「大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件」の版間の差分
編集の要約なし |
|||
(3人の利用者による、間の45版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{暴力的}} |
{{暴力的}} |
||
{{Infobox 事件・事故 |
|||
'''大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件'''(おおさか・あいち・ぎふれんぞくリンチさつじんじけん)とは、[[1994年]][[9月28日]]から[[10月7日]]までに3府県で発生した[[未成年]]の少年グループによる[[私刑|リンチ]]殺人事件である。 |
|||
| 名称 = 大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件 |
|||
| 画像 = |
|||
| 脚注 = |
|||
| 場所 = [[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]、[[愛知県]][[尾西市]](現・[[一宮市]])、[[岐阜県]][[輪之内町]] |
|||
| 緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 = |
|||
| 経度度 = |経度分 = |経度秒 = |
|||
| 日付 = [[1994年]]([[平成]]6年) |
|||
| 時間 = |
|||
| 開始時刻 = [[9月28日]]午前1時頃 |
|||
| 終了時刻 = [[10月8日]]未明 |
|||
| 時間帯 = |
|||
| 概要 = 3人の少年を中心としたグループ計10人が、10日間の間に強盗目的などで計5人の男性を集団[[私刑|リンチ]]しうち4人を死亡させた。 |
|||
| 武器 = [[アルミニウム]]製[[鉄パイプ|パイプ]]など |
|||
| 攻撃人数 = 10人(主犯格は3人) |
|||
| 標的 = 男性5人(うち1人はグループの仲間、残り4人は面識なし) |
|||
| 死亡 = 4人 |
|||
| 負傷 = 1人 |
|||
| 犯人 = 少年グループ(主犯格3人は事件当時18歳及び19歳) |
|||
| 動機 = [[強盗]]など |
|||
| 謝罪 = あり |
|||
| 賠償 = 主犯格3人は[[日本における死刑|死刑]]、その他[[起訴]]された5人は最高で[[懲役]]4-8年の[[不定期刑]]、2人は[[少年院]]送致 |
|||
}} |
|||
{{最高裁判例 |
|||
|事件名= 木曽川長良川等連続リンチ殺人事件 |
|||
|事件番号= 平成17年(あ)2358 |
|||
|裁判年月日= 2011年([[平成]]23年)3月10日 |
|||
|判例集= [[判例集|集刑]] 第303号133頁 |
|||
|裁判要旨= * 本件上告を棄却する。 |
|||
* 僅か11日間という短期間のうちに3回にわたってその都度新たな殺意を形成しながら殺人、強盗殺人の犯行を重ねており、その間いささかのためらいすらもうかがえない。 |
|||
* 19歳から26歳までの4名もの青年の生命を次々と奪い去った結果は誠に重大であって、被害者らの恐怖、無念は言うに及ばず、遺族らの被害感情も極めて厳しい。連続リンチ殺人事件として、地域社会に与えた衝撃も計り知れない。 |
|||
|法廷名= 第一小法廷 |
|||
|裁判長= [[桜井龍子]] |
|||
|陪席裁判官= [[宮川光治]]、[[金築誠志]]、[[横田尤孝]]、[[白木勇]] |
|||
|多数意見= 全員一致 |
|||
|意見= なし |
|||
|反対意見= |
|||
|参照法条= [[強盗致死傷罪|強盗殺人]]、[[殺人罪 (日本)|殺人]]、[[死体遺棄]]、[[強盗致死傷罪|強盗致傷]]、[[傷害罪|傷害]]、[[逮捕・監禁罪|逮捕・監禁]](以上いずれも全3名)、[[恐喝罪|恐喝]](KM)、[[暴力行為等処罰に関する法律]]違反(KM・KA) |
|||
}} |
|||
'''大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件'''(おおさか・あいち・ぎふ れんぞくリンチさつじんじけん)とは、[[1994年]]([[平成]]6年)[[9月28日]]から[[10月7日]]までに[[大阪府]]・[[愛知県]]・[[岐阜県]]の3府県で発生した[[未成年者]]の少年グループによる[[私刑|リンチ]][[殺人]]([[シリアルキラー|連続殺人]]、[[少年犯罪]])[[事件]]である。[[主犯]]格3人は全員が犯行当時未成年でありながら[[日本における死刑|死刑]][[判決 (日本法)|判決]]が[[確定判決|確定]]した([[少年死刑囚]])<ref name="chunichi20110310"/>。'''3府県連続リンチ殺人事件'''(さんふけん れんぞくリンチさつじんじけん)、また単に'''連続リンチ殺人事件'''(れんぞくリンチさつじんじけん)とも呼ばれる。 |
|||
== 事件の概要 == |
== 事件の概要 == |
||
一連の事件では未成年者7人を含めた男女計10人(うち成人は[[暴力団]]組員1人を含めた3人)が犯行に関与したと認定されて8人の有罪判決が確定、2人が[[少年院]]送致された<ref name="chunichi20001228"/>が、[[確定判決]]となった控訴審・上告審判決で主犯格と認定されたのは以下の3事件すべてに関与した犯行当時18歳及び19歳の少年3人である。 |
|||
[[主犯]]は3人で、A(当時19歳)は1994年8月に[[愛知県]]で強盗傷害事件を起こして[[大阪府]]に逃亡した。その際、B(当時19歳)やC(当時18歳)と知り合った。この3人の他にも7人の男女のメンバーがいたが、主犯格であるこの3人は特に凶悪で、[[恐喝]]や[[強姦]]を繰り返すなどしていたという。 |
|||
主犯格3人はいずれも自ら暴力団に加わるなど反社会的な生活を送っていた<ref name="chunichi20051015_20110311"/>。このうち、第一審から主犯格と認定された<ref name="chunichi20010710"/>KM(当時19歳、[[愛知県]][[一宮市]]生まれ<ref name="chunichi20110310"/><ref name="chunichi20051014"/>。逮捕当時の報道では[[本籍]]愛知県[[稲沢市]]<ref name="chunichi19941015"/>)は1994年8月初めに愛知県[[津島市]][[杁前町]]の[[パチンコ店]][[駐車場]]で、[[岐阜県]][[海津郡]]の当時18歳の少年(一連の事件とは無関係、[[保護観察]]処分)と共謀して会社員から現金3万円を奪い、会社員の顔を殴って顔に2週間の怪我を負わせた事件<ref name="chunichi19941126">『中日新聞』1994年11月26日夕刊13面「別の強盗で再逮捕 連続リンチ主犯格少年 津島で3万円奪う」</ref>を起こして強盗致傷容疑で[[指名手配]]され[[大阪府]]に逃亡していた<ref name="chunichi19941015">『中日新聞』1994年10月15日朝刊社会面31面「主犯格の少年逮捕 長良・木曽川のリンチ殺人 同じ仲間の犯行 逃走中、別の事件も 一宮署に出頭 全面的に容疑認める」</ref><ref name="asahi19950201"/>。KMは犯行グループを含めた十数人の遊び仲間のリーダー的存在で、素行の悪さが目立ち、[[愛知県警察]]の[[尾張国|尾張]]にある各[[警察署]]が動きをマークしていた<ref name="chunichi19941015"/>。 |
|||
事件は1994年9月28日午前3時頃に幕を開けた。主犯格の3人ともう1人は[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]で無職の男性(当時26歳)を強盗目的で襲った上に拉致し、19時間にわたって監禁・暴行を繰り返した。そして最後はベルトを使って絞殺した。その後少年らは、[[暴力団]]員に遺体の処分を相談し、[[高知県]][[安芸郡 (高知県)|安芸郡]][[奈半利町]]の山中に遺棄した。男性の遺体は11月22日に毛布に包まれているところを発見されたが、凄まじい暴行の痕があったといわれる。 |
|||
逃亡中、KMはそれぞれ第一審では[[従犯]]認定されていた<ref name="chunichi20010710"/>KA(当時19歳、[[大阪府]][[松原市]]生まれ<ref name="chunichi20110310"/><ref name="chunichi20051014"/>。逮捕・公判当時の報道では[[和歌山県]]<ref name="chunichi19941016_m31"/><ref name="chunichi19941024"/><ref name="chunichi19941115"/><ref name="chunichi19941119"/>[[西牟婁郡]][[串本町]]〈1995年当時、現在は[[東牟婁郡]]串本町〉生まれ<ref name="chunichi19950627">『中日新聞』1995年6月27日朝刊23面「罪状認否持ち越す リンチ殺人の主犯格初公判」</ref>。3人の中では所属暴力団において最も上位だった<ref name="chunichi20051015_20110311"/>。最高裁判決時点では旧姓Ko<ref name="asahi20110311"/><ref name="yomiuri20110311"/><ref name="nikkei20110311"/>、死刑確定後Oに改姓<ref name="nikkei20110512">{{Cite web |date=2011-5-12 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1203V_S1A510C1CC1000/ |title=死刑囚との面会写真を掲載 週刊誌「フライデー」 |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=2017-1-8 |archiveurl=http://archive.is/ccbUS |archivedate=2017-1-8 }}</ref>、現姓Ku<ref>『朝日新聞』2015年12月26日朝刊29面「連続リンチ殺人の異議棄却【名古屋】」</ref>)やHM<ref name="nikkei20140419"/>(当時18歳、[[大阪市]][[西成区]]生まれ<ref name="chunichi20110310"/><ref name="chunichi20051014"/>。逮捕・公判当時の報道では[[兵庫県]]<ref name="chunichi19941119"/>[[神戸市]]生まれ<ref name="chunichi19950627"/>。旧姓K<ref name="asahi20110311"/><ref name="yomiuri20110311"/><ref name="nikkei20110311"/>)と知り合い、暴力団配下の3人組が生まれた<ref name="asahi19950201"/>。3人は大阪市内で[[恐喝]]事件を繰り返していた<ref name="asahi19950201"/>。 |
|||
10月6日、少年グループの仲間の1人である型枠大工の男性(当時22歳)が女性関係をめぐってAと言い争いになり、AはBやCら仲間7人と共にこの男性をビール瓶や[[鉄パイプ]]などで約8時間にわたって激しく暴行した上、翌日未明には愛知県[[尾西市]](現・[[一宮市]])の[[木曽川]][[河川敷]]で瀕死の男性を堤防から突き落とし、更に雑木林へ引きずり[[シンナー]]をかけた上で火をつけて殺害した。遺体は10月13日に同場所で発見されるが、あまりにも痛々しい火傷の痕があったといわれる。 |
|||
第一審判決では「いずれの犯行も、経緯などを見ると、自らの欲望、感情の赴くまま行動して傷害や強盗などを犯した少年たちが、被害者らを解放すれば警察に捕まるなどと考え、自らの行動によって生じた結果の処置に困惑し、その際、虚勢を張る心理も混じって声高に激化した言動をする者に影響され、相手に弱みを見せられないという少年期特有の心理状態も手伝い、これに同調し、お互いが適切に事態を収束させることができないまま、最悪の結果を招いた」と認定された<ref name="chunichi20010710_syllabus"/>。 |
|||
10月7日の深夜、Aらは鉢合わせとなった20歳の男性2人、19歳の男性1人を襲って金品を奪った上に拉致する。そして[[岐阜県]][[安八郡]][[輪之内町]]の[[長良川]]河川敷で会社員の男性1人(当時20歳)と[[アルバイト]]の男性(当時19歳)の2人を鉄パイプなどで執拗に暴行した上で殺害した。遺体は翌日に同場所で発見され、両者の遺体は頭蓋骨や腕など全身骨折の上、身体の血管の大部分が損傷を受けて大量出血しているという無惨なものだったという。 |
|||
=== 最初の事件(大阪事件) === |
|||
その際、少年グループはもう1人の20歳男性は解放した。この男性の供述から犯行が明らかとなり、[[日本の警察|警察]]は少年グループを[[指名手配]]する。このため、Bは10月12日に[[自首|出頭]]、10月14日にAも出頭した。Cは[[逃亡]]したが、[[1995年]][[1月18日]]に[[大阪]]で[[逮捕]]され、他のメンバーも逮捕となる。 |
|||
最初の事件('''大阪事件'''、殺人・死体遺棄事件<ref name="chunichi20010710_syllabus"/>)は1994年9月28日午前1時頃に幕を開けた<ref name="chunichi19941123"/>。 |
|||
KM・HMの2人<ref group="最高裁判決文" name="saikosai">最高裁第一小法廷判決 2011年(平成23年)3月10日、事件番号:平成17(あ)2358</ref>は[[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]]の[[道頓堀]][[繁華街]]で無職(元[[寿司屋|寿司店]]店員<ref name="chunichi19950912"/>)男性A(当時26歳)と友人男性(同26歳)の2人に言いがかりをつけ[[携帯電話]]や[[指輪]]を強奪した<ref name="chunichi19941123"/>。友人男性が逃げたため、A1人を近くの大阪市中央区内の[[マンション]]の一室に連れ込んで[[監禁]]し、KAを加えた主犯格3人ともう1人の当時18歳の少年T([[大阪市]]出身<ref name="chunichi19941127">『中日新聞』1994年11月27日朝刊31面「大阪出身少年も逮捕 連続リンチ Aさん殺害 さらに1人手配へ」</ref>、[[東大阪市]]在住の暴力団組員<ref name="chunichi19950912"/>)の計4人で、裸にしたAの両手首、両足首を縛り、Aの顔面に[[ガムテープ]]を巻き付けるなどして身動きできない状態にした<ref group="最高裁判決文" name="saikosai"/>上で、Aに対し殴る蹴るなどの暴行を繰り返した<ref name="chunichi19941123"/><ref name="chunichi20010710_syllabus">『中日新聞』2001年7月10日朝刊31面「連続リンチ殺人判決要旨(上)中心的立場 極刑やむを得ず」「連続リンチ殺人判決要旨(下)」</ref>。 |
|||
== 裁判 == |
|||
主犯格らは、[[強盗致死傷罪|強盗殺人]]・殺人・[[死体遺棄]]・強盗致傷・[[恐喝罪|恐喝]]・[[逮捕・監禁罪|逮捕監禁]]の計6つの罪で[[起訴]]された。[[裁判]]では、主犯格3名は反省のない態度をみせ、「自分は未成年だから[[死刑]]にはならない」「俺の刑はどれくらいなの」と発言したり、[[被害者]]遺族に対して笑みを見せるなどして、[[傍若無人]]な態度を繰り返した。また、犯行に反対していたグループの仲間である2人の少女の殺害も計画していたと証言する。 |
|||
KMらは男性を土木作業場に売り飛ばそうとしたが、取引相手が都合で来られなくなり、男性が抵抗した<ref name="chunichi19941124"/>ために処置に困り、犯跡を隠蔽するために殺害を決意<ref group="最高裁判決文" name="saikosai"/><ref name="chunichi20010710_syllabus"/>。命乞いをし<ref name="chunichi20010710_syllabus"/>、体を痙攣させて苦悶するAの首に[[ベルト (服飾)|ベルト]]を巻き付け、最初はHMが両端を両手で持って引っ張り上げて絞め付け、抵抗できずに苦しむAに構わず執拗にベルトの両端を力いっぱい引き合うなどして[[絞殺]]した<ref group="最高裁判決文" name="saikosai"/><ref name="chunichi20010710_syllabus"/><ref name="chunichi20051015_20110311">『中日新聞』2005年10月15日朝刊33面「連続リンチ殺人 控訴審判決要旨」<br>『中日新聞』2011年3月11日朝刊26面「連続リンチ殺人最高裁判決要旨」</ref>。Aが[[血]]の混じった[[鼻水]]を出したり[[失禁]]した後も、確実に死亡させるためにさらに首を絞め、その後、[[たばこ]]の火をAの身体に押し付けてその死亡を確認するという非情、残忍な犯行であった<ref name="chunichi20010710_syllabus"/>。 |
|||
このような反省なき態度、あまりに残虐な犯行から、1審の[[名古屋地方裁判所]]においては[[検察官|検察]]より死刑が[[求刑]]される。「自分は少年だから死刑にならない」と考えていた3名はこの頃から、遺族に対して謝罪の手紙を送ったりしているが、遺族には受け入れられなかった。[[2001年]][[7月9日]]、名古屋地裁で[[判決 (日本法)|判決]][[公判]]が開かれ、Aは[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]で死刑、BとCは[[傷害罪#傷害致死罪|傷害致死罪]]で[[無期懲役]]の判決が下された。この判決に遺族からは「何だ、これは」と不満の声が上がったという。[[弁護人|弁護]]側・検察側共に判決を不服として[[控訴]]した。 |
|||
4人はその後、前述の取引に関与したマンションの部屋の借主である[[徳島県]]出身の<ref name="chunichi19941122_e13"/>[[大阪市]][[生野区]]の元[[暴力団]]組員の男U(当時45歳、第一審判決では暴力団幹部と認定<ref name="chunichi20010710_syllabus"/>)<ref>『中日新聞』1994年11月30日夕刊13面「Aさん殺害容疑で2人指名手配 連続リンチ殺人」</ref>に遺体の処分を相談し<ref name="chunichi20010710_syllabus"/>、Aの遺体を車に積んで[[カーフェリー]]で[[四国]]に渡り<ref name="chunichi19941123"/>、[[高知県]][[安芸郡 (高知県)|安芸郡]][[奈半利町]]の山中(奈半利町須川甲の[[国道55号]]から山中に入った[[林道]]の約50m下の斜面、[[室戸岬]]の[[夫婦岩]]近く)に遺棄した<ref name="chunichi19941123"/><ref name="chunichi20010710_syllabus"/>。 |
|||
[[2005年]][[10月14日]]、[[名古屋高等裁判所]]で控訴審判決が行われ、「4人の生命を奪った結果は重大」「3[[被告人|被告]]の役割には差は無い」として死刑積極適用に動き、A・B・Cの3名にいずれも死刑の判決を下した。これは日本における同じ[[少年犯罪]]で複数の被告に死刑判決が下された初めての判例であった。被告側は判決を不服として[[上告]]した。 |
|||
=== 第2の事件(木曽川事件) === |
|||
[[2011年]][[3月10日]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]は「11日間という短期間に犯行を重ねており、執拗で残虐。地域社会に与えた影響は大きい」として、上告を[[棄却]]し元少年3人に死刑が確定した<ref>{{Cite web |date=2011-03-10 |url=http://www.47news.jp/CN/201103/CN2011031001000548.html |title=元少年3人、死刑確定へ 4人連続リンチ殺人事件 |publisher=共同通信 |accessdate=2013-08-20}}</ref>。少年事件で複数の被告の死刑が同時に確定するケースは、最高裁判所が把握している[[1966年]]以降初めてとなる。判決後、死刑確定によって更生の可能性が事実上なくなったことを受けて、各[[報道機関]]はA・B・C3人の[[実名報道|実名を公表]]した。 |
|||
KMは大阪事件の後、10月4日<ref name="chunichi19941113">『中日新聞』1994年11月13日朝刊オピニオン7面「記者の眼/凶暴な若者 その心模様は… 上田寿行」</ref>に大阪から仲間3人を連れて故郷に現れ、後の木曽川事件・長良川事件の犯行の中心になったという<ref name="chunichi19941014"/>。起訴状によれば、愛知県に再び逃走したのは大阪事件の共犯の少年(T)が逮捕されたためだという<ref name="asahi19950201"/><ref name="asahi19980814"/>。木曽川事件の犯行の直前、KMらは友人の[[ネコ]]を[[獣医師]]のところに連れて行き診察を受けさせていた<ref name="asahi19950201"/>。10月初め、KMらは大阪府内のパチンコ店で当時21歳の男V(愛知県稲沢市在住)と知り合い、車を持っていたVを誘って愛知県に再び逃亡した<ref name="asahi19950201"/>。その後、KAらはKMを介して地元の仲間5人(V、一宮市内在住の当時16歳の少女W子、[[福岡県]]生まれの当時20歳の男X、一宮市在住の当時19歳の少年Y、[[家事手伝い]]の当時18歳の少女Z子)と合流した<ref name="asahi19950201"/>。 |
|||
大阪事件から8日後の10月6日夜、KMらは稲沢市内にある共犯者のV宅(Vの両親は不在がちで、近所の話では5年ほど前からKMらのたまり場になっていたという)で開かれていた「[[シンナー]]パーティー」に参加していた<ref name="chunichi19941113"/>が、シンナーが足りなくなったため、Vが近くに住む少年グループの仲間の1人である土木作業員の男性B(当時22歳)に「シンナーを持ってきてくれ」と[[電話]]した<ref name="asahi19941030"/>。家に来たBはKMに女友達を[[強姦]]されたとしてKMと言い争いになり、「お前のしたことを[[刑事]]に言うぞ」となじり、その言葉に逆上したKMはBに殴り掛かった<ref name="asahi19941030"/>。KMはこれに加えて「(Bが邪魔で)テレビが見えにくい」「(Bが)にらむような目つきをする」という理由でKA・HMら仲間5人<ref name="chunichi20010710_syllabus"/>を加えた計6人(本事件の犯行グループは主犯格3人を含めた全員が翌日の木曽川事件にも関与した<ref name="chunichi19941015"/>。部屋には他にも男1人と女2人の計3人がいたが、いずれもリンチが始まった際には姿を消していた<ref name="asahi19941030"/>)で、Bの頭や身体を[[ビール瓶]]や[[鉄パイプ]]、[[ほうき]]などで数百回<ref name="asahi19950201">『朝日新聞』1995年2月1日朝刊23面「陰惨な犯行、克明に 連続リンチ殺人冒頭陳述【名古屋】」</ref>殴る、[[箸]]や[[フォーク (食器)|フォーク]]で傷口をつつく<ref name="asahi19950201"/>、頭から[[醤油]]や[[ウィスキー]]、シンナーをかける<ref name="asahi19950201"/><ref name="chunichi19950131"/>、目の前に[[包丁]]を突き付ける<ref name="asahi19950201"/>などして約7時間にわたって激しく暴行した<ref name="chunichi20010710_syllabus"/><ref name="asahi19941030"/><ref name="chunichi19950131"/>。BがKMらの従った行動をとらなかったため、KMらは更に逆上しさらなる暴行に発展した<ref name="chunichi20010710_syllabus"/>。Bは「ごめんなさい。許してください」と懇願したが、[[宅配ピザ]]を食べているとき以外は暴行を続けた<ref name="asahi19950201"/>。Bは一度逃げ出したがすぐに連れ戻され、車で[[木曽川]]堤防まで連れて行かれた<ref name="asahi19950201"/>。 |
|||
なお、収容先は3人とも違う。Aは[[東京拘置所]]に[[収監]]されているが、BとCは[[名古屋拘置所]]に収監されている。 |
|||
翌10月7日未明にKMらは愛知県[[尾西市]](現・[[一宮市]])祐久<ref name="asahi19941015">『朝日新聞』1994年10月15日朝刊31面「主犯格の少年出頭 岐阜・愛知リンチ殺人」【名古屋】</ref>の木曽川左岸[[河川敷]](尾西文化広場[[テニスコート]]付近、長良川事件の現場から直線距離で約7km<ref>『朝日新聞』1994年10月14日朝刊27面「木曽川河川敷にも遺体 長良川リンチ事件の2参考人が供述」【名古屋】</ref>)で瀕死の重傷を負い、自力で立ち上がることさえも困難(Bは地面に横たわった状態で、首筋や腹に置かれたシンナー入りビニール袋をライターで点火して燃やされても、緩慢で微弱な反応しかできないほどに重篤な状態だった)になっていた<ref group="最高裁判決文" name="saikosai"/>Bを堤防から蹴って突き落とし、更に[[雑木林]]へ引きずり[[シンナー]]をかけた上で[[ライター]]で火をつけ、河川敷雑木林に放置して殺害した('''木曽川事件'''、第一審では傷害致死事件、控訴審・上告審では殺人事件と認定)<ref name="asahi19950201"/><ref name="chunichi20010710_syllabus"/><ref name="asahi19941030"/><ref name="chunichi20051015_20110311"/><ref name="chunichi19950131"/>。KMらはBを木曽川に流すつもりだったが、河川敷を引きずってBを移動させている途中で主犯格の少年が「もうそこらへんでいいわ。そこなら見えん」と指示、堤防から10mほど離れた雑木林の茂みに放置した<ref name="asahi19950201"/>。Bの死因は[[硬膜下血腫]]、内臓損傷又は全身[[打撲]]による外傷性[[ショック死]]のいずれかとされる<ref group="最高裁判決文" name="saikosai"/>。 |
|||
2013年1月、[[死刑囚]]の1人について「[[自白]]の信用性に疑問がある」として名古屋高等裁判所へ[[再審]]請求が提出されたが、2013年[[8月19日]][[棄却]]された<ref>{{Cite web |date=2013-08-20 |url=http://www.47news.jp/CN/201308/CN2013082001001582.html |title=リンチ殺人、元少年再審請求棄却 名古屋高裁 |publisher=共同通信 |accessdate=2013-08-20}}</ref>。 |
|||
=== 第3の事件(長良川事件) === |
|||
Bを殺害した後8人のうち男女2人(後述するY、Z子)がグループから分かれ、KMら残る6人は[[名神高速道路]][[一宮インターチェンジ]](IC)付近の[[ラブホテル]]の一室で雑魚寝をした<ref name="asahi19941030"/>。 |
|||
翌日10月7日午後4時ごろにホテルを立ち去り、週末で込み合う稲沢市内の[[ボウリング場]]に現れた<ref name="asahi19941030"/>。同日深夜、KM・KA・HMと仲間5人(うち2人は前日の木曽川事件にも関与)の計8人<ref name="chunichi19941015"/>はボウリングの球を選んでいた当時20歳の男性2人(会社員の男性Cと解放された男性D)、[[アルバイト]]の男性E(当時19歳)を「お前ら、どこの者や」と脅し、約3時間にわたって自動車2台の車内(うち1台はDから強奪した[[軽自動車]]<ref name="chunichi19941014"/>)に監禁し、金品を奪って拉致した<ref name="asahi19941030"/><ref name="chunichi20010710_syllabus"/><ref name="chunichi20051015_20110311"/>。動機はKM・KAがすれ違ったC(殺害されたCとEは中学時代の同級生で親しい間柄にあり<ref>『中日新聞』1994年10月9日朝刊31面「岐阜・輪之内の河川敷遺体 2人とも尾西の男性 暴行後に現場に運ぶ?」</ref>、Dも含めて3人で偶然ボウリング場に遊びに来ていた)らを見て、自分たちが笑われたと感じて腹を立て、因縁をつけて(「髪の毛が赤っぽかったから」という理由で因縁をつけたとする報道もある<ref name="asahi19941030"/>)ボウリング場の外に連れ出し、金品を強奪する目的でCら3人を車内に閉じ込めて移動したことが発端であった<ref name="chunichi20010710_syllabus"/>。 |
|||
Cらの口封じをして犯行を隠蔽するため、[[岐阜県]][[安八郡]][[輪之内町]]楡俣の[[長良川]]河川敷で、命乞いをするC、E2人の全身を農機具小屋から盗んだ太い[[アルミニウム]]製[[パイプ]]や角材などで頭部や胸部をめった打ちにするなど執拗に暴行し、多発損傷による組織間出血により[[出血|失血死]]させた('''長良川事件'''、強盗殺人事件)<ref group="最高裁判決文" name="saikosai"/><ref name="asahi19941030"/><ref name="chunichi20010710_syllabus"/><ref name="chunichi20051015_20110311"/>。KMとHMは2人がぐったりした後も、たばこの火を押し付けてみたり、ダメ押しするかのようにさらに殴打した<ref name="chunichi20010710_syllabus"/>。 |
|||
なお、Dには怪我を負わせたものの<ref name="chunichi20010710_syllabus"/>、殺害された2人とは異なり身を守ろうとするなどの抵抗をせず、殴られるまま無抵抗だったため、殺害せずに大阪市内まで連れ回し、KAが奪った現金のうち[[近鉄名古屋駅]]までの電車賃を返した上で近鉄難波駅(現・[[大阪難波駅]])近くで解放した<ref name="asahi19941030"/><ref name="chunichi20051015_20110311"/>{{Refnest|group="注釈"|なお、殺害された2人がリンチされている間Dは堤防道路上の車に監禁されており、犯行グループから「あの音が聞こえるか。あれはCたちを殴っている音だ」などと脅されていた<ref name="chunichi19950201"/>。}}<ref>『中日新聞』1994年10月16日朝刊社会面31面「叫ぶ被害者めった打ち 連続リンチ殺人 シンナーかけ火・木曽川事件 無抵抗者助かる・長良川事件」</ref>。翌10月8日、一宮IC付近(一宮市役所丹陽町出張所の駐車場)でDの車がエンジンをかけたまま乗り捨てられているのが発見され、車は[[消火器]]を噴射して[[指紋]]を消そうとしたためか車内まで消火剤にまみれていたが、消火剤は逆に窓ガラスに付着していたKMの指紋を鮮明に浮かび上がらせていた<ref>『朝日新聞』1994年10月13日夕刊11面「グループ1人逮捕、ほか2人指名手配 長良川リンチ事件【名古屋】」</ref><ref name="asahi19941030"/>。KMらは犯行直後に[[コンビニエンスストア]]に立ち寄り、[[防犯カメラ]]がその姿を捉えていた<ref name="asahi19941030"/>。 |
|||
=== 事件の発覚・検挙 === |
|||
長良川事件の翌日の10月8日午前6時15分ごろ、現場付近の長良川堤防道路を通りかかった[[貨物自動車|トラック]]運転手が、堤防道路の駐車帯から約30m下ったところの雑草地に、頭から血を流してうつぶせに倒れ死亡しているC、E2人の遺体を発見し、近くの民家を通じて[[110番]]通報した<ref name="chunichi19941008">『中日新聞』1994年10月8日夕刊13面「河川敷に男性2遺体 殺人?頭部に殴打痕 周りに血痕 岐阜・輪之内町 長良川堤防下」</ref>。現場は安八郡[[安八町]]との境界の名神高速道路から南に約2kmの地点で、堤防の外側は[[水田]]や民家が点在している<ref name="chunichi19941008"/>。普段は夜間、この駐車帯にトラックが何台も停まっているが、事件発覚当時は週末のせいかほとんど車は停まっていなかったという<ref name="chunichi19941008"/>。C、Eの遺体には頭部に棒状のもので何度も殴られたような外傷があり、側頭部や首に血がついていた<ref name="chunichi19941008"/>。現場で発見されたC、Eの遺体の両腕は、振り下ろされる凶器を必死で防ごうとしたためか傷でボロボロになっていた<ref name="asahi19941030">『朝日新聞』1994年10月30日朝刊27面「口論になった、髪が赤い だからリンチして死なせた(第2報)」</ref>。その後の調べで、現場一帯に多くの足跡や車のわだちが見つかり、近くの堤防法面の雑草の上や、遺体の足元から約3m離れた直径10cmほどの石の上に少量の血痕があり、堤防道路上に[[中央線 (道路)|中央線]]をまたぐ形で乗用車より幅の広いスリップ痕が長さ5、6mに渡り確認された<ref name="chunichi19941008"/>。このため[[岐阜県警察]][[捜査一課]]などはC、Eは殺人、もしくは[[ひき逃げ]]などにより死亡し、何者かが遺体を運んで遺棄したとみて捜査した<ref name="chunichi19941008"/>。 |
|||
{{要出典|範囲=Dが警察に通報したためにKMらの犯行が明らかとなり、|date=2017年2月}}[[岐阜県警察|岐阜県警]]は少年グループ6人のうち、KMら男3人、女1人の計4人を特定した<ref>『朝日新聞』1994年10月12日夕刊「容疑の4人特定 長良川のリンチ 岐阜・輪之内町【名古屋】」</ref>。このうち、既に愛知県警に指名手配されていたKMは関係者への事情聴取から真っ先に長良川事件への関与が浮上した<ref name="chunichi19941015"/>。 |
|||
まず、10月13日に稲沢市在住の当時21歳の男Vと一宮市内在住の当時16歳の少女W子の2人が[[岐阜県警察]][[捜査一課]]と[[大垣警察署]]の[[捜査本部]]に長良川事件での[[殺人罪 (日本)|殺人]]、[[逮捕・監禁罪|逮捕・監禁]]、[[強盗罪|強盗]]などの容疑で[[逮捕]]され、KMや[[福岡県]]生まれの当時20歳の男Xら4人も含めて[[指名手配]]された<ref name="chunichi19941014">『中日新聞』1994年10月14日朝刊1面「岐阜の河川敷事件 仲間が別のリンチ殺人 参考人聴取で犯行を自供 男女計4人を逮捕」<br>『中日新聞』1994年10月14日朝刊31面「長良川・木曽川リンチ殺人 若者、歯止めなき暴走 動機不明、命もてあそぶ」</ref>。また、事件の参考人として聴取していた一宮市在住の当時19歳の少年Yと[[家事手伝い]]の当時18歳の少女Z子が「仲間数人で友人を暴行して木曽川に捨てた」と自供し、供述通りに尾西市の木曽川河川敷でBの遺体が発見されたため、愛知県警察は同日夜にY、Z子を殺人容疑で逮捕した<ref name="chunichi19941014"/>。Y、Z子は木曽川事件直後にグループから分かれており<ref name="asahi19941030"/>、長良川事件には関与していなかった<ref>『朝日新聞』1994年10月14日夕刊7面「『木曽川』も関与 長良川リンチ容疑者の6人【名古屋】」</ref>。 |
|||
KMは逃走中に「第3の事件」(厳密には逮捕時点では発覚していなかった大阪事件を含めて「第4の事件」)を起こしていた可能性もあった<ref name="chunichi19941015"/>。10月13日深夜、KMは一宮市内の[[コンビニエンスストア]]前に駐車して車内で弁当を食べていた18歳の若者の車にいきなり乗り込み、車の鍵を奪って仲間とみられる男女2人とともに若者を拉致し[[江南市]]方面へと走行した<ref name="chunichi19941015"/>。この様子を若者の知人が目撃し、若者の家族が連絡を受けて[[110番]]通報したために[[パトロールカー|パトカー]]が出動、KMが奪った乗用車を追跡する騒ぎとなった<ref name="chunichi19941015"/>。約3時間後の10月14日午前零時過ぎ、KMが運転していた乗用車は江南市東野郷前で[[街路樹]]に衝突し、乗っていた4人(KMと仲間の男女2人計3人と連れ去られた若者)全員が負傷しうち1人は入院したがKMは再び逃げ去った<ref name="chunichi19941015"/>。KMはこの日の深夜愛知県警[[一宮警察署]]に出頭し、指名手配容疑である木曽川事件での殺人容疑で逮捕された<ref name="chunichi19941015"/>(逮捕時には前述の怪我により、右足を引きずっていた)<ref name="asahi19941015"/>。その後、KMは11月4日には長良川事件での殺人容疑でも再逮捕された<ref>『中日新聞』1994年11月4日夕刊13面「主犯格の少年再逮捕 長良川リンチ殺人」</ref>。KMは11月26日にも一連の事件前の指名手配容疑である津島市の強盗致傷事件でも愛知県警捜査一課と[[津島警察署]]に再逮捕された<ref name="chunichi19941126"/>。 |
|||
KMが逮捕された翌日の10月15日、前述の福岡県生まれ(大阪市[[平野区]]在住)の当時20歳の男Xが岐阜県警捜査一課と大垣署に殺人、逮捕・監禁致傷などの容疑で逮捕された<ref>『中日新聞』1994年10月15日夕刊13面「手配の容疑者 さらに1人逮捕 長良・木曽川リンチ」</ref>。 |
|||
[[岐阜県警察]]の長良川事件捜査本部は10月15日、同事件の犯行グループ6人のうち行方不明になっていたKAを殺人容疑で指名手配したが、KAは既に別の事件で大阪府警に逮捕されていることが判明した<ref name="chunichi19941016_m31">『中日新聞』1994年10月16日朝刊31面「さらに1人逮捕 長良川事件」</ref>。10月23日に大垣署にKAの身柄が移され、KAは殺人と逮捕・監禁致傷の疑いで逮捕された<ref name="chunichi19941024">『中日新聞』1994年10月24日朝刊23面「大垣へ身柄移送 手配の少年逮捕 長良川リンチ殺人」</ref>。その後KAは11月14日に木曽川事件の殺人容疑で再逮捕された<ref name="chunichi19941115">『中日新聞』1994年11月15日朝刊29面「少年を再逮捕 木曽川事件殺人容疑」</ref>。 |
|||
また、KMがグループの仲間である2人の少女(W子、Z子)の殺害も他の仲間に対して漏らしていたことが11月1日までの愛知・岐阜両県警の共同捜査本部による捜査で判明した<ref name="chunichi19941102">『中日新聞』1994年11月2日朝刊31面「長良・木曽川リンチ殺人 主犯格の容疑者 仲間2少女殺害も計画 グループ内で漏らす 通報を恐れ?別の仲間 怖くなり警察へ」</ref>。犯行グループは木曽川事件が男6人、少女2人の合計8人が犯行に関与したが、少女1人を含め6人が長良川事件にも関与した<ref name="chunichi19941102"/>。少女は主犯格のKMらがCらにリンチを加えている時も手を出さず、苦しんでいるCらを見かね「もう死んでしまうからやめて」などと犯行を阻止しようとする態度も見せていた<ref name="chunichi19941102"/><ref name="chunichi19941113"/>。グループ内の仲間によると、KMは少女らが被害者に同情的だったことから「警察に通報されるかもしれない」と恐れ、「あとで殺すつもりだ」「1人殺すのも100人殺すのも同じだ」などと発言していたという(この発言がリーダーとしての虚勢及び仲間割れを防ぐための脅しなのか、本気なのかは不明)<ref name="chunichi19941102"/>。両事件で計3人を殺害した上に犯行を隠蔽するために仲間までも抹殺しようとエスカレートしていくKMに、比較的絆が強かったという仲間たちでさえ「もうついていけない。今度は自分たちがやられるかも」と恐れ、身の危険を感じ[[自首|自ら警察に通報]]して逮捕されるに至った<ref name="chunichi19941102"/>。 |
|||
さらに11月18日までにKMが「9月下旬、大阪市内でも男性を殺害し高知県内に捨てた」と自供した<ref name="chunichi19941119">『中日新聞』1994年11月19日朝刊31面「長良川・木曽川リンチ殺人 大阪でも人殺した 第4の殺人 少年自供『高知に捨てた』」</ref><ref name="chunichi19941122">『中日新聞』1994年11月22日朝刊31面「4人目の被害者は大阪の23歳男性 長良・木曽川リンチ殺人」</ref>。木曽川・長良川事件の愛知・岐阜両県警共同捜査本部は11月21日までに被害者男性の身元を大阪市在住<ref name="chunichi19941122"/>(後の報道では大阪府[[柏原市]]在住<ref name="chunichi19941123">『中日新聞』1994年11月23日朝刊27面「4人目の遺体発見 長良・木曽川事件の少年自供通り 高知の山中で」</ref>)の当時23歳(誤報、正しくは当時26歳<ref name="chunichi19941123"/>)男性と断定した<ref name="chunichi19941122"/>。岐阜・愛知両県警の合同捜査本部と[[大阪府警察]]、[[高知県警察]]はKMの供述に基づき男性の遺体捜索のため捜査員を派遣し、岐阜県警もKMを捜査に立ち会わせるため高知県に移送した<ref name="chunichi19941122_e13">『中日新聞』1994年11月22日夕刊13面「4人目被害者の遺体本格捜査へ リンチ殺人」</ref>。遺体捜索は11月23日朝からの予定であったが、岐阜県警がKMを高知県警[[安芸警察署]]に移送する途中、KM本人が希望したため捜査員が遺棄場所を案内させ[[大阪府警察]]、高知県警察とともに捜索に入ったところ、11月22日午後7時過ぎに[[室戸岬]]北西の[[高知県]][[安芸郡 (高知県)|安芸郡]][[奈半利町]]の山中で布団に巻かれた裸の男性の遺体を発見した<ref name="chunichi19941123"/>。これを受けて4府県警は広域連続強盗殺人・死体遺棄事件として共同捜査本部を設置した<ref name="chunichi19941123"/>。翌11月23日、岐阜・愛知・高知各県警及び大阪府警の共同捜査本部は[[大阪大学]][[医学部]]で遺体を[[司法解剖]]し<ref name="chunichi19941123"/>、歯形から遺体の身元をAと断定した<ref name="chunichi19941124">『中日新聞』1994年11月24日朝刊27面「歯形でAさんと断定 リンチ・高知の遺体」</ref>。このように大阪事件を自供したことについてはKMの[[自首]]が成立していると確定判決でも認定されている<ref name="chunichi20051015_20110311"/>。なお、大阪事件に関与したTは別の強盗致傷事件で大阪府警[[南警察署 (大阪府)|南警察署]]に逮捕され[[大阪家庭裁判所]]により[[保護観察]]処分になり<ref name="chunichi19941123"/>、その後行方を晦ましていたが、11月26日午前に両親に付き添われて南署に出頭し逮捕された<ref name="chunichi19941127"/>。その後、Tは長良川事件での強盗殺人、強盗致傷、逮捕・監禁容疑でも翌1995年2月9日に大垣署に再逮捕された<ref>『中日新聞』1995年2月10日朝刊39面「連続リンチ殺人 残る少年を逮捕 大垣署、長良川事件」</ref>。大阪事件においてKM・KA両名は殺人と死体遺棄の容疑で12月5日に大阪府警南署捜査本部により殺人、死体遺棄容疑で再逮捕された<ref>『中日新聞』1994年12月6日朝刊23面「さらに2人を再逮捕 連続リンチ殺人事件」</ref>。KM・KA・Tの3人は[[大阪地方検察庁]]により、12月27日までに「刑事処分相当」の意見付きで[[大阪家庭裁判所]]に送致された<ref>『中日新聞』1994年12月28日朝刊21面「大阪の事件で3人家裁送致 連続リンチ殺人」</ref>。 |
|||
HMは一連の事件の容疑者の中で最後まで[[逃亡]]していたが、翌[[1995年]](平成7年)[[1月18日]]、前日に発生した[[阪神・淡路大震災]]の混乱の中にあった[[大阪市]]内で、大阪事件の容疑で[[逮捕]]され、大阪事件の死体遺棄容疑で指名手配されていたUもこの日までに大阪府警南署に逮捕された<ref name="chunichi19950119">『中日新聞』1995年1月19日朝刊第二社会面30面「主犯格少年ら2人『刑事処分が相当』長良川・木曽川リンチ殺人」</ref>。HMは長良川事件についても強盗殺人、強盗致傷、逮捕・監禁容疑で2月9日に大垣署に<ref>『中日新聞』1995年2月10日朝刊39面「連続リンチ殺人 残る少年を逮捕 大垣署、長良川事件」</ref>、木曽川事件についても殺人容疑で3月3日に愛知県警捜査一課と一宮署にそれぞれ逮捕された<ref>『中日新聞』1995年3月4日朝刊35面「19歳少年を再逮捕 長良・木曽リンチ殺人」</ref>。 |
|||
KMら犯行グループと被害者らの接点は前述のようにボウリング場で偶然出会ったCらにKMらが因縁をつけたことであり、また最初に逮捕された当時16歳の少女W子は「6人の犯行グループのうち、3,4人は当日まで顔を見たこともない」と供述した<ref name="chunichi19941014"/>。些細なことで面識のない6人の非行グループが出会い頭的に見も知らぬ相手を襲い、[[鉄パイプ]](厳密には前述のように[[アルミニウム]]製)で滅多打ちにして殺害するという凶行に、捜査員は「昔の殺しには必ず目的や動機があった。こんな理由なき殺しはしなかった。何がいったい彼らを駆り立てたのか」とその異常さにショックを受けた<ref name="chunichi19941014"/>。別の捜査関係者は「最近、20歳前後の若者でこうしたタイプの犯罪が増えている」と指摘し、[[中日新聞]]紙上では同年7月に[[岐阜市]]内で起きた別の殺人事件についても「『むしゃくしゃして誰かに当たりたかった』という理由にもならない理由で殺人が起きた」と言及された<ref name="chunichi19941014"/>。また、合同捜査本部の幹部は「本当の動機なんてないじゃないか。結果を考えず衝動任せ。人を殴ったり、金を奪ったりということを悪いと思う意識が欠落している。まるでゲーム感覚だ」と憤った<ref name="chunichi19941113"/>。 |
|||
== 主犯格らの裁判 == |
|||
=== 第一審(大阪地裁→名古屋地裁) === |
|||
:主犯格らは、KM・KAは1995年1月18日に[[名古屋家庭裁判所]]([[猪瀬俊雄]][[裁判官]])の審判により「刑事処分が相当」として[[名古屋地方検察庁]]に[[逆送致]]され<ref name="chunichi19950119"/>、[[3月24日]]に名古屋地検により強盗殺人や逮捕・監禁などの容疑で[[名古屋地方裁判所]]に[[起訴]]された<ref name="chunichi19950325">『中日新聞』1995年3月25日朝刊34面「リンチで主犯格ら起訴」</ref>。HMは1995年3月24日に名古屋地検から名古屋家裁に送致され<ref name="chunichi19950325"/>、その後逆送致を経て[[4月28日]]に名古屋地検により起訴された<ref>『中日新聞』1995年4月29日朝刊31面「主犯格の少年起訴 連続リンチ殺人 木曽・長良川事件」</ref>。 |
|||
:[[刑事裁判]]の初公判はKMは1995年5月29日に、KAは同年6月8日に[[大阪地方裁判所]]でいずれも大阪事件について開かれた<ref name="chunichi20051014"/>が、同年6月26日に名古屋地裁で3[[被告人]]が揃った木曽川・長良川事件の初公判<ref name="chunichi20001228"/>が開かれた<ref name="chunichi19950627">『中日新聞』1995年6月27日朝刊23面「罪状認否持ち越す リンチ殺人の主犯格初公判」</ref><ref name="chunichi20051014"/>。この時点では弁護側が「打ち合わせが不十分」などと主張したために罪状認否は8月21日の次回公判に持ち越された<ref name="chunichi19950627"/>。 |
|||
:8月21日に開かれた第2回公判で冒頭陳述や罪状認否が行われ、木曽川・長良川事件の起訴事実について、3人とも事実関係は大筋で認めたものの殺意はすべて否認した<ref name="chunichi19950821">『中日新聞』1995年8月21日夕刊11面「少年3人、殺意を否認 リンチ殺人第2回公判 事実関係は認める 名古屋地裁」</ref>。3人の弁護人も殺意の有無について争うとともに、事件の特殊性や少年法の趣旨から、[[精神鑑定]]などを含めた多角的な情状を訴える方針を明らかにした<ref name="chunichi19950821"/>。検察側は冒頭陳述で「3人は大阪で知り合って暴力団に入り恐喝行為を繰り返し、その結果引き起こした大阪事件の発覚を恐れて愛知県に逃走してきた」「3人の間には序列(一連の裁判で分かっているのはKA>KM>HM)があり、木曽川・長良川事件も初めはいつもの”[[カツアゲ]]”のつもりだったが、『兄貴』分の俺が、あるいは『兄貴』より格下の自分がやらねば、などとの思いが犯行をエスカレートさせた。特に長良川事件では、ある1人は『昨日やって(木曽川事件)今日もか」と躊躇いもあったが、結局警察への通報を恐れて口封じのためにもC、E両名を殺害した」などと述べた<ref name="chunichi19950821"/>。 |
|||
:[[1998年]](平成10年)5月13日には名古屋地裁([[佐藤学 (裁判官)|佐藤学]]裁判長)にて裁判官の交代に伴う更新手続き(第54回公判<ref name="chunichi20001228"/>)が行われ、木曽川事件・長良川事件について、それまで共謀や殺意を否定してきた被告人(HM<ref name="chunichi20001228"/>)が一転して「法的な理解ができていなかったため、意に反する認否をした。確定的な殺意や殺害の企てはなかったが、このまま(被害者らを)放置すれば死んでしまうかもしれないと思った」などと、共謀や殺意などを認める供述をした<ref>『中日新聞』1998年5月14日朝刊27面「連続リンチ殺人 愛知、岐阜2事件 一転、共謀認める 3被告のうち1人 名地裁公判」</ref>。次回公判の5月27日(第55回公判<ref name="chunichi20001228"/>)にはもう1人(KA<ref name="chunichi20001228"/>)も他の被告人との共謀や殺意を認める意見陳述をした<ref>『中日新聞』1998年5月28日朝刊30面「新たに1被告が起訴事実認める 連続リンチ殺人公判」</ref>。 |
|||
:1998年8月13日までに、名古屋地裁(佐藤学裁判長)はそれまで大阪地検によって起訴され、大阪地裁で開かれてきた(2人については1995年に名古屋地裁に移されたが審理は中断、残り1人は大阪地裁で審理が続いていた)大阪事件の審理について、木曽川・長良川事件の審理に併合して3事件を一括して審理することを決めた<ref name="asahi19980814">『朝日新聞』1998年8月14日朝刊23面「大阪事件を併合 木曽川・長良川リンチ殺人公判で名地裁【名古屋】」<br>『朝日新聞』1998年8月14日夕刊11面「『大阪事件』を併合、一括審理に 3府県連続リンチ殺人【大阪】」</ref>。手続きは次回公判の9月21日に行われた<ref name="asahi19980814"/>。 |
|||
:{{要出典|範囲=[[裁判]]では、主犯格3名は反省のない態度をみせ、「自分は未成年だから死刑にはならない」{{Refnest|group="注釈"|この時点で既に[[永山則夫連続射殺事件]]以降にも、[[名古屋アベック殺人事件]]や[[市川一家4人殺人事件]]で犯行当時少年の被告人に第一審で[[死刑]]判決が出ているにも関わらずである。}}「俺の刑はどれくらいなの」と発言したり、[[被害者]]遺族に対して笑みを見せるなどして、[[傍若無人]]な態度を繰り返した。|date=2017年2月}} |
|||
:第一審の名古屋地裁([[石山容示]]裁判長)では[[2000年]](平成12年)12年27日に開かれた第106回目公判(論告求刑公判)にて、このような反省なき態度、あまりに残虐な犯行から、[[検察官|検察]]側は「(各事件での3人の関与の度合いについて)それぞれの事件で果たした役割に軽重を見出すことはできず、刑事責任は同等」との判断を示した上で「犯行は、場当たり的に何の落ち度もない4人を殺害したもので、命乞いをしながら嬲り殺された被害者もおり、遺族の悲嘆も強烈」と断罪し、「わずか10日間で4人を殺害した[[少年犯罪]]史上、まれに見る凶悪かつ残虐な事件。犯行当時少年とはいえ矯正可能性は全くなく、極刑をもって臨むしかない」として、3人全員にいずれも死刑を[[求刑]]した<ref name="chunichi20001228">『中日新聞』2000年12月28日朝刊1面「木曽・長良川リンチ殺人 3被告に死刑求刑 名地検 『少年(当時)でも矯正無理』」<br>『中日新聞』2000年12月28日朝刊25面「息子奪われた悔しさ今も 木曽・長良川リンチ求刑 涙の遺族『死刑に』 『少年でも許されぬ』」</ref>。{{要出典|範囲=「自分は少年だから死刑にならない」と考えていた3名はこの頃から、遺族に対して謝罪の手紙を送ったりしているが、遺族には受け入れられなかった。|date=2017年2月}} |
|||
:翌[[2001年]](平成13年)[[2月28日]]には弁護側による最終弁論(約10時間という異例の長時間となり、3回の休憩を挟みながら午後9時まで続いた)が開かれ、3人は弁論後の最終陳述で「命ある限り被害者の冥福を祈り、遺族に出来る限りの償いをしたい」などと述べ、初公判から4年8か月ぶりに結審した<ref>『中日新聞』2001年3月1日朝刊34面「木曽川・長良川連続リンチ殺人 涙流し『生きて償う』名古屋地裁 3被告訴え結審」</ref>。 |
|||
:同年[[7月9日]]、名古屋地裁(石山容示裁判長)で[[判決 (日本法)|判決]][[公判]]が開かれ、3事件いずれについても3人の殺意は認めたものの、木曽川事件だけは「暴行後、殺すつもりでBを河川敷雑木林に放置したが、放置と死亡の因果関係が立証されていない」として殺人罪を認めず、傷害致死罪の成立にとどまると判断した上で、特に長良川事件で「強固な殺意」があったとされたKMは「中心的な立場で、重要で不可欠な地位にあり、集団の推進力になった」(事件を主導した)として[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]で死刑{{Refnest|group="注釈"|「4人殺害すべての実行行為者で、反社会性は顕著。当時少年で反省の兆しが現れるようになったことなど情状を最大限考慮しても極刑はやむを得ない」とされた<ref name="chunichi20010710"/>。}}、KAとHMは[[傷害罪#傷害致死罪|傷害致死罪]]で[[無期刑|無期]][[懲役]]{{Refnest|group="注釈"|KMとの[[共謀共同正犯]]が認定されたものの、「追従的な立場で、暴行や矯正可能性などの程度がKMと異なる」として死刑選択を回避した<ref name="chunichi20010710"/>。}}の[[判決 (日本法)|判決]]が下された{{Refnest|group="注釈"|少年事件での死刑判決は[[1983年]]の[[永山則夫連続射殺事件]]の最高裁判決以降では、第一審では1989年の名古屋地裁・[[名古屋アベック殺人事件]]判決と、1994年の[[千葉地方裁判所|千葉地裁]]・[[市川一家4人殺人事件]]判決に続き3件目{{Refnest|group="注釈"|前者は控訴審(名古屋高裁)で無期懲役に減軽され確定、後者は被告側控訴及び上告棄却(それぞれ東京高裁・最高裁)で死刑確定し、平成の少年犯罪では初の[[少年死刑囚]]になった。}}で、[[平成]]の事件では市川の事件に続き2件目である。}}<ref name="chunichi20010710">『中日新聞』2001年7月10日朝刊1面「主導の19歳(当時)に死刑 リンチ殺人で名地裁判決 『強固な殺意 集団の推進力』追従2人は無期」<br>『中日新聞』2001年7月10日朝刊33面「遺族『何だ、これは』 連続リンチ殺人判決 7年間の涙乾かず『墓前にどう報告…』」</ref>。 |
|||
:3人全員を死刑としなかったこの判決に被害者遺族からは「何だ、これは」との不満の声が上がり、「墓前にどう報告していいのか」という怒りとやりきれない思いが口にされた<ref name="chunichi20010710"/>。3人の[[弁護人|弁護]]側は死刑及び無期懲役判決を事実誤認及び量刑不当を理由に不服として、検察側もKA・HMの無期懲役判決は量刑不当である上に殺人罪ではなく傷害致死罪とされた木曽川事件について事実誤認を理由に不服として、それぞれ3人全員について[[名古屋高等裁判所]]に[[控訴]]した<ref name="chunichi20010724">『中日新聞』2001年7月24日朝刊25面「連続リンチ殺人 殺人罪求め控訴 名地検『3被告共通の事実』」</ref>。求刑通り死刑判決を受けた被告人について検察側が控訴したのは史上初だが、名古屋地検は「全員について控訴しなければ、犯罪事実が被告人によって異なることになる。放置することはできない」として、求刑通り死刑判決を受けたKMも含めて控訴期限の7月23日に控訴に踏み切った<ref name="chunichi20010724"/>。 |
|||
=== 控訴審(名古屋高裁) === |
|||
:名古屋高裁([[川原誠 (裁判官)|川原誠]]裁判長{{Refnest|group="注釈"|東京高裁判事、名古屋地裁判事、[[津地方裁判所|津地裁]]・[[津家庭裁判所|津家裁]]所長などを経て2002年3月より名古屋高裁判事に<ref name="chunichi20051014"/>。名古屋高裁転属前は[[勝田清孝事件]]の死刑判決や、別件逮捕を理由に無罪判決を言い渡した[[蛸島事件]]判決などにも関わった<ref name="chunichi20051014"/>。2003年の[[ドラム缶女性焼殺事件]]控訴審判決では第一審死刑判決を支持して被告側控訴棄却、同年2月3日に言い渡された[[愛知県]][[扶桑町]]強盗殺人事件(2003年11月18日発生)控訴審判決では第一審・名古屋地裁一宮支部の懲役15年判決(2004年9月8日付、法定刑である無期懲役求刑に対し自首を認定して減軽)を破棄して求刑通り無期懲役を言い渡した<ref name="chunichi20051014"/>。この事件の控訴審判決の直後の11月16日に定年退官した<ref name="chunichi20051014"/>。}})での控訴審初公判は[[2003年]](平成15年)5月26日に開かれ、検察側は傷害致死と認定された木曽川事件について殺人罪の適用を求め、2人を無期懲役とした第一審判決量刑について「著しく軽く不当。矯正はもはや不可能」と一審求刑どおり改めて3人全員への死刑を求め、KMの弁護側は「主犯ではなく、3人の罪責に差はない」と、KAは「形式上兄貴とされていたが、KMに追随していた」と、HMは「他の被告の手下に過ぎない」とそれぞれ強調、矯正可能と訴えた<ref>『中日新聞』2003年5月26日夕刊1面「3被告の死刑求める 木曽川・長良川リンチ殺人控訴審 検察『悪質さ同じ』名高裁初公判」<br>『中日新聞』2003年5月27日朝刊1面「長良川・木曽川連続リンチ殺人 3被告『矯正可能』名高裁控訴審で主張」</ref>。 |
|||
:[[2005年]](平成17年)[[8月19日]]に検察側と弁護側が双方意見を述べ合う最終弁論が開かれ、検察側は「何ら落ち度のない4人の若者に激しい集団暴行を加え、犯行を隠すために次々と殺害した自己中心的な犯行で、結果はあまりにも悲惨で重大。死刑以外に選択肢はない」と、弁護側は「(各被告の事件での主体的役割を否定し)『死刑や無期懲役は重すぎる』、(一連の犯行について殺意や計画性を否定し)『未成年者の未熟な集団が引き起こした最悪の結果』」とそれぞれ主張し、控訴審は結審した<ref>『中日新聞』2005年8月20日朝刊37面「木曽川・長良川連続リンチ殺人 死刑妥当の是非争点 控訴審結審 判決は10月14日」</ref>。 |
|||
:同年[[10月14日]]、名古屋高裁で控訴審判決公判が開かれ、川原誠裁判長は「犯行は極めて悪質で残虐。非道さは言うべき言葉を見いだせない」「4人の生命が無残にも奪われた結果は誠に重大。3被告の役割には大差はなく、犯行時少年だったことを考慮しても極刑はやむを得ない」と断罪して一審判決で傷害致死罪とされた木曽川事件を含めすべての事件について殺人罪を認定、死刑積極適用に動き、KMのみを死刑、KA・HMの2人を無期懲役とした第一審判決を破棄し、一転してKM{{Refnest|group="注釈"|「重大な結果を導く発端を作るなど終始主導的立場で、他の共犯者らを被害者4人の殺害に向かわせ、自ら積極的に激しい攻撃を執拗に加えるなどして犯行を強力に推進し、最も中心的で際立って重要な役割を果たしている」とされた<ref name="chunichi20051015_20110311"/>。なお、本文で述べた通り木曽川事件については「傷害致死→殺人」と事実認定そのものを見直したため、第一審同様死刑判決を受けたKMについても控訴棄却ではなく、検察側の控訴を認めて一旦原審を破棄した上でKA・HMとともに改めて死刑判決が言い渡された。}}・KA{{Refnest|group="注釈"|「所属暴力団の中では3人の中で最上位であることの影響力を行使し、KMとともに主導的立場で犯行を推進するとともに、被害者らに激しい暴行を加えるなど、実行行為にも積極的に加わり、木曽川・長良川事件においても、事件全体を通じて極めて重要な役割を果たしており、その点ではKMやHMとの間にはさほどの差異はない」とされた<ref name="chunichi20051015_20110311"/>。}}・HM{{Refnest|group="注釈"|所属暴力団における序列が3人の中では一番下ではあったが、「殺害の動機を形成するに至った暴行に自ら積極的に関与し、KM・KAから被害者の殺害を暗に促されるや、ためらうことなく賛成し、進んで殺害に着手したり、凶器を準備し、殺害の早期実行を決め、率先して被害者への攻撃に出るなど、犯行を強力に推進し、重要な役割を果たした」とされた<ref name="chunichi20051015_20110311"/>。}}の全3名にいずれも死刑判決を下した<ref name="chunichi20051014">『中日新聞』2005年10月15日朝刊1面「元少年3人に死刑 連続リンチ殺人 『役割に大差ない』名高裁 2人無期の一審破棄」<br>『中日新聞』2005年10月15日朝刊3面「少年事件厳罰化拍車か 連続リンチ殺人元少年3人に死刑 死刑の選択基準明確化」<br>『中日新聞』2005年10月15日朝刊33面「連続リンチ殺人控訴審判決要旨『連続リンチ事件の経過』」<br>『中日新聞』2005年10月15日朝刊36面「遺族癒えぬ悲しみ あの子は帰らない」<br>『中日新聞』2005年10月15日朝刊37面「3被告身じろぎせず 連続リンチ殺人全員『死刑』 遺族に深々一礼も 弁護人は『頭真っ白』」</ref>。高裁で犯行当時少年の被告人に死刑判決が言い渡されたのは1996年の[[東京高等裁判所|東京高裁]]における[[市川一家4人殺人事件]](1992年発生、2001年[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]で判決確定)控訴審判決以来であり、日本における同じ[[少年犯罪]]で複数の被告に死刑判決が下された初めての判例でもあった<ref name="chunichi20051014"/>。 |
|||
:死刑判決宣告の瞬間3人は青ざめた顔で体をこわばらせ、一方で全員の極刑を求めていた遺族らは涙を拭い頷き、遺族の一人(長良川事件被害者Eの両親)は閉廷後の記者会見で「裁判所は実態をきっちり見分けてくれた」と判決を評価しながらも「判決が1つの区切りになったとしても、彼らを許すかどうかは別問題」と語り、別の遺族(長良川事件の別の被害者Cの兄)は「極刑が下っても弟は帰ってこない。私達の苦しみ、悲しみは一生癒やされない」「被告らは『生きて償いたい』と言う。だが、殺された弟たちはもっと『生きたい』という思いが強かったはず」と、晴れることのない胸の内を語った。 |
|||
:3被告側は判決を不服として10月26日までに全員が[[上告]]した(KAは10月18日付、HMは10月24日付、KMは10月26日付)<ref>『中日新聞』2005年10月19日朝刊30面「被告1人が上告 連続リンチ殺人」<br>『中日新聞』2005年10月24日夕刊11面「元少年上告2人目 連続リンチ殺人」<br>『中日新聞』2005年10月27日朝刊30面「元少年全員が上告 連続リンチ殺人」</ref>。 |
|||
=== 上告審(最高裁) === |
|||
:[[2011年]](平成23年)[[2月10日]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第1小法廷([[桜井龍子]]裁判長)で上告審[[口頭弁論]]公判が開かれ、弁護側は「控訴審判決は少年の精神的未熟さを考慮していない」などとして死刑回避を、検察側は「動機や結果の重大性、遺族の処罰感情に照らし、死刑を回避すべき事情は認められない」と上告棄却を求めた<ref>『中日新聞』2011年2月11日朝刊1面「元3少年の死刑回避を 連続リンチ殺人 上告審弁論で弁護側」</ref>。被害者遺族の一人(Eの父親)は傍聴後、[[中日新聞]]の取材に対し「責任転嫁が多い。自分さえよければ、という主張は今回も変わらなかった」と被告らを批判した上で、「被告からの(謝罪の)手紙を受け取るのも、法廷での主張との違いを見つけるため」と断言し、未熟な少年には死刑を適用すべきではないとの主張には「法律([[少年法]])で18歳以上の死刑はあり、回避の理由に当たらない。犯した行為で裁かれるべきだ」と一蹴した<ref>『中日新聞』2011年2月11日朝刊33面「連続リンチ殺人 上告審弁論『真の謝罪に思えぬ』遺族ため息、不信強く」</ref>。 |
|||
:同年[[3月10日]]、最高裁第1小法廷(桜井龍子裁判長)は「11日間という短期間に犯行を重ねており、執拗で残虐。地域社会に与えた影響は大きい」として上告を[[棄却]]し、控訴審で言い渡された元少年3人への死刑判決が確定した<ref group="最高裁判決文" name="saikosai"/><ref name="chunichi20110310">『[[中日新聞]]』2011年3月10日夕刊1面「元少年3人死刑確定へ 連続リンチ殺人 事件から17年『社会への影響大』最高裁が上告棄却」<br>『中日新聞』2011年3月11日朝刊1面「元少年3人死刑確定へ 連続リンチ殺人 最高裁が上告棄却 『結果重大 やむなし』」「―なぜ匿名報道か― 更生になお配慮必要」<br>『中日新聞』2011年3月11日朝刊31面「実名『更生する可能性なく』 報道各社対応割れる 匿名『少年法の精神基づく』」<br></ref>。少年事件で死刑判決が確定するのは1992年に発生した[[市川一家4人殺人事件]](2001年判決確定)の犯行当時19歳の[[少年死刑囚]](2016年現在[[東京拘置所]]収容中)以来、平成の少年事件では2件目(4人目)であり、少年事件で複数の被告の死刑が同時に確定するケースは最高裁判所が把握している[[1966年]]以降初となる<ref name="chunichi20110310"/>。 |
|||
:KMは所内のラジオ放送で判決内容を知り、判決翌日の2011年3月11日午前、名古屋拘置所で弁護人の[[山下幸夫]]<ref>『中日新聞』2009年6月5日朝刊30面「裁判員を担う 第六部 少年事件(上) 更生の可能性 短期審理でどう判断」</ref>と面会した<ref name="chunichi20110311">『中日新聞』2011年3月11日夕刊13面「連続リンチ殺人 『判決は政治的な判断』 元少年の1人 再審請求を希望」</ref>。弁護人が判決要旨を読み上げるとKMは「[[少年犯罪|少年事件]]への厳罰化と受け止めた。判決は政治的な判断」という趣旨の感想を伝え、[[再審]]請求の希望を口にした<ref name="chunichi20110311"/>。判決に動揺した様子はなく、今回の判決で事件当時未成年だった自分たち3人を[[実名報道]]するか匿名報道を続けるかで各報道機関の対応が分かれた([[#実名報道|後述]])点にも関心を示していたという<ref name="chunichi20110311"/>。また、同日午前にKAと面会した別の弁護人によれば、KAはこの判決について「重く受け止めている」と話したという<ref name="chunichi20110311"/>。 |
|||
:弁護側は3月22日付で最高裁に判決訂正を申し入れた<ref>{{Cite web |date=2011-3-22 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG22039_S1A320C1CC1000/ |title=死刑判決の元3少年、最高裁に訂正申し立て |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=2017-1-8 |archiveurl=http://archive.is/WygKt |archivedate=2017-1-8 }}</ref>が同30日付で棄却され、3人の死刑判決が正式に確定した<ref>『中日新聞』2011年4月2日朝刊31面「連続リンチ殺人 元少年3人の死刑確定 最高裁、訂正申し立て棄却」</ref><ref>{{Cite web |date=2011-4-1 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0102M_R00C11A4CR8000/ |title=元少年3被告の死刑が確定、3府県連続リンチ殺人 |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=2017-1-8 |archiveurl=http://archive.is/y0gmv |archivedate=2017-1-8 }}</ref>。 |
|||
==== 実名報道 ==== |
|||
:主犯格の[[被告人]]であるKM・KA・HMの3人全員に控訴審判決で死刑判決が下された直後に発売された『[[週刊新潮]]』2005年10月20日号(朝日新聞報道では10月27日号)は「史上最凶『リンチ殺人』で死刑判決なのに新聞が載せない元少年の『実名と顔写真』」と題した記事でKM・KA・HMの3人を[[実名報道]]し、うち2人については顔写真も掲載した<ref name="chunichi20051020">『中日新聞』2005年10月20日朝刊32面「連続リンチ殺人 元少年の実名掲載 週刊新潮、2人は写真も」</ref><ref name="asahi20051105">『朝日新聞』2005年11月5日朝刊33面「(メディア)死刑判決の少年事件報道 『確定後は実名』の動き」</ref>。同誌編集部はこの事件について『3人が死刑判決を受けるほどの凶悪無比な犯罪であり、被害者遺族の被害感情も峻烈であることを考慮し、実名報道すべきと判断した」とコメントした<ref name="chunichi20051020"/><ref name="asahi20051105"/>。これに対し、[[日本弁護士連合会]](日弁連)は「少年法の精神を守って同様の報道がないよう強く要望する」との声明を出した<ref name="asahi20051105"/>。この時点では在京の新聞・テレビ各社は「少年の更生を目的とする少年法の精神を尊重した」として匿名報道を継続したが、この時点で[[朝日新聞]]、[[テレビ朝日]]は死刑が確定した場合は実名報道する方針を決めていた<ref name="asahi20051105"/>{{Refnest|group="注釈"|2004年6月5日付の報道より適用している指針「事件の取材と報道2004」において「犯行当時少年でも死刑判決が確定した場合、匿名報道する最大の理由である更生(社会復帰)への配慮の必要性が基本的に消える。死刑が誰に対して執行されるのかは、権力行使の監視の意味でも社会に明確にされるべきだ」として、[[少年死刑囚]]については原則実名報道することを決めた<ref name="asahi20040621"/>。}}。また[[東京放送テレビ|TBS]]は[[堺市通り魔事件]]に関連して[[触法少年]]の実名報道を合法とした[[大阪高等裁判所|大阪高裁]]判決以降、社内で少年犯罪と実名報道について議論を重ねており、[[テレビ東京]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、[[日本放送協会|NHK]]、[[読売新聞]]、[[毎日新聞]]もそれぞれ「今後も検討を続けていく」とした<ref name="asahi20051105"/>。 |
|||
:そして最高裁判決により、死刑が確定して更生や社会復帰の可能性が事実上なくなったことを受けて、[[毎日新聞]]と[[中日新聞]]([[東京新聞]])を除く各[[報道機関]]{{Refnest|group="注釈"|全国メディアでは[[毎日新聞]]を除く各[[全国紙]]([[読売新聞]]<ref name="yomiuri20110311">『[[読売新聞]]』2011年3月11日朝刊1面「元少年3人死刑確定へ 連続リンチ殺人 最高裁、上告棄却」<br>『読売新聞』2011年3月11日朝刊37面「元少年3人の死刑確定へ 実名、報道すべき関心事」</ref>・[[朝日新聞]]<ref name="asahi20110311">『[[朝日新聞]]』2011年3月11日朝刊1面「元少年3人死刑確定へ 最高裁 4人殺害『責任重大』」</ref>・[[産経新聞]]・[[日本経済新聞]]<ref name="nikkei20110311">『[[日本経済新聞]]』2011年3月11日朝刊43面「元少年3人死刑確定へ 連続リンチ殺人 最高裁上告棄却『4人次々 結果重大』」</ref>)と[[時事通信]]、[[共同通信]]、[[日本放送協会|NHK]]・[[在京キー局]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]・[[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[東京放送テレビ|TBS]]・[[テレビ朝日]]・[[テレビ東京]])が実名報道に切り替えた(フジテレビは3人の顔写真も報じた。テレビ朝日は最高裁判決時点では匿名で報じたが、正式に確定後実名報道に切り替えた)<ref name="chunichi20110310"/>。なお、後の[[光市母子殺害事件]]や[[石巻3人殺傷事件]]では本事件と異なり最高裁判決時点から実名報道に切り替えたテレビ朝日を除き、各マスメディアは本事件での対応を踏襲している。}}はKM・KA・HMの3人を実名報道した。地元紙の[[中日新聞]]([[東京新聞]])は最高裁での死刑判決が覆る可能性がほぼないことから実名報道への切り替えも検討したが、「少年法が求める更生への配慮の必要性はなお消えていない」として結局匿名で報じた<ref name="chunichi20110310"/>。ちなみに、[[朝日新聞]]は[[市川一家4人殺人事件]]の判決確定後の2004年に[[少年死刑囚]]については「国家によって生命を奪われる刑の対象者は明らかにされているべきだとの判断」から原則実名報道する方針を決めており<ref name="asahi20110311"/><ref name="asahi20040621">『朝日新聞』2004年6月21日朝刊30面「朝日新聞指針『事件の取材と報道2004』 4年ぶり全面改訂」</ref>、[[読売新聞]]や[[産経新聞]]、[[日本経済新聞]]もそれぞれ「死刑が確定すれば、更生(社会復帰)の機会はなくなる一方、国家が人の命を奪う死刑の対象が誰なのかは重大な社会的関心事」<ref name="yomiuri20110311"/>「死刑が事実上確定し、社会復帰などを前提とした更生の機会は失われます。事件の重大性も考慮」「犯行当時少年だった被告に死刑判決が下された重大性に加え、被告の更生の機会がなくなることも考慮」<ref name="nikkei20110311"/>と実名報道切り替えの理由を説明している<ref>{{Cite web |url=http://www.47news.jp/47topics/premium/e/225841.php |title=▽ 実名報道と匿名報道 光市母子殺害事件で分かれる(在京メディア各社の対応とその理由) |publisher=共同通信 |date=2012-2-21 |accessdate=2016-6-16 |archiveurl=http://archive.is/HnmsA |archivedate=2016-11-10}}</ref>。一方、全国メディアで唯一匿名報道を続けた毎日新聞は「4人の命が奪われた残虐極まりない事件ですが、事件当時は少年だった被告の名前は少年法の理念を尊重し匿名で報道するという原則を、最高裁判決が出たからと行って変更すべきではないと判断しました」「死刑確定後も[[再審]]や[[恩赦]]が認められて社会復帰する可能性が全くないとは言い切れません」{{Refnest|group="注釈"|このような反論に対して読売新聞は「もし、そのような(再審請求が認められて結論が覆るなどの)結果となれば、なおさら重大な出来事であり、やはり実名とともに歴史に記載されるべきだと考える」としている<ref name="yomiuri20110311"/>。}}とした上で、「死刑が執行されるような事態になれば、更生可能性はその時点で消えたと解釈することができ、実名報道に切り替えることも改めて検討します」とも補足した<ref>『毎日新聞』2011年3月11日朝刊1面「元少年3人死刑確定へ 連続リンチ殺人 最高裁が上告棄却」<br>『[[毎日新聞]]』2011年3月11日朝刊28面「匿名報道を継続します 本紙見解」</ref>。日弁連の[[宇都宮健児]]会長は同日、「少年の更生・社会復帰を阻害する実名報道を禁止した少年法の理念は死刑判決でも変わらず、それに反する事態で極めて遺憾。再審や恩赦で少年が社会復帰する可能性は残っており、実名が報道に不可欠な要素とも言えない。今後、実名報道することがないよう強く要望する」との声明を出した<ref>{{Cite web |url=http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2011/110310.html |title=少年の実名報道を受けての会長声明 |publisher=[[日本弁護士連合会]](日弁連)会長 [[宇都宮健児]] |date=2011-3-10 |accessdate=2017-2-7 |archiveurl=http://archive.is/5CsH6 |archivedate=2017-2-7 }}<br>{{Cite web |url=http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2011/110310_2.html |title=少年に対する死刑判決の確定に関する会長声明 |publisher=[[日本弁護士連合会]](日弁連)会長 [[宇都宮健児]] |date=2011-3-10 |accessdate=2017-2-7 |archiveurl=http://archive.is/US7wO |archivedate=2017-2-7 }}</ref><ref name="chunichi20110310"/><ref name="yomiuri20110311"/>。 |
|||
:なお、名古屋拘置所は「撮影はできない」との拘置所長名の注意書きを面会室に掲示している<ref name="nikkei20110512"/>([[法務省]][[矯正局]]は[[刑事収容施設法]]に基づく拘置所長の施設管理権で拘置所面会室への撮影機器の持ち込みを認めていない<ref name="chunichi20110512"/>)が、[[写真週刊誌]]『[[フライデー]]』([[講談社]])2011年5月12日号はKA(当時O姓)と名古屋拘置所で面会した際に撮影したとする写真(KAが面会室で涙をぬぐう様子などを写した3枚)を掲載した<ref name="chunichi20110512">『中日新聞』2011年5月12日夕刊13面」「リンチ殺人事件 死刑囚写真掲載 発売の週刊誌」</ref><ref name="nikkei20110512"/>。フライデー編集部は「本人の同意があったかや撮影方法はコメントしない。編集部独自の判断で、報道に意義があると考えている」としている<ref name="nikkei20110512"/><ref name="chunichi20110512"/>。これを受けて矯正局成人矯正課は「調査結果を踏まえて対処する』とコメント、KAの弁護人の[[村上満宏]]は「写真掲載に少年法上の問題はあるが、写真を掲載することで、この死刑囚(KA)を死刑にしてよいのかとの是非を問う意味では理解できる」とコメントした<ref name="chunichi20110512"/>。 |
|||
=== 死刑囚らのその後 === |
|||
[[2017年]](平成29年)現在、収監先は全員が同一ではない。第一審から一貫して死刑判決を受けたKMは[[東京拘置所]]({{要出典|範囲=[[名古屋拘置所]]に収容されていたが、判決確定前の[[2010年]](平成22年)12月に拘置所職員に対し他の収容者に関する情報の漏洩を唆した容疑により[[国家公務員法]]違反で[[書類送検]]され東京拘置所に移送された。なおこれについては[[不起訴処分]]|date=2017年2月}})に、控訴審で初めて死刑判決を受けたKA・HMは名古屋拘置所に[[収監]]されている。 |
|||
3人の弁護人は2011年5月28日、[[東京都]][[新宿区]]内で開かれた[[市民団体]]の集会で「互いに虚勢を張りながら暴行をエスカレートさせた少年事件の特質に触れず、第一審で傷害致死罪認定された木曽川事件を殺人罪と認定した最高裁判決は不当」として、いずれの死刑囚も[[再審]]を望んでいるとして、近く再審請求する方針を明らかにした<ref>『中日新聞』2011年5月29日朝刊1面「連続リンチ殺人 3死刑囚再審請求へ 弁護人方針 木曽川事件、焦点に」</ref>。 |
|||
;KM |
|||
:KMは2011年12月16日付で[[精神科医]]による[[精神鑑定]]の内容を新証拠として提出し「各犯行時は[[離人症]]の症状を伴う慢性化した[[解離性障害]]であり、[[心神喪失]]もしくは[[心神耗弱]]状態<ref name="chunichi20130206_m"/>だった疑いがある」として名古屋高裁に[[再審]]請求した<ref>『中日新聞』2011年12月20日朝刊27面「死刑囚が再審請求 連続リンチ殺人 心神喪失を主張」</ref><ref>{{Cite web |date=2011-11-20 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG19048_Q1A221C1CC0000/ |title=連続リンチ殺人、死刑囚が再審請求 |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=2017-1-8 |archiveurl=http://archive.is/x549r |archivedate=2017-1-8 }}</ref>。これについては[[2013年]](平成25年)2月4日付で名古屋高裁刑事2部([[柴田秀樹]]裁判長)で「再審請求にはこれまでの公判で明らかにならなかった新証拠が必要だが、今回の精神鑑定は新規性を欠く上、証拠価値としても信用性に乏しい」などとして請求[[棄却]]の決定がなされた<ref name="chunichi20130206_m">『中日新聞』2013年2月6日朝刊26面「連続リンチ殺人 死刑囚の再審請求棄却 名高裁 精神鑑定『新規性欠く』」</ref><ref>{{Cite web |date=2013-2-6 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0505Y_W3A200C1CC0000/ |title=死刑囚再審請求、高裁が棄却決定 94年の連続リンチ殺人 |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=2017-1-8 |archiveurl=http://archive.is/gvjLh |archivedate=2017-1-8 }}</ref>。KMは棄却を不服として異議申し立てしたが、[[2015年]](平成27年)12月24日付で名古屋高裁(石山容示裁判長、本事件でかつて第一審判決を担当した)は「証拠は新規性を欠き、価値も乏しい。再審請求の棄却決定に事実誤認や判断の誤りはない」と指摘してKAとともに異議申し立てを棄却した<ref name="chunichi20151226">『中日新聞』2015年12月26日朝刊31面「連続リンチ殺人で異議申し立て棄却 2死刑囚に、名古屋高裁」</ref>。 |
|||
:この再審請求の際、2005年(当時控訴審公判中)に当時KMが収監されていた名古屋拘置所が、KMから預かった公判記録を廃棄していたことが判明した<ref name="chunichi20120201">『中日新聞』2012年2月1日夕刊13面「名古屋拘置所 預かった公判記録誤廃棄 死刑囚、賠償求め国提訴」</ref><ref name="nikkei20120201">{{Cite web |date=2012-2-1 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG19048_Q1A221C1CC0000/ |title=死刑囚公判記録、名古屋拘置所が誤廃棄 連続リンチ殺人事件 |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=2017-1-8 |archiveurl=http://archive.is/Tf2rF |archivedate=2017-1-8 }}</ref>。KMは「必要不可欠な資料を廃棄され精神的苦痛を受けた」として2011年5月、国に約600万円の[[損害賠償]]を求めて名古屋地裁に提訴した(訴状によると、拘置所は2005年4月に公判記録などを入れた[[段ボール]]10箱を預かり、うち3箱を廃棄した<ref name="nikkei20120201"/>。廃棄された段ボール箱の中には少なくとも[[A4版|A4]]用紙8400枚分の資料が入っていたという<ref name="chunichi20120201"/>。その直後名古屋拘置所はKMから閲覧を求められたため、廃棄に気付いて謝罪した<ref name="chunichi20120201"/>。KMはその際にコピー代の負担などを申し出たが話はまとまらなかった<ref name="chunichi20120201"/>。KM側は「記録には自分の意見なども書き込んでいたため、復元はできない」と主張した<ref name="chunichi20120201"/>)<ref name="chunichi20120201"/><ref name="nikkei20120201"/>。名古屋拘置所は「廃棄は事実だが、裁判中なので詳細は答えられない。当時、その件で処分が出たかどうかも、記録が残っていないため分からない」とした<ref name="chunichi20120201"/><ref name="nikkei20120201"/>。 |
|||
:KMとその弁護人は死刑確定後の2011年9月から[[2014年]](平成26年)6月にかけて名古屋、東京両拘置所で、再審請求や民事訴訟の打ち合わせの際に職員が立ち会わないよう求めたが認められなかった<ref name="chunichi20160224">『中日新聞』2016年2月24日朝刊30面「『秘密面会』拒否違法 死刑囚の請求認める 東京地裁」</ref>。このためKMと弁護士2人は、職員の立ち会わない面会を拘置所が拒んだのは違法として国に損害賠償を求め、[[東京地方裁判所]]([[谷口豊]]裁判長)は[[2016年]](平成28年)2月23日、「弁護士との『秘密面会』を拒否できるのは、死刑囚が拘置所の秩序を乱したり動揺したりする恐れがある場合に限られる」と指摘した上で「今回はその恐れはなく、裁量の範囲を逸脱している。秘密で面会する利益を侵害した」として国に対し損害賠償計約53万円の支払いを命じた<ref name="chunichi20160224"/><ref>{{Cite web |date=2016-2-23 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG23H7Z_T20C16A2000000/ |title=死刑囚面会で職員同席は違法 東京地裁判決 |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=2017-1-8 |archiveurl=http://archive.is/FPU6h |archivedate=2017-1-8 }}</ref>。 |
|||
;KA |
|||
:KAは2013年1月8日付で、捜査段階での自白を「捜査官に迎合することで全く虚偽の事件が作られた」と否定するKA本人の[[上申書]]と、木曽川事件の被害者Bの死因について「BはKAが暴行を加える以前に他の共犯者らによる暴行によって既に致命傷を負っていた」とする[[法医学者]]の鑑定書を新証拠として提出し、名古屋高裁に再審請求した<ref name="chunichi20130206_e">『中日新聞』2013年2月6日夕刊11面「連続リンチ殺人 別の死刑囚も再審請求 名高裁 弁護側『共謀、殺意ない』」</ref>。弁護人は会見の中で「本人の思いは『とにかく事実をもって裁いてほしい』の一点に尽きる。暴行自体に関与したことは争わないが、[[共謀]]はなく、殺意もなかった。[[無罪]]を言い渡すべき明らかな証拠だ」と述べた<ref name="chunichi20130206_e"/>。2013年8月19日、名古屋高裁(柴田秀樹裁判長)は「上申書や鑑定書は新規性を欠き、証拠価値についても信用性が乏しい。確定判決は自白調書のみによって認定したものではない。自白調書の信用性を否定する理由は具体的根拠に乏しく、一般論にすぎない」などとして再審請求を棄却した<ref>『中日新聞』2013年8月20日夕刊13面「連続リンチ殺人の死刑囚 2人目再審請求棄却 名高裁」</ref>。KAは棄却を不服として異議申し立てしたが、2015年12月24日付でKM同様名古屋高裁(石山容示裁判長)に棄却された<ref name="chunichi20151226"/>。 |
|||
;HM |
|||
:HMは控訴中の2003年、閲読後の[[雑誌]]3冊を親族に送ることを認められなかったことを不服として弁護士会に人権救済の申し立てを行った<ref name="chunichi20061027"/>。その際、HMはその雑誌を証拠物として提出しようとしたが「閲読後の雑誌は廃棄するのが原則で、既に廃棄済みである」と当時収監されていた名古屋拘置所から告知され、「人権救済の申し立てを侵害された」と主張、国などを相手に約30万円の[[損害賠償]]支払いを求めた[[民事訴訟]]を起こした<ref name="chunichi20061027">『中日新聞』2006年10月27日夕刊13面「拘置所で雑誌廃棄 5000円支払い命令 名古屋地裁、国に」</ref>。上告中の[[2006年]](平成18年)10月27日、名古屋地裁([[松並重雄]]裁判官)は「裁量権を逸脱し、原告(HM)に精神的苦痛を与えた」として名古屋拘置所所長らの過失を一部認め、国に[[賠償金]]5000円の支払いを命じた<ref name="chunichi20061027"/>。 |
|||
:死刑確定後の2011年4月から2013年1月にかけて計17回、HMは弁護士や支援者との[[手紙]]のやり取りを試みたが、名古屋拘置所により不許可にされた<ref name="chunichi20160217">『中日新聞』2016年2月17日朝刊30面「死刑囚の手紙制限は違法」</ref>。HMはこれを違法と訴え、国に対し90万円の損害賠償請求訴訟を起こした<ref name="chunichi20160217"/>。2016年(平成28年)2月16日、名古屋地裁([[倉田慎也]]裁判長)は「不許可の判断は権限のある拘置所長ができるが、これを所長ではなく一般職員がした。また、第三者機関からのHMに対する寄付に関する内容で必要性があった」などとして全17回のうち一部の4回を違法だと認め、国に対し3万円の損害賠償を命じた<ref name="chunichi20160217"/>。 |
|||
:HMは上告中の2008年(平成20年)8月から2010年2月、計26回にわたって面会者の氏名や面会の日付、手紙や差し入れの内容などの情報を名古屋拘置所の職員(副看守長と看守の2人)によって収容中の共犯者(KM)に漏らされたなどとして、名古屋地裁に対し国に[[慰謝料]]160万円の支払いを求める訴訟を起こした<ref name="chunichi20140419">『中日新聞』2014年4月19日朝刊35面「死刑囚の情報漏えい 国に損害賠償命じる 連続リンチ殺人」</ref>。名古屋地裁([[堀内照美]]裁判長、判決は[[朝日貴浩]]裁判長が代読)は2014年4月18日「原告(HM)は事件で共犯者と主従関係を争っており、HMが特に情報提供を望まないことは容易に推測できる」「職員の行為は精神的苦痛を与えるものであると言わざるを得ない」として訴えの一部を認め、国に慰謝料10万円の支払いを命じた<ref name="chunichi20140419"/><ref name="nikkei20140419">{{Cite web |date=2014-4-19 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFD1801I_Y4A410C1CN8000/ |title=死刑囚の面会者情報漏洩、国に慰謝料命令 名古屋地裁 |publisher=[[日本経済新聞]] |accessdate=2017-1-8 |archiveurl=http://archive.is/Nrhfu |archivedate=2017-1-8 }}</ref>。また、HMは名古屋拘置所の職員2人が[[2007年]](平成19年)から[[2009年]](平成21年)の計21回、当時上告中のHMの手紙や面会の相手・日付、差し入れの内容のほか、事件の鑑定や提訴に関する会話の内容を共犯者に漏らしたとして国に180万円の損害賠償を求め、2016年9月2日に名古屋地裁([[加島滋人]]裁判長)は「情報漏洩はプライバシーの権利や通信の秘密、死刑囚の防御権を侵害しており違法だ」と指摘して国に慰謝料39万円の支払いを命じた<ref>『中日新聞』2016年9月3日朝刊35面「死刑囚の情報漏えい 国に39万円賠償命令 名地裁、連続リンチ殺人」</ref>。 |
|||
:HMは2013年及び2014年の計2回、死刑の執行方法([[絞首刑]])が記された[[書籍]]計6冊のコピーを名古屋地裁に郵送するよう名古屋拘置所に願い出た<ref name="chunichi20160120">『中日新聞』2016年1月20日朝刊28面「拘置所の閲覧制限『違法』 名古屋地裁 死刑囚が勝訴」</ref>。これは自身が起こしている国家賠償訴訟の証拠として提出するためだったが、所長は死刑執行方法を記した内容を閲覧させないため不許可処分にした<ref name="chunichi20160120"/>。HM側は裁量権の逸脱を訴えて国に20万円の損害賠償を求めた一方、国側は「証拠となれば死刑の執行方法を閲覧でき、精神的に不安定な死刑囚が拘置所の規律や秩序を害する恐れがあった」と反論していた<ref name="chunichi20160120"/>。2016年1月19日に名古屋地裁(倉田慎也裁判長)は「書籍の閲覧制限が許されるのは、刑事施設内の規律や秩序の維持のため放置できない程度の障害が生ずる蓋然性が必要だが、今回は認められない。所長は裁量の判断を誤った過失がある」と指摘して国に1万円の支払いを命じた<ref name="chunichi20160120"/>。またこれとは別に、HMは2010年から2013年の計13回、死刑執行状況を描写した記事や[[刑場]]の写真が掲載された[[新聞]]記事や[[雑誌]]記事、書籍を読もうとしたが、拘置所がこれらを隠して閲覧させたのに対して国に100万円の損害賠償を求めた訴訟を起こし、2016年8月30日に名古屋地裁(倉田慎也裁判長)「閲覧制限は必要な限度内と法律で定められており、死刑囚が閲覧しても逃走や自殺に及び、拘置所の規律や秩序が維持できなくなる恐れがあったとは認められない」と指摘して国に慰謝料65000円の支払いを命じた<ref>『中日新聞』2016年8月31日朝刊26面「死刑囚へ閲覧制限 国に賠償を命じる 名古屋地裁」</ref>。 |
|||
:HMはさらに2011年から2014年、弁護士に訴訟の助言や証拠収集などの協力を依頼する文書を送付しようとしたり、死刑執行の状況を記した書籍のコピーを閲覧しようとしたが、名古屋拘置所がいずれも認めなかったのを不服として国に慰謝料70万円の損害賠償請求訴訟を起こし、名古屋地裁(朝日貴浩裁判長)は2017年(平成29年)1月14日に「これらの処分は[[刑事収容施設法]]に違反する。HMは権利侵害により精神的損害を被った」として国に慰謝料5万円の支払いを命じた<ref>『中日新聞』2017年1月14日朝刊32面「死刑囚の文書送付 不許可に賠償判決 名古屋地裁 国に命令」</ref>。 |
|||
=== HMによる文藝春秋への訴訟 === |
|||
:HM<ref name="chunichi20001228"/>(当時K姓)は第一審公判中の[[1997年]](平成9年)、『[[週刊文春]]』1997年7月24日号・8月7日号にて「愛知、岐阜、大阪、高知にまたがる連続強盗殺人」などと題した本事件を報じる記事の中で実名にある字と同じ読みの字などを使った仮名(7月24日号ではHMを「主犯格K」(Kは当時の姓)と報じ、8月7日号では本名の漢字4文字のうち2文字の読みが同じで、全体的な音も似ている仮名を使用した<ref name="chunichi20030314"/>。「主犯格K」という表記については第一審で違法性が認定されたが、控訴審では「一般読者にはHMと認識できない」と訴えを退けていた<ref name="chunichi20030314"/>)で報じられた(前述の通り、高知県はAの遺体が遺棄された場所であり同県内では殺人は犯しておらず、また強盗殺人罪で起訴されたのは長良川事件のみである)<ref name="chunichi19990630">『中日新聞』1999年6月30日夕刊15面「『仮名でも少年本人と推測』 リンチ殺人 記事掲載 文春に賠償命令 名地裁判決」<br>『中日新聞』1999年7月1日朝刊35面「少年仮名報道に名地裁賠償命令 文春側『市民感覚とズレ』 『分かるのは知人だけ』」</ref>。これに対しHMは「仮名は関係者が見て容易に本人を推測でき、(本人とわかるような記事や写真の報道、出版を禁じた)少年法第61条に違反している。連続した複数の強盗殺人犯と断定され、全く反省がないかのような記述もされた」として<ref name="chunichi19990630"/>[[プライバシー権]]の侵害と[[名誉毀損]]で大変な精神的苦痛を受けたとし<ref name="chunichi19980310"/>、代理人の弁護士を付けずに<ref name="chunichi19990630"/>同年12月25日付で<ref name="chunichi20001228"/>『週刊文春』の発行元である[[文藝春秋]]を相手取り100万円の[[損害賠償]]を訴える[[民事訴訟]]を名古屋地裁に起こした<ref name="chunichi19980310">『中日新聞』1998年3月10日夕刊15面「木曽川など連続リンチ 被告が文春提訴 『本名わかる記事掲載』」</ref>。文藝春秋側は「仮名は実名を隠すために使われており、容易に本名は分からない。起訴事実から連続の強盗殺人は明らかで、反省がないのは事実」と反論していたが、[[1999年]](平成11年)6月30日、名古屋地裁([[水谷正俊]]裁判長)は「(少年法第61条の趣旨について)たとえ仮名を用いたとしても、本人が容易にわかるような記事の掲載は、将来の更生の観点から実名報道と同様に大きな障害になり、少年法に違反する」「(今回の仮名記事について)仮名は氏及び名ともに全体として音が実名と類似している上、本人の経歴に合う内容が詳細に記述されており、面識のある不特定多数の読者は容易に本人と推知できる」としてHMの訴えの一部を認め、文藝春秋側に30万円の損害賠償を支払うよう命じた<ref name="chunichi19990630"/>。これに対し、文藝春秋の[[雨宮秀樹]]社長室長(当時)は「少年法の精神を遵守し、加害少年の氏名を仮名として一般読者からプライバシーの推知ができないようにした。判決は極めて心外」「少年事件をめぐる裁判はこのところ、当たり前の市民感覚とかけ離れてきているのではないか」と批判し<ref name="chunichi19990630"/>、文春側が控訴した。文藝春秋側の代理人の[[古賀正義]]弁護士は「仮名が実名に似ていたとしても、それが加害少年を指すとわかるのは少年の知り合いだけ。その人たちは既に(HMが)犯人と知っている」と指摘し、「仮名報道で賠償を認めた例など聞いたことがない。驚くべき判決だ」「19歳と成人に限りなく近い少年の実名を出すことにあまりに神経質になるのはどうなのか。公益性がある場合なら、少年でも実名報道があってもいいのでは」と指摘した<ref name="chunichi19990630"/>。この判決の約1か月前の[[6月9日]]には[[堺市通り魔事件]]の少年被告人の実名・顔写真を[[新潮社]]の[[月刊誌]]『[[新潮45]]』が報じたことに対し「実名や写真を掲載する特段の公益上の必要性はなかった」として、大阪地裁から新潮社に対し損害賠償を命じる初判断が示されていた<ref name="chunichi19990630"/>(その後破棄、2000年2月の大阪高裁控訴審では実名報道を容認する判決)。 |
|||
:2000年(平成12年)6月29日、名古屋高裁([[宮本増]]裁判長)は「仮名は氏・名ともに音が実名と類似しており、面識のある不特定多数の読者は容易に本人と分かるとしてプライバシー侵害を認定、記事掲載は「少年法に基づいたHMの法的利益より、社会的利益が強く優先される特段の事情があったとは言えない」と結論付け、第一審判決を支持して控訴を棄却した<ref name="chunichi20000629">『中日新聞』2000年6月29日夕刊1面「実名類似の仮名報道 違法 リンチ殺人記事の文春 名高裁も賠償命令」<br>『中日新聞』2000年6月30日朝刊34面「実名にも余地『基準不明瞭』 仮名報道判決 文春側上告へ」</ref>。少年による凶悪犯罪が多発していた当時{{Refnest|group="注釈"|本事件以降にも2000年までに[[神戸連続児童殺傷事件]]、[[光市母子殺害事件]]、[[西鉄バスジャック事件]]などが発生していた。}}の現状に触れ、刑事裁判を受けている少年まで匿名で保護する必要があるか否かについては「この問題は高度の立法裁量に属する事柄」とし「保護の必要性については、少年の権利などを総合的に検討し、慎重に決定されるべきだ」とした<ref name="chunichi20000629"/>。判決の中では[[日本国憲法第13条]]([[個人の尊厳]])のほか[[国際連合|国連]]「[[子どもの権利条約]]」も引用し、実名報道などを禁じた少年法第61条について「少年の人権を守るための制約であり、国民の[[知る権利]]も一定の限度で譲歩すべきだ」と総合的に判断した一方「少年の利益よりも社会的利益を擁護する要請が強く優先されるなど、特段の余地がある場合には実名報道などの違法性が免責される」と認定し、少年事件でも実名報道が許される余地を認めた<ref name="chunichi20000629"/>。文藝春秋側は判決についてのコメントで「仮名にしてさえ、少年殺人犯の名誉が傷つくというのか。同じことなら、いっそ実名報道すればよかったとすら思わせかねない。判断は根本的に間違っている」と反発し<ref name="chunichi20000629"/>上告した。 |
|||
:2003年(平成15年)2月7日、最高裁第2小法廷([[北川弘治]]裁判長)は上告審[[口頭弁論]]を開き、文藝春秋側は「(控訴審の)名古屋高裁判決は、少年法の規定は公益目的でも一律に報道を禁止するものだと解釈しているが、[[表現の自由]]を謳った[[日本国憲法第21条]]を優先すべきだ」と主張した<ref>『中日新聞』2003年2月8日朝刊33面「少年事件報道で新判断か 仮名記事めぐる訴訟 最高裁が弁論開く」</ref>。同年3月14日、最高裁は「本人と分かる報道を禁じた少年法に違反するのは、面識のない不特定多数が推測できる場合」とする最高裁としての初判断を示し、その上で、記事がHMのプライバシー権を侵害していることは認めたが「使用された仮名では不特定多数の人が本人だと推し量ることはできない」と述べ、少年法に違反しないと判断した<ref name="chunichi20030314"/>。そして、仮に名誉を毀損する内容の記事であったとしても、違法となるかどうかは「公益性などとの比較で個別・具体的に判断すべきだ」と述べ、文藝春秋側への損害賠償を命じた控訴審判決を破棄して審理を名古屋高裁に[[差し戻し]]した<ref name="chunichi20030314">『中日新聞』2003年3月14日夕刊1面「少年仮名報道 不特定多数 推測できぬ 木曽・長良川リンチ殺人 最高裁、二審を破棄」</ref>。少年法第61条の規定が、少年の「報道されない権利」まで認めたものかどうかは判断しなかった<ref name="chunichi20030314"/>。 |
|||
:2003年5月30日、名古屋高裁([[熊田士郎]]裁判長)で差し戻し控訴審第一回口頭弁論が開かれ、HM側は「記事掲載によって名誉毀損やプライバシー侵害、成長発達権の侵害という不法行為が成立する」との準備書面を陳述した<ref name="chunichi20030531">『中日新聞』2003年5月31日朝刊30面「原告側が書面陳述 『不法行為が成立』 リンチ殺人文春 報道差し戻し審」</ref>。文藝春秋側は9月12日の口頭弁論で反論した<ref name="chunichi20030531"/>。[[2004年]](平成16年)5月12日、名古屋高裁(熊田士郎裁判長)は本事件の刑事裁判を傍聴した被害者遺族の両親の手記で構成した記事の内容に触れ「記事に私利私欲を追及する意図はない。少年犯罪に対する国民の関心が高まっていたことを考慮すると、記事を公表する理由は公表されない法的利益より優越する」(ただし、記事中で刑事裁判を傍聴したことになっている筆者が実は一度も傍聴に行っていなかったという虚偽を認定した)「極めて凶悪かつ重大な犯罪であり、少年犯罪に関心が高まっていたことや社会への影響を考慮すると、HMは犯罪事実などの公表を受認しなければならない。将来の更生に妨げになる可能性を否定できないとしても、HMの経歴を含めて公表の必要性は認められ、社会的な意義がある」とし、文藝春秋側が逆転勝訴した<ref name="chunichi20040512">『中日新聞』2004年5月12日夕刊13面「長良川・木曽川リンチ殺人 『少年報道』で文春勝訴 差し戻し審 名高裁判決 『記事に公益性』」<br>『中日新聞』2004年5月13日朝刊30面「知る権利と報道被害 逆転判決 揺れた司法 『少年報道』文春が勝訴 名高裁差し戻し審」</ref>。文藝春秋側は「我々は少年法の精神を遵守し、かつ加害者のプライバシーにも十分配慮して仮名報道とした。今回(HM側の)訴えがすべて退けられたのは当然のことだ。これを機に、迷走する司法という昨今の悪い風潮への歯止めとなることを願っている」とコメントした<ref name="chunichi20040512"/>。 |
|||
:HM側は上告したが、2004年11月2日付で最高裁第3小法廷([[上田豊三]]裁判長)は『記事に書かれたプライバシーの範囲は限定的でHMの被害は小さく、更生の妨げとなる可能性はあるが記事を公表する社会的意義が勝る」としてHMの上告を棄却し、文藝春秋側逆転勝訴とした差し戻し控訴審判決が確定した<ref>『中日新聞』2004年11月3日朝刊30面「長良川のリンチ殺人 文春の勝訴確定 実名似た少年報道 最高裁『公表に意義』」</ref>。 |
|||
== 共犯者らの裁判 == |
|||
共犯者の少女2人(W子、Z子)は[[少年院]]送致された<ref name="chunichi20001228"/><ref name="chunichi19941217"/><ref name="chunichi19941126_12"/>。その他5人の共犯者らは主犯格3人同様に起訴され、主犯格3人の第一審結審までに[[刑事裁判]]でいずれも有罪判決(当時19歳の少年だったTとYの2人は懲役4年以上8年以下の[[不定期刑]]<ref name="chunichi19950912"/><ref name="chunichi19950706"/>、当時既に成人だったUは懲役1年8月の[[実刑]]判決<ref name="chunichi19950912"/>、XとVの2人は共に懲役3年[[執行猶予]]4年<ref name="chunichi19960320"/><ref name="chunichi19970306"/>)が確定した<ref name="chunichi20001228"/>。 |
|||
;T(大阪事件) |
|||
:Tは1995年9月12日、大阪地裁([[谷口敬一]]裁判長)で「遊び仲間にバカにされたくないため、直視しがたいほど残忍な犯行に加わった。身勝手な犯行だが、反省しており更生の可能性もある」として懲役4年以上8年以下の不定期刑(懲役5年以上10年以下求刑)を受けた<ref name="chunichi19950912">『中日新聞』1995年9月12日夕刊10面「連続リンチ殺人 少年に不定期刑 大阪の事件で判決」</ref>。 |
|||
;U(大阪事件) |
|||
:Uは大阪事件の死体遺棄罪で1995年4月21日に大阪地裁([[竹田隆]]裁判官)から「遺体を廃棄物のように捨てるなど刑事責任は重いが、反省もしている」として懲役1年8月(求刑懲役2年6月)の実刑判決を受けた<ref>『中日新聞』1995年4月21日夕刊14面「元組員に懲役1年8月判決 リンチ殺人事件」</ref>。 |
|||
;V、W子、X(木曽川事件・長良川事件) |
|||
:11月3日、木曽川事件での殺人容疑で愛知県警捜査一課と一宮署はV、X両名(同日、長良川事件の逮捕・監禁、強盗致傷罪で起訴)とW子(同日、長良川事件については[[処分保留]])の3人を再逮捕した<ref>『中日新聞』1994年11月4日朝刊30面「強盗致傷などで2容疑者を起訴 長良川リンチ殺人」</ref>。 |
|||
:W子は12月16日に名古屋家裁一宮支部([[寺本嘉弘]]裁判官)での審判で少年院に送致する決定が下された<ref name="chunichi19941217">『中日新聞』1994年12月17日朝刊26面「少女を少年院送致 木曽川リンチ殺人」</ref>。 |
|||
:1994年12月5日、名古屋地検はVを木曽川事件での殺人罪で、Xを同事件での傷害致死ほう助罪(現場には居合わせたが殺害には加担しなかったため)でそれぞれ名古屋地検に起訴した<ref>『中日新聞』1994年12月6日朝刊23面「『木曽川事件』で2容疑者を起訴」</ref>。 |
|||
:1995年1月31日に木曽川・長良川事件で殺人、強盗致傷の罪に問われたVと逮捕・監禁、傷害致死ほう助の罪に問われたXの初公判が名古屋地裁で開かれ、検察側は木曽川事件について「Bへの集団リンチや殺害の際、Vはシンナーを吸っていて暴行を止めず、KMらと共にぐったりしたBを河川敷の雑木林に引きずり、放置して殺害した。Xは車を運転し、BやKMらを犯行現場に運んだ」と、長良川事件については「両名はKMらと行動を共にした上、Dを車内に監禁して連れ回した際に逃げ出さないように監視していた。CとEが暴行を受けて殺害される際、パイプで殴る音が聞こえると、Xが『あの音、なんの音かわかるか』『あの人たちは[[ヤクザ]]だ』と言ってDを脅していた」とそれぞれ冒頭陳述で述べ、Vは「両事件とも犯行現場には同行したが、共謀も含め犯行には加わっていない」として[[無罪]]を主張した一方、Xは「実行犯ではないが、事件への関与は間違いない」と大筋で容疑を認めた<ref name="chunichi19950201">『中日新聞』1995年2月1日朝刊27面「連続リンチ殺人 3被告初公判 V被告は無罪主張 検察側冒頭陳述 Bさん放置し殺害」</ref>。12月8日、Xに対し名古屋地検は「犯行の態様は執拗で冷酷、非情で、結果は重大。被害感情も厳しい。Xの犯行は事件で必要不可欠だった」として懲役7年を求刑した<ref>『中日新聞』1995年12月8日夕刊19面「『執ようで冷酷非情』X被告に7年求刑 連続リンチ事件」</ref>。 |
|||
:[[1996年]](平成8年)3月19日、名古屋地裁([[三宅俊一郎 (裁判官)|三宅俊一郎]]裁判長)「Xは加害者側の立場にあった反面、KMらに脅されるなど同情すべき点があり(最も罪の重い)強盗致傷罪での共謀は認められない」「(捜査当局の取り調べについて)誘導的な理詰めの取り調べで、犯行を認める供述を引き出した面がある」として懲役3年[[執行猶予]]4年(保護観察付)の有罪判決を言い渡した<ref name="chunichi19960320">『中日新聞』1996年3月20日朝刊39面「X被告、猶予付き判決 連続リンチ殺人で名地裁 『脅され加担』と減軽」</ref>。控訴せず確定<ref name="chunichi19961115"/>。 |
|||
:Vについては1996年11月15日、「共犯者の暴行で重傷を負ったBを木曽川河川敷の雑木林に引きずり込み放置して死亡させるなど、犯行は冷酷、非情で、被害者感情も厳しい。刑事責任は厳しく追及されるべきだ」として検察側から懲役7年が求刑されたのに対し弁護側は「共謀も含め犯行には関わっていない」と無罪を主張した<ref name="chunichi19961115">『中日新聞』1996年11月15日夕刊15面「V被告に懲役7年求刑 木曽川・長良川リンチ殺人 『冷酷、非情』と検察」</ref>。[[1997年]](平成9年)3月5日、名古屋地裁(三宅俊一郎裁判長)は「Vは加害者側の立場にあった反面、KMらに脅されるなど同情すべき点があり、殺人や強盗の共謀は認められない」「殺害の動機はなく、Bを遺棄しKMらの殺人行為を容易にしたに過ぎない」として、殺人ほう助などでVに対し懲役3年執行猶予4年の有罪判決を言い渡した<ref name="chunichi19970306">『中日新聞』1997年3月6日朝刊39面「連続リンチ殺人 ほう助男性に猶予判決 名古屋地裁 殺人の共謀関係否定」</ref>。 |
|||
;Y、Z子(木曽川事件) |
|||
:1994年11月2日、名古屋地検一宮支部は木曽川事件についてYを殺人、Z子を傷害致死の容疑で名古屋家裁一宮支部に送致した<ref>『中日新聞』1994年11月3日朝刊30面「少年と少女を家裁送致」</ref>。 |
|||
:その後、名古屋家裁一宮支部([[寺本嘉弘]]裁判官)は11月25日に審判を開き、Yを殺人罪で刑事処分相当として名古屋地検に逆送致し、Z子を傷害致死罪で少年院に送致する決定を下した<ref name="chunichi19941126_12">『中日新聞』1994年11月26日夕刊12面「19歳少年を地検送致 木曽川リンチ殺人」</ref>。Yは12月2日、名古屋地検により殺人、傷害の罪で名古屋地裁に起訴された<ref>『中日新聞』1994年12月2日朝刊38面「一宮の少年も起訴 木曽川リンチ事件」</ref>。 |
|||
:Yの初公判は1995年1月31日に名古屋地裁で開かれ、罪状認否でYは起訴事実を大筋で認めたものの「殺人に当たるかどうかわからない」と述べ、弁護人は「未必の故意の限度で殺人罪の成立を認める」と述べた<ref name="chunichi19950131">『中日新聞』1995年1月31日夕刊11面「連続リンチ殺人木曽川事件初公判『殺人に当たるかわからない』少年 起訴事実は大筋認める」</ref>。5月18日の論告求刑公判で、検察側は「事件はシンナー吸引癖との関連を否定できず、厳重な更生教育が必要」「些細な動機から無抵抗の被害者に執拗な集団暴行を加え、重大な結果をもたらした。追従的立場であっても刑事責任は重い」としてYに懲役5年以上10年以下の不定期刑を求刑(当時、少年に対する有期懲役としては上限の求刑)、弁護側は最終弁論で「Yの犯罪行為への関与は従属的で、深く反省している」として寛大な判決を求めた<ref>『中日新聞』1995年5月18日夕刊11面「連続リンチ殺人木曽川事件 少年に懲役5 - 10年求刑 名地検『追従でも責任重い』」</ref>。 |
|||
:7月6日の判決公判で名古屋地裁([[油田弘佑]]裁判長)は「Yの加えた暴行はKMらと暗黙の共謀関係があった。殺意も確定的だった」「執拗かつ残忍な暴行の上、落ち度のない被害者を理由もなく殺害した刑事責任は重い」などとし、情状面では「Yの暴行は致命傷を与えたとはいえず更生の可能性もある」としてYに懲役4年以上8年以下の不定期刑を言い渡した<ref name="chunichi19950706">『中日新聞』1995年7月6日夕刊14面「リンチ殺人木曽川事件 少年に不定期刑 名地裁判決」</ref>。控訴せず確定<ref name="chunichi19961115"/>。 |
|||
== 脚注 == |
== 脚注 == |
||
=== 注釈 === |
|||
{{Reflist|group="注釈"}} |
|||
=== 最高裁判決文 === |
|||
{{Reflist|group="最高裁判決文"}} |
|||
=== 出典 === |
|||
{{Reflist}} |
{{Reflist}} |
||
== |
== 関連リンク == |
||
* '''[http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=81410 最高裁判所第一小法廷 2011年(平成23年)3月10日 (平成17(あ)2358)]''' - 確定判決(裁判所ホームページ) |
|||
*「殺人百科データーファイル」(新人物往来社) |
|||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
*[[少年犯罪]] |
* [[少年犯罪]] |
||
* [[名古屋アベック殺人事件]] - 本事件の6年前(1988年)に同じ[[名古屋市]]近郊で発生した凶悪少年犯罪。1989年に名古屋地裁で主犯格の少年に死刑判決が言い渡されるも1996年の控訴審(名古屋高裁)で破棄・無期懲役に減軽され確定。 |
|||
*[[長期裁判]] |
|||
* [[シリアルキラー]](連続殺人) |
|||
*[[少年死刑囚]] |
|||
* [[長期裁判]] |
|||
* [[少年死刑囚]] |
|||
* [[警察庁広域重要指定事件]] |
* [[警察庁広域重要指定事件]] |
||
{{デフォルトソート:おおさかあいちきふれんそくりんちさつしんしけん}} |
{{デフォルトソート:おおさかあいちきふれんそくりんちさつしんしけん}} |
||
[[Category:平成時代の殺人事件]] |
[[Category:平成時代の殺人事件]] |
||
[[Category:1994年の日本の事件]] |
[[Category:1994年の日本の事件]] |
||
[[Category:日本の少年犯罪]] |
[[Category:日本の少年犯罪]] |
||
[[Category:連続殺人事件]] |
|||
[[Category:大阪市中央区の歴史]] |
[[Category:大阪市中央区の歴史]] |
||
[[Category:奈半利町]] |
[[Category:奈半利町]] |
2017年2月28日 (火) 11:24時点における版
この項目には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。 |
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件 | |
---|---|
場所 | 大阪府大阪市中央区、愛知県尾西市(現・一宮市)、岐阜県輪之内町 |
標的 | 男性5人(うち1人はグループの仲間、残り4人は面識なし) |
日付 |
1994年(平成6年) 9月28日午前1時頃 – 10月8日未明 |
概要 | 3人の少年を中心としたグループ計10人が、10日間の間に強盗目的などで計5人の男性を集団リンチしうち4人を死亡させた。 |
攻撃側人数 | 10人(主犯格は3人) |
武器 | アルミニウム製パイプなど |
死亡者 | 4人 |
負傷者 | 1人 |
犯人 | 少年グループ(主犯格3人は事件当時18歳及び19歳) |
動機 | 強盗など |
謝罪 | あり |
賠償 | 主犯格3人は死刑、その他起訴された5人は最高で懲役4-8年の不定期刑、2人は少年院送致 |
最高裁判所判例 | |
---|---|
事件名 | 木曽川長良川等連続リンチ殺人事件 |
事件番号 | 平成17年(あ)2358 |
2011年(平成23年)3月10日 | |
判例集 | 集刑 第303号133頁 |
裁判要旨 | |
| |
第一小法廷 | |
裁判長 | 桜井龍子 |
陪席裁判官 | 宮川光治、金築誠志、横田尤孝、白木勇 |
意見 | |
多数意見 | 全員一致 |
意見 | なし |
参照法条 | |
強盗殺人、殺人、死体遺棄、強盗致傷、傷害、逮捕・監禁(以上いずれも全3名)、恐喝(KM)、暴力行為等処罰に関する法律違反(KM・KA) |
大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件(おおさか・あいち・ぎふ れんぞくリンチさつじんじけん)とは、1994年(平成6年)9月28日から10月7日までに大阪府・愛知県・岐阜県の3府県で発生した未成年者の少年グループによるリンチ殺人(連続殺人、少年犯罪)事件である。主犯格3人は全員が犯行当時未成年でありながら死刑判決が確定した(少年死刑囚)[1]。3府県連続リンチ殺人事件(さんふけん れんぞくリンチさつじんじけん)、また単に連続リンチ殺人事件(れんぞくリンチさつじんじけん)とも呼ばれる。
事件の概要
一連の事件では未成年者7人を含めた男女計10人(うち成人は暴力団組員1人を含めた3人)が犯行に関与したと認定されて8人の有罪判決が確定、2人が少年院送致された[2]が、確定判決となった控訴審・上告審判決で主犯格と認定されたのは以下の3事件すべてに関与した犯行当時18歳及び19歳の少年3人である。
主犯格3人はいずれも自ら暴力団に加わるなど反社会的な生活を送っていた[3]。このうち、第一審から主犯格と認定された[4]KM(当時19歳、愛知県一宮市生まれ[1][5]。逮捕当時の報道では本籍愛知県稲沢市[6])は1994年8月初めに愛知県津島市杁前町のパチンコ店駐車場で、岐阜県海津郡の当時18歳の少年(一連の事件とは無関係、保護観察処分)と共謀して会社員から現金3万円を奪い、会社員の顔を殴って顔に2週間の怪我を負わせた事件[7]を起こして強盗致傷容疑で指名手配され大阪府に逃亡していた[6][8]。KMは犯行グループを含めた十数人の遊び仲間のリーダー的存在で、素行の悪さが目立ち、愛知県警察の尾張にある各警察署が動きをマークしていた[6]。
逃亡中、KMはそれぞれ第一審では従犯認定されていた[4]KA(当時19歳、大阪府松原市生まれ[1][5]。逮捕・公判当時の報道では和歌山県[9][10][11][12]西牟婁郡串本町〈1995年当時、現在は東牟婁郡串本町〉生まれ[13]。3人の中では所属暴力団において最も上位だった[3]。最高裁判決時点では旧姓Ko[14][15][16]、死刑確定後Oに改姓[17]、現姓Ku[18])やHM[19](当時18歳、大阪市西成区生まれ[1][5]。逮捕・公判当時の報道では兵庫県[12]神戸市生まれ[13]。旧姓K[14][15][16])と知り合い、暴力団配下の3人組が生まれた[8]。3人は大阪市内で恐喝事件を繰り返していた[8]。
第一審判決では「いずれの犯行も、経緯などを見ると、自らの欲望、感情の赴くまま行動して傷害や強盗などを犯した少年たちが、被害者らを解放すれば警察に捕まるなどと考え、自らの行動によって生じた結果の処置に困惑し、その際、虚勢を張る心理も混じって声高に激化した言動をする者に影響され、相手に弱みを見せられないという少年期特有の心理状態も手伝い、これに同調し、お互いが適切に事態を収束させることができないまま、最悪の結果を招いた」と認定された[20]。
最初の事件(大阪事件)
最初の事件(大阪事件、殺人・死体遺棄事件[20])は1994年9月28日午前1時頃に幕を開けた[21]。
KM・HMの2人[最高裁判決文 1]は大阪市中央区の道頓堀繁華街で無職(元寿司店店員[22])男性A(当時26歳)と友人男性(同26歳)の2人に言いがかりをつけ携帯電話や指輪を強奪した[21]。友人男性が逃げたため、A1人を近くの大阪市中央区内のマンションの一室に連れ込んで監禁し、KAを加えた主犯格3人ともう1人の当時18歳の少年T(大阪市出身[23]、東大阪市在住の暴力団組員[22])の計4人で、裸にしたAの両手首、両足首を縛り、Aの顔面にガムテープを巻き付けるなどして身動きできない状態にした[最高裁判決文 1]上で、Aに対し殴る蹴るなどの暴行を繰り返した[21][20]。
KMらは男性を土木作業場に売り飛ばそうとしたが、取引相手が都合で来られなくなり、男性が抵抗した[24]ために処置に困り、犯跡を隠蔽するために殺害を決意[最高裁判決文 1][20]。命乞いをし[20]、体を痙攣させて苦悶するAの首にベルトを巻き付け、最初はHMが両端を両手で持って引っ張り上げて絞め付け、抵抗できずに苦しむAに構わず執拗にベルトの両端を力いっぱい引き合うなどして絞殺した[最高裁判決文 1][20][3]。Aが血の混じった鼻水を出したり失禁した後も、確実に死亡させるためにさらに首を絞め、その後、たばこの火をAの身体に押し付けてその死亡を確認するという非情、残忍な犯行であった[20]。
4人はその後、前述の取引に関与したマンションの部屋の借主である徳島県出身の[25]大阪市生野区の元暴力団組員の男U(当時45歳、第一審判決では暴力団幹部と認定[20])[26]に遺体の処分を相談し[20]、Aの遺体を車に積んでカーフェリーで四国に渡り[21]、高知県安芸郡奈半利町の山中(奈半利町須川甲の国道55号から山中に入った林道の約50m下の斜面、室戸岬の夫婦岩近く)に遺棄した[21][20]。
第2の事件(木曽川事件)
KMは大阪事件の後、10月4日[27]に大阪から仲間3人を連れて故郷に現れ、後の木曽川事件・長良川事件の犯行の中心になったという[28]。起訴状によれば、愛知県に再び逃走したのは大阪事件の共犯の少年(T)が逮捕されたためだという[8][29]。木曽川事件の犯行の直前、KMらは友人のネコを獣医師のところに連れて行き診察を受けさせていた[8]。10月初め、KMらは大阪府内のパチンコ店で当時21歳の男V(愛知県稲沢市在住)と知り合い、車を持っていたVを誘って愛知県に再び逃亡した[8]。その後、KAらはKMを介して地元の仲間5人(V、一宮市内在住の当時16歳の少女W子、福岡県生まれの当時20歳の男X、一宮市在住の当時19歳の少年Y、家事手伝いの当時18歳の少女Z子)と合流した[8]。
大阪事件から8日後の10月6日夜、KMらは稲沢市内にある共犯者のV宅(Vの両親は不在がちで、近所の話では5年ほど前からKMらのたまり場になっていたという)で開かれていた「シンナーパーティー」に参加していた[27]が、シンナーが足りなくなったため、Vが近くに住む少年グループの仲間の1人である土木作業員の男性B(当時22歳)に「シンナーを持ってきてくれ」と電話した[30]。家に来たBはKMに女友達を強姦されたとしてKMと言い争いになり、「お前のしたことを刑事に言うぞ」となじり、その言葉に逆上したKMはBに殴り掛かった[30]。KMはこれに加えて「(Bが邪魔で)テレビが見えにくい」「(Bが)にらむような目つきをする」という理由でKA・HMら仲間5人[20]を加えた計6人(本事件の犯行グループは主犯格3人を含めた全員が翌日の木曽川事件にも関与した[6]。部屋には他にも男1人と女2人の計3人がいたが、いずれもリンチが始まった際には姿を消していた[30])で、Bの頭や身体をビール瓶や鉄パイプ、ほうきなどで数百回[8]殴る、箸やフォークで傷口をつつく[8]、頭から醤油やウィスキー、シンナーをかける[8][31]、目の前に包丁を突き付ける[8]などして約7時間にわたって激しく暴行した[20][30][31]。BがKMらの従った行動をとらなかったため、KMらは更に逆上しさらなる暴行に発展した[20]。Bは「ごめんなさい。許してください」と懇願したが、宅配ピザを食べているとき以外は暴行を続けた[8]。Bは一度逃げ出したがすぐに連れ戻され、車で木曽川堤防まで連れて行かれた[8]。
翌10月7日未明にKMらは愛知県尾西市(現・一宮市)祐久[32]の木曽川左岸河川敷(尾西文化広場テニスコート付近、長良川事件の現場から直線距離で約7km[33])で瀕死の重傷を負い、自力で立ち上がることさえも困難(Bは地面に横たわった状態で、首筋や腹に置かれたシンナー入りビニール袋をライターで点火して燃やされても、緩慢で微弱な反応しかできないほどに重篤な状態だった)になっていた[最高裁判決文 1]Bを堤防から蹴って突き落とし、更に雑木林へ引きずりシンナーをかけた上でライターで火をつけ、河川敷雑木林に放置して殺害した(木曽川事件、第一審では傷害致死事件、控訴審・上告審では殺人事件と認定)[8][20][30][3][31]。KMらはBを木曽川に流すつもりだったが、河川敷を引きずってBを移動させている途中で主犯格の少年が「もうそこらへんでいいわ。そこなら見えん」と指示、堤防から10mほど離れた雑木林の茂みに放置した[8]。Bの死因は硬膜下血腫、内臓損傷又は全身打撲による外傷性ショック死のいずれかとされる[最高裁判決文 1]。
第3の事件(長良川事件)
Bを殺害した後8人のうち男女2人(後述するY、Z子)がグループから分かれ、KMら残る6人は名神高速道路一宮インターチェンジ(IC)付近のラブホテルの一室で雑魚寝をした[30]。
翌日10月7日午後4時ごろにホテルを立ち去り、週末で込み合う稲沢市内のボウリング場に現れた[30]。同日深夜、KM・KA・HMと仲間5人(うち2人は前日の木曽川事件にも関与)の計8人[6]はボウリングの球を選んでいた当時20歳の男性2人(会社員の男性Cと解放された男性D)、アルバイトの男性E(当時19歳)を「お前ら、どこの者や」と脅し、約3時間にわたって自動車2台の車内(うち1台はDから強奪した軽自動車[28])に監禁し、金品を奪って拉致した[30][20][3]。動機はKM・KAがすれ違ったC(殺害されたCとEは中学時代の同級生で親しい間柄にあり[34]、Dも含めて3人で偶然ボウリング場に遊びに来ていた)らを見て、自分たちが笑われたと感じて腹を立て、因縁をつけて(「髪の毛が赤っぽかったから」という理由で因縁をつけたとする報道もある[30])ボウリング場の外に連れ出し、金品を強奪する目的でCら3人を車内に閉じ込めて移動したことが発端であった[20]。
Cらの口封じをして犯行を隠蔽するため、岐阜県安八郡輪之内町楡俣の長良川河川敷で、命乞いをするC、E2人の全身を農機具小屋から盗んだ太いアルミニウム製パイプや角材などで頭部や胸部をめった打ちにするなど執拗に暴行し、多発損傷による組織間出血により失血死させた(長良川事件、強盗殺人事件)[最高裁判決文 1][30][20][3]。KMとHMは2人がぐったりした後も、たばこの火を押し付けてみたり、ダメ押しするかのようにさらに殴打した[20]。
なお、Dには怪我を負わせたものの[20]、殺害された2人とは異なり身を守ろうとするなどの抵抗をせず、殴られるまま無抵抗だったため、殺害せずに大阪市内まで連れ回し、KAが奪った現金のうち近鉄名古屋駅までの電車賃を返した上で近鉄難波駅(現・大阪難波駅)近くで解放した[30][3][注釈 1][36]。翌10月8日、一宮IC付近(一宮市役所丹陽町出張所の駐車場)でDの車がエンジンをかけたまま乗り捨てられているのが発見され、車は消火器を噴射して指紋を消そうとしたためか車内まで消火剤にまみれていたが、消火剤は逆に窓ガラスに付着していたKMの指紋を鮮明に浮かび上がらせていた[37][30]。KMらは犯行直後にコンビニエンスストアに立ち寄り、防犯カメラがその姿を捉えていた[30]。
事件の発覚・検挙
長良川事件の翌日の10月8日午前6時15分ごろ、現場付近の長良川堤防道路を通りかかったトラック運転手が、堤防道路の駐車帯から約30m下ったところの雑草地に、頭から血を流してうつぶせに倒れ死亡しているC、E2人の遺体を発見し、近くの民家を通じて110番通報した[38]。現場は安八郡安八町との境界の名神高速道路から南に約2kmの地点で、堤防の外側は水田や民家が点在している[38]。普段は夜間、この駐車帯にトラックが何台も停まっているが、事件発覚当時は週末のせいかほとんど車は停まっていなかったという[38]。C、Eの遺体には頭部に棒状のもので何度も殴られたような外傷があり、側頭部や首に血がついていた[38]。現場で発見されたC、Eの遺体の両腕は、振り下ろされる凶器を必死で防ごうとしたためか傷でボロボロになっていた[30]。その後の調べで、現場一帯に多くの足跡や車のわだちが見つかり、近くの堤防法面の雑草の上や、遺体の足元から約3m離れた直径10cmほどの石の上に少量の血痕があり、堤防道路上に中央線をまたぐ形で乗用車より幅の広いスリップ痕が長さ5、6mに渡り確認された[38]。このため岐阜県警察捜査一課などはC、Eは殺人、もしくはひき逃げなどにより死亡し、何者かが遺体を運んで遺棄したとみて捜査した[38]。
Dが警察に通報したためにKMらの犯行が明らかとなり、[要出典]岐阜県警は少年グループ6人のうち、KMら男3人、女1人の計4人を特定した[39]。このうち、既に愛知県警に指名手配されていたKMは関係者への事情聴取から真っ先に長良川事件への関与が浮上した[6]。
まず、10月13日に稲沢市在住の当時21歳の男Vと一宮市内在住の当時16歳の少女W子の2人が岐阜県警察捜査一課と大垣警察署の捜査本部に長良川事件での殺人、逮捕・監禁、強盗などの容疑で逮捕され、KMや福岡県生まれの当時20歳の男Xら4人も含めて指名手配された[28]。また、事件の参考人として聴取していた一宮市在住の当時19歳の少年Yと家事手伝いの当時18歳の少女Z子が「仲間数人で友人を暴行して木曽川に捨てた」と自供し、供述通りに尾西市の木曽川河川敷でBの遺体が発見されたため、愛知県警察は同日夜にY、Z子を殺人容疑で逮捕した[28]。Y、Z子は木曽川事件直後にグループから分かれており[30]、長良川事件には関与していなかった[40]。
KMは逃走中に「第3の事件」(厳密には逮捕時点では発覚していなかった大阪事件を含めて「第4の事件」)を起こしていた可能性もあった[6]。10月13日深夜、KMは一宮市内のコンビニエンスストア前に駐車して車内で弁当を食べていた18歳の若者の車にいきなり乗り込み、車の鍵を奪って仲間とみられる男女2人とともに若者を拉致し江南市方面へと走行した[6]。この様子を若者の知人が目撃し、若者の家族が連絡を受けて110番通報したためにパトカーが出動、KMが奪った乗用車を追跡する騒ぎとなった[6]。約3時間後の10月14日午前零時過ぎ、KMが運転していた乗用車は江南市東野郷前で街路樹に衝突し、乗っていた4人(KMと仲間の男女2人計3人と連れ去られた若者)全員が負傷しうち1人は入院したがKMは再び逃げ去った[6]。KMはこの日の深夜愛知県警一宮警察署に出頭し、指名手配容疑である木曽川事件での殺人容疑で逮捕された[6](逮捕時には前述の怪我により、右足を引きずっていた)[32]。その後、KMは11月4日には長良川事件での殺人容疑でも再逮捕された[41]。KMは11月26日にも一連の事件前の指名手配容疑である津島市の強盗致傷事件でも愛知県警捜査一課と津島警察署に再逮捕された[7]。
KMが逮捕された翌日の10月15日、前述の福岡県生まれ(大阪市平野区在住)の当時20歳の男Xが岐阜県警捜査一課と大垣署に殺人、逮捕・監禁致傷などの容疑で逮捕された[42]。
岐阜県警察の長良川事件捜査本部は10月15日、同事件の犯行グループ6人のうち行方不明になっていたKAを殺人容疑で指名手配したが、KAは既に別の事件で大阪府警に逮捕されていることが判明した[9]。10月23日に大垣署にKAの身柄が移され、KAは殺人と逮捕・監禁致傷の疑いで逮捕された[10]。その後KAは11月14日に木曽川事件の殺人容疑で再逮捕された[11]。
また、KMがグループの仲間である2人の少女(W子、Z子)の殺害も他の仲間に対して漏らしていたことが11月1日までの愛知・岐阜両県警の共同捜査本部による捜査で判明した[43]。犯行グループは木曽川事件が男6人、少女2人の合計8人が犯行に関与したが、少女1人を含め6人が長良川事件にも関与した[43]。少女は主犯格のKMらがCらにリンチを加えている時も手を出さず、苦しんでいるCらを見かね「もう死んでしまうからやめて」などと犯行を阻止しようとする態度も見せていた[43][27]。グループ内の仲間によると、KMは少女らが被害者に同情的だったことから「警察に通報されるかもしれない」と恐れ、「あとで殺すつもりだ」「1人殺すのも100人殺すのも同じだ」などと発言していたという(この発言がリーダーとしての虚勢及び仲間割れを防ぐための脅しなのか、本気なのかは不明)[43]。両事件で計3人を殺害した上に犯行を隠蔽するために仲間までも抹殺しようとエスカレートしていくKMに、比較的絆が強かったという仲間たちでさえ「もうついていけない。今度は自分たちがやられるかも」と恐れ、身の危険を感じ自ら警察に通報して逮捕されるに至った[43]。
さらに11月18日までにKMが「9月下旬、大阪市内でも男性を殺害し高知県内に捨てた」と自供した[12][44]。木曽川・長良川事件の愛知・岐阜両県警共同捜査本部は11月21日までに被害者男性の身元を大阪市在住[44](後の報道では大阪府柏原市在住[21])の当時23歳(誤報、正しくは当時26歳[21])男性と断定した[44]。岐阜・愛知両県警の合同捜査本部と大阪府警察、高知県警察はKMの供述に基づき男性の遺体捜索のため捜査員を派遣し、岐阜県警もKMを捜査に立ち会わせるため高知県に移送した[25]。遺体捜索は11月23日朝からの予定であったが、岐阜県警がKMを高知県警安芸警察署に移送する途中、KM本人が希望したため捜査員が遺棄場所を案内させ大阪府警察、高知県警察とともに捜索に入ったところ、11月22日午後7時過ぎに室戸岬北西の高知県安芸郡奈半利町の山中で布団に巻かれた裸の男性の遺体を発見した[21]。これを受けて4府県警は広域連続強盗殺人・死体遺棄事件として共同捜査本部を設置した[21]。翌11月23日、岐阜・愛知・高知各県警及び大阪府警の共同捜査本部は大阪大学医学部で遺体を司法解剖し[21]、歯形から遺体の身元をAと断定した[24]。このように大阪事件を自供したことについてはKMの自首が成立していると確定判決でも認定されている[3]。なお、大阪事件に関与したTは別の強盗致傷事件で大阪府警南警察署に逮捕され大阪家庭裁判所により保護観察処分になり[21]、その後行方を晦ましていたが、11月26日午前に両親に付き添われて南署に出頭し逮捕された[23]。その後、Tは長良川事件での強盗殺人、強盗致傷、逮捕・監禁容疑でも翌1995年2月9日に大垣署に再逮捕された[45]。大阪事件においてKM・KA両名は殺人と死体遺棄の容疑で12月5日に大阪府警南署捜査本部により殺人、死体遺棄容疑で再逮捕された[46]。KM・KA・Tの3人は大阪地方検察庁により、12月27日までに「刑事処分相当」の意見付きで大阪家庭裁判所に送致された[47]。
HMは一連の事件の容疑者の中で最後まで逃亡していたが、翌1995年(平成7年)1月18日、前日に発生した阪神・淡路大震災の混乱の中にあった大阪市内で、大阪事件の容疑で逮捕され、大阪事件の死体遺棄容疑で指名手配されていたUもこの日までに大阪府警南署に逮捕された[48]。HMは長良川事件についても強盗殺人、強盗致傷、逮捕・監禁容疑で2月9日に大垣署に[49]、木曽川事件についても殺人容疑で3月3日に愛知県警捜査一課と一宮署にそれぞれ逮捕された[50]。
KMら犯行グループと被害者らの接点は前述のようにボウリング場で偶然出会ったCらにKMらが因縁をつけたことであり、また最初に逮捕された当時16歳の少女W子は「6人の犯行グループのうち、3,4人は当日まで顔を見たこともない」と供述した[28]。些細なことで面識のない6人の非行グループが出会い頭的に見も知らぬ相手を襲い、鉄パイプ(厳密には前述のようにアルミニウム製)で滅多打ちにして殺害するという凶行に、捜査員は「昔の殺しには必ず目的や動機があった。こんな理由なき殺しはしなかった。何がいったい彼らを駆り立てたのか」とその異常さにショックを受けた[28]。別の捜査関係者は「最近、20歳前後の若者でこうしたタイプの犯罪が増えている」と指摘し、中日新聞紙上では同年7月に岐阜市内で起きた別の殺人事件についても「『むしゃくしゃして誰かに当たりたかった』という理由にもならない理由で殺人が起きた」と言及された[28]。また、合同捜査本部の幹部は「本当の動機なんてないじゃないか。結果を考えず衝動任せ。人を殴ったり、金を奪ったりということを悪いと思う意識が欠落している。まるでゲーム感覚だ」と憤った[27]。
主犯格らの裁判
第一審(大阪地裁→名古屋地裁)
- 主犯格らは、KM・KAは1995年1月18日に名古屋家庭裁判所(猪瀬俊雄裁判官)の審判により「刑事処分が相当」として名古屋地方検察庁に逆送致され[48]、3月24日に名古屋地検により強盗殺人や逮捕・監禁などの容疑で名古屋地方裁判所に起訴された[51]。HMは1995年3月24日に名古屋地検から名古屋家裁に送致され[51]、その後逆送致を経て4月28日に名古屋地検により起訴された[52]。
- 刑事裁判の初公判はKMは1995年5月29日に、KAは同年6月8日に大阪地方裁判所でいずれも大阪事件について開かれた[5]が、同年6月26日に名古屋地裁で3被告人が揃った木曽川・長良川事件の初公判[2]が開かれた[13][5]。この時点では弁護側が「打ち合わせが不十分」などと主張したために罪状認否は8月21日の次回公判に持ち越された[13]。
- 8月21日に開かれた第2回公判で冒頭陳述や罪状認否が行われ、木曽川・長良川事件の起訴事実について、3人とも事実関係は大筋で認めたものの殺意はすべて否認した[53]。3人の弁護人も殺意の有無について争うとともに、事件の特殊性や少年法の趣旨から、精神鑑定などを含めた多角的な情状を訴える方針を明らかにした[53]。検察側は冒頭陳述で「3人は大阪で知り合って暴力団に入り恐喝行為を繰り返し、その結果引き起こした大阪事件の発覚を恐れて愛知県に逃走してきた」「3人の間には序列(一連の裁判で分かっているのはKA>KM>HM)があり、木曽川・長良川事件も初めはいつもの”カツアゲ”のつもりだったが、『兄貴』分の俺が、あるいは『兄貴』より格下の自分がやらねば、などとの思いが犯行をエスカレートさせた。特に長良川事件では、ある1人は『昨日やって(木曽川事件)今日もか」と躊躇いもあったが、結局警察への通報を恐れて口封じのためにもC、E両名を殺害した」などと述べた[53]。
- 1998年(平成10年)5月13日には名古屋地裁(佐藤学裁判長)にて裁判官の交代に伴う更新手続き(第54回公判[2])が行われ、木曽川事件・長良川事件について、それまで共謀や殺意を否定してきた被告人(HM[2])が一転して「法的な理解ができていなかったため、意に反する認否をした。確定的な殺意や殺害の企てはなかったが、このまま(被害者らを)放置すれば死んでしまうかもしれないと思った」などと、共謀や殺意などを認める供述をした[54]。次回公判の5月27日(第55回公判[2])にはもう1人(KA[2])も他の被告人との共謀や殺意を認める意見陳述をした[55]。
- 1998年8月13日までに、名古屋地裁(佐藤学裁判長)はそれまで大阪地検によって起訴され、大阪地裁で開かれてきた(2人については1995年に名古屋地裁に移されたが審理は中断、残り1人は大阪地裁で審理が続いていた)大阪事件の審理について、木曽川・長良川事件の審理に併合して3事件を一括して審理することを決めた[29]。手続きは次回公判の9月21日に行われた[29]。
- 裁判では、主犯格3名は反省のない態度をみせ、「自分は未成年だから死刑にはならない」[注釈 2]「俺の刑はどれくらいなの」と発言したり、被害者遺族に対して笑みを見せるなどして、傍若無人な態度を繰り返した。[要出典]
- 第一審の名古屋地裁(石山容示裁判長)では2000年(平成12年)12年27日に開かれた第106回目公判(論告求刑公判)にて、このような反省なき態度、あまりに残虐な犯行から、検察側は「(各事件での3人の関与の度合いについて)それぞれの事件で果たした役割に軽重を見出すことはできず、刑事責任は同等」との判断を示した上で「犯行は、場当たり的に何の落ち度もない4人を殺害したもので、命乞いをしながら嬲り殺された被害者もおり、遺族の悲嘆も強烈」と断罪し、「わずか10日間で4人を殺害した少年犯罪史上、まれに見る凶悪かつ残虐な事件。犯行当時少年とはいえ矯正可能性は全くなく、極刑をもって臨むしかない」として、3人全員にいずれも死刑を求刑した[2]。「自分は少年だから死刑にならない」と考えていた3名はこの頃から、遺族に対して謝罪の手紙を送ったりしているが、遺族には受け入れられなかった。[要出典]
- 翌2001年(平成13年)2月28日には弁護側による最終弁論(約10時間という異例の長時間となり、3回の休憩を挟みながら午後9時まで続いた)が開かれ、3人は弁論後の最終陳述で「命ある限り被害者の冥福を祈り、遺族に出来る限りの償いをしたい」などと述べ、初公判から4年8か月ぶりに結審した[56]。
- 同年7月9日、名古屋地裁(石山容示裁判長)で判決公判が開かれ、3事件いずれについても3人の殺意は認めたものの、木曽川事件だけは「暴行後、殺すつもりでBを河川敷雑木林に放置したが、放置と死亡の因果関係が立証されていない」として殺人罪を認めず、傷害致死罪の成立にとどまると判断した上で、特に長良川事件で「強固な殺意」があったとされたKMは「中心的な立場で、重要で不可欠な地位にあり、集団の推進力になった」(事件を主導した)として殺人罪で死刑[注釈 3]、KAとHMは傷害致死罪で無期懲役[注釈 4]の判決が下された[注釈 6][4]。
- 3人全員を死刑としなかったこの判決に被害者遺族からは「何だ、これは」との不満の声が上がり、「墓前にどう報告していいのか」という怒りとやりきれない思いが口にされた[4]。3人の弁護側は死刑及び無期懲役判決を事実誤認及び量刑不当を理由に不服として、検察側もKA・HMの無期懲役判決は量刑不当である上に殺人罪ではなく傷害致死罪とされた木曽川事件について事実誤認を理由に不服として、それぞれ3人全員について名古屋高等裁判所に控訴した[57]。求刑通り死刑判決を受けた被告人について検察側が控訴したのは史上初だが、名古屋地検は「全員について控訴しなければ、犯罪事実が被告人によって異なることになる。放置することはできない」として、求刑通り死刑判決を受けたKMも含めて控訴期限の7月23日に控訴に踏み切った[57]。
控訴審(名古屋高裁)
- 名古屋高裁(川原誠裁判長[注釈 7])での控訴審初公判は2003年(平成15年)5月26日に開かれ、検察側は傷害致死と認定された木曽川事件について殺人罪の適用を求め、2人を無期懲役とした第一審判決量刑について「著しく軽く不当。矯正はもはや不可能」と一審求刑どおり改めて3人全員への死刑を求め、KMの弁護側は「主犯ではなく、3人の罪責に差はない」と、KAは「形式上兄貴とされていたが、KMに追随していた」と、HMは「他の被告の手下に過ぎない」とそれぞれ強調、矯正可能と訴えた[58]。
- 2005年(平成17年)8月19日に検察側と弁護側が双方意見を述べ合う最終弁論が開かれ、検察側は「何ら落ち度のない4人の若者に激しい集団暴行を加え、犯行を隠すために次々と殺害した自己中心的な犯行で、結果はあまりにも悲惨で重大。死刑以外に選択肢はない」と、弁護側は「(各被告の事件での主体的役割を否定し)『死刑や無期懲役は重すぎる』、(一連の犯行について殺意や計画性を否定し)『未成年者の未熟な集団が引き起こした最悪の結果』」とそれぞれ主張し、控訴審は結審した[59]。
- 同年10月14日、名古屋高裁で控訴審判決公判が開かれ、川原誠裁判長は「犯行は極めて悪質で残虐。非道さは言うべき言葉を見いだせない」「4人の生命が無残にも奪われた結果は誠に重大。3被告の役割には大差はなく、犯行時少年だったことを考慮しても極刑はやむを得ない」と断罪して一審判決で傷害致死罪とされた木曽川事件を含めすべての事件について殺人罪を認定、死刑積極適用に動き、KMのみを死刑、KA・HMの2人を無期懲役とした第一審判決を破棄し、一転してKM[注釈 8]・KA[注釈 9]・HM[注釈 10]の全3名にいずれも死刑判決を下した[5]。高裁で犯行当時少年の被告人に死刑判決が言い渡されたのは1996年の東京高裁における市川一家4人殺人事件(1992年発生、2001年最高裁で判決確定)控訴審判決以来であり、日本における同じ少年犯罪で複数の被告に死刑判決が下された初めての判例でもあった[5]。
- 死刑判決宣告の瞬間3人は青ざめた顔で体をこわばらせ、一方で全員の極刑を求めていた遺族らは涙を拭い頷き、遺族の一人(長良川事件被害者Eの両親)は閉廷後の記者会見で「裁判所は実態をきっちり見分けてくれた」と判決を評価しながらも「判決が1つの区切りになったとしても、彼らを許すかどうかは別問題」と語り、別の遺族(長良川事件の別の被害者Cの兄)は「極刑が下っても弟は帰ってこない。私達の苦しみ、悲しみは一生癒やされない」「被告らは『生きて償いたい』と言う。だが、殺された弟たちはもっと『生きたい』という思いが強かったはず」と、晴れることのない胸の内を語った。
- 3被告側は判決を不服として10月26日までに全員が上告した(KAは10月18日付、HMは10月24日付、KMは10月26日付)[60]。
上告審(最高裁)
- 2011年(平成23年)2月10日、最高裁判所第1小法廷(桜井龍子裁判長)で上告審口頭弁論公判が開かれ、弁護側は「控訴審判決は少年の精神的未熟さを考慮していない」などとして死刑回避を、検察側は「動機や結果の重大性、遺族の処罰感情に照らし、死刑を回避すべき事情は認められない」と上告棄却を求めた[61]。被害者遺族の一人(Eの父親)は傍聴後、中日新聞の取材に対し「責任転嫁が多い。自分さえよければ、という主張は今回も変わらなかった」と被告らを批判した上で、「被告からの(謝罪の)手紙を受け取るのも、法廷での主張との違いを見つけるため」と断言し、未熟な少年には死刑を適用すべきではないとの主張には「法律(少年法)で18歳以上の死刑はあり、回避の理由に当たらない。犯した行為で裁かれるべきだ」と一蹴した[62]。
- 同年3月10日、最高裁第1小法廷(桜井龍子裁判長)は「11日間という短期間に犯行を重ねており、執拗で残虐。地域社会に与えた影響は大きい」として上告を棄却し、控訴審で言い渡された元少年3人への死刑判決が確定した[最高裁判決文 1][1]。少年事件で死刑判決が確定するのは1992年に発生した市川一家4人殺人事件(2001年判決確定)の犯行当時19歳の少年死刑囚(2016年現在東京拘置所収容中)以来、平成の少年事件では2件目(4人目)であり、少年事件で複数の被告の死刑が同時に確定するケースは最高裁判所が把握している1966年以降初となる[1]。
- KMは所内のラジオ放送で判決内容を知り、判決翌日の2011年3月11日午前、名古屋拘置所で弁護人の山下幸夫[63]と面会した[64]。弁護人が判決要旨を読み上げるとKMは「少年事件への厳罰化と受け止めた。判決は政治的な判断」という趣旨の感想を伝え、再審請求の希望を口にした[64]。判決に動揺した様子はなく、今回の判決で事件当時未成年だった自分たち3人を実名報道するか匿名報道を続けるかで各報道機関の対応が分かれた(後述)点にも関心を示していたという[64]。また、同日午前にKAと面会した別の弁護人によれば、KAはこの判決について「重く受け止めている」と話したという[64]。
- 弁護側は3月22日付で最高裁に判決訂正を申し入れた[65]が同30日付で棄却され、3人の死刑判決が正式に確定した[66][67]。
実名報道
- 主犯格の被告人であるKM・KA・HMの3人全員に控訴審判決で死刑判決が下された直後に発売された『週刊新潮』2005年10月20日号(朝日新聞報道では10月27日号)は「史上最凶『リンチ殺人』で死刑判決なのに新聞が載せない元少年の『実名と顔写真』」と題した記事でKM・KA・HMの3人を実名報道し、うち2人については顔写真も掲載した[68][69]。同誌編集部はこの事件について『3人が死刑判決を受けるほどの凶悪無比な犯罪であり、被害者遺族の被害感情も峻烈であることを考慮し、実名報道すべきと判断した」とコメントした[68][69]。これに対し、日本弁護士連合会(日弁連)は「少年法の精神を守って同様の報道がないよう強く要望する」との声明を出した[69]。この時点では在京の新聞・テレビ各社は「少年の更生を目的とする少年法の精神を尊重した」として匿名報道を継続したが、この時点で朝日新聞、テレビ朝日は死刑が確定した場合は実名報道する方針を決めていた[69][注釈 11]。またTBSは堺市通り魔事件に関連して触法少年の実名報道を合法とした大阪高裁判決以降、社内で少年犯罪と実名報道について議論を重ねており、テレビ東京、日本テレビ、NHK、読売新聞、毎日新聞もそれぞれ「今後も検討を続けていく」とした[69]。
- そして最高裁判決により、死刑が確定して更生や社会復帰の可能性が事実上なくなったことを受けて、毎日新聞と中日新聞(東京新聞)を除く各報道機関[注釈 12]はKM・KA・HMの3人を実名報道した。地元紙の中日新聞(東京新聞)は最高裁での死刑判決が覆る可能性がほぼないことから実名報道への切り替えも検討したが、「少年法が求める更生への配慮の必要性はなお消えていない」として結局匿名で報じた[1]。ちなみに、朝日新聞は市川一家4人殺人事件の判決確定後の2004年に少年死刑囚については「国家によって生命を奪われる刑の対象者は明らかにされているべきだとの判断」から原則実名報道する方針を決めており[14][70]、読売新聞や産経新聞、日本経済新聞もそれぞれ「死刑が確定すれば、更生(社会復帰)の機会はなくなる一方、国家が人の命を奪う死刑の対象が誰なのかは重大な社会的関心事」[15]「死刑が事実上確定し、社会復帰などを前提とした更生の機会は失われます。事件の重大性も考慮」「犯行当時少年だった被告に死刑判決が下された重大性に加え、被告の更生の機会がなくなることも考慮」[16]と実名報道切り替えの理由を説明している[71]。一方、全国メディアで唯一匿名報道を続けた毎日新聞は「4人の命が奪われた残虐極まりない事件ですが、事件当時は少年だった被告の名前は少年法の理念を尊重し匿名で報道するという原則を、最高裁判決が出たからと行って変更すべきではないと判断しました」「死刑確定後も再審や恩赦が認められて社会復帰する可能性が全くないとは言い切れません」[注釈 13]とした上で、「死刑が執行されるような事態になれば、更生可能性はその時点で消えたと解釈することができ、実名報道に切り替えることも改めて検討します」とも補足した[72]。日弁連の宇都宮健児会長は同日、「少年の更生・社会復帰を阻害する実名報道を禁止した少年法の理念は死刑判決でも変わらず、それに反する事態で極めて遺憾。再審や恩赦で少年が社会復帰する可能性は残っており、実名が報道に不可欠な要素とも言えない。今後、実名報道することがないよう強く要望する」との声明を出した[73][1][15]。
- なお、名古屋拘置所は「撮影はできない」との拘置所長名の注意書きを面会室に掲示している[17](法務省矯正局は刑事収容施設法に基づく拘置所長の施設管理権で拘置所面会室への撮影機器の持ち込みを認めていない[74])が、写真週刊誌『フライデー』(講談社)2011年5月12日号はKA(当時O姓)と名古屋拘置所で面会した際に撮影したとする写真(KAが面会室で涙をぬぐう様子などを写した3枚)を掲載した[74][17]。フライデー編集部は「本人の同意があったかや撮影方法はコメントしない。編集部独自の判断で、報道に意義があると考えている」としている[17][74]。これを受けて矯正局成人矯正課は「調査結果を踏まえて対処する』とコメント、KAの弁護人の村上満宏は「写真掲載に少年法上の問題はあるが、写真を掲載することで、この死刑囚(KA)を死刑にしてよいのかとの是非を問う意味では理解できる」とコメントした[74]。
死刑囚らのその後
2017年(平成29年)現在、収監先は全員が同一ではない。第一審から一貫して死刑判決を受けたKMは東京拘置所(名古屋拘置所に収容されていたが、判決確定前の2010年(平成22年)12月に拘置所職員に対し他の収容者に関する情報の漏洩を唆した容疑により国家公務員法違反で書類送検され東京拘置所に移送された。なおこれについては不起訴処分[要出典])に、控訴審で初めて死刑判決を受けたKA・HMは名古屋拘置所に収監されている。
3人の弁護人は2011年5月28日、東京都新宿区内で開かれた市民団体の集会で「互いに虚勢を張りながら暴行をエスカレートさせた少年事件の特質に触れず、第一審で傷害致死罪認定された木曽川事件を殺人罪と認定した最高裁判決は不当」として、いずれの死刑囚も再審を望んでいるとして、近く再審請求する方針を明らかにした[75]。
- KM
- KMは2011年12月16日付で精神科医による精神鑑定の内容を新証拠として提出し「各犯行時は離人症の症状を伴う慢性化した解離性障害であり、心神喪失もしくは心神耗弱状態[76]だった疑いがある」として名古屋高裁に再審請求した[77][78]。これについては2013年(平成25年)2月4日付で名古屋高裁刑事2部(柴田秀樹裁判長)で「再審請求にはこれまでの公判で明らかにならなかった新証拠が必要だが、今回の精神鑑定は新規性を欠く上、証拠価値としても信用性に乏しい」などとして請求棄却の決定がなされた[76][79]。KMは棄却を不服として異議申し立てしたが、2015年(平成27年)12月24日付で名古屋高裁(石山容示裁判長、本事件でかつて第一審判決を担当した)は「証拠は新規性を欠き、価値も乏しい。再審請求の棄却決定に事実誤認や判断の誤りはない」と指摘してKAとともに異議申し立てを棄却した[80]。
- この再審請求の際、2005年(当時控訴審公判中)に当時KMが収監されていた名古屋拘置所が、KMから預かった公判記録を廃棄していたことが判明した[81][82]。KMは「必要不可欠な資料を廃棄され精神的苦痛を受けた」として2011年5月、国に約600万円の損害賠償を求めて名古屋地裁に提訴した(訴状によると、拘置所は2005年4月に公判記録などを入れた段ボール10箱を預かり、うち3箱を廃棄した[82]。廃棄された段ボール箱の中には少なくともA4用紙8400枚分の資料が入っていたという[81]。その直後名古屋拘置所はKMから閲覧を求められたため、廃棄に気付いて謝罪した[81]。KMはその際にコピー代の負担などを申し出たが話はまとまらなかった[81]。KM側は「記録には自分の意見なども書き込んでいたため、復元はできない」と主張した[81])[81][82]。名古屋拘置所は「廃棄は事実だが、裁判中なので詳細は答えられない。当時、その件で処分が出たかどうかも、記録が残っていないため分からない」とした[81][82]。
- KMとその弁護人は死刑確定後の2011年9月から2014年(平成26年)6月にかけて名古屋、東京両拘置所で、再審請求や民事訴訟の打ち合わせの際に職員が立ち会わないよう求めたが認められなかった[83]。このためKMと弁護士2人は、職員の立ち会わない面会を拘置所が拒んだのは違法として国に損害賠償を求め、東京地方裁判所(谷口豊裁判長)は2016年(平成28年)2月23日、「弁護士との『秘密面会』を拒否できるのは、死刑囚が拘置所の秩序を乱したり動揺したりする恐れがある場合に限られる」と指摘した上で「今回はその恐れはなく、裁量の範囲を逸脱している。秘密で面会する利益を侵害した」として国に対し損害賠償計約53万円の支払いを命じた[83][84]。
- KA
- KAは2013年1月8日付で、捜査段階での自白を「捜査官に迎合することで全く虚偽の事件が作られた」と否定するKA本人の上申書と、木曽川事件の被害者Bの死因について「BはKAが暴行を加える以前に他の共犯者らによる暴行によって既に致命傷を負っていた」とする法医学者の鑑定書を新証拠として提出し、名古屋高裁に再審請求した[85]。弁護人は会見の中で「本人の思いは『とにかく事実をもって裁いてほしい』の一点に尽きる。暴行自体に関与したことは争わないが、共謀はなく、殺意もなかった。無罪を言い渡すべき明らかな証拠だ」と述べた[85]。2013年8月19日、名古屋高裁(柴田秀樹裁判長)は「上申書や鑑定書は新規性を欠き、証拠価値についても信用性が乏しい。確定判決は自白調書のみによって認定したものではない。自白調書の信用性を否定する理由は具体的根拠に乏しく、一般論にすぎない」などとして再審請求を棄却した[86]。KAは棄却を不服として異議申し立てしたが、2015年12月24日付でKM同様名古屋高裁(石山容示裁判長)に棄却された[80]。
- HM
- HMは控訴中の2003年、閲読後の雑誌3冊を親族に送ることを認められなかったことを不服として弁護士会に人権救済の申し立てを行った[87]。その際、HMはその雑誌を証拠物として提出しようとしたが「閲読後の雑誌は廃棄するのが原則で、既に廃棄済みである」と当時収監されていた名古屋拘置所から告知され、「人権救済の申し立てを侵害された」と主張、国などを相手に約30万円の損害賠償支払いを求めた民事訴訟を起こした[87]。上告中の2006年(平成18年)10月27日、名古屋地裁(松並重雄裁判官)は「裁量権を逸脱し、原告(HM)に精神的苦痛を与えた」として名古屋拘置所所長らの過失を一部認め、国に賠償金5000円の支払いを命じた[87]。
- 死刑確定後の2011年4月から2013年1月にかけて計17回、HMは弁護士や支援者との手紙のやり取りを試みたが、名古屋拘置所により不許可にされた[88]。HMはこれを違法と訴え、国に対し90万円の損害賠償請求訴訟を起こした[88]。2016年(平成28年)2月16日、名古屋地裁(倉田慎也裁判長)は「不許可の判断は権限のある拘置所長ができるが、これを所長ではなく一般職員がした。また、第三者機関からのHMに対する寄付に関する内容で必要性があった」などとして全17回のうち一部の4回を違法だと認め、国に対し3万円の損害賠償を命じた[88]。
- HMは上告中の2008年(平成20年)8月から2010年2月、計26回にわたって面会者の氏名や面会の日付、手紙や差し入れの内容などの情報を名古屋拘置所の職員(副看守長と看守の2人)によって収容中の共犯者(KM)に漏らされたなどとして、名古屋地裁に対し国に慰謝料160万円の支払いを求める訴訟を起こした[89]。名古屋地裁(堀内照美裁判長、判決は朝日貴浩裁判長が代読)は2014年4月18日「原告(HM)は事件で共犯者と主従関係を争っており、HMが特に情報提供を望まないことは容易に推測できる」「職員の行為は精神的苦痛を与えるものであると言わざるを得ない」として訴えの一部を認め、国に慰謝料10万円の支払いを命じた[89][19]。また、HMは名古屋拘置所の職員2人が2007年(平成19年)から2009年(平成21年)の計21回、当時上告中のHMの手紙や面会の相手・日付、差し入れの内容のほか、事件の鑑定や提訴に関する会話の内容を共犯者に漏らしたとして国に180万円の損害賠償を求め、2016年9月2日に名古屋地裁(加島滋人裁判長)は「情報漏洩はプライバシーの権利や通信の秘密、死刑囚の防御権を侵害しており違法だ」と指摘して国に慰謝料39万円の支払いを命じた[90]。
- HMは2013年及び2014年の計2回、死刑の執行方法(絞首刑)が記された書籍計6冊のコピーを名古屋地裁に郵送するよう名古屋拘置所に願い出た[91]。これは自身が起こしている国家賠償訴訟の証拠として提出するためだったが、所長は死刑執行方法を記した内容を閲覧させないため不許可処分にした[91]。HM側は裁量権の逸脱を訴えて国に20万円の損害賠償を求めた一方、国側は「証拠となれば死刑の執行方法を閲覧でき、精神的に不安定な死刑囚が拘置所の規律や秩序を害する恐れがあった」と反論していた[91]。2016年1月19日に名古屋地裁(倉田慎也裁判長)は「書籍の閲覧制限が許されるのは、刑事施設内の規律や秩序の維持のため放置できない程度の障害が生ずる蓋然性が必要だが、今回は認められない。所長は裁量の判断を誤った過失がある」と指摘して国に1万円の支払いを命じた[91]。またこれとは別に、HMは2010年から2013年の計13回、死刑執行状況を描写した記事や刑場の写真が掲載された新聞記事や雑誌記事、書籍を読もうとしたが、拘置所がこれらを隠して閲覧させたのに対して国に100万円の損害賠償を求めた訴訟を起こし、2016年8月30日に名古屋地裁(倉田慎也裁判長)「閲覧制限は必要な限度内と法律で定められており、死刑囚が閲覧しても逃走や自殺に及び、拘置所の規律や秩序が維持できなくなる恐れがあったとは認められない」と指摘して国に慰謝料65000円の支払いを命じた[92]。
- HMはさらに2011年から2014年、弁護士に訴訟の助言や証拠収集などの協力を依頼する文書を送付しようとしたり、死刑執行の状況を記した書籍のコピーを閲覧しようとしたが、名古屋拘置所がいずれも認めなかったのを不服として国に慰謝料70万円の損害賠償請求訴訟を起こし、名古屋地裁(朝日貴浩裁判長)は2017年(平成29年)1月14日に「これらの処分は刑事収容施設法に違反する。HMは権利侵害により精神的損害を被った」として国に慰謝料5万円の支払いを命じた[93]。
HMによる文藝春秋への訴訟
- HM[2](当時K姓)は第一審公判中の1997年(平成9年)、『週刊文春』1997年7月24日号・8月7日号にて「愛知、岐阜、大阪、高知にまたがる連続強盗殺人」などと題した本事件を報じる記事の中で実名にある字と同じ読みの字などを使った仮名(7月24日号ではHMを「主犯格K」(Kは当時の姓)と報じ、8月7日号では本名の漢字4文字のうち2文字の読みが同じで、全体的な音も似ている仮名を使用した[94]。「主犯格K」という表記については第一審で違法性が認定されたが、控訴審では「一般読者にはHMと認識できない」と訴えを退けていた[94])で報じられた(前述の通り、高知県はAの遺体が遺棄された場所であり同県内では殺人は犯しておらず、また強盗殺人罪で起訴されたのは長良川事件のみである)[95]。これに対しHMは「仮名は関係者が見て容易に本人を推測でき、(本人とわかるような記事や写真の報道、出版を禁じた)少年法第61条に違反している。連続した複数の強盗殺人犯と断定され、全く反省がないかのような記述もされた」として[95]プライバシー権の侵害と名誉毀損で大変な精神的苦痛を受けたとし[96]、代理人の弁護士を付けずに[95]同年12月25日付で[2]『週刊文春』の発行元である文藝春秋を相手取り100万円の損害賠償を訴える民事訴訟を名古屋地裁に起こした[96]。文藝春秋側は「仮名は実名を隠すために使われており、容易に本名は分からない。起訴事実から連続の強盗殺人は明らかで、反省がないのは事実」と反論していたが、1999年(平成11年)6月30日、名古屋地裁(水谷正俊裁判長)は「(少年法第61条の趣旨について)たとえ仮名を用いたとしても、本人が容易にわかるような記事の掲載は、将来の更生の観点から実名報道と同様に大きな障害になり、少年法に違反する」「(今回の仮名記事について)仮名は氏及び名ともに全体として音が実名と類似している上、本人の経歴に合う内容が詳細に記述されており、面識のある不特定多数の読者は容易に本人と推知できる」としてHMの訴えの一部を認め、文藝春秋側に30万円の損害賠償を支払うよう命じた[95]。これに対し、文藝春秋の雨宮秀樹社長室長(当時)は「少年法の精神を遵守し、加害少年の氏名を仮名として一般読者からプライバシーの推知ができないようにした。判決は極めて心外」「少年事件をめぐる裁判はこのところ、当たり前の市民感覚とかけ離れてきているのではないか」と批判し[95]、文春側が控訴した。文藝春秋側の代理人の古賀正義弁護士は「仮名が実名に似ていたとしても、それが加害少年を指すとわかるのは少年の知り合いだけ。その人たちは既に(HMが)犯人と知っている」と指摘し、「仮名報道で賠償を認めた例など聞いたことがない。驚くべき判決だ」「19歳と成人に限りなく近い少年の実名を出すことにあまりに神経質になるのはどうなのか。公益性がある場合なら、少年でも実名報道があってもいいのでは」と指摘した[95]。この判決の約1か月前の6月9日には堺市通り魔事件の少年被告人の実名・顔写真を新潮社の月刊誌『新潮45』が報じたことに対し「実名や写真を掲載する特段の公益上の必要性はなかった」として、大阪地裁から新潮社に対し損害賠償を命じる初判断が示されていた[95](その後破棄、2000年2月の大阪高裁控訴審では実名報道を容認する判決)。
- 2000年(平成12年)6月29日、名古屋高裁(宮本増裁判長)は「仮名は氏・名ともに音が実名と類似しており、面識のある不特定多数の読者は容易に本人と分かるとしてプライバシー侵害を認定、記事掲載は「少年法に基づいたHMの法的利益より、社会的利益が強く優先される特段の事情があったとは言えない」と結論付け、第一審判決を支持して控訴を棄却した[97]。少年による凶悪犯罪が多発していた当時[注釈 14]の現状に触れ、刑事裁判を受けている少年まで匿名で保護する必要があるか否かについては「この問題は高度の立法裁量に属する事柄」とし「保護の必要性については、少年の権利などを総合的に検討し、慎重に決定されるべきだ」とした[97]。判決の中では日本国憲法第13条(個人の尊厳)のほか国連「子どもの権利条約」も引用し、実名報道などを禁じた少年法第61条について「少年の人権を守るための制約であり、国民の知る権利も一定の限度で譲歩すべきだ」と総合的に判断した一方「少年の利益よりも社会的利益を擁護する要請が強く優先されるなど、特段の余地がある場合には実名報道などの違法性が免責される」と認定し、少年事件でも実名報道が許される余地を認めた[97]。文藝春秋側は判決についてのコメントで「仮名にしてさえ、少年殺人犯の名誉が傷つくというのか。同じことなら、いっそ実名報道すればよかったとすら思わせかねない。判断は根本的に間違っている」と反発し[97]上告した。
- 2003年(平成15年)2月7日、最高裁第2小法廷(北川弘治裁判長)は上告審口頭弁論を開き、文藝春秋側は「(控訴審の)名古屋高裁判決は、少年法の規定は公益目的でも一律に報道を禁止するものだと解釈しているが、表現の自由を謳った日本国憲法第21条を優先すべきだ」と主張した[98]。同年3月14日、最高裁は「本人と分かる報道を禁じた少年法に違反するのは、面識のない不特定多数が推測できる場合」とする最高裁としての初判断を示し、その上で、記事がHMのプライバシー権を侵害していることは認めたが「使用された仮名では不特定多数の人が本人だと推し量ることはできない」と述べ、少年法に違反しないと判断した[94]。そして、仮に名誉を毀損する内容の記事であったとしても、違法となるかどうかは「公益性などとの比較で個別・具体的に判断すべきだ」と述べ、文藝春秋側への損害賠償を命じた控訴審判決を破棄して審理を名古屋高裁に差し戻しした[94]。少年法第61条の規定が、少年の「報道されない権利」まで認めたものかどうかは判断しなかった[94]。
- 2003年5月30日、名古屋高裁(熊田士郎裁判長)で差し戻し控訴審第一回口頭弁論が開かれ、HM側は「記事掲載によって名誉毀損やプライバシー侵害、成長発達権の侵害という不法行為が成立する」との準備書面を陳述した[99]。文藝春秋側は9月12日の口頭弁論で反論した[99]。2004年(平成16年)5月12日、名古屋高裁(熊田士郎裁判長)は本事件の刑事裁判を傍聴した被害者遺族の両親の手記で構成した記事の内容に触れ「記事に私利私欲を追及する意図はない。少年犯罪に対する国民の関心が高まっていたことを考慮すると、記事を公表する理由は公表されない法的利益より優越する」(ただし、記事中で刑事裁判を傍聴したことになっている筆者が実は一度も傍聴に行っていなかったという虚偽を認定した)「極めて凶悪かつ重大な犯罪であり、少年犯罪に関心が高まっていたことや社会への影響を考慮すると、HMは犯罪事実などの公表を受認しなければならない。将来の更生に妨げになる可能性を否定できないとしても、HMの経歴を含めて公表の必要性は認められ、社会的な意義がある」とし、文藝春秋側が逆転勝訴した[100]。文藝春秋側は「我々は少年法の精神を遵守し、かつ加害者のプライバシーにも十分配慮して仮名報道とした。今回(HM側の)訴えがすべて退けられたのは当然のことだ。これを機に、迷走する司法という昨今の悪い風潮への歯止めとなることを願っている」とコメントした[100]。
- HM側は上告したが、2004年11月2日付で最高裁第3小法廷(上田豊三裁判長)は『記事に書かれたプライバシーの範囲は限定的でHMの被害は小さく、更生の妨げとなる可能性はあるが記事を公表する社会的意義が勝る」としてHMの上告を棄却し、文藝春秋側逆転勝訴とした差し戻し控訴審判決が確定した[101]。
共犯者らの裁判
共犯者の少女2人(W子、Z子)は少年院送致された[2][102][103]。その他5人の共犯者らは主犯格3人同様に起訴され、主犯格3人の第一審結審までに刑事裁判でいずれも有罪判決(当時19歳の少年だったTとYの2人は懲役4年以上8年以下の不定期刑[22][104]、当時既に成人だったUは懲役1年8月の実刑判決[22]、XとVの2人は共に懲役3年執行猶予4年[105][106])が確定した[2]。
- T(大阪事件)
- Tは1995年9月12日、大阪地裁(谷口敬一裁判長)で「遊び仲間にバカにされたくないため、直視しがたいほど残忍な犯行に加わった。身勝手な犯行だが、反省しており更生の可能性もある」として懲役4年以上8年以下の不定期刑(懲役5年以上10年以下求刑)を受けた[22]。
- U(大阪事件)
- Uは大阪事件の死体遺棄罪で1995年4月21日に大阪地裁(竹田隆裁判官)から「遺体を廃棄物のように捨てるなど刑事責任は重いが、反省もしている」として懲役1年8月(求刑懲役2年6月)の実刑判決を受けた[107]。
- V、W子、X(木曽川事件・長良川事件)
- 11月3日、木曽川事件での殺人容疑で愛知県警捜査一課と一宮署はV、X両名(同日、長良川事件の逮捕・監禁、強盗致傷罪で起訴)とW子(同日、長良川事件については処分保留)の3人を再逮捕した[108]。
- W子は12月16日に名古屋家裁一宮支部(寺本嘉弘裁判官)での審判で少年院に送致する決定が下された[102]。
- 1994年12月5日、名古屋地検はVを木曽川事件での殺人罪で、Xを同事件での傷害致死ほう助罪(現場には居合わせたが殺害には加担しなかったため)でそれぞれ名古屋地検に起訴した[109]。
- 1995年1月31日に木曽川・長良川事件で殺人、強盗致傷の罪に問われたVと逮捕・監禁、傷害致死ほう助の罪に問われたXの初公判が名古屋地裁で開かれ、検察側は木曽川事件について「Bへの集団リンチや殺害の際、Vはシンナーを吸っていて暴行を止めず、KMらと共にぐったりしたBを河川敷の雑木林に引きずり、放置して殺害した。Xは車を運転し、BやKMらを犯行現場に運んだ」と、長良川事件については「両名はKMらと行動を共にした上、Dを車内に監禁して連れ回した際に逃げ出さないように監視していた。CとEが暴行を受けて殺害される際、パイプで殴る音が聞こえると、Xが『あの音、なんの音かわかるか』『あの人たちはヤクザだ』と言ってDを脅していた」とそれぞれ冒頭陳述で述べ、Vは「両事件とも犯行現場には同行したが、共謀も含め犯行には加わっていない」として無罪を主張した一方、Xは「実行犯ではないが、事件への関与は間違いない」と大筋で容疑を認めた[35]。12月8日、Xに対し名古屋地検は「犯行の態様は執拗で冷酷、非情で、結果は重大。被害感情も厳しい。Xの犯行は事件で必要不可欠だった」として懲役7年を求刑した[110]。
- 1996年(平成8年)3月19日、名古屋地裁(三宅俊一郎裁判長)「Xは加害者側の立場にあった反面、KMらに脅されるなど同情すべき点があり(最も罪の重い)強盗致傷罪での共謀は認められない」「(捜査当局の取り調べについて)誘導的な理詰めの取り調べで、犯行を認める供述を引き出した面がある」として懲役3年執行猶予4年(保護観察付)の有罪判決を言い渡した[105]。控訴せず確定[111]。
- Vについては1996年11月15日、「共犯者の暴行で重傷を負ったBを木曽川河川敷の雑木林に引きずり込み放置して死亡させるなど、犯行は冷酷、非情で、被害者感情も厳しい。刑事責任は厳しく追及されるべきだ」として検察側から懲役7年が求刑されたのに対し弁護側は「共謀も含め犯行には関わっていない」と無罪を主張した[111]。1997年(平成9年)3月5日、名古屋地裁(三宅俊一郎裁判長)は「Vは加害者側の立場にあった反面、KMらに脅されるなど同情すべき点があり、殺人や強盗の共謀は認められない」「殺害の動機はなく、Bを遺棄しKMらの殺人行為を容易にしたに過ぎない」として、殺人ほう助などでVに対し懲役3年執行猶予4年の有罪判決を言い渡した[106]。
- Y、Z子(木曽川事件)
- 1994年11月2日、名古屋地検一宮支部は木曽川事件についてYを殺人、Z子を傷害致死の容疑で名古屋家裁一宮支部に送致した[112]。
- その後、名古屋家裁一宮支部(寺本嘉弘裁判官)は11月25日に審判を開き、Yを殺人罪で刑事処分相当として名古屋地検に逆送致し、Z子を傷害致死罪で少年院に送致する決定を下した[103]。Yは12月2日、名古屋地検により殺人、傷害の罪で名古屋地裁に起訴された[113]。
- Yの初公判は1995年1月31日に名古屋地裁で開かれ、罪状認否でYは起訴事実を大筋で認めたものの「殺人に当たるかどうかわからない」と述べ、弁護人は「未必の故意の限度で殺人罪の成立を認める」と述べた[31]。5月18日の論告求刑公判で、検察側は「事件はシンナー吸引癖との関連を否定できず、厳重な更生教育が必要」「些細な動機から無抵抗の被害者に執拗な集団暴行を加え、重大な結果をもたらした。追従的立場であっても刑事責任は重い」としてYに懲役5年以上10年以下の不定期刑を求刑(当時、少年に対する有期懲役としては上限の求刑)、弁護側は最終弁論で「Yの犯罪行為への関与は従属的で、深く反省している」として寛大な判決を求めた[114]。
- 7月6日の判決公判で名古屋地裁(油田弘佑裁判長)は「Yの加えた暴行はKMらと暗黙の共謀関係があった。殺意も確定的だった」「執拗かつ残忍な暴行の上、落ち度のない被害者を理由もなく殺害した刑事責任は重い」などとし、情状面では「Yの暴行は致命傷を与えたとはいえず更生の可能性もある」としてYに懲役4年以上8年以下の不定期刑を言い渡した[104]。控訴せず確定[111]。
脚注
注釈
- ^ なお、殺害された2人がリンチされている間Dは堤防道路上の車に監禁されており、犯行グループから「あの音が聞こえるか。あれはCたちを殴っている音だ」などと脅されていた[35]。
- ^ この時点で既に永山則夫連続射殺事件以降にも、名古屋アベック殺人事件や市川一家4人殺人事件で犯行当時少年の被告人に第一審で死刑判決が出ているにも関わらずである。
- ^ 「4人殺害すべての実行行為者で、反社会性は顕著。当時少年で反省の兆しが現れるようになったことなど情状を最大限考慮しても極刑はやむを得ない」とされた[4]。
- ^ KMとの共謀共同正犯が認定されたものの、「追従的な立場で、暴行や矯正可能性などの程度がKMと異なる」として死刑選択を回避した[4]。
- ^ 前者は控訴審(名古屋高裁)で無期懲役に減軽され確定、後者は被告側控訴及び上告棄却(それぞれ東京高裁・最高裁)で死刑確定し、平成の少年犯罪では初の少年死刑囚になった。
- ^ 少年事件での死刑判決は1983年の永山則夫連続射殺事件の最高裁判決以降では、第一審では1989年の名古屋地裁・名古屋アベック殺人事件判決と、1994年の千葉地裁・市川一家4人殺人事件判決に続き3件目[注釈 5]で、平成の事件では市川の事件に続き2件目である。
- ^ 東京高裁判事、名古屋地裁判事、津地裁・津家裁所長などを経て2002年3月より名古屋高裁判事に[5]。名古屋高裁転属前は勝田清孝事件の死刑判決や、別件逮捕を理由に無罪判決を言い渡した蛸島事件判決などにも関わった[5]。2003年のドラム缶女性焼殺事件控訴審判決では第一審死刑判決を支持して被告側控訴棄却、同年2月3日に言い渡された愛知県扶桑町強盗殺人事件(2003年11月18日発生)控訴審判決では第一審・名古屋地裁一宮支部の懲役15年判決(2004年9月8日付、法定刑である無期懲役求刑に対し自首を認定して減軽)を破棄して求刑通り無期懲役を言い渡した[5]。この事件の控訴審判決の直後の11月16日に定年退官した[5]。
- ^ 「重大な結果を導く発端を作るなど終始主導的立場で、他の共犯者らを被害者4人の殺害に向かわせ、自ら積極的に激しい攻撃を執拗に加えるなどして犯行を強力に推進し、最も中心的で際立って重要な役割を果たしている」とされた[3]。なお、本文で述べた通り木曽川事件については「傷害致死→殺人」と事実認定そのものを見直したため、第一審同様死刑判決を受けたKMについても控訴棄却ではなく、検察側の控訴を認めて一旦原審を破棄した上でKA・HMとともに改めて死刑判決が言い渡された。
- ^ 「所属暴力団の中では3人の中で最上位であることの影響力を行使し、KMとともに主導的立場で犯行を推進するとともに、被害者らに激しい暴行を加えるなど、実行行為にも積極的に加わり、木曽川・長良川事件においても、事件全体を通じて極めて重要な役割を果たしており、その点ではKMやHMとの間にはさほどの差異はない」とされた[3]。
- ^ 所属暴力団における序列が3人の中では一番下ではあったが、「殺害の動機を形成するに至った暴行に自ら積極的に関与し、KM・KAから被害者の殺害を暗に促されるや、ためらうことなく賛成し、進んで殺害に着手したり、凶器を準備し、殺害の早期実行を決め、率先して被害者への攻撃に出るなど、犯行を強力に推進し、重要な役割を果たした」とされた[3]。
- ^ 2004年6月5日付の報道より適用している指針「事件の取材と報道2004」において「犯行当時少年でも死刑判決が確定した場合、匿名報道する最大の理由である更生(社会復帰)への配慮の必要性が基本的に消える。死刑が誰に対して執行されるのかは、権力行使の監視の意味でも社会に明確にされるべきだ」として、少年死刑囚については原則実名報道することを決めた[70]。
- ^ 全国メディアでは毎日新聞を除く各全国紙(読売新聞[15]・朝日新聞[14]・産経新聞・日本経済新聞[16])と時事通信、共同通信、NHK・在京キー局(日本テレビ・フジテレビ・TBS・テレビ朝日・テレビ東京)が実名報道に切り替えた(フジテレビは3人の顔写真も報じた。テレビ朝日は最高裁判決時点では匿名で報じたが、正式に確定後実名報道に切り替えた)[1]。なお、後の光市母子殺害事件や石巻3人殺傷事件では本事件と異なり最高裁判決時点から実名報道に切り替えたテレビ朝日を除き、各マスメディアは本事件での対応を踏襲している。
- ^ このような反論に対して読売新聞は「もし、そのような(再審請求が認められて結論が覆るなどの)結果となれば、なおさら重大な出来事であり、やはり実名とともに歴史に記載されるべきだと考える」としている[15]。
- ^ 本事件以降にも2000年までに神戸連続児童殺傷事件、光市母子殺害事件、西鉄バスジャック事件などが発生していた。
最高裁判決文
出典
- ^ a b c d e f g h i 『中日新聞』2011年3月10日夕刊1面「元少年3人死刑確定へ 連続リンチ殺人 事件から17年『社会への影響大』最高裁が上告棄却」
『中日新聞』2011年3月11日朝刊1面「元少年3人死刑確定へ 連続リンチ殺人 最高裁が上告棄却 『結果重大 やむなし』」「―なぜ匿名報道か― 更生になお配慮必要」
『中日新聞』2011年3月11日朝刊31面「実名『更生する可能性なく』 報道各社対応割れる 匿名『少年法の精神基づく』」
- ^ a b c d e f g h i j k 『中日新聞』2000年12月28日朝刊1面「木曽・長良川リンチ殺人 3被告に死刑求刑 名地検 『少年(当時)でも矯正無理』」
『中日新聞』2000年12月28日朝刊25面「息子奪われた悔しさ今も 木曽・長良川リンチ求刑 涙の遺族『死刑に』 『少年でも許されぬ』」 - ^ a b c d e f g h i j k 『中日新聞』2005年10月15日朝刊33面「連続リンチ殺人 控訴審判決要旨」
『中日新聞』2011年3月11日朝刊26面「連続リンチ殺人最高裁判決要旨」 - ^ a b c d e f 『中日新聞』2001年7月10日朝刊1面「主導の19歳(当時)に死刑 リンチ殺人で名地裁判決 『強固な殺意 集団の推進力』追従2人は無期」
『中日新聞』2001年7月10日朝刊33面「遺族『何だ、これは』 連続リンチ殺人判決 7年間の涙乾かず『墓前にどう報告…』」 - ^ a b c d e f g h i j k 『中日新聞』2005年10月15日朝刊1面「元少年3人に死刑 連続リンチ殺人 『役割に大差ない』名高裁 2人無期の一審破棄」
『中日新聞』2005年10月15日朝刊3面「少年事件厳罰化拍車か 連続リンチ殺人元少年3人に死刑 死刑の選択基準明確化」
『中日新聞』2005年10月15日朝刊33面「連続リンチ殺人控訴審判決要旨『連続リンチ事件の経過』」
『中日新聞』2005年10月15日朝刊36面「遺族癒えぬ悲しみ あの子は帰らない」
『中日新聞』2005年10月15日朝刊37面「3被告身じろぎせず 連続リンチ殺人全員『死刑』 遺族に深々一礼も 弁護人は『頭真っ白』」 - ^ a b c d e f g h i j k 『中日新聞』1994年10月15日朝刊社会面31面「主犯格の少年逮捕 長良・木曽川のリンチ殺人 同じ仲間の犯行 逃走中、別の事件も 一宮署に出頭 全面的に容疑認める」
- ^ a b 『中日新聞』1994年11月26日夕刊13面「別の強盗で再逮捕 連続リンチ主犯格少年 津島で3万円奪う」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『朝日新聞』1995年2月1日朝刊23面「陰惨な犯行、克明に 連続リンチ殺人冒頭陳述【名古屋】」
- ^ a b 『中日新聞』1994年10月16日朝刊31面「さらに1人逮捕 長良川事件」
- ^ a b 『中日新聞』1994年10月24日朝刊23面「大垣へ身柄移送 手配の少年逮捕 長良川リンチ殺人」
- ^ a b 『中日新聞』1994年11月15日朝刊29面「少年を再逮捕 木曽川事件殺人容疑」
- ^ a b c 『中日新聞』1994年11月19日朝刊31面「長良川・木曽川リンチ殺人 大阪でも人殺した 第4の殺人 少年自供『高知に捨てた』」
- ^ a b c d 『中日新聞』1995年6月27日朝刊23面「罪状認否持ち越す リンチ殺人の主犯格初公判」
- ^ a b c d 『朝日新聞』2011年3月11日朝刊1面「元少年3人死刑確定へ 最高裁 4人殺害『責任重大』」
- ^ a b c d e f 『読売新聞』2011年3月11日朝刊1面「元少年3人死刑確定へ 連続リンチ殺人 最高裁、上告棄却」
『読売新聞』2011年3月11日朝刊37面「元少年3人の死刑確定へ 実名、報道すべき関心事」 - ^ a b c d 『日本経済新聞』2011年3月11日朝刊43面「元少年3人死刑確定へ 連続リンチ殺人 最高裁上告棄却『4人次々 結果重大』」
- ^ a b c d “死刑囚との面会写真を掲載 週刊誌「フライデー」”. 日本経済新聞 (2011年5月12日). 2017年1月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年1月8日閲覧。
- ^ 『朝日新聞』2015年12月26日朝刊29面「連続リンチ殺人の異議棄却【名古屋】」
- ^ a b “死刑囚の面会者情報漏洩、国に慰謝料命令 名古屋地裁”. 日本経済新聞 (2014年4月19日). 2017年1月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年1月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『中日新聞』2001年7月10日朝刊31面「連続リンチ殺人判決要旨(上)中心的立場 極刑やむを得ず」「連続リンチ殺人判決要旨(下)」
- ^ a b c d e f g h i j k 『中日新聞』1994年11月23日朝刊27面「4人目の遺体発見 長良・木曽川事件の少年自供通り 高知の山中で」
- ^ a b c d e 『中日新聞』1995年9月12日夕刊10面「連続リンチ殺人 少年に不定期刑 大阪の事件で判決」
- ^ a b 『中日新聞』1994年11月27日朝刊31面「大阪出身少年も逮捕 連続リンチ Aさん殺害 さらに1人手配へ」
- ^ a b 『中日新聞』1994年11月24日朝刊27面「歯形でAさんと断定 リンチ・高知の遺体」
- ^ a b 『中日新聞』1994年11月22日夕刊13面「4人目被害者の遺体本格捜査へ リンチ殺人」
- ^ 『中日新聞』1994年11月30日夕刊13面「Aさん殺害容疑で2人指名手配 連続リンチ殺人」
- ^ a b c d 『中日新聞』1994年11月13日朝刊オピニオン7面「記者の眼/凶暴な若者 その心模様は… 上田寿行」
- ^ a b c d e f g 『中日新聞』1994年10月14日朝刊1面「岐阜の河川敷事件 仲間が別のリンチ殺人 参考人聴取で犯行を自供 男女計4人を逮捕」
『中日新聞』1994年10月14日朝刊31面「長良川・木曽川リンチ殺人 若者、歯止めなき暴走 動機不明、命もてあそぶ」 - ^ a b c 『朝日新聞』1998年8月14日朝刊23面「大阪事件を併合 木曽川・長良川リンチ殺人公判で名地裁【名古屋】」
『朝日新聞』1998年8月14日夕刊11面「『大阪事件』を併合、一括審理に 3府県連続リンチ殺人【大阪】」 - ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『朝日新聞』1994年10月30日朝刊27面「口論になった、髪が赤い だからリンチして死なせた(第2報)」
- ^ a b c d 『中日新聞』1995年1月31日夕刊11面「連続リンチ殺人木曽川事件初公判『殺人に当たるかわからない』少年 起訴事実は大筋認める」
- ^ a b 『朝日新聞』1994年10月15日朝刊31面「主犯格の少年出頭 岐阜・愛知リンチ殺人」【名古屋】
- ^ 『朝日新聞』1994年10月14日朝刊27面「木曽川河川敷にも遺体 長良川リンチ事件の2参考人が供述」【名古屋】
- ^ 『中日新聞』1994年10月9日朝刊31面「岐阜・輪之内の河川敷遺体 2人とも尾西の男性 暴行後に現場に運ぶ?」
- ^ a b 『中日新聞』1995年2月1日朝刊27面「連続リンチ殺人 3被告初公判 V被告は無罪主張 検察側冒頭陳述 Bさん放置し殺害」
- ^ 『中日新聞』1994年10月16日朝刊社会面31面「叫ぶ被害者めった打ち 連続リンチ殺人 シンナーかけ火・木曽川事件 無抵抗者助かる・長良川事件」
- ^ 『朝日新聞』1994年10月13日夕刊11面「グループ1人逮捕、ほか2人指名手配 長良川リンチ事件【名古屋】」
- ^ a b c d e f 『中日新聞』1994年10月8日夕刊13面「河川敷に男性2遺体 殺人?頭部に殴打痕 周りに血痕 岐阜・輪之内町 長良川堤防下」
- ^ 『朝日新聞』1994年10月12日夕刊「容疑の4人特定 長良川のリンチ 岐阜・輪之内町【名古屋】」
- ^ 『朝日新聞』1994年10月14日夕刊7面「『木曽川』も関与 長良川リンチ容疑者の6人【名古屋】」
- ^ 『中日新聞』1994年11月4日夕刊13面「主犯格の少年再逮捕 長良川リンチ殺人」
- ^ 『中日新聞』1994年10月15日夕刊13面「手配の容疑者 さらに1人逮捕 長良・木曽川リンチ」
- ^ a b c d e 『中日新聞』1994年11月2日朝刊31面「長良・木曽川リンチ殺人 主犯格の容疑者 仲間2少女殺害も計画 グループ内で漏らす 通報を恐れ?別の仲間 怖くなり警察へ」
- ^ a b c 『中日新聞』1994年11月22日朝刊31面「4人目の被害者は大阪の23歳男性 長良・木曽川リンチ殺人」
- ^ 『中日新聞』1995年2月10日朝刊39面「連続リンチ殺人 残る少年を逮捕 大垣署、長良川事件」
- ^ 『中日新聞』1994年12月6日朝刊23面「さらに2人を再逮捕 連続リンチ殺人事件」
- ^ 『中日新聞』1994年12月28日朝刊21面「大阪の事件で3人家裁送致 連続リンチ殺人」
- ^ a b 『中日新聞』1995年1月19日朝刊第二社会面30面「主犯格少年ら2人『刑事処分が相当』長良川・木曽川リンチ殺人」
- ^ 『中日新聞』1995年2月10日朝刊39面「連続リンチ殺人 残る少年を逮捕 大垣署、長良川事件」
- ^ 『中日新聞』1995年3月4日朝刊35面「19歳少年を再逮捕 長良・木曽リンチ殺人」
- ^ a b 『中日新聞』1995年3月25日朝刊34面「リンチで主犯格ら起訴」
- ^ 『中日新聞』1995年4月29日朝刊31面「主犯格の少年起訴 連続リンチ殺人 木曽・長良川事件」
- ^ a b c 『中日新聞』1995年8月21日夕刊11面「少年3人、殺意を否認 リンチ殺人第2回公判 事実関係は認める 名古屋地裁」
- ^ 『中日新聞』1998年5月14日朝刊27面「連続リンチ殺人 愛知、岐阜2事件 一転、共謀認める 3被告のうち1人 名地裁公判」
- ^ 『中日新聞』1998年5月28日朝刊30面「新たに1被告が起訴事実認める 連続リンチ殺人公判」
- ^ 『中日新聞』2001年3月1日朝刊34面「木曽川・長良川連続リンチ殺人 涙流し『生きて償う』名古屋地裁 3被告訴え結審」
- ^ a b 『中日新聞』2001年7月24日朝刊25面「連続リンチ殺人 殺人罪求め控訴 名地検『3被告共通の事実』」
- ^ 『中日新聞』2003年5月26日夕刊1面「3被告の死刑求める 木曽川・長良川リンチ殺人控訴審 検察『悪質さ同じ』名高裁初公判」
『中日新聞』2003年5月27日朝刊1面「長良川・木曽川連続リンチ殺人 3被告『矯正可能』名高裁控訴審で主張」 - ^ 『中日新聞』2005年8月20日朝刊37面「木曽川・長良川連続リンチ殺人 死刑妥当の是非争点 控訴審結審 判決は10月14日」
- ^ 『中日新聞』2005年10月19日朝刊30面「被告1人が上告 連続リンチ殺人」
『中日新聞』2005年10月24日夕刊11面「元少年上告2人目 連続リンチ殺人」
『中日新聞』2005年10月27日朝刊30面「元少年全員が上告 連続リンチ殺人」 - ^ 『中日新聞』2011年2月11日朝刊1面「元3少年の死刑回避を 連続リンチ殺人 上告審弁論で弁護側」
- ^ 『中日新聞』2011年2月11日朝刊33面「連続リンチ殺人 上告審弁論『真の謝罪に思えぬ』遺族ため息、不信強く」
- ^ 『中日新聞』2009年6月5日朝刊30面「裁判員を担う 第六部 少年事件(上) 更生の可能性 短期審理でどう判断」
- ^ a b c d 『中日新聞』2011年3月11日夕刊13面「連続リンチ殺人 『判決は政治的な判断』 元少年の1人 再審請求を希望」
- ^ “死刑判決の元3少年、最高裁に訂正申し立て”. 日本経済新聞 (2011年3月22日). 2017年1月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年1月8日閲覧。
- ^ 『中日新聞』2011年4月2日朝刊31面「連続リンチ殺人 元少年3人の死刑確定 最高裁、訂正申し立て棄却」
- ^ “元少年3被告の死刑が確定、3府県連続リンチ殺人”. 日本経済新聞 (2011年4月1日). 2017年1月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年1月8日閲覧。
- ^ a b 『中日新聞』2005年10月20日朝刊32面「連続リンチ殺人 元少年の実名掲載 週刊新潮、2人は写真も」
- ^ a b c d e 『朝日新聞』2005年11月5日朝刊33面「(メディア)死刑判決の少年事件報道 『確定後は実名』の動き」
- ^ a b 『朝日新聞』2004年6月21日朝刊30面「朝日新聞指針『事件の取材と報道2004』 4年ぶり全面改訂」
- ^ “▽ 実名報道と匿名報道 光市母子殺害事件で分かれる(在京メディア各社の対応とその理由)”. 共同通信 (2012年2月21日). 2016年11月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月16日閲覧。
- ^ 『毎日新聞』2011年3月11日朝刊1面「元少年3人死刑確定へ 連続リンチ殺人 最高裁が上告棄却」
『毎日新聞』2011年3月11日朝刊28面「匿名報道を継続します 本紙見解」 - ^ “少年の実名報道を受けての会長声明”. 日本弁護士連合会(日弁連)会長 宇都宮健児 (2011年3月10日). 2017年2月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年2月7日閲覧。
“少年に対する死刑判決の確定に関する会長声明”. 日本弁護士連合会(日弁連)会長 宇都宮健児 (2011年3月10日). 2017年2月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年2月7日閲覧。 - ^ a b c d 『中日新聞』2011年5月12日夕刊13面」「リンチ殺人事件 死刑囚写真掲載 発売の週刊誌」
- ^ 『中日新聞』2011年5月29日朝刊1面「連続リンチ殺人 3死刑囚再審請求へ 弁護人方針 木曽川事件、焦点に」
- ^ a b 『中日新聞』2013年2月6日朝刊26面「連続リンチ殺人 死刑囚の再審請求棄却 名高裁 精神鑑定『新規性欠く』」
- ^ 『中日新聞』2011年12月20日朝刊27面「死刑囚が再審請求 連続リンチ殺人 心神喪失を主張」
- ^ “連続リンチ殺人、死刑囚が再審請求”. 日本経済新聞 (2011年11月20日). 2017年1月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年1月8日閲覧。
- ^ “死刑囚再審請求、高裁が棄却決定 94年の連続リンチ殺人”. 日本経済新聞 (2013年2月6日). 2017年1月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年1月8日閲覧。
- ^ a b 『中日新聞』2015年12月26日朝刊31面「連続リンチ殺人で異議申し立て棄却 2死刑囚に、名古屋高裁」
- ^ a b c d e f g 『中日新聞』2012年2月1日夕刊13面「名古屋拘置所 預かった公判記録誤廃棄 死刑囚、賠償求め国提訴」
- ^ a b c d “死刑囚公判記録、名古屋拘置所が誤廃棄 連続リンチ殺人事件”. 日本経済新聞 (2012年2月1日). 2017年1月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年1月8日閲覧。
- ^ a b 『中日新聞』2016年2月24日朝刊30面「『秘密面会』拒否違法 死刑囚の請求認める 東京地裁」
- ^ “死刑囚面会で職員同席は違法 東京地裁判決”. 日本経済新聞 (2016年2月23日). 2017年1月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年1月8日閲覧。
- ^ a b 『中日新聞』2013年2月6日夕刊11面「連続リンチ殺人 別の死刑囚も再審請求 名高裁 弁護側『共謀、殺意ない』」
- ^ 『中日新聞』2013年8月20日夕刊13面「連続リンチ殺人の死刑囚 2人目再審請求棄却 名高裁」
- ^ a b c 『中日新聞』2006年10月27日夕刊13面「拘置所で雑誌廃棄 5000円支払い命令 名古屋地裁、国に」
- ^ a b c 『中日新聞』2016年2月17日朝刊30面「死刑囚の手紙制限は違法」
- ^ a b 『中日新聞』2014年4月19日朝刊35面「死刑囚の情報漏えい 国に損害賠償命じる 連続リンチ殺人」
- ^ 『中日新聞』2016年9月3日朝刊35面「死刑囚の情報漏えい 国に39万円賠償命令 名地裁、連続リンチ殺人」
- ^ a b c d 『中日新聞』2016年1月20日朝刊28面「拘置所の閲覧制限『違法』 名古屋地裁 死刑囚が勝訴」
- ^ 『中日新聞』2016年8月31日朝刊26面「死刑囚へ閲覧制限 国に賠償を命じる 名古屋地裁」
- ^ 『中日新聞』2017年1月14日朝刊32面「死刑囚の文書送付 不許可に賠償判決 名古屋地裁 国に命令」
- ^ a b c d e 『中日新聞』2003年3月14日夕刊1面「少年仮名報道 不特定多数 推測できぬ 木曽・長良川リンチ殺人 最高裁、二審を破棄」
- ^ a b c d e f g 『中日新聞』1999年6月30日夕刊15面「『仮名でも少年本人と推測』 リンチ殺人 記事掲載 文春に賠償命令 名地裁判決」
『中日新聞』1999年7月1日朝刊35面「少年仮名報道に名地裁賠償命令 文春側『市民感覚とズレ』 『分かるのは知人だけ』」 - ^ a b 『中日新聞』1998年3月10日夕刊15面「木曽川など連続リンチ 被告が文春提訴 『本名わかる記事掲載』」
- ^ a b c d 『中日新聞』2000年6月29日夕刊1面「実名類似の仮名報道 違法 リンチ殺人記事の文春 名高裁も賠償命令」
『中日新聞』2000年6月30日朝刊34面「実名にも余地『基準不明瞭』 仮名報道判決 文春側上告へ」 - ^ 『中日新聞』2003年2月8日朝刊33面「少年事件報道で新判断か 仮名記事めぐる訴訟 最高裁が弁論開く」
- ^ a b 『中日新聞』2003年5月31日朝刊30面「原告側が書面陳述 『不法行為が成立』 リンチ殺人文春 報道差し戻し審」
- ^ a b 『中日新聞』2004年5月12日夕刊13面「長良川・木曽川リンチ殺人 『少年報道』で文春勝訴 差し戻し審 名高裁判決 『記事に公益性』」
『中日新聞』2004年5月13日朝刊30面「知る権利と報道被害 逆転判決 揺れた司法 『少年報道』文春が勝訴 名高裁差し戻し審」 - ^ 『中日新聞』2004年11月3日朝刊30面「長良川のリンチ殺人 文春の勝訴確定 実名似た少年報道 最高裁『公表に意義』」
- ^ a b 『中日新聞』1994年12月17日朝刊26面「少女を少年院送致 木曽川リンチ殺人」
- ^ a b 『中日新聞』1994年11月26日夕刊12面「19歳少年を地検送致 木曽川リンチ殺人」
- ^ a b 『中日新聞』1995年7月6日夕刊14面「リンチ殺人木曽川事件 少年に不定期刑 名地裁判決」
- ^ a b 『中日新聞』1996年3月20日朝刊39面「X被告、猶予付き判決 連続リンチ殺人で名地裁 『脅され加担』と減軽」
- ^ a b 『中日新聞』1997年3月6日朝刊39面「連続リンチ殺人 ほう助男性に猶予判決 名古屋地裁 殺人の共謀関係否定」
- ^ 『中日新聞』1995年4月21日夕刊14面「元組員に懲役1年8月判決 リンチ殺人事件」
- ^ 『中日新聞』1994年11月4日朝刊30面「強盗致傷などで2容疑者を起訴 長良川リンチ殺人」
- ^ 『中日新聞』1994年12月6日朝刊23面「『木曽川事件』で2容疑者を起訴」
- ^ 『中日新聞』1995年12月8日夕刊19面「『執ようで冷酷非情』X被告に7年求刑 連続リンチ事件」
- ^ a b c 『中日新聞』1996年11月15日夕刊15面「V被告に懲役7年求刑 木曽川・長良川リンチ殺人 『冷酷、非情』と検察」
- ^ 『中日新聞』1994年11月3日朝刊30面「少年と少女を家裁送致」
- ^ 『中日新聞』1994年12月2日朝刊38面「一宮の少年も起訴 木曽川リンチ事件」
- ^ 『中日新聞』1995年5月18日夕刊11面「連続リンチ殺人木曽川事件 少年に懲役5 - 10年求刑 名地検『追従でも責任重い』」
関連リンク
- 最高裁判所第一小法廷 2011年(平成23年)3月10日 (平成17(あ)2358) - 確定判決(裁判所ホームページ)
関連項目
- 少年犯罪
- 名古屋アベック殺人事件 - 本事件の6年前(1988年)に同じ名古屋市近郊で発生した凶悪少年犯罪。1989年に名古屋地裁で主犯格の少年に死刑判決が言い渡されるも1996年の控訴審(名古屋高裁)で破棄・無期懲役に減軽され確定。
- シリアルキラー(連続殺人)
- 長期裁判
- 少年死刑囚
- 警察庁広域重要指定事件