姫路新田藩
姫路新田藩(ひめじしんでんはん)は、播磨姫路藩の新田支藩だった藩。歴代藩主の多くが部屋住みか短命だったため、かつ内分分知であったため、具体的な領地についてはほとんど不明であり、大名に列するも江戸定府で居所はなく、そのため便宜上「新田藩」と呼称される。
藩史
[編集]元和3年(1617年)に姫路藩に入った本多忠政(本多忠勝の嫡子)は、その所領は15万石ほどであった。しかし、このときに忠政の子 ・本多忠刻に父とは別に10万石を与えられた。忠刻の妻が徳川秀忠の娘・千姫(もとは豊臣秀頼の正室で、秀頼死後に嫁いだ)だったからである。しかし忠刻は父に先立って寛永3年(1626年)に早世する。このため忠刻の遺所は、忠刻の弟で部屋住みであった本多政朝が5万石、同じく部屋住みで弟の本多忠義に4万石、残る1万石は播磨龍野藩主であった小笠原長次[1]の所領として組み込まれるなど、分割して相続された。
寛永8年(1631年)に忠政が死去して政朝が姫路藩主となると、その所領5万石のうち4万石は忠政の弟・本多忠朝の次男・本多政勝(忠朝が大坂の陣で戦死したため、政朝の養子となる)に与えられ、残る1万石は忠義に与えられた。寛永15年(1638年)に政朝が死去すると、政勝が跡を継いだが、幼少のために大和郡山藩に移される。このとき、政勝が姫路新田藩領として領していた4万石は大和に移され、また忠義の5万石も忠義自身が遠州掛川藩に移封されたため、廃藩となった。
本多家の後に姫路に入った奥平松平家では、正保元年(1644年)6月、姫路18万石の藩主・松平忠明の跡を継いだ松平忠弘が、18万石のうち3万石を弟の松平清道に分与し、再び姫路新田藩が立藩する。しかし清道は同年12月に死去した上に嗣子がなかったため、1年足らずで廃藩となった。
その後、最後の姫路藩主家として入った酒井家では、酒井忠恭の子・酒井忠交が明和7年(1770年)閏6月23日、父から1万石を分与されて姫路新田藩を立藩する。帝鑑間詰の定府大名であったが、第3代藩主・酒井忠全が文化14年(1817年)11月に3歳で死去した。嗣子がいるはずもなく、姫路新田藩は完全に廃藩となった。
歴代藩主
[編集]本多家
[編集]10万石→5万石と4万石→4万石と5万石。譜代。
松平(奥平)家
[編集]3万石。譜代。
酒井家
[編集]1万石。譜代。