コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

19世紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
十九世紀から転送)
千年紀: 2千年紀
世紀: 18世紀 - 19世紀 - 20世紀
十年紀: 1800年代 1810年代 1820年代 1830年代 1840年代
1850年代 1860年代 1870年代 1880年代 1890年代
日本の元号: 寛政 - 享和 - 文化 - 文政 - 天保 - 弘化 - 嘉永 - 安政 - 万延 - 文久 - 元治 - 慶応 - 明治
19世紀に君臨した大英帝国
大英帝国の首都ロンドン。1837年から始まるヴィクトリア女王の治世にこの国は絶頂期を迎え、首都ロンドンの装いも新たにされた。画像はテムズ川の畔に建つウェストミンスター宮殿(国会議事堂)と大時計塔(ビッグ・ベン)。
ヴィクトリア時代の中産階級。ヴィクトリア女王のモラル重視とお上品ぶりは新興市民層の趣味に合致し、芸術面では保守的なアカデミズムが美の規範となった。画像はこの時代に風俗画で一世を風靡したウィリアム・フリスの「ロイヤル・アカデミーの招待日1881年」。
ロンドンのスラム街。産業革命により都市人口が急速に増えたロンドンでは、貧困層の住民の劣悪な生活環境が大きな問題となった。画像はジャーナリストウィリアム・ブランチャード・ジェロルド英語版『ロンドン巡礼』からホワイトチャペルのウェントワース通りを描いたギュスターヴ・ドレの挿絵。

19世紀(じゅうきゅうせいき)は、西暦1801年から西暦1900年までの100年間を指す世紀

19世紀の歴史

[編集]

国民国家の成立

[編集]
フランス7月革命。ヨーロッパでは革命により近代的な国家が生まれた。

西欧ではフランス革命の影響により自由主義ナショナリズムが広がった。19世紀初頭のナポレオンの興亡や反動的なウィーン体制、「諸国民の春」や数々の市民革命の勃発の後、ナショナリズムの高揚によりドイツイタリアなどの新たな統一された強力な国家が登場した。 またナポレオン戦争による混乱に乗じて1810年代から1820年代にはスペインポルトガルの支配からラテンアメリカ諸国が各地で独立した。しかし大土地所有者の優遇やモノカルチャー栽培などで独立してからも近代化は進まず、欧米列強への従属がこの後も長く続いた(非公式帝国)。

帝国主義の興隆

[編集]
インド大反乱。アジア・アフリカ諸国には苦渋の時代であった。

19世紀のイギリス工業化による生産力の増大により得た、圧倒的な経済力と軍事力で世界の覇権を握った。イギリスは時には武力をも用いて世界各国に自由貿易を認めさせ、イギリスを中心とした国際経済体制に世界を組み込んでいった(パクス・ブリタニカ)。この過程で、大陸国家であるロシア海洋国家のイギリスとの間に度重なる衝突が発生し、20世紀における世界大戦の遠因が形成された。

アジアアフリカにとっては苦渋の時代であり、トルコタイ王国などの国では西欧文化を取り入れ近代化が試みられた。清の半植民地化が実質的に始まったのは、アロー戦争敗北後に天津条約北京条約を締結してからである。オスマン帝国もヨーロッパ諸国による介入でギリシャ独立戦争において敗北し、ムハンマド・アリーエジプトでの台頭を止めることが出来なかった。インドではイギリスが19世紀にマラーター戦争シク戦争を行い、インドを植民地化した。1857年にはインド大反乱が勃発したが、翌年にイギリスはこれを鎮圧し、ムガル帝国は終焉を迎えた。

日本でも1853年アメリカペリー浦賀に来航、江戸幕府開国を認めさせ、日本も欧米を中心とした世界経済に組み込まれた。1868年には長らく続いた幕藩体制は崩壊し(明治維新)、新たに発足した明治政府は欧米文化を摂取して急速な近代化を目指した。19世紀末には、近代化に成功した日本やタイ王国などの一部の国以外は、西欧列強の植民地にされるか、強い影響下におかれた。

列強の植民地争奪戦

[編集]

19世紀中頃に、フランスプロイセン王国を中心としたドイツ諸邦アメリカ合衆国はイギリスに続いて工業化を推し進めた。こうした後進産業国では政府の強力なリードのもとで産業育成がなされた。19世紀の末期には資源の豊富なアメリカ合衆国や重化学工業分野が成長したドイツの発展が著しく、事実上イギリスの覇権は崩れた(第二次産業革命参照)。これにより1870年代の露土戦争前後から19世紀末にかけて列強の植民地争奪競争がおこなわれた。日本も日清戦争などを通じ、こうした植民地争奪戦に乗り出していく。

できごと

[編集]
蒸気機関車ロバート・スチーブンソンロケット号」。

1800年代

[編集]
江戸時代の旅行ブーム。1802年には十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の刊行が始まり、文化文政時代のおおらかな気風も相まって各地への旅行が庶民でも楽しまれるようになった。画像は歌川広重の「東海道五十三次」の「日本橋」。
阮朝越南の成立。黎朝衰退後に台頭した西山三兄弟を倒し、阮福映は嘉隆帝と名乗ってベトナム全土を統一した。画像は首都の順化(ユエ)に今も残る順化皇城の延寿宮中国語版
ナポレオン1世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠
ウィリアム・ターナーの「トラファルガーの海戦イギリス国立海洋博物館英語版蔵)」。
ゴヤの「マドリード、1808年5月3日(プリンシペ・ピオの丘での虐殺)」。

1810年代

[編集]
ドローレスの叫び」。メキシコでは植民地支配を覆すべく独立運動がミゲル・イダルゴ神父らによって始められた。画像はグアダラハラのハリスコ市庁舎壁画にホセ・クレメンテ・オロスコによって描かれたイダルゴ神父。
シタデルの虐殺。エジプト総督ムハンマド・アリーはアラビア半島遠征への壮行会に乗じてこの国の支配者層であるマムルークを虐殺し、権力基盤を固めた。
ナポレオンのロシア遠征。画像はアドルフ・ノーザンの「ナポレオンのモスクワからの退却」。
革命への反動。画像はウィーン会議の様子を描いたJ.B.Isabenの絵画。
ナポレオン戦争の終結。画像はワーテルローの戦い
メデューズ号の筏」。モーリタニア沖での難破で船員147名のうち15名しか生存しなかった。画像はこの事件を描いたフランス人画家テオドール・ジェリコーのもの(ルーブル美術館蔵)。
パンジャーブシク王国。イギリスのインド進出に最後まで抵抗したのがシク王国である。画像は国王ランジート・シングの宮廷(ダルバール)を描いた細密画。

1820年代

[編集]
ギリシア独立戦争。画像はウジェーヌ・ドラクロワの「キオス島の虐殺」。
グアヤキルの会談。スペイン支配からラテンアメリカを別個に独立させてきた二人の指導者ホセ・デ・サン・マルティンとシモン・ボリーバルがこの地で会見した。
清におけるアヘンの輸入超過。1820年代後半にはアヘン密輸により清の財政悪化が懸念され始めた。画像はアヘン吸引をする清の庶民。

1830年代

[編集]
ポーランドの十一月蜂起。ポーランド人はロシアの支配からの独立を求めたが鎮圧される。この知らせを受けたショパン革命のエチュードを作曲した。
画狂人北斎。数ある浮世絵師の中でも市井の中で90歳近くまで絵筆をとり続けていた北斎は構図や構想では群を抜いており海外での評価も高い。画像は1831年頃に出版された葛飾北斎の「富嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」。
ウジェーヌ・ドラクロワ「アルジェの女たち」。1834年に描かれたこの作品はロマン主義の異国趣味を示すとともに、東方世界を退廃的で官能的なものと見なす「オリエンタリズム」を示す作品でもある(ルーヴル美術館蔵)。
帆船から蒸気船へ。交通革命により蒸気機関が搭載された船が海の主役になった。画像はウィリアム・ターナーの「戦艦テメレール号ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵)」でトラファルガー海戦で戦った名だたる戦艦が蒸気船に引かれて解体されに向かうところである。
チャーティスト運動。1838年には「人民憲章」がまとめられ更なる選挙権の拡大が唱えられた。

1840年代

[編集]
アヘン戦争。イギリスの砲撃により大破する清の軍艦。
ビーダーマイヤー時代。ウィーン体制の相対的安定は政治や国際情勢ではなく小市民としての平穏な生活を優先する人々の嗜好に合致していた。画像はビーダーマイヤー時代を代表するドイツ人画家カール・シュピッツヴェークの「日曜日の散歩」。
天保の改革。老中水野忠邦によるこの改革は性急で厳格なものであったため、江戸では庶民の怨嗟の声が満ち溢れた。画像は浮世絵師歌川国芳の「源頼光公館土蜘作妖怪圖 」で江戸庶民の不満を妖怪に見立て、頼光四天王を当時の幕閣に見立て批判している。
ジャガイモ飢饉。連合王国に併合されたアイルランドでは、その弊害としてイギリスに住む不在地主の搾取により大飢饉が発生し人口が激減した(1841年 - 1851年)。
諸国民の春。1848年のベルリンにおける三月革命。同時期にウィーンでも革命が起こり宰相メッテルニヒはイギリスに亡命しウィーン体制は崩壊した。

1850年代

[編集]
第一回万国博覧会。ロンドンで行われガラスと鋼鉄でできた水晶宮が話題となった。
白衣の天使。イスタンブール近郊のスクタリにてクリミア戦争での負傷兵を見舞うフローレンス・ナイチンゲール
オスマン帝国の改革。クリミア戦争を乗り切ったオスマン帝国はアブデュルメジト1世のもと大胆な近代化に取り組んだ。かつてのトプカプ宮殿から西欧化されたドルマバフチェ宮殿への移動もその流れの一つである。画像はこの宮殿の「儀式の間」。
パリ大改造。ナポレオン3世により生まれ変わったパリは近代都市計画の模範となった。画像はカイユボットの「パリの通り、雨の日」。
黒船来航ペリー司令長官率いるアメリカ東インド艦隊の出現は200年以上続いた日本の「泰平の世」を揺るがした。画像は1854年に再び日本を訪れて横浜に上陸したペリー一行を描いたもの。

1860年代

[編集]
エジプトのサムライたち。徳川幕府がフランスに派遣した横浜鎖港談判使節団の一行がスフィンクス像前で撮った写真。
太平天国の乱の顛末。拝上帝会洪秀全を天王とする宗教運動はやがて清朝を揺るがす大反乱へと発展した。画像は1864年の天京攻防戦で、この戦いで太平天国は清朝に殲滅されたのである。
同治中興。アロー戦争後に即位した同治帝の時代から清朝では洋務運動と呼ばれる近代化が進められた。画像は漢人官僚の李鴻章が1865年に南京に作らせた金陵機器製造局の写真。
メキシコ出兵。この失敗により大西洋を越えたナポレオン3世の遠大な野望は潰え、彼自身の求心力の低下にもつながった。画像はエドゥアール・マネの描いた「メキシコ皇帝マクシミリアンの処刑(マンハイム市立美術館蔵)」。
大政奉還。江戸幕府15代将軍徳川慶喜は倒幕運動の高まりの中で朝廷に政権を返上する決断を下した。画像は邨田丹陵 の歴史画「大政奉還図(聖徳記念絵画館蔵)」で京都二条城に集まった慶喜と諸藩重臣たちが描かれている。
スエズ運河開通。この運河によりヨーロッパからアジアへの航路は大幅に短縮された。
最初の大陸横断鉄道。大西洋側と太平洋側から伸びた鉄路がプロモントリーサミットで結ばれた。写真はこの地での1869年5月10日の開通記念式典の模様。

1870年代

[編集]
ドイツ帝国の成立。ドイツ皇帝の戴冠式は普仏戦争に敗れたフランスのヴェルサイユ宮殿鏡の間で行われた。画像はアントン・フォン・ヴェルナーによるもの(ビスマルク博物館ドイツ語版蔵)。
第二次産業革命。科学技術の発展とその組織化により動力に石油・電気が用いられるようになり、工業は大規模なものとなった。特に統一後のドイツの革新が世界を席巻した。画像はドイツ人画家アドルフ・フォン・メンツェルの「鉄圧延機工場」。
ベルリン会議露土戦争後のこの会議によって列強諸国による地域分割の原則が確定した。
アラジンに扮したディズレーリが、ヴィクトリア女王にイギリスの王冠とインドの皇帝冠を交換するよう迫る様子を描いた風刺画(1876年)。

1880年代

[編集]
皇帝アレクサンドル2世の暗殺。農奴解放令を始めとする大改革に取り組んだアレクサンドル2世ではあったが、現状に不満を持つ急進派の標的とされあえなく絶命した。画像はサンクトペテルブルクでの爆発による皇帝暗殺の様子を描いたもの。
世界に広がる浮世絵。浮世絵はヨーロッパ諸国のジャポニズム(日本趣味)に影響を与えた。画像は1887年に描かれたフィンセント・ファン・ゴッホの「タンギー爺さん」。
ノイシュヴァンシュタイン城。プロイセンによるドイツ統一に屈服したバイエルン国王ルートヴィヒ2世による城。中世の君侯に憧れ次第に精神を病んでいった王の夢の城とされている。画像は1890年代の城の写真。
ニューヨークの自由の女神。アメリカ独立100周年を祝ってフランスからアメリカ合衆国に贈られた女神像。19世紀末までにはアメリカ合衆国は世界最大の工業国となり、新天地を求めた多くの移民がこの女神像を眺めつつ入国していった。
大日本帝国憲法の発布。「憲法発布略図」楊洲周延画。

1890年代

[編集]
ゴーギャンとタヒチ。フランスのポスト印象主義の画家ゴーギャンは新天地を求めタヒチへ旅立った。タヒチは必ずしも楽園とばかりは言えずゴーギャンは無理解と貧困に苦しめられたがその画業は深められた。画像は「三人のタヒチ人」(スコットランド国立博物館蔵)。
日清戦争。日本の勝利と清の敗北により東アジアの冊封体制は崩壊することになる。画像は小林清親の「於黄海我軍大捷 第一図」。
中国分割に乗り出した列強諸国の諷刺画。
映画の誕生。フランス人のリュミエール兄弟によるこの発明はメディアの可能性を一挙に広げるものとなった。
アール・ヌーヴォー様式。世紀末には曲線を利用したフランス語で「新しい芸術」を意味するアール・ヌーヴォーが各地に拡がった。画像はヴィクトール・オルタの設計によるベルギーブリュッセルタッセル邸の内部。

1900年代

[編集]

伝説・架空のできごと

[編集]
  • 1803年 - 享和3年常陸国鹿島郡のとある旗本の知行地の浜に虚舟(うつろぶね)が現れた。虚舟は鉄でできていて、その壁面には文字が書かれており、窓があって、球状であった。中には異国風の女性が乗っており、箱を持っていたという(曲亭馬琴の随筆『兎園小説』に「虚舟の蛮女」との題で図版とともに収録されている。その他に屋代弘賢『弘賢随筆』にも記録と図版あり)。
  • 1820年 - 七歳の時に神隠しに遭い行方不明だった江戸下谷七軒町の寅吉がこの年(文政3年)帰宅する。寅吉が語るところでは空を飛ぶ杉山僧正に連れられ常陸国岩間山で天狗の修行をしていたという(平田篤胤仙境異聞』)。
  • 1846年 - 弘化3年4月肥後国の海中に光る物体が出現。役人が見聞する記録では、それは半人半魚の風体で「アマビエ」と名乗り、豊作と疫病の流行を予言。疫病を防ぐため自らの姿を描いた絵を人々に見せよと告げた、と言う(京都大学附属図書館所蔵の瓦版)。

文化

[編集]

文学

[編集]

音楽

[編集]
ワルツを踊る人々

思想

[編集]

科学

[編集]

技術

[編集]

人物

[編集]

ヨーロッパ

[編集]

政治家・王族

[編集]
ナポレオン・ボナパルト。画像はダヴィッド「アルプス越えのナポレオン」。
ウイーン体制の立役者であるオーストリア宰相メッテルニヒ
サルデーニャを中心としたイタリア統一を果たした宰相カヴール
イタリア独立戦争で両シチリア王国を屈服させたジュゼッペ・ガリバルディ
ナポレオン3世(左)とビスマルク(右)。
1900年のホーフブルク宮殿における宮廷舞踏会にて参加者に取り巻かれたオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
種の起源』で進化論を唱えたチャールズ・ダーウィン
閣僚に奴隷解放宣言の初稿を提示するアメリカ大統領エイブラハム・リンカーン
ハイチの独立指導者トゥーサン・ルーヴェルチュール
ハワイ王国最後の女王リリウオカラニ
暗黒大陸と呼ばれていたアフリカで宣教活動を行い現地の探検を行ったデイヴィッド・リヴィングストン
アフリカを南北にまたぐセシル・ローズ
ハルツームの戦いでマフディー軍に包囲されるゴードン将軍
エチオピア皇帝の正装をしたメネリク2世
ナポレオン3世と会見する「アルジェリア民族運動の父」アブド・アルカーディル
エジプトの近代化を推進したムハンマド・アリー
ギュルハネ勅令を出して恩恵改革(タンジマート)を行いドルマバフチェ宮殿を建設させたオスマン帝国のアブデュルメジト1世
インド大反乱で担ぎ上げられたものの廃位されミャンマーに流された最後のムガル皇帝バハードゥル・シャー2世
チャクリー改革を行いタイ王国の独立を維持したラーマ5世(チュラーロンコーン)。
マレー半島南端にシンガポールを開港したイギリス人のトーマス・ラッフルズ
フィリピンの独立のためにスペイン植民地政府に銃殺されたホセ・リサール
清朝末期の政局を左右した西太后(慈禧太后)。
フランス
[編集]
オーストリア=ハンガリー
[編集]
ロシア
[編集]
イギリス
[編集]
ドイツ(プロイセンほかドイツ領邦を含む)
[編集]
北欧
[編集]
イタリア
[編集]
スペイン
[編集]
ベルギー
[編集]
ギリシア
[編集]

軍人

[編集]

実業家

[編集]

科学と技術

[編集]

思想と哲学・人文諸学

[編集]

宗教

[編集]

文学

[編集]

美術

[編集]

音楽

[編集]

社会事業家

[編集]

探検家・旅行家

[編集]

料理

[編集]

その他

[編集]

アングロアメリカ

[編集]

ラテンアメリカ

[編集]

サハラ以南のアフリカ

[編集]

西アジアと北アフリカ

[編集]

南アジア

[編集]

東南アジア

[編集]

オセアニア

[編集]

東アジア

[編集]

[編集]

越南

[編集]

日本

[編集]

19世紀生まれの最後の生き残り

[編集]

1900年生まれが104歳となる2004年頃より19世紀生まれの男性がゼロになった県が出て、108歳となる2008年頃より19世紀生まれの人物がゼロになった県が出ていた。

2013年6月12日、日本の木村次郎右衛門(男性での史上最高齢者)が116歳と54日で死去し、19世紀生まれの男性は全員がこの世を去った。一方、2017年4月15日にはエンマ・モラーノが117歳と137日で死去し、1800年代生まれの人物は全員がこの世を去った。なお、日本最後の1800年代生まれの人物は2015年4月1日に117歳と27日で死去した大川ミサヲである。これで19世紀生まれは残り2人(ヴァイオレット・ブラウン田島ナビの2人、いずれも女性)となった。さらに同年9月15日にブラウンが117歳と189日で死去したため、田島が19世紀生まれの最後の生き残りとなった。そして2018年4月21日午後7時58分、田島が117歳と260日で死去したことにより、生年月日に確実な証拠のある19世紀生まれの人物は全員この世を去ったこととなった[2]。田島は死亡時点で日本歴代最長寿者であり、世界全体でも史上3番目の長寿記録を保持していた。

脚注

[編集]
注釈
  1. ^ ただし、この時点ではA型、B型、C型の3つであるとされた。
出典
  1. ^ ウィンチェスター, サイモン著、野中邦子訳『世界を変えた地図 - ウィリアム・スミスと地質学の誕生 -英語版早川書房、2004年7月、ISBN 978-4-15-208579-5、65-66頁。
  2. ^ (英語) Validated Living Supercentenarians”. Gerontology Research Group. 2018年4月22日閲覧。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
  • ウィキメディア・コモンズには、19世紀に関するカテゴリがあります。