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「日中戦争」の版間の差分

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| date=1937年7月7日から1945年9月9日
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| place=[[中華民国]]([[内蒙古]]・[[華北]]・[[華中]]・[[華南]])、[[イギリス統治下のビルマ|イギリス領ビルマ]]
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| result=中華民国{{refnest|group="注釈"|「惨勝」<ref name="安井791">[[安井三吉]]「日中戦争」『日本大百科全書⑰』小学館、1987年9月1日 初版第一刷発行、ISBN 4-09-526017-3、791頁。 ([https://kotobank.jp/word/日中戦争-171498#惨勝 コトバンク])</ref>}}{{refnest|group="注釈"|「アジア大陸において日本は、連合国の一員であった中華民国に敗北し、中国は自らの勝利を[惨勝]と称した。」<ref name="野澤ii">[[野沢豊|野澤豊]]『日本の中華民国史研究』汲古書院、1995年9月1日 発行、ISBN 4-7629-2484-9、ii頁。</ref>}}{{refnest|group="注釈"|「「惨勝」(惨儋たる勝利)と呼ばれるような終止符」<ref>[[奥村哲]]『中国の現代史: 戦争と社会主義』青木書店、1999年12月、ISBN 4-250-99053-2、105頁。</ref>}}{{refnest|group="注釈"|「惨たんたる状態で迎えたこの勝利は、あまりにも大きな犠牲をしいられた「惨勝」であったというほかはない。」<ref>[[彭沢周]]『現代中国史: 五四運動から四人組追放まで』泰流社、1978年7月、ISBN 978-4-88470-257-1、153頁。</ref>}}と[[連合国]]の勝利<ref>[[姫田光義]]編『中国20世紀史』東京大学出版会、1993年12月1日 発行、ISBN 978-4-13-022013-2、144頁。「中国内部の国民党と共産党や中間派との軋轢など、いろいろな問題を内包しながらも四五年八月一五日、中国と連合国とは勝利した。」</ref><ref name="野澤ii"/>
| result=[[連合国]]の勝利<ref>[[姫田光義]]編『中国20世紀史』東京大学出版会、1993年12月1日 発行、ISBN 978-4-13-022013-2、144頁。「中国内部の国民党と共産党や中間派との軋轢など、いろいろな問題を内包しながらも四五年八月一五日、中国と連合国とは勝利した。」</ref><ref name="野澤ii"/>
| combatant1={{Flag|大日本帝国}}<br />{{MCK}}(1932-)<br />{{MJG}}(1939-)<br />{{CHN1940}}[[汪兆銘政権]](1940-)
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| combatant2={{ROC|中国}}<br />[[ファイル:National Flag of Chinese Soviet Republic.svg|border|25px]] [[中華ソビエト共和国|中国共産党]](1937年、中華民国陝甘寧辺区政府と改称された)<br />{{USA1912}}(1941-)<br />{{GBR5}}(1941-)<br />{{SSR1923}}(1945-)
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== 呼称 ==
== 呼称 ==
{{Main2|日本における呼称の変遷|支那事変}}
{{Main2|日本における呼称の変遷|支那事変}}
日本側では、紛争が勃発した当初は[[北支事変]]と1937年9月[[第1次近衛内閣]]の[[閣議]]決定'''[[支那事変]]'''正式の呼称とした{{sfn|波多野澄雄|2010-01-31|p=1}}<ref name=kakugikettei19370902>{{cite web |date=1937-09-02 |url=http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00145.php |title=事変呼称ニ関スル件 |work=[[内閣官房]] |publisher=[[国立国会図書館]] |accessdate=2011-01-22 }}</ref>。[[1941年]][[12月9]]に[[蒋介石]]の[[政府|重慶政府]]が日本に宣戦布告、事変戦争にエスカレートしたこと受け、[[東條内閣]]は10日の閣議で[[大東亜戦争]]の一部含めることを決定した<ref name=kakugikettei19411212>{{cite web| date = 1941-12-12| url = http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00362.php| title = 今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ| work = [[内閣官房]]| publisher = [[国立国会図書館]]| accessdate = 2011-10-15}}</ref>。
1937年7月11日に日本政府は、7日から北京周辺でした戦闘を「[[北支事変]]とした。1937年9月2日に[[近衛内閣]]は、8月13日から上海でも戦闘が発生し戦線が北支と南支に及んだので[[支那事変]]」とする事閣議決定した<ref name="kakugikettei19370902">{{cite web|date=1937-09-02|url=http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00145.php|title=事変呼称ニ関スル件|work=[[内閣官房]]|publisher=[[国立国会図書館]]|accessdate=2011-01-22}}</ref>{{sfn|波多野澄雄|2010-01-31|p=1}}。1941年12月12日に時の[[東條内閣]]は、8日対米宣戦布告と翌9日の中国政府による対日宣戦布告を受けて支那事変も含めた今回の戦争を[[大東亜戦争]]」と12日閣議決定した<ref name="kakugikettei19411212">{{cite web|date=1941-12-12|url=http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00362.php|title=今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ|work=[[内閣官房]]|publisher=[[国立国会図書館]]|accessdate=2011-10-15}}</ref>。大東亜戦争の開始日は1937年7月7日となった。なお、中国側は「中国抗日戦争」と称している


[[戦争]]でなく[[事変]]とされたのは、[[盧溝橋事件]]後の本格的な戦闘行われても、1941年12月太平洋戦争が勃発するまで両国は[[宣戦布告]]をおこなわなかったからである。これは「大日本帝国中華民国が互いに宣戦布告しておらず公には戦争状態にない」いう状態を、事変の勃発当初から日米戦争の開始までの4年間双方が望んだからで、宣戦布告を行わなかった主な理由は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の中立法発動による経済裁を避たかったかであ。そして本側は事態の早期収拾も狙っていた{{sfn|波多野澄雄|2010-01-31|p=1}}。中華民国側は軍需物資輸入に問題が生じることを懸念していた{{sfn|石川禎浩|2010|p=178}}。
[[戦争]]でなく[[事変]]とされたのは、単に日中両政府互いに[[宣戦布告]]をなわなかったからである。その主な理由としては、正戦争状態になとアメリカ政府[[中立法]]が発動されてしまい、対米貿易に制限が掛けら事を中双方が嫌たためだと言われてい特に中国側は軍需品の輸入に問題が生じることを懸念していた{{sfn|石川禎浩|2010|p=178}}。日本側は早期収拾の機会を常に伺っていたので宣戦布告までは踏み切れなかったとされる{{sfn|波多野澄雄|2010-01-31|p=1}}。


== 時期区分 ==
== 時期区分 ==
日中戦争期間の一般的な見解は1937年〜1945年までであるが{{sfn|庄司潤一郎|2011|p=79}}、日本では歴史認識の違いによって大戦の呼称 ([[大東亜戦争]]、[[十五年戦争]]、[[アジア太平洋戦争]]) が分かれており{{sfn|庄司潤一郎|2011|p=43}}、日中戦争の位置づけには様々な解釈がある。[[臼井勝美]]は「前史: [[塘沽協定]]から[[盧溝橋事件]]まで、1933年6月~1937年7月一期: 盧溝橋事件から[[太平洋戦争]]勃発まで、1937年7月~1941年12月)二期: 太平洋戦争から敗北まで、1941年12月~1945年8月」の三期に区分している<ref name="臼井1">臼井勝美『日中戦争-和平か戦線拡大か-』中公新書 1532、2000年4月25日、ISBN 4-12-101532-0、1頁。</ref>。[[小林英夫 (経済学者)|小林英夫]]は「前史 [[満洲事変]]から盧溝橋事件勃発前まで一期 盧溝橋事件から[[武漢作戦]]まで二期 武漢作戦から太平洋戦争勃発まで三期 太平洋戦争勃発から終戦まで」の四期に区分している<ref name="小林7">小林秀夫『日中戦争-殲滅戦から消耗戦へ <講談社現代新書 1900>』講談社、2007年7月20日、ISBN 978-4-06-287900-2、7頁。</ref>。
日中戦争期間の一般的な見解は1937年〜1945年までであるが{{sfn|庄司潤一郎|2011|p=79}}、日本では歴史認識の違いによって位置付けが[[大東亜戦争]]、[[十五年戦争]]、[[アジア太平洋戦争]]れかに分かれており様々な解釈がある{{sfn|庄司潤一郎|2011|p=43}}。[[臼井勝美]]は「前史[[塘沽協定]] - [[盧溝橋事件]]」「一期:盧溝橋事件 - [[太平洋戦争]]開幕」「二期:太平洋戦争 - 終戦」の三期に区分している<ref name="臼井1">臼井勝美『日中戦争-和平か戦線拡大か-』中公新書 1532、2000年4月25日、ISBN 4-12-101532-0、1頁。</ref>。[[小林英夫 (経済学者)|小林英夫]]は「前史[[満洲事変]] - 盧溝橋事件」「一期盧溝橋事件 - [[武漢作戦|武漢攻略]]」「二期武漢攻略 - 太平洋戦争開幕」「三期太平洋戦争 - 終戦」の四期に区分している<ref name="小林7">小林秀夫『日中戦争-殲滅戦から消耗戦へ <講談社現代新書 1900>』講談社、2007年7月20日、ISBN 978-4-06-287900-2、7頁。</ref>。


中国共産党の公式見解は、1935年の抗日人民宣言から始まり、1937年の[[盧溝橋事件]] ([[七七事変]]) からとされていたが、[[2017年]]1月[[中華人民共和国教育部|中国教育省]]は中国の教科書で使われている「日本の侵略に対する中国人民の8年間の抗戦」という表現を、日中戦争始まりを[[1931年]]の「柳条湖事件まで6年遡らせて「14年間の抗戦」に改めると発表した<ref>[https://newsphere.jp/world-report/20170112-1/ 中国、抗日戦争14年間に教科書修正 海外から“歴史改ざん”の指摘] NewSphere 2017-1-12</ref>。
中国共産党の公式見解としては、抗日戦争の開始は1935年の抗日人民宣言、または1937年の[[七七事変]](盧溝橋事件)とされていたが、2017年1月[[中華人民共和国教育部|中国教育省]]は従来歴史教科書にある「日本の侵略に対する中国人民の8年間の抗戦」という表現を、満州事変口火となった[[柳条湖事件]]発生時の1931年まで遡らせて「14年間の抗戦」に改めると発表した<ref>[https://newsphere.jp/world-report/20170112-1/ 中国、抗日戦争14年間に教科書修正 海外から“歴史改ざん”の指摘] NewSphere 2017-1-12</ref>。それに伴い中国抗日戦争の期間は1931年〜1945年となった


==前史==
==前史 - 満州事変後==
{{Main|満州事変}}
===「安内攘外」と「和協外交」===
=== 関東軍の華北分離工作 ===
1931年9月18日の[[柳条湖事件]]に端を発する[[満洲事変]]は、1932年3月1日の[[満洲国]]の樹立を経て、{{仮リンク|熱河作戦|zh|熱河戰役}}終結時の1933年5月31日に締結された[[塘沽協定]]により一応終結した。同協定で、長城線以南に非武装地帯が設定され、大日本帝国は北支五省の独立自治運動の拠点を獲得し、満洲国は中華民国により黙認された。国民党は、[[汪兆銘]]の両国の関係改善の希望もあり、先ず共産党に対する囲剿戦に全力を傾け国内と統一してから日本と戦う「安内攘外」を基本方針に採用した。[[広田弘毅]]外相は「和協外交」を提唱し、排日・排日貨運動も沈静化し、両国は公使館を大使館に昇格させた<ref name="今井98-99">[[今井武夫]]「日華事変」フランク・B・ギブニー編『ブリタニカ国際大百科事典 15』1974年10月1日 初版発行、98~99頁。</ref><ref name="波多野115-116">波多野「日中戦争」フランク・B・ギブニー編『ブリタニカ国際大百科事典 14』1995年7月1日 第3版初版発行、115~116頁。</ref>。
1933年5月31日、日中間で[[塘沽協定]]が締結された事で、日本軍が[[満州]]全域で軍事行動を起こし[[満洲国]]を成立させた[[満洲事変]]は終結し、同時に中満の国境線となる[[万里の長城]]以南に一定の非武装地帯も設定された。[[中国国民党]]を指導する[[蒋介石]]は[[汪兆銘]]の意見を入れて、国内の共産勢力を殲滅した後に日本に対抗するという安内攘外方針を取り、満洲国を黙認した。日本の[[広田弘毅]]外相も中国に向けた和協外交を提唱して国民党の対日穏健政策への追い風とし、各地で沸き起こっていた排日運動も沈静化する運びとなった。関係改善が為される中で両国は互いに公使館を大使館に昇格させた<ref name="今井98-99">[[今井武夫]]「日華事変」フランク・B・ギブニー編『ブリタニカ国際大百科事典 15』1974年10月1日 初版発行、98~99頁。</ref><ref name="波多野115-116">波多野「日中戦争」フランク・B・ギブニー編『ブリタニカ国際大百科事典 14』1995年7月1日 第3版初版発行、115~116頁。</ref>。1934年10月、[[江西省 (中華民国)|江西省]]の根拠地を国民党軍に包囲されて進退窮まった[[中国工農紅軍|中国共産党軍]]は、[[長征]]と称する逃避行を開始して[[ソ連]]に隣接する[[陝西省]]を目指した。


1935年6月、[[関東軍]]は[[察哈爾省|チャハル省]]の[[宋哲元]]軍(第二十九軍)が日本人を拘禁した{{仮リンク|張北事件|zh|張北事件}}を糾弾して[[土肥原・秦徳純協定]]を締結し、第二十九軍の[[河北省 (中華民国)|河北省]]移転を了承させてチャハル省への影響力を強めた<ref name="今井98-99" /><ref name="波多野115-116" />。移転と共にチャハル省主席を解任された[[宋哲元]]は排日主義者であったが、[[蒋介石]]にも不満を覚えて微妙な立場を取り始めた。続けて関東軍は5月2日に親日紙の社長が殺害された天津日本租界事件を理由にして7月に[[梅津・何応欽協定]]を締結し、河北省主席[[于学忠]]の罷免と諜報機関[[藍衣社]]の退去を実現させた。それに代わる河北省権力の後釜には日本側との折り合いから第二十九軍の[[宋哲元]]が就けられる事になった。この頃の宋哲元は日本に妥協的となっており、また国民党政府の指導を拒む姿勢も見せていた。関東軍はこの[[宋哲元]]を首班とする独立政権を河北省に樹立させて中華民国から切り離すという[[華北分離工作]]を画策した。対日衝突の回避を望む[[蒋介石]]は邦交敦睦令を発し排日行為を改めて禁止した。こうした流れは再び中国民衆の反日感情を刺激する事になり、[[長征]]の途上にあった[[中国工農紅軍|共産勢力]]は抗日救国と反蒋抗日を呼びかける[[八・一宣言]]を出して日本とそれに迎合する蒋介石への敵愾心を煽った。
===北支自治運動―華北分離工作===
[[支那駐屯軍]]や[[関東軍]]など日本現地軍は、1935年5月2日深夜の[[天津日本租界事件]]を契機に、[[河北省]]と[[察哈爾省]]から国民党の排除を図り、6月、所謂[[梅津・何応欽協定]]を締結し、[[藍衣社]]の北支からの撤退、河北省主席[[于学忠]]の罷免などを実現させた。国民政府は、「邦交敦睦令」を発し排日行為を禁止した。その後、現地日本軍は、二十九軍が日本人を拘禁した{{仮リンク|張北事件|zh|張北事件}}などを理由に、[[土肥原・秦徳純協定]]を締結し、察哈爾省東北部の二十九軍を河北省に移駐させることを了承させた<ref name="今井98-99"/><ref name="波多野115-116"/>。そして、旧軍閥で二十九軍長[[宋哲元]] を中心に北支五省に独立政権を樹立させ、国民政府から分離させるため「北支自治運動」を展開した。11月25日、非武装地帯に[[殷汝耕]]を委員長とする[[冀東防共自治政府#冀東の防共自治へ|冀東防共自治委員会]]を設立させ、宋哲元を中心にして「北支自治政権」を設立させて殷汝耕を合流させる計画を立てた。しかし、国民政府は、宋哲元を冀察綏靖主任兼河北省主席に任命し、12月18日に[[冀察政務委員会]]を設置し、自治独立運動の阻止に一応成功した。このため、12月25日、日本現地軍は、冀東の冀察への合流を放棄して[[冀東防共自治政府]]を成立させた<ref name="今井98-99"/><ref name="波多野115-116"/>。


1935年11月25日、[[関東軍]]は[[万里の長城|長城]]南側の非武装地帯に[[殷汝耕]]を委員長とする[[冀東防共自治政府#冀東の防共自治へ|冀東防共自治委員会]]を設立した。同時に[[河北省 (中華民国)|河北省]]住民が抱える[[中国国民党|国民党]]への不満を理由にする形で[[宋哲元]]を首班とする自治政府樹立を後押しし[[河北省 (中華民国)|河北省]]一帯を一気に独立させる計画を立てた。それを察知した[[中国国民党]]は12月18日に[[冀察政務委員会]]を急遽設置して表向き日中間の中立政権とし、[[宋哲元]]を委員長に就けて国民党の影響力が残る形で河北省を統治させる対抗策を取った。なお「冀」は河北省を指す一語である。同時独立を諦めた関東軍は12月25日に[[冀東防共自治政府]]を成立させた<ref name="今井98-99" /><ref name="波多野115-116" />。これを事実上の侵略行為と見なした中国民衆の間では一斉に抗日意識が盛り上がり、北京の学生達による[[一二・九運動]]を皮切りにして内戦停止と一致抗日の救国世論が巻き起こった。
===「内戦停止、一致抗戦」===
<!--1935年11月9日の上海の[[中山水兵射殺事件]]、[[上海邦人商人射殺事件|萱生事件]]--->1935年12月、中華民国では自治政権反対の[[一二・九運動]]を契機に「内戦停止、一致抗戦」の機運が拡大した。[[長征]]の途上にあった共産軍は、[[八・一宣言]]を出して「抗日救国」、「反蒋抗日」の統一戦線を呼び掛け、[[陝西省]][[延安]]に根拠地建設を開始し、1936年2月から3月、「抗日実践」を示すため、[[彭徳懐]]と[[林彪]]が指揮する共産軍2万が[[山西省]]に侵入した。共産軍は[[閻錫山]]の軍と蒋介石の増援により敗退し、[[周恩来]]と会談した[[張学良]]の説得により「反蒋抗日」から「逼蒋抗日」への転換を受け入れ、[[五・五通電]]を発し「停戰議和一致抗日」を訴えた。一方、4月18日、共産軍の侵攻を契機に広田弘毅内閣は[[支那駐屯軍]]を増強した<ref name="今井98-99"/><ref name="波多野115-116"/>。


===共産勢力の活動===
===川越茂・張群会談===
<!--1935年11月9日の上海の[[中山水兵射殺事件]]、[[上海邦人商人射殺事件|萱生事件]]--->1935年10月、[[長征]]を続けていた[[毛沢東]]の[[中国工農紅軍|共産軍本隊]]が[[陝西省]]まで辿り着き、[[延安]]に新たな根拠地を築いた。一方、[[満州事変]]で国を追われた[[張学良]]も、逃れた河北の地で旧[[奉天軍閥|奉天軍]]を集結させて[[中国国民党]]の指揮下に入った後に、[[蒋介石]]から共産軍討伐を命じられて陝西省に移動していた。[[張学良]]は[[中国工農紅軍|共産軍]]の根拠地を再三攻撃したが思うような戦果を上げられず、蒋介石の叱咤を受けていた。翌1936年2月から抗日実践を標榜する共産軍部隊が[[山西省 (中華民国)|山西省]]にも侵入した。これは国民党軍に撃退されたが、共産軍および共産ゲリラの活発化を憂慮した[[広田内閣]]は4月18日から、北京と天津に邦人保護部隊を置く[[支那駐屯軍]]を増強した<ref name="今井98-99"/><ref name="波多野115-116"/>。
1936 年 8 月 23 日の[[成都事件]]と9月3日の[[北海事件]]を受け、大日本帝国外務省は、国民政府の対日態度の是正を要求し、9月8日から[[川越・張群会談]]が開始された。大日本帝国が防共協定の締結、日本人顧問の招聘などを要求し、国民政府が冀東防共自治政府の解消を要求したため、交渉は平行線を辿った。その後、9月19日に[[漢口邦人巡査射殺事件|漢口]]、9月23日に[[上海日本人水兵狙撃事件|上海]]で日本人が殺害され、11月上旬に内蒙古軍による[[綏遠事件]]も勃発し、12月3日に交渉は決裂した。12月12日の張学良らによる蒋介石監禁事件[[西安事件]]を経て、1937年初頭には[[国共合作]]が事実上成立した<ref name="今井98-99"/><ref name="波多野115-116"/>。


1936年4月9日、軍事作戦の不手際を叱責する[[蒋介石]]との不和と、父[[張作霖]]の[[張作霖爆殺事件|暗殺]]および先の[[満州事変]]で日本への遺恨を抱えていた[[張学良]]は、それに目を付けた[[コミンテルン]]の工作で共産側代表の[[周恩来]]と極秘に会談した。その中で[[張学良]]は共産党との抗日連帯案を受け入れ、[[周恩来]]は党方針を反蒋抗日から逼蒋抗日へ転換する事に同意した。[[周恩来]]の意見を受けた[[毛沢東]]は五・五通電を全党員に向けて発し、宿敵蒋介石との抗日連帯への理解を求めた。同年夏から蒋介石は[[陝西省]]に続々と軍勢を送り込んで共産軍を追い詰めていき、11月下旬には根拠地の[[延安]]が国民党の大軍によって包囲された。この包囲網には張学良軍も加わっていた。しかし、最後の殲滅戦に臨むべく前線の視察に訪れた蒋介石を、前述の[[張学良]]らが拉致監禁するという[[西安事件]]が12月12日に発生した。これは[[コミンテルン]]の指導で行なわれた謀略であった。監禁された蒋介石は共産軍との休戦と抗日統一戦線の結成案に同意させられ、1937年初頭に日本軍を共通の敵とする[[国共合作|第二次国共合作]]への目処が付けられた<ref name="今井98-99" /><ref name="波多野115-116" />。
===林内閣の「対支実行策」===
2月2日、大日本帝国で広田内閣から林内閣へ交替すると、[[佐藤尚武]]外相は、対中優越観念の放棄や中華民国への軍事的威嚇方針をやめ、平和交渉に移るよう外交方針を変更し<ref name="臼井52-58">臼井勝美『日中戦争-和平か戦線拡大か- <中公新書 1532>』中央公論新社、2000年4月25日、ISBN 4-12-101532-0、52~58頁。</ref>、陸軍参謀本部戦争指導課長[[石原莞爾]]は、華北工作など従来の帝国主義的な侵冦政策の放棄を唱えた<ref name="臼井52-58"/>。4月16日に外務、大蔵、陸軍、海軍大臣四相により決定された対支実行策 (第三次北支処理要綱) では、北支分治や中国内政を乱す政治工作は行わないとされ、日中防共軍事同盟の項目も削除された<ref name="臼井52-58"/>。一方で、関東軍は、対中高圧政策、[[対支一撃論]]を変更しなかった<ref name="臼井52-58"/>。5月3日、中華民国は、イギリスに財政基盤強化のための借款供与を要請し、イギリスは、大日本帝国にも参加を要請した<ref name="臼井60-64">臼井勝美『日中戦争-和平か戦線拡大か- <中公新書 1532>』中央公論新社、2000年4月25日、ISBN 4-12-101532-0、60~64頁。</ref>。1937年5月31日、林内閣は総辞職し、6月に[[近衛文麿]]内閣が成立した<ref name="臼井52-58"/>。7月5日、川越大使は政府にイギリスからの借款供与提案を受諾するよう上申し、電報は盧溝橋事件前日の7月6日に届いた<ref name="臼井60-64"/>。<!--既存の文章を流用しましたが、もう少し書き換えたい。あと、第一次豊台事件、第二次豊台事件も必要--->


=== 和平模索と関東軍の独走 ===
== 北支事変から「日中全面戦争」へ ==
1936年、[[冀東防共自治政府|冀東自治政府]]の成立劇で対日感情の悪化が進み、1月の広東省仙頭、6月の山東省防東、7月の[[萱生事件]]、8月の[[成都事件]]、9月3日の[[北海事件]]など中国各地で日本人の殺害事件が相次いだ。この事態を重く見た日本外務省は中国政府との妥協案を探り、9月8日から川越・張群会談が開始された。中国側は一貫して[[冀東防共自治政府|冀東自治政府]]の解散を要求したため交渉は平行線を辿り、その後も9月19日に[[漢口邦人巡査射殺事件|漢口]]で、9月23日に[[上海日本人水兵狙撃事件|上海]]でも日本人が殺害された。11月上旬には関東軍が[[内蒙古|内蒙古軍]]を後押しして中国領を侵すという[[綏遠事件]]が発生したため12月3日に交渉は決裂した。[[支那駐屯軍]]関係者は[[河北省 (中華民国)|河北省]]の重鎮([[冀察政務委員会|冀察政務委員長]])[[宋哲元]]との交流を深めていたが、宋が指揮する第二十九軍内では共産党員の増加と相俟って反日感情が激化しており、北京天津方面の緊張も高まっていた。
=== 盧溝橋事件と北支事変===
{{Main|盧溝橋事件}}
[[1937年]](昭和12年)[[7月7日]]、当時[[華北|北支]]に駐屯していた日本軍の夜間演習中に実弾が二度発射され、日本軍と中国国民党軍が衝突し、[[盧溝橋事件]]が勃発した<ref name="usu65to72">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p65-72</ref>。この日本軍が駐留していた[[豊台]]は、[[義和団の乱]]の事後処理を定めた[[北京議定書]]に定められた駐留可能地ではなく、{{要出典範囲|date=2019年4月|法的根拠のない駐留だった<ref name="英国軍ノ豊台守備ノ経緯ト日本軍ヲ配置セントスル能否調査">{{アジア歴史資料センター|C01004192300|軍兵力並配置に関する参考資料の件(支駐)}}</ref>}}。当時この地区の居留民保護のため駐留していた外国部隊は日本兵4080、フランス兵1839、米兵1227、英兵999、イタリア兵384であり、日本人居留民は17000人、米欧居留民は計10338人であった<ref name="kawakami136to149"/>。
[[7月8日]]、蒋介石は日記に「倭冦の挑発に対して応戦すべき」と書き<ref name="usu65to72"/>、7月9日に動員令を出し、四個師団と戦闘機を華北へ派遣した<ref name="kawakami136to149"/>。7月19日までに北支周辺に30個師団、総兵力20万人を配備した<ref name="kawakami136to149"/>{{refnest|group="注釈"|当時の朝日新聞報道では7月10日動員令、7月17日までに配備完了<ref name="asa717">『朝日新聞』1937年7月17日付夕刊 1面</ref>}}。
7月11日、日中の現地軍どうしで停戦協定が締結され(松井-秦徳純協定)、中華民国側は遺憾の意思を表明し、責任者を処分すること、盧溝橋付近には中国軍にかわって保安隊が駐留すること、事件は[[藍衣社]]、中国共産党など抗日団体が指導したとみられるため今後取り締るという内容の停戦協定が締結された<ref name="usu65to72"/><ref name="kawakami136to149"/>。事態収拾に向う動きが見えたことから内地師団の動員は一時見合わせとなった。


1937年2月2日、[[広田内閣]]が総辞職し[[林内閣]]へ交替すると、[[佐藤尚武]]外相は中国への高圧的姿勢を止めて関係改善に努めるよう外交方針を変更し<ref name="臼井52-58">臼井勝美『日中戦争-和平か戦線拡大か- <中公新書 1532>』中央公論新社、2000年4月25日、ISBN 4-12-101532-0、52~58頁。</ref>、同様に陸軍参謀[[石原莞爾]]も[[華北分離工作|華北分治]]を始めとする侵略的政策の放棄を訴えた<ref name="臼井52-58" />。4月16日に内閣で決定された第三次北支処理要綱でも中国国内を乱す政冶工作は行わないと定められた<ref name="臼井52-58" />。こうした政府内の動きにも関わらず、現地の関東軍の方は対中強硬政策と[[対支一撃論]]を変更しなかった<ref name="臼井52-58" />。1937年5月31日に林内閣は総辞職し6月に[[近衛文麿]]内閣が成立した<ref name="臼井52-58" />。5月3日に中華民国から借款供与要請を受けていたイギリスは日本政府にも共同参画を提案し<ref name="臼井60-64">臼井勝美『日中戦争-和平か戦線拡大か- <中公新書 1532>』中央公論新社、2000年4月25日、ISBN 4-12-101532-0、60~64頁。</ref>、これを日中関係改善と対英協調に極めて有益と見た[[川越茂|川越駐華大使]]は7月5日に政府へ受諾を上申した<ref name="臼井60-64" />。7月7日の盧溝橋事件の発生が無ければこの共同借款供与は近衛内閣の承認下で実現したと見られている。<!--既存の文章を流用しましたが、もう少し書き換えたい。あと、第一次豊台事件、第二次豊台事件も必要--->
;日本政府が不拡大方針と軍の増派を同時に決定
一方、同[[7月11日]]午前の会議で[[近衛文麿|近衛内閣]]は[[関東軍]]独立混成第11旅団・[[独立混成第1旅団]]の二個[[旅団]]・[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]][[第20師団 (日本軍)|第20師団]]の[[華北|北支]]派兵を発令<ref name="usu65to72"/>、支那駐屯軍に編入される。近畿以西の全陸軍部隊の除隊延期も決定する。同日、重篤となった[[田代皖一郎]][[支那駐屯軍]]司令官に代え、[[香月清司]]中将を新司令官に親補。また近衛内閣は現地解決、不拡大方針を閣議決定<ref>昭和12年7月11日閣議決定「蘆溝橋事件処理に関する閣議決定」</ref>、さらに「北支派兵に関する政府声明」を発表し、事件を「'''[[北支事変]]'''」と名付け、今回の事件は中国側の計画的武力行使であり、大日本帝国はこれに対して自衛権を行使するために派兵(増員)するとした<ref name="usu65to72"/>。
7月13日に[[北京市|北平]](北京)の大紅門で日本軍トラックが中国兵に爆破され日本兵4人が死亡する[[大紅門事件]]が発生。


== 北支事変 ==
;国民政府の対日武力行使決定
=== 盧溝橋事件 ===
中国共産党は[[7月15日]]に[[国共合作]]による全面抗戦を呼びかける。蒋介石も[[7月17日]]、[[廬山]]談話会において、中華民国は弱国であり戦争を求めてはならないが、やむをえない場合は徹底抗戦すると表明する<ref name="usu65to72"/>。中華民国政府は[[7月19日]]、国民党の第29軍代表張自忠らが盧溝橋事件の停戦協定の細目実施を申し出、共産党の策動を徹底的に弾圧すること、排日職員を取り締ること、排日団体は撤去すること、排日運動、排日教育を取り締ることを日本に誓約する<ref name="usu65to72"/>一方で、盧溝橋事件に関する地域レベルでの決着は認めないと日本側に通告した<ref name="kawakami136to149"/>。7月20日には中国軍第37師部隊は再び盧溝橋付近で日本軍に攻撃した<ref name="kawakami136to149"/>。7月21日、蒋介石は南京戦争会議で大日本帝国に対して武力行使を行うという方針を採択した<ref name="kawakami136to149"/>。7月23日、南京副幕僚長孫浜将軍が北京と保定の軍に対日戦闘を勧告した<ref name="kawakami136to149"/>。
{{Main|盧溝橋事件}}

1937年7月7日夜、[[支那駐屯軍]]の一部隊が北平(現在の北京)市街地から南西約10kmにある[[盧溝橋]]の東岸で夜間演習を行なっている際に二度の発砲を受けた。この部隊の上司である[[牟田口廉也|牟田口]]大佐が、盧溝橋の西岸にある[[宛平県|宛平県城]]の中国軍部隊に抗議を兼ねた交渉を試みたが、日付変更後の8日未明から明け方にかけて中国側からの発砲が繰り返されたので、ついには日中間の部隊戦闘へと発展した。この武力衝突は同日午後に収束へと向かい夕方には停戦が合意されて一旦沈静化したが、その後も出所不明の銃撃が散発した。[[支那駐屯軍]]は[[北京議定書]]の中で邦人居留民保護の為に北京駐留を認められた部隊であったが、盧溝橋で発砲された部隊が駐兵していた[[豊台]]区は議定書で決められた範囲外という事情もあった<ref name="英国軍ノ豊台守備ノ経緯ト日本軍ヲ配置セントスル能否調査">{{アジア歴史資料センター|C01004192300|軍兵力並配置に関する参考資料の件(支駐)}}</ref>。当時の北京には邦人17000名が在留していた<ref name="kawakami136to149" />。7月8日に蒋介石は日記に倭冦の挑発に対して応戦すべきと書いて<ref name="usu65to72">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p65-72</ref>翌9日に四個師団と軍用機を河北省へ先行派遣し<ref name="kawakami136to149"/>、10日からは河北省に向けた総兵力20万人に及ぶ30個師団の動員令を出していた<ref name="kawakami136to149" />{{refnest|group="注釈"|当時の朝日新聞報道では7月10日動員令、7月17日までに配備完了<ref name="asa717">『朝日新聞』1937年7月17日付夕刊 1面</ref>}}。
他方、[[7月22日]]から中国当局は抗日雑誌等を禁止、[[藍衣社]]などを弾圧したと大日本帝国に報告された<ref name="usu65to72"/>。


7月11日、[[支那駐屯軍]]と中国第二十九軍(河北省の常備軍)の間で停戦を合意する松井・[[秦徳純]]協定が結ばれ、中国側は発砲責任者の処分、盧溝橋からの部隊退去、排日団体を取り締まる内容を約束した<ref name="usu65to72" /><ref name="kawakami136to149" />。こうして事態収拾への目処が付けられた事から日本政府は中国派兵を見合わせたが、司令官を[[香月清司|香月]]中将に交代した支那駐屯軍の増強案の方は実施され、[[関東軍]]と[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]から複数個の師団が北京現地に編入された。[[近衛文麿|近衛内閣]]は北支派兵に関する政府声明の中で7日からの武力衝突を「[[北支事変]]」と名付けると、その原因は中国側の軍事威嚇にあると断定し、これに対抗する為の自衛権行使を北京増派の根拠とした<ref name="usu65to72"/>。同時に近衛内閣は紛争の現地解決と戦線の不拡大方針も閣議決定した<ref>昭和12年7月11日閣議決定「蘆溝橋事件処理に関する閣議決定」</ref>。中華民国側では同11日から廬山国防会議が開かれ共産党から[[周恩来]]が参席し、蒋介石との間で対日開戦に向けた調整を始めた<ref name="ookubo">大久保泰『中国共産党史』 {{Full citation needed|title=巻次およびページ番号不記載|date=2019年6月27日}}</ref>。
;中国軍の挑発と日本軍の総攻撃
中国軍は北京・天津の電線切断作戦を展開した<ref name="kawakami136to149"/>。
[[1937年]][[7月25日]]、郎坊駅で電線を修理した大日本帝国軍が休憩していると中国軍が襲撃した([[郎坊事件]])<ref name="kawakami136to149"/>。日本帝国軍は修理した電線で天津の本部と連絡をとり、翌[[7月26日]]、日本軍戦闘機が中国人陣地を爆撃し<ref name="kawakami136to149"/>、同地を日本軍が占領<ref name="usu65to72"/>。日本帝国軍は宋哲元将軍に、北平城から中国29路軍37師を撤退させることで誠意をみせてほしい、もし要請に応じなければ日本帝国軍は大日本帝国にとって適切な行動をとると最後通告を行ったが、中国側は応じなかった<ref name="kawakami136to149"/>。


7月13日、北京の大紅門で日本軍トラックが爆破され日本兵4人が死亡する[[大紅門事件]]が発生した。続く14日にも日本人騎兵が殺害された<ref name="shunin">[https://www.dpj.or.jp/download/21606.pdf 日中戦争の展開塘沽停戦協定からトラウトマン工作まで] [[岩谷將]][[防衛研究所]]主任研究官</ref>。13日と15日に[[毛沢東]]と[[朱徳]]が[[国共合作]]による即時開戦を国民党に訴えた。廬山の蒋介石は17日に最後の関頭演説を行い、中華民国は未だ脆弱で戦争を求めてはならないが止むをえない場合は徹底抗戦すると表明した<ref name="usu65to72"/>。7月19日、第29軍軍長の[[宋哲元]]上将は[[張自忠]]中将を代表にして日本側と和平交渉し、松井・秦徳純協定の履行を改めて約束したが、盧溝橋事件は現地レベルで解決されるものではないと通告した<ref name="kawakami136to149"/>。その頃、10日に動員された中国軍30個師団が河北省南部の[[保定市|保定]]と[[石家荘市|石家荘]]に着陣していた。7月20日、盧溝橋にいた日本部隊が再び攻撃され互いに砲弾を交わした<ref name="kawakami136to149"/>。7月21日、南京国防会議で蒋介石は対日開戦方針を採択したが<ref name="kawakami136to149"/>国民党内には慎重な声も多く、渦中の北京では22日にも排日出版物及び団体の取り締りが行なわれていた<ref name="usu65to72" />。23日に共産党が再び即時開戦を迫り、国民党軍事委員会は河北省の全部隊に対日戦争突入態勢を指示した<ref name="kawakami136to149"/>。
翌[[7月26日]]に広安門居留民保護に駆けつけた[[日本帝国軍]]が広安門で中国軍より銃撃を受ける([[広安門事件]])<ref name="usu65to72"/>。


7月24日、北京から天津へつながる日本軍の通信電線が切断され<ref name="kawakami136to149"/>、翌25日にその電線を修理して郎坊駅で休憩していた日本兵たちを、第二十九軍の部隊が襲撃するという[[郎坊事件]]が発生した<ref name="kawakami136to149" />。また[[豊台]]区の日本兵たちも第二十九軍の一隊に包囲されていた。北京の日本部隊は修理した電線で直ちに天津の支那駐屯軍本部に現状を報告した。相次ぐ襲撃事件と中国軍の[[河北省 (中華民国)|河北省]]集結に危機感を募らせた支那駐屯軍司令官香月中将は、第二十九軍軍長の宋哲元上将に対して北京市内から全中国兵を退去させる事で誠意を見せて欲しい、さもないと武力行使も辞さないと伝える最後通知を行ったが、宋哲元上将は回答を示さなかった<ref name="kawakami136to149" />。翌26日に北京在留邦人保護の為に天津から駆けつけて来た日本部隊が、北京市内に入る広安門で攻撃されて19名が死傷するという[[広安門事件]]が発生した<ref name="usu65to72" />。ここにきて香月中将は東京の陸軍参謀総長の認可を受けた上で交戦の意思を固めた。
[[7月27日]]、日本軍(支那駐屯軍)は総攻撃の実施を決定した<ref name="usu65to72"/><ref name="kawakami136to149"/>。東京の内閣は内地師団動員を下令。[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]・[[第6師団 (日本軍)|第6師団]]・[[第10師団 (日本軍)|第10師団]]の動員派兵を決定<ref name="usu65to72"/>。同日午後11時、南京政府は日本側へ、北支当局と日本軍守備隊の協定に関する交渉を日本へ申し出た<ref name="kawakami136to149"/>。


=== 北京・天津攻略 ===
[[7月28日]]午前5時、日本軍支那駐屯軍、北支で攻撃を開始<ref name="usu65to72"/><ref name="kawakami136to149"/>。中国軍は5000余人が戦死、撃滅され、同日夜、北平にいた宋哲元、秦徳純などは脱出した<ref name="usu65to72"/>。
1937年7月27日、北平(現在の北京)市内で戦闘が始まり、支那駐屯軍支隊は中国第二十九軍の諸部隊を北京郊外へと追いやった上で支援航空機による空爆を加えた。総攻撃を決意した香月中将は天津の支那駐屯軍本隊にも臨戦態勢を取らせた<ref name="usu65to72" /><ref name="kawakami136to149" />。日本政府も3個師団の華北派遣を決定した<ref name="usu65to72" />。同日午後11時に中国政府は日本側に、現地の[[冀察政務委員会]]と支那駐屯軍が再交渉する為の仲介を申し出たが<ref name="kawakami136to149" />これは黙殺された。翌28日、[[平津作戦]]が開始され支那駐屯軍は天津制圧と並行して北京郊外に布陣する第二十九軍に一斉攻撃をかけた<ref name="usu65to72" /><ref name="kawakami136to149" />。中国側はたちまち劣勢に陥って5000人余りの被害を出し、宋哲元上将は同日夜に北京から脱出した<ref name="usu65to72" />。


7月29日、[[冀東防共自治政府|冀東自治政府]]の保安隊が反乱を起こして[[通州区 (北京市)|通州]]の政府施設を襲撃し、同区域にあった日本人[[租界地]]にも侵入して邦人居留民を多数惨殺するという[[通州事件]]が発生した<ref name="osugi271to272">[[大杉一雄]]『日中十五年戦争史』p271-2</ref><ref name="kawakami136to149" />。冀東自治政府は[[関東軍]]が通州と北京の間に国境線を引く形で[[河北省 (中華民国)|河北省]]北部に設立した傀儡政権であったので、日本政府はこの明確な戦争犯罪に対する拳の振り下ろし先を見失ったが、保安隊の中国兵たちが意図的に抗日側に回っていたのは明らかであった。この通州事件は日本国民の対中感情を大幅に悪化させ、[[暴支膺懲]]スローガンはより強く支持されるようになった<ref>児島襄『日中戦争』下巻、文藝春秋、1984年.p.79-80.</ref>。更に同日同時刻に天津で抗戦する第二十九軍部隊も日本人租界地を攻撃していた<ref name="kawakami136to149" />。7月31日、支那駐屯軍は第二十九軍の駆逐に成功して北京天津一帯をほぼ制圧した<ref name="usu65to72" />。その後、日本軍は戦線を[[保定市|保定]]付近まで南下させる作戦を検討したが、[[河北省 (中華民国)|河北省]]南部に集結している中国軍との交戦に一定の準備期間が必要と判断されたのでひとまず延期し、現状を維持する事にした。
;通州事件
[[7月29日]]には、日本の同盟軍であった[[冀東防共自治政府]]保安隊(中国人部隊)が、抗日側に転じて、日本軍特務機関・日本人・朝鮮人居留民に対して[[大量虐殺]]を実施した[[通州事件]]が発生<ref name="osugi271to272">[[大杉一雄]]『日中十五年戦争史』p271-2</ref><ref name="kawakami136to149"/>。同日同時刻に29路軍が天津の日本人租界を攻撃した<ref name="kawakami136to149"/>。
この通州事件は日本軍民に暴支膺懲の意識を強く植え付けることとなる<ref>児島襄『日中戦争』下巻、文藝春秋、1984年.p.79-80.</ref>。


== 支那事変 ==
;日本軍の北平(北京)・天津占領とチャハル作戦
[[7月31日]]、日本軍(支那駐屯軍)、北平・[[天津市|天津]]地区を制圧<ref name="usu65to72"/>。
日本軍は7月末には[[北京市|北平]]・[[天津市|天津]]地方を制圧後、8月には[[河北省]][[保定市|保定]]以北の制圧を実行に移そうとしたが、河北省南部に集結しつつある中国軍と衝突する恐れがあったため準備期間が必要となり一時延期され、代わりに行われた作戦が[[8月9日]]より関東軍が[[察哈爾省]](現在の[[内モンゴル自治区]])とその周辺へ攻略を開始した([[チャハル作戦]]。後に10月17日に[[包頭]]を占領し、日本の傀儡政権[[蒙古連盟自治政府]]を樹立し、張家口に[[駐蒙軍]](日本軍)が置かれた。{{要出典範囲|date=2019年4月|その際、9月9日、[[山西省]]の[[陽高県|陽高]]で日本軍が武装解除もしくは非武装の成人男子を300名以上を虐殺したとされる事件(陽高事件)があったとされる。}}


=== 第二次上海事変 ===
=== 第二次上海事変 ===
{{Main|第二次上海事変}}
{{Main|第二次上海事変}}
1937年7月24日、上海市内で日本水兵が拉致される事件が発生し、当市の日本人[[租界|租界地]]を守る[[上海特別陸戦隊|海軍特別陸戦隊]]が調査を始めたが、上海市保安隊が公然と対抗する構えを見せて緊張が高まった。5年前の[[第一次上海事変]]停戦協定の中で中国軍は上海市内に立ち入らない事が約束されていたが、7月下旬から保安隊に変装した中国兵が重火器を多数持ち込み、また各所に土嚢を積みあげ鉄条網を張り巡らすなどしていた<ref name="usu77to87" /><ref name="kawakami152to171" />。7月28日、北京での戦闘発生に伴い、日本政府は華南内陸部の各領事に訓令して8月9日までに全邦人を上海まで引き揚げさせ<ref>[[第二次上海事変#支那事変陸軍作戦|支那事変陸軍作戦]]、257頁</ref>、上海居留民と併せた日本人3万名を順次帰国させていた。日中両軍の衝突を予期した上海市民も避難を始めた。上海の日本人租界地には特別陸戦隊4千名と各種要員を含む邦人計1万名が残留した<ref>[[第二次上海事変#支那事変陸軍作戦|支那事変陸軍作戦]]、258頁</ref>。
[[File:Civilian victims of the August 14 bombing near the Great World.jpg|thumb|250px|大世界近くのチベット通りとモンティニー大通りの交差点付近への中国軍機の爆撃による民間人被害者]]
[[File:The August 14th bombing in front of the Great World.jpg|thumb|250px|中国軍機の爆撃による大世界前の惨状]]
;上海での中国側挑発と日本軍増派
同8月9日、[[上海市|上海]]の非武装地帯で日本軍[[上海海軍特別陸戦隊]]の大山勇夫海軍中尉が中国保安隊に30発以上の銃撃を受けたあと、顔が潰され、胴体に穴をあけるなどして殺害された ([[大山事件]])<ref name="kawakami152to171">K・カール・カワカミ著、福井雄三訳『シナ大陸の真相』展転社、平成十三年一月七日 第一刷発行、ISBN 4-88656-188-8、152~171頁。</ref><ref name="usu77to87">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p77-87</ref>。当時非武装地帯には保安隊の制服を着せた中国正規軍が投入されており<ref name="usu77to87"/><ref name="kawakami152to171"/>、また1932年の休戦協定を無視してライフル、機関銃、カノン砲などを秘密裏に持ち込んでいた<ref name="kawakami152to171"/>。翌8月10日、上海領事は国際委員会で中国の平和維持隊の撤退を要求し、外国人委員はこれに賛成し、O.K.ユイ([[兪鴻鈞]])中国市長も全力をあげて解決すると述べたが、翌8月11日、O.K.ユイ中国市長は「私は無力で何もできない」と日本側へ通告した<ref name="kawakami152to171"/>。
[[8月12日]]、中国軍部隊が上海まで前進し、上海日本人租界区域を包囲した<ref name="kawakami152to171"/>。[[8月13日]]早朝、[[上海海軍特別陸戦隊|日本海軍陸戦隊]]へ攻撃をしかけた<ref name="kawakami152to171"/>。[[8月13日]]午前9時20分、現地で包囲していた中国軍が機銃掃射攻撃を開始し、日本軍陸戦隊は午後3時55分に応戦を開始した<ref name="osugi284to288">[[大杉一雄]]『日中十五年戦争史』p284-288</ref>。中国軍はさらに午後5時頃爆破砲撃を開始した<ref name="usu77to87"/>。


8月9日、華北では[[察哈爾省|チャハル省]]と[[綏遠省]](現在の[[内モンゴル自治区]])の攻略を目指す[[チャハル作戦]]が開始され、[[関東軍]]から[[東條英機|東条]]兵団が出撃した。北京天津にいる支那駐屯軍は河北省南下に向けて準備を整えていた。同9日に上海市内で日本軍人2名が保安隊に射殺される[[大山事件]]が発生し<ref name="kawakami152to171">K・カール・カワカミ著、福井雄三訳『シナ大陸の真相』展転社、平成十三年一月七日 第一刷発行、ISBN 4-88656-188-8、152~171頁。</ref><ref name="usu77to87">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p77-87</ref>一触即発の状態となった。翌10日に日本領事が共同租界地の国際委員会を通して[[兪鴻鈞]]上海市長に保安隊の隔離を要請し一旦受理されたが、11日に兪鴻鈞から「私は無力で何もできない」と返ってきた<ref name="kawakami152to171" />。特別陸戦隊を指揮する第3艦隊司令官[[長谷川清|長谷川]]中将は東京に至急の増援を上申したが返信は「到着まで二週間かかる。それまで交戦不拡大に努めるように」であった<ref>[[第二次上海事変#阿羅|阿羅 (2008)]]、85頁</ref>。
[[8月13日]]、日本は閣議決定により上海への陸軍派遣を決定<ref name="usu77to87"/>。また同8月13日にはイギリス、フランス、アメリカの総領事が日中両政府に日中両軍の撤退と多国籍軍による治安維持を伝えたが戦闘はすでに開始していた<ref name="kawakami152to171"/>。


8月12日、[[蒋介石]]の指導下で上海周辺に総勢20万の兵力を展開した中国軍[[抗日戦争第3戦区|第3戦区]]が、上海市内に2個師団を侵入させ日本人租界地を包囲した<ref name="kawakami152to171" />。英仏米の各領事が上海市と日本領事に仲裁を提案したが黙殺状態となった<ref name="kawakami152to171" />。翌13日朝から各所で中国側の機銃掃射を含んだ小競り合いが始まり<ref name="kawakami152to171" />、それまで交戦回避の守りに徹していた特別陸戦隊は午後4時から本格的な応戦に踏み切った<ref name="osugi284to288">[[大杉一雄]]『日中十五年戦争史』p284-288</ref>。午後5時になると中国軍は砲撃も加え始めた<ref name="usu77to87" />。日本政府は陸軍部隊の上海派遣を同日中に閣議決定した<ref name="usu77to87" />。翌14日に中国側は空軍機を繰り出して特別陸戦隊に空からも攻撃を加えた。また[[揚子江]]河口を遊弋する第3艦隊艦艇にも爆撃を試みたが、狙いが逸れて市内の歓楽街を直撃し民間人千数百名の死傷者を出した<ref name="usu77to87" /><ref name="osugi284to288" />。<gallery>
翌[[8月14日]]には中国空軍は[[第二次上海事変#国民党軍機による上海空爆|上海空爆]]を行うが日本軍艦には命中せず上海租界の歓楽街を爆撃、外国人をふくむ千数百人の民間人死傷者が出た<ref name="usu77to87"/><ref name="osugi284to288"/>。
ファイル:Civilian victims of the August 14 bombing near the Great World.jpg|中国軍に誤爆された上海市民
ファイル:The August 14th bombing in front of the Great World.jpg|中国軍に爆撃された大世界前
ファイル:Bombing outside the Palace Hotel.jpg|中国軍に砲撃された上海共同租界
</gallery>8月15日、[[第1次近衛内閣|近衛内閣]]は「もはや隠忍能わず暴支膺懲し南京政府の反省を促す」と声明し、陸軍に[[上海派遣軍]]を編制させた。第二次上海事変の勃発で日中両国は事実上の全面戦争状態に突入する事になった<ref>[[臼井勝美]]「上海事変」外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会編『新版日本外交史辞典』山川出版社、1992年5月20日 発行、ISBN 4-634-62200-9、387頁。「第2次上海事変はついに日中全面戦争に発展するにいたった。」</ref><ref>『永久保存版 シリーズ20世紀の記憶 第7巻 大日本帝国の戦争 2 太平洋戦争: 1937-1945』毎日新聞社、2000年4月1日 発行、11頁。「上海・南京攻略により華北の戦火は華中に飛び、戦いは「日中全面戦争」へと拡大、泥沼化する。」、22頁。「年表 第2次上海事変から日中全面戦争へ」</ref><ref>[[茶谷誠一]]『昭和天皇側近たちの戦争』吉川弘文館、2010年5月1日 第一刷発行、ISBN 978-4-642-05696-0、136頁。「第二次上海事変により (中略) 日中戦争は日中全面戦争化、長期戦化する様相となった」</ref><ref>安井三吉「日中戦争」『日本大百科全書⑰』小学館、787頁。[全面化] 八月一四日、国民政府は「自衛抗戦声明書」を発表、翌一五日中国共産党も「抗日救国十大綱領」を提起した。</ref><ref>[[芳井研一]]「日中戦争」吉田裕・森武麿・伊香俊哉・高岡裕之編『アジア・太平洋戦争辞典』吉川弘文館、二〇一五年十一月十日 第一版第一刷発行、ISBN 978-4-642-01473-1、508頁。「八月に入って第二次上海事変が起こり、戦火は華中一帯にひろがった。中国全土を巻きこんだ日本と中国との全面戦争となった。」</ref>。17日に日本政府は不拡大方針の放棄も閣議決定し<ref name="usu77to87" />、18日に英仏が申し出た仲裁案も辞退した<ref name="kawakami152to171" />。[[中華民国の歴史#南京国民政府期(1928年〜1949年)|中華民国]][[中国国民党|国民党]]の蒋介石も中国全土に向けた総動員令を発して戦時体制を確立した。21日に[[中ソ不可侵条約]]が締結され、ソ連側から航空機や戦闘車両などの軍事支援を得た<ref name="usu90to92" />。[[中国共産党]]は抗日救国十大綱領を発表して抗日戦争を強力に支持し、8月22日に[[紅軍|共産党軍(紅軍)]]は[[国民革命軍|国民党軍]]の指揮下に入って[[八路軍|第八路軍]]と称した<ref>[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p77</ref><ref name="osugi284to288" />。9月22日に[[第二次国共合作]]が正式成立した<ref name="osugi284to288" />。


=== 上海攻略 ===
[[ファイル:Bombing outside the Palace Hotel.jpg|thumb|中華民国軍による[[上海共同租界]]への爆撃<ref>{{cite book| author = Frederic E. Wakeman | page=280 | title = Policing Shanghai, 1927-1937 | publisher = University of California Press | date = September 1996 | isbn =0520207610 | url = http://books.google.com/books?id=vT5GrHv4VcMC&printsec=frontcover&dq=Policing+Shanghai,+1927-1937&hl=en&ei=C8U6TdHYL4SwuAOSn7iSCg&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=1&ved=0CCYQ6AEwAA#v=onepage&q&f=false | accessdate = 2011-01-22 }}</ref>。]]
1937年8月15日、上海の日本人租界地に立て篭もる特別陸戦隊への空爆を憂慮した日本海軍は、中国軍機の離陸を阻止する為に上海と周辺の各都市にある空軍施設を空襲するという[[渡洋爆撃]]作戦を実行に移した<ref name="osugi284to288" />。15日から30日にかけて本土から飛び立った[[九六式陸上攻撃機|96式陸上攻撃機]]延べ200機余りが[[南京市|南京]]、[[杭州市|杭州]]、[[南昌市|南昌]]などにある中国空軍基地への長距離爆撃を敢行し<ref name="hioki">[[日置英剛]]編『年表太平洋戦争全史』国書刊行会 (2005) {{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>数々の未帰還機を出しながらも一定の成果を上げた。19日に上海沿岸に到着した本土の海軍特別陸戦隊2400名が一気に夜間上陸を果たして日本人租界地への合流に成功した。


上海市内では激しい攻防が続いており、中国軍第3戦区は新手の師団を次々と投入したが、特別陸戦隊は十倍以上の大軍の前で度重なる出血を強いられながらも奮戦して敵の侵入を許さなかった。後日に「緒戦一週目で敵軍掃滅成らず」と述懐して悔いる程この状況に大きな不満を覚えた蒋介石は<ref>[[第二次上海事変#阿羅|阿羅 (2008)]] {{要ページ番号|date=2015-06-16}}</ref>、敵のスパイ「漢奸」の存在が自軍敗走の原因になっていると断定して特務部長[[陳立夫]]に[[漢奸狩り]]と称する容赦ない粛清を実行させた<ref>''The New York Times'', August 27, 1937。『読売新聞』1937年8月29日付第二夕刊。『読売新聞』1937年8月30日付号外。『東京朝日新聞』1937年8月29日付朝刊。『[[東京日日新聞]]』1937年8月29日付号外。『読売新聞』1937年9月14日</ref>。上海の広場では連日数十名の民間人または政府役人が漢奸として公開処刑されその総数は4,000名に達した<ref>''The New York Times'', August 30, 1937記事</ref><ref name="yomiuri_19370915">『読売新聞』1937年9月15日</ref>。
第二次上海事変の勃発により日中全面戦争に発展した<ref>[[臼井勝美]]「上海事変」外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会編『新版日本外交史辞典』山川出版社、1992年5月20日 発行、ISBN 4-634-62200-9、387頁。「第2次上海事変はついに日中全面戦争に発展するにいたった。」</ref><ref>『永久保存版 シリーズ20世紀の記憶 第7巻 大日本帝国の戦争 2 太平洋戦争: 1937-1945』毎日新聞社、2000年4月1日 発行、11頁。「上海・南京攻略により華北の戦火は華中に飛び、戦いは「日中全面戦争」へと拡大、泥沼化する。」、22頁。「年表 第2次上海事変から日中全面戦争へ」</ref><ref>[[茶谷誠一]]『昭和天皇側近たちの戦争』吉川弘文館、2010年5月1日 第一刷発行、ISBN 978-4-642-05696-0、136頁。「第二次上海事変により (中略) 日中戦争は日中全面戦争化、長期戦化する様相となった」</ref><ref>安井三吉「日中戦争」『日本大百科全書⑰』小学館、787頁。[全面化] 八月一四日、国民政府は「自衛抗戦声明書」を発表、翌一五日中国共産党も「抗日救国十大綱領」を提起した。</ref><ref>[[芳井研一]]「日中戦争」吉田裕・森武麿・伊香俊哉・高岡裕之編『アジア・太平洋戦争辞典』吉川弘文館、二〇一五年十一月十日 第一版第一刷発行、ISBN 978-4-642-01473-1、508頁。「八月に入って第二次上海事変が起こり、戦火は華中一帯にひろがった。中国全土を巻きこんだ日本と中国との全面戦争となった。」</ref>。日本政府および軍部は上海への戦火波及はのぞんでいなかったとする見解もある<ref name="osugi284to288"/><ref name="kawakami152to171"/>。[[第1次近衛内閣|近衛内閣]]は[[8月15日]]、「もはや隠忍その限度に達し、[[暴支膺懲|支那軍の暴虐を膺懲し]]、南京政府の反省を促す」との声明を発表し、戦争目的は拝日抗日運動の根絶と日本満州支那三国の融和にあるとされ、[[上海派遣軍]]が編成された<ref name="usu77to87"/><ref>『東京朝日新聞』1937年8月15日付朝刊、2面</ref>。一方、同8月15日に[[中華民国の歴史#南京国民政府期(1928年〜1949年)|中華民国]]も全国総動員令を発し、大本営を設置して陸海空軍総司令に蒋介石が就任、戦時体制を確立し、さらに[[中国共産党]]も同8月15日に『抗日救国十大綱領』を発表し、中国全土での日中全面戦争となった<ref name="osugi284to288"/>。


8月23日、2個師団兵員4万名の[[上海派遣軍]]が上海沖合いに到着し、[[第三艦隊 (日本海軍)|第3艦隊]]の艦砲支援の下で市街地から北20km地点への上陸に成功した<ref name="osugi289to294">[[大杉一雄]]『日中十五年戦争史』p289-294</ref>。しかし彼らは日中戦争における最大の難関に立ち向かう事になった。1930年代の[[中独合作]]の中で招かれたドイツ軍事顧問団は、上海の市街地を取り囲む極めて高度な防御陣地を完成させていた。上海派遣軍下の[[第3師団 (日本軍)|第3]]、[[第11師団 (日本軍)|第11師団]]は、水壕と[[トーチカ]]が複雑に張り巡らされ、無数の火砲と機関銃が待ち構える鉄壁地帯への突撃を敢行した。
その後、[[8月]]下旬、[[蒋介石]]は自軍が日本軍の前に敗走を重ねる原因を「日本軍に通じる漢奸」の存在によるものとして[[陳立夫]]を責任者として取締りの強化を指示し、「[[ソビエト連邦]]の[[ゲーペーウー|ゲーペーウー(GPU)]]による殺戮政治の如き」[[漢奸狩り]]を開始した<ref>''The New York Times'', August 27, 1937。『読売新聞』1937年8月29日付第二夕刊。『読売新聞』1937年8月30日付号外。『東京朝日新聞』1937年8月29日付朝刊。『[[東京日日新聞]]』1937年8月29日付号外。『読売新聞』1937年9月14日</ref>。上海南市老西門広場では、毎日数十人が漢奸として処刑され、総数は4,000名に達し、中には政府官吏も300名以上含まれていた<ref name=yomiuri_19370915>『読売新聞』1937年9月15日</ref>。罪状は井戸、茶壺や食糧に毒を混入するように買収されたということや毒を所持で、警察官によって裏切り者に対する警告のために処刑された者の首が晒しものとされた。[[戒厳令]]下であるため裁判は必要とされず、宣告を受けたものは直ちに公開処刑された<ref>''The New York Times'', August 30, 1937記事</ref>。


*8月29日、[[東條英機|東條]]兵団がチャハル省[[張家口市|張家口]]を攻略。日本軍は[[察哈爾省|チャハル省]]を占領した。
;渡洋爆撃
*8月31日、北京の[[支那駐屯軍]]が[[第1軍 (日本軍)#日中戦争における第1軍|第1軍]]に改編され、新編の[[第2軍 (日本軍)#日中戦争における第2軍|第2軍]]と併せて[[北支那方面軍]]が編制された<ref name="sakuraiyoshiki">櫻井良樹「近代日中関係の担い手に関する研究(中清派遣隊) ―漢口駐屯の日本陸軍派遣隊と国際政治―」[http://ci.nii.ac.jp/naid/120005397534 CiNii],[http://ci.nii.ac.jp/naid/120005397534 麗澤大学学術リポジトリ]</ref>。
同[[8月15日]]、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]、[[渡洋爆撃]]を開始<ref name="osugi284to288"/>。15日より16日にかけて、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]航空隊の96式陸攻38機が、[[南昌市|南昌]]・[[南京市|南京]]・[[広徳県|広徳]]・[[杭州市|杭州]]を台南の新竹基地と長崎大村基地からの[[渡洋爆撃]]を行った<ref name="hioki">[[日置英剛]]編『年表太平洋戦争全史』国書刊行会 (2005) {{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>。15日より30日にかけて、同軍のべ147機が済州島・台北から出撃。広徳・南昌・南京などを空襲。未帰還機14機、大破13機。
*9月2日、[[近衛内閣]]が北支事変を「[[支那事変]]」と改称。
*9月5日、日本海軍が中国大陸沿岸の封鎖を宣言。
*9月9日、東條兵団が非武装の中国人300名を殺害した[[陽高事件]]が発生する。戦争不拡大を唱える陸軍参謀[[石原莞爾]]が強硬派に押し切られ、3個師団が上海派遣軍の増援として動員された。
*9月13日、中国政府が日本軍の行為を[[国際連盟]]に提訴した。
*9月14日、北支那方面軍が河北省[[保定市|保定]]を攻略。
*9月15日、日本海軍航空隊が広東を攻撃し<ref name="hioki" />{{要出典範囲|date=2015-06-22|22日までに現地の中国空軍を壊滅させた。}}<ref group="注釈">『皇国暦日史談』は「「我が海軍航空部隊は支那事変開始直後の9月22日月明の3時大挙広東を襲い、更に7時、13時半並びに14時の4回に亙り矢継早に空襲を繰り返したが敵空軍は己に全滅し高射砲も大半破壊して防空の役立たず、我が空軍は無人の境を行くが如くリレー式に広東市の西北より東にかけ天河、白雲両飛行場、兵器廠、淨塔水源池、其の他工場地帯、政府軍事各機関、遠東軍管学校、中山大学、中山紀念堂外重要建設物を片つ端から徹底的に爆撃した。此のため広東全市は殆んど猛火の巷と化し猛火盛んに上り大混乱に陥った。革命の震源地、排日の総本家たりし広東も我が正義の前に完膚なきまでに叩きのめされた。」と記している。[[日置英剛]]編『年表太平洋戦争全史』国書刊行会 (2005){{要ページ番号|date=2019年4月}}</ref>。ここでも[[漢奸狩り]]が実施され、赤灯と緑灯で空爆を助けたという容疑で100名以上が処刑された<ref> ''[[タイムズ|The Times]]''誌 [[9月27日]] 付記事</ref> 。
*9月21日、国際連盟で日中紛争諮問委員会が開催された<ref name="hioki" />。
*9月27日、不拡大方針を唱え続けた[[石原莞爾]]が陸軍参謀を辞職し<ref>[[第二次上海事変#阿羅|阿羅 (2008)]]、166頁</ref>その後は強硬論一辺倒となった。
*9月28日、日中紛争諮問委員会が日本軍の空爆に対する非難決議を満場一致で採択。8月15日から9月25日までの計11次に及ぶ無差別爆撃は、かの[[ゲルニカ爆撃]]に並ぶものとされた。
*10月2日、北支那方面軍が[[山西省 (中華民国)|山西省]]の攻略を目指す[[太原作戦]]を開始した。
* 10月5日、日中紛争諮問委員会が日本の軍事行動を[[九カ国条約]]と[[不戦条約]]に違反するものと決議採択した。同日に[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]米大統領が世にいう[[隔離演説]]をした。
*10月9日、3個師団からなる[[第10軍 (日本軍)|第10軍]]が編制され、これも上海に派遣された<ref>[[第二次上海事変#阿羅|阿羅 (2008)]] {{要ページ番号|date=2015-06-16}}</ref>。
* 10月10日、[[第1軍 (日本軍)|第1軍]]が河北省[[石家荘]]を攻略。日本軍は[[河北省 (中華民国)|河北省]]全域を占領した。
* 10月17日、東條兵団が綏遠省[[包頭]]を攻略。日本軍は[[綏遠省]]を占領した。


上海市内を目指して防御陣地の突破を目指す[[第3師団 (日本軍)|第3]]、[[第11師団 (日本軍)|第11師団]]は、水壕に行く手を阻まれ、トーチカから放たれる砲火と機関銃になぎ倒されて大苦戦し、9月下旬までに計1万名の死傷者を出していた。数百名の兵士を生贄にして100mの進捗を得るという日もあったが、形勢不利と見るやすぐ持ち場を離れてしまう中国兵たちの士気と規律の低さにも助けられて、日本兵たちは徐々に突破口を切り開いていった。市内の日本人租界地では[[上海特別陸戦隊|特別陸戦隊]]が善戦しており、本部拠点に押し寄せていた中国軍を逆に撃破して9月上旬から膠着状態に持ち込んでいた。中国兵の持ち場放棄に業を煮やした蒋介石は[[督戦隊]]を後方に置くよう指示し、逃走する者を容赦なく射殺させて軍規の引き締めを図った<ref>[[林建良]]は、中国の督戦隊は人の命を軽視する中国人の性格に基づく特異なものと説明している(林建良 『日本よ、こんな中国とつきあえるか?』 並木書房 2006年 pp.99-102 ISBN 978-4-89063-201-5)</ref>。中国軍第3戦区は数十万の兵力を三軍に分けて展開していたが、この方面の制空権を握った日本海軍機の空爆に牽制されて中央軍と右翼軍の多くが遊兵と化し、また第3、第11師団の包囲に向かった左翼軍は9月20日から順次到着した増援の[[第9師団 (日本軍)|第9]]、[[第13師団 (日本軍)|13]]、[[第101師団|101師団]]に撃退された。
[[8月17日]]、日本政府は従来の不拡大方針を放棄し、戦時体制の準備を講ずると閣議決定した<ref name="usu77to87"/>。


10月10日、日本兵たちは市街地手前の最後の防衛線まで到達し、12日に突破を果たして北から上海市内に雪崩れ込んだ。この頃になると逆に督戦隊の方に突撃する中国兵が相次ぐようになり同士討ちが多発した。その勢いに押された督戦隊からも公然と職務放棄する者が出始めたので、その更に後方に死刑の権限を持つ督察官が置かれて督戦隊を監視するようになった<ref>『東京朝日新聞』 1937年10月22日付朝刊 2面</ref>。中国軍は上海市中央を東西に流れる[[呉淞江|蘇州河]]まで戦線を下げて市街戦に持ち込んだ<ref>[[第二次上海事変#阿羅|阿羅 (2008)]]、216頁</ref>。26日、第9師団が市内中央に位置する[[大場鎮駅|大場鎮]]の占領に成功した<ref name="osugi289to294" />。翌27日に「日軍占領大場鎮」のアドバルーンを揚げて日本人租界地との連絡線を確保し、上海市内の大半は日本軍の制圧下となった。
8月18日、イギリスは日中双方に対して双方の軍の撤退と、租界の日本人保護は外国当局に委任してくれれば責任をもって遂行すると通告、フランスもこれを支持した<ref name="kawakami152to171"/>。しかし日本政府はすでに戦闘が開始しているためこれを丁重に辞退した<ref name="kawakami152to171"/>。


11月2日、上海攻略への目処が立ったのと同時に日本政府は、ドイツの駐日大使と[[オスカー・トラウトマン|トラウトマン]]駐華大使を通して[[トラウトマン和平工作|和平工作]]を開始した。5日にトラウトマンから伝えられた日本政府の和平案を蒋介石は拒否した<ref name="osg289to300">大杉『日中15年戦争史』p298-300</ref>。9月に日本軍の行為を国際連盟に提訴していた彼は、11月3日からの九ヶ国条約会議で中国側に有利な調停案が下される事を期待していた為と言われるが、会議の結論は日本非難声明に留まった<ref name="osg289to300" />。同5日に[[第10軍 (日本軍)|第10軍]]が上海市の南方60kmにある[[杭州湾]]の[[金山区 (上海市)|金山衛]]に上陸した。日本軍に南北を挟まれる形となった中国軍第3戦区は退路を断たれる恐れで浮き足立った。翌6日から上海市街で中国兵の掠奪が目立つようになり<ref>『東京朝日新聞』 1937年11月8日付朝刊 2面</ref>、陣払い前に決まって行なわれる彼らの習慣で中国軍の総退却が予測された。9日に蒋介石の撤退命令が出された。
[[8月20日]]日本海軍、漢口爆撃<ref name="hioki"/>。
[[8月21日]]、[[中ソ不可侵条約]]が締結され、5年間はソ連は日本と不可侵条約を締結せず、また中国は第三国と防共協定を締結しないという約束がなされ、まずは戦闘機50機の空輸が上申された<ref name="usu90to92"/>。[[8月22日]]には西北地域の共産党軍([[紅軍]])を[[国民革命軍]][[八路軍|第8路軍]]に改編、総兵力は32000<ref>[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p77</ref><ref name="osugi284to288"/>。


=== 南京攻略 ===
[[8月23日]]、日本陸軍が[[上海市|上海]]上陸開始<ref name="osugi289to294">[[大杉一雄]]『日中十五年戦争史』p289-294</ref>。しかし中国軍の抵抗が激しく、一日100mほどしか前進できなかった<!--「1日100メートル」は歩兵第6聯隊に限ったお話では?---><ref name="osugi289to294"/>。
{{Main|南京戦}}上海戦の惨敗は、蒋介石に国民革命軍が未だ近代化の途上にある事を痛感させた。中国陸軍の四分の一にあたる50万人の軍勢が日本軍10万人に為す術もなく敗れ、虎の子である中国空軍も日本海軍航空隊に大きく遅れを取った。「学者老人、軍事敗北、将軍落胆、革命欠落、もはや日本と戦争する理由も分からない」と日記に書いた蒋介石は<ref>[[楊天石]]:《揭開民國史的真相》卷五,蔣介石真相之二,風雲時代,2009年,61頁</ref>開戦四ヶ月で早くも正攻法では太刀打ちできない事を悟り、奇策と遊撃を駆使して日本軍を消耗戦に引きずり込むという抗戦持久方針に路線変更した。以後の中国大陸では各地で数十万人規模の「会戦」が頻発しつつも、日本軍に押された中国軍が手応えなく退いて占領地だけが無駄に広がっていくという光景が恒例となり、これは1945年の無条件降伏まで続いた。


11月7日、上海派遣軍と第10軍を併せて編制された[[中支那方面軍]]は、上海市内の鎮圧をほぼ終えた11日に<ref name="osugi289to2943">[[大杉一雄]]『日中十五年戦争史』p289-294</ref>日本政府の指導で上海大道政府を設置した。また中国軍の追撃を固く禁じられた。11日にスターリンは対日参戦の見送りを蒋介石に伝える一方で<ref name="usu90to923">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p90-92</ref>ソ連義勇兵を緊急派遣した<ref name="usu90to924">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p90-92</ref>。15日、第10軍司令官[[柳川平助|柳川]]中将が独断で南京への追撃を始めた<ref name="une1">畝元正己「証言による南京戦史(1)」『偕行』昭和59年(1984年)4月号、偕行社、p27-31.</ref><ref name="nihonkyod">[[波多野澄雄]] [[庄司潤一郎]]:[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 日中歴史共同研究2010].近現代史「第2部第2章 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦」</ref>。19日、南京陥落を不可避と見た蒋介石は重慶遷都を決定したが<ref name="usu124to135" />、湖北省方面への全軍撤退を完成させる為の時間稼ぎとして10万人規模の篭城部隊を残す決断も下しその司令官に[[唐生智]]上将を就けた<ref name="nihonkyod3">[[波多野澄雄]] [[庄司潤一郎]]:[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 日中歴史共同研究2010].近現代史「第2部第2章 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦」</ref>。同時に南京城外15マイル一帯にある河川の橋を落とし全ての家屋を焼き払い食料を根こそぎ持ち去るという[[空野清野作戦|清野作戦]]も実行に移した<ref name="une2">畝元正己「証言による南京戦史(2)」『偕行』昭和59年(1984年)5月号、偕行社、p10-14.</ref><ref>鈴木「南京大虐殺のまぼろし」p172-173</ref>。20日、日本政府に大本営が設置された。陸軍参謀本部は24日に第10軍の独断専行を追認する形で江蘇省全域の攻略を許可した<ref name="kawakami152to171" />。中支那方面軍が南京に向かって進撃する中で、12月1日に大本営は南京占領も許可した。
南京駐在英国大使{{仮リンク|ヒュー・ナッチブル=ヒューゲッセン|en|Hughe Knatchbull-Hugessen}}が銃撃を受けて重症を負い、同行の大使館職員が日本海軍機の機銃掃射によるものであると主張したが、日本海軍が自軍による機銃掃射を否定したため、イギリスの対日感情が悪化し、約一か月後に解決した。


* 11月8日、[[北支那方面軍]]が山西省[[太原]]を攻略。日本軍は[[山西省 (中華民国)|山西省]]を占領した。
ニューヨークタイムズ1937年8月30日記事では「北京での戦闘の責任については見解がわかれるかもしれないが、上海での戦闘に関する限り事実はひとつしかない。日本軍は戦闘拡大を望まず、事態悪化を防ぐためにできる限り全てのことをした。中国軍によって衝突へと無理矢理追い込まれてしまった」と報じた<ref name="kawakami152to171"/>。
*11月22日、[[関東軍]]が傀儡政権である{{仮リンク|蒙疆連合委員会|zh|蒙疆聯合委員會}}を[[察哈爾省|チャハル省]]と[[綏遠省]]の領域に設立し、[[張家口市|張家口]]に[[駐蒙軍]]が駐屯した。これは後に[[蒙古連合自治政府]]となった。


12月1日、スターリンは国際世論を理由に対日参戦を再度拒否し蒋介石を失望させた<ref name="usu90to92" />。翌日から国民党内で昨月の日本の和平案が前向きに検討され始めた。3日から中支那方面軍は南京の攻囲作戦を開始し、上海派遣軍は東から、第10軍は南から軍を進めて周辺の陣地を占領しつつ南京を取り巻く長大な城壁へと迫った。[[唐生智]]上将が国際安全区にも部隊を入れたので同区委員[[ジョン・ラーベ|ラーベ]]が抗議したが黙殺された。南京脱出前の蒋介石は和平交渉を受け入れる余地があるとトラウトマン大使に語り、7日に日本政府へ伝えられた<ref name="osg289to300" />。7日未明から蒋介石を始めとする政府高官が次々と航空機で南京から脱出した。南京市内には唐生智上将率いる防衛隊約10万人と民間人概ね50万人が残されたが、正確な人数については諸説あって定まっていない。9日に総攻撃準備を終えた中支那方面軍は、10日正午を期限とする降服勧告を出したが回答は無かった。
[[1937年]][[8月31日]]支那駐屯軍は廃止され、[[北支那方面軍]]・[[第1軍 (日本軍)#日中戦争における第1軍|第1軍]]・[[第2軍 (日本軍)#日中戦争における第2軍|第2軍]]へと編成される<ref name="sakuraiyoshiki">櫻井良樹「近代日中関係の担い手に関する研究(中清派遣隊) ―漢口駐屯の日本陸軍派遣隊と国際政治―」[http://ci.nii.ac.jp/naid/120005397534 CiNii],[http://ci.nii.ac.jp/naid/120005397534 麗澤大学学術リポジトリ]</ref>。
* [[9月2日]] - 日本、北支事変を[[支那事変]]と改称。
* [[9月5日]] - 日本海軍、[[中国大陸]]沿岸の封鎖を宣言。
* [[9月9日]] - [[山西省]]の陽高で、関東軍が中国人を虐殺する[[陽高事件]]が発生する。
* [[9月13日]]、国民政府、日本軍の行為を国際連盟に提訴。
* [[9月14日]] - 日本軍(北支那方面軍)、北平・天津より南進を開始。[[保定市|保定]]攻略。
* [[9月15日]]〜22日 - 日本海軍航空隊、広東方面攻撃<ref name="hioki"/>。{{要出典範囲|date=2015-06-22|22日までに中国空軍、全滅}}<ref group="注釈">『皇国暦日史談』は「「我が海軍航空部隊は支那事変開始直後の9月22日月明の3時大挙広東を襲い、更に7時、13時半並びに14時の4回に亙り矢継早に空襲を繰り返したが敵空軍は己に全滅し高射砲も大半破壊して防空の役立たず、我が空軍は無人の境を行くが如くリレー式に広東市の西北より東にかけ天河、白雲両飛行場、兵器廠、淨塔水源池、其の他工場地帯、政府軍事各機関、遠東軍管学校、中山大学、中山紀念堂外重要建設物を片つ端から徹底的に爆撃した。此のため広東全市は殆んど猛火の巷と化し猛火盛んに上り大混乱に陥った。革命の震源地、排日の総本家たりし広東も我が正義の前に完膚なきまでに叩きのめされた。」と記している。[[日置英剛]]編『年表太平洋戦争全史』国書刊行会 (2005){{要ページ番号|date=2019年4月}}</ref>。広東空襲に際し国民政府は赤と緑の明かりを点滅させて空爆の為の指示を出したとして、一週間で100人以上が[[漢奸狩り|スパイ容疑で処刑]]される<ref> ''[[タイムズ|The Times]]''誌 [[9月27日]] 付記事</ref> 。
* [[9月21日]] 〜22日 - 日本陸軍航空部隊、太原飛行場を爆撃。 同21日には国際連盟の日中紛争諮問委員会が開催<ref name="hioki"/>。
* [[9月22日]]、[[第二次国共合作]]が成立する<ref name="osugi284to288"/>。
* 日本海軍航空隊は[[9月23日]]に南昌を、翌日の[[9月24日]]に漢口を爆撃する<ref name="hioki"/>。


12月10日、中支那方面軍の各隊が南京に向けて一斉攻撃を開始した。上海のドイツ式防御陣地とは対照的に、南京の巨大な城壁は野戦砲と空爆のいい的でしかなく、崩落する瓦礫と飛散した破片が却って守備兵を危険に晒した。南京の各城門は集中砲撃と爆撃に耐えられず守備兵が退避した後に、日本兵が梯子でよじ登って突破されるという結末を辿った。12日18時に日本兵は南京市内に突入した。同市街は中国兵、便衣兵、民間人、日本兵でごった返した混乱の坩堝と化し、前日に蒋介石から撤退指示を受けていた唐生智上将は、各部著に最後の指令を出した後の20時に市外北へと脱出し揚子江の対岸に渡った。指令内容は敵包囲網の突破退却を敢行させるというものだったが、督戦隊を含めた多くの部署に伝わる事はなく、潰走する中国兵が北の揚子江に面した挹江門に殺到し、同門からの逃亡を阻止する督戦隊との間で激しい[[挹江門事件|同士討ち]]が発生した。
;国際連盟の日本空爆への非難決議
[[1937年]][[9月28日]] - [[国際連盟]]の日中紛争諮問委員会、総会で日本軍による中国の都市への空爆に対する非難決議を満場一致で採択。8月15日から9月25日までの合計11次に及ぶ日本軍による「無差別攻撃」は同年4月26日の[[ゲルニカ爆撃]]と並んで、世界航空戦史未曾有の大空襲だとされた。


*12月13日、日本軍が南京を占領状態に置いた{{sfn|波多野澄雄|2010-01-31|p=6}}。この日からいわゆる[[南京事件 (代表的なトピック)|南京大虐殺]]が起きたとされるが、その真相については現在に到るまで[[南京大虐殺論争|大きな論争]]を巻き起こしている。
他方、1937年10月、[[教皇|ローマ法王]][[ピウス11世 (ローマ教皇)|ピオ11世]](在位1922-39)は全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけ、「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」と声明を出した。[[東京朝日新聞]]は「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解するものであり、知己の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」と評価した<ref>『東京朝日新聞』1937年10月16日付夕刊</ref>
*12月14日、日本、北京に[[中華民国臨時政府 (北京)|中華民国臨時政府]]を樹立。
*12月17日、中支那方面軍、南京入城式。12月18日、日本の陸海軍合同慰霊祭を南京故宮飛行場において挙行<ref>「支那事変写真全集 <中>」、朝日新聞、昭和13年発行{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>。
*12月23日、南京で自治委員会が設立、治安が回復する<ref>[[タイムズ|英国紙THE TIMES(タイムズ)]], Dec. 24 1937, Nanking's New Rulers/Autonomous Commission Set Up</ref><ref>“ブリタニカ国際年鑑 1938年版(Encyclopaedia Britannica Book of The Year 1938)”{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>。華北では第十師団が黄河を渡り、12月27日には[[山東省]][[済南市|済南]]を占領、翌1938年1月11日には[[山東省]][[済寧]]を占領する<ref name="usu97to101">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p97-101</ref>。
*1938年1月1日、[[南京攻略戦#南京自治委員会の発会式|南京自治委員会の発会式]]が挙行される。
* 1月10日、海軍陸戦隊が[[青島市|青島]]を占領<ref name="usu97to101" />。
* 1月11日、[[御前会議]]、「支那事変処理根本方針」を決定。
* 1月16日、日本政府は「国民政府を対手とせず」の声明(第一次近衛声明)を出し、日中和平工作が打ち切られた<ref name="osg310to312">大杉『日中15年戦争史』p310</ref>。
* 2月7日、[[中ソ航空協定]]締結。3月1日、中ソ間で3000万米ドルの借款が締結された<ref name="usu90to92">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p90-92</ref>。1937年9月から1941年6月までの間にソ連は中国に、飛行機924機(爆撃機318、戦闘機562ほか)、戦車82両、大砲1140門、機関銃9720丁、歩兵銃50000丁、弾薬1億8000万発、トラクター602両、自動車1516両であった<ref name="usu90to92" />。


* 2月14日、中支那方面軍・上海派遣軍・第10軍を廃止、[[中支那派遣軍]]が編成される<ref name="usu97to101" />。
* [[1937年]][[10月2日]] - 日本軍(北支那方面軍)、[[太原]]攻略開始([[山西作戦]])。ソ連は対日軍事的、経済的制裁の実行をアメリカに打診した。
* 3月28日、日本、南京に[[中華民国維新政府]]を樹立させる。
* [[10月5日]] - 国際連盟、諮問委員会で日本の軍事行動を[[九カ国条約]]・[[不戦条約]]違反とする決議採択(翌[[10月6日]]、総会でも決議)。同日、米国の[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト]]大統領、シカゴで侵略国を批判する「隔離」演説。
* [[1010]] - 日本軍[[第1軍 (日本軍)|第1軍]]、[[]]占領
*41日本、[[総動員法]]公布
* [[10月12日]] - [[華中|中支]]の紅軍を[[新四軍]]に改編。
* [[10月17日]] 、関東軍、[[包頭]]を占領(チャハル作戦終了)。10月26日、上海戦線でも難関の大場鎮の占領に成功<ref name="osugi289to294"/>。


=== 徐州会戦と武漢攻略 ===
=== 和平交渉決裂・南京占領 ===
上海攻略後、日本は[[トラウトマン工作|和平工作]]を開始し、[[1937年]][[11月2日]]にディルクセン駐日ドイツ大使に内蒙古自治政府の樹立、華北に非武装中立地帯([[冀東防共自治政府]]があった場所)、上海に非武装中立地帯を設置し、国際警察による共同管理、共同防共などを提示し、「直ちに和平が成立する場合は華北の全行政権は南京政府に委ねる」が記載されている和平条件は[[11月5日]]に[[オスカー・トラウトマン|トラウトマン]]駐華ドイツ大使に示され、「戦争が継続すれば条件は加重される」と警告したにも関わらず蒋介石はこれを受理しなかった<ref name="osg289to300">大杉『日中15年戦争史』p298-300</ref>。蒋介石が受理しなかったのは[[11月3日]]から開かれていたブリュッセルでの九カ国条約会議で中国に有利な調停を期待していたためとされるが、九カ国条約会議は日本非難声明にとどまった<ref name="osg289to300"/>。その後、トラウトマン大使は蒋介石へ「日本の条件は必ずしも過酷のものではない」と説得し、12月2日の軍事会議では「ただこれだけの条件であれば戦争する理由がない」という意見が多かったこともあり、蒋介石は日本案を受け入れる用意があるとトラウトマン大使に語り、これは12月7日に日本へ伝えられた<ref name="osg289to300"/>。その後、日本は南京攻略の戦況を背景に要求を増やし、賠償や永久駐留や傀儡化を含む厳しい条件にした。結果、日中和平交渉は決裂した<ref name="osg310to312">大杉『日中15年戦争史』p310</ref>。

* [[1937年]][[11月5日]] - 日本軍[[第10軍 (日本軍)|第10軍]]、[[杭州湾]]に上陸。
* [[11月7日]] - [[中支那方面軍]]編成。
* [[11月8日]] - 日本軍(北支那方面軍)、[[太原]]占領。
* [[11月9日]] - 蒋介石、上海から撤退命令。
* [[11月11日]]、日本軍、上海の最後の拠点南市を占領する<ref name="osugi289to294"/>。同日、スターリンは蒋介石に即時参戦の拒否を伝え、中国が不利になればソ連は日本と開戦すると述べた<ref name="usu90to92"/>。
* [[11月19日]]には中支那方面軍が[[蘇州市|蘇州]]攻略。
* [[11月20日]] - 日本、[[大本営]]設置。同11月20日、 国民政府(蒋介石)、南京より[[重慶市|重慶]]移駐を決定<ref name="usu124to135"/>。
* [[11月21日]]、ソ連機が南京で対日戦に参加<ref name="usu90to92"/>。12月末までに南京のソ連義勇兵は3665人となった<ref name="usu90to92"/>。
* [[11月22日]] - 日本、[[内蒙古]]に{{仮リンク|蒙疆連合委員会|zh|蒙疆聯合委員會}}を樹立させる(後に[[蒙古連合自治政府]])。
*日本軍[[中支那方面軍]]、[[11月27日]]に[[無錫市|無錫]]、[[11月29日]]、[[常州市|常州]]を攻略。11月28日、日本軍は上海の電信、無線局、中国政府機関を押さえた<ref name="kawakami152to171"/>。

;南京戦
{{Main|南京戦}}
* [[12月1日]] - 大本営、中支那方面軍に南京攻略を許可。
* [[12月1日]] - 蒋介石からの参戦の催促に対してスターリンは、日本の挑戦もなく参戦すると侵略行動とみなされ、国際世論で日本が有利になると答え、単独参戦を拒否した<ref name="usu90to92"/>。
* [[12月10日]] - 日本軍(中支那方面軍)、南京攻撃開始。
* [[12月12日]] - 中華民国(国民党)軍南京防衛司令官の[[唐生智]]大将が南京から逃走。同日、[[パナイ号事件]]が起きるが、アメリカは日本側の謝罪と賠償を受け入れた。
* [[12月13日]] - 日本軍が南京を占領した{{sfn|波多野澄雄|2010-01-31|p=6}}。国府軍捕虜、敗残兵、[[便衣兵]]、民間人の大量殺害や強姦を日本軍が行ったとする[[南京事件 (1937年)|南京事件(南京大虐殺)]]が起きたが、事件について[[南京大虐殺論争|論争]]がある。
* [[12月14日]]、 日本、北京に[[中華民国臨時政府 (北京)|中華民国臨時政府]]を樹立。
* [[12月17日]]、中支那方面軍、南京入城式。12月18日、日本の陸海軍合同慰霊祭を南京故宮飛行場において挙行<ref>「支那事変写真全集 <中>」、朝日新聞、昭和13年発行{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>。
* [[12月23日]]、南京で自治委員会が設立、治安が回復する<ref>[[タイムズ|英国紙THE TIMES(タイムズ)]], Dec. 24 1937, Nanking's New Rulers/Autonomous Commission Set Up</ref><ref>“ブリタニカ国際年鑑 1938年版(Encyclopaedia Britannica Book of The Year 1938)”{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>。
;華北
*華北では[[12月23日]]、第十師団が黄河を渡り、[[12月27日]]には[[山東省]][[済南市|済南]]を占領、翌1938年[[1月11日]]には[[山東省]][[済寧]]を占領する<ref name="usu97to101">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p97-101</ref>。
*[[1938年]][[1月1日]]、[[南京攻略戦#南京自治委員会の発会式|南京自治委員会の発会式]]が挙行される。
* [[1月10日]] - 海軍陸戦隊が[[青島市|青島]]を占領<ref name="usu97to101"/>。
* [[1月11日]] - [[御前会議]]、「支那事変処理根本方針」を決定。
* [[1月16日]]、日本政府は「国民政府を対手とせず」の声明(第一次近衛声明)を出し、日中和平工作が打ち切られた<ref name="osg310to312"/>。
* [[2月7日]] - [[中ソ航空協定]]締結。3月1日、中ソ間で3000万米ドルの借款が締結された<ref name="usu90to92">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p90-92</ref>。1937年9月から1941年6月までの間にソ連は中国に、飛行機924機(爆撃機318、戦闘機562ほか)、戦車82両、大砲1140門、機関銃9720丁、歩兵銃50000丁、弾薬1億8000万発、トラクター602両、自動車1516両であった<ref name="usu90to92"/>。

* 1938年[[2月14日]] - 中支那方面軍・上海派遣軍・第10軍を廃止、[[中支那派遣軍]]が編成される<ref name="usu97to101"/>。
* [[3月28日]] - 日本、南京に[[中華民国維新政府]]を樹立させる。
*1938年 [[4月1日]] - 日本、[[国家総動員法]]公布。

=== 徐州攻略 ===
4月、中国広西軍は山東省台児荘で{{要出典範囲|date=2015-06-22|日本軍部隊5000兵力を包囲し、壊滅させ}}、中国の民衆は非常に喜んだ<ref name="isikawa188"/>。日本軍は中国軍主力が徐州に集中していると判断し<ref name="isikawa188"/>、1938年[[4月7日]] - 大本営、北支那方面軍・中支那派遣軍に協力して[[徐州市|徐州]]を攻略するよう([[徐州会戦]])下命した<ref name="usu97to101"/>。[[5月10日]]、日本軍、[[廈門市|廈門]]を占領。[[5月15日]]、中国軍は徐州を放棄し逃走したので中国軍兵力の殲滅には失敗することとなった<ref name="usu97to101"/>。[[5月19日]] - 日本軍(北支那方面軍・中支那派遣軍)、徐州占領<ref name="usu97to101"/>。
4月、中国広西軍は山東省台児荘で{{要出典範囲|date=2015-06-22|日本軍部隊5000兵力を包囲し、壊滅させ}}、中国の民衆は非常に喜んだ<ref name="isikawa188"/>。日本軍は中国軍主力が徐州に集中していると判断し<ref name="isikawa188"/>、1938年[[4月7日]] - 大本営、北支那方面軍・中支那派遣軍に協力して[[徐州市|徐州]]を攻略するよう([[徐州会戦]])下命した<ref name="usu97to101"/>。[[5月10日]]、日本軍、[[廈門市|廈門]]を占領。[[5月15日]]、中国軍は徐州を放棄し逃走したので中国軍兵力の殲滅には失敗することとなった<ref name="usu97to101"/>。[[5月19日]] - 日本軍(北支那方面軍・中支那派遣軍)、徐州占領<ref name="usu97to101"/>。
* [[5月20日]] - 中国軍機2機が[[渡洋爆撃#中国からの渡洋爆撃|九州へ飛来してビラ散布]]。
* [[5月20日]] - 中国軍機2機が[[渡洋爆撃#中国からの渡洋爆撃|九州へ飛来してビラ散布]]。
* [[5月26日]] - 近衛内閣改造によって6月3日には中国戦線の[[板垣征四郎]]が陸軍大臣、次官に[[東条英機]][[関東軍]]参謀長が起用され、中央政府に関東軍勢力が入った <ref name="usu97to101"/>。関東軍は華北分離をめざし、また蒋介石への不信を持っていたが、[[宇垣一成]]外務大臣は蒋介石を高く評価しており、対中観が対立していた <ref name="usu97to101"/>。[[宇垣一成]]外務大臣は香港の[[中村豊一郎]]領事に、国民党[[孔祥熙]]の秘書喬輔三との和平工作を[[6月]]から9月まで進行させた<ref name="usu97to101"/>。
* [[5月26日]] - 近衛内閣改造によって6月3日には中国戦線の[[板垣征四郎]]が陸軍大臣、次官に[[東条英機]][[関東軍]]参謀長が起用され、中央政府に関東軍勢力が入った <ref name="usu97to101"/>。関東軍は華北分離をめざし、また蒋介石への不信を持っていたが、[[宇垣一成]]外務大臣は蒋介石を高く評価しており、対中観が対立していた <ref name="usu97to101"/>。[[宇垣一成]]外務大臣は香港の[[中村豊一郎]]領事に、国民党[[孔祥熙]]の秘書喬輔三との和平工作を[[6月]]から9月まで進行させた<ref name="usu97to101"/>。


1938年[[6月]]、 蒋介石ら中国軍による[[黄河決壊事件]]により河南、[[江蘇省]]、[[安徽省]]の3000平方キロメートルの土地が水没し、民間人の被害は数十万人となった<ref name="isikawa188">[[石川禎浩]]『革命とナショナリズム 1925-1945 シリーズ中国近現代史3』岩波新書,2010年,p188</ref>。日本は6月15日、御前会議で漢口・広東攻略を決定した<ref name="usu97to101"/>。1938年7月4日、中支那派遣軍に第2軍、第11軍が編入され、武漢攻略作戦の態勢がとられた<ref name="usu97to101"/>。[[7月11日]]〜[[8月10日]]の日ソ武力衝突[[張鼓峰事件]]が解決したのち、[[8月22日]]から日本軍、[[武漢]]三鎮を攻略開始する([[武漢作戦]])<ref name="usu102to110">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p102-110</ref>。[[10月12日]]、第2軍が信陽を占領<ref name="usu102to110"/>。{{仮リンク|広東攻略戦|zh|廣州戰役 (1938年)|label=広東攻略}}を命じられた[[第21軍 (日本軍)|第21軍]](兵力7万)は1938年10月9日、台湾を出発、[[10月12日]]に[[大亜湾|バイアス湾]]上陸し、[[10月21日]]に[[広州市|広東]]を占領、日本軍の損失は戦死173、戦傷493だった<ref name="usu102to110" />。
=== 漢口・広東攻略 ===
1938年[[6月]]、 蒋介石ら中国軍による[[黄河決壊事件]]により河南、[[江蘇省]]、[[安徽省]]の3000平方キロメートルの土地が水没し、民間人の被害は数十万人となった<ref name="isikawa188">[[石川禎浩]]『革命とナショナリズム 1925-1945 シリーズ中国近現代史3』岩波新書,2010年,p188</ref>。日本は6月15日、御前会議で漢口・広東攻略を決定した<ref name="usu97to101"/>。1938年7月4日、中支那派遣軍に第2軍、第11軍が編入され、武漢攻略作戦の態勢がとられた<ref name="usu97to101"/>。[[7月11日]]〜[[8月10日]]の日ソ武力衝突[[張鼓峰事件]]が解決したのち、[[8月22日]]から日本軍、[[武漢]]三鎮を攻略開始する([[武漢作戦]])<ref name="usu102to110">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p102-110</ref>。[[10月12日]]、第2軍が信陽を占領<ref name="usu102to110"/>。


{{仮リンク|広東攻略戦|zh|廣州戰役 (1938年)|label=広東攻略}}を命じられた[[第21軍 (日本軍)|第21軍]](兵力7万)は1938年10月9日、台湾を出発、[[10月12日]]に[[大亜湾|バイアス湾]]上陸し、[[10月21日]]に[[広州市|広東]]を占領、日本軍の損失は戦死173、戦傷493だった<ref name="usu102to110"/>。
* [[10月27日]] - 日本軍(中支那派遣軍)、武漢三鎮を占領。[[武漢作戦]]の兵力は35万、第2軍戦死2300、戦傷7300、第11軍戦死4506、戦傷17380人だった<ref name="usu102to110"/>。武漢と、広東の占領によって日本の軍事行動は頂点に達した<ref name="usu102to110"/>。武漢陥落によって蒋介石は重慶に政府を移した<ref name="usu124to135"/>。
* [[10月27日]] - 日本軍(中支那派遣軍)、武漢三鎮を占領。[[武漢作戦]]の兵力は35万、第2軍戦死2300、戦傷7300、第11軍戦死4506、戦傷17380人だった<ref name="usu102to110"/>。武漢と、広東の占領によって日本の軍事行動は頂点に達した<ref name="usu102to110"/>。武漢陥落によって蒋介石は重慶に政府を移した<ref name="usu124to135"/>。


;日本の東亜新秩序宣言
* 1938年[[11月3日]] - 近衛首相は、国民政府はすでに一地方政府にすぎず、抗日政策を続けるならば壊滅するまで矛を納めないと述べたうえで、日本の目的は「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り」、国民政府が抗日政策を放棄すれば新秩序参加を拒まないとの[[東亜新秩序]]声明(第二次近衛声明)を出した<ref name="usu102to110"/>。蒋介石は12月28日、「東亜新秩序」は中国の奴隷化と世界の分割支配を意図していると批判、アメリカ合衆国も承認できないと日本を批判した<ref name="usu102to110"/>。
* 1938年[[11月3日]] - 近衛首相は、国民政府はすでに一地方政府にすぎず、抗日政策を続けるならば壊滅するまで矛を納めないと述べたうえで、日本の目的は「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り」、国民政府が抗日政策を放棄すれば新秩序参加を拒まないとの[[東亜新秩序]]声明(第二次近衛声明)を出した<ref name="usu102to110"/>。蒋介石は12月28日、「東亜新秩序」は中国の奴隷化と世界の分割支配を意図していると批判、アメリカ合衆国も承認できないと日本を批判した<ref name="usu102to110"/>。
* [[11月12日]] - 中国軍により[[長沙大火]]が起され、人口50万の都市が潰滅。
* [[11月12日]] - 中国軍により[[長沙大火]]が起され、人口50万の都市が潰滅。
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* [[11月20日]]、秘密協定「[[日華協議記録]]」が成立し、日本側からは[[影佐禎昭]]大佐、[[今井武夫]]中佐、中国側は[[高宗武]]、[[梅思平]]の間で調印された<ref name="usu111to117"/>。日華協議記録には、日華防共協定、満州国の承認、日本軍の撤退などが内容であった<ref name="usu111to117"/>。
* [[11月20日]]、秘密協定「[[日華協議記録]]」が成立し、日本側からは[[影佐禎昭]]大佐、[[今井武夫]]中佐、中国側は[[高宗武]]、[[梅思平]]の間で調印された<ref name="usu111to117"/>。日華協議記録には、日華防共協定、満州国の承認、日本軍の撤退などが内容であった<ref name="usu111to117"/>。
* [[11月30日]]、御前会議で日支新関係調整方針を決定<ref name="usu102to110"/>。
* [[11月30日]]、御前会議で日支新関係調整方針を決定<ref name="usu102to110"/>。
[[12月6日]]決定の「昭和十三年秋季以降対支処理方策」では占拠地拡大を企図せず、占拠した地域を安定確保の「治安地域」と、抗日殲滅地域の「作戦地域」に区分した<ref name="usu102to110"/>。[[12月16日]]、中国政策のための国策会社[[興亜院]]が成立する<ref name="usu102to110"/>。
[[12月6日]]決定の「昭和十三年秋季以降対支処理方策」では占拠地拡大を企図せず、占拠した地域を安定確保の「治安地域」と、抗日殲滅地域の「作戦地域」に区分した<ref name="usu102to110"/>。[[12月16日]]、中国政策のための国策会社[[興亜院]]が成立する<ref name="usu102to110"/>。[[12月18日]]には蒋介石との路線対立で[[汪兆銘]]が重慶を脱出し、昆明、ハノイに向かう<ref name="usu111to117" />。[[12月22日]]、近衛首相が[[近衛三原則]]を発表(第三次近衛声明)。日華協議記録と類似した内容であった<ref name="usu111to117" />。[[12月25日]]、汪兆銘は日本の講和条件は亡国的なものではないと駐英大使につたえる一方、蒋介石は[[12月26日]]に近衛声明を批判し、また汪兆銘のハノイ行きは療養目的と公表した<ref name="usu119to123">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p119-123</ref>。しかし、汪兆銘は[[12月30日]]の香港『南華日報』に、近衛声明にもとづき日本と和平交渉に入ると発表した<ref name="usu119to123" />。1939年[[1月1日]]、国民党は汪兆銘の党籍を永久に剥奪した<ref name="usu119to123" />。1939年3月21日に汪兆銘は暗殺されようとするが、曽仲鳴が代わりに殺害された<ref name="usu119to123" />。


=== 重慶爆撃の開始 ===
;汪兆銘の重慶脱出と日本の対応
[[ファイル:Casualties_of_a_mass_panic_-_Chungking,_China.jpg|thumb|防空壕付近で<!--4,000人が-->圧死または窒息死した市民(1941年6月5日の重慶爆撃)|代替文=]]
[[12月18日]]には蒋介石との路線対立で[[汪兆銘]]が重慶を脱出し、昆明、ハノイに向かう<ref name="usu111to117"/>。[[12月22日]]、近衛首相が[[近衛三原則]]を発表(第三次近衛声明)。日華協議記録と類似した内容であった<ref name="usu111to117"/>。[[12月25日]]、汪兆銘は日本の講和条件は亡国的なものではないと駐英大使につたえる一方、蒋介石は[[12月26日]]に近衛声明を批判し、また汪兆銘のハノイ行きは療養目的と公表した<ref name="usu119to123">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p119-123</ref>。しかし、汪兆銘は[[12月30日]]の香港『南華日報』に、近衛声明にもとづき日本と和平交渉に入ると発表した<ref name="usu119to123"/>。1939年[[1月1日]]、国民党は汪兆銘の党籍を永久に剥奪した<ref name="usu119to123"/>。1939年3月21日に汪兆銘は暗殺されようとするが、曽仲鳴が代わりに殺害された<ref name="usu119to123"/>。
1939年(昭和14年)[[1月4日]]、近衛内閣、総辞職。平沼内閣となる<ref name="usu102to110"/>。1939年の作戦としては1月からの[[重慶爆撃]]<ref name="usu124to135" />、[[2月10日]]の[[海南島]]上陸、[[3月]]の[[海州区 (連雲港市)|海州]]など[[江蘇省]]の要所占領、[[3月27日]]の[[南昌]]攻略などがあったが、戦争は長期化の様相を呈し、泥沼化していった<ref name="usu111to117" />。[[阿部信行]]大将も講演で昨年1938年暮れより1939年夏まで「戦さらしい戦さはない」「ただ平らであるが如く、斜めであるが如く、坂道をずるずる引摺られ上って行かなければならぬ」と述べた<ref name="usu111to117">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p111-117</ref>。


1939年(昭和14年)[[1月4日]]、近衛内閣、総辞職。平沼内閣となる<ref name="usu102to110"/>。

1939年の作戦としては1月からの[[重慶爆撃]]<ref name="usu124to135"/>、[[2月10日]]の[[海南島]]上陸、[[3月]]の[[海州区 (連雲港市)|海州]]など[[江蘇省]]の要所占領、[[3月27日]]の[[南昌]]攻略などがあったが、戦争は長期化の様相を呈し、泥沼化していった<ref name="usu111to117"/>。[[阿部信行]]大将も講演で昨年1938年暮れより1939年夏まで「戦さらしい戦さはない」「ただ平らであるが如く、斜めであるが如く、坂道をずるずる引摺られ上って行かなければならぬ」と述べた<ref name="usu111to117">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p111-117</ref>。
* [[4月]] - 中国軍、南支で春季反撃作戦。
* [[4月]] - 中国軍、南支で春季反撃作戦。
5月3日4日の[[重慶爆撃]]によって外国人を含む死者3991人の被害が出、その後も10月まで爆撃は続けられた<ref name="usu124to135"/>。
*5月3日 - 4日の[[重慶爆撃]]によって外国人を含む死者3991人の被害が出、その後も10月まで爆撃は続けられた<ref name="usu124to135" />。

* [[5月]]初め - 日本軍、[[襄東作戦]]。
* [[5月]]初頭 - 日本軍、[[襄東作戦]]。
* [[5月7日]]、板垣陸相は、支那事変が解決されないのはソ連とイギリスの援助によるとして、ドイツとイタリアとの軍事同盟が必要と五相会議で述べた<ref name="usu111to117"/>。
* [[5月7日]] - 板垣陸相は、支那事変が解決されないのはソ連とイギリスの援助によるとして、ドイツとイタリアとの軍事同盟が必要と五相会議で述べた<ref name="usu111to117"/>。
* [[5月11日]]、[[ノモンハン事件]]勃発(日ソ武力衝突)。
* [[5月11日]] - [[ノモンハン事件]]勃発(日ソ武力衝突)。
* [[6月13日]] - ソ連、国民政府に対し1億5000万ドルの借款を供与。
* [[6月13日]] - ソ連、国民政府に対し1億5000万ドルの借款を供与。
[[6月14日]]に日本軍は天津のイギリス[[租界]]を封鎖するが、これは4月に発生した臨時政府要人暗殺テロ犯人の引き渡しを租界当局が拒否したからであった<ref name="usu111to117"/>。日本とイギリスは7月15日から有田・クレーギー会談を実施、イギリス側は中国における現実の事態を完全に承認し、日本軍が治安維持のために特殊な要求を有することを承認するとした<ref name="usu111to117"/>。ただし、これはイギリスの対中政策の変更を意味するものではないとされた<ref name="usu111to117"/>。
[[6月14日]]に日本軍は天津のイギリス[[租界]]を封鎖するが、これは4月に発生した臨時政府要人暗殺テロ犯人の引き渡しを租界当局が拒否したからであった<ref name="usu111to117"/>。日本とイギリスは7月15日から有田・クレーギー会談を実施、イギリス側は中国における現実の事態を完全に承認し、日本軍が治安維持のために特殊な要求を有することを承認するとした<ref name="usu111to117"/>。ただし、これはイギリスの対中政策の変更を意味するものではないとされた<ref name="usu111to117"/>。
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* [[12月25日]] - [[桂林市|桂林]]で[[鹿地亘]]らが[[日本人民反戦同盟]]を結成。
* [[12月25日]] - [[桂林市|桂林]]で[[鹿地亘]]らが[[日本人民反戦同盟]]を結成。


=== 汪兆銘南京政府樹立 ===
1939年5月汪兆銘は来日し、1939年6月に平沼内閣は中国新政府樹立方針、汪工作指導要綱を発表、前年[[11月30日]]の日支新関係調整方針を和平条件とした<ref name="usu119to123"/>。その後、汪兆銘は中国の各地方政府を周り、意向を打診、11月1日、上海で日本と交渉するが、日本の蒙疆、華北に防共駐屯、南京、上海、杭州にも駐屯、揚子江沿岸特定地点にも艦船部隊駐屯提案に対して汪側は太原〜石家荘〜[[滄州市|滄州]]のライン以北に限定するよう日本側に大きく譲歩したうえで要求するが、日本側は山東省を加えるよう要求した<ref name="usu119to123"/>。12月30日、日華新関係調整要綱が成立<ref name="usu119to123"/>。
1939年5月汪兆銘は来日し、1939年6月に平沼内閣は中国新政府樹立方針、汪工作指導要綱を発表、前年[[11月30日]]の日支新関係調整方針を和平条件とした<ref name="usu119to123"/>。その後、汪兆銘は中国の各地方政府を周り、意向を打診、11月1日、上海で日本と交渉するが、日本の蒙疆、華北に防共駐屯、南京、上海、杭州にも駐屯、揚子江沿岸特定地点にも艦船部隊駐屯提案に対して汪側は太原〜石家荘〜[[滄州市|滄州]]のライン以北に限定するよう日本側に大きく譲歩したうえで要求するが、日本側は山東省を加えるよう要求した<ref name="usu119to123"/>。12月30日、日華新関係調整要綱が成立<ref name="usu119to123"/>。


1940年(昭和15年)1月、阿部内閣から米内内閣に変わった<ref name="usu111to117"/>。
1940年(昭和15年)1月、阿部内閣から米内内閣に変わった<ref name="usu111to117"/>。1月6日、汪兆銘の腹心高宗武らが上海を脱出し、香港で日本の講和条件を暴露し、汪兆銘は傀儡と訴えた<ref name="usu119to123"/>。これによって蒋介石の支持層が拡大した<ref name="usu119to123"/>。
1月6日、汪兆銘の腹心高宗武らが上海を脱出し、香港で日本の講和条件を暴露し、汪兆銘は傀儡と訴えた<ref name="usu119to123"/>。これによって蒋介石の支持層が拡大した<ref name="usu119to123"/>。
* [[1月]]下旬 - 日本軍、[[賓陽作戦]]。
* [[1月]]下旬 - 日本軍、[[賓陽作戦]]。
* [[2月2日]] - 日本、[[衆議院]]で[[斎藤隆夫]]議員が対中国政策を批判([[反軍演説]]。[[3月7日]]議員除名)。
* [[2月2日]] - 日本、[[衆議院]]で[[斎藤隆夫]]議員が対中国政策を批判([[反軍演説]]。[[3月7日]]議員除名)。
* [[3月30日]] - 汪兆銘、南京で親日政府樹立([[汪兆銘政権|中華民国南京国民政府]])<ref name="usu119to123"/>。
* [[3月30日]] - 汪兆銘、南京で親日政府樹立([[汪兆銘政権|中華民国南京国民政府]])<ref name="usu119to123"/>。


=== 三国同盟と英米交渉 ===
=== 戦争の泥沼化 ===
1940年5月・6月のドイツ軍による西ヨーロッパの席捲を進撃を背景に日本政府は[[6月24日]]、英仏にビルマルートおよび香港経由による援蒋行為の停止を要求した<ref name="usu111to117"/>。
[[ファイル:Second Sino-Japanese War WW2.png|thumbnail|1940年時点の日本軍占領地域(赤色部分)]]1940年5月・6月のドイツ軍による西ヨーロッパの席捲を進撃を背景に日本政府は[[6月24日]]、英仏にビルマルートおよび香港経由による援蒋行為の停止を要求した<ref name="usu111to117" />。[[5月18日]]より、日本軍、漢口、運城基地から重慶、成都を空襲する[[一〇一号作戦]]が10月26日まで実施された<ref name="usu124to135" />。6月12日には[[宜昌作戦|宜昌占領]]<ref name="usu124to135" />。[[6月24日]]から[[6月29日]]までは連続して猛爆が行われた <ref name="usu124to135" />。


* 1940年[[7月11日]]、アメリカは日本に対して、武力による領土獲得政策を堅持する諸国と強調するのか、という確認をしたが、米内内閣は答弁することがないまま、陸軍の総意によって<ref name="usu119to123" />倒壊し、7月21日に[[第二次近衛内閣]]が成立する<ref name="usu111to117" />。
[[5月18日]]より、日本軍、漢口、運城基地から重慶、成都を空襲する[[一〇一号作戦]]が10月26日まで実施された<ref name="usu124to135"/>。6月12日には[[宜昌作戦|宜昌占領]]<ref name="usu124to135"/>。[[6月24日]]から[[6月29日]]までは連続して猛爆が行われた <ref name="usu124to135"/>。


[[7月18日]]、英国、日本の要求に応じ援蒋ルート(ビルマルート)を閉鎖<ref name="usu124to135" />。
* 1940年[[7月11日]]、アメリカは日本に対して、武力による領土獲得政策を堅持する諸国と強調するのか、という確認をしたが、米内内閣は答弁することがないまま、陸軍の総意によって<ref name="usu119to123"/>倒壊し、7月21日に[[第二次近衛内閣]]が成立する<ref name="usu111to117"/>。
<!--[[7月20日]] - 重慶で日本人民反戦同盟の成立大会を開催--->7月26日、[[基本国策要綱]]で「皇国の国是は[[八紘一宇|八紘を一宇とする肇国]]の大精神」が唱えられた<ref name="usu124to135">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p124-135</ref>。7月27日の大本営では南方問題解決のため武力を用いることが決定された<ref name="usu124to135" />。8月1日、松岡外相は日本満州シナを一環とする[[大東亜共栄圏]]確立という外交方針を発表した<ref name="usu124to135" />。
[[7月18日]]、英国、日本の要求に応じ援蒋ルート(ビルマルート)を閉鎖<ref name="usu124to135"/>。
<!--[[7月20日]] - 重慶で日本人民反戦同盟の成立大会を開催--->7月26日、[[基本国策要綱]]で「皇国の国是は[[八紘一宇|八紘を一宇とする肇国]]の大精神」が唱えられた<ref name="usu124to135">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p124-135</ref>。7月27日の大本営では南方問題解決のため武力を用いることが決定された<ref name="usu124to135"/>。8月1日、松岡外相は日本満州シナを一環とする[[大東亜共栄圏]]確立という外交方針を発表した<ref name="usu124to135"/>。
* [[8月20日]]<!-- 8月2日としている文献もある -->〜[[12月5日]] - 20万の八路軍が、山西から河北にかけての鉄道、通信網、日本軍警備拠点を一斉攻撃し、大攻勢をかけた[[百団大戦]]が展開される<ref name="isikawa200">[[石川禎浩]]『革命とナショナリズム 1925-1945 シリーズ中国近現代史3』岩波新書,2010年,p200-201</ref>。日本軍は不意をつかれ、以後「敵性住民」の死滅も認めた報復攻撃によって八路軍の抗日根拠地の掃討作戦を開始し、中国はこれを[[三光作戦]]と呼んだ<ref name="isikawa200"/>。この掃討作戦では毒ガスも使用されたといわれ、八路軍の抗日根拠地のなかには人口が3分の2になった地区もあった<ref name="isikawa200"/>。
*1940年9月14日、松岡外相は陸海軍首脳会議において「英米との連携は不可能ではないが、しかしそのためには支那事変を処理しなくてはならず」「残された道は独伊との提携」と主張、陸海首脳はこれに同意した<ref name="usu124to135"/>。[[9月23日]]、日本軍、[[仏印進駐#北部仏印進駐|北部仏印進駐]]。[[9月25日]]、米国、国民政府に対し2500万ドルの借款を供与。[[9月27日]]には[[日独伊三国同盟]]が締結される<ref name="usu124to135"/>。[[9月30日]]、米国、[[鉄鋼]]・[[屑鉄]]の対日輸出を禁止する法令を発布<ref name="usu124to135"/>。日本はこれに抗議したが、ハル国務長官は、アメリカの国防上の判断であるとして抗議を拒絶した<ref name="usu124to135"/>。
* [[9月]]末 - 日本陸軍[[今井武夫]]大佐らの蒋介石夫人[[宋美齢]]の弟[[宋子良]]への日中和平工作([[今井武夫#桐工作|桐工作]])を行っていたが、進展せず、断念(のちに宋子良を称した人物は偽物で、この和平工作は[[藍衣社]]の[[戴笠]]の指揮下に行われていたことがわかっている)<ref name="usu124to135"/>。


*[[8月20日]]<!-- 8月2日としている文献もある -->〜[[12月5日]] - 20万の八路軍が、山西から河北にかけての鉄道、通信網、日本軍警備拠点を一斉攻撃し、大攻勢をかけた[[百団大戦]]が展開される<ref name="isikawa200">[[石川禎浩]]『革命とナショナリズム 1925-1945 シリーズ中国近現代史3』岩波新書,2010年,p200-201</ref>。日本軍は不意をつかれ、以後「敵性住民」の死滅も認めた報復攻撃によって八路軍の抗日根拠地の掃討作戦を開始し、中国はこれを[[三光作戦]]と呼んだ<ref name="isikawa200" />。この掃討作戦では毒ガスも使用されたといわれ、八路軍の抗日根拠地のなかには人口が3分の2になった地区もあった<ref name="isikawa200" />。
[[ファイル:Second Sino-Japanese War WW2.png|thumbnail|1940年時点の日本軍占領地域(赤色部分)]]
*1940年9月14日、松岡外相は陸海軍首脳会議において「英米との連携は不可能ではないが、しかしそのためには支那事変を処理しなくてはならず」「残された道は独伊との提携」と主張、陸海首脳はこれに同意した<ref name="usu124to135" />。[[9月23日]]、日本軍、[[仏印進駐#北部仏印進駐|北部仏印進駐]]。[[9月25日]]、米国、国民政府に対し2500万ドルの借款を供与。[[9月27日]]には[[日独伊三国同盟]]が締結される<ref name="usu124to135" />。[[9月30日]]、米国、[[鉄鋼]]・[[屑鉄]]の対日輸出を禁止する法令を発布<ref name="usu124to135" />。日本はこれに抗議したが、ハル国務長官は、アメリカの国防上の判断であるとして抗議を拒絶した<ref name="usu124to135" />。
*[[9月]]末 - 日本陸軍[[今井武夫]]大佐らの蒋介石夫人[[宋美齢]]の弟[[宋子良]]への日中和平工作([[今井武夫#桐工作|桐工作]])を行っていたが、進展せず、断念(のちに宋子良を称した人物は偽物で、この和平工作は[[藍衣社]]の[[戴笠]]の指揮下に行われていたことがわかっている)<ref name="usu124to135" />。


* [[10月]] - 日本軍、[[燼滅作戦]](三光作戦)開始。
* 1940年[[10月]] - 日本軍、[[燼滅作戦]](三光作戦)開始。
* [[10月4日]]、イギリスはビルマルート再開を中国側に通知する<ref name="usu124to135"/>。同日、日本軍[[731部隊]]が衢県において細菌戦を実行したとされる<ref>[http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/A9D4C04B00E1852349256C30001FA66A.pdf]平成14年8月27日判決言渡第1事件・平成9年(ワ)第16684号 損害賠償請求事件第2事件・平成11年(ワ)第27579号 損害賠償等請求事件</ref>。
* [[10月4日]]、イギリスはビルマルート再開を中国側に通知する<ref name="usu124to135"/>。同日、日本軍[[731部隊]]が衢県において細菌戦を実行したとされる<ref>[http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/A9D4C04B00E1852349256C30001FA66A.pdf]平成14年8月27日判決言渡第1事件・平成9年(ワ)第16684号 損害賠償請求事件第2事件・平成11年(ワ)第27579号 損害賠償等請求事件</ref>。
* [[10月23日]]、日本首脳会議で英米依存経済から自給圏確立のために南方問題を武力解決する方針が確認された<ref name="usu124to135"/>。
* [[10月23日]]、日本首脳会議で英米依存経済から自給圏確立のために南方問題を武力解決する方針が確認された<ref name="usu124to135"/>。
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* [[4月13日]] - [[日ソ中立条約]]調印。蒋介石は衝撃を受けるが、ソ連は軍事援助はこれまで通り継続するとした<ref name="usu135to142">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p135-142</ref>。
* [[4月13日]] - [[日ソ中立条約]]調印。蒋介石は衝撃を受けるが、ソ連は軍事援助はこれまで通り継続するとした<ref name="usu135to142">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p135-142</ref>。


== 太平洋戦争下の中国戦線 ==
== 大東亜戦争 ==
=== 日米交渉と太平洋戦争 ===
=== 日米交渉の決裂 ===
{{Main|日米交渉}}
{{Main|日米交渉}}
[[ファイル:Casualties_of_a_mass_panic_-_Chungking,_China.jpg|thumb|防空壕に戻ろうとして<!--4,000人が-->踏みつけられたり、窒息したりして死亡した市民(1941年6月5日、重慶爆撃)]]
1941年4月中旬より、重慶工作の道がないため、[[日米交渉]]が開始された<ref name="usu135to142"/>。日本は三国同盟3条の日本に参戦義務についてと、アメリカ仲介による日中戦争解決を要望したが、アメリカは門戸開放、機会均等の無条件適用を提示した<ref name="usu135to142"/>。
1941年4月中旬より、重慶工作の道がないため、[[日米交渉]]が開始された<ref name="usu135to142"/>。日本は三国同盟3条の日本に参戦義務についてと、アメリカ仲介による日中戦争解決を要望したが、アメリカは門戸開放、機会均等の無条件適用を提示した<ref name="usu135to142"/>。
* [[5月]] - 米国、[[対中武器貸与法]]発動。
* 5月 - 米国、[[対中武器貸与法]]発動。
* 5月 - 日本軍、[[江北作戦]]。
* [[5月]] - 日本軍、[[江北作戦]]。[[5月7日]]〜[[6月15日]] - 北支那方面軍、[[中原会戦|中原会戦(百号作戦)]]。[[5月]]〜[[8月]]末 - 日本軍、再び重慶を大空襲([[一〇二号作戦]])。8月、[[遠藤三郎 (陸軍軍人)|遠藤三郎]]第三飛行団長は重慶爆撃の有効性に疑問を呈し、再検討を要請した<ref name="usu124to135"/>。
*5月7日〜6月15日 - 北支那方面軍が[[中原会戦|中原会戦(百号作戦)]]を行なう。
* [[6月]] - [[シンガポール]]で英・蒋軍事会議。
*5月〜8月末 - 日本軍、再び重慶を大空襲([[一〇二号作戦]])。8月に[[遠藤三郎 (陸軍軍人)|遠藤三郎]]第三飛行団長は重慶爆撃の有効性に疑問を呈し、再検討を要請した<ref name="usu124to135" />。
[[6月22日]]、[[独ソ戦]]がはじまると、松岡外相は即時対ソ参戦を上奏したが、[[7月2日]]の御前会議は独ソ戦不介入を決定、南方進出を強化し、対英米戦を辞せずと決定した<ref name="usu135to142"/>。[[7月7日]] - [[関東軍特種演習]](関東軍、対ソ戦を準備するが[[8月]]に断念)。[[7月10日]]、アメリカ対案に対して外務省顧問[[斉藤良衛]]は、南京政府の取り消し、満州の中国への返還、日本軍の無条件撤兵などを意味していると解釈、松岡外相もこれに賛同した<ref name="usu135to142"/>。[[7月28日]]、日本軍、[[仏印進駐#南部仏印進駐|南部仏印進駐]]を実施、英米は日本資産を凍結した<ref name="usu135to142"/>。[[8月1日]] - 米国、対日輸出を大幅に制限。
* 6月 - [[シンガポール]]で英・蒋軍事会議。
* [[9月5日]]〜[[11月6日]] - [[第一次長沙作戦]](加号作戦)。
[[6月22日]]、[[独ソ戦]]がはじまると、松岡外相は即時対ソ参戦を上奏したが、[[7月2日]]の御前会議は独ソ戦不介入を決定、南方進出を強化し、対英米戦を辞せずと決定した<ref name="usu135to142"/>。[[7月7日]] - [[関東軍特種演習]](関東軍、対ソ戦を準備するが[[8月]]に断念)。[[7月10日]]、アメリカ対案に対して外務省顧問[[斉藤良衛]]は、南京政府の取り消し、満州の中国への返還、日本軍の無条件撤兵などを意味していると解釈、松岡外相もこれに賛同した<ref name="usu135to142"/>。
* [[10月]] - [[マニラ]]で英米蘭中の軍事会談。
* [[10月16日]]、近衛内閣総辞職、18日、東条内閣成立<ref name="usu143to155">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p143-155</ref>。[[11月1日]]から翌日午前1時半までの会議で、自存自衛を完し大東亜新秩序を建設するための米英蘭戦争を決意するとともに、対米交渉が12月1日までに成功すれば武力発動を中止するという[[帝国国策遂行要領]]が採択された<ref name="usu143to155"/>。対米案では甲乙二案が了承され、甲案では、これまでに日中提携が消えて、中国での通商無差別原則の無条件承認を認める譲歩をし、また和平成立後2年で撤兵するとされ、満州については議題として触れないというものであった<ref name="usu143to155"/>。乙案は、南方に限定したもので仏印南部の日本軍の北部移駐、在米資産の凍結復帰などが書かれ、11月7日に甲案が11月20日に乙案がハル国務長官に提示された<ref name="usu143to155"/>。
* [[11月22日]] - 米国務長官[[コーデル・ハル|ハル]]、暫定協定案を纏め、ワシントンの英蘭濠中代表に日本の乙案を提示したうえで、南部仏印からの日本軍撤退と対日禁輸の一部解除というアメリカの対案を提示したが、中国の[[胡適]]大使はこれでは日本は対中戦争を自由に遂行することが可能だとして強く反対した<ref name="usu143to155"/>。[[11月24日]]、ハルは英蘭濠中代表の説得を再度行ったが中国側は北部仏印の日本軍25000を5000にするよう求めて譲らなかった<ref name="usu143to155"/>。蒋介石はアメリカは中国を犠牲にして日本と妥協しようとしているとして激怒、ラティモアは蒋介石がここまで怒るのははじめてだと米大統領に報告した<ref name="usu143to155"/>。さらに蒋介石はスティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官にも親書を送り、チャーチルももし中国が崩壊すれば英国も危機に瀕するとしてルーズベルト大統領を説得した<ref name="usu143to155"/>。[[11月26日]] - 米国務長官ハルは暫定協定案を放棄し、[[ハル・ノート]]を作成。同日野村・来栖両大使へ手交。日本はこれを[[最後通牒]]と解し、対米開戦に傾く。
* [[12月]]〜翌年[[1月]] - [[第二次長沙作戦]]。


* 7月28日、日本軍、[[仏印進駐#南部仏印進駐|南部仏印進駐]]を実施、英米は日本資産を凍結した<ref name="usu135to142" />。
;太平洋戦争(大東亜戦争)開戦
*8月1日 - 米国、対日輸出を大幅に制限。
* [[12月8日]] - 日本、上海で降伏勧告に応じなかったイギリス砲艦ペトレル号を撃沈、華北では天津英仏租界の接収、華南沙面イギリス租界へも進駐、[[マレー半島]]上陸、及び[[真珠湾攻撃]]。広東第23軍、[[香港]]攻略開始([[香港の戦い]])。こうして[[太平洋戦争]]が勃発する。日米開戦のニュースに重慶の国民政府は狂喜した<ref name="usu143to155"/>。[[12月9日]] - 中華民国(重慶政府、蒋介石政権)、日独伊に宣戦布告<ref name="usu143to155"/>。
*9月5日〜11月6日 - [[第一次長沙作戦]](加号作戦)。
* [[12月12日]] - 日本、対米英戦争を支那事変(対中国戦線)も含めて「[[大東亜戦争]]」と呼称することを閣議決定する。同日、スターリンは蒋介石の参戦催促に対して兵力を極東にさくことはできないため対日参戦は考えられないと答えた<ref name="usu143to155"/>。
*10月 - [[マニラ]]で英米蘭中の軍事会談。
* [[12月25日]] - 日本軍、香港占領。
* 10月16日、近衛内閣総辞職、18日、東条内閣成立<ref name="usu143to155">[[臼井勝美]]『新版 日中戦争』p143-155</ref>。[[11月1日]]から翌日午前1時半までの会議で、自存自衛を完し大東亜新秩序を建設するための米英蘭戦争を決意するとともに、対米交渉が12月1日までに成功すれば武力発動を中止するという[[帝国国策遂行要領]]が採択された<ref name="usu143to155" />。対米案では甲乙二案が了承され、甲案では、これまでに日中提携が消えて、中国での通商無差別原則の無条件承認を認める譲歩をし、また和平成立後2年で撤兵するとされ、満州については議題として触れないというものであった<ref name="usu143to155" />。乙案は、南方に限定したもので仏印南部の日本軍の北部移駐、在米資産の凍結復帰などが書かれ、11月7日に甲案が11月20日に乙案がハル国務長官に提示された<ref name="usu143to155" />。
* [[12月31日]]、アメリカの要請で蒋介石は中国戦区連合軍総司令官に就任、蒋介石の希望で[[ジョセフ・スティルウェル]]が[[中国国民党]]軍参謀長に就任する<ref name="usu143to155"/>。
* 11月22日 - 米国務長官[[コーデル・ハル|ハル]]、暫定協定案を纏め、ワシントンの英蘭濠中代表に日本の乙案を提示したうえで、南部仏印からの日本軍撤退と対日禁輸の一部解除というアメリカの対案を提示したが、中国の[[胡適]]大使はこれでは日本は対中戦争を自由に遂行することが可能だとして強く反対した<ref name="usu143to155" />。[[11月24日]]、ハルは英蘭濠中代表の説得を再度行ったが中国側は北部仏印の日本軍25000を5000にするよう求めて譲らなかった<ref name="usu143to155" />。蒋介石はアメリカは中国を犠牲にして日本と妥協しようとしているとして激怒、ラティモアは蒋介石がここまで怒るのははじめてだと米大統領に報告した<ref name="usu143to155" />。さらに蒋介石はスティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官にも親書を送り、チャーチルももし中国が崩壊すれば英国も危機に瀕するとしてルーズベルト大統領を説得した<ref name="usu143to155" />。
*11月26日 - 米国務長官ハルは暫定協定案を放棄し、[[ハル・ノート]]を作成。同日野村・来栖両大使へ手交。日本はこれを[[最後通牒]]と解し、対米開戦に傾く。
* 12月〜翌年1月 - [[第二次長沙作戦]]。


=== 太平洋戦争開幕 ===
1942年(昭和17年)[[1月1日]]、蒋介石は日本は一時の興奮を得るが、結局は自滅すると語った<ref name="usu143to155"/>。
'''1941年(昭和16年)'''
* [[1月31日]] - 日本軍、[[ビルマ]]攻略開始([[援蒋ルート]]の遮断)。

* [[3月]] - 米国、国民政府に5億ドル借款成立。
* 12月8日 - 日本、上海で降伏勧告に応じなかったイギリス砲艦ペトレル号を撃沈、華北では天津英仏租界の接収、華南沙面イギリス租界へも進駐、[[マレー半島]]上陸、及び[[真珠湾攻撃]]。広東第23軍、[[香港]]攻略開始([[香港の戦い]])。こうして[[太平洋戦争]]が勃発する。日米開戦のニュースに重慶の国民政府は狂喜した<ref name="usu143to155"/>。[[12月9日]] - 中華民国(重慶政府、蒋介石政権)、日独伊に宣戦布告<ref name="usu143to155"/>。
* [[5月]]〜[[9月]] - {{仮リンク|浙カン作戦|zh|浙贛戰役|label=浙贛作戦}}([[せ号作戦]])、浙は浙江省、贛は江西省の旧称。
* 12月12日 - 日本、対米英戦争を支那事変(対中国戦線)も含めて「[[大東亜戦争]]」と呼称することを閣議決定する。同日、スターリンは蒋介石の参戦催促に対して兵力を極東にさくことはできないため対日参戦は考えられないと答えた<ref name="usu143to155"/>。
* 12月25日 - 日本軍、香港占領。
* 12月31日、アメリカの要請で蒋介石は中国戦区連合軍総司令官に就任、蒋介石の希望で[[ジョセフ・スティルウェル]]が[[中国国民党]]軍参謀長に就任する<ref name="usu143to155"/>。

'''1942年(昭和17年)'''

*1月1日 - 蒋介石は日本は一時の興奮を得るが、結局は自滅すると語った<ref name="usu143to155" />。
*1月31日 - 日本軍、[[ビルマ]]攻略開始([[援蒋ルート]]の遮断)。
* 3月 - 米国、国民政府に5億ドル借款成立。
* 5月〜9月 - {{仮リンク|浙カン作戦|zh|浙贛戰役|label=浙贛作戦}}([[せ号作戦]])、浙は浙江省、贛は江西省の旧称。
* 5月末 - 日本軍、ビルマ全域を占領。
* 5月末 - 日本軍、ビルマ全域を占領。
* [[10月]] - 英米、中国における治外法権を撤廃(不平等条約の廃止)。
* 10月 - 英米、中国における治外法権を撤廃(不平等条約の廃止)。


;1943年(昭和18年)
;1943年(昭和18年)
* [[1月]] - [[延安]]で「[[日本人解放連盟]]」成立、前線の日本兵へ投降の呼びかけ。
* 1月 - [[延安]]で「[[日本人解放連盟]]」成立、前線の日本兵へ投降の呼びかけ。
* [[1月9日]] - 日本・南京国民政府(汪兆銘政権)は、[[日華共同声明]]を発表。汪兆銘政権、米英に宣戦布告。[[日華協定]]を締結(日本の南京政府への租界返還・治外法権撤廃など)。
* 1月9日 - 日本・南京国民政府(汪兆銘政権)は、[[日華共同声明]]を発表。汪兆銘政権、米英に宣戦布告。[[日華協定]]を締結(日本の南京政府への租界返還・治外法権撤廃など)。
* [[1月11日]] - 国民政府、英米両国と治外法権撤廃についての条約を締結。
* 1月11日 - 国民政府、英米両国と治外法権撤廃についての条約を締結。
* [[1月14日]] - イタリア、南京政府に対し租界返還・治外法権撤廃を通告。
* 1月14日 - イタリア、南京政府に対し租界返還・治外法権撤廃を通告。
* [[2月21日]] - 日本軍、フランス([[ヴィシー政府]])側の了解(広州湾共同防衛協議)を得て、広州湾のフランス租界([[広州湾租借地]])に進駐。
* 2月21日 - 日本軍、フランス([[ヴィシー政府]])側の了解(広州湾共同防衛協議)を得て、広州湾のフランス租界([[広州湾租借地]])に進駐。
* [[2月]][[3月]] - [[江北殲滅作戦]]、江北は武漢の西方、揚子江の北側。
* 2月〜3月 - [[江北殲滅作戦]]、江北は武漢の西方、揚子江の北側。
* [[5月]][[6月]] - [[江南殲滅作戦]]。
* 5月〜6月 - [[江南殲滅作戦]]。
* [[10月30日]] - 日本・南京政府が新たな同盟条約に調印。
* 10月30日 - 日本・南京政府が新たな同盟条約に調印。
* [[11月]]〜翌年[[1月]] - [[常徳殲滅作戦]]、常徳は武漢の南西。
* 11月〜翌年1月 - [[常徳殲滅作戦]]、常徳は武漢の南西。
* [[11月22日]][[11月26日]] - [[カイロ]]で英米中首脳会談([[カイロ会談]])。
* 11月22日〜11月26日 - [[カイロ]]で英米中首脳会談([[カイロ会談]])。
* [[11月25日]] - 台湾を米中連合航空隊が空襲([[新竹空襲]])。
* 11月25日 - 台湾を米中連合航空隊が空襲([[新竹空襲]])。


=== 大陸打通作戦 ===
[[ファイル:Situation at the End of World War Two.PNG|thumb|大陸打通作戦後の日本軍占領地域(赤部分)、及び中国共産党ゲリラの拠点地域(ストライプ部分)]]
[[ファイル:Situation at the End of World War Two.PNG|thumb|大陸打通作戦後の日本軍占領地域(赤部分)、及び中国共産党ゲリラの拠点地域(ストライプ部分)]]


;1944年(昭和19年)
;1944年(昭和19年)

* 3月25日 - 日本軍、黄河鉄橋の修理完了。
* 3月25日 - 日本軍、黄河鉄橋の修理完了。
* 4月〜翌年1月 - [[大陸打通作戦]](1号作戦)、前半[[京漢作戦]](コ号作戦)後半[[湘桂作戦]](ト号作戦)。
* 4月 - [[大陸打通作戦]](1号作戦)が開始されこれは1945年1月に完遂した。前半[[京漢作戦]](コ号作戦)後半[[湘桂作戦]](ト号作戦)と呼ばれた
日本軍、[[4月19日]]に[[鄭州市|鄭州]]を占領、[[5月25日]]には [[洛陽市|洛陽]]を占領。京漢作戦が成功。
*4月19日 - 日本軍、[[鄭州市|鄭州]]を占領
*5月25日 - 日本軍、[[洛陽市|洛陽]]を占領。京漢作戦が成功。

* [[6月2日]]〜[[9月14日]] - [[拉孟・騰越の戦い]]において日本軍守備隊の[[玉砕]]。同地の失陥によって援蒋ルート(ビルマルート)再開。
* 6月2日〜9月14日 - [[拉孟・騰越の戦い]]において日本軍守備隊の[[玉砕]]。同地の失陥によって援蒋ルート(ビルマルート)再開。
* 6月16日 - [[成都市|成都]]を基地とするアメリカ軍B-29爆撃機が、日本本土を空襲開始([[八幡空襲]])。
* 6月16日 - [[成都市|成都]]を基地とするアメリカ軍B-29爆撃機が、日本本土を空襲開始([[八幡空襲]])。
* [[6月18日]] - 日本軍、長沙を攻略。
* 6月18日 - 日本軍、長沙を攻略。
* [[7月2日]] - [[インパール作戦]]の失敗により、援蒋ルート遮断の継続を目的とする[[断作戦]]を新たに発令。
* 7月2日 - [[インパール作戦]]の失敗により、援蒋ルート遮断の継続を目的とする[[断作戦]]を新たに発令。
* [[7月7日]] - サイパン陥落。アメリカ軍は成都に替わるB-29による日本本土爆撃拠点を確保。
* 7月7日 - サイパン陥落。アメリカ軍は成都に替わるB-29による日本本土爆撃拠点を確保。
* [[11月10日]] - 汪兆銘が客死。
* 11月10日 - 汪兆銘が客死。


;1945年(昭和20年)
;1945年(昭和20年)
* 1月 - 新たな援蒋ルートである[[レド公路]]が開通。
* 1月 - 新たな援蒋ルートである[[レド公路]]が開通。
* 1月7日 - 成都から出撃したB-29爆撃機が大村を空襲。これを最後に成都からの日本本土空襲は打ち切り。
* 1月7日 - 成都から出撃したB-29爆撃機が大村を空襲。これを最後に成都からの日本本土空襲は打ち切り。
* [[2月4日]][[2月11日|11日]] - [[ヤルタ会談]]での戦後処理議題で蒋介石は満州支配の権益を[[ソ連]]に譲ることを約束。
* 2月4日〜11日 - [[ヤルタ会談]]での戦後処理議題で蒋介石は満州支配の権益を[[ソ連]]に譲ることを約束。
* [[3月3日]][[4月11日]] - [[老河口作戦]]。日本軍が老河口飛行場を占領。
* 3月3日〜4月11日 - [[老河口作戦]]。日本軍が老河口飛行場を占領。
* [[4月15日]][[5月9日]] - [[シ江作戦|芷江作戦]](二〇号作戦)。中国軍の反撃を受けた日本軍は[[シ江トン族自治県|芷江]]飛行場の手前、白馬山付近までしか進めず死傷2万8000の損害を被って敗退。
* 4月15日〜5月9日 - [[シ江作戦|芷江作戦]](二〇号作戦)。中国軍の反撃を受けた日本軍は[[シ江トン族自治県|芷江]]飛行場の手前、白馬山付近までしか進めず死傷2万8000の損害を被って敗退。
* [[5月25日]] - 日本軍、南寧を放棄
* 5月25日 - 日本軍、南寧を放棄
* [[8月6日]][[8月9日]] - アメリカ、広島・長崎へ原子爆弾を投下。([[日本への原子爆弾投下]])
* 8月6日、8月9日 - アメリカ、広島・長崎へ原子爆弾を投下。([[日本への原子爆弾投下]])
* [[8月8日]] - ソ連、日ソ中立条約を破棄し、満州国・[[朝鮮半島]]に侵攻。
* 8月8日 - ソ連、日ソ中立条約を破棄し、満州国・[[朝鮮半島]]に侵攻。
* [[8月14日]] - {{要出典範囲|date=2017年1月|[[葛根廟事件]](ソ連軍、日本人避難民を虐殺)、[[ポツダム宣言]]受諾}}。
* 8月14日 - {{要出典範囲|date=2017年1月|[[葛根廟事件]](ソ連軍、日本人避難民を虐殺)、[[ポツダム宣言]]受諾}}。
* [[8月15日]] - 日本、連合国に対し[[ポツダム宣言]]の受諾を正式に表明。([[日本の降伏]])
* 8月15日 - 日本、連合国に対し[[ポツダム宣言]]の受諾を正式に表明。([[日本の降伏]])
* [[8月17日]] - 満洲国皇帝[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]が退位宣言。[[満洲国]]が消滅。
* 8月17日 - 満洲国皇帝[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]が退位宣言。[[満洲国]]が消滅。
* [[9月2日]] - 日本、連合国、米戦艦[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ号]]にて[[降伏文書]]に調印。
* 9月2日 - 日本、連合国、米戦艦[[ミズーリ (戦艦)|ミズーリ号]]にて[[降伏文書]]に調印。
* [[9月9日]] - 南京にて連合国主催の調印式が行われ、支那派遣軍総司令官[[岡村寧次]]大将、中華民国陸軍総司令[[何応欽]]、降伏文書に調印。
* 9月9日 - 南京にて連合国主催の調印式が行われ、支那派遣軍総司令官[[岡村寧次]]大将、中華民国陸軍総司令[[何応欽]]、降伏文書に調印。


== 登場勢力の立場と目的 ==
== 登場勢力の立場と目的 ==
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上記の表で中国側の犠牲者が132万とあるが、この数字は中国[[国民革命軍]]のみの数であり、{{要出典範囲|date=2019年4月|必ずしもその人数が正しいとはいえないことに注意が必要。}}当時の[[中国大陸]]では、日本軍・南京中華民国政府軍・[[蒋介石]]国民革命軍・共産党軍(現:[[中国人民解放軍]]の前身)・その他[[馬賊]]や[[抗日]]武装勢力など複数の勢力が、割拠する地域で、日中戦争中には主に2つの勢力に分かれて戦争を行っていた。また国共内戦は国共合作以降も断続しており、第二次世界大戦後には再開している。中国の民衆は戦争に翻弄され、[[農業]]や[[商業]]、[[工業]]、[[運輸]]などの生活基盤を破壊されると共に各勢力の戦闘や[[ゲリラ|ゲリラ戦]]に巻き込まれ命を落としたり、戦闘継続の中、日本軍のみならず自国民たる各勢力に[[食糧]]を[[徴発]]されたことや[[焦土作戦]]の影響で[[飢餓]]に陥る人も大勢いた。また日本人をはじめ在留外国人も戦闘に巻き込まれた。([[中国空軍の上海爆撃 (1937年)]]を参照)。
上記の表で中国側の犠牲者が132万とあるが、この数字は中国[[国民革命軍]]のみの数であり、{{要出典範囲|date=2019年4月|必ずしもその人数が正しいとはいえないことに注意が必要。}}当時の[[中国大陸]]では、日本軍・南京中華民国政府軍・[[蒋介石]]国民革命軍・共産党軍(現:[[中国人民解放軍]]の前身)・その他[[馬賊]]や[[抗日]]武装勢力など複数の勢力が、割拠する地域で、日中戦争中には主に2つの勢力に分かれて戦争を行っていた。また国共内戦は国共合作以降も断続しており、第二次世界大戦後には再開している。中国の民衆は戦争に翻弄され、[[農業]]や[[商業]]、[[工業]]、[[運輸]]などの生活基盤を破壊されると共に各勢力の戦闘や[[ゲリラ|ゲリラ戦]]に巻き込まれ命を落としたり、戦闘継続の中、日本軍のみならず自国民たる各勢力に[[食糧]]を[[徴発]]されたことや[[焦土作戦]]の影響で[[飢餓]]に陥る人も大勢いた。また日本人をはじめ在留外国人も戦闘に巻き込まれた。([[中国空軍の上海爆撃 (1937年)]]を参照)。
{{ns:0|1=<nowiki>日本軍による[[燼滅作戦|三光政策]]や[[南京事件 (1937年)|南京事件]]などにより、中国の住民に多くの犠牲者が出たといわれる<ref>「世界の歴史」編集委員会編『もういちど読む山川世界史』[[山川出版社]](2009)pp.246-247(事件や政策の呼称は出典に依る)</ref>。一方、これらは中国側のプロパガンダであり事実ではないする見方もある<ref>{{cite news|title=高校教科書検定 倭寇まで「侵略」表記 南京「30万虐殺」なお|newspaper=産経新聞|date=2003-04-09|author=教科書問題取材班}}</ref><ref>[[藤岡信勝]]『教科書採択の真相: かくして歴史は歪められる』 [[PHP研究所]]、2005年{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref><ref>[[小林よしのり]]『[[新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論]]』 [[幻冬舎]] {{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref><!-- 1998年? ---><ref>[[黄文雄 (評論家)|黄文雄]]『反日教育を煽る中国の大罪―日本よ、これだけは中国に謝罪させよ!』 [[日本文芸社]]、2004年{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>。<!--[[Wikipedia:信頼できる情報源]]:「[[K-12]]水準の教科書は権威があるようには作られておらず、ウィキペディアの編集者は避けるべきです--></nowiki>}}
{{ns:0|1=<nowiki>日本軍による[[燼滅作戦|三光政策]]や[[南京事件 (代表的なトピック)|南京事件]]などにより、中国の住民に多くの犠牲者が出たといわれる<ref>「世界の歴史」編集委員会編『もういちど読む山川世界史』[[山川出版社]](2009)pp.246-247(事件や政策の呼称は出典に依る)</ref>。一方、これらは中国側のプロパガンダであり事実ではないする見方もある<ref>{{cite news|title=高校教科書検定 倭寇まで「侵略」表記 南京「30万虐殺」なお|newspaper=産経新聞|date=2003-04-09|author=教科書問題取材班}}</ref><ref>[[藤岡信勝]]『教科書採択の真相: かくして歴史は歪められる』 [[PHP研究所]]、2005年{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref><ref>[[小林よしのり]]『[[新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論]]』 [[幻冬舎]] {{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref><!-- 1998年? ---><ref>[[黄文雄 (評論家)|黄文雄]]『反日教育を煽る中国の大罪―日本よ、これだけは中国に謝罪させよ!』 [[日本文芸社]]、2004年{{要ページ番号|date=2015-06-22}}</ref>。<!--[[Wikipedia:信頼できる情報源]]:「[[K-12]]水準の教科書は権威があるようには作られておらず、ウィキペディアの編集者は避けるべきです--></nowiki>}}
以下、各犠牲者数について注釈する。
以下、各犠牲者数について注釈する。
* 終戦時132万人
* 終戦時132万人
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[[1971年]][[10月25日]]、 国連で[[アルバニア決議]]が採択され、中華民国が中国の代表権を喪失するとともに常任理事国の地位をはく奪され、[[中華人民共和国]]が中国の代表権を得た。[[1972年]]2月に[[ニクソン大統領の中国訪問]]が実現し米中が接近するのと並行して[[日中国交正常化]]も進展し、1972年9月には[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明|日中共同声明]]が[[周恩来]][[国務院総理]]と[[田中角栄]][[内閣総理大臣]]によって調印された。声明第五項では「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する(The Government of the People's Republic of China declares that in the interest of the friendship between the Chinese and the Japanese peoples, it renounces its demand for war reparation from Japan.)」として、[[中華人民共和国]]は対日戦争賠償請求を放棄すると宣言された<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_seimei.html 日本語全文]、[http://www.mofa.go.jp/region/asia-paci/china/joint72.html 英語全文](外務省)</ref><ref name=asdiges/>。1978年8月12日には、日中共同声明を踏まえて、[[日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約|日中平和友好条約]]が締結され、第1条では「主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉」が、第2条ではアジア・太平洋地域他の地域で[[覇権]]を求めないと規定された<ref> [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_heiwa.html 日本語正文](日本外務省) [http://zh.wikisource.org/wiki/中日和平友好条约 中国語正文](ウィキソース)</ref>。なお[[1979年]]には[[米中関係#国交正常化|米中が国交正常化した]]。
[[1971年]][[10月25日]]、 国連で[[アルバニア決議]]が採択され、中華民国が中国の代表権を喪失するとともに常任理事国の地位をはく奪され、[[中華人民共和国]]が中国の代表権を得た。[[1972年]]2月に[[ニクソン大統領の中国訪問]]が実現し米中が接近するのと並行して[[日中国交正常化]]も進展し、1972年9月には[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明|日中共同声明]]が[[周恩来]][[国務院総理]]と[[田中角栄]][[内閣総理大臣]]によって調印された。声明第五項では「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する(The Government of the People's Republic of China declares that in the interest of the friendship between the Chinese and the Japanese peoples, it renounces its demand for war reparation from Japan.)」として、[[中華人民共和国]]は対日戦争賠償請求を放棄すると宣言された<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_seimei.html 日本語全文]、[http://www.mofa.go.jp/region/asia-paci/china/joint72.html 英語全文](外務省)</ref><ref name=asdiges/>。1978年8月12日には、日中共同声明を踏まえて、[[日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約|日中平和友好条約]]が締結され、第1条では「主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉」が、第2条ではアジア・太平洋地域他の地域で[[覇権]]を求めないと規定された<ref> [http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_heiwa.html 日本語正文](日本外務省) [http://zh.wikisource.org/wiki/中日和平友好条约 中国語正文](ウィキソース)</ref>。なお[[1979年]]には[[米中関係#国交正常化|米中が国交正常化した]]。


日本は中華人民共和国に対し[[政府開発援助]](ODA)を実施し、[[1979年]]から2013年度までに有償資金協力([[円借款]])約3兆3,164億円、無償資金協力を1,572億円、技術協力を1,817億円、総額約3兆6,553億円のODAを実施した<ref>[[外務省]][http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/data/chiiki/china.html 対中ODA概要]平成28年2月1日</ref>。廃止の方向にあるODAに変わって、[[財務省]]影響下の[[アジア開発銀行]]が肩代わりして迂回融資を行い、1年あたりの援助金額は円借款の2倍であり<ref>[[青木直人]]『中国に喰い潰される日本 チャイナリスクの現場から』[[PHP研究所]]、2007/1/27、ISBN 978-4569659824{{要ページ番号|date=2019年4月}}</ref>、アジア開発銀行から中国への援助総額は日本円で2兆8000億円に上っており、「日本の対中国ODAは3兆円ではなく6兆円。3兆円は日本政府から中国政府に直接援助した金額。アジア開発銀行等の迂回融資分をあわせると6兆円」という指摘がある<ref>{{Cite news |url=http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20100929/plt1009291611005-n1.htm|title=中国の増長を食い止める手段あるか 追い詰められているのは中国?|newspaper=[[zakzak]]|publisher=|date=2010-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101001213455/http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20100929/plt1009291611005-n1.htm|archivedate=2010-10-01}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20120927/plt1209271125004-n1.htm|title=ならず者中国に6兆円も貢ぐ日本…オマヌケ支援をストップせよ|newspaper=[[zakzak]]|publisher=|date=2012-09-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120929231458/http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20120927/plt1209271125004-n1.htm|archivedate=2012-09-29}}</ref>。
日本は中華人民共和国に対し[[政府開発援助]](ODA)を実施し、[[1979年]]から2013年度までに有償資金協力([[円借款]])約3兆3,164億円、無償資金協力を1,572億円、技術協力を1,817億円、総額約3兆6,553億円のODAを実施した<ref>[[外務省]][http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/data/chiiki/china.html 対中ODA概要]平成28年2月1日</ref>。廃止の方向にあるODAに変わって、[[財務省]]影響下の[[アジア開発銀行]]が肩代わりして迂回融資を行い、1年あたりの援助金額は円借款の2倍であり<ref>[[青木直人]]『中国に喰い潰される日本 チャイナリスクの現場から』[[PHP研究所]]、2007/1/27、ISBN 978-4569659824{{中国の増長を|い止める=段あるか 追い}}</ref>、アジア開発銀行から中国への援助総額は日本円で2兆8000億円に上っており、「日本の対中国ODAは3兆円ではなく6兆円。3兆円は日本政府から中国政府に直接援助した金額。アジア開発銀行等の迂回融資分をあわせると6兆円」という指摘がある<ref>{{Cite news |url=http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20100929/plt1009291611005-n1.htm|title=中国の増長を食い止める手段あるか 追い詰められているのは中国?|newspaper=[[zakzak]]|publisher=|date=2010-09-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101001213455/http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20100929/plt1009291611005-n1.htm|archivedate=2010-10-01}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20120927/plt1209271125004-n1.htm|title=ならず者中国に6兆円も貢ぐ日本…オマヌケ支援をストップせよ|newspaper=[[zakzak]]|publisher=|date=2012-09-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120929231458/http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20120927/plt1209271125004-n1.htm|archivedate=2012-09-29}}</ref>。


日本政府はこれら三つの条約および声明(サンフランシスコ平和条約第14条b、日華平和条約第11条、日中共同声明第5項)によって、日中間における請求権は、個人の請求権の問題も含めて消滅したと認識している<ref>[[第174回国会]][[衆議院]][[法務委員会]]平成22年(2010年)5月11日[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/174/0004/17405110004011.pdf 会議録第11号7頁](国会会議録検索システム国立国会図書館)、[[西村智奈美]][[外務大臣政務官]]の発言「サンフランシスコ平和条約十四条と日華平和条約の関係からまず申し上げますと、日華平和条約第十一条及びサンフランシスコ平和条約第十四条(b)により、中国及びその国民の日本国及びその国民に対する請求権は放棄されております。一九七二年の日中共同声明第五項に言うところの戦争賠償の請求は、中国及びその国民の日本国及びその国民に対する請求権を含むものとして、中華人民共和国政府がその放棄を宣言したものでございます。したがって、さきの大戦に係る日中間における請求権の問題につきましては、個人の請求権の問題も含めて、一九七二年の日中共同声明発出後、存在しておらず、このような認識は中国側も同様であるというふうに認識をしております。」</ref>。[[江沢民]]も1992年4月1日、日本の侵略戦争については真実を求めて厳粛に対処するが、日中共同声明の立場は変わらないと発言している<ref>人民日報1992年4月3日</ref>。
日本政府はこれら三つの条約および声明(サンフランシスコ平和条約第14条b、日華平和条約第11条、日中共同声明第5項)によって、日中間における請求権は、個人の請求権の問題も含めて消滅したと認識している<ref>[[第174回国会]][[衆議院]][[法務委員会]]平成22年(2010年)5月11日[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/174/0004/17405110004011.pdf 会議録第11号7頁](国会会議録検索システム国立国会図書館)、[[西村智奈美]][[外務大臣政務官]]の発言「サンフランシスコ平和条約十四条と日華平和条約の関係からまず申し上げますと、日華平和条約第十一条及びサンフランシスコ平和条約第十四条(b)により、中国及びその国民の日本国及びその国民に対する請求権は放棄されております。一九七二年の日中共同声明第五項に言うところの戦争賠償の請求は、中国及びその国民の日本国及びその国民に対する請求権を含むものとして、中華人民共和国政府がその放棄を宣言したものでございます。したがって、さきの大戦に係る日中間における請求権の問題につきましては、個人の請求権の問題も含めて、一九七二年の日中共同声明発出後、存在しておらず、このような認識は中国側も同様であるというふうに認識をしております。」</ref>。[[江沢民]]も1992年4月1日、日本の侵略戦争については真実を求めて厳粛に対処するが、日中共同声明の立場は変わらないと発言している<ref>人民日報1992年4月3日</ref>。

2019年7月4日 (木) 12:05時点における版

日中戦争
Map showing the extent of Japanese control in 1940
戦争日中戦争(1941年12月12日より大東亜戦争の一部となる)
年月日:1937年7月7日から1945年9月9日
場所中華民国内蒙古華北華中華南)、イギリス領ビルマ
結果連合国の勝利[1][2]
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国
満洲国の旗 満洲国(1932-)
蒙古聯合自治政府の旗 蒙古聯合自治政府(1939-)
中華民国の旗 中華民国汪兆銘政権(1940-)
中華民国の旗 中華民国
中国共産党(1937年、中華民国陝甘寧辺区政府と改称された)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国(1941-)
イギリスの旗 イギリス帝国(1941-)
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦(1945-)
指導者・指揮官
大日本帝国 香月清司(1937-38)
大日本帝国 松井石根(1937-38)
大日本帝国 朝香宮鳩彦王(1937-38)
大日本帝国 西尾寿造(1939-41)
大日本帝国 畑俊六(1941-44)
大日本帝国 岡村寧次(1944-45)
満洲国 張景恵
デムチュクドンロブ(1939-1945)
中華民国の旗 汪兆銘(1940-1944)
中華民国の旗 陳公博(1944-1945)
中華民国 蒋介石
中華民国 何応欽
中華民国 徐永昌
中華民国 陳誠
中華民国 李宗仁
中華民国 閻錫山
毛沢東
朱徳
アメリカ合衆国の旗 ジョセフ・スティルウェル(1941-44)
アメリカ合衆国の旗 クレア・リー・シェンノート(1941-44)
アメリカ合衆国の旗 アルバート・ウェデマイヤー(1944-45)
イギリスの旗 ルイス・マウントバッテン(1941-45)
ソビエト連邦の旗 アレクサンドル・ヴァシレフスキー

日中戦争(にっちゅうせんそう)は、1937年昭和12年)から1945年(昭和20年)まで、大日本帝国中華民国の間で行われた戦争である[注釈 1][注釈 2][注釈 3]

呼称

1937年7月11日に日本政府は、7日から北京周辺で発生した戦闘を「北支事変」とした。1937年9月2日に近衛内閣は、8月13日から上海でも戦闘が発生し戦線が北支と南支に及んだので「支那事変」とする事を閣議決定した[4][5]。1941年12月12日に時の東條内閣は、8日の対米宣戦布告と翌9日の中国政府による対日宣戦布告を受けて、支那事変も含めた今回の戦争を「大東亜戦争」と12日に閣議決定した[6]。大東亜戦争の開始日は1937年7月7日となった。なお、中国側は「中国抗日戦争」と称している。

戦争でなく事変とされたのは、単に日中両政府が互いに宣戦布告を行なわなかったからである。その主な理由としては、正式な戦争状態になるとアメリカ政府の中立法が発動されてしまい、対米貿易に制限が掛けられる事を日中双方が嫌ったためだと言われている。特に中国側は軍需品の輸入に問題が生じることを懸念していた[7]。日本側は早期収拾の機会を常に伺っていたので宣戦布告までは踏み切れなかったとされる[5]

時期区分

日中戦争期間の一般的な見解は1937年〜1945年までであるが[8]、日本では歴史認識の違いによってその位置付けが大東亜戦争十五年戦争アジア太平洋戦争のどれかに分かれており様々な解釈がある[9]臼井勝美は「前史:塘沽協定 - 盧溝橋事件」「一期:盧溝橋事件 - 太平洋戦争開幕」「二期:太平洋戦争 - 終戦」の三期に区分している[10]小林英夫は「前史:満洲事変 - 盧溝橋事件」「一期:盧溝橋事件 - 武漢攻略」「二期:武漢攻略 - 太平洋戦争開幕」「三期:太平洋戦争 - 終戦」の四期に区分している[11]

中国共産党の公式見解としては、抗日戦争の開始は1935年の抗日人民宣言、または1937年の七七事変(盧溝橋事件)とされていたが、2017年1月に中国教育省は従来の歴史教科書にある「日本の侵略に対する中国人民の8年間の抗戦」という表現を、満州事変の口火となった柳条湖事件発生時の1931年まで遡らせて「14年間の抗戦」に改めると発表した[12]。それに伴い中国抗日戦争の期間は1931年〜1945年となった。

前史 - 満州事変後

関東軍の華北分離工作

1933年5月31日、日中間で塘沽協定が締結された事で、日本軍が満州全域で軍事行動を起こし満洲国を成立させた満洲事変は終結し、同時に中満の国境線となる万里の長城以南に一定の非武装地帯も設定された。中国国民党を指導する蒋介石汪兆銘の意見を入れて、国内の共産勢力を殲滅した後に日本に対抗するという安内攘外方針を取り、満洲国を黙認した。日本の広田弘毅外相も中国に向けた和協外交を提唱して国民党の対日穏健政策への追い風とし、各地で沸き起こっていた排日運動も沈静化する運びとなった。関係改善が為される中で両国は互いに公使館を大使館に昇格させた[13][14]。1934年10月、江西省の根拠地を国民党軍に包囲されて進退窮まった中国共産党軍は、長征と称する逃避行を開始してソ連に隣接する陝西省を目指した。

1935年6月、関東軍チャハル省宋哲元軍(第二十九軍)が日本人を拘禁した張北事件中国語版を糾弾して土肥原・秦徳純協定を締結し、第二十九軍の河北省移転を了承させてチャハル省への影響力を強めた[13][14]。移転と共にチャハル省主席を解任された宋哲元は排日主義者であったが、蒋介石にも不満を覚えて微妙な立場を取り始めた。続けて関東軍は5月2日に親日紙の社長が殺害された天津日本租界事件を理由にして7月に梅津・何応欽協定を締結し、河北省主席于学忠の罷免と諜報機関藍衣社の退去を実現させた。それに代わる河北省権力の後釜には日本側との折り合いから第二十九軍の宋哲元が就けられる事になった。この頃の宋哲元は日本に妥協的となっており、また国民党政府の指導を拒む姿勢も見せていた。関東軍はこの宋哲元を首班とする独立政権を河北省に樹立させて中華民国から切り離すという華北分離工作を画策した。対日衝突の回避を望む蒋介石は邦交敦睦令を発し排日行為を改めて禁止した。こうした流れは再び中国民衆の反日感情を刺激する事になり、長征の途上にあった共産勢力は抗日救国と反蒋抗日を呼びかける八・一宣言を出して日本とそれに迎合する蒋介石への敵愾心を煽った。

1935年11月25日、関東軍長城南側の非武装地帯に殷汝耕を委員長とする冀東防共自治委員会を設立した。同時に河北省住民が抱える国民党への不満を理由にする形で宋哲元を首班とする自治政府樹立を後押しし河北省一帯を一気に独立させる計画を立てた。それを察知した中国国民党は12月18日に冀察政務委員会を急遽設置して表向き日中間の中立政権とし、宋哲元を委員長に就けて国民党の影響力が残る形で河北省を統治させる対抗策を取った。なお「冀」は河北省を指す一語である。同時独立を諦めた関東軍は12月25日に冀東防共自治政府を成立させた[13][14]。これを事実上の侵略行為と見なした中国民衆の間では一斉に抗日意識が盛り上がり、北京の学生達による一二・九運動を皮切りにして内戦停止と一致抗日の救国世論が巻き起こった。

共産勢力の活動

1935年10月、長征を続けていた毛沢東共産軍本隊陝西省まで辿り着き、延安に新たな根拠地を築いた。一方、満州事変で国を追われた張学良も、逃れた河北の地で旧奉天軍を集結させて中国国民党の指揮下に入った後に、蒋介石から共産軍討伐を命じられて陝西省に移動していた。張学良共産軍の根拠地を再三攻撃したが思うような戦果を上げられず、蒋介石の叱咤を受けていた。翌1936年2月から抗日実践を標榜する共産軍部隊が山西省にも侵入した。これは国民党軍に撃退されたが、共産軍および共産ゲリラの活発化を憂慮した広田内閣は4月18日から、北京と天津に邦人保護部隊を置く支那駐屯軍を増強した[13][14]

1936年4月9日、軍事作戦の不手際を叱責する蒋介石との不和と、父張作霖暗殺および先の満州事変で日本への遺恨を抱えていた張学良は、それに目を付けたコミンテルンの工作で共産側代表の周恩来と極秘に会談した。その中で張学良は共産党との抗日連帯案を受け入れ、周恩来は党方針を反蒋抗日から逼蒋抗日へ転換する事に同意した。周恩来の意見を受けた毛沢東は五・五通電を全党員に向けて発し、宿敵蒋介石との抗日連帯への理解を求めた。同年夏から蒋介石は陝西省に続々と軍勢を送り込んで共産軍を追い詰めていき、11月下旬には根拠地の延安が国民党の大軍によって包囲された。この包囲網には張学良軍も加わっていた。しかし、最後の殲滅戦に臨むべく前線の視察に訪れた蒋介石を、前述の張学良らが拉致監禁するという西安事件が12月12日に発生した。これはコミンテルンの指導で行なわれた謀略であった。監禁された蒋介石は共産軍との休戦と抗日統一戦線の結成案に同意させられ、1937年初頭に日本軍を共通の敵とする第二次国共合作への目処が付けられた[13][14]

和平模索と関東軍の独走

1936年、冀東自治政府の成立劇で対日感情の悪化が進み、1月の広東省仙頭、6月の山東省防東、7月の萱生事件、8月の成都事件、9月3日の北海事件など中国各地で日本人の殺害事件が相次いだ。この事態を重く見た日本外務省は中国政府との妥協案を探り、9月8日から川越・張群会談が開始された。中国側は一貫して冀東自治政府の解散を要求したため交渉は平行線を辿り、その後も9月19日に漢口で、9月23日に上海でも日本人が殺害された。11月上旬には関東軍が内蒙古軍を後押しして中国領を侵すという綏遠事件が発生したため12月3日に交渉は決裂した。支那駐屯軍関係者は河北省の重鎮(冀察政務委員長宋哲元との交流を深めていたが、宋が指揮する第二十九軍内では共産党員の増加と相俟って反日感情が激化しており、北京天津方面の緊張も高まっていた。

1937年2月2日、広田内閣が総辞職し林内閣へ交替すると、佐藤尚武外相は中国への高圧的姿勢を止めて関係改善に努めるよう外交方針を変更し[15]、同様に陸軍参謀石原莞爾華北分治を始めとする侵略的政策の放棄を訴えた[15]。4月16日に内閣で決定された第三次北支処理要綱でも中国国内を乱す政冶工作は行わないと定められた[15]。こうした政府内の動きにも関わらず、現地の関東軍の方は対中強硬政策と対支一撃論を変更しなかった[15]。1937年5月31日に林内閣は総辞職し6月に近衛文麿内閣が成立した[15]。5月3日に中華民国から借款供与要請を受けていたイギリスは日本政府にも共同参画を提案し[16]、これを日中関係改善と対英協調に極めて有益と見た川越駐華大使は7月5日に政府へ受諾を上申した[16]。7月7日の盧溝橋事件の発生が無ければこの共同借款供与は近衛内閣の承認下で実現したと見られている。

北支事変

盧溝橋事件

1937年7月7日夜、支那駐屯軍の一部隊が北平(現在の北京)市街地から南西約10kmにある盧溝橋の東岸で夜間演習を行なっている際に二度の発砲を受けた。この部隊の上司である牟田口大佐が、盧溝橋の西岸にある宛平県城の中国軍部隊に抗議を兼ねた交渉を試みたが、日付変更後の8日未明から明け方にかけて中国側からの発砲が繰り返されたので、ついには日中間の部隊戦闘へと発展した。この武力衝突は同日午後に収束へと向かい夕方には停戦が合意されて一旦沈静化したが、その後も出所不明の銃撃が散発した。支那駐屯軍北京議定書の中で邦人居留民保護の為に北京駐留を認められた部隊であったが、盧溝橋で発砲された部隊が駐兵していた豊台区は議定書で決められた範囲外という事情もあった[17]。当時の北京には邦人17000名が在留していた[18]。7月8日に蒋介石は日記に倭冦の挑発に対して応戦すべきと書いて[19]翌9日に四個師団と軍用機を河北省へ先行派遣し[18]、10日からは河北省に向けた総兵力20万人に及ぶ30個師団の動員令を出していた[18][注釈 4]

7月11日、支那駐屯軍と中国第二十九軍(河北省の常備軍)の間で停戦を合意する松井・秦徳純協定が結ばれ、中国側は発砲責任者の処分、盧溝橋からの部隊退去、排日団体を取り締まる内容を約束した[19][18]。こうして事態収拾への目処が付けられた事から日本政府は中国派兵を見合わせたが、司令官を香月中将に交代した支那駐屯軍の増強案の方は実施され、関東軍朝鮮軍から複数個の師団が北京現地に編入された。近衛内閣は北支派兵に関する政府声明の中で7日からの武力衝突を「北支事変」と名付けると、その原因は中国側の軍事威嚇にあると断定し、これに対抗する為の自衛権行使を北京増派の根拠とした[19]。同時に近衛内閣は紛争の現地解決と戦線の不拡大方針も閣議決定した[21]。中華民国側では同11日から廬山国防会議が開かれ共産党から周恩来が参席し、蒋介石との間で対日開戦に向けた調整を始めた[22]

7月13日、北京の大紅門で日本軍トラックが爆破され日本兵4人が死亡する大紅門事件が発生した。続く14日にも日本人騎兵が殺害された[23]。13日と15日に毛沢東朱徳国共合作による即時開戦を国民党に訴えた。廬山の蒋介石は17日に最後の関頭演説を行い、中華民国は未だ脆弱で戦争を求めてはならないが止むをえない場合は徹底抗戦すると表明した[19]。7月19日、第29軍軍長の宋哲元上将は張自忠中将を代表にして日本側と和平交渉し、松井・秦徳純協定の履行を改めて約束したが、盧溝橋事件は現地レベルで解決されるものではないと通告した[18]。その頃、10日に動員された中国軍30個師団が河北省南部の保定石家荘に着陣していた。7月20日、盧溝橋にいた日本部隊が再び攻撃され互いに砲弾を交わした[18]。7月21日、南京国防会議で蒋介石は対日開戦方針を採択したが[18]国民党内には慎重な声も多く、渦中の北京では22日にも排日出版物及び団体の取り締りが行なわれていた[19]。23日に共産党が再び即時開戦を迫り、国民党軍事委員会は河北省の全部隊に対日戦争突入態勢を指示した[18]

7月24日、北京から天津へつながる日本軍の通信電線が切断され[18]、翌25日にその電線を修理して郎坊駅で休憩していた日本兵たちを、第二十九軍の部隊が襲撃するという郎坊事件が発生した[18]。また豊台区の日本兵たちも第二十九軍の一隊に包囲されていた。北京の日本部隊は修理した電線で直ちに天津の支那駐屯軍本部に現状を報告した。相次ぐ襲撃事件と中国軍の河北省集結に危機感を募らせた支那駐屯軍司令官香月中将は、第二十九軍軍長の宋哲元上将に対して北京市内から全中国兵を退去させる事で誠意を見せて欲しい、さもないと武力行使も辞さないと伝える最後通知を行ったが、宋哲元上将は回答を示さなかった[18]。翌26日に北京在留邦人保護の為に天津から駆けつけて来た日本部隊が、北京市内に入る広安門で攻撃されて19名が死傷するという広安門事件が発生した[19]。ここにきて香月中将は東京の陸軍参謀総長の認可を受けた上で交戦の意思を固めた。

北京・天津攻略

1937年7月27日、北平(現在の北京)市内で戦闘が始まり、支那駐屯軍支隊は中国第二十九軍の諸部隊を北京郊外へと追いやった上で支援航空機による空爆を加えた。総攻撃を決意した香月中将は天津の支那駐屯軍本隊にも臨戦態勢を取らせた[19][18]。日本政府も3個師団の華北派遣を決定した[19]。同日午後11時に中国政府は日本側に、現地の冀察政務委員会と支那駐屯軍が再交渉する為の仲介を申し出たが[18]これは黙殺された。翌28日、平津作戦が開始され支那駐屯軍は天津制圧と並行して北京郊外に布陣する第二十九軍に一斉攻撃をかけた[19][18]。中国側はたちまち劣勢に陥って5000人余りの被害を出し、宋哲元上将は同日夜に北京から脱出した[19]

7月29日、冀東自治政府の保安隊が反乱を起こして通州の政府施設を襲撃し、同区域にあった日本人租界地にも侵入して邦人居留民を多数惨殺するという通州事件が発生した[24][18]。冀東自治政府は関東軍が通州と北京の間に国境線を引く形で河北省北部に設立した傀儡政権であったので、日本政府はこの明確な戦争犯罪に対する拳の振り下ろし先を見失ったが、保安隊の中国兵たちが意図的に抗日側に回っていたのは明らかであった。この通州事件は日本国民の対中感情を大幅に悪化させ、暴支膺懲スローガンはより強く支持されるようになった[25]。更に同日同時刻に天津で抗戦する第二十九軍部隊も日本人租界地を攻撃していた[18]。7月31日、支那駐屯軍は第二十九軍の駆逐に成功して北京天津一帯をほぼ制圧した[19]。その後、日本軍は戦線を保定付近まで南下させる作戦を検討したが、河北省南部に集結している中国軍との交戦に一定の準備期間が必要と判断されたのでひとまず延期し、現状を維持する事にした。

支那事変

第二次上海事変

1937年7月24日、上海市内で日本水兵が拉致される事件が発生し、当市の日本人租界地を守る海軍特別陸戦隊が調査を始めたが、上海市保安隊が公然と対抗する構えを見せて緊張が高まった。5年前の第一次上海事変停戦協定の中で中国軍は上海市内に立ち入らない事が約束されていたが、7月下旬から保安隊に変装した中国兵が重火器を多数持ち込み、また各所に土嚢を積みあげ鉄条網を張り巡らすなどしていた[26][27]。7月28日、北京での戦闘発生に伴い、日本政府は華南内陸部の各領事に訓令して8月9日までに全邦人を上海まで引き揚げさせ[28]、上海居留民と併せた日本人3万名を順次帰国させていた。日中両軍の衝突を予期した上海市民も避難を始めた。上海の日本人租界地には特別陸戦隊4千名と各種要員を含む邦人計1万名が残留した[29]

8月9日、華北ではチャハル省綏遠省(現在の内モンゴル自治区)の攻略を目指すチャハル作戦が開始され、関東軍から東条兵団が出撃した。北京天津にいる支那駐屯軍は河北省南下に向けて準備を整えていた。同9日に上海市内で日本軍人2名が保安隊に射殺される大山事件が発生し[27][26]一触即発の状態となった。翌10日に日本領事が共同租界地の国際委員会を通して兪鴻鈞上海市長に保安隊の隔離を要請し一旦受理されたが、11日に兪鴻鈞から「私は無力で何もできない」と返ってきた[27]。特別陸戦隊を指揮する第3艦隊司令官長谷川中将は東京に至急の増援を上申したが返信は「到着まで二週間かかる。それまで交戦不拡大に努めるように」であった[30]

8月12日、蒋介石の指導下で上海周辺に総勢20万の兵力を展開した中国軍第3戦区が、上海市内に2個師団を侵入させ日本人租界地を包囲した[27]。英仏米の各領事が上海市と日本領事に仲裁を提案したが黙殺状態となった[27]。翌13日朝から各所で中国側の機銃掃射を含んだ小競り合いが始まり[27]、それまで交戦回避の守りに徹していた特別陸戦隊は午後4時から本格的な応戦に踏み切った[31]。午後5時になると中国軍は砲撃も加え始めた[26]。日本政府は陸軍部隊の上海派遣を同日中に閣議決定した[26]。翌14日に中国側は空軍機を繰り出して特別陸戦隊に空からも攻撃を加えた。また揚子江河口を遊弋する第3艦隊艦艇にも爆撃を試みたが、狙いが逸れて市内の歓楽街を直撃し民間人千数百名の死傷者を出した[26][31]

8月15日、近衛内閣は「もはや隠忍能わず暴支膺懲し南京政府の反省を促す」と声明し、陸軍に上海派遣軍を編制させた。第二次上海事変の勃発で日中両国は事実上の全面戦争状態に突入する事になった[32][33][34][35][36]。17日に日本政府は不拡大方針の放棄も閣議決定し[26]、18日に英仏が申し出た仲裁案も辞退した[27]中華民国国民党の蒋介石も中国全土に向けた総動員令を発して戦時体制を確立した。21日に中ソ不可侵条約が締結され、ソ連側から航空機や戦闘車両などの軍事支援を得た[37]中国共産党は抗日救国十大綱領を発表して抗日戦争を強力に支持し、8月22日に共産党軍(紅軍)国民党軍の指揮下に入って第八路軍と称した[38][31]。9月22日に第二次国共合作が正式成立した[31]

上海攻略

1937年8月15日、上海の日本人租界地に立て篭もる特別陸戦隊への空爆を憂慮した日本海軍は、中国軍機の離陸を阻止する為に上海と周辺の各都市にある空軍施設を空襲するという渡洋爆撃作戦を実行に移した[31]。15日から30日にかけて本土から飛び立った96式陸上攻撃機延べ200機余りが南京杭州南昌などにある中国空軍基地への長距離爆撃を敢行し[39]数々の未帰還機を出しながらも一定の成果を上げた。19日に上海沿岸に到着した本土の海軍特別陸戦隊2400名が一気に夜間上陸を果たして日本人租界地への合流に成功した。

上海市内では激しい攻防が続いており、中国軍第3戦区は新手の師団を次々と投入したが、特別陸戦隊は十倍以上の大軍の前で度重なる出血を強いられながらも奮戦して敵の侵入を許さなかった。後日に「緒戦一週目で敵軍掃滅成らず」と述懐して悔いる程この状況に大きな不満を覚えた蒋介石は[40]、敵のスパイ「漢奸」の存在が自軍敗走の原因になっていると断定して特務部長陳立夫漢奸狩りと称する容赦ない粛清を実行させた[41]。上海の広場では連日数十名の民間人または政府役人が漢奸として公開処刑されその総数は4,000名に達した[42][43]

8月23日、2個師団兵員4万名の上海派遣軍が上海沖合いに到着し、第3艦隊の艦砲支援の下で市街地から北20km地点への上陸に成功した[44]。しかし彼らは日中戦争における最大の難関に立ち向かう事になった。1930年代の中独合作の中で招かれたドイツ軍事顧問団は、上海の市街地を取り囲む極めて高度な防御陣地を完成させていた。上海派遣軍下の第3第11師団は、水壕とトーチカが複雑に張り巡らされ、無数の火砲と機関銃が待ち構える鉄壁地帯への突撃を敢行した。

  • 8月29日、東條兵団がチャハル省張家口を攻略。日本軍はチャハル省を占領した。
  • 8月31日、北京の支那駐屯軍第1軍に改編され、新編の第2軍と併せて北支那方面軍が編制された[45]
  • 9月2日、近衛内閣が北支事変を「支那事変」と改称。
  • 9月5日、日本海軍が中国大陸沿岸の封鎖を宣言。
  • 9月9日、東條兵団が非武装の中国人300名を殺害した陽高事件が発生する。戦争不拡大を唱える陸軍参謀石原莞爾が強硬派に押し切られ、3個師団が上海派遣軍の増援として動員された。
  • 9月13日、中国政府が日本軍の行為を国際連盟に提訴した。
  • 9月14日、北支那方面軍が河北省保定を攻略。
  • 9月15日、日本海軍航空隊が広東を攻撃し[39]22日までに現地の中国空軍を壊滅させた。[要出典][注釈 5]。ここでも漢奸狩りが実施され、赤灯と緑灯で空爆を助けたという容疑で100名以上が処刑された[46]
  • 9月21日、国際連盟で日中紛争諮問委員会が開催された[39]
  • 9月27日、不拡大方針を唱え続けた石原莞爾が陸軍参謀を辞職し[47]その後は強硬論一辺倒となった。
  • 9月28日、日中紛争諮問委員会が日本軍の空爆に対する非難決議を満場一致で採択。8月15日から9月25日までの計11次に及ぶ無差別爆撃は、かのゲルニカ爆撃に並ぶものとされた。
  • 10月2日、北支那方面軍が山西省の攻略を目指す太原作戦を開始した。
  • 10月5日、日中紛争諮問委員会が日本の軍事行動を九カ国条約不戦条約に違反するものと決議採択した。同日にルーズベルト米大統領が世にいう隔離演説をした。
  • 10月9日、3個師団からなる第10軍が編制され、これも上海に派遣された[48]
  • 10月10日、第1軍が河北省石家荘を攻略。日本軍は河北省全域を占領した。
  • 10月17日、東條兵団が綏遠省包頭を攻略。日本軍は綏遠省を占領した。

上海市内を目指して防御陣地の突破を目指す第3第11師団は、水壕に行く手を阻まれ、トーチカから放たれる砲火と機関銃になぎ倒されて大苦戦し、9月下旬までに計1万名の死傷者を出していた。数百名の兵士を生贄にして100mの進捗を得るという日もあったが、形勢不利と見るやすぐ持ち場を離れてしまう中国兵たちの士気と規律の低さにも助けられて、日本兵たちは徐々に突破口を切り開いていった。市内の日本人租界地では特別陸戦隊が善戦しており、本部拠点に押し寄せていた中国軍を逆に撃破して9月上旬から膠着状態に持ち込んでいた。中国兵の持ち場放棄に業を煮やした蒋介石は督戦隊を後方に置くよう指示し、逃走する者を容赦なく射殺させて軍規の引き締めを図った[49]。中国軍第3戦区は数十万の兵力を三軍に分けて展開していたが、この方面の制空権を握った日本海軍機の空爆に牽制されて中央軍と右翼軍の多くが遊兵と化し、また第3、第11師団の包囲に向かった左翼軍は9月20日から順次到着した増援の第913101師団に撃退された。

10月10日、日本兵たちは市街地手前の最後の防衛線まで到達し、12日に突破を果たして北から上海市内に雪崩れ込んだ。この頃になると逆に督戦隊の方に突撃する中国兵が相次ぐようになり同士討ちが多発した。その勢いに押された督戦隊からも公然と職務放棄する者が出始めたので、その更に後方に死刑の権限を持つ督察官が置かれて督戦隊を監視するようになった[50]。中国軍は上海市中央を東西に流れる蘇州河まで戦線を下げて市街戦に持ち込んだ[51]。26日、第9師団が市内中央に位置する大場鎮の占領に成功した[44]。翌27日に「日軍占領大場鎮」のアドバルーンを揚げて日本人租界地との連絡線を確保し、上海市内の大半は日本軍の制圧下となった。

11月2日、上海攻略への目処が立ったのと同時に日本政府は、ドイツの駐日大使とトラウトマン駐華大使を通して和平工作を開始した。5日にトラウトマンから伝えられた日本政府の和平案を蒋介石は拒否した[52]。9月に日本軍の行為を国際連盟に提訴していた彼は、11月3日からの九ヶ国条約会議で中国側に有利な調停案が下される事を期待していた為と言われるが、会議の結論は日本非難声明に留まった[52]。同5日に第10軍が上海市の南方60kmにある杭州湾金山衛に上陸した。日本軍に南北を挟まれる形となった中国軍第3戦区は退路を断たれる恐れで浮き足立った。翌6日から上海市街で中国兵の掠奪が目立つようになり[53]、陣払い前に決まって行なわれる彼らの習慣で中国軍の総退却が予測された。9日に蒋介石の撤退命令が出された。

南京攻略

上海戦の惨敗は、蒋介石に国民革命軍が未だ近代化の途上にある事を痛感させた。中国陸軍の四分の一にあたる50万人の軍勢が日本軍10万人に為す術もなく敗れ、虎の子である中国空軍も日本海軍航空隊に大きく遅れを取った。「学者老人、軍事敗北、将軍落胆、革命欠落、もはや日本と戦争する理由も分からない」と日記に書いた蒋介石は[54]開戦四ヶ月で早くも正攻法では太刀打ちできない事を悟り、奇策と遊撃を駆使して日本軍を消耗戦に引きずり込むという抗戦持久方針に路線変更した。以後の中国大陸では各地で数十万人規模の「会戦」が頻発しつつも、日本軍に押された中国軍が手応えなく退いて占領地だけが無駄に広がっていくという光景が恒例となり、これは1945年の無条件降伏まで続いた。

11月7日、上海派遣軍と第10軍を併せて編制された中支那方面軍は、上海市内の鎮圧をほぼ終えた11日に[55]日本政府の指導で上海大道政府を設置した。また中国軍の追撃を固く禁じられた。11日にスターリンは対日参戦の見送りを蒋介石に伝える一方で[56]ソ連義勇兵を緊急派遣した[57]。15日、第10軍司令官柳川中将が独断で南京への追撃を始めた[58][59]。19日、南京陥落を不可避と見た蒋介石は重慶遷都を決定したが[60]、湖北省方面への全軍撤退を完成させる為の時間稼ぎとして10万人規模の篭城部隊を残す決断も下しその司令官に唐生智上将を就けた[61]。同時に南京城外15マイル一帯にある河川の橋を落とし全ての家屋を焼き払い食料を根こそぎ持ち去るという清野作戦も実行に移した[62][63]。20日、日本政府に大本営が設置された。陸軍参謀本部は24日に第10軍の独断専行を追認する形で江蘇省全域の攻略を許可した[27]。中支那方面軍が南京に向かって進撃する中で、12月1日に大本営は南京占領も許可した。

12月1日、スターリンは国際世論を理由に対日参戦を再度拒否し蒋介石を失望させた[37]。翌日から国民党内で昨月の日本の和平案が前向きに検討され始めた。3日から中支那方面軍は南京の攻囲作戦を開始し、上海派遣軍は東から、第10軍は南から軍を進めて周辺の陣地を占領しつつ南京を取り巻く長大な城壁へと迫った。唐生智上将が国際安全区にも部隊を入れたので同区委員ラーベが抗議したが黙殺された。南京脱出前の蒋介石は和平交渉を受け入れる余地があるとトラウトマン大使に語り、7日に日本政府へ伝えられた[52]。7日未明から蒋介石を始めとする政府高官が次々と航空機で南京から脱出した。南京市内には唐生智上将率いる防衛隊約10万人と民間人概ね50万人が残されたが、正確な人数については諸説あって定まっていない。9日に総攻撃準備を終えた中支那方面軍は、10日正午を期限とする降服勧告を出したが回答は無かった。

12月10日、中支那方面軍の各隊が南京に向けて一斉攻撃を開始した。上海のドイツ式防御陣地とは対照的に、南京の巨大な城壁は野戦砲と空爆のいい的でしかなく、崩落する瓦礫と飛散した破片が却って守備兵を危険に晒した。南京の各城門は集中砲撃と爆撃に耐えられず守備兵が退避した後に、日本兵が梯子でよじ登って突破されるという結末を辿った。12日18時に日本兵は南京市内に突入した。同市街は中国兵、便衣兵、民間人、日本兵でごった返した混乱の坩堝と化し、前日に蒋介石から撤退指示を受けていた唐生智上将は、各部著に最後の指令を出した後の20時に市外北へと脱出し揚子江の対岸に渡った。指令内容は敵包囲網の突破退却を敢行させるというものだったが、督戦隊を含めた多くの部署に伝わる事はなく、潰走する中国兵が北の揚子江に面した挹江門に殺到し、同門からの逃亡を阻止する督戦隊との間で激しい同士討ちが発生した。

  • 12月13日、日本軍が南京を占領状態に置いた[64]。この日からいわゆる南京大虐殺が起きたとされるが、その真相については現在に到るまで大きな論争を巻き起こしている。
  • 12月14日、日本、北京に中華民国臨時政府を樹立。
  • 12月17日、中支那方面軍、南京入城式。12月18日、日本の陸海軍合同慰霊祭を南京故宮飛行場において挙行[65]
  • 12月23日、南京で自治委員会が設立、治安が回復する[66][67]。華北では第十師団が黄河を渡り、12月27日には山東省済南を占領、翌1938年1月11日には山東省済寧を占領する[68]
  • 1938年1月1日、南京自治委員会の発会式が挙行される。
  • 1月10日、海軍陸戦隊が青島を占領[68]
  • 1月11日、御前会議、「支那事変処理根本方針」を決定。
  • 1月16日、日本政府は「国民政府を対手とせず」の声明(第一次近衛声明)を出し、日中和平工作が打ち切られた[69]
  • 2月7日、中ソ航空協定締結。3月1日、中ソ間で3000万米ドルの借款が締結された[37]。1937年9月から1941年6月までの間にソ連は中国に、飛行機924機(爆撃機318、戦闘機562ほか)、戦車82両、大砲1140門、機関銃9720丁、歩兵銃50000丁、弾薬1億8000万発、トラクター602両、自動車1516両であった[37]

徐州会戦と武漢攻略

4月、中国広西軍は山東省台児荘で日本軍部隊5000兵力を包囲し、壊滅させ[要出典]、中国の民衆は非常に喜んだ[70]。日本軍は中国軍主力が徐州に集中していると判断し[70]、1938年4月7日 - 大本営、北支那方面軍・中支那派遣軍に協力して徐州を攻略するよう(徐州会戦)下命した[68]5月10日、日本軍、廈門を占領。5月15日、中国軍は徐州を放棄し逃走したので中国軍兵力の殲滅には失敗することとなった[68]5月19日 - 日本軍(北支那方面軍・中支那派遣軍)、徐州占領[68]

1938年6月、 蒋介石ら中国軍による黄河決壊事件により河南、江蘇省安徽省の3000平方キロメートルの土地が水没し、民間人の被害は数十万人となった[70]。日本は6月15日、御前会議で漢口・広東攻略を決定した[68]。1938年7月4日、中支那派遣軍に第2軍、第11軍が編入され、武漢攻略作戦の態勢がとられた[68]7月11日8月10日の日ソ武力衝突張鼓峰事件が解決したのち、8月22日から日本軍、武漢三鎮を攻略開始する(武漢作戦[71]10月12日、第2軍が信陽を占領[71]広東攻略を命じられた第21軍(兵力7万)は1938年10月9日、台湾を出発、10月12日バイアス湾上陸し、10月21日広東を占領、日本軍の損失は戦死173、戦傷493だった[71]

  • 10月27日 - 日本軍(中支那派遣軍)、武漢三鎮を占領。武漢作戦の兵力は35万、第2軍戦死2300、戦傷7300、第11軍戦死4506、戦傷17380人だった[71]。武漢と、広東の占領によって日本の軍事行動は頂点に達した[71]。武漢陥落によって蒋介石は重慶に政府を移した[60]
  • 1938年11月3日 - 近衛首相は、国民政府はすでに一地方政府にすぎず、抗日政策を続けるならば壊滅するまで矛を納めないと述べたうえで、日本の目的は「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り」、国民政府が抗日政策を放棄すれば新秩序参加を拒まないとの東亜新秩序声明(第二次近衛声明)を出した[71]。蒋介石は12月28日、「東亜新秩序」は中国の奴隷化と世界の分割支配を意図していると批判、アメリカ合衆国も承認できないと日本を批判した[71]
  • 11月12日 - 中国軍により長沙大火が起され、人口50万の都市が潰滅。
  • 11月 - 援蒋ルート(ビルマルート)完成。
  • 11月20日、秘密協定「日華協議記録」が成立し、日本側からは影佐禎昭大佐、今井武夫中佐、中国側は高宗武梅思平の間で調印された[72]。日華協議記録には、日華防共協定、満州国の承認、日本軍の撤退などが内容であった[72]
  • 11月30日、御前会議で日支新関係調整方針を決定[71]

12月6日決定の「昭和十三年秋季以降対支処理方策」では占拠地拡大を企図せず、占拠した地域を安定確保の「治安地域」と、抗日殲滅地域の「作戦地域」に区分した[71]12月16日、中国政策のための国策会社興亜院が成立する[71]12月18日には蒋介石との路線対立で汪兆銘が重慶を脱出し、昆明、ハノイに向かう[72]12月22日、近衛首相が近衛三原則を発表(第三次近衛声明)。日華協議記録と類似した内容であった[72]12月25日、汪兆銘は日本の講和条件は亡国的なものではないと駐英大使につたえる一方、蒋介石は12月26日に近衛声明を批判し、また汪兆銘のハノイ行きは療養目的と公表した[73]。しかし、汪兆銘は12月30日の香港『南華日報』に、近衛声明にもとづき日本と和平交渉に入ると発表した[73]。1939年1月1日、国民党は汪兆銘の党籍を永久に剥奪した[73]。1939年3月21日に汪兆銘は暗殺されようとするが、曽仲鳴が代わりに殺害された[73]

重慶爆撃の開始

防空壕付近で圧死または窒息死した市民(1941年6月5日の重慶爆撃)

1939年(昭和14年)1月4日、近衛内閣、総辞職。平沼内閣となる[71]。1939年の作戦としては1月からの重慶爆撃[60]2月10日海南島上陸、3月海州など江蘇省の要所占領、3月27日南昌攻略などがあったが、戦争は長期化の様相を呈し、泥沼化していった[72]阿部信行大将も講演で昨年1938年暮れより1939年夏まで「戦さらしい戦さはない」「ただ平らであるが如く、斜めであるが如く、坂道をずるずる引摺られ上って行かなければならぬ」と述べた[72]

  • 4月 - 中国軍、南支で春季反撃作戦。
  • 5月3日 - 4日の重慶爆撃によって外国人を含む死者3991人の被害が出、その後も10月まで爆撃は続けられた[60]
  • 5月初頭 - 日本軍、襄東作戦
  • 5月7日 - 板垣陸相は、支那事変が解決されないのはソ連とイギリスの援助によるとして、ドイツとイタリアとの軍事同盟が必要と五相会議で述べた[72]
  • 5月11日 - ノモンハン事件勃発(日ソ武力衝突)。
  • 6月13日 - ソ連、国民政府に対し1億5000万ドルの借款を供与。

6月14日に日本軍は天津のイギリス租界を封鎖するが、これは4月に発生した臨時政府要人暗殺テロ犯人の引き渡しを租界当局が拒否したからであった[72]。日本とイギリスは7月15日から有田・クレーギー会談を実施、イギリス側は中国における現実の事態を完全に承認し、日本軍が治安維持のために特殊な要求を有することを承認するとした[72]。ただし、これはイギリスの対中政策の変更を意味するものではないとされた[72]

イギリスが日本に一歩後退したのに対してアメリカ合衆国は7月26日日米通商航海条約の廃棄を突然、日本に通告し、日本側は衝撃をうけた[72]。11月にはグルー駐日アメリカ大使との会談がはじまるが、12月22日、アメリカは中国で日本軍が為替、通貨、貿易など全面的な制限を行っている以上、協定の締結は不可能として拒絶した[72]

1939年5月汪兆銘は来日し、1939年6月に平沼内閣は中国新政府樹立方針、汪工作指導要綱を発表、前年11月30日の日支新関係調整方針を和平条件とした[73]。その後、汪兆銘は中国の各地方政府を周り、意向を打診、11月1日、上海で日本と交渉するが、日本の蒙疆、華北に防共駐屯、南京、上海、杭州にも駐屯、揚子江沿岸特定地点にも艦船部隊駐屯提案に対して汪側は太原〜石家荘〜滄州のライン以北に限定するよう日本側に大きく譲歩したうえで要求するが、日本側は山東省を加えるよう要求した[73]。12月30日、日華新関係調整要綱が成立[73]

1940年(昭和15年)1月、阿部内閣から米内内閣に変わった[72]。1月6日、汪兆銘の腹心高宗武らが上海を脱出し、香港で日本の講和条件を暴露し、汪兆銘は傀儡と訴えた[73]。これによって蒋介石の支持層が拡大した[73]

戦争の泥沼化

1940年時点の日本軍占領地域(赤色部分)

1940年5月・6月のドイツ軍による西ヨーロッパの席捲を進撃を背景に日本政府は6月24日、英仏にビルマルートおよび香港経由による援蒋行為の停止を要求した[72]5月18日より、日本軍、漢口、運城基地から重慶、成都を空襲する一〇一号作戦が10月26日まで実施された[60]。6月12日には宜昌占領[60]6月24日から6月29日までは連続して猛爆が行われた [60]

  • 1940年7月11日、アメリカは日本に対して、武力による領土獲得政策を堅持する諸国と強調するのか、という確認をしたが、米内内閣は答弁することがないまま、陸軍の総意によって[73]倒壊し、7月21日に第二次近衛内閣が成立する[72]

7月18日、英国、日本の要求に応じ援蒋ルート(ビルマルート)を閉鎖[60]。 7月26日、基本国策要綱で「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神」が唱えられた[60]。7月27日の大本営では南方問題解決のため武力を用いることが決定された[60]。8月1日、松岡外相は日本満州シナを一環とする大東亜共栄圏確立という外交方針を発表した[60]

  • 8月20日12月5日 - 20万の八路軍が、山西から河北にかけての鉄道、通信網、日本軍警備拠点を一斉攻撃し、大攻勢をかけた百団大戦が展開される[74]。日本軍は不意をつかれ、以後「敵性住民」の死滅も認めた報復攻撃によって八路軍の抗日根拠地の掃討作戦を開始し、中国はこれを三光作戦と呼んだ[74]。この掃討作戦では毒ガスも使用されたといわれ、八路軍の抗日根拠地のなかには人口が3分の2になった地区もあった[74]
  • 1940年9月14日、松岡外相は陸海軍首脳会議において「英米との連携は不可能ではないが、しかしそのためには支那事変を処理しなくてはならず」「残された道は独伊との提携」と主張、陸海首脳はこれに同意した[60]9月23日、日本軍、北部仏印進駐9月25日、米国、国民政府に対し2500万ドルの借款を供与。9月27日には日独伊三国同盟が締結される[60]9月30日、米国、鉄鋼屑鉄の対日輸出を禁止する法令を発布[60]。日本はこれに抗議したが、ハル国務長官は、アメリカの国防上の判断であるとして抗議を拒絶した[60]
  • 9月末 - 日本陸軍今井武夫大佐らの蒋介石夫人宋美齢の弟宋子良への日中和平工作(桐工作)を行っていたが、進展せず、断念(のちに宋子良を称した人物は偽物で、この和平工作は藍衣社戴笠の指揮下に行われていたことがわかっている)[60]
  • 1940年10月 - 日本軍、燼滅作戦(三光作戦)開始。
  • 10月4日、イギリスはビルマルート再開を中国側に通知する[60]。同日、日本軍731部隊が衢県において細菌戦を実行したとされる[75]
  • 10月23日、日本首脳会議で英米依存経済から自給圏確立のために南方問題を武力解決する方針が確認された[60]

大東亜戦争

日米交渉の決裂

1941年4月中旬より、重慶工作の道がないため、日米交渉が開始された[76]。日本は三国同盟3条の日本に参戦義務についてと、アメリカ仲介による日中戦争解決を要望したが、アメリカは門戸開放、機会均等の無条件適用を提示した[76]

6月22日独ソ戦がはじまると、松岡外相は即時対ソ参戦を上奏したが、7月2日の御前会議は独ソ戦不介入を決定、南方進出を強化し、対英米戦を辞せずと決定した[76]7月7日 - 関東軍特種演習(関東軍、対ソ戦を準備するが8月に断念)。7月10日、アメリカ対案に対して外務省顧問斉藤良衛は、南京政府の取り消し、満州の中国への返還、日本軍の無条件撤兵などを意味していると解釈、松岡外相もこれに賛同した[76]

  • 7月28日、日本軍、南部仏印進駐を実施、英米は日本資産を凍結した[76]
  • 8月1日 - 米国、対日輸出を大幅に制限。
  • 9月5日〜11月6日 - 第一次長沙作戦(加号作戦)。
  • 10月 - マニラで英米蘭中の軍事会談。
  • 10月16日、近衛内閣総辞職、18日、東条内閣成立[77]11月1日から翌日午前1時半までの会議で、自存自衛を完し大東亜新秩序を建設するための米英蘭戦争を決意するとともに、対米交渉が12月1日までに成功すれば武力発動を中止するという帝国国策遂行要領が採択された[77]。対米案では甲乙二案が了承され、甲案では、これまでに日中提携が消えて、中国での通商無差別原則の無条件承認を認める譲歩をし、また和平成立後2年で撤兵するとされ、満州については議題として触れないというものであった[77]。乙案は、南方に限定したもので仏印南部の日本軍の北部移駐、在米資産の凍結復帰などが書かれ、11月7日に甲案が11月20日に乙案がハル国務長官に提示された[77]
  • 11月22日 - 米国務長官ハル、暫定協定案を纏め、ワシントンの英蘭濠中代表に日本の乙案を提示したうえで、南部仏印からの日本軍撤退と対日禁輸の一部解除というアメリカの対案を提示したが、中国の胡適大使はこれでは日本は対中戦争を自由に遂行することが可能だとして強く反対した[77]11月24日、ハルは英蘭濠中代表の説得を再度行ったが中国側は北部仏印の日本軍25000を5000にするよう求めて譲らなかった[77]。蒋介石はアメリカは中国を犠牲にして日本と妥協しようとしているとして激怒、ラティモアは蒋介石がここまで怒るのははじめてだと米大統領に報告した[77]。さらに蒋介石はスティムソン陸軍長官、ノックス海軍長官にも親書を送り、チャーチルももし中国が崩壊すれば英国も危機に瀕するとしてルーズベルト大統領を説得した[77]
  • 11月26日 - 米国務長官ハルは暫定協定案を放棄し、ハル・ノートを作成。同日野村・来栖両大使へ手交。日本はこれを最後通牒と解し、対米開戦に傾く。
  • 12月〜翌年1月 - 第二次長沙作戦

太平洋戦争開幕

1941年(昭和16年)

  • 12月8日 - 日本、上海で降伏勧告に応じなかったイギリス砲艦ペトレル号を撃沈、華北では天津英仏租界の接収、華南沙面イギリス租界へも進駐、マレー半島上陸、及び真珠湾攻撃。広東第23軍、香港攻略開始(香港の戦い)。こうして太平洋戦争が勃発する。日米開戦のニュースに重慶の国民政府は狂喜した[77]12月9日 - 中華民国(重慶政府、蒋介石政権)、日独伊に宣戦布告[77]
  • 12月12日 - 日本、対米英戦争を支那事変(対中国戦線)も含めて「大東亜戦争」と呼称することを閣議決定する。同日、スターリンは蒋介石の参戦催促に対して兵力を極東にさくことはできないため対日参戦は考えられないと答えた[77]
  • 12月25日 - 日本軍、香港占領。
  • 12月31日、アメリカの要請で蒋介石は中国戦区連合軍総司令官に就任、蒋介石の希望でジョセフ・スティルウェル中国国民党軍参謀長に就任する[77]

1942年(昭和17年)

  • 1月1日 - 蒋介石は日本は一時の興奮を得るが、結局は自滅すると語った[77]
  • 1月31日 - 日本軍、ビルマ攻略開始(援蒋ルートの遮断)。
  • 3月 - 米国、国民政府に5億ドル借款成立。
  • 5月〜9月 - 浙贛作戦中国語版せ号作戦)、浙は浙江省、贛は江西省の旧称。
  • 5月末 - 日本軍、ビルマ全域を占領。
  • 10月 - 英米、中国における治外法権を撤廃(不平等条約の廃止)。
1943年(昭和18年)
  • 1月 - 延安で「日本人解放連盟」成立、前線の日本兵へ投降の呼びかけ。
  • 1月9日 - 日本・南京国民政府(汪兆銘政権)は、日華共同声明を発表。汪兆銘政権、米英に宣戦布告。日華協定を締結(日本の南京政府への租界返還・治外法権撤廃など)。
  • 1月11日 - 国民政府、英米両国と治外法権撤廃についての条約を締結。
  • 1月14日 - イタリア、南京政府に対し租界返還・治外法権撤廃を通告。
  • 2月21日 - 日本軍、フランス(ヴィシー政府)側の了解(広州湾共同防衛協議)を得て、広州湾のフランス租界(広州湾租借地)に進駐。
  • 2月〜3月 - 江北殲滅作戦、江北は武漢の西方、揚子江の北側。
  • 5月〜6月 - 江南殲滅作戦
  • 10月30日 - 日本・南京政府が新たな同盟条約に調印。
  • 11月〜翌年1月 - 常徳殲滅作戦、常徳は武漢の南西。
  • 11月22日〜11月26日 - カイロで英米中首脳会談(カイロ会談)。
  • 11月25日 - 台湾を米中連合航空隊が空襲(新竹空襲)。

大陸打通作戦

大陸打通作戦後の日本軍占領地域(赤部分)、及び中国共産党ゲリラの拠点地域(ストライプ部分)
1944年(昭和19年)
  • 3月25日 - 日本軍、黄河鉄橋の修理完了。
  • 4月 - 大陸打通作戦(1号作戦)が開始され、これは1945年1月に完遂した。前半は京漢作戦(コ号作戦)後半は湘桂作戦(ト号作戦)と呼ばれた。
  • 4月19日 - 日本軍、鄭州を占領
  • 5月25日 - 日本軍、洛陽を占領。京漢作戦が成功。
  • 6月2日〜9月14日 - 拉孟・騰越の戦いにおいて日本軍守備隊の玉砕。同地の失陥によって援蒋ルート(ビルマルート)再開。
  • 6月16日 - 成都を基地とするアメリカ軍B-29爆撃機が、日本本土を空襲開始(八幡空襲)。
  • 6月18日 - 日本軍、長沙を攻略。
  • 7月2日 - インパール作戦の失敗により、援蒋ルート遮断の継続を目的とする断作戦を新たに発令。
  • 7月7日 - サイパン陥落。アメリカ軍は成都に替わるB-29による日本本土爆撃拠点を確保。
  • 11月10日 - 汪兆銘が客死。
1945年(昭和20年)
  • 1月 - 新たな援蒋ルートであるレド公路が開通。
  • 1月7日 - 成都から出撃したB-29爆撃機が大村を空襲。これを最後に成都からの日本本土空襲は打ち切り。
  • 2月4日〜11日 - ヤルタ会談での戦後処理議題で蒋介石は満州支配の権益をソ連に譲ることを約束。
  • 3月3日〜4月11日 - 老河口作戦。日本軍が老河口飛行場を占領。
  • 4月15日〜5月9日 - 芷江作戦(二〇号作戦)。中国軍の反撃を受けた日本軍は芷江飛行場の手前、白馬山付近までしか進めず死傷2万8000の損害を被って敗退。
  • 5月25日 - 日本軍、南寧を放棄
  • 8月6日、8月9日 - アメリカ、広島・長崎へ原子爆弾を投下。(日本への原子爆弾投下
  • 8月8日 - ソ連、日ソ中立条約を破棄し、満州国・朝鮮半島に侵攻。
  • 8月14日 - 葛根廟事件(ソ連軍、日本人避難民を虐殺)、ポツダム宣言受諾[要出典]
  • 8月15日 - 日本、連合国に対しポツダム宣言の受諾を正式に表明。(日本の降伏
  • 8月17日 - 満洲国皇帝溥儀が退位宣言。満洲国が消滅。
  • 9月2日 - 日本、連合国、米戦艦ミズーリ号にて降伏文書に調印。
  • 9月9日 - 南京にて連合国主催の調印式が行われ、支那派遣軍総司令官岡村寧次大将、中華民国陸軍総司令何応欽、降伏文書に調印。

登場勢力の立場と目的

大日本帝国の旗 大日本帝国
満州国独立によって日中は安定し、東アジアの平和秩序が図られるとした(天羽声明)[78]。また、日中戦争(支那事変)は明確な開戦決意でなく偶発的に開戦したため戦争目的を確立するまでに時間がかかった[79]。そのため、対英米蘭戦の大東亜戦争(日中戦争および太平洋戦争)の際には開戦目的が明確化され、日本側の戦争目的は「自存自衛」と「(西洋帝国主義からの)アジア解放」を柱とした[79]東亜新秩序大東亜共栄圏の確立によってアジア解放は実現されると主張された[79]。日本軍は中国軍の戦意を過小評価し、短期間で戦争が終結すると考えていたが、12月の首都南京陥落後も、国民政府は首都を内陸部の重慶に移して徹底抗戦の構えを見せ、戦争は長期化の兆候を示し始めた。これに対して、不拡大派の石原莞爾作戦部長はソビエト連邦への警戒を第一とし中国での戦争を拡大するべきでないと主張。戦争の早期終結を目指す参謀本部も長期化に反対の姿勢を見せた。駐華ドイツ大使トラウトマンによる和平工作も模索され、蒋介石も一時講和に前向きな姿勢を見せたものの、南京陥落で強硬姿勢に転じた近衛内閣が和平条件の要求を過重なものにしたため、蒋介石は態度を硬化させることとなった。大本営政府連絡会議の中で、参謀本部は近衛内閣政府の和平交渉打切り案に激しく反対したが、米内海相などからの戦時中に内閣退陣を起すことを避けるべしとの意見に折れた[80]。近衛内閣は蒋介石との和平交渉を打ち切り、「帝國政府は爾後国民政府を対手とせず」との声明を出す一方、蒋介石と対立する汪兆銘と講和することで問題解決を図ろうとした。その後、戦争終結のため援蒋ルートの遮断を狙い、ヴィシー政権のフランスと合意の上、フランス領インドシナへと進駐したが、このことが東南アジアを植民地にしていたアメリカやイギリスオランダなどを刺激することとなり、アメリカは経済制裁を発動し、太平洋戦争に至る[要出典]
盧溝橋事件より8年間に戦争が勃発し、拡大・継続した最大の要因が日本と言う国家の政策と行動にあったことは間違いない。一部でいわれているように、仮に欧米列強の挑発がこの事態を招いた要因の一つであったとしても、当時の日本が列強の一つとして自他共に認めるほどの有力国であったことを考えれば、挑発によって窮地に陥った日本外交の拙劣さが責められるべきである[81]
計画経済体制の導入、日本の対ソ戦能力の低下、中国の共産化のために、近衛文麿が小事件を戦争まで拡大し、長期化させた、と中川八洋は主張している[82]
満洲国の旗 満洲国
日本への同調と自国存立のための戦争[要出典]ソビエト連邦と対峙する関東軍の後方支援に終始し、蒋介石中華民国政府とはほとんど交戦しなかった。
蒙古聯合自治政府の旗 蒙古聯合自治政府
中国からの独立のための戦争、およびソ連陣営である外モンゴルモンゴル人民共和国の影響下から脱するための戦争[要出典]盧溝橋事件勃発後、内蒙古へ本格出兵した日本軍に応じる形で1937年に樹立された蒙古連盟・察南・晋北の3自治政府を、1939年に統合して蒙古連合自治政府が樹立された。名目としては汪兆銘中華民国南京国民政府下の自治政府という位置づけだった。
冀東防共自治政府
1935年から1938年まで殷汝耕によって河北省に存在した地方政権。中華民国臨時政府に合流。
中華民国臨時政府 (北京)
1937年から1940年まで王克敏を首脳として北京に存在した。日本に同調し、日本の傀儡政権ともいわれた。汪兆銘政権(南京政府)が成立すると華北政務委員会となった。
中華民国維新政府
1938年から1940年まで南京に存在した。日本の傀儡政権。汪兆銘政権(南京政府)へ編入。
中華民国の旗 中華民国 (汪兆銘政権)
日本との徹底抗戦を主張する蒋介石に対して、当時の日本の首相近衛文麿は「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず」との近衛声明を出し、自ら和平の道を閉ざした。その後、蒋介石に代わる新たな交渉相手として国民党No.2である汪兆銘による中国国民党政権を樹立させた。汪は蒋介石の督戦隊戦法ゲリラ戦術清野戦術などの中国民衆を巻き込んだ戦法に強い反発と孫文による「日中戦うべからず」の遺訓から「一面抵抗、一面交渉」の基本姿勢のもと、反共・和平解決を掲げ、1938年に蒋介石の中華民国政府から離反した。汪は日本の力を背景として北平中華民国臨時政府南京中華民国維新政府などを集結して、1940年に蒋介石とは別個の国民政府を設立したが、蒋介石の国民政府から汪兆銘に追随するものがいなかった上、北支・中支などの一部の軍閥を除き、中国各地を支配していた多くの諸軍閥に支持されず、国際的な承認も得られなかった[83]。主に共産党軍を相手に戦った。
中華民国の旗 中華民国蒋介石政権
孫文死後、国内は再び分裂状態となり、国民党右派の中心人物である蒋介石率いる国民革命軍と影響力を強める中国国民党などの間で内戦が繰り広げられた。1927年(昭和2年)蒋は北伐で大敗し最大の危機を迎えると恩人である松井石根を通じ時の田中義一首相と会談し、蒙古満洲問題を引き換えに日本から北伐の援助を引き出し、張作霖を満洲に引き上げさせることに成功した。この際、張作霖関東軍に謀殺され、張学良は国民党に合流。1932年(昭和7年)汪兆銘と蒋介石の見方が一致すると両者は協力して南京で国民政府を組織する。1933年(昭和8年)には日本との間で塘沽停戦協定が締結されると1935年(昭和10年)、広田弘毅外相が議会姿勢演説で「日中双方の不脅威・不侵略」を強調、日本はアジアの諸国と共に東洋平和および、秩序維持の重責を分担すると発言。汪兆銘と蒋の指導する中華民国はこれを受け入れ、反日感情を戒め、日中和平路線が着々と進められたが、中国共産党などは一部はこれを喜ばず、1935年11月、国民党六中全国大会中に汪はカメラマンに扮した中国共産党の刺客から狙撃され負傷、療養のためヨーロッパへ渡航。1936年には日本に強い不信を持っていた張学良西安事件を起こして蒋に対共姿勢から対日姿勢への改心を求め中国国民党中国共産党の間で第二次国共合作が成立した。蒋は当時北支に駐屯していた日本軍との間で起きた盧溝橋事件を発端に「最後の関頭」演説を宣言、中国国内では国民党勢力下の兵士市民が抗日事件を起こし一層日中関係は逼迫した。郎坊事件広安門事件などの紛争をきっかけに戦火は各地に飛び火し、中国全土で国民革命軍の存亡をかけた徹底抗戦(ゲリラ戦)が展開された。装備などの面で劣勢にあった国民革命軍は国民党中央宣伝部国際宣伝処[84]を組織し謀略を駆使して国際世論を味方につけてアメリカ合衆国から支援(援蒋ルート等)を引き出した。1941年(昭和16年)11月、アメリカ合衆国は日本に仏印兵力の現状維持を含む暫定協定を提示する意向であったが、半ば見捨てられる形となった蒋は、英首相ウィンストン・チャーチルのコネクションを通じて抗議した[注釈 6]。これが一因となり暫定協定は撤回され、ハル・ノートが通告され、太平洋戦争に至る[85]
中国共産党(紅軍)
蒋介石国民党政府以前の1932年に中華ソビエト共和国として日本に宣戦布告を行ったが、当時は主権国家としての規模はなく、また日本よりも前に国民党を打倒しなければならないとしていた[86]。国民党とは国共内戦を戦っていたが国共合作によって国民党八路軍として蒋介石政権とともに抗日戦争、日本帝国主義と戦うとした。
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
日中戦争開戦当初はアジアで膨張を続ける日本に対する牽制を狙い、援蒋ルートを通じて中華民国に武器をはじめとする軍事物資と人材(訓練教官の派遣など)を提供。アメリカ合衆国議会は戦争状態にある国への武器輸出を禁じる中立法を維持していたが、日中戦争の勃発により、ルーズベルト大統領はイギリス国籍の船がアメリカ製の武器を中国へ輸送することを許可した。日本も石油をアメリカに大きく依存しており日中共に米国に依存しなければ戦争継続は困難であった。その後、仏印進駐を機に対日石油輸出を停止し、ABCD包囲網ハル・ノートが通告を経て真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発すると本格的に日本と戦争関係となる。
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
公式にソ連軍が参戦するのは太平洋戦争末期の1945年8月8日だが、すでに1920年代より中国で共産勢力を拡大するため紅軍ら共産主義勢力にたいして長期間にわたり支援を行い、また国共合作が成立してからは対日戦線を全面的に支援、張鼓峰事件ノモンハン事件では関東軍と交戦している。なお、日本は日ソ中立条約を締結していたソ連を通じ連合国との講和を目指したが、ソ連対日参戦により破綻した。
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国
第一次世界大戦の際に日本が東アジア太平洋地域におけるドイツの権益を奪取したという事実とプロイセンドイツ皇帝ヴィルヘルム2世)時代の黄禍論主義思想が対日政策に影響を及ぼしていた。1935年より中華民国に対して在華ドイツ軍事顧問団中国語版を派遣し陣地構築の指導、軍事訓練や武器の輸出を行った(中独合作)。一方、1936年には日独防共協定を締結するなど、日本にも接近しつつあった。1937年に勃発した第2次上海事変の際には、ヒトラー承認済のもと[87]蒋介石軍事顧問を務めたファルケンハウゼンが直接作戦指導にあたっている。日中間の和平交渉を仲介(トラウトマン工作)するが、交渉は決裂。軍事顧問団を引き上げることになる。日本は日独関係の悪化を憂慮し、鹵獲したドイツ製の武器を「ソ連製または某国製」と偽って公表した。

参戦勢力の概要

日本軍
軍装・装備
戦法・戦術
参加部隊
支那駐屯軍(盧溝橋事件後の1937年7月11日に関東軍独立混成第11旅団・独立混成第1旅団の二個旅団朝鮮軍第20師団が編入[19]1937年8月31日支那駐屯軍は廃止され、北支那方面軍第1軍第2軍へ編成。
上海海軍特別陸戦隊
中国国民革命軍・中国共産党軍
軍装・装備・兵力
国民革命軍:1937年時点で198師団、総兵力225万人[18]
中国共産党軍:1937年時点で総兵力20万人[18]
戦法・戦術
日本の中国進出に対して国際社会の干渉を生じさせる「遠くの敵を近くの敵にけしかける」「蛮族を制するに蛮族をもってする」という中国伝統の戦術によってソ連アメリカ合衆国の支援をとりつけた[88]
国民党軍では赤軍の手法を模倣し、督戦隊制度を導入した。当時、中国では分裂国家で統一国家ではなく、日本のような教育や軍事教練なども十分に行われなかったこともあり、中国共産党軍は便衣兵ゲリラ戦による奇襲攻撃を主な戦法とした。また、兵士には戦争目的の認識や士気が低かったことから兵士の戦闘意欲高揚と戦線離脱防止を目的として、トーチカを守備する兵士や民間人(民兵)の足に鎖をつけ、後方から督戦隊を配置して逃亡を防ぎ、最後まで交戦をさせた[注釈 7]
参加部隊
戦闘序列については以下を参照
国民革命軍戦闘序列 (1937年)
国民革命軍戦闘序列 (1938年)
国民革命軍戦闘序列 (1939年)
国民革命軍戦闘序列 (1944年)
中国住民の徴発

日中戦争期間中に国民政府徴発した兵士の総数は約1405万人である。動員を可能にすべく1936年から開始された義務兵役制度は、容易に軌道に乗ることはなく、当初は、名は徴兵であるが、実際は募兵拉致であったとされる[89]拉致被害者で目立つのは、他地域の住民や旅行中の行商人糧食などの運搬労働者であり、博徒乞食なども含まれていた[89]

日中戦争の被害

日本軍の犠牲者数
  • 総計44万6500人(陸軍38万4900人、海軍7600人、終戦後の死亡5万4000人)[90]——70万人とも[91]。また関東軍はソ連軍に降伏し、60万がシベリアなどに抑留、6万人が犠牲になった[90]
中国の犠牲者数
発表年 死傷人数 調査・出典 補足
1946年 軍人作戰死亡132万8501 中華民國國防部・発表[92] 国民革命軍のみ
1947年 平民死亡439万7504 中華民國行政院賠償委員會[93][94] 國民黨統治區
1947年 軍民死傷1278万4974 中華民國行政院賠償委員會[93][94] 國民黨統治區·軍人死傷365萬0405·平民死傷913萬4569
1985年 軍民死亡2100万 共産党政権発表(抗日勝利40周年)
1995年 軍民死傷約3500万 江沢民発表[95] 江沢民、纪念抗日战争胜利五十周年大会上的讲话

上記の表で中国側の犠牲者が132万とあるが、この数字は中国国民革命軍のみの数であり、必ずしもその人数が正しいとはいえないことに注意が必要。[要出典]当時の中国大陸では、日本軍・南京中華民国政府軍・蒋介石国民革命軍・共産党軍(現:中国人民解放軍の前身)・その他馬賊抗日武装勢力など複数の勢力が、割拠する地域で、日中戦争中には主に2つの勢力に分かれて戦争を行っていた。また国共内戦は国共合作以降も断続しており、第二次世界大戦後には再開している。中国の民衆は戦争に翻弄され、農業商業工業運輸などの生活基盤を破壊されると共に各勢力の戦闘やゲリラ戦に巻き込まれ命を落としたり、戦闘継続の中、日本軍のみならず自国民たる各勢力に食糧徴発されたことや焦土作戦の影響で飢餓に陥る人も大勢いた。また日本人をはじめ在留外国人も戦闘に巻き込まれた。(中国空軍の上海爆撃 (1937年)を参照)。

以下、各犠牲者数について注釈する。

  • 終戦時132万人
    • 【国民政府統計】中華民国軍令部統計:中華民国「陸軍」戦争犠牲者131万9958人[94][96]
    • 【国民政府統計】1946年中華民国国防部初歩調査にある(1947年5月中華民国行政院賠償委員会引用),「軍人戦死者数132万8501人」は「中華民国国軍」のみで、民間人または共産党軍隊の死亡者、病死者、徴兵時に失った国軍数等は含まれていない[97]
  • 1948年438万人
    • 【国民政府統計】439万7504人。1947年中華民国行政院賠償委員会の「民間人死亡者数」に関した統計に近い[97]。これは「国民党統治区域」に限っての初歩調査に浮かんだ民間人死亡者数であり、共産党統治区域の一般人死亡者数は含まれていないと思われる[94]
  • 1950年1000万人
    • 【共産党発表】蒋介石が1947年に言った「軍民犠牲者一千万人」が始まりで、概数である[94]
    • 【国民政府統計】1947年5月中華民国行政院賠償委員会によると、軍人死傷者365万0405、一般人死傷者913万4569。ただし共産党軍と共産党根拠地の数字は含まれていないと思われる。
  • 1985年2100万人
    • 【共産党発表】原文は発見されていない。おそらく「全国軍民死亡」者数を指すであろう。軍隊戦死者100万余り、民間人約2000万。詳細は次に述べる。
  • 1995年3500万人
    • 【中国共産党中央委員会総書記江沢民発言】[98]「犠牲者数」ではなく、「死傷人数」をさす。数字の初めの出所は中国の軍事科学院軍事歴史研究部の研究である。1995年出版の『中国抗日戦争史』の概算統計によると、抗日戦争期間中の中国軍隊死傷者380万人余、中国人民犠牲者2000万人余、中国軍民死傷者総数が3500万人以上に達した[99]

国共内戦

太平洋戦争および日中戦争の終結前後に、蒋介石率いる中国国民革命軍と毛沢東率いる中国共産党軍の間で国共内戦の再開が中国国内で懸念されると同時に1945年9月からは上党戦役など内戦がはじまった。アメリカも中国内戦を阻止するために介入し、重慶会談をはじめ様々な交渉が持たれるが、1946年6月に、蒋介石率いる国民革命軍が全面侵攻命令を発した。 1949年から1950年にかけて、中国共産党軍が国民党軍を破り、蒋介石らは台湾へ逃れ、中華人民共和国が成立した。

残留日本兵と残留日本人

国民党の蒋介石は「徳を以て怨みに報いる」として、終戦直後の日本人居留民らに対して報復的な態度を禁じたうえで送還政策をとった[100]が、中国共産党軍は、シベリア抑留と同様に多くの日本人を強制連行・留用し、特に医療や建設関係に従事した。また1946年2月3日には、 八路軍の圧政に蜂起した日本人だけでなく蜂起していない日本人も大量に虐殺される通化事件が発生した。

戦後処理と戦争賠償

サンフランシスコ平和条約

朝鮮戦争中の1951年9月8日サンフランシスコで調印された日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)で連合国は全ての賠償請求権を放棄するとされた[101]。しかし、国共内戦の敗北によって蒋介石中華民国国民党1949年12月に台湾に移転し、同時に中国共産党中華人民共和国の建国を宣言しており、二国に分かれていた両国は、アメリカが中華民国を、イギリスが中華人民共和国を別々に承認することもあって、不参加となった[102][103]。また日本は平和条約にしたがって連合国に以下賠償した[104]

  • フィリピンに5億5千万ドル
  • ベトナムに3900万ドル相当の役務と生産物
  • 連合国領域内の約40億ドル(日本円で1兆4400億円、昭和26年での一般会計歳入は約8954億円)の日本人資産は連合国に没収され、収益は各国国民に分配。
  • 中立国および連合国の敵国にある財産と等価の資金として450万ポンドを赤十字国際委員会に引き渡し、14国合計20万人の日本軍元捕虜に分配。
  • 日本財産は朝鮮702億5600万円、台湾425億4200万円、中華民国東北1465億3200万円、華北554億3700万円、華中華南が367億1800万円、その他樺太、南洋など280億1400万円、合計3794億9900万円が連合国に引き渡された。

1945年8月5日の外務省調査では日本の在中華圏資産は、中華民国921億5500万円、満州1465億3200万円、台湾425億4200万円で合計2812億2900万円で、これは現在[いつ?]の価値で56兆2458億円となる(企業物価指数戦前基準)[105]

このように連合国国内のみならず、中国、台湾、朝鮮にあった一般国民の在外資産まで接収され、さらに中立国にあった日本国民の財産までもが賠償の原資とされた「過酷な負担の見返り」として、請求権が放棄された[104]

日華平和条約 (1952)

サンフランシスコ平和条約締結の翌年、1952年4月28日には台北日華平和条約が調印され、中華民国は日本への賠償請求を放棄した[106][103]。交換公文では「中華民国政府の支配下に現にあり、又は今後入るすべての領域」が適用範囲とされた[103]

日中共同声明 (1972)

1971年10月25日、 国連でアルバニア決議が採択され、中華民国が中国の代表権を喪失するとともに常任理事国の地位をはく奪され、中華人民共和国が中国の代表権を得た。1972年2月にニクソン大統領の中国訪問が実現し米中が接近するのと並行して日中国交正常化も進展し、1972年9月には日中共同声明周恩来国務院総理田中角栄内閣総理大臣によって調印された。声明第五項では「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する(The Government of the People's Republic of China declares that in the interest of the friendship between the Chinese and the Japanese peoples, it renounces its demand for war reparation from Japan.)」として、中華人民共和国は対日戦争賠償請求を放棄すると宣言された[107][102]。1978年8月12日には、日中共同声明を踏まえて、日中平和友好条約が締結され、第1条では「主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉」が、第2条ではアジア・太平洋地域他の地域で覇権を求めないと規定された[108]。なお1979年には米中が国交正常化した

日本は中華人民共和国に対し政府開発援助(ODA)を実施し、1979年から2013年度までに有償資金協力(円借款)約3兆3,164億円、無償資金協力を1,572億円、技術協力を1,817億円、総額約3兆6,553億円のODAを実施した[109]。廃止の方向にあるODAに変わって、財務省影響下のアジア開発銀行が肩代わりして迂回融資を行い、1年あたりの援助金額は円借款の2倍であり[110]、アジア開発銀行から中国への援助総額は日本円で2兆8000億円に上っており、「日本の対中国ODAは3兆円ではなく6兆円。3兆円は日本政府から中国政府に直接援助した金額。アジア開発銀行等の迂回融資分をあわせると6兆円」という指摘がある[111][112]

日本政府はこれら三つの条約および声明(サンフランシスコ平和条約第14条b、日華平和条約第11条、日中共同声明第5項)によって、日中間における請求権は、個人の請求権の問題も含めて消滅したと認識している[113]江沢民も1992年4月1日、日本の侵略戦争については真実を求めて厳粛に対処するが、日中共同声明の立場は変わらないと発言している[114]

また華人労務者への個人賠償が争われた西松建設会社事件での最高裁判決(2007年4月27日)では、サンフランシスコ平和条約は、個人の請求権を含めて、戦争中に生じたすべての請求権を放棄した。また日中共同声明も同様であるとされた[115][102][116][117]。また、重慶爆撃訴訟の東京地裁判決(2015年2月25日)では、国際法の法主体は国家であって個人ではない。また国家でさえ、戦争被害については、国家責任を規定する国際法だけでは賠償を受けることができず、賠償に関する国家間の外交交渉によって合意される必要があるとし、個人の戦争被害については国家間での処理が原則とした。またハーグ陸戦条約第3条も国家間の賠償責任を規定するもので、個人に賠償請求権を付与するものではない、と判決した。

評価

当時[いつ?]関東軍参謀だった瀬島龍三は、「満洲を建国したことで朝鮮半島が安定したが、満洲国が建国したばかりで不安定だったことから満洲の安定を図るために満洲と中国の国境ラインに軍隊を移駐したところで中国勢力と衝突した」と戦後の談話で述べた[118]

南京戦陥落直後の1937年12月19日に読売新聞は「日本は初めこの事変をこうまで拡大する意志はなかった。支那に引張られてやむを得ず、上海から南京まで行かざるを得なかった」として、事変の序幕は西安事件で蒋介石が共産党と妥協させられてからで、それ以降は「共産党戦術」が著しく、「支那と日本と大戦争をやらすのが共産党の利益であると打算しているようであった」と報道した[119]

また同月に報知新聞も西安事件以来南京政府は大きく変化し、「政治的には国共合作後の共産党的圧力、経済的には在支権益を確保せんとするイギリス資本の掩護、思想的にはソヴィエト流の抗日救国の情熱、それ等が決河の勢いをなして北支に逆流し、ついには上海における計画的挑戦の暴露となり、戦局の急速なる拡大となってしまった 」とし、「今度の事変が決して支那と日本との問題でなく実に支那を舞台とするイギリスとソヴィエトの動きを除いては事変そのものすら考え得られないということも次第に明かとなり、東洋における防共と反英運動とが新らしい政治的課題として登場して来た」と回顧した[120]。また、イギリスは表面は不干渉を表明したが、南京政府への支援を続け、さらに米国を巻き込むことに成功したと報じた[121]

田母神俊雄(当時航空幕僚長)は、日本は国際法上合法的に中国大陸に権益を得て比較的穏健な内地化を進めようとしていたが、コミンテルンの工作によって蒋介石国民党中国共産党からの度重なるテロ行為に干渉され、またベノナファイルで明かになったように中国と同じくコミンテルンの工作を受けたアメリカに介入され、結果的に日中戦争に引きずり込まれることとなったと論じた[122]。しかし、政府と防衛省幹部が内容に問題にあるとして田母神は浜田靖一防衛大臣から更迭された(田母神論文問題)[123]小堀桂一郎中西輝政西尾幹二などは田母神論文の内容を支持し[124]森本敏小林節纐纈厚笠原十九司水島朝穂らは論文を批判した[125][126]

日中戦争を題材とした作品

Category:日中戦争を題材とした作品」を参照

脚注

注釈

  1. ^ 日支事変 (満洲事変上海事変の総称として使用された例もある)や日華事変とも呼称される。
  2. ^ 中国語圏では、抗日戦争[3]八年抗戰中日戰爭中国抗日戦争中国人民抗日战争八年抗戦などと呼称される。
  3. ^ 英語圏では、1894年1895年日清戦争を「Sino-Japanese War of 1894-95」、「Sino-Japanese War of 1894-1895」、「First Sino-Japanese War ("第一次支那日本戦争")」などと称し、1937年~1945年の日中戦争は「Sino-Japanese War of 1937-45」、「Sino-Japanese War of 1937-1945」、「Second Sino-Japanese War ("第二次支那日本戦争")」などと呼称される。
  4. ^ 当時の朝日新聞報道では7月10日動員令、7月17日までに配備完了[20]
  5. ^ 『皇国暦日史談』は「「我が海軍航空部隊は支那事変開始直後の9月22日月明の3時大挙広東を襲い、更に7時、13時半並びに14時の4回に亙り矢継早に空襲を繰り返したが敵空軍は己に全滅し高射砲も大半破壊して防空の役立たず、我が空軍は無人の境を行くが如くリレー式に広東市の西北より東にかけ天河、白雲両飛行場、兵器廠、淨塔水源池、其の他工場地帯、政府軍事各機関、遠東軍管学校、中山大学、中山紀念堂外重要建設物を片つ端から徹底的に爆撃した。此のため広東全市は殆んど猛火の巷と化し猛火盛んに上り大混乱に陥った。革命の震源地、排日の総本家たりし広東も我が正義の前に完膚なきまでに叩きのめされた。」と記している。日置英剛編『年表太平洋戦争全史』国書刊行会 (2005)[要ページ番号]
  6. ^ 当時、英国は劣勢にあり、戦局打開のため欧州戦線への米国の介入を強く希望していた
  7. ^ この状況は1939年に作成された日本映画『土と兵隊』(田坂具隆監督)にも描写されている

出典

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  2. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「野澤ii」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
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  114. ^ 人民日報1992年4月3日
  115. ^ 「サンフランシスコ平和条約の枠組みと異なる処理が行われたものと解することはできない」。また条約法に関するウィーン条約34条では第三国の義務や権利を当該国の同意なしに創設できない、35条では当該国が書面により当該義務を明示的に受け入れる場合に限って義務を負うと定めており、中国はサンフランシスコ平和条約と日中共同声明の枠組みを肯定しており、それ以外の義務を書面で確約したことはない。
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参考文献

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  • 櫻井良樹『華北駐屯日本軍 : 義和団から盧溝橋への道』岩波書店、2015年。ISBN 9784000291743 

関連項目

外部リンク