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[[佐賀県]][[鹿島市]]出身。[[1951年]]に[[中央大学]][[法学部]]を卒業。農協組合長、佐賀県議会議員、父・時一郎が創立したバス会社、[[祐徳自動車]]副社長・社長(議員在任中も社長を務め、後述の経済企画庁長官就任時に辞任し、初代会長に就任)を経て、[[1972年]]の[[第33回衆議院議員総選挙]]に[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]から立候補し初当選。当選回数9回(当選同期に[[小泉純一郎]]・[[加藤紘一]]・[[山崎拓]]・[[石原慎太郎]]・[[村岡兼造]]・[[保岡興治]]・[[三塚博]]・[[越智通雄]]・[[野田毅]]・[[深谷隆司]]など)。自民党では[[田中角栄]]→[[竹下登]]派に所属する。
[[佐賀県]][[鹿島市]]出身。[[1951年]]に[[中央大学]][[法学部]]を卒業。農協組合長、佐賀県議会議員、父・時一郎が創立したバス会社、[[祐徳自動車]]副社長・社長(議員在任中も社長を務め、後述の経済企画庁長官就任時に辞任し、初代会長に就任)を経て、[[1972年]]の[[第33回衆議院議員総選挙]]に[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]から立候補し初当選。当選回数9回(当選同期に[[小泉純一郎]]・[[加藤紘一]]・[[山崎拓]]・[[石原慎太郎]]・[[村岡兼造]]・[[保岡興治]]・[[三塚博]]・[[越智通雄]]・[[野田毅]]・[[深谷隆司]]など)。自民党では[[田中角栄]]→[[竹下登]]派に所属する。


[[外務省|外務]][[政務次官]]、[[総理府]]総務副長官、[[衆議院]]文教委員長などを歴任し、[[1989年]]、[[竹下改造内閣]]で[[リクルート]]社からの献金が問題になって辞任した[[原田憲]][[経済企画庁]]長官の後任として入閣する。[[1992年]]、[[東京佐川急便事件]]がきっかけで[[平成研究会|竹下派]]が分裂すると、[[羽田孜]]・[[小沢一郎]]を支持し、[[杉山憲夫]]、[[北村直人]]、[[藤井裕久]]、[[岡田克也]](後の[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]代表)ら竹下派の若手議員とともに[[改革フォーラム21]]結成に参加。翌[[1993年]]、政治改革をめぐって羽田派は宮沢改造内閣不信任案に賛成し自民党を離党、[[新生党]]を結成した。
[[外務省|外務]][[政務次官]]、[[総理府]]総務副長官、[[衆議院]]文教委員長などを歴任し、[[1989年]]、[[竹下改造内閣]]で[[リクルートホールディングス]]社からの献金が問題になって辞任した[[原田憲]][[経済企画庁]]長官の後任として入閣する。[[1992年]]、[[東京佐川急便事件]]がきっかけで[[平成研究会|竹下派]]が分裂すると、[[羽田孜]]・[[小沢一郎]]を支持し、[[杉山憲夫]]、[[北村直人]]、[[藤井裕久]]、[[岡田克也]](後の[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]代表)ら竹下派の若手議員とともに[[改革フォーラム21]]結成に参加。翌[[1993年]]、政治改革をめぐって羽田派は宮沢改造内閣不信任案に賛成し自民党を離党、[[新生党]]を結成した。


[[1994年]]、[[羽田内閣]]の頃から小沢の手法に批判的な立場を明確にし、同年12月の[[新進党]]結成後も小沢の手法を強権的として批判し続けた。新進党分党後の[[1998年]]1月には同じく反小沢の旗頭であった[[鹿野道彦]]を代表とする新党・[[国民の声]]に参加した。同年3月20日死去(享年69)。
[[1994年]]、[[羽田内閣]]の頃から小沢の手法に批判的な立場を明確にし、同年12月の[[新進党]]結成後も小沢の手法を強権的として批判し続けた。新進党分党後の[[1998年]]1月には同じく反小沢の旗頭であった[[鹿野道彦]]を代表とする新党・[[国民の声]]に参加した。同年3月20日死去(享年69)。

2019年9月13日 (金) 06:05時点における版

愛野 興一郎
あいの こういちろう
愛野興一郎
生年月日 1928年4月18日
出生地 佐賀県鹿島市
没年月日 (1998-03-20) 1998年3月20日(69歳没)
死没地 佐賀県鹿島市
出身校 中央大学法学部
前職 企業経営者
所属政党自由民主党→)
新生党→)
新進党→)
国民の声→)
民政党
親族 愛野時一郎(父)

内閣 竹下改造内閣
在任期間 1989年1月25日 - 1989年6月3日

選挙区佐賀県全県区→)
比例九州ブロック
当選回数 9回
在任期間 1972年 - 1998年

佐賀県議会議員
選挙区 鹿島市選挙区
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愛野 興一郎(あいの こういちろう、1928年4月18日 - 1998年3月20日)は、日本実業家政治家

衆議院議員(9期)、経済企画庁長官第40代)、佐賀県議会議員を務めた。

父は実業家で元衆議院議員の愛野時一郎

来歴

佐賀県鹿島市出身。1951年中央大学法学部を卒業。農協組合長、佐賀県議会議員、父・時一郎が創立したバス会社、祐徳自動車副社長・社長(議員在任中も社長を務め、後述の経済企画庁長官就任時に辞任し、初代会長に就任)を経て、1972年第33回衆議院議員総選挙自由民主党から立候補し初当選。当選回数9回(当選同期に小泉純一郎加藤紘一山崎拓石原慎太郎村岡兼造保岡興治三塚博越智通雄野田毅深谷隆司など)。自民党では田中角栄竹下登派に所属する。

外務政務次官総理府総務副長官、衆議院文教委員長などを歴任し、1989年竹下改造内閣リクルートホールディングス社からの献金が問題になって辞任した原田憲経済企画庁長官の後任として入閣する。1992年東京佐川急便事件がきっかけで竹下派が分裂すると、羽田孜小沢一郎を支持し、杉山憲夫北村直人藤井裕久岡田克也(後の民主党代表)ら竹下派の若手議員とともに改革フォーラム21結成に参加。翌1993年、政治改革をめぐって羽田派は宮沢改造内閣不信任案に賛成し自民党を離党、新生党を結成した。

1994年羽田内閣の頃から小沢の手法に批判的な立場を明確にし、同年12月の新進党結成後も小沢の手法を強権的として批判し続けた。新進党分党後の1998年1月には同じく反小沢の旗頭であった鹿野道彦を代表とする新党・国民の声に参加した。同年3月20日死去(享年69)。

2005年12月18日、七回忌を記念して有志により、鹿島市高津原の旭ヶ丘公園に胸像が作られた。親族や保利耕輔原口一博ら佐賀県選出の国会議員、桑原允彦鹿島市長ら関係者約250人によって除幕式が行われた。

人物

竹下派分裂時、派閥所属参議院議員を説得するため議員宿舎を廻っていたところ、呼び鈴と間違えて非常ボタンを押してしまったことがある[1]

家族・親族

  • 父・愛野時一郎(政治家、衆議院議員)
  • 弟・福岡政文(事業家、佐賀日産代表取締役)、愛野克明(事業家、東日本観光バス代表取締役)、愛野孝志(医師、愛野耳鼻咽喉科院長)
  • 子・愛野時興(事業家、祐徳グループ会長)

脚注

関連項目