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吉田法晴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉田 法晴
よしだ ほうせい
生年月日 1908年3月13日
出生地 日本の旗 日本 福岡県宗像郡河東村(現宗像市
没年月日 (1981-01-19) 1981年1月19日(72歳没)
出身校 同志社大学法学部卒業
前職 日本炭鉱社員
所属政党日本社会党→)
左派社会党→)
日本社会党
称号 正四位
勲二等旭日重光章

選挙区 旧福岡4区
当選回数 1回
在任期間 1972年12月11日 - 1976年12月9日

当選回数 1回
在任期間 1963年3月15日 - 1967年2月28日

選挙区 福岡県地方区
当選回数 3回
在任期間 1950年 - 1963年2月28日

当選回数 1回
在任期間 1947年 - 1950年
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吉田 法晴(よしだ ほうせい、本名:法晴(みちはる)[1]1908年明治41年)3月13日[2] - 1981年昭和56年)1月19日[2][3])は、日本政治家衆議院議員(1期)、参議院議員(3期)。初代北九州市長(1期)。

経歴

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福岡県[2]宗像郡河東村(現宗像市)出身。旧制福岡高校を経て1936年同志社大学法学部卒業後、日本炭鉱に入社[2]

1947年日本社会党から福岡県議会議員に初当選[2]

1950年第1回参議院議員通常選挙福岡県地方区補選で日本社会党公認で立候補して当選。以来、参議院議員を3期務め[3]、その間に参議院労働委員長となる[1]

参議院議員任期途中の1963年北九州市の発足に伴い選出される市長選挙に立候補(告示日の同年2月28日付で公職選挙法の規定により参議院議員を退職(自動失職))。市長選で当選して初代市長として1期務めた[2]

その後1972年第33回衆議院議員総選挙旧福岡4区から日本社会党公認で当選して国政に復帰し、1期務めた[3]

左派社会党として日中友好に携わった[1]。1981年1月19日死去、72歳没。死没日をもって正四位に叙され、勲二等旭日重光章追贈された[4]

脚注

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  1. ^ a b c 吉田法晴」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%B3%95%E6%99%B4コトバンクより2023年2月25日閲覧 
  2. ^ a b c d e f 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』674頁。
  3. ^ a b c 『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』709頁。
  4. ^ 『官報』第16201号14-15頁 昭和56年1月28日号

参考文献

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  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
公職
先代
新設
北九州市旗福岡県北九州市長
初代:1963年 - 1967年
次代
谷伍平
議会
先代
中村正雄
日本の旗 参議院労働委員長
1952年 - 1953年
次代
椿繁夫
先代
木下源吾
日本の旗 参議院人事委員長
1951年
次代
蟹江邦彦