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「氣比神宮」の版間の差分

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{{神社
{{神社
|画像 = [[画像:Kehi-jingu07s3200.jpg|300px]]<br/>中鳥居
|名称 = 氣比神宮
|名称 = 氣比神宮
|画像 = [[ファイル:Kehi-jingu otorii-2.jpg|260px]]<br />大鳥居(国の[[重要文化財]])
|所在地 = [[福井県]][[敦賀市]]曙町11-68
|所在地 = [[福井県]][[敦賀市]]曙町11-68
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|祭神 = 伊奢沙別命(気比大神)
|祭神 = 伊奢沙別命
|神体 =
|社格 = [[式内社]]([[名神大社|名神大]])<br/>[[越前国]][[一宮]]<br/>旧[[官幣大社]]<br/>[[別表神社]]
|社格 = [[式内社]]([[名神大社|名神大]]7座)<br />[[越前国]][[一宮]]<br />旧[[官幣大社]]<br />[[別表神社]]
|創建 = (伝)第14代[[仲哀天皇]]8年(創祀は上古)
|本殿 =
|別名 = 笥飯宮・笥飯大神宮
|札所等 =
|例祭 = [[9月4日]]
|例祭 = [[9月4日]]
|神事 = 御誓祭([[3月6日]])<br/>御名易祭([[3月8日]])<br/>総参祭([[7月22日]])<br/>気比の長祭([[9月2日]]-[[9月15日|15日]])
|神事 = 御誓祭([[3月6日]])<br />御名易祭([[3月8日]])<br />御田植祭([[6月15日]])<br />牛腸祭([[6月16日]])<br />総参祭([[7月22日]])<br />気比の長祭([[9月2日]]-[[9月15日|15日]])
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}}
{{座標一覧}}
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'''氣比神宮'''(けひじんぐう)は、[[福井県]][[敦賀市]]にある[[神社]]。[[式内社]]([[名神大社]])、[[越前国]][[一宮]]。[[近代社格制度|旧社格]]は[[官幣大社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。
'''氣比神宮'''(けひじんぐう、気比神宮)は、[[福井県]][[敦賀市]]曙町にある[[神社]]。[[式内社]]([[名神大社]])、[[越前国]][[一宮]]。[[近代社格制度|旧社格]]は[[官幣大社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。


== 概要 ==
== 概要 ==
[[ファイル:Tsuruga city center area Aerial photograph.1975.jpg|thumb|{{Center|[[敦賀市]]中心部航空写真}}{{small|1975年撮影の4枚を合成作成。{{国土航空写真}}。中央右上にある一画の緑地が氣比神宮境内になる。}}]]
古くは「けひ」を「気比」・「笥飯」と記したり、社号を「社」・「宮」・「神社」・「(大)神宮」と称したりと様々であった。[[明治]]28年([[1895年]])の[[神宮|神宮号]]宣下により「'''氣比神宮'''」に改称して現在に至る。現地では「けえさん」とも呼ばれている。
[[福井県]]中央部、[[敦賀市]]市街地の北東部に鎮座する。敦賀は天然の良港を有するとともに、[[北陸道]]諸国(現在の[[北陸地方]])から畿内への入り口であり、{{要出典範囲|対外的にも朝鮮半島や中国東北部への玄関口にあたる要衝である|date=2021年9月}}。神宮はそのような立地であることから、「'''北陸道総鎮守'''」と称されて朝廷から特に重視された神社であった。


『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』では早い時期に神宮についての記事が見えるが、特に[[仲哀天皇]](第14代)・[[神功皇后]]・[[応神天皇]](第15代)との関連が深く、古代史において重要な役割を担う。また、中世には[[越前国]]の[[一宮]]に位置づけられており、[[福井県]]から遠くは[[新潟県]]まで及ぶ諸所に多くの社領を有していた。
本来は食物の神を祀る神社であったとされるが、都と北陸諸国を結ぶ[[北陸道|北陸官道]]に面していること、また敦賀が古来有数の[[津]]であったことから、海陸交通の要衝を扼する神として崇敬された。特に朝廷により、敦賀から[[日本海]]を通じて大陸と交流することから、大陸外交に関する祈願の対象として重視された。[[承和 (日本)|承和]]6年([[839年]])[[遣唐使]]帰還に際して当宮に安全を祈願したり(『[[続日本後紀]]』)、[[弘安]]4年([[1281年]])[[元寇|弘安の役]]に際して[[奉幣]]を行うなどの例がある。なお、『[[日本書紀]]』において、神功皇后が仲哀天皇の命により敦賀から[[長門国|穴門国]]へ向かったと記述するのも、当宮の鎮座と[[三韓征伐]]を前提としたものである。

社殿のほとんどは[[第二次世界大戦]]中の空襲で焼失したため、現在の主要社殿は戦後の再建になる。空襲を免れた大鳥居は{{要出典範囲|「日本三大木造鳥居」にも数えられる壮麗な|date=2021年9月}}朱塗鳥居であり、国の[[重要文化財]]に指定されている。また境内社の[[#摂社|角鹿(つぬが)神社]]は「敦賀」の地名の由来であると伝える。祭事では多数の特殊神事が現在まで続き、古図、古面等の有形文化財を伝えている。さらに、『[[おくのほそ道]]』本文に「けいの明神に夜参す」とあることから、境内は国の[[名勝]]「[[おくのほそ道の風景地]]」の一部に指定されている。

== 社名 ==
神宮の社名について、史料には主なものとして次の呼称が見える{{Sfn|氣比神社七座(式内社)|1986|p=149}}(史料の引用には常用漢字体を使用)。
* 気比大神/気比神(『[[古事記]]』<ref group="原" name="仲哀記">『古事記』仲哀天皇段。</ref>、『[[続日本紀]]』<ref group="原" name="宝亀元" />等)
* 笥飯大神/笥飯神(『[[日本書紀]]』<ref group="原" name="神功13">『日本書紀』神功皇后摂政13年2月甲子(8日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref><ref group="原" name="応神即位前紀" /><ref group="原" name="持統6" />)
* 気比神社(『[[日本後紀]]』<ref group="原" name="延暦23" />、『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]])
* 気比大神宮(『[[続日本後紀]]』<ref group="原" name="承和6年2月" />等)
* 気比神宮(『[[日本文徳天皇実録]]』<ref group="原" name="仁寿2" />等)

[[ファイル:150228 Kehi-matsubara Tsuruga Fukui prefecture Japan02s3.jpg|thumb|{{Center|[[気比の松原]]}}{{small|「気比」の冠称は、かつて松原が神宮に管掌されたことによるという。}}]]
以上のほか、史料には「気比宮」「気比大明神」「気比社」「気比明神」などの呼称も見える{{Sfn|氣比神社七座(式内社)|1986|p=149}}。[[明治維新]]後、[[明治]]28年([[1895年]])には[[神宮|神宮号]]が宣下され、それ以後は社名を「氣比神宮」としている{{Sfn|氣比神社七座(式内社)|1986|p=149}}。なお、[[気比の松原]]の冠称「気比」も神宮の社名に由来するもので、同地が古くは神宮の領地であったことに因むとされる{{Sfn|由緒書|2013}}。

「ケヒ(気比/笥飯)」の由来としては、『古事記』<ref group="原" name="仲哀記" />では「御食津(みけつ)」から「気比」に転訛したという{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=505}}。『古事記』の伝承に加え、古い表記の「笥飯」は[[当て字]]ながら「箱中の飯」を意味することから、「ケヒ」とは「食(け)」の「霊(ひ)」、すなわち食物神としての性格を表す名称とする説がある<ref name="西宮p.403" />{{Sfn|堀大介|2014}}。これとは別に、応神天皇と気比神との名の交換を意味する「かへ(kafë)」から「けひ(këfi)」に変化したとする説もある<ref>西郷信綱『古事記注釈』第6巻([[ちくま学芸文庫]]、2006年)pp. 239-244。</ref>。

以下本項では、社名には「氣比」を使用し、史料の引用など社名以外では常用漢字体の「気比」を使用して解説する。


== 祭神 ==
== 祭神 ==
祭神は以下の7柱。'''本宮'''に主祭神と2柱、周囲の'''四社'''(ししゃのみや)にそれぞれ1柱を祀る。
祭神はの7柱{{Sfn|由緒書|2013}}本殿(本宮に主祭神と2柱、本宮周囲の四社宮(ししゃのみや)にそれぞれ1柱を祀る{{Sfn|由緒書|2013}}
; 本殿(本宮)
:* '''伊奢沙別命'''(いざさわけのみこと) - 主祭神。「'''気比大神'''」または「'''御食津大神'''」とも称される。
:* [[仲哀天皇]](ちゅうあいてんのう) - 第14代天皇。
:* [[神功皇后]](じんぐうこうごう) - 仲哀天皇の[[皇后]]。
; 四社の宮
:* 東殿宮:[[ヤマトタケル|日本武尊]](やまとたけるのみこと)
:* 総社宮:[[応神天皇]](おうじんてんのう) - 第15代天皇。
:* 平殿宮:玉姫命(たまひめのみこと、玉妃命) - 『気比宮社記』では神功皇后の妹の[[虚空津比売命]]とする。
:* 西殿宮:[[武内宿禰|武内宿禰命]](たけのうちのすくねのみこと)

<div class="thumb tright">
<div style="margin: 0px; padding: 2px; border: 1px solid #a2a9b1; text-align: center; border-collapse: collapse; font-size: 95%; text-align:center; font-size:80%">
'''祭神関係略図'''<br />(伊奢沙別命を除く6柱の関係を社伝に基づいて掲載。数字は天皇代数)
{{familytree/start|style="text-align:center; font-size:100%"}}
{{familytree|border=0|01| 01=[[ヤマトタケル|日本武尊]]}}
{{familytree|border=0||!|||||,|.|}}
{{familytree|border=0|01|y|02|03| 01={{sup|14}} [[仲哀天皇]]|02=[[神功皇后|{{color|#FC4E6B|神功皇后}}]]|03={{color|#FC4E6B|玉姫命}}}}
{{familytree|border=0|||01||||||02| 01={{sup|15}} [[応神天皇]]|02=[[武内宿禰|武内宿禰命]](家臣)}}
{{familytree/end}}
</div></div>
祭神を7柱とする記載は、古くは『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]に見える{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=505}}。『気比宮社記』によれば、当初の祭神は伊奢沙別命1柱であったが、[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年]])の社殿造営にあたって仲哀天皇・神功皇后を本宮に[[合祀]]、周囲に日本武尊ほか4柱を配祀したとする{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=505}}。

=== 祭神について ===
上記の通り主祭神は'''イザサワケ'''(伊奢沙別/去来紗別)で、氣比神宮特有の神である{{refnest|group="注"|『気比宮社記』等では仲哀天皇を主祭神とする説を記すが、記紀や社伝の経緯からイザサワケを主祭神とするのが妥当とされる{{sfn|氣比神社七座(式内社)|1986|p=149}}。}}。神名「イザサワケ」のうち「イザ」は誘い・促し、「サ」は神稲、「ワケ」は男子の敬称の意といわれる<ref name="西宮p.403">西宮一民校注『古事記』(新潮社、1979年)p. 403。</ref>。そのほかの名称として、史書では「笥飯」「気比」「御食津」と記されるほか、『気比宮社記』では「[[保食神]]」とも記される{{Sfn|堀大介|2014}}。これらは、いずれも祭神が食物神としての性格を持つことを指す名称であり{{Sfn|堀大介|2014}}、敦賀が海産物朝貢地であったことを反映するといわれる<ref name="西宮p.403" />。このことから、神宮の祭神は上古より当地で祀られた在地神、特に海人族によって祀られた海神であると解されている{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=505}}{{Sfn|中世諸国一宮制|2000|p=332}}{{Sfn|堀大介|2014}}。一方、『[[日本書紀]]』<ref group="原">『日本書紀』垂仁天皇3年3月条。</ref>に[[新羅]]王子の[[アメノヒボコ|天日槍]]の神宝として見える「胆狭浅大刀(いささのたち)」との関連性の指摘があり{{Sfn|気比大神(県史)|1993}}{{Sfn|堀大介|2014}}、イザサワケを天日槍にあてて新羅由来と見る説もある{{Sfn|敦賀津(角川)|1989}}。


[[ファイル:Emperor Ōjin.jpg|thumb|200px|right|{{Center|[[応神天皇]](『[[集古十種]]』)}}{{small|第15代天皇。『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』によれば伊奢沙別命(神宮の主祭神)と名を交換したという。}}]]
* 本宮
このイザサワケは、[[仲哀天皇]]・[[神功皇后]]・[[応神天皇]]と深いつながりにあることが『[[古事記]]』<ref group="原" name="仲哀記" />『[[日本書紀]]』<ref group="原">『日本書紀』仲哀天皇2年条。</ref><ref group="原" name="神功13" />によって知られる。両書では、仲哀天皇が角鹿に行宮として「笥飯宮」を営んだとあるほか、天皇の紀伊国滞在中に熊襲の謀叛があり角鹿にいた神功皇后を出発させたと見え、角鹿の地が登場する{{Sfn|堀大介|2014}}。神功皇后は、仲哀天皇の突然死を経て新羅に遠征([[三韓征伐]])、帰途に太子(誉田別尊;応神天皇)を産んだ{{Sfn|堀大介|2014}}。そして、皇后と太子がヤマトへ戻る際に謀叛があったが無事平定し、太子は武内宿禰に連れられて[[禊]]のため気比神に参詣したという{{Sfn|堀大介|2014}}。以上のように、歴史の早い段階から気比神が朝廷の崇敬を受ける神として登場しており{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=505}}、一連の出征の始まり・終わりを成したことから古くは軍神として崇敬されたとも見られる{{Sfn|堀大介|2014}}。
** '''伊奢沙別命''' (いざさわけのみこと) - 主祭神。'''気比大神'''とも呼ばれる
** [[仲哀天皇]] (ちゅうあいてんのう) - 第14代。本名は帯中津彦命(たらしなかつひこのみこと)
** [[神功皇后]] (じんぐうこうごう) - 仲哀天皇の妃。本名は息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)
* 東殿宮(本宮の東)
** [[ヤマトタケル|日本武尊]] (やまとたけるのみこと)
* 総社宮(東北)
** [[応神天皇]] (おうじんてんのう) - 第15代。本名は誉田別命(ほんだわけのみこと)
* 平殿宮(西北)
** 玉妃命 (たまひめのみこと) - 神功皇后の妹・[[虚空津比売命]]を指す
* 西殿宮(西)
** [[武内宿禰|武内宿禰命]] (たけのうちのすくねのみこと)


『[[古事記]]』<ref group="原" name="仲哀記" />ではその後の経緯として、武内宿禰に連れられた太子(応神天皇)はイザサワケと名の交換を行ったとする('''易名説話''')。説話によれば、太子が角鹿(敦賀)の仮宮を営んでいると、夜の夢にイザサワケが現れて名を交換するよう告げられた{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=505}}。太子が承諾するとイザサワケは翌朝に浦に出るように言い、太子が言われたとおりにすると浦には一面にイザサワケの献じた入鹿魚([[イルカ]])があった{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=505}}。これにより太子はイザサワケを「御食津大神(みけつのおおかみ)」と称え、のちにその名が「気比大神」となったという{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=505}}。同様の説話は『日本書紀』<ref group="原" name="応神即位前紀">『日本書紀』応神天皇即位前紀({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>でも別伝として記されているが、『古事記』『日本書紀』とも内容には疑問点が指摘される{{refnest|group="注"|『古事記』ではケヒ神の原名は「イザサワケ」であるが応神は説話後「ホムダワケ」と称している点<ref>{{Citation |和書|last=|first=|author=三浦佑之/訳・注釈|year =2002|title =口語訳古事記|publisher =文藝春秋|page=226-227|isbn=4163210105}}</ref>、名を交換した後に応神が「御食津大神」と名付ける点に不自然さがある{{sfn|堀大介|2014}}。また、『日本書紀』ではケヒ神の原名を「誉田別神」とするが、和風諡号(死後の名)であるはずの「誉田天皇」との混同が見られる{{sfn|ケヒ神へのヤマト朝廷の関与(県史)|1993}}。}}。この説話の解釈には諸説あるが、特にその真相を「名(な)と魚(な)の交換」すなわち「名の下賜」と「魚の献上」であるとして、気比神(とその奉斎氏族)の王権への服属儀礼を二重に表すと見る説が有力視される{{Sfn|堀大介|2014}}。また、以上のように当地が応神天皇系の勢力基盤であったことは、越前から出た応神天皇五世孫の[[継体天皇]](第26代)とも関係するといわれる{{Sfn|気比大神(県史)|1993}}。
『気比宮社記』によれば、[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年]])、勅命により社殿を修造するに際して仲哀天皇・神功皇后を[[合祀]]し、そののち更に日本武尊以下4柱を配祀したとする。なお、玉妃命は[[虚空津比売命]](神功皇后の妹)を指す。『[[延喜式神名帳]]』にも祭神が7柱であると記されている。


イザサワケとともに祀られる仲哀天皇以下6柱に関しては、7世紀後半に天皇霊が国家守護神として各地に設置された動きと関連づける説がある{{Sfn|堀大介|2014}}。その中で、守護神として合祀された仲哀天皇は敗者の霊として「[[祟り|祟り性]]」を備えていたために、全国でも早期の[[神宮寺]]成立・[[神階]]昇叙につながったと指摘される{{Sfn|堀大介|2014}}。
=== 祭神の経緯 ===
主祭神である伊奢沙別命の名義は不詳である。「気比(けひ)」は「食(け)の霊(ひ)」という意味で、『[[古事記]]』でも「御食津大神(みけつおおかみ)」と称されている。古代敦賀から[[ヤマト王権|朝廷]]に[[贄]](にえ)を貢納したために「[[御食国]]の神」という意味で「けひ大神」と呼ばれたとされる。後世の社伝ではあるが、『[[気比宮社記]]』においても「[[保食神]]」と称されている。なお「御食津大神」の名は『古事記』において、大神が誉田別命に「御食(みけ)の魚(な)」を奉ったので、その返礼として奉られたのが起源とされる。[[西郷信綱]]は、この「魚(な)」と「名(な)」を交換したという説話全体が、「けひ(k&euml;fi)」という語の発生を、交換を意味する「かへ(kaf&euml;)」という語に求める1つの起源説話であろうとする<ref name="a">西郷信綱『古事記注釈』第6巻([[ちくま学芸文庫]]、2006)239~244頁</ref>。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 創建・伝承 ===
当宮の記録は『日本書紀』神功皇后摂政13年条の、皇后が誉田別命と武内宿禰を参拝せしめた記事が最初であるが、その以前から存在していたと思われ、『気比宮社記』によれば、神代よりの鎮座で、当宮に[[行幸]]した仲哀天皇が自ら神前に三韓征伐を祈願し、征伐にあたっても皇后に玉妃命・武内宿禰を伴って当宮に戦勝を祈願させ、その時気比大神が玉妃命に神懸かりして勝利を予言したという。
[[ファイル:Empress Jingu and Minister Takenouchi by Utagawa Kunisada I.jpg|thumb|160px|right|{{Center|[[神功皇后]]と[[武内宿禰]]<br />([[歌川国貞]]画)}}]]
社伝では、上古に主祭神の伊奢沙別命は東北方の[[天筒山]]に霊跡を垂れ、境内北東方にある[[#土公|土公]]の地に降臨したという{{Sfn|由緒書|2013}}。そして『気比宮社記』によれば、[[仲哀天皇]]の時に[[神功皇后]]が[[三韓征伐]]出兵にあたって気比神に祈願をすると、海神を祀るように神託があり、皇后は穴門に向かう途中で海神から干・満の珠を得た{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=504}}。そして仲哀天皇8年3月に神功皇后と[[武内宿禰]]が[[安曇氏|安曇連]]に命じて気比神を祀らせたといい、これが神宮の創建になるとしている{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=504}}。またこの時、気比大神は玉姫命に神憑りして三韓征伐の成功を再び神託したとも伝える{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=504}}。その後[[大宝 (日本)|大宝]]2年([[702年]])に[[文武天皇]]の勅によって社殿を造営し、本宮に仲哀天皇・神功皇后を合祀、東殿宮・総社宮・平殿宮・西殿宮の4殿に各1柱を祀ったという{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=505}}。


また前述のように、『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』では仲哀天皇・神功皇后・応神天皇の時期に記事が記されている。しかしながら、その後は[[持統天皇]]6年([[692年]])まで神宮に関する記事は見えないことから、[[7世紀]]中頃までは朝廷とのつながりは薄かったとして、7世紀後半頃に気比神の祭祀権が在地豪族から朝廷の手に移ったと推測される{{Sfn|ケヒ神へのヤマト朝廷の関与(県史)|1993}}{{Sfn|ケヒ神との易名説話(県史)|1993}}。
[[持統天皇]]6年([[692年]])[[封戸]]20戸が増納され(『日本書紀』)、[[天平]]2年([[730年]])には封戸200戸が充てられ、その後[[天平神護]]元年([[765年]])更に44戸が追進された(以上『[[新抄格勅符抄]]』)ほか、[[宝亀]]元年([[770年]])を初見(『[[続日本紀]]』)としてたびたび奉幣もされるなど朝廷から厚遇され、延喜の制で7座全てが名神大社に列した。また『気比宮社記』によれば、大宝2年(702年)に初めて[[文武天皇]]により社殿が修造されて以来、社殿造営は勅命によるとされ、[[遷宮]]にあたって[[勅使]]が差遣される慣例であったが、[[弘仁]]元年([[810年]])を最後に勅による造営は絶えたという。更に[[霊亀]]元年([[715年]])、[[藤原武智麻呂]]が夢告によって[[神宮寺|気比神宮寺]]を建立して、[[神仏習合]]の早期の1例を示すが(『[[藤氏家伝|武智麻呂伝]]』)、中世に廃絶したのか現在はその旧跡も不明である。


=== 概史 ===
以後も[[寛仁]]元年([[1017年]])に[[後一条天皇]]が一代一度の大奉幣使を差遣して[[神宝]]を献じるなど朝廷の崇敬は変わらず、また封戸を[[荘園|荘園化]]して敦賀を中心に一部は[[佐渡国|佐渡]]・[[越後国|越後]]にも及ぶ20所以上の[[神領]]を有する北陸屈指の大社であったため、中世を通じて一般に'''北陸道総鎮守'''・'''越前国一宮'''と仰がれて隆盛し、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には[[南朝 (日本)|南朝]]方に与したため神領地を滅じたが、なお24万石を所領していた。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に大宮司[[気比憲直]](けひのりなお)が[[朝倉氏|越前朝倉氏]]についたため、[[元亀]]元年([[1570年]])、[[織田信長]]の越前攻略により、社殿焼失、社領没収、[[社家]]、[[社僧]]の離散等社勢は衰退したが、[[江戸時代]]に[[福井藩|福井藩祖]]の[[結城秀康]]によって再興され社領100石を寄進されて以来、福井藩や[[小浜藩]]の保護を受けた。
==== 古代 ====
国史において気比神が再び現れるのは[[持統天皇]]6年([[692年]])<ref group="原" name="持統6" />で、その記事では越前の国司が角鹿郡の浜で獲った白蛾を献上したため、20戸の[[神封]](神社に寄進された[[封戸]])が増封されたと記されている{{Sfn|堀大介|2014}}。[[霊亀]]元年([[715年]])には境内に[[神宮寺]]([[#気比神宮寺|気比神宮寺]])が設けられたというが、これは文献上で全国最古の神宮寺成立になる{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=505}}。また『[[新抄格勅符抄]]』<ref group="原" name="大同元年牒" />によれば、[[天平]]3年([[731年]])に従三位料として200戸の神封があり、[[天平神護]]元年([[765年]])には神封は244戸に及んだ{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=505}}。同記事では[[神階]]として「従三位」と記されているが、これも全国諸神の神階記事の内で最古になる{{refnest|group="注"|気比神の従三位記事に先立ち、『日本書紀』天武天皇元年(673年)7月23日条に[[大和国]]の[[河俣神社|高市御県坐鴨事代主神]]・[[牟狭坐神社|牟狭坐神]]・[[村屋坐弥冨都比売神社|村屋坐弥富都比売神]]の3神に品を授けたとあるが、この「品」は等級程度の意味で神階にはあたらないとされる<ref>小倉慈司「八・九世紀における地方神社行政の展開」、史学雑誌、1994年</ref>。}}。その後、神階は[[寛平]]5年([[893年]])までに[[正一位]]勲一等の極位に達した{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=505}}。このような神階昇叙には9世紀の東アジア情勢が背景にあり、この時期に海神としての本来の性格が朝廷から重要視されたと推測される{{Sfn|中世諸国一宮制|2000|p=332}}。


また、神宮は朝廷鎮護の重要な一角として古くから朝廷との結びつきが強く{{Sfn|中世諸国一宮制|2000|p=332}}、朝廷からの[[奉幣]]が[[宝亀]]元年([[770年]])<ref group="原" name="宝亀元">『続日本紀』宝亀元年(770年)8月辛卯(2日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>(使者:中臣葛野連飯麻呂)、[[承和 (日本)|承和]]6年([[839年]])<ref group="原">『続日本後紀』承和6年(839年)8月己巳(20日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>(使者:大中臣朝臣礒守・大中臣朝臣薭守)、[[仁寿]]2年([[852年]])<ref group="原" name="仁寿2">『日本文徳天皇実録』仁寿2年(852年)8月癸丑(19日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>、[[貞観 (日本)|貞観]]元年([[859年]])<ref group="原">『日本三代実録』貞観元年(859年)7月14日条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>(使者:大中臣朝臣豊雄)にあった。また、承和6年(839年)<ref group="原" name="承和6年2月">『続日本後紀』承和6年(839年)2月戊寅(26日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>には神宮の雑務は国司預かりから[[神祇官]]直轄に移行され、朝廷との関わりを一層強めている{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=505}}。
明治4年([[1871年]])[[近代社格制度|国幣大社]]に列し、同28年官幣大社に昇格した。


[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])成立の『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]では[[越前国]][[敦賀郡]]に「気比神社七座 並名神大」と記載され、七座が[[名神大社]]に列している{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=505}}。また、同帳に見える「角鹿神社」「大神下前神社」「天利剣神社」「天比女若御子神社」「伊佐奈彦神社」の式内社5社は神宮の境内社に比定される{{Sfn|由緒書|2013}}。そのうちでも特に、天利剣・天比女若御子・天伊佐奈彦の3社は『続日本後紀』<ref group="原" name="承和7" />において「気比大神之御子」と見える。このことから、神宮周辺の諸社が[[御子神]]として編成されたとして、敦賀の在地社会において神宮中心の国家祭祀体系が構築されたと考えられている{{Sfn|中世諸国一宮制|2000|p=332}}。
昭和20年([[1945年]])7月12日、[[福井空襲]]により旧国宝の本殿が焼失する。


==== 中世から近世 ====
第二次大戦後は[[神社本庁]]に属し、現在その[[別表神社]]とされている。
中世以降は越前国の[[一宮]]に位置づけられ{{Sfn|中世諸国一宮制|2000|p=332}}、「北陸道総鎮守」とも称されたという{{Sfn|気比神宮(国史)|1985|p=118-119}}。古代に続いて中世も広大な社領を有しており、その土地は越前を中心として遠く越中・越後・佐渡にまで及んでいた{{Sfn|社領(国史)|1985|p=119}}。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の戦乱では、宮司の気比氏治は南朝方につき[[金ヶ崎城]]を築いて奮戦したが、北朝方に敗れ一門は討ち死した{{Sfn|由緒書|2013}}。この敗死により神宮の社領も減じられたが、それでもなお24万石を所領したと伝える{{Sfn|由緒書|2013}}。神宮は中世を通じて社殿焼失が多く、史料には再建を示す記事が多く見られる{{Sfn|気比神宮(角川)|1989}}。


[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には、社家は[[戦国大名]][[朝倉氏]]の下に組み込まれた{{Sfn|中世諸国一宮制|2000|p=332}}。そのため、[[織田信長]]の侵攻によって社殿のほとんどを焼失、朝倉氏滅亡とともに社領も没収されて社勢は著しく衰退した{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=506}}。
なお、『古事記』には「気比大神」について以下の記述がある。

{{quotation|
[[江戸時代]]に入ると[[慶長]]8年([[1603年]])に[[結城秀康]]から100石が寄進され、慶長9年([[1604年]])には社殿造営がなされて再興が果たされた{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=506}}。その後は、[[徳川家光]]から秀忠の病気平癒祈願料として50石が寄進されたほか、[[大野城 (越前国)|大野城主]]の松平但馬守などからの奉幣も受けている{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=506}}。しかしながら、かつての繁栄は見られなくなったという{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=506}}。
'''校定古事記 中巻 仲哀天皇'''<br/>

故建内宿禰命。率其太子。爲將禊而。經歴淡海及若狹國之時。於高志前之角鹿。造假宮而坐。 爾坐其地。伊奢沙和氣大神之命。見於夜夢。云。以吾名。欲易御子之御名。爾言祷。白之。恐隨命易奉。亦其神詔。明日之旦。應幸於濱。獻易名之幣。故其旦。幸行于濱之時。毀鼻入鹿魚。既依一浦。於是御子。令白于神云。於我給御食之魚。故亦稱其御名。號御食津大神。故於今。謂氣比大神也。亦其入鹿魚之鼻血〓[自+死]。故號其浦謂血浦。今謂都奴賀也。<ref name="b">[http://www.j-texts.com/sheet/kkojiki.html J-TEXTS 日本文学電子図書館] 本居豊頼・井上頼国・上田万年、『校定古事記』、明治43年4月1日、皇典講究所
==== 近代以降 ====
</ref> 
[[明治維新]]後、[[明治]]4年([[1871年]])に[[近代社格制度]]において[[国幣大社|国幣中社]]に列した{{Sfn|氣比神社七座(式内社)|1986|p=150}}。明治28年([[1895年]])には[[官幣大社]]に昇格するとともに、神宮号宣下により社名を現在の「氣比神宮」に改称した{{Sfn|氣比神社七座(式内社)|1986|p=150}}。
</sub>

}}
[[1933年]](昭和8年)[[10月30日]]、福井県で行われた[[陸軍特別大演習]]終了後、県内を巡幸した[[昭和天皇]]が行幸<ref>{{Cite book |和書 |author=原武史 |title=昭和天皇御召列車全記録 |publisher=新潮社 |year=2016-09-30 |page=74|isbn=978-4-10-320523-4}}</ref>。
<氣比けひの大神 ――敦賀市の氣比神宮の神の名の由來。―― 現代語訳 古事記>

[[1945年]](昭和20年)、[[敦賀空襲]]により旧国宝の本殿ほか社殿の多くを焼失した{{Sfn|氣比神社七座(式内社)|1986|p=150}}。本殿は昭和25年([[1950年]])に再建され、その他の社殿も再建・修復を経て現在に至っている{{Sfn|氣比神社七座(式内社)|1986|p=150}}。また、戦後は[[神社本庁]]の[[別表神社]]に列している。


[[1968年]](昭和43年)[[10月4日]]、[[第23回国民体育大会]]後、県内を巡幸した昭和天皇、[[香淳皇后]]が行幸啓<ref>『昭和天皇御召列車全記録』p.133</ref>。
 かくてタケシウチの宿禰がその太子をおつれ申し上げて禊みそぎをしようとして近江また若狹わかさの國を經た時に、越前の敦賀つるがに假宮を造つてお住ませ申し上げました。その時にその土地においでになるイザサワケの大神が夜の夢にあらわれて、「わたしの名を御子の名と取りかえたいと思う」と仰せられました。そこで「それは恐れ多いことですから、仰せの通りおかえ致しましよう」と申しました。またその神が仰せられるには「明日の朝、濱においでになるがよい。名をかえた贈物を獻上致しましよう」と仰せられました。依つて翌朝濱においでになつた時に、鼻の毀やぶれたイルカが或る浦に寄つておりました。そこで御子が神に申されますには、「わたくしに御食膳の魚を下さいました」と申さしめました。それでこの神の御名を稱えて御食みけつ大神と申し上げます。その神は今でも氣比の大神と申し上げます。またそのイルカの鼻の血が臭うございました。それでその浦を血浦ちうらと言いましたが、今では敦賀つるがと言います。<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/001518/card51732.html 青空文庫] 太安万侶・稗田阿礼、『古事記』、1956(昭和31)年5月20日、角川文庫・角川書店 
</ref> 


=== 神階 ===
=== 神階 ===
* 六国史時代における神階奉叙の記録{{Sfn|気比神社七座|神道・神社史料集成}}
* 天平3年([[731年]])までには従三位 (『[[新抄格勅符抄]]』)
* [[承和 (日本)|承和]]2年([[835年]])223までには正三位勲一等 (『[[続日本後紀]]』) - 表記は「気比神」
** [[天平]]3年([[731年]])1210、従三位 (『[[新抄格勅符抄]]』)<ref group="原" name="大同元年牒">『新抄格勅符抄』10(神事諸家封戸)大同元年(806年)牒({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 表記は「気比神」
* 承和6(839従二位勲一等 (『続日本後紀』) - 表記は「気比大神」
** [[承和 (日本)|承和]]2([[835]])2月23日正三位勲一等 (『[[続日本後紀]]』)<ref group="原" name="承和2">『続日本後紀』承和2年(835年)2月戊戌(23日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 表記は「気比大神」
* [[嘉祥]]3年([[850年]]、正二位 (『[[日本文徳天皇実録]]』) - 表記は「気比神」
** 承和6年([[839年]])12月9日、正三位勲一等から従二位勲一等 (『日本後紀』)<ref group="原">『続日本後紀』承和6年(839年)12月丁巳(9日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 表記は「気比神」
* [[貞観 (日本)|貞観]]元年([[859年]]、従位勲一等 (『[[日本三代実録]]』) - 表記は「気比神」
** 承和7年([[840年]])9月13日、従位勲一等 (『日本後紀』)<ref group="原" name="承和7">『続日本後紀』承和7年(840年)9月乙酉(13日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 表記は「気比神」
** [[嘉祥]]3年([[850年]])10月7日、正二位 (『[[日本文徳天皇実録]]』)<ref group="原">『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850年)10月辛亥(7日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 表記は「気比神」。
* [[寛平]]元年([[889年]])、正一位勲一等 (『[[日本紀略]]』)
** [[天安 (日本)|天安]]3年([[859年]])1月27日、正二位勲一等から従一位勲一等 (『[[日本三代実録]]』)<ref group="原">『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 表記は「気比神」。
* 六国史以後
** [[寛平]]元年([[889年]])7月17日、越前国神を一階昇叙 (『[[日本紀略]]』)<ref group="原">『日本紀略』寛平元年(889年)7月17日条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>
** 寛平5年([[893年]])12月29日、正一位勲一等 (『[[類聚三代格]]』)<ref group="原">『類聚三代格』1(神封物并租地子事)寛平5年(893年)12月29日官符({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 表記は「気比大神」。
** 正一位勲一等 (『越前国内神名帳』) - 表記は「気比大明神」。


=== 神職 ===
=== 神職 ===
気比神の祭祀は、古代には'''角鹿氏'''(つぬがうじ、角鹿直・角鹿海直)が担ったといわれる{{Sfn|中世諸国一宮制|2000|p=333}}。この角鹿氏は敦賀における海上交通・漁業の統率者([[海人族]])であり{{Sfn|敦賀郡(角川)|1989}}、[[角鹿国造]]を務めた氏族である{{Sfn|角鹿国造(県史)|1993}}。敦賀市には首長墓として5世紀末の向出山1号墳(直径約60メートルの[[円墳]]、{{ウィキ座標|35|38|16.64|N|136|5|10.31|E|region:JP-18_type:landmark|位置|name=向出山古墳1号墳(角鹿の首長墓)}})が残るが、その副葬品には被葬者と東アジアのつながりが指摘される{{Sfn|気比神宮(神々)|1985|p=120-121}}。この角鹿氏は、[[7世紀]]後半頃には朝廷の支配下に入ったと見られている{{Sfn|敦賀郡(角川)|1989}}。
古くは[[角鹿国造]]の流れを汲む角鹿氏が管掌したとされるが、宝亀7年([[776年]])、朝廷により初めて[[宮司]]職が置かれて(『続日本紀』)以降、[[律令制|律令制下]]ではこれを[[大中臣氏|大中臣姓]]の者が占めたようで<ref name="c">[[太政官符]]に大中臣魚取(うおとり)(延暦12年([[793年]]))、大中臣安根(やすね)(元慶8年([[884年]]))、中臣清貞(きよさだ)(寛平5年)の名前が残されている</ref>、延暦23年([[804年]])からは就任に[[神祇官]]の認可が必要とされた(『[[日本後紀]]』)ほか、[[渤海使]]の客館([[松原客館]])を監督する任務も託された。また[[禰宜]]・[[祝 (神職)|祝]]職も古くからあったようで、承和2年([[835年]])には両職の者に[[把笏]]が許されている(『続日本後紀』)。なお『[[朝野群載]]』に、[[承暦]]4年([[1080年]])、神事を穢した祟りがあったため、神官に中祓を科した記録がある。


記録上では、[[宝亀]]7年([[776年]])<ref group="原">『続日本紀』宝亀7年(776年)9月庚午(16日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>に朝廷から初めて[[宮司]]職が置かれ、宮司は従八位に準じたとある{{Sfn|ケヒ神へのヤマト朝廷の関与(県史)|1993}}。以後、文献では宮司として'''[[大中臣氏]]'''・[[中臣氏]]の各人物が見える<ref group="注">太政官符には延暦12年(793年)に「大中臣魚取」、元慶8年(884年)に「大中臣安根」、寛平5年(893年)に「中臣清貞」の名が見える。</ref>。[[延暦]]23年([[804年]])<ref group="原" name="延暦23">『日本後紀』延暦23年(804年)6月丙辰(13日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>からは、宮司の就任には[[神祇官]]の認可が必要となり、朝廷とのつながりを強めている。また[[承和 (日本)|承和]]2年([[835年]])<ref group="原" name="承和2" />の記事では[[禰宜]]・祝の各職が見える。『[[延喜式]]』<ref group="原">『延喜式』50(雑式) 松原客館条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>によれば、[[松原客館]]([[渤海使]]の客館)の[[検校]]も宮司が担っていた。なお『[[朝野群載]]』には、[[承暦]]4年([[1080年]])に神事を穢した祟りがあったため、神官に中祓を科した記録が見える。
その後大中臣姓と角鹿姓を称する48の社家が、大宮司・大祝・権祝・副祝・正禰宜・副禰宜職を襲い、中でも南北朝の争乱で[[恒良親王|恒良]]・[[尊良親王|尊良]]両親王を奉じて参戦した大宮司[[気比氏治]](けひ うじはる)、[[気比斉晴|斉晴]](なりはる)親子が有名である。また検校・行司・別当・執当等36坊を数える社僧職もあった。[[室町時代]]からは社家に[[菅原氏|菅原姓]]の者も加わったが、信長の越前攻略により、大中臣姓の東河端・西河端・北河端・石倉・石塚・平松の6家と、角鹿姓の島家、菅原姓の宮内家の計8家を残すのみとなり、明治4年の[[太政官布告]]を以て社家制度は廃止された。

古くは神職として大宮司・大祝・権祝・副祝・正禰宜・副禰宜職があり、48の社家は大中臣姓・角鹿姓を称したという([[室町時代]]からは菅原姓も加わった){{Sfn|氣比神社七座(式内社)|1986|p=150-151}}。人物としては特に、南北朝の争乱で[[恒良親王]]・[[尊良親王]]を奉じた大宮司の気比氏治・斉晴親子が知られる。また検校・行司・別当・執当等36坊を数える社僧職もあったという。信長の越前侵攻後は、大中臣姓の東河端・西河端・北河端・石倉・石塚・平松の6家と、角鹿姓の島家、菅原姓の宮内家の計8家を残すのみとなった{{Sfn|氣比神社七座(式内社)|1986|p=150-151}}。この社家制度は、明治4年([[1871年]])の[[太政官布告]]を以て廃止されている。

=== 社領 ===
六国史時代における社領の記録は次の通り{{Sfn|社領(国史)|1985|p=119}}。
* [[持統天皇]]6年([[692年]])9月26日、20戸増封 (『[[日本書紀]]』)<ref group="原" name="持統6">『日本書紀』持統天皇6年(692年)9月戊午(26日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 表記は「笥飯神」。
* [[天平]]3年([[731年]])12月10日、従三位料として200戸 (『[[新抄格勅符抄]]』)<ref group="原" name="大同元年牒" /> - 表記は「気比神」。
* [[天平神護]]元年([[765年]])9月7日、44戸(計244戸) (『新抄格勅符抄』)<ref group="原" name="大同元年牒" /> - 表記は「気比神」。

上記のうち持統天皇6年の記事は「増封」であるため、これに先立ってすでに封戸があったとされる{{Sfn|堀大介|2014}}。また244戸という[[神封]]は、全国でも屈指の数になる{{Sfn|社領(国史)|1985|p=119}}。その後、『[[日本三代実録]]』によれば[[元慶]]8年([[884年]])<ref group="原">『日本三代実録』元慶8年(884年)9月9日条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>に神宮の封租穀は神庫に納めて祭祀費にあてられるともに、神戸の百姓の国役への充当が停止されている{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=505}}。

平安時代末期以降には社領が[[荘園 (日本)|荘園]]化し、[[鳥羽天皇|鳥羽院]]を[[本家]]として皇室領に入り、[[藤原得子|美福門院]]・[[暲子内親王|八条院]]・[[昇子内親王|春華門院]]・[[順徳天皇|順徳院]]・[[守貞親王|後高倉院]]・[[邦子内親王|安嘉門院]]・室町院・[[亀山天皇|亀山院]]・[[後宇多天皇|後宇多院]]・[[後醍醐天皇]]へと[[大覚寺統]]に伝えられた{{Sfn|社領(国史)|1985|p=119}}。また、律令制の崩壊とともに先の封戸も荘園化したとされる{{Sfn|社領(国史)|1985|p=119}}。それらの荘園領は[[建暦]]2年([[1212年]])注進の目録によって知られ、同文によると社領は敦賀郡を中心とする越前国に加え、[[敦賀港]]・[[三国港]]の要港、越中・越後までの一部にまで及んでいた{{Sfn|社領(国史)|1985|p=119}}。作田は257町余で所当米は1,700石余、さらに請加米を加えると2,111石であった{{Sfn|社領(国史)|1985|p=119}}。そのうち本家分は702石余、領家分は292石余、大宮司(預所)分は177石余である{{Sfn|社領(国史)|1985|p=119}}。前述のようにこれら荘園の本家は皇室であったが、領家は[[九条良輔]]([[九条兼実]]の子)の知行に始まって[[延暦寺]]属の[[青蓮院]]に伝えられた{{Sfn|社領(国史)|1985|p=119}}。

[[応仁の乱]]の後は、武家による侵略を受けながら朝倉氏滅亡までは所々の社領を有したが、朝倉氏の滅亡後に衰退した{{Sfn|社領(国史)|1985|p=119}}。江戸時代の社領は100石であった{{Sfn|社領(国史)|1985|p=119}}。

=== 社殿造営 ===
神宮の社殿は被災が多く、文献には度々再建なされた様子が見える。『気比宮社記』等によると、再建年次は次の通り。

{{hidden begin
|title = 社殿造営年表
|border = #aaa solid 1px
|titlestyle = text-align: center; ; background:lightgrey;
}}
{| class="wikitable" style="background:#ffffff; white-space:nowrap; font-size:85%; text-align:left" align="left"
|+氣比神宮の社殿造営 年表{{Sfn|三浦正幸|1985}}
!年
!事象
!造営・遷宮
|-
|[[天喜]]2年([[1054年]])||炎上||造畢
|-
|[[承暦]]2年([[1078年]])|| ||造替・遷宮
|-
|[[保延]]元年([[1135年]])||大風で倒壊||再建・遷宮
|-
|[[建久]]2年([[1191年]])||焼失||
|-
|建久7年([[1196年]])|| ||本殿造営
|-
|[[元久]]元年([[1204年]])|| ||遷宮
|-
|[[建長]]8年([[1256年]])||焼失||
|-
|[[文永]]2年([[1265年]])|| ||造畢・遷宮
|-
|[[正中 (元号)|正中]]2年([[1325年]])||地震で倒壊||
|-
|[[正慶]]2年([[1333年]])|| ||造営・遷宮
|-
|[[建武 (日本)|建武]]4年([[1337年]])||南北朝の戦乱で<br />幣殿以外全焼||
|-
|[[暦応]]2年([[1339年]])|| ||遷宮
|-
|[[貞治]]6年([[1367年]])|| ||造営始(修理か)
|-
|[[永正]]3年([[1506年]])||政所社以外全焼||
|-
|永正12年([[1515年]])|| ||造営日時定
|-
|永正13年([[1516年]])|| ||遷宮
|-
|[[享禄]]2年([[1526年]])|| ||常宮の修理
|-
||[[天文 (元号)|天文]]9年([[1540年]])|| ||修造、翌年遷宮
|-
|[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])||類焼により半焼||
|-
|[[元禄]]元年([[1558年]])|| ||修造終了、翌年遷宮
|-
|[[元亀]]元年([[1570年]])||政所社・炊殿・神楽屋<br />以外を兵火で焼失||
|-
|元亀2年([[1571年]])|| ||小祠2宇造営、遷宮
|-
|[[慶長]]9年([[1604年]])|| ||造営始
|-
|慶長19年([[1614年]])|| ||正遷宮('''旧本殿''')
|-
|[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])|| ||惣社再興
|-
|元和2年([[1616年]])|| ||拝殿造営
|-
|[[寛永]]19年([[1642年]])|| ||平殿再興
|-
|[[正保]]2年([[1645年]])|| ||'''大鳥居'''造営(現存)
|-
|[[慶安]]4年([[1651年]])|| ||御子神9社再興<br />(神宮寺を除いて中世期をほぼ再現)
|-
|[[寛保]]2年([[1742年]])|| ||宝殿造営
|-
|[[宝暦]]5年([[1755年]])|| ||本殿修造、正遷宮
|-
|[[昭和]]20年([[1945年]])||戦災でほぼ全焼||
|-
|昭和期|| ||昭和の大造営('''現本殿''')
|}{{-}}
{{hidden end}}

神宮の中世期の境内の様子は「気比神宮古図」(室町時代後期)によって知られる{{Sfn|中世諸国一宮制|2000|p=332}}。また、戦災で焼失した旧本殿は珍しい「両流造」であったことが知られるが(「[[#社殿|社殿]]」節参照)、以上の変遷を踏まえると、その両流造の形式は[[文永]]2年([[1265年]])までは確実に遡ることができ、可能性としては[[保延]]([[1135年]])または[[元久]]([[1204年]])頃に遡ると推測される{{Sfn|三浦正幸|1985}}。

また、現在の神宮の入り口は境内西側に[[国道8号]]に面して設けられているが、古くは東側にあったとされている{{Sfn|由緒書|2013}}。史料によれば、[[正安]]3年([[1301年]])に神宮を参詣した[[他阿|他阿真教]]([[時宗]]第2世)は、西参道の沼地を改善するため浜から砂を運んで整地したといい、それ以来神宮の入り口は西側に移ったという{{Sfn|角鹿神社(式内社)|1986|p=180-183}}。この故事に因み、現在でも時宗総本山の法主交代時には神宮で「[[遊行の砂持ち|お砂持ち]]」の儀式が行われる{{Sfn|由緒書|2013}}。


== 境内 ==
== 境内 ==
境内の広さは11,253坪(約3.7ヘクタール){{Sfn|由緒書|2013}}。
=== 本殿 ===
本殿は、主祭神に仲哀天皇・神功皇后を合祀する'''本宮'''と、周囲の'''四社之宮'''(ししゃのみや)からなる。四社之宮と呼ばれる4社は本宮の東に'''東殿宮''' - 本宮の東(日本武尊)、東北に'''総社宮'''(応神天皇)、西北に'''平殿宮'''(玉妃命)、西に'''西殿宮'''(武内宿禰命)と並んでいる。


=== 社殿 ===
現本宮は、[[昭和]]20年に空襲によって焼失したため、同25年再建されたもの。また、同じく罹災した四社之宮は同58年になって復興された。 ちなみに旧本殿は、正面三間側面四間、正面に一間の[[向拝]]を付した[[両流造]][[檜皮葺]]の本宮([[国宝#「旧国宝」と「新国宝」|旧国宝]]指定)と、それぞれ一間社[[流造]]檜皮葺の四社之宮からなり、いずれも[[慶長]]19年([[1614年]])に結城秀康によって再建されたもので、現在とやや異なり本宮の四隅に四社之宮を配置する独特な様式から「気比造」と呼ばれていた。
[[ファイル:Kehi-jingu honden-2.jpg|thumb|right|{{Center|本殿}}]]
[[ファイル:150228 Kehi-jingu Tsuruga Fukui pref Japan08n.jpg|thumb|right|{{Center|外拝殿}}]]
主要社殿は昭和20年([[1945年]])の空襲で焼失したため、いずれも戦後の再建である。'''本殿'''(本宮)は昭和25年([[1950年]])の再建で、南面して鎮座する。本殿の周囲には東殿宮(本殿の東)・総社宮(東北)・平殿宮(西北)・西殿宮(西)の4社殿が建てられ、これらは「'''四社の宮'''(ししゃのみや、四社之宮)」と総称される。四社の宮はいずれも平成に入っての再建社殿である。また、本殿に接続して内拝殿・外拝殿が建てられているが、これらは昭和の大造営時の再建になる。{{Sfn|由緒書|2013}}


戦災で焼失した'''旧本殿'''は、[[江戸時代]]初期の[[慶長]]19年([[1614年]])に[[結城秀康]]によって再建されたもので、[[国宝#「旧国宝」と「新国宝」|旧国宝]]に指定されていた<ref>[http://historia.justhpbs.jp/kehihondenl.html 敦賀市立図書館蔵]</ref>。桁行三間・梁間四間、「両流造」という独特の形式{{refnest|group="注"|現存する両流造の社殿は、[[厳島神社]]本殿、同社摂社の客(まろうど)神社、[[宗像神社]]辺津宮、[[太宰府天満宮]]、[[松尾大社]]、[[香取神宮]]の6例である{{sfn|三浦正幸|1985}}。}}の大規模な社殿で、屋根は[[檜皮葺]]、正面には一間の[[向拝]]が付設されていた。また内部は正面一間通りを外陣とし、奥は一間ごとに3分割して中央間に中陣・内陣・内々陣を設け、左右脇間は空殿とされていた。『気比宮旧記』によれば、そのうち内々陣の中央に仲哀天皇、右(西)に神功皇后、左(東)に保良太神(伊奢沙別命)が祀られていたという。{{Sfn|三浦正幸|1985}}
=== その他 ===

<gallery widths="200px" heights="150px">
社務所は[[平成]]23年([[2011年]])の再建{{Sfn|由緒書|2013}}。以前の社務所では裁判所庁舎が移転・使用されていた{{Sfn|由緒書|2013}}。
ファイル:Kehi-jingu08s3200.jpg|'''拝殿'''
<gallery>
ファイル:Kehi-jingu09s3200.jpg|'''神門'''
ファイル:氣比神宮 本殿平面図.png|旧本殿平面図
ファイル:Kehi-jingu18s3200.jpg|'''土公'''(どこう、拝所奥)<br/>周囲に卵形の石を八角形に並べた墳形の人工小丘で、隣接する敦賀北小学校敷地内に食い込む形で存在する。主祭神降臨の聖地とされるが、古殿地や古墳であるとの説のほか、最澄と空海が祭壇を築いて祈祷した伝承から[[経塚]]とする説もある。なお、「[[土公神|土公]]」とは[[陰陽道]]における神の名でもある。
ファイル:150228 Kehi-jingu Tsuruga Fukui pref Japan05s3.jpg|中鳥居・外拝殿
ファイル:Kehi-jingu03s3200.jpg|'''大鳥居'''(重要文化財)<br/>[[寛永]]年間(1624-1644年)に佐渡の旧神領地・鳥居ヶ浜から奉納された[[ネズ|榁]](むろ)の大木を使い、[[正保]]2年([[1645年]])に建立された[[両部鳥居]]。[[春日大社]]・[[厳島神社]]の大鳥居に並ぶ「日本三大鳥居」の1つ。正面の扁額は[[有栖川宮威仁親王]]の染筆。
ファイル:150228 Kehi-jingu Tsuruga Fukui pref Japan10n.jpg|神門
ファイル:Kehi-jingu emaden.JPG|絵馬殿
ファイル:Kehi-jingu06s3200.jpg|旧社務所<br />{{small|非現存。旧裁判所庁舎の移築であった。}}
ファイル:Kehi-jingu17s3200.jpg|境内の土公拝所
</gallery>
</gallery>


=== 土公 ===
* 中鳥居
[[ファイル:Kehi-jingu dokou-2.jpg|thumb|200px|right|{{Center|土公}}{{small|後背に[[天筒山]]。}}]]
:: [[寛保]]3年([[1743年]])、小浜藩主[[酒井忠用]]の寄進による。
境内から[[天筒山]]の方角の敦賀北小学校校庭には「'''土公'''(どこう)」と称される小丘がある({{Coord|35|39|20.17|N|136|4|33.21|E|region:JP-18_type:landmark|name=土公}})。「[[土公神|土公]]」とは[[陰陽道]]における神の名である。土公は神宮の聖地とされており、周囲には卵形の石が八角形にめぐらされている。社伝では、気比神はこの土公に降臨したといい、大宝2年(702年)の社殿造営以前は土公を[[神籬]]として祭祀が行われたとする。また社殿造営後も土公は古殿地として護られたとも、[[最澄]]・[[空海]]は当地で7日7夜の祈祷を行なったとも伝える。{{Sfn|由緒書|2013}}{{Sfn|氣比神社七座(式内社)|1986|p=152}}
* 旗掲松 (はたあげのまつ)
:: 中鳥居前にある松の根株で、[[延元]]元年([[1336年]])、大宮司・気比氏治が南朝方として参戦するに際し、ここで挙兵したという。


この土公は聖別されているため、調査が行われておらず詳細は明らかでない。社伝に見える説のほかに、[[古墳]]とする説や[[経塚]]とする説がある{{Sfn|氣比神社七座(式内社)|1986|p=152}}。
== 摂末社 ==
[[画像:Kehi-jingu12s3200.jpg|thumb|250px|right|角鹿神社]]
* 角鹿神社 (つぬが-)
** 社格:摂社筆頭、式内小社「角鹿神社」
** 祭神:[[都怒我阿羅斯等|都怒我阿羅斯等命]] ([[天保]]10年([[1839年]])[[松尾大社|松尾大神]]を合祀) - 『[[大日本史]]』や『[[神祇志料]]』、[[大正]]4年の『敦賀郡誌』は、都怒我阿羅斯等命を非として、『[[先代旧事本紀|国造本紀]]』に載せる角鹿国造の祖先、建功狭日命(たけいささひ-)を充てている
** 神階:『[[国内神名帳|越前国内神名帳]]』に「正四位 敦賀神」と記載
:: 古くは「政所神社(まんどころ-)」とも称した。『気比宮社記』によれば、[[崇神天皇]]の御代に都怒我阿羅斯等命が、この地に到来して朝廷に貢ぎ物をしたのを賞せられて「角鹿国の政所」とされたので、後世これを崇めて祠を建てたという。[[正安]]3年([[1301年]])までは境内の表口であったことから「門神(かどがみ)」とも称されていた。
:: この神社の祭祀は祭神の後裔とされる角鹿姓神職が預かる定めで、江戸時代以降明治初年までは島家が担当した。明治10年、摂社の筆頭に定められた。
:: 社殿は流造銅板葺。[[嘉永]]4年([[1851年]])の改築によるもので、当宮で昭和の戦災を免れた唯一の建物である。


=== 之宮 ===
=== 社 ===
中鳥居前に立つ松は「旗掲松(はたあげのまつ)」と称される。社伝では、[[延元]]元年([[1336年]])に宮司の気比氏治が南朝方として挙兵するにあたり、この松に気比神の神旗を掲げたという。現在もその旧根が残るとともに2代目の松が生育している。{{Sfn|由緒書|2013}}
<table width="90%"><tr><td valign=top width="50%">
* 剣神社
** 社格:末社
** 祭神:姫太神尊 (気比大神の第一王子)
:: 敦賀市莇生野(あぞの)にある気比神宮の西方鎮守の社とされる式内論社・劔神社を[[勧請]]したものとされる。


また、境内には昭和11年([[1936年]])に陸軍関係者から献木された[[ユーカリ]]の大木が生育している。この木は敦賀市指定天然記念物に指定されている。{{Sfn|由緒書|2013}}
* 金神社
** 社格:末社
** 祭神:素盞嗚尊 (第二王子)
:: 社伝では[[金剛峯寺]]山王院本殿に祀られる気比明神は、弘仁7年([[816年]])に参詣した[[空海]]がこの神社の神鏡を[[鎮守神]]として遷したものとされる。


そのほか、境内東南側には庭園「神水苑」が整備されている{{Sfn|由緒書|2013}}。
* 林神社
<gallery>
** 社格:末社
ファイル:Kehi-jingu hataageno-matsu.JPG|旗掲松(初代の根株と2代目の松)<br />{{small|奥は中鳥居と社殿。}}
** 祭神:林山姫神 (第三王子)
ファイル:Kehi-jingu Eucalyptus.jpg|ユーカリの木(敦賀市指定天然記念物)
:: 社伝では[[日吉大社]]の末社・気比社は、弘仁7年(816年)に参詣した[[最澄]]がこの神社の神鏡を勧請したものとされる。
ファイル:Kehi-jingu20s3872.jpg|神水苑
</gallery>


=== 大鳥居 ===
* 鏡神社
境内入口に建てられている'''大鳥居'''は、江戸時代前期の[[正保]]2年([[1645年]])の造営。木造朱塗の[[両部鳥居]]で、高さ36尺(10.93メートル)・柱間24尺である。扁額「氣比神宮」は[[有栖川宮威仁親王]]の染筆になる。{{Sfn|由緒書|2013}}<ref name="大鳥居" />
** 社格:末社
** 祭神:天鏡尊 - 第四王子とされるが、[[行啓]]した神功皇后が奉納した宝鏡を祀ったものとも


神宮の境内入り口は古くは東側にあったため(「[[#社殿造営|社殿造営]]」節参照)、初代鳥居は[[弘仁]]元年([[810年]])に境内東側に建てられていたが、その鳥居は[[康永]]2年([[1343年]])に大風で倒壊したという。そして、[[寛永]]年間([[1624年]]-[[1644年]])に佐渡の旧神領地の鳥居ケ原から奉納された[[ネズ|榁]](むろ)の大木を使用して、現在の大鳥居が境内西側に建てられたと伝える。この鳥居は空襲の被害を免れており、国の重要文化財に指定されている。また、奈良の[[春日大社]]・広島の[[厳島神社]]の[[厳島神社大鳥居|大鳥居]]とともに「日本三大鳥居」にも数えられている。{{Sfn|由緒書|2013}}<ref name="大鳥居" />
* 天利劔神社 (あめのとつるぎ-)
** 社格:摂社、式内小社「天利劔神社」
** 祭神:天利劔大神 (あめのとつるぎ-、第五王子) - 『[[続日本後紀]]』にも「気比大神之御子」とある
** 神階:[[承和 (日本)|承和]]7年([[840年]])、無位から従五位下。『国内神名帳』には「正四位 天利劔神」と記載
:: 仲哀天皇が宝剣を奉納したのに始まるという。明治10年天伊弉奈彦神社・天伊弉奈彦神社とともに摂社に定められた。社殿は昭和20年の戦災で焼失、昭和55年に流造銅板葺で再建された。


== 摂末社 ==
</td><td valign=top>
現在の摂末社は、摂社5社・末社9社の計14社(いずれも境内社){{Sfn|由緒書|2013}}{{Sfn|氣比神社七座(式内社)|1986|p=153}}。摂社は伊佐々別神社以外は[[式内社]]で、末社のうちでも大神下前神社は式内社である。
* 天伊弉奈姫神社 (あめのいさなひめ-)
** 社格:摂社、式内小社「天比女若御子神社」
** 祭神:天比女若御子神 (あめひめのわかみこ-、第六王子) - 『続日本後紀』にも「気比大神之御子」とある。縁結びの神とされる
** 神階:承和7年(840年)、無位から従五位下。『国内神名帳』には「正四位 天若神子神」と記載
:: 明治10年天利劔神社・天伊弉奈彦神社とともに摂社に定められた。社殿は昭和20年の戦災で焼失、昭和55年に流造銅板葺で再建された。


これら摂末社のうち、本殿向かって左手に鎮座する伊佐々別・天利劔・天伊弉奈姫・天伊弉奈彦・擬領・劔・金・林・鏡の9社には本宮と関係が深い神々が祀られており、「'''九社の宮'''(くしゃのみや、九社之宮)」と総称される{{Sfn|由緒書|2013}}。『続日本後紀』<ref group="原" name="承和7" />によると、天利劔・天伊弉奈姫・天伊弉奈彦の3社は「気比大神之御子」であるという。
* 天伊弉奈彦神社 (あめのいざなひこ-)
** 社格:摂社、式内小社「伊佐奈彦神社」
** 祭神:天伊弉奈彦大神 (あめのいざなひこ-、第七王子) - 『続日本後紀』にも「気比大神之御子」とある
** 神階:承和7年(840年)、無位から従五位下。『国内神名帳』には「正四位 天伊佐奈彦神」と記載
:: 明治10年天利劔神社・天伊弉奈姫神社とともに摂社に定められた。社殿は昭和20年の戦災で焼失、昭和55年に流造銅板葺で再建された。


=== 摂社 ===
* 擬領神社 (おおみやつこ)
[[ファイル:Tsunuga-jinja (Kehi-jingu).JPG|thumb|220px|right|{{Center|角鹿神社}}{{small|地名「敦賀」の発祥地と伝える。}}]]
** 社格:末社
; 角鹿神社
** 祭神:[[稚武彦|稚武彦命]] - 『国造本紀』によると[[吉備氏|吉備臣]]の祖で、建功狭日命(角鹿国造の祖)の祖父
:* 祭神:[[都怒我阿羅斯等|都怒我阿羅斯等命]](つぬがあらしとのみこと)、合祀に[[松尾大社|松尾大神]]
:* 社格:式内社「角鹿神社」、越前国内神名帳「正四位 敦賀神」
:* 例祭:5月初卯日
: 「つぬがじんじゃ」。境内東側の裏参道に鎮座する。『気比宮社記』や「気比宮古図」では「政所神(まんどころのかみ)」と見える。また、[[正安]]2年([[1300年]])まで東口が境内表口であったことにより、別に「門神(かどのかみ)」とも称されていた。{{Sfn|由緒書|2013}}{{Sfn|角鹿神社(式内社)|1986|p=180-183}}{{Sfn|気比神宮(神々)|1985|p=122}}
: 祭神の都怒我阿羅斯等は、『[[日本書紀]]』<ref group="原">『日本書紀』垂仁天皇2年是歳条。</ref>において[[垂仁天皇]]の時に渡来したと記されている意富加羅国([[任那|任那国]])王子で、同書では笥飯浦に至ったと見える<ref>「都怒我阿羅斯等」 『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。</ref>。神宮の伝承では、その後天皇は阿羅斯等に当地の統治を任じたといい、この角鹿神社はその政所跡に阿羅斯等を祀ったことに始まるとして、「敦賀(つるが)」の地名は当地を「角鹿(つぬが)」と称したことに始まるとしている。{{Sfn|由緒書|2013}}{{Sfn|角鹿神社(式内社)|1986|p=180-183}}{{Sfn|気比神宮(神々)|1985|p=122}}
: 角鹿神社の祭神を都怒我阿羅斯等とする説は諸文献に記されているが<ref>都怒我阿羅斯等を採る説は『気比宮社記』、『[[神名帳考証]]』、『[[神社覈録]]』、『[[特選神名牒]]』等({{Harvnb|角鹿神社(式内社)|1986|p=181-182}}による)。</ref>、一方で祭神を角鹿国造祖の建功狭日命(たけいさひのみこと)とする説もある<ref>建功狭日命を採る説は『[[大日本史]]』、『神祇志料』、『敦賀郡誌』、『式内社調査報告』等({{Harvnb|角鹿神社(式内社)|1986|p=182}}による)。</ref>。建功狭日命は『[[先代旧事本紀]]』<ref group="原" name="角鹿国造">『先代旧事本紀』「国造本紀」角鹿国造条。</ref>に角鹿国造として見える人物で、江戸時代末期まで角鹿神社の社家であった島家が角鹿氏後裔を称したことからも、角鹿氏祖と推測される建功狭日命説が有力視されている。またこれとは別に、この角鹿神社は古くからの敦賀の地主神であったとして、イザサワケ並びに応神天皇が主神として本宮に祀られるとともに、その客神の地位に位置づけられたと見る説もある<ref>谷川健一『日本の神々(岩波書店)』(岩波書店、1999年)pp. 77-78。</ref>。なお、松尾大神は[[天保]]10年([[1839年]])の合祀とされる。{{Sfn|角鹿神社(式内社)|1986|p=180-183}}{{Sfn|気比神宮(神々)|1985|p=122}}
: 明治10年([[1877年]])に神宮摂社の第一に定められた。社殿は流造銅板葺。[[嘉永]]4年([[1851年]])の改築によるもので、神宮の境内社では唯一戦災を免れている。{{Sfn|角鹿神社(式内社)|1986|p=180-183}}


[[ファイル:Isasawake-jinja (Kehi-jingu).JPG|thumb|180px|right|{{Center|伊佐々別神社}}]]
* 伊佐々別神社 (いささわけ)
; 伊佐々別神社
** 社格:摂社
** 祭神:気比大神[[荒魂]]
:* 祭神:御食津大神荒魂(みけつおおかみあらみたまのかみ)
:: 気比神から御食の魚を賜った誉田別命が、武内宿に命じて新たにの荒魂を祀っもの伝え、漁撈の守護神とされる。
: 「いささわけじんじゃ」。九社の宮の一社として本殿西側に鎮座する。祭神は本宮主祭神の[[荒魂]]である。社伝では、気比神から御食の魚を賜った誉田別命(応神天皇)が、武内宿に命じて新たに気比神の荒魂を勧請しに始まるという。漁撈の神であるとされ、海を向くために社殿は北面すという{{Sfn|由緒書|2013}}


[[ファイル:Ameno-totsurugi-jinja (Kehi-jingu).JPG|thumb|180px|right|{{Center|天利劔神社}}]]
</td></tr></table>
; 天利劔神社
:* 祭神:天利劔大神(あめのとつるぎのおおかみ)
:* 社格:式内社「天利剣神社」、越前国内神名帳「正四位 天利剣神」
: 「あめのとつるぎじんじゃ」。九社の宮の一社で、第五之王子宮。社伝では仲哀天皇による宝剣の奉納に始まるという。『続日本後紀』によると承和7年(840年)<ref group="原" name="承和7" />に無位から従五位下に昇叙された。{{Sfn|由緒書|2013}}{{Sfn|式内社調査報告|1986|p=242}}
: 明治10年([[1877年]])に境内摂社に定められた。社殿は戦災で焼失、昭和55年([[1980年]])に流造銅板葺で再建。{{Sfn|式内社調査報告|1986|p=242}}


[[ファイル:Ameno-izanahime-jinja (Kehi-jingu).JPG|thumb|180px|right|{{Center|天伊弉奈姫神社}}]]
=== その他 ===
; 天伊弉奈姫神社
* 大神下前神社 (おおみわしもさき-)
:* 祭神:天比女若御子大神(あめひめわかみこのおおかみ)
** 社格:末社、式内小社「大神下前神社」、旧村社
:* 社格:式内社「天比女若御子神社」、越前国内神名帳「正四位 天若神子神」
** 祭神:[[大国主|大己貴命]] (江戸時代以降、[[稲荷神]]・[[金刀比羅宮|金刀比羅神]]を合祀)
: 「あめのいざなひめじんじゃ」。九社の宮の一社で、第六之王子宮。社伝では天伊弉奈姫神社・天伊弉奈彦神社の2社は造化陰陽2柱を祀るという。『続日本後紀』によると「天比女若御子神」として承和7年(840年)<ref group="原" name="承和7" />に無位から従五位下に昇叙された。{{Sfn|由緒書|2013}}{{Sfn|式内社調査報告|1986|p=244}}
** 神階:『国内神名帳』に見える、「従五位 大神下前神」・「従五位 道後神」のいずれかとされる
: 明治10年(1877年)に境内摂社に定められた。社殿は戦災で焼失、昭和55年(1980年)に流造銅板葺で再建。{{Sfn|式内社調査報告|1986|p=244}}
:: 別に「道後神」とも称されていた。もと宮内村(現敦賀市金ケ崎町)に鎮座して気比神宮の北方鎮守の社とされていたが、明治9年、[[近代社格制度|村社]]に列し、同44年鉄道路線敷設にともない現地へ遷され、当宮の末社とされた。社殿は流造檜皮葺。


[[ファイル:Ameno-izanahiko-jinja (Kehi-jingu).JPG|thumb|180px|right|{{Center|天伊弉奈彦神社}}]]
* 神明両社
; 天伊弉奈彦神社
** 社格:末社
:* 祭神:天伊弉奈彦大神(あめのいざなひこのおおかみ)
** 祭神:[[天照大神|天照皇大神]](内宮)、[[豊受大御神|豊受大神]](外宮)
:* 社格:式内社「伊佐奈彦神社」、越前国内神名帳「正四位 天伊佐奈彦神」
:: 外宮は慶長17年([[1612年]])に、[[天照大神|天照皇大神]]を祀る内宮は[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])に勧請された。
: 「あめのいざなひこじんじゃ」。九社の宮の一社で、第七之王子宮。社伝では天伊弉奈姫神社・天伊弉奈彦神社の2社は造化陰陽2柱を祀るという。『続日本後紀』によると「天伊佐奈彦神」として承和7年(840年)<ref group="原" name="承和7" />に無位から従五位下に昇叙された。{{Sfn|由緒書|2013}}{{Sfn|式内社調査報告|1986|p=246}}
: 明治10年(1877年)に境内摂社に定められた。社殿は戦災で焼失、昭和55年([[1980年]])に流造銅板葺で再建。{{Sfn|式内社調査報告|1986|p=246}}


=== 末社 ===
* 児宮 (このみや)
[[ファイル:Kushanomiya (Kehi-jingu).JPG|thumb|200px|right|{{Center|九社の宮}}{{small|左最奥の伊佐々別・擬領の2社は北面し、右列の御子神7社は東面する。}}]]
** 社格:末社
; 擬領神社
** 祭神:[[イザナミ|伊弉册尊]]
:* 祭神:[[建功狭日命]](たけいさひのみこと)
:: 江戸時代以来、子育て・小児の守護神として信仰されている。
: 「おおみやつこじんじゃ」。九社の宮の一社。祭神は一説に大美屋都古神(おおみやつこのかみ)とも、玉佐々良彦命(たまささらひこのみこと)とも。建功狭日命は『先代旧事本紀』<ref group="原" name="角鹿国造" />に[[角鹿国造]]祖と記されている人物である。{{Sfn|由緒書|2013}}
; 劔神社
:* 祭神:姫大神尊(ひめのおおかみのみこと)
: 「つるぎじんじゃ」。九社の宮の一社で、第一之王子宮{{Sfn|気比宮社記|1941|p=36}}。社伝では、敦賀市莇生野の劔神社からの[[勧請]]という<ref group="注">境内社の劔神社について、由緒書・公式サイトでは「境内から莇生野への勧請」と記すが、ここでは原典である『気比宮社記』の記述に則り「莇生野から境内への勧請」と記載した。</ref>。{{Sfn|由緒書|2013}}
; 金神社
:* 祭神:[[素盞嗚尊]](すさのおのみこと)<!--
:* 社格:越前国内神名帳「正四位 金神子神」:要出典-->
: 「かねのじんじゃ」。九社の宮の一社で、第二之王子宮{{Sfn|気比宮社記|1941|p=37}}。社伝では[[弘仁]]7年([[816年]])に参詣した[[空海]]が金神社の霊鏡を[[高野山]]に遷したとして、高野山鎮守社の[[丹生都比売神社]]で祀られる気比神は当社にあたるという(ただし、現在の丹生都比売神社では祭神を[[オオゲツヒメ|大食都比売神]]とする)。{{Sfn|由緒書|2013}}
; 林神社
:* 祭神:林山姫神(はやまひめのかみ)<!--
:* 社格:越前国内神名帳「正四位 林神子神」:要出典-->
: 「はやしのじんじゃ」。九社の宮の一社で、第三之王子宮{{Sfn|気比宮社記|1941|p=37}}。社伝では[[延暦]]7年([[788年]])に参詣した[[最澄]]が林神社の霊鏡を[[比叡山]]に遷したとして、比叡山鎮守社の[[日吉大社]]で祀られる気比神は当社にあたるという(ただし、現在の日吉大社では祭神を仲哀天皇とする)。{{Sfn|由緒書|2013}}
; 鏡神社
:* 祭神:神功皇后奉献の宝鏡の神霊<!--
:* 社格:越前国内神名帳「正四位 鏡神子神」:要出典-->
: 「かがみのじんじゃ」。九社の宮の一社で、第四之王子宮{{Sfn|気比宮社記|1941|p=38}}。社伝では、神功皇后が奉献した神宝のうち宝鏡が霊異をなしたので、別殿に[[国之常立神|国常立尊]]とともに「天鏡宮(あめのかがみのみや)」として祀ったことに始まるという。{{Sfn|由緒書|2013}}
; 大神下前神社
:* 祭神:[[大国主|大己貴命]]、合祀に[[稲荷神]]・[[金刀比羅宮|金刀比羅神]]
:* 社格:式内社「大神下前神社」、越前国内神名帳「従五位 大神下前神」または「従五位 道後神」、旧村社
:* 例祭:[[10月10日]]
: 「おおみわしもさきじんじゃ」。角鹿神社とともに裏参道に鎮座する。古くは「道後神社」と称し、神宮の北方鎮守社として天筒山山麓の宮内村(現・敦賀市金ケ崎町)に鎮座したとされる(旧社地は不詳)。明治9年([[1876年]])に[[村社]]に列したが、明治44年([[1911年]])に鉄道敷設に伴って境内に遷座した。本殿は流造檜皮葺。{{Sfn|由緒書|2013}}{{Sfn|式内社調査報告|1986|p=220}}
; 兒宮(児宮)
:* 祭神:[[イザナミ|伊弉冊尊]]
:* 例祭:[[11月15日]]
: 「このみや」。角鹿神社とともに裏参道に鎮座する。[[寛和]]2年([[986年]])に遷宮があったといい、それ以前からの鎮座と伝える。江戸時代以降は子育て・小児の守護神として信仰されている。{{Sfn|由緒書|2013}}
; 猿田彦神社
:* 祭神:[[サルタヒコ|猿田彦大神]]
: 表参道の大鳥居近くに鎮座する。祭神は気比神を案内する神であるという。{{Sfn|由緒書|2013}}
; 神明両宮
:* 祭神:[[天照大神|天照皇大神]](内宮)、[[豊受大御神|豊受大神]](外宮)
: 九社の宮と並んで鎮座する。外宮は[[慶長]]17年([[1612年]])、内宮は[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])の勧請。{{Sfn|由緒書|2013}}
<gallery>
ファイル:Omiwa-shimosaki-jinja (Kehi-jingu).JPG|大神下前神社
ファイル:Kehi-jingu14s3200.jpg|兒宮
ファイル:Kehi-jingu04s3872.jpg|猿田彦神社
ファイル:Shinme-ryogu (Kehi-jingu).JPG|神明両宮
</gallery>


=== 関係社 ===
* 猿田彦神社
{{hidden begin
** 社格:末社
|title = 関係社一覧
** 祭神:[[サルタヒコ|猿田彦大神]] - 気比大神を案内する[[ミサキ|ミサキ神]]
|border = #aaa solid 1px
|titlestyle = text-align: center; ; background:lightgrey;
}}
{{座標一覧|節=関係社}}
; [[常宮神社]]
:* 鎮座地:敦賀市常宮({{Coord|35|41|25.36|N|136|1|46.63|E|region:JP-18_type:landmark|name=常宮神社(元奥宮)}})
:* 祭神:天八百萬比咩命、[[神功皇后]]、[[仲哀天皇]]、[[ヤマトタケル|日本武命]]、[[応神天皇]]、玉姫命、[[武内宿禰|武内宿禰命]]<ref>常宮神社由緒書。</ref>
:* 社格:式内社「天八百万比咩神社」[[論社]]{{refnest|group="注"|name="天八百万比咩"|「天八百万比咩神社」の論社には他に[[越前市]]の[[大塩八幡宮]]末社の天八百萬比咩神社があるが、いずれであるかは不詳{{sfn|式内社調査報告|1986|p=232-233}}。}}、越前国内神名帳「従二位 天八百万比咩大明神」論社<ref group="注" name="天八百万比咩" />、旧[[県社]]
: 「じょうぐうじんじゃ」。神宮の元境外摂社・元奥宮。古くから神宮と関係が深く、神宮とは「本宮・摂社」「口宮・奥宮」「ひもろぎの宮・鏡の宮」「上社・下社」などと一対でも称されたという。明治10年([[1877年]])に[[内務省 (日本)|内務省]]によって常宮神社境内社の'''天国津彦神社'''・'''天国津姫神社'''・'''天鈴神社'''・'''伊覩神社'''(いずれも式内社)とともに神宮の境外摂社に定められたが、その後いずれも神宮からは独立した。{{Sfn|天八百萬比咩神社(式内社)|1986|p=232-240}}{{Sfn|気比神宮(神々)|1985|p=125-127}}{{Sfn|常宮神社(神々)|1985|p=130-132}}
: 現在も7月22日の「総参祭」では神宮の神々・神官が船に乗って常宮神社に神幸するが、これは一説に気比神(陽神)が常宮神(陰神)を訪れる神事であるともいう{{Sfn|気比神宮(神々)|1985|p=125-127}}。そのほか、文献には多くの記述が見える。詳しくは「[[常宮神社]]」を参照。
; 大椋神社
:* 鎮座地:敦賀市大蔵2-25-2({{Coord|35|39|7.47|N|136|5|32.73|E|region:JP-18_type:landmark|name=大椋神社(東方鎮守社)}})
:* 祭神:[[アメノタヂカラオ|天手力雄命]]
:* 社格:式内社「大椋神社」、越前国内神名帳「正二位 大椋大明神」、旧村社
: 「おおくらじんじゃ」。神宮の東方鎮守社。『日本三代実録』で元慶4年(880年)<ref group="原">『日本三代実録』元慶4年(880年)9月17日条。</ref>に従四位上から正四位下に昇叙されたと見える「大宰神」に比定される<ref>[http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/301301.html 大宰神](國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)。</ref>。鎮座地の地名「大蔵」は、かつて神宮の大蔵があったことに因むという{{Sfn|式内社調査報告|1986|p=185}}。境内では鎌倉時代の[[13世紀]]後半頃の[[経塚]]が発見されており、出土品(経筒など)は「大椋神社経塚出土品」として敦賀市指定有形文化財に指定<ref name="市指定有形文化財"/>。
; 劔神社
:* 鎮座地:敦賀市莇生野47-16({{Coord|35|37|38.02|N|136|2|28.34|E|region:JP-18_type:landmark|name=劔神社(西方鎮守社)}})
:* 祭神:比咩大神(配祀に[[応神天皇]])
:* 社格:式内社「剣神社」論社{{refnest|group="注"|name="剣神社"|「剣神社」の論社には他に[[丹生郡]][[越前町]]の[[劔神社]](越前国二宮)があり、そちらの比定が有力視される{{sfn|式内社調査報告|1986|p=157-161}}。なお、劔神について『新抄格勅符抄』や梵鐘(越前町の劔神社所蔵)には「'''剣御子神'''」と見えるが、これは「気比神の御子神」を意味するともいわれる{{sfn|堀大介|2014}}。}}、越前国内神名帳「正二位 剣大明神」論社<ref group="注" name="剣神社" />、旧村社
: 「つるぎじんじゃ」。神宮の西方鎮守社。{{Sfn|由緒書|2013}}{{Sfn|式内社調査報告|1986|p=157-161}}
; 志比前神社
:* 鎮座地:敦賀市道ノ口榊林2({{Coord|35|37|34.74|N|136|4|37.40|E|region:JP-18_type:landmark|name=志比前神社(南方鎮守社)}})
:* 祭神:[[経津主神|経津主命]]
:* 社格:式内社「志比前神社」、越前国内神名帳「正二位 椎前大明神」、旧村社
: 「しいざきじんじゃ」。「椎前神社」「志比神社」とも。神宮の南方鎮守社。『新抄格勅符抄』大同元年牒に見える「椎前神 三戸」や、『日本三代実録』で元慶4年(880年)<ref group="原">『日本三代実録』元慶4年(880年)9月17日条。</ref>に従四位上勲六等から正四位下勲六等に昇叙されたと見える「推前神」に比定する説がある<ref>[http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/301101.html 推前神](國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)。</ref>。経津主命を祭神とするため、「香取大明神」とも称されたという。{{Sfn|式内社調査報告|1986|p=177-178}}


神宮の北方鎮守社は天筒山山麓にあった道後神社(式内社「大神下前神社」に比定)で、現在は「大神下前神社」として神宮境内に鎮座する。

なお、気比の松原付近の別宮神社(敦賀市)について、元は氣比神宮の別宮であったとする説がある。同神社付近では[[松原客館]](渤海使滞在用施設)の所在も推定されており、神社前の松原遺跡では和同開珎・小鏡・銅鈴、緑釉・須恵器片が出土しているが、確定には至っていない<ref>[https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/4-01-05-03-04.htm 4-5-3 「松原客館の実態とその位置 > 松原駅館(客館)の現地比定」]『福井県史 通史編1 原始・古代』福井県編、福井県、1993年。</ref>。
<gallery>
<gallery>
ファイル:Kehi-jingu16s3200.jpg|大神下前神社
ファイル:Jogu-jinja honden.JPG|[[常宮神社]](常宮)<br />{{small|元奥宮・元摂社。}}
ファイル:Okura-jinja (Tsuruga) torii.JPG|大椋神社(大蔵)<br />{{small|神宮の東方鎮守社。}}
ファイル:Kehi-jingu14s3200.jpg|児宮
ファイル:Gthumb.svg|劔神社(莇生野)<br />{{small|神宮の西方鎮守社。}}
ファイル:Kehi-jingu04s3872.jpg|猿田彦神社
ファイル:Gthumb.svg|志比前神社(道口)<br />{{small|神宮の南方鎮守社。}}
ファイル:Betsugu-jinja (Tsuruga), torii.jpg|別宮神社(櫛川)<br/>{{small|一説に氣比神宮の別宮。}}
</gallery>
</gallery>
{{hidden end}}


== 祭事 ==
なお、戦前は敦賀湾対岸の[[常宮神社]]を境外摂社としていた。
=== 年間祭事 ===
{{hidden begin
|title = 年間祭事一覧
|border = #aaa solid 1px
|titlestyle = text-align: center; ; background:lightgrey;
}}
氣比神宮で年間に行われる祭事の一覧{{Sfn|由緒書|2013}}。
* 毎日
** 御日供祭(毎朝)
* 毎月
** 朔旦祭(1日)
** 月次祭(15日)
* 1月
** 若水祭、歳旦祭(1月1日)
** 元始祭(1月3日)
** 古神札御焚上祭(1月15日)
* 2月
** 節分祭(2月3日)
** 紀元祭(2月11日)
* 3月
** '''御誓祭'''(3月6日(旧暦2月6日))
** '''御名易祭'''(6月8日(旧暦2月8日))
* 4月
** 昭和祭(4月29日)
* 5月
** 角鹿神社初卯祭(5月初卯日) - 角鹿神社例祭。
** 春季例祭(5月4日)
* 6月
** '''御田植祭'''(6月15日)
** '''牛腸祭'''(6月16日)
** 夏越大祓式(6月30日)
* 7月
** '''総参祭'''(7月22日(旧暦6月中卯日))
* 9月
** 気比の長祭り(9月2日-15日)
*** 神幸祭(9月3日)
*** '''例大祭'''(9月4日(旧暦8月4日))
* 10月
** 大神下前神社例祭(10月10日)
** 神嘗祭当日祭(10月17日)
* 11月
** 明治祭(11月3日)
** 兒宮例祭(11月15日)
** 新嘗祭(11月23日)
* 12月
** 〆替・煤払い神事(12月15日)
** 天長祭(12月23日)
** 年越大祓式、除夜祭、献燈祭(12月31日)
* その他定期祭
** 猿田彦神社祭(庚申の日)
{{hidden end}}


== 主な ==
=== ===
* (94日)
* 宵宮([[92]]
* 神幸祭([[9月3日]])
:: 例祭に先立ち2日に宵宮祭、3日に神幸祭が行われ、また例祭後は5日から10日にかけて後祭、15日に月次祭が行われる。これらは一連して「'''気比の長祭り'''」と呼ばれる。
* 御誓 みちかい、36日)
* '''例大'''[[94]]
* 後日祭([[9月5日]]から月次祭までの間)
:: 仲哀天皇2年、天皇が親拝して当地に長く逗留するとの誓いを立てたために始められたと伝える。
* 御名易 みなかえ、38日)
* 月次祭([[915]]

:: 気比大神と誉田別命の名易え(厳密には「魚(な)」と「名(な)」の交換)に因むといい、本宮と摂社伊佐々別神社に海産物を主とする[[神饌]]を献ずる。
氣比神宮の'''[[例祭]]'''(れいさい)は、毎年[[9月4日]]に行われる。古くは[[8月4日 (旧暦)|旧暦8月4日]]に行われたが、これは仲哀天皇・神功皇后以下4柱の合祀がなされた大宝2年(702年)8月4日に因むという。例祭自体は9月4日になるが、各種神事は2日の宵宮祭から始まる。そして15日の月次祭まで祭事が続くことから、一連の祭りは「'''気比の長祭'''」と称される。また、俗に「けえさんまつり」ともいう。この期間中は、敦賀市内でも「[[敦賀まつり]]」として各種行事が行われる。{{Sfn|由緒書|2013}}
* 牛腸祭 (ごちょう、6月16日)

:: 9月の神幸祭で引かれる[[氏子]]各町の[[山車]]の順序を米籤(よねくじ)で決めるもので、女人禁制のほか厳重なしきたりがある。
2日には翌日からの祭りに備えて本殿で宵宮祭が行われ、大鳥居前には各町内から[[山車]]が集まって舞が奉納される。そして3日には神幸祭として、祭神の神霊を遷した[[鳳輦]]の市内巡幸が壮麗な行列とともに行われ、市内は大きな賑いを見せる。続く4日の例大祭は1年間で最重要の祭りである。この祭りでは[[神社本庁]]から献幣使が参向して幣帛料が献じられ、本殿において古式に則った神事が行われたのち、市内各町の山車の巡幸が行われる。その後、祭りは5日からの後日祭を経て15日の月次祭で終了する。{{Sfn|由緒書|2013}}
* 総参祭 (そうまいり、7月22日)

:: 御座船に船型神輿を載せて御幸浜(みゆきはま)から[[敦賀湾]]を横断して[[常宮神社]]へ渡御する神事であるが、当宮では仲哀天皇2年、神功皇后が天皇の命により敦賀から穴門国へ向かった故事に因むといい、地元では気比大神が1年に1度、眷属氏子を率いて天八百万比咩命(あめのやおよろずひめ、常宮神社祭神)を妻訪いするものであるという。なお、この日敦賀湾は禁漁となる。
=== 特殊神事 ===
* 遊行上人御砂持神事
神宮で行われる特殊神事{{Sfn|由緒書|2013}}{{Sfn|気比神宮(神々)|1985|p=125-127}}。
:: 正安3年、当宮を参拝した[[時宗]]2代目宗祖[[真教|真教]]が、西側参詣道の泥濘で参拝者が難儀するのを哀れみ、浜から砂を運んで整地した故事に因み、法灯を継ぐ[[清浄光寺]]が当宮でこの神事を修す。
; 御誓祭
: 「みちかいまつり」。[[3月6日]](古くは[[2月6日 (旧暦)|旧暦2月6日]])。仲哀天皇2年2月6日、天皇自ら参詣して「此地に宮居を定めて永く居らん」と誓った故事に因む神事。{{Sfn|由緒書|2013}}
; 御名易祭
: 「みなかえまつり」。[[3月8日]](古くは[[2月8日 (旧暦)|旧暦2月8日]])。神功皇后摂政13年2月8日、皇太子(応神天皇)と気比神が名易(名変え)を行なった故事に因む神事。本宮と伊佐々別神社(摂社)に海産物を主とする[[神饌]]が献じられる。{{Sfn|由緒書|2013}}{{Sfn|気比神宮(神々)|1985|p=125}}
; [[御田植祭]]
: 「おたうえさい」。[[6月15日]]。[[田植え]]前に行われる神事で、田長以下早乙女が神楽歌を口ずさんで[[豊作]]祈願が行われる。平安時代から行われる神事であるという。{{Sfn|由緒書|2013}}
; 牛腸祭
: 「ごちょうさい」。[[6月16日]]。9月の神幸祭で引く[[山車]]の順序を米くじで決める神事。女人禁制のほか厳重な制度のもと行われる。{{Sfn|由緒書|2013}}
[[ファイル:Jogu-jinja haiden-2.JPG|thumb|200px|right|{{Center|[[常宮神社]](敦賀市常宮)}}{{small|氣比神宮の元奥宮。神宮の対岸に位置し、総参祭では神宮からの神輿が船で渡御する。}}]]
; 総参祭
: 「そうのまいりのまつり」。[[7月22日]](古くは旧暦6月中卯日)。仲哀天皇2年に、神功皇后が仲哀天皇の命により敦賀から穴門国へ向かった故事に因む神事。前日夜には「寅神祭」として、海上安全と船型神輿への神霊奉遷の神事が行われる。そして当日には御座船「神宮丸」に船型神輿を載せ、御幸浜(みゆきはま)から[[敦賀湾]]に出船して途中船中で祭典が行われ、対岸にある旧摂社[[常宮神社]]への渡御が行われる。この日の敦賀湾は禁漁日となり、奉祀すれば3年の豊漁に恵まれるということから、多数の漁業者も曳行を行う。祭名「そうのまいり」は、このように総じて参拝する様子を称したものという。{{Sfn|由緒書|2013}}{{Sfn|気比神宮(神々)|1985|p=125-127}}
: なおこの神事について、神宮では神功皇后が百官を率いて出征した故事に因むとするが、地元では気比神が眷属・氏子を率いて常宮神を妻訪いする神事であると伝える。{{Sfn|気比神宮(神々)|1985|p=125-127}}


== 文化財 ==
== 文化財 ==
=== 重要文化財(国指定) ===
=== 重要文化財(国指定) ===
* 大鳥居(建造物)
* 大鳥居 - 明治34年(1901年)に[[古社寺保存法]]に基づき特別保護建造物に指定され、昭和25年(1950年)の[[文化財保護法]]施行後は重要文化財
*: 1901年(明治34年)3月27日に[[古社寺保存法]]に基づき特別保護建造物に指定<ref name="大鳥居">{{国指定文化財等データベース|102|817|気比神宮大鳥居}}<br />[https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/133528 氣比神宮大鳥居](文化遺産データベース)。<br />[http://info.pref.fukui.jp/bunka/bunkazai/sitei/kenzou/kehijingu-odorii.html 気比神宮大鳥居](福井県ホームページ)。</ref>、1950年(昭和25年)の[[文化財保護法]]施行により国の重要文化財に指定。

=== 国の名勝 ===
* けいの明神(氣比神宮境内)(名勝「[[おくのほそ道の風景地]]」のうち) - 2016年(平成28年)10月3日指定<ref name="おくのほそ道">[https://www.city.tsuruga.lg.jp/smph/sightseeing/culture/oshirase/Keinomyojin.html 気比神宮境内が、名勝「おくのほそ道の風景地」に指定されました。](敦賀市ホームページ)</ref>。

=== 敦賀市指定文化財 ===
* 有形文化財
** 木彫 猿田彦面(彫刻) - 「天文十年(1541年)紀久次」の墨書を有する。1954年(昭和29年)4月25日指定<ref name="市指定有形文化財">{{Cite web|和書|author= |year= |url=http://www.city.tsuruga.lg.jp/sightseeing/culture/bunkazai_ichiran/yukeibunkazai.html |title=有形文化財|publisher=敦賀市 |accessdate=2015-12-05}}</ref>。
** 能面 尉 銘 イセキ(彫刻) - 1956年(昭和31年)4月1日指定<ref name="市指定有形文化財" />。
** 紙本著色 気比神宮古図(歴史資料) - [[敦賀市立博物館]]寄託。1954年(昭和29年)4月25日指定<ref name="市指定有形文化財" />。
* 天然記念物
** 気比神宮のユーカリノキ - 1983年(昭和58年)4月1日指定<ref>{{Cite web|和書|author= |year= |url=https://www.city.tsuruga.lg.jp/sightseeing/culture/bunkazai_ichiran/minzokubunkazai_kine.html|title=民俗文化財・記念物|publisher=敦賀市 |accessdate=2015-12-05}}</ref>。

=== 関連文化財 ===
* 氣比宮社記 9冊 - 敦賀市指定有形文化財(典籍)。平松周家著。2008年(平成20年)11月14日指定<ref name="市指定有形文化財" />。<!--所有者は氣比神宮でない-->

== 気比神宮寺 ==
'''気比神宮寺'''(けひじんぐうじ)は、氣比神宮にかつて存在した[[神宮寺]]。現在は廃寺{{Sfn|気比神宮寺(国史)|1985|p=120}}。

『[[藤氏家伝]]』<ref group="原">『藤氏家伝』下 武智麿伝。</ref>によれば神宮寺の成立は[[霊亀]]元年([[715年]])で、文献上では全国の神宮寺の中で最古になる{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=505}}。同書によれば、[[藤原武智麻呂]]の夢に気比神が現れ、宿業によって神の身となったことの苦悩を告げて仏道による救済を求め、武智麻呂はその願いを容れて神宮寺を建立したという{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=505}}。

[[斉衡]]2年([[855年]])<ref group="原">『日本文徳天皇実録』斉衡2年(855年)5月壬子(5日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>には、気比大神宮寺と御子神宮寺(不詳)に対して[[得度|得度僧]]5人・心願住者5人の計10人の常住僧を置くことが定められた{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=505}}。また、[[天安 (日本)|天安]]2年([[858年]])<ref group="原">『日本文徳天皇実録』天安2年(858年)4月戊戌(7日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>には仏像造立費として稲1万束の充当、天安3年(859年)<ref group="原">『日本三代実録』貞観元年(859年)2月15日条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>には大般若経一部の安置の記事が見えるほか、貞観2年([[860年]])<ref group="原">『日本三代実録』貞観2年(860年)正月27日戊寅条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>記事では神宮寺が[[定額寺]]となされている{{Sfn|気比神宮(平凡社)|1981|p=505}}。その後の経緯は記録がなく明らかでない{{Sfn|気比神宮寺(国史)|1985|p=120}}。[[大永]]6年([[1526年]])の正遷宮に際して神宮寺御読経所で読経があったともいうが、廃絶の経緯・跡地は不詳{{Sfn|気比神宮寺(国史)|1985|p=120}}。なお、付近の善妙寺や妙願寺では神宮寺を前身とするという由緒を伝える{{Sfn|中世諸国一宮制|2000|p=332}}。


若狭・越前地方の神宮寺では、[[劔神社]]([[丹生郡]][[越前町]])の神宮寺成立が710年代と推定されるほか{{refnest|group="注"|劔神社には[[神護景雲]]4年([[770年]])銘の梵鐘が現存し、周辺の瓦窯の使用時期から710年代での神宮寺の存在可能性が高いとされる{{sfn|堀大介|2014}}。}}、[[若狭彦神社]]([[小浜市]])神宮寺の神願寺([[若狭神宮寺]])では[[養老]]年間([[717年]]-[[724年]])の創建譚が『[[類聚国史]]』<ref group="原">『類聚国史』天長6年(829年)3月16日条。</ref>に記されている{{Sfn|堀大介|2014}}。気比神宮寺を含むこれら神宮寺の相次ぐ成立に関して、その時期・位置の近さから同一僧侶(一説に[[白山]]開基の[[泰澄]])による活動を推測する説がある{{Sfn|堀大介|2014}}。また成立要因に関して、敗者として「[[祟り|祟り性]]」を備える仲哀天皇(氣比神宮祭神)・[[忍熊皇子]](劔神社祭神)の霊を仏道の面から慰撫する目的であったと推測する説もある{{Sfn|堀大介|2014}}。
=== 敦賀市指定天然記念物 ===
* 気比神宮の[[ユーカリ|ユーカリノキ]] - 樹齢は不明であるが、樹高約10.6m、幹周り3.25mの大樹


== 現地情報 ==
== 現地情報 ==
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; 交通アクセス
; 交通アクセス
* 最寄駅:[[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[北陸本線]] [[敦賀駅]] (徒歩約15分)
* 鉄道:[[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[北陸新幹線]][[北陸本線]]・[[小浜線]]、[[ハピラインふくい線]] [[敦賀駅]]
** 徒歩:約15分
** バス:[[福井鉄道#バス事業|福鉄バス]]または[[敦賀市コミュニティバス]]で「気比神宮前」停留所下車、徒歩約2分。


; 周辺情報
; 周辺
<!-- 特筆性のない地点は除去対象となります。なお、敦賀港に属する施設(例:「金ヶ崎緑地」や「赤レンガ倉庫」など)はここには記載しません。 -->
* [[敦賀駅前商店街]]
* [[敦賀市立博物館]]
* [[みなとつるが山車会館]]
* [[紙わらべ資料館]]
* [[敦賀港]]
* [[敦賀港]]
* [[金崎宮]]
* [[金崎宮]]
* [[天満神社 (敦賀市)|天満神社]]
* [[幸臨寺]] - 旧[[神宮寺]]


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references />
=== 本文 ===
==== 注釈 ====
{{Reflist|group="注"|2}}
==== 出典 ====
{{Reflist|2}}
=== 資料 ===
==== 原典 ====
{{Reflist|group="原"|2}}


== 参考文献 ==
== 参考文献・サイト ==
<!-- 実際に参考にした文献一覧(本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典〈書籍、論文、資料やウェブページなど〉のみを列挙して下さい。実際には参考にしていないが、さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献は、「関連文献」などとセクション名を分けて区別して下さい。) -->
* [[宮地直一]]・[[佐伯有義]]監修 『神道大辞典 縮刷版』([[臨川書店]]、1969年)
; 神宮出版物
* 式内社研究會編 『式内社調査報告 第15巻 若狭国・越前国』([[皇學館大學]]出版部、1986年)
* {{Wikicite|reference=神社由緒書「氣比神宮」|ref={{Harvid|由緒書|2013}}}}
* 神社紀行『氣比神宮 気多大社 若狭彦神社』([[学研ホールディングス|学習研究社]]、2003年)
* {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1941|chapter=|title=気比宮社記|publisher=気比神宮|isbn=|ref={{Harvid|気比宮社記|1941}}}}
*: [[宝暦]]11年([[1761年]])の大宮司兼大祝・平松周家の撰になる社伝。写本を校合して1941年に刊行された(以上、解説は『中世諸国一宮制の基礎的研究』より)。
** [{{NDLDC|1040162}} 『気比宮社記』](国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
* 境内説明板

; 書籍
* 地方自治体発行
** {{Cite book|和書|editor=福井県編|author=|year=1993|chapter=|title=[https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/1-00.htm 福井県史 通史編1 原始・古代]|publisher=福井県|isbn=|ref=}}
*** {{Wikicite|reference=「[http://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/2a3-01-02-01-04.htm 2-2-1 気比大神]」|ref={{Harvid|気比大神(県史)|1993}}}}、{{Wikicite|reference=「[http://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/2a3-01-04-02-03.htm 2-4-2 角鹿国造]」|ref={{Harvid|角鹿国造(県史)|1993}}}}、{{Wikicite|reference=「[http://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/2a3-02-03-03-01.htm 3-3-3 ケヒ神へのヤマト朝廷の関与]」|ref={{Harvid|ケヒ神へのヤマト朝廷の関与(県史)|1993}}}}、{{Wikicite|reference=「[http://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/2a3-02-03-03-02.htm 3-3-2 ケヒ神との易名説話]」|ref={{Harvid|ケヒ神との易名説話(県史)|1993}}}}。
* 事典類
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** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1981|chapter=|title=[[日本歴史地名大系]] 18 福井県の地名|publisher=[[平凡社]]|isbn=4582490182|ref={{Harvid|福井県の地名(平凡社)|1981}}}}
*** {{Wikicite|reference=「気比神宮」|ref={{Harvid|気比神宮(平凡社)|1981}}}}、{{Wikicite|reference=「常宮神社」|ref={{Harvid|常宮神社(平凡社)|1981}}}}。
** {{Cite book|和書|author=|year=1985|title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]] 第5巻|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=4642005056|ref=}}
*** {{Wikicite|reference=鎌田純一「気比神宮」|ref={{Harvid|気比神宮(国史)|1985}}}}、{{Wikicite|reference=小島鉦作「社領(気比神宮項目内)」|ref={{Harvid|社領(国史)|1985}}}}、{{Wikicite|reference=鎌田純一「気比神宮寺」|ref={{Harvid|気比神宮寺(国史)|1985}}}}。
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1989|chapter=|title=[[角川日本地名大辞典]] 18 福井県|publisher=[[角川書店]]|isbn=4040011805|ref=}}
*** {{Wikicite|reference=「気比神宮」|ref={{Harvid|気比神宮(角川)|1989}}}}、{{Wikicite|reference=「常宮神社」|ref={{Harvid|常宮神社(角川)|1989}}}}、{{Wikicite|reference=「敦賀郡」|ref={{Harvid|敦賀郡(角川)|1989}}}}、{{Wikicite|reference=「敦賀津」|ref={{Harvid|敦賀津(角川)|1989}}}}。
* その他
** {{Cite book|和書|editor=[[谷川健一]]|author=|year=1985|chapter=|title=日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸|publisher=[[白水社]]|isbn=4560022186|ref=}}
*** {{Wikicite|reference=西村英之「気比神宮」|ref={{Harvid|気比神宮(神々)|1985}}}}、{{Wikicite|reference=西村英之「常宮神社」|ref={{Harvid|常宮神社(神々)|1985}}}}。
** {{Cite journal|和書|author=三浦正幸|title=越前の気比神宮本殿|date=1985-3-16|publisher=社団法人日本建築学会|journal=日本建築学会中国支部研究報告集|volume=12|number=|naid=110007535330|pages=221-224|ref={{Harvid|三浦正幸|1985}}}}
** {{Cite book|和書|editor=式内社研究会|author=|year=1986|title=式内社調査報告 第15巻|publisher=[[皇學館大学]]出版部|page=|isbn=|ref={{Harvid|式内社調査報告|1986}}}}
*** {{Wikicite|reference=西村英之「氣比神社七座」|ref={{Harvid|氣比神社七座(式内社)|1986}}}}、{{Wikicite|reference=杉原永綏「角鹿神社」|ref={{Harvid|角鹿神社(式内社)|1986}}}}、{{Wikicite|reference=田中完一「天八百萬比咩神社」|ref={{Harvid|天八百萬比咩神社(式内社)|1986}}}}。
** {{Cite book|和書|editor=中世諸国一宮制研究会|author=|year=2000|chapter=|title=中世諸国一宮制の基礎的研究|publisher=岩田書院|isbn=978-4872941708|ref={{Harvid|中世諸国一宮制|2000}}}}
** 神社紀行『氣比神宮 気多大社 若狭彦神社』 [[学研ホールディングス|学習研究社]]、2003年。
** {{Cite book|和書|editor=『歴史読本』編集部|author=堀大介|year=2014|chapter=氣比神宮|title=神社の古代史(新人物文庫297)|publisher=中経出版|isbn=978-4046001368|pages=78-98|ref={{Harvid|堀大介|2014}}}}

; サイト
* {{Cite web|和書|url=http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/300101.html|author=|title=気比神社七座(越前国敦賀郡)|work=|publisher=國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」|date=|accessdate=2014-5-26|ref={{Harvid|神道・神社史料集成}}}}

== 関連文献 ==
<!-- 実際には参考にしていないが、さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献(書籍、論文、資料、ウェブページなど)一覧(実際に参考にしているのではないので過多にならないように、多すぎたら除去。宣伝はご遠慮下さい、宣伝は除去。実際に参考にした文献は脚注を導入し「参考文献」節へ追加して下さい。) -->
* 『[[古事類苑]]』神宮司庁編、氣比神宮項
** [{{NDLDC|1873551/488}} 『古事類苑 第9冊』](国立国会図書館デジタルコレクション)488-495コマ参照。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
<!-- 本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク、ウィキリンク。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 -->
* [[常宮神社]] (敦賀市常宮) - 旧境外摂社。氣比神宮の「口宮」・「上社」の呼称に対して、当社は「奥宮」・「下社」と呼ばれた
{{commonscat}}
* [[気比神社]]
** [[気比神社 (豊岡市)|気比神社]](兵庫県豊岡市) - [[但馬国]][[城崎郡]]の[[式内社]]。
* [[気比松原]]
* [[気比松原]]
* [[越国]]
* [[越国]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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{{Commons|Category:Kehi-jingu}}
* [http://kehijingu.jp/ 氣比神宮]公式サイト
* [https://kehijingu.jp/ 北陸道総鎮守 氣比神宮] - 公式サイト
* [https://www.jinja-fukui.jp/detail/index.php?ID=20151027_161953 氣比神宮] - 福井県神社庁
* [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/300101.html 気比神社七座](國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)
* [https://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=53202 気比神社七座] - 國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料データベース(古代)」



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2024年5月5日 (日) 05:37時点における最新版

氣比神宮

大鳥居(国の重要文化財
所在地 福井県敦賀市曙町11-68
位置 北緯35度39分17.85秒 東経136度4分28.92秒 / 北緯35.6549583度 東経136.0747000度 / 35.6549583; 136.0747000 (氣比神宮)座標: 北緯35度39分17.85秒 東経136度4分28.92秒 / 北緯35.6549583度 東経136.0747000度 / 35.6549583; 136.0747000 (氣比神宮)
主祭神 伊奢沙別命
社格 式内社名神大7座)
越前国一宮
官幣大社
別表神社
創建 (伝)第14代仲哀天皇8年(創祀は上古)
別名 笥飯宮・笥飯大神宮
例祭 9月4日
主な神事 御誓祭(3月6日
御名易祭(3月8日
御田植祭(6月15日
牛腸祭(6月16日
総参祭(7月22日
気比の長祭(9月2日-15日
地図
氣比神宮の位置(福井県内)
氣比神宮
氣比神宮
氣比神宮の位置(日本内)
氣比神宮
氣比神宮
地図
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氣比神宮(けひじんぐう、気比神宮)は、福井県敦賀市曙町にある神社式内社名神大社)、越前国一宮旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社

概要

[編集]
敦賀市中心部航空写真
1975年撮影の4枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。中央右上にある一画の緑地が氣比神宮境内になる。

福井県中央部、敦賀市市街地の北東部に鎮座する。敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸国(現在の北陸地方)から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島や中国東北部への玄関口にあたる要衝である[要出典]。神宮はそのような立地であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社であった。

古事記』『日本書紀』では早い時期に神宮についての記事が見えるが、特に仲哀天皇(第14代)・神功皇后応神天皇(第15代)との関連が深く、古代史において重要な役割を担う。また、中世には越前国一宮に位置づけられており、福井県から遠くは新潟県まで及ぶ諸所に多くの社領を有していた。

社殿のほとんどは第二次世界大戦中の空襲で焼失したため、現在の主要社殿は戦後の再建になる。空襲を免れた大鳥居は「日本三大木造鳥居」にも数えられる壮麗な[要出典]朱塗鳥居であり、国の重要文化財に指定されている。また境内社の角鹿(つぬが)神社は「敦賀」の地名の由来であると伝える。祭事では多数の特殊神事が現在まで続き、古図、古面等の有形文化財を伝えている。さらに、『おくのほそ道』本文に「けいの明神に夜参す」とあることから、境内は国の名勝おくのほそ道の風景地」の一部に指定されている。

社名

[編集]

神宮の社名について、史料には主なものとして次の呼称が見える[1](史料の引用には常用漢字体を使用)。

「気比」の冠称は、かつて松原が神宮に管掌されたことによるという。

以上のほか、史料には「気比宮」「気比大明神」「気比社」「気比明神」などの呼称も見える[1]明治維新後、明治28年(1895年)には神宮号が宣下され、それ以後は社名を「氣比神宮」としている[1]。なお、気比の松原の冠称「気比」も神宮の社名に由来するもので、同地が古くは神宮の領地であったことに因むとされる[2]

「ケヒ(気比/笥飯)」の由来としては、『古事記』[原 1]では「御食津(みけつ)」から「気比」に転訛したという[3]。『古事記』の伝承に加え、古い表記の「笥飯」は当て字ながら「箱中の飯」を意味することから、「ケヒ」とは「食(け)」の「霊(ひ)」、すなわち食物神としての性格を表す名称とする説がある[4][5]。これとは別に、応神天皇と気比神との名の交換を意味する「かへ(kafë)」から「けひ(këfi)」に変化したとする説もある[6]

以下本項では、社名には「氣比」を使用し、史料の引用など社名以外では常用漢字体の「気比」を使用して解説する。

祭神

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祭神は次の7柱[2]。本殿(本宮)に主祭神と2柱、本宮周囲の四社の宮(ししゃのみや)にそれぞれ1柱を祀る[2]

本殿(本宮)
  • 伊奢沙別命(いざさわけのみこと) - 主祭神。「気比大神」または「御食津大神」とも称される。
  • 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) - 第14代天皇。
  • 神功皇后(じんぐうこうごう) - 仲哀天皇の皇后
四社の宮
  • 東殿宮:日本武尊(やまとたけるのみこと)
  • 総社宮:応神天皇(おうじんてんのう) - 第15代天皇。
  • 平殿宮:玉姫命(たまひめのみこと、玉妃命) - 『気比宮社記』では神功皇后の妹の虚空津比売命とする。
  • 西殿宮:武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)

祭神関係略図
(伊奢沙別命を除く6柱の関係を社伝に基づいて掲載。数字は天皇代数)

日本武尊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
14 仲哀天皇
 
神功皇后玉姫命
 
 
15 応神天皇武内宿禰命(家臣)

祭神を7柱とする記載は、古くは『延喜式神名帳に見える[3]。『気比宮社記』によれば、当初の祭神は伊奢沙別命1柱であったが、大宝2年(702年)の社殿造営にあたって仲哀天皇・神功皇后を本宮に合祀、周囲に日本武尊ほか4柱を配祀したとする[3]

祭神について

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上記の通り主祭神はイザサワケ(伊奢沙別/去来紗別)で、氣比神宮特有の神である[注 1]。神名「イザサワケ」のうち「イザ」は誘い・促し、「サ」は神稲、「ワケ」は男子の敬称の意といわれる[4]。そのほかの名称として、史書では「笥飯」「気比」「御食津」と記されるほか、『気比宮社記』では「保食神」とも記される[5]。これらは、いずれも祭神が食物神としての性格を持つことを指す名称であり[5]、敦賀が海産物朝貢地であったことを反映するといわれる[4]。このことから、神宮の祭神は上古より当地で祀られた在地神、特に海人族によって祀られた海神であると解されている[3][7][5]。一方、『日本書紀[原 9]新羅王子の天日槍の神宝として見える「胆狭浅大刀(いささのたち)」との関連性の指摘があり[8][5]、イザサワケを天日槍にあてて新羅由来と見る説もある[9]

第15代天皇。『古事記』『日本書紀』によれば伊奢沙別命(神宮の主祭神)と名を交換したという。

このイザサワケは、仲哀天皇神功皇后応神天皇と深いつながりにあることが『古事記[原 1]日本書紀[原 10][原 3]によって知られる。両書では、仲哀天皇が角鹿に行宮として「笥飯宮」を営んだとあるほか、天皇の紀伊国滞在中に熊襲の謀叛があり角鹿にいた神功皇后を出発させたと見え、角鹿の地が登場する[5]。神功皇后は、仲哀天皇の突然死を経て新羅に遠征(三韓征伐)、帰途に太子(誉田別尊;応神天皇)を産んだ[5]。そして、皇后と太子がヤマトへ戻る際に謀叛があったが無事平定し、太子は武内宿禰に連れられてのため気比神に参詣したという[5]。以上のように、歴史の早い段階から気比神が朝廷の崇敬を受ける神として登場しており[3]、一連の出征の始まり・終わりを成したことから古くは軍神として崇敬されたとも見られる[5]

古事記[原 1]ではその後の経緯として、武内宿禰に連れられた太子(応神天皇)はイザサワケと名の交換を行ったとする(易名説話)。説話によれば、太子が角鹿(敦賀)の仮宮を営んでいると、夜の夢にイザサワケが現れて名を交換するよう告げられた[3]。太子が承諾するとイザサワケは翌朝に浦に出るように言い、太子が言われたとおりにすると浦には一面にイザサワケの献じた入鹿魚(イルカ)があった[3]。これにより太子はイザサワケを「御食津大神(みけつのおおかみ)」と称え、のちにその名が「気比大神」となったという[3]。同様の説話は『日本書紀』[原 4]でも別伝として記されているが、『古事記』『日本書紀』とも内容には疑問点が指摘される[注 2]。この説話の解釈には諸説あるが、特にその真相を「名(な)と魚(な)の交換」すなわち「名の下賜」と「魚の献上」であるとして、気比神(とその奉斎氏族)の王権への服属儀礼を二重に表すと見る説が有力視される[5]。また、以上のように当地が応神天皇系の勢力基盤であったことは、越前から出た応神天皇五世孫の継体天皇(第26代)とも関係するといわれる[8]

イザサワケとともに祀られる仲哀天皇以下6柱に関しては、7世紀後半に天皇霊が国家守護神として各地に設置された動きと関連づける説がある[5]。その中で、守護神として合祀された仲哀天皇は敗者の霊として「祟り性」を備えていたために、全国でも早期の神宮寺成立・神階昇叙につながったと指摘される[5]

歴史

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創建・伝承

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社伝では、上古に主祭神の伊奢沙別命は東北方の天筒山に霊跡を垂れ、境内北東方にある土公の地に降臨したという[2]。そして『気比宮社記』によれば、仲哀天皇の時に神功皇后三韓征伐出兵にあたって気比神に祈願をすると、海神を祀るように神託があり、皇后は穴門に向かう途中で海神から干・満の珠を得た[12]。そして仲哀天皇8年3月に神功皇后と武内宿禰安曇連に命じて気比神を祀らせたといい、これが神宮の創建になるとしている[12]。またこの時、気比大神は玉姫命に神憑りして三韓征伐の成功を再び神託したとも伝える[12]。その後大宝2年(702年)に文武天皇の勅によって社殿を造営し、本宮に仲哀天皇・神功皇后を合祀、東殿宮・総社宮・平殿宮・西殿宮の4殿に各1柱を祀ったという[3]

また前述のように、『古事記』『日本書紀』では仲哀天皇・神功皇后・応神天皇の時期に記事が記されている。しかしながら、その後は持統天皇6年(692年)まで神宮に関する記事は見えないことから、7世紀中頃までは朝廷とのつながりは薄かったとして、7世紀後半頃に気比神の祭祀権が在地豪族から朝廷の手に移ったと推測される[11][13]

概史

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古代

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国史において気比神が再び現れるのは持統天皇6年(692年[原 5]で、その記事では越前の国司が角鹿郡の浜で獲った白蛾を献上したため、20戸の神封(神社に寄進された封戸)が増封されたと記されている[5]霊亀元年(715年)には境内に神宮寺気比神宮寺)が設けられたというが、これは文献上で全国最古の神宮寺成立になる[3]。また『新抄格勅符抄[原 11]によれば、天平3年(731年)に従三位料として200戸の神封があり、天平神護元年(765年)には神封は244戸に及んだ[3]。同記事では神階として「従三位」と記されているが、これも全国諸神の神階記事の内で最古になる[注 3]。その後、神階は寛平5年(893年)までに正一位勲一等の極位に達した[3]。このような神階昇叙には9世紀の東アジア情勢が背景にあり、この時期に海神としての本来の性格が朝廷から重要視されたと推測される[7]

また、神宮は朝廷鎮護の重要な一角として古くから朝廷との結びつきが強く[7]、朝廷からの奉幣宝亀元年(770年[原 2](使者:中臣葛野連飯麻呂)、承和6年(839年[原 12](使者:大中臣朝臣礒守・大中臣朝臣薭守)、仁寿2年(852年[原 8]貞観元年(859年[原 13](使者:大中臣朝臣豊雄)にあった。また、承和6年(839年)[原 7]には神宮の雑務は国司預かりから神祇官直轄に移行され、朝廷との関わりを一層強めている[3]

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では越前国敦賀郡に「気比神社七座 並名神大」と記載され、七座が名神大社に列している[3]。また、同帳に見える「角鹿神社」「大神下前神社」「天利剣神社」「天比女若御子神社」「伊佐奈彦神社」の式内社5社は神宮の境内社に比定される[2]。そのうちでも特に、天利剣・天比女若御子・天伊佐奈彦の3社は『続日本後紀』[原 14]において「気比大神之御子」と見える。このことから、神宮周辺の諸社が御子神として編成されたとして、敦賀の在地社会において神宮中心の国家祭祀体系が構築されたと考えられている[7]

中世から近世

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中世以降は越前国の一宮に位置づけられ[7]、「北陸道総鎮守」とも称されたという[15]。古代に続いて中世も広大な社領を有しており、その土地は越前を中心として遠く越中・越後・佐渡にまで及んでいた[16]南北朝時代の戦乱では、宮司の気比氏治は南朝方につき金ヶ崎城を築いて奮戦したが、北朝方に敗れ一門は討ち死した[2]。この敗死により神宮の社領も減じられたが、それでもなお24万石を所領したと伝える[2]。神宮は中世を通じて社殿焼失が多く、史料には再建を示す記事が多く見られる[17]

戦国時代には、社家は戦国大名朝倉氏の下に組み込まれた[7]。そのため、織田信長の侵攻によって社殿のほとんどを焼失、朝倉氏滅亡とともに社領も没収されて社勢は著しく衰退した[18]

江戸時代に入ると慶長8年(1603年)に結城秀康から100石が寄進され、慶長9年(1604年)には社殿造営がなされて再興が果たされた[18]。その後は、徳川家光から秀忠の病気平癒祈願料として50石が寄進されたほか、大野城主の松平但馬守などからの奉幣も受けている[18]。しかしながら、かつての繁栄は見られなくなったという[18]

近代以降

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明治維新後、明治4年(1871年)に近代社格制度において国幣中社に列した[19]。明治28年(1895年)には官幣大社に昇格するとともに、神宮号宣下により社名を現在の「氣比神宮」に改称した[19]

1933年(昭和8年)10月30日、福井県で行われた陸軍特別大演習終了後、県内を巡幸した昭和天皇が行幸[20]

1945年(昭和20年)、敦賀空襲により旧国宝の本殿ほか社殿の多くを焼失した[19]。本殿は昭和25年(1950年)に再建され、その他の社殿も再建・修復を経て現在に至っている[19]。また、戦後は神社本庁別表神社に列している。

1968年(昭和43年)10月4日第23回国民体育大会後、県内を巡幸した昭和天皇、香淳皇后が行幸啓[21]

神階

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神職

[編集]

気比神の祭祀は、古代には角鹿氏(つぬがうじ、角鹿直・角鹿海直)が担ったといわれる[23]。この角鹿氏は敦賀における海上交通・漁業の統率者(海人族)であり[24]角鹿国造を務めた氏族である[25]。敦賀市には首長墓として5世紀末の向出山1号墳(直径約60メートルの円墳北緯35度38分16.64秒 東経136度5分10.31秒)が残るが、その副葬品には被葬者と東アジアのつながりが指摘される[26]。この角鹿氏は、7世紀後半頃には朝廷の支配下に入ったと見られている[24]

記録上では、宝亀7年(776年[原 21]に朝廷から初めて宮司職が置かれ、宮司は従八位に準じたとある[11]。以後、文献では宮司として大中臣氏中臣氏の各人物が見える[注 4]延暦23年(804年[原 6]からは、宮司の就任には神祇官の認可が必要となり、朝廷とのつながりを強めている。また承和2年(835年[原 15]の記事では禰宜・祝の各職が見える。『延喜式[原 22]によれば、松原客館渤海使の客館)の検校も宮司が担っていた。なお『朝野群載』には、承暦4年(1080年)に神事を穢した祟りがあったため、神官に中祓を科した記録が見える。

古くは神職として大宮司・大祝・権祝・副祝・正禰宜・副禰宜職があり、48の社家は大中臣姓・角鹿姓を称したという(室町時代からは菅原姓も加わった)[27]。人物としては特に、南北朝の争乱で恒良親王尊良親王を奉じた大宮司の気比氏治・斉晴親子が知られる。また検校・行司・別当・執当等36坊を数える社僧職もあったという。信長の越前侵攻後は、大中臣姓の東河端・西河端・北河端・石倉・石塚・平松の6家と、角鹿姓の島家、菅原姓の宮内家の計8家を残すのみとなった[27]。この社家制度は、明治4年(1871年)の太政官布告を以て廃止されている。

社領

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六国史時代における社領の記録は次の通り[16]

上記のうち持統天皇6年の記事は「増封」であるため、これに先立ってすでに封戸があったとされる[5]。また244戸という神封は、全国でも屈指の数になる[16]。その後、『日本三代実録』によれば元慶8年(884年[原 23]に神宮の封租穀は神庫に納めて祭祀費にあてられるともに、神戸の百姓の国役への充当が停止されている[3]

平安時代末期以降には社領が荘園化し、鳥羽院本家として皇室領に入り、美福門院八条院春華門院順徳院後高倉院安嘉門院・室町院・亀山院後宇多院後醍醐天皇へと大覚寺統に伝えられた[16]。また、律令制の崩壊とともに先の封戸も荘園化したとされる[16]。それらの荘園領は建暦2年(1212年)注進の目録によって知られ、同文によると社領は敦賀郡を中心とする越前国に加え、敦賀港三国港の要港、越中・越後までの一部にまで及んでいた[16]。作田は257町余で所当米は1,700石余、さらに請加米を加えると2,111石であった[16]。そのうち本家分は702石余、領家分は292石余、大宮司(預所)分は177石余である[16]。前述のようにこれら荘園の本家は皇室であったが、領家は九条良輔九条兼実の子)の知行に始まって延暦寺属の青蓮院に伝えられた[16]

応仁の乱の後は、武家による侵略を受けながら朝倉氏滅亡までは所々の社領を有したが、朝倉氏の滅亡後に衰退した[16]。江戸時代の社領は100石であった[16]

社殿造営

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神宮の社殿は被災が多く、文献には度々再建なされた様子が見える。『気比宮社記』等によると、再建年次は次の通り。

社殿造営年表
氣比神宮の社殿造営 年表[28]
事象 造営・遷宮
天喜2年(1054年 炎上 造畢
承暦2年(1078年 造替・遷宮
保延元年(1135年 大風で倒壊 再建・遷宮
建久2年(1191年 焼失
建久7年(1196年 本殿造営
元久元年(1204年 遷宮
建長8年(1256年 焼失
文永2年(1265年 造畢・遷宮
正中2年(1325年 地震で倒壊
正慶2年(1333年 造営・遷宮
建武4年(1337年 南北朝の戦乱で
幣殿以外全焼
暦応2年(1339年 遷宮
貞治6年(1367年 造営始(修理か)
永正3年(1506年 政所社以外全焼
永正12年(1515年 造営日時定
永正13年(1516年 遷宮
享禄2年(1526年 常宮の修理
天文9年(1540年 修造、翌年遷宮
弘治2年(1556年 類焼により半焼
元禄元年(1558年 修造終了、翌年遷宮
元亀元年(1570年 政所社・炊殿・神楽屋
以外を兵火で焼失
元亀2年(1571年 小祠2宇造営、遷宮
慶長9年(1604年 造営始
慶長19年(1614年 正遷宮(旧本殿
元和元年(1615年 惣社再興
元和2年(1616年 拝殿造営
寛永19年(1642年 平殿再興
正保2年(1645年 大鳥居造営(現存)
慶安4年(1651年 御子神9社再興
(神宮寺を除いて中世期をほぼ再現)
寛保2年(1742年 宝殿造営
宝暦5年(1755年 本殿修造、正遷宮
昭和20年(1945年 戦災でほぼ全焼
昭和期 昭和の大造営(現本殿

神宮の中世期の境内の様子は「気比神宮古図」(室町時代後期)によって知られる[7]。また、戦災で焼失した旧本殿は珍しい「両流造」であったことが知られるが(「社殿」節参照)、以上の変遷を踏まえると、その両流造の形式は文永2年(1265年)までは確実に遡ることができ、可能性としては保延1135年)または元久1204年)頃に遡ると推測される[28]

また、現在の神宮の入り口は境内西側に国道8号に面して設けられているが、古くは東側にあったとされている[2]。史料によれば、正安3年(1301年)に神宮を参詣した他阿真教時宗第2世)は、西参道の沼地を改善するため浜から砂を運んで整地したといい、それ以来神宮の入り口は西側に移ったという[29]。この故事に因み、現在でも時宗総本山の法主交代時には神宮で「お砂持ち」の儀式が行われる[2]

境内

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境内の広さは11,253坪(約3.7ヘクタール)[2]

社殿

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本殿
外拝殿

主要社殿は昭和20年(1945年)の空襲で焼失したため、いずれも戦後の再建である。本殿(本宮)は昭和25年(1950年)の再建で、南面して鎮座する。本殿の周囲には東殿宮(本殿の東)・総社宮(東北)・平殿宮(西北)・西殿宮(西)の4社殿が建てられ、これらは「四社の宮(ししゃのみや、四社之宮)」と総称される。四社の宮はいずれも平成に入っての再建社殿である。また、本殿に接続して内拝殿・外拝殿が建てられているが、これらは昭和の大造営時の再建になる。[2]

戦災で焼失した旧本殿は、江戸時代初期の慶長19年(1614年)に結城秀康によって再建されたもので、旧国宝に指定されていた[30]。桁行三間・梁間四間、「両流造」という独特の形式[注 5]の大規模な社殿で、屋根は檜皮葺、正面には一間の向拝が付設されていた。また内部は正面一間通りを外陣とし、奥は一間ごとに3分割して中央間に中陣・内陣・内々陣を設け、左右脇間は空殿とされていた。『気比宮旧記』によれば、そのうち内々陣の中央に仲哀天皇、右(西)に神功皇后、左(東)に保良太神(伊奢沙別命)が祀られていたという。[28]

社務所は平成23年(2011年)の再建[2]。以前の社務所では裁判所庁舎が移転・使用されていた[2]

土公

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土公
後背に天筒山

境内から天筒山の方角の敦賀北小学校校庭には「土公(どこう)」と称される小丘がある(北緯35度39分20.17秒 東経136度4分33.21秒 / 北緯35.6556028度 東経136.0758917度 / 35.6556028; 136.0758917 (土公))。「土公」とは陰陽道における神の名である。土公は神宮の聖地とされており、周囲には卵形の石が八角形にめぐらされている。社伝では、気比神はこの土公に降臨したといい、大宝2年(702年)の社殿造営以前は土公を神籬として祭祀が行われたとする。また社殿造営後も土公は古殿地として護られたとも、最澄空海は当地で7日7夜の祈祷を行なったとも伝える。[2][31]

この土公は聖別されているため、調査が行われておらず詳細は明らかでない。社伝に見える説のほかに、古墳とする説や経塚とする説がある[31]

社叢

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中鳥居前に立つ松は「旗掲松(はたあげのまつ)」と称される。社伝では、延元元年(1336年)に宮司の気比氏治が南朝方として挙兵するにあたり、この松に気比神の神旗を掲げたという。現在もその旧根が残るとともに2代目の松が生育している。[2]

また、境内には昭和11年(1936年)に陸軍関係者から献木されたユーカリの大木が生育している。この木は敦賀市指定天然記念物に指定されている。[2]

そのほか、境内東南側には庭園「神水苑」が整備されている[2]

大鳥居

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境内入口に建てられている大鳥居は、江戸時代前期の正保2年(1645年)の造営。木造朱塗の両部鳥居で、高さ36尺(10.93メートル)・柱間24尺である。扁額「氣比神宮」は有栖川宮威仁親王の染筆になる。[2][32]

神宮の境内入り口は古くは東側にあったため(「社殿造営」節参照)、初代鳥居は弘仁元年(810年)に境内東側に建てられていたが、その鳥居は康永2年(1343年)に大風で倒壊したという。そして、寛永年間(1624年-1644年)に佐渡の旧神領地の鳥居ケ原から奉納された(むろ)の大木を使用して、現在の大鳥居が境内西側に建てられたと伝える。この鳥居は空襲の被害を免れており、国の重要文化財に指定されている。また、奈良の春日大社・広島の厳島神社大鳥居とともに「日本三大鳥居」にも数えられている。[2][32]

摂末社

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現在の摂末社は、摂社5社・末社9社の計14社(いずれも境内社)[2][33]。摂社は伊佐々別神社以外は式内社で、末社のうちでも大神下前神社は式内社である。

これら摂末社のうち、本殿向かって左手に鎮座する伊佐々別・天利劔・天伊弉奈姫・天伊弉奈彦・擬領・劔・金・林・鏡の9社には本宮と関係が深い神々が祀られており、「九社の宮(くしゃのみや、九社之宮)」と総称される[2]。『続日本後紀』[原 14]によると、天利劔・天伊弉奈姫・天伊弉奈彦の3社は「気比大神之御子」であるという。

摂社

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角鹿神社
地名「敦賀」の発祥地と伝える。
角鹿神社
  • 祭神:都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)、合祀に松尾大神
  • 社格:式内社「角鹿神社」、越前国内神名帳「正四位 敦賀神」
  • 例祭:5月初卯日
「つぬがじんじゃ」。境内東側の裏参道に鎮座する。『気比宮社記』や「気比宮古図」では「政所神(まんどころのかみ)」と見える。また、正安2年(1300年)まで東口が境内表口であったことにより、別に「門神(かどのかみ)」とも称されていた。[2][29][34]
祭神の都怒我阿羅斯等は、『日本書紀[原 24]において垂仁天皇の時に渡来したと記されている意富加羅国(任那国)王子で、同書では笥飯浦に至ったと見える[35]。神宮の伝承では、その後天皇は阿羅斯等に当地の統治を任じたといい、この角鹿神社はその政所跡に阿羅斯等を祀ったことに始まるとして、「敦賀(つるが)」の地名は当地を「角鹿(つぬが)」と称したことに始まるとしている。[2][29][34]
角鹿神社の祭神を都怒我阿羅斯等とする説は諸文献に記されているが[36]、一方で祭神を角鹿国造祖の建功狭日命(たけいさひのみこと)とする説もある[37]。建功狭日命は『先代旧事本紀[原 25]に角鹿国造として見える人物で、江戸時代末期まで角鹿神社の社家であった島家が角鹿氏後裔を称したことからも、角鹿氏祖と推測される建功狭日命説が有力視されている。またこれとは別に、この角鹿神社は古くからの敦賀の地主神であったとして、イザサワケ並びに応神天皇が主神として本宮に祀られるとともに、その客神の地位に位置づけられたと見る説もある[38]。なお、松尾大神は天保10年(1839年)の合祀とされる。[29][34]
明治10年(1877年)に神宮摂社の第一に定められた。社殿は流造銅板葺。嘉永4年(1851年)の改築によるもので、神宮の境内社では唯一戦災を免れている。[29]
伊佐々別神社
伊佐々別神社
  • 祭神:御食津大神荒魂(みけつおおかみあらみたまのかみ)
「いささわけじんじゃ」。九社の宮の一社として本殿西側に鎮座する。祭神は本宮主祭神の荒魂である。社伝では、気比神から御食の魚を賜った誉田別命(応神天皇)が、武内宿禰に命じて新たに気比神の荒魂を勧請したことに始まるという。漁撈の神であるとされ、海を向くために社殿は北面するという。[2]
天利劔神社
天利劔神社
  • 祭神:天利劔大神(あめのとつるぎのおおかみ)
  • 社格:式内社「天利剣神社」、越前国内神名帳「正四位 天利剣神」
「あめのとつるぎじんじゃ」。九社の宮の一社で、第五之王子宮。社伝では仲哀天皇による宝剣の奉納に始まるという。『続日本後紀』によると承和7年(840年)[原 14]に無位から従五位下に昇叙された。[2][39]
明治10年(1877年)に境内摂社に定められた。社殿は戦災で焼失、昭和55年(1980年)に流造銅板葺で再建。[39]
天伊弉奈姫神社
天伊弉奈姫神社
  • 祭神:天比女若御子大神(あめひめわかみこのおおかみ)
  • 社格:式内社「天比女若御子神社」、越前国内神名帳「正四位 天若神子神」
「あめのいざなひめじんじゃ」。九社の宮の一社で、第六之王子宮。社伝では天伊弉奈姫神社・天伊弉奈彦神社の2社は造化陰陽2柱を祀るという。『続日本後紀』によると「天比女若御子神」として承和7年(840年)[原 14]に無位から従五位下に昇叙された。[2][40]
明治10年(1877年)に境内摂社に定められた。社殿は戦災で焼失、昭和55年(1980年)に流造銅板葺で再建。[40]
天伊弉奈彦神社
天伊弉奈彦神社
  • 祭神:天伊弉奈彦大神(あめのいざなひこのおおかみ)
  • 社格:式内社「伊佐奈彦神社」、越前国内神名帳「正四位 天伊佐奈彦神」
「あめのいざなひこじんじゃ」。九社の宮の一社で、第七之王子宮。社伝では天伊弉奈姫神社・天伊弉奈彦神社の2社は造化陰陽2柱を祀るという。『続日本後紀』によると「天伊佐奈彦神」として承和7年(840年)[原 14]に無位から従五位下に昇叙された。[2][41]
明治10年(1877年)に境内摂社に定められた。社殿は戦災で焼失、昭和55年(1980年)に流造銅板葺で再建。[41]

末社

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九社の宮
左最奥の伊佐々別・擬領の2社は北面し、右列の御子神7社は東面する。
擬領神社
「おおみやつこじんじゃ」。九社の宮の一社。祭神は一説に大美屋都古神(おおみやつこのかみ)とも、玉佐々良彦命(たまささらひこのみこと)とも。建功狭日命は『先代旧事本紀』[原 25]角鹿国造祖と記されている人物である。[2]
劔神社
  • 祭神:姫大神尊(ひめのおおかみのみこと)
「つるぎじんじゃ」。九社の宮の一社で、第一之王子宮[42]。社伝では、敦賀市莇生野の劔神社からの勧請という[注 6][2]
金神社
「かねのじんじゃ」。九社の宮の一社で、第二之王子宮[43]。社伝では弘仁7年(816年)に参詣した空海が金神社の霊鏡を高野山に遷したとして、高野山鎮守社の丹生都比売神社で祀られる気比神は当社にあたるという(ただし、現在の丹生都比売神社では祭神を大食都比売神とする)。[2]
林神社
  • 祭神:林山姫神(はやまひめのかみ)
「はやしのじんじゃ」。九社の宮の一社で、第三之王子宮[43]。社伝では延暦7年(788年)に参詣した最澄が林神社の霊鏡を比叡山に遷したとして、比叡山鎮守社の日吉大社で祀られる気比神は当社にあたるという(ただし、現在の日吉大社では祭神を仲哀天皇とする)。[2]
鏡神社
  • 祭神:神功皇后奉献の宝鏡の神霊
「かがみのじんじゃ」。九社の宮の一社で、第四之王子宮[44]。社伝では、神功皇后が奉献した神宝のうち宝鏡が霊異をなしたので、別殿に国常立尊とともに「天鏡宮(あめのかがみのみや)」として祀ったことに始まるという。[2]
大神下前神社
「おおみわしもさきじんじゃ」。角鹿神社とともに裏参道に鎮座する。古くは「道後神社」と称し、神宮の北方鎮守社として天筒山山麓の宮内村(現・敦賀市金ケ崎町)に鎮座したとされる(旧社地は不詳)。明治9年(1876年)に村社に列したが、明治44年(1911年)に鉄道敷設に伴って境内に遷座した。本殿は流造檜皮葺。[2][45]
兒宮(児宮)
「このみや」。角鹿神社とともに裏参道に鎮座する。寛和2年(986年)に遷宮があったといい、それ以前からの鎮座と伝える。江戸時代以降は子育て・小児の守護神として信仰されている。[2]
猿田彦神社
表参道の大鳥居近くに鎮座する。祭神は気比神を案内する神であるという。[2]
神明両宮
九社の宮と並んで鎮座する。外宮は慶長17年(1612年)、内宮は元和元年(1615年)の勧請。[2]

関係社

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関係社一覧
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常宮神社
「じょうぐうじんじゃ」。神宮の元境外摂社・元奥宮。古くから神宮と関係が深く、神宮とは「本宮・摂社」「口宮・奥宮」「ひもろぎの宮・鏡の宮」「上社・下社」などと一対でも称されたという。明治10年(1877年)に内務省によって常宮神社境内社の天国津彦神社天国津姫神社天鈴神社伊覩神社(いずれも式内社)とともに神宮の境外摂社に定められたが、その後いずれも神宮からは独立した。[48][49][50]
現在も7月22日の「総参祭」では神宮の神々・神官が船に乗って常宮神社に神幸するが、これは一説に気比神(陽神)が常宮神(陰神)を訪れる神事であるともいう[49]。そのほか、文献には多くの記述が見える。詳しくは「常宮神社」を参照。
大椋神社
「おおくらじんじゃ」。神宮の東方鎮守社。『日本三代実録』で元慶4年(880年)[原 26]に従四位上から正四位下に昇叙されたと見える「大宰神」に比定される[51]。鎮座地の地名「大蔵」は、かつて神宮の大蔵があったことに因むという[52]。境内では鎌倉時代の13世紀後半頃の経塚が発見されており、出土品(経筒など)は「大椋神社経塚出土品」として敦賀市指定有形文化財に指定[53]
劔神社
「つるぎじんじゃ」。神宮の西方鎮守社。[2][54]
志比前神社
「しいざきじんじゃ」。「椎前神社」「志比神社」とも。神宮の南方鎮守社。『新抄格勅符抄』大同元年牒に見える「椎前神 三戸」や、『日本三代実録』で元慶4年(880年)[原 27]に従四位上勲六等から正四位下勲六等に昇叙されたと見える「推前神」に比定する説がある[55]。経津主命を祭神とするため、「香取大明神」とも称されたという。[56]

神宮の北方鎮守社は天筒山山麓にあった道後神社(式内社「大神下前神社」に比定)で、現在は「大神下前神社」として神宮境内に鎮座する。

なお、気比の松原付近の別宮神社(敦賀市)について、元は氣比神宮の別宮であったとする説がある。同神社付近では松原客館(渤海使滞在用施設)の所在も推定されており、神社前の松原遺跡では和同開珎・小鏡・銅鈴、緑釉・須恵器片が出土しているが、確定には至っていない[57]

祭事

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年間祭事

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年間祭事一覧

氣比神宮で年間に行われる祭事の一覧[2]

  • 毎日
    • 御日供祭(毎朝)
  • 毎月
    • 朔旦祭(1日)
    • 月次祭(15日)
  • 1月
    • 若水祭、歳旦祭(1月1日)
    • 元始祭(1月3日)
    • 古神札御焚上祭(1月15日)
  • 2月
    • 節分祭(2月3日)
    • 紀元祭(2月11日)
  • 3月
    • 御誓祭(3月6日(旧暦2月6日))
    • 御名易祭(6月8日(旧暦2月8日))
  • 4月
    • 昭和祭(4月29日)
  • 5月
    • 角鹿神社初卯祭(5月初卯日) - 角鹿神社例祭。
    • 春季例祭(5月4日)
  • 6月
    • 御田植祭(6月15日)
    • 牛腸祭(6月16日)
    • 夏越大祓式(6月30日)
  • 7月
    • 総参祭(7月22日(旧暦6月中卯日))
  • 9月
    • 気比の長祭り(9月2日-15日)
      • 神幸祭(9月3日)
      • 例大祭(9月4日(旧暦8月4日))
  • 10月
    • 大神下前神社例祭(10月10日)
    • 神嘗祭当日祭(10月17日)
  • 11月
    • 明治祭(11月3日)
    • 兒宮例祭(11月15日)
    • 新嘗祭(11月23日)
  • 12月
    • 〆替・煤払い神事(12月15日)
    • 天長祭(12月23日)
    • 年越大祓式、除夜祭、献燈祭(12月31日)
  • その他定期祭
    • 猿田彦神社祭(庚申の日)

例祭

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氣比神宮の例祭(れいさい)は、毎年9月4日に行われる。古くは旧暦8月4日に行われたが、これは仲哀天皇・神功皇后以下4柱の合祀がなされた大宝2年(702年)8月4日に因むという。例祭自体は9月4日になるが、各種神事は2日の宵宮祭から始まる。そして15日の月次祭まで祭事が続くことから、一連の祭りは「気比の長祭」と称される。また、俗に「けえさんまつり」ともいう。この期間中は、敦賀市内でも「敦賀まつり」として各種行事が行われる。[2]

2日には翌日からの祭りに備えて本殿で宵宮祭が行われ、大鳥居前には各町内から山車が集まって舞が奉納される。そして3日には神幸祭として、祭神の神霊を遷した鳳輦の市内巡幸が壮麗な行列とともに行われ、市内は大きな賑いを見せる。続く4日の例大祭は1年間で最重要の祭りである。この祭りでは神社本庁から献幣使が参向して幣帛料が献じられ、本殿において古式に則った神事が行われたのち、市内各町の山車の巡幸が行われる。その後、祭りは5日からの後日祭を経て15日の月次祭で終了する。[2]

特殊神事

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神宮で行われる特殊神事[2][49]

御誓祭
「みちかいまつり」。3月6日(古くは旧暦2月6日)。仲哀天皇2年2月6日、天皇自ら参詣して「此地に宮居を定めて永く居らん」と誓った故事に因む神事。[2]
御名易祭
「みなかえまつり」。3月8日(古くは旧暦2月8日)。神功皇后摂政13年2月8日、皇太子(応神天皇)と気比神が名易(名変え)を行なった故事に因む神事。本宮と伊佐々別神社(摂社)に海産物を主とする神饌が献じられる。[2][58]
御田植祭
「おたうえさい」。6月15日田植え前に行われる神事で、田長以下早乙女が神楽歌を口ずさんで豊作祈願が行われる。平安時代から行われる神事であるという。[2]
牛腸祭
「ごちょうさい」。6月16日。9月の神幸祭で引く山車の順序を米くじで決める神事。女人禁制のほか厳重な制度のもと行われる。[2]
常宮神社(敦賀市常宮)
氣比神宮の元奥宮。神宮の対岸に位置し、総参祭では神宮からの神輿が船で渡御する。
総参祭
「そうのまいりのまつり」。7月22日(古くは旧暦6月中卯日)。仲哀天皇2年に、神功皇后が仲哀天皇の命により敦賀から穴門国へ向かった故事に因む神事。前日夜には「寅神祭」として、海上安全と船型神輿への神霊奉遷の神事が行われる。そして当日には御座船「神宮丸」に船型神輿を載せ、御幸浜(みゆきはま)から敦賀湾に出船して途中船中で祭典が行われ、対岸にある旧摂社常宮神社への渡御が行われる。この日の敦賀湾は禁漁日となり、奉祀すれば3年の豊漁に恵まれるということから、多数の漁業者も曳行を行う。祭名「そうのまいり」は、このように総じて参拝する様子を称したものという。[2][49]
なおこの神事について、神宮では神功皇后が百官を率いて出征した故事に因むとするが、地元では気比神が眷属・氏子を率いて常宮神を妻訪いする神事であると伝える。[49]

文化財

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重要文化財(国指定)

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  • 大鳥居(建造物)
    1901年(明治34年)3月27日に古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定[32]、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行により国の重要文化財に指定。

国の名勝

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敦賀市指定文化財

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  • 有形文化財
    • 木彫 猿田彦面(彫刻) - 「天文十年(1541年)紀久次」の墨書を有する。1954年(昭和29年)4月25日指定[53]
    • 能面 尉 銘 イセキ(彫刻) - 1956年(昭和31年)4月1日指定[53]
    • 紙本著色 気比神宮古図(歴史資料) - 敦賀市立博物館寄託。1954年(昭和29年)4月25日指定[53]
  • 天然記念物
    • 気比神宮のユーカリノキ - 1983年(昭和58年)4月1日指定[60]

関連文化財

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  • 氣比宮社記 9冊 - 敦賀市指定有形文化財(典籍)。平松周家著。2008年(平成20年)11月14日指定[53]

気比神宮寺

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気比神宮寺(けひじんぐうじ)は、氣比神宮にかつて存在した神宮寺。現在は廃寺[61]

藤氏家伝[原 28]によれば神宮寺の成立は霊亀元年(715年)で、文献上では全国の神宮寺の中で最古になる[3]。同書によれば、藤原武智麻呂の夢に気比神が現れ、宿業によって神の身となったことの苦悩を告げて仏道による救済を求め、武智麻呂はその願いを容れて神宮寺を建立したという[3]

斉衡2年(855年[原 29]には、気比大神宮寺と御子神宮寺(不詳)に対して得度僧5人・心願住者5人の計10人の常住僧を置くことが定められた[3]。また、天安2年(858年[原 30]には仏像造立費として稲1万束の充当、天安3年(859年)[原 31]には大般若経一部の安置の記事が見えるほか、貞観2年(860年[原 32]記事では神宮寺が定額寺となされている[3]。その後の経緯は記録がなく明らかでない[61]大永6年(1526年)の正遷宮に際して神宮寺御読経所で読経があったともいうが、廃絶の経緯・跡地は不詳[61]。なお、付近の善妙寺や妙願寺では神宮寺を前身とするという由緒を伝える[7]

若狭・越前地方の神宮寺では、劔神社丹生郡越前町)の神宮寺成立が710年代と推定されるほか[注 9]若狭彦神社小浜市)神宮寺の神願寺(若狭神宮寺)では養老年間(717年-724年)の創建譚が『類聚国史[原 33]に記されている[5]。気比神宮寺を含むこれら神宮寺の相次ぐ成立に関して、その時期・位置の近さから同一僧侶(一説に白山開基の泰澄)による活動を推測する説がある[5]。また成立要因に関して、敗者として「祟り性」を備える仲哀天皇(氣比神宮祭神)・忍熊皇子(劔神社祭神)の霊を仏道の面から慰撫する目的であったと推測する説もある[5]

現地情報

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所在地
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周辺

脚注

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本文

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注釈

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  1. ^ 『気比宮社記』等では仲哀天皇を主祭神とする説を記すが、記紀や社伝の経緯からイザサワケを主祭神とするのが妥当とされる[1]
  2. ^ 『古事記』ではケヒ神の原名は「イザサワケ」であるが応神は説話後「ホムダワケ」と称している点[10]、名を交換した後に応神が「御食津大神」と名付ける点に不自然さがある[5]。また、『日本書紀』ではケヒ神の原名を「誉田別神」とするが、和風諡号(死後の名)であるはずの「誉田天皇」との混同が見られる[11]
  3. ^ 気比神の従三位記事に先立ち、『日本書紀』天武天皇元年(673年)7月23日条に大和国高市御県坐鴨事代主神牟狭坐神村屋坐弥富都比売神の3神に品を授けたとあるが、この「品」は等級程度の意味で神階にはあたらないとされる[14]
  4. ^ 太政官符には延暦12年(793年)に「大中臣魚取」、元慶8年(884年)に「大中臣安根」、寛平5年(893年)に「中臣清貞」の名が見える。
  5. ^ 現存する両流造の社殿は、厳島神社本殿、同社摂社の客(まろうど)神社、宗像神社辺津宮、太宰府天満宮松尾大社香取神宮の6例である[28]
  6. ^ 境内社の劔神社について、由緒書・公式サイトでは「境内から莇生野への勧請」と記すが、ここでは原典である『気比宮社記』の記述に則り「莇生野から境内への勧請」と記載した。
  7. ^ a b 「天八百万比咩神社」の論社には他に越前市大塩八幡宮末社の天八百萬比咩神社があるが、いずれであるかは不詳[47]
  8. ^ a b 「剣神社」の論社には他に丹生郡越前町劔神社(越前国二宮)があり、そちらの比定が有力視される[54]。なお、劔神について『新抄格勅符抄』や梵鐘(越前町の劔神社所蔵)には「剣御子神」と見えるが、これは「気比神の御子神」を意味するともいわれる[5]
  9. ^ 劔神社には神護景雲4年(770年)銘の梵鐘が現存し、周辺の瓦窯の使用時期から710年代での神宮寺の存在可能性が高いとされる[5]

出典

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  1. ^ a b c d 氣比神社七座(式内社) 1986, p. 149.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at 由緒書 2013.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 気比神宮(平凡社) 1981, p. 505.
  4. ^ a b c 西宮一民校注『古事記』(新潮社、1979年)p. 403。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 堀大介 2014.
  6. ^ 西郷信綱『古事記注釈』第6巻(ちくま学芸文庫、2006年)pp. 239-244。
  7. ^ a b c d e f g h 中世諸国一宮制 2000, p. 332.
  8. ^ a b 気比大神(県史) 1993.
  9. ^ 敦賀津(角川) 1989.
  10. ^ 『口語訳古事記』文藝春秋、2002年、226-227頁。ISBN 4163210105 
  11. ^ a b c ケヒ神へのヤマト朝廷の関与(県史) 1993.
  12. ^ a b c 気比神宮(平凡社) 1981, p. 504.
  13. ^ ケヒ神との易名説話(県史) 1993.
  14. ^ 小倉慈司「八・九世紀における地方神社行政の展開」、史学雑誌、1994年
  15. ^ 気比神宮(国史) 1985, p. 118-119.
  16. ^ a b c d e f g h i j k 社領(国史) 1985, p. 119.
  17. ^ 気比神宮(角川) 1989.
  18. ^ a b c d 気比神宮(平凡社) 1981, p. 506.
  19. ^ a b c d 氣比神社七座(式内社) 1986, p. 150.
  20. ^ 原武史『昭和天皇御召列車全記録』新潮社、2016年9月30日、74頁。ISBN 978-4-10-320523-4 
  21. ^ 『昭和天皇御召列車全記録』p.133
  22. ^ 気比神社七座 & 神道・神社史料集成.
  23. ^ 中世諸国一宮制 2000, p. 333.
  24. ^ a b 敦賀郡(角川) 1989.
  25. ^ 角鹿国造(県史) 1993.
  26. ^ 気比神宮(神々) 1985, p. 120-121.
  27. ^ a b 氣比神社七座(式内社) 1986, p. 150-151.
  28. ^ a b c d 三浦正幸 1985.
  29. ^ a b c d e 角鹿神社(式内社) 1986, p. 180-183.
  30. ^ 敦賀市立図書館蔵
  31. ^ a b 氣比神社七座(式内社) 1986, p. 152.
  32. ^ a b c 気比神宮大鳥居 - 国指定文化財等データベース(文化庁
    氣比神宮大鳥居(文化遺産データベース)。
    気比神宮大鳥居(福井県ホームページ)。
  33. ^ 氣比神社七座(式内社) 1986, p. 153.
  34. ^ a b c 気比神宮(神々) 1985, p. 122.
  35. ^ 「都怒我阿羅斯等」 『日本古代氏族人名辞典 普及版』 吉川弘文館、2010年。
  36. ^ 都怒我阿羅斯等を採る説は『気比宮社記』、『神名帳考証』、『神社覈録』、『特選神名牒』等(角鹿神社(式内社) 1986, p. 181-182による)。
  37. ^ 建功狭日命を採る説は『大日本史』、『神祇志料』、『敦賀郡誌』、『式内社調査報告』等(角鹿神社(式内社) 1986, p. 182による)。
  38. ^ 谷川健一『日本の神々(岩波書店)』(岩波書店、1999年)pp. 77-78。
  39. ^ a b 式内社調査報告 1986, p. 242.
  40. ^ a b 式内社調査報告 1986, p. 244.
  41. ^ a b 式内社調査報告 1986, p. 246.
  42. ^ 気比宮社記 1941, p. 36.
  43. ^ a b 気比宮社記 1941, p. 37.
  44. ^ 気比宮社記 1941, p. 38.
  45. ^ 式内社調査報告 1986, p. 220.
  46. ^ 常宮神社由緒書。
  47. ^ 式内社調査報告 1986, p. 232-233.
  48. ^ 天八百萬比咩神社(式内社) 1986, p. 232-240.
  49. ^ a b c d e 気比神宮(神々) 1985, p. 125-127.
  50. ^ 常宮神社(神々) 1985, p. 130-132.
  51. ^ 大宰神(國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)。
  52. ^ 式内社調査報告 1986, p. 185.
  53. ^ a b c d e 有形文化財”. 敦賀市. 2015年12月5日閲覧。
  54. ^ a b 式内社調査報告 1986, p. 157-161.
  55. ^ 推前神(國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)。
  56. ^ 式内社調査報告 1986, p. 177-178.
  57. ^ 4-5-3 「松原客館の実態とその位置 > 松原駅館(客館)の現地比定」『福井県史 通史編1 原始・古代』福井県編、福井県、1993年。
  58. ^ 気比神宮(神々) 1985, p. 125.
  59. ^ 気比神宮境内が、名勝「おくのほそ道の風景地」に指定されました。(敦賀市ホームページ)
  60. ^ 民俗文化財・記念物”. 敦賀市. 2015年12月5日閲覧。
  61. ^ a b c 気比神宮寺(国史) 1985, p. 120.

資料

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原典

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  1. ^ a b c d 『古事記』仲哀天皇段。
  2. ^ a b 『続日本紀』宝亀元年(770年)8月辛卯(2日)条(神道・神社史料集成参照)。
  3. ^ a b 『日本書紀』神功皇后摂政13年2月甲子(8日)条(神道・神社史料集成参照)。
  4. ^ a b 『日本書紀』応神天皇即位前紀(神道・神社史料集成参照)。
  5. ^ a b c 『日本書紀』持統天皇6年(692年)9月戊午(26日)条(神道・神社史料集成参照)。
  6. ^ a b 『日本後紀』延暦23年(804年)6月丙辰(13日)条(神道・神社史料集成参照)。
  7. ^ a b 『続日本後紀』承和6年(839年)2月戊寅(26日)条(神道・神社史料集成参照)。
  8. ^ a b 『日本文徳天皇実録』仁寿2年(852年)8月癸丑(19日)条(神道・神社史料集成参照)。
  9. ^ 『日本書紀』垂仁天皇3年3月条。
  10. ^ 『日本書紀』仲哀天皇2年条。
  11. ^ a b c d 『新抄格勅符抄』10(神事諸家封戸)大同元年(806年)牒(神道・神社史料集成参照)。
  12. ^ 『続日本後紀』承和6年(839年)8月己巳(20日)条(神道・神社史料集成参照)。
  13. ^ 『日本三代実録』貞観元年(859年)7月14日条(神道・神社史料集成参照)。
  14. ^ a b c d e f 『続日本後紀』承和7年(840年)9月乙酉(13日)条(神道・神社史料集成参照)。
  15. ^ a b 『続日本後紀』承和2年(835年)2月戊戌(23日)条(神道・神社史料集成参照)。
  16. ^ 『続日本後紀』承和6年(839年)12月丁巳(9日)条(神道・神社史料集成参照)。
  17. ^ 『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850年)10月辛亥(7日)条(神道・神社史料集成参照)。
  18. ^ 『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条(神道・神社史料集成参照)。
  19. ^ 『日本紀略』寛平元年(889年)7月17日条(神道・神社史料集成参照)。
  20. ^ 『類聚三代格』1(神封物并租地子事)寛平5年(893年)12月29日官符(神道・神社史料集成参照)。
  21. ^ 『続日本紀』宝亀7年(776年)9月庚午(16日)条(神道・神社史料集成参照)。
  22. ^ 『延喜式』50(雑式) 松原客館条(神道・神社史料集成参照)。
  23. ^ 『日本三代実録』元慶8年(884年)9月9日条(神道・神社史料集成参照)。
  24. ^ 『日本書紀』垂仁天皇2年是歳条。
  25. ^ a b 『先代旧事本紀』「国造本紀」角鹿国造条。
  26. ^ 『日本三代実録』元慶4年(880年)9月17日条。
  27. ^ 『日本三代実録』元慶4年(880年)9月17日条。
  28. ^ 『藤氏家伝』下 武智麿伝。
  29. ^ 『日本文徳天皇実録』斉衡2年(855年)5月壬子(5日)条(神道・神社史料集成参照)。
  30. ^ 『日本文徳天皇実録』天安2年(858年)4月戊戌(7日)条(神道・神社史料集成参照)。
  31. ^ 『日本三代実録』貞観元年(859年)2月15日条(神道・神社史料集成参照)。
  32. ^ 『日本三代実録』貞観2年(860年)正月27日戊寅条(神道・神社史料集成参照)。
  33. ^ 『類聚国史』天長6年(829年)3月16日条。

参考文献・サイト

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神宮出版物
  • 神社由緒書「氣比神宮」
  • 『気比宮社記』気比神宮、1941年。 
    宝暦11年(1761年)の大宮司兼大祝・平松周家の撰になる社伝。写本を校合して1941年に刊行された(以上、解説は『中世諸国一宮制の基礎的研究』より)。
  • 境内説明板
書籍
サイト

関連文献

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関連項目

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外部リンク

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