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「天皇賞」の版間の差分

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{{Otheruses|天皇賞全般|春に京都競馬場で3200mで行われる競走|天皇賞(春)|秋に東京競馬場で2000mで行われる競走|天皇賞(秋)}}
{{複数の問題|出典の明記 = 2014年4月|内容過剰 = 2014年4月}}
[[ファイル:135th Tenno Sho Spring 2007 vol2 DSCN3842 20070429.JPG|thumb|250px|ゴール前の直線(第135回天皇賞春)]]
[[ファイル:135th Tenno Sho Spring 2007 vol2 DSCN3842 20070429.JPG|thumb|250px|ゴール前の直線(第135回天皇賞())]]
[[ファイル:2008 Tenno Sho.jpg|thumb|250px|ゴールの瞬間(第138回天皇賞秋)]]
[[ファイル:2008 Tenno Sho.jpg|thumb|250px|ゴールの瞬間(第138回天皇賞())]]
[[ファイル:Negishi Horse Racing Track.jpg|thumb|250px|天皇賞の前身とされる「エンペラーズカップ」が行われていた[[横浜競馬場]](・[[根岸森林公園]]、根岸競馬記念公苑)]]
[[ファイル:Happy might.jpg|thumb|250px|第1回帝室御賞典優勝馬・ハツピーマイト]]
[[ファイル:2015 1012 Mukojo Art Hall.jpg|thumb|250px|帝室御賞典(春)が第12回まで行われていた旧[[鳴尾競馬場|阪神(鳴尾)競馬場]](現在:[[武庫川女子大学附属中学校・高等学校]]芸術館)]]
'''天皇賞'''(てんのうしょう)とは[[日本中央競馬会]](JRA)が春・秋に年2回施行する[[中央競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[競馬の競走格付け|GI]])である。
'''天皇賞'''(てんのうしょう)は、[[日本中央競馬会]](JRA)が春・秋に年2回施行する[[中央競馬]]の[[重賞]][[競馬の競走|競走]]([[競馬の競走格付け|GI]])である。春は[[京都競馬場]]で「'''[[天皇賞(春)|天皇賞(春)]]'''」(通称:'''春天''')、秋は[[東京競馬場]]で「'''[[天皇賞(秋)|天皇賞(秋)]]'''」(通称:'''秋天''')の表記(通称についてはJRAの過去成績掲載ページのURLにも使用されている)で施行されている。記事内ではそれぞれ「天皇賞(春)」または「春の競走」、「天皇賞(秋)」または「秋の競走」と表記する。


第1回とされる「帝室御賞典」は[[1937年]](昭和12年)に行われているが、JRAが前身としている「{{Lang|en|The Emperor's Cup}}(エンペラーズカップ)」までさかのぼると[[1905年]](明治38年)に起源を持ち<ref name="JRA注目" />、日本で施行される競馬の競走では最高の格付けとなるGIの中でも、長い歴史と伝統を持つ競走である<ref name="JRA注目" />。現在は賞金のほか、優勝賞品として皇室から楯が下賜されており、天皇賞を「盾」と通称することもある<ref name="sponichi20080502" /><ref name="サンスポ20140428" />。
記事内では春に[[京都競馬場]]で施行される競走を'''天皇賞(春)'''(または「春の競走」)、秋に[[東京競馬場]]で施行される競走を'''天皇賞(秋)'''(または「秋の競走」)とそれぞれ表記する。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
天皇賞のルーツをたどると、1905年(明治38年)5月6日に[[横浜競馬場|根岸(横浜)競馬場]]で創設された{{Lang|en|The Emperor's Cup}}(エンペラーズカップ{{Refnest|JRAでは、これを天皇賞の前身としている<ref name="JRA注目" />。|group="注"}})や、明治初期の{{Lang|en|Mikado's Vase}}にまでさかのぼることができる<ref name="hyakka_ten" /><ref name="NRC_60-62" />。これらの競走が誕生した背景には、当時の日本が直面していた外交問題が強く影響している(後述)。エンペラーズカップはのちに「'''[[帝室御賞典]]'''」の名称で定着し、明治末期から1937年(昭和12年)まで日本各地で年に10回行われていた<ref name="hyakka_ten" />。
[[ファイル:Emperor's Cup yokohama 1908.jpg|thumb|150px|1908年の帝室御賞典で日本レースクラブに下賜された御紋付花盛器(横浜競馬場メインスタンド)]]
[[ファイル:147th Tennosho spring (16 Ceremony 02) IMG 2652 20130428.JPG|thumb|150px|現在の御賞典となる天皇盾(第147回天皇賞)<br />馬主が白手袋を着用しているのがわかる]]
[[1905年]]5月6日に横浜の日本レースクラブが[[明治天皇]]から下賜された御賞典を争った「'''エンペラーズカップ'''」を前身としている<ref name="JRA注目">{{Cite web|url=http://www.jra.go.jp/keiba/thisweek/2014/0504_1/playback.html|title=今週の注目レース 天皇賞(春)|publisher=JRAホームページ|accessdate=2014-4-20}}</ref>。その後、東京競馬倶楽部にも御賞典が下賜されるなど各地の7競馬倶楽部が「'''[[帝室御賞典]]'''(ていしつごしょうてん)」を行うようになったが、[[日本競馬会]](JRAの前身<ref>[http://jra.jp/keiba/thisweek/2014/0302_1/ 今週の注目レース - 第88回中山記念(JRA公式サイト)]</ref>)が創設された翌年([[1937年]])に各競馬倶楽部が日本競馬会へ統合されたのを機に、施行場を[[阪神競馬場]](春)と[[東京競馬場]](秋)に集約して年2回の施行とし、同年12月3日に東京で行われた芝2600メートルの競走を「第1回帝室御賞典」とした。施行回数はここから通算している<ref name="history_nikkankeiba">[http://www.nikkankeiba.co.jp/chuo/jra50/05/05sam3.html Study!!天皇賞の歴史(日刊競馬)]</ref>。


一方、施行距離や競走条件は1911年(明治44年)から1937年(昭和12年)まで行われていた「'''[[優勝内国産馬連合競走]]'''」をおおむね継承している。この競走は年2回、3,200メートルの距離で行われ、各馬等しい条件で日本のチャンピオンを決め、日本一の賞金を与える競走だった。
翌[[1938年]]春は芝2700メートルで施行した後、同年秋から春・秋とも芝3200メートルに変更。[[1944年]]<ref group="注">1944年の春は「能力検定競走」として、非公開で施行。</ref>から施行場を[[京都競馬場]]に移した春の競走は現在も芝3200メートルで行われているが、秋の競走は[[1984年]]から芝2000メートルに変更され、現在は春が4歳以上の長距離王、秋は3歳以上の中距離王を決定するレースとして位置づけられている<ref name="history_nikkankeiba" />。


[[太平洋戦争]]の戦局悪化による断を経て、戦後再開された[[1947年]]の「'''平和賞'''(へいわしょう)」の名称で施行。同年秋より名称が「天皇賞」と<ref name="JRA注目" />。
これらを統合して始まったが1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典で、日本中央競馬会(JRA)ではこれを天皇賞の第1回としている<ref name="JRA注目" />。「帝室御賞典」は戦局悪化のため1944年(昭和19年)秋に中止され戦後1947年(昭和22年)「'''平和賞'''」の名称で再開、同年秋から'''天皇賞'''」と改称され現在に至ている<ref name="JRA注目" />。


1937年(昭和12年)以来「古馬の最高峰」として位置づけられた天皇賞は長らく番組体系の中心に据えられ、旧[[八大競走]]にも含まれるなど、その地位を保ち続けた<ref name="JC_116" />。1着賞金も[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]などとともに国内最高クラスの競走<ref group="注">このほかに[[横浜農林省賞典四・五歳呼馬]]も同等の賞金であったが、長く続かなかったので割愛する。詳しくは[[#帝室御賞典の拡大と統一|帝室御賞典の拡大と統一]]節の注釈を参照。</ref>だった。のちに[[有馬記念]]や[[ジャパンカップ]]が創設され、やがて国内最高賞金はジャパンカップが上回るものの、2020年現在も天皇賞は、ジャパンカップ、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念に次ぐ高額賞金競走である<ref name="R02重賞一覧" />。
JRAの設立以前より天皇賞は「古馬最高の栄誉」とされ、一度優勝した馬には出走資格を与えない「勝ち抜き制」が[[1980年]]まで存在した<ref name="history_nikkankeiba" /><ref group="注">この制度は[[1950年]]まで[[中山大障害]]にもあった。</ref>。春・秋とも旧[[八大競走]]に含まれている。


1980年代以降に進められたさまざまな制度改革、賞金や競走条件の変遷を経てもなお、天皇賞は日本国内で現存する競馬の競走としてもっとも長い歴史と伝統を持ち、重要な競走のひとつに位置づけられている。
また、長年[[三冠 (競馬)|クラシック三冠]]と同様に優秀な国内産[[種牡馬]]・[[繁殖牝馬]]を選定する観点から国内産の[[牡馬]]・[[牝馬]]しか出走できなかったが、競馬の国際化など時代の変化にあわせ徐々に出走条件の見直しが行われ、[[2000年]]から春・秋ともに2頭以内の外国産馬が出走可能になった<ref name="history_nikkankeiba" />。[[2005年]]から国際競走に指定され、出走頭数制限は[[外国産馬]]と外国馬をあわせて一体化。[[2008年]]からは[[せん馬|&#39480;馬]](去勢牡馬)も出走可能になった。


春の競走と秋の競走は開催地など競走条件が異なるものの同じ「天皇賞」であり、施行回数は春→秋と施行順に加算している。同一の競走名で1年に複数回施行する競走は、現在の中央競馬で本競走のみである<ref group="注">かつては[[目黒記念]]や、[[中山大障害]]などの障害重賞も年2回施行され、「目黒記念(春)」・「目黒記念(秋)」のように区別していたり、4歳牝馬特別や[[金杯 (競馬)|金杯]]のように同一の名称の競走が各地にあって、[[フィリーズレビュー|4歳牝馬特別(桜花賞トライアル)]]・[[フローラステークス|4歳牝馬特別(オークストライアル)]]、[[中山金杯|金杯(東)]]・[[京都金杯|金杯(西)]]となっていた。</ref>。
かつて[[宮内省]](現:[[宮内庁]])から優勝馬の[[馬主]]に下賜されていた御賞典([[菊花紋章|菊花御紋]]付銀製花盛器)は、太平洋戦争の戦局悪化に伴う[[貴金属]]資源の不足により、[[1941年]]から「競馬恩賞」と書かれた菊花御紋入りの木製[[盾|楯]](優勝馬主に対する持ち回り賞品)に替わり、競馬関係者から「'''天皇楯'''(てんのうたて)」と呼ばれるようになった。現在でも天皇賞の通称が「'''盾'''」と呼ばれるのは、これに由来している。優勝馬主は表彰式で天皇盾を受け取る際、白手袋を着用することが慣例になっている。


; 用語の解説
春の競走と秋の競走は開催地など競走条件が異なるものの同じ「天皇賞」であり、施行回数は春→秋と施行順に加算している。
: '''競走条件''':当該競走に出走できる馬の条件(クラス分けなど)を定めたもの<ref name="bangumi_2022hanshin2-2" />。馬齢・負担重量・施行コース・距離が含まれる場合がある(現在の競走条件は各競走記事を参照)。
: '''馬齢''':馬の年齢。実際の誕生日に関わらず、1月1日になると一律に1歳加算される。日本では2001年(平成13年)から国際基準に合わせた現行表記が採用され、満年齢(生まれたばかりの馬は0歳)で表記。2000年(平成12年)までは数え年(生まれたばかりの馬は1歳)で表記していた<ref name="用語辞典(馬齢)" />。記事内の本文では年代にあわせて旧表記と現行表記を使い分けているが、春・秋の競走記事内「歴代優勝馬」一覧表ではすべて現行表記に揃えている。
: '''負担重量(斤量)''':出走馬が背負う重量のこと。騎手の体重のほか、鞍などの馬具も含まれ、出走する各馬ごとに所定の条件のもと定められる。初期の競馬では「[[斤]](0.6キロ)」を重さの単位としていたことから、「斤量(きんりょう)」とも呼ばれる<ref name="用語辞典(斤量)" />。
: '''古馬''':4歳(旧馬齢表記では5歳)以上の馬を指す<ref name="競馬の基本" />。一般的に中央競馬の競走馬は2歳の夏から順次デビューし、同世代の馬と競いあいながら翌年(3歳時)の東京優駿(日本ダービー)をまず大目標とする。ダービー後、次の2歳馬がデビューする時期になると、3歳馬は年上の古馬と一緒にレースをするようになる。
: '''番組(競馬番組)''':日本の競馬は当該競馬場における1開催(現在の中央競馬は原則として4日 - 12日)をひとつの単位としており、施行する競走は開催ごとに定められている。同一開催で組まれる競走の割り当てを「競馬番組(または単に番組)」と呼んでいる<ref name="bangumi_2022hanshin2-2" />。
=== 起源 ===
[[ファイル:Ukiyo-e sinobazunoike Horse racing.jpg|thumb|left|競馬を観戦する明治天皇<br />1884年(明治17年)、[[上野不忍池競馬]]]]
[[ファイル:SirClaudeMacdonald.jpg|thumb|left|130px|クロード・マクドナルド]]
[[王政復古 (日本)|王政復古]]後、[[明治維新|明治新政府]]が直面した重要な外交問題のひとつは、欧米を中心とする諸外国との間に結ばれた[[不平等条約]]の改正であった。[[条約改正]]交渉を円滑に進めたい明治政府は、[[鹿鳴館]]に象徴されるように、西洋文化を積極的に採用した。競馬はその一つで、政府や[[明治天皇]]は明治初期から西洋式の競馬を行うなど、競馬場は重要な外交の舞台だった<ref name="sisi_09" />。中でも根岸(横浜)競馬場は幕末の開場以来、外国人が設立・運営しており、競馬会の会頭は歴代の[[駐日英国大使|イギリス公使]]が務めていた{{Refnest|[[パワー・ヘンリー・ル・プア・トレンチ|トレンチ]]公使、[[アーネスト・サトウ|サトウ]]公使、[[クロード・マクドナルド|マクドナルド]]公使など<ref name="NRC_57" />。|group="注"}}。明治天皇は条約改正を実現するため、日本の外交官や外務担当の政治家を伴い、頻繁に根岸競馬場へ赴いていた<ref name="sisi_09"/><ref name="NRC_35-38" />{{Refnest|アーネスト・サトウなど、イギリスの外交官は皇族を根岸競馬のパトロンとして仰いだ<ref name="人名録" />。|group="注"}}。


[[イギリス]]では[[清教徒革命]]後の[[王政復古]]に際して<ref name="sekaisi_1649England" />、[[チャールズ2世 (イングランド王)|国王]]自ら競馬場に大競走({{Lang|en|King's Plate}}、女王時代は{{Lang|en|Queen's Plate}})を創設し<ref name="sekaisi_1649England" /><ref name="1660England">『[[#競馬の世界史|競馬の世界史]]』46 - 49頁</ref>、豪華な賞品を下賜した故事があり、これはイギリス王室の伝統のひとつだった<ref name="1660England" /><ref name="sisi_10" />。明治天皇はこの故事に倣い<ref name="sisi_10" />、根岸競馬場へ豪華な賞品(花器)を下賜した。これが1880年(明治13年)創設の{{Lang|en|Mikado's Vase}}である<ref name="hyakka_ten" />{{Refnest|旧幕府と借地契約を行って拓かれた横浜競馬場については、用地の賃貸料を巡って競馬場側と新政府の間に紛争があった。不平等条約(治外法権)の影響があって、交渉は難航したが、1880年(明治13年)になってようやく解決をみた。このとき、賃料で両者が合意するにあたり、政府側からは競馬場の運営組織の名称を“Japan”ではなく“Nippon”にすること等が要望され、競馬場側はこれを受け入れた。この結果、競馬場は政府の公認を得た形となり、明治天皇はこれを機に賞品を下賜した。いくつかの史料には、これ以前にも明治天皇が根岸競馬場を訪問していたという記録がある。その一方で、借地問題が未解決の競馬場に明治天皇が行幸するはずがないとして、これを否定する文献がある<ref name="NRC_12-38" />。|group="注"}}。
== 天覧競馬 ==
[[ファイル:2012 Tennō Shō (Autumn) 002.jpg|thumb|天覧競馬となった第146回天皇賞(秋)を優勝後、本馬場で下馬し貴賓席に最敬礼するデムーロ騎手]]
2005年の第132回天皇賞は「エンペラーズカップ100年記念」と副題がつけられ、[[明仁|今上天皇]]・[[皇后美智子|皇后]]の天覧競馬が実現した。天皇が天皇賞を観戦した例は史上初めてであり、天覧競馬も1899年以来106年ぶりとなった<ref name="tenran2005">[https://www.prcenter.jp/yushun/read/1209.html 優駿公式サイト(今月の立ち読み)]</ref>。当初は前年の[[2004年]]に予定されていたが、同年[[10月23日]]に発生した[[新潟県中越地震]]の被害を考慮して取り止めとなっていた。


明治30年代になると、[[日英通商航海条約|イギリスとの条約改正]]を皮切りに、不平等条約の改正が実現した。イギリスとの間には[[日英同盟]]が締結され、[[日露戦争]]の後ろ盾となった。その日露戦争で日本の軍馬の質や数が大幅に劣っていることが露呈すると、軍部は日英同盟を頼って優秀な軍馬の大量輸入を依頼した。これに応えたイギリスは、[[イギリス連邦]]で日本に近く、かつ馬産地だった[[オーストラリア]]から3,700頭あまりの馬([[豪サラ]]と呼ばれる)を日本へ緊急輸出した<ref name="NRC_56-57" />。
その後、「近代競馬150周年記念」と副題がつけられた2012年の第146回天皇賞でも天覧競馬が実施された。


こうした一連のイギリスとの外交交渉で大きな役割を担ったのが、イギリス[[特命全権公使|公使]]の[[クロード・マクドナルド]]である<ref name="NRC_60-62" />。マクドナルドは当初公使だったが、1905年(明治38年)に[[特命全権大使|全権大使]]へ昇任した。マクドナルドと個人的な信頼関係を結んでいた明治天皇は昇任にあたり、マクドナルドへ「菊花御紋付銀製花盛器」を贈呈した<ref name="siwa_2426">『[[#天皇賞競走史話|天皇賞競走史話]]』24 - 26頁</ref><ref name="NRC_60-62" />。当時、マクドナルドは根岸競馬場の会頭を兼任しており、明治天皇から贈られた盃(当時は『'''尊重の重宝'''』と和訳している)を賞品として、1905年(明治38年)5月6日に「{{Lang|en|The Emperor's Cup}}(エンペラーズカップ)」を創設した<ref name="JRA注目" /><ref name="siwa_2426" /><ref name="NRC_56-57" /><ref name="5hensen" />。以来、根岸競馬場では毎年この競走に際して明治天皇から賞品が下賜されるようになった。これがのちに日本語で「帝室御賞典」などと訳されるようになり<ref name="hyakka_ten" /><ref name="NRC_56-57" /><ref name="NRC_60-62" /><ref name="siwa_2426" /><ref name="5hensen" />、JRAでは「天皇賞の前身」としている<ref name="JRA注目" />。
2005年は競走前に天皇・皇后が場内の[[JRA競馬博物館|競馬博物館]]で「エンペラーズカップ100年記念 栄光の天皇賞展」を鑑賞<ref name="tenran2005" />。競走後に優勝騎手の[[松永幹夫]]が貴賓席に対して馬上から最敬礼を行ったが、2012年の天覧競馬では優勝騎手の[[ミルコ・デムーロ]]がコース内でいったん下馬して最敬礼を行った。このような行為は騎乗馬が故障した場合を除き、競走後にコース内で騎手が下馬することを禁止する規則<ref>[http://jra.jp/company/law/law07.html#chap8 日本中央競馬会競馬施行規程第8章第106条3、第120条 - JRAホームページ JRA関連法令等]</ref><ref group="注">返し馬時に重りを馬場に捨て、競走後に下馬しコース上に捨てた重りを再び装着して検量室に戻るという不正を未然防止するため。</ref>に抵触するものであったが、これを理由とした制裁は行われなかった。


根岸競馬場は外国人が運営し、書類や記録はすべて英語表記だったため、“{{Lang|en|The Emperor's Cup}}” はときの担当者によってさまざまに和訳されていた。1905年(明治38年)には「'''皇帝陛下御賞盃'''」{{Refnest|雑誌「優駿」では“The Emperor's Cup”の日本語訳として、これを採用している<ref name="tenran2005" />。|group="注"}}、1906年(明治39年)には「'''宮中御賞盃'''」と訳され<ref name="hyakka_ten" />、1907年(明治40年)からは新聞報道で使われていた「'''帝室御賞典'''」の訳で統一されるようになった(後述)<ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa_2426" />。
なお、今上天皇・皇后は[[皇太子]]・[[皇太子妃]]だった[[1987年]]にも、天皇賞施行50周年を記念して行われた第96回天皇賞を台覧している。


== 各競走概説 ==
=== 帝室御賞典拡大と統一 ===
[[ファイル:Happy might.jpg|thumb|250px|1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典(第1回天皇賞に相当)優勝馬・ハツピーマイト]]
=== 天皇賞(春) ===
[[ファイル:Teisitu sensei.jpg|thumb|250px|帝室御賞典発走前に行われる騎手の選手宣誓]]
{{競馬の競走
明治天皇は1899年(明治32年)まで盛んに競馬場へ巡幸したが、同年に不平等条約改正が実現すると、以後は一切競馬場へ赴かなくなり<ref name="sisi_11-12" /><ref name="NRC_35-38" />、代わりに[[皇族]]や[[親王]]を名代として派遣するに留まっていた<ref name="siwa_26-33" />。これ以来、天皇自身による競馬観戦(いわゆる天覧競馬)は2005年(平成17年)の第132回天皇賞(秋)まで106年間行われなかった([[#天覧競馬|後述]])。
|馬場 = 芝
|競走名 = 天皇賞(春)
|画像 = [[File:Beat-black20120429(1).jpg|230px]]
|画像説明 = 第145回天皇賞(春)(優勝馬・ビートブラック)
|主催者 = [[日本中央競馬会]]
|開催地 = {{Flagicon|JPN}}[[京都競馬場]]
|施行時期 = 4月下旬 - 5月上旬<br />(原則3回京都4日目)
|格付け = {{Color|red|GI}}
|1着賞金 = 1億3200万円
|賞金総額 = 2億5120万円
|距離 = 芝・外3200m
|条件 = {{Nowrap|[[サラブレッド]]系4歳以上(国際)(指定)}}<br />[[#出走資格|出走資格]]も参照
|負担重量 = 定量(58kg、牝馬2kg減)
|創設 = [[1938年]][[5月15日]]
}}
'''天皇賞(春)'''(てんのうしょうはる)とは日本中央競馬会(JRA)が[[京都競馬場]]の[[芝]]3200[[メートル]]で施行する中央競馬の重賞(GI)競走である。


1906年(明治39年)に日本人による本格的な[[競馬倶楽部]]として[[東京競馬倶楽部#東京競馬会|東京競馬会]]が創設された<ref name="siwa_26-33" />際、責任者だった[[子爵]]の[[加納久宜]]は明治天皇の臨席と賞品の下賜を打診した。しかし開催10日前になって、賞品の下賜は許されたものの、明治天皇の巡幸は却下された<ref name="帝国馬匹協会1937" /><ref name="siwa_26-33" />。このとき行われた「皇室賞典」競走が当時の新聞によって「帝室御賞典」と報じられ、以後はこの名称で定着した<ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa_26-33" />。
正式名称は「天皇賞」であるが、JRAでは「天皇賞(春)」と表記している。


明治天皇から賞品を下賜されて行う帝室御賞典は、すぐに全国の競馬倶楽部へ広まった<ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa34-38" />。根岸・東京に続いて[[阪神競馬倶楽部|阪神]]へも年2回の下賜が認められ<ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa34-38" />、馬産地の[[福島競馬倶楽部|福島]]・[[札幌競馬倶楽部|札幌]]・[[函館競馬倶楽部|函館]]・[[小倉競馬倶楽部|小倉]]へは年1回の下賜が認められた<ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa34-38" />。
正賞は天皇賞、[[日本馬主協会連合会]]会長賞。


全国各地で年に10回行われるようになった「帝室御賞典」は、各競馬倶楽部が独自の競走条件で施行していたため、施行距離も斤量([[負担重量]])などの条件もまちまち<ref name="5hensen"/>で、競走名と天皇から御賞典が下賜される点以外に統一性はなかった<ref name="netkeiba_raceguide" />。
==== 概要 ====
[[1938年]]に4歳(現3歳)以上の[[牡馬]]・[[牝馬]]([[外国産馬]]含む)による重賞競走「'''帝室御賞典(春)'''」として創設。春の競走としての第1回は[[鳴尾競馬場]]の土2700メートルで施行された<ref name="JRA注目"/>。


一方、1911年(明治44年)に日本一の競走馬を決定する競走として、「優勝内国産馬連合競走(通称:連合二哩)」が帝室御賞典とは別に創設された<ref name="siwa_59-62" />。賞金は1着3,000円、2着でも1,500円で、当時日本国内の最高賞金競走だった(当時、帝室御賞典の1着馬には賞品が授与されるだけで、賞金はなかった)。距離は2マイル(約3,200メートル)、条件は馬齢重量で、出走できるのは各地の競馬倶楽部で行われた優勝戦の上位馬に限られていた<ref name="siwa_59-62" />。優勝内国産馬連合競走は当初年1回の施行だったが、のちに年2回施行になった<ref name="siwa_59-62" />。
[[1939年]]からは施行距離を芝3200メートル、出走資格を5歳(現4歳)以上に変更。[[1944年]]は[[太平洋戦争]](戦時中)の影響により[[阪神競馬場]]が[[大日本帝国海軍|海軍]]に接収されたため、施行場を[[京都競馬場]]の芝3200メートルに移し[[能力検定競走]]として施行<ref name="JRA注目"/>。以来「京都芝3200メートル」での施行が定着しており、現存する中央競馬の平地GI競走では最長距離<ref group="注">現存する最長距離の重賞競走は「[[ステイヤーズステークス]](3600m)」。過去にはいずれも4000mで争われた「[[中山四千米]]」や、「[[日本最長距離ステークス]]」があった。</ref>。


昭和に入り戦時体制化が進むと、各地の競馬倶楽部は1936年(昭和11年)に発足した[[日本競馬会]]に統合され、一本化されることになった<ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa_59-62" /><ref name="JRA注目" />。日本競馬会は1937年(昭和12年)に各地の競馬倶楽部を統合し、年10回施行していた帝室御賞典は春に阪神競馬場(旧:[[鳴尾競馬場]])、秋に東京競馬場で年2回施行することになった<ref name="JRA注目" /><ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa_59-62" />。年2回施行に改められてから初の競走は1937年(昭和12年)秋に東京で行われた帝室御賞典で、JRAではこれを天皇賞の第1回としている<ref name="JRA注目" /><ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa_59-62" />。競走の名称は「帝室御賞典」が採用され、競走の中身は「優勝内国産馬連合競走」が継承された。つまり、天皇(皇室)から御賞典が下賜される点は「帝室御賞典」を受け継いでおり、距離や競走条件などは「優勝内国産馬連合競走」から継承している。これが、現在の天皇賞である<ref name="siwa_59-62" />。また、帝室御賞典は古馬にとって最高峰の競走として位置づけられ、東京優駿(日本ダービー)など4歳馬<ref group="注">2001年(平成13年)以降の馬齢表記では3歳にあたる。</ref>の競走とは明確に線引きされた<ref name="JRA注目" /><ref name="hyakka_ten" /><ref name="siwa_59-62" /><ref name="5hensen" />。
[[1957年]]より[[昭和天皇]]の誕生日である[[4月29日]]の開催で[[1989年]]まで固定され、[[日曜日]]以外にも行われていた。[[1990年]]以降は[[ゴールデンウィーク]]期間中の日曜日開催に変更され、現在に至る。


こうして「統一」された新しい帝室御賞典は、競走馬として日本一を決めるだけでなく、将来の[[種牡馬]]を選別するための最高の能力検査でもあった<ref>『優駿』昭和16年10月号</ref>。また、天皇を頂点とした旧[[大日本帝国憲法|帝国憲法]]下の日本において、天皇からの賞典を受けることは平民(馬主)や農民(畜産家)にとって生涯の名誉となった<ref name="siwa_1" /><ref name="5hensen" />。
[[1984年]]からはグレード制施行により、GIに格付けされた。[[1995年]]からは指定競走とされ、所定の条件を満たした[[地方競馬|地方]]所属馬にも出走資格が与えられるようになった<ref name="JRA注目"/>。


=== 戦争の影響と天皇賞のはじまり ===
1972年より活馬(生きている馬)の輸入自由化に伴い外国産馬が出走できなくなったが、[[2000年]]から外国産馬は総収得賞金順に上位2頭(フルゲートに満たない場合は4頭)まで出走可能になった。その後も[[2004年]]からは外国産馬の出走枠が4枠に拡大、[[2005年]]からは[[国際競走]]に指定され外国調教馬が5頭まで出走可能になったほか、外国産馬の出走枠制限も撤廃された<ref name="JRA注目"/>。
[[日中戦争]]から[[太平洋戦争]]にいたる戦時中、帝室御賞典は下賜賞品を木製楯に代えながら続けられた([[#御賞典と天皇楯|後述]])。しかし、やがて戦局が悪化すると馬主に多くの戦死者が出るようになり、競走馬の所有権問題が浮上した<ref name="siwa_70-72" />。日本競馬会は全競走馬を買い上げることでこの問題を解決したが、全競走馬を買い上げたため「賞金や賞品を争う」という競馬の性格を維持できなくなった。さらに、1944年(昭和19年)春には軍部の命令により馬券([[勝馬投票券]])の発売を伴う競馬が禁止されたため、日本競馬会は[[皐月賞|農商省賞典四歳(現在:皐月賞)]]や東京優駿(日本ダービー)などの主要な大レースに限って、「[[能力検定競走]]」として競馬を行った<ref name="siwa_70-72" />。帝室御賞典は1944年(昭和19年)春は施行場を[[京都競馬場]]に移し、皇室からの賞品下賜は辞退<ref name="siwa_70-72" />したうえで「能力検定競走」として非公開で行われた<ref name="JRA注目" />が、同年秋は中止され、帝室御賞典は中断することとなった。その後、1945年(昭和20年)には戦争の激化により、能力検定競走は行われなくなった<ref name="用語辞典(能力検定競走)" />。


終戦後、競馬は1946年(昭和21年)秋に再開された<ref name="siwa_72-75" />。帝室御賞典は1947年(昭和22年)春からの再開を決め、日本競馬会は皇室へ賞品の下賜を打診した。しかし、この時点では[[連合国軍最高司令官総司令部|連合国軍総司令部]](GHQ)による皇室への処分などが確定していなかったため、下賜は時期尚早として見送られた<ref name="siwa_72-75" />。すでに御賞典競走を開催する前提で番組編成をしていた日本競馬会は急遽、競走名を「'''平和賞'''」に変更して施行した<ref name="siwa_72-75" /><ref name="hyakka_ten" />。
[[2008年]]より[[せん馬|&#39480;馬]]が出走可能となった<ref name="JRA注目"/>ほか、[[メルボルンカップ]]({{AUS}}、GI)の前年度優勝馬<ref group="注">オーストラリアは8月から翌年7月を1シーズンとしている。</ref>を招待するようになった<ref group="注">2005年には[[2003年|2003]]・2004・2005年のメルボルンカップを優勝した[[マカイビーディーヴァ]](Makybe Diva)が出走しているが、招待はされていなかった。</ref>。また、本競走の優勝馬には同年のメルボルンカップへの優先出走権が与えられる。


1947年(昭和22年)秋に予定していた「第2回平和賞」の前日に皇室から賞品(楯)の下賜が再開されることが決定し、名称を「'''天皇賞'''」に改めて施行された<ref name="siwa_68-76" /><ref name="hyakka_ten"/>。「天皇賞」の名称で行われるのはこれが初めてとなるが、公式な施行回数は1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典にさかのぼり、「第16回天皇賞」とされた<ref name="hyakka_ten" /><ref group="注">後日、日本競馬会が慣例に従って競走結果を宮内省へ奏上した際、公式に「第1回天皇賞」としている。日本中央競馬会の古い資料や出版物には、1947年(昭和22年)秋の天皇賞を“第1回天皇賞”と表現しているものがある。</ref>。その後、天皇賞の施行主体も日本競馬会から[[国営競馬#日本における国営競馬|国営競馬]](農林省競馬部)を経て、1954年(昭和29年)より日本中央競馬会が引き継いだ<ref name="用語辞典(国営競馬)" />。
==== 出走資格 ====
* 原則[[サラブレッド系種|サラ系]]4歳(旧5歳)以上のJRA所属の競走馬、地方所属の競走馬及び外国調教馬(9頭まで)、出走枠は18頭まで。
* レーティング順位の上位5頭に対しては優先出走が認められる([[2012年]]より。牡馬・セン馬は110ポンド、牝馬は106ポンド以上であることが条件)。
* その他の競走馬は「通算の収得賞金」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI(JpnI)競走の収得賞金」の総計が多い順に出走できる。
* 地方競馬所属馬は以下の競走のいずれかで所定の成績をあげると本競走に出走できる。
{| class="wikitable"
!競走名!!格付!!施行競馬場!!施行距離!!必要な着順!!備考
|-
|[[阪神大賞典]]||{{Color|blue|GII}}||{{Flagicon|JPN}}[[阪神競馬場]]||芝3000m||rowspan="3"|1・2着||rowspan="3"|本競走のステップ競走指定<br/>中央・地方の所属を問わずに、1着で優先出走権を付与(2014年から)
|-
|[[日経賞]]||{{Color|blue|GII}}||{{Flagicon|JPN}}[[中山競馬場]]||芝2500m
|-
|[[大阪杯]]||{{Color|blue|GII}}||{{Flagicon|JPN}}阪神競馬場||芝2000m
|}


現在は1944年(昭和19年)春の帝室御賞典(能力検定競走)と1947年(昭和22年)の平和賞も公式な施行回数に含まれており、能力検定競走は「第14回天皇賞」、平和賞は「第15回天皇賞」と同義に扱われている。その一方で、これらの競走では皇室から賞品が下賜されていないため、天皇賞の施行回数から除外する考え方がある<ref name="siwa_48-75-76" />。1968年(昭和43年)に日本中央競馬会が編纂した史料では、能力検定競走や平和賞を回数に数えない考え方が示されている<ref name="siwa_68-76" />。
===== 負担重量 =====
* 定量<ref name="JRA注目"/>(4歳以上58kg、牝馬2kg減)


==== コース ====
=== 国内古馬戦の最高峰 ===
再編され年2回施行となった帝室御賞典の時代から、天皇賞は古馬にとって最高峰の競走と位置づけられていた<ref name="hyakka_ten" />。当時の競走体系では、勝てば勝つほどより重い斤量を負担することになっており<ref name="keibasi4_963" />、定量で出走できる天皇賞を勝つと、以後は出走すればおおむね負担重量が60キロ後半から70キロ後半にまで跳ね上がった(現在、中央競馬の平地競走では60キロ以上の負担重量で出走する例がきわめて少なくなっている)。よって、馬にかかる負担を考慮すれば出走可能な競走は大きく限定されることになった。また帝室御賞典・天皇賞には1980年(昭和55年)まで「勝ち抜き制」があり、一度天皇賞(帝室御賞典)を勝った馬は、以降の天皇賞(帝室御賞典)に出走することができなかった<ref name="keibasi4_963" />。これは当時、天皇賞(帝室御賞典)を勝った馬が再度出走して敗れるようなことがあれば、優勝馬の威厳を下げてしまうとされた<ref name="QR報道部" />考え方に基づいており、天皇賞(帝室御賞典)を勝つほどの優れた競走馬は、優勝馬としての威厳を保ちつつ早く種牡馬になって競走馬の改良に貢献することが求められていた<ref name="keibasi4_963" /><ref group="注">勝ち抜き制は[[毎日王冠]](第5回まで)や[[中山大障害]](1950年(昭和25年)まで)など、他の競走にも定められていたことがあるが、1980年まで制度が存続していたのは天皇賞だけである。</ref>。なお、この制度に対しては、一部の競馬評論家の間で、批判されていた{{Refnest|group="注"|特に、[[大橋巨泉]]が[[競馬エイト]]の予想のコーナー「巨泉でバッチリ」で、このことを痛烈に批判していた<ref name="Keiba 8 有馬記念" /><ref name="Keiba 8 天皇賞春" /><ref name="Keiba 8 天皇賞秋" />。}}。
[[京都競馬場]]の芝外回り3200メートル。向正面の中央付近から発走し、約1周半する。


多くの古馬にとって、天皇賞優勝は最大の目標であると同時に、一度優勝するとその後の目標となるレースがほとんどなくなる<ref group="注">わずかな例外として、帝室御賞典を統一した時に横浜競馬場に創設された横浜農林省賞典四・五歳呼馬がある。これは4歳と古馬の一流馬が対決するように企画され、しばしば帝室御賞典を勝った馬が出走した。しかし横浜競馬場が1943年(昭和18年)に閉鎖されたため、この競走は短い期間しか行われなかった。</ref>。そのうえ、斤量がさらに増えることから、優勝後に引退する馬は少なくなかった。1937年(昭和12年、第1回)から1955年(昭和30年、第32回)までの優勝馬のうち5頭が優勝と同時に、10頭が優勝したシーズン限りで引退している。このほか、3頭が優勝後に地方競馬へ転出した。
==== 賞金 ====
; グレード制が施行された第89回(1984年)以降
{| class="wikitable"
!回(施行年)!!総額賞金!!1着!!2着!!3着!!4着!!5着
|-
|第89回(1984年)||1億4,250万円||7,500万円||3,000万円||1,900万円||1,100万円||750万円
|-
|第91回(1985年)||1億4,880万円||7,800万円||3,100万円||rowspan="2"|2,000万円||rowspan="2"|1,200万円||780万円
|-
|第93回(1986年)||1億5,200万円||8,000万円||3,200万円||800万円
|-
|第95回(1987年)||1億6,150万円||8,500万円||3,400万円||2,100万円||1,300万円||850万円
|-
|第97回(1988年)||1億8,050万円||9,500万円||3,800万円||2,400万円||1,400万円||950万円
|-
|第99回(1989年)||1億9,000万円||1億円||4,000万円||2,500万円||1,500万円||1,000万円
|-
|第101回(1990年)||2億1,000万円||1億1,000万円||4,400万円||2,800万円||1,700万円||1,100万円
|-
|第103回(1991年)||2億2,800万円||1億2,000万円||4,800万円||3,000万円||1,800万円||1,200万円
|-
|第105回(1992年)||rowspan="3"|2億4,800万円||rowspan="3"|1億3,000万円||rowspan="3"|5,200万円||rowspan="3"|3,300万円||rowspan="3"|2,000万円||rowspan="3"|1300万円
|-
|第107回(1993年)
|-
|第109回(1994年)
|-
|第111回(1995年)||rowspan="19"|2億5,120万円||rowspan="19"|1億3,200万円||rowspan="19"|5,300万円||rowspan="19"|3,300万円||rowspan="19"|2,000万円||rowspan="19"|1,320万円
|-
|第113回(1996年)
|-
|第115回(1997年)
|-
|第117回(1998年)
|-
|第119回(1999年)
|-
|第121回(2000年)
|-
|第123回(2001年)
|-
|第125回(2002年)
|-
|第127回(2003年)
|-
|第129回(2004年)
|-
|第131回(2005年)
|-
|第133回(2006年)
|-
|第135回(2007年)
|-
|第137回(2008年)
|-
|第139回(2009年)
|-
|第141回(2010年)
|-
|第143回(2011年)
|-
|第145回(2012年)
|-
|第147回(2013年)
|}


==== 年表 ====
=== 新たな目標を求めて ===
1956年(昭和31年)、年末の中山競馬場で中山グランプリ(現在:有馬記念)が創設された<ref group="注">第1回のみ「中山グランプリ」の名称で施行され、第2回から「有馬記念」に改称された。</ref>。これは4歳馬も古馬も分け隔てなく、その年の一流馬を集めて行う競走となった<ref name="hyakka_ari" />。
* 1938年 - 4歳(現3歳)以上の牡馬・牝馬による重賞競走「帝室御賞典(春)」として創設。鳴尾競馬場・土2700メートルで施行。
* 1939年
** 施行距離を3200メートルに、出走資格を5歳(現4歳)以上牡馬・牝馬に変更。
** 負担重量を「馬齢重量」から「定量」に変更(負担重量は5歳(現4歳)は58キロ、6歳(現5歳)以上は60キロ、牝馬1.5キロ減に設定)<ref name="JRA注目"/>。
* 1944年 - 「能力検定競走」として、京都競馬場の芝3200メートルで施行<ref name="JRA注目"/>。以後、京都競馬場での施行が定着。
* 1945年 - 太平洋戦争の影響で中止<ref name="JRA注目"/>。
* 1947年
** この年のみ「平和賞」の名称で施行<ref name="JRA注目"/>。
** 負担重量を5歳(現4歳)、6歳(現5歳)以上とも牡馬60キロ、牝馬2キロ減に変更<ref name="JRA注目"/>。
* 1948年
** 名称を「天皇賞」に変更<ref name="JRA注目"/>。
** 5歳(4歳)の負担重量を牡馬58キロ、牝馬2キロ減に変更<ref name="JRA注目"/>。
* 1953年 - 6歳(現5歳)以上の負担重量を5歳(現4歳)と同じく、牡馬58キロ、牝馬2キロ減に変更<ref name="JRA注目"/>。
* 1957年 - この年から昭和天皇の誕生日である4月29日開催で固定(1989年まで)。
* 1965年 - 阪神競馬場の芝3200メートルで施行<ref name="JRA注目"/>。
* 1970年 - 阪神競馬場の芝3200メートルで施行<ref name="JRA注目"/>。
* 1972年 - 外国産馬が出走できなくなる。
* 1980年 - 阪神競馬場の芝3200メートルで施行<ref name="JRA注目"/>。
* 1981年 - 勝ち抜き制を廃止<ref name="JRA注目"/>。
* 1984年 - グレード制導入、GIに格付け。
* 1990年 - 4月29日固定開催から日曜開催に変更。
* 1994年 - 阪神競馬場の芝3200メートルで施行<ref name="JRA注目"/>。
* 1995年 - 指定交流競走に指定され、地方所属馬も出走が可能に<ref name="JRA注目"/>。
* 2000年 - 外国産馬が2頭まで出走可能に<ref name="JRA注目"/>。
* 2001年 - [[馬齢]]表示を国際基準へ変更したことに伴い、出走条件が「5歳以上牡馬・牝馬」から「4歳以上牡馬・牝馬」に変更。
* 2005年
** 国際競走に指定され、外国調教馬が5頭まで出走可能に<ref name="JRA注目"/>。オーストラリアの[[マカイビーディーヴァ]]が初の出走馬となる。
* 2007年 - 外国調教馬の出走枠を9頭に拡大<ref name="JRA注目"/>。
* 2008年
** 出走条件を「4歳以上牡馬・牝馬」から「4歳以上」に変更<ref name="JRA注目"/>。
** 前年度メルボルンカップ優勝馬の招待を制度化。
* 2010年 - [[クレイグ・ウィリアムズ]]が外国人騎手として初めて制覇。
* 2012年
** 「近代競馬150周年記念」の副称を付けて施行<ref name="JRA注目"/>。
** 出走馬選定方法が変わり、レーティングで上位5頭に優先出走を認める。


天皇賞を勝った古馬の一流馬にとって、有馬記念は新たな目標となった<ref name="hyakka_ari" />。有馬記念創設から2013年(平成25年)までの天皇賞優勝馬で、天皇賞優勝を最後に引退した馬は5頭しかいない。
==== 歴代優勝馬 ====
国際競走となった2005年以降は優勝馬の国旗を表記する。
{| class="wikitable"
!回数!!施行日!!調教国・優勝馬!!style="white-space:nowrap"|性齢!!勝時計!!優勝騎手!!style="white-space:nowrap"|管理調教師!!馬主
|-
|style="text-align:center"|第2回||style="white-space:nowrap"|[[1938年]][[5月15日]]||[[ハセパーク]]||牡5||style="white-space:nowrap"|2:53 1/5||colspan="2" style="text-align:center"|[[金者斤奉]]||門倉恒雄
|-
|style="text-align:center"|第4回||[[1939年]][[5月14日]]||[[スゲヌマ]]||牡4||3:31 0/5||[[伊藤正四郎]]||[[小山内重蔵]]||[[千明牧場|千明賢治]]
|-
|style="text-align:center"|第6回||[[1940年]][[5月19日]]||[[トキノチカラ]]||牡4||3:25 2/5||[[岩下密政]]||[[田中和一郎]]||[[菊池寛]]
|-
|style="text-align:center"|第8回||[[1941年]][[4月27日]]||[[マルタケ (競走馬)|マルタケ]]||牡5||3:25 4/5||colspan="2" style="text-align:center"|[[清水茂次]]||榎壽逸
|-
|style="text-align:center"|第10回||[[1942年]][[4月19日]]||[[ミナミモア]]||牡4||3:25 1/5||[[佐藤邦雄]]||[[東原玉造]]||池得次
|-
|style="text-align:center"|第12回||[[1943年]][[4月11日]]||[[グランドライト]]||牡4||3:28 1/5||[[阿部正太郎]]||田中和一郎||[[加藤雄策]]
|-
|style="text-align:center"|第14回||[[1944年]][[5月28日]]||[[ヒロサクラ]]||牡4||3:29 0/5||colspan="2" style="text-align:center"|[[渋川久作]]||鶴丸広太郎
|-
|style="text-align:center"|第15回||[[1947年]][[5月11日]]||[[オーライト]]||牡4||3:34 1/5||[[元石正雄]]||[[伊藤勝吉]]||伊藤由五郎
|-
|style="text-align:center"|第17回||[[1948年]][[5月16日]]||[[シーマー]]||牡4||3:25 3/5||[[長浜彦三郎]]||[[新堂捨蔵]]||島田幸次郎
|-
|style="text-align:center"|第19回||[[1949年]][[4月29日]]||[[ミハルオー]]||牡4||3:26 3/5||[[土門健司]]||[[久保田金造]]||石川了吉
|-
|style="text-align:center"|第21回||[[1950年]][[6月4日|6月{{0}}4日]]||[[オーエンス (競走馬)|オーエンス]]||牡4||3:34 3/5||土門健司||[[松田由太郎]]||桶谷辰造
|-
|style="text-align:center"|第23回||[[1951年]][[5月5日|5月{{0}}5日]]||[[タカクラヤマ]]||牡4||3:24 3/5||[[橋田俊三]]||伊藤正四郎||平島五郎
|-
|style="text-align:center"|第25回||[[1952年]][[5月3日|5月{{0}}3日]]||[[ミツハタ]]||牡4||3:23 1/5||[[渡辺正人 (競馬)|渡辺正人]]||[[矢野幸夫]]||河野信一
|-
|style="text-align:center"|第27回||[[1953年]]5月{{0}}5日||[[レダ (競走馬)|レダ]]||牝4||3:24 2/5||[[佐藤勇]]||[[武田文吾]]||熊谷新太郎
|-
|style="text-align:center"|第29回||[[1954年]]5月16日||[[ハクリヨウ]]||牡4||3:24 2/5||[[保田隆芳]]||[[尾形藤吉]]||西博
|-
|style="text-align:center"|第31回||[[1955年]]4月29日||[[タカオー]]||牡4||3:22 3/5||[[古山良司]]||[[上村大治郎]]||高須銀次郎
|-
|style="text-align:center"|第33回||[[1956年]][[4月15日]]||[[メイヂヒカリ]]||牡4||3:22 3/5||[[蛯名武五郎]]||[[藤本冨良]]||新田松江
|-
|style="text-align:center"|第35回||[[1957年]]4月29日||[[キタノオー]]||牡4||3:21 3/5||[[伊藤竹男|勝尾竹男]]||久保田金造||田中留治
|-
|style="text-align:center"|第37回||[[1958年]]4月29日||[[オンワードゼア]]||牡4||3:23 4/5||[[野平好男]]||[[二本柳俊夫]]||[[樫山純三]]
|-
|style="text-align:center"|第39回||[[1959年]]4月29日||[[トサオー]]||牡4||3:23 1/5||[[野平祐二]]||[[松山吉三郎]]||溝本儀三男
|-
|style="text-align:center"|第41回||[[1960年]]4月29日||[[クリペロ]]||牡5||3:25.0||保田隆芳||尾形藤吉||[[栗林友二]]
|-
|style="text-align:center"|第43回||[[1961年]]4月29日||[[ヤマニンモアー]]||牡4||3:22.6||[[浅見国一]]||[[藤本冨良]]||土井宏二
|-
|style="text-align:center"|第45回||[[1962年]]4月29日||[[オンスロート (競走馬)|オンスロート]]||牡5||3:27.6||[[山岡つとむ|山岡忞]]||[[中村広]]||田村喜志
|-
|style="text-align:center"|第47回||[[1963年]]4月29日||[[コレヒサ]]||牡4||3:22.5||[[森安重勝]]||尾形藤吉||千明康
|-
|style="text-align:center"|第49回||[[1964年]]4月29日||[[ヒカルポーラ]]||牡5||3:26.8||[[高橋成忠]]||佐藤勇||坪田喜之助
|-
|style="text-align:center"|第51回||[[1965年]]4月29日||[[アサホコ]]||牡5||3:27.1||[[加賀武見]]||藤本冨良||手塚栄一
|-
|style="text-align:center"|第53回||[[1966年]]4月29日||[[ハクズイコウ]]||牡5||3:19.4||保田隆芳||尾形藤吉||西博
|-
|style="text-align:center"|第55回||[[1967年]]4月29日||[[スピードシンボリ]]||牡4||3:24.2||野平祐二||[[野平省三]]||[[和田共弘]]
|-
|style="text-align:center"|第57回||[[1968年]]4月29日||[[ヒカルタカイ]]||牡4||3:24.6||野平祐二||藤本冨良||長山善健
|-
|style="text-align:center"|第59回||[[1969年]]4月29日||[[タケシバオー]]||牡4||3:29.1||古山良司||[[三井末太郎]]||[[小畑正雄]]
|-
|style="text-align:center"|第61回||[[1970年]]4月29日||[[リキエイカン]]||牡4||3:25.8||高橋成忠||[[柏谷富衛]]||水上力夫
|-
|style="text-align:center"|第63回||[[1971年]]4月29日||[[メジロムサシ]]||牡4||3:33.5||[[横山富雄]]||[[大久保末吉]]||[[メジロ商事]](株)
|-
|style="text-align:center"|第65回||[[1972年]][[5月7日|5月{{0}}7日]]||[[ベルワイド]]||牡4||3:20.4||加賀武見||[[阿部正太郎]]||鈴木賢一
|-
|style="text-align:center"|第67回||[[1973年]]4月29日||[[タイテエム]]||牡4||3:25.0||[[須貝彦三]]||橋田俊三||(有)名鯛興業
|-
|style="text-align:center"|第69回||[[1974年]]5月{{0}}5日||[[タケホープ]]||牡4||3:22.6||[[嶋田功]]||[[稲葉幸夫]]||近藤たけ
|-
|style="text-align:center"|第71回||[[1975年]]4月29日||[[イチフジイサミ]]||牡5||3:22.1||[[郷原洋行]]||[[松永光雄]]||保坂勇
|-
|style="text-align:center"|第73回||[[1976年]]4月29日||[[エリモジョージ]]||牡4||3:27.4||[[福永洋一]]||[[大久保正陽]]||[[エクセルマネジメント|山本慎一]]
|-
|style="text-align:center"|第75回||[[1977年]]4月29日||[[テンポイント]]||牡4||3:21.7||[[鹿戸明]]||[[小川佐助]]||[[高田久成]]
|-
|style="text-align:center"|第77回||[[1978年]]4月29日||[[グリーングラス]]||牡5||3:20.8||[[岡部幸雄]]||[[中野隆良]]||半沢吉四郎
|-
|style="text-align:center"|第79回||[[1979年]]4月29日||[[カシュウチカラ]]||牡6||3:20.2||郷原洋行||[[矢倉玉男]]||吉田権三郎
|-
|style="text-align:center"|第81回||[[1980年]]4月29日||[[ニチドウタロー]]||牡4||3:18.7||[[村本善之]]||[[坂田正行]]||山田敏夫
|-
|style="text-align:center"|第83回||[[1981年]]4月29日||[[カツラノハイセイコ]]||牡5||3:20.6||[[河内洋]]||[[庄野穂積]]||桂土地(株)
|-
|style="text-align:center"|第85回||[[1982年]]4月29日||[[モンテプリンス]]||牡5||3:19.2||[[吉永正人]]||[[松山吉三郎]]||毛利喜八
|-
|style="text-align:center"|第87回||[[1983年]]4月29日||[[アンバーシャダイ]]||牡6||3:22.3||[[加藤和宏 (JRA)|加藤和宏]]||二本柳俊夫||[[吉田善哉]]
|-
|style="text-align:center"|第89回||[[1984年]]4月29日||[[モンテファスト]]||牡6||3:22.3||吉永正人||松山吉三郎||毛利喜八
|-
|style="text-align:center"|第91回||[[1985年]]4月29日||[[シンボリルドルフ]]||牡4||3:20.4||岡部幸雄||野平祐二||和田農林(有)
|-
|style="text-align:center"|第93回||[[1986年]]4月29日||[[クシロキング]]||牡4||3:25.4||岡部幸雄||中野隆良||阿部昭
|-
|style="text-align:center"|第95回||[[1987年]]4月29日||[[ミホシンザン]]||牡5||3:20.4||[[柴田政人]]||[[田中朋次郎]]||堤勘時
|-
|style="text-align:center"|第97回||[[1988年]]4月29日||[[タマモクロス]]||牡4||3:21.8||[[南井克巳]]||[[小原伊佐美]]||タマモ(株)
|-
|style="text-align:center"|第99回||[[1989年]]4月29日||[[イナリワン]]||牡5||3:18.8||[[武豊]]||[[鈴木清 (競馬)|鈴木清]]||保手浜弘規
|-
|style="text-align:center; white-space:nowrap"|第101回||[[1990年]]4月29日||[[スーパークリーク]]||牡5||3:21.9||武豊||[[伊藤修司]]||木倉誠
|-
|style="text-align:center"|第103回||[[1991年]][[4月28日]]||[[メジロマックイーン]]||牡4||3:18.8||武豊||[[池江泰郎]]||メジロ商事(株)
|-
|style="text-align:center"|第105回||[[1992年]][[4月26日]]||メジロマックイーン||牡5||3:20.0||武豊||池江泰郎||メジロ商事(株)
|-
|style="text-align:center"|第107回||[[1993年]]4月25日||[[ライスシャワー]]||牡4||3:17.1||[[的場均]]||[[飯塚好次]]||栗林英雄
|-
|style="text-align:center"|第109回||[[1994年]][[4月24日]]||[[ビワハヤヒデ]]||牡4||3:22.6||岡部幸雄||[[浜田光正]]||[[ビワ (会社)|(有)ビワ]]
|-
|style="text-align:center"|[[第111回天皇賞|第111回]]||[[1995年]][[4月23日]]||ライスシャワー||牡6||3:19.9||的場均||飯塚好次||栗林英雄
|-
|style="text-align:center"|[[第113回天皇賞|第113回]]||[[1996年]]4月21日||[[サクラローレル]]||牡5||3:17.8||[[横山典弘]]||[[境勝太郎]]||[[さくらコマース|(株)さくらコマース]]
|-
|style="text-align:center"|[[第115回天皇賞|第115回]]||[[1997年]]4月27日||[[マヤノトップガン]]||牡5||3:14.4||[[田原成貴]]||[[坂口正大]]||[[田所祐]]
|-
|style="text-align:center"|第117回||[[1998年]]5月{{0}}3日||[[メジロブライト]]||牡4||3:23.6||河内洋||[[浅見秀一]]||[[メジロ牧場|(有)メジロ牧場]]
|-
|style="text-align:center"|第119回||[[1999年]][[5月2日|5月{{0}}2日]]||[[スペシャルウィーク]]||牡4||3:15.3||武豊||[[白井寿昭]]||[[臼田浩義]]
|-
|style="text-align:center"|第121回||[[2000年]]4月30日||[[テイエムオペラオー]]||牡4||3:17.6||[[和田竜二]]||[[岩元市三]]||[[竹園正繼]]
|-
|style="text-align:center"|第123回||[[2001年]]4月29日||テイエムオペラオー||牡5||3:16.2||和田竜二||岩元市三||竹園正繼
|-
|style="text-align:center"|第125回||[[2002年]]4月28日||[[マンハッタンカフェ]]||牡4||3:19.5||[[蛯名正義]]||[[小島太]]||[[西川清]]
|-
|style="text-align:center"|第127回||[[2003年]][[5月4日|5月{{0}}4日]]||[[ヒシミラクル]]||牡4||3:17.0||[[角田晃一]]||[[佐山優]]||[[阿部雅一郎]]
|-
|style="text-align:center"|第129回||[[2004年]]5月{{0}}2日||[[イングランディーレ]]||牡5||3:18.4||横山典弘||[[清水美波]]||[[吉田千津]]
|-
|style="text-align:center"|第131回||[[2005年]][[5月1日|5月{{0}}1日]]||{{Flagicon|JPN}} [[スズカマンボ]]||牡4||3:16.5||[[安藤勝己]]||[[橋田満]]||[[永井啓弐]]
|-
|style="text-align:center"|第133回||[[2006年]]4月30日||{{Flagicon|JPN}} [[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]||牡4||3:13.4||武豊||池江泰郎||[[金子真人|金子真人ホールディングス(株)]]
|-
|style="text-align:center"|[[第135回天皇賞|第135回]]||[[2007年]]4月29日||{{Flagicon|JPN}} [[メイショウサムソン]]||牡4||3:14.1||[[石橋守]]||高橋成忠||[[松本好雄]]
|-
|style="text-align:center"|第137回||[[2008年]]5月{{0}}4日||style="white-space:nowrap"|{{Flagicon|JPN}} [[アドマイヤジュピタ]]||牡5||3:15.1||[[岩田康誠]]||[[友道康夫]]||[[近藤利一]]
|-
|style="text-align:center"|第139回||[[2009年]]5月{{0}}3日||{{Flagicon|JPN}} [[マイネルキッツ]]||牡6||3:14.4||[[松岡正海]]||[[国枝栄]]||[[サラブレッドクラブ・ラフィアン|(株)サラブレッドクラブ・ラフィアン]]
|-
|style="text-align:center"|第141回||[[2010年]]5月{{0}}2日||{{Flagicon|JPN}} [[ジャガーメイル]]||牡6||3:15.7||style="white-space:nowrap"|[[クレイグ・ウィリアムズ|C.ウィリアムズ]]||[[堀宣行]]||吉田和美
|-
|style="text-align:center"|第143回||[[2011年]]5月{{0}}1日||{{Flagicon|JPN}} [[ヒルノダムール]]||牡4||3:20.6||[[藤田伸二]]||[[昆貢]]||蛭川正文
|-
|style="text-align:center"|第145回||[[2012年]]4月29日||{{Flagicon|JPN}} [[ビートブラック]]||牡5||3:13.8||[[石橋脩]]||[[中村均]]||前田幸治
|-
|style="text-align:center"|第147回||[[2013年]]4月28日||{{Flagicon|JPN}} [[フェノーメノ]]||牡4||3:14.2||[[蛯名正義]]||[[戸田博文]]||[[サンデーレーシング|(有)サンデーレーシング]]
|}


一方、天皇賞を優勝して国内の最高峰に立った馬の一部は、新たな目標を求めて海外へ遠征するようになった<ref name="siwa_80" />。1952年(昭和27年)にアメリカで創設された「[[ワシントンDCインターナショナル|ワシントンDC国際]]」がその代表格である<ref name="karakuri_65" /><ref name="JC_2730" />。この競走は招待制で、日本からは天皇賞の優勝馬が招待を受けるようになった<ref name="siwa_80" />。ワシントンDC国際は11月に行われ、当時は11月下旬に行われていた天皇賞(秋)と同時期になる。当時、一度天皇賞を勝った馬は再出走が認められていなかった(勝ち抜き制)ため、秋にワシントンDC国際に挑み、12月に帰国して有馬記念へ出走する馬が現れた<ref name="siwa_80" />。
=== 天皇賞(秋) ===
{{競馬の競走
|馬場 = 芝
|競走名 = 天皇賞(秋)
|画像 = [[File:Tosen-Jordan20111030(2).jpg|230px]]
|画像説明 = 第144回天皇賞(秋)(優勝馬・トーセンジョーダン)
|主催者 = [[日本中央競馬会]]
|開催地 = {{Flagicon|JPN}}[[東京競馬場]]
|施行時期 = 10月下旬 - 11月上旬<br />(原則4回東京9日目)
|格付け = {{Color|red|GI}}
|距離 = 芝2000m
|条件 = [[サラブレッド]]系3歳以上(国際)(指定)<br />[[#出走資格|出走資格]]も参照
|1着賞金 = 1億3200万円
|賞金総額 = 2億5120万円
|負担重量 = {{Nowrap|定量(3歳56kg、4歳以上58kg、牝馬2kg減)}}
|創設 = [[1937年]][[12月3日]]
}}
'''天皇賞(秋)'''(てんのうしょうあき)とは日本中央競馬会(JRA)が[[東京競馬場]]の[[芝]]2000[[メートル]]で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。


有馬記念創設以降、1981年(昭和56年)までの25年間で、天皇賞に勝った後海外遠征を行った馬は7頭いる。そのうち5頭は秋にワシントンDC国際へ、1頭は同時期のヨーロッパで[[凱旋門賞]]に挑んだ<ref name="JC_2730" />。しかしこれらの中から目標を達することができた馬はおらず、逆に欧米との力量差を突きつけられる結果になった<ref name="JC_2730" />。
正式名称は「天皇賞」であるが、JRAでは「天皇賞(秋)」と表記している。


=== ジャパンカップの創設 ===
正賞は天皇賞、[[日本馬主協会連合会]]会長賞。
天皇賞を勝つほどの一流馬が、日本以外の国でまったく勝てないという事実は、日本国内に2つの相反する考え方をもたらした<ref name="JC_80154" />。1つは強力な外国の競走馬が日本へ入ってくることで国内の馬産が衰退するという脅威論、もう1つはより強い外国馬との対戦によって日本馬のレベルアップを図ろうとする門戸開放論だった<ref name="JC_80154" />。


1970年代後半より「世界に通用する強い馬作り」が提唱され、実現したのが1981年(昭和56年)に創設されたジャパンカップである<ref name="JC_80154" />。ジャパンカップは外国から競走馬を招待し、日本の一流馬と対戦させることで、日本競馬に活力を与えようという意図で企画された<ref name="karakuri_60" />。
==== 概要 ====
[[1937年]]に4歳(現3歳)以上の牡馬・牝馬(外国産馬含む)による重賞競走「'''帝室御賞典(秋)'''」として創設。秋の競走としての第1回は[[東京競馬場]]の芝2600メートルで施行され<ref name="JRA注目"/>、[[古馬]]の最強馬決定戦として位置付けられた。1938年からは施行距離を芝3200メートルに、出走資格を5歳(現4歳)以上に変更<ref name="JRA注目"/>。


帝室御賞典が1937年(昭和12年)秋から年2回施行とされて以来、伝統的に11月下旬の施行が定着していた天皇賞(秋)は、ジャパンカップに時期を譲り10月に前倒しされた<ref name="JC_116" />。「ワシントンDC国際」に出走した外国馬がジャパンカップへ転戦しやすいように配慮した結果である。ジャパンカップは新設競走にして賞金額が東京優駿(日本ダービー)や天皇賞、有馬記念と並ぶ高額に設定され、これは古馬の競走体系が根幹から変わることを意味した<ref name="JC_124" />。[[第1回ジャパンカップ]]では、直前の[[第84回天皇賞|天皇賞(秋)]]をレコード勝ちした馬など当時の中央競馬を代表する陣容で臨んだ日本勢が外国勢の前に総崩れとなり、日本の競馬界に衝撃を与える結果となった。また、ジャパンカップの商業的な成功は日本のみならず、アジアの競馬にも変革をもたらすきっかけとなった<ref name="karakuri_74-76" />。
1984年からグレード制施行によりGIに格付けされ、この際に施行距離を芝2000メートルに変更。これにより中距離の最強馬決定戦として位置付けられた<ref name="JRA注目"/>。なお、距離変更の発表時は競馬ファンや競馬関係者、一部の競馬評論家から反対の声もあった<ref>[[優駿]]([[1988年]]2月号)</ref>。


=== 国際化と天皇賞(秋)の距離短縮 ===
[[1981年]]から[[ジャパンカップ]]の新設に伴い施行時期が10月下旬 - 11月初旬に繰り上げられ、ジャパンカップへ向けたステップレースとしての意味合いも併せ持つようになった。
ジャパンカップの創設以前より、世界の各国からは外国籍の馬主が日本のレースに所有馬を出走させられなかったり、外国馬に対する出走制限を設けていたりしたことなど、日本の競馬界に対する閉鎖性が指摘されるようになっていた。これらの指摘を受け、日本中央競馬会はジャパンカップの創設以来「競馬の国際化」を視野に入れた多角的な活動を展開するようになった<ref name="畜産ZOO鑑" />。「国際化」とは、単に外国の競走馬を呼び寄せるだけでなく、制度面を含めた「国際標準」への適合を意味していた。


日本の競馬を「国際標準」へ適合させるため、日本中央競馬会はさまざまな施策を打ち出した。1984年(昭和59年)に導入された「[[競馬の競走格付け|グレード制]]」はそのひとつである。天皇賞も春・秋ともにGIとして格付けされたが、当初のグレード制は興行に主眼を置いた中央競馬独自の格付けに過ぎず、1970年代に欧米で作られた「グレード制・グループ制」とはまったく互換性のないものだった<ref name="karakuri_102-104" />。その後、さまざまな開放策を実施した結果、2005年(平成17年)には天皇賞が春・秋ともに国際競走となり、外国調教馬の出走が可能になった<ref name="JRA注目" />。さらに、2007年(平成19年)からは格付けの互換性が認められるようになった<ref name="karakuri_84-98" />。
[[1995年]]からは指定競走となり、所定の条件を満たした地方所属馬にも出走資格が与えられるようになった<ref name="JRA注目"/>。


1983年(昭和58年)11月、日本中央競馬会は昭和59年度の競馬番組について、グレード制の導入(前述)などの大幅改革を発表した<ref name="ayumi" />。この中に、天皇賞(秋)の施行距離を芝2,000メートルに短縮することが盛り込まれていた。レースの性格を大きく変えることになるこの変更に対し、伝統的な3,200メートルの距離を尊重する意見や東京競馬場(芝2,000メートル)のコース形態に対する問題点を指摘する意見{{Refnest|group="注"|「大レースは枠順による有利不利が起こらない条件で行うべき」と考えていた[[大川慶次郎]]は1998年(平成10年)に刊行した著書で当時を回想、天皇賞(秋)の距離を東京2000メートルに短縮することに対し当初から反対意見を唱えており、「2000メートルで施行するなら[[中山競馬場]]での施行、もしくは春を東京の3200メートルにして秋を京都の2000メートルで行ったらどうか」と提案していた<ref name="大川" />。なお、同著では当時競馬評論を行っていた大橋巨泉が距離短縮支持派だったと記載されている<ref name="大川" />。}}{{Refnest|カーブの半径やカーブまでの距離が危険であるという意見があるが、同様のコース設定は地方競馬や海外の競馬場にも多数存在しており、[[日本グレード格付け管理委員会|ダート競走格付け委員]]の[[山野浩一]]は「世界の競馬の中ではとても中程度の危険さとさえいえるものではない」としている<ref name="山野_457-459" />。|group="注"}}、また第1回ジャパンカップで日本勢が外国勢に大敗したことを踏まえ、スタミナよりもスピードの強化を重視する意見など賛否両論があったが、1984年(昭和59年)より天皇賞(秋)は施行距離が2,000メートルに短縮された<ref name="JRA注目" />。以来、天皇賞(秋)は中央競馬の「中距離ナンバー1決定戦」の性格を持つようになった<ref name="JRA注目" />。
春の競走と同様に1971年から外国産馬の出走ができなくなったが、2000年より外国産馬は総収得賞金順に上位2頭まで出走可能となった([[2002年]]からはフルゲートにならなかった場合に限り4頭まで出走可能<ref group="注">[[2001年]]はフルゲートに満たなかったにもかかわらず、[[クロフネ]]が外国産馬枠に外れて出走除外となり、波紋を呼んだため。</ref>)。[[2004年]]からは外国産馬の出走枠が5頭に拡大、その後も[[2005年]]からは国際競走に指定され外国調教馬が5頭まで出走可能になったほか、外国産馬の出走枠制限も撤廃された<ref name="JRA注目"/>。


競走の規則も見直しが図られた。1950年代に欧米で定着した[[降着制度]]は1991年(平成3年)から中央競馬でも導入された<ref name="ayumi" />が、この年の[[第104回天皇賞|天皇賞(秋)]]で1位入線馬が18着に降着となった。これは日本での重賞1位入線馬の降着例として史上初だっただけでなく、当該馬が圧倒的な単勝1番人気に推されていたことも相まって大きな話題になった<ref name="日刊競馬" />。
近代競馬では主流とされている芝2000メートルで施行されるため、マイラーからステイヤーまで多彩な距離適性の馬が出走する。また、3歳(旧4歳)馬も出走可能なことから[[菊花賞]]へ向かわず、本競走に出走する馬が一部みられる。なお、[[エリザベス女王杯]]の条件変更後は牝馬の出走数が減少傾向にある。


帝室御賞典時代からの制度では、1度優勝した馬に再出走を認めない勝ち抜き制が1981年(昭和56年)から廃止され、過去の優勝馬も再出走が可能になった<ref name="JRA注目" />ほか、種牡馬・繁殖馬選定の観点から長年認められていなかった去勢馬(せん馬)の出走も2008年(平成20年)以降可能になった<ref name="JRA注目" />。また、1971年(昭和46年)から認められていなかった外国産馬の出走が2000年(平成12年)より可能になった<ref group=注>1971年 - 1983年(昭和46年 - 58年)までは、[[持込馬]]に関しても外国産馬と同じ扱いで出走権が与えられなかったが、1984年(昭和59年)に内国産馬と同等扱いに戻された</ref><ref name="JRA注目" />。
[[2000年]]よりジャパンカップ・[[有馬記念]]とともに「'''秋の古馬[[三冠 (競馬)|三冠]]競走'''」とされ、3競走を全て優勝した馬に褒賞金が贈られるようになった。


1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典(第1回)以来「古馬の最高峰」として位置づけられてきた天皇賞だったが、1987年(昭和62年)より天皇賞(秋)は4歳馬も出走が可能になった<ref name="JRA注目" />。また1980年代以降、短距離路線・ダート路線・牝馬路線の拡充が図られたことに加え、海外遠征も容易になった<ref name="karakuri_61-68" />。これにより、さまざまなタイプの競走を選択できるようになり、天皇賞は「数ある頂点のひとつ」という位置づけになっている。とはいえ、国内のGI競走では2022年(令和4年)現在もジャパンカップ、有馬記念に次ぐ高額の1着賞金が設定されている([[#賞金|後述]])<ref name="R04重賞一覧" />。
==== 出走資格 ====
* 原則サラ系3歳(旧4歳)以上のJRA所属の競走馬、地方所属の競走馬及び外国調教馬(9頭まで)、出走枠は18頭まで。
* レーティング順位の上位5頭に対しては優先出走が認められる(2012年より。牡馬・セン馬は110ポンド、牝馬は106ポンド以上であることが条件)。
* その他の競走馬は「通算の収得賞金」+「過去1年間の収得賞金」+「過去2年間のGI(JpnI)競走の収得賞金」の総計が多い順に出走できる。
* 地方競馬所属馬は以下の競走のいずれかで所定の成績をあげると本競走に出走できる。
{| class="wikitable"
!競走名!!格付!!施行競馬場!!施行距離!!必要な着順!!備考
|-
|[[オールカマー]]||{{Color|blue|GII}}||{{Flagicon|JPN}}中山競馬場||芝・外2200m||rowspan="3"|1・2着||rowspan="3"|本競走のステップ競走指定<br>中央・地方の所属を問わずに、1着で優先出走権を付与(2014年から)
|-
|[[毎日王冠]]||{{Color|blue|GII}}||{{Flagicon|JPN}}[[東京競馬場]]||芝1800m
|-
|[[京都大賞典]]||{{Color|blue|GII}}||{{Flagicon|JPN}}[[京都競馬場]]||芝・外2400m
|}


国内最高クラスの賞金、皇室から下賜された天皇楯の権威、長い歴史と伝統などに裏打ちされ、今も天皇賞は「古馬最高の栄誉<ref name="JRA注目" />」とされている。
===== 負担重量 =====
* 定量<ref name="JRA注目"/>(3歳56kg、4歳以上58kg、牝馬2kg減)


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==== コース ====
[[東京競馬場]]の芝2000メートル。第1コーナーのポケット奥から発走。


== 御賞典と天皇楯 ==
スタート地点から第2コーナーまでの距離が短くコーナーの[[曲率半径]]も小さいため、外枠(特に大外枠)の馬は不利とされている<ref>[http://jra-van.jp/fun/ddd/20110418.html 第487回 皐月賞の舞台・東京芝2000mを分析!]-JRA-VAN データde出~た</ref>。[[2002年]]にコース改修が実施されたものの、依然として外枠不利の状況に変わりはなく、距離変更後に大外枠で優勝したのは[[1986年]]の[[サクラユタカオー]]、[[1989年]]の[[スーパークリーク]]、2003年の[[シンボリクリスエス]]のみ。コース改修前の1991年には13番枠から発走した[[メジロマックイーン]]がスタート後に内側へ斜行し、1位で入線も審議の結果18着に降着となった。
[[#起源|前述]]のとおり、天皇賞のルーツとなるMikado's VaseやThe Emperor's Cupなどでは、明治天皇から賞品が下賜されていた。これらは通常、貴金属としても美術品・工芸品としても価値が高いものであると同時に、「天皇から下賜された」という事実は金銭では贖えない栄誉を担うものだった。
=== 明治天皇と御賞典(賞品) ===
明治天皇は日本各地へ巡幸して、その先々で競馬を天覧し、優勝騎手や馬主らに賞金や賞品を下賜した。下賜された品々は、樽酒や[[黄八丈]]、[[絽|白絽]]の反物、[[羽二重|白羽二重]]、美術品、工芸品などである<ref name="siwa_10-24" />{{Refnest|イギリス王室でも、競馬の賞品にワインや美術品、絵画、花器、名馬の毛で出来た鞭などを下賜していた。これらの賞品は金額に換算され、当時のリーディングサイアーの統計にも反映されている<ref name="sekaisi_70" />。|group="注"}}。


根岸競馬は多くの賞金や賞品を外部のパトロンやスポンサーから得ており、とりわけ皇室や皇族はその代表格だった。たとえば[[ツェサレーヴィチ|ロシア皇太子]]の名を冠した “Cesarewitch Gift” という競走の賞品を実際に提供していたのは日本の皇室だった<ref name="siwa_note" />。根岸競馬場で明治天皇が下賜したものは記録に残っているもので、「銅製花瓶」一対、「経一尺龍浮彫七宝入銀製花瓶」などがある<ref name="siwa1518" />。1900年(明治33年)には[[駐日ロシア大使|ロシア全権公使]][[ロマン・ローゼン|ローゼン男爵]]が[[ミラ (競走馬)|Mirror]]号の優勝により「銀製花鳥七宝菓子敷」を授与されている<ref name="siwa1518" />。ほかにも[[上野不忍池競馬|上野]]へ「[[象嵌|金象眼銅製馬]]」を下賜した記録がある<ref name="siwa_18-24" />。なお、皇室以外では、根岸競馬の神奈川賞杯競走で[[中島信行|神奈川県令]]が「青銅製酒杯」を賞賜している<ref name="NRC_Top13" />。
大レースは枠順による有利不利が起こらない条件で行うべきと考えていた[[大川慶次郎]]は、生前にこのような状況を予測して距離が2000メートルに短縮された際最後まで反対意見を唱え、2000メートルで施行するなら[[中山競馬場]]にすべきと主張していた<ref group="注">ただし、2002年のレースは東京競馬場の馬場改修工事により、中山競馬場で行われた。</ref>。


天皇賞のルーツとされるThe Emperor's Cupの創設にあたって、明治天皇が下賜した御賞典を受け取った[[日本レース・倶楽部|日本レース倶楽部]]では「尊重の重宝」と邦訳した。一方、1906年(明治39年)秋に[[池上競馬場]]で行われた皇室賞典では「銀製花盛鉢」が下賜された。これは直径が約30センチ(1[[尺]])、深さが約15センチ(5[[寸]])の大銀鉢で、三本の脚がつき、[[菊花紋章|菊花の文様]]が[[レリーフ|高彫]]されていたと伝わる<ref name="siwa_26-33" />。以後も[[菊花紋章|菊花御紋]]付銀製花盛器(銀製鉢や洋杯)が下賜された<ref name="siwa_68-70" />。御賞典は拝領する側にも相応のマナーが必要とされ、馬主や関係者は拝領式の際、正装([[モーニングコート|モーニング]]か[[国民服]]、軍服でも可)で臨むこととされていた<ref name="keibasi5_417" />{{Refnest|こうした式典は、はじめの頃は競走終了後に行われ、その間は馬券の発売を停止していた。1940年(昭和15年)からは、競走終了後に薬物検査を行うことになり、その結果が出てから拝戴式を行うため、帝室御賞典当日ではなく、後日行われるようになった<ref name="keibasi5_424-425" />。|group="注"}}{{Refnest|[[馬主|仮定名称]]と言って馬主名義を本名とは異なる名称にする制度があるが、1941年(昭和16年)から帝室御賞典では仮定名称の使用が禁じられ、馬主は実名で出走させなければならなくなった<ref name="keibasi5_420" />。|group="注"}}。
==== 賞金 ====
<gallery>
; グレード制が施行された第90回(1984年)以降
ファイル:THE GRAND STAND YOKOHAMA RACE CLUB 1890.jpg|1888年の根岸(横浜)競馬場メインスタンドと御下賜賞品のブロンズ花瓶
{| class="wikitable"
ファイル:Goshouhai480.jpg|1899年5月9日に明治天皇から下賜された白銀花瓶(菊花御紋付銀製花盛器)
!回(施行年)!!総額賞金!!1着!!2着!!3着!!4着!!5着
ファイル:Emperor's Cup yokohama 1908.jpg|1908年の帝室御賞典で日本レースクラブに下賜された御紋付花盛器(横浜競馬場メインスタンド)
|-
</gallery>
|第90回(1984年)||1億4,250万円||7,500万円||3,000万円||1,900万円||1,100万円||750万円

|-
=== 天皇楯 ===
|第92回(1985年)||1億4,880万円||7,800万円||3,100万円||rowspan="2"|2,000万円||rowspan="2"|1,200万円||780万円
[[ファイル:147th Tennosho spring (16 Ceremony 02) IMG 2652 20130428.JPG|thumb|right|150px|現在の御賞典となる天皇楯(第147回天皇賞)。馬主が白手袋を着用しているのがわかる<ref name="sponichi20080502" />。]]
|-
楯(プレート)の下賜もまた、イギリス王室の伝統となっている。国を追われ、亡命先のフランスで馬術を磨いた[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]は王政復古が成って戴冠すると、[[ニューマーケット競馬場]]を復興した。1665年に国王チャールズ2世はタウンプレート(The Town Plate、もしくはNewmarket Town Plate)という競走を作り、自ら優勝楯を提供した。国王自身が騎手として優勝したこともある<ref name="NMhis" />。この競走は「King's Plate(女王の場合はQueen's Plate。Royal Plateとも呼ばれる)」として受け継がれ、現存する世界最古の競馬の競走である<ref name="NMhis" />{{Refnest|なお、翌年(1666年)のこの競走は初めて明文化された規則に則って行われた最古の競馬の競走として記録されている<ref name="bloodlines" />。|group="注"}}。
|第94回(1986年)||1億5,200万円||8,000万円||3,200万円||800万円

|-
明治天皇の時代に始まった華やかな銀杯の下賜は、大正時代に勃発した[[第一次世界大戦]]の間も絶えることなく、30年以上続いた。一方、その間に中国大陸での動乱は激しくなり、1931年(昭和6年)の[[満州事変]]、1937年(昭和12年)には7月に[[盧溝橋事件]]、8月に[[第二次上海事変|上海事変]]が相次いで起きた。
|第96回(1987年)||1億6,150万円||8,500万円||3,400万円||2,100万円||1,300万円||850万円

|-
その直後である1937年(昭和12年)9月、皇室は競馬会に対し、以後の御賞典下賜を年2回とするという通達を行っている。この通達により、年10回行われていた帝室御賞典は年2回施行になった([[#帝室御賞典の拡大と統一|前述]])。そして皇室は、帝室御賞典の回数を減らす分、御賞典をより立派なものにすることになる<ref name="siwa_59-62" />。また同時期、大陸での時局の緊迫化によって軍馬の需要が急増していた。軍部はより強固な馬政統制を行うため全国の競馬倶楽部を一本化して「日本競馬会」を作った。そして帝室御賞典は、軍部の求めるスタミナ溢れる馬を作るため、長距離の3,200メートルに改められた<ref name="siwa_59-62" />。
|第98回(1988年)||1億8,050万円||9,500万円||3,800万円||2,400万円||1,400万円||950万円

|-
大陸での緊迫した情勢はさらに激しさを増し、[[日中戦争]]へと発展した。1939年(昭和14年)秋にはヨーロッパでドイツと連合軍が[[第二次世界大戦|戦争]]を始め、日本に対しては「[[ABCD包囲網]]」と呼ばれる経済封鎖が1941年(昭和16年)より実施され、国内ではさまざまな物資が不足するようになった。これに伴う金属製品の統制を受け、帝室御賞典の賞杯は同年春から優勝楯に改められた<ref name="siwa_68-70" />。
|第100回(1989年)||1億9,530万円||1億300万円||4,100万円||2,600万円||1,500万円||1,030万円
|-
|第102回(1990年)||2億1,000万円||1億1,000万円||4,400万円||2,800万円||1,700万円||1,100万円
|-
|第104回(1991年)||2億2,800万円||1億2,000万円||4,800万円||3,000万円||1,800万円||1,200万円
|-
|第106回(1992年)||rowspan="3"|2億4,800万円||rowspan="3"|1億3,000万円||rowspan="3"|5,200万円||rowspan="3"|3,300万円||rowspan="3"|2,000万円||rowspan="3"|1300万円
|-
|第108回(1993年)
|-
|第110回(1994年)
|-
|第112回(1995年)||rowspan="18"|2億5,120万円||rowspan="18"|1億3,200万円||rowspan="18"|5,300万円||rowspan="18"|3,300万円||rowspan="18"|2,000万円||rowspan="18"|1,320万円
|-
|第114回(1996年)
|-
|第116回(1997年)
|-
|第118回(1998年)
|-
|第120回(1999年)
|-
|第122回(2000年)
|-
|第124回(2001年)
|-
|第126回(2002年)
|-
|第128回(2003年)
|-
|第130回(2004年)
|-
|第132回(2005年)
|-
|第134回(2006年)
|-
|第136回(2007年)
|-
|第138回(2008年)
|-
|第140回(2009年)
|-
|第142回(2010年)
|-
|第144回(2011年)
|-
|第146回(2012年)
|}


新しい優勝楯の作成にあたり、[[宮内省]]は[[東京高等工芸学校]]教授の[[畑正吉]]にデザインを依頼<ref name="siwa_68-70" />。これをもとに[[鋳物師]]の持田増次郎が金物を製作し、[[めっき|金メッキ]]を施した2寸(約6センチ)もある[[菊花紋章|菊の紋章]]と、板金をはめこんだ「競馬恩賞」の文字をラワン板にあしらった金御紋章付楯(いわゆる「'''天皇楯'''」)となった<ref name="siwa_68-70" /><ref name="siwa_72-75" />。
==== 年表 ====
* 1937年 - 4歳(現3歳)以上の牡馬・牝馬による重賞競走「帝室御賞典(秋)」として創設。東京競馬場・芝2600メートルで施行。
* 1938年 - 施行距離を芝3200メートルに、出走資格を5歳(現4歳)以上に変更<ref name="JRA注目"/>。
* 1944年 - 太平洋戦争の影響で中止<ref name="JRA注目"/>。
* 1947年 - 名称を「天皇賞」に変更<ref name="JRA注目"/>。
* 1954年 - [[オパールオーキツト]]が[[外国産馬]]として史上初の制覇。
* 1959年 - 時計表示が1/5秒表示から1/10秒表示に変更。
* 1967年 - 中山競馬場の芝3200メートルで施行<ref name="JRA注目"/>。
* 1971年 - 外国産馬が出走できなくなる。
* 1978年 - [[パワーシンボリ]]がゲート内で扉に噛み付き、同馬だけ発走出来なかったことにより[[カンパイ (競馬)|カンパイ]](発走やり直し)となった。
* 1981年 - 勝ち抜き制を廃止<ref name="JRA注目"/>。
* 1984年
** グレード制導入、GIに格付け。
** 施行距離を芝2000メートルに変更<ref name="JRA注目"/>。
* 1987年
** 出走資格を4歳(現3歳)以上牡馬・牝馬に変更<ref name="JRA注目"/>。
** 「天皇賞競走施行50周年記念」の副称を付けて施行<ref name="JRA注目"/>。
** [[明仁|皇太子]]・[[皇后美智子|同妃]]夫妻の行啓により台覧競馬として開催。
* 1988年 - [[タマモクロス]]が当年春制覇と合わせて史上初の天皇賞春秋連覇・天皇賞2勝目<ref name="JRA注目"/>。
* 1989年 - 天皇賞の開催回数が100回を迎える(春と秋の合算)。
* 1991年 - 1位入線の[[メジロマックイーン]]が進路妨害により18着に降着<ref name="JRA注目"/>。
* 1995年 - 指定交流競走に指定され、地方競馬所属馬も出走が可能に<ref name="JRA注目"/>。
* 2000年 - 外国産馬が2頭まで出走可能に<ref name="JRA注目"/>。
* 2001年
** [[馬齢]]表示の国際基準への変更に伴い、出走条件が「4歳以上牡馬・牝馬」から「3歳以上牡馬・牝馬」に変更。
** [[アグネスデジタル]]が外国産馬出走解禁後初の制覇。
* 2002年 - 中山競馬場の芝2000メートルで施行<ref name="JRA注目"/>。
* 2004年 - 「日本中央競馬会創立50周年記念」の副称を付けて施行<ref name="JRA注目"/>。
* 2005年
** 「エンペラーズカップ100年記念」の副称を付けて施行<ref name="JRA注目"/>。
** 国際競走に指定され、外国調教馬は5頭まで出走可能となる<ref name="JRA注目"/>。
** 外国産馬の出走枠制限を撤廃<ref name="JRA注目"/>。
** 天皇・皇后が臨席し、天皇賞史上初めての天覧競馬。
* 2006年 - 「[[悠仁親王]]殿下御誕生慶祝」の副称を付けて施行<ref name="JRA注目"/>。
* 2008年 - 出走条件を「3歳以上牡馬・牝馬」から「3歳以上」に変更<ref name="JRA注目"/>。
* 2012年
** 「近代競馬150周年記念」の副称を付けて施行<ref name="JRA注目"/>。
** 出走馬選定方法を変更、レーティングで上位5頭に優先出走を認める。
** 今上天皇・皇后美智子が臨席、史上2回目の天覧競馬。


天皇楯の下賜は1944年(昭和19年)春の「能力検定競走」で下賜を辞退したことにより中断し、秋には帝室御賞典が中止となった。
==== 歴代優勝馬 ====

国際競走となった2005年以降は優勝馬の国旗を表記する。
=== 戦後の天皇賞 ===
{| class="wikitable"
戦争で中断した競馬は終戦後に再開され、帝室御賞典は御賞典が下賜されなかったため、「平和賞」の名称で1947年(昭和22年)春に復活した([[#戦争の影響と天皇賞のはじまり|前述]])。その後、1947年(昭和22年)秋に予定していた「第2回平和賞」の前日に皇室から天皇楯の下賜が決まった<ref name="siwa_72-75" />が、天皇楯はこれ以降持ち回り制になった<ref name="siwa_72-75" />。平和賞は急遽「天皇賞」に改称され、「第1回天皇賞{{Refnest|当時の日本競馬会は、宮内省へ結果を奏上した際に『第1回天皇賞』と報告している<ref name="siwa_72-75" />。|group="注"}}」として施行された<ref name="siwa_72-75" />。ただし、前述の通りJRAでは1937年(昭和12年)秋の「帝室御賞典」を第1回としている<ref name="JRA注目" />。
!回数!!施行日!!調教国・優勝馬!!style="white-space:nowrap"|性齢!!勝時計!!優勝騎手!!style="white-space:nowrap"|管理調教師!!馬主

表彰式で優勝馬主が楯を受け取る際は、白手袋を着用することが慣例となっている<ref name="sponichi20080502" />。

=== 賞金 ===
春(2024年(令和6年)、第169回)の1着賞金は2億2000万円で、以下2着8800万円、3着5500万円、4着3300万円、5着2200万円<ref name="jusyo_kansai" /><ref name="bangumi_2022hanshin2-2" />。

秋(2024年(令和6年)、第170回)の1着賞金は2億2000万円で、以下2着8800万円、3着5500万円、4着3300万円、5着2200万円<ref name="jusyo_kanto" />。

1937年(昭和12年)に帝室御賞典が年2回施行に集約されて以来、天皇賞は日本国内で有数の高額賞金競走である。優勝馬の馬主に与えられる御賞典(優勝杯、優勝楯)の金銭的価値を一切考慮に入れないとしても、長い間、1着賞金の額は中央競馬で行われる競走の中でも上位を保ち続けた。2022年は、日本国内で施行する競馬の競走としてジャパンカップ・有馬記念の4億円に次いで、東京優駿(日本ダービー)、[[大阪杯]]、[[宝塚記念]]と同額の1着賞金が設定されている<ref name="R04重賞一覧" />{{Refnest|2022年(令和4年)の[[地方競馬]]で施行する競走では、[[JBCクラシック]](JpnI)と[[東京大賞典]](GI)の1着賞金1億円が最高額<ref name="keibagojp2021"/>。|group="注"}}。

; 用語の解説
: '''付加賞''':中央競馬のみにある制度で、特別登録料の総額を1着から3着までの馬に対し、7:2:1の割合で配分した賞金<ref name="用語辞典(付加賞)" />。通常の入着賞金には含めない。
: '''特別登録料''':特別競走・重賞競走に出走するための事前エントリーである「特別登録(通常はレース1週間前の日曜日。GIや3歳クラシックではさらに早まる場合がある<ref name="bangumi_2022hanshin2-2" />)」の際に徴収され、料額は[[競馬法]]で300万円以下と定められている<ref name="用語辞典(付加賞)" />。中央競馬ではこの特別登録を経て、最終エントリーとなる「出馬投票(後述)」を行うことで出走申込手続きが完了する。
; 主要な高額賞金競走における1着賞金の変遷
* 表中の項目は[https://jra.jp/datafile/seiseki/index.html JRAデータファイル]より作成(1955年から2014年まで)。
* いずれも1着賞金のみ(付加賞・褒賞金など1着賞金に含めないものは除く)の比較。単位:万円。
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!年!!天皇賞<br />(帝室御賞典)!!東京優駿!!有馬記念!!ジャパンカップ!!備考
|-
|-
|1937||(1.0)||1.0|| rowspan="5" |-|| rowspan="14" |-||{{Smaller|天皇賞の賞金は副賞。本賞は御賞典(優勝杯)}}
|style="text-align:center"|第1回||1937年[[12月3日|12月{{0}}3日]]||[[ハツピーマイト]]||牡3||style="white-space:nowrap"|2:48 1/5||[[田中朋次郎|新井朋次郎]]||[[秋山辰治]]||竹中久蔵
|-
|-
|1938||(1.5)|| rowspan="3" | ||{{Smaller|4着・5着にも賞金を出すようになる}}
|style="text-align:center"|第3回||1938年[[11月3日|11月{{0}}3日]]||[[ヒサトモ]]||牝4||3:35 2/5||colspan="2" style="text-align:center"|[[中島時一]]||宮崎信太郎
|-
|-
|1941|| rowspan="2" | ||{{Smaller|天皇賞の本賞が楯になる}}
|style="text-align:center"|第5回||1939年11月{{0}}3日||[[テツモン]]||牡4||3:24 4/5||[[保田隆芳]]||[[尾形藤吉|尾形景造]]||松山隆郎
|-
|-
|1954||{{Smaller|天皇賞の副賞が本賞金に含まれるようになる}}
|style="text-align:center"|第7回||1940年[[11月17日]]||[[ロツキーモアー]]||牡4||3:27 1/5||[[小西喜蔵]]||[[田中和一郎]]||真藤慎太郎
|-
|-
|1955|| rowspan="2" |150|| rowspan="3" |200||
|style="text-align:center"|第9回||1941年[[11月2日|11月{{0}}2日]]||[[エステイツ]]||牡4||3:24 3/5||[[田中康三]]||尾形景造||川内安忠
|-
|-
|1956|| rowspan="3" |200||{{Smaller|中山グランプリ(現在:有馬記念)創設}}
|style="text-align:center"|第11回||1942年[[11月1日|11月{{0}}1日]]||[[ニパトア]]||牝4||3:34 4/5||[[新屋幸吉]]||[[清水茂次]]||山本文吾
|-
|-
|1957|| rowspan="2" |200||{{Smaller|3競走が最高額で並ぶ}}
|style="text-align:center"|第13回||1943年[[11月7日|11月{{0}}7日]]||[[クリヒカリ]]||牡4||3:26 3/5||小西喜蔵||田中和一郎||栗林友二
|-
|-
|1959||300||{{Smaller|再び東京優駿が単独最高額に}}
|style="text-align:center"|第16回||style="white-space:nowrap"|1947年10月17日||[[トヨウメ]]||牡4||3:44 2/5||[[石毛善衛|小林善衛]]||[[鈴木信太郎 (競馬)|鈴木信太郎]]||中村正行
|-
|-
|1960||300||500||300|| rowspan="3" |
|style="text-align:center"|第18回||1948年[[11月23日]]||[[カツフジ]]||牡5||3:30 0/5||[[近藤武夫]]||[[伊藤勝吉]]||伊藤由五郎
|-
|-
|1965||800||1000||800
|style="text-align:center"|第20回||1949年11月{{0}}3日||[[ニユーフオード]]||牡4||3:25 1/5||保田隆芳||[[小川佐助]]||吉木三郎
|-
|-
|1970||2000||2300||2000
|style="text-align:center"|第22回||1950年11月{{0}}3日||[[ヤシマドオター (競走馬)|ヤシマドオター]]||牝4||3:28 0/5||保田隆芳||尾形藤吉||小林庄平
|-
|-
|1974|| colspan="3" |4000||{{Smaller|3競走が最高額で並ぶ}}
|style="text-align:center"|第24回||1951年[[11月11日]]||[[ハタカゼ]]||牡4||3:24 0/5||保田隆芳||尾形藤吉||癸生川善松
|-
|-
|1975|| colspan="3" |4600|| rowspan="2" |
|style="text-align:center"|第26回||1952年[[11月16日]]||[[トラツクオー]]||牡4||3:24 4/5||[[小林稔 (競馬)|小林稔]]||[[久保田金造]]||[[岩本政一]]
|-
|-
|1980|| colspan="3" |6000
|style="text-align:center"|第28回||1953年[[11月15日]]||[[クインナルビー]]||牝4||3:23 0/5||[[境勝太郎]]||[[石門虎吉]]||高橋虎男
|-
|-
|1981|| colspan="4" |6500||{{Smaller|ジャパンカップ創設}}
|style="text-align:center"|第30回||1954年[[11月21日]]||[[オパールオーキツト]]||牝4||3:33 2/5||[[中村広]]||[[稲葉幸夫]]||三坂成行
|-
|-
|1985|| colspan="4" |7800|| rowspan="3" |
|style="text-align:center"|第32回||1955年[[11月20日]]||[[ダイナナホウシユウ]]||牡4||3:24 4/5||[[上田三千夫]]||[[上田武司 (競馬)|上田武司]]||[[上田清次郎]]
|-
|-
|1990|| colspan="4" |11100
|style="text-align:center"|第34回||1956年[[11月25日]]||[[ミツドフアーム]]||牡5||3:22 3/5||保田隆芳||尾形藤吉||草柳留三
|-
|-
|1995|| colspan="4" |13200
|style="text-align:center"|第36回||1957年11月23日||[[ハクチカラ]]||牡4||3:29 3/5||保田隆芳||尾形藤吉||西博
|-
|-
|2000|| colspan="2" |13200|| rowspan="4" |18000|| rowspan="8" |25000||{{Smaller|ジャパンカップが単独で最高賞金に}}
|style="text-align:center"|第38回||1958年11月23日||[[セルローズ]]||牝4||3:24 4/5||[[石毛善衛]]||[[柴田恒治郎]]||戸谷佐治
|-
|-
|2001|| rowspan="7" |13200|| rowspan="5" |15000|| rowspan="7" |
|style="text-align:center"|第40回||1959年11月23日||[[ガーネツト]]||牝4||3:24.5||[[伊藤竹男]]||[[稗田敏男]]||畑江五郎
|-
|-
|2005
|style="text-align:center"|第42回||1960年11月23日||[[オーテモン]]||牡5||3:27.1||野平好男||[[田中和夫 (競馬)|田中和夫]]||[[永田雅一]]
|-
|-
|2010<ref name="H22重賞一覧" />
|style="text-align:center"|第44回||1961年11月23日||[[タカマガハラ]]||牡4||3.25.8||[[加賀武見]]||小西喜蔵||[[平井太郎]]
|-
|-
|2011<ref name="H23重賞一覧" />|| rowspan="4" |20000
|style="text-align:center"|第46回||1962年11月23日||[[クリヒデ]]||牝4||3:27.4||[[森安弘昭|森安弘明]]||[[大久保房松]]||栗林友二
|-
|-
|2012<ref name="H24重賞一覧" />
|style="text-align:center"|第48回||1963年11月23日||[[リユウフオーレル]]||牡4||3:22.7||[[宮本悳]]||[[橋本正晴]]||三好笑子
|-
|-
|2013<ref name="H25重賞一覧" />|| rowspan="8" |20000
|style="text-align:center"|第50回||1964年11月23日||[[ヤマトキヨウダイ]]||牡4||3:21.7||[[梶与四松]]||稲葉幸夫||門井みち
|-
|-
|2014<ref name="H26重賞一覧" />
|style="text-align:center"|第52回||1965年11月23日||[[シンザン]]||牡4||3:22.7||[[栗田勝]]||[[武田文吾]]||[[橋元家|橋元幸吉]]
|-
|-
|2015<ref name="H27重賞一覧" />|| rowspan="5" |15000||25000|| rowspan="5" |30000||{{Smaller|天皇賞の賞金が20年ぶりに増額}}
|style="text-align:center"|第54回||1966年11月{{0}}3日||[[コレヒデ]]||牡4||3:24.2||保田隆芳||尾形藤吉||千明康
|-
|-
|2016<ref name="H28重賞一覧" />|| rowspan="4" |30000||{{Smaller|有馬記念とジャパンカップが17年ぶりに最高額で並ぶ}}
|style="text-align:center"|第56回||1967年11月23日||[[カブトシロー]]||牡5||3:25.5||style="white-space:nowrap"|[[久保田秀次郎]]||[[久保田彦之]]||(有)志賀
|-
|-
|2017<ref name="H29重賞一覧" />|| rowspan="3" |
|style="text-align:center"|第58回||1968年11月23日||[[ニットエイト]]||牡4||3:20.3||森安弘明||[[矢倉玉男]]||太田和芳郎
|-
|-
|2020<ref name="R02重賞一覧" />
|style="text-align:center"|第60回||1969年[[11月30日]]||[[メジロタイヨウ]]||牡5||3:33.0||[[横山富雄]]||[[八木沢勝美]]||[[北野豊吉]]
|-
|-
|2021<ref name="R03重賞一覧" />
|style="text-align:center"|第62回||1970年[[11月29日]]||[[メジロアサマ]]||牡4||3:24.8||[[池上昌弘]]||保田隆芳||北野豊吉
|-
|-
|2022<ref name="R04重賞一覧" />||20000|| colspan="2" |40000||{{Smaller|天皇賞の賞金が7年ぶりに増額}}
|style="text-align:center"|第64回||1971年11月28日||[[トウメイ]]||牝5||3:23.7||[[清水英次]]||[[坂田正行]]||近藤克夫
|-
|-
|2023<ref name="R05重賞一覧" />||22000||30000|| colspan="2" |50000||
|style="text-align:center"|[[第66回天皇賞|第66回]]||1972年[[11月26日]]||[[ヤマニンウエーブ]]||牡5||3:23.7||[[福永洋一]]||[[中村覚之助 (競馬)|中村覚之助]]||土井宏二
|-
|style="text-align:center"|第68回||1973年11月25日||[[タニノチカラ]]||牡4||3:22.7||[[田島日出雄]]||[[島崎宏]]||[[谷水雄三]]
|-
|style="text-align:center"|第70回||1974年[[11月24日]]||[[カミノテシオ]]||牡4||3:22.4||加賀武見||[[高橋英夫 (競馬)|高橋英夫]]||保手浜正康
|-
|style="text-align:center"|第72回||1975年11月23日||[[フジノパーシア]]||牡4||3:28.8||[[大崎昭一]]||[[柴田寛]]||真田繁次、高橋金次
|-
|style="text-align:center"|第74回||1976年11月28日||[[アイフル (競走馬)|アイフル]]||牡5||3:20.6||[[嶋田功]]||[[仲住芳雄]]||藤本義昭
|-
|style="text-align:center"|第76回||1977年[[11月27日]]||[[ホクトボーイ]]||牡4||3:22.5||[[久保敏文]]||[[久保道雄]]||森滋
|-
|style="text-align:center"|第78回||1978年11月26日||[[テンメイ]]||牡4||3:21.4||[[清水英次]]||坂田正行||近藤克夫
|-
|style="text-align:center"|第80回||1979年11月25日||[[スリージャイアンツ]]||牡4||3:33.5||[[郷原洋行]]||境勝太郎||[[松岡正雄]] 他2名
|-
|style="text-align:center"|[[第82回天皇賞|第82回]]||1980年11月23日||[[プリテイキャスト]]||牝5||3:28.1||[[柴田政人]]||[[石栗龍雄]]||高田久成
|-
|style="text-align:center"|[[第84回天皇賞|第84回]]||1981年[[10月25日]]||[[ホウヨウボーイ]]||牡6||3:18.9||[[加藤和宏 (JRA)|加藤和宏]]||[[二本柳俊夫]]||古川嘉治
|-
|style="text-align:center"|第86回||1982年[[10月31日]]||[[メジロティターン]]||牡4||3:17.9||[[伊藤正徳 (競馬)|伊藤正徳]]||[[尾形盛次]]||メジロ商事(株)
|-
|style="text-align:center"|第88回||1983年[[10月30日]]||[[キョウエイプロミス]]||牡6||3:22.7||柴田政人||[[高松邦男]]||松岡正雄
|-
|style="text-align:center"|第90回||1984年[[10月28日]]||[[ミスターシービー]]||牡4||1:59.3||[[吉永正人]]||[[松山康久]]||(株)丸沼温泉ホテル
|-
|style="text-align:center"|第92回||1985年[[10月27日]]||[[ギャロップダイナ]]||牡5||1:58.7||[[根本康広]]||[[矢野進]]||[[社台レースホース|(有)社台レースホース]]
|-
|style="text-align:center"|第94回||1986年[[10月26日]]||[[サクラユタカオー]]||牡4||1:58.3||[[小島太]]||境勝太郎||[[さくらコマース|(株)さくらコマース]]
|-
|style="text-align:center"|第96回||1987年11月{{0}}1日||[[ニッポーテイオー]]||牡4||1:59.7||郷原洋行||久保田金造||山石祐一
|-
|style="text-align:center"|[[第98回天皇賞|第98回]]||1988年10月30日||タマモクロス||牡4||1:58.8||南井克巳||小原伊佐美||タマモ(株)
|-
|style="text-align:center; white-space:nowrap"|[[第100回天皇賞|第100回]]||1989年[[10月29日]]||スーパークリーク||牡4||1:59.1||武豊||伊藤修司||木倉誠
|-
|style="text-align:center"|第102回||1990年10月28日||[[ヤエノムテキ]]||牡5||1:58.2||[[岡部幸雄]]||[[荻野光男]]||(有)富士
|-
|style="text-align:center"|[[第104回天皇賞|第104回]]||1991年10月27日||[[プレクラスニー]]<ref group="注">メジロマックイーンが1位で入線したがスタート直後に斜行、最下位(18位)入線のプレジデントシチーの進路を妨害したとして審議の結果、最下位(18着)に降着処分、2位に入線したプレクラスニーが繰り上がりで1着優勝となった(参考:メジロマックイーンの走破時計 2:02.9)。</ref>||牡4||2:03.9||[[江田照男]]||[[矢野照正]]||田島栄二郎
|-
|style="text-align:center"|第106回||1992年11月{{0}}1日||[[レッツゴーターキン]]||牡5||1:58.6||[[大崎昭一]]||[[橋口弘次郎]]||[[ダイナースクラブ|(株)日本ダイナースクラブ]]
|-
|style="text-align:center"|第108回||1993年10月31日||[[ヤマニンゼファー]]||牡5||1:58.9||[[柴田善臣]]||栗田博憲||[[土井肇]]
|-
|style="text-align:center"|第110回||1994年10月30日||[[ネーハイシーザー]]||牡4||1:58.6||[[塩村克己]]||[[布施正]]||(株)大丸企業
|-
|style="text-align:center"|第112回||1995年10月29日||[[サクラチトセオー]]||牡5||1:58.8||小島太||境勝太郎||(株)さくらコマース
|-
|style="text-align:center"|第114回||1996年10月27日||[[バブルガムフェロー]]||牡3||1:58.7||[[蛯名正義]]||[[藤沢和雄]]||(有)社台レースホース
|-
|style="text-align:center"|第116回||1997年10月26日||[[エアグルーヴ]]||牝4||1:59.0||武豊||[[伊藤雄二]]||[[吉原毎文|(株)ラッキーフィールド]]
|-
|style="text-align:center"|[[第118回天皇賞|第118回]]||1998年11月{{0}}1日||[[オフサイドトラップ (競走馬)|オフサイドトラップ]]||牡7||1:59.3||柴田善臣||[[加藤修甫]]||[[渡邊隆]]
|-
|style="text-align:center"|第120回||1999年10月31日||スペシャルウィーク||牡4||1:58.0||武豊||白井寿昭||[[臼田浩義]]
|-
|style="text-align:center"|第122回||2000年10月29日||テイエムオペラオー||牡4||1:59.9||和田竜二||岩元市三||竹園正繼
|-
|style="text-align:center"|第124回||2001年10月28日||[[アグネスデジタル]]||牡4||2:02.0||[[四位洋文]]||白井寿昭||[[渡辺孝男 (馬主)|渡辺孝男]]
|-
|style="text-align:center"|第126回||2002年10月27日||[[シンボリクリスエス]]||牡3||1:58.5||岡部幸雄||藤沢和雄||[[シンボリ牧場]]
|-
|style="text-align:center"|第128回||2003年11月{{0}}2日||シンボリクリスエス||牡4||1:58.0||[[オリビエ・ペリエ|O.ペリエ]]||藤沢和雄||シンボリ牧場
|-
|style="text-align:center"|第130回||2004年10月31日||[[ゼンノロブロイ]]||牡4||1:58.9||O.ペリエ||藤沢和雄||[[大迫忍]]
|-
|style="text-align:center"|第132回||2005年10月30日||style="white-space:nowrap"|{{Flagicon|JPN}}[[ヘヴンリーロマンス]]||牝5||2:00.1||[[松永幹夫]]||[[山本正司]]||[[ノースヒルズマネジメント|(有)ノースヒルズマネジメント]]
|-
|style="text-align:center"|第134回||2006年10月29日||{{Flagicon|JPN}} [[ダイワメジャー]]||牡5||1:58.8||[[安藤勝己]]||[[上原博之]]||[[大城敬三]]
|-
|style="text-align:center"|[[第136回天皇賞|第136回]]||2007年10月28日||{{Flagicon|JPN}} メイショウサムソン||牡4||1:58.4||武豊||高橋成忠||松本好雄
|-
|style="text-align:center"|[[第138回天皇賞|第138回]]||2008年11月{{0}}2日||{{Flagicon|JPN}} [[ウオッカ]]||牝4||1:57.2||武豊||[[角居勝彦]]||谷水雄三
|-
|style="text-align:center"|第140回||2009年11月{{0}}1日||{{Flagicon|JPN}} [[カンパニー (競走馬)|カンパニー]]||牡8||1:57.2||[[横山典弘]]||[[音無秀孝]]||[[近藤英子]]
|-
|style="text-align:center"|第142回||2010年10月31日||{{Flagicon|JPN}} [[ブエナビスタ (競走馬)|ブエナビスタ]]||牝4||1:58.2||[[クリストフ・スミヨン|C.スミヨン]]||[[松田博資]]||[[サンデーレーシング|(有)サンデーレーシング]]
|-
|style="text-align:center"|第144回||2011年10月30日||{{Flagicon|JPN}} [[トーセンジョーダン]]||牡5||1:56.1||[[ニコラ・ピンナ|N.ピンナ]]||[[池江泰寿]]||[[島川隆哉]]
|-
|style="text-align:center"|第146回||2012年10月28日||{{Flagicon|JPN}} [[エイシンフラッシュ]]||牡5||1:57.3||[[ミルコ・デムーロ|M.デムーロ]]||[[藤原英昭]]||[[平井豊光]]
|-
|style="text-align:center"|第148回||2013年10月27日||{{Flagicon|JPN}} [[ジャスタウェイ]]||牡4||1:57.5||[[福永祐一]]||[[須貝尚介]]||[[大和屋暁]]
|}
|}

第1回(1937年秋の帝室御賞典)の1着馬には「本賞」として御賞典(優勝杯)、「副賞」として賞金1万円が与えられた。この賞金額は、当時国内の競走としては[[東京優駿]](日本ダービー)の1着本賞1万円、[[横浜農林省賞典四・五歳呼馬]](1943年で廃止)の1着本賞1万円と並び最高額だった。第1回は3着馬までにのみ賞金を与えていたが、翌年から帝室御賞典など国内主要18競走に限り、4着馬・5着馬にも賞金を与えるよう変更された。1954年(昭和29年)からは天皇賞の1着馬に与える副賞金も「本賞」に含めることになった<ref name="日高軽種馬農協" />。

1955年(昭和30年)当時、国内の1着最高賞金は東京優駿(日本ダービー)の200万円で、天皇賞の150万円がこれに次いでいた。1956年(昭和31年)に有馬記念(中山グランプリ)が創設され、1着賞金は東京優駿(日本ダービー)と同じく200万円とされた。翌1957年(昭和32年)には天皇賞の賞金が200万円に引き上げられ、天皇賞(春・秋)、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念の4競走が国内最高額の競走となった。

1959年(昭和34年)には東京優駿(日本ダービー)の賞金が300万円に増額され再び「国内最高賞金」となり、天皇賞と有馬記念は東京優駿(日本ダービー)に次いで2番目の高額賞金競走となった。その後、各競走の賞金は年々増加を続けるが、東京優駿(日本ダービー)が1位、天皇賞と有馬記念が同額で2位という序列が1973年(昭和48年)まで続いた。

1974年(昭和49年)、天皇賞・東京優駿(日本ダービー)・有馬記念の賞金が同額になった。これ以降も賞金は伸び続けるが、これらの1着賞金は同額とされた。1981年(昭和56年)にジャパンカップが新設され、天皇賞(春・秋)、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念を含めた5競走が日本では最高賞金の競走になった。1990年代に入ると賞金が1億円を超えるようになり、1995年(平成7年)には5競走ともに1着賞金が1億3,200万円となった<ref group="注">2000年(平成12年)には特別ボーナスが創設され、同一年に天皇賞(秋)・ジャパンカップ・有馬記念の3競走をすべて勝った日本産馬には2億円、外国産馬には1億円が授与されるようになった。なお、このボーナスは1着賞金に含めていない。</ref>。

2001年(平成13年)よりジャパンカップの1着賞金が2億5,000万円と大幅に引き上げられ{{Refnest|2001年(平成13年)以降のジャパンカップは、世界でもトップクラスの高額賞金競走となった。海外の競馬では[[ドバイワールドカップ]](1着 約6億円)、[[メルボルンカップ]](1着 約3億4,000万円)、[[凱旋門賞]](1着 約3億2,000万円)、[[ブリーダーズカップ・クラシック]](1着 約2億8,000万円)などが主な高額賞金競走である。ジャパンカップは2014年(平成26年)時点で1着賞金が2億5,000万円。一定の条件を満たす馬はこれに1億3,000万円が加算され、年によっては世界1位の賞金になる<ref name="RacingPost" />。|group="注"}}、東京優駿(日本ダービー)・有馬記念も1着賞金が加増されたが、天皇賞の1着賞金は春・秋とも据え置かれた。

JRAが発表した2015年(平成27年)の重賞競走一覧によると、ジャパンカップ、有馬記念、天皇賞で1着賞金が増額。ジャパンカップは1着賞金が3億円となり、有馬記念は2億5,000万円、天皇賞は春・秋とも1億5,000万円にそれぞれ増額された<ref name="H27重賞一覧" />。
==== 褒賞金制度 ====
[[大阪杯]]・天皇賞(春)・[[宝塚記念]]または、天皇賞(秋)・ジャパンカップ・有馬記念の3競走を同一年にすべて優勝したJRA所属馬には内国産馬2億円、外国産馬1億円の褒賞金が賞金とは別に交付される<ref>{{PDFLink|[https://jra.jp/keiba/program/pdf/housyoukin_1.pdf 同一年度に本会が定める競走に優勝した馬に対する褒賞金交付基準]}} - 日本中央競馬会、2015年11月23日閲覧</ref>。この褒賞金は、クラス分けに用いる収得賞金には算入されない。

; 用語の解説
: '''内国産馬'''(ないこくさんば):外国産馬以外の馬で、原則として日本で産まれた馬を指す。ただし、外国へ一時的に輸出された繁殖牝馬が輸出前に日本で種付けを済ませ受胎(妊娠のこと)し、外国で産まれた子馬を0歳の12月31日までに輸入した場合、または外国で種付けされた繁殖牝馬が日本へ輸入されてから産まれた馬(持込馬という)は内国産馬として扱われる<ref name="用語辞典(内国産馬)" />。

== 天覧競馬 ==
2005年(平成17年)の第132回天皇賞(秋)は「エンペラーズカップ100年記念」と副題がつけられ、第125代天皇・[[上皇明仁|明仁]]と[[上皇后美智子|皇后美智子]](いずれも肩書きは当時)が東京競馬場に来場し天皇賞を観戦した。当初は前年の2004年(平成16年)に予定されていたが、施行日の8日前に発生した[[新潟県中越地震]]の被害に配慮して取りやめとなっていた。天皇が天皇賞を観戦した例は史上初めてであり、天皇自身による競馬観戦(いわゆる天覧競馬)は1899年(明治32年)以来106年ぶりとなった<ref name="tenran2005" />。競走前に天皇・皇后は場内の[[JRA競馬博物館|競馬博物館]]で「エンペラーズカップ100年記念 栄光の天皇賞展」を鑑賞されている<ref name="tenran2005" />。競走後、優勝した[[ヘヴンリーロマンス]]の[[松永幹夫]]騎手が貴賓席に対して馬上から最敬礼を行った。

2012年(平成24年)の第146回天皇賞(秋)は「近代競馬150周年記念」と副題がつけられ、7年ぶりに天覧競馬が実施された。競走後、優勝した[[エイシンフラッシュ]]の[[ミルコ・デムーロ]]騎手はコース内でいったん下馬して最敬礼を行った。本来、このような行為は騎乗馬が故障した場合を除き、競走後にコース内で騎手が下馬することを禁止するJRA競馬施行規程{{Refnest|返し馬時に重りを馬場に捨て、競走後に下馬しコース上に捨てた重りを再び装着して検量室に戻るという不正を未然防止するため<ref name="JRA競馬施行規程" />。|group="注"}}に抵触するものであったが、これを理由とした制裁は行われなかった<ref name="JCAST" />。

なお、第125代天皇・明仁と皇后美智子は[[皇太子]]・[[皇太子妃]]だった1987年(昭和62年)に、天皇賞施行50周年を記念して行われた第96回天皇賞(秋)を[[台覧試合|台覧]]している<ref name="ayumi" />。

2023年(令和5年)の第168回天皇賞(秋)は「競馬法100周年記念」と副題がつけられ、第126代天皇・[[徳仁]]と[[皇后雅子]]が来場し、11年ぶりに天覧競馬が実施された。第126代天皇・徳仁は皇太子時代に第81回[[東京優駿]](日本ダービー)を観戦して以来、9年ぶりの競馬観戦。天皇としては即位後初めて、令和では初めての天覧競馬となった。競走前に天皇・皇后は場内のJRA競馬博物館で開催されている「競馬法100周年記念特別展 伝統の天皇賞 〜日本競馬のあゆみとともに〜」を鑑賞した<ref>{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/news/202310/102403.html|title=天皇陛下の東京競馬場への行幸|publisher=日本中央競馬会|date=2023-10-24|accessdate=2023-10-24}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jra.go.jp/news/202310/102903.html|title=開催競馬場・今日の出来事(10月29日(日曜))|publisher=日本中央競馬会|date=2023-10-29|accessdate=2023-10-30}}</ref>。優勝した[[イクイノックス]]の[[クリストフ・ルメール]]騎手は馬上から、同馬の厩務員と共に最敬礼を行った。
<gallery>
file:Tennosho kinenhi.jpg|第132回競走への天皇・皇后行幸啓を記念する碑
file:2012 Tennō Shō (Autumn) 002.jpg|天覧競馬となった第146回天皇賞(秋)を優勝後、本馬場で下馬し貴賓席に最敬礼するミルコ・デムーロ
</gallery>


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
{{Notelist2}}


== 出典 ==
=== 出典 ===
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|refs=
{{Reflist}}
<ref name="jusyo_kanto">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2022/pdf/jusyo_kanto.pdf#page=39 |title=重賞競走一覧(レース別・関東) |publisher=日本中央競馬会 |page=39 |accessdate=2022-03-28}}</ref>
<ref name="jusyo_kansai">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2022/pdf/jusyo_kansai.pdf#page=16 |title=重賞競走一覧(レース別・関西) |publisher=日本中央競馬会 |page=16 |accessdate=2022-03-28}}</ref>
<ref name="JRA注目">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/keiba/thisweek/2021/0502_1/race.html |title=歴史・コース:天皇賞(春) 今週の注目レース|publisher=日本中央競馬会|accessdate=2021-04-27}}</ref>
<ref name="bangumi_2022hanshin2-2">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2022/pdf/bangumi/hanshin2-2.pdf |title=令和4年第2回阪神競馬番組(第7日 - 第12日) |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2022-03-28}}</ref>
<ref name="H22重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/pdf/h22-jusyo_2.pdf |title=平成22年度 重賞競走一覧 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2014-06-21}}</ref>
<ref name="H23重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/pdf/h23-jusyo_2_2.pdf |title=平成23年度 重賞競走一覧(変更版) |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2014-06-21}}</ref>
<ref name="H24重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/pdf/h24-jusyo_2.pdf |title=平成24年度 重賞競走一覧 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2014-06-21}}</ref>
<ref name="H25重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/pdf/h25-jusyo_2.pdf |title=平成25年度 重賞競走一覧 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2014-06-21}}</ref>
<ref name="H26重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/pdf/h26-jusyo_2.pdf |title=平成26年度重賞競走一覧 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2015-03-08}}</ref>
<ref name="H27重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/pdf/h27-jusyo_2.pdf |title=平成27年度重賞競走一覧 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2016-04-25}}</ref>
<ref name="H28重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/pdf/h28-jusyo_2.pdf |title=平成28年度重賞競走一覧 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2016-04-25}}</ref>
<ref name="H29重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/pdf/h29-jusyo_2.pdf |title=平成29年度重賞競走一覧 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2017-05-01}}</ref>
<ref name="R02重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2020/pdf/jusyo_2.pdf |title=令和2年度重賞競走一覧 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2020-06-20}}</ref>
<ref name="R03重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2021/pdf/jusyo_2.pdf |title=令和3年度重賞競走一覧 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2021-04-27}}</ref>
<ref name="R04重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2022/pdf/jusyo_2.pdf |title=令和4年度重賞競走一覧 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2022-03-28}}</ref>
<ref name="R05重賞一覧">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://jra.jp/keiba/program/2023/pdf/jusyo_2.pdf |title=令和5年度重賞競走一覧 |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2023-10-30}}</ref>
<ref name="用語辞典(馬齢)">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/kouza/yougo/w335.html |title=競馬用語辞典(馬齢) |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2014-06-26}}</ref>
<ref name="用語辞典(斤量)">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/kouza/yougo/w229.html |title=競馬用語辞典(斤量) |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2014-06-26}}</ref>
<ref name="用語辞典(能力検定競走)">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/kouza/yougo/w261.html |title=競馬用語辞典(能力検定競走) |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2014-06-27}}</ref>
<ref name="用語辞典(国営競馬)">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/kouza/yougo/w255.html |title=競馬用語辞典(国営競馬) |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2014-07-11}}</ref>
<ref name="用語辞典(付加賞)">{{Cite web|和書|url=https://jra.jp/kouza/yougo/w11.html |title=競馬用語辞典(付加賞) |publisher=日本中央競馬会 |accessdate=2014-06-26}}</ref>
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[慶祝競走|慶祝競走(奉祝競走)]]:皇室関連の慶事があった際に、慶祝(奉祝)するために行われる競走。
* [[天皇]]
* [[天皇杯]]他の各種スポーツ競技会での優勝賜杯
* [[天皇杯]]他の各種スポーツ競技会での優勝賜杯
* [[宮内庁]]
* [[宮内庁]]
* [[クイーンズヴェース]]:イギリスで優勝馬主に女王から花器が与えられる重賞。
* [[帝室御賞典]]
* [[武庫川女子大学]]:浜甲子園キャンパスが旧:阪神競馬場([[鳴尾競馬場]])の跡地になっており、当時のスタンドの一部が保存活用されている。
* [[八大競走]]
* [[古馬王道路線]]

=== 天皇賞(春) ===
* [[天皇賞(春)]]
* [[ゴールドカップ]]
* [[天皇賞(秋)]]
* [[宝塚記念]]
* [[安田記念]]
* [[阪神大賞典]]
* [[日経賞]]
* [[大阪杯]]
* [[ダイヤモンドステークス]]
* [[中山記念]]
* [[京都記念]]

=== 天皇賞(秋) ===
* [[ジャパンカップ]]
* [[エリザベス女王杯]]
* [[マイルチャンピオンシップ]]
* [[有馬記念]]
* [[京都大賞典]]
* [[毎日王冠]]
* [[オールカマー]]
* [[札幌記念]]
* [[新潟記念]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{Kotobank}}
*[http://jra.jp/keiba/thisweek/2014/0504_1/ JRA公式サイト「今週の注目レース」から](2014年)(春)
*[http://jra.jp/keiba/thisweek/2013/1027_1/ JRA公式サイト「今週の注目レース」から](2013年)(秋)

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2024年10月30日 (水) 14:00時点における最新版

ゴール前の直線(第135回天皇賞(春))
ゴールの瞬間(第138回天皇賞(秋))
天皇賞の前身とされる「エンペラーズカップ」が行われていた横浜競馬場(・根岸森林公園、根岸競馬記念公苑)
帝室御賞典(春)が第12回まで行われていた旧阪神(鳴尾)競馬場(現在:武庫川女子大学附属中学校・高等学校芸術館)

天皇賞(てんのうしょう)は、日本中央競馬会(JRA)が春・秋に年2回施行する中央競馬重賞競走GI)である。春は京都競馬場で「天皇賞(春)」(通称:春天)、秋は東京競馬場で「天皇賞(秋)」(通称:秋天)の表記(通称についてはJRAの過去成績掲載ページのURLにも使用されている)で施行されている。記事内ではそれぞれ「天皇賞(春)」または「春の競走」、「天皇賞(秋)」または「秋の競走」と表記する。

第1回とされる「帝室御賞典」は1937年(昭和12年)に行われているが、JRAが前身としている「The Emperor's Cup(エンペラーズカップ)」までさかのぼると1905年(明治38年)に起源を持ち[1]、日本で施行される競馬の競走では最高の格付けとなるGIの中でも、長い歴史と伝統を持つ競走である[1]。現在は賞金のほか、優勝賞品として皇室から楯が下賜されており、天皇賞を「盾」と通称することもある[2][3]

歴史

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天皇賞のルーツをたどると、1905年(明治38年)5月6日に根岸(横浜)競馬場で創設されたThe Emperor's Cup(エンペラーズカップ[注 1])や、明治初期のMikado's Vaseにまでさかのぼることができる[4][5]。これらの競走が誕生した背景には、当時の日本が直面していた外交問題が強く影響している(後述)。エンペラーズカップはのちに「帝室御賞典」の名称で定着し、明治末期から1937年(昭和12年)まで日本各地で年に10回行われていた[4]

一方、施行距離や競走条件は1911年(明治44年)から1937年(昭和12年)まで行われていた「優勝内国産馬連合競走」をおおむね継承している。この競走は年2回、3,200メートルの距離で行われ、各馬等しい条件で日本のチャンピオンを決め、日本一の賞金を与える競走だった。

これらを統合して始まったのが1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典で、日本中央競馬会(JRA)ではこれを天皇賞の第1回としている[1]。「帝室御賞典」は戦局悪化のため1944年(昭和19年)秋に中止され、終戦後の1947年(昭和22年)春に「平和賞」の名称で再開、同年秋から「天皇賞」と改称され現在に至っている[1]

1937年(昭和12年)以来「古馬の最高峰」として位置づけられた天皇賞は長らく番組体系の中心に据えられ、旧八大競走にも含まれるなど、その地位を保ち続けた[6]。1着賞金も東京優駿(日本ダービー)などとともに国内最高クラスの競走[注 2]だった。のちに有馬記念ジャパンカップが創設され、やがて国内最高賞金はジャパンカップが上回るものの、2020年現在も天皇賞は、ジャパンカップ、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念に次ぐ高額賞金競走である[7]

1980年代以降に進められたさまざまな制度改革、賞金や競走条件の変遷を経てもなお、天皇賞は日本国内で現存する競馬の競走としてもっとも長い歴史と伝統を持ち、重要な競走のひとつに位置づけられている。

春の競走と秋の競走は開催地など競走条件が異なるものの同じ「天皇賞」であり、施行回数は春→秋と施行順に加算している。同一の競走名で1年に複数回施行する競走は、現在の中央競馬で本競走のみである[注 3]

用語の解説
競走条件:当該競走に出走できる馬の条件(クラス分けなど)を定めたもの[8]。馬齢・負担重量・施行コース・距離が含まれる場合がある(現在の競走条件は各競走記事を参照)。
馬齢:馬の年齢。実際の誕生日に関わらず、1月1日になると一律に1歳加算される。日本では2001年(平成13年)から国際基準に合わせた現行表記が採用され、満年齢(生まれたばかりの馬は0歳)で表記。2000年(平成12年)までは数え年(生まれたばかりの馬は1歳)で表記していた[9]。記事内の本文では年代にあわせて旧表記と現行表記を使い分けているが、春・秋の競走記事内「歴代優勝馬」一覧表ではすべて現行表記に揃えている。
負担重量(斤量):出走馬が背負う重量のこと。騎手の体重のほか、鞍などの馬具も含まれ、出走する各馬ごとに所定の条件のもと定められる。初期の競馬では「(0.6キロ)」を重さの単位としていたことから、「斤量(きんりょう)」とも呼ばれる[10]
古馬:4歳(旧馬齢表記では5歳)以上の馬を指す[11]。一般的に中央競馬の競走馬は2歳の夏から順次デビューし、同世代の馬と競いあいながら翌年(3歳時)の東京優駿(日本ダービー)をまず大目標とする。ダービー後、次の2歳馬がデビューする時期になると、3歳馬は年上の古馬と一緒にレースをするようになる。
番組(競馬番組):日本の競馬は当該競馬場における1開催(現在の中央競馬は原則として4日 - 12日)をひとつの単位としており、施行する競走は開催ごとに定められている。同一開催で組まれる競走の割り当てを「競馬番組(または単に番組)」と呼んでいる[8]

起源

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競馬を観戦する明治天皇
1884年(明治17年)、上野不忍池競馬
クロード・マクドナルド

王政復古後、明治新政府が直面した重要な外交問題のひとつは、欧米を中心とする諸外国との間に結ばれた不平等条約の改正であった。条約改正交渉を円滑に進めたい明治政府は、鹿鳴館に象徴されるように、西洋文化を積極的に採用した。競馬はその一つで、政府や明治天皇は明治初期から西洋式の競馬を行うなど、競馬場は重要な外交の舞台だった[12]。中でも根岸(横浜)競馬場は幕末の開場以来、外国人が設立・運営しており、競馬会の会頭は歴代のイギリス公使が務めていた[注 4]。明治天皇は条約改正を実現するため、日本の外交官や外務担当の政治家を伴い、頻繁に根岸競馬場へ赴いていた[12][14][注 5]

イギリスでは清教徒革命後の王政復古に際して[16]国王自ら競馬場に大競走(King's Plate、女王時代はQueen's Plate)を創設し[16][17]、豪華な賞品を下賜した故事があり、これはイギリス王室の伝統のひとつだった[17][18]。明治天皇はこの故事に倣い[18]、根岸競馬場へ豪華な賞品(花器)を下賜した。これが1880年(明治13年)創設のMikado's Vaseである[4][注 6]

明治30年代になると、イギリスとの条約改正を皮切りに、不平等条約の改正が実現した。イギリスとの間には日英同盟が締結され、日露戦争の後ろ盾となった。その日露戦争で日本の軍馬の質や数が大幅に劣っていることが露呈すると、軍部は日英同盟を頼って優秀な軍馬の大量輸入を依頼した。これに応えたイギリスは、イギリス連邦で日本に近く、かつ馬産地だったオーストラリアから3,700頭あまりの馬(豪サラと呼ばれる)を日本へ緊急輸出した[20]

こうした一連のイギリスとの外交交渉で大きな役割を担ったのが、イギリス公使クロード・マクドナルドである[5]。マクドナルドは当初公使だったが、1905年(明治38年)に全権大使へ昇任した。マクドナルドと個人的な信頼関係を結んでいた明治天皇は昇任にあたり、マクドナルドへ「菊花御紋付銀製花盛器」を贈呈した[21][5]。当時、マクドナルドは根岸競馬場の会頭を兼任しており、明治天皇から贈られた盃(当時は『尊重の重宝』と和訳している)を賞品として、1905年(明治38年)5月6日に「The Emperor's Cup(エンペラーズカップ)」を創設した[1][21][20][22]。以来、根岸競馬場では毎年この競走に際して明治天皇から賞品が下賜されるようになった。これがのちに日本語で「帝室御賞典」などと訳されるようになり[4][20][5][21][22]、JRAでは「天皇賞の前身」としている[1]

根岸競馬場は外国人が運営し、書類や記録はすべて英語表記だったため、“The Emperor's Cup” はときの担当者によってさまざまに和訳されていた。1905年(明治38年)には「皇帝陛下御賞盃[注 7]、1906年(明治39年)には「宮中御賞盃」と訳され[4]、1907年(明治40年)からは新聞報道で使われていた「帝室御賞典」の訳で統一されるようになった(後述)[4][21]

帝室御賞典の拡大と統一

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1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典(第1回天皇賞に相当)優勝馬・ハツピーマイト
帝室御賞典発走前に行われる騎手の選手宣誓

明治天皇は1899年(明治32年)まで盛んに競馬場へ巡幸したが、同年に不平等条約改正が実現すると、以後は一切競馬場へ赴かなくなり[24][14]、代わりに皇族親王を名代として派遣するに留まっていた[25]。これ以来、天皇自身による競馬観戦(いわゆる天覧競馬)は2005年(平成17年)の第132回天皇賞(秋)まで106年間行われなかった(後述)。

1906年(明治39年)に日本人による本格的な競馬倶楽部として東京競馬会が創設された[25]際、責任者だった子爵加納久宜は明治天皇の臨席と賞品の下賜を打診した。しかし開催10日前になって、賞品の下賜は許されたものの、明治天皇の巡幸は却下された[26][25]。このとき行われた「皇室賞典」競走が当時の新聞によって「帝室御賞典」と報じられ、以後はこの名称で定着した[4][25]

明治天皇から賞品を下賜されて行う帝室御賞典は、すぐに全国の競馬倶楽部へ広まった[4][27]。根岸・東京に続いて阪神へも年2回の下賜が認められ[4][27]、馬産地の福島札幌函館小倉へは年1回の下賜が認められた[4][27]

全国各地で年に10回行われるようになった「帝室御賞典」は、各競馬倶楽部が独自の競走条件で施行していたため、施行距離も斤量(負担重量)などの条件もまちまち[22]で、競走名と天皇から御賞典が下賜される点以外に統一性はなかった[28]

一方、1911年(明治44年)に日本一の競走馬を決定する競走として、「優勝内国産馬連合競走(通称:連合二哩)」が帝室御賞典とは別に創設された[29]。賞金は1着3,000円、2着でも1,500円で、当時日本国内の最高賞金競走だった(当時、帝室御賞典の1着馬には賞品が授与されるだけで、賞金はなかった)。距離は2マイル(約3,200メートル)、条件は馬齢重量で、出走できるのは各地の競馬倶楽部で行われた優勝戦の上位馬に限られていた[29]。優勝内国産馬連合競走は当初年1回の施行だったが、のちに年2回施行になった[29]

昭和に入り戦時体制化が進むと、各地の競馬倶楽部は1936年(昭和11年)に発足した日本競馬会に統合され、一本化されることになった[4][29][1]。日本競馬会は1937年(昭和12年)に各地の競馬倶楽部を統合し、年10回施行していた帝室御賞典は春に阪神競馬場(旧:鳴尾競馬場)、秋に東京競馬場で年2回施行することになった[1][4][29]。年2回施行に改められてから初の競走は1937年(昭和12年)秋に東京で行われた帝室御賞典で、JRAではこれを天皇賞の第1回としている[1][4][29]。競走の名称は「帝室御賞典」が採用され、競走の中身は「優勝内国産馬連合競走」が継承された。つまり、天皇(皇室)から御賞典が下賜される点は「帝室御賞典」を受け継いでおり、距離や競走条件などは「優勝内国産馬連合競走」から継承している。これが、現在の天皇賞である[29]。また、帝室御賞典は古馬にとって最高峰の競走として位置づけられ、東京優駿(日本ダービー)など4歳馬[注 8]の競走とは明確に線引きされた[1][4][29][22]

こうして「統一」された新しい帝室御賞典は、競走馬として日本一を決めるだけでなく、将来の種牡馬を選別するための最高の能力検査でもあった[30]。また、天皇を頂点とした旧帝国憲法下の日本において、天皇からの賞典を受けることは平民(馬主)や農民(畜産家)にとって生涯の名誉となった[31][22]

戦争の影響と天皇賞のはじまり

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日中戦争から太平洋戦争にいたる戦時中、帝室御賞典は下賜賞品を木製楯に代えながら続けられた(後述)。しかし、やがて戦局が悪化すると馬主に多くの戦死者が出るようになり、競走馬の所有権問題が浮上した[32]。日本競馬会は全競走馬を買い上げることでこの問題を解決したが、全競走馬を買い上げたため「賞金や賞品を争う」という競馬の性格を維持できなくなった。さらに、1944年(昭和19年)春には軍部の命令により馬券(勝馬投票券)の発売を伴う競馬が禁止されたため、日本競馬会は農商省賞典四歳(現在:皐月賞)や東京優駿(日本ダービー)などの主要な大レースに限って、「能力検定競走」として競馬を行った[32]。帝室御賞典は1944年(昭和19年)春は施行場を京都競馬場に移し、皇室からの賞品下賜は辞退[32]したうえで「能力検定競走」として非公開で行われた[1]が、同年秋は中止され、帝室御賞典は中断することとなった。その後、1945年(昭和20年)には戦争の激化により、能力検定競走は行われなくなった[33]

終戦後、競馬は1946年(昭和21年)秋に再開された[34]。帝室御賞典は1947年(昭和22年)春からの再開を決め、日本競馬会は皇室へ賞品の下賜を打診した。しかし、この時点では連合国軍総司令部(GHQ)による皇室への処分などが確定していなかったため、下賜は時期尚早として見送られた[34]。すでに御賞典競走を開催する前提で番組編成をしていた日本競馬会は急遽、競走名を「平和賞」に変更して施行した[34][4]

1947年(昭和22年)秋に予定していた「第2回平和賞」の前日に皇室から賞品(楯)の下賜が再開されることが決定し、名称を「天皇賞」に改めて施行された[35][4]。「天皇賞」の名称で行われるのはこれが初めてとなるが、公式な施行回数は1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典にさかのぼり、「第16回天皇賞」とされた[4][注 9]。その後、天皇賞の施行主体も日本競馬会から国営競馬(農林省競馬部)を経て、1954年(昭和29年)より日本中央競馬会が引き継いだ[36]

現在は1944年(昭和19年)春の帝室御賞典(能力検定競走)と1947年(昭和22年)の平和賞も公式な施行回数に含まれており、能力検定競走は「第14回天皇賞」、平和賞は「第15回天皇賞」と同義に扱われている。その一方で、これらの競走では皇室から賞品が下賜されていないため、天皇賞の施行回数から除外する考え方がある[37]。1968年(昭和43年)に日本中央競馬会が編纂した史料では、能力検定競走や平和賞を回数に数えない考え方が示されている[35]

国内古馬戦の最高峰

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再編され年2回施行となった帝室御賞典の時代から、天皇賞は古馬にとって最高峰の競走と位置づけられていた[4]。当時の競走体系では、勝てば勝つほどより重い斤量を負担することになっており[38]、定量で出走できる天皇賞を勝つと、以後は出走すればおおむね負担重量が60キロ後半から70キロ後半にまで跳ね上がった(現在、中央競馬の平地競走では60キロ以上の負担重量で出走する例がきわめて少なくなっている)。よって、馬にかかる負担を考慮すれば出走可能な競走は大きく限定されることになった。また帝室御賞典・天皇賞には1980年(昭和55年)まで「勝ち抜き制」があり、一度天皇賞(帝室御賞典)を勝った馬は、以降の天皇賞(帝室御賞典)に出走することができなかった[38]。これは当時、天皇賞(帝室御賞典)を勝った馬が再度出走して敗れるようなことがあれば、優勝馬の威厳を下げてしまうとされた[39]考え方に基づいており、天皇賞(帝室御賞典)を勝つほどの優れた競走馬は、優勝馬としての威厳を保ちつつ早く種牡馬になって競走馬の改良に貢献することが求められていた[38][注 10]。なお、この制度に対しては、一部の競馬評論家の間で、批判されていた[注 11]

多くの古馬にとって、天皇賞優勝は最大の目標であると同時に、一度優勝するとその後の目標となるレースがほとんどなくなる[注 12]。そのうえ、斤量がさらに増えることから、優勝後に引退する馬は少なくなかった。1937年(昭和12年、第1回)から1955年(昭和30年、第32回)までの優勝馬のうち5頭が優勝と同時に、10頭が優勝したシーズン限りで引退している。このほか、3頭が優勝後に地方競馬へ転出した。

新たな目標を求めて

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1956年(昭和31年)、年末の中山競馬場で中山グランプリ(現在:有馬記念)が創設された[注 13]。これは4歳馬も古馬も分け隔てなく、その年の一流馬を集めて行う競走となった[43]

天皇賞を勝った古馬の一流馬にとって、有馬記念は新たな目標となった[43]。有馬記念創設から2013年(平成25年)までの天皇賞優勝馬で、天皇賞優勝を最後に引退した馬は5頭しかいない。

一方、天皇賞を優勝して国内の最高峰に立った馬の一部は、新たな目標を求めて海外へ遠征するようになった[44]。1952年(昭和27年)にアメリカで創設された「ワシントンDC国際」がその代表格である[45][46]。この競走は招待制で、日本からは天皇賞の優勝馬が招待を受けるようになった[44]。ワシントンDC国際は11月に行われ、当時は11月下旬に行われていた天皇賞(秋)と同時期になる。当時、一度天皇賞を勝った馬は再出走が認められていなかった(勝ち抜き制)ため、秋にワシントンDC国際に挑み、12月に帰国して有馬記念へ出走する馬が現れた[44]

有馬記念創設以降、1981年(昭和56年)までの25年間で、天皇賞に勝った後海外遠征を行った馬は7頭いる。そのうち5頭は秋にワシントンDC国際へ、1頭は同時期のヨーロッパで凱旋門賞に挑んだ[46]。しかしこれらの中から目標を達することができた馬はおらず、逆に欧米との力量差を突きつけられる結果になった[46]

ジャパンカップの創設

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天皇賞を勝つほどの一流馬が、日本以外の国でまったく勝てないという事実は、日本国内に2つの相反する考え方をもたらした[47]。1つは強力な外国の競走馬が日本へ入ってくることで国内の馬産が衰退するという脅威論、もう1つはより強い外国馬との対戦によって日本馬のレベルアップを図ろうとする門戸開放論だった[47]

1970年代後半より「世界に通用する強い馬作り」が提唱され、実現したのが1981年(昭和56年)に創設されたジャパンカップである[47]。ジャパンカップは外国から競走馬を招待し、日本の一流馬と対戦させることで、日本競馬に活力を与えようという意図で企画された[48]

帝室御賞典が1937年(昭和12年)秋から年2回施行とされて以来、伝統的に11月下旬の施行が定着していた天皇賞(秋)は、ジャパンカップに時期を譲り10月に前倒しされた[6]。「ワシントンDC国際」に出走した外国馬がジャパンカップへ転戦しやすいように配慮した結果である。ジャパンカップは新設競走にして賞金額が東京優駿(日本ダービー)や天皇賞、有馬記念と並ぶ高額に設定され、これは古馬の競走体系が根幹から変わることを意味した[49]第1回ジャパンカップでは、直前の天皇賞(秋)をレコード勝ちした馬など当時の中央競馬を代表する陣容で臨んだ日本勢が外国勢の前に総崩れとなり、日本の競馬界に衝撃を与える結果となった。また、ジャパンカップの商業的な成功は日本のみならず、アジアの競馬にも変革をもたらすきっかけとなった[50]

国際化と天皇賞(秋)の距離短縮

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ジャパンカップの創設以前より、世界の各国からは外国籍の馬主が日本のレースに所有馬を出走させられなかったり、外国馬に対する出走制限を設けていたりしたことなど、日本の競馬界に対する閉鎖性が指摘されるようになっていた。これらの指摘を受け、日本中央競馬会はジャパンカップの創設以来「競馬の国際化」を視野に入れた多角的な活動を展開するようになった[51]。「国際化」とは、単に外国の競走馬を呼び寄せるだけでなく、制度面を含めた「国際標準」への適合を意味していた。

日本の競馬を「国際標準」へ適合させるため、日本中央競馬会はさまざまな施策を打ち出した。1984年(昭和59年)に導入された「グレード制」はそのひとつである。天皇賞も春・秋ともにGIとして格付けされたが、当初のグレード制は興行に主眼を置いた中央競馬独自の格付けに過ぎず、1970年代に欧米で作られた「グレード制・グループ制」とはまったく互換性のないものだった[52]。その後、さまざまな開放策を実施した結果、2005年(平成17年)には天皇賞が春・秋ともに国際競走となり、外国調教馬の出走が可能になった[1]。さらに、2007年(平成19年)からは格付けの互換性が認められるようになった[53]

1983年(昭和58年)11月、日本中央競馬会は昭和59年度の競馬番組について、グレード制の導入(前述)などの大幅改革を発表した[54]。この中に、天皇賞(秋)の施行距離を芝2,000メートルに短縮することが盛り込まれていた。レースの性格を大きく変えることになるこの変更に対し、伝統的な3,200メートルの距離を尊重する意見や東京競馬場(芝2,000メートル)のコース形態に対する問題点を指摘する意見[注 14][注 15]、また第1回ジャパンカップで日本勢が外国勢に大敗したことを踏まえ、スタミナよりもスピードの強化を重視する意見など賛否両論があったが、1984年(昭和59年)より天皇賞(秋)は施行距離が2,000メートルに短縮された[1]。以来、天皇賞(秋)は中央競馬の「中距離ナンバー1決定戦」の性格を持つようになった[1]

競走の規則も見直しが図られた。1950年代に欧米で定着した降着制度は1991年(平成3年)から中央競馬でも導入された[54]が、この年の天皇賞(秋)で1位入線馬が18着に降着となった。これは日本での重賞1位入線馬の降着例として史上初だっただけでなく、当該馬が圧倒的な単勝1番人気に推されていたことも相まって大きな話題になった[57]

帝室御賞典時代からの制度では、1度優勝した馬に再出走を認めない勝ち抜き制が1981年(昭和56年)から廃止され、過去の優勝馬も再出走が可能になった[1]ほか、種牡馬・繁殖馬選定の観点から長年認められていなかった去勢馬(せん馬)の出走も2008年(平成20年)以降可能になった[1]。また、1971年(昭和46年)から認められていなかった外国産馬の出走が2000年(平成12年)より可能になった[注 16][1]

1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典(第1回)以来「古馬の最高峰」として位置づけられてきた天皇賞だったが、1987年(昭和62年)より天皇賞(秋)は4歳馬も出走が可能になった[1]。また1980年代以降、短距離路線・ダート路線・牝馬路線の拡充が図られたことに加え、海外遠征も容易になった[58]。これにより、さまざまなタイプの競走を選択できるようになり、天皇賞は「数ある頂点のひとつ」という位置づけになっている。とはいえ、国内のGI競走では2022年(令和4年)現在もジャパンカップ、有馬記念に次ぐ高額の1着賞金が設定されている(後述[59]

国内最高クラスの賞金、皇室から下賜された天皇楯の権威、長い歴史と伝統などに裏打ちされ、今も天皇賞は「古馬最高の栄誉[1]」とされている。

御賞典と天皇楯

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前述のとおり、天皇賞のルーツとなるMikado's VaseやThe Emperor's Cupなどでは、明治天皇から賞品が下賜されていた。これらは通常、貴金属としても美術品・工芸品としても価値が高いものであると同時に、「天皇から下賜された」という事実は金銭では贖えない栄誉を担うものだった。

明治天皇と御賞典(賞品)

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明治天皇は日本各地へ巡幸して、その先々で競馬を天覧し、優勝騎手や馬主らに賞金や賞品を下賜した。下賜された品々は、樽酒や黄八丈白絽の反物、白羽二重、美術品、工芸品などである[60][注 17]

根岸競馬は多くの賞金や賞品を外部のパトロンやスポンサーから得ており、とりわけ皇室や皇族はその代表格だった。たとえばロシア皇太子の名を冠した “Cesarewitch Gift” という競走の賞品を実際に提供していたのは日本の皇室だった[62]。根岸競馬場で明治天皇が下賜したものは記録に残っているもので、「銅製花瓶」一対、「経一尺龍浮彫七宝入銀製花瓶」などがある[63]。1900年(明治33年)にはロシア全権公使ローゼン男爵Mirror号の優勝により「銀製花鳥七宝菓子敷」を授与されている[63]。ほかにも上野へ「金象眼銅製馬」を下賜した記録がある[64]。なお、皇室以外では、根岸競馬の神奈川賞杯競走で神奈川県令が「青銅製酒杯」を賞賜している[65]

天皇賞のルーツとされるThe Emperor's Cupの創設にあたって、明治天皇が下賜した御賞典を受け取った日本レース倶楽部では「尊重の重宝」と邦訳した。一方、1906年(明治39年)秋に池上競馬場で行われた皇室賞典では「銀製花盛鉢」が下賜された。これは直径が約30センチ(1)、深さが約15センチ(5)の大銀鉢で、三本の脚がつき、菊花の文様高彫されていたと伝わる[25]。以後も菊花御紋付銀製花盛器(銀製鉢や洋杯)が下賜された[66]。御賞典は拝領する側にも相応のマナーが必要とされ、馬主や関係者は拝領式の際、正装(モーニング国民服、軍服でも可)で臨むこととされていた[67][注 18][注 19]

天皇楯

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現在の御賞典となる天皇楯(第147回天皇賞)。馬主が白手袋を着用しているのがわかる[2]

楯(プレート)の下賜もまた、イギリス王室の伝統となっている。国を追われ、亡命先のフランスで馬術を磨いたチャールズ2世は王政復古が成って戴冠すると、ニューマーケット競馬場を復興した。1665年に国王チャールズ2世はタウンプレート(The Town Plate、もしくはNewmarket Town Plate)という競走を作り、自ら優勝楯を提供した。国王自身が騎手として優勝したこともある[70]。この競走は「King's Plate(女王の場合はQueen's Plate。Royal Plateとも呼ばれる)」として受け継がれ、現存する世界最古の競馬の競走である[70][注 20]

明治天皇の時代に始まった華やかな銀杯の下賜は、大正時代に勃発した第一次世界大戦の間も絶えることなく、30年以上続いた。一方、その間に中国大陸での動乱は激しくなり、1931年(昭和6年)の満州事変、1937年(昭和12年)には7月に盧溝橋事件、8月に上海事変が相次いで起きた。

その直後である1937年(昭和12年)9月、皇室は競馬会に対し、以後の御賞典下賜を年2回とするという通達を行っている。この通達により、年10回行われていた帝室御賞典は年2回施行になった(前述)。そして皇室は、帝室御賞典の回数を減らす分、御賞典をより立派なものにすることになる[29]。また同時期、大陸での時局の緊迫化によって軍馬の需要が急増していた。軍部はより強固な馬政統制を行うため全国の競馬倶楽部を一本化して「日本競馬会」を作った。そして帝室御賞典は、軍部の求めるスタミナ溢れる馬を作るため、長距離の3,200メートルに改められた[29]

大陸での緊迫した情勢はさらに激しさを増し、日中戦争へと発展した。1939年(昭和14年)秋にはヨーロッパでドイツと連合軍が戦争を始め、日本に対しては「ABCD包囲網」と呼ばれる経済封鎖が1941年(昭和16年)より実施され、国内ではさまざまな物資が不足するようになった。これに伴う金属製品の統制を受け、帝室御賞典の賞杯は同年春から優勝楯に改められた[66]

新しい優勝楯の作成にあたり、宮内省東京高等工芸学校教授の畑正吉にデザインを依頼[66]。これをもとに鋳物師の持田増次郎が金物を製作し、金メッキを施した2寸(約6センチ)もある菊の紋章と、板金をはめこんだ「競馬恩賞」の文字をラワン板にあしらった金御紋章付楯(いわゆる「天皇楯」)となった[66][34]

天皇楯の下賜は1944年(昭和19年)春の「能力検定競走」で下賜を辞退したことにより中断し、秋には帝室御賞典が中止となった。

戦後の天皇賞

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戦争で中断した競馬は終戦後に再開され、帝室御賞典は御賞典が下賜されなかったため、「平和賞」の名称で1947年(昭和22年)春に復活した(前述)。その後、1947年(昭和22年)秋に予定していた「第2回平和賞」の前日に皇室から天皇楯の下賜が決まった[34]が、天皇楯はこれ以降持ち回り制になった[34]。平和賞は急遽「天皇賞」に改称され、「第1回天皇賞[注 21]」として施行された[34]。ただし、前述の通りJRAでは1937年(昭和12年)秋の「帝室御賞典」を第1回としている[1]

表彰式で優勝馬主が楯を受け取る際は、白手袋を着用することが慣例となっている[2]

賞金

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春(2024年(令和6年)、第169回)の1着賞金は2億2000万円で、以下2着8800万円、3着5500万円、4着3300万円、5着2200万円[72][8]

秋(2024年(令和6年)、第170回)の1着賞金は2億2000万円で、以下2着8800万円、3着5500万円、4着3300万円、5着2200万円[73]

1937年(昭和12年)に帝室御賞典が年2回施行に集約されて以来、天皇賞は日本国内で有数の高額賞金競走である。優勝馬の馬主に与えられる御賞典(優勝杯、優勝楯)の金銭的価値を一切考慮に入れないとしても、長い間、1着賞金の額は中央競馬で行われる競走の中でも上位を保ち続けた。2022年は、日本国内で施行する競馬の競走としてジャパンカップ・有馬記念の4億円に次いで、東京優駿(日本ダービー)、大阪杯宝塚記念と同額の1着賞金が設定されている[59][注 22]

用語の解説
付加賞:中央競馬のみにある制度で、特別登録料の総額を1着から3着までの馬に対し、7:2:1の割合で配分した賞金[75]。通常の入着賞金には含めない。
特別登録料:特別競走・重賞競走に出走するための事前エントリーである「特別登録(通常はレース1週間前の日曜日。GIや3歳クラシックではさらに早まる場合がある[8])」の際に徴収され、料額は競馬法で300万円以下と定められている[75]。中央競馬ではこの特別登録を経て、最終エントリーとなる「出馬投票(後述)」を行うことで出走申込手続きが完了する。
主要な高額賞金競走における1着賞金の変遷
  • 表中の項目はJRAデータファイルより作成(1955年から2014年まで)。
  • いずれも1着賞金のみ(付加賞・褒賞金など1着賞金に含めないものは除く)の比較。単位:万円。
天皇賞
(帝室御賞典)
東京優駿 有馬記念 ジャパンカップ 備考
1937 (1.0) 1.0 - - 天皇賞の賞金は副賞。本賞は御賞典(優勝杯)
1938 (1.5) 4着・5着にも賞金を出すようになる
1941 天皇賞の本賞が楯になる
1954 天皇賞の副賞が本賞金に含まれるようになる
1955 150 200
1956 200 中山グランプリ(現在:有馬記念)創設
1957 200 3競走が最高額で並ぶ
1959 300 再び東京優駿が単独最高額に
1960 300 500 300
1965 800 1000 800
1970 2000 2300 2000
1974 4000 3競走が最高額で並ぶ
1975 4600
1980 6000
1981 6500 ジャパンカップ創設
1985 7800
1990 11100
1995 13200
2000 13200 18000 25000 ジャパンカップが単独で最高賞金に
2001 13200 15000
2005
2010[76]
2011[77] 20000
2012[78]
2013[79] 20000
2014[80]
2015[81] 15000 25000 30000 天皇賞の賞金が20年ぶりに増額
2016[82] 30000 有馬記念とジャパンカップが17年ぶりに最高額で並ぶ
2017[83]
2020[7]
2021[84]
2022[59] 20000 40000 天皇賞の賞金が7年ぶりに増額
2023[85] 22000 30000 50000

第1回(1937年秋の帝室御賞典)の1着馬には「本賞」として御賞典(優勝杯)、「副賞」として賞金1万円が与えられた。この賞金額は、当時国内の競走としては東京優駿(日本ダービー)の1着本賞1万円、横浜農林省賞典四・五歳呼馬(1943年で廃止)の1着本賞1万円と並び最高額だった。第1回は3着馬までにのみ賞金を与えていたが、翌年から帝室御賞典など国内主要18競走に限り、4着馬・5着馬にも賞金を与えるよう変更された。1954年(昭和29年)からは天皇賞の1着馬に与える副賞金も「本賞」に含めることになった[86]

1955年(昭和30年)当時、国内の1着最高賞金は東京優駿(日本ダービー)の200万円で、天皇賞の150万円がこれに次いでいた。1956年(昭和31年)に有馬記念(中山グランプリ)が創設され、1着賞金は東京優駿(日本ダービー)と同じく200万円とされた。翌1957年(昭和32年)には天皇賞の賞金が200万円に引き上げられ、天皇賞(春・秋)、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念の4競走が国内最高額の競走となった。

1959年(昭和34年)には東京優駿(日本ダービー)の賞金が300万円に増額され再び「国内最高賞金」となり、天皇賞と有馬記念は東京優駿(日本ダービー)に次いで2番目の高額賞金競走となった。その後、各競走の賞金は年々増加を続けるが、東京優駿(日本ダービー)が1位、天皇賞と有馬記念が同額で2位という序列が1973年(昭和48年)まで続いた。

1974年(昭和49年)、天皇賞・東京優駿(日本ダービー)・有馬記念の賞金が同額になった。これ以降も賞金は伸び続けるが、これらの1着賞金は同額とされた。1981年(昭和56年)にジャパンカップが新設され、天皇賞(春・秋)、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念を含めた5競走が日本では最高賞金の競走になった。1990年代に入ると賞金が1億円を超えるようになり、1995年(平成7年)には5競走ともに1着賞金が1億3,200万円となった[注 23]

2001年(平成13年)よりジャパンカップの1着賞金が2億5,000万円と大幅に引き上げられ[注 24]、東京優駿(日本ダービー)・有馬記念も1着賞金が加増されたが、天皇賞の1着賞金は春・秋とも据え置かれた。

JRAが発表した2015年(平成27年)の重賞競走一覧によると、ジャパンカップ、有馬記念、天皇賞で1着賞金が増額。ジャパンカップは1着賞金が3億円となり、有馬記念は2億5,000万円、天皇賞は春・秋とも1億5,000万円にそれぞれ増額された[81]

褒賞金制度

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大阪杯・天皇賞(春)・宝塚記念または、天皇賞(秋)・ジャパンカップ・有馬記念の3競走を同一年にすべて優勝したJRA所属馬には内国産馬2億円、外国産馬1億円の褒賞金が賞金とは別に交付される[88]。この褒賞金は、クラス分けに用いる収得賞金には算入されない。

用語の解説
内国産馬(ないこくさんば):外国産馬以外の馬で、原則として日本で産まれた馬を指す。ただし、外国へ一時的に輸出された繁殖牝馬が輸出前に日本で種付けを済ませ受胎(妊娠のこと)し、外国で産まれた子馬を0歳の12月31日までに輸入した場合、または外国で種付けされた繁殖牝馬が日本へ輸入されてから産まれた馬(持込馬という)は内国産馬として扱われる[89]

天覧競馬

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2005年(平成17年)の第132回天皇賞(秋)は「エンペラーズカップ100年記念」と副題がつけられ、第125代天皇・明仁皇后美智子(いずれも肩書きは当時)が東京競馬場に来場し天皇賞を観戦した。当初は前年の2004年(平成16年)に予定されていたが、施行日の8日前に発生した新潟県中越地震の被害に配慮して取りやめとなっていた。天皇が天皇賞を観戦した例は史上初めてであり、天皇自身による競馬観戦(いわゆる天覧競馬)は1899年(明治32年)以来106年ぶりとなった[23]。競走前に天皇・皇后は場内の競馬博物館で「エンペラーズカップ100年記念 栄光の天皇賞展」を鑑賞されている[23]。競走後、優勝したヘヴンリーロマンス松永幹夫騎手が貴賓席に対して馬上から最敬礼を行った。

2012年(平成24年)の第146回天皇賞(秋)は「近代競馬150周年記念」と副題がつけられ、7年ぶりに天覧競馬が実施された。競走後、優勝したエイシンフラッシュミルコ・デムーロ騎手はコース内でいったん下馬して最敬礼を行った。本来、このような行為は騎乗馬が故障した場合を除き、競走後にコース内で騎手が下馬することを禁止するJRA競馬施行規程[注 25]に抵触するものであったが、これを理由とした制裁は行われなかった[91]

なお、第125代天皇・明仁と皇后美智子は皇太子皇太子妃だった1987年(昭和62年)に、天皇賞施行50周年を記念して行われた第96回天皇賞(秋)を台覧している[54]

2023年(令和5年)の第168回天皇賞(秋)は「競馬法100周年記念」と副題がつけられ、第126代天皇・徳仁皇后雅子が来場し、11年ぶりに天覧競馬が実施された。第126代天皇・徳仁は皇太子時代に第81回東京優駿(日本ダービー)を観戦して以来、9年ぶりの競馬観戦。天皇としては即位後初めて、令和では初めての天覧競馬となった。競走前に天皇・皇后は場内のJRA競馬博物館で開催されている「競馬法100周年記念特別展 伝統の天皇賞 〜日本競馬のあゆみとともに〜」を鑑賞した[92][93]。優勝したイクイノックスクリストフ・ルメール騎手は馬上から、同馬の厩務員と共に最敬礼を行った。

脚注

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注釈

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  1. ^ JRAでは、これを天皇賞の前身としている[1]
  2. ^ このほかに横浜農林省賞典四・五歳呼馬も同等の賞金であったが、長く続かなかったので割愛する。詳しくは帝室御賞典の拡大と統一節の注釈を参照。
  3. ^ かつては目黒記念や、中山大障害などの障害重賞も年2回施行され、「目黒記念(春)」・「目黒記念(秋)」のように区別していたり、4歳牝馬特別や金杯のように同一の名称の競走が各地にあって、4歳牝馬特別(桜花賞トライアル)4歳牝馬特別(オークストライアル)金杯(東)金杯(西)となっていた。
  4. ^ トレンチ公使、サトウ公使、マクドナルド公使など[13]
  5. ^ アーネスト・サトウなど、イギリスの外交官は皇族を根岸競馬のパトロンとして仰いだ[15]
  6. ^ 旧幕府と借地契約を行って拓かれた横浜競馬場については、用地の賃貸料を巡って競馬場側と新政府の間に紛争があった。不平等条約(治外法権)の影響があって、交渉は難航したが、1880年(明治13年)になってようやく解決をみた。このとき、賃料で両者が合意するにあたり、政府側からは競馬場の運営組織の名称を“Japan”ではなく“Nippon”にすること等が要望され、競馬場側はこれを受け入れた。この結果、競馬場は政府の公認を得た形となり、明治天皇はこれを機に賞品を下賜した。いくつかの史料には、これ以前にも明治天皇が根岸競馬場を訪問していたという記録がある。その一方で、借地問題が未解決の競馬場に明治天皇が行幸するはずがないとして、これを否定する文献がある[19]
  7. ^ 雑誌「優駿」では“The Emperor's Cup”の日本語訳として、これを採用している[23]
  8. ^ 2001年(平成13年)以降の馬齢表記では3歳にあたる。
  9. ^ 後日、日本競馬会が慣例に従って競走結果を宮内省へ奏上した際、公式に「第1回天皇賞」としている。日本中央競馬会の古い資料や出版物には、1947年(昭和22年)秋の天皇賞を“第1回天皇賞”と表現しているものがある。
  10. ^ 勝ち抜き制は毎日王冠(第5回まで)や中山大障害(1950年(昭和25年)まで)など、他の競走にも定められていたことがあるが、1980年まで制度が存続していたのは天皇賞だけである。
  11. ^ 特に、大橋巨泉競馬エイトの予想のコーナー「巨泉でバッチリ」で、このことを痛烈に批判していた[40][41][42]
  12. ^ わずかな例外として、帝室御賞典を統一した時に横浜競馬場に創設された横浜農林省賞典四・五歳呼馬がある。これは4歳と古馬の一流馬が対決するように企画され、しばしば帝室御賞典を勝った馬が出走した。しかし横浜競馬場が1943年(昭和18年)に閉鎖されたため、この競走は短い期間しか行われなかった。
  13. ^ 第1回のみ「中山グランプリ」の名称で施行され、第2回から「有馬記念」に改称された。
  14. ^ 「大レースは枠順による有利不利が起こらない条件で行うべき」と考えていた大川慶次郎は1998年(平成10年)に刊行した著書で当時を回想、天皇賞(秋)の距離を東京2000メートルに短縮することに対し当初から反対意見を唱えており、「2000メートルで施行するなら中山競馬場での施行、もしくは春を東京の3200メートルにして秋を京都の2000メートルで行ったらどうか」と提案していた[55]。なお、同著では当時競馬評論を行っていた大橋巨泉が距離短縮支持派だったと記載されている[55]
  15. ^ カーブの半径やカーブまでの距離が危険であるという意見があるが、同様のコース設定は地方競馬や海外の競馬場にも多数存在しており、ダート競走格付け委員山野浩一は「世界の競馬の中ではとても中程度の危険さとさえいえるものではない」としている[56]
  16. ^ 1971年 - 1983年(昭和46年 - 58年)までは、持込馬に関しても外国産馬と同じ扱いで出走権が与えられなかったが、1984年(昭和59年)に内国産馬と同等扱いに戻された
  17. ^ イギリス王室でも、競馬の賞品にワインや美術品、絵画、花器、名馬の毛で出来た鞭などを下賜していた。これらの賞品は金額に換算され、当時のリーディングサイアーの統計にも反映されている[61]
  18. ^ こうした式典は、はじめの頃は競走終了後に行われ、その間は馬券の発売を停止していた。1940年(昭和15年)からは、競走終了後に薬物検査を行うことになり、その結果が出てから拝戴式を行うため、帝室御賞典当日ではなく、後日行われるようになった[68]
  19. ^ 仮定名称と言って馬主名義を本名とは異なる名称にする制度があるが、1941年(昭和16年)から帝室御賞典では仮定名称の使用が禁じられ、馬主は実名で出走させなければならなくなった[69]
  20. ^ なお、翌年(1666年)のこの競走は初めて明文化された規則に則って行われた最古の競馬の競走として記録されている[71]
  21. ^ 当時の日本競馬会は、宮内省へ結果を奏上した際に『第1回天皇賞』と報告している[34]
  22. ^ 2022年(令和4年)の地方競馬で施行する競走では、JBCクラシック(JpnI)と東京大賞典(GI)の1着賞金1億円が最高額[74]
  23. ^ 2000年(平成12年)には特別ボーナスが創設され、同一年に天皇賞(秋)・ジャパンカップ・有馬記念の3競走をすべて勝った日本産馬には2億円、外国産馬には1億円が授与されるようになった。なお、このボーナスは1着賞金に含めていない。
  24. ^ 2001年(平成13年)以降のジャパンカップは、世界でもトップクラスの高額賞金競走となった。海外の競馬ではドバイワールドカップ(1着 約6億円)、メルボルンカップ(1着 約3億4,000万円)、凱旋門賞(1着 約3億2,000万円)、ブリーダーズカップ・クラシック(1着 約2億8,000万円)などが主な高額賞金競走である。ジャパンカップは2014年(平成26年)時点で1着賞金が2億5,000万円。一定の条件を満たす馬はこれに1億3,000万円が加算され、年によっては世界1位の賞金になる[87]
  25. ^ 返し馬時に重りを馬場に捨て、競走後に下馬しコース上に捨てた重りを再び装着して検量室に戻るという不正を未然防止するため[90]

出典

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参考文献

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関連項目

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外部リンク

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