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{{Infobox baseball player |
{{Infobox baseball player |
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|選手名 |
| 選手名 = 大石 大二郎 |
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|所属球団 |
| 所属球団 = |
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|役職 |
| 役職 = 監督 |
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|背番号 |
| 背番号 = |
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| 国籍 = {{JPN}} |
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|選手写真ファイル名 = |
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| 出身地 = [[静岡県]][[静岡市]]<br />(現・同市[[駿河区]]) |
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|写真サイズ = |
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| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1958|10|20}} |
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|写真のコメント = |
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| 没年月日 = |
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|国籍 = {{JPN}} |
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| 身長 = 166 |
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|出身地 = [[静岡県]][[静岡市]][[駿河区]] |
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| 体重 = 71 |
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|生年月日 = {{生年月日と年齢|1958|10|20}} |
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| 利き腕 = 右 |
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|没年月日 = |
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| 打席 = 右 |
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|身長 = 166 |
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| 守備位置 = [[二塁手]] |
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|体重 = 71 |
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|プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1980}} |
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|利き腕 = 右 |
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| ドラフト順位 = ドラフト2位 |
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|打席 = 右 |
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| 初出場 = 1981年4月8日 |
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|守備位置 = [[二塁手]] |
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| 最終出場 = 1997年9月11日(公式戦最後)<br />1998年3月14日(引退試合) |
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|プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1980}} |
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| 経歴 = |
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|ドラフト順位 = ドラフト2位 |
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|初出場 = 1981年4月8日 |
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|最終出場 = 1997年9月11日 |
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|年俸 = |
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|経歴 = <nowiki></nowiki> |
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* [[静岡県立静岡商業高等学校]] |
* [[静岡県立静岡商業高等学校]] |
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* [[亜細亜大学硬式野球部|亜細亜大学]] |
* [[亜細亜大学硬式野球部|亜細亜大学]] |
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* [[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]] (1981 - 1997) |
* [[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]] (1981 - 1997) |
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|経歴補足題 |
| 経歴補足題 = 監督・コーチ歴 |
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|経歴補足 |
| 経歴補足 = |
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* 大阪近鉄バファローズ (2003 - 2004) |
* 大阪近鉄バファローズ (2003 - 2004) |
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* [[オリックス・バファローズ]] (2005 - 2009) |
* [[オリックス・バファローズ]] (2005 - 2009) |
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* [[福岡ソフトバンクホークス]] (2010 - ) |
* [[福岡ソフトバンクホークス]] (2010 - 2013) |
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* [[新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ|新潟アルビレックスBC]] (2016) |
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|選出国 = |
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* [[ジェイプロジェクト硬式野球部|ジェイプロジェクト]] |
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'''大石 大二郎'''(おおいし だいじろう、 [[1958年]][[10月20日]] - )は、[[静岡県]][[静岡市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[内野手]])、[[プロ野球監督]]、野球指導者、[[野球解説者]]、[[野球評論家]]。{{by|1987年}}から{{by|1990年}}までの[[登録名]]は'''大石 第二朗'''(読み同じ) |
'''大石 大二郎'''(おおいし だいじろう、 [[1958年]][[10月20日]] - )は、[[静岡県]][[静岡市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[内野手]])、[[プロ野球監督|監督]]、野球指導者、[[野球解説者|解説者]]、[[野球評論家|評論家]]。{{by|1987年}}から{{by|1990年}}までの[[登録名]]は、'''大石 第二朗'''(読みは同じ)。 |
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現在は[[福岡ソフトバンクホークス]]のヘッドコーチを務める。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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=== アマチュア時代 === |
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[[静岡県立静岡商業高等学校|静岡商業高校]]時代は、[[第56回全国高等学校野球選手権大会|1974年夏]]と[[第47回選抜高等学校野球大会|1975年春]]に甲子園出場。[[久保寺雄二]](のち[[福岡ソフトバンクホークス|南海]])は同級生。 |
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[[静岡県]][[静岡市]]で、鮮魚の小売・仕出し業を営む家庭に生まれた<ref name="asahi_19980614">朝日新聞、1998年06月14日付朝刊、静岡地方面</ref>。中学校(静岡市立高松中学)では2学年上の兄が野球部主将を務めており、同じ部となる事を嫌がられたため当初は[[柔道|柔道部]]に入ったが、考えを改めて6月には野球部に移り本格的な野球を始めている<ref name="asahi_19980614" />。 |
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高校も兄と同じ[[静岡県立静岡商業高等学校|静岡商業高校]]に進み、部員50人を超す大所帯で1年生の夏からベンチ入り。[[第56回全国高等学校野球選手権大会|1974年夏の選手権]]に出場し、大石本人の出場機会はなかったものの、3年生のエース[[高橋三千丈]]の力投もありベスト8進出。翌年は1番打者として[[第47回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]に出場し、ベスト8進出に貢献している。3年生時には同級生で後にプロとなる[[久保寺雄二]]が[[遊撃手]]を務め、自身は3番・[[三塁手]]となりチームは県予選で本命視されていた。しかし一学年上の先輩が1月末に他校の生徒と喧嘩をしていたことが4月に発覚し、チームは夏の県大会に出場できなかった<ref name="asahi_19980614" />。 |
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高校卒業後は[[亜細亜大学]]に進学。東都大学リーグ通算91試合出場、344打数99安打、打率.288、4本塁打、25打点、44盗塁。ベストナイン2回。{{by|1979年}}春季のリーグでは17盗塁をマークし当時のリーグ新記録を樹立(1987年春季のリーグで[[野村謙二郎]]が18盗塁を記録してリーグ記録を更新する)。 |
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高校卒業後は[[競輪選手]]になる事を考えていたが、父親の勧めで[[亜細亜大学]]に進学<ref name="base_19971201_115">週刊ベースボール、1997年12月1日号、P.115</ref>。{{by|1979年}}の3年次の春季リーグ戦では17[[盗塁]]をマークし、当時の[[東都大学野球連盟|東都大学リーグ]]新記録を樹立した{{Efn2|1987年の春季リーグ戦で[[野村謙二郎]]([[駒澤大学硬式野球部|駒沢大学]])が18盗塁し、記録を更新している。}}。大学4年間では通算91試合出場、344打数99安打、[[打率]].288、4[[本塁打]]、25[[打点]]、44盗塁を記録している。また、ベストナインには2回選出されている(1979年春には二塁手で、1980年秋には[[遊撃手]]で受賞。)。大学卒業後は今度こそ競輪選手になるつもりだった<ref name="base_19880110_36">週刊ベースボール、1988年1月10日号、P.36</ref>が、[[1980年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1980年のドラフト会議]]で[[近鉄バファローズ]]に[[武藤一邦]]のハズレ2位で指名<ref>「指名選手一覧表」『[[北海道新聞]]』(縮刷版) 1980年(昭和55年)11月27日付朝刊、15面(スポーツ面)。</ref>され、野球部総監督の[[矢野祐弘]]の勧めもあり近鉄に入団した。契約金は3000万円、年俸は330万円(金額は推定)<ref>「プロ野球情報 亜大の大石が入団」『北海道新聞』(縮刷版) 1980年(昭和55年)12月14日付朝刊、14面(スポーツ面)。</ref>。 |
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=== 選手時代 === |
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{{by|1980年}}の[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト]]2位で[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]に入団。1年目の{{by|1981年}}は[[代走]]や[[守備固め]]の出場が多く、77試合の出場で打数はわずか19であった。翌{{by|1982年}}に打率.274、12本塁打、47盗塁の成績で[[最優秀新人 (野球)|新人王]]を獲得。{{by|1983年}}には60盗塁で[[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]のタイトルを獲得し、[[福本豊]]の連続盗塁王記録を13年で止めた。通算では盗塁王のタイトルを4度獲得。34歳で開幕迎えた{{by|1993年}}に盗塁王を獲得し、1982年の福本の[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]史上最年長記録、[[柴田勲]](1978年)と並び[[日本プロ野球]]最年長記録に並んだ。[[大阪ドーム]]元年の{{by|1997年}}限りで[[現役引退]]。 |
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=== プロ野球選手時代 === |
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身長166cmと体格には恵まれなかったが、優れた守備、走塁の技術と、{{by|1984年}}には29本塁打を記録などの長打も期待できる打撃で、近鉄の1番打者として長く活躍した。その活躍ぶりから、ファンからは「近鉄史上最高の1番打者」「近鉄史上最高の二塁手」と称えられている。 |
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{{by|1981年}}は[[代走]]や[[守備固め]]の出場が多く、77試合の出場で[[打数]]はわずか19だった。同年は[[西本幸雄]]の監督最終年で、無我夢中のまま厳しい練習で鍛えられた<ref name="base_19971201_115" />。 |
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{{by|1982年}}は[[オープン戦]]で負傷した[[二塁手]]の[[ビクター・ハリス]]が[[外野手]]にコンバートされると、オープン戦で3割以上の高打率を記録して二塁手のレギュラーとなる<ref name="base_19971201_115" />。同年はレギュラーシーズンで打率.274、12本塁打、47盗塁の成績を残し、[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]と[[ゴールデングラブ賞|ダイヤモンドグラブ賞]]を獲得した<ref name="doushin 1982.11.02">「新人王は大石(近鉄)津田(広島)」『北海道新聞』(縮刷版) 1982年(昭和57年)11月2日付朝刊、15面(スポーツ面)。</ref>。オフの12月12日の契約更改では約164パーセント増の年俸1000万円(推定)でサインした<ref>「プロ野球情報 満足と新人王大石」『北海道新聞』(縮刷版) 1982年(昭和57年)12月13日付朝刊、14面(スポーツ面)。</ref>。 |
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[[1984年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1984年のオールスターゲーム]]第3戦で、それまで8連続奪三振を続けていた[[江川卓 (野球)|江川卓]]と対戦し、セカンドゴロを打って9連続奪三振の記録を阻止した。 |
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{{by|1983年}}、7月14日の対[[西武ライオンズ]]戦([[日本生命球場|日生球場]])では6回一死満塁の打席で[[木村広]]から[[満塁本塁打]]を放った<ref>「"ブチ"抜きなら負け」『北海道新聞』(縮刷版) 1983年(昭和58年)7月15日付朝刊、13面(スポーツ面)。</ref>。シーズンでは60盗塁で[[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]のタイトルを獲得し、[[福本豊]]の連続盗塁王記録を13年で止めた<ref name="doushin 1983.10.25">「セ・パ公式戦 全日程を終了 山本浩、大島 セ 本塁打王 パ 単独で門田 原、打点とV打の"二冠" 首位打者に真弓 落合は3年連続 最多勝利は東尾、山内和」『北海道新聞』(縮刷版) 1983年(昭和58年)10月25日付朝刊、15面(スポーツ面)。</ref>。同年から1番・二塁手に定着し、2年連続のダイヤモンドグラブ賞に加えて[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]にも選出された<ref>「山本浩最多の8度目 ベストナイン」『北海道新聞』(縮刷版) 1983年(昭和58年)11月10日付朝刊、15面(スポーツ面)。</ref><ref>「福本が12年連続 ダイヤモンド・グラブ賞 東尾ら4人、初受賞」『北海道新聞』(縮刷版) 1983年(昭和58年)11月17日付朝刊、15面(スポーツ面)。</ref>。オフの12月11日の契約更改では100パーセント増の年俸2000万円(推定)でサインした<ref>「二千万で一発更改 盗塁王の近鉄・大石」『北海道新聞』(縮刷版) 1983年(昭和58年)12月12日付朝刊、14面(スポーツ面)。</ref>。 |
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[[1989年の日本シリーズ]]で当時の本拠地・[[藤井寺球場]]にて同年の[[沢村栄治賞|沢村賞]]投手[[斎藤雅樹]]から同シリーズ史上唯一度の第1戦初回先頭打者ホームラン(同試合は大石の亜大の後輩で同僚の[[阿波野秀幸]]が3失点完投勝利、3連勝したが4連敗)。 |
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{{by|1984年}}も盗塁王、ダイヤモンドグラブ賞、ベストナインを獲得<ref name="doushin 1984.10.01">「ブーマー、外人初の三冠王 「パ」公式戦日程終了 最多V打も制す 投は今井二冠 防御率、最多勝」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)10月1日付朝刊、15面(スポーツ面)。</ref><ref>「高沢(ロッテ)初の栄誉 若松最多九度目 ベストナイン」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)10月25日付朝刊、15面(スポーツ面)。</ref><ref>「簑田、7度目の栄冠 ダイヤモンド・グラブ賞 高沢(ロッテ)初の受賞」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)11月17日付朝刊、15面(スポーツ面)。</ref>し、[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]を代表する二塁手となっていった。[[1984年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1984年のオールスターゲーム]]第3戦([[ナゴヤ球場]])ではそれまで8連続奪三振を続けていた[[江川卓 (野球)|江川卓]]と対戦して二ゴロを放ち、[[江夏豊]]に並ぶ9連続奪三振の記録を阻止した<ref>「"快投乱麻"江川ひとり舞台 8連続奪三振 MVP 掛布V打 中畑とどめの一発」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)7月25日付朝刊、15面(スポーツ面)。</ref>。オフの12月5日の契約更改では60パーセント増の年俸3200万円(推定)でサインした<ref>「大石は一発サイン」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)12月6日付朝刊、15面(スポーツ面)。</ref>。 |
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=== コーチ・監督時代 === |
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引退後は[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]、[[日刊スポーツ]]の野球解説者を経て、{{by|2003年}}から近鉄の守備走塁コーチ。 |
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{{by|1985年}}には、高校時代からの同級生で[[南海ホークス]]に入団していた久保寺雄二が急死。大石は1月8日に葬儀に参列し、号泣しながら弔辞を読み上げた。4月25日の対[[南海ホークス]]戦([[藤井寺球場]])では6-6の同点で迎えた9回無死無走者の打席で[[畠山準]]から[[サヨナラゲーム|サヨナラ]]本塁打を放った<ref>「大石、サヨナラ2号」『[[読売新聞]]』(縮刷・関東版) 1985年(昭和60年)4月26日付朝刊、16面。</ref>が、7月7日の対[[阪急ブレーブス]]戦で併殺プレーの際に左膝を痛め、検査の結果「左膝内側の靭帯損傷」と診断、翌8日に出場選手登録を抹消された<ref>「近鉄・大石、ケガで休養」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1985年(昭和60年)7月9日付朝刊、17面。</ref>。[[1985年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1985年のオールスターゲーム]]のファン投票では26万余票を集め、2年連続の最高得票者となったが、出場辞退した<ref>「近鉄・大石が球宴を辞退」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1985年(昭和60年)7月16日付朝刊、17面。</ref>。オフの12月6日の契約更改では11パーセント増の年俸3600万円(推定)でサインした<ref>「球界ルポ 梨田、捕手のNO1に」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1985年(昭和60年)12月7日付朝刊、17面。</ref>。 |
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{{by|2005年}}、[[オリックス・バファローズ (ファーム)|サーパス]]([[オリックス・バファローズ]]二軍)の総合チーフコーチに就任。[[加藤英司]]監督が腰痛のため休養した間には監督代行。{{by|2006年}}、サーパス監督に就任。例年下位に沈んでいたチームを上位争いに食い込ませた。{{by|2007年}}からは一軍のヘッドコーチ(2008年からは内野守備走塁コーチも兼任)に就任。{{by|2008年}}5月にはシーズン途中での[[テリー・コリンズ (野球)|テリー・コリンズ]]監督辞任により、一軍監督代行に就任した。 |
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{{by|1986年}}は全試合、全イニング出場<ref name="yomiuri 1986.12.19">「球界ルポ 18日 近鉄・大石5000万乗せ」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1986年(昭和61年)12月19日付朝刊、17面(スポーツ面)。</ref>。4月15日の対[[ロッテオリオンズ]]戦([[平和台野球場|平和台球場]])では1回表に[[荘勝雄]]から放った初回先頭打者本塁打<ref>「大石、苦手・荘カモに」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1986年(昭和61年)4月16日付朝刊、17面。</ref>を含む1試合3本塁打を放つが、チームは8-9で敗れた<ref>「ロッテ "ああ"初勝利 乱戦25安打 投手も10人 大石の3発実らず」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1986年(昭和61年)4月16日付朝刊、17面。</ref>。オフの12月18日の契約更改では45パーセント増の年俸5200万円(推定)でサインし、近鉄史上初の日本人野手の5000万円プレイヤーとなった<ref name="yomiuri 1986.12.19" />。 |
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そして就任後にオリックスが息を吹き返し、[[2008年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]争いに加わったことから8月2日には監督に昇格し、それと共に{{by|2009年}}も続けて指揮を執ることが発表された。これにより大石は近鉄OBとして初めてオリックス・バファローズの監督となった。そしてチームは大石が監督就任する直前の7月後半に自力1位は消滅しながらも調子を上げ、9月上旬に2位へ浮上するとそのままクライマックスシリーズ進出を決めたが、クライマックスシリーズは日本ハムに連敗して敗退した。初戦に先発が予想されていた[[小松聖]]を2戦目に先発させるなどの奇策を取ったがエラーなども重ねて敗退した。2008年秋のキャンプでは[[野茂英雄]]を臨時投手コーチとして招聘し、選手の間でも好評だった。特に[[加藤大輔]]は「今までの3年(の練習)を、ものの5分で超えてしまった」と発言して野茂の指導に感謝していた。 |
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{{by|1987年}}も全試合出場<ref name="yomiuri 1987.12.19">「球界ルポ 15日 近鉄・大石、現状維持でサイン」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1987年(昭和62年)12月16日付朝刊、17面(スポーツ面)。</ref>。9月14日に7歳年下の一般女性会社員の婚約を発表<ref name="mainichi 1987.09.15">「大石、心機一転 婚約と改名」『[[毎日新聞]]』(縮刷・関東版) 1987年(昭和62年)9月15日付朝刊、19面(スポーツ面)。</ref>。翌15日より登録名を「'''大石第二朗'''」に変更<ref name="mainichi 1987.09.15" />。シーズンでは[[西村徳文]](ロッテ)と並ぶ41盗塁で3回目の盗塁王を獲得した<ref name="doushin 1987.10.22">「首位打者・新井 本塁打王・秋山 パリーグの全日程終了」『北海道新聞』(縮刷版) 1987年(昭和62年)10月22日付朝刊、15面(スポーツ面)。</ref>が、この頃から右肩痛が続いたため、打率は.265と低下した<ref name="yomiuri 1987.12.19" />。オフの12月15日の契約更改では現状維持の年俸5200万円(推定)でサインした<ref name="yomiuri 1987.12.19" />。 |
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2009年は前年から投手コーチを務めている[[清川栄治]]、[[赤堀元之]]に加え、大石が現役時代が長年の付き合いがある[[佐々木修 (野球)|佐々木修]]を投手チーフコーチに迎え投手コーチ3人制としたが、投手陣不振のため佐々木は6月8日で二軍投手コーチに降格。清川が投手チーフコーチに昇格したがチーム防御率は最下位(12球団ワーストでもある)に低迷した。6月は4勝14敗と大きく負け越した。また4人の外国人選手全員([[タフィ・ローズ|ローズ]]、[[アレックス・カブレラ|カブレラ]]、[[グレッグ・ラロッカ|ラロッカ]]、[[ホセ・フェルナンデス|フェルナンデス]])が死球やファールボールで全員骨折し長期離脱した。結局、シーズン終了まで再浮上のきっかけをつかむことはできず2年ぶりの最下位に逆戻りとなり、その責任を取らされる形で解任となった。 |
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{{by|1988年}}は[[10.19]]の翌月に[[大阪厚生年金病院]]で右肩の手術を行い、12月8日には[[シェラトン都ホテル大阪|都ホテル大阪]]で結婚式を挙げている<ref name="base_19890501_53">週刊ベースボール、1989年5月1日号、P.53</ref>。 |
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2010年のシーズンからは[[福岡ソフトバンクホークス]]のヘッドコーチに就任している<ref>[http://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/4639.html 大石大二郎ヘッドコーチ入団のお知らせ]</ref>。 |
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{{by|1989年}}は年明けから夫人も帯同して[[ハワイ]]や[[サイパン]]で[[リハビリテーション|リハビリ]]に取り組み、その後もチームのキャンプには参加せず[[小松市]]の温泉で単独トレーニングを行った。8月3日の対[[オリックス・バファローズ|オリックス]]戦で右ふくらはぎの[[肉離れ]]が起きる<ref>「近鉄・大石第二朗内野手(三〇)が肉離れ」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1989年(平成元年)8月5日付朝刊、19面(スポーツ面)。</ref>など、同年は出場が109試合に減少したものの、打率.277などトップバッターとしてまずまずの働き<ref name="base_19900226_185">週刊ベースボール、1990年2月26日号、P.185</ref>でチームの優勝に貢献した。現役時代の出来事では、この優勝と前年の10.19が最も思い出に残っているという<ref name="base_19971201_116">週刊ベースボール、1997年12月1日号、P.116</ref>。なお、[[読売ジャイアンツ]]との[[1989年の日本シリーズ|同年の日本シリーズ]]初戦(藤井寺球場)では、[[斎藤雅樹]]からシリーズ史上唯一の第1戦初回先頭打者本塁打を放っている{{Efn2|日本シリーズで初回先頭打者本塁打は1988年の西武球場での[[中日ドラゴンズ|中日]]対西武第3戦で中日の[[彦野利勝]]が放って以来、史上10本目。表、裏の内訳は各5本。日本シリーズで初打席が初回先頭打者本塁打なのは1985年の[[阪神タイガース|阪神]]の[[嶋田宗彦]]以来、史上8人目。}}<ref>{{Cite news|url=https://bunshun.jp/articles/-/41791?page=1|title=近鉄・加藤哲郎が明かした「巨人はロッテより弱い」発言の真相|newspaper=文春オンライン|date=2020-11-25|accessdate=2020-12-01}}</ref><ref>「シリーズ記録 第1戦 大石の先頭打者本塁打」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1989年(平成元年)10月22日付朝刊、19面(スポーツ面)。</ref>。 |
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== 人物・家族 == |
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性格は折り目正しく礼儀を重んじる。打席に立った際には「だーいちゃーん!」コールが3回行われた後、[[鉄腕アトム]]が原曲の応援歌が流されるなど、ファンに親しまれた選手だった。 |
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{{by|1990年}}には肩が完全に回復してキャンプから順調な調整を見せ、6月26日の対ロッテ戦(日生球場)では3点を追う9回一死満塁の打席で[[伊良部秀輝]]から逆転サヨナラ満塁本塁打{{Efn2|NPBで逆転サヨナラ満塁本塁打は1988年7月30日の[[福良淳一]](阪急)以来で、史上19本目(18人目)。パ・リーグでは11本目<ref>「史上19本目の逆転サヨナラ満塁弾」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1990年(平成2年)6月27日付朝刊、19面(スポーツ面)。</ref>。}}<ref name="base_19971201_116" /><ref>「大石逆転サヨナラ満塁10号」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1990年(平成2年)6月27日付朝刊、19面(スポーツ面)。</ref>、7月13日の対[[日本ハムファイターズ]]戦(藤井寺球場)では1点を追う9回一死二塁の打席で[[西崎幸広]]からシーズン2本目のサヨナラ本塁打となる逆転サヨナラ2点本塁打を放っている<ref>「野茂50年ぶり新人新 11度目2ケタ奪三振 大石祝砲、逆転サヨナラ 近鉄8連勝」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1990年(平成2年)7月14日付朝刊、19面(スポーツ面)。</ref>。同年はリーグ2位となる打率.314、20本塁打という好成績を収めた。オフの12月25日の契約更改では1600万円増の年俸8400万円(推定)でサインした<ref>「ボクらも来年「一億」狙う 大石は8千万、高木は7千万円超す」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1990年(平成2年)12月26日付朝刊、19面(スポーツ面)。</ref>。 |
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大石は息子が2人おり、長男が競輪選手を目指している([[週刊ベースボール]]「2009年プロ野球選手名鑑」より)。 |
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{{by|1991年}}、5月16日の対西武戦(藤井寺球場)では1点を追う9回一死二塁の打席で[[石井丈裕]]から逆転サヨナラ2点本塁打を放った<ref>「西武サヨナラ負け 大石逆転2ラン 野茂3勝」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1991年(平成3年)5月17日付朝刊、18面(スポーツ面)。</ref>。 |
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{{by|1992年}}で[[新井宏昌]]が引退すると、[[山本和範]]が復帰する{{by|1996年}}までの間、チームの最年長選手となっている。また、同年の契約更改で年俸が1,300万円増の1億500万円(推定)となり、近鉄史上初の日本人の1億円プレイヤーとなった<ref>読売新聞、1992年12月20日付朝刊、P.14</ref>。 |
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{{by|1993年}}には6年ぶりとなる盗塁王を獲得<ref name="yomiuri 1993.10.20">「辻10年目、初の首位打者 本塁打 打点 ブライアント二冠 パの全日程終了」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1993年(平成5年)10月20日付朝刊、21面(スポーツ面)。</ref>し、同タイトルの最年長記録に並んだ{{Efn2|それまでの記録は1978年の柴田勲と1982年の福本豊。}}。 |
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{{by|1994年}}頃からは準レギュラーとなり、「40歳までの現役と2000安打の達成」を目標として掲げていた<ref name="base_19971201_114">週刊ベースボール、1997年12月1日号、P.114</ref>。 |
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{{by|1997年}}、5月15日の対[[福岡ダイエーホークス]]戦([[大阪ドーム]])では8回無死一塁の場面で、[[若井基安]]の中前へ抜けそうな打球に追いつき、一塁に悪送球してピンチを広げ、同点にされるが、4-4の同点で迎えた9回一死二塁の打席で[[ホセ・ヌーニェス (右投手)|ホセ・ヌーニェス]]からサヨナラ2点本塁打を放った<ref>「大石 38歳 サヨナラ2ラン エラー帳消し「夢みたい」 再浮上へ「のろし」」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1997年(平成9年)5月16日付朝刊、20面(スポーツ面)。</ref>。同年夏からは監督の[[佐々木恭介]]に起用される機会が急減し、9月には球団からも引退を勧められる雰囲気となった<ref name="base_19971201_114" />。このような球団の姿勢をあっさり受け入れ、同月20日に現役を引退している<ref>「大石が引退」『北海道新聞』(縮刷版) 1997年(平成9年)9月21日付朝刊、17面(スポーツ面)。</ref>。引退試合は翌{{by|1998年}}3月14日のオープン戦(対[[ヤクルトスワローズ|ヤクルト]])で行われた<ref name="shuube190314">{{Cite web|和書|title=大石大二郎が引退試合でライトへ鮮やかに快打(1998年3月14日) {{!}} 野球コラム|url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190314-10|website=週刊ベースボールONLINE|accessdate=2021-10-10|language=ja}}</ref>。1番・二塁手で先発出場し、1回裏に[[伊藤智仁]]から右前安打を打つ<ref name="shuube190314" />。本来ならそこで交代する予定だったが、ファンからの“走れコール”に応えて盗塁を試みるも、相手捕手・[[古田敦也]]の送球に刺された<ref name="shuube190314"/>。1回裏終了後にナイン総出で胴上げされている<ref name="shuube190314"/>。 |
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=== 解説者・コーチ時代 === |
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引退後は近鉄から二軍守備・走塁コーチへの就任を打診されたが固辞し、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[関西テレビ放送|関西テレビ]]野球解説者、[[日刊スポーツ]]野球評論家({{by|1998年}} - {{by|2002年}})となった<ref name="base_19971201_117">週刊ベースボール、1997年12月1日号、P.117</ref>。 |
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{{by|2003年}}から近鉄の一軍守備・走塁コーチに就任すると、キャンプではスライディング練習にビデオを導入して選手とともにプレーを確認し、個々人の塁間走タイムやセーフティーリードの幅を計測して走塁の具体的なイメージを明確にさせた<ref name="base_20030603_22">週刊ベースボール、2003年6月3日号、P.22</ref>。[[3月28日]]の[[開幕戦]]の初回から[[タフィ・ローズ]]がノーサインで[[盗塁]]を成功させるなど、同年はチームの盗塁が大きく増えている。 |
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{{by|2005年}}に近鉄が球団統合されると、オリックスの二軍である[[オリックス・バファローズ (ファーム)|サーパス]]総合チーフコーチに就任。さらに監督の[[加藤秀司|加藤英司]]が腰痛のため休養すると監督代行となる。 |
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{{by|2006年}}にはサーパス監督に就任している。一軍監督の[[中村勝広]]とはキャンプ中から二日に一度は電話するなど密に連絡を取り合い、キャンプでは自身やスカウトも[[打撃投手]]を務めるなど精力的な指導を行った<ref name="base_20060327_88">週刊ベースボール、2006年3月27日号、P.88</ref>。球場では常に全力でプレーし、考えて練習に取り組むことを二軍の選手に求め<ref name="base_20060327_88" />、前年最下位のチームを上位争いに食い込ませた。 |
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{{by|2007年}}からは一軍ヘッドコーチとなった。 |
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{{by|2008年}}からは内野守備・走塁コーチも兼任。同年[[5月21日]]にシーズン途中で[[テリー・コリンズ (野球)|テリー・コリンズ]]が監督を辞任すると、一軍監督代行に就任した。コリンズの辞任を球団から聞いたのはその2日前であったという<ref name="Number_20081127_82">Number、2008年11月27日号、P.82</ref>。 |
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=== オリックス監督時代 === |
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監督代行に就くとそれまでのチーム方針を一変し、先発投手の1試合100球制限の撤廃、休日や早出の練習推奨などを打ち出し、また前監督ができなかった二軍視察も積極的におこなう<ref name="Number_20081127_82" />。二軍からは[[小瀬浩之]]や[[森山周]]らを昇格させ[[梶本達哉]]を支配下登録するなど、積極的に若手を発掘するとともに細かな指導をした<ref name="Number_20081127_82" />。一方でタフィ・ローズと[[アレックス・カブレラ]]の両ベテランには実績を尊重して自主的な調整を認め、その結果は二人合わせて76本塁打、222打点の活躍と待遇に応えるものであった。また同年限りで引退した[[清原和博]]についても、大差の場面では出さないなど起用方法には気を配った<ref name="Number_20081127_83" />。 |
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就任時に借金7で5位だったチームは7月下旬に自力1位が消滅したものの、復調して上位争いに加わったことで[[8月2日]]には監督に昇格。これにより旧・大阪近鉄バファローズOBとして初のオリックス・バファローズ監督となり、あわせて翌{{by|2009年}}も続けて指揮を執ることが発表される{{Efn2|[[2010年]]に監督就任した[[岡田彰布]]も旧ブルーウェーブ選手時代のOBとして初のオリックス・バファローズ監督となる。}}。チームは9月上旬に2位に浮上してそのままレギュラーシーズンを終え、最終的に貯金7で[[2008年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]進出を決める。同シリーズは第1ステージで[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]と対戦し、同年15勝を挙げた[[小松聖]]を初戦ではなく2戦目に先発させる奇策を取ったが、エラーや不運な打球もあって敗退。第1戦に[[近藤一樹]]を先発させたことについて「悔いはないが、投手交代をもう少し早くすべきだった」と述べている<ref name="Number_20081127_83">Number、2008年11月27日号、P.83</ref>。 |
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2008年の秋季キャンプではかつて同僚だった[[野茂英雄]]を臨時投手コーチとして招聘。また2009年は前年からの[[清川栄治]]、[[赤堀元之]]に加え、現役時代から長年の付き合いがある[[佐々木修 (野球)|佐々木修]]を投手チーフコーチに迎え投手コーチ3人制とする。しかし、同年のチーム防御率は12球団ワーストと低迷し、4人の外国人選手(ローズ、カブレラ、[[グレッグ・ラロッカ|ラロッカ]]、[[ホセ・フェルナンデス (1974年生の内野手)|フェルナンデス]])の死球などで全員[[骨折]]・長期離脱するなどで長打力も不振。結局6月に4勝14敗、勝率.222と大きく負け越すなどシーズン終了まで再浮上のきっかけをつかめる事が出来ず2年ぶりの最下位に終わり、責任を取る形で球団本部長の中村勝広(9月30日限り)とともに解任される。 |
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=== オリックス監督退任後 === |
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{{by|2009年}}11月25日に、[[福岡ソフトバンクホークス]]からヘッドコーチへの就任を発表<ref>[http://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/4639.html 大石大二郎ヘッドコーチ入団のお知らせ]ソフトバンク球団公式サイト2009年11月25日配信</ref>。監督の[[秋山幸二]]は「大石さんは監督経験があるので、とても助かる。サインを出してもらっているけど、考えもほとんど一緒」と大石を信頼している<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pabiki/kiji/K20110814001406670.html 中川充四郎 パ・リーグびいきデスヘッドコーチは監督とは違ったチームの「重し」][[スポーツニッポン]]</ref>。 |
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{{by|2010年}}は、12球団断トツの盗塁数(148)を記録し、チーム7年ぶりのリーグ優勝に導く<ref>HAWKS 2010―今年はやったばい、西日本新聞社、58頁、2010年</ref>。 |
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{{by|2011年}}のリーグ連覇・日本一(自身初)に貢献。 |
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{{by|2013年}}シーズン限りで退団した<ref>[http://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/10234.html コーチの退団について]ソフトバンク球団公式サイト2013年10月11日配信</ref>。 |
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{{by|2014年}}からは再び関西テレビの解説者(本数契約で[[テレビ西日本]]の解説も兼務)、2015年からJスポーツも兼務、日刊スポーツ([[日刊スポーツ新聞西日本]])の評論家を務める。 |
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2015年1月より出身地である[[静岡県]][[静岡市]]で[[障害者福祉]]のための事業所を立上げ、自らも街頭で[[キッチンカー]]に立つなどの活動を続けている<ref>{{Cite web|和書|title=ピンク色のキッチンカーでカレー販売 元近鉄・大石大二郎氏が歩む第2の人生|url=https://full-count.jp/2021/12/23/post1170043/|website=Full-Count(フルカウント) ― 野球ニュース・速報・コラム ―|date=2021-12-23|accessdate=2021-12-22|language=ja}}</ref>。 |
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{{by|2016年}}[[3月12日]]、[[ベースボール・チャレンジ・リーグ]]・[[新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ]]の野手総合コーチに就任。ただし、常時チームには帯同しない非常勤となる。 |
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2016年[[12月]]、[[愛知県]][[名古屋市]]に本拠地を置く[[社会人野球]]チームの[[ジェイプロジェクト硬式野球部|ジェイプロジェクト]]の監督に就任した<ref>{{Cite web|和書|date=2016-12-07 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/12/07/kiji/K20161207013865160.html |title=ジェイプロジェクト監督就任の大石氏が会見「やる以上は日本一を」 |publisher=スポニチ |accessdate=2017-01-23}}</ref>。2020年6月30日退任<ref>{{Cite web|和書|date=2020-07-01|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202007010000809.html |title=大石大二郎氏、ジェイプロジェクト監督退任 |publisher=日刊スポーツ |accessdate=2020-07-01}}</ref>。 |
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== 選手としての特徴 == |
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歴代7位の通算415盗塁を記録({{by|2023年}}シーズン終了時)。 |
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大石は[[福本豊]]を史上最高のプロ野球選手に挙げており、走攻守の総合的な能力では[[王貞治]]や[[長嶋茂雄]]にも勝るとしている<ref name="base_19900618_116">週刊ベースボール、1996年6月18日号、P.116</ref><ref name="base_20000612_20" />。現役時代は福本に近づくことを目標とし、走塁に関してだけは7合目ぐらいまで到達できたと述懐している<ref name="base_19900618_116" />。 |
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=== 打撃 === |
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[[いてまえ打線]]のトップバッターとして、体格には恵まれていなかったが、ホームランを意識して打席に臨んでいた<ref name="base_19971201_116" />。{{by|1984年}}には29本塁打を記録している。20代の頃は1,120グラムもある[[すり鉢|すりこぎ]]型のバットを使っていたが、右肩のケガを機に1,060グラムのものに変更した<ref name="base_19900618_114">週刊ベースボール、1990年6月18日号、P.114</ref>。バッティングに関しては特に教えられた記憶がないと言い<ref name="base_19971201_116" />、グリップを上げて叩きつける打法を持ち味としていた<ref name="base_19900618_114" />。 |
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トップバッターは.330から.350程度の[[出塁率]]を目指すべきと語っており、一般的に長打を警戒した[[四球]]が少ない分、クリーンナップより出塁率が上がりにくいと分析している<ref name="base_20000612_20">週刊ベースボール、2000年6月12日号、P.20</ref>。また、初回をはじめとして試合展開の中で得点のチャンスが欲しい場面では確実に出塁することを重視していた<ref name="base_20000612_20" />。 |
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=== 走塁 === |
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プロ入りを初めて意識したのは大学3年の春に[[東都大学野球連盟|東都大学リーグ]]新記録の17[[盗塁]]を記録した時だといい、近鉄入団時にも特に足を評価されていた<ref name="base_19971201_116" />。プロでは盗塁王のタイトルを通算4度獲得し、福本豊の連続盗塁王の記録を止める存在となった。三塁への盗塁は通算74度試み、失敗はわずか3度、成功率は.959に達した。三盗は1984年から1997年に引退するまで45度連続で成功している<ref>[https://web.archive.org/web/20160905214051/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160901-00000100-spnannex-base 山田が貫く盗塁スタイル] - スポニチ</ref>。また盗塁だけでなく、走力によって単打を[[長打]]にすることにもこだわった<ref name="base_19971201_115" />。三塁にいる場面では外野フライが飛んだ瞬間に[[タッグアップ|タッチアップ]]の判断ができたという<ref name="base_20000612_20" />。1983年9月1日の対南海ホークス戦では、1イニングに二盗・三盗を連続して成功させ、本盗にも挑んだが失敗し<ref>[[玉木正之]]『プロ野球大辞典』[[新潮社]]<[[新潮文庫]]>、1990年、p.93</ref>、1979年の[[島田誠]]以来となる「1イニング3盗塁」はならなかった。 |
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「足にスランプはない」という見解については否定的で、投手の癖が分からなかったり体調不良の時には積極的な走塁が難しかったと述べている<ref name="base_20000612_20" />。特に、右肩痛に苦しんだ時期は痛みが走塁にも悪影響を及ぼしていた<ref name="base_19900226_185">週刊ベースボール、1990年2月26日号、P.185</ref>。 |
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大石が記録した415盗塁は近鉄の球団記録である<ref>週刊ベースボール2012年5月28日号27ページ</ref>。 |
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[[ベースボールマガジン]]2023年12月号(福本豊と阪急ブレーブス)の取材を受けた際「走塁に関しては師匠らしい師匠は一人もいません。ほぼ独学です。しいて一人挙げるのならコーチ時代の[[仰木彬|仰木]]さんです。「失敗を恐れず走っていけ」と言ってくれました」<ref>[[ベースボールマガジン]] 2023年12月号(福本豊と阪急ブレーブス)、13年連続盗塁王を止めた男、 大石大二郎[元近鉄]の告白 数字で超えても巨大な壁、49頁、[[ベースボールマガジン社]]</ref>と述べている。 |
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=== 守備 === |
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同時期にパ・リーグで同じ[[二塁手]]として活躍した[[辻発彦]]や[[白井一幸]]には、俊足を生かした守備範囲の広さを高く評価されていた<ref name="base_19900226_183">週刊ベースボール、1990年2月26日号、P.183</ref>。{{by|1982年}}からは3年連続でダイヤモンドグラブ賞を受賞している。守備に際しては打者ごとの打球の傾向を把握し、さらに試合の状況も考慮に入れて守備位置を決めていた<ref name="base_20010528_20">週刊ベースボール、2001年5月28日号、P.20</ref>。打ち分けのうまい打者の場合は予測がしにくいので、[[捕手]]のサインを見て投球モーションに入ってから動いていたという<ref name="base_20010528_20" />。打球の予測には長年の経験が非常に重要で、さらにその打球を処理する良いイメージを持つことを大切にしていた<ref name="base_20010528_23">週刊ベースボール、2001年5月28日号、P.23</ref>。 |
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試合中に細かく変わる守備位置については、他の[[内野手]]にその都度知らせて互いの守備や送球を円滑にする事を心がけていた<ref name="base_20010528_20" />。また、二塁走者がリードしている時はスタートの癖を観察し、二塁への[[牽制球|牽制]]を一回で決めるために役立てていた<ref name="base_20010528_22" />。スタートを遅らせたい場面では、牽制もしくはそのサインを繰り返していたという<ref name="base_20010528_22" />。 |
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二塁手は常に起こりうる全ての状況を想定しておく事が特に重要だと考えており、非常に頻度の低い例として走者一塁でバントが小フライとなった場合、ノーバウンドで[[併殺|ダブルプレー]]を取るのが難しければワンバウンドで一塁に送球されるので、二塁手は一塁を踏む前に走者にタッチすることをあらかじめ頭に入れておくする必要がある、と語っている<ref name="base_20010528_22">週刊ベースボール、2001年5月28日号、P.22</ref>。 |
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== その他 == |
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愛称は「'''大ちゃん'''」<ref>{{Cite web|和書|title=引退覚悟の90年は開幕2発で「いける」大石大二郎 - プロ野球 : 日刊スポーツ|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202006110000608.html|website=nikkansports.com|accessdate=2021-10-10|language=ja}}</ref>。現役時代、打席に立つと「だーいちゃーん!」コールが3回行われた後、[[鉄腕アトム]]が原曲の応援歌が流された。息子が2人おり、[[1990年]]生まれの長男が競輪選手を目指していた<ref>週刊ベースボール、「2009年プロ野球選手名鑑」</ref>。 |
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次男の[[大石崇晴]]は2012年に[[四国アイランドリーグplus]]・[[高知ファイティングドッグス]]に内野手として入団し、2013年まで2年間在籍した。その後[[プロ野球選手]]を引退し[[競輪選手]]へと転向を図り、[[2014年]][[12月24日]]、[[日本競輪選手養成所|日本競輪学校]](当時)第109回入学試験に合格<ref>[https://www.daily.co.jp/newsflash/horse/2014/12/24/0007608781.shtml 【競輪】元近鉄・大石氏の息子が合格] - デイリースポーツ 2014年12月24日付</ref><ref>{{PDFlink|[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/news/2014khn/12/pdf/20141224_01_01.pdf 日本競輪学校第109回入学試験合格者名簿]}} - JKA</ref>。2016年3月に同校を卒業。同年7月に競輪選手としてデビューし<ref>{{PDFlink|[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/news/2016khn/05/pdf/20160530_04_03.pdf 新登録選手(男子第109期) 成績上位選手あっせん一覧]}}</ref>、2戦目で初勝利を挙げた<ref>[https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2016/07/23/kiji/K20160723013021150.html 元オリ監督息子 大石崇晴 2戦目でデビュー初勝利「迷わず行けるとこから仕掛けた」] - スポーツニッポン、2016年7月23日</ref>。 |
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甘いマスクの持ち主とも言われた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/topics/word/%E4%B8%AD%E8%A5%BF%E5%A4%AA.html|title=中西太に関するトピックス|publisher= 朝日新聞デジタル |date=2013-10-09|accessdate=2019-11-27}}</ref>。 |
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== 詳細情報 == |
== 詳細情報 == |
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{| {{年度別打撃成績|リーグ=日本プロ野球}} |
{| {{年度別打撃成績|リーグ=日本プロ野球}} |
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|style="text-align:center"|{{by2|1981}} |
|style="text-align: center;"|{{by2|1981}} |
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|rowspan="17" style="text-align:center"|[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]] |
|rowspan="17" style="text-align: center;"|[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]] |
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|77||20||19||14||6||0||0||0||6||0||11||5||0||0||0||0||1||4||0||.316||.350||.316||.666 |
|77||20||19||14||6||0||0||0||6||0||11||5||0||0||0||0||1||4||0||.316||.350||.316||.666 |
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|style="text-align:center"|{{by2|1982}} |
|style="text-align: center;"|{{by2|1982}} |
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|129||573||492||86||135||16||1||12||189||41||47||12||'''23'''||2||55||1||1||42||7||.274||.347||.384||.731 |
|129||573||492||86||135||16||1||12||189||41||47||12||'''23'''||2||55||1||1||42||7||.274||.347||.384||.731 |
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|style="text-align:center"|{{by2|1983}} |
|style="text-align: center;"|{{by2|1983}} |
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|'''130'''||592||506||90||145||23||6||10||210||46||'''60'''||14||14||2||62||1||8||64||4||.287||.372||.415||.787 |
|'''130'''||592||506||90||145||23||6||10||210||46||'''60'''||14||14||2||62||1||8||64||4||.287||.372||.415||.787 |
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|style="text-align:center"|{{by2|1984}} |
|style="text-align: center;"|{{by2|1984}} |
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|'''130'''||598||528||'''97'''||149||22||5||29||268||65||'''46'''||'''19'''||10||0||58||5||2||58||5||.282||.355||.508||.863 |
|'''130'''||598||528||'''97'''||149||22||5||29||268||65||'''46'''||'''19'''||10||0||58||5||2||58||5||.282||.355||.508||.863 |
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|style="text-align: center;"|{{by2|1985}} |
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|83||375||321||62||99||21||4||11||161||45||19||4||12||2||35||1||5||32||3||.308||.383||.502||.884 |
|83||375||321||62||99||21||4||11||161||45||19||4||12||2||35||1||5||32||3||.308||.383||.502||.884 |
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|style="text-align: center;"|{{by2|1986}} |
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|'''130'''||595||'''538'''||95||156||16||'''12'''||16||244||55||24||14||12||6||33||3||6||47||5||.290||.334||.454||.788 |
|'''130'''||'''595'''||'''538'''||95||156||16||'''12'''||16||244||55||24||14||12||6||33||3||6||47||5||.290||.334||.454||.788 |
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|style="text-align:center"|{{by2|1987}} |
|style="text-align: center;"|{{by2|1987}} |
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|'''130'''||586||'''532'''||75||141||26||4||5||190||42||'''41'''||9||10||3||39||1||2||58||6||.265||.316||.357||.673 |
|'''130'''||'''586'''||'''532'''||75||141||26||4||5||190||42||'''41'''||9||10||3||39||1||2||58||6||.265||.316||.357||.673 |
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|style="text-align:center"|{{by2|1988}} |
|style="text-align: center;"|{{by2|1988}} |
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|128||558||488||65||123||13||'''9'''||5||169||34||16||9||18||1||51||0||0||55||4||.252||.322||.346||.669 |
|128||558||488||65||123||13||'''9'''||5||169||34||16||9||18||1||51||0||0||55||4||.252||.322||.346||.669 |
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|style="text-align:center"|{{by2|1989}} |
|style="text-align: center;"|{{by2|1989}} |
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|109||471||401||70||111||22||1||8||159||33||14||4||21||0||48||1||1||46||4||.277||.356||.397||.752 |
|109||471||401||70||111||22||1||8||159||33||14||4||21||0||48||1||1||46||4||.277||.356||.397||.752 |
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|style="text-align:center"|{{by2|1990}} |
|style="text-align: center;"|{{by2|1990}} |
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|125||541||471||93||148||25||'''6'''||20||245||69||20||4||15||4||49||0||2||51||8||.314||.378||.520||.898 |
|125||541||471||93||148||25||'''6'''||20||245||69||20||4||15||4||49||0||2||51||8||.314||.378||.520||.898 |
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|style="text-align:center"|{{by2|1991}} |
|style="text-align: center;"|{{by2|1991}} |
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|125|| |
|125||549||459||77||123||22||3||6||169||42||12||7||18||4||62||0||5||65||7||.268||.358||.368||.727 |
||
|- |
|- |
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|style="text-align:center"|{{by2|1992}} |
|style="text-align: center;"|{{by2|1992}} |
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|'''130'''||576||487||76||131||24||6||6||185||47||39||'''13'''||23||1||62||1||3||56||4||.269||.354||.380||.734 |
|'''130'''||'''576'''||487||76||131||24||6||6||185||47||39||'''13'''||23||1||62||1||3||56||4||.269||.354||.380||.734 |
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|style="text-align:center"|{{by2|1993}} |
|style="text-align: center;"|{{by2|1993}} |
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|127||547||470||69||121||10||2||10||165||49||'''31'''||7||23||0||51||0||3||65||6||.257||.334||.351||.685 |
|127||547||470||69||121||10||2||10||165||49||'''31'''||7||23||0||51||0||3||65||6||.257||.334||.351||.685 |
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|style="text-align:center"|{{by2|1994}} |
|style="text-align: center;"|{{by2|1994}} |
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|84||320||274||44||74||15||0||2||95||33||11||1||12||1||31||0||2||37||7||.270||.347||.347||.694 |
|84||320||274||44||74||15||0||2||95||33||11||1||12||1||31||0||2||37||7||.270||.347||.347||.694 |
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|style="text-align:center"|{{by2|1995}} |
|style="text-align: center;"|{{by2|1995}} |
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|102||354||303||43||73||13||1||4||100||21||11||6||9||2||38||2||2||52||5||.241||.328||.330||.658 |
|102||354||303||43||73||13||1||4||100||21||11||6||9||2||38||2||2||52||5||.241||.328||.330||.658 |
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|- |
|- |
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|style="text-align:center"|{{by2|1996}} |
|style="text-align: center;"|{{by2|1996}} |
||
|80||271||224||36||49||7||3||2||68||19||11||1||10||5||29||1||3||44||4||.219||.310||.304||.614 |
|80||271||224||36||49||7||3||2||68||19||11||1||10||5||29||1||3||44||4||.219||.310||.304||.614 |
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|- |
|- |
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|style="text-align:center"|{{by2|1997}} |
|style="text-align: center;"|{{by2|1997}} |
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|73||183||151||24||40||6||0||2||52||13||2||2||6||3||22||1||1||22||2||.265||.356||.344||.700 |
|73||183||151||24||40||6||0||2||52||13||2||2||6||3||22||1||1||22||2||.265||.356||.344||.700 |
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|- |
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!colspan="2"|通算:17年 |
!colspan="2"|通算:17年 |
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|1892|| |
|1892||7709||6664||1116||1824||281||63||148||2675||654||415||131||236||36||725||18||47||798||81||.274||.347||.401||.749 |
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|} |
|} |
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* 各年度の'''太字'''はリーグ最高 |
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高 |
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=== 監督成績 === |
=== 年度別監督成績 === |
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{| class="wikitable" style="text-align:right" |
{| class="wikitable" style="text-align: right; font-size: small;" |
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![[年度]]!![[日本プロ野球|球団]]!!順位!![[試合]]!![[勝利]]!![[敗戦]]!![[引き分け|引分]]!![[勝率]]!![[ゲーム差]]!!チーム<br />本塁打!!チーム<br />打率!!チーム<br />防御率!![[年齢]] |
![[年度]]!![[日本プロ野球|球団]]!!順位!![[試合]]!![[勝利]]!![[敗戦]]!![[引き分け|引分]]!![[勝率]]!![[ゲーム差]]!!チーム<br />本塁打!!チーム<br />打率!!チーム<br />防御率!![[年齢]] |
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|{{by|2008年}} |
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|{{by|2008年}}||rowspan="2" style="text-align:center"|[[オリックス・バファローズ|オリックス]]||''2位''||95||54||40||1||.574||''2.5''||''152''||''.262''||''3.93''||50歳 |
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|rowspan="2" style="text-align: center;"|[[オリックス・バファローズ|オリックス]] |
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|''2位''||95||54||40||1||.574||''2.5''||''152''||''.262''||''3.93''||50歳 |
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|{{by|2009年}} |
|{{by|2009年}} |
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|6位||144||56||82||2||.394||26.0||118||.274||4.58||51歳 |
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!colspan="3"|通算:2年 |
!colspan="3"|通算:2年 |
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|239||110||126||3||.466||colspan="5" style="text-align:center"|Aクラス1回、Bクラス1回 |
|239||110||126||3||.466||colspan="5" style="text-align: center;"|Aクラス1回、Bクラス1回 |
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|} |
|} |
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# 2008年は5月23日から[[テリー・コリンズ (野球)|テリー・コリンズ]]に代わり指揮を執る。 |
# 2008年は5月23日から[[テリー・コリンズ (野球)|テリー・コリンズ]]に代わり指揮を執る。 |
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# 表中の''斜体字''はシーズン通年での成績 |
# 表中の''斜体字''はシーズン通年での成績 |
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=== |
=== タイトル === |
||
* [[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]:4回 (1983年<ref name="doushin 1983.10.25" />、1984年<ref name="doushin 1984.10.01" />、1987年<ref name="doushin 1987.10.22" />、1993年<ref name="yomiuri 1993.10.20" />) |
|||
* '''43''' (1981年 - 1982年) |
|||
* '''4''' (1983年 - 1997年) |
|||
* '''81''' (2003年 - 2009年) |
|||
* '''80''' (2010年 - ) |
|||
=== |
=== 表彰 === |
||
* [[最優秀新人 (野球)|新人王]] (1982年) |
* [[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]] (1982年)<ref name="doushin 1982.11.02" /> |
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* [[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]:4回 (1983年、1984年、1987年、1993年) |
|||
* [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:3回 (1983年、1984年、1990年) |
* [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:3回 (1983年、1984年、1990年) |
||
* [[ゴールデングラブ賞]]:3回 (1982年 - 1984年) |
* [[ゴールデングラブ賞|ダイヤモンドグラブ賞]]:3回 (1982年 - 1984年) |
||
=== 記録 === |
|||
; 初記録 |
|||
* 初出場:1981年4月8日、対[[南海ホークス]]前期2回戦([[日本生命球場|日生球場]])、7回裏に[[有田修三]]の代走で出場 |
|||
* 初盗塁:1981年4月11日、対[[西武ライオンズ]]前期1回戦([[西武ドーム|西武ライオンズ球場]])、7回表に二盗(投手:[[松沼雅之]]、捕手:[[大石友好]]) |
|||
* 初安打:1981年4月26日、対[[日本ハムファイターズ]]前期4回戦([[後楽園球場]])、8回表に[[岡部憲章]]から単打 |
|||
* 初先発出場:1981年7月22日、対[[ロッテオリオンズ]]後期5回戦([[石川県立野球場]])、9番・[[二塁手]]で先発出場 |
|||
* 初打点:1982年4月12日、対ロッテオリオンズ前期3回戦(日生球場)、2回裏に[[奥江英幸]]から適時打 |
|||
* 初本塁打:1982年5月5日、対西武ライオンズ前期4回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に[[永射保]]からソロ |
|||
;節目の記録 |
|||
* 1000安打:1989年6月7日、対[[福岡ダイエーホークス]]10回戦([[平和台野球場|平和台球場]])、8回表に[[村田勝喜]]から ※史上155人目<ref>「近鉄・大石(三〇)が通算1000本安打」『毎日新聞』(縮刷・関東版) 1989年(平成元年)6月8日付朝刊、23面(スポーツ面)。</ref> |
|||
* 1000試合出場:1989年7月16日、対[[オリックス・ブレーブス]]12回戦([[阪急西宮スタジアム|阪急西宮球場]])、1番・二塁手で先発出場 ※史上287人目<ref>「大石通算1000試合出場」『毎日新聞』(縮刷・関東版) 1989年(平成元年)7月17日付朝刊、21面(スポーツ面)。</ref> |
|||
* 100本塁打:1990年4月22日、対西武ライオンズ5回戦(西武ライオンズ球場)、4回表に[[渡辺久信]]から先制ソロ ※史上158人目<ref>「近鉄・大石第二朗内野手が通算100号本塁打」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1990年(平成2年)4月23日付朝刊、18面(スポーツ面)。</ref> |
|||
* 300盗塁:1991年5月19日、対ロッテオリオンズ8回戦([[秋田市八橋運動公園硬式野球場|秋田市営八橋球場]])、9回表に二盗(投手:[[園川一美]]、捕手:[[青柳進]]) ※史上19人目<ref>「大石が300盗塁」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1991年(平成3年)5月20日付朝刊、18面(スポーツ面)。</ref> |
|||
* 350盗塁:1993年4月11日、対日本ハムファイターズ2回戦([[藤井寺球場]])、延長11回裏に二盗(投手:[[山原和敏]]、捕手:[[田村藤夫]]) ※史上13人目<ref>「近鉄・大石が350盗塁」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1993年(平成5年)4月12日付夕刊、17面。</ref> |
|||
* 1500安打:1993年6月4日、対福岡ダイエーホークス8回戦(日生球場)、8回裏に[[木村恵二]]から左前安打 ※史上67人目<ref>「近鉄・大石内野手が1500安打」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1993年(平成5年)6月5日付朝刊、19面(スポーツ面)。</ref> |
|||
* 1500試合出場:1993年8月1日、対[[千葉ロッテマリーンズ]]15回戦([[千葉マリンスタジアム]])、1番・二塁手で先発出場 ※史上108人目<ref>「記録メモ 大石(近鉄)1500試合出場」『北海道新聞』(縮刷版) 1993年(平成5年)8月2日付朝刊、16面(スポーツ面)。</ref> |
|||
* 200犠打:1994年4月9日、対西武ライオンズ1回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に[[郭泰源]]から ※史上12人目 |
|||
* 1000得点:1994年7月16日、対[[オリックス・ブルーウェーブ]]14回戦([[神戸総合運動公園野球場|グリーンスタジアム神戸]])、6回表に[[ラルフ・ブライアント]]の適時打で記録 ※史上26人目<ref>「近鉄・大石が1000得点」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1994年(平成6年)7月17日付朝刊、17面(スポーツ面)。</ref> |
|||
* 400盗塁:1995年8月30日、対日本ハムファイターズ22回戦([[東京ドーム]])、9回表に二盗(投手:[[西村基史]]、捕手:[[山下和彦]]) ※史上7人目<ref>「大石 史上7人目 400盗塁」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1995年(平成7年)8月31日付朝刊、27面(スポーツ面)。</ref>、大卒選手としては2023年現在唯一{{Efn2|大石より上位の6人のうち、[[福本豊|福本]]・[[木塚忠助|木塚]]は高卒社会人から、他の4人は高卒からプロ入りしている。}} |
|||
; その他の記録 |
|||
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:9回 (1982年 - 1984年、1986年、1987年、1989年、1990年、1992年、1993年) |
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:9回 (1982年 - 1984年、1986年、1987年、1989年、1990年、1992年、1993年) |
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=== |
=== 背番号 === |
||
* '''43''' (1981年 - 1982年) |
|||
* 初出場:1981年4月8日、対[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]戦([[日本生命球場]])、7回に[[有田修三]]の代走 |
|||
* '''4''' (1983年 - 1997年) |
|||
* 初盗塁:1981年4月11日、対[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]戦([[西武ドーム|西武球場]])、7回に有田修三の代走で二盗 |
|||
* '''81''' (2003年 - 2009年、2016年 - ) |
|||
* 初安打:1981年4月26日、対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]戦([[後楽園球場]])、8回に[[岡部憲章]]から単打 |
|||
* '''80''' (2010年 - 2013年) |
|||
* 初打点:1982年4月12日、対[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]戦(日本生命球場)、2回に[[奥江英幸]]から適時打 |
|||
* 初本塁打:1982年5月5日、対西武ライオンズ戦(西武球場)、9回に[[永射保]]からソロ |
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=== 登録名 === |
|||
* 通算1000試合出場:1989年7月16日(287人目) |
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*'''大石 大二郎''' (おおいし だいじろう、1981年 - 1987年9月14日、1991年 - ) |
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*'''大石 第二朗''' (おおいし だいじろう、1987年9月15日 - 1990年) |
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== 関連情報 == |
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== 解説者としての出演番組 == |
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=== 出演 === |
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* [[BASEBALL SPECIAL〜野球道〜|熱チュー!プロ野球]](ローカル中継のタイトルは「プロ野球中継」) |
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* [[enjoy! Baseball|熱チュー!プロ野球]](ローカル中継のタイトルは「プロ野球中継」) |
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* [[プロ野球ニュース]] |
* [[プロ野球ニュース]] |
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* [[すぽると!]] |
* [[すぽると!]] |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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<references /> |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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{{Reflist}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[静岡県出身の人物一覧]] |
* [[静岡県出身の人物一覧]] |
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* [[亜細亜大学の人物一覧]] |
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* [[大阪近鉄バファローズの選手一覧]] |
* [[大阪近鉄バファローズの選手一覧]] |
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* [[10.19]] |
* [[10.19]] |
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== 外部リンク == |
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{{オリックス・バファローズ歴代監督|オリックス・バファローズ|2008.5.22-2009}} |
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{{Navboxes|title= 獲得タイトル・記録 |
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[[ko:오이시 다이지로]] |
2024年9月23日 (月) 22:56時点における最新版
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 |
静岡県静岡市 (現・同市駿河区) |
生年月日 | 1958年10月20日(66歳) |
身長 体重 |
166 cm 71 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 二塁手 |
プロ入り | 1980年 ドラフト2位 |
初出場 | 1981年4月8日 |
最終出場 |
1997年9月11日(公式戦最後) 1998年3月14日(引退試合) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
監督・コーチ歴 | |
| |
この表について
|
大石 大二郎(おおいし だいじろう、 1958年10月20日 - )は、静岡県静岡市出身の元プロ野球選手(内野手)、監督、野球指導者、解説者、評論家。1987年から1990年までの登録名は、大石 第二朗(読みは同じ)。
経歴
[編集]アマチュア時代
[編集]静岡県静岡市で、鮮魚の小売・仕出し業を営む家庭に生まれた[1]。中学校(静岡市立高松中学)では2学年上の兄が野球部主将を務めており、同じ部となる事を嫌がられたため当初は柔道部に入ったが、考えを改めて6月には野球部に移り本格的な野球を始めている[1]。
高校も兄と同じ静岡商業高校に進み、部員50人を超す大所帯で1年生の夏からベンチ入り。1974年夏の選手権に出場し、大石本人の出場機会はなかったものの、3年生のエース高橋三千丈の力投もありベスト8進出。翌年は1番打者として春の選抜に出場し、ベスト8進出に貢献している。3年生時には同級生で後にプロとなる久保寺雄二が遊撃手を務め、自身は3番・三塁手となりチームは県予選で本命視されていた。しかし一学年上の先輩が1月末に他校の生徒と喧嘩をしていたことが4月に発覚し、チームは夏の県大会に出場できなかった[1]。
高校卒業後は競輪選手になる事を考えていたが、父親の勧めで亜細亜大学に進学[2]。1979年の3年次の春季リーグ戦では17盗塁をマークし、当時の東都大学リーグ新記録を樹立した[注 1]。大学4年間では通算91試合出場、344打数99安打、打率.288、4本塁打、25打点、44盗塁を記録している。また、ベストナインには2回選出されている(1979年春には二塁手で、1980年秋には遊撃手で受賞。)。大学卒業後は今度こそ競輪選手になるつもりだった[3]が、1980年のドラフト会議で近鉄バファローズに武藤一邦のハズレ2位で指名[4]され、野球部総監督の矢野祐弘の勧めもあり近鉄に入団した。契約金は3000万円、年俸は330万円(金額は推定)[5]。
プロ野球選手時代
[編集]1981年は代走や守備固めの出場が多く、77試合の出場で打数はわずか19だった。同年は西本幸雄の監督最終年で、無我夢中のまま厳しい練習で鍛えられた[2]。
1982年はオープン戦で負傷した二塁手のビクター・ハリスが外野手にコンバートされると、オープン戦で3割以上の高打率を記録して二塁手のレギュラーとなる[2]。同年はレギュラーシーズンで打率.274、12本塁打、47盗塁の成績を残し、新人王とダイヤモンドグラブ賞を獲得した[6]。オフの12月12日の契約更改では約164パーセント増の年俸1000万円(推定)でサインした[7]。
1983年、7月14日の対西武ライオンズ戦(日生球場)では6回一死満塁の打席で木村広から満塁本塁打を放った[8]。シーズンでは60盗塁で盗塁王のタイトルを獲得し、福本豊の連続盗塁王記録を13年で止めた[9]。同年から1番・二塁手に定着し、2年連続のダイヤモンドグラブ賞に加えてベストナインにも選出された[10][11]。オフの12月11日の契約更改では100パーセント増の年俸2000万円(推定)でサインした[12]。
1984年も盗塁王、ダイヤモンドグラブ賞、ベストナインを獲得[13][14][15]し、パ・リーグを代表する二塁手となっていった。1984年のオールスターゲーム第3戦(ナゴヤ球場)ではそれまで8連続奪三振を続けていた江川卓と対戦して二ゴロを放ち、江夏豊に並ぶ9連続奪三振の記録を阻止した[16]。オフの12月5日の契約更改では60パーセント増の年俸3200万円(推定)でサインした[17]。
1985年には、高校時代からの同級生で南海ホークスに入団していた久保寺雄二が急死。大石は1月8日に葬儀に参列し、号泣しながら弔辞を読み上げた。4月25日の対南海ホークス戦(藤井寺球場)では6-6の同点で迎えた9回無死無走者の打席で畠山準からサヨナラ本塁打を放った[18]が、7月7日の対阪急ブレーブス戦で併殺プレーの際に左膝を痛め、検査の結果「左膝内側の靭帯損傷」と診断、翌8日に出場選手登録を抹消された[19]。1985年のオールスターゲームのファン投票では26万余票を集め、2年連続の最高得票者となったが、出場辞退した[20]。オフの12月6日の契約更改では11パーセント増の年俸3600万円(推定)でサインした[21]。
1986年は全試合、全イニング出場[22]。4月15日の対ロッテオリオンズ戦(平和台球場)では1回表に荘勝雄から放った初回先頭打者本塁打[23]を含む1試合3本塁打を放つが、チームは8-9で敗れた[24]。オフの12月18日の契約更改では45パーセント増の年俸5200万円(推定)でサインし、近鉄史上初の日本人野手の5000万円プレイヤーとなった[22]。
1987年も全試合出場[25]。9月14日に7歳年下の一般女性会社員の婚約を発表[26]。翌15日より登録名を「大石第二朗」に変更[26]。シーズンでは西村徳文(ロッテ)と並ぶ41盗塁で3回目の盗塁王を獲得した[27]が、この頃から右肩痛が続いたため、打率は.265と低下した[25]。オフの12月15日の契約更改では現状維持の年俸5200万円(推定)でサインした[25]。
1988年は10.19の翌月に大阪厚生年金病院で右肩の手術を行い、12月8日には都ホテル大阪で結婚式を挙げている[28]。
1989年は年明けから夫人も帯同してハワイやサイパンでリハビリに取り組み、その後もチームのキャンプには参加せず小松市の温泉で単独トレーニングを行った。8月3日の対オリックス戦で右ふくらはぎの肉離れが起きる[29]など、同年は出場が109試合に減少したものの、打率.277などトップバッターとしてまずまずの働き[30]でチームの優勝に貢献した。現役時代の出来事では、この優勝と前年の10.19が最も思い出に残っているという[31]。なお、読売ジャイアンツとの同年の日本シリーズ初戦(藤井寺球場)では、斎藤雅樹からシリーズ史上唯一の第1戦初回先頭打者本塁打を放っている[注 2][32][33]。
1990年には肩が完全に回復してキャンプから順調な調整を見せ、6月26日の対ロッテ戦(日生球場)では3点を追う9回一死満塁の打席で伊良部秀輝から逆転サヨナラ満塁本塁打[注 3][31][35]、7月13日の対日本ハムファイターズ戦(藤井寺球場)では1点を追う9回一死二塁の打席で西崎幸広からシーズン2本目のサヨナラ本塁打となる逆転サヨナラ2点本塁打を放っている[36]。同年はリーグ2位となる打率.314、20本塁打という好成績を収めた。オフの12月25日の契約更改では1600万円増の年俸8400万円(推定)でサインした[37]。
1991年、5月16日の対西武戦(藤井寺球場)では1点を追う9回一死二塁の打席で石井丈裕から逆転サヨナラ2点本塁打を放った[38]。
1992年で新井宏昌が引退すると、山本和範が復帰する1996年までの間、チームの最年長選手となっている。また、同年の契約更改で年俸が1,300万円増の1億500万円(推定)となり、近鉄史上初の日本人の1億円プレイヤーとなった[39]。
1993年には6年ぶりとなる盗塁王を獲得[40]し、同タイトルの最年長記録に並んだ[注 4]。
1994年頃からは準レギュラーとなり、「40歳までの現役と2000安打の達成」を目標として掲げていた[41]。
1997年、5月15日の対福岡ダイエーホークス戦(大阪ドーム)では8回無死一塁の場面で、若井基安の中前へ抜けそうな打球に追いつき、一塁に悪送球してピンチを広げ、同点にされるが、4-4の同点で迎えた9回一死二塁の打席でホセ・ヌーニェスからサヨナラ2点本塁打を放った[42]。同年夏からは監督の佐々木恭介に起用される機会が急減し、9月には球団からも引退を勧められる雰囲気となった[41]。このような球団の姿勢をあっさり受け入れ、同月20日に現役を引退している[43]。引退試合は翌1998年3月14日のオープン戦(対ヤクルト)で行われた[44]。1番・二塁手で先発出場し、1回裏に伊藤智仁から右前安打を打つ[44]。本来ならそこで交代する予定だったが、ファンからの“走れコール”に応えて盗塁を試みるも、相手捕手・古田敦也の送球に刺された[44]。1回裏終了後にナイン総出で胴上げされている[44]。
解説者・コーチ時代
[編集]引退後は近鉄から二軍守備・走塁コーチへの就任を打診されたが固辞し、フジテレビ・関西テレビ野球解説者、日刊スポーツ野球評論家(1998年 - 2002年)となった[45]。
2003年から近鉄の一軍守備・走塁コーチに就任すると、キャンプではスライディング練習にビデオを導入して選手とともにプレーを確認し、個々人の塁間走タイムやセーフティーリードの幅を計測して走塁の具体的なイメージを明確にさせた[46]。3月28日の開幕戦の初回からタフィ・ローズがノーサインで盗塁を成功させるなど、同年はチームの盗塁が大きく増えている。
2005年に近鉄が球団統合されると、オリックスの二軍であるサーパス総合チーフコーチに就任。さらに監督の加藤英司が腰痛のため休養すると監督代行となる。
2006年にはサーパス監督に就任している。一軍監督の中村勝広とはキャンプ中から二日に一度は電話するなど密に連絡を取り合い、キャンプでは自身やスカウトも打撃投手を務めるなど精力的な指導を行った[47]。球場では常に全力でプレーし、考えて練習に取り組むことを二軍の選手に求め[47]、前年最下位のチームを上位争いに食い込ませた。
2007年からは一軍ヘッドコーチとなった。
2008年からは内野守備・走塁コーチも兼任。同年5月21日にシーズン途中でテリー・コリンズが監督を辞任すると、一軍監督代行に就任した。コリンズの辞任を球団から聞いたのはその2日前であったという[48]。
オリックス監督時代
[編集]監督代行に就くとそれまでのチーム方針を一変し、先発投手の1試合100球制限の撤廃、休日や早出の練習推奨などを打ち出し、また前監督ができなかった二軍視察も積極的におこなう[48]。二軍からは小瀬浩之や森山周らを昇格させ梶本達哉を支配下登録するなど、積極的に若手を発掘するとともに細かな指導をした[48]。一方でタフィ・ローズとアレックス・カブレラの両ベテランには実績を尊重して自主的な調整を認め、その結果は二人合わせて76本塁打、222打点の活躍と待遇に応えるものであった。また同年限りで引退した清原和博についても、大差の場面では出さないなど起用方法には気を配った[49]。
就任時に借金7で5位だったチームは7月下旬に自力1位が消滅したものの、復調して上位争いに加わったことで8月2日には監督に昇格。これにより旧・大阪近鉄バファローズOBとして初のオリックス・バファローズ監督となり、あわせて翌2009年も続けて指揮を執ることが発表される[注 5]。チームは9月上旬に2位に浮上してそのままレギュラーシーズンを終え、最終的に貯金7でクライマックスシリーズ進出を決める。同シリーズは第1ステージで日本ハムと対戦し、同年15勝を挙げた小松聖を初戦ではなく2戦目に先発させる奇策を取ったが、エラーや不運な打球もあって敗退。第1戦に近藤一樹を先発させたことについて「悔いはないが、投手交代をもう少し早くすべきだった」と述べている[49]。
2008年の秋季キャンプではかつて同僚だった野茂英雄を臨時投手コーチとして招聘。また2009年は前年からの清川栄治、赤堀元之に加え、現役時代から長年の付き合いがある佐々木修を投手チーフコーチに迎え投手コーチ3人制とする。しかし、同年のチーム防御率は12球団ワーストと低迷し、4人の外国人選手(ローズ、カブレラ、ラロッカ、フェルナンデス)の死球などで全員骨折・長期離脱するなどで長打力も不振。結局6月に4勝14敗、勝率.222と大きく負け越すなどシーズン終了まで再浮上のきっかけをつかめる事が出来ず2年ぶりの最下位に終わり、責任を取る形で球団本部長の中村勝広(9月30日限り)とともに解任される。
オリックス監督退任後
[編集]2009年11月25日に、福岡ソフトバンクホークスからヘッドコーチへの就任を発表[50]。監督の秋山幸二は「大石さんは監督経験があるので、とても助かる。サインを出してもらっているけど、考えもほとんど一緒」と大石を信頼している[51]。
2010年は、12球団断トツの盗塁数(148)を記録し、チーム7年ぶりのリーグ優勝に導く[52]。
2011年のリーグ連覇・日本一(自身初)に貢献。
2014年からは再び関西テレビの解説者(本数契約でテレビ西日本の解説も兼務)、2015年からJスポーツも兼務、日刊スポーツ(日刊スポーツ新聞西日本)の評論家を務める。
2015年1月より出身地である静岡県静岡市で障害者福祉のための事業所を立上げ、自らも街頭でキッチンカーに立つなどの活動を続けている[54]。
2016年3月12日、ベースボール・チャレンジ・リーグ・新潟アルビレックス・ベースボール・クラブの野手総合コーチに就任。ただし、常時チームには帯同しない非常勤となる。
2016年12月、愛知県名古屋市に本拠地を置く社会人野球チームのジェイプロジェクトの監督に就任した[55]。2020年6月30日退任[56]。
選手としての特徴
[編集]歴代7位の通算415盗塁を記録(2023年シーズン終了時)。
大石は福本豊を史上最高のプロ野球選手に挙げており、走攻守の総合的な能力では王貞治や長嶋茂雄にも勝るとしている[57][58]。現役時代は福本に近づくことを目標とし、走塁に関してだけは7合目ぐらいまで到達できたと述懐している[57]。
打撃
[編集]いてまえ打線のトップバッターとして、体格には恵まれていなかったが、ホームランを意識して打席に臨んでいた[31]。1984年には29本塁打を記録している。20代の頃は1,120グラムもあるすりこぎ型のバットを使っていたが、右肩のケガを機に1,060グラムのものに変更した[59]。バッティングに関しては特に教えられた記憶がないと言い[31]、グリップを上げて叩きつける打法を持ち味としていた[59]。
トップバッターは.330から.350程度の出塁率を目指すべきと語っており、一般的に長打を警戒した四球が少ない分、クリーンナップより出塁率が上がりにくいと分析している[58]。また、初回をはじめとして試合展開の中で得点のチャンスが欲しい場面では確実に出塁することを重視していた[58]。
走塁
[編集]プロ入りを初めて意識したのは大学3年の春に東都大学リーグ新記録の17盗塁を記録した時だといい、近鉄入団時にも特に足を評価されていた[31]。プロでは盗塁王のタイトルを通算4度獲得し、福本豊の連続盗塁王の記録を止める存在となった。三塁への盗塁は通算74度試み、失敗はわずか3度、成功率は.959に達した。三盗は1984年から1997年に引退するまで45度連続で成功している[60]。また盗塁だけでなく、走力によって単打を長打にすることにもこだわった[2]。三塁にいる場面では外野フライが飛んだ瞬間にタッチアップの判断ができたという[58]。1983年9月1日の対南海ホークス戦では、1イニングに二盗・三盗を連続して成功させ、本盗にも挑んだが失敗し[61]、1979年の島田誠以来となる「1イニング3盗塁」はならなかった。
「足にスランプはない」という見解については否定的で、投手の癖が分からなかったり体調不良の時には積極的な走塁が難しかったと述べている[58]。特に、右肩痛に苦しんだ時期は痛みが走塁にも悪影響を及ぼしていた[30]。
大石が記録した415盗塁は近鉄の球団記録である[62]。
ベースボールマガジン2023年12月号(福本豊と阪急ブレーブス)の取材を受けた際「走塁に関しては師匠らしい師匠は一人もいません。ほぼ独学です。しいて一人挙げるのならコーチ時代の仰木さんです。「失敗を恐れず走っていけ」と言ってくれました」[63]と述べている。
守備
[編集]同時期にパ・リーグで同じ二塁手として活躍した辻発彦や白井一幸には、俊足を生かした守備範囲の広さを高く評価されていた[64]。1982年からは3年連続でダイヤモンドグラブ賞を受賞している。守備に際しては打者ごとの打球の傾向を把握し、さらに試合の状況も考慮に入れて守備位置を決めていた[65]。打ち分けのうまい打者の場合は予測がしにくいので、捕手のサインを見て投球モーションに入ってから動いていたという[65]。打球の予測には長年の経験が非常に重要で、さらにその打球を処理する良いイメージを持つことを大切にしていた[66]。
試合中に細かく変わる守備位置については、他の内野手にその都度知らせて互いの守備や送球を円滑にする事を心がけていた[65]。また、二塁走者がリードしている時はスタートの癖を観察し、二塁への牽制を一回で決めるために役立てていた[67]。スタートを遅らせたい場面では、牽制もしくはそのサインを繰り返していたという[67]。
二塁手は常に起こりうる全ての状況を想定しておく事が特に重要だと考えており、非常に頻度の低い例として走者一塁でバントが小フライとなった場合、ノーバウンドでダブルプレーを取るのが難しければワンバウンドで一塁に送球されるので、二塁手は一塁を踏む前に走者にタッチすることをあらかじめ頭に入れておくする必要がある、と語っている[67]。
その他
[編集]愛称は「大ちゃん」[68]。現役時代、打席に立つと「だーいちゃーん!」コールが3回行われた後、鉄腕アトムが原曲の応援歌が流された。息子が2人おり、1990年生まれの長男が競輪選手を目指していた[69]。
次男の大石崇晴は2012年に四国アイランドリーグplus・高知ファイティングドッグスに内野手として入団し、2013年まで2年間在籍した。その後プロ野球選手を引退し競輪選手へと転向を図り、2014年12月24日、日本競輪学校(当時)第109回入学試験に合格[70][71]。2016年3月に同校を卒業。同年7月に競輪選手としてデビューし[72]、2戦目で初勝利を挙げた[73]。
甘いマスクの持ち主とも言われた[74]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1981 | 近鉄 | 77 | 20 | 19 | 14 | 6 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | 11 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | 0 | .316 | .350 | .316 | .666 |
1982 | 129 | 573 | 492 | 86 | 135 | 16 | 1 | 12 | 189 | 41 | 47 | 12 | 23 | 2 | 55 | 1 | 1 | 42 | 7 | .274 | .347 | .384 | .731 | |
1983 | 130 | 592 | 506 | 90 | 145 | 23 | 6 | 10 | 210 | 46 | 60 | 14 | 14 | 2 | 62 | 1 | 8 | 64 | 4 | .287 | .372 | .415 | .787 | |
1984 | 130 | 598 | 528 | 97 | 149 | 22 | 5 | 29 | 268 | 65 | 46 | 19 | 10 | 0 | 58 | 5 | 2 | 58 | 5 | .282 | .355 | .508 | .863 | |
1985 | 83 | 375 | 321 | 62 | 99 | 21 | 4 | 11 | 161 | 45 | 19 | 4 | 12 | 2 | 35 | 1 | 5 | 32 | 3 | .308 | .383 | .502 | .884 | |
1986 | 130 | 595 | 538 | 95 | 156 | 16 | 12 | 16 | 244 | 55 | 24 | 14 | 12 | 6 | 33 | 3 | 6 | 47 | 5 | .290 | .334 | .454 | .788 | |
1987 | 130 | 586 | 532 | 75 | 141 | 26 | 4 | 5 | 190 | 42 | 41 | 9 | 10 | 3 | 39 | 1 | 2 | 58 | 6 | .265 | .316 | .357 | .673 | |
1988 | 128 | 558 | 488 | 65 | 123 | 13 | 9 | 5 | 169 | 34 | 16 | 9 | 18 | 1 | 51 | 0 | 0 | 55 | 4 | .252 | .322 | .346 | .669 | |
1989 | 109 | 471 | 401 | 70 | 111 | 22 | 1 | 8 | 159 | 33 | 14 | 4 | 21 | 0 | 48 | 1 | 1 | 46 | 4 | .277 | .356 | .397 | .752 | |
1990 | 125 | 541 | 471 | 93 | 148 | 25 | 6 | 20 | 245 | 69 | 20 | 4 | 15 | 4 | 49 | 0 | 2 | 51 | 8 | .314 | .378 | .520 | .898 | |
1991 | 125 | 549 | 459 | 77 | 123 | 22 | 3 | 6 | 169 | 42 | 12 | 7 | 18 | 4 | 62 | 0 | 5 | 65 | 7 | .268 | .358 | .368 | .727 | |
1992 | 130 | 576 | 487 | 76 | 131 | 24 | 6 | 6 | 185 | 47 | 39 | 13 | 23 | 1 | 62 | 1 | 3 | 56 | 4 | .269 | .354 | .380 | .734 | |
1993 | 127 | 547 | 470 | 69 | 121 | 10 | 2 | 10 | 165 | 49 | 31 | 7 | 23 | 0 | 51 | 0 | 3 | 65 | 6 | .257 | .334 | .351 | .685 | |
1994 | 84 | 320 | 274 | 44 | 74 | 15 | 0 | 2 | 95 | 33 | 11 | 1 | 12 | 1 | 31 | 0 | 2 | 37 | 7 | .270 | .347 | .347 | .694 | |
1995 | 102 | 354 | 303 | 43 | 73 | 13 | 1 | 4 | 100 | 21 | 11 | 6 | 9 | 2 | 38 | 2 | 2 | 52 | 5 | .241 | .328 | .330 | .658 | |
1996 | 80 | 271 | 224 | 36 | 49 | 7 | 3 | 2 | 68 | 19 | 11 | 1 | 10 | 5 | 29 | 1 | 3 | 44 | 4 | .219 | .310 | .304 | .614 | |
1997 | 73 | 183 | 151 | 24 | 40 | 6 | 0 | 2 | 52 | 13 | 2 | 2 | 6 | 3 | 22 | 1 | 1 | 22 | 2 | .265 | .356 | .344 | .700 | |
通算:17年 | 1892 | 7709 | 6664 | 1116 | 1824 | 281 | 63 | 148 | 2675 | 654 | 415 | 131 | 236 | 36 | 725 | 18 | 47 | 798 | 81 | .274 | .347 | .401 | .749 |
- 各年度の太字はリーグ最高
年度別監督成績
[編集]年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2008年 | オリックス | 2位 | 95 | 54 | 40 | 1 | .574 | 2.5 | 152 | .262 | 3.93 | 50歳 |
2009年 | 6位 | 144 | 56 | 82 | 2 | .394 | 26.0 | 118 | .274 | 4.58 | 51歳 | |
通算:2年 | 239 | 110 | 126 | 3 | .466 | Aクラス1回、Bクラス1回 |
- 2008年は5月23日からテリー・コリンズに代わり指揮を執る。
- 表中の斜体字はシーズン通年での成績
タイトル
[編集]表彰
[編集]- 新人王 (1982年)[6]
- ベストナイン:3回 (1983年、1984年、1990年)
- ダイヤモンドグラブ賞:3回 (1982年 - 1984年)
記録
[編集]- 初記録
- 初出場:1981年4月8日、対南海ホークス前期2回戦(日生球場)、7回裏に有田修三の代走で出場
- 初盗塁:1981年4月11日、対西武ライオンズ前期1回戦(西武ライオンズ球場)、7回表に二盗(投手:松沼雅之、捕手:大石友好)
- 初安打:1981年4月26日、対日本ハムファイターズ前期4回戦(後楽園球場)、8回表に岡部憲章から単打
- 初先発出場:1981年7月22日、対ロッテオリオンズ後期5回戦(石川県立野球場)、9番・二塁手で先発出場
- 初打点:1982年4月12日、対ロッテオリオンズ前期3回戦(日生球場)、2回裏に奥江英幸から適時打
- 初本塁打:1982年5月5日、対西武ライオンズ前期4回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に永射保からソロ
- 節目の記録
- 1000安打:1989年6月7日、対福岡ダイエーホークス10回戦(平和台球場)、8回表に村田勝喜から ※史上155人目[75]
- 1000試合出場:1989年7月16日、対オリックス・ブレーブス12回戦(阪急西宮球場)、1番・二塁手で先発出場 ※史上287人目[76]
- 100本塁打:1990年4月22日、対西武ライオンズ5回戦(西武ライオンズ球場)、4回表に渡辺久信から先制ソロ ※史上158人目[77]
- 300盗塁:1991年5月19日、対ロッテオリオンズ8回戦(秋田市営八橋球場)、9回表に二盗(投手:園川一美、捕手:青柳進) ※史上19人目[78]
- 350盗塁:1993年4月11日、対日本ハムファイターズ2回戦(藤井寺球場)、延長11回裏に二盗(投手:山原和敏、捕手:田村藤夫) ※史上13人目[79]
- 1500安打:1993年6月4日、対福岡ダイエーホークス8回戦(日生球場)、8回裏に木村恵二から左前安打 ※史上67人目[80]
- 1500試合出場:1993年8月1日、対千葉ロッテマリーンズ15回戦(千葉マリンスタジアム)、1番・二塁手で先発出場 ※史上108人目[81]
- 200犠打:1994年4月9日、対西武ライオンズ1回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に郭泰源から ※史上12人目
- 1000得点:1994年7月16日、対オリックス・ブルーウェーブ14回戦(グリーンスタジアム神戸)、6回表にラルフ・ブライアントの適時打で記録 ※史上26人目[82]
- 400盗塁:1995年8月30日、対日本ハムファイターズ22回戦(東京ドーム)、9回表に二盗(投手:西村基史、捕手:山下和彦) ※史上7人目[83]、大卒選手としては2023年現在唯一[注 6]
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:9回 (1982年 - 1984年、1986年、1987年、1989年、1990年、1992年、1993年)
背番号
[編集]- 43 (1981年 - 1982年)
- 4 (1983年 - 1997年)
- 81 (2003年 - 2009年、2016年 - )
- 80 (2010年 - 2013年)
登録名
[編集]- 大石 大二郎 (おおいし だいじろう、1981年 - 1987年9月14日、1991年 - )
- 大石 第二朗 (おおいし だいじろう、1987年9月15日 - 1990年)
関連情報
[編集]出演
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 1987年の春季リーグ戦で野村謙二郎(駒沢大学)が18盗塁し、記録を更新している。
- ^ 日本シリーズで初回先頭打者本塁打は1988年の西武球場での中日対西武第3戦で中日の彦野利勝が放って以来、史上10本目。表、裏の内訳は各5本。日本シリーズで初打席が初回先頭打者本塁打なのは1985年の阪神の嶋田宗彦以来、史上8人目。
- ^ NPBで逆転サヨナラ満塁本塁打は1988年7月30日の福良淳一(阪急)以来で、史上19本目(18人目)。パ・リーグでは11本目[34]。
- ^ それまでの記録は1978年の柴田勲と1982年の福本豊。
- ^ 2010年に監督就任した岡田彰布も旧ブルーウェーブ選手時代のOBとして初のオリックス・バファローズ監督となる。
- ^ 大石より上位の6人のうち、福本・木塚は高卒社会人から、他の4人は高卒からプロ入りしている。
出典
[編集]- ^ a b c 朝日新聞、1998年06月14日付朝刊、静岡地方面
- ^ a b c d 週刊ベースボール、1997年12月1日号、P.115
- ^ 週刊ベースボール、1988年1月10日号、P.36
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- ^ 「簑田、7度目の栄冠 ダイヤモンド・グラブ賞 高沢(ロッテ)初の受賞」『北海道新聞』(縮刷版) 1984年(昭和59年)11月17日付朝刊、15面(スポーツ面)。
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- ^ 「野茂50年ぶり新人新 11度目2ケタ奪三振 大石祝砲、逆転サヨナラ 近鉄8連勝」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1990年(平成2年)7月14日付朝刊、19面(スポーツ面)。
- ^ 「ボクらも来年「一億」狙う 大石は8千万、高木は7千万円超す」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1990年(平成2年)12月26日付朝刊、19面(スポーツ面)。
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- ^ 中川充四郎 パ・リーグびいきデスヘッドコーチは監督とは違ったチームの「重し」スポーツニッポン
- ^ HAWKS 2010―今年はやったばい、西日本新聞社、58頁、2010年
- ^ コーチの退団についてソフトバンク球団公式サイト2013年10月11日配信
- ^ “ピンク色のキッチンカーでカレー販売 元近鉄・大石大二郎氏が歩む第2の人生”. Full-Count(フルカウント) ― 野球ニュース・速報・コラム ― (2021年12月23日). 2021年12月22日閲覧。
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- ^ ベースボールマガジン 2023年12月号(福本豊と阪急ブレーブス)、13年連続盗塁王を止めた男、 大石大二郎[元近鉄]の告白 数字で超えても巨大な壁、49頁、ベースボールマガジン社
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- ^ “引退覚悟の90年は開幕2発で「いける」大石大二郎 - プロ野球 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2021年10月10日閲覧。
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- ^ 【競輪】元近鉄・大石氏の息子が合格 - デイリースポーツ 2014年12月24日付
- ^ 日本競輪学校第109回入学試験合格者名簿 (PDF) - JKA
- ^ 新登録選手(男子第109期) 成績上位選手あっせん一覧 (PDF)
- ^ 元オリ監督息子 大石崇晴 2戦目でデビュー初勝利「迷わず行けるとこから仕掛けた」 - スポーツニッポン、2016年7月23日
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- ^ 「記録メモ 大石(近鉄)1500試合出場」『北海道新聞』(縮刷版) 1993年(平成5年)8月2日付朝刊、16面(スポーツ面)。
- ^ 「近鉄・大石が1000得点」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1994年(平成6年)7月17日付朝刊、17面(スポーツ面)。
- ^ 「大石 史上7人目 400盗塁」『読売新聞』(縮刷・関東版) 1995年(平成7年)8月31日付朝刊、27面(スポーツ面)。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 大石大二郎 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)