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* [https://web.archive.org/web/20220303183812/http://spora.jp/shiroishi/ 城石憲之オフィシャルブログ]
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2023年1月27日 (金) 04:48時点における版

城石 憲之
東京ヤクルトスワローズ 二軍チーフ兼守備走塁コーチ #79
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 埼玉県大宮市(現:さいたま市
生年月日 (1973-04-17) 1973年4月17日(51歳)
身長
体重
183 cm
74 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手遊撃手三塁手
プロ入り 1994年 ドラフト5位
初出場 1995年10月3日
最終出場 2009年10月13日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 東京ヤクルトスワローズ (2010 - 2014)
  • 北海道日本ハムファイターズ (2015 - 2021)
  • 東京ヤクルトスワローズ (2022 - )
  • 日本代表 (2023 - )

城石 憲之(しろいし のりゆき、1973年4月17日 - )は、埼玉県大宮市(現・さいたま市[1]出身の元プロ野球選手内野手)、プロ野球コーチ

フリーターという異色の経歴を持つ。2005年から2008年まで東京ヤクルトスワローズの選手会長。元妻はフリーアナウンサー大橋未歩

来歴・人物

プロ入り前

幼少の頃はサッカーをしていたが、リフティングが上手くできないため小学3年の時にソフトボールに転向[1]、中学時代は軟式野球部に所属していた。春日部共栄高校に進学後、野球部に所属し、主将も務める。1年秋からレギュラーとなり、1991年には3番(または6番)・遊撃手として第63回選抜高等学校野球大会第73回全国高等学校野球選手権大会に出場し、夏は初戦で敗退したが春に1勝を挙げる[1]。夏の埼玉大会決勝では門倉健を擁する聖望学園高校を破った。高校通算7本塁打を記録。卒業後は青山学院大学に進学(同級生に坪井智哉がいた)するも、部の体育会気質になじめず1週間で中退[1]

大学中退後、ガソリンスタンドの従業員として生活していたが、日本ハムファイターズの入団テストに合格し、1994年度プロ野球ドラフト会議にて日本ハムから5位指名を受け、入団[1]。日本ハムの入団テストに先んじてヤクルトスワローズの入団テストも受験しているが、こちらは不合格だった[1]

日本ハム時代

1997年にはフレッシュオールスターゲームに出場したほか、球団史上初のファーム日本選手権制覇に貢献したが、一軍には顔見せ程度の僅かな出場に留まっていた。

ヤクルト時代

1998年パシフィック・リーグ公式戦開幕前日、野口寿浩との交換トレードでプロ入り前の入団テストで不合格となったヤクルトスワローズへ移籍[1]。このトレードの背景には、ヤクルトがプロ野球脱税事件による出場停止処分を受けた正遊撃手・宮本慎也の代役を探す必要に迫られていたという事情があった。[2]

1998年移籍後すぐに一軍ベンチ入りを果たし、アキレス腱痛の関係で遊撃手ではフルに活動できない池山隆寛をサポートする形で出番が激増し、4月10日の対中日ドラゴンズ戦では先発メンバーにも選ばれた。宮本復帰後は主に二塁手として出場。プロ初本塁打も記録し、日本ハム在籍時の3年間の一軍出場数総合してもそれを上回る44試合に出場した。

1999年、4月2日の対横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)で土橋勝征辻発彦の故障のため、8番・二塁手で初の開幕戦先発出場を果たし年間でも前年の倍近くの86試合出場した。しかし2000年2001年と土橋、宮本、岩村明憲が元気だったため出番が激減した。2002年に2度目の開幕戦先発出場(二塁手)を掴むも、4月28日に左肘を脱臼し、長期離脱を余儀なくされる(この脱臼の後遺症で、左肘は現在も真っ直ぐ伸ばせない)。しかし、この年は自己最高となる8本塁打を記録した。

2003年、6月1日の対中日戦(千葉マリンスタジアム)では1点を追う9回二死満塁の打席でエディ・ギャラードから逆転サヨナラ2点適時打を放った[3]2005年は土橋から二塁手のレギュラーを奪って自己最多の130試合に出場し、打率.256、安打92、本塁打2とまずまずの成績を残した。シーズン終了後、ヤクルトの選手会長に就任。神宮球場でのスタメン発表時、「イケメン選手会長」と紹介されていた。同年5月9日の対福岡ソフトバンクホークス戦(神宮球場)では2-2の同点の延長11回二死満塁の打席で三瀬幸司からサヨナラ安打を放った[4]

2007年は腰痛により開幕二軍スタート。4月25日に昇格すると本塁打を放つなど好調だったが、直後に帯状疱疹により医師から絶対安静を指示されるなど、不運が続いた。2008年田中浩康の台頭や、日本ハムから移籍してきた川島慶三が頭角を現したこともあり出場が激減、前半戦は主に畠山和洋の守備固めで出場した。後半戦は腰痛で離脱、打率.048に終わるなど苦しんだ。

2009年は腰痛に苦しみながらも、二軍で打率3割以上を記録。2002年の左肘脱臼に続いて右肘痛も重なったことから身体の限界を感じ、同年10月2日に現役引退を表明。引退試合となった同年10月12日の対読売ジャイアンツ戦(明治神宮野球場)では1点を追う8回に代打で出場、越智大祐から左中間を抜ける二塁打を放ち、チームの逆転勝利に貢献、試合後に花田真人と共に引退セレモニーが行われた[5]

2010年から一軍守備走塁コーチに就任することが発表された。

引退後

ヤクルトコーチ時代
(2012年5月13日、こまちスタジアムにて)

2011年9月28日から休養し、現役時代からの腰痛の原因である椎間板ヘルニアの手術を受けた。元々はシーズン終了後の予定だったが、ノックなどにも支障が出るため手術に踏み切った(週刊ベースボール2011年10月24日号より)。同年10月7日に復帰(休養中は、当時二軍内野守備走塁コーチだった土橋が代役を務めた)。2014年限りでヤクルトを退団[6]

2015年北海道日本ハムファイターズの二軍打撃コーチを務め、翌年の2016年度からは一軍打撃コーチに就任となった[7]。2020年シーズンからは二軍内野守備コーチに配置転換。2月、沖縄県国頭村での二軍キャンプの打撃練習中に急に倒れて顔面を強打。名護市の病院に緊急搬送され、精密検査を受けたが、頭部に異常はなく、下顎部打撲と診断された。なお、城石は倒れる直前に左膝に打球を受けていたという[8]。数日間の入院と約1週間の静養に努め[9]、のちに復帰している。2021年11月1日、契約満了に伴い退団[10]

2022年より二軍チーフ兼守備走塁コーチとしてヤクルトに復帰することが発表された[11]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1995 日本ハム 2 3 3 1 2 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .667 .667 .667 1.333
1996 3 5 5 1 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .200 .200 .200 .400
1997 4 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
1998 ヤクルト 44 50 45 3 13 1 0 2 20 4 1 1 2 0 3 0 0 11 0 .289 .333 .444 .778
1999 86 103 93 7 13 4 0 0 17 5 2 1 3 0 5 2 2 29 3 .140 .200 .183 .383
2000 8 16 14 3 3 1 0 0 4 2 0 0 1 0 1 0 0 6 0 .214 .267 .286 .552
2001 31 38 36 4 9 3 0 0 12 0 0 0 1 0 1 0 0 10 0 .250 .270 .333 .604
2002 80 253 230 26 57 11 0 8 92 28 1 1 7 2 14 1 0 53 3 .248 .289 .400 .689
2003 117 280 245 33 64 14 0 5 93 28 1 2 7 2 23 3 3 41 7 .261 .330 .380 .709
2004 119 341 315 29 67 7 0 4 86 22 2 3 7 1 15 1 3 58 14 .213 .254 .273 .528
2005 130 389 359 25 92 18 1 2 118 30 2 2 10 0 19 1 1 66 9 .256 .296 .329 .624
2006 70 153 130 12 30 2 0 2 38 5 1 0 6 0 17 3 0 31 4 .231 .320 .292 .612
2007 81 116 109 9 23 4 0 2 33 9 0 0 3 0 3 0 1 22 2 .211 .239 .303 .542
2008 41 26 21 0 1 1 0 0 2 0 0 0 5 0 0 0 0 6 1 .048 .048 .095 .143
2009 1 1 1 1 1 1 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1.000 1.000 2.000 3.000
通算:15年 817 1775 1607 154 376 67 1 25 520 133 10 10 52 5 101 11 10 336 43 .234 .283 .324 .606

記録

初記録

背番号

  • 54(1995年 - 1998年途中)
  • 28(1998年途中 - 2000年)
  • 00(2001年)
  • 10(2002年 - 2009年)
  • 87(2010年 - 2014年)
  • 79(2015年 - )

脚注

  1. ^ a b c d e f g プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、283ページ
  2. ^ 澤宮優『ドラフト外』河出文庫、2013年、ISBN 9784309412603
  3. ^ 「ツバメもサヨナラ劇 飯田 足攻で演出」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2003年(平成15年)6月2日付朝刊、25面(スポーツ面)。
  4. ^ 「城石決勝打 11回 ヤクルト 連敗に サヨナラ」『読売新聞』(縮刷・関東版) 2005年(平成17年)5月10日付朝刊、18面(スポーツ面)。
  5. ^ 「城石 引退試合で最後の勝利に貢献!」sponichi2009/10/13”. 2021年4月8日閲覧。
  6. ^ 契約満了のお知らせ ヤクルト球団公式サイト、2014年10月8日配信。
  7. ^ 2015年コーチングスタッフについて 北海道日本ハムファイターズ公式サイト、2014年11月8日配信。
  8. ^ "日本ハム・城石コーチが救急搬送 左膝打球直撃後に倒れ顔面強打 頭部異常なく「下顎部の打撲」". Sponichi Anenx. スポーツニッポン新聞社. 12 February 2020. 2020年2月13日閲覧
  9. ^ “搬送の日本ハム城石コーチが鎌ケ谷訪問「大丈夫」”. 日刊スポーツ. (2020年2月23日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/202002230000693.html 2020年9月19日閲覧。 
  10. ^ コーチ退団のお知らせ|北海道日本ハムファイターズ”. 北海道日本ハムファイターズ オフィシャルサイト. 2021年11月1日閲覧。
  11. ^ 【ヤクルト組閣】松元ユウイチ作戦コーチ、大松尚逸1軍打撃コーチ” (2021年12月8日). 2021年12月8日閲覧。

関連項目

外部リンク