠自動車(静岡電気鉄道と藤相鉄道の共同出資により設立)が合併し静岡乗合自動車となり、さらに戦時統合により静岡鉄道が継承したが、空襲により車両の殆どを被災したため、戦後は大まわりの「静岡市内循環線」として復興し、車両の増強が進んだ1948年(昭和23年)に東西の路線に分離した。[49]
- 1950年代以降も車両の増強に従い上記2路線以外に様々な市内循環系統が新設、再開されると共に、戦前戦後の合併による市域拡大と近郊の宅地化により、市内中心部(駿府城下)と近郊を循環する路線が申請された。静岡市、東海観光観光バスとの競願の末に1950年代後半に新たに循環線7路線が開設された。[50][51]
- 1960年代前半には静岡第一営業所(鷹匠町)の廃止に伴い管轄の再編が行われ、静岡運行管理所(新静岡バスセンター)を中心に、主に東海道本線を境に北東部まわりを静岡国吉田営業所、北西部まわりを静岡丸子営業所、南部まわりを静岡小鹿営業所が所管するようになった。
- 1960年代から1970年代にかけては経営改善のために車両の大型化を図ったが、一方で交通規制(車両制限令、一方通行規制等)により、運行経路の変更や系統の整理再編が行われた。また、住宅地の郊外への拡大により「城北循環」や「柳新田循環」が開設されたが、遅延運行解消のために循環路線を廃止し、郊外路線に再編されて行った。
- 「中部循環線」「西部循環線」「安東循環線」と、通勤通学時間帯のみ運行の「大岩安東循環線」に集約された1980年代前半には「西部循環線」を皮切りにバスロケーションシステムが順次導入され、これにあわせ再び中小型バスでの運行が行われるようになった。[52]
- 沿革
- 1925年(大正14年)11月20日 - 静岡自動車が市内循環線の認可を得た。 [53]
- 1926年(大正15年)2月20日 - 静岡自動車が呉服町 - 安西間に路線を開設した。
- 呉服町 - 鷹匠町 - 浅間 - 安西(招魂社前)
- 1927年(昭和2年)8月30日 - 静岡自動車が静岡駅 - 末広町 間に路線を開設した。
- 静岡駅 - 川辺町 - 新富町 - 末廣町
- 1928年(昭和3年)
- 2月28日 - 静岡自動車が両替町 - 安西間に路線を開設した。
- 両替町 - 寺町(のちの駿河町、梅屋町)- 三番町 - 安西
- 5月16日 -
- 両替町 - 下石町(のちの常磐町、七間町)- 三番町 - 安西
- 2月28日 - 静岡自動車が両替町 - 安西間に路線を開設した。
- 1930年(昭和5年)10月1日 - 同日改正の静岡自動車の時刻表では、「循環線」として東廻り西廻り共に7時代から20時代まで20分間隔で運行されていた。
- 1931年(昭和6年)6月16日 - 静岡自動車が三番町 - 静岡駅間に丸山町、音羽町経由の路線を開設し、市内循環線を「第一循環線」「第二循環線」に分離した。[54][注 2]
- 新規区間
- 三番町 - 一番町 - 浅間 - 丸山町 - 北安東 - 音羽町 - 栄町 - 静岡駅
- 第一循環線
- 第二循環線
- 新規区間
- 1932年(昭和7年)7月1日 - 同日現在の統計年報では市内循環線の名称が「東部・西部循環線」となっている。[55]
- 1937年(昭和12年)
- 1938年(昭和13年)3月 - ガソリン等の資源統制により静岡乗合自動車が「南部循環」46回、その他路線47回の運行を廃止した。[58]
- 1942年(昭和17年)3月 - 静岡市観光協会発行の時刻表では、静岡乗合自動車が西部循環線(中町廻り、駒形廻り)と中部循環線(七間町廻り・水落廻り)として次の経路を運行していた。[59]
- 1945年(昭和20年)6月19日 - 静岡大空襲により車両設備の殆どを焼失した。
- 1947年(昭和22年)1月25日 - 静岡営業所静岡営業区(静岡市黒金町・静岡駅前)の管轄で「市内循環線」の運行を再開した。[16][60][61]
- 1948年(昭和23年)11月8日 - 車両増強に伴い「東部循環」「西部循環」に分離し戦前の路線を再開した。[62][63]
- 1950年(昭和25年)10月18日 - 「南部循環」の運行が開始された。[19][64]
- 1951年(昭和26年)- 「中部循環」の運行が開始された。[65]
- 1955年(昭和30年)12月1日 - 「北部循環」の運行が開始された。
- 1956年(昭和31年)4月1日 - 「本通音羽町循環」が運行を開始した。静岡営業区が第一営業区(静岡市鷹匠町)と第二営業区(静岡市国吉田)に分離され、市内循環路線が第一営業区の管轄となった。
- 1958年(昭和33年)12月5日 - 静岡市、東海観光バスとの競願の末、準郊外7路線(安東循環線・安倍川循環線・中原循環線、池ヶ谷循環線・沓之谷循環線・国吉田循環線・小鹿・石田循環線)が開業し、静岡第二営業所が管轄した。
- 1960年(昭和35年)-「西部循環」の補完路線として「西部第二循環」が新設された。
- 1963年(昭和38年)9月 - 静岡第一営業所を廃止し、静岡国吉田営業所、静岡小鹿営業所、静岡丸子営業所に移管した。
東部循環
[編集]- 概説
- (1)仲町まわり、(2)東町まわり
- 静岡第一営業所の管轄路線であったが廃止に伴い国吉田営業所に移管された。
- 沿革
- 1930年(昭和5年)10月1日 -
- 1931年(昭和6年)6月16日 - 市内循環線を東部と西部に分割した。
- 1937年(昭和12年)4月10日 - 静岡自動車が駿遠自動車と合併し、静岡乗合自動車の路線となった。
- 1939年(昭和14年)2月 - 同月現在の 静岡乗合自動車の時刻表では
- 1948年(昭和23年)11月8日 - 「静岡市内循環線」を東西に分離した。
- 1953年(昭和28年)車両増強により増回を行った。[66]
- 1955年(昭和30年)4月1日 - 新静岡バスセンター発着となった。
- 1956年(昭和31年)4月1日 - 静岡第一営業区の管轄となった
- 1958年(昭和33年)7月 - 同月現在の時刻表、路線図では次の経路を運行していた。
- 1962年(昭和37年)11月 - 同月現在の時刻表では、仲町廻り、東町廻り双方に西千代田経由と国立病院経由の2系統が存在しており、国立病院経由は日中のみ概ね30分間隔、西千代田経由を含め概ね10分毎の運行であった。
- 1963年(昭和38年)9月 - 静岡第一営業所から静岡国吉田営業所に移管された。
- 1964年(昭和39年)
- 5月1日 - 車両制限令の全面施行を前に運行経路を変更し、あわせて増回を行った。これに伴い「緑町循環」が廃止された。
- 10月1日 - 国道1号への右折渋滞回避のため東町廻りのみの運行となった。
- 1966年(昭和41年)5月10日 - 新静岡センター新バスターミナルの供用にあわせて水落まわりとなった。
- 1969年(昭和44年)5月16日 - 市内路線の再編に伴い「安東循環線」と統合され廃止となった。[10]
緑町循環
[編集]新静岡 → 鷹匠町二丁目 → 歯科医師会館前 → 水落町 → 横内中 → 横内 → 太田町 → 緑町 → 西千代田 → 北安東 → 安東三丁目 → 長谷通り → 英和女学院前→ 仲町 → 県民会館前 → 新静岡
- 「東部循環」のラッシュ時における車両の収容力や運行回数といった輸送力の制約を補うための路線として静岡第一営業所の管轄で開設された。このため日祝日運休で朝のラッシュ時(7時代~8時代)の「横内廻り」のみの運行であった。
- 1959年(昭和34年)6月15日 - 次の経路を運行していた。
- 1963年(昭和38年)
- 1964年(昭和39年)5月1日 -「東部循環」の増強と共に廃止された。
本通音羽町循環
[編集]- 概説
- 沿革
音羽町循環、音羽町草深循環
[編集]- 1963年(昭和38年)- 静岡国吉田営業所の管轄で「東部循環」の補助的な路線として開設された。
- 1964年(昭和39年)10月 - 国道1号等、幹線道路への右折進入時の渋滞回避のため東町経由のみの運行となった。
- 1965年(昭和40年)8月16日 - ワンマン運行の開始と、運行回数の増強が行われた。
- 1966年(昭和41年)5月10日 - 「東部循環」の水落町経由への変更に伴い草深、中町を経由する「音羽町草深循環」に名称が変更された。中町まわり、伝馬町まわり
- 1969年(昭和44年)5月16日 - 市内路線の再編に伴い音羽町 - 横内町区間が「城北線」に整理され廃止となった。
本通水落循環
[編集]- 1963年(昭和38年)- 「本通音羽町循環」が、「音羽町循環」と「本通水落循環」に分離された。
- 1964年(昭和39年)
- 1966年(昭和41年)5月10日 - 通学時間帯のみの運行となり、中町から県民会館を経由して新静岡に短絡する「駒形本通循環」が開設された。
- 1972年(昭和47年)の路線図では水落まわりが廃止され、駒形まわりのみとなっている。
- 1975年(昭和50年)7月現在の時刻表では廃止されている。
駒形本通循環
[編集]西部循環線
[編集]- 概説
西部第二循環線
[編集]- 概説
中部循環
[編集]- 概説
- (5)三番町廻り(6)水落廻り
- 沿革
- 1939年(昭和14年)2月 - 同月現在の 静岡乗合自動車の時刻表では
- 1951年(昭和26年)- 静岡営業所の管轄で運行を開始した。開設当初は七間町廻りと鷹匠町廻りで、朝6時代から22時まで30分毎の毎時2本が運行されていた。
- 1955年(昭和30年)4月1日 - 新静岡バスセンター発着となった。
- 1958年(昭和33年)の路線図では次の経路を運行しており、三番町廻りと水落廻りでの運行となっている。
- 1963年(昭和38年)9月 - 静岡第一営業所から静岡国吉田営業所に移管された。
- 1964年(昭和39年)
- 5月1日 - 車両制限令の完全施行を前に、これに抵触する三番町 - 常磐町区間(現 市道両替町通線 通称 両替町通り)が廃止され、安西四丁目 - 宝台橋(県道29号梅ヶ島温泉昭和線・国道362号線 通称 昭和通り)経由に変更された。これに併せてワンマン運行を開始した。
- 新静岡 - 水落町 - 城東町 - リフト前 - 赤鳥居 - 安倍町 - 安西 - 安西四丁目 - 一番町 - 本通三丁目 - 七間町 - 宝台橋 - 静岡駅前 - 新静岡
- 10月 - 右折渋滞回避のため水落廻りのみの運行となった。
- 5月1日 - 車両制限令の完全施行を前に、これに抵触する三番町 - 常磐町区間(現 市道両替町通線 通称 両替町通り)が廃止され、安西四丁目 - 宝台橋(県道29号梅ヶ島温泉昭和線・国道362号線 通称 昭和通り)経由に変更された。これに併せてワンマン運行を開始した。
- 1968年(昭和43年)10月 - 市内循環路線の再編に伴い運行経路が変更され、再び七間町廻りと水落廻りとなった。
- 1985年(昭和60年)- 4月現在の時刻表では、七間町まわりは朝晩のみの運行となっており、新静岡 - 安西四丁目区間が藁科線と重複区間のため、国道1号線から昭和通りへの右折に渋滞で時間がかかるために、日中の運行を廃止した。
- 1986年(昭和61年)4月16日 - 運行を休止した。[67]
北部循環
[編集]- 主要停留所
- 概説
南部循環
[編集]- 概説
- (9)仲町まわり(10)東町まわり
- 沿革
- 1938年(昭和13年)3月 - ガソリン等の資源統制により静岡乗合自動車が「南部循環」46回の運行を廃止した。[58]
- 1950年(昭和25年)10月18日 - 静岡営業所の管轄で運行が再開された。[19][64]
- 1963年(昭和38年)9月 - 静岡第一営業所から静岡小鹿営業所に移管された。
- 1964年(昭和39年)- 八幡一丁目 - 豊原町区間が車両制限令に抵触するため、カネボウ通りの拡幅(都市計画道路南幹線)により運行経路が変更された。
- 1966年(昭和41年)5月10日 - 同日改正の時刻表では8時代から19時代まで15分間隔で運行されていた。
- 1969年(昭和44年) - 循環系統を廃止し「駅南小鹿線」となった。
小鹿循環線
[編集]- 沿革
大谷循環線
[編集]- 運行系統および主要停留所
- 概説
- 沿革
宮竹循環
[編集]- 運行系統および主要停留所
- 概説
- 1950年代半ばに開設された久能街道、石田街道を経由して静岡駅南部を循環する路線で、外回りを有東廻り、内回りを石田廻りとしていた。1950年代後半には静岡駅前 - 有東 - 高松 間が「富士見線」に、静岡駅 - 石田 - 高松 間が「久能山線」に整理され廃止となった。
- 沿革
安東循環線
[編集]- 概説
- 1950年代後半に宅地化の進行する「東部循環線」外郭の大岩、安東地区を補完する路線として、市営バスとの競願問題の決着により新たに開設された循環路線であった。住宅地は狭隘区間が多いため、運行経路の変更等がたびたび行われ、1980年代初頭からは中型バスによる運行が行われていた。
大岩循環
[編集]静岡駅前 → 県民会館前 → 仲町 → 英和女学院前 → 長谷通り → 安東三丁目 → 大岩宮下町 → 丸山町 → リフト入口 → 赤鳥居 → 安倍町 → 八千代町 → 東町 → 仲町 → 県民会館前 → 新静岡 → 静岡駅前
市内路線のラッシュ時における車両の収容力や運行回数といった輸送力の制約を補うための路線として静岡第二営業所の管轄で開設された。このため日祝日運休で朝のラッシュ時(7時代~8時代)の「長谷廻り」のみの運行であった。主に静岡英和女学院、静岡高校、静岡大学への通学に利用された。
- 1959年(昭和34年)6月15日 - 同日現在の時刻表では次の経路を運行していた。
- 1962年(昭和37年)11月25日 -
- 1964年(昭和39年)10月1日 - 丸山町付近の狭隘区間の渋滞回避のため運行経路を変更した。
- 1966年(昭和41年)5月10日 - 宅地化が進む大在家、記念碑前を経由する「大岩安東循環」へと移行した。
大岩安東循環
[編集]- 概説
- 宅地化が急速に進む大在家、記念碑周辺のバス利用の利便性を図るため、開設された。丸山町経由
- 沿革
所管していた路線
[編集]甲府線、静岡甲府線(急行)
[編集]- 概説
- 沿革
東部国道本線、東部国道線
[編集]狐ヶ崎線
[編集]- 静岡清水線とほぼ並行する旧東海道を経由して静岡と清水を結ぶ路線であり、鉄道線の防衛と静清国道バス(のちの東部国道線)の営業権取得のため、静岡電気鉄道が森久自動車の買収により開設した。戦後は静岡鉄道静岡清水線の復興が優先され、静岡国体の輸送を完遂した1950年代後半に静岡第二営業所と清水営業所の共管で運行を再開したが、1960年代初頭には静岡第二営業所の管轄する「静岡狐ヶ崎線」と清水営業所の管轄する「清水狐ヶ崎線」に系統が分割された。
静岡狐ヶ崎線
[編集]- 1959年(昭和34年)6月16日 - 同日改正の時刻表では「静岡狐ヶ崎線」と「清水狐ヶ崎線」に系統が分割されており、「静岡狐ヶ崎線」は「安倍川線」の手越が起終点となっている。1日2往復の運行であった。
- 1960年(昭和35年)12月1日 - 同日現在の時刻表では「安倍川線」は「向敷地線」となり、「向敷地線・静岡狐ヶ崎線」としてひとつに纏められていた。
- 1961年(昭和36年)11月16日 - 同日改正の時刻表では、手越発着から安西二丁目発着に変更されており「美和線」と同様の七間町、両替町経由となっている。
- 1962年(昭和37年)11月25日 -
- 1964年(昭和39年)
- 1966年(昭和41年)5月10日 - 新静岡センター新バスターミナル開業時の時刻表からは消滅している。
- 1967年(昭和42年)10月1日 - 国鉄東静岡貨物駅が供用を開始した。
- 1972年(昭和47年)11月 - 同月現在の時刻表では「静岡狐ヶ崎線」は廃止され、国吉田跨線橋を経由して静岡県立女子大を結ぶ「文化センター線」が開設されている。
竜爪山線
[編集]- 概説
- 静岡駅から現在の県道67号静岡清水線(通称 北街道)と県道201号(通称 竜爪街道)を経由して長尾川流域の静岡市北部山間地域を結ぶ郊外路線である。
- 1970年代初頭に新設した静岡鳥坂営業所に山間地域のツーマン運行が移管され、国吉田営業所は主に神明前経由や新系統の「東部団地線」を担当した。
- 営業所廃止の際に鳥坂営業所に全面移管され、現在は神明前経由が「水梨東高線」として分離されている。
東部団地線
[編集]- 概説
- 「竜爪山線」の瀬名川経由から分岐し、静岡県営住宅東部団地 を結ぶ路線である。
- 沿革
城北循環線
[編集]- 概説
- 住宅地の郊外への拡大が進むなか、東部循環の外郭の地域住民の要望により開設された。
- 沿革
城北線
[編集]- 沿革
- 1969年(昭和44年)5月16日 - 「城北循環線」を区間整理して静岡国吉田営業所の管轄で開設された。
- 1972年(昭和47年)11月現在の路線図では次の経路を運行していた。
- 1973年(昭和48年)11月15日 - 同日現在の時刻表および路線図では城北高校前まで延伸している。
- 1975年(昭和50年)12月1日 - 同日現在の時刻表では静岡駅前発着となり、清水さん通りの車両通行制限(一方通行)のため、音羽町経由が廃止されている。
- 1983年(昭和58年)- 県立総合病院の開設に伴い同病院まで延伸し、唐瀬営業所との共管路線となった。
- 1989年(平成元年)- 国吉田営業所廃止に伴い唐瀬営業所に全面移管された。
- 1998年(平成10年)- 「不採算路線」として廃止の計画を発表した。
- 1999年(平成11年)4月 - 近くに別の路線があり影響が少ないという理由から廃止された。[75]
柳新田線、柳新田循環線
[編集]- 概説
- 沿革
- 1931年(昭和6年)静岡自動車が「柳新田線」を開設した。
- 静岡駅前 - 行幸通り - 江川町新谷町 - 鷹匠町堀端通り - 水落町 - 東草深町 - 長谷通り - 中学校 - 安東三丁目 - 安東小学校前 - 一本松 - 田中入口 - 柳新田
- 1939年(昭和14年)2月 - 同月現在の 静岡乗合自動車の時刻表では1日24往復が運行されていた。
- 静岡駅前 - 縣庁前 - 中町 - 凱旋橋 - 長谷市場 - 宮下町 - 安東小学校 - 縣立高女前 - 柳新田
- 1951年(昭和26年)「柳新田線」が再開された。[65]
- 1952年(昭和27年)2月29日 - 「柳新田循環線」が開設された。[19]
- 1953年(昭和28年)の時刻表では次の経路を運行していた。
- 1956年(昭和31年)- 静岡第一営業区の管轄となった。
- 1958年(昭和33年)の路線図では「柳新田循環」として次の経路を運行していた。
- 1959年(昭和34年)6月16日 -「柳新田線」と「上足洗線」に分割された。
- 1962年(昭和37年)12月1日 - 静岡駅前の国道1号の混雑解消のため「富士見線」と統合し「柳新田富士見線」となった。[76]
- 1931年(昭和6年)静岡自動車が「柳新田線」を開設した。
上足洗線
[編集]- 1959年(昭和34年)6月16日 -「柳新田循環線」を分離して開設された。
- 1962年(昭和37年)12月1日 - 静岡駅前の渋滞緩和のため栄町経由で水落町に至る経路に変更された。[76]
- 1963年(昭和38年)4月16日 - ラッシュ緩和を中心としたダイヤ改正により増回された。[77]
- 1970年(昭和45年)- 国吉田営業所から鳥坂営業所に移管された。
- 1972年(昭和47年)11月現在の路線図では次の経路を運行していた。
- 1975年(昭和50年)12月現在の時刻表では
- 1981年(昭和56年)
- 1983年(昭和58年)- 唐瀬営業所に移管された。
- 1985年(昭和60年)
柳新田富士見線
[編集]- 概説
- 静岡小鹿営業所との共管路線であった。
- 沿革
- 1962年(昭和37年)12月1日 - 「柳新田線」と「富士見線」を統合して開設された。開設当初は新静岡には停車せず、御幸町交差点付近の御幸町停留所に停車した。[76]
- 1964年(昭和39年)5月1日 - 「曲金・富士見線」が統合された。
- 1966年(昭和41年)5月10日 - 新静岡センター新バスターミナルの開設に伴い新静岡への乗入れを開始した。
- 1972年(昭和47年)- 11月現在の路線図では、次の経路を運行しており、富士見方面は小黒二丁目から産業館西通りを経由し、富士見から新静岡方面のみ久能街道を経由するようになっている。
- 1977年(昭和52年)2月現在
- 1983年(昭和58年)2月 - 静岡県農業試験場跡地に県立総合病院の開設に伴い「県立総合病院線」となった。以降、南北直通便は朝の通勤時間帯のみとなり、新静岡 - 富士見台間は遅延防止のため再度「富士見線」として分離された。[78]
中原循環線、中原線
[編集]- 概説
- 沿革
安倍川循環線、安倍川線
[編集]- 1958年(昭和33年)12月5日 - 静岡第二営業所の管轄で開設された。
- 1959年(昭和34年)6月15日 - 循環系統が廃止され「安倍川線」となり、本通西町 - 静岡駅前区間は「本通音羽町循環」に整理された。
小鹿・石田循環線
[編集]石田豊田線
[編集]- 1959年(昭和34年)6月16日 - 「小鹿・石田循環線」を整理して開設された。
- 1962年(昭和37年)12月1日 - 馬渕二丁目 - 稲川町区間が「久能山線」と同一経路に統一された。
- 1970年(昭和45年)3月 - 静岡新聞社が静岡市石田に移転し静岡新聞社前停留所が開設された。[79]
- 1972年(昭和47年)11月現在の路線図では次の経路を運行していた。
- 1975年(昭和50年)7月現在の時刻表
- 1980年代前半 時期不詳 「みなみ循環線」に整理され廃止となった。
池ヶ谷循環線
[編集]- 概説
- 沿革
国吉田循環線
[編集]- 運行系統および主要停留所
- 概説
- 沿革
運動場線
[編集]- 運行系統および主要停留所
- 概説
- 1950年代末期に「国吉田循環線」を整理して開設された。開設当初は乗車密度が0~4人程度の赤字路線であったが、[81]1960年代以降、東豊田地域の宅地開発が進行し、草薙総合運動場近くに静岡学園高等学校が進出するなど沿線の開発が進行したことにより増回され、さらに「動物園線」へ乗り入れる系統も開設された。
- さらに、1970年代後半からは草薙駅近隣の谷田地域に文化センターとして静岡県立中央図書館や県立静岡女子大が建設され、「文化センター線」が開設された。
- 1980年代に入ると静岡県立美術館や静岡県立大学が開学し、静岡鉄道不動産部が分譲した草薙団地と静清土地区画整理事業と現在の県道407号(通称 南幹線)の整備により、[82][83]「草薙瀬名新田線」「県立美術館線」
- 沿革
- 1961年(昭和36年)「国吉田循環線」の国道1号(静清国道)下横田 - 国吉田車庫間が「東部国道本線」など多数の系統が重複するため、同区間を廃止して誕生した路線である。
- 1963年(昭和38年)4月16日 - ラッシュ緩和を中心としたダイヤ改正により増回された。[77]
- 1964年(昭和39年)5月10日 - 東静岡貨物駅(操車場)のに伴い国吉田跨線橋が開通した。[84][85]
- 1966年(昭和41年)
- 4月1日 - 聖一色に静岡学園高等学校が開校した。
- 時期不詳 - 池田山団地前に静岡英和女学院短期大学が開学した。
- 1972年(昭和47年)11月現在の路線図では次の経路を運行していた。
- 新静岡 - 静岡駅前 - 栄町 - 下横田 - 静岡盲学校前 - 静岡酸素前 - 静岡ガス工場前 - 東豊田小学校前 - 円福寺 - 聖一色 - 競技場入口 - ゴルフ練習場前 - 国吉田 - 栗原 - 国吉田車庫前(43)
- (45)池田山団地前・(44)日本平動物園 - 東名日本平 - 畑守稲荷前 - 日本平入口 - 円福寺 - 聖一色 - 競技場入口 - ゴルフ練習場前 - 国吉田 - 栗原 - 国吉田車庫前
- 1979年(昭和54年)8月 - 静岡鉄道不動産部による分譲マンション「ハイコーポ池田山」(93戸)が竣工し、[86]競技場入口停留所がハイコーポ池田山入口に名称変更された。
- 1983年(昭和58年)3月現在の路線図では現在の県道407号(通称 南幹線)の部分開通に伴い静岡盲学校前 - 円福寺区間の経路が変更されている。
- 1985年(昭和60年)4月8日 - 同日現在の時刻表では、(43)系統は平日13往復、「動物園線」に乗り入れる池田山団地・動物園系統がそれぞれ1往復運航されており、池田山団地系統は英和短大休校日運休の通学系統であった。
- 1986年(昭和61年)4月18日 - 並木通り停留所から 「県立美術館線」に乗り入れる系統を開設した。
- 1989年(平成元年)営業所廃止に伴い鳥坂営業所に移管された。
- 1990年(平成2年)8月 - 現在の路線図では3系統が存在し、池田山団地系統は南幹線、テレビ静岡前経由となっている。
- 1994年(平成5年)7月現在の路線図では「県立美術館線」に統合されている。[87]
麻機線
[編集]- 概説
- 沿革
- 1925年(大正14年)4月3日 - 安倍自動車商会(のちの山下自動車商会)が静岡駅 - 麻機間に路線を開設した。[54]
- 栄町(静岡駅)- 丸山町 - 大在家 - 麻機村北村
- 1943年(昭和18年)10月21日 - 戦時統合により静岡鉄道が山下自動車商会を買収し、路線が承継された。[88]
- 1953年(昭和28年)- 同年月の時刻表ならびに路線では次の2系統が存在した。
- 静岡駅 - 池ヶ谷 - 麻機
- 静岡駅 - 安東 - 麻機
- 1956年(昭和31年)- 静岡第二営業区の管轄となった。
- 1962年(昭和37年)- 静岡駅前の渋滞緩和のために「大浜線」と統合し「大浜麻機線」となった。[76]
- 1925年(大正14年)4月3日 - 安倍自動車商会(のちの山下自動車商会)が静岡駅 - 麻機間に路線を開設した。[54]
大浜線
[編集]- 概説
- 沿革
- 1926年(大正15年)4月2日 - 静岡自動車が静岡駅 - 中島に路線を開設した。[54]
- 南町 - 見瀬 - 中島
- 1928年(昭和3年)12月21日 - 静岡自動車が南町 - 石田交差点に路線を開設した。
- 南町 - 石田交差点
- 1929年(昭和4年)5月20日 - 南町から栄町(静岡駅前)まで延伸した。
- 栄町(静岡駅前)- 南町 - 石田
- 栄町(静岡駅前)- 南町 - 見瀬 - 中島
- 1931年(昭和5年)10月1日 - 「下島線」「中島線」
- 1931年(昭和6年)4月25日 - 「下島線」石田から下島に延伸した。西脇から分岐し西島までの路線を開設した。
- 1932年(昭和7年)10月10日 - 下島から西島まで延伸した。
- 1935年(昭和10年)- 藤相鉄道と静岡電気鉄道の共同出資で駿遠自動車が設立された。
- 1937年(昭和12年)- 駿遠自動車が静岡自動車を買収し、静岡乗合自動車に社名変更した。静岡駅 - 大濱公園間を日中30分毎、運行していた。[89][90]
- 1943年(昭和18年)5月15日 - 戦時統合により静岡鉄道に承継された。
- 1950年(昭和25年)8月 - 運行を再開した。[64][91]
- 1953年(昭和28年)
- 1956年(昭和31年)4月1日 - 静岡第二営業区の管轄となった。
- 1960年(昭和35年)-
- 1962年(昭和37年)- 「麻機線」と統合し「大浜麻機線」となった。[76]
- 1926年(大正15年)4月2日 - 静岡自動車が静岡駅 - 中島に路線を開設した。[54]
大浜麻機線
[編集]- 概説
- 1960年代前半に静岡駅前の渋滞緩和のために「麻機線」と「大浜線」を統合して開設された。開設当初は静岡第二営業所の管轄で、
小鹿大浜線
[編集]- 運行系統および主要停留所
- 国吉田車庫前 - 聖一色 - 豊田東小学校前 - 池田 - 小鹿 - 競輪場入口 - 小鹿局前 - 豊田中学産業館東 - 市立商業前 - 石田 - 登呂入口 - 登呂コープタウン入口 - 下島 - 西島 - 大浜プール
- 概説
- 大浜プールの開園期間の夏季季節運行で、夏休み期間中は毎日運行されていた。当初は小鹿営業所の担当で競輪場前発であったが国吉田営業所発着となった。
- 沿革
唐瀬線
[編集]- 概説
- 1950年代末期に静岡市との競願の末に開設された「池ヶ谷循環線」を整理して静岡第二営業所の管轄で開設された路線であり、。
中原池ヶ谷線
[編集]- 概説
- 「大浜麻機線」の中原系統を分離して開設された。営業所廃止時に唐瀬営業所に移管された。
- 沿革
- 1966年(昭和41年)5月10日 -
- 池ヶ谷 - 唐瀬 - 池ヶ谷 - 大在家 - 臨済寺前 - 浅間神社前 - 中町 - 県庁前 - 新静岡 - 静岡駅前 - 宝台橋 - 馬渕消防署前 - 中原町 - 大里中学前(止) - 中島(止) - 大浜
- 池ヶ谷 - 唐瀬 - 池ヶ谷 - 大在家 - 臨済寺前 - 浅間神社前 - 中町 - 県庁前 - 新静岡 - 静岡駅前 - 宝台橋 - 馬渕消防署前 - 稲川町 - 石田 - 下島 - 大浜
- 1970年(昭和45年)8月15日 - 国道150号に永久橋の南安倍川橋が完成した。 [93]
- 1972年(昭和47年)11月現在の路線図では次の経路を運行していた。
- (71)唐瀬 - 池ヶ谷 - 平ヶ谷 - 大岩北 - 大在家 - 大岩西 - 臨済寺前 - 大岩本町 - 丸山町 - リフト入口 - 赤鳥居 - 安倍町 - 八千代町 - 中町 - 県庁前 - 新静岡 - 静岡駅前 - 宝台橋 - 馬渕一丁目 - 馬渕二丁目 - 馬渕消防署 - 新川 - 中原町 - 寿町 - 中原三軒家 - 緑ヶ丘 - 中野新田 - 大里中学校前 - 東名静岡(24)- 中島上公民館前 - 中島 - 中島小学校前 - 西島 - 大浜会館前(25)
- 1974年(昭和49年)- 下川原二丁目付近に県営東長田団地、桃園町付近に日本住宅公団により下川原団地が建設され、国道150号南安倍川橋を経由して下川原団地への乗り入れを開始した。
- 1975年(昭和50年)12月 現在の時刻表では
- 1983年(昭和56年)(時期不詳)- 唐瀬営業所開設により移管された。
- 1992年(平成4年)1月 - バスロケーションシステムが導入された。[94]
- 1966年(昭和41年)5月10日 -
沓之谷循環線
[編集]- 運行系統および主要停留所
- 概説
- 沿革
上土線
[編集]- 概説
- 「沓之谷循環線」の古庄 - 静岡駅前間を廃止し、古庄から国吉田車庫の所在する運動場入口まで延伸して開設された。
- 沿革
- 1959年(昭和34年)6月16日 - 同日改正の時刻表では次の経路を運行していた。
- 1960年(昭和35年)12月1日 - 同日現在の時刻表では停車停留所に上土消防署前、古庄電停前が追加され、運動場入口停留所が国吉田車庫前に変更されており、1日11往復が運行されていた。
- 1961年(昭和36年)11月16日 - 同日改正の時刻表では大和製罐清水工場やポーラ静岡工場の通勤輸送として「東部国道本線」のポーラ前停留所まで1日11往復の内、朝晩の1日2往復が乗り入れている。
- 1962年(昭和37年)12月1日 - 静岡市内線廃止と新静岡バスセンターの増改築に伴い新静岡発着となり、静岡駅前の渋滞緩和のため旧電車通りから栄町、現在の県道354号静岡環状線経由で水落に至る運行経路に変更された。[76]
- 1964年(昭和39年)4月 - 沓之谷地区土地区画整理事業が認可され、以降、県道67号(通称 北街道)と国道1号(通称 静清国道)を結ぶ幅員19mの新道(都市計画街路 長沼上土線 現 県道74号山脇大谷線 通称 流通センター通り)の建設が開始された。[95]
- 1967年(昭和42年)4月 - 長沼上土線(流通センター通り)を経由する運行経路(沓谷経由)が認可された。 [74]
- 1970年(昭和45年) - 鳥坂営業所の開設に伴い同営業所との共管となった。
- 1972年(昭和47年)11月現在の路線図では下りは旧道(市道古庄沓谷線)を経由する上土経由、上りは新道(流通センター通り)を運行する沓谷経由となっている。
- 1973年(昭和48年)11月15日 - 同日現在の時刻表では、上土経由の79系統とその折り返し便のみが鳥坂営業所によるツーマン運行となり、他はワンマン運行の沓谷経由、国吉田営業所入庫便であった。
- 1981年(昭和56年)10月現在の路線図では、ツーマン運行を要する上土系統が廃止されている。
- 1984年(昭和59年)4月現在の路線図では草薙までの運行となっている。
- 1985年(昭和60年)4月8日現在の時刻表では平日朝、静岡駅前発草薙行1本のみの運行となっている。
- 静岡駅前 → 新静岡 → 三松 → 沓ノ谷東 → 農業高校西口 → 長沼二丁目 → 古庄 → 国吉田車庫前 → シャンソン前 → 食肉センター前 → 草薙
- 1989年(平成元年)- 国吉田営業所廃止と共に廃止された。
- 1998年(平成10年)10月30日 - 東静岡駅が開業した。
- 2002年(平成14年)- 東静岡駅から流通センター通りを経由して県立総合病院を結ぶ「東静岡県立病院線」が開設され、
県立美術館線
[編集]- 概説
- 沿革
文化センター線
[編集]- 概説
- 沿革
- 1967年(昭和42年)4月1日 - 県立静岡女子大が開学した。[97]
- 1969年(昭和44年)3月18日 - 静岡県立中央図書館が完成した。[98][99]
- 1970年(昭和45年)4月18日 - 静岡県文化センターおよび県立中央図書館が開館した。
- 1972年(昭和47年)11月現在の路線図では次の経路を運行していた。
- 新静岡 - 静岡駅前 - 栄町 - 日の出町 - 下横田 - 護国神社前 - いすゞ前 - 長沼 - 古庄 - (47)国吉田車庫前 - 栗原 - 草薙駅入口 - 女子大入口 - 文化センター前(46)
- 1975年(昭和50年)12月現在の時刻表では次の2系統が平日のみ運行されていた。
- 新静岡 - 下横田 - 国吉田車庫前 - 文化センター(46)
- (47)国吉田車庫前 - 文化センター
- 1979年(昭和54年)- 草薙駅から女子大入口を経由して草薙団地を結ぶ「草薙瀬名新田線」が開設され、文化センターまで乗り入れる路線は一旦廃止された。
草薙瀬名新田線
[編集]- 概説
- 沿革
- 1925年(大正14年)9月6日 - のちの望月自動車が平山 - 草薙間に乗合路線を開設した。 [100][101][102]
- 1943年(昭和18年)10月 - 静岡鉄道が望月自動車を買収した。
- 1969年(昭和44年)10月 - 静岡鉄道不動産部が草薙団地(96区画)の分譲を開始した。 [103]
- 1979年(昭和54年)- 草薙駅から女子大入口を経由して草薙団地を結ぶ「草薙瀬名新田線」が開設された。
- 1983年(昭和58年)3月現在の路線図では次の経路を運行していた。
- 1985年(昭和60年)4月現在の時刻表では次の3系統が存在した。
- 1987年(昭和62年)4月 - 静岡県立大学の開学に伴い女子大入口停留所名が県立大学入口となった。
- 1989年(平成元年)8月 - 国吉田営業所廃止に伴い鳥坂営業所に移管された。
- 1991年(平成3年)4月1日 - 「県立美術館線」が統合され、日中9時~16時代は県立美術館発着となった。[104]
- 2018年(平成30年)10月1日 - JR草薙駅北口への乗り入れを開始し草薙駅南口 - 草薙団地区間が「三保草薙線」に整理された。
動物園線
[編集]- 概説
- 沿革
静岡日本平線
[編集]- 概説
- 日本平パークウェイの開業にあわせ開設された路線であり、小鹿営業所との共管であった。
- 静岡鉄道不動産部が分譲した池田山団地付近には静岡英和女学院短期大学が開学するなど、周辺の開発が進行したことにより、
- 1970年代に小鹿営業所の敷地が拡張され観光バスタイプの専用車両が配置されて以降は国吉田営業所は主に朝夕の池田山団地系統を担当し、小鹿営業所は観光タイプの車両で日本平系統を主に担当した。
- 国吉田営業所の廃止後は鳥坂営業所と小鹿営業所の共管となったが、更に1990年代末期からは「特急静岡御前崎線」の間合い運用で相良営業所も入線するようになった。
- 沿革
聖光学院線
[編集]登呂線
[編集]- 1953年(昭和28年)
- 1956年(昭和31年)- 静岡第二営業区の管轄となる。
- 1975年(昭和50年)7月現在の時刻表
- 1989年(平成元年) 営業所廃止に伴い唐瀬営業所に移管された。
- 1999年(平成11年)4月 - 路線の重複する石田街道から静岡新聞社の区間が廃止された。[75]
石田大谷線
[編集]- 1966年(昭和41年)5月10日 - 新静岡センター新バスターミナル開業時のダイヤ改正にあわせて開設された。
- 1975年(昭和50年)7月現在の時刻表では次の2系統が存在した。
- 新静岡 - 静岡駅前 - 馬渕消防署前 - 稲川町 - 石田 - 登呂入口 - 下島 - 大谷(12)
- 静岡駅南口 - 馬渕消防署前 - 稲川町 - 石田 - 登呂入口 - 下島 - 大谷(13)
- 1989年(平成元年)営業所廃止に伴い鳥坂営業所に移管された。
久能山線、静岡久能山線
[編集]- 概説
- 路線開設から戦後しばらくは久能街道を経由していたが、1950年代後半からは石田街道を経由して登呂遺跡と久能山を結ぶようになった。
- 沿革
- 1917年(大正6年) - 宮寺自動車商会(静岡市紺屋町)が静岡駅から久能街道を経由して久能山を結ぶ「久能線」を開設した。[53][105]
- 静岡駅前 - 南安東樋泉踏切 - 豊田村有東 - 高松 - 東大谷 - 久能村坂下(石橋館前)
- 1922年(大正11年)
- - 山下栄蔵が安倍自動車商会を設立した。
- 11月6日 - 安倍自動車商会が静岡駅 - 久能街道 - 久能山下の免許を得た。[53]
- 1923年(大正12年)[106]
- 2月3日 - 安倍自動車商会が「久能線」を開業した。
- 12月10日 - 安倍自動車商会が「井宮線」を開業した。
- 1924年(大正13年)文化自動車商会を森田久吉が承継し静岡市茶町に森久自動車部を設立した。[107]
- 1925年(大正14年)
- 1926年(大正15年)
- 1929年(昭和4年)3月19日 - 静岡電気鉄道が宮寺自動車商会、森久自動車商会を買収し路線を継承した。駒越からは「三保線」に連絡していた。[114]
- 1950年(昭和25年)5月31日 -「久能山三保めぐり」定期遊覧バスの運行が開始された。[115]
- 1952年(昭和27年)1月1日 - 同日改正の時刻表では「久能線」として静岡 - 久能山下 - 清水、三保の直通運行が行われていた。また、久能街道、高松経由と小鹿経由が存在した。
- 静岡 -( - 高松 -/- 小鹿 - 池田 - )- 大谷 - 久能山下 - 駒越 - 清水
- 静岡 -( - 高松 -/- 小鹿 - 池田 - )- 大谷 - 久能山下 - 駒越 - 三保
- 1953年(昭和28年)「久能山線」は静岡営業区と清水営業区の共管であった。
- 静岡 - 高松 - 大谷
- 静岡 - 高松 - 大谷 - 久能山下
- 静岡 - 高松 - 大谷 - 久能山下 - 駒越 - 清水
- 1956年(昭和31年)- 静岡第二営業区の管轄となった。
- 1959年(昭和34年)- 路線図
- 1975年(昭和50年)7月現在の時刻表
- 新静岡 - 馬渕消防署前 - 稲川町 - 石田 - 登呂入口 - 下島 - 大谷 - 久能山下(14)
- 1979年(昭和54年)7月 - 道路事情に合わせた中型バスの運行を開始した。[73]
- 1989年(平成元年)営業所廃止に伴い鳥坂営業所に移管された。
- 1917年(大正6年) - 宮寺自動車商会(静岡市紺屋町)が静岡駅から久能街道を経由して久能山を結ぶ「久能線」を開設した。[53][105]
小鹿大谷線
[編集]- 概説
- 沿革
小鹿線
[編集]- 概説
- 沿革
池田線
[編集]- 概説
- 沿革
駅南小鹿線
[編集]- 運行系統および主要停留所
- 概説
- 「南部循環」の循環系統を廃止し、小鹿まで延伸した路線であった。
- 沿革
みなみ循環線
[編集]- 概説
- 従来の新静岡駅一点集中型から、新たに南部地区に交通結節点を付加するため、静岡駅南口地区の市街地再開発事業にあわせてバス交通の拠点機能の整備が計画された。
- 「石田豊田線」を、石田街道から大浜街道経由に付け替え、新静岡、静岡駅北口発着を静岡駅南口発着に、静岡駅南口 - 小鹿局前区間を「駅南小鹿線」の八幡三丁目経由と同一経路とする循環路線に変更して開設された。[118]
- 沿革
- 1981年(昭和56年)12月16日 - 「みなみ循環線」として運行を開始した。
- 1983年(昭和58年)3月24日 -
- 1984年(昭和59年)4月 -
- 2007年(平成19年)4月16日 - 競輪場前・小鹿営業所を起終点とする循環路線となり「みなみ線」に名称が変更された。
- 競輪場前 → 県立短大 → 三菱電機前 → 済生会病院正面 → 農業会館前 → 小黒二丁目東 → 八幡二丁目 → 静岡駅南口 → 稲川町 → 中田小学校→ 駿河区役所静岡新聞社 → 駿河総合高校前 → 静岡総合庁舎前 → 豊田中学ツインメッセ前 → 競輪場入口/三菱電機前 → 競輪場前 → 小鹿営業所(17 中田経由)
- 競輪場前 → 県立短大 → 三菱電機前 → 豊田中学ツインメッセ前 → 静岡総合庁舎前 → 駿河総合高校前 → 駿河区役所静岡新聞社 → 中田小学校 → 静岡駅南口 → 八幡二丁目 → 小黒二丁目東 → 農業会館前 → 済生会病院正面 → 競輪場入口/三菱電機前 → 競輪場前 → 小鹿営業所(18 曲金経由)
安倍線
[編集]- 概説
- 沿革
- 1923年(大正12年)12月20日 - 安倍自動車商会が材木町 - 牛妻坂下 間に「牛妻線」として路線を開設した。 [106]
- 材木町 - 賎機村松富 - 牛妻駅 - 牛妻坂下(郵便局隣)
- 1926年(大正15年)安倍鉄道が鉄道線防衛のために井ノ宮-静岡駅間、牛妻-俵沢間に乗合自動車を開設。
- 1927年(昭和2年)[54]
- 3月20日 - 安倍自動車商会が牛妻 - 上助 間の運行を開始。
- 4月25日 - 井宮 - 牛妻 間の免許を得て井宮 - 上助 間の運行を開始。
- 12月1日 - 静岡駅 - 井宮 間の免許を安倍鉄道から得て 静岡駅 - 上助間の直通運行を開始。
- 1932年(昭和7年)12月 - 安倍鉄道が運行を休止した。
- 1933年(昭和8年)- 安倍自動車商会が安倍鉄道の営業権買収を完了し、山下自動車商会として運行開始した。[119]
- 1934年(昭和9年)6月16日 - 安倍鉄道が旅客運輸営業を廃止した。
- 1943年(昭和18年)10月21日 - 戦時統合により山下自動車商会から静岡鉄道に路線が承継された。
- 1948年(昭和23年)12月7日 - 梅ヶ島行路線の延長(湯森 - 梅ヶ島間)を申請した。[120]
- 1949年(昭和24年)7月23日 - 梅ヶ島への延長申請が認可され、8月7日より運行を開始した。[120][121]
- 1953年(昭和28年)
- 1956年(昭和31年)- 静岡第二営業区の管轄となる。
- 1959年(昭和34年)
- 1962年(昭和37年)
- 5月16日 - 上落合、横沢まで延伸した。[42]
- 12月1日 - 同日より静岡駅前の渋滞緩和措置として、往路復路の運行経路並びに静岡駅前乗降場所を変更した。
- 新静岡 → 静岡駅前 → 宝台橋(停車無し)→ 昭和町 → 本通り旧ロータリー → 中町 →(略)
- 新静岡 ← 静岡駅前(旧電車通り)← 県民会館前 ← 中町 ←(略)
- 1969年(昭和44年)1月1日 - 清沢、大川、玉川、井川、大河内、梅ヶ島の6ヶ村が静岡市に編入合併し、以降、静岡市中心部と旧大河内村の有東木を結ぶ支線系統が誕生した。[45][124]
- 1970年(昭和45年)- 鳥坂営業所に移管された。
- 1923年(大正12年)12月20日 - 安倍自動車商会が材木町 - 牛妻坂下 間に「牛妻線」として路線を開設した。 [106]
美和線
[編集]- 概説
- 沿革
- 1935年(昭和10年)山下自動車商会が井ノ宮 - 足久保舟沢間に路線を開設した。[126]
- 1938年(昭和13年)5月 - ガソリン統制により運行を中断した。
- 1943年(昭和18年)10月21日 - 戦時統合により静岡鉄道が山下自動車商会を買収し、路線が承継された。[88]
- 1951年(昭和26年)運行が再開された。
- 静岡駅 - 篭上 - 舟沢
- 1953年(昭和28年)敷地まで延伸している。
- 静岡駅 - 篭上 - 舟沢 - 敷地
- 1956年(昭和31年)- 静岡第二営業区(国吉田)の管轄となった。
- 1955年(昭和30年)12月15日 - 敷地 - 足久保奥間の路線免許が申請された。[127]
- 1957年(昭和32年)- 足久保奥まで延伸した。
- 静岡駅 - 篭上 - 秋山新田 - 舟沢 - 足久保奥
- 1958年(昭和33年)- 7月現在の市内路線図では、井の宮局前 - 仲町間が「安倍線」は材木町経由、「美和線」は神明町経由となっている。
- 1960年(昭和35年)- 支線系統の内牧線が開設された。[128]
- 1961年(昭和36年)- 栗島まで延伸した。[128]
- 1962年(昭和37年)
- 1963年(昭和38年)- 栗島から谷沢に車庫を移転し谷沢まで延伸した。車庫の移転費用は地元住民の出資で行われた。[130]
- 静岡駅 - 篭上 - 秋山新田 - 下与左衛門新田 - 舟沢 - 敷地 - 栗島 - 谷沢
- 1965年(昭和40年)
- 1968年(昭和43年)
- 1969年(昭和44年)7月 - 静岡鉄道不動産部が遠藤新田字松森に美和団地(143区画)の造成を開始。[132][103]
- 1970年(昭和45年)
安西線、井の宮線
[編集]- 概説
- 1965年(昭和40年)6月に静岡厚生病院()
- 沿革
- 1923年(大正12年)
- 1929年(昭和4年)3月19日 - 静岡電気鉄道が安西線(のちの静岡市内線)防衛のために宮寺自動車商会を買収し、「井宮線」を継承した。[114]
- 静岡駅前 - 中町 - 井宮町 - 妙見下
- 1937年(昭和12年)5月26日 - 静岡電気鉄道と藤相鉄道の共同出資で設立された静岡乗合自動車に「井宮線」が譲渡された。[62][89]
- 1943年(昭和18年)5月 - 戦時統合により静岡鉄道に承継された。[88]
- 1962年(昭和37年)9月15日 - 静岡鉄道静岡市内線の廃止により代行バス「安西線」の運行を開始した。[42]
- 1969年(昭和44年)5月16日 - 市内路線の再編が行われ「安西線」と「北部循環」の統合により「井の宮線」が開設された。
- 1972年(昭和47年)2月 - 同月現在の路線図では次の経路を運行していた。
- 1973年(昭和48年)時期不詳 - 井の宮小学校→妙見下→水道町のループ運行区間を廃止し、神明町経由と材木町経由の2系統に分割し、 安倍川スポーツ広場まで延伸した。
- 1984年(昭和59年)4月 - 同月現在の路線図では神明町経由のみとなり、桜町まで延伸している。
藁科線
[編集]- 概説
南藁科線
[編集]- 1926年(大正15年)
- 1929年(昭和4年)3月19日 - 静岡電気鉄道が路線を継承した。[114]
- 1953年(昭和28年)
- 静岡駅 - 山崎 - 小瀬戸
- 1956年(昭和31年)- 静岡第二営業区の管轄となった。
- 1961年(昭和36年)3月25日 - 藁科川に羽鳥地区と牧ヶ谷地区を結ぶ牧ヶ谷橋が竣工した。[135]
- 1962年(昭和37年)5月16日 - 延伸した。[42]
- 1963年(昭和38年)9月 - 静岡丸子営業所に移管された。
向敷地線
[編集]1950年代後半に静岡市との競願を経て開設された「安倍川循環線」が循環系統と廃止し安倍川右岸、長田地域北部の手越まで延伸し「安倍川線」となり、さらに1960年代初頭に向敷地地区まで延伸した路線である。静岡丸子営業所の開設に伴い同営業所に移管された。
丸子線
[編集]用宗線
[編集]休廃止路線
[編集]静岡浜松線(急行)
[編集]東名静岡浜松線(特急)
[編集]静岡沼津線(急行)
[編集]- 概説
- 沿革
日本平線
[編集]- 概説
- 沿革
静岡井川線(急行)
[編集]- 停車停留所
- 概説
- 沿革
静波海水浴場線(特急)
[編集]- 停車停留所
- 新静岡 - 静波海水浴場
- 概説
レステル御前崎線(特急)
[編集]- 停車停留所
- 概説
車両
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、132頁。
- ^ a b c d e f g 『写真で綴る静岡鉄道70年の歩み』静岡鉄道、1989年4月、162頁。
- ^ 『静岡市議会史 昭和41-46年』静岡市議会、1973年、772-778,860-861頁。
- ^ 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、134頁。
- ^ 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、151-153頁。
- ^ a b c 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道、2020年3月、104頁。
- ^ 『激動の昭和史 : 静岡県(下巻 戦後編)』静岡新聞社、1977年5月19日、130-131頁。
- ^ 安本博 編『千代田誌』千代田誌をつくる編集委員会、1984年10月1日、568-571頁。
- ^ a b 『静岡市議会史 昭和41-46年』静岡市議会、1973年4月1日、1159-1160頁。
- ^ a b c d e 『写真で綴る静岡鉄道70年の歩み』静岡鉄道、1989年4月、163頁。
- ^ 安本博 編『千代田誌』千代田誌をつくる編集委員会、1984年10月1日、79-81,566-567頁。
- ^ 加藤 佳一『BJニューハンドブックス No.39 しずてつジャストライン』BJエディターズ、2003年5月1日、25頁。ISBN 4-434-01904-X。
- ^ a b 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道、2020年3月、150頁。
- ^ 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道、2020年3月、65-70頁。
- ^ 『激動の昭和史 : 静岡県(下巻 戦後編)』静岡新聞社、1977年5月19日、10頁。
- ^ a b 『激動の昭和史 : 静岡県(下巻 戦後編)』静岡新聞社、1977年5月19日、24頁。
- ^ 安本博 編『静岡中心街誌 別冊』静岡中心街誌編集委員会、1974年、106頁。
- ^ 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、127頁。
- ^ a b c d e f 『静岡市史・近代 通史編』静岡市、1969年4月1日、923頁。
- ^ 『新都市 9』財団法人都市計画協会、1955年9月1日、15頁。
- ^ a b 『激動の昭和史 : 静岡県(下巻 戦後編)』静岡新聞社、1977年5月19日、80頁。
- ^ 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、128頁。
- ^ 『写真で綴る静岡鉄道70年の歩み』静岡鉄道、1989年4月、94頁。
- ^ 『激動の昭和史 : 静岡県(下巻 戦後編)』静岡新聞社、1977年5月19日、96頁。
- ^ a b c d e f g 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、219頁。
- ^ 総理府統計局 編『会社企業名鑑 昭和37年版』日本統計協会、1962年、998頁。
- ^ 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、129頁。
- ^ 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、130頁。
- ^ 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、181頁。
- ^ 『運輸公報』397号、運輸省大臣官房、1957年4月5日、103-104頁。
- ^ 『静苑 第七号』静岡鉄道、1961/9/31、17-20頁。
- ^ 『昭和三十三年運輸審議会年報』運輸大臣官房審理官室、1959年、115-117頁。
- ^ 安本博 編『静岡中心街誌 別冊』静岡中心街誌編集委員会、1974年、120頁。
- ^ 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道、2020年3月、93頁。
- ^ 『静岡市議会史 昭和41-46年』静岡市議会、1973年、924-925,933-934,979頁。
- ^ 『静苑 第八号』静岡鉄道、1961年10月31日、24頁。
- ^ 『静苑 第十四号』静岡鉄道、1962年4月30日、14頁。
- ^ a b 総理府統計局 編『会社企業名鑑 昭和43年版』日本統計協会、1968年、1768頁。
- ^ a b c 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、220頁。
- ^ 『静苑 第十九号』静岡鉄道、1962年10月30日、4頁。
- ^ 総理府統計局 編『会社企業名鑑 昭和40年版』日本統計協会、1965年、1415頁。
- ^ a b c d e f 『静岡市史・近代 通史編』静岡市、1969年4月1日、924頁。
- ^ 『激動の昭和史 : 静岡県(下巻 戦後編)』静岡新聞社、1977年5月19日、150頁。
- ^ 『静苑 第二十二号』静鉄事業団、1963年1月25日、15頁。
- ^ a b 『静岡市史 近代 史料編』静岡市、1969年4月1日、1263頁。
- ^ 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道、2020年3月、131頁。
- ^ 『日本アルマナック : 現代日本を知る総合データバンク 1985』教育社、1985年1月30日、1398頁。
- ^ 「静岡鉄道が国吉田営業所敷地を東日本東芝家電販売に賃貸」『静岡新聞』1989年6月28日、朝刊18面。
- ^ 『自動車年鑑 昭和8年版』日刊自動車新聞社、1932年11月17日、358頁。
- ^ 静岡市役所市長公室 編『静岡市勢要覧 昭和33年版』静岡市、1957年8月25日、115頁。
- ^ 『運輸審議会半年報 昭和33年』運輸大臣官房審理官室、1959年、115-117頁。
- ^ 『静岡年鑑 昭和56年度版 本冊』静岡新聞社、1981年8月、167頁。
- ^ a b c d e 『中部日本の自動車運輸 昭和5年1月調』名古屋鉄道局、1930年1月、87頁。
- ^ a b c d 鉄道省 編『全国乗合自動車総覧 静岡県』鉄道公論社、1934年12月29日、12頁。
- ^ 『新報年鑑』静岡新報、1932年12月13日、108-115頁。
- ^ 『静岡銀行史』静岡銀行、1960年5月31日、105頁。
- ^ 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道、2020年3月、57-58頁。
- ^ a b 静岡県警察史編さん委員会 編『静岡県警察史 下巻』静岡県警察本部、1979年3月30日、551-552頁。
- ^ 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道、2020年3月、54頁。
- ^ 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、91-92頁。
- ^ 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道、2020年3月、69,290頁。
- ^ a b 『静岡市史・近代 通史編』静岡市、1969年4月1日、922頁。
- ^ 『ポケット社史 静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、96頁。
- ^ a b c 安本博 編『静岡中心街誌 別冊』静岡中心街誌編集委員会、1974年、110頁。
- ^ a b 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、120頁。
- ^ 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、124-125頁。
- ^ a b 「4路線休止し1線新設、静鉄、路線バスを再編成」『日本経済新聞』1986年4月1日、地方経済面 静岡6面。
- ^ 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、124頁。
- ^ a b 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、126頁。
- ^ 『静岡年鑑 昭和60年度版 本冊』静岡新聞社、1985年8月、58頁。
- ^ 飯塚伝太郎 編『東豊田郷土誌』東豊田郷土誌編纂委員会、1980年3月9日、258頁。
- ^ 安本博 編『静岡中心街誌 別冊』静岡中心街誌編集委員会、1974年、128頁。
- ^ a b 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道、2020年3月、135頁。
- ^ a b c d 安本博 編『千代田誌』千代田誌をつくる編集委員会、1984年10月1日、568頁。
- ^ a b 『静岡市議会 会議録 平成10年第7回定例会(第2日目)』静岡市議会、1998年12月2日。
- ^ a b c d e f 『静苑 第二十号』静岡鉄道、1962年11月25日、12頁。
- ^ a b 『静苑 第二十五号』静岡鉄道、1963年3月25日、8頁。
- ^ 『バスラマインターナショナル No.35』ぽると出版、1996年4月25日、35-36頁。ISBN 4-938677-35-0。
- ^ 焼津市誌下巻編纂委員会 編『焼津市誌 下巻』焼津市、1971年1月1日、282-293頁。
- ^ 安本博 編『千代田誌』千代田誌をつくる編集委員会、1984年10月1日、353頁。
- ^ 『静苑 第4号』静岡鉄道、1961年6月30日、4頁。
- ^ a b 『区画整理 37巻 4月号』日本土地区画整理協会、1994年4月5日、63-70頁。
- ^ 静岡県議会事務局調査課 編『静岡県議会の業績 第12巻』静岡県議会事務局、1994年4月、318頁。
- ^ a b 飯塚伝太郎 編『東豊田郷土誌』東豊田郷土誌編纂委員会、1980年3月9日、39-40頁。
- ^ a b 『静岡市史 近代 史料編』静岡市、1969年4月1日、1259頁。
- ^ 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道、2020年3月、143頁。
- ^ a b 『静鉄バス全路線ガイド BUS STOP GUIDE』静岡鉄道(株)自動車部、1994年7月10日。
- ^ a b c 『写真で綴る静岡鉄道70年の歩み』静岡鉄道、1989年4月、161頁。
- ^ a b 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道、2020年3月、290頁。
- ^ 『浅間神社本殿遷座祭写真帖 附 静岡名鑑』静岡新報社、1937年4月11日、101頁。
- ^ 『静岡市史 総目次・年表・索引』静岡市、1982年4月、1008頁。
- ^ 『静岡市内バス路線図 昭和58年3月現在』静岡県バス協会、静岡鉄道、1983年3月。
- ^ a b c d 静岡市総務部広報課 編『市制90周年記念写真集「静岡 」』静岡市、1979年4月1日、101頁。
- ^ 「静鉄、バス接近表示システム、静岡市内3路線に導入-来年度さらに2線に」『日本経済新聞』1992年1月30日、地方経済面 静岡版6面。
- ^ 区画整理 (日本土地区画整理協会) 13 (5月): 3-7. (1970/5/5).
- ^ 『写真で綴る静岡鉄道70年の歩み』静岡鉄道、1989年4月、141,165頁。
- ^ 飯塚伝太郎 編『東豊田郷土誌』東豊田郷土誌編纂委員会、1980年3月9日、333-334頁。
- ^ 『静岡県の教育 昭和44年度版』静岡県教育委員会、1970年3月31日、175-177頁。
- ^ 飯塚伝太郎 編『東豊田郷土誌』東豊田郷土誌編纂委員会、1980年3月9日、372-373頁。
- ^ 『中部日本の自動車運輸 昭和5年1月調』名古屋鉄道局、1930年1月、282頁。
- ^ 『竜南風土記』竜南風土記刊行会、1974年、99頁。
- ^ 鉄道省 編『全国乗合自動車総覧 静岡縣』鉄道公論社、1934年12月29日、27頁。
- ^ a b c 『静鉄グループ百年史 過去から未来へのメッセージ』静岡鉄道、2020年3月、286頁。
- ^ 「通学の利便性図るスクールライナー運行-静鉄バスがダイヤ改正」『静岡新聞』1991年3月30日、朝刊21面。
- ^ 『自動車販売 第11巻1号』日本自動車販売協会連合会、1972年12月30日、65頁。
- ^ a b c 静岡市 編『静岡都市計画参考資料 第1輯』静岡市役所、1926年2月15日、46-47頁。
- ^ 久保田甚作『御成婚紀念 静岡県職業名鑑』久保田政春、1926年5月30日、580頁。
- ^ 久保田甚作『御成婚紀念 静岡県職業名鑑』久保田政春、1926年5月30日、562頁。
- ^ 漆畑弥一『目でみる静岡市の歴史』緑星社、1981年5月25日、143頁。
- ^ 『東海道遊覧案内静岡と其附近』遊覧案内社、1925年2月26日、74-75頁。
- ^ 久保田甚作『御成婚紀念 静岡県職業名鑑』久保田政春、1926年5月30日、562,568頁。
- ^ 高瀬末吉 編『大日本商工録 昭和7年版』大日本商工会、1932年5月25日、111頁。
- ^ 『中部日本の自動車運輸 昭和5年1月調』名古屋鉄道局、1930年1月、86頁。
- ^ a b c 鉄道省編纂 編『全国乗合自動車総覧 静岡県』鉄道公論社、10頁。
- ^ 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、122頁。
- ^ 『静岡市史 近代 史料編』静岡市、1969年4月1日、1258頁。
- ^ 「東静岡駅開設で路線バスを新設-静岡鉄道」『静岡新聞』1998年10月30日、朝刊27面。
- ^ 静岡市企画部企画課 編『第6次静岡市総合計画 情報とふれあいの人間都市・しずおか』静岡市、1986年3月31日、94-95頁。
- ^ 富山昭, 中村羊一郎『安倍川 ーその風土と文化ー』静岡新聞社、1980年8月25日、63-64頁。
- ^ a b 『静岡市史・近代 通史編』静岡市、1969年4月1日、922頁。
- ^ 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、98,122頁。
- ^ 『静岡産業年表 ー100年の歩みー』静岡商工会議所、1964年11月18日、92頁。
- ^ 『運輸審議会半年報 昭和29年7-12月』運輸大臣官房審理官室、1955年、105頁。
- ^ 『安倍川流域の民俗』静岡県立静岡高等学校郷土研究部、1980年3月20日、34頁。
- ^ 美和郷土誌編集委員会 編『美和郷土誌』美和郷土誌刊行委員会、1985年3月2日、360-361頁。
- ^ 美和郷土誌編集委員会 編『美和郷土誌』美和郷土誌刊行委員会、1985年3月2日、355頁。
- ^ 『運輸審議会半年報 昭和30年7-12月』運輸大臣官房審理官室、1956年3月、99頁。
- ^ a b 美和郷土誌編集委員会 編『美和郷土誌』美和郷土誌刊行委員会、1985年3月2日、355,422頁。
- ^ 『静岡市史 近代 史料編』静岡市、1969年4月1日、1256頁。
- ^ 美和郷土誌編集委員会 編『美和郷土誌』美和郷土誌刊行委員会、1985年3月2日、413,422頁。
- ^ 美和郷土誌編集委員会 編『美和郷土誌』美和郷土誌刊行委員会、1985年3月2日、423頁。
- ^ 美和郷土誌編集委員会 編『美和郷土誌』美和郷土誌刊行委員会、1985年3月2日、403頁。
- ^ 美和郷土誌編集委員会 編『美和郷土誌』美和郷土誌刊行委員会、1985年3月2日、405頁。
- ^ 鉄道省編纂 編『全国乗合自動車総覧 静岡県』鉄道公論社、24頁。
- ^ 『静岡市史 近代 史料編』静岡市、1969年4月1日、1255頁。
- ^ 『激動の昭和史 : 静岡県(下巻 戦後編)』静岡新聞社、1977年5月19日、96頁。
- ^ 『<ポケット社史>静岡鉄道』ダイヤモンド社、1969年4月10日、123頁。
- ^ 『静苑 第二十九号』静岡鉄道、1963年7月25日、6頁。
- ^ a b 『しずてつニュース第4号 特集 静波 相良 御前崎の海』静岡鉄道、1967年7月1日。
- ^ 『静岡年鑑 1964年版』フジPRプロ、1964年6月25日、335頁。