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2021年9月18日 (土) 07:20時点における版
佐多 | |
---|---|
1921年初め、東京湾で公試中の「佐多」[1] | |
基本情報 | |
建造所 | 横浜船渠[2] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 |
特務船[3] 運送艦[4](給油艦[5]) |
級名 | 知床型[6] |
建造費 | 成立予算 1,500,000円[7] |
母港 | 佐世保[8] |
艦歴 | |
計画 | 大正7年度(1918年)、八六艦隊案[9] |
起工 | 1920年3月6日[10][2] |
進水 | 1920年10月28日[11] |
竣工 | 1921年2月24日[12] |
最期 | 1944年3月31日[13] |
除籍 | 1944年5月10日[14] |
要目(主に1924年) | |
基準排水量 | 公表値 14,050トン[2] |
常備排水量 | 計画 15,400トン[2][15] |
軽荷排水量 | 5,315.43トン[5] |
総トン数 | 7,642.70総トン[5] |
全長 | 470 ft 9 in (143.48 m)[5] |
垂線間長 | 455 ft 0 in (138.68 m)[5] |
最大幅 | 58 ft 0 in (17.68 m)[5] |
深さ | 計画 35 ft 0 in (10.67 m)[15] |
吃水 |
計画 26 ft 6 in (8.08 m)[15] 軽荷平均 10 ft 3+1⁄8 in (3.13 m)[16] |
ボイラー |
単口煙管缶(単円缶[5][17]) 4基(1923年時)[8] イ号艦本式缶 4基(1938年時)[18] |
主機 | 直立3気筒3段レシプロ1基[18] |
推進 |
1軸 x 80rpm(計画)[19] 直径5.486m、ピッチ5.943m[19] |
出力 | 5,600馬力[5] |
速力 |
15ノット[5] 経済速力 8ノット[5] |
燃料 | 石炭 庫内1,600トン + 庫外205トン[5] |
航続距離 | 6,300カイリ / 8ノット[5] |
乗員 | 定員 157名[20][注釈 1] |
搭載能力 |
補給用重油 8,661トン[5] 同缶水160トン、清水140トン[5] 獣肉、魚肉、野菜の各冷蔵庫[5] 載貨重量 1485.75トン[5] |
兵装 |
50口径3年式14cm単装砲 2門[18] 40口径三年式8cm単装高角砲 2門[18] (竣工時に砲は装備していない[21]) |
搭載艇 | 内火艇1隻、カッター2隻、通船1隻[5] |
その他 |
2.5トン・デリック 4本[5] 便乗者用寝台 7床[5] 潜水艦救難設備[22] |
トンはすべて英トン 計画要目は知床型給油艦も参照 |
佐多(さた)は日本海軍の給油艦[5]。知床型の4番艦[6]。鹿児島県の佐多岬より名称が取られる[23]。
概要
1921年(大正10年)2月24日に横浜船渠にて竣工し、佐世保鎮守府籍となる。竣工から1937年(昭和12年)までは海外からの重油輸送に従事した。『日本海軍史 第7巻』によると同年8月から9月にかけて佐世保工廠で航空機搭載設備を設置し、特設水上機母艦として特別大演習に参加した。また同年の支那事変(日中戦争)勃発により中国沿岸に進出し、補給任務にあたっている。
潜水艦救難
1938年(昭和13年)、潜水艦救難設備が装備されていた工作艦「朝日」が支那事変の戦場に向かったため、「朝日」に代わって潜水艦救難設備が装備され[22][24]、2度の潜水艦遭難の際にはそれを使って沈没潜水艦の引き揚げを行った。
1度目は「伊63」で、1939年(昭和14年)2月2日に伊予灘で水上で漂泊中に「伊60」に衝突され沈没した。水深が97メートルと深く、また潮流も速いため、潜水夫による作業がほとんど不可能だった。そのために半年以上が経過してようやく船体に索が回された。干満差による海面の昇降とタンクの注排水によって徐々に船体を引き揚げて移動する潮吊り法が使われて、本艦によって沈没潜水艦は浅瀬に移動した。最後はトラス船によって海岸に移動し、遺体収容、事故調査等が行われた。これらの作業に1年ほど掛かった。
2度目は1941年(昭和16年)10月2日に「伊61」が玄界灘で特設砲艦「木曾丸」(大阪商船、703トン)と衝突し、水深65メートルの場所に沈没。掃海によって索を回したところで、12月3日より潮吊り法を用いて引き上げられた。12月26日に水深20メートルの浅瀬まで移動し、その後はトラス船によって1942年(昭和17年)1月20日に浮揚されている。
太平洋戦争
太平洋戦争開戦時には佐世保鎮守府付属として、引き続き伊61の引き揚げに従事。1942年2月に海軍省所属となり、サイゴンに進出して航空燃料の輸送任務に従事。ミッドウェー海戦では「鶴見」と共に攻略部隊の補給隊として参加した。以後は各地への燃料輸送に従事。1943年(昭和18年)12月1日以降は連合艦隊付属となる。1944年(昭和19年)2月12日、特設給兵船「日朗丸」(日産汽船、6,534トン)などとともに輸送船団を構成し、駆逐艦「浜波」の護衛を受けてトラックを出港[25]。しかし、2月17日夜にパラオ北方でアメリカ潜水艦サーゴ (USS Sargo, SS-188) の攻撃を受け、後部を深く沈めて航行不能に陥る[26]。「浜波」が警戒し、特設給兵船「新玉丸」(玉井商船、6,783トン)によって曳航され、2月20日にパラオに到着する[27]。修理が行われたが、3月31日[13]に第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機によるパラオ大空襲を受けて沈没した。この空襲では、同型艦「石廊」、給油艦「大瀬」なども失われている。
1944年5月10日に除籍された。
1947年5月5日、佐多は浮揚され解体された。
特務艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。
- 艤装員長
- 特務艦長
- 加藤弘三 大佐:1921年2月24日 - 1921年12月20日[29]
- 古賀琢一 大佐:1921年12月20日[29] - 1921年12月27日[30]
- 谷川清治 大佐:1921年12月27日[30] - 1922年5月15日[31]
- 高崎親輝 大佐:1922年5月15日 - 1922年11月10日
- (兼)橋本才輔 大佐:1922年12月1日 - 1923年4月1日
- 佐藤巳之吉 大佐:1923年4月1日 - 1923年10月15日
- (心得)成富保治 中佐:1923年10月15日[32] - 1924年1月10日[33]
- (心得)吉川真清 中佐:1924年1月10日[33] - 不詳
- 吉川真清 中佐:不詳 - 1924年11月1日[34]
- 長井実 中佐:1924年11月1日 - 1925年12月1日
- 坪井丈左衛門 中佐:1925年12月1日[35] - 1926年2月20日[36]
- 北正一郎 大佐:1928年3月1日[37] - 1928年11月15日[38]
- 武藤浩 中佐:1928年11月15日[38] - 1929年11月1日[39]
- 伊佐卓弥 大佐:不詳 - 1930年12月1日[40]
- (兼)小倉万次郎 大佐:1930年12月1日[40] - 1931年1月15日[41]
- 佐久間敬太郎 中佐:1931年1月15日[41] - 1931年12月1日[42]
- 高橋栄吉 中佐:1931年12月1日[42] - 1932年2月1日[43]
- (兼)谷池三郎 大佐:1932年2月1日[43] - 1932年11月15日[44]
- 稲川与三郎 中佐:1932年11月15日[44] - 1933年11月15日[45]
- 前沢弼治 中佐:1933年11月15日[45] - 1934年10月15日[46]
- 水崎正次郎 中佐:1934年10月15日 - 1935年4月18日
- 一瀬信一 大佐:1935年4月18日 - 1935年10月15日
- 福田貞三郎 中佐:1935年10月15日 - 1936年3月20日
- 池内正方 大佐:1936年3月20日 - 1936年11月2日
- 森国造 中佐:1936年11月2日 - 1937年12月1日
- 石崎昇 大佐:1937年12月1日 - 1938年4月15日
- (兼)西尾秀彦 大佐:1938年12月10日 - 1939年1月28日
- (兼)来島茂雄 大佐:1939年1月28日[47] - 1939年7月1日[48]
- (兼)三浦友三郎 大佐:1939年7月1日 - 1939年9月28日
- 三浦友三郎 大佐:1939年9月28日 - 1940年2月15日
- (兼)難波祐之 大佐:1940年2月15日[49] - 1940年5月15日[50]
- 渋谷清見 中佐:1940年10月15日 - 1941年9月20日
- 草川淳 予備大佐:1941年9月20日 - 1941年10月6日
- 村尾二郎 大佐:1941年10月6日 - 1942年10月1日[要出典]
- 長谷部喜蔵 大佐:1942年10月1日 - 1943年2月1日[要出典]
- 高橋棐 大佐:1943年2月1日[要出典] - 1944年4月15日[51]
公試成績
実施日 | 種類 | 排水量 | 出力 | 速力 | 場所 | 備考 | 出典 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1921年2月1日 | 予行運転 | 7,375英トン | 5,695馬力 | 15.509ノット | 元名、岩井袋間(東京湾) | [52] |
脚注
注釈
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第二その三「大正十二年三月調艦艇要目等一覧表 その三 潜水艦、水雷艇、特務艦」によると1923年3月調べで142名(石廊157名)、#海軍制度沿革巻十一の2pp.1084-1085、昭和3年艦船要目公表範囲では公表値として155名としている。
出典
- ^ #写真日本の軍艦第13巻p.10下中写真と解説
- ^ a b c d #海軍制度沿革巻十一の2pp.1057-1087、昭和3年2月14日附内令第43号、艦船要目公表範囲。うちpp.1084-1085。
- ^ #海軍制度沿革巻八pp.374『大正八年五月二十四日(達九五) 軍備補充費ヲ以テ大正八年度ニ於テ建造ニ著手スヘキ一等駆逐艦五隻二等駆逐艦五隻及特務船二隻ニ左ノ通命名ス(駆逐艦省略) 特務船二隻 佐多(サタ) 野間(ノマ)』
- ^ #海軍制度沿革巻八pp.103『大正九年四月一日(達四〇) 特務艦類別等級別表ノ通定ム (別表省略)』
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t #T14公文備考42/特務艦要目画像5-18、特務艦要目表(大正13年11月調)海軍省軍務局。ただし佐多の項には計画値と思われる数値が混在する。
- ^ a b #海軍制度沿革巻八pp.105『大正十五年十一月二十九日(内令二三九) 特務艦類別等級別表ノ通定ム (別表省略)』種別:運送艦、等級:(空白)、艦型:知床型、特務艦名:知床、能登呂、襟裳、佐多、鶴見、尻矢、石廊。
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.259
- ^ a b #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第二その三「大正十二年三月調艦艇要目等一覧表 その三 潜水艦、水雷艇、特務艦」
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.257-264
- ^ #T10公文備考24/特務艦佐多製造一件(1)画像8-9、大正9年7月10日提出の特務艦佐多工事予定概括表
- ^ #T10公文備考24/特務艦佐多製造一件(1)画像28、『大正九年十月二十八日 午後四時四十分横須賀局發 五時四十分海軍局着 横須賀鎮守府司令長官 海軍大臣 (平文) 横濱舩渠株式會社ニテ建造中ノ特務艦佐多本日午後四時三十分無事進水セリ』
- ^ #T10公文備考24/特務艦佐多製造一件(1)画像45、『大正十年二月二十日 午後一時三十五分横浜局發 午後二時四十分海軍局著 發信者(在横浜)淡中監督官 受信者 艦政本部長 電報譯 佐多本日(二月十四日)引渡シヲ了ス (了)』
- ^ a b 『世界の艦船 日本海軍特務艦船史』16ページ、『写真 日本の軍艦 第13巻』43ページの行動年表による。一方『日本海軍史 第7巻』451ページ、伊達「第二次世界大戦 日本海軍作戦年史」によると3月30日の沈没とされている
- ^ #S19.1-7内令/昭和19年5月画像30-32『内令第六百五十七號(中略)呉鎮守府在籍 特務艦 石廊 特務艦 明石 佐世保鎮守府在籍 特務艦 佐多 舞鶴鎮守府在籍 特務艦 大瀬 右帝國特務艦籍ヨリ除カル 昭和十九年五月十日 海軍大臣 嶋田繁太郎』
- ^ a b c #T7公文備考20/特務艦製造画像27、(参考)能登呂級給油船 Particulars of 8,000 Ton Oil Steamer. July 12th, 1918.
- ^ #T14公文備考42/特務艦要目画像5-6、前部6ft-0in3/4、後部14ft-5in3/8
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第三その三「昭和六年三月調艦艇要目等一覧表 その三 潜水艦、特務艦、掃海艇」
- ^ a b c d #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第四その二「昭和十三年三月調艦艇要目等一覧表 その二 潜水艦、水雷艇、特務艦、特務艇、新造艦船」
- ^ a b #海軍造船技術概要p.1726
- ^ #海軍制度沿革巻十の2pp.645『大正九年八月一日(内令二七七) 海軍定員令中左ノ通改正セラル 附表ノ通運送艦定員表其四ヲ加フ(附表略)』能登呂定員表の計欄、士官11人、特務士官2人、准士官3人、下士官26人、兵115人。同書p.647大正9年9月18日内令335知床追加、p.649同年12月16日内令497襟裳追加、p.651大正10年2月24日内令57佐多追加、p.658大正11年2月8日内令42尻矢追加、p.659同年3月14日内令77鶴見追加、p.663同年10月30日内令364石廊追加。#S19-10-31内令提要1上/第3類 定員(13)画像50、#S19-10-31内令提要1上/第3類 定員(14)画像1などから昭和19年まで戦時増員を除き定員の合計人数に変化はない。
- ^ 作成:阿部安雄「日本海軍補助艦艇要目表」#日本補助艦艇物語pp.388-391、特務艦の注1
- ^ a b 『世界の艦船 日本海軍特務艦船史』17ページによる。『写真 日本の軍艦 第13巻』11ページによると、竣工後に装備された貨物搭載用のヘビーデリックを使用。
- ^ 日本海軍艦船名考pp.241
- ^ 『写真 日本の軍艦13』11ページ
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』pp.9,24
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』pp.27
- ^ 『第二水雷戦隊戦時日誌』pp.9,48
- ^ 『官報』第2513号、大正9年12月16日。
- ^ a b 『官報』第2817号、大正10年12月21日。
- ^ a b 『官報』第2823号、大正10年12月28日。
- ^ 『官報』第2934号、大正11年5月16日。
- ^ 『官報』第3347号、大正12年10月18日。
- ^ a b 『官報』第3414号、大正13年1月12日。
- ^ 『官報』第3659号、大正13年11月3日。
- ^ 『官報』第3982号、大正14年12月2日。
- ^ 『官報』第4046号、大正15年2月22日。
- ^ 『官報』第351号、昭和3年3月2日。
- ^ a b 『官報』第567号、昭和3年11月17日。
- ^ 『官報』第854号、昭和4年11月2日。
- ^ a b 『官報』第1179号、昭和5年12月2日。
- ^ a b 『官報』第1212号、昭和6年1月16日。
- ^ a b 『官報』第1478号、昭和6年12月2日。
- ^ a b 『官報』第1525号、昭和7年2月2日。
- ^ a b 『官報』第1765号、昭和7年11月16日。
- ^ a b 『官報』第2064号、昭和8年11月16日。
- ^ 『官報』第2339号、昭和9年10月16日。
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第292号 昭和14年1月28日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075300
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第353号 昭和14年7月3日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076000
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第440号 昭和15年2月16日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077700
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第478号 昭和15年5月16日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078100
- ^ 「昭和19年4月18日付 海軍辞令公報(部内限) 第1430号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072097400
- ^ #T10公文備考24/特務艦佐多製造一件(1)画像44
参考文献
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 第二水雷戦隊司令部『自昭和十九年二月一日至昭和十九年二月二十九日 第二水雷戦隊戦時日誌』(昭和18年12月1日〜昭和19年2月29日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4))レファレンスコード:C08030102100
- 『大正7年 公文備考 巻20 艦船1/特務艦製造』。Ref.C08021104600。
- 『大正10年 公文備考 巻24 艦船/特務艦佐多製造一件(1)』。Ref.C08050173400。
- 『大正10年 公文備考 巻24 艦船/特務艦佐多製造一件(2)』。Ref.C08050173500。
- 『大正14年 公文備考 巻42 艦船止/特務艦要目』。Ref.C08051419000。
- 『昭和19年1月~7月 内令/昭和19年5月』。Ref.C12070196700。
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- 海軍省/編 編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
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- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
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- 『世界の艦船 増刊第47集 日本海軍特務艦船史』海人社、1997年3月号増刊
- 日本造船学会『昭和造船史 第1巻』(原書房、1981年、第3刷)ISBN 4-562-00302-2
- 林寛司・戦前船舶研究会「特設艦船原簿」「日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶 第104号』戦前船舶研究会、2004年
- 福井静夫『日本補助艦艇物語』 福井静夫著作集第10巻、光人社、1993年12月。ISBN 4-7698-0658-2。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。
- 牧野茂、福井静夫/編 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4。
- 雑誌「丸」編集部/編 編『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』光人社、1990年8月。ISBN 4-7698-0463-6。
- 伊達久「第二次大戦 日本海軍作戦年誌」『写真 日本の軍艦14 小艦艇II』光人社、1990年、ISBN 4-7698-0464-4