「ピート・タウンゼント」の版間の差分
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{{Otheruses|イギリスのギタリスト|その他|ピーター・タウンゼント}} |
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{{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家を参照 --> |
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| Name = ピート・タウンゼンド |
| Name = ピート・タウンゼンド<br/>Pete Townshend |
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| Notable_instruments = [[リッケンバッカー]]・330<br>[[フェンダー・ストラトキャスター]]<br>[[ギブソン・SG|ギブソン・SG・スペシャル]]<br>[[ギブソン・レスポール|ギブソン・レスポール・デラックス]]<br>[[ギブソン・J-200]] |
| Notable_instruments = [[リッケンバッカー]]・330<br>[[フェンダー・ストラトキャスター]]<br>[[ギブソン・SG|ギブソン・SG・スペシャル]]<br>[[ギブソン・レスポール|ギブソン・レスポール・デラックス]]<br>[[ギブソン・J-200]] |
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'''ピート・タウンゼント'''('''Pete Townshend'''、本名:Peter Dennis Blandford Townshend、[[1945年]][[5月19日]] - )は、[[イ |
'''ピート・タウンゼント'''('''Pete Townshend'''、本名:Peter Dennis Blandford Townshend、[[1945年]][[5月19日]] - )は、[[イングランド]]の[[ロック (音楽)|ロック]]・[[ミュージシャン]]、[[小説家]]、[[ロック (音楽)|ロック]]・[[バンド (音楽)|バンド]]の[[ザ・フー]]の[[ギタリスト]]である。 |
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[[2011年]]、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第10位 |
[[2011年]]、「[[ローリング・ストーン]]の選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第10位<ref>[https://www.rollingstone.com/music/lists/100-greatest-guitarists-20111123/pete-townshend-20111122 Carlos Santana | 100 Greatest Guitarists | Rolling Stone]</ref>。 |
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==来歴== |
== 来歴 == |
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===生い立ち=== |
=== 生い立ち === |
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[[ロンドン]]の[[チ |
[[ロンドン]]の[[チジック]]で生まれる。父親のクリフ・タウンゼントはイギリスでは有名な[[サックス]]・プレイヤーで、母親のベティもまたプロのシンガー、そして祖父のホレス・タウンゼントもセミプロのミュージシャンであり、まさに音楽一家だった<ref name="aaa_31">『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.31</ref>。6歳から7歳までの間、ツアーで家を空けていた両親に代わり、祖母のデニーに面倒を見られていたが、デニーは精神を病んでおり、幼いタウンゼントに虐待を加えた。この時期をタウンゼントは「人生最悪の暗黒時代」と表現している<ref name="wia_18">『フー・アイ・アム』・p.18</ref>。音楽的環境に恵まれた家庭に育ちながら少年時代は音楽に関心を示す事はなかったというが、[[1956年]]の夏に友人と共に観に行った映画『[[ロック・アンド・ロール/狂熱のジャズ]]』に影響を受け、ギターを弾きたいと欲するようになる。12歳の[[クリスマス]]に[[ギター]]をプレゼントされるが、買い与えたのは皮肉にも祖母のデニーだった。だが弾きこなすには難しいと考え、その後4弦の[[バンジョー]]を入手し、腕を磨いた。それ以前に父同様にサックスをやろうとしたが、そちらは上達しなかったという<ref name="aaa_32">『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.32</ref>。 |
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アクトン・カウンティ・グラマー・スクール |
[[1958年]]春、アクトン・カウンティ・グラマー・スクールで[[ジョン・エントウィッスル]]と知り合い、学校の仲間でコンフェデレイツという[[ジャズ]]・バンドを結成する<ref name="wia_37">『フー・アイ・アム』・p.37</ref>。このバンドはすぐに消滅したが、その後もスコーピオンズというバンドで共にプレイするなど、二人の交流は続いていた<ref name="aaa_35">『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.35</ref>。[[1957年]]には弟のポールが<ref name="wia_36">『フー・アイ・アム』・p.36</ref>、[[1960年]]には下の弟のサイモンが誕生<ref name="wia_39">『フー・アイ・アム』・p.39</ref>。サイモンは後に兄同様ミュージシャンとなり、タウンゼントやザ・フーのツアーにサポート・ミュージシャンとして参加している。 |
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[[1961年]]、イーリング・アート・カレッジに入学。同年、エントウィッスルがグラマー・スクールの先輩である[[ロジャー・ダルトリー]]に誘われ、スコーピオンズを抜け、ダルトリーのバンド、'''ザ |
[[1961年]]、イーリング・アート・カレッジに入学。同年、エントウィッスルがグラマー・スクールの先輩である[[ロジャー・ダルトリー]]に誘われ、スコーピオンズを抜け、ダルトリーのバンド、'''ザ・ディトゥアーズ'''に加入。翌[[1962年]]にはタウンゼントもエントウィッスルに誘われる形で加入する<ref name="aaa_37">『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.37</ref>。実はエントウィッスルよりも先にダルトリーはタウンゼントに目を付けており、ディトゥアーズへの加入を持ちかけていた<ref name="wia_41">『フー・アイ・アム』・p.41</ref>。その後、ダルトリーの自宅で行われた簡単なオーディションを受け、加入が決まった<ref name="wia_44">『フー・アイ・アム』・p.44</ref>。加入直後は[[リズムギター]]の担当だったが、[[リードギター]]担当だったダルトリーが日中の板金工の仕事でしばしば手を負傷していたため、ギターを辞めて[[ボーカル]]に専念することにし、タウンゼントがリードギタリストとなった<ref name="aaa_41">『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.41</ref>。当時タウンゼントは真剣にプロ・ミュージシャンになることは考えておらず、[[彫刻家]]になろうと考えていたというが<ref name="wia_52">『フー・アイ・アム』・p.52</ref>、バンド活動が忙しくなり、学業との両立が難しくなったため、[[1964年]]の夏休み前に中途退学し<ref name="wia_57">『フー・アイ・アム』・p.57</ref>、その頃に音楽で生きていく決意を固めたという<ref name="wia_58">『フー・アイ・アム』・p.58</ref>。 |
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メジャー・デビューまでの間に何度もメンバー・チェンジが行われたものの、1964年に前任のドラマーに代わり[[キース・ムーン]]が加入したことで固まった。バンド名を'''ザ・フー'''に改め、同年7月、ザ・フーはメジャー・デビューを果たす。 |
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===1964年~1982年=== |
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初代マネージャーの{{仮リンク|ピート・ミーデン|en|Peter Meaden}}の命で、バンドはモッズの衣装を着て、バンド名も'''ハイ・ナンバーズ'''と改める。だがミーデンの目論見は外れ、バンドは名前をザ・フーに戻し、新しいマネージャーである{{仮リンク|キット・ランバート|en|Kit Lambert}}と{{仮リンク|クリス・スタンプ|en|Chris Stamp}}の下で再出発する。ランバートはタウンゼントにダビング録音が可能なテープレコーダーを買い与えた。これがタウンゼントの作曲家の才能を開花させるきっかけとなった<ref name ="b">[[#Ultimate|アルティミット・ガイド]]・p139</ref>。タウンゼントは「[[アイ・キャント・エクスプレイン]]」、「[[エニウェイ・エニハウ・エニホェア]]」、「[[マイ・ジェネレーション]]」、「[[恋のピンチ・ヒッター]]」とヒットナンバーを次々と量産、ザ・フーは一躍スターダムにのし上がった。 |
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=== 1964年 - 1983年 === |
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アルバム『[[セル・アウト]]』(1967年)に楽曲「アルメニアの空」を提供したスピーディー・キーンを中心とするバンド、サンダークラップ・ニューマンが[[1969年]]に結成。タウンゼントは彼らのデビュー・シングル「[[サムシング・イン・ジ・エアー]]」をプロデュースし、同時にベースも担当した。同曲は[[全英シングルチャート]]で3週にわたって1位を記録する大ヒットとなった。 |
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初代マネージャーの{{仮リンク|ピート・ミーデン|en|Peter Meaden}}は、ザ・フーを当時席巻していた[[モッズ]]・バンドとして売り出そうと計画し、メンバーにモッズの衣装を着させ、バンド名も'''ハイ・ナンバーズ'''と改めさせた。そして彼等はミーデン作のデビュー・シングル「ズート・スーツ」を発表したが、ミーデンの目論見は外れて不発に終わった。彼等は、新しいマネージャーである[[キット・ランバート]]と{{仮リンク|クリス・スタンプ|en|Chris Stamp}}の下で名前をザ・フーに戻して再出発する。ランバートはタウンゼントにダビング録音が可能なテープレコーダーを買い与えた。これがタウンゼントの作曲家の才能を開花させるきっかけとなった<ref name="ug_139">『アルティミット・ガイド』・p.139</ref>。タウンゼントは「[[アイ・キャント・エクスプレイン]]」、「[[エニウェイ・エニハウ・エニホェア]]」、「[[マイ・ジェネレーション]]」、「[[恋のピンチ・ヒッター]]」とヒットナンバーを次々と量産、ザ・フーは一躍スターダムにのし上がった。 |
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タウンゼントは他のアーティストとも積極的に活動した。[[1966年]]、ザ・マージーズ(''[[:en:The_Merseybeats|The Merseys]]'')という音楽ユニットに「ソー・サッド・アバウト・アス」を提供<ref>CD『ア・クイック・ワン』コレクターズ・エディション(2012年)付属の犬伏功による解説より。</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.discogs.com/master/502733-The-Merseys-So-Sad-About-Us |title=Discogs |access-date=2023年9月18日}}</ref>、1967年にはプティング(''The Pudding'')というバンドに「[[マジック・バス]]」を提供した<ref name="ug_126">『アルティミット・ガイド』・p.126</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.discogs.com/master/877041-The-Pudding-The-Magic-Bus |title=Discogs |access-date=2023年9月18日}}</ref>{{Efn|「ソー・サッド・アバウト・アス」はザ・フーのセカンド・アルバム『[[ア・クイック・ワン]]』(1966年)で、「[[マジック・バス]]」はザ・フーのシングル(1968年)で、[[セルフ・カバー]]された。}}。1968年には[[クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウン|クレージー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウン]]をランバートに紹介して{{Sfb|Townshend|2012|p=254}}、ランバートがプロデュースした[[クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウン (アルバム)|同名デビュー・アルバム]]のアソシエイト・プロデューサーを務めた。このアルバムはランバートとスタンプが設立した[[:en:Track_Records|トラック・レコード]]から発表され、シングル・カットされた「[[:en:Fire_(Arthur_Brown_song)|ファイアー]]」は[[全英シングルチャート]]の首位を獲得し、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ビルボード]]HOT100でも2位に輝いた。1969年には、ザ・フーの3作目のアルバム『[[セル・アウト]]』([[1967年]])に楽曲「アルメニアの空」を提供した友人の[[:en:Speedy_Keen|ジョン・“スピーディー”・キーン]]を中心とするバンド、[[サンダークラップ・ニューマン]]を結成させた。そしてデビュー・シングル「[[サムシング・イン・ジ・エアー]]」の録音の為に[[トゥイッケナム|トゥィッケナム]]にあった自分のホーム・スタジオを提供して、自らプロデューサーを務めると同時にベースも担当した。この曲はトラック・レコードから発表されて[[全英シングルチャート]]で3週にわたって1位を記録する大ヒットになり<ref name="aaa_188">『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.188</ref>{{Sfb|Townshend|2012|p=176}}、彼は引き続いて彼等の[[Hollywood Dream|デビュー・アルバム]](1970年)のプロデューサーも務めた。 |
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ザ・フーの楽曲の大部分を作曲していたタウンゼントには、他のメンバーと異なりソロ活動をする必要はなかったが、[[1970年]]には当時彼が帰依していた[[インド]]の導師[[メヘル・バーバー|メハー・ババ]]の誕生日を祝うために製作された[[チャリティー]]・アルバム『''Happy Birthday''』に楽曲を提供。[[1972年]]には同じ趣旨で製作されたアルバム『''I Am''』にもやはり楽曲提供する。この2つのアルバムはわずかしかプレスされず、ほとんどはババの信者の手に渡ったが、これがザ・フーのファンの間でうわさになり、これらの楽曲が[[海賊盤]]で出回り始めた事から、アメリカの[[MCAレコード]]からの要請で1972年にリリースされた『''Who Came First'' (邦題:現人神)』が、タウンゼントの正式な1stソロ・アルバムとなる。ここには上記のババのための2枚のアルバムからの楽曲や、幻に終わったアルバム「ライフハウス」のための楽曲などが収められており、純粋な新作アルバムというより、未発表曲集の意味合いが強いアルバムとなっている<ref name ="b"/>。[[1973年]]1月には、薬物中毒のために活動を停止していた[[エリック・クラプトン]]の復帰ライブを開催。同年9月にこのコンサートの実況盤『エリック・クラプトン・レインボー・コンサート』がリリースされる{{Sfn|ニール、ケント|2008|p=256}}。 |
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ザ・フーの楽曲の大部分を作曲していたタウンゼントには、他のメンバーと異なりソロ作品を発表する必要はなかったが、[[1970年]]には、彼が1967年より帰依している[[インド]]の[[グル|導師]]で、1969年に他界した[[メヘル・バーバー|メハー・ババ]]{{Sfb|Townshend|2012|pp=110, 139-140}}の75回目の誕生日を祝うために製作された[[チャリティー]]・アルバム『[[ハッピー・バースデイ (メヘル・バーバー関連のアルバム)|ハッピー・バースデイ]]』{{Sfb|Neill|Kent|2007|p=253}}に参加。[[1972年]]にもババの三回忌を記念して製作されたアルバム『[[アイ・アム (メヘル・バーバー関連のアルバム)|アイ・アム]]』{{Sfb|Neill|Kent|2007|p=300}}に参加した。これらのアルバムはババの教えを広めるために1949年に設立されたユニヴァーサル・スピリチュアル・リーグ(Universal Spiritual League)によって制作され、数千部が限定生産されて、そのほとんどが信者の手に渡った。これがザ・フーのファンの間でうわさになり、収録された楽曲が[[海賊盤]]で出回り始めた事から、アメリカの[[MCAレコード]]からの要請により1972年にリリースされた『'''[[フー・ケイム・ファースト]]'''』が、タウンゼントの正式な1stソロ・アルバムとなる(全英30位、全米69位)。このアルバムには『ハッピー・バースデイ』と『アイ・アム』からの楽曲、幻に終わったザ・フーのアルバム『[[ライフハウス (オペラ)|ライフハウス]]』の為に彼が制作した[[デモテープ|デモ]]の一部などが収録され、新作というより未発表曲集の意味合いが強い作品となっている<ref name="ug_139" />。 |
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その後はしばらくソロ活動は行わず、[[1976年]]に再びババのためのアルバム『''With Love''』に楽曲提供する程度にとどまっていたが、この間、タウンゼントはキット・ランバートとの訴訟問題を抱えており、音楽業界に嫌気が差し、ザ・フーにも興味を失いかけていた<ref name ="b"/>。そのような時期の[[1977年]]に、[[ロニー・レイン]]と共同で製作した2枚目のソロアルバム『''Rough Mix''』をリリースする。アルバムには盟友クラプトンや[[チャーリー・ワッツ]]、[[ボズ・バレル]]等が参加した。 |
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[[1973年]]1月、薬物中毒などによるスランプに陥って活動を停止していた親友[[エリック・クラプトン]]の復帰ライブを企画し、自身も演奏に参加。同年9月にこのコンサートの実況盤『エリック・クラプトン・レインボー・コンサート』がリリースされる<ref name="aaa_256">『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.256</ref>。 |
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[[1978年]]、キース・ムーンが急逝。数年先までスケジュールが決まっていたため、バンドを解散させる事は出来ず、ザ・フーは新たなドラマーに元[[フェイセズ]]の[[ケニー・ジョーンズ]]を迎え再出発する事になるが、ムーンの死を契機に、タウンゼントの興味はソロ活動の方へと移っていった。[[1980年]]には、新作のみを揃えた純粋なソロ作としては初のアルバム『''Empty Glass''』を発表。タウンゼントのソロ作の中では最高のセールスを記録した。だが、ケニー・ジョーンズはタウンゼントが「いい曲をザ・フーではなくソロのほうへ持っていっている」と不満を露にし、二人の仲は急速に悪くなっていく。タウンゼントはそういったストレスから[[酒]]と[[ドラッグ]]に溺れるようになり、[[1981年]]の年末頃には深刻な状態にまで陥るが、2ヶ月ほどのリハビリを経て復活する<ref name ="c">[[#Ultimate|アルティミット・ガイド]]・p140</ref>。[[1982年]]には4枚目のソロアルバム『''All the Best Cowboys Have Chinese Eyes''』をリリース。同年12月の[[トロント]]でのコンサートを持って、ザ・フーは解散した。 |
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その後はしばらくソロ活動は行わず、[[1976年]]にみたびユニヴァーサル・スピリチュアル・リーグが制作したアルバム『''[[ウィズ・ラヴ (メヘル・バーバー関連のアルバム)|ウィズ・ラヴ]]''』に楽曲を提供する程度にとどまっていた。この間、彼はダルトリーやエントウィッスルと共にキット・ランバートとの訴訟問題を抱えており、音楽業界に嫌気が差し、ザ・フーにも興味を失いかけていた<ref name="ug_139" />。そのような時期の[[1977年]]に、親友の[[ロニー・レイン]]{{Efn|タウンゼントとレーンは1968年に知り合って親しくなった。レーンはタウンゼントがババの教えについて語るのに熱心に耳を傾け、タウンゼントと同様に、ユニヴァーサル・スピリチュアル・リーグの『ハッピーバース・デイ』、『アイ・アム』、『ウィズ・ラヴ』に参加した。}}と共同で製作した2枚目のソロアルバム『'''[[ラフ・ミックス]]'''』(全英44位、全米45位)をリリースする。アルバムにはエントウィッスル、盟友クラプトン、[[チャーリー・ワッツ]]、[[ボズ・バレル]]等が参加した。 |
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===1983年以降=== |
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解散から間もない[[1983年]]、デモバージョンや未発表曲を集めた5枚目のソロアルバム『''Scoop''』をリリース。[[1985年]]には自らの10代の頃によく遊んでいた実在するスラム街をテーマにした自伝的なストーリー仕立てのアルバム『''White City''』と同タイトルの[[ビデオ]]作品をリリース。同年には自身初の短編小説集「''Horse's Neck''(邦題:四重人格)」を発表する。同年7月には[[ライブ・エイド]]出演のためにザ・フーを再結成させる。さらに11月には、『White City』の設定上にあるバンド「ディープ・エンド」の名でコンサートツアーを開催、メンバーには[[ピンク・フロイド]]の[[デヴィッド・ギルモア]]も参加し、総勢17人による大編成バンドとなった。翌年にはこのライブの模様を収録した『''Deep End Live!''』をリリース。 |
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[[1978年]]、キース・ムーンが急逝。数年先までスケジュールが決まっていたため、バンドを解散させることは出来ず、ザ・フーは新たなドラマーに元[[フェイセズ]]の[[ケニー・ジョーンズ]]を迎え、[[1979年]]より再出発を切った。「新生ザ・フーでの演奏は楽しかった」と言うタウンゼントだったが<ref name="wia_273">『フー・アイ・アム』・p.273</ref>、ムーンの死を契機に、タウンゼントの興味はソロ活動の方へと移っていった。[[1980年]]には、新作のみを揃えた純粋なソロ作としては初のアルバム『'''エンプティ・グラス'''』を発表。全米5位、全英11位というタウンゼントのソロ作の中では最高のセールスを記録した。だが、ケニー・ジョーンズはタウンゼントが「いい曲をザ・フーではなくソロのほうへ持っていっている」と不満を露にし、さらにはダルトリーがジョーンズのプレイを嫌い、本人に向かって「もうお前とは仕事したくない」と言い放つ{{Sfb|Daltrey|2018|pp=189-193}}など、メンバー間に亀裂が生じ始めた<ref name="wia_297">『フー・アイ・アム』・p.297</ref>。これに加え、タウンゼントは妻のカレンとの仲もうまく行かなくなり、そういったストレスから[[酒]]と[[麻薬|ドラッグ]]に溺れるようになり、[[1981年]]の9月には[[コカイン]]の過剰摂取により、一時的に心肺停止の状態にまで陥った<ref name="wia_303">『フー・アイ・アム』・p.303</ref>。その後、[[カリフォルニア]]で薬物依存の治療を1ヶ月ほど受け、何とか回復した<ref name="wia_306">『フー・アイ・アム』・p.306</ref>。 |
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[[1987年]]、『''Scoop''』に続く未発表曲集の第2弾『''Another Scoop''』をリリース。[[1989年]]にはザ・フーデビュー25周年記念ツアーを敢行。同年、ザ・フー名義で製作した新曲2曲を収録したソロアルバム『''The Iron Man''』を発表。 |
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復活はしたものの、タウンゼントの精神はもはや限界に来ていた。[[1982年]]には4枚目のソロアルバム『'''[[チャイニーズ・アイズ]]'''』をリリース(全英32位、全米26位)。同年12月に[[トロント]]にて最後のコンサートを行う。[[1983年]]5月、タウンゼントはダルトリーの自宅を訪れ、「もうツアーはできない」と告げ、ダルトリーもそれを聞き入れた<ref name="wia_312-313">『フー・アイ・アム』・pp.312-313</ref>。6月、ザ・フーは正式に解散した<ref name="wia_316">『フー・アイ・アム』・p.316</ref>。同年4月、デモバージョンや未発表曲を集めた5作目のソロアルバム『'''スクープ'''』を発表(全米35位)。 |
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ザ・フー25周年記念ツアーを終えた[[1991年]]秋頃から、タウンゼントはコンセプトアルバム『''Psychoderelict''』の製作に取り掛かる。本作は彼が書いた物語「Ray High And The Glass Household」を下地にしており、『[[トミー (アルバム)|トミー]]』や『[[四重人格]]』同様[[ロック・オペラ]]の流れを汲む意欲作であった。アルバムは[[1993年]]6月にリリース。アルバムは曲と語りを交互に配した作りになっていて、語りの部分を抜いた音楽のみのバージョンもリリースされている。だがこの意欲作はセールス的には惨敗に終わっており、この結果に気落ちしたのか、タウンゼントはレコーディング・アーティストとしては廃業する事を宣言する<ref>[[#Ultimate|アルティミット・ガイド]]・p81</ref>。この宣言どおり、彼のソロでのスタジオアルバムは、以降[[2014年]]現在まで製作されていない。 |
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=== 1984年以降 === |
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[[1999年]]12月、タウンゼントが長年構想を温めてきた「[[ライフハウス(オペラ)|ライフハウス]]」が[[ラジオドラマ]]として発表される。ドラマは[[BBC]]ラジオ3から放送された。このドラマは[[2000年]]に6枚組みのCDボックス『''Lifehouse Chronicles''』として[[インターネット]]販売され、ラジオを聞けなかった人達の元にも届けられた。CDボックスには、ラジオドラマで放映された音源だけでなく、1970年代前半に作られたデモ・トラックも収録されている。[[2001年]]、[[1979年]]から翌年にかけて行われたプライベートコンサートの実況盤『''The Oceanic Concerts''』をリリース。共演の[[ラファエル・ラッド]]とはミハー・ババの信者同士の仲である<ref>[[#Ultimate|アルティミット・ガイド]]・p143</ref>。 |
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[[1985年]]、[[プリンス (ミュージシャン)|プリンス]]の映画『[[プリンス/パープル・レイン]]』に触発され、映画を製作することを決意する<ref name="wia_323">『フー・アイ・アム』・p.323</ref>。11月、6作目となるアルバム『'''ホワイト・シティ'''』(全米26位、全英70位)および同タイトルのビデオ作品を発表。これは、タウンゼントが少年時代によく訪れていたロンドンにあった[[移民]]が住む[[スラム]]街を舞台としたストーリー仕立ての[[コンセプト・アルバム]]で<ref name="wia_323" />、[[1986年]]より『ホワイト・シティ』の設定上にあるバンド「ディープ・エンド」の名でコンサートツアーを開催、メンバーには[[ピンク・フロイド]]の[[デヴィッド・ギルモア]]や[[サイモン・フィリップス]]も参加し、総勢17人による大編成バンドとなった<ref name="wia_326">『フー・アイ・アム』・p.326</ref>。同年8月にはこのライブの模様を収録した『''Deep End Live!''』がリリースされた(全米98位)。また1985年には自身初の短編小説集「''Horse's Neck''(邦題:四重人格{{efn|ザ・フーが1973年に発表したアルバム[[四重人格|Quadrophenia]]と同じ邦題だが、直接の関連は無い。}})」を発表している。 |
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1986年、[[詩人]]の[[テッド・ヒューズ]]の作品「アイアン・マン」([[マーベル・コミック]]の[[アイアンマン|同名作品]]とは別の物語)の[[ミュージカル]]化に着手<ref name="wia_328">『フー・アイ・アム』・p.328</ref>。製作中、1974年からザ・フーのマネージャーを務めてきたビル・カービシュリーの妻、ジャッキーから「これをザ・フーとして発表すべきだ」と進言されたが、タウンゼントがザ・フーにはそぐわない作品だとして難色を示した<ref name="wia_337">『フー・アイ・アム』・p.337</ref>。結局アルバム『'''[[アイアン・マン (ピート・タウンゼントのアルバム)|アイアン・マン]]'''』(全米58位)は[[1989年]]にタウンゼントのソロとして発表され、収録曲のうち2曲がザ・フー名義として扱われるに留まった。しかし同年には、デビュー25周年を記念してザ・フーでのコンサート・ツアーが行われた。『アイアン・マン』の舞台版はその後[[1993年]]に上演され<ref name="wia_373">『フー・アイ・アム』・p.373</ref>、[[1999年]]には「[[アイアン・ジャイアント]]」と改題されて、[[ワーナー・ブラザース]]により劇場アニメ化された<ref name="wia_403">『フー・アイ・アム』・p.403</ref>。 |
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ツアーを終えた[[1991年]]秋頃から、タウンゼントはコンセプトアルバム『'''サイコデリリクト'''』の製作に取り掛かる<ref name="wia_354">『フー・アイ・アム』・p.354</ref>。本作は彼が書いた物語「''Ray High And The Glass Household''」を下地にしており、『[[トミー (アルバム)|トミー]]』や『[[四重人格]]』同様[[ロック・オペラ]]の流れを汲む意欲作であった。アルバムは1993年6月にリリース。アルバムは曲と語りを交互に配した作りになっていて、語りの部分を抜いた音楽のみのバージョンもリリースされている。だがこの意欲作はセールス的には惨敗に終わっており(全米118位)、この結果に気落ちしたのか、タウンゼントはレコーディング・アーティストとしては廃業する事を宣言する<ref name="ug_81">『アルティミット・ガイド』・p.81</ref>。この宣言どおり、彼のソロでのスタジオアルバムは、以降[[2022年]]現在まで製作されていない。『サイコデリリクト』に伴うツアーも敢行され、[[ニューヨーク]]・[[ブルックリン区|ブルックリン]]での公演が[[2003年]]にライブアルバム『''Pete Townshend Live BAM 1993''』として発表され、[[2006年]]には[[DVD]]としてもリリースされている。 |
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[[1996年]]より[[自叙伝]]の執筆を開始<ref name="wia_388">『フー・アイ・アム』・p.388</ref>。[[2012年]]にようやく完成し、『'''フー・アイ・アム'''』と題されて出版された。 |
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1990年代後半からはザ・フーとしての活動が主軸になるが、1999年12月、タウンゼントが長年構想を温めてきたロックオペラ『ライフハウス』が[[ラジオドラマ]]として発表される。ドラマは[[BBC]]ラジオ3から放送された。このドラマは[[2000年]]に6枚組みのCDボックス『''Lifehouse Chronicles''』として[[インターネット]]販売され、ラジオを聞けなかった人達の元にも届けられた。CDボックスには、ラジオドラマで放映された音源だけでなく、1970年代前半に作られたデモ・トラックも収録されている。[[2001年]]、[[1979年]]から翌年にかけて行われたプライベートコンサートの実況盤『''The Oceanic Concerts''』をリリース。共演の[[ラファエル・ラッド]]とはミハー・ババの信者同士の仲である<ref name="ug_143">『アルティミット・ガイド』・p143</ref>。 |
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2003年1月、[[児童ポルノ]]サイトにアクセスした容疑で一時身柄を拘束され、家宅捜索を受ける。5月には不起訴処分となる。 |
2003年1月、[[児童ポルノ]]サイトにアクセスした容疑で一時身柄を拘束され、家宅捜索を受ける。5月には不起訴処分となる。 |
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[[2004年]]、ザ・フーとして初来日を果たす。横浜と大阪の2会場で開催されたロックフェス「[[POCARI SWEAT BLUE WAVE THE ROCK ODYSSEY 2004|The Rock Odyssey 2004]]」に出演。なお、この時のライブで、ザ・フーの次に登場した[[エアロスミス]]の[[ジョー・ペリー]]が、MCでザ・フーから受けた影響と同じステージに立てる喜びを述べた<ref name |
[[2004年]]、ザ・フーとして初来日を果たす。[[横浜市|横浜]]と[[大阪]]の2会場で開催されたロックフェス「[[POCARI SWEAT BLUE WAVE THE ROCK ODYSSEY 2004|The Rock Odyssey 2004]]」に出演。なお、この時のライブで、ザ・フーの次に登場した[[エアロスミス]]の[[ジョー・ペリー]]が、MCでザ・フーから受けた影響と同じステージに立てる喜びを述べた<ref name="player">『Player』(株式会社プレイヤー・コーポレーション)2004年10月号</ref>。 |
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[[2008年]]より、新たなるロックオペラ『フロス』の制作を進めている。タウンゼントによればもう一つの『四重人格』となる作品であり、『ライフハウス』と同じくらい困難な作品になるという<ref name="wia_432">『フー・アイ・アム』・p.432</ref>{{Efn|2023年現在では未発表である。}}。 |
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[[2012年]]、400ページ超にも及ぶ自叙伝「''Who I Am''」を出版した。 |
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[[2015年]]、『四重人格』の[[ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団]]とロンドン・オリアーナ合唱団によるオーケストラ版『''Pete Townshend's Classic Quadrophenia''』をリリース。アルバムは全英チャートの32位にランクインし、クラシック・チャートで1位になるには十分なセールスを上げたが、オリジナルがロック作品であるとして、クラシック・チャートから除外された<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000116676 ピート・タウンゼント、クラシック・チャート1位を逃す | Pete Townshend | BARKS音楽ニュース]</ref>。同年7月5日、[[ロイヤル・アルバート・ホール]]にてオーケストラ版『四重人格』が演奏された。さらに2017年9月には、アメリカ[[マサチューセッツ州]]レノックスの[[タングルウッド音楽センター]]、[[ニューヨーク]]の[[メトロポリタン歌劇場]]、[[ロサンゼルス]]の[[:en:Greek_Theatre_(Los_Angeles)|グリーク劇場]]でコンサートが開かれた<ref>{{Cite web |url=https://www.thewho.com/pete-townshends-classic-quadrophenia-goes-stateside/ |title=thewho.com |access-date=2023年9月19日}}</ref>。 |
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==音楽スタイル== |
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===作曲家として=== |
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ザ・フーの楽曲の95%以上はタウンゼントによって作曲されている<ref name ="b"/>。タウンゼントはただ作曲するだけでなく、ダビング録音を駆使したマルチ録音によって、ギター、[[ベース (弦楽器)|ベース]]、[[ドラムセット|ドラム]]、[[ボーカル]]の基本アレンジまでもこなした。このため、ザ・フーではタウンゼントが作ったデモテープをレコーディング前にメンバーに渡し、曲を覚えてもらってからスタジオに入るという習慣が根付いていた。タウンゼンドのデモテープの完成度の高さは、『Scoop』等の未発表曲集で明らかとなっている<ref name ="b"/>。鍵盤楽器の演奏も出来、ザ・フーのピアノ、キーボード類は一部を除きほとんどがタウンゼントによるものである。 |
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[[2019年]]、自身初の長編小説「''The Age Of Anxiety''」を発表<ref>[https://nme-jp.com/news/69619/ ザ・フーのピート・タウンゼント、初となる長編小説を刊行することを発表 | NME Japan] 2020年11月3日閲覧。</ref>。 |
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===ギタリストとして=== |
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作曲家としての面ばかりが強調され、ギタリストとして語られることが余りないが、これはタウンゼントが同年代の[[ジミ・ヘンドリックス]]やエリック・クラプトンのようなテクニカルな速弾きをほとんど行ってこなかった事が要因にある<ref name ="b"/>。彼は自身のギタープレイについて「俺は音楽界にいるほとんどのギタリストと同じぐらいギターを上手く弾けるが、俺の技術は派手なコードをでかい音で鳴らす事だけに特化されている」と[[1966年]]に語っている<ref name ="e">[[#Neill,Kent|ニール、ケント]]・p123</ref>。また、ギタリストでありながら自身のギター・ソロを大きくフィーチャーした曲を書く事はあまりなく、ギター・ソロを一切含まない曲も珍しくない。本人も「ドラムやベースがリード楽器になり、ギターがリズム楽器と、立場が逆転していた事がザ・フーのユニークさだった」と語っている<ref name ="b"/>。また、スタジオ録音ではあまり多用しないが、ステージでは頻繁に[[フィードバック奏法]]を試みている。本人曰く「誰が何と言おうと最初にフィードバック奏法をやったのは俺だと思ってるが、その肩書が[[ビートルズ]]や[[ヤードバーズ]]に与えられるのにはがっかりさせられた」<ref name ="e"/>。 |
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== 音楽スタイル == |
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===コンサートパフォーマンス=== |
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[[File:Pete Townshend Windmill-(jha).jpg|thumb|200px|ウィンドミル奏法を披露するピート・タウンゼント(1976年)]] |
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タウンゼントの激しいステージ・アクションは視覚の上でも観客を楽しませた。タウンゼントのギター破壊はザ・フーのコンサートでの大きな目玉だった。これは、天井の低い場所でのライブでギターが偶然天井に当たって壊れた事が観客にはパフォーマンスだと受け取られた事が始まりだった<ref>[[#Neill,Kent|ニール、ケント]]・p56</ref>。タウンゼントに影響され、ムーンもドラムを破壊するようになった。パフォーマンスではなく怒りに任せてギターを壊すことも少なくなかったようである<ref>[[#Neill,Kent|ニール、ケント]]・p266</ref>。近年ではギター破壊をあまり行っていないが、2004年の初来日公演では横浜で久々にギター破壊を行った。だがこのパフォーマンスで腰を痛めてしまい、次の大阪ではギター破壊は行わなかった<ref name ="d"/>。 |
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=== 作曲家として === |
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ザ・フーの楽曲の95%以上はタウンゼントによって作曲されている<ref name="ug_139" />。タウンゼントはただ作曲するだけでなく、ダビング録音を駆使した[[マルチ録音]]によって、ギター、[[ベース (弦楽器)|ベース]]、[[ドラムセット|ドラム]]、[[ボーカル]]の基本アレンジまでもこなした。このため、ザ・フーではタウンゼントが作ったデモテープをレコーディング前にメンバーに渡し、曲を覚えてもらってからスタジオに入るという習慣が根付いていた。タウンゼントのデモテープの完成度の高さは、『スクープ』等の未発表曲集で明らかとなっている<ref name="ug_139" />。鍵盤楽器の演奏も出来、ザ・フーのピアノ、キーボード類は一部を除きほとんどがタウンゼントによるものである。 |
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アマチュア時代のタウンゼントはそれほど作曲に積極的ではなかった。彼が始めて作曲をしたのは1963年、「'''イット・ワズ・ユー'''」という曲で、録音もされている<ref name="wia_53-54">『フー・アイ・アム』・pp.53-54</ref>。彼の作曲家としての才能は、マネージャーのキット・ランバートによる影響が大きい。ランバートは曲作りにおける助言をし、タウンゼントを励ました。タウンゼントも自伝に「キットは私の中のアーティストとしての部分を操るエキスパートだった。彼は私を一人前の作曲家として扱ってくれた」と記している<ref name="wia_75">『フー・アイ・アム』・p.75</ref>。また、ランバートが教えてくれた[[バロック音楽|バロック時代]]の作曲家・[[ヘンリー・パーセル]]には「作曲家としての私の人生を変えた」と言うほどの影響を受け、とくにパーセルが多用する[[和音|サスペンション・コード]]には深く感心させられたという。これはザ・フーの楽曲(例:「キッズ・アー・オールライト」「[[アイム・ア・ボーイ]]」)にもその影響が現れている<ref name="wia_76">『フー・アイ・アム』・p.76</ref>。 |
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右腕を伸ばし大きく回転させながら弾く'''ウインドミル奏法'''は、タウンゼントが見た[[ローリング・ストーンズ]]のステージで、[[キース・リチャーズ]]がウォーミングアップのために行った腕回しをパフォーマンスだと勘違いして真似した事がきっかけである<ref>[[#Neill,Kent|ニール、ケント]]・42</ref>。 |
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=== ギタリストとして === |
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また、長いMCを行う事でも有名である。2001年にリリースされた『[[ライヴ・アット・リーズ|ライブ・アット・リーズ・デラックス・エディション]]』では、タウンゼンドのMCがノーカットで収録された。 |
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作曲家としての面ばかりが強調され、ギタリストとして語られることが余りないが、これはタウンゼントが同年代の[[ジミ・ヘンドリックス]]やエリック・クラプトンのようなテクニカルな速弾きをほとんど行ってこなかったことが要因にある<ref name="ug_139" />。彼は自身のギタープレイについて「俺は音楽界にいるほとんどのギタリストと同じぐらいギターを上手く弾けるが、俺の技術は派手なコードをでかい音で鳴らす事だけに特化されている」と[[1966年]]に語っている<ref name="aaa_123">『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.123</ref>。タウンゼントはアマチュア時代に、フィンガー・ピッキングで開放弦を鳴らしつつ、リードギターとリズムギターをミックスさせるという手法を編み出し<ref name="wia_51">『フー・アイ・アム』・p.51</ref>、1本のギターでも十分な音数と音の多彩さを生み出した。1989年以降は難聴が悪化したこともあり、ステージではサポートギタリストを起用している<ref name="ug_55">『アルティミット・ガイド』・p.55</ref>。 |
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ギタリストでありながら自身のギター・ソロを大きくフィーチャーした曲を書く事はあまりなく、ギター・ソロを一切含まない曲も珍しくない。本人も「ドラムやベースがリード楽器になり、ギターがリズム楽器と、立場が逆転していた事がザ・フーのユニークさだった」と語っている<ref name="ug_139" />。また、スタジオ録音ではあまり多用しないが、ステージでは頻繁に[[フィードバック奏法]]を試みている。タウンゼントは自分こそがフィードバック奏法のオリジネーターであると自負しているようで、「その肩書が[[ビートルズ]]や[[ヤードバーズ]]に与えられるのにはがっかりさせられた」ともコメントしている<ref name="aaa_123" />。 |
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==人物== |
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少年時代は、極度に人見知りする自閉的な性格であったという<ref>[[#Ultimate|アルティミット・ガイド]]・p138</ref>。また自身の大きな鼻を[[コンプレックス]]に感じており、「このでかい鼻が俺がいろんな事をやる原動力になっている」とも語っている<ref name ="a"/>。イーリング・アート・カレッジに入った頃から内向的な性格を改めるようになり、この頃が人間的にも創造性の面でも大きく成長した時期だと本人は語っている<ref>[[#Neill,Kent|ニール、ケント]]・39</ref>。 |
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=== ステージパフォーマンス === |
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インタビューなどで見せる理知的で紳士的な態度とは裏腹に激高しやすい性格で、ムーン同様に騒ぎを起こす事もしばしばだった。コンサートを中止させようとした警官を暴行する<ref>[[#Neill,Kent|ニール、ケント]]・194</ref>、音響スタッフに怒りコンサートを中断する<ref name ="f">[[#Neill,Kent|ニール、ケント]]・266</ref>、テレビ番組でムーンと一緒になって悪ふざけを起こし番組を滅茶苦茶にする<ref>[[#Neill,Kent|ニール、ケント]]・256</ref>、「[[トップ・オブ・ザ・ポップス]]」出演時にギターを破壊した後、プロデューサーに食って掛かった上[[ファックサイン|中指をつき立て]]、[[BBC]]から出入り禁止を受ける<ref>[[#Neill,Kent|ニール、ケント]]・265</ref>、などのトラブルを起こしている。長年のパートナーであるダルトリーとの仲も常に良好だったとは言えず、ザ・フーのリーダーの座をタウンゼントが彼から奪ってしまった事で確執もあった<ref>[[#Ultimate|アルティミット・ガイド]]・p147</ref>。1973年には互いへの不満が頂点に達し、タウンゼントがギターでダルトリーを殴るという事件も起きている(直後にダルトリーからアッパーカットを見舞われ、気絶した)<ref name ="f"/>。1975年にはメディアを通じて互いの悪口を言い合うこともあった<ref>[[#Neill,Kent|ニール、ケント]]・286</ref>。近年ではこのようなわだかまりは解消されたようである<ref>[[#Ultimate|アルティミット・ガイド]]・p148</ref>。 |
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タウンゼントの激しいステージ・アクションは視覚の上でも観客を楽しませた。ステージの上で派手な動きをする理由について、本人は「ギターを弾いている自分の姿を生きるか死ぬかの瀬戸際のようにみせたかったから」と答えているが、一方で後述の通り彼は自分の顔に[[コンプレックス]]を持っており、「顔より体の方に注目して欲しい」という意味合いもあるという<ref name="aaa_55">『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.55</ref>。 |
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タウンゼントのギター破壊はザ・フーのコンサートでの大きな目玉だった。これは、天井の低い場所でのライブでギターが偶然天井に当たって壊れた事が観客にはパフォーマンスだと受け取られた事が始まりだった<ref name="aaa_56">『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.56</ref>。タウンゼントに影響され、ムーンもドラムを破壊するようになった。パフォーマンスではなく怒りに任せてギターを壊すことも少なくなかったようである。壊したギターは、時には修復して再度使用することもあったという<ref name="wia_82">『フー・アイ・アム』・p.82</ref>。アコースティックギターやウクレレを破壊することもあったが、ボディが木製のため大抵の場合は粉々になった。近年ではギター破壊をあまり行っていないが、2004年の初来日公演では初日の横浜公演で久々にギター破壊を行った。だがこのパフォーマンスで腰を痛めてしまい、次の大阪公演ではギター破壊は行わなかった<ref name="player" />。 |
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長年にわたり重度の[[難聴]]を抱えている。これは、[[1967年]]に出演したTV番組「スマザーズ・ブラザーズ・ショー」で、演奏後に[[バスドラム]]に仕込んであった爆薬を爆破させた時に、爆風をまともに浴びた事が遠因になっている<ref>[[#Neill,Kent|ニール、ケント]]・155</ref>。1970年代後半の頃には難聴は相当進んでいたが、その後も大音量でレコーディングやライヴを続けてきたためにさらに悪化し、2011年には[[補聴器]]を使用しなければならないほどになった<ref>[http://www.dailymail.co.uk/tvshowbiz/article-2017914 Talking about Pete's degeneration: Townshend now relies on hearing aids]</ref>。 |
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右腕を伸ばし大きく回転させながら弾く'''ウインドミル奏法'''は、タウンゼントが見た[[ローリング・ストーンズ]]のステージで、[[キース・リチャーズ]]がウォーミングアップのために行った腕回しをパフォーマンスだと勘違いして真似した事がきっかけである<ref name="aaa_42">『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.42</ref>。長いMCを行う事でも有名であり、2001年にリリースされた『[[ライヴ・アット・リーズ|ライブ・アット・リーズ・デラックス・エディション]]』では、タウンゼンドのMCがノーカットで収録された。 |
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私生活では、[[1968年]]5月にカレン・アストリーと結婚<ref>[[#Neill,Kent|ニール、ケント]]・p163</ref>。二人の子供に恵まれるも[[1994年]]より別居、[[2009年]]に正式に離婚している<ref>[http://myfamilylaw.com/celebrityblog/2009/04/07/pete-townshend-divorce/ Pete Townshend to Divorce 15 Years After Separation]</ref>。カレンの弟、[[ジョン・アストリー]]は、1990年代後半からザ・フーの全カタログのリマスターを担当している<ref>[[#Ultimate|アルティミット・ガイド]]・p94</ref>。 |
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== 人物 == |
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少年時代は、極度に[[人見知り]]する[[自閉的]]な性格であったという<ref name="ug_138">『アルティミット・ガイド』・p.138</ref>。また自身の大きな鼻をコンプレックスに感じており、「このでかい鼻が俺がいろんな事をやる原動力になっている」とも語っている<ref name="aaa_35" />。なお、ダルトリーのタウンゼントに対する第一印象は「'''棒に鼻がくっついた奴'''」だったという<ref name="aaa_37" />。イーリング・アート・カレッジに入った頃から内向的な性格を改めるようになり、この頃が人間的にも創造性の面でも大きく成長した時期だと本人は語っている<ref name="aaa_39">『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.39</ref>。 |
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メハー・ババの教えは、タウンゼントの作品に大きな影響を与えており、「ババに会ったことで俺自身変わったし、バンド全体も変わった」と認めている。タウンゼントがババを知ったのは1967年、後にアルバム『トミー』のアートワークを手がける事になるマイク・マキナニーからババの事を教えたもらった事がきっかけである。タウンゼントは「ババの教えは、俺の考えにぴったりだった。当時頼るものがないと思っていたところにババの教えが俺の下に降りてきたんだ」と語っている。ババの教義を受けてからは、それまでのドラッグ漬けの生活をやめ(後に再び手を出すようになるが)、ポップソングの限界を破る意欲的な作品を作りたいと欲するようになったという。後の傑作『トミー』(同作には「アバター」としてババの名が刻まれている)や『フーズ・ネクスト』は、ババの教えなしには生まれなかったとタウンゼントは認めている。他のメンバーは、タウンゼントのババへの帰依については寛大に受け止めていたようである<ref>[[#Neill,Kent|ニール、ケント]]・pp=133-134</ref>。 |
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インタビューなどで見せる理知的で紳士的な態度とは裏腹に激高しやすい性格で、ムーン同様に騒ぎを起こす事もしばしばだった。会場の近隣で火事が起きたため、コンサートを中止させようとステージに上がった警官を暴行する<ref name="aaa_194">『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.194</ref>、ミスをした音響スタッフに怒り、スタッフを引きずり出してコンサートを中断する<ref name="aaa_266">『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.266</ref>、テレビ番組でムーンと一緒になって悪ふざけを起こし番組を滅茶苦茶にする<ref name="aaa_256">『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.256</ref>、「[[トップ・オブ・ザ・ポップス]]」出演時にギターを破壊した後、プロデューサーに食って掛かった上[[ファックサイン|中指をつき立て]]、[[BBC]]から出入り禁止を受ける<ref name="aaa_265">『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.265</ref>、などのトラブルを起こしている。本人も癇癪を起こしやすい性格であることは自覚しており、自伝にも「相手がどれだけ親しい親友でも、ふとしたことがきっかけで喧嘩をしてしまう」と綴っている<ref name="wia_257">『フー・アイ・アム』・p.257</ref>。精神的に不安定だったため、1982年から1986年にかけて[[催眠療法]]を受けていたこともある<ref name="wia_333">『フー・アイ・アム』・p.333</ref>。 |
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[[2015年]]現在もタウンゼントはババに帰依し続けており、彼の[[ホームページ]]にはババに関するコーナーも設けられている。 |
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長年のパートナーであるダルトリーとの仲も紆余曲折だった。アマチュア時代にバンドのリーダーだったダルトリーに対し、タウンゼントがバンドの方向性について意見をするようになったことで二人の間に緊張感が生まれたという<ref name="wia_54">『フー・アイ・アム』・p.54</ref>。プロ・デビュー後にリーダーの座をダルトリーから奪ってしまったことで、緊張感はさらに増大することになる<ref name="ug_147">『アルティミット・ガイド』・p.147</ref>。1973年には互いへの不満が頂点に達し、タウンゼントがギターでダルトリーを殴るという事件も起きている(直後にダルトリーからアッパーカットを見舞われ、気絶した)<ref name="aaa_266" />。1975年にはメディアを通じて互いの悪口を言い合うこともあった<ref name="aaa_286">『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.286</ref>。しかし、緊張感をはらみながらも基本的には二人とも互いに敬意を抱いており<ref name="wia_54" />、ダルトリーも「ピート以上にすごい曲を書ける奴はほかにはいない」<ref>DVD『[[キッズ・アー・オールライト]]』(2004年)収録のダルトリー最新(当時)インタビューより。</ref>と語るなど、信頼度の大きさを窺わせている。後述の児童ポルノに関わる嫌疑をかけられた時もダルトリーは一貫してタウンゼントを擁護した。タウンゼントはダルトリーに対し感謝の念を表している<ref>[http://www.express.co.uk/dayandnight/81239/Townshend-pays-tribute Townshend pays tribute]</ref>。なお、タウンゼントは17歳の頃、わずかな期間だがダルトリーの妹のキャロルと交際していたという<ref name="wia_48">『フー・アイ・アム』・p.48</ref>。 |
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===児童ポルノ事件=== |
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2003年1月11日、[[デイリー・メイル]]と[[ザ・サン]]両紙が「Landslide社(児童ポルノを掲載していたサイトで警察に摘発された)で[[クレジットカード]]を使った顧客リストの中に英国在住の大物ロックスターが含まれている」と掲載。これを見たタウンゼントは「それは自分だ」と自ら名乗りあげた。13日、本人同意の下、警察がタウンゼントの自宅とオフィスを捜索し、タウンゼントは身柄を拘束された。この事件はメディアに大きく採り上げられ、[[日本]]でも大きく報道された。だが、日本のメディアが報じたような「[[逮捕]]」はされておらず、身柄を8時間拘束されただけで即日釈放されており、[[逮捕状]]も請求されていない<ref>[http://www.whosgeneration.info/episodes/petearrest/petearrest.html Arrest of Pete Townshend]</ref>。5月、タウンゼンドは[[不起訴]]処分となったが、警察から警告を受け、5年間は彼の写真や[[指紋]]、[[DNA]]サンプルが英国内の性犯罪者リストに登録される事になった<ref>[http://www.barks.jp/news/?id=52318850&v=f ピート・タウンゼント、児童ポルノで不起訴となるも警察から警告、性犯罪者リストに]</ref>。 |
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長年にわたり重度の[[難聴]]を抱えている。これは、1967年に出演したTV番組「スマザーズ・ブラザーズ・ショー」で、ムーンが演奏後に[[バスドラム]]に仕込んであった爆薬を爆破させた時に、爆風をまともに浴びたことが遠因になっている<ref name="aaa_155">『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.155</ref>。1970年代後半の頃には難聴は相当進んでいたが、その後も大音量でレコーディングやライヴを続けてきたためにさらに悪化し、2011年には[[補聴器]]を使用しなければならないほどになった<ref>[http://www.dailymail.co.uk/tvshowbiz/article-2017914 Talking about Pete's degeneration: Townshend now relies on hearing aids]</ref>。 |
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この事件を受け、タウンゼントの母や相棒のダルトリー、また友人の[[ブライアン・メイ]]が「ピートは[[小児性愛者]]ではない」とタウンゼントを擁護<ref>[http://www.barks.jp/news/?id=52307573&v=f ザ・フーのロジャー・ダルトリー、“ピートは小児性愛者ではない”]</ref><ref>[http://www.barks.jp/news/?id=52307576&v=f ピート・タウンゼントの母親が彼を弁護、虐待を受けていたのは知らなかったと語る]</ref><ref>[http://www.barks.jp/news/?id=52307899&v=f クイーンのブライアン・メイ、ピート・タウンゼントのメディア報道に不快感]</ref>。特にダルトリーは「これは[[魔女狩り]]だ」と英国警察に対する怒りを露にした<ref>[http://www.barks.jp/news/?id=52310176&v=f ザ・フーのロジャー・ダルトリー、児童ポルノ捜査は“魔女狩り”と英国政府を非難]</ref>。タウンゼントは事件に関し、自身は決して小児性愛者でない事を主張した上で、「あのサイトにアクセスしたのは、インターネットではショッキングな映像が大人だけでなく子供でも簡単に手に入ることを懸念しており、'95年から始めているインターネットの児童ポルノがもたらすダメージ、特に児童虐待に反対するキャンペーンの調査の一環だった」と説明、さらに自身も少年時代に性的虐待を受けた事があると告白している<ref>[http://www.barks.jp/news/?id=52307223&v=f ピート・タウンゼント、小児性愛を否定。児童ポルノは自伝の下調べが目的と語る]</ref>。また、この時に一貫して自分の味方でいてくれた相棒のダルトリーに対し、感謝の念を表している<ref>[http://www.express.co.uk/dayandnight/81239/Townshend-pays-tribute Townshend pays tribute]</ref>。 |
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文筆活動も積極的に取り組んでおり、小説「四重人格」を出版した他、1970年には音楽誌「メロディー・メイカー」で[[コラム]]を執筆していたこともある<ref name="wia_176">『フー・アイ・アム』・p.176</ref>。また早いうちから[[インターネット]]を活用し、[[1998年]]には自分の[[ホームページ]]を開設し、[[ブログ]]を含めたタウンゼント個人のサイトと作品の通信/ダウンロード販売を行うオンラインショップの二つのサイトを創設した<ref name="wia_401">『フー・アイ・アム』・p.401</ref>。タウンゼントはインターネットを一種の劇場のようなものととらえ、リハーサルやワークショップ、演劇やインタビューなど場に使い、これまでのキャリア活動を全て一つにまとめようと考えていたという<ref name="wia_392">『フー・アイ・アム』・p.392</ref>{{efn|[[2017年]]現在、これらのサイトは閉鎖されており、ザ・フーの公式サイトに全て統合されている。}}。 |
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=== 私生活 === |
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[[1968年]]5月にカレン・アストレイと結婚<ref name="aaa_163">『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.163</ref>。1969年に長女のエマが<ref name="wia_146">『フー・アイ・アム』・p.146</ref>、1971年には次女のミンタが生まれる<ref name="wia_193">『フー・アイ・アム』・p.193</ref>。カレンは仕事のストレスを抱えるタウンゼントを常に優しく励まし、献身的に支えたが<ref name="wia_182">『フー・アイ・アム』・p.182</ref>、70年代後半にもなると夫婦関係が冷めはじめ<ref name="wia_271">『フー・アイ・アム』・p.271</ref>、さらにタウンゼントの[[不貞]]や酒とドラッグへの沈溺から1981年には別居にいたる<ref name="wia_295">『フー・アイ・アム』・p.295</ref>。その後再びよりを戻し、1989年には待望の長男、ジョセフが生まれた<ref name="wia_350">『フー・アイ・アム』・p.350</ref>。だが二人の仲は完全には戻らず、1994年には夫婦関係は完全に破綻し<ref name="wia_375">『フー・アイ・アム』・p.375</ref>、二人は[[2009年]]に正式に離婚した<ref>[http://myfamilylaw.com/celebrityblog/2009/04/07/pete-townshend-divorce/ Pete Townshend to Divorce 15 Years After Separation]</ref>。彼は1996年に出会ったミュージシャンの{{仮リンク|レイチェル・フラー|en|Rachel Fuller}}と交際を始め<ref name="wia_390">『フー・アイ・アム』・p.390</ref>、長い同棲期間を経て[[2016年]]12月に入籍した<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000147130 ピート・タウンゼント、結婚 | BARKS]</ref>。 |
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なお、前妻のカレンの弟の{{仮リンク|ジョン・アストレイ|en|Jon Astley}}は音楽プロデューサーで、1990年代後半からザ・フーの全カタログの[[リマスター]]を担当している<ref name="ug_94">『アルティミット・ガイド』・p.94</ref>。二人の父親は作曲家{{仮リンク|エドウィン・アストレイ|en|Edwin Astley}}、妹は[[シンガーソングライター|シンガー・ソングライター]]の[[ヴァージニア・アストレイ]]である。 |
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タウンゼントは自身が[[バイセクシャル]]ではないかと考えているようである。ある友人の部屋に泊まった時、目覚めるとその友人がタウンゼントの体を撫で回していたが、[[セックス]]までには至らずとも完全には拒まなかったという<ref name="wia_121">『フー・アイ・アム』・p.121</ref>。また、[[ミック・ジャガー]]に性的な魅力を感じているらしく、「ミックは私が真剣に[[ファック]]したいと思った男だ」とまで語っている<ref name="wia_80">『フー・アイ・アム』・p.80</ref>。しかし、結婚後も複数の女性と関係を持ったり、自身も「バイセクシャルであることは恥ずかしいことではないが、私はホモ・エロティックな経験をすんなりとは受け入れられなかった」とも語っていることから<ref name="wia_121" />、基本的には異性愛者の側面の方が強いと見られる。 |
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=== 宗教 === |
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[[メハー・ババ]]の教えは、タウンゼントの作品に大きな影響を与えており、「ババに会ったことで俺自身変わったし、バンド全体も変わった」と認めている。タウンゼントがババを知ったのは1967年、デザイナーでアルバム『トミー』のアートワークを手がけたマイク・マキナニーからババについての本を渡されたことがきっかけである。タウンゼントはその本を数行読んだだけで、ババと自分の宇宙観が一致していると思い、すぐさま信者になったという<ref name="wia_99">『フー・アイ・アム』・p.99</ref>。「ババの教えは、俺の考えにぴったりだった。当時頼るものがないと思っていたところにババの教えが俺の下に降りてきたんだ」とも語っている<ref name="aaa_133">『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.133</ref>。 |
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ババの教えはタウンゼントの作品はもちろん、生活の隅々にも影響を及ぼし、ババが[[マリファナ]]を嫌ってるという話を聞けばきっぱりと止めた<ref name="wia_130">『フー・アイ・アム』・p.130</ref>。ザ・フーの代表作の一つの『トミー』も、ババの教えが相当な影響を及ぼしており、アルバムには「[[アバター]]」としてババの名が刻まれている。ババが死去したのはその『トミー』を制作していた1969年1月31日のことで、タウンゼントは生前のババに会うことはできなかった<ref name="wia_142">『フー・アイ・アム』・p.142</ref>。ババの死後も信者の間では集会が頻繁に行われており、タウンゼントも可能な限り出席した。タウンゼントは今日までババへの帰依を続けており、彼のホームページにはババに関するコーナーも設けられていた(2017年現在は閉鎖)。他のメンバーは、タウンゼントの信仰に付いては寛大に受け止めていたようだが<ref name="aaa_133" />、マネージャーのキット・ランバートは胡散臭く感じていたという<ref name="wia_130">『フー・アイ・アム』・p.130</ref>。 |
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=== 慈善事業 === |
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相棒のダルトリー同様、チャリティ活動にも積極的に取り組んでいる。彼が楽曲を提供したユニヴァーサル・スピリチュアル・リーグのチャリティ・アルバム3作の収益は、いずれもババが[[1959年]]に設立した'''アバター・メハー・ババ・トラスト'''に渡り、病院、学校、薬局のために提供された。1976年には、タウンゼント自身もババの信者が宿泊できるロッジと録音スタジオを兼ねた施設'''メハー・ババ・オーシャニック・センター'''を設立した<ref name="wia_252">『フー・アイ・アム』・p.252</ref>。 |
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[[児童福祉]]にも協力しており、1992年には[[サンディエゴ]]のラホーヤ劇場にて舞台版『トミー』をプロデュースし、収益を[[自閉症]]、[[知的障害]]の児童のための福祉事業財団に寄付。1995年には[[ポール・サイモン]]主催の子供用[[救急車]]と救急隊の義援金集めのコンサートに出演している<ref name="wia_383">『フー・アイ・アム』・p.383</ref>。1997年からは虐待を受けた子供を救済する慈善団体メリーヴィル・アカデミーに協力、2002年までにこの団体のためのチャリティ・ライブを行い、1999年にはライブアルバム『Pete Townshend Live : A Benefit for Maryville Academy』を発表、収益を同団体に寄付している<ref name="ug_143" />。ダルトリーが名誉顧問となっている小児[[癌]]の救済団体'''ティーンエイジ・キャンサー・トラスト'''にも協力し、ザ・フーとしてこの団体のためのチャリティーライブに参加している。2011年にはダルトリーと共に[[ロナルド・レーガン]][[ULCA]]医療センターに協力し、若年層の癌患者を助けるためのプログラム“''UCLA Daltrey / Townshend Teen and Young Adult Cancer Program''”を開設、11月5日にはこのためのチャリティライブおよび[[オークション]]が行われ、[[ロバート・プラント]]、[[フー・ファイターズ]]の[[デイブ・グロール]]も出演した<ref>[https://www.uclahealth.org/giving/ucla-daltrey-townshend-teen-cancer-program UCLA Daltrey/Townshend Teen Cancer Program - UCLA Health | Giving - Los Angeles, CA]</ref>。 |
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この他、[[アムネスティ・インターナショナル]]を支援するチャリティ・コンサートに、1979年と1986年の2度出演したことがある<ref name="wia_272">『フー・アイ・アム』・p.272</ref><ref name="wia_329">『フー・アイ・アム』・p.329</ref>。 |
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=== 児童ポルノ事件 === |
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2003年1月11日、[[デイリー・メイル]]と[[ザ・サン]]両紙が「ランドスライド社(児童ポルノを掲載していたサイトで警察に摘発された)で[[クレジットカード]]を使った顧客リストの中に英国在住の大物[[ロックスター]]が含まれている」と掲載、これを見たタウンゼントは「それは自分だ」と自ら名乗りあげた<ref name="wia_421">『フー・アイ・アム』・p.421</ref>。13日、本人同意の下、警察がタウンゼントの自宅とオフィスを捜索、[[パソコン]]やテープレコーダーなどを押収し、タウンゼントは身柄を拘束され取り調べを受けた<ref name="wia_423">『フー・アイ・アム』・p.423</ref>。[[保釈金]]を払って即日保釈されたが<ref name="wia_424">『フー・アイ・アム』・p.424</ref>、この事件はメディアに大きく取り上げられ、さほど知名度が高くない[[日本]]でも大きく報道された。報道を受け、タウンゼントの母や相棒のダルトリー、また友人の[[ブライアン・メイ]]が「ピートは[[小児性愛者]]ではない」とタウンゼントを擁護<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=52307573&v=f ザ・フーのロジャー・ダルトリー、“ピートは小児性愛者ではない”]</ref><ref>[https://www.barks.jp/news/?id=52307576&v=f ピート・タウンゼントの母親が彼を弁護、虐待を受けていたのは知らなかったと語る]</ref><ref>[https://www.barks.jp/news/?id=52307899&v=f クイーンのブライアン・メイ、ピート・タウンゼントのメディア報道に不快感]</ref>。特にダルトリーは「これは[[魔女狩り]]だ」と英国警察に対する怒りを露にした<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=52310176&v=f ザ・フーのロジャー・ダルトリー、児童ポルノ捜査は“魔女狩り”と英国政府を非難]</ref>。またミック・ジャガーや[[デヴィッド・ボウイ]]ら友人たちからタウンゼントを気遣う電話が来たり、ファンからたくさんの手紙が届いたという<ref name="wia_423" />。 |
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4ヶ月に及ぶ捜査の結果、問題となる物は一つも見つからなかったが<ref name="wia_425">『フー・アイ・アム』・p.425</ref>、無罪放免とはならず、警察から訓告処分を受け入れ一定期間要注意人物リストに名前を載せられるか、無罪を主張し法廷で争うか、と選択を迫られた。精神的に疲労困憊していたタウンゼントは法廷闘争よりも訓告処分を受け入れることを選択し<ref name="wia_426">『フー・アイ・アム』・p.426</ref>、5月7日、タウンゼンドは[[不起訴]]処分となる代わりに、5年間は彼の写真や[[指紋]]、[[DNA]]サンプルが英国内の性犯罪者リストに登録される事になった<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=52318850&v=f ピート・タウンゼント、児童ポルノで不起訴となるも警察から警告、性犯罪者リストに]</ref>。この一件は彼が性犯罪者リストから抹消された後も尾を引き、2010年、ザ・フーが[[マイアミ]]で行われる[[スーパーボウル]]でのハーフタイム・ショーへ出演することが決まると、地元の児童保護団体がタウンゼントを入国させないよう[[入国管理局]]に抗議した<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000057821 ザ・フー、ピート・タウンゼントの渡米をめぐり、親に警告書が配布される | The Who | BARKS音楽ニュース]</ref>(実際に影響はなく、ハーフタイムショーへの出演は滞りなく行われている)。 |
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タウンゼントは事件に関し、自身は決して小児性愛者でない事を主張した上で、「あのサイトにアクセスしたのは、インターネットではショッキングな映像が大人だけでなく子供でも簡単に手に入ることを懸念しており、'95年から始めているインターネットの児童ポルノがもたらすダメージ、特に児童虐待に反対するキャンペーンの調査の一環だった」と説明した<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=52307223&v=f ピート・タウンゼント、小児性愛を否定。児童ポルノは自伝の下調べが目的と語る]</ref>(後段の通り、実際にはアクセスしていないことが判明している)。タウンゼントが児童ポルノの問題に関心をよせるようになったきっかけは、1998年に[[ロシア]]の[[孤児院]]を題材にした映画を見て、自身も孤児院へ寄付をしたいとインターネットで検索をかけたところ、多数の性的虐待を受ける少年たちの画像を発見したことだった<ref name="wia_397">『フー・アイ・アム』・p.397</ref>。この問題に激しい怒りを覚えた彼は、インターネットでこの問題について深く調査するようになり、[[銀行]]と[[ブラウザ]]会社、そしてポルノ業者が結託して児童ポルノで金儲けをしている実情を浮き彫りにし、インターネットにレポートをアップする計画を立てた<ref name="wia_417">『フー・アイ・アム』・p.417</ref>。しかし、画像自体は見ていないとは言え、児童ポルノのサイトにアクセスすることで自らを訴追の危険に追い込んでしまったのがいけなかったと本人は自著に記している<ref name="wia_420">『フー・アイ・アム』・p.420</ref>。またタウンゼント自身も、幼少期に性的虐待を受けたことを仄めかしている。6歳から7歳までタウンゼントの面倒を見ていた祖母のデニーは、ある男性と交際していたが、自著の中でその男から性的虐待を受けたことを暗に示している<ref name="wia_19-20">『フー・アイ・アム』・pp.19-20</ref>。この体験から、その後同様の体験をした人たちが受けるグループカウンセリングに参加し、虐待を経験した大人たちのためのケアセンターを作る計画も立てていた<ref name="wia_418">フー・アイ・アム・p.418</ref>。 |
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“非合法なインターネット・コンテンツ、とくに児童虐待にあたる画像の削減”に取り組んでいる英インターネット監視基金(IWF)は、タウンゼントから2002年、児童ポルノについてリサーチしている際に問題のあるサイトを発見したという連絡があったと発表。IWFはタウンゼントが逮捕された今月初め、連絡があった事実を否定していたが、現在、タウンゼントの主張を裏付ける2002年夏から秋にかけてのEメールがいくつか見つかっているという。IWF側は「データ保護法の規定により、団体へ連絡があった情報についてコメントしたり、詳細を開示することは当人の許可がない限りできない」として、タウンゼントとの接触を否定するほかなかったと述べている。<ref>[https://www.barks.jp/news/?id=52308948 児童ポルノ疑惑のピート・タウンゼント、身の潔白を示す証拠が見つかる]</ref> |
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2007年、[[ガーディアン]]紙の記者、ダンカン・キャンベルが、ランドスライド社の[[ウェブサイト]]用のハードドライブを綿密に調べ上げた結果、タウンゼントがサイトの中に入ったという証拠も、また金を払った証拠も見つからなかったと報告し、タウンゼントが'''全くの無実であった'''ことが証明された<ref name="wia_426" /><ref>[https://www.theguardian.com/technology/2007/apr/19/hitechcrime.money Operation Ore flawed by fraud | Technology | The Guardian]</ref>。 |
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''「[[オペレーション・オー]]」の項目も参照。'' |
''「[[オペレーション・オー]]」の項目も参照。'' |
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==使用機材== |
== 使用機材 == |
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[[File:Pete Townshend - Phyllis Keating.jpg|thumb|190px|エリック・クラプトン・ストラトキャスターを弾くタウンゼント(2008年)]] |
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; [[リッケンバッカー]] 360/12、1997、1996、1993<ref>[http://www.thewho.net/whotabs/gear/guitar/rick.html Rickenbacker Guitars | Pete Townshend’s Guitar Gear | Whotabs:]</ref> |
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* '''エレキギター''' |
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: デビューから1966年まで使用。1989年のザ・フー25周年ツアーでも使用した。 |
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; [[リッケンバッカー]] 360/12/1997/1996/1993 |
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; [[フェンダー・ストラトキャスター]]<ref>[http://www.thewho.net/whotabs/gear/guitar/fenderstratocaster.html Fender Stratocasters | Pete Townshend’s Guitar Gear | Whotabs:]</ref> |
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: |
: デビューから1966年まで使用。初期のタウンゼントのトレードマークとなった。1989年のザ・フー25周年ツアーでも使用している。 |
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; [[フェンダー・ストラトキャスター]] |
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; [[ギブソン・SG]]・スペシャル<ref>[http://www.thewho.net/whotabs/gear/guitar/sg.html Gibson SG Special | Pete Townshend’s Guitar Gear | Whotabs:]</ref> |
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: |
: 1966年から1968年にかけて使用。1989年からは親友である[[エリック・クラプトン]]のシグネーチャーモデル(色は主にレッド)をアーム付きで使用するようになり、以降現在までタウンゼントのメインギターとなっている。 |
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; [[ギブソン・ES-335]]/345/355 |
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; [[ギブソン・レスポール]]・デラックス<ref>[http://www.thewho.net/whotabs/gear/guitar/lpdeluxe.html Gibson Les Paul Deluxe | Pete Townshend’s Guitar Gear | Whotabs:]</ref> |
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: 1967年から1968年まで、上記のストラトキャスターと並行して使用された。また1967年には、使用頻度は少ないが[[ギブソン・EDS-1275]]の使用も確認されている。 |
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: 1972年から1982年にかけて使用。SGに代わってメインで使用されるようになる。またタウンゼントのシグネイチャー・モデルも存在し、ピックアップ配列は2個のミニハムバッカーの間にハムバッカー1個をマウントするという独特なもので、コントロールノブの横に新たなトグルスイッチが2個設けられ、ボディの表面には[[アラビア数字]]が大きく入れられている。 |
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; [[ギブソン・SG]]・スペシャル |
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; [[フェンダー・テレキャスター]]<ref>[http://www.thewho.net/whotabs/gear/guitar/52telecaster.html 1952 Fender Telecaster | Pete Townshend’s Guitar Gear | Whotabs:]</ref> |
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: 1968年から1972年まで使用。[[ピックアップ (楽器)|ピックアップ]]は[[P-90]]で、色はダーク・チェリー(白もあり)。[[ウッドストック・フェスティバル]]をはじめ、様々な歴史的イベントで使用された。タウンゼントも「しっかりした作りで相性も最高だった」と語っている<ref name="aaa_204">『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.204</ref>。 |
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: 1980年代はメインで使用。[[シェクター]]製のものも並行して使用しており<ref>[http://www.thewho.net/whotabs/gear/guitar/schecter.html Schecter/Giffin 'Telecaster'-style Guitars | Pete Townshend’s Guitar Gear | Whotabs:]</ref>、ライブ・エイドではシェクター製の方を使用した。1960年代にも使用していたことがある。 |
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; [[ギブソン・レスポール]]・デラックス |
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; [[ギブソン・J-200]]<ref>[http://www.thewho.net/whotabs/gear/guitar/j200.html 1968 Gibson J-200 | Pete Townshend’s Guitar Gear | Whotabs:]</ref> |
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: 1972年から1982年にかけて使用。SGに代わってメインで使用されるようになる。またタウンゼントのシグネイチャー・モデルも存在し、ピックアップ配列は2個のミニハムバッカーの間にハムバッカー1個をマウントするという独特なもので、コントロールノブの横にコイルタップ用のトグルスイッチが2個設けられ、ボディの表面には[[アラビア数字]]が大きく入れられている。色はヘリテージ・チェリー・サンバースト、ゴールド、ダークチェリーの3パターン。この他、レスポールJr.やレスポール・カスタムの使用も確認されている。 |
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:近年のステージで主に使用。レコーディングでは1960年代から使用している。その他アコースティックでは[[ハーモニー]]も多用している。 |
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; [[フェンダー・テレキャスター]] |
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: 1980年代はメインで使用。[[シェクター]]製のものも並行して使用しており、[[ライブ・エイド]]ではシェクターを使用した。1960年代にも使用していたことがある。 |
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; [[フェンダー・エレクトリックXII]] |
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: ステージでは使用されず、主にレコーディングの方で使用された。1968年のシングル「マジック・バス」のプロモーションビデオではこのギターを使用している。 |
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; [[グレッチ]]・6120 |
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: 1971年のアルバム『フーズ・ネクスト』の制作に先立ち、友人の[[ジョー・ウォルシュ]]から譲り受けたもの。同アルバムのレコーディングではメインで使用された。ステージではエリック・クラプトンの復帰コンサートで使用された。その後1973年のテレビ番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」で破壊されてしまう。以降もレコーディングでたびたび使用された。 |
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*'''アコースティックギター''' |
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また、[[アンプ]]は[[ハイワット]]をメインに使用。 |
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; [[ギブソン・J-200]] |
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: 1968年より現在まで使用され続けている。かつてのザ・フーではステージではエレキギターしか弾かなかったため、長らくレコーディングでしか使用されてこなかったが、1989年以降はステージでも使用される機会が多くなっている。 |
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; ギルド・Custom F-612XL |
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: 1971年以降、J-200に次いで多用されてきた12弦アコースティック。この他、[[マーティン (楽器メーカー)|マーティン]]やハーモニー、[[タカミネ]]なども使用している。 |
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*'''アンプ''' |
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==ディスコグラフィ== |
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; フェンダー・ベースマン/トレモラックス/プロ |
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#''Who Came First'' (1972) |
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: 1964年から1965年まで使用。途中からスピーカー・キャビネットはマーシャルに変わった。 |
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#''Rough Mix'' (1977) ※ロニー・レインとの共作 |
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; [[マーシャル (アンプ)|マーシャル]]・stack JTM45/100 |
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#''Empty Glass'' (1980) |
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: 1965年から1968年まで使用。 |
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#''All the Best Cowboys Have Chinese Eyes'' (1982) |
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; [[ハイワット#サウンド・シティの財産|サウンド・シティ]]・L100 SC105 |
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#''Scoop'' (1983) |
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: 1967年から1968年まで使用。タウンゼントは導入間もなく、アンプヘッドの改造をサウンド・シティの製造者のデイヴ・リーヴスに依頼するが、そのリーヴスが改造したアンプヘッドにハイワットのロゴを貼ったことが、後述のハイワット・アンプが有名になるきっかけとなった<ref name="hiwatt">[http://1484.bz/shibuya/britishpedal/blog/1007.html HIWATT HISTORY (02) | コラム「歴史と伝統の英国サウンド 」]</ref>。 |
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#''White City : A Novel'' (1985) |
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; [[ハイワット]]・CP103/DR103W |
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#''Deep End Live'' (1986) |
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: 1968年から1985年まで、ザ・フーの全盛期を支えたアンプ。タウンゼントの使用により、イギリスのミュージシャンの間で知名度が上がったブランドである<ref name="hiwatt" />。1986年からはメインから外されるが、以降もサブ・アンプとして何度か使用されている。 |
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#''Another Scoop'' (1987) |
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; {{仮リンク|メサブギー|en|Mesa Boogie}}・MkI |
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#''Iron Man'' (1989) |
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: サブとしては1977年から、ステージでのメイン・アンプとしては1989年から1997年まで使用された。 |
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#''Psychoderelict'' (1993) |
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; フェンダー・ヴィブロキング |
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#''Pete Townshend Live : A Benefit for Maryville Academy'' (1999) |
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: 2000年から2017年現在に至るまでメインで使用されているコンボアンプ。 |
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#''Lifehouse Chronicles'' (1999) |
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#''Lifehouse Elements'' (2000) |
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*'''エフェクター''' |
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#''The Oceanic Concerts'' (2001) ※ラファエル・ラッドとの共作 |
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; {{仮リンク|ユニヴォックス|en|Univox}}・スーパーファズ |
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#''Scoop 3'' (2001) |
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: 1968年から1978年まで使用。[[ファズ (音響機器)|ファズ・エフェクター]]については1966年頃から{{仮リンク|トーン・ベンダー|en|Tone Bender}}製やギブソン・マエストロなどを使用してきたが、本品が最も長く使用された。タウンゼントはエフェクター・ペダルはマイクスタンドの足元ではなく、ドラムセットの脇に置いていた。 |
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<ref>[http://www.thewho.net/whotabs/gear/guitar/history.html Pete's Gear: Pete Townshend Guitar Equipment History | Pete Townshend’s Guitar Gear | Whotabs]</ref> |
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== ディスコグラフィ == |
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=== スタジオ・アルバム === |
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*『[[フー・ケイム・ファースト]]』 - ''Who Came First'' (1972年) |
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*『[[ラフ・ミックス]]』 - ''Rough Mix'' (1977年) |
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:[[ロニー・レイン]]との共作。 |
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*『エンプティ・グラス』 - ''Empty Glass'' (1980年) |
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*『[[チャイニーズ・アイズ]]』 - ''All the Best Cowboys Have Chinese Eyes'' (1982年) |
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*『ホワイト・シティ』 - ''White City : A Novel'' (1985年) |
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*『[[アイアン・マン (ピート・タウンゼントのアルバム)|アイアン・マン]]』 - ''Iron Man'' (1989年) |
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*『サイコデリリクト』 - ''Psychoderelict'' (1993年) |
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:ダイアログを省いた''Music Only Version''もある。 |
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=== ライブ・アルバム === |
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*『[[エリック・クラプトン]]/レインボー・コンサート』 - ''Eric Clapton's Rainbow Concert'' (1973年) |
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:クラプトンのバンドメンバーの一人としてギター&ボーカルで参加。コンサートの企画者でもある。 |
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*『[[ディープ・エンド・ライブ]]』 - ''Deep End Live!'' (1986年) |
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*''Pete Townshend Live : A Benefit for Maryville Academy'' (1999年) |
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*''The Oceanic Concerts'' (2001年) |
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:[[ラファエル・ラッド]]との共作 |
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=== ベスト・アルバム === |
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*''Cool Walking Smooth Talking Straight Smoking Fire Stoking'' (1996年) |
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:全15曲で1CD。 |
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*''Scooped'' (2002年) |
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:全35曲で2CD。スクープ・シリーズの総集編。 |
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*''Anthology'' (2005年) |
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:全34曲で2CD。 |
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*''Truancy'' (2015年) |
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:全17曲で1CD。最後の2曲は新曲。 |
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=== 未発表音源集、他 === |
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*『スクープ』 - ''Scoop'' (1983年) |
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*『アナザー・スクープ (スクープ2)』 - ''Another Scoop'' (1987年) |
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*''Lifehouse Chronicles'' (1999年) |
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:インターネットでのみの販売 |
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*''Lifehouse Elements'' (2000年) |
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*『スクープ3』 - ''Scoop 3'' (2001年) |
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*''Pete Townshend's Classic Quadrophenia'' (2015年) |
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=== ユニヴァーサル・スピリチュアル・リーグのアルバム === |
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*『[[ハッピー・バースデイ (メヘル・バーバー関連のアルバム)|ハッピー・バースデイ]]』 - ''Happy Birthday'' (1970年) |
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*『[[アイ・アム (メヘル・バーバー関連のアルバム)|アイ・アム]]』- ''I Am''(1972年) |
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*『[[ウィズ・ラヴ (メヘル・バーバー関連のアルバム)|ウィズ・ラヴ]]』- ''With Love''(1976年) |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist|2|colwidth=23em}} |
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{{脚注ヘルプ}} |
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{{notelist}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|2}} |
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=== 引用文献 === |
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* {{cite book|last1=Neill|first1=Andy|last2=Kent|first2=Matt|year=2007|title=Anyway Anyhow Anywhere: The Complete Chronicle of The Who 1958-1978|location=London|publisher=Virgin Books|id=ISBN 978-0-7535-1217-3|ref=harv}} |
|||
* {{cite book|last=Townshend|first=Pete|year=2012|title=Who I Am|location=London|publisher=HarperCollins|id=ISBN 978-0-00-747916-0|ref= harv}} |
|||
* {{cite book|last=Daltrey|first=Roger|year=2018|title=Thanks a Lot, Mr. Kibblewhite: My Story|location=New York|publisher=St. Martin's Griffin|id=ISBN 978-1-250-23710-1|ref= harv}} |
|||
==参考文献== |
== 参考文献 == |
||
* |
* 『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』(アンディ・ニール、マット・ケント著、佐藤幸恵、白井裕美子訳、[[シンコーミュージック]]刊、[[2008年]])ISBN 978-4-401-63255-8 |
||
* 『フー・アイ・アム』(ピート・タウンゼント著、森田義信訳、河出書房新社刊、[[2013年]])ISBN 978-4-309-27425-6 |
|||
* {{Anchors|Ultimate}}レコード・コレクターズ増刊『ザ・フー アルティミット・ガイド』、2004年。 |
|||
* [[レコード・コレクターズ]]増刊『ザ・フー アルティミット・ガイド』 ([[ミュージック・マガジン]]刊、[[2004年]]) |
|||
== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
*[http:// |
* [http://www.thewho.com/ The Who Official Website] |
||
*[http://www.thewho.net Who Reference] |
* [http://www.thewho.net Who Reference] |
||
* [https://www.allmusic.com/artist/pete-townshend-mn0000842351 Pete Townshend | Biography, Albums, Streaming Links | AllMusic] |
|||
*[http://www.wholocations.co.uk The Who Location Guide] |
|||
* [http://www.thesmokinggun.com/doc_o_day/petetownshend1.html Townshend document as posted by ''The Smoking Gun'' website] |
* [http://www.thesmokinggun.com/doc_o_day/petetownshend1.html Townshend document as posted by ''The Smoking Gun'' website] |
||
* [http://www.petetownshend.co.uk Pete Townshend's personal web site] |
* [http://www.petetownshend.co.uk Pete Townshend's personal web site] |
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* [http://boywhoheardmusic.blogspot.com Pete Townshend's blog] |
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ピート・タウンゼンド Pete Townshend | |
---|---|
ピート・タウンゼンド(2012年) | |
基本情報 | |
出生名 | ピーター・デニス・ブランドフォード・タウンゼンド |
生誕 | 1945年5月19日(79歳) |
出身地 | イングランド ロンドン |
ジャンル |
ロック ハードロック アート・ロック ポップ・ロック |
職業 |
ソングライター ミュージシャン |
担当楽器 |
ギター ボーカル ベース ハーモニカ ドラムス キーボード バンジョー |
活動期間 | 1960年 - 現在 |
レーベル |
トラック・レコード ポリドール・レコード アトランティック・レコード アトコ・レコード デッカ・レコード ライコディスク |
共同作業者 |
ザ・フー ディープ・エンド ロニー・レーン サンダークラップ・ニューマン |
公式サイト | http://www.thewho.com/index.php |
著名使用楽器 | |
リッケンバッカー・330 フェンダー・ストラトキャスター ギブソン・SG・スペシャル ギブソン・レスポール・デラックス ギブソン・J-200 |
ピート・タウンゼント(Pete Townshend、本名:Peter Dennis Blandford Townshend、1945年5月19日 - )は、イングランドのロック・ミュージシャン、小説家、ロック・バンドのザ・フーのギタリストである。
2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第10位[1]。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]ロンドンのチジックで生まれる。父親のクリフ・タウンゼントはイギリスでは有名なサックス・プレイヤーで、母親のベティもまたプロのシンガー、そして祖父のホレス・タウンゼントもセミプロのミュージシャンであり、まさに音楽一家だった[2]。6歳から7歳までの間、ツアーで家を空けていた両親に代わり、祖母のデニーに面倒を見られていたが、デニーは精神を病んでおり、幼いタウンゼントに虐待を加えた。この時期をタウンゼントは「人生最悪の暗黒時代」と表現している[3]。音楽的環境に恵まれた家庭に育ちながら少年時代は音楽に関心を示す事はなかったというが、1956年の夏に友人と共に観に行った映画『ロック・アンド・ロール/狂熱のジャズ』に影響を受け、ギターを弾きたいと欲するようになる。12歳のクリスマスにギターをプレゼントされるが、買い与えたのは皮肉にも祖母のデニーだった。だが弾きこなすには難しいと考え、その後4弦のバンジョーを入手し、腕を磨いた。それ以前に父同様にサックスをやろうとしたが、そちらは上達しなかったという[4]。
1958年春、アクトン・カウンティ・グラマー・スクールでジョン・エントウィッスルと知り合い、学校の仲間でコンフェデレイツというジャズ・バンドを結成する[5]。このバンドはすぐに消滅したが、その後もスコーピオンズというバンドで共にプレイするなど、二人の交流は続いていた[6]。1957年には弟のポールが[7]、1960年には下の弟のサイモンが誕生[8]。サイモンは後に兄同様ミュージシャンとなり、タウンゼントやザ・フーのツアーにサポート・ミュージシャンとして参加している。
1961年、イーリング・アート・カレッジに入学。同年、エントウィッスルがグラマー・スクールの先輩であるロジャー・ダルトリーに誘われ、スコーピオンズを抜け、ダルトリーのバンド、ザ・ディトゥアーズに加入。翌1962年にはタウンゼントもエントウィッスルに誘われる形で加入する[9]。実はエントウィッスルよりも先にダルトリーはタウンゼントに目を付けており、ディトゥアーズへの加入を持ちかけていた[10]。その後、ダルトリーの自宅で行われた簡単なオーディションを受け、加入が決まった[11]。加入直後はリズムギターの担当だったが、リードギター担当だったダルトリーが日中の板金工の仕事でしばしば手を負傷していたため、ギターを辞めてボーカルに専念することにし、タウンゼントがリードギタリストとなった[12]。当時タウンゼントは真剣にプロ・ミュージシャンになることは考えておらず、彫刻家になろうと考えていたというが[13]、バンド活動が忙しくなり、学業との両立が難しくなったため、1964年の夏休み前に中途退学し[14]、その頃に音楽で生きていく決意を固めたという[15]。
メジャー・デビューまでの間に何度もメンバー・チェンジが行われたものの、1964年に前任のドラマーに代わりキース・ムーンが加入したことで固まった。バンド名をザ・フーに改め、同年7月、ザ・フーはメジャー・デビューを果たす。
1964年 - 1983年
[編集]初代マネージャーのピート・ミーデンは、ザ・フーを当時席巻していたモッズ・バンドとして売り出そうと計画し、メンバーにモッズの衣装を着させ、バンド名もハイ・ナンバーズと改めさせた。そして彼等はミーデン作のデビュー・シングル「ズート・スーツ」を発表したが、ミーデンの目論見は外れて不発に終わった。彼等は、新しいマネージャーであるキット・ランバートとクリス・スタンプの下で名前をザ・フーに戻して再出発する。ランバートはタウンゼントにダビング録音が可能なテープレコーダーを買い与えた。これがタウンゼントの作曲家の才能を開花させるきっかけとなった[16]。タウンゼントは「アイ・キャント・エクスプレイン」、「エニウェイ・エニハウ・エニホェア」、「マイ・ジェネレーション」、「恋のピンチ・ヒッター」とヒットナンバーを次々と量産、ザ・フーは一躍スターダムにのし上がった。
タウンゼントは他のアーティストとも積極的に活動した。1966年、ザ・マージーズ(The Merseys)という音楽ユニットに「ソー・サッド・アバウト・アス」を提供[17][18]、1967年にはプティング(The Pudding)というバンドに「マジック・バス」を提供した[19][20][注釈 1]。1968年にはクレージー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンをランバートに紹介して[21]、ランバートがプロデュースした同名デビュー・アルバムのアソシエイト・プロデューサーを務めた。このアルバムはランバートとスタンプが設立したトラック・レコードから発表され、シングル・カットされた「ファイアー」は全英シングルチャートの首位を獲得し、アメリカのビルボードHOT100でも2位に輝いた。1969年には、ザ・フーの3作目のアルバム『セル・アウト』(1967年)に楽曲「アルメニアの空」を提供した友人のジョン・“スピーディー”・キーンを中心とするバンド、サンダークラップ・ニューマンを結成させた。そしてデビュー・シングル「サムシング・イン・ジ・エアー」の録音の為にトゥィッケナムにあった自分のホーム・スタジオを提供して、自らプロデューサーを務めると同時にベースも担当した。この曲はトラック・レコードから発表されて全英シングルチャートで3週にわたって1位を記録する大ヒットになり[22][23]、彼は引き続いて彼等のデビュー・アルバム(1970年)のプロデューサーも務めた。
ザ・フーの楽曲の大部分を作曲していたタウンゼントには、他のメンバーと異なりソロ作品を発表する必要はなかったが、1970年には、彼が1967年より帰依しているインドの導師で、1969年に他界したメハー・ババ[24]の75回目の誕生日を祝うために製作されたチャリティー・アルバム『ハッピー・バースデイ』[25]に参加。1972年にもババの三回忌を記念して製作されたアルバム『アイ・アム』[26]に参加した。これらのアルバムはババの教えを広めるために1949年に設立されたユニヴァーサル・スピリチュアル・リーグ(Universal Spiritual League)によって制作され、数千部が限定生産されて、そのほとんどが信者の手に渡った。これがザ・フーのファンの間でうわさになり、収録された楽曲が海賊盤で出回り始めた事から、アメリカのMCAレコードからの要請により1972年にリリースされた『フー・ケイム・ファースト』が、タウンゼントの正式な1stソロ・アルバムとなる(全英30位、全米69位)。このアルバムには『ハッピー・バースデイ』と『アイ・アム』からの楽曲、幻に終わったザ・フーのアルバム『ライフハウス』の為に彼が制作したデモの一部などが収録され、新作というより未発表曲集の意味合いが強い作品となっている[16]。
1973年1月、薬物中毒などによるスランプに陥って活動を停止していた親友エリック・クラプトンの復帰ライブを企画し、自身も演奏に参加。同年9月にこのコンサートの実況盤『エリック・クラプトン・レインボー・コンサート』がリリースされる[27]。
その後はしばらくソロ活動は行わず、1976年にみたびユニヴァーサル・スピリチュアル・リーグが制作したアルバム『ウィズ・ラヴ』に楽曲を提供する程度にとどまっていた。この間、彼はダルトリーやエントウィッスルと共にキット・ランバートとの訴訟問題を抱えており、音楽業界に嫌気が差し、ザ・フーにも興味を失いかけていた[16]。そのような時期の1977年に、親友のロニー・レイン[注釈 2]と共同で製作した2枚目のソロアルバム『ラフ・ミックス』(全英44位、全米45位)をリリースする。アルバムにはエントウィッスル、盟友クラプトン、チャーリー・ワッツ、ボズ・バレル等が参加した。
1978年、キース・ムーンが急逝。数年先までスケジュールが決まっていたため、バンドを解散させることは出来ず、ザ・フーは新たなドラマーに元フェイセズのケニー・ジョーンズを迎え、1979年より再出発を切った。「新生ザ・フーでの演奏は楽しかった」と言うタウンゼントだったが[28]、ムーンの死を契機に、タウンゼントの興味はソロ活動の方へと移っていった。1980年には、新作のみを揃えた純粋なソロ作としては初のアルバム『エンプティ・グラス』を発表。全米5位、全英11位というタウンゼントのソロ作の中では最高のセールスを記録した。だが、ケニー・ジョーンズはタウンゼントが「いい曲をザ・フーではなくソロのほうへ持っていっている」と不満を露にし、さらにはダルトリーがジョーンズのプレイを嫌い、本人に向かって「もうお前とは仕事したくない」と言い放つ[29]など、メンバー間に亀裂が生じ始めた[30]。これに加え、タウンゼントは妻のカレンとの仲もうまく行かなくなり、そういったストレスから酒とドラッグに溺れるようになり、1981年の9月にはコカインの過剰摂取により、一時的に心肺停止の状態にまで陥った[31]。その後、カリフォルニアで薬物依存の治療を1ヶ月ほど受け、何とか回復した[32]。
復活はしたものの、タウンゼントの精神はもはや限界に来ていた。1982年には4枚目のソロアルバム『チャイニーズ・アイズ』をリリース(全英32位、全米26位)。同年12月にトロントにて最後のコンサートを行う。1983年5月、タウンゼントはダルトリーの自宅を訪れ、「もうツアーはできない」と告げ、ダルトリーもそれを聞き入れた[33]。6月、ザ・フーは正式に解散した[34]。同年4月、デモバージョンや未発表曲を集めた5作目のソロアルバム『スクープ』を発表(全米35位)。
1984年以降
[編集]1985年、プリンスの映画『プリンス/パープル・レイン』に触発され、映画を製作することを決意する[35]。11月、6作目となるアルバム『ホワイト・シティ』(全米26位、全英70位)および同タイトルのビデオ作品を発表。これは、タウンゼントが少年時代によく訪れていたロンドンにあった移民が住むスラム街を舞台としたストーリー仕立てのコンセプト・アルバムで[35]、1986年より『ホワイト・シティ』の設定上にあるバンド「ディープ・エンド」の名でコンサートツアーを開催、メンバーにはピンク・フロイドのデヴィッド・ギルモアやサイモン・フィリップスも参加し、総勢17人による大編成バンドとなった[36]。同年8月にはこのライブの模様を収録した『Deep End Live!』がリリースされた(全米98位)。また1985年には自身初の短編小説集「Horse's Neck(邦題:四重人格[注釈 3])」を発表している。
1986年、詩人のテッド・ヒューズの作品「アイアン・マン」(マーベル・コミックの同名作品とは別の物語)のミュージカル化に着手[37]。製作中、1974年からザ・フーのマネージャーを務めてきたビル・カービシュリーの妻、ジャッキーから「これをザ・フーとして発表すべきだ」と進言されたが、タウンゼントがザ・フーにはそぐわない作品だとして難色を示した[38]。結局アルバム『アイアン・マン』(全米58位)は1989年にタウンゼントのソロとして発表され、収録曲のうち2曲がザ・フー名義として扱われるに留まった。しかし同年には、デビュー25周年を記念してザ・フーでのコンサート・ツアーが行われた。『アイアン・マン』の舞台版はその後1993年に上演され[39]、1999年には「アイアン・ジャイアント」と改題されて、ワーナー・ブラザースにより劇場アニメ化された[40]。
ツアーを終えた1991年秋頃から、タウンゼントはコンセプトアルバム『サイコデリリクト』の製作に取り掛かる[41]。本作は彼が書いた物語「Ray High And The Glass Household」を下地にしており、『トミー』や『四重人格』同様ロック・オペラの流れを汲む意欲作であった。アルバムは1993年6月にリリース。アルバムは曲と語りを交互に配した作りになっていて、語りの部分を抜いた音楽のみのバージョンもリリースされている。だがこの意欲作はセールス的には惨敗に終わっており(全米118位)、この結果に気落ちしたのか、タウンゼントはレコーディング・アーティストとしては廃業する事を宣言する[42]。この宣言どおり、彼のソロでのスタジオアルバムは、以降2022年現在まで製作されていない。『サイコデリリクト』に伴うツアーも敢行され、ニューヨーク・ブルックリンでの公演が2003年にライブアルバム『Pete Townshend Live BAM 1993』として発表され、2006年にはDVDとしてもリリースされている。
1996年より自叙伝の執筆を開始[43]。2012年にようやく完成し、『フー・アイ・アム』と題されて出版された。
1990年代後半からはザ・フーとしての活動が主軸になるが、1999年12月、タウンゼントが長年構想を温めてきたロックオペラ『ライフハウス』がラジオドラマとして発表される。ドラマはBBCラジオ3から放送された。このドラマは2000年に6枚組みのCDボックス『Lifehouse Chronicles』としてインターネット販売され、ラジオを聞けなかった人達の元にも届けられた。CDボックスには、ラジオドラマで放映された音源だけでなく、1970年代前半に作られたデモ・トラックも収録されている。2001年、1979年から翌年にかけて行われたプライベートコンサートの実況盤『The Oceanic Concerts』をリリース。共演のラファエル・ラッドとはミハー・ババの信者同士の仲である[44]。
2003年1月、児童ポルノサイトにアクセスした容疑で一時身柄を拘束され、家宅捜索を受ける。5月には不起訴処分となる。
2004年、ザ・フーとして初来日を果たす。横浜と大阪の2会場で開催されたロックフェス「The Rock Odyssey 2004」に出演。なお、この時のライブで、ザ・フーの次に登場したエアロスミスのジョー・ペリーが、MCでザ・フーから受けた影響と同じステージに立てる喜びを述べた[45]。
2008年より、新たなるロックオペラ『フロス』の制作を進めている。タウンゼントによればもう一つの『四重人格』となる作品であり、『ライフハウス』と同じくらい困難な作品になるという[46][注釈 4]。
2015年、『四重人格』のロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団とロンドン・オリアーナ合唱団によるオーケストラ版『Pete Townshend's Classic Quadrophenia』をリリース。アルバムは全英チャートの32位にランクインし、クラシック・チャートで1位になるには十分なセールスを上げたが、オリジナルがロック作品であるとして、クラシック・チャートから除外された[47]。同年7月5日、ロイヤル・アルバート・ホールにてオーケストラ版『四重人格』が演奏された。さらに2017年9月には、アメリカマサチューセッツ州レノックスのタングルウッド音楽センター、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場、ロサンゼルスのグリーク劇場でコンサートが開かれた[48]。
2019年、自身初の長編小説「The Age Of Anxiety」を発表[49]。
音楽スタイル
[編集]作曲家として
[編集]ザ・フーの楽曲の95%以上はタウンゼントによって作曲されている[16]。タウンゼントはただ作曲するだけでなく、ダビング録音を駆使したマルチ録音によって、ギター、ベース、ドラム、ボーカルの基本アレンジまでもこなした。このため、ザ・フーではタウンゼントが作ったデモテープをレコーディング前にメンバーに渡し、曲を覚えてもらってからスタジオに入るという習慣が根付いていた。タウンゼントのデモテープの完成度の高さは、『スクープ』等の未発表曲集で明らかとなっている[16]。鍵盤楽器の演奏も出来、ザ・フーのピアノ、キーボード類は一部を除きほとんどがタウンゼントによるものである。
アマチュア時代のタウンゼントはそれほど作曲に積極的ではなかった。彼が始めて作曲をしたのは1963年、「イット・ワズ・ユー」という曲で、録音もされている[50]。彼の作曲家としての才能は、マネージャーのキット・ランバートによる影響が大きい。ランバートは曲作りにおける助言をし、タウンゼントを励ました。タウンゼントも自伝に「キットは私の中のアーティストとしての部分を操るエキスパートだった。彼は私を一人前の作曲家として扱ってくれた」と記している[51]。また、ランバートが教えてくれたバロック時代の作曲家・ヘンリー・パーセルには「作曲家としての私の人生を変えた」と言うほどの影響を受け、とくにパーセルが多用するサスペンション・コードには深く感心させられたという。これはザ・フーの楽曲(例:「キッズ・アー・オールライト」「アイム・ア・ボーイ」)にもその影響が現れている[52]。
ギタリストとして
[編集]作曲家としての面ばかりが強調され、ギタリストとして語られることが余りないが、これはタウンゼントが同年代のジミ・ヘンドリックスやエリック・クラプトンのようなテクニカルな速弾きをほとんど行ってこなかったことが要因にある[16]。彼は自身のギタープレイについて「俺は音楽界にいるほとんどのギタリストと同じぐらいギターを上手く弾けるが、俺の技術は派手なコードをでかい音で鳴らす事だけに特化されている」と1966年に語っている[53]。タウンゼントはアマチュア時代に、フィンガー・ピッキングで開放弦を鳴らしつつ、リードギターとリズムギターをミックスさせるという手法を編み出し[54]、1本のギターでも十分な音数と音の多彩さを生み出した。1989年以降は難聴が悪化したこともあり、ステージではサポートギタリストを起用している[55]。
ギタリストでありながら自身のギター・ソロを大きくフィーチャーした曲を書く事はあまりなく、ギター・ソロを一切含まない曲も珍しくない。本人も「ドラムやベースがリード楽器になり、ギターがリズム楽器と、立場が逆転していた事がザ・フーのユニークさだった」と語っている[16]。また、スタジオ録音ではあまり多用しないが、ステージでは頻繁にフィードバック奏法を試みている。タウンゼントは自分こそがフィードバック奏法のオリジネーターであると自負しているようで、「その肩書がビートルズやヤードバーズに与えられるのにはがっかりさせられた」ともコメントしている[53]。
ステージパフォーマンス
[編集]タウンゼントの激しいステージ・アクションは視覚の上でも観客を楽しませた。ステージの上で派手な動きをする理由について、本人は「ギターを弾いている自分の姿を生きるか死ぬかの瀬戸際のようにみせたかったから」と答えているが、一方で後述の通り彼は自分の顔にコンプレックスを持っており、「顔より体の方に注目して欲しい」という意味合いもあるという[56]。
タウンゼントのギター破壊はザ・フーのコンサートでの大きな目玉だった。これは、天井の低い場所でのライブでギターが偶然天井に当たって壊れた事が観客にはパフォーマンスだと受け取られた事が始まりだった[57]。タウンゼントに影響され、ムーンもドラムを破壊するようになった。パフォーマンスではなく怒りに任せてギターを壊すことも少なくなかったようである。壊したギターは、時には修復して再度使用することもあったという[58]。アコースティックギターやウクレレを破壊することもあったが、ボディが木製のため大抵の場合は粉々になった。近年ではギター破壊をあまり行っていないが、2004年の初来日公演では初日の横浜公演で久々にギター破壊を行った。だがこのパフォーマンスで腰を痛めてしまい、次の大阪公演ではギター破壊は行わなかった[45]。
右腕を伸ばし大きく回転させながら弾くウインドミル奏法は、タウンゼントが見たローリング・ストーンズのステージで、キース・リチャーズがウォーミングアップのために行った腕回しをパフォーマンスだと勘違いして真似した事がきっかけである[59]。長いMCを行う事でも有名であり、2001年にリリースされた『ライブ・アット・リーズ・デラックス・エディション』では、タウンゼンドのMCがノーカットで収録された。
人物
[編集]少年時代は、極度に人見知りする自閉的な性格であったという[60]。また自身の大きな鼻をコンプレックスに感じており、「このでかい鼻が俺がいろんな事をやる原動力になっている」とも語っている[6]。なお、ダルトリーのタウンゼントに対する第一印象は「棒に鼻がくっついた奴」だったという[9]。イーリング・アート・カレッジに入った頃から内向的な性格を改めるようになり、この頃が人間的にも創造性の面でも大きく成長した時期だと本人は語っている[61]。
インタビューなどで見せる理知的で紳士的な態度とは裏腹に激高しやすい性格で、ムーン同様に騒ぎを起こす事もしばしばだった。会場の近隣で火事が起きたため、コンサートを中止させようとステージに上がった警官を暴行する[62]、ミスをした音響スタッフに怒り、スタッフを引きずり出してコンサートを中断する[63]、テレビ番組でムーンと一緒になって悪ふざけを起こし番組を滅茶苦茶にする[27]、「トップ・オブ・ザ・ポップス」出演時にギターを破壊した後、プロデューサーに食って掛かった上中指をつき立て、BBCから出入り禁止を受ける[64]、などのトラブルを起こしている。本人も癇癪を起こしやすい性格であることは自覚しており、自伝にも「相手がどれだけ親しい親友でも、ふとしたことがきっかけで喧嘩をしてしまう」と綴っている[65]。精神的に不安定だったため、1982年から1986年にかけて催眠療法を受けていたこともある[66]。
長年のパートナーであるダルトリーとの仲も紆余曲折だった。アマチュア時代にバンドのリーダーだったダルトリーに対し、タウンゼントがバンドの方向性について意見をするようになったことで二人の間に緊張感が生まれたという[67]。プロ・デビュー後にリーダーの座をダルトリーから奪ってしまったことで、緊張感はさらに増大することになる[68]。1973年には互いへの不満が頂点に達し、タウンゼントがギターでダルトリーを殴るという事件も起きている(直後にダルトリーからアッパーカットを見舞われ、気絶した)[63]。1975年にはメディアを通じて互いの悪口を言い合うこともあった[69]。しかし、緊張感をはらみながらも基本的には二人とも互いに敬意を抱いており[67]、ダルトリーも「ピート以上にすごい曲を書ける奴はほかにはいない」[70]と語るなど、信頼度の大きさを窺わせている。後述の児童ポルノに関わる嫌疑をかけられた時もダルトリーは一貫してタウンゼントを擁護した。タウンゼントはダルトリーに対し感謝の念を表している[71]。なお、タウンゼントは17歳の頃、わずかな期間だがダルトリーの妹のキャロルと交際していたという[72]。
長年にわたり重度の難聴を抱えている。これは、1967年に出演したTV番組「スマザーズ・ブラザーズ・ショー」で、ムーンが演奏後にバスドラムに仕込んであった爆薬を爆破させた時に、爆風をまともに浴びたことが遠因になっている[73]。1970年代後半の頃には難聴は相当進んでいたが、その後も大音量でレコーディングやライヴを続けてきたためにさらに悪化し、2011年には補聴器を使用しなければならないほどになった[74]。
文筆活動も積極的に取り組んでおり、小説「四重人格」を出版した他、1970年には音楽誌「メロディー・メイカー」でコラムを執筆していたこともある[75]。また早いうちからインターネットを活用し、1998年には自分のホームページを開設し、ブログを含めたタウンゼント個人のサイトと作品の通信/ダウンロード販売を行うオンラインショップの二つのサイトを創設した[76]。タウンゼントはインターネットを一種の劇場のようなものととらえ、リハーサルやワークショップ、演劇やインタビューなど場に使い、これまでのキャリア活動を全て一つにまとめようと考えていたという[77][注釈 5]。
私生活
[編集]1968年5月にカレン・アストレイと結婚[78]。1969年に長女のエマが[79]、1971年には次女のミンタが生まれる[80]。カレンは仕事のストレスを抱えるタウンゼントを常に優しく励まし、献身的に支えたが[81]、70年代後半にもなると夫婦関係が冷めはじめ[82]、さらにタウンゼントの不貞や酒とドラッグへの沈溺から1981年には別居にいたる[83]。その後再びよりを戻し、1989年には待望の長男、ジョセフが生まれた[84]。だが二人の仲は完全には戻らず、1994年には夫婦関係は完全に破綻し[85]、二人は2009年に正式に離婚した[86]。彼は1996年に出会ったミュージシャンのレイチェル・フラーと交際を始め[87]、長い同棲期間を経て2016年12月に入籍した[88]。
なお、前妻のカレンの弟のジョン・アストレイは音楽プロデューサーで、1990年代後半からザ・フーの全カタログのリマスターを担当している[89]。二人の父親は作曲家エドウィン・アストレイ、妹はシンガー・ソングライターのヴァージニア・アストレイである。
タウンゼントは自身がバイセクシャルではないかと考えているようである。ある友人の部屋に泊まった時、目覚めるとその友人がタウンゼントの体を撫で回していたが、セックスまでには至らずとも完全には拒まなかったという[90]。また、ミック・ジャガーに性的な魅力を感じているらしく、「ミックは私が真剣にファックしたいと思った男だ」とまで語っている[91]。しかし、結婚後も複数の女性と関係を持ったり、自身も「バイセクシャルであることは恥ずかしいことではないが、私はホモ・エロティックな経験をすんなりとは受け入れられなかった」とも語っていることから[90]、基本的には異性愛者の側面の方が強いと見られる。
宗教
[編集]メハー・ババの教えは、タウンゼントの作品に大きな影響を与えており、「ババに会ったことで俺自身変わったし、バンド全体も変わった」と認めている。タウンゼントがババを知ったのは1967年、デザイナーでアルバム『トミー』のアートワークを手がけたマイク・マキナニーからババについての本を渡されたことがきっかけである。タウンゼントはその本を数行読んだだけで、ババと自分の宇宙観が一致していると思い、すぐさま信者になったという[92]。「ババの教えは、俺の考えにぴったりだった。当時頼るものがないと思っていたところにババの教えが俺の下に降りてきたんだ」とも語っている[93]。
ババの教えはタウンゼントの作品はもちろん、生活の隅々にも影響を及ぼし、ババがマリファナを嫌ってるという話を聞けばきっぱりと止めた[94]。ザ・フーの代表作の一つの『トミー』も、ババの教えが相当な影響を及ぼしており、アルバムには「アバター」としてババの名が刻まれている。ババが死去したのはその『トミー』を制作していた1969年1月31日のことで、タウンゼントは生前のババに会うことはできなかった[95]。ババの死後も信者の間では集会が頻繁に行われており、タウンゼントも可能な限り出席した。タウンゼントは今日までババへの帰依を続けており、彼のホームページにはババに関するコーナーも設けられていた(2017年現在は閉鎖)。他のメンバーは、タウンゼントの信仰に付いては寛大に受け止めていたようだが[93]、マネージャーのキット・ランバートは胡散臭く感じていたという[94]。
慈善事業
[編集]相棒のダルトリー同様、チャリティ活動にも積極的に取り組んでいる。彼が楽曲を提供したユニヴァーサル・スピリチュアル・リーグのチャリティ・アルバム3作の収益は、いずれもババが1959年に設立したアバター・メハー・ババ・トラストに渡り、病院、学校、薬局のために提供された。1976年には、タウンゼント自身もババの信者が宿泊できるロッジと録音スタジオを兼ねた施設メハー・ババ・オーシャニック・センターを設立した[96]。
児童福祉にも協力しており、1992年にはサンディエゴのラホーヤ劇場にて舞台版『トミー』をプロデュースし、収益を自閉症、知的障害の児童のための福祉事業財団に寄付。1995年にはポール・サイモン主催の子供用救急車と救急隊の義援金集めのコンサートに出演している[97]。1997年からは虐待を受けた子供を救済する慈善団体メリーヴィル・アカデミーに協力、2002年までにこの団体のためのチャリティ・ライブを行い、1999年にはライブアルバム『Pete Townshend Live : A Benefit for Maryville Academy』を発表、収益を同団体に寄付している[44]。ダルトリーが名誉顧問となっている小児癌の救済団体ティーンエイジ・キャンサー・トラストにも協力し、ザ・フーとしてこの団体のためのチャリティーライブに参加している。2011年にはダルトリーと共にロナルド・レーガンULCA医療センターに協力し、若年層の癌患者を助けるためのプログラム“UCLA Daltrey / Townshend Teen and Young Adult Cancer Program”を開設、11月5日にはこのためのチャリティライブおよびオークションが行われ、ロバート・プラント、フー・ファイターズのデイブ・グロールも出演した[98]。
この他、アムネスティ・インターナショナルを支援するチャリティ・コンサートに、1979年と1986年の2度出演したことがある[99][100]。
児童ポルノ事件
[編集]2003年1月11日、デイリー・メイルとザ・サン両紙が「ランドスライド社(児童ポルノを掲載していたサイトで警察に摘発された)でクレジットカードを使った顧客リストの中に英国在住の大物ロックスターが含まれている」と掲載、これを見たタウンゼントは「それは自分だ」と自ら名乗りあげた[101]。13日、本人同意の下、警察がタウンゼントの自宅とオフィスを捜索、パソコンやテープレコーダーなどを押収し、タウンゼントは身柄を拘束され取り調べを受けた[102]。保釈金を払って即日保釈されたが[103]、この事件はメディアに大きく取り上げられ、さほど知名度が高くない日本でも大きく報道された。報道を受け、タウンゼントの母や相棒のダルトリー、また友人のブライアン・メイが「ピートは小児性愛者ではない」とタウンゼントを擁護[104][105][106]。特にダルトリーは「これは魔女狩りだ」と英国警察に対する怒りを露にした[107]。またミック・ジャガーやデヴィッド・ボウイら友人たちからタウンゼントを気遣う電話が来たり、ファンからたくさんの手紙が届いたという[102]。
4ヶ月に及ぶ捜査の結果、問題となる物は一つも見つからなかったが[108]、無罪放免とはならず、警察から訓告処分を受け入れ一定期間要注意人物リストに名前を載せられるか、無罪を主張し法廷で争うか、と選択を迫られた。精神的に疲労困憊していたタウンゼントは法廷闘争よりも訓告処分を受け入れることを選択し[109]、5月7日、タウンゼンドは不起訴処分となる代わりに、5年間は彼の写真や指紋、DNAサンプルが英国内の性犯罪者リストに登録される事になった[110]。この一件は彼が性犯罪者リストから抹消された後も尾を引き、2010年、ザ・フーがマイアミで行われるスーパーボウルでのハーフタイム・ショーへ出演することが決まると、地元の児童保護団体がタウンゼントを入国させないよう入国管理局に抗議した[111](実際に影響はなく、ハーフタイムショーへの出演は滞りなく行われている)。
タウンゼントは事件に関し、自身は決して小児性愛者でない事を主張した上で、「あのサイトにアクセスしたのは、インターネットではショッキングな映像が大人だけでなく子供でも簡単に手に入ることを懸念しており、'95年から始めているインターネットの児童ポルノがもたらすダメージ、特に児童虐待に反対するキャンペーンの調査の一環だった」と説明した[112](後段の通り、実際にはアクセスしていないことが判明している)。タウンゼントが児童ポルノの問題に関心をよせるようになったきっかけは、1998年にロシアの孤児院を題材にした映画を見て、自身も孤児院へ寄付をしたいとインターネットで検索をかけたところ、多数の性的虐待を受ける少年たちの画像を発見したことだった[113]。この問題に激しい怒りを覚えた彼は、インターネットでこの問題について深く調査するようになり、銀行とブラウザ会社、そしてポルノ業者が結託して児童ポルノで金儲けをしている実情を浮き彫りにし、インターネットにレポートをアップする計画を立てた[114]。しかし、画像自体は見ていないとは言え、児童ポルノのサイトにアクセスすることで自らを訴追の危険に追い込んでしまったのがいけなかったと本人は自著に記している[115]。またタウンゼント自身も、幼少期に性的虐待を受けたことを仄めかしている。6歳から7歳までタウンゼントの面倒を見ていた祖母のデニーは、ある男性と交際していたが、自著の中でその男から性的虐待を受けたことを暗に示している[116]。この体験から、その後同様の体験をした人たちが受けるグループカウンセリングに参加し、虐待を経験した大人たちのためのケアセンターを作る計画も立てていた[117]。
“非合法なインターネット・コンテンツ、とくに児童虐待にあたる画像の削減”に取り組んでいる英インターネット監視基金(IWF)は、タウンゼントから2002年、児童ポルノについてリサーチしている際に問題のあるサイトを発見したという連絡があったと発表。IWFはタウンゼントが逮捕された今月初め、連絡があった事実を否定していたが、現在、タウンゼントの主張を裏付ける2002年夏から秋にかけてのEメールがいくつか見つかっているという。IWF側は「データ保護法の規定により、団体へ連絡があった情報についてコメントしたり、詳細を開示することは当人の許可がない限りできない」として、タウンゼントとの接触を否定するほかなかったと述べている。[118]
2007年、ガーディアン紙の記者、ダンカン・キャンベルが、ランドスライド社のウェブサイト用のハードドライブを綿密に調べ上げた結果、タウンゼントがサイトの中に入ったという証拠も、また金を払った証拠も見つからなかったと報告し、タウンゼントが全くの無実であったことが証明された[109][119]。
「オペレーション・オー」の項目も参照。
使用機材
[編集]- エレキギター
- リッケンバッカー 360/12/1997/1996/1993
- デビューから1966年まで使用。初期のタウンゼントのトレードマークとなった。1989年のザ・フー25周年ツアーでも使用している。
- フェンダー・ストラトキャスター
- 1966年から1968年にかけて使用。1989年からは親友であるエリック・クラプトンのシグネーチャーモデル(色は主にレッド)をアーム付きで使用するようになり、以降現在までタウンゼントのメインギターとなっている。
- ギブソン・ES-335/345/355
- 1967年から1968年まで、上記のストラトキャスターと並行して使用された。また1967年には、使用頻度は少ないがギブソン・EDS-1275の使用も確認されている。
- ギブソン・SG・スペシャル
- 1968年から1972年まで使用。ピックアップはP-90で、色はダーク・チェリー(白もあり)。ウッドストック・フェスティバルをはじめ、様々な歴史的イベントで使用された。タウンゼントも「しっかりした作りで相性も最高だった」と語っている[120]。
- ギブソン・レスポール・デラックス
- 1972年から1982年にかけて使用。SGに代わってメインで使用されるようになる。またタウンゼントのシグネイチャー・モデルも存在し、ピックアップ配列は2個のミニハムバッカーの間にハムバッカー1個をマウントするという独特なもので、コントロールノブの横にコイルタップ用のトグルスイッチが2個設けられ、ボディの表面にはアラビア数字が大きく入れられている。色はヘリテージ・チェリー・サンバースト、ゴールド、ダークチェリーの3パターン。この他、レスポールJr.やレスポール・カスタムの使用も確認されている。
- フェンダー・テレキャスター
- 1980年代はメインで使用。シェクター製のものも並行して使用しており、ライブ・エイドではシェクターを使用した。1960年代にも使用していたことがある。
- フェンダー・エレクトリックXII
- ステージでは使用されず、主にレコーディングの方で使用された。1968年のシングル「マジック・バス」のプロモーションビデオではこのギターを使用している。
- グレッチ・6120
- 1971年のアルバム『フーズ・ネクスト』の制作に先立ち、友人のジョー・ウォルシュから譲り受けたもの。同アルバムのレコーディングではメインで使用された。ステージではエリック・クラプトンの復帰コンサートで使用された。その後1973年のテレビ番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」で破壊されてしまう。以降もレコーディングでたびたび使用された。
- アコースティックギター
- ギブソン・J-200
- 1968年より現在まで使用され続けている。かつてのザ・フーではステージではエレキギターしか弾かなかったため、長らくレコーディングでしか使用されてこなかったが、1989年以降はステージでも使用される機会が多くなっている。
- ギルド・Custom F-612XL
- 1971年以降、J-200に次いで多用されてきた12弦アコースティック。この他、マーティンやハーモニー、タカミネなども使用している。
- アンプ
- フェンダー・ベースマン/トレモラックス/プロ
- 1964年から1965年まで使用。途中からスピーカー・キャビネットはマーシャルに変わった。
- マーシャル・stack JTM45/100
- 1965年から1968年まで使用。
- サウンド・シティ・L100 SC105
- 1967年から1968年まで使用。タウンゼントは導入間もなく、アンプヘッドの改造をサウンド・シティの製造者のデイヴ・リーヴスに依頼するが、そのリーヴスが改造したアンプヘッドにハイワットのロゴを貼ったことが、後述のハイワット・アンプが有名になるきっかけとなった[121]。
- ハイワット・CP103/DR103W
- 1968年から1985年まで、ザ・フーの全盛期を支えたアンプ。タウンゼントの使用により、イギリスのミュージシャンの間で知名度が上がったブランドである[121]。1986年からはメインから外されるが、以降もサブ・アンプとして何度か使用されている。
- メサブギー・MkI
- サブとしては1977年から、ステージでのメイン・アンプとしては1989年から1997年まで使用された。
- フェンダー・ヴィブロキング
- 2000年から2017年現在に至るまでメインで使用されているコンボアンプ。
- エフェクター
- ユニヴォックス・スーパーファズ
- 1968年から1978年まで使用。ファズ・エフェクターについては1966年頃からトーン・ベンダー製やギブソン・マエストロなどを使用してきたが、本品が最も長く使用された。タウンゼントはエフェクター・ペダルはマイクスタンドの足元ではなく、ドラムセットの脇に置いていた。
ディスコグラフィ
[編集]スタジオ・アルバム
[編集]- 『フー・ケイム・ファースト』 - Who Came First (1972年)
- 『ラフ・ミックス』 - Rough Mix (1977年)
- ロニー・レインとの共作。
- 『エンプティ・グラス』 - Empty Glass (1980年)
- 『チャイニーズ・アイズ』 - All the Best Cowboys Have Chinese Eyes (1982年)
- 『ホワイト・シティ』 - White City : A Novel (1985年)
- 『アイアン・マン』 - Iron Man (1989年)
- 『サイコデリリクト』 - Psychoderelict (1993年)
- ダイアログを省いたMusic Only Versionもある。
ライブ・アルバム
[編集]- 『エリック・クラプトン/レインボー・コンサート』 - Eric Clapton's Rainbow Concert (1973年)
- クラプトンのバンドメンバーの一人としてギター&ボーカルで参加。コンサートの企画者でもある。
- 『ディープ・エンド・ライブ』 - Deep End Live! (1986年)
- Pete Townshend Live : A Benefit for Maryville Academy (1999年)
- The Oceanic Concerts (2001年)
- ラファエル・ラッドとの共作
ベスト・アルバム
[編集]- Cool Walking Smooth Talking Straight Smoking Fire Stoking (1996年)
- 全15曲で1CD。
- Scooped (2002年)
- 全35曲で2CD。スクープ・シリーズの総集編。
- Anthology (2005年)
- 全34曲で2CD。
- Truancy (2015年)
- 全17曲で1CD。最後の2曲は新曲。
未発表音源集、他
[編集]- 『スクープ』 - Scoop (1983年)
- 『アナザー・スクープ (スクープ2)』 - Another Scoop (1987年)
- Lifehouse Chronicles (1999年)
- インターネットでのみの販売
- Lifehouse Elements (2000年)
- 『スクープ3』 - Scoop 3 (2001年)
- Pete Townshend's Classic Quadrophenia (2015年)
ユニヴァーサル・スピリチュアル・リーグのアルバム
[編集]- 『ハッピー・バースデイ』 - Happy Birthday (1970年)
- 『アイ・アム』- I Am(1972年)
- 『ウィズ・ラヴ』- With Love(1976年)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 「ソー・サッド・アバウト・アス」はザ・フーのセカンド・アルバム『ア・クイック・ワン』(1966年)で、「マジック・バス」はザ・フーのシングル(1968年)で、セルフ・カバーされた。
- ^ タウンゼントとレーンは1968年に知り合って親しくなった。レーンはタウンゼントがババの教えについて語るのに熱心に耳を傾け、タウンゼントと同様に、ユニヴァーサル・スピリチュアル・リーグの『ハッピーバース・デイ』、『アイ・アム』、『ウィズ・ラヴ』に参加した。
- ^ ザ・フーが1973年に発表したアルバムQuadropheniaと同じ邦題だが、直接の関連は無い。
- ^ 2023年現在では未発表である。
- ^ 2017年現在、これらのサイトは閉鎖されており、ザ・フーの公式サイトに全て統合されている。
出典
[編集]- ^ Carlos Santana | 100 Greatest Guitarists | Rolling Stone
- ^ 『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.31
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- ^ a b 『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.35
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- ^ 『フー・アイ・アム』・p.39
- ^ a b 『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.37
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- ^ 『フー・アイ・アム』・p.44
- ^ 『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.41
- ^ 『フー・アイ・アム』・p.52
- ^ 『フー・アイ・アム』・p.57
- ^ 『フー・アイ・アム』・p.58
- ^ a b c d e f g 『アルティミット・ガイド』・p.139
- ^ CD『ア・クイック・ワン』コレクターズ・エディション(2012年)付属の犬伏功による解説より。
- ^ “Discogs”. 2023年9月18日閲覧。
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- ^ “Discogs”. 2023年9月18日閲覧。
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- ^ ザ・フーのロジャー・ダルトリー、“ピートは小児性愛者ではない”
- ^ ピート・タウンゼントの母親が彼を弁護、虐待を受けていたのは知らなかったと語る
- ^ クイーンのブライアン・メイ、ピート・タウンゼントのメディア報道に不快感
- ^ ザ・フーのロジャー・ダルトリー、児童ポルノ捜査は“魔女狩り”と英国政府を非難
- ^ 『フー・アイ・アム』・p.425
- ^ a b 『フー・アイ・アム』・p.426
- ^ ピート・タウンゼント、児童ポルノで不起訴となるも警察から警告、性犯罪者リストに
- ^ ザ・フー、ピート・タウンゼントの渡米をめぐり、親に警告書が配布される | The Who | BARKS音楽ニュース
- ^ ピート・タウンゼント、小児性愛を否定。児童ポルノは自伝の下調べが目的と語る
- ^ 『フー・アイ・アム』・p.397
- ^ 『フー・アイ・アム』・p.417
- ^ 『フー・アイ・アム』・p.420
- ^ 『フー・アイ・アム』・pp.19-20
- ^ フー・アイ・アム・p.418
- ^ 児童ポルノ疑惑のピート・タウンゼント、身の潔白を示す証拠が見つかる
- ^ Operation Ore flawed by fraud | Technology | The Guardian
- ^ 『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』・p.204
- ^ a b HIWATT HISTORY (02) | コラム「歴史と伝統の英国サウンド 」
- ^ Pete's Gear: Pete Townshend Guitar Equipment History | Pete Townshend’s Guitar Gear | Whotabs
引用文献
[編集]- Neill, Andy; Kent, Matt (2007). Anyway Anyhow Anywhere: The Complete Chronicle of The Who 1958-1978. London: Virgin Books. ISBN 978-0-7535-1217-3
- Townshend, Pete (2012). Who I Am. London: HarperCollins. ISBN 978-0-00-747916-0
- Daltrey, Roger (2018). Thanks a Lot, Mr. Kibblewhite: My Story. New York: St. Martin's Griffin. ISBN 978-1-250-23710-1
参考文献
[編集]- 『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』(アンディ・ニール、マット・ケント著、佐藤幸恵、白井裕美子訳、シンコーミュージック刊、2008年)ISBN 978-4-401-63255-8
- 『フー・アイ・アム』(ピート・タウンゼント著、森田義信訳、河出書房新社刊、2013年)ISBN 978-4-309-27425-6
- レコード・コレクターズ増刊『ザ・フー アルティミット・ガイド』 (ミュージック・マガジン刊、2004年)