コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ボブ・ディラン」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
revert / fix error made by bot
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼:ポップ歌手のカテゴリ修正依頼: 性別付け - log
294行目: 294行目:
[[Category:1941年生]]
[[Category:1941年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:アメリカ合衆国のシンガーソングライター]]
[[Category:アメリカ合衆国の男性シンガーソングライター]]
[[Category:アメリカ合衆国のロック歌手]]
[[Category:アメリカ合衆国の男性ロック歌手]]
[[Category:アメリカ合衆国のフォークシンガー]]
[[Category:アメリカ合衆国のフォークシンガー]]
[[Category:アメリカ合衆国のギタリスト]]
[[Category:アメリカ合衆国のギタリスト]]

2016年11月12日 (土) 01:07時点における版

ボブ・ディラン
Bob Dylan
「Azkena Rock Festival」に出演するディラン(2010年6月26日
基本情報
出生名 Robert Allen Zimmerman
別名 ブラインド・ボーイ・グラント
ラッキー・ウィルベリー/ブー・ウィルベリー
ジャック・フロスト
生誕 (1941-05-24) 1941年5月24日(83歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ミネソタ州ダルース
学歴 ミネソタ大学中退
ジャンル ロック
フォークロック
フォーク
ブルース
カントリー
ゴスペル
職業 ミュージシャン
シンガーソングライター
担当楽器 ボーカル
ギター
ベース
ハーモニカ
キーボード
ピアノ
活動期間 1959年 - 現在
レーベル コロムビア(ソニー)
アサイラム
共同作業者 ザ・バンド
トラヴェリング・ウィルベリーズ
グレイトフル・デッド
トム・ペティ
ジョーン・バエズ
公式サイト www.bobdylan.com
ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:2016年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:米国歌謡の伝統の中に新しい詩の表現を創造したこと

ボブ・ディラン英語Bob Dylan1941年5月24日 - )は、アメリカミュージシャン。出生名はロバート・アレン・ジマーマン(Robert Allen Zimmerman)だが[1][2][3]、後に自ら法律上の本名もボブ・ディランに改名している[4][5]。“ボブ”はロバートの愛称、“ディラン”は詩人ディラン・トマスにちなむ。

風に吹かれて」「時代は変る」「ミスター・タンブリン・マン」「ライク・ア・ローリング・ストーン」「見張塔からずっと」「天国への扉」他多数の楽曲により、1962年のレコードデビュー以来半世紀以上にわたり多大なる影響を人々に与えてきた。現在でも、「ネヴァー・エンディング・ツアー」と呼ばれる年間100公演ほどのライブ活動を中心にして活躍している。

グラミー賞アカデミー賞をはじめ数々の賞を受賞し、ロックの殿堂入りも果たしている。また長年の活動により、2012年大統領自由勲章を受章している。そのほか、2008年には「卓越した詩の力による作詞がポピュラー・ミュージックとアメリカ文化に大きな影響与えた」としてピューリッツァー賞特別賞を、2016年10月に歌手としては初めてのノーベル文学賞を授与されることが決定[6]。発表からしばらく沈黙を守っていたが、同月28日に授賞を受け入れると発表した[7]

Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第18位[8]、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第7位、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第2位、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のソングライター」において第1位を獲得している。

人物

しばしば「世代の代弁者」と崇められ、メッセージソングやプロテストソングの旗手と評される(たとえば、ライオネル・リッチーは「時事的な歌に運命を開いた人」とボブを紹介している)。しかしながら、このようなことを本人は迷惑に感じており、同世代については「ほとんど共通するものも無いし、知らない」と述べ、自分の詩が勝手に解釈され、運動の象徴として扱われることに辟易していると明かす。自身の関心事は「平凡な家庭を築く」「自分の子供の少年野球と誕生日パーティー」と述べている[9]

セント・アンドルーズ大学や、米プリンストン大学は、彼に名誉博士号を与えている。「現行の音楽をすべて忘れて、ジョン・キーツメルヴィルを読んだり、ウディ・ガスリーロバート・ジョンソンを聴くべし」と後進のアーティストに提言している。

2012年10月発売の米誌ローリング・ストーン(フランス語版)のインタビューで米国の人種間関係について問われた際に、「奴隷主や(クー・クラックス・)クランの血が混じっている人がいれば黒人はそれを感じ取る。そういうことは今日にも残っている。ユダヤ人ならナチスの血を感じ取り、セルビア人ならクロアチア人の血を感じるように」などと応じ、クロアチア人に対する憎悪を煽情する発言として在仏クロアチア人協議会から告訴された。2013年11月中旬、これを受けたフランス司法当局により侮辱行為と憎悪扇動の罪で刑事訴追されたが[10][11][12]、2014年4月15日にパリの裁判所により訴えは棄却された[13]

経歴

生い立ち

1941年5月24日ミネソタ州ダルースに生まれる[14][15][16][注 1]。ヘブライ語の名はシャブタイ・ツィメルマン(シャプサイ・ジスル)(イディッシュ語: שַׁבְּתַאי זיסל בֶּן אַבְרָהָם צימערמאַן‎Šabsay Zisl ben Avrohom Tsimerman。ジスルはイスロエルの愛称。祖父母はロシアオデッサ(現ウクライナ)やリトアニアからの移民であり、父エイブラハム・ジマーマンと母ビアトリス・ストーン(愛称ビーティー)は小規模だが絆の固いミネソタのアシュケナジム・ユダヤ人の一員だった[17][18]1946年、弟デイヴィッド誕生[19]1947年頃、一家はヒビングに転居する[20][21]

幼少時より家にあったピアノを独習[22][23]。「ラジオを頻繁に聴いていた。レコード店に入り浸り、ギターをかき鳴らし、ピアノを弾いて、自分の周りにはない別の世界からの歌を覚え」て育つ[24]。初めてのアイドルはハンク・ウィリアムズ[25][26][27]。ハイスクール時代はロカビリーの全盛期で、ディランもまたエルヴィス・プレスリーらにあこがれバンドを組んで演奏活動を始める[28][29][30]。ハイスクールの卒業アルバムには「リトル・リチャードと共演すること」が夢だと記したりもしている[31]1959年夏、ノースダコタ州ファーゴエルストン・ガンという名でボビー・ヴィーのバンドにピアノ弾きとして入り、彼のバックでステージを数回経験する[32][33]

1959年9月、奨学金を得てミネソタ大学に入学するも半年後には授業に出席しなくなる[34][35]。持っていたエレキ・ギターアコースティック・ギターに交換[36]ミネアポリスフォーク・シンガーとしての活動を始め[37]、この時にボブ・ディランと名乗っていた[38]。「ボブ」はロバートの愛称ボビーから、「ディラン」は詩人ディラン・トーマスから取った[39]とも、また叔父の名前であるディリオンから取ったとも述べている[注 2]。アメリカ土着のブルース、ヒルビリーへの傾倒を深めていたこのころ[40]ウディ・ガスリーのレコードを聴き大きな衝撃を受ける[41]

1960年代

ニューヨークへの移住とレコードデビュー

ジョーン・バエズとディラン(1963年)
ニューヨーク・セントローレンス大学でのステージ(1963年)

1961年冬、大学を中退してニューヨークに出てきた彼は、グリニッジ・ヴィレッジ周辺のフォーク・ソングを聴かせるクラブやコーヒーハウスなどで弾き語りをしていた[42][43]が、やがてハリー・ベラフォンテのバックで初めてプロのレコーディングを経験[44]。キャロリン・ヘスターのレコーディングに参加したことや[45]タイムズ紙で好意的に論評されたこと[46]をきっかけに[47]コロムビア・レコードジョン・ハモンドにその才能を見出され[48][49]1962年3月にアルバム『ボブ・ディラン』でレコードデビューする。しかしその年の売上は5,000枚程にとどまり、コロムビアの期待していた3分の1というセールスであった[50][51]

当初は、トラッド・フォークやブルースを中心に歌っており自作曲は少なかったが、ニューヨークで出会った人達[52]、絵画[53]、ミュージカル[54]、レコード[55]ランボー[56]ヴェルレーヌブレイクといった象徴主義的な作風の詩人の表現技巧など、さまざまなものに創作上の影響を受け、急速に多くの新しい歌を書くようになる[57][58]。「オンリー・ア・ホーボー〜トーキン・デビル」、「ジョン・ブラウン」、「エメット・ティルのバラッド」など初期作品の一部は、トピカルソングを紹介する『ブロードサイド』誌に掲載され[59]、録音は同レーベル(後にフォークェイズ)のオムニバスに収録、ブラインド・ボーイ・グラントBlind Boy Grunt)なる変名でクレジットされている[60][61]

アルバート・グロスマンがマネージメントに乗り出す[62]と、幅広い活動が可能になり、ディランの楽曲を他のアーティストに提供することが考え出される[63]。しかし一方でグロスマンとハモンドが契約をめぐって対立[64]。2枚目のアルバムのレコーディング途中で、プロデューサーはトム・ウィルソンに交代する。1962年12月、ロックンロールそのもののシングル「ゴチャマゼの混乱」を発表しているが、あまりにイメージが違い過ぎたため早々に回収された[注 3]

時代の代弁者とそれからの脱却

1962年12月から1963年1月、初めてイギリスを訪れ、BBCのテレビドラマ「マッドハウス・オンキャッスル・ストリート (Madhouse on Castle Street)」に出演し[65]、ロンドンのクラブで演奏[66]4月12日、タウンホールでソロ・コンサート[67]5月12日、初の全米中継であるテレビ番組『エド・サリヴァン・ショー』に出演が決まるが、リハーサル後、極右政治団体ジョン・バーチ・ソサエティを揶揄した曲「ジョン・バーチ・ソサエティ・ブルース」を省くよう指示されると、検閲的行為に怒ってスタジオを出てしまった[68]。同月、モンタレー・フォーク・フェスティバルに出演。タイム誌は「新たなるヒーロー」と紹介した[69]。共演したジョーン・バエズは、以後積極的にディランの楽曲を歌い行動を共にすることが多くなる。

1963年5月、セカンド・アルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』リリース。6月、ミシシッピー州グリーンウッド選挙人登録集会で演奏。7月、ピーター・ポール&マリーがカバーした「風に吹かれて」がビルボード2位のヒットを記録する。同月、ニューポート・フォーク・フェスティバルに出演[注 4]8月28日ワシントン大行進で演奏。公民権運動が高まりを見せていたアメリカにおいてディランは次第に「フォークの貴公子」として大きな支持を受け、時代の代弁者とみなされるようになっていった。10月26日カーネギー・ホールでソロ・コンサート[注 5]1964年1月、アルバム『時代は変る』リリース。しかし、過激化する運動や世間が抱いている大げさな自分のイメージに違和感を持ち、次第にスタイルを変化させ、次のアルバム『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン』(1964年)では、プロテストソングと呼べる曲はなくなっている。10月31日、フィルハーモニック・ホール「ハロウィーン・コンサート」(『アット・フィルハーモニック・ホール(ブートレッグ・シリーズ第6集)』(2004年)収録)。

またこのころから、ディランの楽曲をカバーするアーティストが目立つようになってきた。中でもザ・バーズによる「ミスター・タンブリンマン」はビルボードで1位を獲得している。「悲しきベイブ」、「はげしい雨が降る」、「くよくよするなよ」、「イフ・ノット・フォー・ユー ("If Not For You") 」、「はじまりの日 ("Forever Young") 」などもよくカバーされている。

エレクトリックへの転換

1964年頃からマリファナなどのドラッグの影響からか、コンサートやレコーディングでも常に少し酔っ払ったような状態になっていた。ビートルズローリング・ストーンズをはじめイギリスのミュージシャンとの交流が芽生えたのもこの時期で、中期以降のビートルズがドラッグ体験をモチーフにした曲を多く残したのは、ディランと関わったのがきっかけとされている。なかでも1965年頃のジョン・レノンが熱病のごとく傾倒し、作風から精神面、スタイルに至るまでディランに触発された(例:[1][2])。またジョージ・ハリスンとは後に生涯にわたる友情を築くこととなる。

一方、ディラン自身もこれらブリティッシュ・インヴェイジョンに刺激を受け、1965年から1966年にかけて『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』、『追憶のハイウェイ61』、『ブロンド・オン・ブロンド』とエレクトリック楽器を取り入れた作品を矢継ぎ早に発表した[注 6]

従来のフォーク・ソング愛好者、とくに反体制志向のプロテストソングを好むファンなどはこの変化を「フォークに対する裏切り」ととらえ、賛否両論を巻き起こした。なかでも1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルで、ディランはバック・バンドをしたがえて数曲演奏したが、トーキングブルースなどの弾き語りを要求するファンから手痛いブーイングの洗礼を受けた。そこでやむなくステージを降りた後、アコースティック・ギター一本で再登場し、過去の音楽との決別を示唆するかのごとく「イッツ・オール・オーバー・ナウ、ベイビー・ブルー」を涙ながらに歌いあげた[70]、という逸話が有名である(しかし、これはあくまでサイ&バーバラ・リバコブの伝記に記述された、ややドラマティックな脚色がもたらした風説である。ブーイングはひどい音響とあまりに短い演奏だったことに対するものであり、実際には歓声もあがっていたという。[71]また、バンドで用意した曲だけでは時間が余ったため、アコースティック・ギターで再度ステージに戻って数曲を披露したに過ぎないという証言も存在する)。

このようなトラブルにもかかわらず、これら3枚のアルバムでディランは従来以上に新しいファン層を獲得した。内省的で作家性の強い原曲を、アメリカ社会のさまざまなルーツミュージックやリズム&ブルースなどのバンドアレンジに乗せたこの時期の作品が、ロック史の大きなターニングポイントとして位置づけられている。また、この頃の歌詞はアレン・ギンズバーグらの文学者からも絶賛されるようになっており、ロックの歌詞が初めて文学的評価を獲得したものとして重要である。

中でもアル・クーパーマイク・ブルームフィールドらの参加でバンド演奏を全面的に取り入れた『追憶のハイウェイ61』からのカット、「ライク・ア・ローリング・ストーン」が、キャッシュボックス誌ではじめて(そして唯一の)シングルチャートNo.1となった(ビルボードでは2位。1位はビートルズの「ヘルプ!」)。その他「寂しき4番街」が7位、「雨の日の女 (Single Edit.) 」がビルボード、キャッシュボックス誌で共に最高2位、[注 7]。"「アイ・ウォント・ユー」が20位、「女の如く」が33位を獲得するなど、次々チャートアクションを記録した。しかしその記録だけでなく、今日のミュージックシーンにおいていわゆる「ディランズ・チルドレン」を自認してきた大御所ミュージシャンに、さらに多くのフォロワーが枝分かれしている事実からも「シンガー・ソングライター」という系統を確立した役割は遥かに大きいといえる。

1965年から1966年にかけて、後にザ・バンドとなるバックバンド、レヴォン&ザ・ホークスをしたがえてワールドツアーをこなす。既述のように、ここでも初期の弾き語りを求めるファンやメッセージ性の強いラディカルな曲を好む観客からのブーイング、リズムを乱すようにしむける不規則な手拍子、足踏みなどの妨害行為は収まらず、それに対し挑戦的にバンド演奏を繰り広げるディランの姿は『ロイヤル・アルバート・ホール(ブートレッグ・シリーズ第4集)』(1998年[注 8]、映画『イート・ザ・ドキュメント(Eat the Document)』などに収録されている[注 9]。『ロイヤル・アルバート・ホール』では、バンドが次曲の準備をしている最中に観客の一人が「ユダ(裏切り者)!」と叫ぶと、場内に賛同するような拍手やブーイング、更には逆にそれを諌める声などが起こった場面が収められている。その中でディランは「I don't believe you... You're a liar!」と言い放つと、怒涛の迫力で「ライク・ア・ローリング・ストーン」の演奏をはじめた。嵐のような演奏が終わると、放心状態だった会場からは惜しみない拍手が巻き起こったが、ディランはぶっきらぼうに「Thank you」と言い残し、そのままステージをあとにした。[注 10]

またこの頃にはLSDも使用するようになっており、ビートルズやザ・ビーチ・ボーイズらと同様、作風にも大きな影響を受け、特にディランは声が大きく変化した。

この時期のアルバム未収録曲としては、「ビュイック6型の想い出 ("From a Buick 6") 」のハーモニカバージョン、「窓からはい出せ」のアル・クーパーマイク・ブルームフィールドによるセッション(当初、「Positively 4th Street」と誤記されたシングル盤が出回ったため回収。再発売され、後に『バイオグラフ』(1985年)に収録された公式バージョンはザ・ホークスとの再録音)などがある。

バイク事故と隠遁

こうして最初の絶頂期を迎えていた[72]1966年7月29日に、ニューヨーク州ウッドストック近郊で[73]オートバイ事故を起こす[74]。重傷が報じられ[75][注 11]、すべてのスケジュールをキャンセルして[76]隠遁。再起不能説や死亡説などの噂が流布した[注 12]。しかし当時、ドラッグ[77]とコンサートツアーに明け暮れ、「競争ばかりの社会から抜け出したかった」[78]ディランにとってはかえってよい休養となった[79][80]。事故の三週間程前、秘密裏に結婚していたサラ・ラウンズとの間に子供が生まれ、家族以外のことには興味を持てなくなっていたディラン[81]の大きな転機である[82][83]

翌1967年からは、ウッドストックにこもってザ・ホークスのメンバーとともにレコード会社向けデモテープの制作に打ち込む。このセッション音源をもとにしたアセテート盤が配布され、マンフレッド・マンによる「マイティ・クイン ("Quinn the Eskimo (The Mighty Quinn)") 」がキャッシュ・ボックスで10位、全英シングル・チャートで1位を獲得するなど、様々なミュージシャンにカバーされて紹介された。ザ・ホークスは、ザ・バンドと名を改め、このセッションから生まれた「アイ・シャル・ビー・リリースト」、「ジス・ホイールズ・オン・ファイアー ("This Wheel's on Fire") 」等の楽曲を収録し、ディランが描いた絵をジャケットにしたアルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』(1968年)で単独デビューする。やがてディランとザ・バンドによる膨大な未発表のデモテープがディラン宅の地下室に眠っているという噂が口コミで広がったが、その後大きな問題が生じた。副産物として『グレート・ホワイト・ワンダー (Great White Wonder) 』などの海賊盤が出回り始め、闇の一大市場となってしまったのである。なお、このデモ音源の一部は1975年にロビー・ロバートソンの手により、新たにオーバーダブを加えた改良版として『地下室(ザ・ベースメント・テープス)』の題で公式発表された。

1967年にはベネルックス三国にて、地元のバンドによるコーラスをオーバーダビングした「出ていくのなら ("If You Gotta Go, Go Now") 」がシングルリリースされた。1991年リリースの『ブートレッグ・シリーズ1 - 3集』に収録されたバージョンとは全く違う、ハーモニカなしのバージョンであった。

1968年にディランは前作に引き続き、ナッシュビル録音による『ジョン・ウェズリー・ハーディング』で復帰するが、弾き語り中心で徐々にダウン・トゥ・アースのような傾向が見られはじめる。「見張塔からずっと」は、ジミ・ヘンドリックスがカバーしてヒットする。

1969年に映画『真夜中のカーボーイ』の主題歌の依頼があったが、レコーディングが間に合わず、ハリー・ニルソンの「うわさの男Everybody's Talkin'」に差し替えられるということがあった。その幻の主題歌「レイ、レディ、レイ ("Lay Lady Lay") 」は結局ノン・タイアップでリリースされたが、澄んだ声と奥行きのあるサウンドのこのシングルは全米8位のヒットとなった。ディランにとって、最後のトップ10シングルである。この曲が収録された『ナッシュヴィル・スカイライン』はまさにカントリーといっていいアルバムである。このアルバムでの澄んだ歌声についてディランは、煙草を止めたら声質が変わったと述べてはいるが、次アルバムに収録された「ザ・ボクサー」では、しゃがれ声と澄んだ声の多重録音一人二重唱をやっている。

1970年代

隠遁後からレコード会社移籍まで

1970年6月、『セルフ・ポートレイト』を発表。カントリー、MORインストを含む様々なジャンルの曲を無作為に並べた実験精神溢れるアルバムで、評価をとまどう声もあった[84]がセールスは好調であった。その直後、レコーディング拠点をナッシュビルからニューヨークに戻し、10月『新しい夜明け』を発表する。

その後、ディランはオリジナルアルバムの制作を中断。それ以降は「バングラデシュ・コンサート」への出演、ジョージ・ハリスン[85]レオン・ラッセル[86][87]、ハッピー・トラウム[88][89]、アール・スクラッグス[90]、デヴィッド・ブロンバーグ、ロジャー・マッギン[91]、ダグ・サム[92]等とセッションしたこと以外は沈黙を守る。

1971年発表の『グレーテスト・ヒッツ第2集』にはディラン自身のリリース条件としてレオン・ラッセル、デラニー&ボニー&フレンズとのセッションから2曲、ハッピー・トラウムとのセッションから3曲、そして未発表初期音源としてタウンホールでのライブから「明日は遠く ("Tomorrow Is A Long Time") 」を一切の手を加えない状態で収録。ベスト盤にボーナス・トラックを加える先例となる。また、同年末には久々のプロテストソングである「ジョージ・ジャクソン」を発表。A面にはレオン・ラッセルとのセッションからのビッグ・バンド・バージョン、B面にはアコースティック・バージョンを収録。当時のアメリカの放送局では歌詞に問題がある曲の場合は、そのシングルのB面をかけてお茶を濁すのが慣例であったが、このシングルはB面の方が歌詞がより鮮明に聴こえて逆に効果大であった。

1973年、ビリー・ザ・キッドを題材にした映画『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』への出演をきっかけに活動を再開。挿入歌「天国への扉」はディランの曲の中でもカバーするアーティストが多い一曲となった[93]

この頃CBSソニーから日本独自企画盤として『Mr. D's Collections #1』が特典として配布された。ソニーは以降も#2、#3、『傑作』(1978年)、『武道館』(1978年)、『Dylan Alive!』、『Bob Dylan Live 1961-2000』(2001年)、『ディランがROCK!』(2010年 / 当初は1993年に制作されたが、この時はディランの許可が下りず未発売だった)といった企画盤を企画している。なお、『The Never Ending Tour』という企画盤については、ディランの許可が下りていない。

またこの年、ディランはアサイラム・レコードへの移籍を決断。CBSコロムビアは報復手段として所有する膨大な過去の音源をリリースすることにし、まずは『セルフ・ポートレイト』のアウトテイク集である『ディラン』を発売する。ディランはアサイラムで2枚のアルバムを発表した後、コロムビアへ戻るが、その要因には過去の音源の権利関係があったためともいわれる。『ディラン』は一度CD化されたが、廃盤(アメリカのiTunes Music Storeではダウンロード可能)。アサイラムの二枚のアルバム『プラネット・ウェイヴス』(1974年)、『偉大なる復活』(1974年)も1977年にコロムビアから再発売となった。

ツアーへの復帰

ザ・バンドとのツアーにおける、シカゴでのステージ(1974年)

1974年、かつてのバック・バンドだったザ・バンドを従えてレコーディングした『プラネット・ウェイヴス』を発表。初のビルボードNo.1アルバムとなる。引き続き、ザ・バンドと共に全米ツアーを行った。彼等との共演は1968年のウディ・ガスリー追悼コンサート、1969年ワイト島音楽祭、1971年大晦日のザ・バンドコンサートのゲスト以来、5回目である(最後は1976年の『ラスト・ワルツ』だった)。しかし、今やスターダムにのしあがったザ・バンドとの力関係は対等になり、バンドサウンドとしては完璧で非の打ち所のないものながら、ディラン自身は退屈さをも漏らしていたようである。このツアーの模様はライブ盤『偉大なる復活』に収録された。

1975年には、『ブロンド・オン・ブロンド』のサウンドと『ナッシュヴィル・スカイライン』の透明感を併せ持つコロムビア復帰作『血の轍』を発表。内省的で沈鬱な内容にも関わらず、これもNo.1を獲得。ディランは当時、マリー・トラヴァースピーター・ポール&マリー)のラジオ番組で「なぜ、このような暗いアルバムが好かれているのか理由がわからない」と述べている。この作品は、当初ニューヨークで録音されてプレス盤も出回ったが、ディラン本人がリリース直前にストップをかけ、ミネアポリスで半数を取り直した。録音にはミック・ジャガーが立ち会った。ミックはオルガンも弾いたそうだが、採用されたかは不明。ニューヨーク音源からは「リリー、ローズマリーとハートのジャック ("Lily, Rosemary and the Jack of Hearts") 」だけが日の目を見ていない。

ローリング・サンダー・レヴュー」のバックステージ。アレン・ギンズバーグと(1975年)

また1975年10月 - 12月と1976年4月 - 5月の2つの時期にかけて「ローリング・サンダー・レヴュー」と銘打ったツアーを行なった。これは事前の宣伝を行わず、抜き打ち的にアメリカ各地の都市を訪れて小規模のホールでコンサートを行なうというもので、かつてのフーテナニーのリバイバルないし、巨大産業化したロック・ミュージックに対する原点回帰の姿勢を提示した。このツアーでは、ディラン自身が監督をつとめた映画『レナルド&クララ』の撮影もあわせて行われた。このツアーの模様は『ローリング・サンダー・レヴュー(ブートレッグ・シリーズ第5集)』(2002年)、『激しい雨』(1976年)、映画『レナルド&クララ』、テレビ番組『Hard Rain』などに収録されている。このツアーメンバーを主として、ツアー開始直前に録音されたアルバム『欲望』が1976年初頭に発表され、No.1を獲得するとともに自身最大のセールスを記録した。

1978年には映画『レナルド&クララ ("Renaldo and Clara")』が公開されるが、内容が難解すぎると不評を買い、興行的には失敗。はじめは4時間弱だったが、後に2時間の短縮版が編集され再度公開。だが結局評価は変わらずじまいであった。封切りに先立ち『4 Songs From "Renald & Clara"』というプロモEPが業界内に配布された。サウンドトラック盤からの抜粋であるが、オリジナル盤は公式発表されていない。

オランダロッテルダムでのステージ(1978年)

この年は12年ぶりにワールド・ツアーを開始し、2月から3月にかけては初の来日公演を行ない、東京公演の模様が『武道館』に収録、リリースされた。1971年のレオン・ラッセル・セッション以来の女性コーラス、ホーンセクションを含むビッグバンド編成である(ディランは1987年のツアーまで女性コーラスを導入していた)。また、ツアー中には、ツアーメンバーとともに『ストリート・リーガル』を制作。日本滞在時に作曲したという「イズ・ユア・ラヴ・イン・ヴェイン ("Is Your Love in Vain?") 」も収録されており、イギリスなどでマイナー・ヒットとなった。

なお、来日記念盤として日本限定で発売された『傑作』には、アルバム未収録の「親指トムのブルースのように ("Just Like Tom Thumb's Blues", Live at Liverpool) 」、「スペイン語は愛の言葉 "Spanish Is The Loving Tongue" (Piano Solo Version) 」、「 ジョージ・ジャクソン (Big Band Version) 」、「リタ・メイ」などが収録された。後にオーストラリアニュージーランドでCD化されたが、入手困難となっている。

クリスチャンへの洗礼

ワールド・ツアー終了後、ボーン・アゲイン・クリスチャン (Born again Christianity) の洗礼を受けたことが明らかになった。

1979年発表の『スロー・トレイン・カミング』はディラン流のゴスペルで占められていた。このアルバムはマッスルショウルズの専属スタジオミュージシャン達の手により制作された[94]、ディラン初の“プロフェッショナル”なアルバムである。このアルバムは旧来のファン離れを招いた[注 13]ものの、売れに売れてグラミー賞も獲得した。本作収録曲の「ガッタ・サーヴ・サムバディ(Single Edit.)」はディラン最後のトップ40シングルである。シングルB面の "Trouble in Mind" はアルバム未収録。また、未発表の "Ain't No Man Righteous, No Not One" もレゲエ・グループのJah Mallaにカバーされるなど、この時期の曲は比較的人気が高くトリビュート・アルバムも作られている。

1980年代

ゴスペルからの脱却と試行錯誤

カナダトロントでのステージ(1980年)

前述の『スロー・トレイン・カミング』と1980年発表の『セイヴド』、1981年発表の『ショット・オブ・ラブ』は「ゴスペル三部作」と呼ばれる。この時期のコンサートでは当初、これらの作品群からの曲しか演奏せず、批判を浴び動員も伸び悩んだ。その結果を考慮して後期のツアーでは、初期のヒット曲も織り交ぜた折衷版として妥協の姿勢も見せた。ディランはこの当時のサウンドにはかなり誇りを持っていたようで、ライブアルバムの発表を望んだが、コロムビアに拒絶された。『ショット・オブ・ラブ』のアルバム未収録曲としては "Let It Be Me" 、「デッド・マン、デッド・マン ("Dead Man, Dead Man", Live Version) 」がある。後者は1989年「ポリティカル・ワールド ("Political World") 」のカップリングで発表された後、『Live 1961-2000』に再録。

1981年にはそれまでの代表曲、未発表曲を網羅したコンピレーションアルバム『バイオグラフ』の企画が持ち上がる。発売には4年を要したため、1982年以降の曲は収録されていない。

1983年には、『スロー・トレイン・カミング』セッションに参加していたダイアー・ストレイツマーク・ノップラーをプロデューサーに迎えて製作した『インフィデル』を発表する。この作品は前数作までのゴスペル色が薄れ、従来のファンから大いに歓迎された。しかし、ノップラーは制作途中で自身のワールドツアーに出てしまい[95]、残されたテープをディラン自身がミックスしたこのアルバムにはノップラーも含め、選曲、アレンジなどに不満の声もある。[注 14]このアルバムからのシングル「スウィートハート ("Sweetheart Like You") 」はビルボード55位だった。

スペインバルセロナでのステージ(1984年)

この頃から時代は多重録音の手法がメインとなり、即興性を重んじるディランもまた時代性との狭間で試行錯誤を繰り返すことになる。そして、1985年アーサー・ベイカーの手を借り、R&B、ヒップホップを彼流に取り入れた『エンパイア・バーレスク』を発表する。しかし、このアルバムは「エモーショナリー・ユアーズ ("Emotionally Yours") 」といった曲を含みながらセールス、評価ともに、同年発売のコンピレーション・アルバム『バイオグラフ』の陰に隠れて見過ごされる事態となった。この結果により、ディランはスタジオ・レコーディングに精力を傾けて商業的成功作を作ろうという気持ちを半ば諦めたともいわれる。その後の『ノックト・アウト・ローデッド』(1986年)、『ダウン・イン・ザ・グルーヴ』(1988年)は消極的なアウトテイク集にすぎないとの批判も一部から寄せられた。『ダウン・イン・ザ・グルーヴ』には、南米のいくつかの国で "Important Words" が収録されている。

他のミュージシャンとの共演・共作

1985年にはUSAフォー・アフリカに参加し、「ウィ・アー・ザ・ワールド」のブリッジ部分でリード・ボーカルをとった。また同年には大規模チャリティー・コンサートの「ライヴエイド」に、ローリング・ストーンズキース・リチャーズロン・ウッドとともにトリで出演。しかしながら「風に吹かれて」の途中でギターの弦が切れロン・ウッドのギターと交換せざるをえなくなるアクシデントが発生(ロン・ウッドはエア・ギターとなった)。さらに、モニタースピーカーを取り払われ、ステージ裏では他の出演者が大トリの「ウィ・アー・ザ・ワールド」を練習しはじめるなど最悪のコンディションで、キースやロンともなかなかかみ合わないなど、彼自身にとってもマスコミの評価の上でも最悪の結果に終わった。

これに危機感を持ったといわれるディランは、次なるチャリティー・コンサート「ファーム・エイド」でトム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズにバックを依頼する。このステージを縁として、翌1986年 - 1987年の共演ツアーが実現し、後に大きな話題となるトラヴェリング・ウィルベリーズ結成にもつながってゆく。ハートブレイカーズとの公式音源はビデオ "Hard To Handle" に収録。また "Bob Dylan with The Heartbreakers" 名義で「バンド・オブ・ザ・ハンド」が発表された。助力を仰いだ理由としては、1980年代はセールスも下降気味で、ディラン単独では大きなアリーナやスタジアムでの公演が難しく、サンタナグレイトフル・デッド等とパッケージを組むしかなくなっていた当時の窮状、という側面もある。しかしながら、『リアル・ライヴ』(1984年)、『ディラン&ザ・デッド』(1989年)の2枚のライブアルバムは最低の評価を受けるなど、ディランにとってだけでなく、ディラン流のやり方[注 15]にそぐわない共演者にとっても、不本意な結果に終わることもまた多かったといわれる[要出典]。この当時、ディラン自身もやや自信喪失気味で、グレイトフル・デッドへの加入を打診したこともあったらしい[要出典]が、メンバーの反対により実現しなかった。

ディランは、トム・ペティつながりでユーリズミックスのデイヴ・ステュワートに「エモーショナリィ・ユアーズ ("Emotionally Yours") 」 "When The Night Comes Falling From The Sky" のミュージック・ビデオ制作を依頼する。ディランは数年後にジョン・メレンキャンプにも依頼しているが、ミュージシャンに映像制作を依頼する理由は謎である。

また、1987年に公開された出演映画『ハーツ・オブ・ファイヤー(Hearts Of Fire)』も不評と、この時期のディランの活動はことごとく不調であった。なお、『ハーツ・オブ・ファイヤー』のサントラにはディランの曲が3曲収録されたが、廃盤となっている。他に、ディズニーの企画盤では "This Old Man" が、ウディ・ガスリーの追悼アルバムには "Pretty Boy Floyd" が収録された。

1987年に、ダニエル・ラノワプロデュースによる『ヨシュア・トゥリー』を発表していたU2の、ワールド・ツアーのロサンゼルス公演に飛び入り参加。ボノと「アイ・シャル・ビー・リリースト」、「天国への扉」を歌った。ボノは当時、スタジオ録音に悩んでいたディランに「ラノワならディランを上手くプロデュースできるのでは」と発言している。

1988年にはロイ・オービソンジョージ・ハリスンジェフ・リントム・ペティと共に覆面インスタント・ユニット、トラヴェリング・ウィルベリーズを結成し、アルバム『トラヴェリング・ウィルベリーズ Vol.1』をリリース。ツアーも予定されていたが、12月6日にロイ・オービソンが心臓発作で死去したため、ツアーは幻に終わった。その後、デル・シャノンを加えた新体制で続行という噂があったが、デル・シャノンは1990年2月8日に拳銃自殺してしまう。この時期のバンドに関しては未だに詳細不明である。結局、残された4人で2枚目のアルバム『トラヴェリング・ウィルベリーズ Vol.3』(1990年)をリリースし、バンドは自然消滅した。

1989年には、ボノの進言で招聘したダニエル・ラノワの好サポートによる『オー・マーシー』を発表。ディラン自身の性来持っている南部志向を存分に引き出したが、セールスは全盛期には遠く及ばなかった。2005年に発売された自伝には当時のレコーディングのことが詳細に記述されている。収録曲「モスト・オブ・ザ・タイム "Most of the Time" 」のミュージック・ビデオには別バージョンが使われており、その音源はプロモーションCDにのみ収録された。

1990年代

ネヴァー・エンディング・ツアー

スウェーデンストックホルムでのステージ(1996年)

一連のスタジアムコンサートツアーを終えたディランは、1988年6月7日[96]より小さなホールにおいて最小限のメンバーで即興性を全面に押し出したショウをはじめることにした。このツアーは「ネヴァー・エンディング・ツアー (Never Ending Tour) 」と題され、1991年にG・E・スミスのサポートメンバー脱退を以てひとまず完結となった。これ以降のディランのツアーは、それぞれ別のタイトルがつけられているのだが、いつしかファンの間では、以降のディランのステージはおしなべて「ネヴァー・エンディング・ツアー」という名称で呼ばれるようになった。

当初はパンキッシュなアプローチも見せたが、次第にアコギとハーモニカという従来のスタイルを捨て、メロディーラインもアンサンブルもかなぐり捨て、ひたすらリードギターを弾きまくるスタイルになり、そのグルーヴ感を全面に押し出すスタイルを一部の評論家(特に小倉エージら旧来のウォッチャー)は「ボディ・ミュージック」とも形容した。ツアーメンバーには、テレビ番組「サタデー・ナイト・ライブ」も手がけたG・E・スミス(後述の30周年コンサートでもハウスバンドのギタリストとして、事実上のコンサートマスターであった)、ウィンストン・ワトソン(ジョン・ボーナムばりのパワフルなドラミングで、1990年代半ばのディランサウンドを象徴した)、チャーリー・セクストン(元ソロ歌手)などが入れ替わり立ち代わり参加している。

1990年に『アンダー・ザ・レッド・スカイ』を発表後、ディランはその後7年間自作曲のスタジオ・アルバムを作らなくなった[97]。そのことに関してインタビューで「過去にいっぱい曲を作ったので新曲を作る必要を感じない」と発言している。

その後、1997年までに発表されたものは、2枚のトラディショナル・ソングのカバー・アルバム『グッド・アズ・アイ・ビーン・トゥ・ユー』と『奇妙な世界に』、未発表曲のコンピレーション、ベスト数枚、MTVライブであった。またウィリー・ネルソンのアルバムへのゲスト参加、映画『ナチュラル・ボーン・キラーズ』への楽曲提供(ポール・アンカのカバー「ユー・ビロング・トゥ・ミー」)、マイケル・ボルトンとの共作「Time, Love And Tenderness」などもあった。

1991年2月、グラミー賞生涯功労賞(Lifetime Achievement)を受賞[98]。授賞式では湾岸戦争開始直後の好戦気分溢れる時期でありながら、「戦争の親玉」をハードロックアレンジで歌い、聴衆の度肝を抜いた。

同年には、それまでの過去の音源からの未発表曲を網羅した『ブートレッグ・シリーズ第1〜3集』を発表した。「アイ・シャル・ビー・リリースト」、「ブラインド・ウィーリー・マクテル ("Blind Willie McTell") 」、「夢のつづき ("Series Of Dreams") 」などの曲でディラン再評価の兆しになった。

1992年10月16日にはレコードデビュー30周年を祝って、マディソン・スクエア・ガーデンで記念コンサートが開催され、多くのアーティストが一堂に会してディランの代表曲を歌った。ディランは当時、過去の人扱いにも似たこの「ボブ・フェスト(ニール・ヤング命名)」にはあまり嬉しそうではなく、ステージ上でも時折ナーバスな表情を見せていた。また、出演者が勢ぞろいして歌った「マイ・バック・ページ」はCDでディランのボーカルが差し替えられていたりと、編集の形跡がみられる。 "Song to Woody" はPAの不備によりアルバム収録はならなかったが、アコギ一本で鬼気迫るリードを弾く「イッツ・オールライト・マ ("It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)") 」は満場の観客を捉えるに充分の一撃であった。

1994年、2月に8年振りに訪日コンサートを行なう。4月には奈良市東大寺境内で行なわれたユネスコ主催の音楽祭『THE GREAT MUSIC EXPERIENCE '94 〜21世紀への音楽遺産をめざして〜 AONIYOSHI』のため再訪日。東京ニューフィルハーモニック管弦楽団をバックに3曲(鐘をならせ("Ring Them Bells")、アイ・シャル・ビー・リリースド("I Shall Be Released")、激しい雨が降る("A Hard Rain's A-Gonna Fall"))を披露した。そのうちの1曲「はげしい雨が降る」のシンフォニックバージョンがヨーロッパ、オセアニア等でシングルCD「ディグニティ」のカップリング曲として収録されている(国によっては「悲しきベイブ (Renaldo & Clara Version)」に差し替えられている)。

夏には「ウッドストック1994 ("Woodstock '94") 」にも出演。公式アルバムには、ディランの曲からは「追憶のハイウェイ61 ("Highway 61 Revisited") 」だけが収録された。年末にはMTVの公開番組『MTVアンプラグド』に出演。1960年代の曲を中心とした選曲で、評判となる(ディランは当初古いフォーク・ソングをやることに決めていたが、ソニー側が反対した[99])。翌年『MTVアンプラグド』(1995年)のCD・ビデオがリリース。同時期、自身が設立したとされるレーベルから、ジミー・ロジャースのトリビュートアルバムを発表。 "My Blue Eyed Jane" はエミルウ・ハリス、ダニエル・ラノワとの久々の仕事であった。

7年振りのオリジナル・アルバム

1997年、2月に再び訪日。5月に心臓発作で倒れ、一時は危ぶまれたものの快癒し、復帰。この時ディランは「もうすぐエルヴィスに会うのかと本気で思った。」[100][101]と発言している。その直後、三度ラノワと組み、7年ぶりにオリジナル・アルバムを発表することが明らかになり、新曲はもう聴けないと思っていたファンを狂喜させた。これに関し、自分のライブに若いファンが訪れているのを知ったディランが、彼らの為にアルバムを作ろうと思った、と述べている。このアルバム『タイム・アウト・オブ・マインド』は18年振りに全米トップ10に入り、グラミー賞年間最優秀アルバム賞を受賞した。同年には、息子であり、アメリカのロック・バンド、ザ・ウォールフラワーズ(The Wallflowers) のフロントマンでもあるジェイコブ・ディランもグラミー賞を受賞しており、親子揃っての受賞となった。

1997年9月、イタリアボローニャでおこなわれたカトリック教会のイベント、世界聖体大会で教皇ヨハネ・パウロ2世の前で演奏。教皇は2万人の会衆に対して「風に吹かれて」の歌詞をモチーフとした説教を行った[102]。12月、ホワイトハウスにてケネディ・センター名誉賞を受賞。当時の米国大統領ビル・クリントンは、「ボブほどの衝撃を与えた同世代のクリエイティヴ・アーティストはおそらくほかにいない。」[103][104]と献辞を贈った。1999年6月から10月、ポール・サイモンとアメリカ国内ツアー。ビッグ・ネームふたりの共演に、チケットは高騰した[105]

2000年代

再評価と新作のNo.1獲得

イタリア・ボローニャでのステージ(2005年)
ニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテッジ・フェスティバルで演奏するディラン(2006年)

2000年には、映画『ワンダー・ボーイズ』に新曲「シングズ・ハヴ・チェンジド」を提供。2001年に、ゴールデングローブ賞主題歌賞[106]アカデミー歌曲賞を受賞した[107]

2001年2月から3月にかけて、5度目の訪日公演を行う。直後の9月11日には43枚目となるアルバム『ラヴ・アンド・セフト』を発表。奇しくもアメリカ同時多発テロの発生と同日のリリースであった。21年振りのトップ5アルバムである。

2002年ツアーより、ディランはほとんどギターを弾かなくなり、もっぱらキーボードに専念するようになった。このことに関してディランは、2004年のニューズウィーク誌のインタビューで、ギターでは彼の望んでいるサウンドを形にしきれないこと、専門のキーボードプレイヤーを頼むことも考えたが、結局自分で弾くことにした、と答えている。また、ディランはソロモン・バークが2002年7月に発表したアルバム『ドント・ギヴ・アップ・オン・ミー』に、自身の未発表曲「ステップチャイルド」を提供した[108]

2004年3月17日にデトロイトで行われた公演で、ホワイト・ストライプスジャック・ホワイトと共演し、ストライプスの曲をデュエット。また、この年の「Bonnaroo Festival」に出演。「入り江にそって ("Down Along The Cove") 」が、同ライブCDに収録された。

2004年10月には、ディラン自身が筆をとった自伝第1弾『ボブ・ディラン自伝(Chronicles: Volume One)』が出版された[注 16]ショーン・ペンによる朗読CDも発売されている。また、「ディグニティ」のデモバージョン等が収録された同名の2枚組CDも仏Sony BMGよりリリースされた。

2005年7月16日に、オンライン書店アマゾン(Amazon.com)の創立10周年を記念したイベントで、ノラ・ジョーンズと「アイ・シャル・ビー・リリースト」をデュエット、この模様はインターネットストリーミング配信された。また同年9月から10月はじめには、マーティン・スコセッシ監督によるドキュメンタリー『ノー・ディレクション・ホーム(No Direction Home: Bob Dylan)』がテレビで放映された[109][注 17]。ディラン本人の他、デイヴ・ヴァン・ロンク、スーズ・ロトロ、ジョーン・バエズ、アレン・ギンズバーグ、ピート・シーガーら関係の深い人達がインタビューに出演、サウンドトラックは未発表曲で構成され、『ノー・ディレクション・ホーム:ザ・サウンドトラック(ブートレッグ・シリーズ第7集)』としてリリースされた。この作品は、後に劇場公開されて翌年にはDVD化、2006年4月にはピーボディ賞[110]、2007年1月にはコロンビア大学デュ・ポン・アワード[111]を受賞している。

2006年3月からは、ラジオ番組『Theme Time Radio Hour』で、初めてDJを務めている(アメリカの衛星ラジオ局、MX・サテライト・ラジオの「ディープ・アルバム・ロック・チャンネル」にて放送)。この番組は、インターネットでも配信されているため、日本での聴取も可能である。5月、生まれ故郷のダルースでは、ディランゆかりの地を巡る全長1.8マイルの道路に標識が設置され、「ボブ・ディラン・ウェイ」と名付けられた。毎年5月には、誕生日を祝うイベントも開催されている[112]

同年8月29日には、5年ぶりのアルバム『モダン・タイムズ』を発表。このアルバムは、9月16日付ビルボードアルバムチャートで『欲望』以来、30年半ぶりのNo.1を獲得[113]。しかも自身初の初登場No.1を遂げた。また、このアルバムにも収録されている「サムデイ・ベイビー("Someday Baby")」は、ビルボードで98位と23年振りのTop100シングル曲となった。米ローリング・ストーン誌や英Uncut誌は、このアルバムを2006年の年間ベスト・アルバム1位に挙げ[114][115]2007年2月のグラミー賞では、『モダン・タイムズ』と「サムデイ・ベイビー」で2冠を獲得した。

ノルウェーオスロでのステージ。右側2番目でキーボードを弾いているのがディラン(2007年)

2007年2008年の2年間をデビュー45周年とし、「DYLAN ICON」キャンペーンを実施。全キャリアを総括するベスト盤『DYLAN』発売を皮切りに、「我が道を行く("Most Likely You Go Your Way (And I'll Go Mine)") 」のリミックスの発表、「ニューポート・フォーク・フェスティバル」完全版DVD化、『オー・マーシー』から『モダン・タイムス』のアウトテイクやライブ音源等を収録した『テル・テイル・サインズ(ブートレッグ・シリーズ第8集)』のリリース等、ディラン再評価ムーブメントを象徴する動きが見られた。

2007年10月には初の個展となる「The Drawn Blank Series」が、ドイツのケムニッツにて開催された。これは、1989年 - 1992年の間に描いたスケッチ(1994年に画集 "Drawn Blank" として発刊された)をもとに、ディラン自身が新たに手を加えて制作された絵画の展覧会である。2008年にはロンドンでも開催され、以後世界各地で展開されている。日本でも、2010年11月に東京・六本木で開催された。

2008年には「卓越した詩の力による作詞がポピュラー・ミュージックとアメリカ文化に大きな影響与えた」としてピューリッツァー賞特別賞を受賞した[116]2009年4月、スタジオ・アルバム33作目となる『トゥゲザー・スルー・ライフ』をリリース。ビルボード200全英アルバム・チャートの両チャートで初登場1位を記録した[117][118]。10月、売上印税を国際的な慈善機関に寄付するクリスマス・アルバム『クリスマス・イン・ザ・ハート』をリリース[119]2010年3月には、9年振り6度目の来日公演で、Zepp OsakaZepp NagoyaZepp Tokyoの3か所で行われた[120]

レコードデビュー50周年を迎えた2012年には、アメリカ大統領のバラク・オバマより大統領自由勲章(文民に贈られる最高位の勲章)が授与された。9月には、35作目となる『テンペスト』をリリースした。

2016年10月13日ノーベル文学賞授与が決定[6]。同月29日に授賞を受け入れると発表した[7]。2週間も沈黙し続けた理由について、「あまりの事に、言うべき言葉が見つからなかった」と答えている[121]

影響・語録など

  • ディランは最高だった」 - ジョン・レノン
  • 自分達が難解な歌詞を曲にできるようになったのは、ボブ・ディランが売れた前例のおかげ」 - スティーリー・ダン
  • ボブ・ディランのような歌詞を、フィル・スペクターのようなサウンドに乗せて、ロイ・オービソンのように歌いたかった」 - ブルース・スプリングスティーン
  • 変なおじさんが来て、ギター弾きながら何やら怖い曲を歌ってた」 - ディランが、孫の通うロサンゼルス郊外の幼稚園で演奏した際、ディランを知らない子供たちが帰宅後、親に報告した内容[122]
  • ディランのアルバムをどれか一枚聴こうと思うなら、ディランが今の自分と同い歳の時に作ったアルバムを聴け」 - みうらじゅん

日本への影響

ボブ・ディランが日本で広く知られる切っ掛けとなったのは、ボブ・ディランの影響を強く受けた吉田拓郎[123]、1970年代初頭にラジオの深夜放送や音楽誌のインタビューなどでボブ・ディランを熱心に語ったことが大きいといわれる[124][125][126]。それまでボブ・ディランは日本ではあまり知られていなかったが[124][125]、この影響でCBSソニーから出ていたボブ・ディランのレコードが、以前の5倍以上売れたといわれる[127]。1973年には吉田拓郎の選曲でソニーからボブ・ディランのベスト盤『BOB DYLAN; Gift Pack Series10』が発売された[128]みうらじゅん浦沢直樹は、吉田拓郎を通してボブ・ディランを知ったと話しており[124][126][129][130]、「"フォークロックの神様" "『風に吹かれて』のプロテストソングのヒーロー" "ビートルズにドラッグを教えた反逆者" といったボブ・ディランのイメージは、吉田拓郎が深夜放送でボブ・ディランの凄さを語り、曲を流したことで日本人に植えつけられたもの」と中森明夫は論じている[131]

村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に登場する。

日本公演

ディスコグラフィ

受賞各賞

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ リバコブ(1974年)、p. 19。「五月二一日」と記述。
  2. ^ スーンズ(2002年)、p. 47。「実際には、彼の親戚にディリオンはいない。」
  3. ^ このシングルは1967年ベネルックス三国ベルギーオランダルクセンブルク)で公式リリースされたのみであったが後に『バイオグラフ』が1997年に再編集された際に初回盤に収録されていたAlternate Versionに代わりSingle Versionのステレオミックスが収録された。c/wの「コリーナ、コリーナ (Corrina, Corrina)」もアルバム未収録の別バージョンである。
  4. ^ 『ニューポート・ブロードサイド』(1964年)では「Ye Playboys And Ye Playgirls」が発表された。日本では中川五郎がカバー。
  5. ^ タウン・ホールとカーネギー・ホールでのコンサートは、ライブ・アルバム Bob Dylan In Concert としてリリースされる予定だったが見送りとなった。音源の一部は、後に新譜の特典 Live at Carnegie Hall 19632005年)として配布された。
  6. ^ 『ブロンド・オン・ブロンド』の日本版LPはキーボードがフィーチュアされた幻の「定本」ミックスとする説もある。
  7. ^ これはドラッグソング(もしくは放送倫理規定に抵触するおそれのある曲)のNo.1を避けるための意図的な順位操作と言われている。他の例としてはドノヴァンの「メロー・イエロー (Mellow Yellow)」、クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンの「ファイアー (Fire)」、ナポレオン14世の「狂ったナポレオン、ヒヒ、ハハ… (They're Coming To Take Me Away, Ha-Haaa!)」などがいずれも2位止まりである。
  8. ^ 1998年に発売された『ロイヤル・アルバート・ホール』は、実際にはマンチェスター、フリー・トレード・ホールの公演が収録されている。この公演は、会場の表記を間違えたブートレグが発売されて有名になっていたため、正規盤としてリリースされた際にも、引用符を付けて "The "Royal Albert Hall" Concert のタイトルであえて名残を残したのである。なお、実際のロイヤル・アルバート・ホール公演の客席にはビートルズローリング・ストーンズチャールズ皇太子がいたということから、当時の関心の高さが伺える。なお、会場側の機材の不備により、ミュージシャン側がPAシステムを持ち込むようになったのはこのツアーが初めてである。
  9. ^ なお、あまりのブーイングの激しさに、途中からレヴォンはツアーメンバーを抜け、ドラムはミッキー・ジョーンズに代わっている。
  10. ^ ツアーの終盤にはその「ライク・ア・ローリング・ストーン」はより攻撃的な歌詞を持つ「淋しき四番街」に差し替えられた。
  11. ^ ウィリアムズ『ボブ・ディラン〜瞬間の轍 1』、p. 263頁。「実際は、怪我は軽いものだった。」 
  12. ^ スーンズ(2002年)、p. 228。「いったい何が起きたのか正確なことは謎につつまれたままだ。」
  13. ^ ジョン・レノンは "Serve Yourself" というアンサーソングを録音。ストーンズらとも非難の応酬になった。
  14. ^ ノップラーはミキシングが一段落した段階で自分の仕事に戻ったのであり、仕事を途中で投げ出したわけではない。そのノップラーミキシングによるバージョンの、ブートレグの評判は高い。後日、ノップラーは「あのアルバムは、自分が最後まで手掛けることができれば、もっといい出来になるはずだった」ということをインタビューで述懐している。このことにより二人の不仲も心配されたが、数年後、再度同じステージに立つ機会があった。
  15. ^ エミルウ・ハリス、エリック・クラプトンなど彼のレコーディング、リハーサルに参加した者は異口同音に同じ感想を漏らす。「ディランはメンバーに指示を与えない。楽譜もリードシートもなければ、キーやリズムの指定もない。それで私達は彼の口と手の動きに最大限の注意を払わなくてはいけない。それが後にも先にも一度きりのセッションだからだ」。
  16. ^ 日本語版は 菅野ヘッケル 訳『ボブ・ディラン自伝』ソフトバンククリエイティブ、2005年7月19日。ISBN 4-7973-3070-8 
  17. ^ 日本でのテレビ初公開は2005年11月23日。
  18. ^ 来日100公演目

出典

  1. ^ ディラン(2005年)、p. 96。「家を出たそのときは、ロバート・アレンという名を使うつもりでいた。わたしの感覚では、それがわたしの名前だった―それがわたしに両親から与えられた名前だった。」
  2. ^ リバコブ(1974年)、p. 19。「出生証明に記載された名前はロバート・ジンマーマン」
  3. ^ ロトロ(2010年)、p. 124。「彼の本名がロバート・アレン・ジマーマンとわかったのは、徴兵カードを見たときだ。」
  4. ^ リバコブ(1974年)、p. 95。「一九六二年に彼は法律的な手続きを取って自分の姓をジンマーマンからディランに変えたのである。」
  5. ^ スカデュト(1973年)、 p.200。「ボブは、マンハッタンダウンタウンにある最高裁判所へ出かけて行った。そこで、自分の名前を、合法的にボブ・ディラン、と変えたのだった。」
  6. ^ a b “ボブ・ディランさんにノーベル文学賞 音楽家・作詞家”. 朝日新聞. (2016年10月13日20時11分). http://www.asahi.com/articles/ASJBF5VGVJBFUCLV01H.html 2016年10月13日閲覧。 
  7. ^ a b ディランさん「栄誉に感謝」=ノーベル文学賞受け入れ - 時事通信 2016年10月29日
  8. ^ Rocklist.net...Q Magazine Lists..”. Q - 100 Greatest Singers (2007年4月). 2013年5月21日閲覧。
  9. ^ 2004年、ニューズウィークのインタビューによる。
  10. ^ “仏当局がボブ・ディランさんを訴追、クロアチア人をナチスと対比で”. AFP. AFP BB NEWS. (2013年12月3日). http://www.afpbb.com/articles/-/3004341 2013年12月5日閲覧。 
  11. ^ “米歌手ディランさん、仏で訴追 クロアチア人への憎悪扇動”. 共同通信. 47news. (2013年12月3日). http://www.47news.jp/CN/201312/CN2013120301001603.html 2013年12月6日閲覧。 
  12. ^ “ボブ・ディラン、クロアチア人発言を問われてフランスで刑事裁判に”. NME.COM. rockin'on ro69. (2013年12月4日). http://ro69.jp/news/detail/93340 2013年12月7日閲覧。 
  13. ^ “仏裁判所 B・ディランへの訴え棄却”. SANKEI EXPRESS (産経新聞社). (2014年4月17日). http://www.sankeibiz.jp/express/news/140417/exf14041715050001-n1.htm 2014年6月1日閲覧。 
  14. ^ ウィリアムズ(1962年)。「ボブ・ディランは、1941年5月24日、ミネソタ州デュルースに生まれた。」
  15. ^ リバコブ(1974年)、p. 19。「出生証明はスペリオル湖の岸にある港町ドゥルースで発行されている。」
  16. ^ ディラン(2005年)、p. 283。「わたしはその地帯にあるヒビングで育ったが、生まれたのはそこから東に七十五マイル行ったインディアンがギッチェ・グミーと呼ぶ大きな湖、スペリオル湖のほとりにあるデュルースだった。」
  17. ^ ディラン(2005年)、p. 114。「祖母はロシア南部の港町、オデッサからアメリカにやってきた。(中略)もともと祖母はトルコの出身で、対岸にあるトラブゾンから黒海(中略)をわたってオデッサにやって来た。」
  18. ^ スーンズ(2002年)、pp. 23-25。
  19. ^ スーンズ(2002年)、p. 26。「一九四六年の二月、ボブの弟、デイヴィッド・ベンジャミン・ジママンが誕生した。」
  20. ^ スカデュト(1973年)、p. 14。「六歳の時、一家はカナダ国境近くの、メサービ・アイアン・レンジにある、ヒビングに移った。」
  21. ^ ディラン(2005年)、p. 283。「しかし(父が)ポリオにかかって体が不自由になり、やむなくデュルースを離れた―仕事をやめて母の家族が住んでいたヒビングに引っ越したのには、そういう理由があった。」
  22. ^ スカデュト(1973年)、p. 130。「八歳か九歳になった時、この少年はもうピアノを弾いていた―正規のレッスンを受けたわけではなく、家にあったピアノを、ただ叩きまくっていただけで、独習なのだった。」
  23. ^ スーンズ(2002年)、p. 30。「ジママン家がガルブランソンの小型ピアノを買い、ボブが音楽を演奏するようになったのもこのころだ。(中略)そして独学でピアノを学び、譜面の読み方を学ぶこともなかった。」
  24. ^ Leung, Rebecca (2005年6月12日). “Dylan Looks Back - 60 Minutes - Music Legend Talks To Ed Bradley In His First TV Interview In 19 Years” (英語). CBS News. 2010年3月29日閲覧。 “"I listened to the radio a lot. I hung out in the record stores. And I slam-banged around on the guitar and played the piano and learned songs from a world which didn't exist around me," says Dylan.”
  25. ^ Dylan, Bob (1963年). Album notes for "Joan Baez in Concert, Part 2" by Joan Baez. Vanguard (VRS-9113/VSD-2123). "An' my first idol was Hank Williams"
  26. ^ ディラン(2005年)、p. 60。「わたしの宇宙を支配するのはウディ・ガスリーだったが、その前はハンク・ウィリアムズが好きだった。」
  27. ^ ディラン(2005年)、pp. 117-119。
  28. ^ スカデュト(1973年)、pp. 20-27
  29. ^ スーンズ(2002年)、pp. 37-46
  30. ^ ディラン(2005年)、pp. 51-54
  31. ^ Santelli (2005年)、pp. 9-10。"to join "Little Richard""
  32. ^ スーンズ(2002年)、pp. 50-51。
  33. ^ ディラン(2005年)、p. 98。「わたしはヒッチハイクでファーゴに行って話をし、シャドウズと呼ばれていたヴィーのバンドにピアノ弾きとして入れてもらい、教会の地下室などでおこなわれた地元のショーで演奏した。」
  34. ^ Williams (1962年)。"For six troubled months, Bob attended the University of Minnesota on a scholarship. But like so many of the restless, questioning students of his generation, the formal confines of college couldn't hold him."
  35. ^ スカデュト(1973年)、p. 58。「大学の公式記録によれば、ロバート・アレン・ツィンマーマンは一九五九年の九月から、一九六〇年の秋までの三学期間、授業に出席したことになっている。しかし、実際には、最初の六ヶ月通うのも苦痛で、そのあとはほとんど完全に、授業に出席するのを止めてしまった。」
  36. ^ ディラン(2005年)、p. 292。「最初にしたのは、持っていても意味のないエレクトリックギターをアコースティックのマーティン00-17に替えることだった。店員が同額でギターを引き取ってくれたので、わたしはケース入りのマーティンを持って店を出た。」
  37. ^ ディラン(2005年)、pp. 293-299。
  38. ^ ディラン(2005年)、p. 97。「ツインシティーズで最初に名前を訊かれたとき、わたしは考える前に本能的、自動的に「ボブ・ディラン」と言っていた。」
  39. ^ ディラン(2005年)、p. 97。「そんなとき、偶然、ディラン・トーマスの詩を読んだ。ディランとアレンは音が似ている。ロバート・ディラン。ロバート・アレン。どちらにも決めかねた-(中略)わたしはふだん、ロバートかボビーと呼ばれていたが、ボビー・ディランでは響きが陽気すぎるように思えたし、すでに(中略)ほかにも大勢のボビーがいた。ボブ・ディランならば、ボブ・アレンよりも見てくれも響きもいい。」
  40. ^ ディラン(2005年)、pp. 293-298。
  41. ^ ディラン(2005年)、pp. 300-306。
  42. ^ ディラン(2005年)、pp. 11-28。
  43. ^ ディラン(2005年)、pp. 320-328。
  44. ^ ディラン(2005年)、pp. 84-85。
  45. ^ ディラン(2005年)、pp. 345-346。
  46. ^ Shelton, Robert (1961年9月29日). “"Bob Dylan: A Distinctive Folk-Song Stylist" From the "New York Times"” (英語). bobdylan.com. 2009年10月23日閲覧。
  47. ^ ディラン(2005年)、p. 346。
  48. ^ ディラン(2005年)、p. 8。
  49. ^ ディラン(2005年)、p. 346。
  50. ^ Scaduto (1973年)、 p. 130。 "Bob Dylan didn't light up skies; it sold only five thousand copies the first year, just enough to break even for Columbia."
  51. ^ Santelli (2005年)、 p. 22。
  52. ^ ディラン(2005年)、pp. 87-89。
  53. ^ ディラン(2005年)、pp. 334-335。
  54. ^ ディラン(2005年)、pp. 338-343。
  55. ^ ディラン(2005年)、pp. 348-356。
  56. ^ ディラン(2005年)、pp. 357-358。
  57. ^ スーンズ『ダウン・ザ・ハイウェイ』、pp. 117-118頁。 
  58. ^ ウィリアムズ『ボブ・ディラン〜瞬間の轍 1』、p. 64頁。「突然、彼はかたときも休まずに歌をつくるようになった。」 
  59. ^ Backfile” (英語). Broadside Magazine. 2009年10月24日閲覧。
  60. ^ Broadside Ballads, Vol. 1” (英語). Smithsonian Folkways. 2009年10月24日閲覧。
  61. ^ Broadside Ballads, Vol. 6: Broadside Reunion” (英語). Smithsonian Folkways. 2009年10月24日閲覧。
  62. ^ ディラン(2005年)、pages=p. 359。
  63. ^ スーンズ『ダウン・ザ・ハイウェイ』、pp. 124-125頁。 
  64. ^ ディラン(2005年)、pp. 359-361。
  65. ^ Dylan in the Madhouse” (英語). BBC TV (2007年10月14日). 2009年10月25日閲覧。
  66. ^ スーンズ『ダウン・ザ・ハイウェイ』、pp. 133-134頁。 
  67. ^ ヘイリン『ボブ・ディラン大百科』、p. 53頁。 
  68. ^ リバコブ(1974年)、pp. 62-63。
  69. ^ Folk Singers: Let Us Now Praise Little Men” (英語). Time (1963年5月31日). 2009年11月7日閲覧。 “Something Unique. There is something faintly ridiculous about such a citybilly, yet Dylan is the newest hero of an art that has made a fetish out of authenticity.”
  70. ^ リバコブ『ボブ・ディラン』、p. 86頁。 
  71. ^ Exclusive: Dylan at Newport—Who Booed?” (英語). Mojo (2007年10月25日). 2009年8月15日閲覧。
  72. ^ スーンズ(2002年)、p. 229。「人気の面でも創作性の面でも絶頂期にいた」
  73. ^ スーンズ(2002年)、pp. 227-229。
  74. ^ ディラン『ボブ・ディラン自伝』、p. 138頁。 
  75. ^ スーンズ(2002年)、p. 229。「ボブは意識を失い、首を折り、危篤状態だったと伝えていた。」
  76. ^ ヘイリン『ボブ・ディラン大百科』、p. 98頁。 
  77. ^ ウィリアムズ『ボブ・ディラン〜瞬間の轍 1』、p. 264頁。 
  78. ^ ディラン『ボブ・ディラン自伝』、p. 138頁。 
  79. ^ スーンズ(2002年)、p. 231。
  80. ^ ヘイリン『ボブ・ディラン大百科』、p. 98頁。 
  81. ^ ディラン『ボブ・ディラン自伝』、p. 138頁。 
  82. ^ スーンズ(2002年)、p. 231。
  83. ^ ウィリアムズ『ボブ・ディラン〜瞬間の轍 1』、p. 264頁。 
  84. ^ Male, Andrew (2007年11月26日). “Bob Dylan — Disc of the Day: Self Portrait” (英語). Mojo. 2009年11月16日閲覧。 “What is this shit! Greil Marcus said it first in his 1970 Rolling Stone review of Self Portrait
  85. ^ ヘイリン『ボブ・ディラン大百科』、p. 107-108頁。 
  86. ^ ヘイリン『ボブ・ディラン大百科』、p. 110頁。 
  87. ^ ヘイリン『ボブ・ディラン大百科』、p. 113頁。 
  88. ^ ヘイリン『ボブ・ディラン大百科』、p. 108頁。 
  89. ^ ヘイリン『ボブ・ディラン大百科』、p. 112頁。 
  90. ^ ヘイリン『ボブ・ディラン大百科』、p. 108-109頁。 
  91. ^ ヘイリン『ボブ・ディラン大百科』、p. 116頁。 
  92. ^ ヘイリン『ボブ・ディラン大百科』、p. 115-116頁。 
  93. ^ Bob Dylan cover versions” (英語). Bjorner.com (2002年4月16日). 2009年8月15日閲覧。
  94. ^ ヘイリン『ボブ・ディラン大百科』、p. 168頁。 
  95. ^ ヘイリン『ボブ・ディラン大百科』、p. 194頁。 
  96. ^ ヘイリン『ボブ・ディラン大百科』、pp. 243-244頁。 
  97. ^ スーンズ『ダウン・ザ・ハイウェイ』、p. 404頁。 
  98. ^ Grammy Lifetime Achievement Award” (英語). Grammy.com. 2009年8月15日閲覧。
  99. ^ スーンズ『ダウン・ザ・ハイウェイ』、pp. 422-423頁。 
  100. ^ スーンズ『ダウン・ザ・ハイウェイ』、p. 434頁。 
  101. ^ Sounes, Howard. Down The Highway: The Life of Bob Dylan. pp. p. 420. "I really thought I'd be seeing Elvis soon." 
  102. ^ スーンズ『ダウン・ザ・ハイウェイ』、p. 439頁。 
  103. ^ スーンズ『ダウン・ザ・ハイウェイ』、p. 442頁。 
  104. ^ “Remarks by the President at Kennedy Center Honors Reception”. Clinton White House. (1997年12月8日). http://clinton4.nara.gov/textonly/WH/New/html/19971208-2814.html 2009年11月16日閲覧. "He probably had more impact on people of my generation than any other creative artist." 
  105. ^ スーンズ『ダウン・ザ・ハイウェイ』、pp. 445-448頁。 
  106. ^ HFPA - Award Search -” (英語). Golden Globe, Hollywood Foreign Press Association (2004年10月6日). 2009年11月6日閲覧。
  107. ^ Dansby, Andrew (2001年3月26日). “Dylan Wins Oscar” (英語). Rolling Stone. 2009年11月6日閲覧。
  108. ^ Dylan, Waits, Costello Help Soul Legend Regain His Throne - Music, Celebrity, Artist News | MTV 2011年10月30日閲覧
  109. ^ Bob Dylan: American Masters” (英語). PBS. 2009年11月6日閲覧。 “Thirteen/WNET New York and Sikelia Productions, in co-production with Vulcan Productions, BBC and NHK, will make its U.S. broadcast premiere on Thirteen/WNET’s award-winning AMERICAN MASTERS series Monday and Tuesday, September 26-27 at 9 p.m. (ET) on PBS”
  110. ^ George Foster Peabody Award Winners” (PDF) (英語). Peabody (2006年). 2009年11月6日閲覧。
  111. ^ Past duPont Award Winners” (英語). The Journalism School, Columbia University (2007年). 2009年11月6日閲覧。
  112. ^ Bob Dylan Way - Duluth, MN” (英語). Bob Dylan Way. 2010年8月7日閲覧。
  113. ^ Dylan gets first US number one for 30 years” (英語). NME (2006年9月7日). 2009年8月15日閲覧。
  114. ^ “2006 Flashback: "Modern Times", "Crazy" and the Year's Best Music” (英語). Rolling Stone. (2009年12月30日). http://www.rollingstone.com/music/daily-blog/blogs/rsstaffblogpost_2011/46536/39509 2010年8月7日閲覧。 
  115. ^ Modern Times, Album of the Year, 2006” (英語). Uncut. (2006年12月16日). http://www.uncut.co.uk/music/uncut/news/9182 2010年8月7日閲覧。 
  116. ^ The Pulitzer Prize Winners 2008: Special Citation” (英語). Pulitzer (2008年5月7日). 2010年3月29日閲覧。 “Awarded to Bob Dylan for his profound impact on popular music and American culture, marked by lyrical compositions of extraordinary poetic power.”
  117. ^ Caulfield, Keith (2009年5月6日). “Bob Dylan Bows Atop Billboard 200” (英語). Billboard. 2009年9月5日閲覧。
  118. ^ Dylan is in chart seventh heaven” (英語). BBC News (2009年5月3日). 2009年9月5日閲覧。
  119. ^ Bob Dylan’s Holiday LP Christmas in the Heart Due October 13th” (英語). bobdylan.com (2009年8月25日). 2009年11月27日閲覧。
  120. ^ 2010来日記念スペシャル・サイト: NEWS”. ソニー・ミュージック. 2010年8月7日閲覧。
  121. ^ ボブ・ディラン氏、ノーベル賞沈黙は「言葉失っていた」 朝日新聞2016年10月29日
  122. ^ ボブ・ディラン、幼稚園児に怪しまれる"Weird guitar guy" Bob Dylan” (英語). FemaleFirst with VAGABOND (2007年5月3日). 2009年8月15日閲覧。
  123. ^ 吉田拓郎さん「ボブ・ディランがいたから今日がある」 | NHK NEWS WEB天風録 「ディランがいたから」中国新聞 2016年10月15日朝刊一面柳井康弘「吉田拓郎が日本のフォークソングに与えた偉大なる影響 : 私生活フォークの成立と「僕の歌」をめぐって(芸術のロケーション)」『Booklet』第12巻、慶應義塾大学、2004年1月31日、83-92頁、NAID 110004646497 
  124. ^ a b c みうらじゅんさん、ボブ・ディランを語り尽くす スポーツ報知【みうらじゅん インタビュー6 <祝!ノーベル文学賞>米国音楽界の巨人 ボブ・ディラン特集
  125. ^ a b 竹中晃のコラム ポケットにいつも音楽を入れて- 第101回 “拓郎経由”のボブ・ディラン レディオ・グラフィティ - 北日本放送|KNB WEB
  126. ^ a b 『Gauguin(ゴーギャン)』、2008年4月号・東京ニュース通信社、p. 17
  127. ^ 山本コウタロー『誰も知らなかった吉田拓郎』イーストプレス、2009年、p. 3
  128. ^ 浦沢直樹和久井光司共著『ディランを語ろう』、小学館、2007年、p. 48
  129. ^ 『ディランを語ろう』、p. 38
  130. ^ 浦沢直樹が見たディラン 「飽きる大切さ教えてくれる」ボブ・ディランを「聴いて歌って描きまくる」!浦沢直樹展記念イベントで語られた、マンガと音楽の熱い関係
  131. ^ 週刊現代』、講談社、2012年2月25日号、p. 90

参考文献

  • アンソニー・スカデュト 著、小林宏明 訳『ボブ・ディラン』二見書房、1973年。  - Scaduto, Anthony (1971). Bob Dylan: An Intimate Biography ((1st ed.) ed.). New York: Grosset & Dunlap , Bob Dylan. SIGNET ((paperback ed.) ed.). New York: The New American Library. (1973) 
  • クリントン・ヘイリン 著、菅野ヘッケル 訳『ボブ・ディラン大百科』CBS・ソニー出版、1990年。ISBN 4-7897-0553-6  - Heylin, Clinton (1988). Bob Dylan: Stolen Moments. The Ultimate Reference Book. Romford, England: Wanted Man Publications. ISBN 0-947730-05-2 
  • サイ・リバコブ、バーバラ・リバコブ 著、池央耿 訳『ボブ・ディラン』角川書店角川文庫〉、1974年。  - Ribakove, Sy and Barbara (1966). Folk Rock: The Bob Dylan Story. New York: Dell Publishing 
  • スージー・ロトロ 著、菅野ヘッケル 訳『グリニッチヴィレッジの青春』河出書房新社、2010年。ISBN 978-4-309-20531-1 - Rotolo, Suze (2008). A Freewheelin' Time: A Memoir of Greenwich Village in the Sixties. New York: Broadway Books. ISBN 0767926870 
  • ステイシー・ウィリアムズ、ボブ・ディラン『ボブ・ディラン』(1962年)のアルバム・ノーツ。 - Williams, Stacey (1962). "His Life and Times". Album notes for "Bob Dylan" by Bob Dylan. Columbia (CL 1779/CS 8579).
  • ハワード・スーンズ 著、菅野ヘッケル 訳『ダウン・ザ・ハイウェイ〜ボブ・ディランの生涯』河出書房新社、2002年。ISBN 4-309-26614-2 - Sounes, Howard (2001). Down The Highway: The Life of Bob Dylan. New York: Grove Press. ISBN 0-8021-1686-8 
  • ボブ・ディラン 著、菅野ヘッケル 訳『ボブ・ディラン自伝』ソフトバンククリエイティブ、2005年。ISBN 4-7973-3070-8  - Dylan, Bob (2004). Chronicles: Volume One. New York: Simon and Schuster. ISBN 0-7432-2815-4 
  • ポール・ウィリアムズ 著、菅野彰子 訳『ボブ・ディラン〜瞬間の轍 1 1960-1973』菅野ヘッケル監修、音楽之友社、1992年。ISBN 4-276-23431-X  - Williams, Paul (1990). Performing Artist: The Music of Bob Dylan, Volume One 1960-1973. Novato, California: Underwood-Miller. ISBN 0-88733-089-4 
  • ロバート・サンテリ 著、菅野ヘッケル 訳『ボブ・ディラン・スクラップブック 1956-1966』ソフトバンククリエイティブ、2005年。ISBN 4-7973-3071-6  - Santelli, Robert (2005). The Bob Dylan Scrapbook: 1956-1966. New York: Simon & Schuster. ISBN 978-0-7432-2828-2 

外部リンク