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「太田真一 (競輪選手)」の版間の差分

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[[1999年]]には[[高松宮記念杯競輪]]決勝において逃げ切り[[競輪の競走格付け#GI (G1)|GI]]初制覇を果たすと、同年の[[KEIRINグランプリ'99|KEIRINグランプリ]]でも逃げ切って優勝した<ref>[https://www.nikkansports.com/public_race/keirin/kantoumon/news/201812140000474.html GPまで2週間、3度出場の太田真一がVロード語る] - 日刊スポーツ 「敢闘門の向こう側」 2018年12月14日</ref>(歴代10人目の覇者)。
[[1999年]]には[[高松宮記念杯競輪]]決勝において逃げ切り[[競輪の競走格付け#GI (G1)|GI]]初制覇を果たすと、同年の[[KEIRINグランプリ'99|KEIRINグランプリ]]でも逃げ切って優勝した<ref>[https://www.nikkansports.com/public_race/keirin/kantoumon/news/201812140000474.html GPまで2週間、3度出場の太田真一がVロード語る] - 日刊スポーツ 「敢闘門の向こう側」 2018年12月14日</ref>(歴代10人目の覇者)。


[[2000年]]には[[シドニーオリンピック]]にケイリンとスプリントで出場したが、直前の[[仁親王牌・世界選手権記念トーナメント]]決勝において落車により骨折したことが響き、目立った成績は残せなかった。しかし[[2003年]]に同じ寛仁親王牌において番手捲りから優勝を果たした。
[[2000年]]には[[シドニーオリンピック]]にケイリンとスプリントで出場したが、直前の[[仁親王牌・世界選手権記念トーナメント]]決勝において落車により骨折したことが響き、目立った成績は残せなかった。しかし[[2003年]]に同じ寛仁親王牌において番手捲りから優勝を果たした。


その後[[2012年]][[6月]]より[[2016年]]6月まで選手会の埼玉支部長を務めた。
その後[[2012年]][[6月]]より[[2016年]]6月まで選手会の埼玉支部長を務めた。
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* [[1996年]] - [[朝日新聞社杯競輪祭|競輪祭新人王]]([[小倉競輪場]])
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* [[1999年]] - [[高松宮記念杯競輪]]([[大津びわこ競輪場]])、[[KEIRINグランプリ]]([[立川競輪場]])
* [[1999年]] - [[高松宮記念杯競輪]]([[大津びわこ競輪場]])、[[KEIRINグランプリ]]([[立川競輪場]])
* [[2003年]] - [[仁親王牌・世界選手権記念トーナメント|寛仁親王牌]]([[前橋競輪場]])
* [[2003年]] - [[仁親王牌・世界選手権記念トーナメント|寛仁親王牌]]([[前橋競輪場]])


== 競走スタイル ==
== 競走スタイル ==

2021年4月27日 (火) 14:54時点における版

太田 真一(おおた しんいち、1975年10月11日 - )は、競輪選手、元自転車競技選手。埼玉県出身。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第75期生。日本競輪選手会埼玉支部所属(元支部長)。登録番号12955。師匠は実兄の太田耕二(引退)。長男の龍希[1]も競輪選手(第117期生)。

初出走は1995年4月8日宇都宮競輪場で初勝利も同日。

来歴

若い頃からジュニアオリンピックカップのスプリントで優勝するなど、自転車競技を早くから行っており、自転車競技の名門である埼玉県立川越工業高等学校に進学するとインターハイで1000mTT高校新記録を樹立(25年間記録として残り、息子の龍希が更新した。)するなどの実績を残した。

卒業後は競輪学校に入校し、競輪選手としてデビュー後はすぐにS級特進を果たすなど目覚しい活躍を見せ、1996年4月には早くもS級1班に昇進し、年末には競輪祭新人王戦を優勝する。

1999年には高松宮記念杯競輪決勝において逃げ切りGI初制覇を果たすと、同年のKEIRINグランプリでも逃げ切って優勝した[2](歴代10人目の覇者)。

2000年にはシドニーオリンピックにケイリンとスプリントで出場したが、直前の寬仁親王牌・世界選手権記念トーナメント決勝において落車により骨折したことが響き、目立った成績は残せなかった。しかし2003年に同じ寛仁親王牌において番手捲りから優勝を果たした。

その後2012年6月より2016年6月まで選手会の埼玉支部長を務めた。

日本自転車競技連盟の審判資格を持っており、時折ロードレース大会でアマチュアを指導することもある[3]

主な獲得タイトル

競走スタイル

デビュー時から圧倒的な先行力で注目を集め、関東地区の牽引役として大きな役割を果たしていた。近年は捲り兼備の追い込み選手として活躍している。

脚注

  1. ^ 第117回生徒 主なる合格者” (PDF). keirin.jp (2019年1月17日). 2019年5月19日閲覧。
  2. ^ GPまで2週間、3度出場の太田真一がVロード語る - 日刊スポーツ 「敢闘門の向こう側」 2018年12月14日
  3. ^ “太田真一「感じまずまず」地元唯一決勝進出/西武園”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). (2020年10月21日). https://www.nikkansports.com/public_race/news/202010210000584.html 2020年10月21日閲覧。 

関連項目

外部リンク