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== 来歴 == |
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2011年7月9日 (土) 00:00時点における版
上田清司 うえだ きよし | |
---|---|
生年月日 | 1948年5月15日(76歳) |
出生地 | 福岡県福岡市 |
出身校 |
法政大学 早稲田大学大学院 |
所属政党 |
(新自由クラブ→) (無所属→) (自由連合→ ) (新生党→) (新進党→) (フロムファイブ→) (民政党→) (民主党→) 無所属 |
称号 |
法学士(法政大学) 政治学修士(早稲田大学) |
公式サイト | 埼玉県知事 上田きよし |
第57・58代 埼玉県知事 | |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 2003年9月1日 - 現職 |
選挙区 |
(旧埼玉5区→) 埼玉4区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1993年7月19日 - 2003年8月13日 |
上田 清司(うえだ きよし、1948年(昭和23年)5月15日 - )とは、日本の政治家。埼玉県知事(2期)、内閣府地域主権戦略会議議員。元衆議院議員(3期)。
来歴
福岡県福岡市に生まれ、大牟田市で育つ。福岡県立三池高等学校、法政大学法学部法律学科卒業。大学では当初司法試験合格をめざして勉強をしていたが、後に断念している。大学在学中、埼玉県所沢市で学習塾「向陽塾」を開業。大学卒業後は早稲田大学大学院へ進学し、大学院在学中の1976年、新自由クラブの立党に参画する。1977年、早稲田大学大学院政治学研究科修了。その後1979年から1986年まで建設大学校(現国土交通大学校)の非常勤講師を務める[1]。
1980年、第36回衆議院議員総選挙に新自由クラブ公認で出馬するが、落選。以後、3度の落選を経験する。新自由クラブ解党後は自由連合に入党。自由民主党の渡辺美智雄から薫陶を受ける。自民党の公認を受けての選挙への出馬を模索したが、公認は得られなかった。
1993年、自民党を離党。結党されたばかりの新生党の公認を受け、第40回衆議院議員総選挙に旧埼玉県第5区から出馬し、初当選を果たした。なお同区では、のちに共に民主党に所属する枝野幸男も日本新党公認で当選している。翌1994年、新生党解党により新進党結党に参加。1996年の第41回衆議院議員総選挙には埼玉県第4区から出馬し、自民党の早川忠孝を破り再選。
1997年、同年末の新進党解党に先駆けて、細川護煕元首相を含む5人で新進党を離党し、細川を党首にフロム・ファイブを結党。翌1998年、国民の声、太陽党、フロム・ファイブの3党が合併し民政党が結成され、民政党の旧民主党への合流により、民主党が結党した。2000年の第42回衆議院議員総選挙には民主党公認で出馬し、自民党の早川忠孝を再度下し3選。
2003年8月、埼玉県知事選挙に無所属での出馬を表明し、衆議院議員を辞職。自民党県連が推薦する島津昭や元衆議院議員の浜田卓二郎、元埼玉県副知事の坂東眞理子、元県議の高原美佐子、元さいたま市議の杉崎智介、警備会社会長の加藤盛雄、不動産鑑定士の山口節生を破り、当選した。
2007年8月、元日本共産党参議院議員の吉川春子、元高校教諭の武田信弘を大差で破り、再選。なおこの知事選の投票率は27.67%で、史上最低であった。
2011年、全国知事会会長選挙に出馬し22票を獲得するも、25票獲得した京都府知事山田啓二に敗れた。同年6月24日、県議会6月定例会一般質問に対する答弁で、7月知事選への3選出馬を表明[2]。
政策・主張
地方自治
- 東京都知事石原慎太郎・神奈川県知事松沢成文と協調、道州制・首都圏連合を推進。ディーゼル車の排ガス規制を共同で実施。2007年東京都知事選挙・同時期の神奈川県知事選挙においては両者を支援(なお、東京都知事選挙では民主党推薦の浅野史郎も出馬していたが彼を無視して石原を支援した)。石原・松沢間の「交換演説」も発案し実現。逆に2007年8月の埼玉県知事選挙においては石原と松沢が上田の応援にやって来た。県知事選挙では国会議員時代の所属政党を超え、三者の連携は緊密化している。また、森田健作とも親密で森田が2005年3月に千葉県知事選に出馬した際には、石原・松沢と共に応援に駆けつけている。経済政策に関しては強硬な新自由主義者である石原・松沢とはやや趣きを異にし、地方への再分配については一定の理解をもっている。とはいえ、自身も知事在任中は両者に引けを取らないほど強力な福祉削減政策を押し進めている。
- 埼玉高速鉄道の経営改善と早期延伸推進。同鉄道は開業後しばらく赤字経営だったが、上田が立ち上げた「埼玉高速鉄道検討委員会」の成果により、2003年度には借入金と減価償却費を除く基礎的収支が開業後初の黒字となった。さらに経営再建を進めるため、2004年、しなの鉄道の経営で辣腕を振るった杉野正社長を自ら社長に招聘し、旅行業への進出やギフト販売(2007年1月末日終了)など副業にも乗り出した。2006年11月、杉野は2007年神奈川県知事選挙に出馬を表明し、2006年11月16日の臨時取締役会を最後に社長を退任した。
- 県のマスコットキャラクター「コバトン」を制定し、各所で使用。関連グッズも販売。
- 岡田尊司「脳内汚染」に感銘を受け、首都圏サミットにおいて4都県・4政令指定都市共同で文部科学省と別にゲーム脳の実在証明を研究することを提唱。少年犯罪はゲームが原因であると主張。
- 全国知事会では「公共調達に関するプロジェクトチーム」座長を務める。2006年12月、官製談合防止のガイドラインの取りまとめを行った。
- 行財政改革に積極的であるといわれ、人口当たりの埼玉県職員の数は日本一少ない。
教育・女性関連
- ジェンダーフリー反対。県立伝統高校の男女共学化反対。
- いじめ問題に関して、いじめられる側に理解を示しつつも強気な持論を展開している。
- 2004年10月、県議会答弁で、「新しい歴史教科書をつくる会」を支持し、同会の歴史教科書を評価。中国・韓国・北朝鮮の抗議を内政干渉であると批判。同年12月20日、同会の副会長であった高橋史朗明星大学教授を埼玉県教育委員に指名したが、教科書の中立性維持という観点からの批判があった。
- 2006年6月議会で、埼玉県平和資料館の展示に関する質問に対し、「古今東西、慰安婦はいても従軍慰安婦というのはいなかった」と答弁。これを批判する活動家との面会で知事は、当時の人々の不幸な境遇につき理解を示したものの、自説を通した。面談後、「慰安婦はいた。異常な戦争状態では強制連行もあったと思う」と強制連行は認めた(面談を要請した李容洙も参照。ただし「強制連行もあったと思う」と発言したとされるが、「外国人の強制連行もあったと思う」とは言っていない)。
- 2009年7月1日、県議会本会議で、「日本の国旗や国歌が嫌いだというような教員は辞めるしかないのではないか。そんなに嫌だったら辞めたらいい」と発言し、物議を醸した[3]。この発言を受けて、直後から県庁にメールが殺到していることが翌日分かった。このうち9割以上が「知事に同感」という意見で、電話で寄せられた意見もほぼ同様であった。上田は2日、報道陣に対し「国民や県民の常識は健全だと思う」と話した[4]。
- 2010年3月18日、鳩山由紀夫内閣が進める高校無償化政策で、無償化の対象に朝鮮学校を含めるかどうかの議論が続く中、上田は朝鮮学校について「一般的に、拉致に関与した疑いのある朝鮮総連の配下にある。日本の高校と同じ扱いをするのは無理がある」と述べた[5]。
公共事業関連
- 民主党が八ツ場ダムの建設を中止する意向を示していることに対して、「無責任」と非難している。第1の理由は、埼玉の水源不足であり、第2は、7割方ダム以外の周辺工事が終了しているにも関わらず中止した場合は完成にかかる費用を上回る可能性があることを挙げている。この点については、民主党の埼玉県議の間でも賛否が分かれている。
- 民主党が掲げた高速道路無料化に向けての施策ついても疑義を呈し、2010年2月に公表された「高速道路無料化社会実験計画案」についても、首都圏の高速道路が少なく地域に偏りがあることや実験区間の距離が短すぎることなどを問題点として指摘、有用なデータが収集できないのではないかと疑問を投げかけている。
対北朝鮮政策
日本人拉致問題
- 北朝鮮による日本人拉致問題では家族会・救う会を支援。家族会・救う会とともに訪米。集会・街頭活動にも参加。
- 安倍晋三・平沢勝栄・平沼赳夫・西村真悟・松原仁らとともに拉致議連を結成。最初から加入していたメンバーの一人で同会の副会長をつとめていた。
- 2008年11月22日、さいたま市浦和区で開かれた「第6回拉致問題を考える埼玉県民の集い」において、「拉致問題と戦う知事の有志の会」(拉致知事会)を発足させることを明らかにした。同会の結成は宮城県仙台市長梅原克彦の提案によるものである。上田の他東京都知事石原慎太郎、千葉県知事堂本暁子、新潟県知事泉田裕彦、鳥取県知事平井伸治の5名が発起人となり、全国の知事に参加を呼びかける。石原を会長とし、家族会・救う会・特定失踪者問題調査会・拉致議連と連携して活動する方針。
外国人参政権
- 永住外国人への地方選挙権付与に反対。安倍晋三とは同法案反対をきっかけにパイプができたと月刊誌VOICEの中で明らかにしている。
- 2010年1月19日、記者会見で、外国人参政権について、「一貫して反対の立場だ。慎重に対応すべきだ」「そもそも在日の3世、4世になっても日本国籍を取得しないことの方が違和感がある」と述べ、反対を表明した[6]。
土屋県政
- 土屋義彦前知事の県政については、「問題もあったが、評価すべき業績は多い」と語り、政治資金をめぐる不祥事で引退に追い込まれた土屋に対する表立った批判はせず、対立の火種を作らぬ配慮を見せる。土屋知事時代に与党だった県議会各会派との融和に努め、自身も「首都圏連合」など前知事の県政構想や事業の一部を継承している。
- 土屋前知事と対立していた元埼玉県議会議長佐久間実(当時は自民党籍無所属。2007年5月、自民党会派に復帰)は、選挙中から上田支持に回りその当選を歓迎。野党会派となった自民党県議団を上田知事に引き合わせ、自民党県議団内の知事支持派と連携。自民党県議団の与党会派化を推進した。
人物
- 埼玉県では史上初の新住民知事。埼玉県志木市在住。
- 1980年の初立候補以降4度の連続落選を経験した。度重なる落選にめげることなく地道な政治活動・選挙活動を続け現在の地位まで上り詰めた。徹底したドブ板戦術から、いつしか「選挙の鉄人」の異名をとる様になり、そのことは地元選挙区以外でも知られる。実際選挙では連戦連勝で小泉純一郎元首相をして「あの男とだけは戦いたくない」と言わしめるほどである。なお上田の生まれ故郷を含む福岡県第7区選出の古賀誠も、上田が福岡7区から立候補しなかったことに感謝する発言をしている。
- 初出馬以来新自由クラブ、自由連合、新生党、新進党、フロムファイブ、民政党、民主党等、政界再編に伴い数多くの政党に所属してきたが、信条的には一貫して保守である(ただし、学生時代は、時代背景から左翼的な面もあった)。2003年の知事選出馬以降は無所属であり、選挙時にも政党の推薦は受けていない(支援は受けている)。一方、埼玉県議会や県内市町村長及び市町村議会には「上田党」と呼ばれる知事の側近グループが存在し、神杉一彦(民主党公認)・醍醐清(無所属・会派は民主党)・吉田芳朝(無所属・会派は民主党)・鈴木正人(無所属・会派は刷新の会)ら、いずれも保守色を鮮明にし、上田知事を支持している。また民主党に所属する浅野目義英は上田とは30年来の付き合いであり、上田の側近の1人である。
- 2006年12月、埼玉県議会において自由民主党所属の県議から、質問の中で「やめろ」「国会に戻れ」「知事の政治はメッキだ」などと批判され、激怒した。なお、発言を行った議員はその後、同じ自民党所属の県議からも上田知事に対する発言に関して批判を受けた。
- アール・エフ・ラジオ日本「ミッキー安川のずばり勝負」にたびたび出演。2007年3月10日の「朝まで勝負」の放送では、「やっぱり先祖は大事にしないといけないですよ。うちは、ご飯を食べる前に、子供たちに「おじいちゃん、おばあちゃん、いただきます」って言わせてますよ。子供たちもおじいちゃん達を信じているし、こういう事が大事なんじゃないかな」と述べている。
- 街頭で演説をする際、著作権法違反を承知の上で映画「ロッキー」のテーマを繰り返し使用している。なおこれは上田の後継候補である神風英男も同様。
- 2006年5月20日にさいたま市で開催された世界基督教統一神霊協会(統一教会)の関連組織・天宙平和連合の会合に祝電を送っていたことが判明し、「全国霊感商法対策弁護士連絡会」が質問状を送付している。
- 2007年4月2日に行われた埼玉県の新規採用職員の就任式で、「自衛官は大変だ。平和を守るために人殺しの練習をしている。「国民の生命と財産を守るために頑張って下さい」と褒めたたえないといけない」と発言。式後に「殺傷という言葉を使えば良かったかもしれない。分かりやすくなり過ぎて、きつい言葉となった」と釈明したが、3月30日に鹿児島県で民間人の急患輸送任務に就いていた陸上自衛隊CH-47ヘリコプターが墜落し、乗員4名が殉職する事故が起こった直後であったこともあり、厳しい批判を浴びた。本件については、防衛省事務次官守屋武昌が同日の記者会見で、「自衛隊の現場は多種多様で、一つの戦闘場面に限定されるものではないということを理解してほしい」と不快感を示した。さらに警察官の職務について「人を見れば泥棒と思ったり」、「人を疑ったり人を痛めつける練習」をしていると被疑者への拷問を容認したとも取れる発言をした。一方で、県職員については、「多くの人に喜びを与えて感謝され、自らも喜びを感じることができる、最大のサービス産業」と強調していた。
- 1993年の離党以来、自民党からは距離を置いてきたが、2007年の知事選では自民・公明2党からも支援を受け、自民党県議の佐久間実の仲介で所沢市長の斎藤博を選挙対策本部長に迎えた他、告示日当日の応援演説の第一声を自民党所属の吉田弘埼玉県議会議長が上げた。またこの選挙に使用した街宣車は自民党からレンタルしたものであったが、車内には民主党の河村たかしや原口一博が応援の際に乗車していた。民主党も支援に回り、島田智哉子参議院議員(当時。第22回参議院議員通常選挙で落選)秘書、武正公一衆議院議員の元秘書らが上田の選挙対策本部に加わっている。
著書
- 「法律は「お役人」のメシの種 国会議員が書いた日本的官僚システムのからくり」(オーエス出版 1998年) ISBN 4-87190-489-X
- 「これが政治改革だ 日本の未来を信じる人のために」(五十嵐文彦・石井健祐・進藤初洋・中村博彦・牧野聖修・山田智信との共著)(理想政治研究会発行・明日香出版社発売 1992年)
関連項目
脚注
- ^ 埼玉県知事選挙初当選直後の2003年9月、一部週刊誌などが上田の「建設大学校講師」という経歴について、「上田は建設大学校の分校の研修所で講師を務めていたものであり、東京都小平市の建設大学校本校の講師であったかのように経歴を詐称している」と報道した。これに対し上田本人が反応する前に建設大学校が反論。同大学校は「建設大学校の講師はすべて「建設大学校講師」として建設省によって採用され、担当授業・職務によって本校や分校、研修所等に配属されるものであって、「本校講師」「分校講師」のような肩書きや待遇の差はもとより存在しない。全員「建設大学校講師」であり週刊誌報道は誤り」との見解を発表。上田も「建設大学校の説明の通り」とのみ述べた。週刊誌は記事を取り消し、謝罪文を掲載している。
- ^ 上田清司知事が3選出馬を表明 「3期目の戦いにチャレンジする」 - MSN産経ニュース、2011年6月24日
- ^ “「国歌嫌いは辞めるしかない」 教員不起立で埼玉県知事”. 共同通信. (2009年7月1日) 2009年7月1日閲覧。
- ^ “「国旗・国歌が嫌いな教員は辞めるしかない」知事発言にメール殺到 支持が9割”. 産経新聞. (2009年7月2日) 2009年7月2日閲覧。
- ^ 岸本悠 (2010年3月19日). “高校無償化:朝鮮学校無償化、上田知事「極めて問題だ」 /埼玉”. 毎日新聞 2010年3月21日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “「日本国籍未取得に違和感」=埼玉県知事”. 時事通信. (2010年1月19日) 2010年1月19日閲覧。[リンク切れ]
外部リンク
- 埼玉県知事 上田きよし(公式サイト)
- 知事の部屋(県庁内サイト)
54代-第56代 土屋義彦 |
埼玉県知事 57代-第58代:2003 - 現職 |
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