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== 国交回復から断絶まで(1945年 - 1972年) ==
== 国交回復から断絶まで(1945年 - 1972年) ==
日本の降伏後、台湾に進駐し実効支配した[[中国国民党]]の台湾当局は、日本資産の接収を実施した(接収された資産総額は、当時の貨幣価値で109億9090万円。土地を除く)。日本は、[[1951年]][[9月8日]]、[[日本国との平和条約|サンフランシスコ平和条約]]で台湾・澎湖諸島の権利、権原及び請求権を放棄したが、この講和条約には中華人民共和国、中華民国のいずれも参加しなかった。その後、日本は、アメリカの仲介により、台湾のみを実効支配する中華民国政府との二国間講和条約の交渉を開始。[[1952年]][[4月28日]]、[[日本国と中華民国との間の平和条約|日華平和条約]]に調印、日本と台湾(中華民国)との国交が回復した(なお、サンフランシスコ平和条約および日華平和条約では台湾の主権の帰属先は未定であるという[[台湾地位未定論]]がある)。{{要出典範囲|date=2020年8月12日 (水) 11:47 (UTC)|同条約議定書で中華民国は日本に対する損害賠償請求権を放棄したことは、[[介石]]総統の「以徳報怨」の一つとして当時の多くの日本人に受け止められた}}。また、日本からは[[白団]]と呼ばれる有志の[[軍事顧問団]]が台湾に渡り、[[金門砲戦]]などを指導して中華人民共和国からの台湾防衛を支援した。
日本の降伏後、台湾に進駐し実効支配した[[中国国民党]]の台湾当局は、日本資産の接収を実施した(接収された資産総額は、当時の貨幣価値で109億9090万円。土地を除く)。日本は、[[1951年]][[9月8日]]、[[日本国との平和条約|サンフランシスコ平和条約]]で台湾・澎湖諸島の権利、権原及び請求権を放棄したが、この講和条約には中華人民共和国、中華民国のいずれも参加しなかった。その後、日本は、アメリカの仲介により、台湾のみを実効支配する中華民国政府との二国間講和条約の交渉を開始。[[1952年]][[4月28日]]、[[日本国と中華民国との間の平和条約|日華平和条約]]に調印、日本と台湾(中華民国)との国交が回復した(なお、サンフランシスコ平和条約および日華平和条約では台湾の主権の帰属先は未定であるという[[台湾地位未定論]]がある)。{{要出典範囲|date=2020年8月12日 (水) 11:47 (UTC)|同条約議定書で中華民国は日本に対する損害賠償請求権を放棄したことは、[[介石]]総統の「以徳報怨」の一つとして当時の多くの日本人に受け止められた}}。また、日本からは[[白団]]と呼ばれる有志の[[軍事顧問団]]が台湾に渡り、[[金門砲戦]]などを指導して中華人民共和国からの台湾防衛を支援した。


[[1957年]]、外相兼任のまま内閣総理大臣に就任した岸信介は、同年5月に台湾などのアジア5カ国を歴訪。
[[1957年]]、外相兼任のまま内閣総理大臣に就任した岸信介は、同年5月に台湾などのアジア5カ国を歴訪。
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[[1963年]][[9月7日]]、中国の通訳[[周鴻慶]]が帰国直前に台湾への亡命を求めようとして逮捕され、その後亡命意思を翻意したとして、翌年1月に中国に強制送還される事件が発生した('''周鴻慶亡命事件''')。中華民国政府は日本側の対応・措置を「親中共行為」として激しく非難し、両国関係は緊張した。
[[1963年]][[9月7日]]、中国の通訳[[周鴻慶]]が帰国直前に台湾への亡命を求めようとして逮捕され、その後亡命意思を翻意したとして、翌年1月に中国に強制送還される事件が発生した('''周鴻慶亡命事件''')。中華民国政府は日本側の対応・措置を「親中共行為」として激しく非難し、両国関係は緊張した。


関係修復を図るべく、[[1964年]]2月、[[吉田茂]]元首相が[[池田勇人]]首相の意を受けて台湾を訪問、介石総統と会談した。これを契機に「日華共同反共」などが盛り込まれた「中共対策要綱」なる文書(いわゆる[[吉田書簡]])が極秘に交わされた。さらに、同年3月には、外務省が、台湾の国民政府との断絶は国益に反する等の「中国問題に関する見解」を発表。同年7月には[[大平正芳]]外相が訪台し、「日本は中華民国が反攻復国に成功することを非常に望んでいる」と表明した。
関係修復を図るべく、[[1964年]]2月、[[吉田茂]]元首相が[[池田勇人]]首相の意を受けて台湾を訪問、介石総統と会談した。これを契機に「日華共同反共」などが盛り込まれた「中共対策要綱」なる文書(いわゆる[[吉田書簡]])が極秘に交わされた。さらに、同年3月には、外務省が、台湾の国民政府との断絶は国益に反する等の「中国問題に関する見解」を発表。同年7月には[[大平正芳]]外相が訪台し、「日本は中華民国が反攻復国に成功することを非常に望んでいる」と表明した。


[[1967年]]9月、[[佐藤栄作]]首相は、中国側の激しい批判キャンペーンにもかかわらず、台湾を訪問し、介石総統と会見。同年11月には、後に総統を世襲することになる[[経国]]国防部長が日本を公式訪問した。
[[1967年]]9月、[[佐藤栄作]]首相は、中国側の激しい批判キャンペーンにもかかわらず、台湾を訪問し、介石総統と会見。同年11月には、後に総統を世襲することになる[[経国]]国防部長が日本を公式訪問した。


これまで戦後から[[国連]]の[[常任理事国]]を務めた台湾は、中国と比べて国際的に認知されていた。しかし、[[1970年]]頃から[[ベトナム戦争]]を背景とした中国と米国との接近、西側主要国(英仏伊加)と中国との国交正常化など、国際社会の中で中国が立場を顕示しはじめた。また、日本国内でも一部の親中派議員による「日中国交回復促進議員連盟」発足等の動きも見られるようになる。
これまで戦後から[[国連]]の[[常任理事国]]を務めた台湾は、中国と比べて国際的に認知されていた。しかし、[[1970年]]頃から[[ベトナム戦争]]を背景とした中国と米国との接近、西側主要国(英仏伊加)と中国との国交正常化など、国際社会の中で中国が立場を顕示しはじめた。また、日本国内でも一部の親中派議員による「日中国交回復促進議員連盟」発足等の動きも見られるようになる。
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2020年9月15日 (火) 14:04時点における版

日台関係
JapanとTaiwanの位置を示した地図

日本

台湾
在外公館
日本台湾交流協会 台北駐日経済文化代表処

日台関係史(にったいかんけいし)は、日本台湾の関係の歴史。これには、前判決、日本の判決、中華民国の判決の歴史が含まれる。

日本統治時代以前(- 1895年)

日本では、戦国時代から江戸時代初期にかけての台湾を「高山国」、「高砂国」と称し、そのいずれもが「タカサグン」からの転訛という。これは、商船の出入した西南岸の打狗山(現・高雄市)が訛ったものと思われる。

1593年文禄3年)、豊臣秀吉原田孫七郎に「高山国」へ朝貢を促す文書を届けさせようとしたが、当時の台湾は統一的な政府が存在しなかったため交渉先を見つけることができずその試みは失敗した。

1609年慶長14年)、幕府を通じ肥前有馬藩が台湾視察のために家臣を派遣。

1616年元和2年)、長崎代官村山等安が子の村山秋安、臣下明石道友を台湾征討のため13隻の船団と共に台湾に派遣するが、暴風雨のため明国に漂着する。[1]

1628年寛永5年)、台湾貿易をめぐり、オランダの植民地政府との間に紛争発生(タイオワン事件)、江戸幕府が平戸のオランダ商館を閉鎖。

1639年寛永16年)、将軍の徳川家光老中が、江戸に参府した平戸オランダ商館長であるフランソワ・カロンと会談。幕閣は、明朝政府の渡航許可証を与えられた中国人が台湾に渡航していることをカロンから確認できたことで、マカオから渡航していたポルトガル船の渡航禁止を決定する。

1662年、「反清復明」を唱えて清朝に抵抗していた中国人と日本人混血である鄭成功の軍勢は、清への反攻の拠点を確保する為に台湾オランダ東インド会社を攻撃し、東インド会社を台湾から駆逐した。

1871年12月17日琉球那覇を出帆した宮古島船が遭難し台湾南端に漂着、上陸した乗組員が台湾原住民に襲撃され、うち54人が殺害される事件が発生した。

1874年明治7年)5月、陸軍中将西郷従道率いる征討軍3000名が台湾に上陸し、原住民居住地域を武力で制圧し、占領(台湾出兵)。清国政府が日本軍の出兵に賠償金50万両支払うことと引き換えに、日本軍が撤兵した。

日本統治時代(1895年 - 1945年)

1895年4月、日清戦争後の講和会議で調印された下関条約(日清講和条約)により、清国が台湾・澎湖諸島を日本に割譲。その直後、台湾人らによる台湾民主国の建国宣言がなされる。台湾民主国軍は、上陸した日本軍と武装闘争するも、初代総統唐景崧、第2代総統劉永福が相次いで大陸に逃亡し、約5か月後には完全制圧される。

日本は、1895年5月、台湾総督府を設置、樺山資紀海軍大将を初代総督に任命し、植民地統治を開始した。児玉源太郎第4代総督(1898年 - 1906年)のもとで後藤新平が民政長官に就任し、土地改革、ライフラインの整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業の育成を行うことにより台湾の近代化を推進。一方で植民地統治に対する反逆者には取り締まりをするという「飴と鞭」の政策を有効に用いることで植民地支配の体制を確立した。

日本の敗戦により、488,000余りの在台湾日本人(軍人166,000人を含む)の大半が本土に引き揚げ、28,000人余りが国民党政権の「留用者」として残った。最後の台湾総督安藤利吉は、戦犯として上海に送られ自害。1946年5月の勅命により台湾総督府は正式に廃止された。

国交回復から断絶まで(1945年 - 1972年)

日本の降伏後、台湾に進駐し実効支配した中国国民党の台湾当局は、日本資産の接収を実施した(接収された資産総額は、当時の貨幣価値で109億9090万円。土地を除く)。日本は、1951年9月8日サンフランシスコ平和条約で台湾・澎湖諸島の権利、権原及び請求権を放棄したが、この講和条約には中華人民共和国、中華民国のいずれも参加しなかった。その後、日本は、アメリカの仲介により、台湾のみを実効支配する中華民国政府との二国間講和条約の交渉を開始。1952年4月28日日華平和条約に調印、日本と台湾(中華民国)との国交が回復した(なお、サンフランシスコ平和条約および日華平和条約では台湾の主権の帰属先は未定であるという台湾地位未定論がある)。同条約議定書で中華民国は日本に対する損害賠償請求権を放棄したことは、蔣介石総統の「以徳報怨」の一つとして当時の多くの日本人に受け止められた[要出典]。また、日本からは白団と呼ばれる有志の軍事顧問団が台湾に渡り、金門砲戦などを指導して中華人民共和国からの台湾防衛を支援した。

1957年、外相兼任のまま内閣総理大臣に就任した岸信介は、同年5月に台湾などのアジア5カ国を歴訪。

1963年9月7日、中国の通訳周鴻慶が帰国直前に台湾への亡命を求めようとして逮捕され、その後亡命意思を翻意したとして、翌年1月に中国に強制送還される事件が発生した(周鴻慶亡命事件)。中華民国政府は日本側の対応・措置を「親中共行為」として激しく非難し、両国関係は緊張した。

関係修復を図るべく、1964年2月、吉田茂元首相が池田勇人首相の意を受けて台湾を訪問、蔣介石総統と会談した。これを契機に「日華共同反共」などが盛り込まれた「中共対策要綱」なる文書(いわゆる吉田書簡)が極秘に交わされた。さらに、同年3月には、外務省が、台湾の国民政府との断絶は国益に反する等の「中国問題に関する見解」を発表。同年7月には大平正芳外相が訪台し、「日本は中華民国が反攻復国に成功することを非常に望んでいる」と表明した。

1967年9月、佐藤栄作首相は、中国側の激しい批判キャンペーンにもかかわらず、台湾を訪問し、蔣介石総統と会見。同年11月には、後に総統を世襲することになる蔣経国国防部長が日本を公式訪問した。

これまで戦後から国連常任理事国を務めた台湾は、中国と比べて国際的に認知されていた。しかし、1970年頃からベトナム戦争を背景とした中国と米国との接近、西側主要国(英仏伊加)と中国との国交正常化など、国際社会の中で中国が立場を顕示しはじめた。また、日本国内でも一部の親中派議員による「日中国交回復促進議員連盟」発足等の動きも見られるようになる。

こうした国際情勢の中で、1971年の第26回国際連合総会のアルバニア決議(2758号決議)により常任理事国の権限が中国側に傾き、中国の常任理事国入りが決定され、台湾は国連を追放された。日本は、中国の国連加盟に賛成であるが、台湾の議席追放反対を政府方針とし、アルバニア決議に反対票を投じた。また、二重代表制決議案の共同提案国となり提出したが表決されず、佐藤首相は国内のマスコミや野党から激しく追及された。これを受け、佐藤首相は中国との国交正常化を目指す意向を表明した[2]

翌年1972年ニクソン訪中は日本に衝撃を与え、1972年9月29日田中角栄政権は、中国大陸を支配する中華人民共和国政府を「中国の唯一の合法政府」と承認し、国交を樹立した(日中国交正常化)。その際、日本は、日中共同声明に日華平和条約の遡及的無効を明記することに応じない代わりに、大平正芳外相が「日華平和条約は存続の意義を失い、終了した」との見解を表明。これに対し、中華民国外交部は即日、対日断交を宣言した(日台断交)。

中華民國統治時代

非公式実務関係の形成(1972年 - 1989年)

日本アジア航空の航空機(当時)

日本と台湾(中華民国)は、国交断絶から間もない1973年初頭、民間交流を従来通り維持させるため、実務的な窓口機関を相互に設置した(日本側は「財団法人交流協会」。台湾側は「亜東関係協会」。1992年、亜東関係協会東京弁事処は台北駐日経済文化代表処に改称)。続いて同年3月には、日本国会議員150名余りが参加して日華関係議員懇談会(日華懇)が発足(1997年、超党派の日華議員懇談会に改組)。こうして、日台間の非公式実務交流の基本的枠組みが形成された。

国交断絶直後の台湾の中華航空の航空機にある「青天白日満地紅旗」を「国旗」として認めないなどとする見解を表明したことに抗議し、即日、日台間航空路線停止を宣言した。

その後、日華懇の働きかけと青天白日満地紅旗を国旗と認めた日本外相宮澤喜一の国会答弁もあって、1975年8月、約1年3ヶ月ぶりに日台航空路線が再開された[3]

交流の深化(1990年代以降)

1994年5月、李登輝総統は、『週刊朝日』に掲載された小説家の司馬遼太郎との対談で、日本統治時代を「日本が残したものは大きい。批判する一方で科学的な観点から評価しないと歴史を理解することはできない」と評した。李総統が1999年日本語で出版した『台湾の主張』はベストセラーとなって山本七平賞を受賞した。

一方、1994年10月、広島で開催されたアジア大会において、日本政府は、李登輝総統の代理として徐立徳行政副院長らの入国を認めた(行政副院長=副首相クラスの訪日は初めて)ものの、1995年10月のAPEC大阪会議では、台湾代表として、形式的には民間人である辜振甫海峡交流基金会董事長の出席しか認められなかった。

1999年9月の台湾大地震では日本が国際緊急援助隊を一番手で送り、最大規模の援助活動を実施した。2000年8月には、石原慎太郎東京都知事の提唱で、アジア大都市ネットワーク21が発足、北京市台北市が同時に加盟した(北京市は2005年に脱退)。2000年12月、台湾高速鉄道計画で、日本企業連合による「新幹線システム」導入が決定した(2007年開通)。李登輝元総統来日の支援運動が契機となって、2002年12月には日本李登輝友の会が設立され、ここで発祥した台湾正名運動は台湾本国にも波及した。

不干渉主義の転換

1995年から1996年にかけて台湾海峡ミサイル危機の勃発など台湾情勢が緊迫したことを契機に、日本政府は「直接対話による平和的解決」を中国に求める立場を明確化させるようになった。1996年5月16日、参議院外交委員会の小委員会は、「中台問題の平和的解決に関する提言」を決議[4]。1996年から1997年にかけて日米安保条約に基づく日米防衛協力のための指針を改訂した際には(いわゆる「新ガイドライン」)[5]、「周辺事態」に中台紛争が含まれるか論争が起こり、1997年8月17日梶山静六官房長官は「周辺事態は中台紛争を含む」と明言した。さらに1998年11月に江沢民国家主席が来日した際、小渕恵三首相はクリントン米大統領が表明した「三つのノー」(台湾独立反対、「二つの中国」反対、台湾の国連加盟不支持)の表明を拒絶した。

2001年10月、APEC上海会議の際、平沼赳夫経産相と林義夫経済部長が会談し、「日台FTA」の検討開始で合意した(未実現)。2002年末、外務省の内部規則が改訂され、日台間の政府当局間接触が課長補佐から課長レベルに引き上げられた。小泉純一郎首相の私的懇談会が発表した「21世紀日本外交の基本戦略」(2002年11月)では「日台関係強化の研究」の必要性を指摘。2004年以降、日本政府は台湾の世界保健機関(WHO)へのオブザーバー参加を支持する立場をとり、2005年2月には、日米政府当局が日米安全保障協議委員会(2プラス2)で合意した「共通戦略目標」で、初めて台湾海峡問題に明確に言及した[6]。当時の町村信孝外相も、日米安保は台湾地域も対象に入ると言明した。

一方で、2003年12月、日本政府(小泉政権)は、交流協会を通じ、台湾政府(陳水扁政権)に対し、公民投票の実施について、中台関係を徒に緊張させるものであり、台湾海峡周辺の平和と安定のために慎重に対処することを希望する旨、断交後初めて台湾政府に対する「申入れ」を行った。同様の懸念表明は、2006年2月、陳水扁政権が国家統一委員会及び国家統一綱領の運用停止を発表した際にもなされた。

日台関係「正常化」への動き

台湾に対する関心の高まりを反映して、日本のマスコミ各社は1998年10月以降、台北に相次いで支局を開設した。

1999年11月、石原慎太郎東京都知事が都知事として初めて訪台したことを契機に、要人の相互往来が相次いで実現するようになった。まず、2001年4月、日台関係者双方の念願であった李登輝元総統の来日が初めて実現した(その後も4回の訪日が実現)。同年12月には、連戦国民党主席が、国民党のトップとしては戦後初めて訪日した。2003年12月、交流協会台北事務所の主催で、台北で断交以来32年ぶりに天皇誕生日祝賀会が開催。同じ頃、森喜朗元首相が台湾を訪問し、陳水扁総統と会談した。

2004年8月25日、中米の友好国訪問を終えた游錫堃行政院長の専用機が台風接近のため那覇空港に緊急着陸した際には、游行政院長に72時間滞在可能なビザを発給され、牧野浩隆沖縄県副知事らとの会談が実現した[7]

2005年4月には、断交後初めて台湾人に対する叙勲を授与。2005年8月、台湾住民への査証免除(ノービザ)を可能とする議員立法が成立し、2007年9月には運転免許証の日台相互承認も実現した。2008年3月には、日本アジア航空(JAA)とエアーニッポン(ANK)がそれぞれ完全親会社の日本航空と全日空に統合され、日台航空路線が約32年ぶりに「正常化」した[8]。さらに、2009年7月の入管法改正で、外国人登録証に代わって新たに導入される在留カードにおいて、台湾出身者は「台湾」と正確に表記されることも決まった(2012年施行)[9]

特別パートナーシップ関係へ

2008年5月の馬英九総統の就任に際し、日本政府(福田康夫政権)は交流協会を通じて公式の祝電を手交(断交後初めて[10])。馬総統は、同年7月末に主要閣僚定例会議「台日関係報告会議」を設置し、同年秋に台日特別パートナーシップ構想により対日関係強化を図る方針を打ち出した。陳水扁政権が新設した外交部の「日本事務会」は解消したものの、亜東関係協会会長に李登輝元総統側近を登用。2009年を「台日特別パートナーシップ促進年」と定め、自由貿易協定(FTA)ないし投資保護協定の締結、ワーキングホリデー制度の導入、国立故宮博物院の日本展覧会開催などを提唱している。馬総統は、日本統治時代に台湾の水利事業で大きな功績を残した日本人技師、八田與一をたたえる記念公園の建設も実現した。

2011年3月11日発生の東日本大震災に際しては台湾がいち早く救援隊派遣を表明。人口が約13倍の米国を大きく上回る義捐金が集まり(同年9月現在200億円超)、菅直人首相からの台湾向けに特別の謝意メッセージを台湾側に寄せた[11]野田佳彦首相も国会で「菅直人前首相のメッセージで馬英九・総統をはじめとする台湾当局者に謝意を伝えた。ホームページや新聞広告でも謝意を表明している。しかし、あらためて私としても台湾からの友情あふれる破格の心からの支援に対して、深く心から感謝申し上げたい」と答弁した[12][13]

尖閣諸島等をめぐる摩擦

尖閣諸島(台湾名:釣魚台)問題は、台湾側が領有を主張し始めた1969年頃から、漁業権益や海底資源権益も絡んで日台間の最大の懸念事項となっている。台湾船による領海侵犯事件が繰り返し発生している。2010年5月には、防衛省が日本最西端の与那国島防空識別圏拡大を決定した[14]ことに対し、台湾側が強く反発した[15][16]

2012年の日本の尖閣諸島国有化に対しては中華民国行政院海岸巡防署の巡視船12隻と宜蘭県蘇澳鎮から出港した漁船約40隻が同時に尖閣諸島の領海を侵犯させ、尖閣諸島の台湾領有を主張するデモ活動を行った。これに対して海上保安庁は保有する約360隻の巡視船・巡視艇のうち約45隻を出動させて対応し[17]、巡視船が放水して進路規制を行ったが、台湾の巡視船も放水でこれに応戦した[18][19]。これを受けて、財団法人交流協会今井正理事長が中華民国外交部を訪れ、楊進添外交部長と2時間にわたり会談、厳重抗議と再発防止の申し入れを行ったが、楊部長は日本の国有化について批判した[20]。また、馬英九総統はこの領海侵犯を「全力で漁民の安全を守った」「釣魚台が我が領土であることを世界に誇示した」と絶賛した[21]2013年には尖閣諸島周辺の北緯27度以北に暫定措置水域を定めた日中漁業協定に対抗して日本と日台漁業協定を結び、北緯27度以南の操業を日本に認めさせた。

最近の出来事

東日本大震災に際して台湾から寄せられた支援に対する感謝広告(『聯合報』 2011年5月3日)
東日本大震災に際して台湾から寄せられた支援に対する感謝を示した横断幕(岩手県盛岡市
東日本大震災に際して台湾から寄せられた支援に対する感謝広告(北海道釧路市
2015年防災訓練「民安1号」に参加する東京消防庁レスキュー隊(台湾台北市
  • 2008年3月10日:第1回日台観光サミットが台北で開催。2010年までに日台間の観光客の相互往来を300万人にする目標を盛り込んだ「台北宣言」に調印。
  • 2008年5月8日:馬英九次期総統が、台南の烏山頭ダムを訪れ、八田與一墓前祭に出席。
  • 2008年5月20日:日本政府が、馬英九総統就任式の際、交流協会を通じて公式の書簡を手交。
  • 2008年6月1日:許世楷駐日代表の退任に伴い、「許代表夫妻を送る会」が都内で開催。安倍晋三前首相らが約800人が出席。
  • 2008年6月3日:中国・外交部筆頭次官の王毅前駐日大使が国務院台湾事務弁公室主任(台湾問題担当相に相当)に就任。
  • 2008年6月10日:台湾の遊漁船「聯合号」と海上保安庁の巡視船「こしき」が尖閣諸島沖で衝突し、連合号が沈没する事件が発生(聯合号事件)。台湾側は、数日後に巡視船など4隻が尖閣諸島沖に接近させ、許世楷駐日代表を召還。まもなく、日台双方が非公式の外交ルートを通じて事態の沈静化を図り、日本側が海保側の過失を認めて謝罪し、和解成立。馬英九総統は「双方が平和的な外交ルートを通じて効果的に問題解決を図ろうという認識に達し、むしろ両国関係が増進された」と総括した。
  • 2008年7月11日:交流協会台北事務所長に斎藤正樹元ニューランド大使が着任。
  • 2008年8月28日:新駐日代表に馬英九総統の側近馮寄台を任命。
  • 2008年10月:台湾総統府直轄の国家安全会議台日特別パートナーシップ構想を発表。
  • 2008年11月9日:台湾を拠点に尖閣諸島領有権を主張する民間団体「中華保釣協会」が設立。
  • 2009年1月16日:栃木県日光市と台湾・台南市が「観光友好都市協定」を締結。
  • 2009年1月20日:外交部が2009年を「台日特別パートナーシップ促進年」と宣言。
  • 2009年2月5日:王貞治ソフトバンク球団会長(元中華民国無任所大使)が馬英九総統を表敬訪問、二等景星勲章を授与される。
  • 2009年2月5日:亜東関係協会会長に李登輝元総統の側近彭栄次を選出。
  • 2009年2月27日:約3年半ぶりに再開した日台漁業交渉で、尖閣諸島沖の日台間の漁業トラブルに対応する緊急連絡窓口を那覇に設置することで合意。
  • 2009年3月16日:第2回日台観光サミットが静岡で開催。日本側から静岡県知事観光庁ナンバー2の次長が参加。2010年を「日台観光交流年」とすることを宣言。
  • 2009年4月3日:日台間で年間2000人を相互に受け入れるワーキングホリデー制度実施で合意。
  • 2009年4月5日:NHKNHKスペシャルプロジェクトJAPANシリーズJAPANデビュー第1回放送で日本による台湾統治を取り上げる。その後、内容が偏向しているとして日本李登輝友の会を中心に抗議活動が拡大、台湾人約150名を含む8389人の原告団がNHKに集団訴訟を提起した(その後、原告団は1万人を突破)。
  • 2009年4月16日:石垣市長ら沖縄3首長が訪台し、蕭万長副総統と会談。
  • 2009年5月1日:交流協会の齋藤正樹台北事務所長が講演で台湾地位未定論に言及。外交部の抗議を受け、個人的見解として発言を撤回したが、同年12月、任期半ばで辞任。
  • 2009年5月8日:馬英九総統が2年以内に八田與一記念公園を建設することを発表。
  • 2009年8月31日:馬英九総統、劉兆玄行政院長、欧鴻錬外交部長の名義で衆院選に勝利した民主党に祝電。
  • 2009年9月13日:海上保安庁巡視船が尖閣諸島沖で台湾の遊漁船「福爾摩沙(フォルモサ)酋長2号」を拿捕。台湾外交部が日本側に乱暴な行為があったと抗議。
  • 2009年9月24日:台湾初の日本研究拠点となる国立政治大学現代日本研究センター(当代日本研究中心)が日本政府(交流協会)の支援で設立。
  • 2009年12月1日:台北駐日経済文化代表処の札幌分処を開設。
  • 2010年2月2日:海上保安庁巡視船が南硫黄島付近の日本領海に侵入した台湾漁船が停船命令を無視して逃走したため拿捕。
  • 2010年3月15日:第3回日台観光サミットが南投県で開催。台湾側から毛治国交通部長が参加。
  • 2010年4月30日:交流協会と亜東関係協会との間で、15項目にわたる「日台双方の交流と協力の強化に関する覚書」を締結[22]
  • 2010年6月24日:防衛省が台湾から111キロにある与那国島の防空識別圏を西側に拡大すると発表[23]。台湾の外交部が「極めて遺憾で受け入れられない」と反発した。
  • 2010年10月31日:羽田空港松山空港間の直航便が開設。
  • 2011年5月8日:台南市八田與一記念公園が完成。開園式典に馬英九総統、楊進添外交部長、毛治国交通部長、江丙坤海峡交流基金会董事長、馮寄台駐日代表らが出席、日本からも森喜朗元首相ら30名近い国会議員が出席。
  • 2011年6月29日:第4回日台観光サミットが金沢で開催。日本側から初めて観光庁長官が出席。2012年を「台日観光促進年」と定め、相互訪問客数300万人の目標を決議。
  • 2011年7月14日:交流協会と亜東関係協会との間で、復興支援・観光促進に関する日台「絆(厚重情誼)」イニシアティブを締結[24]
  • 2011年9月22日:交流協会と亜東関係協会との間で、内国民待遇や最恵国待遇などを盛り込んだ日台投資協定を締結[25]
  • 2011年11月10日:交流協会と亜東関係協会との間の日台航空協議でオープンスカイ協定締結[26]
  • 2012年3月12日:日本政府主催の東日本大震災一周年追悼式典で、台湾代表として出席した台北駐日経済文化代表処副代表を来賓席ではなく一般参加者に案内し、指名献花から外して問題に。国会で激しく追及された野田佳彦首相が「台湾の皆さまに温かい支援をいただいた。本当に申し訳ない。深く反省したい」と陳謝。
  • 2012年10月5日:玄葉光一郎外相が交流協会を通じて異例の台湾向けメッセージを発表。翌日、台湾外交部が肯定的な評価を示し、日台漁業協定再開に同意する旨の声明を発表した。
  • 2013年3月11日:東日本大震災二周年追悼式典で、日本政府(安倍晋三首相)は台湾を、国名や機関名を読み上げる「来賓」「指名献花」に遇し、駐日大使にあたる台北駐日経済文化代表処の沈斯淳(しん・しじゅん)代表が献花した。
  • 2013年4月4日:交流協会と亜東関係協会との間で、日本は排他的経済水域の一部に日台双方の漁船が操業できる「適用水域」を設け、日台漁業委員会を設置することなどを盛り込んだ「漁業秩序の構築に関する取決め」(略称:日台民間漁業取決め)に合意し、調印。「台湾民主化の父」李登輝元総統の悲願であった日台の漁業権問題は一応の解決をした。また、馬英九総統は「領土は分かち合えないが、資源は分かち合える」とこれを賞賛した。
  • 2015年5月14日:太平洋戦争末期に日本国内で働いた台湾人元少年工が来日、呉市内で日本人の元工員らと交流した。一行は呉市の船津神社内にある殉職者らがまつられた工僚神社や、旧海軍墓地に参拝。ともに手を合わせ、冥福を祈った。後、ホテルにて交流、君が代斉唱を行い、戦没者に黙祷した。元少年工らは「台湾に比べ、とにかく呉は寒かった。食料はいつも足りなかったが、日本人と分け隔てなく、みんなで朝から晩まで懸命に働いた。活気があった」と振り返り、また「少年工の募集にクラスの半分くらいが手を上げたが、トップの成績でないと選抜試験に通らなかった。日本で『お国のために』と誇りを持って働いた」と語った。元少年工らは日本を「第二の古里」と呼び、日本側関係者とともに戦没者を慰霊して平和を願い「台湾と日本、いつまでも手を携えて」と誓い合った[27]
  • 2015年8月1日〜2日:東京、上野恩賜公園にて台湾新聞社主催による「日本台湾祭りin上野」を開催。のべ10万人が訪れ大盛況となる。
  • 2015年11月26日:交流協会と亜東関係協会との間で、日台租税協定など3つの協定を締結[28]
  • 2017年1月1日:日本の対台湾窓口機関が「公益財団法人交流協会」から「公益財団法人日本台湾交流協会」に名称を変更[29]
  • 2017年5月17日:台湾の対日本窓口機関が「亜東関係協会」から「台湾日本関係協会」に名称を変更[30]
  • 2017年6月4日:在日台湾人団体「全日本台湾連合会」(全台連)が発足し、設立パーティーには蔡英文総統からも祝辞が寄せられた[31]
  • 2018年9月6日:右翼活動家の藤井実彦が、台南市に設置された慰安婦像に蹴りを入れていたことが発覚し、この出来事が台湾で大きく報道されることとなり、藤井は中国国民党の議員や市民から激しい非難を浴びた[32]

主な要人往来

昭和・平成・令和の天皇・首相と総統

日本の旗 日本の天皇 日本の旗 日本の首相 中華民国の旗 中華民国の総統
1949年 10月 昭和天皇 吉田茂 蔣介石
1954年 12月 鳩山一郎
1956年 12月 石橋湛山
1957年 2月 岸信介
1960年 7月 池田勇人
1964年 11月 佐藤栄作
1972年 7月 田中角栄
1974年 12月 三木武夫
1975年 4月 厳家淦
1976年 12月 福田赳夫
1978年 5月 蔣経国
12月 大平正芳
1980年 7月 鈴木善幸
1982年 11月 中曽根康弘
1987年 11月 竹下登
1988年 1月 李登輝
1989年 1月 明仁
6月 宇野宗佑
8月 海部俊樹
1991年 11月 宮澤喜一
1993年 8月 細川護熙
1994年 4月 羽田孜
6月 村山富市
1996年 1月 橋本龍太郎
1998年 7月 小渕恵三
2000年 4月 森喜朗
5月 陳水扁
2001年 4月 小泉純一郎
2006年 9月 安倍晋三
2007年 9月 福田康夫
2008年 5月 馬英九
9月 麻生太郎
2009年 9月 鳩山由紀夫
2010年 6月 菅直人
2011年 9月 野田佳彦
2012年 12月 安倍晋三
2016年 5月 蔡英文
2019年 5月 徳仁

日台関係の現状

政治関係

  • 日台間には正式な国交がないため、財団法人交流協会(日本側窓口機関)と亜東関係協会(台湾側窓口機関)を通じた非公式折衝により、両国間の実務問題を処理している。双方の取決めに基づき、日本側は台北・高雄に事務所を設置、台湾側は東京・横浜・大阪・福岡・那覇に事務所を設置している。事実上、交流協会台北事務所が日本の駐台大使館、亜東関係協会東京弁事処(現在は台北駐日経済文化代表処)が台湾の駐日大使館の機能を果たしている。
  • 財団法人交流協会と亜東関係協会は、1973年以来、日台間の諸問題を協議するため「貿易経済会議」を毎年開催し、両国の関係官庁の担当者が出席している(2009年からは局長級に格上げ)。
  • 日台間の関係官庁が断続的に行っている個別協議には、日台航空交渉日台漁業交渉がある。
  • 台湾は伝統的に情報宣伝を非常に重視しており、日本語版インターネットサイトも複数開設されている。日本語でこれだけ豊富に情報発信している国は台湾以外に類をみない。
    • 台北駐日経済文化代表処[1] --- 台湾の駐日代表機関で、実質的な駐日大使館。
    • 台湾週報[2] --- 中華民国政府が1959年以来、半世紀以上にわたって発刊している日本語広報誌。
    • 台湾国際放送[3] --- かつて「自由中国の声」と称していた。
    • フォーカス台湾[4] --- 台湾の通信社中央通訊社(略称:中央社)の日本語版サイト。2011年7月18日オープン。
    • Taiwan Today[5] --- 中華民国行政院新聞局の対日広報公式サイト。2011年8月1日オープン。
    • 台湾証券取引所[6]
  • 日本政府の基本的立場
    • 日中共同声明で表明した立場を遵守する。
    • 台湾独立は支持できない。
    • 台湾の国連加盟は支持できない。
    • 台湾のWHOオブザーバー参加を支持する。
    • 台湾問題が当事者間の直接の話し合いにより平和的に解決されることを強く希望する。
    • いずれかの側による如何なる一方的な現状変更の試みも支持できない。
    • 日台関係は非政府間の実務関係として維持する。
  • 台湾問題についての主な見解表明
    • 1972年9月:日中共同声明で、「日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。」「中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。」と表明。
    • 1997年8月:梶山静六官房長官が、日米安保条約に基づく「日米防衛協力のための指針」改訂(「新ガイドライン」)に関連して、「周辺事態は中台紛争を含む」と発言。
    • 1997年9月:橋本龍太郎首相が、訪中の際、「日米間で特定の地域や国における事態を想定して議論していない」「日本は二つの中国台湾独立を支持することは今後もありえない。台湾は中国人同士の問題であり、平和的解決をめざすことを信じている」と発言。
    • 1998年11月:日中共同宣言で、台湾問題に関して「日本側は、日本が日中共同声明の中で表明した台湾問題に関する立場を引き続き遵守し、改めて中国は一つであるとの認識を表明する。日本は、引き続き台湾と民間及び地域的な往来を維持する。」と表明。
    • 2003年12月:公民投票の実施について「中台関係を徒に緊張させる結果となっており、わが国としては台湾海峡及びこの地域の平和と安定の観点から憂慮している」「この地域の平和と安定のため慎重に対処していただくことを希望する」旨を、交流協会を通じて申入れ(断交後初の台湾政府に向けた公式表明)。
    • 2004年3月:川口順子外相が参院予算委員会で、台湾について「民主的方法で二度選挙をやった『国』。経済的関係でも密接な関係ができている重要な『国』」と発言。
    • 2005年3月:中国全人代反分裂国家法を制定したことについて、武力行使には一貫して反対であり、平和的解決以外のいかなる解決方法にも反対である旨の外務報道官談話を発表。
    • 2006年2月:麻生太郎外相が参院予算委員会で、台湾について「民主主義がかなり成熟し、自由主義を信奉し、法治国家」などと答弁(その後「正確には国ではなく地域」と訂正した)。
    • 2006年2月:陳水扁政権が国家統一委員会及び国家統一綱領の運用停止を発表した際、「平和的解決のための当事者間の対話が早期に再開されることを強く希望し、いずれかの側によるいかなる一方的な現状の変更の試みも支持できない」との日本政府の立場を、台北駐日経済文化代表処を通じて申入れ。
    • 2007年12月28日:福田康夫首相と温家宝首相の日中首脳会談後の共同記者会見で、温首相が、日本側が「台湾独立に反対した」と発言。直後に福田首相が、日本の立場は「台湾独立を支持しない」であると“訂正”した。
    • 2008年3月:国民党の馬英九が総統に選出された際、「台湾を巡る問題が両岸当事者間の直接の対話により平和的に解決されること、及びそのために両岸の対話が早期に再開されることを期待する。また、このような観点から、我が国政府は、いずれかの側によるいかなる一方的な現状の変更の試みも支持できないとの一貫した立場である」旨の高村正彦外相のコメントを発表。
    • 2008年5月:馬英九総統就任にあたって、「日本国政府」として「我が国は交流協会を通じ、我が国の台湾に関する立場は日中共同声明にあるとおりであり、日台関係を非政府間の実務関係として維持してきている、今後とも引き続き財団法人交流協会を通じ、できる限りの支持と協力をする方針である」旨の「馬英九閣下」宛て書簡を総統府に手交。
    • 2008年5月:日中共同宣言で、台湾問題に関して「日本側は、日中共同声明において表明した立場を引き続き堅持する旨改めて表明した。」とのみ表明。
    • 2008年6月13日:海峡両岸関係協会海峡交流基金会による中台トップ会談が再開したことについて、両岸関係者による対話の再開を歓迎する旨の外務報道官談話を発表。
    • 2009年5月:台湾のWHA(WHO年次総会)オブザーバー参加が決まったことについて、外務省報道官が「台湾がWHAに順調かつ継続的に参加できることを望んでいる」と表明。
    • 2009年7月:民主党が衆院選前に発表した「政策集INDEX2009」で、「台湾海峡をめぐる緊張が生じないように中国・台湾にあらゆる予防的働きかけを行うことを最重要課題に位置づける」と明記。

民間・経済関係

  • 日本経団連工商協進会(台湾の経済団体)は、1973年以来、日台間の経済問題を協議するため「東亜経済人会議」を毎年開催している。
  • 2007年の日台貿易総額は約646億ドル(台湾への輸出:約448億ドル、台湾からの輸入:約198億ドル)、日本の貿易相手先として台湾は、米国、中国、韓国に次いで第4位。
  • 2007年の台湾の輸出先は米国、香港、米国に次いで日本が第4位。台湾の輸入先は日本が第1位。
  • 2007年の日本への台湾人旅行客は約139万人(外国人旅行客の約16.6%で国別第2位)。台湾への日本人旅行客は約117万人(外国人旅行客の約31.4%で国別第1位)。台湾在住外国人ホワイトカラーの約半分が日本人といわれる。
  • 2010年7月現在、日台間の姉妹都市提携数は17、地方議会友好協定提携数は2[33]
  • 2008年11-12月、財団法人交流協会が台湾人対象の対日意識世論調査を初めて実施。結果は、「日本に親しみを感じる」が69%で、「親しみを感じない」の12%を大きく上回った。「最も好きな国」としても38%が日本を挙げ、アメリカ(5%)、中国・大陸(2%)を大きく上回った[34]。同時期に台北駐日経済文化代表処が実施した日本人対象の対台意識世論調査では、「台湾に親しみを感じる」が56%、「台日関係が良好」との回答が76%、台湾を「信頼している」との回答が65%だった[35]
  • 2009年12月-2010年1月、財団法人交流協会が第2回対日意識世論調査を実施。結果は、「日本に親しみを感じる」が62%で、「親しみを感じない」の13%を大きく上回った。「最も好きな国」としても52%が日本を挙げ、2位のアメリカ(8%)、中国・大陸(5%)を大きく上回った[36]

脚注

  1. ^ 「村山等安」『国史大辞典』第13巻 吉川弘文館、688-689頁。
  2. ^ (4)第68回国会における佐藤内閣総理大臣施政方針演説
  3. ^ ただし、中国への政治的配慮から、日本航空(JAL)は完全子会社日本アジア航空(JAA)を設立して日台便を就航させ、中華航空は成田空港開港後も東京国際空港発着とされた。
  4. ^ http://www.ioc.u-okyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPCH/19960516.O1J.html
  5. ^ http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/hosho/kyoryoku.html#1
  6. ^ http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/hosho/2+2_05_02.html
  7. ^ アクシデントとはいえ、台湾の行政院長が日本国内で日本の政治家と会談したのは、断交後初めてのことだった。
  8. ^ JAAは1975年9月の就航以来、約32年半で延べ約3400万人を運んだという。
  9. ^ 従来の外国人登録証では、台湾出身者も「中国」と表記され、大陸出身の中国人と区別がつかない状態だった。
  10. ^ 池田維元交流協会台北事務所長『日本・台湾・中国 築けるか新たな構図』産経新聞出版、25頁。
  11. ^ 「絆 Kizuna – the bonds of friendship」菅直人首相(2011年4月11日)財団法人交流協会
  12. ^ 台湾国際放送2011年9月16日
  13. ^ Taiwan Today2011年9月15日
  14. ^ “与那国島沖に拡大 防空識別圏、台湾に説明”. 産経新聞. (2010年5月26日) 
  15. ^ "外交部:日本政府による台日間の防空識別圏境界線の拡張に関して" (Press release). 台北駐日経済文化代表処. 1 June 2010. 2012年8月11日閲覧
  16. ^ 鳩山由紀夫首相が、普天間基地移設問題にからんで関係が悪化していた沖縄県を訪問した際、仲井眞弘多県知事の強い要請を受け入れた。
  17. ^ 「不法上陸への備え隙だらけ」海保、漁船団への対応に限界 MSN産経ニュース2012.9.2
  18. ^ 『台湾の船 すべて領海外に出る』NHKニュース 2012年9月25日
  19. ^ 『海保「島への上陸は阻止」放水銃で進路妨げ台湾漁船は領海外へ』産経ニュース 2012年9月25日
  20. ^ 『対話機運の醸成困難=尖閣国有化への反発根強』時事通信2012/09/25
  21. ^ 『台湾船の領海侵入、馬総統が絶賛』読売新聞 2012年9月26日
  22. ^ 亜東関係協会と日本交流協会が台日交流協力強化に関する覚書に署名(台湾週報2010年4月30日)
  23. ^ 与那国島上空の防空識別圏の見直しについて(防衛省)
  24. ^ 財団法人交流協会と亜東関係協会との間の東日本大震災からの復興支援・観光促進に関する日台「絆(厚重情誼)」イニシアティブ
  25. ^ 投資の自由化、促進及び保護に関する相互協力のための財団法人交流協会と亜東関係協会との間の取決め
  26. ^ 民間航空業務の維持に関する交換書簡
  27. ^ 台湾元少年工ら絆の来日 戦時「海軍工廠」で労働 読売新聞 2015年5月15日
  28. ^ 「公益財団法人交流協会と亜東関係協会との覚書」について
  29. ^ 日本台湾交流協会、名称変更で台日関係のさらなる発展を”. Taiwan Today (2017年1月4日). 2017年6月5日閲覧。
  30. ^ 亜東関係協会、17日から「台湾日本関係協会」に”. Taiwan Today (2017年5月17日). 2017年6月5日閲覧。
  31. ^ “「中国人」に抵抗も 在日台湾人が新組織 「台湾優先、団結第一という旗を高く掲げる」”. 産経新聞朝刊. (2017年6月5日). http://www.sankei.com/world/news/170605/wor1706050011-n1.html 
  32. ^ 日本の団体が台湾の慰安婦像に乱暴 国民党議員、日台交流協会前で抗議
  33. ^ 日本李登輝友の会の調べによる
  34. ^ 台湾における対日世論調査(財団法人交流協会実施)
  35. ^ 台北駐日経済文化代表処「台湾に関する意識調査」
  36. ^ 台湾における対日世論調査(財団法人交流協会実施)

参考文献

  • 川島真清水麗松田康博楊永明『日台関係史 1945-2008』東京大学出版会、2009年3月
  • 内田勝久『大丈夫か、日台関係――「台湾大使」の本音録』産経新聞出版、2006年5月
  • 池田維『日本・台湾・中国 築けるか新たな構図』産経新聞出版、2010年9月
  • 殷允ペン(丸山勝・訳)『台湾の歴史――日台交渉の三百年』藤原書店、1996年12月
  • 林金莖『梅と桜――戦後の日華関係』サンケイ出版、1984年3月
  • 林金莖『戦後の日華関係と国際法』有斐閣、1987年1月

関連項目

外部リンク