コンテンツにスキップ

「武陵郡」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
4行目: 4行目:
秦の[[昭襄王 (秦)|昭王]]のときに立てられた[[黔中郡]]を前身とする。
秦の[[昭襄王 (秦)|昭王]]のときに立てられた[[黔中郡]]を前身とする。


漢の[[劉邦|高祖]]のとき、武陵郡が置かれた。[[前漢]]の武陵郡は[[荊州]]に属し、[[漢寿県|索]]・[[公安県|孱陵]]・[[武陵区|臨沅]]・[[沅陵県|沅陵]]・[[洪江市|鐔成]]・[[芷江県|潕陽]]・[[保靖県|遷陵]]・[[辰渓県|辰陽]]・[[酉陽県|酉陽]]・[[ジョ浦県|義陵]]・[[佷山県|佷山]]・[[慈利県|零陽]]・[[永定区 (張家界市)|充]]の13県を管轄した。[[王莽]]のとき、建平郡と改められた<ref>『[[漢書]]』地理志上</ref>。
漢の[[劉邦|高祖]]のとき、武陵郡が置かれた。[[前漢]]の武陵郡は[[荊州]]に属し、[[漢寿県|索]]・[[公安県|孱陵]]・[[武陵区|臨沅]]・[[沅陵県|沅陵]]・[[洪江市|鐔成]]・[[芷江県|潕陽]]・[[保靖県|遷陵]]・[[辰渓県|辰陽]]・[[酉陽県|酉陽]]・[[浦県|義陵]]・[[佷山県|佷山]]・[[慈利県|零陽]]・[[永定区 (張家界市)|充]]の13県を管轄した。[[王莽]]のとき、建平郡と改められた<ref>『[[漢書]]』地理志上</ref>。


[[後漢]]が建てられると、武陵郡の称にもどされた。後漢の武陵郡は臨沅・孱陵・零陽・充・沅陵・[[鼎城区|沅南]]・辰陽・酉陽・遷陵・鐔成・[[安郷県|作唐]]の12県を管轄した<ref>『[[後漢書]]』郡国志四</ref>。
[[後漢]]が建てられると、武陵郡の称にもどされた。後漢の武陵郡は臨沅・孱陵・零陽・充・沅陵・[[鼎城区|沅南]]・辰陽・酉陽・遷陵・鐔成・[[安郷県|作唐]]の12県を管轄した<ref>『[[後漢書]]』郡国志四</ref>。

2021年3月1日 (月) 05:20時点における版

武陵郡(ぶりょう-ぐん)は、中国にかつて存在した漢代から唐代にかけて、現在の湖南省北部・湖北省南部・貴州省東部・重慶市東南部・広西チワン族自治区北東部にまたがる地域に設置された。

概要

秦の昭王のときに立てられた黔中郡を前身とする。

漢の高祖のとき、武陵郡が置かれた。前漢の武陵郡は荊州に属し、孱陵臨沅沅陵鐔成潕陽遷陵辰陽酉陽義陵佷山零陽の13県を管轄した。王莽のとき、建平郡と改められた[1]

後漢が建てられると、武陵郡の称にもどされた。後漢の武陵郡は臨沅・孱陵・零陽・充・沅陵・沅南・辰陽・酉陽・遷陵・鐔成・作唐の12県を管轄した[2]

のとき、武陵郡は臨沅・竜陽漢寿・沅陵・沅南・酉陽・遷陵・鐔成・潕陽・黚陽の10県を管轄した[3]

南朝宋のとき、武陵郡は郢州に属し、臨沅・竜陽・漢寿・沅陵・沅南・遷陵・辰陽・酉陽・潕陽・黚陽の10県を管轄した[4]

南朝斉のとき、武陵郡は臨沅・竜陽・漢寿・沅陵・沅南・遷陵・辰陽・酉陽・潕陽・黚陽の10県を管轄した[5]

南朝梁のとき、武陵郡は武州に属した。後に武州は沅州と改称された。

589年開皇9年)、南朝陳を滅ぼすと、武陵郡は廃止され、朗州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、朗州が武陵郡と改称された。武陵郡は武陵・竜陽の2県を管轄した[6]

621年武徳4年)、唐が蕭銑を平定すると、武陵郡は朗州と改められた。742年天宝元年)、朗州は武陵郡と改称された。758年乾元元年)、武陵郡は朗州と改称され、武陵郡の呼称は姿を消した[7]

脚注

  1. ^ 漢書』地理志上
  2. ^ 後漢書』郡国志四
  3. ^ 晋書』地理志下
  4. ^ 宋書』州郡志三
  5. ^ 南斉書』州郡志下
  6. ^ 隋書』地理志下
  7. ^ 旧唐書』地理志三