「アトレティコ・マドリード」の版間の差分
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|原語表記= Club Atlético de Madrid S.A.D. |
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|愛称= ''Los Colchoneros'' (マットレス、マットレス屋),<br />''Los Rojiblancos'' (赤と白),<br />''Los Indios'' (インディアン),<br />''El Atleti'' |
|愛称= ''Los Colchoneros'' (マットレス、マットレス屋),<br />''Los Rojiblancos'' (赤と白),<br />''Los Indios'' (インディアン),<br />''El Atleti'' |
2018年9月30日 (日) 14:26時点における版
アトレティコ・マドリード | |||
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ファイル:Atléticodemadridlogo.jpg.png | |||
原語表記 | Club Atlético de Madrid S.A.D. | ||
愛称 |
Los Colchoneros (マットレス、マットレス屋), Los Rojiblancos (赤と白), Los Indios (インディアン), El Atleti | ||
クラブカラー | 赤と白 | ||
創設年 | 1903年 | ||
所属リーグ | リーガ・エスパニョーラ | ||
所属ディビジョン | プリメーラ・ディビシオン | ||
ホームタウン | マドリード | ||
ホームスタジアム | ワンダ・メトロポリターノ | ||
収容人数 | 73,000 | ||
代表者 | エンリケ・セレソ | ||
監督 | / ディエゴ・シメオネ | ||
公式サイト | 公式サイト | ||
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■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
クルブ・アトレティコ・デ・マドリード(Club Atlético de Madrid SAD、スペイン語発音: [ˈkluβ aðˈletiko ðe maˈðɾið])は、スペインのマドリードを本拠地とするサッカークラブチームである[1]。アトレティコ・マドリードあるいはアトレティコとして一般的に知られている。
リーガ・エスパニョーラのプリメーラ・ディビションに籍を置く。「アトレティコ」は「総合スポーツ (Athletic) 」の意。
「アトレティコ」という名称がつくサッカークラブは世界中に多数存在するが、略称としての「アトレティコ」は本クラブを指すことが一般的である。ただし、日本ではブラジルポルトガル語読みの「アトレチコ・マドリード」などと表記される場合がある。
概要
アトレティコはこれまでに、ラ・リーガ優勝10回、コパ・デル・レイ(国王杯)優勝10回、スーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝1回、コパ・エバ・ドゥアルテ優勝3回を果たし、欧州では1962年にUEFAカップウィナーズカップ優勝、3度のUEFAチャンピオンズリーグ準優勝[2]、2010年、2012年、2018年にUEFAヨーロッパリーグ優勝、2010年、2012年にUEFAスーパーカップ優勝、2017年にUEFAヨーロッパリーグ優勝を果たしている。
Los Colchonerosはビセンテ・カルデロン(収容人数54,960人)でホームゲームを開催していたが[3]、2017-18シーズンからワンダ・メトロポリターノ(収容人数73,000人)に本拠地を移転。
ホームユニフォームは赤色と白色の縦縞のシャツに青色のショートパンツ、青色と赤色のソックスである。この組合せは1911年から使用されている。2017-18シーズンのユニフォームサプライヤーはナイキ、ユニフォームスポンサーはPlus500(外国為替証拠金取引等を扱う金融先物取引業者)である。
アトレティコはレアル・マドリードとFCバルセロナに次いで、スペインで3番目にサポーターが多いクラブである。また、ソシオの数の面では最も規模の大きなクラブの一つであり、6万5千人を越えるシーズンチケット保持者がいる。
スペインのアスによると、2017年3月23日にアトレティコのソシオ数が10万人に達し、スペインで2番目、世界で8番目にソシオ数が多いクラブだと報じている。[4]
『デロイト・フットボール・マネー・リーグ』によると、14-15シーズンのクラブ収入は約238億円で、欧州第15位、スペインではレアル・マドリードCF、FCバルセロナに次いで第3位である。
これまでに歴史の中、クラブはLos Colchoneros(マットレス、もしくはマットレス屋の意。ホームユニフォームで採用されている赤と白の縦縞がスペインの古風なマットレスと同じ色調であるため。)などの多くの愛称で知られてきた。1970年代は、Los Indios(インディアン)として知られるようになった。これはおそらく外国人選手との契約制限が取り除かれた後に複数の南米選手と契約したことによる。しかしながら、その他にも、スタジアムが河岸にあったため、あるいはLos Indios(インディアン)がLos Blancos(白人の意。アトレティコのライバルであるレアル・マドリードの愛称でもある)の伝統的な敵であったため[5]、など多くの他説もある。
歴史
創設期
クラブの創設は1903年4月26日。クラブの起源は、バスク地方の名門チーム・アスレティック・ビルバオが、首都マドリードに設置した姉妹チームに遡る。現在、その関係は切れてはいるが、チームカラーがビルバオと同系統なのはそのためである。同じマドリードを本拠とするライバルのレアル・マドリードが主に富裕層の支持を受けるクラブであったのに対し、アトレティコは主に労働者階級の支持を受けて発展してきたクラブであり、サポーターは熱狂的なことで有名である。
1930年代後半から1940年代前半には軍隊のチームとなり、アトレティコ・アビアシオンという名称だった時期がある。10回の優勝のうち2回はこの時期に獲得したものである。現在、その名称はアトレティコの下部組織の名前として残っている。現在のクラブ名になったのは、1947年のことであった。この頃から、徐々に勢いを増していった。後にインテルにグランデ・インテルと称される黄金期をもたらすことになるアルゼンチン人のエレニオ・エレーラが監督に就任してからは、ラルビ・ベンバレクらを擁するチームは国内リーグを連覇した。エレーラが去った後も勢いを増し、1960年代にかけて黄金期を創り出した。しかし、同時期にアルフレッド・ディ・ステファノのレアル・マドリード、ラディスラオ・クバラのFCバルセロナという強大な敵が国内に存在したことから国内でのタイトルを積み上げられず、結果欧州レベルでの実績を挙げることが出来なかった。1959年にはUEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)の準決勝まで駒を進めているが、立ちはだかったのは仇敵レアル・マドリードであった。結局、黄金期のアトレティコが得た国際タイトルは、1962年のUEFAカップウィナーズカップ優勝のみに留まった。
リーガ3強時代から2部降格へ
1974年にはUEFAチャンピオンズカップで決勝戦に進出。バイエルン・ミュンヘンを相手に0-0のまま延長戦となり、114分のルイス・アラゴネスのゴールで先制すると、そのまま延長戦終了間際までリードを保っていた。しかし、シュヴァルツェンベックに30メートル以上のミドルシュートを決められ、同点に追いつかれた。結局2日後の再試合では敗れ、準優勝に終わった。しかし、その後出場を辞退したバイエルンに代わって出場したインターコンチネンタルカップでは、アルゼンチンのCAインデペンディエンテを下し、世界一の座に輝いた。なおスペインにおいて、インターコンチネンタルカップを獲得しているクラブは、レアル・マドリードとアトレティコだけである(大会名称が変わったFIFAクラブワールドカップはFCバルセロナも獲得している)。
1987年に事業家のヘスス・ヒルが会長に就任。1995-96シーズンには、クラブ史上初めてリーガ・エスパニョーラとコパ・デル・レイの二冠を達成、これはヒル会長の行った大型補強の成果といえる。更に、この前年プリメーラ・ディビシオンで得点王を獲得したサルバ・バジェスタが加入した。
復活と停滞
1年での1部復帰が叶わなかったが、ルイス・アラゴネスを招聘し、フェルナンド・トーレスの台頭などもあって、2002-03シーズンに1部復帰を果たした。
2003年にヘスス・ヒルが会長から退任したが、低迷を続けるアトレティコが上昇のきっかけをつかむことはできなかった。新会長エンリケ・セレソは、ヒル時代に蓄積された巨額の負債にも悩まされることとなった。
不振が続く中、2005-06シーズンにはカルロス・ビアンチが監督に就任し、マルティン・ペトロフ、マキシ・ロドリゲス、マテヤ・ケジュマン、ルシアーノ・ガジェッティらを獲得した。優勝候補の一角にも挙げられたが、予想に反しチームは低迷し、前半戦終了を待たずにビアンチは解任された。その後、下部組織からペペ・ムルシアが監督に就任。その後は14年ぶりの6連勝を果たすなど一時調子を上げたが、マキシ・ロドリゲスが代表招集中に怪我をしてから再び失速、最終的には10位でシーズンを終えた。
2006-07シーズンには、メキシコ代表やCAオサスナで実績を挙げたハビエル・アギーレを招聘。更に大型補強をし、再建を図った。しかしリーガ最終順位は7位に終わった。
2007年7月にはフェルナンド・トーレスをリヴァプールに放出した。迎えた2007-08シーズンは、不安定な戦いに終始しアギーレも批判を浴びたが、加入2年目のセルヒオ・アグエロが19ゴール、新加入のディエゴ・フォルランが16ゴールを記録し、新加入のシモン・サブローザ、ラウール・ガルシア、下部組織出身のイグナシオ・カマーチョらも活躍した事で最終順位は4位で、1995-96シーズン以来12年ぶりにUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。
2008-09シーズンは、シーズン途中にアギーレが解任されるなど終始不安定ではあったが、終盤戦の6連勝で最終的に4位となり、2年連続でUEFAチャンピオンズリーグ出場権を得た。最終節のUDアルメリア戦はエスタディオ・ビセンテ・カルデロンでの1000試合目であり、記念の試合を3-0の快勝で飾った。
2009-10シーズン、序盤は大きく低迷し、2シーズン連続で出場したUEFAチャンピオンズリーグもグループリーグで敗退。前シーズン途中から監督に就いていたアベル・レシーノを解任しキケ・サンチェス・フローレスを招聘した。冬の移籍期間中に獲得したティアゴ・メンデスの活躍もあり、不振に陥っていたチームの建て直しに成功した。UEFAチャンピオンズリーグのグループリーグを3位で終えていたため、UEFAヨーロッパリーグに決勝トーナメントより参戦した。決勝戦でフラムFCをフォルランの2ゴールで2-1と下し、UEFAヨーロッパリーグの初代チャンピオンとなった。また、リーグ戦の最終順位は9位だったが、スペイン国王杯では1999-2000シーズン以来10年ぶりに決勝に進出。セビージャFCに敗れ、準優勝に終わった。
2010-11シーズンは、UEFAスーパーカップでチャンピオンズリーグ王者のインテルを2-0で下したが、UEFAヨーロッパリーグではグループリーグで敗退し、1月から2月前半にかけては8敗を喫した。シーズン終盤のセルヒオ・アグエロのゴールラッシュによって、UEFAヨーロッパリーグ出場圏内の7位にこそ位置したものの、キケはシーズンが終わる前に監督からの退任を宣言した。アグエロは移籍を表明した。なお3月の東日本大震災の際には、スペイン在住記者とGoal.comを通じて日本へ応援メッセージが届けられた[6]。
2011-12シーズンは、ヘスス・ガルシア・ピタルチに代わる新スポーツディレクターとしてホセ・ルイス・カミネロを招聘[7]。そして新指揮官には、2003-04シーズンにもチームを率いたグレゴリオ・マンサーノを呼び戻した[8]。移籍の意思を表明していたアグエロが推定4500万ユーロでマンチェスター・シティFCへ[9]、ダビド・デ・ヘアは推定2100万ユーロでマンチェスター・ユナイテッドFCへ[10]、フォルランは500万ユーロでインテルへ[11]移籍した。その一方、UEFAヨーロッパリーグ得点王のラダメル・ファルカオ、アルダ・トゥラン、ローンでジエゴを獲得した。また、カンテラーノのガビをレアル・サラゴサから呼び戻した。しかし、リーグ戦では苦戦を強いられ同年12月にマンサーノを監督から解任した。
シメオネ体制と復権
後任の監督にディエゴ・シメオネが就任すると、持ち前の求心力を発揮し全選手に高い守備意識とハードワークを植え付け、中盤と最終ラインに強固なブロックを形成し、攻撃では奪ったボールをジエゴ、アドリアン・ロペス、トゥラン、ファルカオを生かすシンプルな戦い方へと舵を切った。その結果チームは調子を取り戻し、マンサーノの時は5試合しかなかった無失点試合がシメオネの時は就任後の6試合を全て無失点で乗り切ったのも含めて10試合に倍増しリーグ戦は5位。決勝トーナメントはおろか、マンサーノが監督だったグループステージ第4節のウディネーゼ戦から9連勝。しかも全て2失点以内に抑えたのもあって2年ぶりにUEFAヨーロッパリーグを制覇した。 2012-13シーズンは、UEFAスーパーカップでチャンピオンズリーグ王者のチェルシーを破り2度目のUEFAスーパーカップ制覇を達成した。リーガ・エスパニョーラでもシメオネの掲げる激しいプレスでボールを奪い、素早く攻撃に移るスタイルでジエゴ・コスタが2トップに定着したのに合わせて、当時21歳だったティボ・クルトゥワが、4連覇中だったFCバルセロナのビクトル・バルデスからサモラ賞を奪えば、トゥランやコケが中盤の核に定着したのも相まって2強に次ぐ3位の好成績を収める。さらに、レアル・マドリードとのマドリードダービーとなったコパ・デル・レイ決勝では、延長戦の末14年ぶりとなるダービー勝利を果たし、17年ぶり10回目の国王杯優勝を達成した。
2013-14シーズンは、前年度チーム得点王のファルカオがASモナコに移籍したものの、ダビド・ビジャをFCバルセロナから獲得した。新加入ビジャとジエゴ・コスタが2トップを形成し、リーグ序盤からバルセロナ、レアル・マドリードと熾烈な優勝争いを展開した。首位で迎えた最終節、敵地カンプ・ノウでの2位バルセロナとの直接対決で引き分け、18年ぶりにリーグ優勝を達成した。UEFAチャンピオンズリーグでもFCポルトやFCゼニト・サンクトペテルブルクに勝利し、グループリーグ首位通過を決めた。決勝トーナメントでも、ベスト16で2007年の王者・イタリアのACミランを、準々決勝で同じスペインで2006、2009、2011年の王者バルセロナを、準決勝で2012年の王者イングランドのチェルシーFCと歴代のチャンピオンズリーグ王者を次々に破って40年ぶりに決勝に進出。チャンピオンズリーグ史上初の同一都市に所在するクラブ同士の対戦となった決勝戦[12]ではレアル・マドリード相手に90分+5分のアディショナルタイムうちの3分まで前半に挙げたディエゴ・ゴディンのゴールで1-0とリードしたものの、後半終了間際にコーナーキックから相手のセルヒオ・ラモスにゴールを奪われ延長戦に持ち込まれる。延長戦ではそのまま相手の勢いに呑まれ3失点を喫し1-4で大敗。準優勝に終わった。
2014-2015シーズンに向けた夏の移籍市場では、前年シーズンのリーグ優勝とCL準優勝の立役者であったジエゴ・コスタとフィリペ・ルイスをチェルシーへ売却したほか、ビジャはニューヨーク・シティFCへ移籍し、クルトゥワはチェルシーからのレンタル移籍期間満了により退団した。これら昨季の主力選手の抜けた穴を補填する目的で、バイエルン・ミュンヘンからマリオ・マンジュキッチ、レアル・ソシエダからアントワーヌ・グリーズマン、トリノFCからアレッシオ・チェルチ、ヘタフェCFよりミゲル・アンヘル・モジャ、SLベンフィカからヤン・オブラク、グラナダCFからギリェルメ・シケイラを獲得した。昨シーズンリーガ王者として戦ったスーペル・コパでは、ライバルのレアル・マドリードを下して29年ぶり2度目の優勝を果たした。冬にはフェルナンド・トーレスがチェルチとの交換トレードでACミランからレンタル移籍し、2006-07シーズン以来7年半ぶりに復帰した。チャンピオンズリーグではラウンドオブ16でバイエル・レバークーゼンをPK戦で下したものの準々決勝で昨季に引き続きレアル・マドリードとのダービーが実現。1stレグは0-0で終えるも、2ndレグでは後半31分にトゥランが退場となった後にチチャリートのゴールが決まり、0-1で敗れてベスト8で敗退。ダービーでの対戦成績では8試合4勝3分け1敗(今季もスペインの国内の3コンペティションでは4勝2分)と大きく勝ち越していたものの、チャンピオンズリーグ決勝でのリベンジは果たせなかった。
2015-16シーズンは、開幕前にFCポルトからジャクソン・マルティネス、ビジャレアルCFからルシアーノ・ビエット、ASモナコからヤニック・カラスコを獲得し、チェルシーからフィリペ・ルイス、FCポルトにレンタルされていた下部組織出身のオリベル・トーレスが復帰した。リーグ戦では当初、新戦力が噛み合わず勝ち点を落とすこともあったが、ジャクソンに見切りを付けて冬に広州恒大へ売却する一方で、フェルナンド・トーレスの復活やアントワーヌ・グリーズマン、サウール・ニゲス、冬にセルタ・デ・ビーゴから加入したアウグスト・フェルナンデスらの活躍によりFCバルセロナとレアル・マドリードと優勝争いを展開するも最終的に昨年と同じ3位に入り、リーグ戦38試合全てにフル出場して18失点とゴールに鍵をかけ続けたオブラクがサモラ賞を受賞している。チャンピオンズリーグでは2年ぶりに決勝に進出。決勝では2年前と同じくレアル・マドリードとのマドリードダービーとなり、持ち前の4-4-2でブロックを作った守備を発揮したが、前半に先制を許す。後半に途中出場のカラスコのゴールで追いついたが、延長戦を戦い抜いて1-1のままスコアは動かず、PK戦の末3-5で敗れ、再びレアル・マドリードの前に涙を飲んだ。
2016-17シーズンの夏の移籍市場では、セビージャFCからケヴィン・ガメイロ、SLベンフィカからニコラス・ガイタンらを獲得したほか、フェルナンド・トーレスの保有権を買い取った。リーグ戦ではレアル・マドリードとバルセロナと上位争いをしたが3位でフィニッシュ。チャンピオンズリーグでは準決勝まで勝ち進み、決勝トーナメントでは4年連続となるレアル・マドリードと対戦との対戦となったが、2戦合計2-4で敗れてベスト4で大会を去った。
マドリードダービー
レアル・マドリードとアトレティコ・マドリードは、対照的なアイデンティティと非常に異なる運命を持つクラブである。歴史的に、レアル・マドリードはエスタブリッシュメントクラブであると長年見られてきた。その一方で、アトレティコは常に「sentimiento de rebeldía」(抵抗の意識)を特徴としていた。しかし、初期フランコ時代には、体制に好まれたチームはアトレティコであった[要出典]。1950年代に体制の好みがレアル・マドリードに移るまでは、アトレティコは(Atletico Aviacionと改名し)空軍と関連付けられていた。
確かに、フランコ政権下の独裁国家はスペインが国際的に孤立していた当時、レアル・マドリードのヨーロピアンカップ制覇を政治的に利用しようとしていた。当時ある大臣は「レアル・マドリードはこれまでで最も優れた使節である」と述べた[要出典]。こういった認識は、集合意識に乗り、マドリードのサッカーアイデンティティに重要な影響をもたらしてきている。アトレティコのファンは「Hala Madrid, hala Madrid, el equipo del gobierno, la verguenza del país(ゆけマドリード、ゆけマドリード、政府のチーム、国の恥)」という歌のおそらく本家である。
アトレティコは2012-2013シーズンまでダービーで14戦勝利がなかった。しかしながら、2013年5月17日、エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウでの国王杯決勝でレアル・マドリードを2対1で破り優勝を果たし、2013年9月29日にも再びエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウにおいて1対0で勝利した。2014年5月25日にはUEFAチャンピオンズリーグのビッグイヤーをかけた決勝の舞台で、延長戦にまでもつれ込む熱戦を演じた。2015年2月7日のリーグ戦ではホームで4-0の歴史的大勝を果たしている。2016年5月28日にもUEFAチャンピオンズリーグの決勝で対戦し、PK戦まで持ち込んだ。
タイトル
国内タイトル
- プリメーラ・ディビシオン : 10回
- 1939-40, 1940-41, 1949-50, 1950-51, 1965-66, 1969-70, 1972-73, 1976-77, 1995-96, 2013-14
- コパ・デル・レイ : 10回
- 1960, 1961, 1965, 1972, 1976, 1985, 1991, 1992, 1996, 2013
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ : 2回
- 1985, 2014
国際タイトル
- UEFAヨーロッパリーグ : 3回
- UEFAカップウィナーズカップ : 1回
- 1961-62
- UEFAスーパーカップ : 3回
- インターコンチネンタルカップ : 1回
- 1974
過去の成績
シーズン | ディビジョン | 順位 | 試 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 点 | 国内カップ | 欧州カップ | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1985-86 | プリメーラ | 5位 | 34 | 17 | 8 | 9 | 53 | 38 | 42 | 準々決勝敗退 | CWC | 準優勝 | |
1986-87 | プリメーラ | 7位 | 34 | 13 | 9 | 12 | 37 | 40 | 35 | 準優勝 | UC | 2回戦敗退 | |
1987-88 | プリメーラ | 3位 | 38 | 19 | 10 | 9 | 60 | 38 | 48 | 準々決勝敗退 | - | - | |
1988-89 | プリメーラ | 4位 | 38 | 19 | 8 | 11 | 69 | 45 | 46 | 準決勝敗退 | UC | 1回戦敗退 | |
1989-90 | プリメーラ | 4位 | 38 | 20 | 10 | 8 | 55 | 35 | 50 | ベスト16 | UC | 1回戦敗退 | |
1990-91 | プリメーラ | 2位 | 38 | 17 | 13 | 8 | 52 | 28 | 47 | 優勝 | UC | 1回戦敗退 | |
1991-92 | プリメーラ | 3位 | 38 | 24 | 5 | 9 | 67 | 35 | 53 | 優勝 | CWC | 準々決勝敗退 | |
1992-93 | プリメーラ | 6位 | 38 | 16 | 11 | 11 | 52 | 42 | 43 | ベスト16 | CWC | 準決勝敗退 | |
1993-94 | プリメーラ | 12位 | 38 | 13 | 9 | 16 | 54 | 54 | 35 | ベスト16 | UC | 2回戦敗退 | |
1994-95 | プリメーラ | 14位 | 38 | 13 | 9 | 16 | 56 | 54 | 35 | 準々決勝敗退 | - | - | |
1995-96 | プリメーラ | 1位 | 42 | 26 | 9 | 7 | 75 | 32 | 87 | 優勝 | - | - | |
1996-97 | プリメーラ | 5位 | 42 | 20 | 11 | 11 | 76 | 64 | 71 | 準々決勝敗退 | UCL | 準々決勝敗退 | 準優勝 スーペルコパ |
1997-98 | プリメーラ | 7位 | 38 | 16 | 12 | 10 | 79 | 56 | 60 | ベスト16 | UC | 準決勝敗退 | |
1998-99 | プリメーラ | 13位 | 38 | 12 | 10 | 16 | 54 | 50 | 46 | 準優勝 | UC | 準々決勝敗退 | |
1999-00 | プリメーラ | 19位 | 38 | 9 | 11 | 18 | 48 | 64 | 38 | 準優勝 | UC | 4回戦敗退 | 降格 |
2000-01 | セグンダ | 4位 | 42 | 21 | 11 | 10 | 59 | 39 | 74 | 準決勝敗退 | |||
2001-02 | セグンダ | 1位 | 42 | 23 | 10 | 9 | 68 | 44 | 79 | 1回戦敗退 | 昇格 | ||
2002-03 | プリメーラ | 11位 | 38 | 12 | 11 | 15 | 51 | 56 | 47 | 準々決勝敗退 | |||
2003-04 | プリメーラ | 7位 | 38 | 15 | 10 | 13 | 51 | 53 | 55 | 準々決勝敗退 | |||
2004-05 | プリメーラ | 11位 | 38 | 13 | 11 | 14 | 40 | 34 | 50 | 準決勝敗退 | 準優勝 UEFAインタートトカップ | ||
2005-06 | プリメーラ | 10位 | 38 | 13 | 13 | 12 | 45 | 37 | 52 | ベスト16 | |||
2006-07 | プリメーラ | 7位 | 38 | 17 | 9 | 12 | 46 | 39 | 60 | ベスト16 | |||
2007-08 | プリメーラ | 4位 | 38 | 19 | 7 | 12 | 66 | 47 | 64 | ベスト8 | UC | ベスト32 | 優勝 UEFAインタートトカップ |
2008-09 | プリメーラ | 4位 | 38 | 20 | 7 | 11 | 80 | 57 | 67 | ベスト16 | UCL | ベスト16 | |
2009-10 | プリメーラ | 9位 | 38 | 13 | 8 | 17 | 57 | 61 | 47 | 準優勝 | UEL | 優勝 | UCL – グループステージ敗退 |
2010-11 | プリメーラ | 7位 | 38 | 17 | 7 | 14 | 62 | 53 | 58 | ベスト8 | UEL | グループステージ敗退 | 優勝 UEFAスーパーカップ |
2011-12 | プリメーラ | 5位 | 38 | 15 | 11 | 12 | 53 | 46 | 56 | ベスト32 | UEL | 優勝 | |
2012-13 | プリメーラ | 3位 | 38 | 23 | 7 | 8 | 65 | 31 | 76 | 優勝 | UEL | ベスト32 | 優勝 UEFAスーパーカップ |
2013-14 | プリメーラ | 1位 | 38 | 28 | 6 | 4 | 77 | 26 | 90 | ベスト4 | UCL | 準優勝 | |
2014-15 | プリメーラ | 3位 | 38 | 23 | 9 | 6 | 67 | 29 | 78 | ベスト8 | UCL | ベスト8 | 優勝 スーペルコパ |
2015-16 | プリメーラ | 3位 | 38 | 28 | 4 | 6 | 63 | 18 | 88 | ベスト8 | UCL | 準優勝 | |
2016-17 | プリメーラ | 3位 | 38 | 23 | 9 | 6 | 70 | 27 | 78 | ベスト4 | UCL | ベスト4 | |
2017-18 | プリメーラ | 2位 | 38 | 23 | 10 | 5 | 58 | 22 | 79 | ベスト8 | UEL | 優勝 | UCL - グループステージ敗退 |
2018-19 | プリメーラ | 優勝 UEFAスーパーカップ |
優勝 準優勝 昇格 降格
現所属メンバー
- ラ・リーガ 2018-19シーズン 第1節フォーメーション
- 2018年8月21日現在
- 監督
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
|
|
括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。
(※1)EU圏外だが、リーガ・エスパニョーラでは外国人枠とは見なさない。
- レンタル移籍選手
- in
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
|
- out
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
|
|
歴代会長
- エンリケ・アジェンデ: 1903
- エドゥアルド・デ・アチャ: 1903-1907
- リカルド・デ・ゴンドラ: 1907-1909
- ラモン・デ・カルデナス: 1909-1912
- フリアン・ルエテ: 1912-1919
- アルバロ・デ・アギラル: 1919-1920
- フリアン・ルエテ: 1920-1923
- フアン・デ・エステファニア: 1923-1926
- ルシアーノ・ウルギホ: 1926-1931
- ラファエル・ゴンサーレス: 1931-1935
- ホセ・ルイス・デル・バジェ: 1935-1936
- ホセ・マリア・フェルナンデス: 1936-1939
- フランシスコ・ビベス: 1939
- ルイス・ナバロ: 1939-1941
- マヌエル・ガジェゴ: 1941–1945
- フアン・トウソーン: 1946-1947
- セサレオ・ガリンデス: 1947-1952
- マルケス・デ・ラ・フロリダ: 1952-1955
- フアン・スエボス: 1955
- ハビエル・バロッソ: 1955-1964
- ビセンテ・カルデロン: 1964-1980
- リカルド・イレサーバル: 1980
- アルフォンソ・カベサ: 1980-1982
- アントニオ・デル・オヨ: 1982
- アグスティン・コトルエロ: 1982
- ビセンテ・カルデロン: 1982-1986
- フランシスコ・カステド: 1986-1987
- ヘスス・ヒル: 1987-2003
- エンリケ・セレソ: 2003-
歴代監督
- マヌエル・アンソレアガ 1921-1922
- ウルバノ・イトゥルベ 1922-1923
- ヴィンス・ヘイズ 1923-1924
- ラモン・オラルキアガ 1924-1925
- フレッド・ペントランド 1925-1926
- アンヘル・ロモ 1929-1930
- イェニ・ルドルフ 1930-1932
- ハビエル・バロゾ 1932
- ウォルター・ハリス 1932-1933
- マニュエル・アナトール 1933
- アルカディオ・アルテアガ 1933
- フレッド・ペントランド 1933-1935
- ジョゼップ・サミティエール 1935-1936
- リカルド・サモラ 1939-1940
- ラモン・デ・ラ・フエンテ・レアル 1940
- リカルド・サモラ 1940-1946
- エミリオ・ビダル 1946-1948
- リノ・トライオリ 1948-1949
- エレニオ・エレーラ 1949–1953
- ラモン・コロン 1953
- ベニート・ディアス 1953-1954
- ジャシント・キンコセス 1954-1955
- アントニオ・バリオス 1955-1957
- フェルディナント・ダウチーク 1957-1959
- ホセ・ビジャロンガ 1959-1962
- ラファエル・ガルシア 1962-1963
- エイドリアン・エスクデロ 1964
- サビノ・バリナガ 1963-1964
- オットー・ブンベル 1964-1965
- ドメネク・バルマーニャ 1965-1966
- オットー・グロリア 1966-1968
- ミゲル・ゴンザレス・ペレス 1968-1969
- マルセル・ドミンゴ 1969-1972
- マックス・メルケル 1972-1973
- フアン・カルロス・ロレンソ 1973-1974
- ルイス・アラゴネス 1974-1978
- エクトル・ヌーニェス 1978
- ルイス・アラゴネス 1978
- スサ・フェレンツ 1978-1979
- ルイス・アラゴネス 1979-1980
- ヘスス・マルティネス・ハヨ 1980
- マルセル・ドミンゴ 1980
- ホセ・ルイス・ガルシア・トライド 1980-1981
- カリエガ 1981
- ホセ・ルイス・ガルシア・トライド 1981-1982
- ルイス・アラゴネス 1982–86
- ビセンテ・ミエラ 1986
- ヘスス・マルティネス・ハヨ 1986-1987
- ルイス・アラゴネス 1987
- セサル・ルイス・メノッティ 1987-1988
- ホセ・ウファルテ 1988
- アントニオ・ブリオネス 1988
- ホセ・マリア・マクレギ 1988
- アントニオ・ブリオネス 1988
- ロン・アトキンソン 1988-1989
- コリン・アッディソン 1989
- アントニオ・ブリオネス 1989
- ハビエル・クレメンテ 1989-1990
- アントニオ・ブリオネス 1990
- ホアキン・ペイロ 1990
- イセリン・サントス・オベヘロ 1990
- トミスラフ・イヴィッチ 1990-1991
- ルイス・アラゴネス 1991-1993
- レーモン・エレディア 1993
- ジャイル・ペレイラ 1993
- レーモン・エレディア 1993
- エミリオ・クルス 1993
- ホセ・ルイス・ロメーロ 1994
- イセリン・サントス・オベヘロ 1994
- ホルヘ・ダレッサンドロ 1994
- フランシスコ・マツラナ 1994
- ホルヘ・ダレッサンドロ 1995
- アルフィオ・バシーレ 1995
- カルロス・サンチェス・アギアール 1995
- アルフィオ・バシーレ 1995
- ラドミル・アンティッチ 1995-1998
- アリゴ・サッキ 1998
- ラドミル・アンティッチ 1999
- クラウディオ・ラニエリ 1999-2000
- ラドミル・アンティッチ 2000
- フェルナンド・サンブラーノ 2000
- マルコス・アロンソ・ペーニャ 2000–01
- カルロス・ガルシア・カンタレホ 2001
- ルイス・アラゴネス 2001-2003
- グレゴリオ・マンサーノ 2003-2004
- セサル・フェランド 2004-2005
- カルロス・ビアンチ 2005-2006
- ペペ・ムルシア 2006-2006
- ハビエル・アギーレ 2006-2009
- アベル・レシーノ 2009
- キケ・フローレス 2009-2011
- グレゴリオ・マンサーノ 2011
- ディエゴ・シメオネ 2011-
歴代所属選手
GK
DF
- ホセ・チャモ
- セルソ・アジャラ
- カルロス・ガマーラ
- セルジ・バルフアン
- コスミン・コントラ
- ゴンサロ・デ・ロス・サントス
- ジョアン・カプデビラ
- ルイス・ペレア
- ゲオルギオス・セイタリディス
- トマーシュ・ウイファルシ
- ヨニー・ハイティンハ
- ファブリシオ・コロッチーニ
- フアニート・モレーノ
- ディエゴ・ゴディン
- フィリペ・ルイス
- ミランダ
- フアンフラン
- ダニエル・ディアス
- トビー・アルデルワイレルト
MF
FW
- フリオ・サリーナス
- キコ
- クリスティアン・ヴィエリ
- フェルナンド・トーレス
- マテヤ・ケジュマン
- フアン・エスナイデル
- セルヒオ・アグエロ
- ディエゴ・フォルラン
- ジエゴ・コスタ
- ラダメル・ファルカオ
- ダビド・ビジャ
- マリオ・マンジュキッチ
- アントワーヌ・グリーズマン
- アレッシオ・チェルチ
- ジャクソン・マルティネス
脚注
- ^ “:: Tienda Club Atlético de Madrid::” (Spanish). Atlético Madrid. 13 December 2010時点のオリジナルよりアーカイブ。20 November 2010閲覧。
- ^ “1973/74: Müller ends Bayern wait”. UEFA. 11 October 2010時点のオリジナルよりアーカイブ。7 November 2010閲覧。
- ^ “Estadio Vicente Calderón”. The Stadium Guide. 22 November 2010時点のオリジナルよりアーカイブ。20 November 2010閲覧。
- ^ 2強時代に終止符? ソシオ数でレアルを越えるアトレティコ victorysportsnews.com 2017年4月6日
- ^ “Real Madrid vs Atlético Madrid Derby: Great Local Football Derbies”. Eurorivals. 20 November 2010閲覧。
- ^ [1]Goal.com、2011年3月20日
- ^ アトレティコ新SDにカミネロ氏Goal.com、2011年5月28日
- ^ アトレティコ新指揮官はマンサーノ氏Goal.com、2011年6月9日
- ^ http://www.goal.com/jp/news/74/イングランド/2011/07/29/2595024/シティアグエロ獲得を正式発表
- ^ http://jp.uefa.com/uefachampionsleague/news/newsid=1648014.html
- ^ http://www.yomiuri.co.jp/sports/soccer/foreign/news/20110830-OYT1T00203.htm
- ^ 古巣マドリーへの感謝を語るフアンフラン UEFA.com 2014年5月20日
関連項目
- アトレティコ・マドリードB
- 幸谷秀巳 (1994年-1999年にコーチとして在籍)
- 佐伯夕利子 (2004-2005シーズン女子Bチーム監督、2005-2006シーズン女子トップチームスカウティング担当)
- 玉乃淳 1999-2002までユースに所属 (昇格は出来ていない)
- 宮川類 (2007年から5年契約で下部組織に所属)
外部リンク