「ジャニーズ事務所/log20230924」の版間の差分
Masaya0855 (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
→所属タレント: ノート:ジャニーズ事務所#デビュー日要検証よりデビュー日を変更。二階堂高嗣の誕生日修正 |
||
170行目: | 170行目: | ||
=== デビュー組 === |
=== デビュー組 === |
||
以下は、2017年10月時点の公式サイト<ref>[http://www.johnnys-net.jp/page?id=artistAll ARTISTS]. Johnny's net 2017年10月29日閲覧。</ref>に掲載のある者をデビュー |
以下は、2017年10月時点の公式サイト<ref>[http://www.johnnys-net.jp/page?id=artistAll ARTISTS]. Johnny's net 2017年10月29日閲覧。</ref>に掲載のある者をデビュー日順に並べたリストである。 |
||
{| class=" sortable wikitable" style="font-size:85%; text-align:center" |
{| class=" sortable wikitable" style="font-size:85%; text-align:center" |
||
260行目: | 260行目: | ||
|{{Display none|おおくら/}}[[大倉忠義]]||{{生年月日と年齢|1985|5|16}}||2004年8月25日|| |
|{{Display none|おおくら/}}[[大倉忠義]]||{{生年月日と年齢|1985|5|16}}||2004年8月25日|| |
||
|- |
|- |
||
|{{Display none|かめなし/}}[[亀梨和也]]||{{生年月日と年齢|1986|2|23}}|| |
|{{Display none|かめなし/}}[[亀梨和也]]||{{生年月日と年齢|1986|2|23}}||rowspan="3"|2006年3月22日||rowspan="3"|{{Display none|かとううん/}}[[KAT-TUN]]|| |
||
|- |
|- |
||
|{{Display none|うえた/}}[[上田竜也]]||{{生年月日と年齢|1983|10|4}} |
|{{Display none|うえた/}}[[上田竜也]]||{{生年月日と年齢|1983|10|4}}|| |
||
|- |
|- |
||
|{{Display none|なかまる/}}[[中丸雄一]]||{{生年月日と年齢|1983|9|4}}|| |
|{{Display none|なかまる/}}[[中丸雄一]]||{{生年月日と年齢|1983|9|4}}|| |
||
284行目: | 284行目: | ||
|{{Display none|ちねん/}}[[知念侑李]]||{{生年月日と年齢|1993|11|30}}||NYC |
|{{Display none|ちねん/}}[[知念侑李]]||{{生年月日と年齢|1993|11|30}}||NYC |
||
|- |
|- |
||
|{{Display none|なかやま/}}[[中山優馬]]||{{生年月日と年齢|1994|1|13}}|| |
|{{Display none|なかやま/}}[[中山優馬]]||{{生年月日と年齢|1994|1|13}}||2009年7月15日|| ||[[中山優馬 w/B.I.Shadow]]<br/>NYC |
||
|- |
|- |
||
|{{Display none|いくた/}}[[生田斗真]]||{{生年月日と年齢|1984|10|7}}||{{要出典|date=2017-10|2010年8月31日}}|| || |
|{{Display none|いくた/}}[[生田斗真]]||{{生年月日と年齢|1984|10|7}}||{{要出典|date=2017-10|2010年8月31日}}|| || |
||
300行目: | 300行目: | ||
|{{Display none|たまもり/}}[[玉森裕太]]||{{生年月日と年齢|1990|3|17}}|| |
|{{Display none|たまもり/}}[[玉森裕太]]||{{生年月日と年齢|1990|3|17}}|| |
||
|- |
|- |
||
|{{Display none|にかいとう/}}[[二階堂高嗣]]||{{生年月日と年齢|1990|8| |
|{{Display none|にかいとう/}}[[二階堂高嗣]]||{{生年月日と年齢|1990|8|6}}|| |
||
|- |
|- |
||
|{{Display none|なかしまけんと/}}[[中島健人]]||{{生年月日と年齢|1994|3|13}}||rowspan="5"|2011年11月16日||rowspan="5"|{{Display none|せくしいそおん/}}[[Sexy Zone]]|| |
|{{Display none|なかしまけんと/}}[[中島健人]]||{{生年月日と年齢|1994|3|13}}||rowspan="5"|2011年11月16日||rowspan="5"|{{Display none|せくしいそおん/}}[[Sexy Zone]]|| |
2017年11月11日 (土) 10:07時点における版
ジャニーズ事務所本社(2012年12月撮影) | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
本社所在地 |
日本 〒107-0052 東京都港区赤坂8丁目11番20号 北緯35度40分6.6秒 東経139度43分43.8秒 / 北緯35.668500度 東経139.728833度座標: 北緯35度40分6.6秒 東経139度43分43.8秒 / 北緯35.668500度 東経139.728833度 |
設立 |
1962年6月 - 創業 1975年1月30日 - 法人登記 |
業種 | 芸能プロダクション |
代表者 |
ジャニー喜多川(代表取締役社長) メリー喜多川(代表取締役副社長) 藤島ジュリー景子(代表取締役副社長) |
主要子会社 |
ジャニーズ・エンタテイメント ジャニーズファミリークラブ ジェイ・ストーム ジェイ・ドリーム |
関係する人物 | ジャニー喜多川(創業者) |
外部リンク | http://www.johnnys-net.jp/ |
株式会社ジャニーズ事務所(ジャニーズじむしょ、英称:Johnny & Associates, Inc)は、日本の芸能プロダクションである。
歴史
この節のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2017年10月) |
米国由来の芸能の伝道
創設者のジャニー喜多川は、その前半生を戦時中の一時期を除いてカリフォルニア州ロサンゼルスで過ごし、その間米国西海岸のエンターテインメントに浴びるように触れる。また、1950年頃から日本の芸能人が箔附けのために渡米するようになり、父の諦道が真言宗米国別院の主監をつとめていた都合上、寺院を公演場所として貸しており、ジャニーはここでもエンターテインメントに触れる一方で、美空ひばりを筆頭に錚々たる芸能人と面識を持った[1]。
1952年、来日して米国大使館で通訳として勤務する傍ら、宿舎近くに近所の少年たちを集め、野球を教えていた。ある日、雨が降って野球ができなくなったため、映画館で『ウェストサイドストーリー』を鑑賞する。これに一同感動し、以降野球のトレーニングそっちのけでダンスのレッスンを始めた。この時の野球少年から選抜されたのが、事務所最初のタレントグループである(初代)ジャニーズであった。ジャニーは単なるタレント育成ではなく、ミュージカル俳優のような歌って踊れるマルチタレントの育成を目指した。1962年、渡辺プロダクションの系列会社としてジャニーズ事務所が創業される。初代ジャニーズは生放送の舞台ショーであった『夢であいましょう』などに出演する[2]。
次いで1968年にデビューしたフォーリーブスは、当時全盛期を迎えていたグループ・サウンズ(GS)の流れに乗り、「楽器を持たないGS」と通称される。1970年代に入りGSが下火に入ると、変わって台頭したソウルミュージックの路線に切り替える[3]。
アイドル的路線の確立
1970年代前半、GSのグループやメンバーはそれぞれアーティスト性を強めていた(ニュー・ロック)。また米国の音楽文化の中では、政治的な自我を前面に押し出したフォークソングが新たに誕生し、日本においても吉田拓郎、井上陽水、中島みゆきらが人気を博していた。しかしジャニーズはあくまで非日常な舞台を演出する方針を堅持した。ジャクソン5を模した明るいソウルミュージックに転向し、軽快でポップな舞台を「演じる」路線をとったのである[4]。
1972年、郷ひろみのデビュー時には、その中性的なルックスを前面に押し出し、またGSで特にアイドル性が高かったオックスとタッグを組んでいた筒美京平をプロディーサーに迎えた。郷はその後、1970年代半ばから登場したディスコもいち早く受容したが、1975年に退所する。次いで1977年にデビューした川崎麻世、1980年にデビューした田原俊彦もこの流れを継いだ[5]。舞台演技として一番経験を積んだのは、少年隊である。少年隊はデビュー前から米国に進出するなどそのパフォーマンスを高く評価される。1985年にデビューすると、翌年から2008年まで舞台『PLAYZONE』で主役を張った[6]。1987年デビューの光GENJIもまたミュージカル志向であるが、トレードマークのローラースケートは英国ミュージカル『スターライトエクスプレス』に着想を得たものである[7]。
お茶の間のタレントの誕生
一方で、1970年代半ばからテレビが普及するにつれて、日常のお茶の間に居ながらにしてちょっとした非日常的な空間を楽しむ、というスタイルが誕生する。この潮流の主軸をなしたのが、『スター誕生!』に関わった阿久悠であった。ジャニーズでこの新たな潮流に最初に合致したのが、近藤真彦(1980年デビュー)である。近藤のやんちゃなキャラクターが1950年代のオールディーズやストリートファッションなどの対抗文化の雰囲気を醸し出していると評され、ディスコ調の曲と並行してロック調の曲も発表された[8]。
1980年代に入るとアイドルの大衆化はさらに進み、歌やダンスなどの「実力」よりも個性などの「魅力」がよりアイドルに求められるようになる。シブがき隊(1982年デビュー)は歌やダンスの技量不足をカバーするために、音楽の企画性を追求した。いわゆるノベルティソング(珍奇な(novelty)歌、いわゆる「ネタ」が先行した音楽)を積極的に練ったのである。その傾向としては、「スシ食いねェ!」に代表されるような、米国視点からのジャポニスムが色濃く見られた[9]。続く忍者(1985年デビュー)は楽曲やパフォーマンスでジャポニズムを前面に押し出した[10]。
アイドルのマルチタレント化
1990年代に入るころには、アイドルの虚構性に対する需要がますます低下して、光GENJIの人気も下降した。1991年にデビューしたSMAPは、当初は光GENJIを模した華やかなコンセプトでスタートしたが、セールス面で事務所始まって以来の低迷を続ける。ジャニーズ事務所は起死回生の策として、それまで縁がなかったバラエティ番組やドラマに積極的に進出させる。お笑い方面への進出自体は過去のタレントも行っていたが、SMAPは手加減することなく、本職の芸人も顔負けの本気でコントに臨んだ[11]。
この方針はジャニーが志向する劇場型のエンターテインメントからは逸脱していたが、この方針転換を自身が率先して行わせた。ジャニーは米国と比べて芸能人の社会的地位が低い日本の文化環境に不満を抱いており、米国のようにすべてのジャンルの芸能人が等しく「芸術家」として尊敬を受ける社会を希求していた。そのため、すべての芸能分野において一流のパフォーマンスを披露する技量を持たせることは方針と合致し、また望ましいことであったのである[12]。
SMAPはバラエティと音楽パフォーマンスを両方こなすことで、スター性がありながらより身近な存在であるという唯一無二の存在位置を獲得することに成功した[13]。衣装についても身近な「リアル」を追求し、光GENJIのような気飾った衣装でもなく、近藤のような対抗文化の衣装でもなく、正真正銘の同時代の「リアル」な等身大の若者のヴィジュアルを保った。既に完成された完璧さではなくてそのメンバーの「物語」を見せ、ファンの共感を呼ぶという手法は、2000年代のアイドルの基本形となり、何よりジャニーズ事務所のほかのアイドルの模範ともなり、以降ジャニーズ事務所は男性アイドル界で圧倒的な勢力を築くに至った[14]。
特色
タレント育成方針
この節のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2017年10月) |
ジャニーズ事務所草創期の1960年代、日本の芸能界をリードしていたのは渡辺晋率いる渡辺プロダクション(ナベプロ)で、ジャズ奏者出身の渡辺の活動方針は、芸能人の生活基盤の安定のための市場整備にあり、タレントの権利擁護と市場提供を主目的とした。一方でジャニーズ事務所は、ジャニーの舞台芸術に対する憧れが最初にあり、初代ジャニーズ以下、事務所に入所した青少年に対して、エンタテインメントについて手厚い教育を行った。ジャニーは事務所の経営は姉のメリーに任せ、自身は半世紀に渡り、タレントへの教育を自ら行った。
ジャニーズ事務所の特徴はこのタレントに対する教育制度にあり、デビュー前のタレントを総称してジャニーズJr.と呼ばれるようになる。Jr.のタレントは郷ひろみがデビューした1970年代から、顔見せを兼ねて先輩のコンサートのバックダンサーなどの下積みを積むようになる。この育成制度は宝塚歌劇との類似性が指摘されており、ジャニーも取材に対して「男版宝塚をやる」と宣言したことがある[15]。
Jr.内でグループを組み、オリジナル楽曲や単独コンサートを行うほど人気を得ることもある。原則ジャニーの許可を得てレコード・CDを発売することでデビューとなる[要出典]。所属タレントは原則本名で活動するが、例外的に芸名を用いる者もいる。ジャニーズ事務所に所属しているタレントは、設立当時より基本的にアイドル活動が中心である(個人・グループを問わず、俳優やアーティストなど、他のジャンルと兼務した活動を行っている者も少なからず存在している)。ただし例外もあり、男闘呼組のようにアイドルグループとしてではなく、ロック・バンドグループとして所属していた例もある(ジャニーズ事務所がアイドル活動を中心としないタレントが所属した例は極めて少ない)。[独自研究?]中にはCDデビューせず俳優として活動する者もおり、生田斗真、屋良朝幸、風間俊介、長谷川純、佐野瑞樹のように俳優業だけでジャニーズJr.を卒業した例もある[16]。
肖像権管理
この節の加筆が望まれています。 |
タレントの肖像権を守り、複写等の悪用を防ぐため、その管理に厳しい事務所である[17]。インターネットが発展した以降も、レコード会社・出演映画・ドラマ・CM・音楽番組の公式サイトや新聞のWeb、電子版上で、所属タレントの顔写真や動画を使用することを制限しており[18][注 1][注 2]、マネージャー等も同等とされている[注 3]。たとえば出版社のサイトにて雑誌表紙のタレントが白抜きで表示される、CD等の通信販売サイトにてCDジャケットがシルエット表示される、など[21]長らく事務所および所属レコード会社の公式ウェブサイト以外のウェブサイトで所属タレントのCD・DVDのジャケット掲載を行っていなかった。しかし2017年8月ごろから掲載が解禁されるようになった[22]。
最近[いつ?]では所属タレントが出演する CM、ドラマやバラエティの予告が公式チャンネルを通してYouTubeなどへアップされるようになり制限が緩和した。2010年頃から[23][信頼性要検証]、Adobe フラッシュプレイヤーの技術を利用し、閲覧ページを閲覧者が容易に画像などを保存できない設定になっているためかなり緩和されてきているが、2006年開設の台湾公式ウェブサイトや、契約している広告企業が配布する壁紙などは必ず顔写真に加工している[独自研究?]。
また2017年9月にジャニーズ事務所を退社した香取慎吾については、退社後の写真をWeb媒体に掲載可能である旨が明示されている。これはジャニーズ所属時に存在した写真掲載規制が、退社にともなって解けたことを意味している[24]。
声の出演・音源の扱い
この節の加筆が望まれています。 |
所属タレントの声の露出も制限される場合がある。テレビアニメでは、『アストロボーイ・鉄腕アトム』で当時香取慎吾が演じた役はDVD化の際、手塚眞に代えられている。香取は『赤ずきんチャチャ』にも出演していたが、同作のサウンドトラックに収録されたミニドラマには出演していない。2008年から2010年までTBSラジオで放送していた番組枠『JUNK ZERO』のうち、城島茂がラジオパーソナリティを務めた『城島茂のどっち派?!』のみポッドキャスト配信が行われなかった。映画では、Hey! Say! JUMPの山田涼介、知念侑李が声優を務めた『スマーフ』で同グループの楽曲「Magic Power」が主題歌に起用されたが、DVD化の際は主題歌とならなかった[要検証 ]。
ラジオ番組のストリーミング配信においては地域を限定したradikoにおいてはインターネットでの配信を一部の放送局を除き認めている一方、タイムフリーでの聴取はできない[25]。また、有料での配信となっているradikoプレミアムやLISMO WAVE、ドコデモFMでは番組が差し替えられている(大半はフィラー音楽となり、代替番組は放送しない)。
1980年代以降の音源は原盤権を事務所が所有している。契約しているレコード会社の独自リリースや音源貸出は原則認めておらず、レコード会社の枠を超えてコンピレーション・アルバムに収録されたことがあるのみ。[独自研究?]。
賞レースへの不参加方針
「所属タレントに優劣をつけさせない」との方針により、「候補者を何人か選び、その中から大賞やグランプリ獲得者を決める」という形式の賞レースへの参加は原則辞退している[26][27]。受け取るのはそのタレントに直接賞を贈呈するもの(例として「ベストジーニスト」)や日本国外での表彰のみとなっている。
日本レコード大賞
1987年に近藤真彦が日本レコード大賞にノミネートされた際、亡くなった母親の骨つぼを盗まれ「大賞を辞退しろ」と脅迫を受けた事件[注 4]や、1990年の日本レコード大賞において、忍者が演歌・歌謡曲部門ではなくロック・ポップス部門にノミネートされたのを不服としたことが引き金とされている[26][27]。2003年にSMAPの「世界に一つだけの花」が日本レコード大賞の候補に挙がったが「歌詞の中にあるように“ナンバー1”を目指すよりも“オンリーワン”を大切に歌ってきた。そのメッセージを貫きたい」という理由で辞退している[28]。
2010年の第52回日本レコード大賞には近藤真彦が最優秀歌唱賞(第50回以降、同賞はノミネート形式から選考形式に変更された)に選ばれた。この時は「近藤はレコード大賞に育てられた歌手」と受賞を受け入れている[29]。
日本アカデミー賞
2006年12月の第30回日本アカデミー賞発表の席上で、『武士の一分』に主演した木村拓哉が「事務所の方針で、最優秀賞をほかの人と競わせたくない」との理由で主演男優賞を辞退した事を発表している[26][28]。同年の第49回ブルーリボン賞において木村拓哉と岡田准一(『花よりもなほ』)が主演男優賞の選考に挙げられた際にも「お世話になっている俳優や所属タレント同士で賞を争うのは本意ではない」と辞退している[27]。
2015年1月、第38回日本アカデミー賞に岡田准一が主演男優賞(『永遠の0』)と助演男優賞(『蜩ノ記』)にノミネートされ、いずれも最優秀賞を受賞した。ジャニーズ事務所は「岡田はこれまで弊社最多の20本の映画に出させていただいており、映画に育てていただいた俳優といっても過言ではございません」というコメントを発表した[30]。
2016年3月、二宮和也が『母と暮せば』の演技で第39回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞してジャニーズ事務所としては2年連続の受賞となった。また山田涼介が新人賞を受賞し[31]、日本アカデミー賞にも参加するようになった。
コンサート
この節の加筆が望まれています。 |
※ 所属タレントのコンサート・舞台等の主催、企画、チケット販売などを行う「ヤング・コミュニケーション」が設立されており、「ジャニーズチケット販売約款」という規約が作られている。
- チケットの販売
- コンサートのチケットはファンクラブ会員に最優先で販売される。グループによっては一般プレイガイド発売が行われないこともある。なお、公演によっては、コンサート事務局では取り扱わない場合もある。コンサートや舞台に限らず、所属タレントで行われる興行のプレイガイド販売においては、インターネット販売は原則行われない[注 5]。[独自研究?]チケットの転売行為には厳しい対応を取っており、ネットオークションなどでの第三者への転売行為が判明した場合、コンサート・舞台などの優先販売の通知は発送停止となり、一切のチケット予約が不可能になる。定価以下の販売であっても同様の対応を取る。また、追加公演などで振り替えられた公演が当選した旨の連絡が来た場合、当選したチケットの購入拒否は「個人の意向でキャンセルした」とみなされ、次の公演やそれ以降の公演のチケット購入および購入の為の抽選の対象外となる。
- コンサートの内容
- 基本的に所属タレント自身が構成を考えている。1995年 - 1999年にかけて複数のグループが同じステージセットで公演を行っていた。その理由としては、複数のグループが年に3回のコンサートツアーを行っていたため、1グループごとにステージセットを変更することが限られた日程・経費では不可能であったことなどが挙げられる。その後はどのグループもコンサートツアーは年1 - 2回しか行わないため、このようなことは起きていない。たとえ同じ会場で複数のグループが公演を行っても、グループごとにセットを変更している[要出典]。ただし、ジャニーズカウントダウンライブは、年末年始に行われているKinKi Kidsの公演をはさんで開催されていることから、KinKi Kidsの公演のセットを同公演でも使用していた[32]。
女性アイドルの在籍
1980年代中頃まで女性タレントが在籍していた。飯野矢住代、嶋田じゅん、藤島ジュリー景子、VIP、スリーヤンキース、オレンジ・シスターズなどが挙げられるが、1985年のオレンジ・シスターズの引退後は男性アイドルの育成に特化しており、女性タレントは所属していない[要出典]。
アジアでの影響
実際にアジアの芸能界にもジャニーズが与えた影響は少なくない。
韓国では、日本大衆文化開放前だった時代にジャニーズの音楽を聴く人が多かった。近藤真彦の「ギンギラギンにさりげなく」を初め、光GENJIなども韓国である程度の認知度があった。1990年代に入ってからジャニーズの全盛期が来て、韓国の芸能会社もジャニーズのシステムを模倣して男性アイドルグループをデビューさせた。
代表的に、SMエンターテインメントの創設者であるイ・スマンがジャニーズに影響を受けたことが知られており、H.O.T.や神話などをデビューさせるきっかけとなった。また、DSPメディアに所属していたソバンチャは少年隊、SECHSKIESはV6を参考にして結成されたグループである。歌謡界だけでなく、韓国の映画やドラマなど芸能界全般にも影響を与えた。2000年代に入るとグループを解散したメンバーが俳優として転身・活動することが増えた。ジャニーズの運営方式を韓国の芸能事務所が参考にしている。[独自研究?]
その他
- ファンクラブ
- 「ジャニーズファミリークラブ」を母体として、各タレントのファンクラブが作られている。またファンクラブが結成されていないタレントについては「情報局(ジャニーズJr.)」「ジャニーズアーティストクラブ(解散したグループのメンバー)」がタレントの情報を提供している。
年 | 新成人 | 立会人 |
---|---|---|
1999年 | 長瀬智也(TOKIO)、堂本光一(KinKi Kids)、森田剛(V6) | 近藤真彦 |
2000年 | 堂本剛(KinKi Kids)、三宅健(V6) | 東山紀之(少年隊) |
2001年 | 岡田准一(V6)、大野智(嵐) | 城島茂(TOKIO) |
2002年 | 滝沢秀明(タッキー&翼)、今井翼(タッキー&翼)、櫻井翔(嵐) | 坂本昌行(V6) |
2003年 | 相葉雅紀(嵐) | 山口達也(TOKIO) |
2004年 | 二宮和也(嵐)、松本潤(嵐) | 長野博(V6) |
2005年 | 生田斗真、赤西仁(KAT-TUN)、小山慶一郎(NEWS)、安田章大(関ジャニ∞)、錦戸亮(NEWS、関ジャニ∞) | 国分太一(TOKIO) |
2006年[33] | 山下智久(NEWS)、亀梨和也(KAT-TUN)、田口淳之介(KAT-TUN)、田中聖(KAT-TUN)、大倉忠義(関ジャニ∞)、長谷川純 | 松岡昌宏(TOKIO) |
所属タレント
2011年3月、同月に発生した東日本大震災に対する支援目的で、全所属タレントが参加する「Marching J」プロジェクトを立ち上げた際に、同時点での所属タレント(ジャニーズJr.の主要メンバーを含む)を「全83名」と発表している[35]。
デビュー組
以下は、2017年10月時点の公式サイト[36]に掲載のある者をデビュー日順に並べたリストである。
ジャニーズJr.
過去に所属していたタレント・グループ
- 過去のジャニーズ所属者
- ジャニーズJr. 解散したグループ
- ジャニーズ関連企画ユニット
- ジャニーズ関連OBユニット
所属タレントの所属レコード会社
自社レーベルのほか、他のレコード会社に所属タレントが所属している。
タレント | 所属レコード会社 | 所属レーベル |
---|---|---|
ソニー・ミュージックレコーズ | ソニー・ミュージックレコーズ | |
|
エイベックス | avex trax |
ジャニーズ・エンタテイメント | ジャニーズ・エンタテイメント | |
ワーナーミュージック・ジャパン | ワーナーミュージック・ジャパン | |
ジェイ・ストーム | J Storm | |
J-One Records | ||
INFINITY RECORDS | ||
ポニーキャニオン | ポニーキャニオン | |
ジャニーズ・エンタテイメント ジェイ・ストーム |
ジャニーズ・エンタテインメント ジェイ・ストーム |
過去には、JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント(SMAP)、ユニバーサルJ(TOKIO)、テイチクエンタテインメント(関ジャニ∞)への所属実績もあった。
会社概要
事務所の所在地変遷
所在地 | 日付 | 備考 |
---|---|---|
東京都豊島区雑司が谷 | 1962年 - 1964年6月28日 | 兼 合宿所およびレッスン場。豊島区西池袋1-3-6の芸能事務所「名和プロダクション」が運営していたタレント養成所「新芸能学院」。 |
東京都新宿区四谷3-1-3-2F | 1964年6月29日 - | 兼 合宿所。1Fは当時お茶漬け屋だったが、元々はメリー喜多川が経営していたカウンターバー「スポット」だった。 |
東京都渋谷区代々木1-37-3 岩崎ビル3F | - 1968年春 | 兼 合宿所およびレッスン場 |
東京都渋谷区神宮前2-18-13-2F | 兼 合宿所 | |
東京都渋谷区広尾1-1-22 恵比寿グリーンハイム204号 | 1971年 - | |
東京都港区青山3丁目 | 1973年 - | |
東京都港区六本木5-13-13 フォンテーヌビル2F | 1974年 - | このビルの地下深くには劇場のようなスペースがあり、そこではファンの集いも開催された |
東京都港区赤坂8-5-24 赤坂エイトビル3F | 現存しない。最寄り駅は「青山一丁目駅」または「乃木坂駅」 | |
東京都港区六本木2-3-9 亀甲ビル7 - 8F | 亀甲ビルのオーナーは夏目雅子の母親。このビルが建つ前は同地にて「亀甲屋」という雑貨商を営んでいた。 ジャニーズ事務所の撤退後、7Fは「夏目雅子ひまわり基金」の事務所となった | |
東京都港区赤坂8-11-20 | 1998年4月 - | 創業以来初の自社ビル 最寄り駅は「乃木坂駅」 |
主な役員
氏名 | 役職名 | 備考 |
---|---|---|
ジャニー喜多川 | 代表取締役社長 ジェイ・ドリーム代表取締役社長 ヤング・コミュニケーション代表取締役社長 ジャニーズ出版代表取締役社長 つづきスタジオ代表取締役社長 |
本名:喜多川 擴 |
メリー喜多川 | 代表取締役副社長 | 本名:藤島・メリー・泰子 小説家・藤島泰輔の妻 元・フォーリーブスのスタイリスト |
藤島ジュリー景子 | 代表取締役副社長 ジェイ・ストーム代表取締役社長 エム・シィオー代表取締役社長 ユニゾン代表取締役社長 東京・新・グローブ座代表取締役社長 |
メリー喜多川と藤島泰輔の長女 元・所属タレント 元・スタイリスト |
小杉理宇造 | 顧問 ジャニーズ・エンタテイメント代表取締役社長 |
スマイルカンパニー代表取締役社長 近藤真彦の元・ディレクター |
主要関連企業
- 株式会社ジャニーズ・エンタテイメント
- 〒150-0041 渋谷区神南1-19-11 パークウェースクエア 2 3F
- レコード会社。代表取締役社長:小杉理宇造
- 2017年1月現在日本レコード協会に準会員として加盟。
- 株式会社ジェイ・ストーム
- 東京都渋谷区渋谷1-10-10 ミヤマスタワー
- レコード会社・映画制作会社。代表取締役社長:藤島・ジュリー・景子
- 2017年1月現在ジャニーズ・エンタテイメント同様日本レコード協会に準会員として加盟。
- 株式会社東京・新・グローブ座
- 東京都新宿区百人町3-1-2
- 東京グローブ座の運営。代表取締役社長:藤島・ジュリー・景子
- 株式会社ジェイ・ドリーム
- 2005年6月設立。代表取締役社長:ジャニー喜多川
- ジャニーズファミリークラブ
- 東京都渋谷区渋谷1-10-10
- ファンクラブ運営
- 株式会社ヤング・コミュニケーション
- コンサート及び舞台主催、代表取締役社長:ジャニー喜多川
- コンサート事務局
- 株式会社ヤング・コミュニケーションのチケット販売部門。
- 株式会社エム・シィオー
- 東京都渋谷区渋谷1-16-9 渋谷K・Iビル6F
- 書籍、マーチャンダイジング、宣伝ツールの企画・制作、コンサートグッズ販売。代表取締役社長:藤島・ジュリー・景子
- 有限会社ジェイ・ステーション(別表記は「J-STATION」)
- 東京都新宿区1-26-1
- タレントグッズ販売、ジャニーズショップの経営。1989年5月にジャニーズ事務所51%、日本廣明社49%の出資で設立。
- ユニゾン株式会社
- 東京都渋谷区渋谷1-10-10 ミヤマスタワー3F
- 広告事業。代表取締役社長:藤島ジュリー景子
- 株式会社ジャニーズ出版(別名:「ジャニー・カンパニー」、「ジャニーズ・パブリッシング」)
- 音楽出版事業。代表取締役社長:ジャニー喜多川。野村義男が一時期所属。
- 株式会社ミュージックマインド
- 東京都渋谷区渋谷1-10-10 ミヤマスタワー1F
- 音楽出版事業。
- 株式会社アートバンク
- 携帯コンテンツ事業、2003年5月14日からスタートしたモバイル公式サイト「Johnny's web」のために設立。
- 株式会社クンクン
- 代表取締役社長:月丘夢路。雑誌、カレンダー等の企画制作の各出版社との契約折衝代行。その他、化粧品製造販売も行っている。
- 株式会社つづきスタジオ
- 東京都港区麻布十番4-6-9
- リハーサル・レコーディングスタジオ。1991年12月より、ジャニーズ事務所の直営となった。代表取締役社長:ジャニー喜多川、企業番号:293792410。
- 提携
-
- 株式会社日本広明社
- 東京都新宿区富久町8-21
- 広告宣伝会社・タレントグッズの企画
- 株式会社ケイ・プランニングセンター
- 日本広明社系列、広告代理店・タレントマネージメント
- ジャニーズショップ
- ジェイ・ステーションが運営する、ジャニーズ事務所公認のグッズ販売店。『Johnny's Jr. 名鑑』シリーズの発行・販売も行っていた。
- ジャニーズ原宿
- 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前1-14-21 イルサリチェビル1F
- ジャニーズ大阪
- 〒542-0086 大阪府大阪市中央区西心斎橋1-12-8 大美建築ビル2F (1999年より)
- 旧住所: 〒542-0086 大阪府大阪市中央区西心斎橋1-12-8 大美建築ビル2F
- ジャニーズ名古屋
- 〒460-0002 愛知県名古屋市中区丸の内3-17-6 ナカトウ丸の内ビル1F(2012年9月24日より。新店舗オープン記念で、限定ショッピングバッグの配布が行われた)
- 旧住所:〒461-0005 愛知県名古屋市東区東桜2-14-7 プロト東桜ビル2F
- ジャニーズプラザ(京都・嵐山店)
- 〒616-8384 京都府京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町40-8(1999年まで)
- 〒616-8384 京都府京都市右京区嵯峨天竜寺造路町37-3(「ジャニーズ大阪」の業務拡大による統合に伴い、2007年12月31日をもって営業を終了)
- ジャニーズ福岡
- 〒810-0001 福岡県福岡市中央区天神3-15-17 三天第2ビル2F
脚注
注釈
- ^ TBSのテレビドラマ『3年B組金八先生』公式サイトでは、ジャニーズ事務所所属タレントのみ顔写真が掲載されておらず、CBCラジオの放送枠『サタデーティーンズナイト』でも、松岡昌宏が担当する『TOKIOナイトCLUB』のみ番組サイトがないなど。たとえNHKでもこの対応は変えず、『MUSIC JAPAN』『ザ少年倶楽部』『ザ少年倶楽部プレミアム』で出演者紹介の画像表示を認めない。『私立バカレア高校』の制作記者発表でも、所属タレント達の写真掲載を認めなかったために、第一カトレア学園の生徒を演じるAKB48メンバーのすぐ隣にいるはずの、所属タレント達が演じる馬鹿田高校の生徒達が削られた写真のみが載った[独自研究?]。
- ^ また、『ミュージックステーション』や『Music Lovers』のように「番組の放送終了後に、出演アーティストによる直筆メッセージがウェブサイトに掲載される」場合でも、所属タレントによる直筆メッセージは掲載されていない[独自研究?]。一方で例外もあり、TBSラジオで当時SMAPの香取慎吾が『スクランブルSMAP』のラジオパーソナリティを務めていた1997年ごろに同局ウェブサイト内で開設されたプロフィールでは、彼の顔写真を掲載していた[19]。2000年に所属タレントである近藤真彦が経営するエムケイカンパニーが開設した「MK net Circuit 近藤真彦オフィシャルサイト」では、開設当時から顔写真を掲載している[20]。
- ^ 当時SMAPのマネージャーを務めていた元俳優の藤原秀樹が『獣電戦隊キョウリュウジャーVSゴーバスターズ 恐竜大決戦! さらば永遠の友よ』でノンクレジットとなっている[独自研究?]。
- ^ 骨つぼは発見されていないが、この時近藤は「自分の心の中にある母親の思い出までは盗めない」とコメントし同賞に出席、大賞を獲得した。
- ^ 『SUMARRY 2011』の東京ドーム公演は、チケットぴあにてインターネット販売が行われた
- ^ しかし、2007年は該当者の不祥事により自粛され、もう一人の新成人である増田貴久が袴姿で単独の記者会見に臨んだ。2008年に簡易な成人式を行ったのを最後に実施されていない[34][信頼性要検証]。
出典
- ^ 矢野, pp. 14–21.
- ^ 矢野, pp. 32–40.
- ^ 矢野, pp. 57–59.
- ^ 矢野, pp. 59–66.
- ^ 矢野, pp. 70–88.
- ^ 矢野, pp. 88–92.
- ^ 矢野, pp. 134–135.
- ^ 矢野, pp. 100–112.
- ^ 矢野, pp. 131–133.
- ^ 矢野, pp. 135–138.
- ^ 矢野, pp. 152–159.
- ^ 矢野, pp. 160–164.
- ^ 矢野, p. 164.
- ^ 矢野, pp. 189–190.
- ^ 矢野, pp. 23–30.
- ^ “【急になぜ?】屋良朝幸、風間俊介ら4名がジャニーズJr.突然の卒業にファンは…”. モデルプレス. (2015年10月15日) 2017年10月29日閲覧。
- ^ “ジャニーズがネット進出、WEST主演ドラマを配信”. 日刊スポーツ. (2017年3月25日) 2017年10月29日閲覧。
- ^ ジャニーズの「時代錯誤」に宣戦布告! 稲垣・草なぎ・香取がネット解禁. (1/4),(3/4). デイリー新潮 (2017年9月30日) 2017年10月29日閲覧。
- ^ 当時掲載されたプロフィール(インターネットアーカイブ1999年4月18日付保存キャッシュより)
- ^ 参考:2000年当時のオフィシャルサイト内インデックスページ(インターネットアーカイブ2000年6月20日付保存キャッシュより)
- ^ “ジャニーズはなぜインターネットをガン無視するのか? 戦後日本文化の「特異点」を語る (3/3)”. 現代ビジネス 2017年10月29日閲覧。
- ^ “ジャニーズ、ネット上での“情報革命”が話題「ついに」「時代が変わっていく…」”. モデルプレス. (2017年8月13日) 2017年8月24日閲覧。
- ^ ジャニーズ画像ついにネット解禁!? ドラマサイトが続々"イラスト→実写"に. サイゾー (2010年1月20日) 2017年10月29日閲覧。
- ^ “香取慎吾、退所後初イベント資料に異例の“一文” WEB媒体からもフラッシュの嵐”. ORICON NEWS. (2017年10月14日) 2017年10月29日閲覧。
- ^ “ジャニーズには通じぬ“ラジオ革命”「タイムフリー聴取機能」NGに局員も苦笑い (2/2ページ)”. ZAKZAK. (2016年10月31日) 2017年8月24日閲覧。
- ^ a b c “キムタクが日本アカデミー賞辞退”. 日刊スポーツ. (2006年12月20日) 2015年2月27日閲覧。
- ^ a b c 国分敦 (2015年2月1日). “【リレーコラム国分論】岡田准一受賞で盛り上がる映画界”. スポーツ報知 2015年2月27日閲覧。
- ^ a b “事務所の一分で?キムタク辞退”. スポーツニッポン. (2006年12月20日) 2015年2月27日閲覧。
- ^ 平本淳也 (2013年12月30日). “盛り上がらない「日本レコード大賞」にトドメを刺したジャニーズとは?”. 東京ブレイキングニュース 2015年2月27日閲覧。
- ^ “岡田准一、アカデミー賞を辞退せず受賞”. デイリースポーツ. (2015年1月14日) 2015年2月27日閲覧。
- ^ “【第39回日本アカデミー賞】二宮和也が最優秀主演男優賞を初受賞!声を震わせ感謝語る”. 映画.com. (2016年3月4日) 2017年10月29日閲覧。
- ^ “『ジャニーズカウントダウン』開催&放送決定! J-FRIENDS勢活躍、年男共演など今年の注目は? (1/2)”. Real Sound. (2016年12月2日) 2017年10月29日閲覧。
- ^ a b “松岡“荒っぽく”ジャニ新成人を祝福”. Sponichi Annex. (2006年1月12日). オリジナルの2006年1月17日時点におけるアーカイブ。
- ^ 「誰のせい!?」恒例の『ジャニーズ成人式』は今年も開催せず 日刊サイゾー (2009年1月21日)
- ^ 4・1から3日間 ジャニーズ"全員"で募金活動 - スポーツニッポン (2011年3月30日) 2017年10月29日閲覧。
- ^ ARTISTS. Johnny's net 2017年10月29日閲覧。
参考文献
- 矢野利裕『ジャニーズと日本』講談社現代新書、2016年12月20日。ISBN 978-4-06-288402-0。