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人類史上最悪の悪魔である。 |
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プーチンと共に世の中を崩壊させた悪魔として永久に語り継がれる事になるだろう。 |
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愛人を贔屓しまくって他の選手の指揮を下げてプロ野球球団をぶっ壊したクズ野郎が。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
2022年5月13日 (金) 15:06時点における版
阪神タイガース 監督 #88 | |
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阪神での現役時代 (阪神甲子園球場にて) | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 大阪府大阪市東住吉区(現:平野区) |
生年月日 | 1968年12月6日(55歳) |
身長 体重 |
181 cm 81 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1990年 ドラフト2位 |
初出場 | 1991年8月3日 |
最終出場 | 2010年5月8日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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指導歴 | |
国際大会 | |
代表チーム | 日本代表 |
五輪 | 2008年 |
この表について
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矢野 燿大(やの あきひろ、本名:矢野 輝弘〈読み同じ〉、1968年12月6日 - )は、大阪府大阪市東住吉区(現:平野区)瓜破出身の元プロ野球選手(捕手)、指導者、解説者・評論家。2019年より阪神タイガースの一軍監督を務める。右投右打。
現役時代は中日ドラゴンズ(1991年 - 1997年)と阪神(1998年 - 2010年)に在籍し、2003年・2005年には正捕手として、阪神のセ・リーグ優勝に貢献した。現役引退後、2013年11月からは野球日本代表のバッテリーコーチを務めた。2016年に一軍作戦兼バッテリーコーチとして阪神へ復帰[1]。2018年には阪神二軍(ウエスタン・リーグ)の監督を務めた[2]。
人類史上最悪の悪魔である。 プーチンと共に世の中を崩壊させた悪魔として永久に語り継がれる事になるだろう。 愛人を贔屓しまくって他の選手の指揮を下げてプロ野球球団をぶっ壊したクズ野郎が。
経歴
プロ入り前
小学2年時から、地元の少年野球チームで軟式野球をスタート。当初は遊撃手だったが、チームの捕手が故障してから捕手を務めた。大阪市立瓜破中学校への進学後は、校内に当時野球部がなかったため、バスケットボール部に所属していた。
大阪市立桜宮高等学校への進学を機に、校内の硬式野球部へ入部。少年野球時代の活躍を知る当時の監督・伊藤義博によって、1年生からレギュラーに抜擢された。伊藤が1年後に東北福祉大学の硬式野球部監督へ転じてからは、投手以外の全ポジションを経験、捕手として1年後輩の土井善和とバッテリーを組みながら、クリーンナップを担うまでに打撃力を伸ばした(後述)ほか、3年時には主将も務めた。高校通算で3本塁打を記録したものの、春・夏とも甲子園球場での全国大会出場を果たせなかった。
桜宮高校の卒業後に、伊藤のいた東北福祉大学へ進学。高校時代と同じく捕手以外のポジションもこなしていた関係で、1989年には三塁手として仙台六大学野球春季リーグ戦のベストナイン[3]に選ばれた。さらに、リーグ戦の終了後は、大学日本代表や第18回日米大学野球選手権のメンバーにも入っている[4]。4年時の仙台六大学野球リーグ戦では、捕手として春季から2季連続でベストナインに選出。ラストシーズンであった秋季には、最優秀選手と最多打点のタイトルも獲得した[3]。なお、チームは矢野の在学中に仙台六大学のリーグ戦で優勝を続けていて、矢野の4年時には大学選手権で決勝・明治神宮大会で準決勝へ進出した。また、金本知憲は矢野と同じ年齢ながら、1年浪人の後に矢野の下級生として入学。矢野と共にチームの主軸として活躍してから、卒業後に阪神で再びチームメイトになっている。
東北福祉大学からの卒業後に教職へ就くことも検討していたが、1990年のNPBドラフト会議で、読売ジャイアンツと中日ドラゴンズから2位で指名。指名の重複に伴う抽選の結果、中日が独占交渉権を獲得したため、4位で指名された東北福祉大学での同級生・吉田太と共に入団した。入団当初の背番号は2。この会議では、同大学から矢野・吉田以外にも、内野手の宮川一彦が横浜大洋ホエールズ、投手の小坂勝仁がヤクルトスワローズからそれぞれ指名。結局、同一大学・学年から4人のプロ野球選手が誕生している[5]。
中日時代
1991年、1年目から一軍公式戦へ出場。この年は22試合に出場し、プロ初本塁打も放った。翌1992年は72試合に出場。うち捕手として65試合に出場し、22試合に先発マスクを被る。打撃面でも打率.259と一定の成績を残した。
1993年からは出番が減り、1993年には24試合、1994年は35試合の出場に留まり、打撃面でも成績を残せなかった。1995年には57試合に出場したものの、同年オフのドラフト会議で1位指名を受けた荒木雅博に背番号2を譲る形で背番号38に変更。
1996年8月11日の対巨人戦では、野口茂樹とバッテリーを組んでノーヒットノーランを達成した。また、捕手として一軍に帯同しながら、打撃力の高さを買われて公式戦に外野手として出場することもあった。また、巨人が逆転優勝を決めたナゴヤ球場での最終戦には、1番・中堅手で出場。中日の選手としては同球場の公式戦で最後となる本塁打を放った。56試合の出場で、打率.346、7本塁打、19打点だった。
1997年は中日では最多の83試合に出場、うち捕手として60試合に出場した[6]。シーズン終盤は主に右翼手として起用され、合計62試合に先発出場を果たす。しかし、オフに大豊泰昭と共に、関川浩一・久慈照嘉との交換トレードで阪神へ移籍[7]。背番号は39となった。当初このトレードは中村武志放出の予定で進んでおり、もし実現していれば矢野を正捕手で起用する予定だったと当時中日の監督だった星野仙一がのちに振り返っている[8]。
阪神時代
移籍1年目の1998年は、当時の監督であった吉田義男にリード面を評価され、山田勝彦に代わってすぐに正捕手の座を勝ち取る。5月26日の対中日戦で川尻哲郎をリードして2度目のノーヒットノーランを記録。この試合の対戦投手は中日時代にノーヒットノーランを達成した野口茂樹であった[9]。この年、7月7日の横浜戦でこの日まで無敗で連続セーブ記録を続けていた、当時全盛期(この年のシーズンMVP)の“大魔神”こと佐々木主浩(東北福祉大の1年先輩)から、佐々木のその年唯一の敗戦となる逆転サヨナラヒットを記録した。同年はプロ入り初のシーズン100試合出場を果たし、最終的に打率.211と低調だったが110試合に出場した。
1999年、プロ入り9年目にして初めて規定打席に到達し、打率.304(リーグ10位)を記録した。阪神の捕手で規定打席に達した上での打率3割を記録したのは1979年の若菜嘉晴(打率.301)以来20年ぶりのことであった。
2000年、打率こそ前年を下回ったが正捕手に定着、こちらも若菜以来20年ぶりに2年連続捕手として規定打席に到達した。
2001年、オフ、このシーズン限りで監督を辞任した野村克也の後任として、かつて自らをトレードで放出した星野仙一が阪神監督に就任したことで、「また星野監督に捨てられてしまう」と失望したと後に語っている。
2002年、4月13日の横浜戦での本塁上のクロスプレイで相川亮二のタックルを受けて左肩脱臼。その後も骨折で戦線離脱するなど怪我が多く、好調だったチームも矢野の離脱と共に失速した。
2003年、前年オフに日本ハムファイターズの正捕手だった野口寿浩がトレードで入団。自身のポジションを危ぶまれたが、大学時代のチームメイトで広島東洋カープから移籍してきた金本知憲の影響を受け、強い体作りに着手。シーズンを通してほぼマスクを被り、8番の藤本敦士とともに「恐怖の下位打線」と呼ばれた。MVPは4点差で井川慶に譲ったものの、チーム防御率はセントラル・リーグトップの3.53、打撃でも打率.328(リーグ3位)を記録し、初のベストナインとゴールデングラブ賞を獲得。ゴールデングラブ賞は捕手として史上最年長での初受賞であった。同年6月17日の対横浜戦では矢野の打撃直後、一塁走者のジョージ・アリアスが若干遅れてスタートしたため、アリアスの生還よりも早く矢野が三塁に到達し、珍しいサヨナラ三塁打を記録した。
2004年には36歳にして自身初となる全試合出場を達成。しかし、シーズン終盤には捕逸などミスも目立った。また、辻恭彦以来球団史上2人目となる全試合マスクを目指したが、代打出場のみだった試合が1試合あり達成できなかった。
2005年には三振を減らすべく宮本慎也を参考にした打撃フォームに改造。自己最多の19本塁打を放ち、盗塁阻止率も自己最高記録を残す。自身2度目のベストナインとゴールデングラブ賞、日本シリーズ敢闘賞を獲得。同年、自身2回目となるFA権を取得し、オフに行使して残留。
2006年には17本塁打を放ち、通算100本塁打を達成。チーム2位の78打点も評価され、2年連続3度目のベストナインにも選出された。
2007年は週に1試合ほど野口寿浩や狩野恵輔にスタメンマスクを譲ることが多く、セ・パ交流戦時に右のふくらはぎを痛めたこともあり、一時登録を抹消。打率.236, 6本塁打と打撃不振に終わった。同年オフには北京オリンピックの野球日本代表に招集され[10]、アジア予選で試合の終盤を任される「抑え捕手」として活躍した。
2008年は野口が岩田稔や上園啓史ら若手とバッテリーを組み、矢野は主に安藤優也や下柳剛、福原忍らと組む併用でスタート。スタメン出場しなかった試合では終盤に代打で出場し、その後抑えの藤川球児とバッテリーを組むような起用が多く、2年ぶりに規定打席に到達。夏場には藤川、新井貴浩と共に北京オリンピック代表に招集された。
2009年は前年オフに手術した右肘の回復が遅れたため開幕から二軍での調整が続き、7月に一軍昇格した後もスタメン出場は安藤・下柳が先発する試合に限られた。8月16日には41歳の下柳と組んでプロ野球史上初の40代バッテリーでの勝利を達成したが、シーズン終盤に右足首を骨折して再び戦線離脱し30試合の出場に終わった。打撃では100打席未満ながら打率3割、得点圏打率4割超を記録。オフに心機一転の意味を込め、登録名を本名の矢野輝弘から矢野燿大へ変更した[11]。
2010年は城島健司の加入もあり、8試合の出場のみだった。6月に右肘の故障で一軍登録を抹消されていたが回復の目処が立たず、9月2日にこのシーズン限りの現役引退を球団に申し入れ、了承された[12]。9月25日の中日との二軍最終戦では同級生の下柳とバッテリーを組み、9回の1イニングを無失点に抑え、試合後の二軍引退セレモニーで阪神と古巣・中日の双方の選手から胴上げされると、「中日での7年間が無ければ僕は無い。野球人生を幸せに送れた。」と感謝を述べ、「一軍も大事な時期だし、機会があればと言うことでしっかり準備はしておきたい!」と自らの一軍での引退セレモニー当日の、一軍最後の試合出場に向けて意気込んだ[13][14][15]。9月30日の横浜戦では、9回二死から出場予定で出場選手登録されていたが、二死になる前に抑え投手の藤川が村田修一に逆転3点本塁打を打たれたため矢野の試合出場は幻となった。試合後、本塁打を打たれた藤川を抱き2人で号泣し「これまでお前のおかげでいっぱいええ思いさせてもらったよ」と声を掛けた。引退セレモニーでは「最高の野球人生でした。またいつの日か甲子園で会いましょう!」と指導者として帰ってくることを誓った[16]。
現役引退後
2010年11月、スポーツニッポン大阪本社専属野球評論家への就任を発表。2011年1月からは、朝日放送とサンテレビの野球解説者としても活動を始め、2月13日に朝日放送テレビが関西ローカルで放送した阪神対ヤクルトの練習試合中継で、事実上の解説者デビューを果たした。朝日放送では、現役時代の2004年から、オフシーズンに同局のラジオ番組『矢野輝弘のどーんと来い!!』(2010年からは『矢野燿大のどーんと来い!!』)のパーソナリティを担当していた。
『おはよう朝日です』『NEWSゆう+』『キャスト』(いずれも朝日放送)で月曜日のスポーツキャスターを務めるかたわら、同局のゴルフやラグビーなどのスポーツ中継や、『熱血!タイガース党』(サンテレビ)へ不定期で出演。朝日放送の全国高等学校野球選手権大会中継でも、不定期で登場している。
2012年の日本プロ野球公式戦期間中に開催されたロンドンオリンピックでは、競技種目に野球が入っていないにもかかわらず、朝日放送を代表して岩本計介アナウンサーとともに現地取材を敢行。金本が現役引退を発表した同年9月12日には、ABCラジオの『ABCフレッシュアップベースボール』で阪神対ヤクルト中継の解説を担当する一方で、試合前に開かれた金本の引退発表記者会見の取材にも携わった。
2011年3月には、自身初の著書『考える虎』が発売された。発売直前に東日本大震災が発生したことを受けて、同書の印税の全額を大学時代を過ごした仙台市を含む、被災地域への義援金として寄付することを表明している。
2014年11月23日、第4回神戸マラソンで自身初のフルマラソンに挑戦した。熱烈な阪神ファンである坂本直子(元天満屋所属、2004年アテネオリンピック・女子マラソン7位入賞)からマラソン指導を受けた結果、3時間55分37秒で完走を果たした。
日本代表指導者時代
2013年、常設されていた野球日本代表(侍ジャパン)の新体制化に伴ってトップチームの新監督に就任した小久保裕紀の下でバッテリーコーチに就任。背番号は、自身の好きな数字(8)や矢野の妻の誕生日(8月8日)にちなんだ88[17]。矢野にとってはプロ・アマを通じて初のコーチ就任であった。
コーチとして、同年11月に台湾で開催された国際強化試合「2013 BASEBALL CHALLENGE 日本 VS チャイニーズ・タイペイ」、2014年11月に日本で開催された日米野球2014[18]、2015年3月の強化試合「GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表」[19]、同年11月の第1回WBSCプレミア12[20]に参加した。
プレミア12開催期間中に阪神の一軍コーチ就任を発表したが(後述)、大会期間中は日本代表コーチとしての活動を優先した[21]。
阪神指導者時代
- 一軍作戦兼バッテリーコーチ
2015年10月27日、阪神の一軍作戦兼バッテリーコーチに就任。大学および阪神でのチームメイトだった金本の一軍監督就任(10月17日)を受けての本格的な現場復帰で、登録名は阪神での現役後期→野球解説者時代に続いて矢野 燿大、背番号は日本代表コーチと同じ88[1][17]。
- 春季キャンプから捕手陣を「横一線」として競い合わせた末に、二軍生活の長かった岡﨑太一に一軍開幕戦のスタメンマスクを初めて任せた。その後は、解説者時代から注目してきた原口文仁や、新人の坂本誠志郎を一軍に抜擢。故障の影響で育成選手契約を結んでいた原口については、4月の支配下再登録を経て、クリーンアップの一角を担う正捕手格の主力選手に育て上げた。
- 原口を事実上一塁手へ転向させる一方で、2015年の正捕手だった梅野隆太郎に、レギュラーシーズンの開幕から多くの試合でスタメンマスクを任せた。4月4日の対ヤクルト戦(京セラドーム大阪)では、5回表に阪神の先発投手・藤浪晋太郎からヤクルトの畠山和洋への死球をきっかけに生じた乱闘で、ヤクルトのウラディミール・バレンティンと共に審判団から退場を宣告。矢野にとってはコーチ就任後初の退場処分で、翌5日には、バレンティンと共にNPBから厳重注意と制裁金を科された(矢野の制裁金は15万円)。藤浪を守る目的でグラウンド上に出たところ、畠山の死球に激昂したバレンティンに突き倒されたため、ジャンピングニーパッド(跳び蹴り)で応戦したことによる[22][23]。2016年から二軍の指揮を執っていた掛布雅之が「オーナー付シニア・エグゼクティブ・アドバイザー(SEA)」という特別職へ転じたことに伴って、シーズン終了後に二軍監督へ異動。
- 二軍監督
- ウエスタン・リーグ公式戦では、「超積極的」「諦めない」「誰かを喜ばせる」という方針の下で、若手選手に積極的な走塁の意識を植え付けた。チームが勝利した試合では、勝利へ貢献した選手にヒーローインタビューやファンに対するスピーチを必ず体験させた。その結果、前年のシーズンをリーグ最下位で終えたチームを8年ぶりのリーグ優勝に導く[24]と、ファーム日本選手権を12年ぶりに制した[25]。ちなみに、ウエスタン・リーグでの最終成績は、115試合で68勝40敗7分。通算勝率は.630で、リーグ内のチーム最多記録であるシーズン163盗塁[25]と、チーム歴代最多記録のシーズン68勝を達成した[26]。
- 一軍監督
2018年の阪神は、二軍が矢野の下で日本選手権を制したのに対して、一軍は球団史上17年ぶりのリーグ最下位でシーズンを終了。全日程終了直前の10月11日には、金本がこのシーズン限りで一軍監督を辞任することを表明した。この表明を受け、球団は急遽矢野に一軍監督への就任を要請[27]、これを矢野が受諾したことにより[28]、同月18日には、翌2019年から一軍監督へ就任することを正式に発表した。就任に際しては、金本監督時代の方針を継承しながら、二軍監督時代に続いて「超積極的」「諦めない」「誰かを喜ばせる」という姿勢を選手に浸透させることを表明[29]。一軍監督として初めて臨んだ10月25日のNPBドラフト会議1巡目では、藤原恭大・辰己涼介への指名重複に伴う抽選で独占交渉権のクジを相次いで外し[30]ながらも、二軍監督時代に大阪ガスとの練習試合で対戦した近本光司の指名に漕ぎ着けた。
- 「ブチ破れ!オレがやる」というチームスローガンを提唱。野球解説者時代に契約を結んでいたスポーツニッポン大阪本社発行分紙面での恒例企画(阪神の一軍監督が年始に自筆の書を披露する企画)でも、書道初体験ながらこのスローガンを毛筆でしたためた。さらに、二軍監督時代からの方針に加えて、一軍監督としての「5か条」(①チームの勝利 ②勝利プラス1 ③喜怒哀楽 ④裏方への感謝 ⑤球団とも一体となったチーム作り)を提示。就任後初めて迎えた春季キャンプでは、自分で考える力を選手に植え付けるべく、自主性を重視しながら相応の結果を求める方針を打ち出した[31]。レギュラーシーズン中には、試合に敗れてもナイン一同でグラウンドに出て観客に一礼したり、感情を抑えながらインタビューに応じたりするなど、ファンに対する真摯な姿勢を貫徹[32]。その一方で、味方の選手が活躍した際に満面の笑みでガッツポーズを見せる姿が、「矢野ガッツ」と呼ばれるようになった[33]。
- 実際には、投手陣がチーム防御率で12球団のトップに立つ一方で、野手陣は得点力不足や守備でのミスを随所で露呈。レギュラーシーズンの最終盤まではAクラス入りが危ぶまれていたが、9月30日の最終戦(甲子園)で古巣の中日に3-0のスコアで勝利したことによって、レギュラーシーズンの3位とクライマックスシリーズ(CS)進出を確定させた。レギュラーシーズンの通算成績は69勝68敗6分(勝率.504)で、阪神の一軍監督が就任1年目でチームをAクラスに導いた事例は、吉田義男の監督第2期初年に当たる1985年(昭和60年=セ・リーグ優勝)以来34年ぶり。新人監督が5割以上の最終勝率でAクラスを実現させた事例は1982年(昭和57年=セ・リーグ3位)の安藤統男以来37年ぶり[34]だが、前年のレギュラーシーズン最下位からAクラス入りに至った事例は、球団史上初めてであった。
- CSでは、横浜DeNAベイスターズとのファーストステージ(横浜)を2勝1敗で突破。第1戦(10月5日)では、CS史上初めて、最大6点差から逆転勝利を収めた。ファイナルステージでは、レギュラーシーズンで大きく負け越したセ・リーグ優勝チームの巨人に1勝を挙げただけで、日本シリーズ進出を阻まれた。10月17日のNPBドラフト会議では、「高校ビッグ4」と呼ばれた好投手(奥川恭伸・佐々木朗希・西純矢・及川雅貴)のうち、奥川への独占交渉権を1巡目の指名重複による抽選で逃したものの、西純矢(この年にオリックス・バファローズから移籍した後に一軍公式戦でチームトップの10勝を挙げた西勇輝の遠縁の親戚)の交渉権を獲得した[35](後に入団)。
- 「甲子園球場での全国大会に出場した経験のある高卒選手5人(西純矢・井上広大・及川・遠藤成・藤田健斗)が一斉に入団」「(MLBから新入団のジャスティン・ボーア、ジョー・ガンケル、ジョン・エドワーズ、KBOから新入団のジェリー・サンズ、福岡ソフトバンクホークスから移籍のロベルト・スアレスを含む)外国人選手8人を同時に支配下登録」という球団史上初めての陣容を背景に、「楽しむからこそ実力が発揮できる」「笑うことには大きなパワーがある」というニュアンスで、チームスローガンを「It's 勝 Time! オレがヤル」(ロゴでは「勝」を「笑」と重ね合わせた特殊な文字で表記)に改めた[36]。
- 実際には、年初からの新型コロナウイルス感染拡大をめぐる球団内外の対応(詳細後述)へ翻弄された末に、巨人のリーグ2連覇を許した。感染拡大の防止を優先したNPBのレギュラーシーズン開幕延期および、セ・リーグのシーズン日程再編成によって「巨人との開幕3連戦から5カード連続でビジターゲームが組まれる」という異例のスタートを強いられたところ、球団では1996年以来24年ぶりの開幕4カード連続負け越しを記録[37]。セ・リーグに限ってCSが開催されないことが決まっていたにもかかわらず、夏季の長期ロードでは8年ぶり、対巨人戦では9年連続のシーズン負け越しを喫した。10月23日の対巨人戦(東京ドーム)に一塁手として起用したジェフリー・マルテが1イニング3失策(公式戦に出場したセ・リーグの一塁手最多記録)を含む1試合4失策(日本プロ野球の公式戦における一塁手の最多記録)を喫するなど、チーム全体でも「暴投や(公式記録の有無にかかわらず)守備・走塁面でのミスが失点に結び付く」という前年からの傾向に歯止めが掛からず[38]、総失策数は両リーグ最多の85にまで達している。
- 打撃陣では、シーズンの前半に梅野・糸原、中盤に近本・大山・サンズが主に打線を牽引。開幕当初は正三塁手争いでマルテの後塵を拝していた大山は、ボーアの不振やマルテの故障などで4番打者へ返り咲くと、終盤にセ・リーグの本塁打王や打点王を争うほどの進境を見せた。前年終盤の躍進を支えた救援陣からは、ラファエル・ドリスとピアース・ジョンソンをMLBへの復帰、島本浩也を前年末の左肘手術、守屋功輝を故障で欠いたうえに、開幕前から調子が上がらなかったクローザーの藤川がシーズン中の9月に現役引退を表明。セットアッパー候補のエドワーズも右肩のコンディション不良で開幕早々に戦線を離脱したため、先発での起用を想定していたスアレスを前半戦の途中からクローザー、前半戦に先発で勝ち星が伸びなかった藤浪や岩貞祐太を後半戦から中継ぎへ転向させた。先発陣では、入団3年目の髙橋遥人が左のエース格に成長したほか、開幕投手の西勇輝が前年に続いて(オリックス時代を含めれば3年連続)、秋山拓巳が3年ぶりに2桁勝利を記録。その一方で、球団はシーズン終盤の10月に、開幕から不振に陥っている福留孝介(この年のNPB現役最年長選手)・能見篤史(NPB現役最年長の左投手)・上本博紀(金本監督時代に選手会長を務めた内野手)に対して、翌2021年の戦力構想から外れていることを通告した(3人とも他球団での現役続行を視野に退団)。このように世代交代を迫られているチーム事情を背景に、高卒2年目の小幡竜平内野手や、二軍の4番打者としてウエスタン・リーグでトップの本塁打と打点を記録していた井上が一軍の公式戦に相次いでデビュー。小幡については、二塁手や遊撃手としてのスタメン起用も相次いだ。結局、大山は最多本塁打・最多打点のタイトルを僅差で逃したものの、チームは金本監督時代の2017年以来4年ぶりにシーズンを2位で終了。近本は2年連続でリーグ最多盗塁、スアレスはリーグ最多セーブ投手のタイトルを手中に収めている。
- この年には、新型コロナウイルスへの感染がチーム内にも波及。NPBがレギュラーシーズン開幕の延期を決めていた3月下旬には、NPB球団の現役選手として初めて、藤浪・伊藤隼太・長坂拳弥に感染が確認された。この事態を受けて、球団では感染防止策の一環として、チーム関係者によるシーズン中の外食の機会・参加人数を制限する内規を定めた。NPBでも同じ球団でポジションが重なる選手同士の会食を禁じることを申し合わせているが、シーズン中の9月下旬には、一軍の名古屋遠征中に球団の許可を得て会食していた糸原健斗(チームキャプテン)・陽川尚将・岩貞・馬場皐輔・浜地真澄やチームスタッフからも感染が確認。保健所や球団が上記選手の「濃厚接触者」と認定した参加者(福留・木浪・セットアッパーの岩崎優など)を含めて、一軍と二軍の間で総勢19名の選手の入れ替えを余儀なくされた。この時の会食は、参加人数などで上記の内規やNPBの申し合わせに抵触していたため、矢野の一軍監督昇格などに尽力していた球団社長・揚塩健治がシーズン終了後(12月1日付)の引責辞任を表明[39]。球団では、会食へ参加した10選手に制裁金を課したうえで、全額を慈善団体へ寄付する方針も打ち出している。当該選手はシーズン終盤の10月から実戦へ復帰したが、同月上旬には、矢野自身も夏場の遠征中に内規を超える大人数での会食に臨んでいたことが一部で報じられた。この報道を受けて、球団では残りシーズンにおける(選手・スタッフを含めた)遠征先の外食を一切禁止していたが、矢野などの会食については不問に付した。会食の場所が(新型コロナウイルスへの感染者数が全国で少ない部類に入る)広島県内で、「監督のチームマネジメントやチーム力の強化に資する」という理由で、球団本部の責任者が会食を事前に許可していたことによる[40]。
- 矢野自身は一軍監督への就任に際して球団と3年契約を締結しているため、コーチ陣の一部を入れ替えたうえで、翌2021年も監督を続投。レギュラーシーズン中の10月26日に開催されたNPBドラフト会議の1巡目では、大学球界屈指のスラッガーである近畿大学の佐藤輝明(阪神の本拠地・兵庫県西宮市出身の内野手)への独占交渉権を、3球団との指名重複に伴う抽選で自ら引き当てた(後に入団)。
- 「一軍監督としての過去2年間の成績(最高はセ・リーグ2位)を『超』えて『頂』(優勝)に『挑』む」というニュアンスで、「挑・超・頂-挑む 超える 頂(いただき)へ-」というチームスローガンを設定。ボーア、ガルシア、呂彦青に代わってメル・ロハス・ジュニアとラウル・アルカンタラが入団したほか、中日の投手時代に阪神打線を何度も苦しめたチェン・ウェインがロッテから移籍するなど、前年と同じく支配下登録選手に8人の外国人を擁する陣容でシーズンに備えた。春季キャンプでは、守備力の強化を図るべく、自身と同じチームへの所属や阪神への在籍経験がない川相昌弘(巨人・中日OB)を臨時コーチに招聘。ただし、日本政府が新型コロナウイルスへの感染拡大防止策の一環で外国人の入国制限を課しているため、ロハスとアルカンタラの合流はレギュラーシーズンの開幕後(4月中旬)まで見送られた。
- オープン戦では、佐藤輝明が全12球団トップの6本塁打でドラフト制度導入後(1966年以降)の新人選手としての最多本塁打記録を樹立するなど打線が好調で、金本監督時代の2016年以来5年ぶりに単独1位で終了。レギュラーシーズンでも、ヤクルトとの開幕3連戦(神宮)で全勝したことを皮切りに、貯金(勝ち越し数)が就任後最多に達するほどの好調で首位を走っていた。4番打者には開幕から大山を固定していたが、大山が背中の張りを理由に戦線を離脱していた5月には、開幕から「6番・右翼手」としてのスタメン起用を続けていた佐藤輝明を大山の復帰まで「4番・三塁手」に抜擢。佐藤と同期入団の選手からは、社会人野球出身の中野拓夢が正遊撃手・伊藤将司が先発陣に定着している。さらに、一軍公式戦未経験の投手(西純矢、及川、新人の村上頌樹など)が、公式戦に相次いでデビュー。西は、5月19日[41]の対ヤクルト戦に先発で初登板を果たすと、5回を無安打無得点に抑えたまま交代した末に初勝利を挙げた。セ・パ交流戦では中継ぎ陣が軒並み調子を落としたため、開幕投手を初めて務めた藤浪を中継ぎ要員へ再び回したものの、佐藤輝明がNPBの新人選手としては交流戦最多の6本塁打を記録。チームは和田豊監督時代の2014年以来7年ぶりに交流戦を勝ち越したばかりか、セ・リーグ首位の座を維持したまま、同リーグの球団としては最上位(全体2位)で交流戦を終えた。リーグ戦が再開されてからは打線が全般に低調で、最大で8ゲーム差を付けていた2位・巨人に1.5ゲーム差まで迫られながらも、自身が現役選手だった岡田彰布監督時代の2008年以来13年ぶりに首位で前半戦を折り返した。
- 2020東京オリンピックの開催に伴うレギュラーシーズンの中断期間には、外国人選手に対して(家族の暮らす母国への)一時帰国を認めたものの、マルテやスアレスの合流がシーズンの再開に間に合わなかった。中断期間からの再開後は、打撃の調子が下降線をたどり始めた佐藤やサンズに代わって、ウエスタン・リーグで打撃が好調の小野寺暖(育成選手の出身で入団2年目にしてリーグ首位打者・最高出塁率のタイトルを獲得)や島田海吏(リーグ盗塁王)を積極的に起用。ヤクルトと巨人を勝利数で上回っているにもかかわらず、引き分け試合数や勝率との兼ね合いで8月29日に首位から(ヤクルト・巨人より下の)3位へ転落したことを受けて、同月31日の対中日戦(甲子園)には「外国人選手だけのクリーンアップ(3番:マルテ、4番:サンズ、5番:ロハス・ジュニア)」という球団の公式戦史上初の打線で臨んだ。
- レギュラーシーズン終盤の9月からは、先発要員だったアルカンタラを救援陣に加えた一方で、サンズを二軍に降格。打撃不振の梅野に代わって10月から坂本をスタメンに起用したところ、チームは同月6日の対DeNA戦(横浜)に勝利したことによって、レギュラーシーズンを15試合残した段階でAクラス(3位以上)が確定した。2リーグ分立後(1950年以降)の阪神の一軍監督で、チームを就任1年目から3年連続のAクラス入りに導いた人物は矢野が初めてである[42]。同月8日の対ヤクルト戦(神宮)に敗れたことで(引き分け試合数と残り試合数の多い)ヤクルトにリーグ優勝マジックの点灯を許すも、26日のレギュラーシーズン最終戦(甲子園球場での対中日戦)で完封負けを喫するまでは優勝の可能性を残していた。シーズン全体ではリーグトップの77勝を挙げたほか、貯金も前年から3倍増の21にまで達していたが、結局は同日にシーズン2位とヤクルトの優勝が確定。もっとも、ヤクルトとの最終勝率の差は5厘(ゲーム差は0)で、セ・リーグではシーズンを通じて他の5球団に負け越さなかった(対広島戦のみ勝率5割で終了)。巨人に対しては、岡田監督時代の2007年以来14年振りのシーズン勝ち越しを果たしたばかりか、10月上旬に東京ドームの直接対決でリーグ3連覇を阻止。結局、巨人はレギュラーシーズンを3位で終えた。
- 先発陣では、左上腕のコンディション不良による影響でレギュラーシーズン終盤の9月上旬から一軍へ合流した高橋が、巨人相手の一軍公式戦初完封勝利を皮切りに、阪神の左投手としては1992年の湯舟敏郎以来29年振りの2試合連続完封勝利を記録した。また、スアレスは42セーブ(球団の外国人投手における一軍公式戦でのシーズン最多記録)で、前年に続いてリーグ最多セーブのタイトルを獲得。レギュラーシーズンの中断期間に開催された2020年東京オリンピックの野球競技で岩崎・梅野と共に日本代表チームのメンバーとして金メダルを獲得した青柳は、13勝で九里亜蓮(広島)と並んでリーグ最多勝利、勝率.684で勝率1位のタイトルを単独で初めてつかんだ。また、秋山も2年連続で2桁勝利(10勝)をマーク。救援陣では、シーズンの中盤から不振の岩貞に代わって及川、終盤に小川一平(及川・小野寺と同期入団の右投手)やアルカンタラもセットアッパーの岩崎につなぐ役割を果たした。
- 攻撃面では、近本が全試合出場と入団1年目からの3年連続盗塁王獲得を逃しながらも、プロ入り後自身初の打率3割(.313)と2桁本塁打(10本)に到達。シーズン通算の安打数は両リーグトップの178本で、チームの日本人選手としては1993年の和田豊以来28年振りに最多安打のタイトルを獲得したほか、一塁手のマルテと共に外野手としてセ・リーグのベストナインに初めて選ばれた。なお、前半戦では熊谷敬宥・植田海・小幡・江越といった代走陣による好走塁が得点に結び付くシーンも相次いでいたが、シーズンが佳境に入ってからはこのような走塁が全般に影を潜めた。さらに、チーム最年長選手(40歳)の糸井を主に代打で起用したものの、勝負所では代打陣の層の薄さを露呈。チームからは近本が外野手としてゴールデングラブ賞を初めて獲得したが、チームの総失策数は86で、4年続けてNPBの12球団で最も多かった。
- この年のNPBでは全般に新人選手の活躍が目立っていて、阪神でも球団史上初めて、新人選手から2名(中野と佐藤)がセ・リーグの最終規定打席に到達。NPBにドラフト制度が導入された1966年以降では初めて、「同一チームの新人選手2名が一軍公式戦で揃ってシーズン100安打」という記録も樹立した[43]。さらに、中野はシーズン30盗塁でリーグ盗塁王のタイトルを獲得。盗塁の成功率は(パ・リーグを含めた)2リーグ分立後の盗塁王としては最も高い93.8%で、盗塁死を歴代最少の2に収める快挙も成し遂げた。佐藤はレギュラーシーズンの一軍公式戦通算で(日本プロ野球の公式戦における新人選手の歴代6位タイ記録に当たる)24本塁打を放ちながら、通算173三振で歴代の阪神選手におけるシーズン最多記録を更新。レギュラーシーズン再開後の8月下旬からは、矢野の判断による10日間の二軍調整(9月中旬)をはさんで、10月上旬まで(セ・リーグ公式戦最長記録および日本プロ野球公式戦最長タイ記録の)59打席連続無安打を喫するほどの不振に見舞われた。新人投手では、伊藤がほぼフルシーズンにわたって先発ローテーションの一角を任された末に、阪神の新人左投手としては1967年の江夏豊以来54年振りに一軍公式戦でのシーズン2桁勝利(10勝)を達成。さらに、佐藤は5月期にセ・リーグの打者部門、伊藤は10・11月期に投手部門で月間MVPを獲得した。セ・リーグの新人王選考では、佐藤・中野・伊藤とも記者投票で栗林良吏(広島)の後塵を拝したものの、3人揃ってDeNAの牧秀悟(大卒の新人内野手)・ヤクルトの奥川恭伸(高卒2年目で新人王の選考資格を有する投手)と共に「新人特別賞」の表彰を受けている。
- 甲子園球場で巨人を迎え撃ったクライマックスシリーズ(CS)のファーストステージでは、左太腿を痛めた影響でレギュラーシーズン最終盤の3試合を欠場していた近本を復帰させた一方で、フェニックスリーグで復調したサンズを一軍に合流させていながらベンチに入れなかった。第1戦では巨人と相性の良い高橋、第2戦では勝ち頭の青柳に先発のマウンドを託したものの、貧打と勝負所での失策が響いて2連敗。レギュラーシーズンの最終勝率が5割にも満たなかった巨人の前に、サンズばかりか大山・佐藤・梅野もスタメンから外した第1戦で完封負けを喫すると、サンズ以外の選手をスタメンに戻した第2戦で日本シリーズ進出への道を断たれた。
- レギュラーシーズン終盤の10月11日に開催されたNPBドラフト会議の1巡目では、小園健太(和歌山市立和歌山高等学校投手)への独占交渉権をDeNAとの指名重複による抽選で逃したものの、高知中学校時代に軟式野球の公式戦で150km/hの球速が計測されたことで知られる森木大智(小園と同じ右投手で高知高校の3年生)への交渉権を2回目の指名で獲得した。その一方で、ヤクルト・巨人との間でレギュラーシーズンの順位が何度も入れ替わっていた9月には、NPBの12球団では最も早く球団のトップ(オーナー兼球団社長の藤原崇起)から監督職の続投を要請。チームのCSファーストステージ敗退の2日後(11月9日)には、一軍監督としての契約を改めて締結した。また、廣戸聡一が提唱する「4スタンス理論」のトレーナー資格を保有していることを背景に、この理論を突き詰めながら他球団でT-岡田や柳田悠岐などの長距離打者を育てた実績を持つ藤井康雄(元・阪急ブレーブス→オリックス外野手)を秋季練習から一・二軍巡回打撃コーチへ招聘[44]。さらに、「(長らく希望してきた)捕手としての出番が減っているので、他のポジションに回ってでも出場機会を増やしたい」という原口の要望を受けて、原口を一塁手や外野手へ専念させることを秋季練習から容認している。
- 「1球、一打、一瞬にこだわる」「チームが1つになる(ONE TEAM)」「(前年にわずか5厘の勝率差で逃した)一番上(リーグ優勝)に向けて前年(リーグ最多の77勝)よりもう1勝増やす」というニュアンスを掛け合わせたチームスローガンとして、「イチにカケル!」を新たに設定[45]。前年に在籍していた外国人選手からサンズとエドワーズが退団したほか、在籍中の2年とも最優秀救援投手のタイトルを獲得したスアレスがMLBのサンディエゴ・パドレスへ移籍したが、右投手のアーロン・ウィルカーソンとカイル・ケラーが相次いで入団している。その一方で、矢野自身は春季キャンプインの前日(1月31日)に、この年限りで監督職を退任する意向をナインと報道陣に相次いで明かした[46][47]。本人によれば、退任を決断したのは2021年シーズンの終了後で、同年9月に続投の要請(前述)を受けてから熟考を重ねていたという[48]。しかし、チームは開幕から低迷。開幕戦となった3月25日のヤクルト戦を8-1からの大逆転負けを喫すると、4月3日の巨人戦まで9連敗を喫し、セ・リーグのワースト記録となる開幕9連敗を喫してしまう[49]。更に5日のDeNA戦でシーズン初勝利を挙げるも、以降1分6敗と歴史的大低迷に喘ぎ、14日の中日戦で1-4で敗れ、プロ野球記録の開幕17戦で僅か1勝、勝率.063のワースト記録を樹立してしまった[50]。
選手としての特徴
阪神タイガースを2度のリーグ優勝に導いた強打の名捕手[51]。勝負強い打撃と卓越したリード、通算守備率.996を記録した堅守が武器であり、攻守にわたり活躍した[52][53]。その一方で、打てそうで打てなかった(苦手にしていた)投手に、小笠原孝(古巣の中日で活躍した左投手)を挙げていた。
人物
この選手の人物像に関する文献や情報源が必要です。 (2015年2月) |
愛称は「テル」、「アキちゃん」など。
読書家で、愛読書は「夢をかなえるゾウ」(水野敬也)や「アドラー心理学」など。阪神での現役時代に星野の前任監督・野村克也から読書を勧められたことをきっかけに、読書の重要性を認識したことから、若手選手にも自主的に考えながら本を読むことを勧めている。阪神の二軍監督へ就任してからのキャンプでは、宿泊先のホテルで朝食を取ってから球場へ出発するまでの1時間を読書に充当。「活字を追い掛けながら頭に入れたことは、他人に話すことで覚えられる」という考え[54]から、読んだ本の内容を、チームミーティングや選手へのアドバイスに反映させることも多い。
大のスイーツ(甘い菓子)好きで、阪神の現役時代後期には、プロ野球シーズン中に甲子園球場内の売店だけで販売されるスイーツのプロデュースも手掛けた(詳細後述)。
桜宮高校硬式野球部時代のコーチに、岡田龍生がいた。岡田は、矢野が卒業した1987年度から2021年度まで、履正社高等学校硬式野球部の監督を歴任(2022年度から自身の出身校である東洋大学附属姫路高等学校の硬式野球部監督へ転身)。矢野が阪神の一軍監督へ就任した2019年の第101回全国高等学校野球選手権大会では、4番打者の井上広大が3本塁打を放つなどの活躍を背景に、同部を初めての優勝に導いた。奇しくも阪神は、この年のNPBドラフト会議2巡目で、井上への独占交渉権を獲得。井上が交渉後に入団したことから、矢野は翌2020年10月に、井上をスタメン(右翼手)として一軍の公式戦に出場させた。高校から阪神へ直接入団した後に、スタメンでの一軍公式戦デビューを入団1年目で果たした野手は、同年時点での阪神OB会長で福井県立若狭高等学校出身の川藤幸三が1968年に遊撃手として出場して以来52年ぶりである[55]。
プロ入りを検討していた当時は、レギュラー捕手が高齢で捕手の層も薄かった地元・阪神タイガースや読売ジャイアンツへの入団を希望していた。それだけに、2歳年上の中村武志がレギュラー捕手として全盛期を迎えていた中日からドラフト会議で指名されたことに不安を感じていたという[56]。後に中日時代の思い出を振り返り「(中村の)存在が大き過ぎて、勝てるとは思えなかった」と、ラジオ番組『スポーツにぴたっと。』で語っている。その中で、2010年に自身が引退する際に、当時中日のコーチに就任していた中村から労われたことに対し「中日時代はどうしても超えられなかった人なので嬉しい」と語り、「幸せな野球人生を送れた」と20年の現役生活を振り返った[13]。
ドラフト会議では、司会者だった伊東一雄から名前を「てるひろ」と読み間違えられ、当時中日の監督であった星野仙一から「テル」と呼ばれるようになった。中日では星野から打撃力を評価されていたが、入団4年目(1994年)まで一軍で目立った実績を残せなかった。しかし、東北福祉大から一緒に入団した吉田太が、その年のシーズン終了後に戦力外通告を受けてひっそりと退団したことから一念発起。「自分が辞める時に後悔だけはしたくない」という危機感を抱きながら、正捕手の中村のリードを本格的に研究するなど、自ら率先して練習に励むようになった。さらに、外野手として公式戦に出場する機会を重ねるうちに、捕手というポジションへの思いを強めた。「ボールがいつ飛んでくるか分からない外野手では、一球ごとにサインを考えたり投手にボールを返したりする捕手に比べて、どこか試合に参加してないような気持ちになった」という[56]。解説者に転じてからは、このような下積みの経験を基に、(捕手を含めた)若手野手のプレーや野球へ取り組む姿勢に苦言を呈することが多かった。
技術的にはストレートで追い込んで最後に変化球というタイプの捕手であったと山本昌からは評されている[57]。ちなみに、矢野が一軍監督として指揮する2019年の阪神秋季キャンプでは、中日一筋で現役を終えていた山本を臨時コーチとして招聘した。
中日から阪神へのトレードが決まった際、当時中日の監督であった星野からは何も言葉を掛けてもらえなかったといい、「絶対に星野さんを見返す。中日戦だけには絶対、負けへん」と中日相手には多く死球を要求していた。なお、星野の阪神監督就任後は、気まずい素振りも見せずに星野がよく話しかけてきてくれたため、次第に「星野さんに認められたい。認められるために頑張る」と気持ちが変わっていった[58]。
阪神の選手時代には、「優しい」と形容する解説者が多い一方で、「阪神で一番短気」と言われることもあった。現に、退場寸前の乱闘を年に1度のペースで起こしたほか、幼児が駄々をこねるような仕草で審判の判定に不服を示すことも珍しくなかった。前述した2017年の退場処分以外にも、阪神捕手時代の1998年と2006年に、審判への暴力行為で退場処分を受けている。
阪神で現役を引退してからは、野球解説者・評論家として活動するかたわら、現役時代からの趣味であるゴルフ関連の番組にもたびたび出演。朝日放送が毎年11月に主催するマイナビABCチャンピオンシップゴルフトーナメントでは、ABCテレビの中継でラウンドリポーターを務めたり、アマチュアのゴルファーとして「マンデートーナメント」に参加したりしている(#関連情報に詳述)。しかし、他のゴルフトーナメントへの出場に向けた練習中に左肘を痛めたことから、2014年5月20日に患部を手術。手術の直後には、左腕を大きなギプスで固定しながら、同局のレギュラー番組への出演を続けていた[59]。
現役時代には験を担がなかったが、阪神の一軍監督へ就任してからは、「未来に起こりそうな慶事をあらかじめ祝ってしまうことで現実を引き寄せる」という「予祝」(よしゅく)を実践。毎年の初頭から、チームがリーグ優勝や日本シリーズ制覇を既に達成したかのようなコメントを、報道陣の前で意識的に繰り返している[60]。就任2年目の2020年には、「日本シリーズの制覇を記念してチーム全体でハワイ旅行」という予祝を体現すべく、選手有志(選手会長の糸原健斗など)からの発案による「矢野ハワイ」(現地の挨拶であるアロハポーズにちなんだポーズ)をオープン戦で披露していた[61]。しかし、後に新型コロナウイルス感染拡大の影響で「予祝」どころではない事態(詳細前述)に次々と見舞われたばかりか、「矢野ハワイ」実現への絶対条件である日本シリーズへの出場を2年続けて巨人に阻まれた。2021年にもリーグ制覇を僅差で逃したものの、監督職から退任する意向を表明したうえで臨んだ2022年沖縄春季キャンプの終盤(2月23日)には、練習開始前の全体ミーティング中にナインから3回にわたって胴上げされた。当日の練習で「1日キャプテン」を任されていた糸井・西勇輝の発案による「サプライズ予祝」で、NPBの春季キャンプ期間中に加盟球団の監督がナインから胴上げされたことは、阪神以外の球団を含めても初めてという[62]。
2019年のレギュラーシーズン最終盤には、試合がある日に起床してから球場でユニフォームに着替えるまで赤色のパンツを履くように心掛けていた。奇しくも、この時期にチームは6連勝でレギュラーシーズンを終えたばかりか、前述した最終戦でシーズン3位を確定[63]。その後も、クライマックスステージやドラフト会議など、監督として大事な局面へ臨むたびに赤色のパンツを着用していた[35][64]。このエピソードにちなんで、阪神球団では2020年6月から、矢野の監修による「矢野監督勝負パンツ」(矢野のイラストと阪神球団のロゴを入れた赤色のボクサーブリーフ)を公式グッズとして発売している[65]。もっとも、佐藤輝明への独占交渉権を4球団の指名重複による抽選で引き当てた同年のドラフト会議には、赤色のパンツを履くなどの験を担かずに「自然体」で臨んでいたという[66]。
2020年1月13日(月曜日・成人の日)には、兵庫県西宮市の成人式式典「二十歳を祝うつどい」が甲子園球場で初めて開催されたことに伴って、同球場スコアボード内の「オーロラビジョン」から式典中に流されるメッセージビデオに阪神のユニフォーム姿で出演。阪神の一軍監督として、新成人に「チャレンジ」を勧めるメッセージを寄せた[67]。
選手・著名人との交流
桜宮高校の野球部では、後にお笑い芸人となる河本栄得と高山知浩が同級生として在籍しており、高山が3番、矢野が4番を打っていた。高山の前に走者が出ると勝負強い矢野に打席が回るよう、ほぼ毎回高山にバントのサインが出されたと高山が語っている。阪神に在籍していた2005年のシーズンオフには、リーグ優勝記念旅行の模様を放送する特別番組で、高山と2人で漫才に挑んだ。ちなみに、高山からは「アキちゃん」と呼ばれている。
阪神での現役時代には、当時の主力投手陣(藤川、福原、安藤、下柳など)からは絶大な信頼を受けていた。ニューヨーク・ヤンキースへ移籍した井川からも「ヤンキースに来て下さい」と言われたことがある。巨人時代の上原浩治からも、オールスターでバッテリーを組んだ際にブログで「阪神で矢野さんがみんなに好かれる訳がわかった。すごく話しやすいいい人」と評され、2007年12月のアジア予選韓国戦でバッテリーを組み9回裏を三者凡退で抑え勝利した際は、ウイニングボールを上原から直接手渡され、自らのブログで「一生の宝物」と書いた。
阪神時代のチームメイトで奈良県出身の関本賢太郎とも仲が良く、矢野の現役時代には、「必死のパッチ」(「必死で頑張った」という意味の大阪弁)という発言をめぐる丁々発止のやり取りが人気を博した。矢野は、「自分がヒーローインタビューで最初に発した『必死のパッチ』を、翌日のヒーローインタビューで関本が勝手に真似たせいで、いつの間にか球団公認で関本の『必死のパッチ』グッズまで作られた」と主張。ヒーローインタビューや出演番組では、関本に向けて冗談交じりで「『必死のパッチ』を返せ」と迫る一幕もあった。実際には、関本が「必死のパッチ」を使用することを容認しており、矢野が現役を退いた後は、現役後期の関本にとどまらず、自身より後で阪神に入団した西岡剛・藤浪晋太郎・原口文仁もヒーローインタビューで使用している。その一方で、『おはよう朝日です』では「“必死のパッチ”を(関本に)貸した覚えはない」と応酬している(その前日の試合で、関本はヒーローインタビューにて西岡に対して「“必死のパッチ”は矢野さんに借りている」と発言したため)。また、『キャスト』のスポーツキャスターを務めていた時期には、自身が担当するコーナー「ヤノスポ」で「必死のパッチ賞」を創設。公式ブログで阪神のコーチ就任を報告する際にも、「必死のパッチで頑張って来ます!」という言葉で記事を結んでいる[68]。
また、阪神での現役時代には、オフシーズンを中心に関本や福原忍と趣味の釣りに興じていた。日本を代表するバスプロの今江克隆とも親しく、今江が経営している会社IMAKATSUの工場へ足を運んでルアーを作るほどである。なお、そのルアーは、同社ホームページ内のブログなどでたびたび紹介。解説者時代には、スポーツキャスターやラジオパーソナリティとして、野球・釣り以外のスポーツも積極的に取材していた。
阪神の一軍監督就任を機にヘッドコーチとして東北楽天ゴールデンイーグルスから招聘した清水雅治とは、2人とも現役の選手として星野監督時代の中日へ在籍した時期に、同じマンションへ居住。ナゴヤ球場やナゴヤドームで中日のホームゲームを開催する日に、矢野が4歳年上の清水を自家用車に同乗させてから、自身の運転によって一緒に球場へ入るほどの間柄にもあった。現役(外野手)時代に阪神でのプレー経験がない清水は、2002年に西武ライオンズで現役を引退した後も、ユニフォームを脱ぐことなくパ・リーグ4球団(西武・日本ハム・ロッテ・楽天)や野球日本代表で16シーズンにわたってコーチを歴任。2018年のシーズン終了後も楽天野球団から残留の要請を受けていたが、その最中に阪神の一軍監督へ就任した矢野から直々に一軍ヘッドコーチへの就任を要請されたことを機に、阪神への移籍を決めた[69]。2019年のシーズン終了後には、中日時代のチームメイトだった井上一樹も一軍打撃コーチに招聘。2021年シーズンには、井上が一軍のヘッドコーチ、清水が二軍の野手総合コーチに異動した。清水はレギュラーシーズンの終了後に退団したものの、シーズン中に開催された2020東京オリンピックの野球競技に日本代表チームのコーチとして携わったほか、退団後も代表チームのコーチを続けている。
2020年11月10日の阪神対巨人戦(甲子園)終了後に催された藤川の現役引退セレモニーでは、公の場としては自身の引退以来10年ぶりに藤川とのバッテリーが実現した。前述した事情で矢野の引退試合が幻に終わったことを背景に、藤川本人が「監督と選手」の立場を越えて1球だけの「ラストピッチング」を提案したことによるもので、矢野は捕手役で藤川の投球を受けた[70]。ただし実際には、2010年のシーズン終了後にも、関西テレビで放送された年末特別番組の企画で藤川を相手に「ラストキャッチング」へ臨んでいる[注 1][71]。
矢野のファンであることを公言している声優の水樹奈々が2006年1月21日に行った日本武道館ライブ(NANA MIZUKI LIVEDOM-BIRTH- AT BUDOKAN)でビデオメッセージとサインボールを送り、2009年に水樹がナビゲーターとして出演していたGAORAの『ぷちトラ!』にて、お礼としてそのライブのDVDをプレゼントされた。また、矢野の地元・関西では、ラジオパーソナリティの桜井一枝も矢野公認のファンとして知られている。
プロデュース・社会貢献活動
2006年から2008年シーズンには、本人プロデュースのオリジナルスイーツ「Yano Chou(矢野シュー)」を甲子園球場の内野席売店で販売。夏季には、シューの中身をアイスに変えていた。2008年9月から現役最終年の2010年シーズンまでは、プロデュースメニューの第2弾「矢野輝弘(燿大)のヘルシーミックスジュース」と、繰り返し使える専用のタンブラーを同様の方法で販売。2006年8月末には、公式サイト限定でオリジナルTシャツを発売した。解説者時代にも、2014年に「矢野燿大のタイガースワッフルボウル」、2015年に「矢野の中華風牛肉弁当」を期間限定で発売している。
2003年からは、筋ジストロフィーを患うファンとも交流。現役最終年の2010年には、筋ジストロフィー患者や児童養護施設で暮らす子供たちへの支援を目的に、社会福祉法人・大阪府社会福祉協議会からの協力で「39(サンキュウ)矢野基金」を設立した。
2011年3月には、あきんどスシローの「応援部長」に就任。同月9日から31日までは、売上の一部を「39矢野基金」への寄付に充てることを目的に、自身のプロデュースによる2種類の寿司メニュー「必死のパッチまき」を近畿2府4県および徳島県の店舗(全103店)で発売していた[72]。同様の趣旨で、同年5月には「39矢野ネクタイ」、2012年3月には「Tシャツ」を公式サイトで販売している。
2015年には、「プロ野球の世界で、20年にわたり一線で活躍してきた矢野燿大だからこそできる恩返し」と称して、矢野が関西各地の少年野球チームを直々に指導する「39ベースボールプロジェクト」を4月から実施。軟式・硬式を問わず、指導を希望するチームを 公式サイト で募った後に、抽選で決まったチームを月に2回のペースで訪れていた。
ちなみに関本は、2015年の現役引退表明を機に、矢野と同じくスポーツビズとの間でマネジメント契約を締結。引退後の2016年からは、矢野と入れ替わる格好で朝日放送の野球解説者・スポーツニッポンの野球評論家を務めるほか、矢野から「39ベースボールプロジェクト」を引き継いでいる。
日本国内における新型コロナウイルスへの感染拡大の影響で、日本高等学校野球連盟(日本高野連)主催の全国大会(甲子園球場を使用する第92回選抜高等学校野球大会・第102回全国高等学校野球選手権大会および明石トーカロ球場を使用する第65回全国軟式高等学校野球選手権大会)、男子の硬式選手権大会への出場校を決める地方大会、全国高等学校女子硬式野球連盟主催の第21回全国高等学校女子硬式野球選抜大会・第24回全国高等学校女子硬式野球選手権大会・第11回全日本女子硬式野球ユース選手権大会、全日本女子軟式野球連盟主催の第18回全国高等学校女子軟式野球選手権大会が軒並み中止に追い込まれた2020年には、阪神の一軍監督として、上記連盟への加盟校の硬式・軟式野球部へ所属する3年生の男女部員とマネジャー全員(約5万名)に「甲子園の土キーホルダー」を8月下旬から順次贈呈することをコーチ・選手とともに提案。球場を運営する阪神甲子園球場・阪神園芸の協力を得ながら、キーホルダーに用いる土を6月16日に甲子園球場のグラウンドで直々に採取する[73]など、プレゼントの実現に尽力した[74]。阪神球団が8月31日に約4万8,700個のキーホルダーを全加盟校へ発送した[75]ところ、キーホルダーの寄贈に対して、日本高野連が阪神球団に感謝状を贈呈。秋季練習中の11月27日には、球団を代表して、矢野と梅野が感謝状を甲子園球場で受け取った[76]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1991 | 中日 | 22 | 30 | 27 | 2 | 3 | 0 | 0 | 1 | 6 | 4 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 15 | 0 | .111 | .172 | .222 | .395 |
1992 | 72 | 118 | 108 | 10 | 28 | 6 | 0 | 0 | 34 | 8 | 0 | 1 | 0 | 1 | 8 | 0 | 1 | 20 | 3 | .259 | .314 | .315 | .628 | |
1993 | 24 | 39 | 31 | 5 | 10 | 0 | 0 | 1 | 13 | 3 | 0 | 0 | 1 | 0 | 6 | 2 | 1 | 4 | 1 | .323 | .447 | .419 | .867 | |
1994 | 35 | 53 | 46 | 5 | 10 | 2 | 0 | 1 | 15 | 2 | 0 | 1 | 3 | 0 | 3 | 1 | 1 | 9 | 2 | .217 | .280 | .326 | .606 | |
1995 | 57 | 123 | 115 | 14 | 28 | 2 | 2 | 1 | 37 | 5 | 1 | 0 | 0 | 0 | 7 | 1 | 1 | 31 | 5 | .243 | .293 | .322 | .614 | |
1996 | 56 | 124 | 104 | 26 | 36 | 3 | 0 | 7 | 60 | 19 | 1 | 0 | 2 | 2 | 13 | 0 | 3 | 16 | 2 | .346 | .426 | .577 | 1.003 | |
1997 | 83 | 244 | 214 | 24 | 54 | 8 | 0 | 3 | 71 | 19 | 1 | 0 | 5 | 0 | 22 | 1 | 3 | 32 | 3 | .252 | .331 | .332 | .662 | |
1998 | 阪神 | 110 | 340 | 285 | 27 | 60 | 18 | 0 | 3 | 87 | 20 | 1 | 2 | 24 | 0 | 27 | 3 | 4 | 63 | 9 | .211 | .288 | .305 | .593 |
1999 | 113 | 418 | 369 | 39 | 112 | 13 | 2 | 3 | 138 | 27 | 5 | 2 | 6 | 2 | 36 | 2 | 5 | 74 | 14 | .304 | .371 | .374 | .745 | |
2000 | 114 | 428 | 376 | 41 | 101 | 12 | 1 | 5 | 130 | 26 | 1 | 2 | 9 | 4 | 35 | 4 | 4 | 87 | 9 | .269 | .334 | .346 | .680 | |
2001 | 119 | 364 | 327 | 26 | 79 | 10 | 1 | 8 | 115 | 30 | 1 | 1 | 5 | 3 | 28 | 0 | 1 | 72 | 10 | .242 | .301 | .352 | .653 | |
2002 | 66 | 253 | 221 | 31 | 71 | 18 | 2 | 6 | 111 | 27 | 1 | 1 | 5 | 0 | 24 | 4 | 3 | 51 | 6 | .321 | .395 | .502 | .897 | |
2003 | 126 | 484 | 433 | 65 | 142 | 25 | 5 | 14 | 219 | 79 | 1 | 0 | 4 | 1 | 38 | 6 | 8 | 84 | 8 | .328 | .392 | .506 | .897 | |
2004 | 138 | 551 | 502 | 38 | 143 | 23 | 3 | 11 | 205 | 65 | 1 | 3 | 4 | 3 | 35 | 7 | 7 | 110 | 19 | .285 | .338 | .408 | .747 | |
2005 | 138 | 550 | 499 | 53 | 135 | 26 | 0 | 19 | 218 | 71 | 1 | 1 | 9 | 2 | 32 | 1 | 8 | 113 | 12 | .271 | .323 | .437 | .760 | |
2006 | 133 | 501 | 453 | 42 | 124 | 20 | 3 | 17 | 201 | 78 | 0 | 0 | 8 | 5 | 32 | 1 | 3 | 94 | 12 | .274 | .323 | .444 | .766 | |
2007 | 106 | 401 | 356 | 25 | 84 | 14 | 1 | 6 | 118 | 42 | 0 | 0 | 7 | 1 | 34 | 0 | 3 | 92 | 9 | .236 | .307 | .331 | .639 | |
2008 | 119 | 404 | 371 | 20 | 102 | 17 | 1 | 4 | 133 | 36 | 0 | 1 | 10 | 5 | 16 | 1 | 2 | 100 | 13 | .275 | .305 | .358 | .663 | |
2009 | 30 | 83 | 75 | 9 | 23 | 1 | 1 | 2 | 32 | 8 | 1 | 0 | 0 | 0 | 8 | 1 | 0 | 17 | 1 | .307 | .373 | .427 | .800 | |
2010 | 8 | 9 | 9 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | .222 | .222 | .222 | .444 | |
通算:20年 | 1669 | 5517 | 4921 | 503 | 1347 | 218 | 22 | 112 | 1945 | 570 | 16 | 15 | 103 | 29 | 406 | 35 | 58 | 1089 | 138 | .274 | .335 | .395 | .730 |
年度別守備成績
年 度 |
球 団 |
捕手 | 外野 | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
捕 逸 |
守 備 率 |
企 図 数 |
許 盗 塁 |
盗 塁 刺 |
阻 止 率 |
試 合 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 | ||
1991 | 中日 | 14 | 34 | 3 | 0 | 0 | 2 | 1.000 | 3 | 0 | 3 | 1.000 | - | |||||
1992 | 65 | 210 | 16 | 2 | 2 | 2 | .991 | 22 | 18 | 4 | .182 | - | ||||||
1993 | 21 | 56 | 7 | 0 | 1 | 3 | 1.000 | 8 | 5 | 3 | .375 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ---- | |
1994 | 26 | 76 | 7 | 0 | 1 | 1 | 1.000 | 8 | 5 | 3 | .375 | - | ||||||
1995 | 41 | 191 | 21 | 1 | 3 | 0 | .995 | 16 | 10 | 6 | .375 | - | ||||||
1996 | 38 | 157 | 13 | 1 | 0 | 3 | .994 | 13 | 9 | 4 | .308 | 12 | 14 | 1 | 1 | 0 | .938 | |
1997 | 60 | 307 | 28 | 2 | 3 | 4 | .994 | 41 | 34 | 7 | .171 | 22 | 34 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
1998 | 阪神 | 109 | 521 | 49 | 2 | 8 | 7 | .997 | 80 | 54 | 26 | .325 | - | |||||
1999 | 111 | 693 | 52 | 5 | 8 | 6 | .993 | 79 | 53 | 26 | .329 | - | ||||||
2000 | 113 | 752 | 62 | 6 | 9 | 6 | .993 | 69 | 45 | 24 | .348 | - | ||||||
2001 | 108 | 556 | 72 | 3 | 14 | 2 | .995 | 81 | 49 | 32 | .395 | 4 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
2002 | 66 | 528 | 30 | 1 | 7 | 4 | .998 | 31 | 19 | 12 | .387 | - | ||||||
2003 | 123 | 932 | 66 | 2 | 11 | 14 | .998 | 100 | 65 | 35 | .350 | - | ||||||
2004 | 137 | 1126 | 56 | 3 | 16 | 5 | .997 | 87 | 57 | 30 | .345 | - | ||||||
2005 | 138 | 1130 | 76 | 3 | 11 | 8 | .998 | 76 | 43 | 33 | .434 | - | ||||||
2006 | 132 | 1001 | 75 | 6 | 7 | 5 | .994 | 67 | 39 | 28 | .418 | - | ||||||
2007 | 101 | 720 | 56 | 3 | 8 | 3 | .996 | 67 | 47 | 20 | .299 | - | ||||||
2008 | 116 | 748 | 63 | 2 | 7 | 4 | .998 | 71 | 45 | 26 | .366 | - | ||||||
2009 | 26 | 144 | 14 | 2 | 1 | 0 | .988 | 18 | 13 | 5 | .278 | - | ||||||
2010 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .--- | 0 | 0 | 0 | .--- | - | ||||||
通算 | 1546 | 9882 | 766 | 44 | 117 | 79 | .996 | 937 | 610 | 327 | .349 | 39 | 52 | 1 | 1 | 0 | .981 |
- 太字年はゴールデングラブ賞
年度別監督成績
- レギュラーシーズン
年 度 |
球 団 |
順 位 |
試 合 |
勝 利 |
敗 戦 |
引 分 |
勝 率 |
ゲ | ム 差 |
本 塁 打 |
打 率 |
防 御 率 |
年 齡 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2019 | 阪神 | 3位 | 143 | 69 | 68 | 6 | .504 | 6.0 | 94 | .251 | 3.46 | 51歳 |
2020 | 2位 | 120 | 60 | 53 | 7 | .531 | 7.5 | 110 | .246 | 3.35 | 52歳 | |
2021 | 2位 | 143 | 77 | 56 | 10 | .579 | 0.0 | 121 | .247 | 3.30 | 53歳 | |
通算:3年 | 406 | 206 | 177 | 23 | .538 | Aクラス3回 |
- 2021年度シーズン終了時
表彰
- ベストナイン:3回(2003年、2005年、2006年)
- ゴールデングラブ賞:2回(2003年、2005年)
- 日本シリーズ敢闘選手賞:1回(2005年)
- 最優秀バッテリー賞:2回(2003年 投手:井川慶、2005年 投手:藤川球児)
- 優秀JCB・MEP賞:1回(2003年)
- ヤナセ・阪神タイガースMVP賞:1回(2003年)[77]
- サンスポMVP大賞:1回(2003年)[78]
- ベスト・ファーザー in 関西(2007年)
- ゴールデンスピリット賞:1回(2021年)
記録
- 初記録
- 初出場:1991年8月3日、対阪神タイガース19回戦(ナゴヤ球場)、7回表に中村武志に代わり捕手として出場
- 初打席・初三振:同上、7回裏に中田良弘から
- 初安打・初本塁打・初打点:1991年8月26日、対阪神タイガース23回戦(阪神甲子園球場)、9回表に山本昌広の代打で出場、野田浩司から左越2ラン
- 初先発出場:1991年9月18日、対阪神タイガース24回戦(阪神甲子園球場)、8番・捕手として先発出場
- 節目の記録
- 1000試合出場:2004年4月4日、対読売ジャイアンツ3回戦(東京ドーム)、8番・捕手で先発出場 ※史上390人目
- 1000本安打:2005年9月15日、対読売ジャイアンツ20回戦(東京ドーム)、7回表に酒井純也から右越ソロ ※史上238人目
- 100本塁打:2006年10月4日、対東京ヤクルトスワローズ21回戦(明治神宮野球場)、2回表に石井一久から左越3ラン ※史上247人目
- 1500試合出場:2007年9月16日、対中日ドラゴンズ22回戦(阪神甲子園球場)、7番・捕手として先発出場 ※史上155人目
- 1000三振:2008年5月23日、対福岡ソフトバンクホークス1回戦(福岡Yahoo! JAPANドーム)、2回表に大隣憲司から ※史上41人目
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:7回(1999年、2002年 - 2006年、2008年)
- 通算サヨナラ安打10本 ※阪神タイガース球団タイ記録
背番号
- 2(1991年 - 1995年)
- 38(1996年 - 1997年)
- 39(1998年 - 2010年)
- 39(2008年北京オリンピック)
- 88(2016年 - )
- 88(2014日米野球、2015プレミア12)
登録名
- 矢野 輝弘(やの あきひろ、1991年 - 2009年)
- 矢野 燿大(やの あきひろ、2010年、2016年 - )
登場曲
- 「My Sharona」The Knack(2000年)[79]
- 「Do You Believe In Love」Huey Lewis(2003年)
- 「Ain't No Mountain High Enough」Michael Mcdonald(2004年)
- 「Party Hard」Andrew W.K.(2005年)
- 「サルビアのつぼみ」HOME MADE 家族(2006年)
- 「マイペース」SunSet Swish(2007年)
- 「ボーイズ・オン・ザ・ラン」馬場俊英(2008年)
- 「カーニバル」ケツメイシ(2009年)
代表歴
指導歴
関連情報
解説者時代の出演番組
2011年から2015年まで、朝日放送の解説者として、テレビ・ラジオで放送されるプロ野球中継(主に阪神戦)に登場。同局からの出向扱いで、『サンテレビボックス席』の阪神戦中継にも解説者として出演している。さらに中日OBでもあることから、CBCラジオの中日対阪神戦中継(ABCラジオと相互ネットの場合)に出演することがあった。
レギュラー番組
- 虎バン(朝日放送テレビ) - 阪神での現役時代から、インタビューやドキュメンタリー企画などに度々登場。2011年以降は、レギュラーコメンテーターとして出演。
- おはよう朝日です月曜日(朝日放送テレビ) - 2011年3月7日放送分から、スポーツキャスターとしてレギュラー出演。
- キャスト(朝日放送テレビ) - 『NEWSゆう+』の後番組で、2011年10月の放送開始から2015年3月まで、月曜日に編成されていた「ヤノスポ」でキャスターを担当。番組リニューアルで同コーナーが終了した2015年4月以降は、阪神時代のチームメイトだった下柳や桧山進次郎と交互に、水曜日の「週刊 浦川スポーツ」へ出演している。
- スポーツにぴたっと。(ABCラジオ、オフシーズン番組)- 現役引退後初のレギュラー番組で、2010年度の途中(2011年1月5日放送分)から水曜日に出演(2011年度も続投)。2012年1月6日からは金曜日にも登場していた。2012年度は金曜日、『武田和歌子のぴたっと。』第2部として放送される2013年度以降は火曜日にのみ出演。
- 金谷多一郎・矢野燿大の考えるゴルフ(Sky・A sports+、2011年~)
- 虎魂(sky・A sports+、2011年10月から月1回のペースで放送)
- NEWSゆう+月曜日(朝日放送テレビ) - 2011年3月28日放送分から番組終了の同年9月まで、スポーツコーナー「週刊YANO+」にレギュラー出演。
- 見知らぬ関西新発見!みしらん(朝日放送テレビ) - 2013年1月5日放送分からスポーツコーナー「スポーツみしらん」を新設したことを機に、スポーツキャスターとして同年9月21日の最終回まで出演。
不定期放送・出演
- 矢野輝弘のどーんと来い!!(ABCラジオ、2004年度から、オフシーズンのレギュラー番組→スペシャル番組) - 阪神での現役時代からメインパーソナリティを担当。2009年度以降は『矢野燿大のどーんと来い!!』というタイトルで放送。指導者として阪神へ復帰してからも、年末年始の特別番組として継続している。
- 矢野燿大の「アスリートの舞台裏」(ABCラジオ) - 2011年5月16日から月1回のペースで放送。メインパーソナリティを担当。
- 熱血!タイガース党(サンテレビ)- 阪神での現役時代にゲストやVTRで出演。ABC野球解説者時代には、「優勝対策委員長」という肩書で随時登場していた。指導者として阪神へ復帰してからも、ゲストとしてスタジオへ出演する際にはこの肩書を用いている。
- CBCドラゴンズナイター(CBCラジオ) - 中日主管の阪神戦(ABCラジオが同時ネットで放送する火曜 - 木曜の試合)中継にのみ、ゲスト解説者として出演。
- 全国高校野球選手権大会中継(朝日放送テレビ)- 2011年から、試合前後に甲子園スタジオから放送される中継に、ゲストとして随時出演。ただし、試合の解説まで担当するわけではない。
- マイナビABCチャンピオンシップゴルフトーナメント(朝日放送テレビ制作、テレビ朝日系列で放送) - 2011年以降のテレビ中継で、金谷とともにラウンドリポートを担当。2013年には、アマチュアのゴルフプレイヤーとして、本選への出場を目指して「マンデートーナメント(主催者推薦の予選会)」に初めて挑戦した(結果は6オーバーの59位で本選出場ならず)[80]。
以下はゲストで出演した主な番組。
- 報道ステーション SUNDAY(テレビ朝日) - 2011年11月13日放送分
- GET SPORTS(テレビ朝日) - 2011年11月13日深夜(14日未明)放送分
- ABC創立60周年記念特別番組 スポーツのキセキは、いつまでも(朝日放送テレビ、2011年12月30日)
- ジャパンラグビートップリーグ・神戸製鋼コベルコスティーラーズ対ヤマハ発動機ジュビロ戦中継(朝日放送テレビ)- 2012年1月29日深夜に録画で放送
- ガラスの地球を救えスペシャル いま見直そう!ニッポンの心 関西のチカラ(朝日放送テレビ、2012年4月30日)生放送の全編にゲストで出演したほか、兵動大樹(矢野・兵動)とともに、「新 矢野・兵動」と名乗りながら甲子園球場の環境保全施策を取材。
- パネルクイズ アタック25(朝日放送テレビ制作・テレビ朝日系列で放送)
- オープニングクイズ出題者としてVTR出演(2013年3月3日放送分)
- 2000回記念番組対抗芸能人大会に古田敦也と共に「熱闘甲子園&スーパーベースボールチーム」として回答者出演(2015年7月19日放送分)
- 探偵!ナイトスクープ(朝日放送テレビ) - 自身の著書『阪神の女房』のPRを兼ねて“顧問”として出演した。
出演映画
- 『ミスター・ルーキー』(2002年) - 阪神を舞台にした作品だったことから、当時の現役選手を代表して、本人役で最終決戦のシーンに捕手として出演。
出演CM
- NEXTStage「極肌」(2012年、ABCラジオ・関西ローカル限定で放送)
- NTTDoCoMo関西(2013年 - ) - スポンサーに付いているABCテレビ制作・全国ネットの高校野球関連番組(『速報!甲子園への道』や全国高校野球選手権大会中継)内を中心に放送
- 関西アーバン銀行(2015年、ABCラジオ・関西ローカル限定で放送)
- 阪神甲子園球場(2015年、関西ローカル限定で放送) - 阪神甲子園球場への来場には電車・バスの利用を促す内容で、阪神電鉄の駅貼りポスターのモデルにも起用されている。
ABCラジオでは、矢野を起用した他社のスポットCMも随時流している。
以下はいずれも、阪神での現役選手時代に出演したテレビCM。
著書
- 『考える虎:最強タイガースを作り上げた攻守のカナメ』(ベースボール・マガジン社、2011年3月、ISBN 9784583103440)
- 『阪神の女房』(朝日新聞出版、2011年6月、ISBN 9784022508553)
- 『捕手目線のリーダー論:六つの要』(講談社、2012年3月、ISBN 978-4062169189)
- 『気を込める:虎の成功プロセス』(下柳剛との共著、ベースボール・マガジン社、2013年10月、ISBN 9784583106212)
- 『左手の記憶:20年間受け止めた「投手の決め球」と「男の気持ち」』(竹書房、2014年10月、ISBN 9784801900387)
脚注
- ^ a b 「矢野氏 作戦兼バッテリーコーチに就任」『デイリースポーツ』2015年10月27日。2015年10月27日閲覧。
- ^ 「矢野監督「えぐいなあ」ソフトバンク栗原の打撃絶賛」『日刊スポーツ』2020年11月24日。2020年11月25日閲覧。
- ^ a b 仙台六大学野球リーグ戦パンフレット
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関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 矢野燿大 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube、MLB
- 矢野燿大オフィシャルウェブサイト - 公式サイト
- 矢野燿大オフィシャルブログ「Thank you」 - Ameba Blog
- 矢野燿大 (@akihiro_yano_official) - Instagram