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'''デレク・ハートフィールド'''({{lang|en|Derek Heartfield}}、[[1909年]] - [[1938年]])は、[[村上春樹]]の小説『[[風の歌を聴け]]』の中に登場する架空の人物。同作の主人公「僕」{{efn2|以下、本記事における「僕」は『風の歌を聴け』の主人公を指すものとする。}}が最も影響を受けた作家として登場する。代表作は冒険小説と怪奇モノを掛け合わせた『冒険児ウォルド』シリーズとされる。
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'''デレク・ハートフィールド'''(Derek Heartfield [[1909年]]-[[1938年]])は、[[村上春樹]]の小説『[[風の歌を聴け]]』の中に登場する架空の人物。主人公「僕」が最も影響を受けた作家として登場する。


『風の歌を聴け』の発表当初、実在の人物であるか議論を呼び、図書館や書店に問い合わせがなされ混乱を引き起こすなど、現実世界にも影響を与えた。
代表作は冒険小説と怪奇モノを掛け合わせた『冒険児ウォルド』シリーズで、全42編<ref name=":0">村上春樹『風の歌を聴け』、『村上春樹全作品1979-1989(1)風の歌を聴け・1973年のピンボール』講談社、pp. 5-120収録、p. 120。</ref>。

== 設定 ==
以下、節の記述は全て『[[風の歌を聴け]]』の中で語られる架空の設定{{sfn|山|2013|p=39}}である。


== 概要 ==
以下、この節の記述は全て『[[風の歌を聴け]]』の中で語られる架空の情報である。
=== 生涯 ===
=== 生涯 ===
[[1909年]]に[[アメリカ合衆国]][[オハイオ州]]の小さな町に生まれた<ref name=":1">村上春樹『風の歌を聴け』『村上春樹全作品1979-1989(1)風の歌を聴け・1973年のピンボール』講談社、pp. 5-120収録、p. 119。</ref>。「父親は無口な電信技師であり、母親は星占いとクッキーを焼くのがうまい小太りな<ref name=":1" />」であった。幼少時代は友人が少なく、暇を見つけてはコミック・ブックやパルプ・マガジンを読み漁り、母のクッキーを食べ過ごした<ref name=":1" />。ハイスクール卒業後[[郵便局]]員を経て小説家になっ<ref name=":1" />
デレク・ハートフィールドは、[[1909年]]に[[アメリカ合衆国]][[オハイオ州]]の小さな町、無口な電信技師の父と星占いとクッキーを焼くのがうまい小太りな母のもとに生まれた<!--{{sfn|村上|1990|p=119}}-->。幼少時代は友人が少なく、暇を見つけては[[アメリカン・コミックス|コミック・ブック]][[パルプ・マガジン]]を読み漁た<!--{{sfn|村上|1990|p=119}}-->。高校卒業後[[郵便局]]員となったが長続きせず、小説家へと進路を定め{{sfn|村上|1990|p=119}}


[[1930年]]、5作目の短編が『[[ウィアード・テイルズ|ウェアード・テールズ]]』に20[[ドル|ドル]]で買い取られ、以降[[レミントンランド|レミントン]]の[[タイプライター]]を半年で買い換えるペース{{efn2|デビュー翌年の1931年には毎月7万語、死の前年の1937年には毎月15万語{{sfn|村上|1990|p=119}}。}}で執筆を進めた{{sfn|村上|1990|p=119}}。
好きなものは銃と猫と母親のクッキーだけであり、銃に関しては全米一のコレクターと呼べるほど打ち込んでいた<ref name=":0" />


[[1938年]]6月のある晴れた日曜日の朝、右手に[[アドルフ・ヒトラー|ヒットラー]]の肖像画を抱え、左手傘をさしたまま[[エンパイアステートビルディング|エンパイア・ステート・ビル]]の屋上から飛び降り<ref name=":2">村上春樹『風の歌を聴け』、『村上春樹全作品1979-1989(1)風歌を聴け1973年のピンボル』講談社pp. 5-120収録、p. 9。</ref>死亡した。母の死の直後であったという設定である<ref name=":0" />。墓碑には遺言に従って「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものかという[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]による言葉が刻まれ<ref name=":0" />。
[[1938年]]6月、母死の直後の<q>ある晴れた日曜日の朝</q>{{sfn|村上|1990|p=9}}<q>[[エンパイアステートビルディング|エンパイア・ステート・ビル]]の屋上から[[飛び降り]]</q>{{sfn|村上|1990|p=9}}て死亡{{sfn|村上|1990|p=119}}{{sfn|平野|2019|p=51}}。こ際、<q>右手に[[アドルフヒトラ|ヒットラー]]の肖像画を抱え左手に傘をさし</q>{{sfn|村上|1990|p=9}}{{sfn|平野|2019|p=51}}。<q>昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか</q>という[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]による言葉{{efn2|{{harvtxt|山|2013|p=56}} は、この言葉と村上の<q>川に落ちて,ぱっくりと口を開けた暗渠に流されていくという恐ろしい体験</q>{{sfn|Rubin|2002}}という最初の記憶との類似性を指摘している。}}遺言に従い刻まれた{{sfn|村上|1990|p=119}}オハイオ州の<q>ハイヒールの踵ぐらの小さな墓</q>{{sfn|村上|1982|p=154}}に埋葬されている


=== 人物と作風 ===
「僕」曰くハートフィールドは「ストーリーは出鱈目であり、テーマも稚拙だった<ref name=":3">村上春樹『風の歌を聴け』、『村上春樹全作品1979-1989(1)風の歌を聴け・1973年のピンボール』講談社、pp. 5-120収録、p. 8。</ref>」が、[[アーネスト・ヘミングウェイ|ヘミングウェイ]]や[[F・スコット・フィッツジェラルド|フィッツジェラルド]]など同年代の作家の中では「文章を武器として闘うことのできる数少ない非凡な作家<ref name=":3" />」だった。
好きなものは銃と猫と母親のクッキーだけであり、銃に関しては全米一のコレクターと呼べるほど打ち込んでいた{{sfn|村上|1990|p=119}}


作品のほとんどは[[冒険小説]]ないし[[怪奇小説|怪奇もの]]であり、代表作の『冒険児ウォルド』シリーズは<q>その二つをうまく合せ</q>ていると評される{{sfn|村上|1990|p=120}}。作中で人生・夢・愛といった主題を直接的に扱うことは稀であった<!--{{sfn|村上|1990|p=95}}-->。ハートフィールドは小説について、それが情報であるという前提のもと、グラフや表で表現できるべきであり、その正確さは文量に比例すると考えており、この観点から[[ロマン・ロラン]]の『[[ジャン・クリストフ]]』を高く評価していた<!--{{sfn|村上|1990|p=95}}-->。一方[[レフ・トルストイ]]の『[[戦争と平和]]』については(「僕」によるとハートフィールドにとっては大抵の場合「不毛さ」を意味する)<q>宇宙の観念</q>が不足しているという理由により、再三の批判を加えている<!--{{sfn|村上|1990|p=95}}-->。また、『[[フランダースの犬]]』もお気に入りであった{{sfn|村上|1990|p=95}}。
言葉に「文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさしだ<ref name=":2" />」、「私はこの部屋にある最も神聖な書物、すなわちアルファベット順電話帳に誓って真実のみを述べる。人生は空っぽである、と<ref name=":4">村上春樹『風の歌を聴け』、『村上春樹全作品1979-1989(1)風の歌を聴け・1973年のピンボール』講談社、pp. 5-120収録、p. 94。</ref>」、「誰もが知っていることを小説に書いて、いったい何の意味がある?<ref>村上春樹『風の歌を聴け』、『村上春樹全作品1979-1989(1)風の歌を聴け・1973年のピンボール』講談社、pp. 5-120収録、p. 95。</ref>」「宇宙の複雑さに比べればこの世界などミミズの脳味噌のようなものだ。」「私の天気予報が外れると、次の日、隣家の鶏は1オクターブ低く鳴く。」などがある。


「僕」はハートフィールドについて、<q>ストーリーは出鱈目であり、テーマも稚拙だった</q>が、<q>文章を武器として闘うことのできる</q>という点において、同時代の[[アーネスト・ヘミングウェイ]]や[[F・スコット・フィッツジェラルド]]にも劣らない非凡で稀有な作家であった評し、<q>文章についての多くをデレク・ハートフィールドに学んだ。殆ど全部、というべきかもしれない</q>と語っている{{sfn|村上|1990|p=8}}{{sfn|平野|2019|p=51}}。
=== 年表 ===
*[[1909年]] - アメリカ合衆国オハイオ州の小さな町に生まれる<ref name=":1" />。
*1915年- 近所の雑貨店で万引きをする
*19XX年 - ハイスクールを卒業。郵便局に勤める<ref name=":1" />。
*[[1930年]] - 5作目の短編が「ウェアード・テールズ」に売れる。稿料は20ドル<ref name=":0" />。
*[[1931年]] - 月間7万語ずつ原稿を書きまくる<ref name=":0" />。
*[[1932年]] - 月間10万語ずつ原稿を書きまくる<ref name=":0" />。
*[[1937年]] - 月間15万語ずつ原稿を書きまくる<ref name=":0" />。
*[[1938年]]6月 - エンパイア・ステート・ビルから投身自殺<ref name=":0" />。


=== 作品 ===
=== 作品 ===
*卵の空中一回転 '' A spin in the air of an egg'' ([[1935年]])
*卵の空中一回転 {{lang|en|''A spin in the air of an egg''}}([[1935年]])
*気分が良くて何が悪い?」<ref name=":2" /> ''What is so bad about feeling good?'' ([[1936年]])
*気分が良くて何が悪い?』{{sfn|村上|1990|p=9}} {{lang|en|''What is so bad about feeling good?''}}([[1936年]])
*虹のまわりを三周半」<ref name=":4" />([[1937年]])
*虹のまわりを三周半』{{sfn|村上|1990|p=94}}([[1937年]])
*北斗星から垂直に降りる
*北斗星から垂直に降りる
*冒険児ウォルド」<ref name=":0" />
*冒険児ウォルド』全42編{{sfn|村上|1990|p=119}}
*火星の井戸」<ref>村上春樹『風の歌を聴け、『村上春樹全作品1979-1989(1)風の歌を聴け・1973年のピンボール』講談社、pp. 5-120収録、pp. 95-97。</ref>([[1938年]])
*火星の井戸』{{sfn|村上|1990|pp=95-97}}([[1938年]])


=== 参考文献 ===
=== 参考文献 ===
*トーマス・マックリュア不妊の星々の伝説''Thomas McClure; The Legend of the Sterile Stars'' ([[1968年]])
* トーマス・マックリュア{{efn2|Thomas McClure。唯一のハートフィールド研究家{{sfn|村上|1982|p=154}}。}}『不妊の星々の伝説』{{lang|en|''The Legend of the Sterile Stars''}}([[1968年]]){{sfn|村上|1982|p=155}}


== 現実世界への影響 ==
== 逸話 ==
* [[大学図書館]]などでは、「デレク・ハートフィールドの著作を読みたい」という学生のリクエストに応えて司書が著作を探しては首をかしげるという誤解が後を絶たない([[久保輝巳]]著『[[図書館司書]]という仕事』「1章 ある図書館司書生活」このエピソードを描いたものである
『風の歌を聴け』の発表当初(1979年5月)、[[大学図書館]]などでは、「デレク・ハートフィールドの著作を読みたい」という学生のリクエストに応えて司書が著作を探しては首をかしげるという誤解が後を絶たず、書店でも混乱が生じたとされる{{Sfn|久保|1986}}{{要ページ番号|date=2021-05}}{{sfn|山|2013|p=39}}。村上は[[群像新人文学賞]]直後{{harvtxt|週刊朝日|1979}} において、ハートフィールド<q>でっちあげですよ</q>と答えており、ハトフィールが架空人物であるということについてはこの時点で一応の決着がついている{{sfn|山|2013|p=39}}

* 昭和58年(1983年)4月『[[幻想文学 (雑誌)|幻想文学]]』の[[村上春樹]]のインタビュー内にて、某洋書店がデレク・ハートフィールドの註文を受け迷惑したことや、出版社で架空の人物をあとがきに書いたことなどが問題になったこと語っている。
『風の歌を聴け』には『[[群像]]』(1979年6月号)への掲載後の単行本化の際(1979年7月25日)に「ハートフィールド再び……」という後書きに当たる文章が付け加えられている{{sfn|平野|2019|p=52}}。この「後書き」において村上は、(「僕」は{{sfn|山|2013|p=46}})<q>ハートフィールドという作家に出会わなければ小説なんて書かなかったろう</q>と書き{{sfn|村上|1982|p=153}}、(「僕」が{{sfn|山|2013|p=46}}{{sfn|平野|2019|p=52}})ハートフィールドの墓を訪れたとも記している{{sfn|村上|1982|p=154}}。{{harvtxt|平野|2019|pp=53-54}} はこれについて、{{harvtxt|上田|三木|菅野|1979}} においてハートフィールドが実在の人物であるか否かについて議論が交わされたことを受け、<q>いわばダメ押しをするために</q>加筆されたものであると推測している。

後{{harvtxt|幻想文学|1983}} おい村上は、某洋書店がデレク・ハートフィールドの註文を受け迷惑したことや、<!--平野、山ここから-->出版社で架空の人物をあとがきに書いたことなどが問題になったこと語っている{{sfn|平野|2019|p=51}}{{sfn|山|2013|p=39}}

== モデルの推定 ==
村上自身は{{harvtxt|幻想文学|1983}} において、[[カート・ヴォネガット]]や[[ハワード・フィリップス・ラヴクラフト]]、[[ロバート・E・ハワード]]といった<q>好きな作家を混ぜあわせてひとつにしたものですね</q>と述べている<!--{{sfn|平野|2019|p=52}}-->。また、{{harvtxt|畑中|1985}} は、経歴の類似性からハワードがモデルであると比定し、{{harvtxt|久居|くわ|1991}} は、同様に[[ネクロノミコン|架空の書籍]]の引用という手法を用いたラヴクラフトの事績も取り込んでいるとする{{sfn|平野|2019|p=52}}。以上を参照した上で{{harvtxt|平野|2019}} は、春樹の祖父である村上弁識がモデルであったとの説を提示している。その根拠として平野は、弁識の「[[識]]」はハートフィールドの「ハート」(心)に通じる語であることを挙げ、傍証として『風の歌を聴け』の物語が終わる日付(8月26日)と弁識の命日といった作中の数字と弁識に関する数字との一致を挙げる{{sfn|平野|2019|pp=60-61}}。なお平野によると、HeartfieldやHertfield、Hartfieldといった人名は英語圏には存在しない{{sfn|平野|2019|p=61}}。

== 批評 ==
{{harvtxt|山|2013}} は、具体像を欠いた人物であることによりハートフィールドは逆説的に読者に対して強烈な存在感を与え続けており、それは村上作品に通底する<q>〈[[存在|在]]〉と〈不在〉</q>という主題<q>を巡る問題の本質を体現している</q>{{sfn|山|2013|p=42}}としたうえで、作中で繰り返される[[3]]という数字と関連付け、<q>ハートフィールドが存在するのは,在と不在の『二』の世界ではなく、それらを超えた『三』の世界</q>{{sfn|山|2013|p=44}}なのだと述べる。またハートフィールドの[[飛び降り|投身自殺]]については、死によってしか地上という現実世界との繋がりを持つことができなかったのだという逆説的な象徴性が孕まれていると解釈し、<q>俺はいつかこれ[コレクションの中で最も自慢の品である[[回転式拳銃|リヴォルヴァー]]]で俺自身をリヴォルヴするのさ</q>というハートフィールドの口癖からは、<q>『生』と『死』、『在』と『不在』の循環</q>が連想されるとする{{sfn|山|2013|pp=44-45}}。そして、村上にとって小説の執筆とは<q>物語自体が自発的に語り始める生成の場</q>{{sfn|山|2013|p=49}}における<q>世界の組み換え作業</q>であると述べ{{sfn|山|2013|p=48}}、[[心理療法]]と同様に安全と危険との均衡が重要であるその営みにおいて、ハートフィールドは<q>危険過ぎた</q>ゆえに死ぬしかなかったのだと分析している{{sfn|山|2013|p=50}}。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{notelist2|45em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}

== 参考文献 ==
* {{cite book|和書|date=1982-07-15|last=村上|first=春樹|authorlink=村上春樹|chapter=ハートフィールド再び……(あとがきにかえて)|pages=153-155|title=風の歌を聴け|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社文庫]]|isbn=4-06-131777-6|ref=harv}}
* {{cite book|和書|date=1990-05-21|last=村上|first=春樹|authorlink=村上春樹|chapter=風の歌を聴け|pages=5-120|title=村上春樹全作品1979&#x301C;1989|volume=1(風の歌を聞け・1973年のピンボール)|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-187931-6|ref=harv}}
* {{cite book|和書|date=1986-08|last=久保|first=輝巳|chapter=1章 ある図書館司書の生活|title=図書館司書という仕事|series=仕事シリーズ|publisher=[[ぺりかん社]]|id={{国立国会図書館書誌ID|000001827203}}|ref=harv}}<!--date, id等追加時文献未確認-->
* {{cite journal|和書|date=2013-10-01|last=山|first=愛美|authorlink=山愛美|title=村上春樹の創作過程についての覚書(3)— デレク・ハートフィールドを巡る在と不在のテーマ|journal=人間文化研究|publisher=[[京都学園大学]]人間文化学会|volume=31|pages=39-60|naid=110009843004|ref=harv}}
* {{cite journal|和書|date=2019-11-30|last=平野|first=芳信|authorlink=平野芳信|title=デレク・ハートフィールド考 — {{lang|en|A Wild Heartfield Chase}}(当てのない追究)|journal=京都語文|publisher=佛教大学国語国文学会|issue=27|pages=50-66|naid=120006773191|ref=harv}}

<p style="margin-top:1.5em;">※以下は、{{harvtxt|山|2013}} および {{harvtxt|平野|2019}} より孫引きした文献である。</p>

* {{cite magazine|和書|date=1979|last=横山|first=政男|title=群像新人文学賞゠村上春樹さん(29歳)は、レコード三千枚所有のジャズ喫茶店主|magazine=[[週刊朝日]]|publisher=[[朝日新聞社]]|issue=5月4日号|id={{国立国会図書館書誌ID|000000010717}}|ref={{sfnref|週刊朝日|1979}}}}
* {{cite magazine|和書|date=1979-07|last=上田|first=三四二|authorlink=上田三四二|last2=三木|first2=卓|authorlink2=三木卓|last3=菅野|first3=昭正|authorlink3=菅野昭正|title=第四十三回 創作合評|magazine=[[群像 (代表的なトピック)|群像]]|publisher=[[講談社]]|volume=34|issue=7|pages=334-356|doi=10.11501/6047749|ref=harv}}
* {{cite magazine|和書|date=1983|title=【一期一会゠ブックインタビュー】村上春樹[羊をめぐる冒険○ ぼくらのモダンファンタジー]|magazine=[[幻想文学 (雑誌)|幻想文学]]|publisher=アトリエOCTA|issue=通巻3号|pages=4-14|id={{国立国会図書館書誌ID|000000047351}}|ref={{sfnref|幻想文学|1983}}}}
* {{cite journal|和書|date=1985-03|last=畑中|first=佳樹|authorlink=畑中佳樹|title=アメリカ文学と村上春樹 — または、春樹とアメリカン・パルプの香り|journal=[[國文學|國文学]]|publisher=[[学燈社]]|volume=30|issue=3|naid=40001355131|ref=harv}}
* {{cite book|和書|date=1991-11|last=久居|first=つばき|last2=くわ|first2=正人|chapter=『ハートフィールド』を求めて|title=象が平原に還った日 — キーワードで読む村上春樹|publisher=[[新潮社]]|isbn=4-10-382901-X|ref=harv}}
* {{cite book|date=2002|first=Jay|last=Rubin|authorlink=ジェイ・ルービン|title=Haruki Murakami and the Music of Words|publisher=[[:en:Harvill Secker|Harvill Press]]|isbn=0-09-945544-7|language=en|ref=harv}}
** {{cite book|和書|date=2006-09|first=ジェイ|last=ルービン|authorlink=ジェイ・ルービン|title=ハルキ・ムラカミと言葉の音楽|publisher=新潮社|translator=[[畔柳和代|畔柳, 和代]]|isbn=4-10-505371-X}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[キルゴア・トラウト]] - [[カート・ヴォネガット]]が作中にしばしば登場させる架空のSF作家。
* [[キルゴア・トラウト]] - [[カート・ヴォネガット]]が作中にしばしば登場させる架空のSF作家。

== 外部リンク ==
*[http://www.tokyo-kurenaidan.com/haruki-kaze2.htm 村上春樹の「でっちあげ」告白]
*[http://papativa.jp/archives/158 「デレク・ハートフィールド=庄司薫」という説の紹介]


{{村上春樹}}
{{村上春樹}}

2021年5月14日 (金) 06:45時点における版

デレク・ハートフィールドDerek Heartfield1909年 - 1938年)は、村上春樹の小説『風の歌を聴け』の中に登場する架空の人物。同作の主人公「僕」[注 1]が最も影響を受けた作家として登場する。代表作は冒険小説と怪奇モノを掛け合わせた『冒険児ウォルド』シリーズとされる。

『風の歌を聴け』の発表当初、実在の人物であるか議論を呼び、図書館や書店に問い合わせがなされ混乱を引き起こすなど、現実世界にも影響を与えた。

設定

以下、本節の記述は全て『風の歌を聴け』の中で語られる架空の設定[1]である。

生涯

デレク・ハートフィールドは、1909年アメリカ合衆国オハイオ州の小さな町で、無口な電信技師の父と星占いとクッキーを焼くのがうまい小太りな母のもとに生まれた。幼少時代は友人が少なく、暇を見つけてはコミック・ブックパルプ・マガジンを読み漁った。高校卒業後、郵便局員となったが長続きせず、小説家へと進路を定めた[2]

1930年、5作目の短編が『ウェアード・テールズ』に20ドルで買い取られ、以降レミントンタイプライターを半年で買い換えるペース[注 2]で執筆を進めた[2]

1938年6月、母の死の直後のある晴れた日曜日の朝[3]エンパイア・ステート・ビルの屋上から飛び降り[3]て死亡[2][4]。この際、右手にヒットラーの肖像画を抱え、左手に傘をさし[3]ていた[4]昼の光に、夜の闇の深さがわかるものかというニーチェによる言葉[注 3]が遺言に従い刻まれた[2]オハイオ州のハイヒールの踵ぐらいの小さな墓[6]に埋葬されている。

人物と作風

好きなものは銃と猫と母親のクッキーだけであり、銃に関しては全米一のコレクターと呼べるほど打ち込んでいた[2]

作品のほとんどは冒険小説ないし怪奇ものであり、代表作の『冒険児ウォルド』シリーズはその二つをうまく合せていると評される[7]。作中で人生・夢・愛といった主題を直接的に扱うことは稀であった。ハートフィールドは小説について、それが情報であるという前提のもと、グラフや表で表現できるべきであり、その正確さは文量に比例すると考えており、この観点からロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を高く評価していた。一方レフ・トルストイの『戦争と平和』については(「僕」によるとハートフィールドにとっては大抵の場合「不毛さ」を意味する)宇宙の観念が不足しているという理由により、再三の批判を加えている。また、『フランダースの犬』もお気に入りであった[8]

「僕」はハートフィールドについて、ストーリーは出鱈目であり、テーマも稚拙だったが、文章を武器として闘うことのできるという点において、同時代のアーネスト・ヘミングウェイF・スコット・フィッツジェラルドにも劣らない非凡で稀有な作家であった評し、文章についての多くをデレク・ハートフィールドに学んだ。殆ど全部、というべきかもしれないと語っている[9][4]

作品

  • 『卵の空中一回転』 A spin in the air of an egg1935年
  • 『気分が良くて何が悪い?』[3] What is so bad about feeling good?1936年
  • 『虹のまわりを三周半』[10]1937年
  • 『北斗星から垂直に降りる』
  • 『冒険児ウォルド』全42編[2]
  • 『火星の井戸』[11]1938年

参考文献

  • トーマス・マックリュア[注 4]『不妊の星々の伝説』The Legend of the Sterile Stars1968年[12]

現実世界への影響

『風の歌を聴け』の発表当初(1979年5月)、大学図書館などでは、「デレク・ハートフィールドの著作を読みたい」という学生のリクエストに応えて司書が著作を探しては首をかしげるという誤解が後を絶たず、書店でも混乱が生じたとされる[13][要ページ番号][1]。村上は群像新人文学賞直後の週刊朝日 (1979) において、ハートフィールドはでっちあげですよと答えており、ハートフィールドが架空の人物であるということについてはこの時点で一応の決着がついている[1]

『風の歌を聴け』には『群像』(1979年6月号)への掲載後の単行本化の際(1979年7月25日)に「ハートフィールド再び……」という後書きに当たる文章が付け加えられている[14]。この「後書き」において村上は、(「僕」は[15]ハートフィールドという作家に出会わなければ小説なんて書かなかったろうと書き[16]、(「僕」が[15][14])ハートフィールドの墓を訪れたとも記している[6]平野 (2019, pp. 53–54) はこれについて、上田, 三木 & 菅野 (1979) においてハートフィールドが実在の人物であるか否かについて議論が交わされたことを受け、いわばダメ押しをするために加筆されたものであると推測している。

その後幻想文学 (1983) において村上は、某洋書店がデレク・ハートフィールドの註文を受け迷惑したことや、出版社で架空の人物をあとがきに書いたことなどが問題になったことを語っている[4][1]

モデルの推定

村上自身は幻想文学 (1983) において、カート・ヴォネガットハワード・フィリップス・ラヴクラフトロバート・E・ハワードといった好きな作家を混ぜあわせてひとつにしたものですねと述べている。また、畑中 (1985) は、経歴の類似性からハワードがモデルであると比定し、久居 & くわ (1991) は、同様に架空の書籍の引用という手法を用いたラヴクラフトの事績も取り込んでいるとする[14]。以上を参照した上で平野 (2019) は、春樹の祖父である村上弁識がモデルであったとの説を提示している。その根拠として平野は、弁識の「」はハートフィールドの「ハート」(心)に通じる語であることを挙げ、傍証として『風の歌を聴け』の物語が終わる日付(8月26日)と弁識の命日といった作中の数字と弁識に関する数字との一致を挙げる[17]。なお平野によると、HeartfieldやHertfield、Hartfieldといった人名は英語圏には存在しない[18]

批評

山 (2013) は、具体像を欠いた人物であることによりハートフィールドは逆説的に読者に対して強烈な存在感を与え続けており、それは村上作品に通底する〉と〈不在〉という主題を巡る問題の本質を体現している[19]としたうえで、作中で繰り返される3という数字と関連付け、ハートフィールドが存在するのは,在と不在の『二』の世界ではなく、それらを超えた『三』の世界[20]なのだと述べる。またハートフィールドの投身自殺については、死によってしか地上という現実世界との繋がりを持つことができなかったのだという逆説的な象徴性が孕まれていると解釈し、俺はいつかこれ[コレクションの中で最も自慢の品であるリヴォルヴァー]で俺自身をリヴォルヴするのさというハートフィールドの口癖からは、『生』と『死』、『在』と『不在』の循環が連想されるとする[21]。そして、村上にとって小説の執筆とは物語自体が自発的に語り始める生成の場[22]における世界の組み換え作業であると述べ[23]心理療法と同様に安全と危険との均衡が重要であるその営みにおいて、ハートフィールドは危険過ぎたゆえに死ぬしかなかったのだと分析している[24]

脚注

  1. ^ 以下、本記事における「僕」は『風の歌を聴け』の主人公を指すものとする。
  2. ^ デビュー翌年の1931年には毎月7万語、死の前年の1937年には毎月15万語[2]
  3. ^ 山 (2013, p. 56) は、この言葉と村上の川に落ちて,ぱっくりと口を開けた暗渠に流されていくという恐ろしい体験[5]という最初の記憶との類似性を指摘している。
  4. ^ Thomas McClure。唯一のハートフィールド研究家[6]

出典

  1. ^ a b c d 山 2013, p. 39.
  2. ^ a b c d e f g 村上 1990, p. 119.
  3. ^ a b c d 村上 1990, p. 9.
  4. ^ a b c d 平野 2019, p. 51.
  5. ^ Rubin 2002.
  6. ^ a b c 村上 1982, p. 154.
  7. ^ 村上 1990, p. 120.
  8. ^ 村上 1990, p. 95.
  9. ^ 村上 1990, p. 8.
  10. ^ 村上 1990, p. 94.
  11. ^ 村上 1990, pp. 95–97.
  12. ^ 村上 1982, p. 155.
  13. ^ 久保 1986.
  14. ^ a b c 平野 2019, p. 52.
  15. ^ a b 山 2013, p. 46.
  16. ^ 村上 1982, p. 153.
  17. ^ 平野 2019, pp. 60–61.
  18. ^ 平野 2019, p. 61.
  19. ^ 山 2013, p. 42.
  20. ^ 山 2013, p. 44.
  21. ^ 山 2013, pp. 44–45.
  22. ^ 山 2013, p. 49.
  23. ^ 山 2013, p. 48.
  24. ^ 山 2013, p. 50.

参考文献

  • 村上, 春樹「ハートフィールド再び……(あとがきにかえて)」『風の歌を聴け』講談社講談社文庫〉、1982年7月15日、153-155頁。ISBN 4-06-131777-6 
  • 村上, 春樹「風の歌を聴け」『村上春樹全作品1979〜1989』 1(風の歌を聞け・1973年のピンボール)、講談社、1990年5月21日、5-120頁。ISBN 4-06-187931-6 
  • 久保, 輝巳「1章 ある図書館司書の生活」『図書館司書という仕事』ぺりかん社〈仕事シリーズ〉、1986年8月。国立国会図書館書誌ID:000001827203 
  • 山, 愛美「村上春樹の創作過程についての覚書(3)— デレク・ハートフィールドを巡る在と不在のテーマ」『人間文化研究』第31巻、京都学園大学人間文化学会、2013年10月1日、39-60頁、NAID 110009843004 
  • 平野, 芳信「デレク・ハートフィールド考 — A Wild Heartfield Chase(当てのない追究)」『京都語文』第27号、佛教大学国語国文学会、2019年11月30日、50-66頁、NAID 120006773191 

※以下は、山 (2013) および 平野 (2019) より孫引きした文献である。

関連項目