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1978年のシーズン途中に[[ジム・フレゴシ]]が36歳という若さで監督に就任。フレゴシは元エンゼルスの遊撃手で、ライアンとのトレードでメッツに移籍した経緯を持ち、この年の5月に引退したばかりだった。この年には、ツインズから移籍した[[ライマン・ボストック]]が射殺される悲劇もあったが、フレゴシ監督の下で87勝75敗と8年ぶりに勝ち越し、2位でシーズンを終える。そして1979年には、ライアンに加えて[[ロッド・カルー]]、[[ドン・ベイラー]]、[[ボビー・グリッチ]]らを擁し、初の地区優勝を遂げた。カルーは[[首位打者 (MLB)|首位打者]]こそ逃したものの打率.318と期待にそぐわぬ活躍をみせ、ベイラーは打率.296・36本塁打・139打点を記録し、ア・リーグ[[最優秀選手 (MLB)|MVP]]に輝いた。続く[[リーグチャンピオンシップシリーズ]]では[[アール・ウィーバー]]率いるオリオールズと対戦し、1勝3敗で敗れた。 |
1978年のシーズン途中に[[ジム・フレゴシ]]が36歳という若さで監督に就任。フレゴシは元エンゼルスの遊撃手で、ライアンとのトレードでメッツに移籍した経緯を持ち、この年の5月に引退したばかりだった。この年には、ツインズから移籍した[[ライマン・ボストック]]が射殺される悲劇もあったが、フレゴシ監督の下で87勝75敗と8年ぶりに勝ち越し、2位でシーズンを終える。そして1979年には、ライアンに加えて[[ロッド・カルー]]、[[ドン・ベイラー]]、[[ボビー・グリッチ]]らを擁し、初の地区優勝を遂げた。カルーは[[首位打者 (MLB)|首位打者]]こそ逃したものの打率.318と期待にそぐわぬ活躍をみせ、ベイラーは打率.296・36本塁打・139打点を記録し、ア・リーグ[[最優秀選手 (MLB)|MVP]]に輝いた。続く[[リーグチャンピオンシップシリーズ]]では[[アール・ウィーバー]]率いるオリオールズと対戦し、1勝3敗で敗れた。 |
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1979年限りでライアンがチームを離れ、翌1980年には65勝95敗と大きく負け越した。また、この年には[[NFL]]のロサンゼルス・ラムズ(現・[[セントルイス・ラムズ]])がアナハイム・スタジアムを使用するようになり、球場もアメフト兼用に改修され、収容人数も43,000人から64,593人に増加された。このためアメフト兼用に球場を改築した他球団と同様に、試合数の少ないアメフトの試合では観客席が埋まる一方、試合数の多い野球の試合では空席が目立つといった弊害に悩まされることとなる。1981年は前後期制が導入され、前期は31勝29敗で4位だったものの、[[1981年のMLBストライキ|50日間に及ぶストライキ]]で短縮された後期には20勝30敗で最下位に沈んだ。なお、この年にはグリッチが22本塁打で[[最多本塁打 (MLB)|本塁打王]]に輝いている(22本塁打でのタイトルは戦後では最少。他にも3人が22本塁打を記録した)。 |
1979年限りでライアンがチームを離れ、翌1980年には65勝95敗と大きく負け越した。また、この年には[[NFL]]のロサンゼルス・ラムズ(現・[[ロサンゼルス・ラムズ|セントルイス・ラムズ]])がアナハイム・スタジアムを使用するようになり、球場もアメフト兼用に改修され、収容人数も43,000人から64,593人に増加された。このためアメフト兼用に球場を改築した他球団と同様に、試合数の少ないアメフトの試合では観客席が埋まる一方、試合数の多い野球の試合では空席が目立つといった弊害に悩まされることとなる。1981年は前後期制が導入され、前期は31勝29敗で4位だったものの、[[1981年のMLBストライキ|50日間に及ぶストライキ]]で短縮された後期には20勝30敗で最下位に沈んだ。なお、この年にはグリッチが22本塁打で[[最多本塁打 (MLB)|本塁打王]]に輝いている(22本塁打でのタイトルは戦後では最少。他にも3人が22本塁打を記録した)。 |
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=== 2度の地区優勝(1982年、1986年) === |
=== 2度の地区優勝(1982年、1986年) === |
2019年10月30日 (水) 11:57時点における版
ロサンゼルス・エンゼルス Los Angeles Angels | |||||||||
1961年創設 | |||||||||
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所属リーグ | |||||||||
チーム名 | |||||||||
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本拠地 | |||||||||
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永久欠番 | |||||||||
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獲得タイトル(獲得年) | |||||||||
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球団組織 | |||||||||
オーナー | アルトゥーロ・モレノ | ||||||||
GM | ビリー・エップラー | ||||||||
監督 | ジョー・マドン |
ロサンゼルス・エンゼルス(英語: Los Angeles Angels、略称:LAA)は、メジャーリーグベースボール(以下、MLB)アメリカンリーグ西地区所属のプロ野球チーム。本拠地はカリフォルニア州アナハイム。2015年までアナハイムを冠したチーム名であったが、2016年に球団創設時の名称に戻した。本拠地球場はエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム。NHKなどではエンジェルスと表記される。
1961年のアメリカンリーグの球団拡張によって誕生した球団。
1979年に初の地区優勝を果たし、1982年と1986年にも地区優勝を遂げた。しかし、いずれもプレーオフで敗れ、リーグ優勝はならなかった。2002年にはワイルドカードでプレーオフに進出すると、勢いに乗って勝ち上がり初のワールドチャンピオンに輝いた。
2003年以降は大規模な補強を行い、2004年以降の6年に5度の地区優勝を果たすなど、リーグ屈指の強豪チームへと成長していく。
2018年現在、マイク・トラウトや大谷翔平、アンドレルトン・シモンズといった人材を揃えている。スモールボールを標榜としており、送りバントや盗塁を積極的に行う[1]。
概要
経営
1997年から2003年まではウォルト・ディズニー社が経営に携わっていた。2002年のワールドシリーズ初制覇時の優勝パレードは、同じアナハイムにあるディズニーランドで行われた。
2003年にヒスパニックの実業家であるアルトゥーロ・モレノがオーナーに就任。モレノはチケット、ビールの値下げ、家族向けの低価格帯グッズの販売などを展開し、ファン層の拡大にも力を注いだ。試合中はホーム球場であるエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイムを歩き回り、ファンと積極的にコミュニケーションをとっている姿が見られる。その効果もあってか、2004年以降はレギュラーシーズンの平均観客動員数は4万人を超えるようになり、スタンドはチームカラーの赤に染まる。現在では、シーズン入場者数は330万人から340万人程度を推移しており、メジャーでも上位の人気を誇っている。チームの価値も上昇し、現在[いつ?]は2003年当時の買収額である約1億8000万ドルから約3億6800万ドルほどになったといわれる。また、広域的にも広告利益が期待できかつアナハイムを含むロサンゼルス地域に根ざした野球チームを目指すという観点から「ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム」に変更した。この名称変更に関して、地元ファンやアナハイム市は球団の態度に不快感を示すとともに、1996年に球団と市の間に交わされたアナハイムの名を明示的にチーム名に入れるとする契約に反するとして訴訟にまで発展した。
後に球団側が勝訴し、現在では既に「ロサンゼルス・エンゼルス」という名前が浸透している他、2016年には球団創設時の名称である「ロサンゼルス・エンゼルス」へ正式に改称した。
ラリー・モンキー
本拠地のエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイムではラリー・モンキーと呼ばれる猿が人気を集めている。ラリー・モンキーとは直訳すると「逆転猿」という意味で、ラリー・モンキーが現れるのは6回以降でチームが負けているか、同点の時のみであり、ラリー・タイムと称してスコアボードの大画面にラリー・モンキーの跳ね回る姿が映し出される。2000年頃からこの猿が登場し、不思議とチームも逆転勝利を収めるようになったことから、ラリー・モンキーと名づけられ、現在では球場の名物として定着している。
球団の歴史
球団創設
戦前までMLB球団は東海岸に集中していたため、ロサンゼルスなどの大都市を抱える西海岸へのMLB球団の移転の話はたびたび持ち上がっていた。初めにこれを検討したのがアメリカンリーグで、1940年にセントルイス・ブラウンズ(現・ボルチモア・オリオールズ)がロサンゼルスへの移転を計画した。しかし1941年の末に太平洋戦争が勃発したため、戦場となる可能性のあった西海岸でのプロスポーツの開催が困難となり、この計画は頓挫してしまった。1953年にはブラウンズが再びロサンゼルスへの移転を計画したが、球団自体が売却されたことで代わりにボルチモアへ移転することとなった。その後ワシントン・セネタース(現・ミネソタ・ツインズ)やフィラデルフィア・アスレチックス(現・オークランド・アスレチックス)といった球団もロサンゼルスへの移転を計画したが、どれも実行はされなかった。
1957年、ナショナルリーグのブルックリン・ドジャース(現・ロサンゼルス・ドジャース)がロサンゼルスに移転し、戦後初めて西海岸にMLB球団が誕生した。また同年にはニューヨーク・ジャイアンツ(現・サンフランシスコ・ジャイアンツ)も西海岸に移転する。ドジャースとジャイアンツは初年度から多くの観客を集め、興行的に大きな成功を収めた。そのため、アメリカンリーグでも西海岸に球団を置くことが再度検討され、1961年のアメリカンリーグの球団拡張計画に基づき、ロサンゼルスにおける新球団の設置が決定した。新球団の名前はロサンゼルスの地名の由来である「天使たち = the angels」から採り、これにロサンゼルスを冠して「ロサンゼルス・エンゼルス」となった。こうしてエンゼルスはその歴史を歩み始める。
アナハイムへの移転
1961年、初年度となったシーズンは70勝91敗でリーグ8位(10球団中)に終わった。しかしこれは戦後の新設球団の成績の中では最も良いものだった。初年度はロサンゼルス・リグレー・フィールドを使用していたが、2年目からはドジャースの本拠地球場であるドジャー・スタジアムを間借りする。2年目には86勝76敗で早くも勝ち越し、リーグ3位に食い込んだ。なお、この年の5月5日のオリオールズ戦ではボー・ベリンスキーがエンゼルス初のノーヒットノーランを達成している。1964年には82勝80敗で再び勝ち越し。この年にはディーン・チャンスが防御率1.65・20勝9敗を記録し、エンゼルスでは初の個人タイトルとなるサイ・ヤング賞を獲得している。
しかしこうしたチームの好成績とは裏腹に観客数は伸び悩んだ。1962年から1965年までの4年間の合計観客数は300万人程で、同じ本拠地のドジャースと比べても半分以下だった。そのため間借りしているドジャー・スタジアムの賃貸料は割高となり、新球場の建設の必要性は明らかだった。1966年、ロサンゼルス南郊のアナハイムにアナハイム・スタジアム(現・エンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム)が完成し、チームもアナハイムへ移転。球団名も「カリフォルニア・エンゼルス」と改称した(州名を冠したのはミネソタ・ツインズに続き2球団目)。移転の効果は抜群で、1965年には57万人程だった観客数も移転した初年度には140万人を記録している。1968年からはア・リーグ西地区に所属。しかし1970年代後半まで負け越しのシーズンが続き、なかなか優勝には手が届かなかった。
初の地区優勝(1979年)
1972年、ニューヨーク・メッツからトレードでノーラン・ライアンが移籍。当時のライアンは持ち前の豪速球には凄まじいものがあったが、制球に苦しみ、なかなか活躍できない状況が続いていた。しかしエンゼルスに移籍するや否や防御率2.28・19勝16敗・329奪三振という活躍をみせる。翌1973年にはサンディー・コーファックスが1965年に記録したシーズン382奪三振を抜くシーズン383奪三振を記録。翌年以降も毎年20勝前後を挙げ、エンゼルスで4度のノーヒットノーランを達成するなど、MLBを代表する投手へと成長する。
1978年のシーズン途中にジム・フレゴシが36歳という若さで監督に就任。フレゴシは元エンゼルスの遊撃手で、ライアンとのトレードでメッツに移籍した経緯を持ち、この年の5月に引退したばかりだった。この年には、ツインズから移籍したライマン・ボストックが射殺される悲劇もあったが、フレゴシ監督の下で87勝75敗と8年ぶりに勝ち越し、2位でシーズンを終える。そして1979年には、ライアンに加えてロッド・カルー、ドン・ベイラー、ボビー・グリッチらを擁し、初の地区優勝を遂げた。カルーは首位打者こそ逃したものの打率.318と期待にそぐわぬ活躍をみせ、ベイラーは打率.296・36本塁打・139打点を記録し、ア・リーグMVPに輝いた。続くリーグチャンピオンシップシリーズではアール・ウィーバー率いるオリオールズと対戦し、1勝3敗で敗れた。
1979年限りでライアンがチームを離れ、翌1980年には65勝95敗と大きく負け越した。また、この年にはNFLのロサンゼルス・ラムズ(現・セントルイス・ラムズ)がアナハイム・スタジアムを使用するようになり、球場もアメフト兼用に改修され、収容人数も43,000人から64,593人に増加された。このためアメフト兼用に球場を改築した他球団と同様に、試合数の少ないアメフトの試合では観客席が埋まる一方、試合数の多い野球の試合では空席が目立つといった弊害に悩まされることとなる。1981年は前後期制が導入され、前期は31勝29敗で4位だったものの、50日間に及ぶストライキで短縮された後期には20勝30敗で最下位に沈んだ。なお、この年にはグリッチが22本塁打で本塁打王に輝いている(22本塁打でのタイトルは戦後では最少。他にも3人が22本塁打を記録した)。
2度の地区優勝(1982年、1986年)
1982年、ニューヨーク・ヤンキースからレジー・ジャクソンが移籍。前年は15本塁打と不調だったジャクソンだが、エンゼルスに移籍するや復活、39本塁打を放ち本塁打王に輝いた。また、チームもジャクソンの活躍もあり、93勝69敗で2度目の地区優勝を果たす。続くリーグチャンピオンシップシリーズではミルウォーキー・ブルワーズと対戦。第1戦、第2戦と勝利し、リーグ優勝に王手をかけたが、その後2連敗。迎えた最終戦では7回まで3対2とリードしていたものの、7回裏に逆転を許してしまい、結局3対4で敗れた。その後、1983年は5位、1984年と1985年は2年連続でカンザスシティ・ロイヤルズに次ぐ2位に終わった。1984年9月30日にマイク・ウィットがMLB史上11人目の完全試合を達成している。
1986年、ウォーリー・ジョイナーとチャック・フィンリーがメジャーデビュー。特にジョイナーは打率.290・22本塁打・100打点を記録し、新人王候補に名を連ねた(新人王は33本塁打・117打点を記録したホセ・カンセコ)。この年にはウィットを中心とした投手陣も抜群の安定感を誇り、92勝70敗で3度目の地区優勝に輝いた。リーグチャンピオンシップシリーズではボストン・レッドソックスと対戦。先に3勝をあげてリーグ優勝に王手をかけ、第5戦でもエンゼルスが8回まで5対2とリードし、優勝は目前と思われた。しかし9回表に、ここまでレッドソックス打線を抑えていた先発のウィットが、元エンゼルスのベイラーに2ランホームランを打たれ、5対4と追いすがられる。代わったゲーリー・ルーカスがリッチ・ゲドマンに死球を与えて出塁。ここでたまらず抑えのドニー・ムーアを登板させるが、デーブ・ヘンダーソンを2ストライクと追い込みながら、粘られた末に2ランホームランを打たれ、5対6と逆転された。結局、9回裏にエンゼルスが1点を返して延長戦に突入するも、11回表にヘンダーソンに決勝の犠牲フライを放たれ、まさかの逆転負けを喫してしまった。これによって流れが完全にレッドソックスに傾き、続く第6戦、第7戦と連敗、またしてもリーグ優勝を逃してしまった(なお、ナショナルリーグはニューヨーク・メッツが優勝したため、エンゼルスが勝っていれば史上初の「エクスパンションチーム同士によるワールドシリーズ」になるところだった)。ムーアは1988年にエンゼルスを解雇され、翌1989年に拳銃自殺するという悲劇も起こっている。
ワールドチャンピオン(2002年)
1992年、ティム・サーモンがメジャーデビュー。翌1993年に打率.283・31本塁打・95打点を記録し、新人王に輝いた。また1994年にはギャレット・アンダーソンがメジャーデビュー。翌1995年に打率.321、16本塁打、69打点で新人王投票で2位に入った。1990年代はフィンリー、サーモン、アンダーソンを投打の柱として、一定の成績は残すものの、なかなか優勝には縁がないシーズンが続いた。特に1995年は8月2日の時点で2位のシアトル・マリナーズに13ゲームもの大差をつけたが、その後失速して同率首位に並ばれ、ワンゲームプレーオフではマーク・ラングストンの乱調で1-9と大敗し地区優勝を逃した。その1995年にラムズがセントルイスへ移転したことで、1997年にはアナハイム・スタジアムが野球専用球場に再改修された。またこの年にはウォルト・ディズニー社も経営に参加(この頃ディズニー社はNHLのアナハイム・ダックスを創設するなど、プロスポーツチームの経営に注力していた)。球団名も地元アナハイムの地域密着型チームを目指すという理由から、ホームタウンの名前を冠して「アナハイム・エンゼルス」に変更した。
2000年からはマイク・ソーシアが監督に就任。同年にはトロイ・グラースが47本塁打を放って本塁打王に輝いている。グラースは翌2001年にも41本塁打を放ち、2年連続でシルバースラッガー賞を受賞するなど、チームの主砲として活躍した。
2002年には、地区2位だったものの、99勝63敗でワイルドカードを獲得。ディビジョンシリーズでヤンキースを3勝1敗で下し、リーグチャンピオンシップシリーズではツインズを4勝1敗で下して初のリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズではバリー・ボンズ擁するジャイアンツと対戦。ジャイアンツもワイルドカードから勝ちあがっており、史上初のワイルドカード獲得チーム同士の対戦となった。第1戦では敗れたものの、第2戦では弱冠20歳のフランシスコ・ロドリゲスが中継ぎとして登板し、3回を投げて初勝利をあげ、史上最年少のワールドシリーズ勝利投手として一躍注目を浴びた。続く第3戦は10対4で勝利。しかし、第4戦、第5戦と連敗し、ジャイアンツに王手をかけられてしまう。地元に戻った第6戦では、7回まで0対5とリードされていたが、7回と8回に3点ずつ取って、6対5で逆転勝利を収めた。第7戦では、先発のジョン・ラッキーが6回まで投げ、ジャイアンツを1点に抑え込むと、ドネリー、ロドリゲス、トロイ・パーシバルと繋ぎ、最終的に4対1で勝利。球団創設42年目にして初のワールドシリーズ制覇を成し遂げた。
黄金期到来(2003年-2009年)
2003年のシーズンオフにヒスパニックで実業家のアルトゥーロ・モレノが球団オーナーに就任。約1億4600万ドルを費やし、大規模な戦力増強を行った。ブラディミール・ゲレーロ(5年契約、計7000万ドル)、バートロ・コローン(4年契約、計5100万ドル)、ケルビム・エスコバー(3年契約、計1875万ドル)といった一流選手を次々と獲得。補強の効果もあってか、2004年以降は5度の地区優勝を果たすなど、安定した強さを誇っている。
2004年は、2位アスレチックスを1ゲーム差でかわし、4度目の地区優勝。しかし、続くディビジョンシリーズでは、この年86年ぶりのワールドシリーズ制覇を果たしたレッドソックスに3連敗を喫した。2005年には、球団名を「ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム」と改称。この年には、地区2連覇を果たし、ディビジョンシリーズでヤンキースを3勝2敗で下すが、リーグチャンピオンシップシリーズでは、88年ぶりのワールドシリーズ制覇を果たしたシカゴ・ホワイトソックスに破れ、リーグ優勝はならなかった。
2006年は2位に終わったが、2007年には、2位シアトル・マリナーズをシーズン終盤で突き放し、8度目の地区優勝を果たした。しかし、ディビジョンシリーズではレッドソックスと対戦し、またしても3連敗を喫してしまった。
2008年はエースのジョン・ラッキーやケルビム・エスコバーを開幕から欠き苦戦が予想されたが、前年不調だったアービン・サンタナと8勝を挙げたジョー・ソーンダースが開幕から最多勝争いに絡む大活躍。新加入のジョン・ガーランドや前年2桁勝利のジェレッド・ウィーバーも期待通りの活躍を見せ、5月には既に独走態勢に入っていた。ラッキーも復帰後は好投を見せ、結局ローテーション投手全員が10勝を成し遂げた。打線もFAで加入のトリー・ハンターや8月にトレードで加入したマーク・テシェイラがクリーンナップに座り、元来のスモールベースボールを軸とした安定した攻撃力を保った。チームは勢いそのままに9月上旬に早くも2年連続の地区優勝も打ち立てた。また、チームが圧倒的に勝ちを重ねる状況もあり、クローザーフランシスコ・ロドリゲスは開幕から驚異的なペースでセーブを稼ぎ、セーブのシーズン記録を更新した。しかし、ディビジョンシリーズではレッドソックス相手に1勝3敗とまたも苦杯、オフにはロドリゲスとテシェイラがFAで退団し、新たな戦いを強いられることになった。
2009年もラッキーやサンタナ、エスコバーをはじめとする先発投手陣に故障が相次ぎ困難なスタートとなった。将来有望な若手投手であるニック・エイデンハートに期待が集まったが、4月8日の登板後に交通事故で死去するという衝撃的な出来事が起きる。このニュースは全米でも大きく取り上げられ、翌日の試合は中止になった。その後、レイズのエースだったスコット・カズミアーをトレードで獲得することでローテーションを再建。主軸を担うようになったケンドリス・モラレスの活躍や復帰したサンタナの好投もあり3年連続の地区優勝を達成した。地区シリーズでは3年連続でレッドソックスとの対戦となったが、3連勝で2007年&2008年の雪辱を果たした。リーグチャンピオンシップはヤンキースと争ったが、2勝4敗で敗退しワールドシリーズ進出はならなかった。
2010年以降
2010年は、不可もない成績で開幕のスタートを切った。ところが5月29日のシアトル・マリナーズ戦で満塁サヨナラホームランを放った主砲のモラレスが喜びのあまりジャンプしてホームベースに着地した際、バランスを崩し転倒して左足下腿部を骨折した。結局、モラレスは残りのシーズンを棒に振ることになった。また、開幕当初は4番を務めた新戦力の松井秀喜も期待された成績を挙げられず、7月にダン・ヘイレンをトレードで獲得すると強力な投手陣の下で後半戦に追い上げを見せた。しかし得点力不足が響き、80勝82敗にとどまり地区3位でシーズンを終えた。
2011年は、地区2位ながらも優勝したレンジャーズから10ゲーム差も離された。実質1年目のマーク・トランボが29本塁打でブレイクした。オフにはセントルイス・カージナルスからアルバート・プホルスを10年2億5400万ドル、C.J.ウィルソンを5年7750万ドルで獲得した。
2012年は、ジェレッド・ウィーバーが自己最多の20勝で最多勝のタイトルを、史上初となる新人での30-30を達成したマイク・トラウトが新人王のタイトルを獲得するも、89勝73敗で地区3位に終わった。
2013年オフにはトラウトと2019年までの6年総額1億4450万ドルで契約を延長し、チームの中心に据えた。
2014年は、5年振りに地区優勝を決めた[2]。また、実質1年目のマット・シューメイカーが16勝で大ブレイクした。
2015年は、5月5日のマリナーズ戦でメキシコ民族衣装のソンブレロ帽子をかぶった人数でギネス世界記録を達成した[3]。オフには正遊撃手としてトレードでアンドレルトン・シモンズの獲得に成功する。
2016年オフには正捕手としてトレードでマーティン・マルドナードを獲得した。
2017年途中にトレードでジャスティン・アップトンを、オフにはポスティングシステムで日本ハムから大谷翔平を獲得した[4]。FAのザック・コザートを獲得し、三塁手にコンバートした。正二塁手としてトレードでイアン・キンズラーを獲得した。
2018年4月13日、開幕15試合で12勝3敗という好成績を挙げ、1979年以来39年ぶりの球団タイ記録となる好スタートを切った。開幕からの敵地9試合で8勝1敗は球団史上初で、敵地8連勝は2014年9月以来4年ぶりとなった[5]。4月14日にカンザスシティ・ロイヤルズに勝ち、開幕16試合での13勝3敗で球団新記録となった[6]。しかし、チームは故障者続出もあり地区4位に低迷、ポストシーズン進出を逃し、80勝82敗でシーズンを終了した。9月30日に2000年から指揮を執っていたマイク・ソーシア監督が今季限りでの退任を発表。同一球団を率いる期間は現役監督最長の19年目だった[7]。10月22日にブラッド・オースマスが監督に就任した[8]。
2019年、マイク・トラウトは2020年まで2年総額6650万ドルの契約を残していたが、3月20日に現在の契約に10年総額3億6000万ドルを上乗せする形で米スポーツ史上最高額となる12年総額4億2650万ドルで契約延長し、平均年俸3554万ドルはMLB史上最高額となった。契約には全球団へのトレード拒否権が含まれている一方でオプトアウトは含まれておらず、事実上の「生涯契約」となった[9]。7月1日にテキサス・レンジャーズ戦に向けた遠征の際に宿泊先のホテルでタイラー・スカッグスが意識不明の状態で発見され、その後死亡が確認された[10]。7月12日に本拠地エンゼル・スタジアムでのシアトル・マリナーズ戦でスカッグスの追悼試合が行われ、この試合でテイラー・コール(英語版)、フェリックス・ペーニャの2投手による継投でのノーヒット・ノーランを達成した。球団では史上11度目。また、オープナーでの初の達成となった[11]。だが、チームは右膝を痛めたジャスティン・アップトンや左膝の手術を受けた大谷に続いてトラウトも右足の手術で離脱と、今年もシーズン終盤に主力選手の故障者が続出。先発投手のチーム防御率が5.64とメジャー30球団中29位と大きく苦しんだ。それまでも絶望的だったポストシーズン進出が完全に消滅。72勝90敗と大きく負け越し、地区4位でシーズンを終えた[12]。9月30日に今季から就任していたブラッド・オースマス監督を解任したことを発表した。わずか1年での解任となり、2年の契約を残していたが、チームとして20年ぶりに90敗を喫するという屈辱となり、球団が解任を決断。なお、2000年から2018年まで指揮を執った前任のマイク・ソーシアは最大でも88敗(2016年)だった。そして10月19日、球団は22代目の監督として、過去にエンゼルスで代理監督を2回務めたジョー・マドンと3年契約を締結したと正式に発表した[13]。マドンは、エンゼルスで2回代理監督を務めた後、予算が少ないタンパベイ・レイズを率いてチームをプレーオフに導き、シカゴ・カブスでは「ヤギの呪い」を打ち破って、108年ぶりのワールドシリーズ優勝を成し遂げている。
移転計画
2019年2月25日、ロサンゼルスタイムズ電子版がエンゼルスの本拠地移転候補として、ロングビーチ市が名乗りを上げていると報じた。新球場建設を計画するロングビーチ市はエンゼルスを誘致したい考えで、市長が球団側に話を持ち掛けていることを明らかにした。一方で、2020年で現在の本拠地とのリース契約が終了した後も、アナハイムに残る選択肢も検討している[14]。
選手名鑑
現役選手・監督・コーチ
殿堂入り選手
- バート・ブライレブン (Bert Blyleven)
- ロッド・カルー(Rod Carew)
- ブラディミール・ゲレーロ(Vladimir Guerrero)
- レジー・ジャクソン(Reggie Jackson)
- フランク・ロビンソン(Frank Robinson)
- ノーラン・ライアン(Nolan Ryan)
- リー・スミス(Lee Smith)
- ドン・サットン(Don Sutton)
- ホイト・ウィルヘルム(Hoyt Wilhelm)
- デーブ・ウィンフィールド(Dave Winfield)
永久欠番
- 11 ジム・フレゴシ(Jim Fregosi) - 遊撃手、監督
- 26 ジーン・オートリー(Gene Autry) - 初代オーナー
- 29 ロッド・カルー(Rod Carew) - 一塁手、コーチ
- 30 ノーラン・ライアン(Nolan Ryan) - 投手
- 42 ジャッキー・ロビンソン(Jackie Robinson) - 全球団共通の永久欠番
- 50 ジミー・リース(Jimmie Reese) - コーチ
エンゼルス野球殿堂
1988年に設立され、14人が殿堂入りを果たしている。
殿堂入り表彰者
- チャック・フィンリー(2009年)
- ジーン・オートリー(2011年)
- ボビー・ヌープ(2013年)
- ディーン・チャンス(2015年)
- ティム・サーモン(2015年)
- マイク・ウィット(2015年)
- ギャレット・アンダーソン(2016年)
- ブラディミール・ゲレーロ(2017年)[15]
傘下マイナーチーム
脚注
- ^ “Mike Scioscia hurting Angels with his sacrifice bunt-happy ways” (英語). Larry Brown Sports (2013年4月4日). 2017年12月11日閲覧。
- ^ Angels' playoff picture has yet to be painted
- ^ 【米国はこう見ている】またも“珍記録”に挑んだエンゼルスがマリナーズ戦でギネス記録樹立 Full-Count (2015年5月6日) 2015年6月21日閲覧
- ^ “エンゼルス入り決断の大谷、日本時間10日にも入団会見へ”. livedoor NEWS. (2017年12月9日) 2017年12月9日閲覧。
- ^ “エンゼルス39年ぶり開幕12勝3敗の快進撃 「大谷翔平」効果? - ライブドアニュース” (日本語). ライブドアニュース 2018年4月15日閲覧。
- ^ “エンゼルス、開幕13勝3敗は球団新記録 開幕3連勝を目指す大谷翔平へ弾み” (日本語). スポーツ報知. (2018年4月15日) 2018年4月15日閲覧。
- ^ 株式会社スポーツニッポン新聞社マルチメディア事業本部「ソーシア監督、涙の退任発表 大谷は感謝「楽しく野球できたのは監督のおかげ」 - スポニチ Sponichi Annex 野球」『スポニチ Sponichi Annex』。2018年10月18日閲覧。
- ^ “大谷翔平のエンゼルスにブラッド・オースマス新監督就任 新監督はデータ主義|ニフティニュース” (日本語). ニフティニュース 2018年10月23日閲覧。
- ^ “エンゼルス、トラウトとの“生涯契約”を発表 12年472億円「ずっとここにいたい」”. Full-count | フルカウント ―野球・MLBの総合コラムサイト―. 2019年9月17日閲覧。
- ^ “大谷の同僚、エンゼルスの左腕スカッグスが27歳で急死 2日の試合は中止”. Full-count | フルカウント ―野球・MLBの総合コラムサイト―. 2019年7月13日閲覧。
- ^ ““スキャッグスを背に”エンゼルスが本拠地で継投ノーヒッター 大谷翔平は猛攻に繋がる左前打で8戦連続H”. ベースボールチャンネル(BaseBall Channel). 2019年7月13日閲覧。
- ^ “エンジェルスの店じまい。大谷翔平に続き、トラウトも手術を受けてシーズン終了(宇根夏樹) - Yahoo!ニュース”. Yahoo!ニュース 個人. 2019年9月17日閲覧。
- ^ “Joe Maddon agrees to be new manager of Los Angeles Angels(ESPN News Services) - ESPN” (英語). ESPN MLB. 2019年10月17日閲覧。
- ^ “大谷所属のエンゼルス、ロングビーチ市に本拠移転か”. 日刊スポーツ (2019年2月26日). 2019年2月26日閲覧。
- ^ Angels induct Guerrero into Hall of Fame MLB.com (2017年8月26日) 2017年8月28日閲覧
関連項目
外部リンク
- 公式ウェブサイト
- チームの通算成績と情報 MLB, or ESPN, or Baseball-Reference , or The Baseball Cube
- Los Angeles Angels of Anaheim (Angels) - Facebook
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