ノーラン・ライアン
ヒューストン・アストロズ エグゼクティブ・アドバイザー | |
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テキサス・レンジャーズでの現役時代(1990年) | |
基本情報 | |
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | テキサス州レフュージオ |
生年月日 | 1947年1月31日(77歳) |
身長 体重 |
6' 2" =約188 cm 195 lb =約88.5 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1965年 MLBドラフト12巡目(全体295位) |
初出場 | 1966年9月11日 |
最終出場 | 1993年9月22日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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選出年 | 1999年 |
得票率 | 98.2% |
選出方法 | BBWAA選出 |
この表について
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リン・ノーラン・ライアン・ジュニア(Lynn Nolan Ryan Jr., 1947年1月31日 - )は、アメリカ合衆国テキサス州レフュージオ出身の元プロ野球選手(投手)。ニックネームは「Ryan Express」。右投右打。シーズン最多奪三振記録・通算最多奪三振記録保持者。現在はヒューストン・アストロズのエグゼクティブ・アドバイザーを務めている。
経歴
[編集]プロ入り前
[編集]テキサス州レフュージオでリン・ノーラン・ライアン・シニアとマーサ・リー・ハンコックの間に6人兄弟の末っ子として生まれた[1]。その当時ライアン一家は、レフュリオ郡ウッズボロの近くに住んでいた。生後6週間でヒューストン郊外のアルヴィンに引っ越す。家庭は貧しく、父は早朝の新聞配達と石油会社勤務を兼業していた。このような家庭環境からかライアンは早熟で、12歳の頃には自ら貯めた金で子牛を買って育ててそれを売り、その金で新しい子牛を買いまた育てて売る、を繰り返して牛を増やし、高校入学時には自分の牧場を借りるまでになっていた。また中学1年にして自分の車も所有していた[2]。高校時代に7回19奪三振を記録するなど速球派投手として有名だった。
プロ入りとメッツ時代
[編集]1965年のMLBドラフトでニューヨーク・メッツから12巡目に指名を受け入団。
1966年はA級で17勝2敗、防御率2.51、272奪三振、127四球を記録。奪三振・四球・勝利数は当時のリーグ新記録となった[3]。最優秀投手に選出され、AAA級ウィリアムスポートに昇格。ポータケット戦で9.1イニングで21奪三振を記録した。活躍が評価されてメジャーに昇格し、9月11日のアトランタ・ブレーブス戦でメジャーデビュー。9月18日のヒューストン・アストロズ戦で初先発するが1回4失点で降板し敗戦投手となるなど1敗・防御率15.00に終わった。
1967年は前半陸軍予備兵として過ごし後半に復帰したが、右肘の腱を断裂し、リハビリのためメジャーでの出場はなかった。
1968年は開幕から先発ローテーションに入り、5月14日のシンシナティ・レッズ戦で球団記録(当時)の14奪三振。後半は故障で離脱するが6勝9敗、防御率3.09、134イニングで133奪三振を記録した。
1969年4月9日の開幕第2戦でモントリオール・エクスポズ戦で、同年から公式記録となったセーブを球団史上初めて記録した。主にリリーフとして登板し6勝3敗、防御率3.53の成績で、チームの地区優勝に貢献。ブレーブスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦で3回途中から登板し、そのまま最後まで投げ切って勝利投手となり、球団創設以来初のリーグ優勝を果たす。ボルチモア・オリオールズとのワールドシリーズでは第3戦で7回途中からリリーフし、2.1イニングを無失点に抑えてセーブを記録。チームは下馬評を覆し、4勝1敗でワールドチャンピオンに輝いた。これは、自身のキャリアを通じて最初で最後のワールドシリーズ出場となった。
1970年4月18日のフィラデルフィア・フィリーズ戦では初回先頭打者に安打を打たれるが、その後無安打に抑えて15奪三振でメジャー初完封。終盤はリリーフに回ることが多くなり、7勝11敗、防御率3.42ながら131.2イニングで97四球。
1971年は前半戦で8勝6敗、防御率2.24を記録するが、後半戦で2勝8敗、防御率7.74と大きく失速。10勝14敗、防御率3.97、152イニングで116四球と制球に苦しんだ。
エンゼルス時代
[編集]1971年12月10日にジム・フレゴシとの交換トレードでリロイ・スタントン、他2選手と共にカリフォルニア・エンゼルスに移籍。
1972年はスプリングトレーニングで捕手のジェフ・トーボーグと共にフォーム改造に取り組む。トーボーグは「モーションを急ぐために足の踏み出しに腕の振りが追い付いていない。だからボールが左右ではなく高く逸れる」とフォームを分析し、欠点を指摘した。その後選手会は年金問題を掲げて史上初のストライキに入る。後年彼は当時を振り返り「あの状況が後1週間でも続いたら、私はアルヴィンに戻り、二度と戻るつもりなどなかった。労働者としての職を得て、それで過ごしていくつもりだった」と語っている[4]。ストライキ収拾後はデル・ライス監督やトム・モーガン投手コーチも一致協力し、時間をかけて改造を行う。ライアンは後年「機械的でうんざりすることもあったが、結局はこの作業が私のピッチングを変えることになった」と振り返っている[2]。同年は前半戦で11勝を記録し、自身初のオールスターゲームに選出される。後半戦は防御率1.41と安定感が増し、19勝16敗、防御率2.28、いずれもリーグ最多の329奪三振、9完封、157四球、18暴投を記録し、最多奪三振のタイトルを獲得した。この年の9イニングあたり被安打数5.26は1968年のルイス・ティアントを下回る当時のMLB記録で、60試合制の2020年にトレバー・バウアーとディネルソン・ラメットに抜かれるまでMLB記録だった(現在もア・リーグ記録)[5]。
1973年5月15日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でノーヒットノーランを達成。7月15日のデトロイト・タイガース戦では17奪三振で1938年のジョニー・ヴァンダーミーア以来史上2人目の年間2度目のノーヒットノーラン。最後の打者ノーム・キャッシュはクラブハウスにあったテーブルの脚を持って打席に立った。球審ロン・ルチアーノに制止され渋々バットに持ち替えたが、その際「バットじゃ奴の球は打てない。これを使わせてくれ」と言ったという。シーズン最終登板を前に367奪三振で、サンディー・コーファックスが1965年に記録したMLB記録382の更新は難しいと思われたが、9月27日のミネソタ・ツインズ戦で延長11回を完投して16三振を奪い新記録を達成[3]。終盤に7連勝を記録するなど21勝16敗、防御率2.87、383奪三振、MLB記録の2桁奪三振23試合、リーグ最多の162四球を記録したが、サイ・ヤング賞の投票ではジム・パーマーに次ぐ2位で終わった。
1974年8月12日のボストン・レッドソックス戦でMLBタイ記録(当時)の19奪三振を記録。8月20日のタイガース戦で、球団の企画で赤外線レーダーによる球速の測定が行われ、そこで記録されたのが100.9mph(162.4㎞/h)で、ギネス世界記録に認定された[6]。しかし全ての球を計測したわけではなく、その1球は9回に記録された。本人も「あれ以上に速いと思ったボールもあった」と語っている。9月28日のツインズ戦では15奪三振で3度目のノーヒットノーランを達成。キャリアハイの22勝(16敗)、防御率2.89、いずれもリーグ最多の367奪三振、332.2イニング、202四球を記録。200四球は1938年のボブ・フェラー以来36年ぶりだった。
1975年6月1日のオリオールズ戦で3年連続4度目のノーヒットノーランを達成し、コーファックスに並ぶ。6月6日までに10勝を記録するが、その後8連敗。8月に故障で戦線離脱し、14勝に留まった。
1976年は8月28日まで10勝17敗だったがその後7勝1敗と巻き返し、いずれもリーグ最多の18敗(17勝)、327奪三振、7完封、183四球を記録した。
1977年5月19日から6月16日にかけて7試合連続2桁奪三振を記録。19勝16敗、防御率2.77、いずれもリーグ最多の341奪三振、22完投、204四球、21暴投の成績だった。
1979年はシーズン初登板で打ち込まれたがその後復調。終盤失速したが16勝14敗、防御率3.60、共にリーグ最多の223奪三振、5完封を記録し、チーム創設以来初の地区優勝に貢献。オリオールズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦に先発したが7回3失点(自責点1)で勝敗付かず、チームは1勝3敗で敗退した。オフにGMのバジー・バベシに「勝率5割の投手」と見切りをつけられて[7]フリーエージェントとなった。
アストロズ時代
[編集]1979年11月19日にアストロズと4年総額450万ドルで契約し、史上初の100万ドルプレーヤーとなった[8]。
1980年は11勝10敗に留まるが、チームは創設以来初の地区優勝を果たす。フィリーズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第2戦に先発し、7回途中2失点も勝敗付かず。最終第5戦では7回を終わって5-2とリードしていたが、8回に捕まり降板。延長の末チームは敗れ、リーグ優勝はならなかった。
1981年は9月26日のロサンゼルス・ドジャース戦で史上最多5度目のノーヒットノーランを達成した。11勝5敗、防御率1.69の成績で自身初の最優秀防御率を記録、タイトル獲得となった。しかし、この年は50日間に及ぶストライキを実施した影響でレギュラーシーズン公式戦が一時中断された。この結果、シーズンの短縮が決定したのだが、試合数が減少する対応策としてシーズンを前期と後期に分けるスプリットシーズン制を採用した。レギュラーシーズン終了後のプレーオフでは先ず、東地区と西地区の中で前期と後期の最高勝率チームによるディビジョンシリーズ(地区優勝決定戦)を行った。このディビジョンシリーズを制した2チームがセカンドステージであるリーグチャンピオンシップシリーズ(リーグ優勝決定戦)へと進出した。ディビジョンシリーズへ進出したチームは東地区がフィラデルフィア・フィリーズとモントリオール・エクスポズ、西地区はロサンゼルス・ドジャースとヒューストン・アストロズだった。当時、アストロズはナショナルリーグ西地区所属であり、後期優勝のチームだった。ドジャース対アストロズのディビジョンシリーズでは第1戦に先発してフェルナンド・バレンズエラと投手戦を演じ、2安打1失点完投勝利した。しかし、ディビジョンシリーズ2度目の先発となる第5戦では6回自責点2の好投も敗戦投手となった。結局は、ドジャースがアストロズを破った。アストロズはディビジョンシリーズ敗退(対戦成績2勝3敗)で終わった。
1982年は開幕から4連敗を喫するなど前半戦は不調だったが、後半戦で防御率2.11を記録するなど復調し、16勝12敗、防御率3.16、245奪三振の成績で終了。
1983年5月2日の古巣メッツ戦で通算3510個目の三振を奪い、ウォルター・ジョンソンが持つ通算奪三振のメジャー記録を更新[9]。その後故障で1ヶ月離脱するものの、前半戦で防御率1.94を記録。後半戦でやや数字を落としたが、14勝9敗、防御率2.98を記録した。
1985年は途中8連敗を喫するなど10勝12敗に終わる。
1986年は後半戦で防御率2.27を記録し、チームは6年ぶりの地区優勝を果たす。古巣メッツとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第2戦に先発するが5回5失点で敗戦投手。第5戦ではドワイト・グッデンと投手戦を演じ、9回を2安打、12奪三振、1失点と好投するが延長の末に敗戦投手となり、チームも2勝4敗で敗退した。
1987年は好投しながら打線の援護に恵まれず、途中8連敗を喫するなど8勝16敗と大きく負け越して連続2桁勝利が16年で途切れたが、共にリーグトップの防御率2.76、270奪三振を記録し、移籍後初の最多奪三振を獲得。サイ・ヤング賞の投票では5位に入った。最優秀防御率と最多奪三振を獲得しながら受賞を逃したのは史上3人目、4度目[注釈 1]。
1988年は12勝11敗、228奪三振で2年連続の最多奪三振を獲得。オフにフリーエージェントとなった。
レンジャーズ時代
[編集]1988年12月7日にテキサス・レンジャーズと契約。この時ライアンは日本球界入りに前向きであり、オリックスと契約寸前に漕ぎ着けていた[10]。
1989年は前半戦で10勝を記録。8月22日のオークランド・アスレチックス戦で5回にリッキー・ヘンダーソンから三振を奪い、空前絶後の通算5000奪三振を達成。16勝10敗、防御率3.20、12年ぶりの300奪三振となる301奪三振で3年連続の最多奪三振を獲得し、サイ・ヤング賞の投票で5位に入った。
1990年は43歳にして開幕投手を務め、5回を無安打に抑える。4月26日のシカゴ・ホワイトソックス戦で球団記録の16奪三振で1安打完封勝利を挙げ、6月11日のアスレチックス戦で自身6度目のノーヒットノーランを達成。3球団での達成は史上初だった。7月31日のミルウォーキー・ブルワーズ戦で史上20人目の通算300勝を達成。13勝9敗、232奪三振で4年連続の最多奪三振を獲得した。
1991年5月1日のトロント・ブルージェイズ戦は体調が悪く、「5回まで持たないかもしれないから、代わりの投手を用意しておいてくれ」と言い残しての登板だったが[8]、16奪三振で7度目のノーヒットノーランを達成。44歳3ヶ月での達成は現在でも史上最年長記録である。12勝6敗、防御率2.91、203奪三振、リーグトップのWHIP1.01を記録した。
1992年は故障もあって6月まで1勝に留まるが、7月4日のニューヨーク・ヤンキース戦で13奪三振完投勝利を挙げるなど7月に4勝・防御率1.96を記録。しかしその後は援護に恵まれず6連敗を喫し、5勝9敗に終わる。同年エンゼルス在籍時の背番号『30』が永久欠番に指定された。
1993年9月22日のシアトル・マリナーズ戦で一死も取れずに2安打、4四球、5失点で降板。降板後に右肘に痛みが走り、残りのシーズンの登板を回避したことにより、これが現役最後の登板となった。46歳にして速球は98mph(約157.7km/h)を記録した[7]。
引退後
[編集]1996年にアストロズとレンジャーズでの背番号『34』が、それぞれ永久欠番に指定され、特にレンジャーズでの永久欠番は球団初だった。3球団での永久欠番は史上初[注釈 2]だった。ただし、メッツの『34』は1年しかつけていないため、永久欠番にするには相応しくないとして指定されなかった。
1999年に資格取得1年目で野球殿堂入りを果たす。殿堂入りは記者投票で決まるが、ライアンの得票数491票は歴代1位(当時)、得票率98.79%はかつてメッツのチームメイトだったトム・シーバーに次ぐ歴代2位だった。「レンジャーズに在籍した時、私のキャリアと試合における存在感は一段上のレベルになった。あの何年かは、私にとって特別なものだ」と[7]殿堂プレートのライアンはレンジャーズの帽子を被っており、レンジャーズの選手として初の殿堂入りとなった。また同年MLBオールセンチュリー・チームの右投手部門で1位に選ばれている。
2006年にはアストロズで特別アドバイザーを務め、後進の指導を行った。アストロズ在籍時のロジャー・クレメンスと撮影したツーショット写真もある[8]。
レンジャーズ時代の監督でNPB千葉ロッテマリーンズでも監督を務めたボビー・バレンタインとは旧知の間柄であり、その縁もあって2007年7月18日に千葉マリンスタジアムで行われたオリックス・バファローズ戦で始球式を行った。
2008年2月6日にレンジャーズの球団社長に就任。1925年以来初めての、殿堂入り選手によるメジャーリーグ球団社長就任となった[11]。
2013年10月17日にレンジャーズのCEOを10月31日限りで辞任することを発表した[13]。
2014年2月11日に古巣・アストロズのエグゼクティブ・アドバイザーに就任した[14]。
選手としての特徴
[編集]この選手の特徴に関する文献や情報源が必要です。 (2009年1月) |
スリークォーターから最速100.9mph(約162.4km/h)のフォーシームに、縦に大きく割れる一級品のカーブ、サークルチェンジを持ち球に、数多の強打者たちから三振の山を築いていった。ただし全盛期の制球力は良くなく、与四球2795と暴投277はMLB歴代一位である。
通算投球回数2000回以上の投手が対象である、投球回数9回に対する通算の奪三振率が9.0以上の投手7人のうちの1人であり、投球回数9回に対する通算の奪三振率9.55は、マックス・シャーザー、ランディ・ジョンソン、ペドロ・マルティネス、クレイトン・カーショウに次いでMLB史上5位である[15]。3000投球回以上ではジョンソンに次ぐ歴代2位で、歴代5位の5386回を投げながら高い奪三振率を維持できた身体の頑丈さもMLB史上屈指と言える。
当時、異端児と言われた投手コーチのトム・ハウスと二人三脚で編み出した独特のトレーニング法・調整法は後年の投手に多大な影響を与えた。その徹底された健康管理とトレーニング方法は著書「ピッチャーズ・バイブル」に詳細に書かれている。また、投手には一般的でないどころか、害になるとさえ言われていたウエイトトレーニングを取り入れ、肩周辺のローテーターカフ(いわゆるインナーマッスル。当時はこれらの言葉も一般的ではなかった)もアウターマッスル同様に鍛えるエクササイズを取り入れていたことは、驚くべきことである。「投手は若い内はより多くのイニングを投げて肩を作るべきだ」という独自の理論を持っており、現在のMLBでスタンダードとなっている「先発投手は1試合100球・1シーズン200イニング」という考え方に疑問を持っているとのコメントが「ピッチャーズ・バイブル」の中において、ある研究者へ寄せられている。
ノーヒットノーランを7回達成している[16]。また8回まで無安打だったのに9回で安打を許してしまったことが5試合あったとのこと[17]。通算被安打率(9回ごとの被安打数)6.56は1000投球回以上での歴代1位[18]、1972年のシーズン被安打率5.26は規定投球回以上での歴代3位[5]。
投手としての球種はカーブ、サークルチェンジ(1986年頃から)『米書 guide to pitchers』より
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1966 | NYM | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 17 | 3.0 | 5 | 1 | 3 | 1 | 0 | 6 | 1 | 0 | 5 | 5 | 15.00 | 2.67 |
1968 | 21 | 18 | 3 | 0 | 0 | 6 | 9 | 0 | -- | .400 | 559 | 134.0 | 93 | 12 | 75 | 4 | 4 | 133 | 7 | 0 | 50 | 46 | 3.09 | 1.25 | |
1969 | 25 | 10 | 2 | 0 | 0 | 6 | 3 | 1 | -- | .667 | 375 | 89.1 | 60 | 3 | 53 | 3 | 1 | 92 | 1 | 3 | 38 | 35 | 3.53 | 1.26 | |
1970 | 27 | 19 | 5 | 2 | 0 | 7 | 11 | 1 | -- | .389 | 570 | 131.2 | 86 | 10 | 97 | 2 | 4 | 125 | 8 | 0 | 59 | 50 | 3.42 | 1.39 | |
1971 | 30 | 26 | 3 | 0 | 0 | 10 | 14 | 0 | -- | .417 | 705 | 152.0 | 125 | 8 | 116 | 4 | 15 | 137 | 6 | 1 | 78 | 67 | 3.97 | 1.59 | |
1972 | CAL | 39 | 39 | 20 | 9 | 0 | 19 | 16 | 0 | -- | .543 | 1154 | 284.0 | 166 | 14 | 157 | 4 | 10 | 329 | 18 | 0 | 80 | 72 | 2.28 | 1.14 |
1973 | 41 | 39 | 26 | 4 | 0 | 21 | 16 | 1 | -- | .568 | 1355 | 326.0 | 238 | 18 | 162 | 2 | 7 | 383 | 15 | 0 | 113 | 104 | 2.87 | 1.23 | |
1974 | 42 | 41 | 26 | 3 | 0 | 22 | 16 | 0 | -- | .579 | 1392 | 332.2 | 221 | 18 | 202 | 3 | 9 | 367 | 9 | 0 | 127 | 107 | 2.89 | 1.27 | |
1975 | 28 | 28 | 10 | 5 | 0 | 14 | 12 | 0 | -- | .538 | 864 | 198.0 | 152 | 13 | 132 | 0 | 7 | 186 | 12 | 0 | 90 | 76 | 3.45 | 1.43 | |
1976 | 39 | 39 | 21 | 7 | 0 | 17 | 18 | 0 | -- | .486 | 1196 | 284.1 | 193 | 13 | 183 | 2 | 5 | 327 | 5 | 2 | 117 | 106 | 3.36 | 1.32 | |
1977 | 37 | 37 | 22 | 4 | 0 | 19 | 16 | 0 | -- | .543 | 1272 | 299.0 | 198 | 12 | 204 | 7 | 9 | 341 | 21 | 3 | 110 | 92 | 2.77 | 1.34 | |
1978 | 31 | 31 | 14 | 3 | 0 | 10 | 13 | 0 | -- | .435 | 1008 | 234.2 | 183 | 12 | 148 | 7 | 3 | 260 | 13 | 2 | 106 | 97 | 3.72 | 1.41 | |
1979 | 34 | 34 | 17 | 5 | 0 | 16 | 14 | 0 | -- | .533 | 937 | 222.2 | 169 | 15 | 114 | 3 | 6 | 223 | 9 | 0 | 104 | 89 | 3.60 | 1.27 | |
1980 | HOU | 35 | 35 | 4 | 2 | 0 | 11 | 10 | 0 | -- | .524 | 982 | 233.2 | 205 | 10 | 98 | 1 | 3 | 200 | 10 | 1 | 100 | 87 | 3.35 | 1.30 |
1981 | 21 | 21 | 5 | 3 | 0 | 11 | 5 | 0 | -- | .688 | 605 | 149.0 | 99 | 2 | 68 | 1 | 1 | 140 | 16 | 2 | 34 | 28 | 1.69 | 1.12 | |
1982 | 35 | 35 | 10 | 3 | 0 | 16 | 12 | 0 | -- | .571 | 1050 | 250.1 | 196 | 20 | 109 | 3 | 8 | 245 | 18 | 2 | 100 | 88 | 3.16 | 1.22 | |
1983 | 29 | 29 | 5 | 2 | 1 | 14 | 9 | 0 | -- | .609 | 804 | 196.1 | 134 | 9 | 101 | 3 | 4 | 183 | 5 | 1 | 74 | 65 | 2.98 | 1.20 | |
1984 | 30 | 30 | 5 | 2 | 0 | 12 | 11 | 0 | -- | .522 | 760 | 183.2 | 143 | 12 | 69 | 2 | 4 | 197 | 6 | 3 | 78 | 62 | 3.04 | 1.15 | |
1985 | 35 | 35 | 4 | 0 | 0 | 10 | 12 | 0 | -- | .455 | 983 | 232.0 | 205 | 12 | 95 | 8 | 9 | 209 | 14 | 2 | 108 | 98 | 3.80 | 1.29 | |
1986 | 30 | 30 | 1 | 0 | 0 | 12 | 8 | 0 | -- | .600 | 729 | 178.0 | 119 | 14 | 82 | 5 | 4 | 194 | 15 | 0 | 72 | 66 | 3.34 | 1.13 | |
1987 | 34 | 34 | 0 | 0 | 0 | 8 | 16 | 0 | -- | .333 | 873 | 211.2 | 154 | 14 | 87 | 2 | 4 | 270 | 10 | 2 | 75 | 65 | 2.76 | 1.14 | |
1988 | 33 | 33 | 4 | 1 | 2 | 12 | 11 | 0 | -- | .522 | 930 | 220.0 | 186 | 18 | 87 | 6 | 7 | 228 | 10 | 7 | 98 | 86 | 3.52 | 1.24 | |
1989 | TEX | 32 | 32 | 6 | 2 | 1 | 16 | 10 | 0 | -- | .615 | 988 | 239.1 | 162 | 17 | 98 | 3 | 9 | 301 | 19 | 1 | 96 | 85 | 3.20 | 1.09 |
1990 | 30 | 30 | 5 | 2 | 0 | 13 | 9 | 0 | -- | .591 | 818 | 204.0 | 137 | 18 | 74 | 2 | 7 | 232 | 9 | 1 | 86 | 78 | 3.44 | 1.03 | |
1991 | 27 | 27 | 2 | 2 | 0 | 12 | 6 | 0 | -- | .667 | 683 | 173.0 | 102 | 12 | 72 | 0 | 5 | 203 | 8 | 0 | 58 | 56 | 2.91 | 1.01 | |
1992 | 27 | 27 | 2 | 0 | 0 | 5 | 9 | 0 | -- | .357 | 675 | 157.1 | 138 | 9 | 69 | 0 | 12 | 157 | 9 | 0 | 75 | 65 | 3.72 | 1.32 | |
1993 | 13 | 13 | 0 | 0 | 0 | 5 | 5 | 0 | -- | .500 | 291 | 66.1 | 54 | 5 | 40 | 0 | 1 | 46 | 3 | 0 | 47 | 36 | 4.88 | 1.42 | |
MLB:27年 | 807 | 773 | 222 | 61 | 4 | 324 | 292 | 3 | -- | .526 | 22575 | 5386.0 | 3923 | 321 | 2795 | 78 | 158 | 5714 | 277 | 33 | 2178 | 1911 | 3.19 | 1.25 |
- 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はMLB最高
年度別守備成績
[編集]年 度 |
球 団 |
投手(P) | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 | ||
1966 | NYM | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 |
1968 | 21 | 5 | 11 | 4 | 0 | .800 | |
1969 | 25 | 0 | 4 | 1 | 0 | .800 | |
1970 | 27 | 11 | 10 | 4 | 2 | .840 | |
1971 | 30 | 5 | 15 | 3 | 2 | .870 | |
1972 | CAL | 39 | 7 | 28 | 6 | 2 | .854 |
1973 | 41 | 11 | 28 | 2 | 1 | .951 | |
1974 | 42 | 12 | 48 | 6 | 1 | .909 | |
1975 | 28 | 12 | 18 | 7 | 3 | .811 | |
1976 | 39 | 14 | 34 | 7 | 1 | .873 | |
1977 | 37 | 20 | 35 | 8 | 1 | .873 | |
1978 | 31 | 13 | 33 | 8 | 3 | .852 | |
1979 | 34 | 8 | 29 | 4 | 1 | .902 | |
1980 | HOU | 35 | 13 | 27 | 5 | 0 | .889 |
1981 | 21 | 5 | 16 | 1 | 3 | .955 | |
1982 | 35 | 9 | 33 | 2 | 1 | .955 | |
1983 | 29 | 4 | 28 | 2 | 0 | .941 | |
1984 | 30 | 7 | 11 | 2 | 0 | .900 | |
1985 | 35 | 6 | 20 | 2 | 0 | .929 | |
1986 | 30 | 10 | 17 | 2 | 2 | .931 | |
1987 | 34 | 11 | 18 | 1 | 1 | .967 | |
1988 | 33 | 8 | 18 | 4 | 0 | .867 | |
1989 | TEX | 32 | 11 | 19 | 3 | 0 | .909 |
1990 | 30 | 7 | 13 | 0 | 1 | 1.000 | |
1991 | 27 | 7 | 14 | 0 | 1 | 1.000 | |
1992 | 27 | 2 | 16 | 3 | 1 | .857 | |
1993 | 13 | 1 | 4 | 3 | 0 | .625 | |
MLB | 807 | 220 | 547 | 90 | 27 | .895 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
[編集]- 最優秀防御率:2回(1981年、1987年)
- 最多奪三振:11回(1972年 - 1974年、1976年 - 1979年、1987年 - 1990年)※歴代2位、ウォルター・ジョンソンの12回に次ぐ
表彰
[編集]- アメリカ野球殿堂(1999年)
- メジャーリーグベースボール・オールセンチュリー・チーム(1999年)※投手として最多得票
- DHLホームタウン・ヒーローズ選出(2006年)※アストロズ、レンジャーズの2球団で選出
- フランチャイズ・フォー(2015年)※アストロズ、レンジャーズ、エンゼルスの3球団で選出
記録
[編集]- ワールドシリーズ優勝:1回(1969年)
- ノーヒットノーラン:7回(歴代最多、2位はサンディー・コーファックスの4回)
- 1973年5月15日、対カンザスシティ・ロイヤルズ戦
- 1973年7月15日、対デトロイト・タイガース戦
- 1974年9月28日、対ミネソタ・ツインズ戦
- 1975年6月1日、対ボルチモア・オリオールズ戦
- 1981年9月26日、対ロサンゼルス・ドジャース戦
- 1990年6月11日、対オークランド・アスレチックス戦
- 1991年5月1日、対トロント・ブルージェイズ戦
- MLBオールスターゲーム選出:8回(1972年、1973年、1975年、1977年、1979年、1981年、1985年、1989年)
- 通算奪三振:5714(歴代1位)※2位はランディ・ジョンソンの4875
- 3000奪三振:1980年7月4日(33歳) ※歴代最年少
- 通算与四球:2795(歴代1位)※スティーブ・カールトンの1833を更新
- 通算暴投数:277(歴代1位)※19世紀の最多はトニー・マレーンの343
- 通算投球回:5386(歴代5位)[19]
- 通算完封:61回(歴代7位タイ)[20]
- 通算奪三振率:9.55(歴代16位)※2021年現在、1000投球回以上での記録。2000投球回以上では歴代5位[15]
- 通算被安打率:6.56(歴代1位)※2021年現在、1000投球回以上での記録[18]
- 実働年数:27年(歴代1位)※19世紀のキャップ・アンソンに並び、20世紀以降ではトミー・ジョンの26年を更新[21]
- 開幕投手:9回
- シーズン奪三振:383(歴代8位)※20世紀以降ではサンディ・コーファックスの382を更新
- シーズン200四球:1974年(202)、1977年(204)※20世紀以降ではボブ・フェラー(208)に次ぐ2人のみ
- 1試合奪三振:19(1974年6月14日、1974年8月12日、1974年8月20日、1977年6月8日)
- イマキュレートイニング:2回(1968年4月19日、1972年7月9日)
- 年俸100万ドル:1980年(史上初)
背番号
[編集]- 34(1966年、1980年 - 1993年)※ヒューストン・アストロズ、テキサス・レンジャーズの永久欠番
- 30(1968年 - 1979年)※ロサンゼルス・エンゼルスの永久欠番
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 他に1970,1971年のトム・シーバー、1979年のJ.R.リチャード、2002年のペドロ・マルティネス、2019年のゲリット・コール
- ^ 2017年にフランク・ロビンソンが3球団目であるクリーブランド・インディアンスで永久欠番に指定されたことにより、ライアンに次いで二人目の3球団欠番選手となった。
出典
[編集]- ^ Ryan, Nolan; Frommer, Harvey (1988). Throwing Heat: The Autobiography of Nolan Ryan. New York: Doubleday. ISBN 0-385-24438-X
- ^ a b 武田薫 「ノーラン・ライアン 「永遠の奪三振王」──その揺るぎなき本質」 『スポーツ・スピリット21 No.20 メジャーリーグ 栄光の「大記録」』、ベースボール・マガジン社、2004年、ISBN 4-583-61303-2、32-35頁。
- ^ a b “The Ballplayers - Nolan Ryan” (英語). BaseballLibrary.com. 2009年1月3日閲覧。
- ^ "That was the year of the first [players']strike and if it had gone on another week I would have quit and gone back to Alvin. And once I would have done that, I wouldn't have come back. I would have gotten a job as a laborer, and that would have been it," Baseball the Biographical encyclopedia, ISBN 0-681-20016-2
- ^ a b https://www.baseball-reference.com/leaders/hits_per_nine_season.shtml
- ^ “Fastest baseball pitch (male)” (英語). Guinness World Records. 2014年3月6日閲覧。
- ^ a b c 「1999 HALL OF FAMERS 伝説となったヒーローたち ノーラン・ライアン&ジョージ・ブレット&ロビン・ヨーント」『月刊メジャー・リーグ』1999年3月号、ベースボールマガジン社、1999年、雑誌 08625-3、6-8頁。
- ^ a b c 出野哲也「歴史が動いた日第15回1991年5月1日 44歳のノーラン・ライアンが7度目のノーヒッターを達成」『スラッガー』2006年9月号、日本スポーツ企画出版社、2006年、雑誌15509-8、88-90頁
- ^ “Nolan Ryan from the Chronology” (英語). BaseballLibrary.com. 2009年1月3日閲覧。
- ^ あのライアンが!オリックス入団寸前だった
- ^ http://texas.rangers.mlb.com/news/press_releases/press_release.jsp?ymd=20080206&content_id=2366206&vkey=pr_tex&fext=.jsp&c_id=tex
- ^ “CEO Chuck Greenberg to leave Texas Rangers”. MLB.com Rangers Press Release (March 11, 2011). February 12, 2014閲覧。
- ^ “Nolan Ryan to Retire as Texas Rangers Chief Executive Officer Effective October 31”. MLB.com Rangers Press Release (October 17, 2013). February 12, 2014閲覧。
- ^ “Astros name Nolan Ryan Executive Advisor”. MLB.com Astros Press Release (February 11, 2014). February 12, 2014閲覧。
- ^ a b https://www.baseball-reference.com/leaders/strikeouts_per_nine_career.shtml
- ^ バーランダー 複数球団で達成は野茂らに続き8人目
- ^ 国松俊英『メジャーリーグの大研究 松井、イチロー、野茂たちの挑戦』2003年、60頁。
- ^ a b https://www.baseball-reference.com/leaders/hits_per_nine_career.shtml
- ^ “Career Leaders & Records for Innings Pitched”. Baseball-Reference.com. 2020年6月27日閲覧。
- ^ “Career Leaders & Records for Shutouts”. Baseball-Reference.com. 2020年6月27日閲覧。
- ^ “Most Seasons Played”. Baseball-Reference.com. 2020年6月27日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube
- Baseballhalloffame.org – アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介