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「渡邉恒雄」の版間の差分

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{{亡くなったばかりの人物| date=2024-12-19 01:05 }}
{{Otheruseslist|読売新聞グループ本社会長・主筆の渡'''邉'''恒雄|電気工学者の渡'''辺'''恒雄|渡辺恒雄 (工学者)|政治学者・歯科医師の渡'''部'''恒雄|渡部恒雄}}
{{別人|渡辺恒雄 (工学者)|渡辺恒夫 (心理学者)|渡部恒雄|渡部恒郎}}
{{正確性|date=2007年9月}}
{{Infobox journalist
{{出典の明記|date=2009年10月}}
| name = 渡邉 恒雄

| image = Tsuneo Watanabe in Tokyo Dome on March 30 2018 07.jpg
{{Infobox 人物
| caption = [[2018年]]3月、[[東京ドーム]]にて
|氏名=渡邉恒雄
| birth_name =
|ふりがな=わたなべつねお
| birth_date = {{生年月日|1926|5|30}}
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| birth_place = {{JPN}}・[[東京府]][[豊多摩郡]]<br />(現:[[東京都]][[杉並区]])
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| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1926|5|30|2024|12|19}}
|画像説明=
| death_place = {{JPN}}・[[東京都]]
|生年月日={{生年月日と年齢|1926|5|30}}
| education = [[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京大学文学部]][[哲学科]]卒業
|生誕地={{Flagicon|JPN}} [[東京府]]
|職業=[[読売新聞グループ本社]][[代表取締役]][[会長]]
| occupation = [[読売新聞グループ本社]][[主筆]]<br />[[File:JPN Kyokujitsu-sho 1Class BAR.svg|40px]] [[旭日大綬章]]
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|出身校=[[東京大学|東京帝国大学]][[文学部]][[哲学科]]
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|別名= ワタツネ、ナベツネ
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}}
'''渡邉 恒雄'''(わたなべ つねお、[[1926年]]〈[[大正]]15年〉[[5月30日]] - [[2024年]]〈[[令和]]6年〉[[12月19日]]<ref name="yomiuri20241219">{{Cite web |title=渡辺恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役主筆が死去、98歳 |url=https://www.yomiuri.co.jp/national/20241219-OYT1T50039/ |website=読売新聞オンライン |date=2024-12-19 |access-date=2024-12-19 |language=ja}}</ref>)は、[[日本]]の[[記者|新聞記者]]・[[実業家]]。[[株式会社 (日本)|株式会社]][[読売新聞グループ本社]][[代表取締役]][[主筆]]。[[勲等]]は[[旭日大綬章]]。「ナベツネ」の[[通称]]で知られ<ref>[https://npn.co.jp/article/detail/34600577/ 総額100億円 田中将大ヤンキース入団橋渡しにゴジラ松井][[リアルライブ]] - ([[週刊実話]] 2014年1月17日 15時01分)</ref>、読売関係者の間では「ワタツネ」と呼ばれていた<ref>{{Cite news2|df=ja |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2024/12/20/kiji/20241219s00001173416000c.html |title=長嶋茂雄氏「ワタツネさん」渡辺恒雄さんとの別れに沈痛「頭は白紙」 原氏「恩師でした」|newspaper=Sponichi Annex |agency=スポーツニッポン新聞社|date=2024-12-20 |accessdate=2024-12-20}}</ref>。株式会社[[読売新聞社]][[社長]]、[[読売ジャイアンツ]]の球団[[オーナー]]、株式会社読売ジャイアンツ[[取締役]]最高顧問、[[社団法人]][[日本新聞協会]]会長を歴任した。日本の[[プロ野球]]界に関連する渡邉の伝説は数知れず<ref>江尻良文『渡邉恒雄とプロ野球』株式会社双葉社、2014年、5ページ、ISBN 978-4-575-30647-7</ref>、自ら「俺は最後の[[独裁者]]だ」と語ったとされ<ref>2011年11月25日、[[清武英利]]による記者会見において</ref>、[[マスメディア]]において「野球界の[[独裁者]]」または単に「独裁者[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]」と呼ばれていることについては渡邉自身が認めていた。他にも「メディア界の[[ドン (尊称)#他言語での使用|ドン]]」「政界の[[フィクサー|大フィクサー]]」とも呼ばれた(詳細は[[#球団会長として|後述]])<ref>朝日新聞『独裁者と呼ばれて』(渡邉に対するインタビュー記事) 2011年11月28日</ref>。


== 生い立ち - 学生時代 ==
'''渡邉 恒雄'''(わたなべ つねお、{{和暦|1926t}}[[5月30日]] - )は、[[日本]]の[[実業家]]。[[読売新聞グループ本社]][[代表取締役]]会長・[[主筆]]。[[読売巨人軍]]会長。「'''ナベツネ'''」の通称で知られる。

== 生い立ち~学生時代 ==
=== 生い立ち ===
=== 生い立ち ===
[[東京都]][[杉並区]]出身。父は平吉、母は花。
[[東京府]][[豊多摩郡]](後の[[東京都]][[杉並区]]出身。父の名は平吉、母の名は花。五人姉弟の三番目で長男である<ref name="Uozumi_p23">[[魚住昭]] 『渡邉恒雄 メディアと権力』 p23</ref>


{{和暦|1934}}、恒雄が8歳のとき、不動貯金銀行(旧[[協和銀行]]の前身現[[りそな銀行]])に勤めていた父・平吉が東京・杉並区の自宅[[玄関]]で突然吐血、[[胃がん]]で週間後に死去した<ref name="Uozumi_p23">[[魚住昭]]著『渡邉恒雄 メディアと権力』23頁</ref>。父が残した十一軒の貸家からの[[家賃]]収入で当面の生活費には困らなかったが、稼ぎ手をなくした一家には将来の生活の不安が重くのしかかった<ref name="Uozumi_p23-24">[[魚住昭]]著『渡邉恒雄 メディアと権力』23-24</ref>。
[[1934年]]([[昭和]]9年)、恒雄が8歳の、不動貯金銀行(旧[[協和銀行]]の前身[[りそな銀行]])に勤めていた父・平吉が東京・杉並区の自宅[[玄関]]で吐血、[[胃]]で1週間後に47歳で死去した<ref name="Uozumi_p23"/>。父が残した十一軒の貸家からの[[家賃]]収入で当面の生活費には困らなかったが、稼ぎ手をなくした一家には将来の生活の不安が重くのしかかった<ref name="Uozumi_p23-24">魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p23-24</ref>。母親の花は、夫を失った打撃からなかなか立ち直れなかった<ref name="Uozumi_p24">魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p24</ref>。


母・花はいつもこう言って恒雄を叱咤したという。「お前は総領だ。総領というのは跡継ぎだ。だからお前は勉強して偉くならないかん。成績も全甲(全学科の成績が優秀であること)でないと、援助してくれている目黒の[[伯父]]さん<ref>母・花の実兄で、不動貯金銀行(旧[[協和銀行]]の前身・現[[りそな銀行]])の[[重役]]・[[柳井信治]]のこと</ref>に報告できない<ref name="Uozumi_p25">[[魚住昭]]著『渡邉恒雄 メディアと権力』25頁</ref>。」
[[戦前]]の[[家父長]]下では恒雄が全財産を相続し、一家の柱として責任を負わねばならなかった<ref name="Uozumi_p24"/>。母・花はいつもこう言って恒雄を叱咤したという<ref name="Uozumi_p25">魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p25</ref>。「お前は総領だ<ref name="Uozumi_p25"/>。総領というのは跡継ぎだ<ref name="Uozumi_p25"/>。だからお前は勉強して偉くならないかん<ref name="Uozumi_p25"/>。成績も全甲(全学科の成績が優秀であること)でないと、援助してくれている目黒の[[伯父]]さん<ref group="注釈">目黒の[[伯父]]さんとは、母・花の実兄で、父・平吉が勤めていた不動貯金銀行(旧[[協和銀行]]の前身・現[[りそな銀行]])の[[重役]]・柳井信治のこと魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p25)</ref> に報告できない<ref name="Uozumi_p25"/>。」


=== 学生時代 ===
=== 学生時代 ===
第一志望の府立高、第二志望の武蔵高、第三志望の府立一中と、つづざまに受験に失敗し、ようやく第四志望の開成中にビリに近い成績ですべり込んだ。同い年のいとこが府立一中に合格したこともあって母・花は「あんなボロ中学に入って情けない」と親類の前でオイオイ泣いたという<ref name="Uozumi_p26">[[魚住昭]]著『渡邉恒雄 メディアと権力』26頁</ref>。
第一志望の[[府立高等学校 (旧制)|府立高校尋常科]](現:[[東京都立桜修館中等教育学校]]<!--七年制高校の尋常科だから新制高校相当と見るべきでしょう-->)、第二志望の[[武蔵高等学校 (旧制)|武蔵高校尋常科]](現:[[武蔵高等学校中学校]]<!--七年制高校の尋常科だから新制高校相当と見るべきでしょう-->)、第三志望の府立一中(現:[[東京都立日比谷高等学校]])と、に受験に失敗し、ようやく第四志望の開成中(現:[[開成中学校・高等学校]]<!--七年制高校の尋常科だから新制高校相当と見るべきでしょう-->)にビリに近い成績ですべり込んだ<ref name="Uozumi_p26">魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p26</ref>。同い年のいとこが府立一中に合格したこともあって母・花は「あんなボロ中学に入って情けない」と親類の前でオイオイ泣いたという<ref name="Uozumi_p26"/>。

[[1939年]](昭和14年)4月、開成中学校に入学。同中学3年生の時、[[哲学]]の道を志し、日々哲学書ばかり読むようになる。また反軍国少年であり、旧制高校の記念祭では上級生らと夕闇の中蜂起して、[[軍国主義]]を吹聴する校長をはじめ教職員を襲撃して殴っている。[[勤労動員]]された航空機の工場では、密かに不良品を作り、抵抗した<ref>渡邉恒雄 『君命も受けざる所あり』 日本経済新聞出版社、2007年、27、35-41頁</ref>。

[[1943年]](昭和18年)4月、開成4年修了で旧制[[東京高等学校 (旧制)|東京高等学校]](現:[[東京大学教育学部附属中等教育学校]])に入学。[[網野善彦]]、[[氏家齊一郎]]が尋常科四年に進級した1943年(昭和18年)4月、一学年上の高等科に入ってきた<ref name="Uozumi_p36">魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p36</ref>。氏家によると、渡邉との出会いは6月頃、東高の校庭であった<ref name="Uozumi_p37">魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p37</ref>。以来、2人は共に軽演劇場や純喫茶に繰り出す仲になった<ref name="Uozumi_p37"/>。

=== 東大入学後、陸軍に徴兵 ===
[[1945年]](昭和20年)4月、[[東京大学大学院人文社会系研究科・文学部|東京帝国大学文学部]][[哲学科]]に入学。その後陸軍に徴兵され、[[近衛師団]]に配属。[[本土決戦]]に備えて[[神奈川県]]に配置された<ref>『本土決戦幻想コロネット作戦編』p98</ref>。渡邉の回顧録によれば、[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[二等兵]]としての[[軍隊]]生活で、上官から暴行を受けたという<ref>『渡邉恒雄回顧録』([[中央公論新社]], 2000年</ref>。

渡邉はもし、米軍が上陸したら真っ先に[[降伏]]しようと考えていたという。そのために捕虜になった時のことを考えて、[[千葉県]]あたりに置かれる可能性がある捕虜収容所で過ごすため、哲学書を3冊肌身離さず持っていた<ref>『本土決戦幻想コロネット作戦編』p100</ref>。

同年8月半ばに除隊の内示を受け、8月15日の朝に除隊。除隊日の正午からの[[玉音放送]]で終戦となる。兵役期間は、わずか5か月ほどであった。除隊後は千葉県の家族の下で休養。3ヶ月後に東大に復学した<ref>『本土決戦幻想コロネット作戦編』p101</ref>。


=== 復学後、共産党に入党 ===
{{和暦|1939}}春、[[開成中学校]]に入学。
前述の学徒動員時代に陸軍の上官から受けた暴行などから軍人(特に日本陸軍の軍人)を嫌い、[[軍国主義]]・[[国家主義]]的な考えを嫌悪していた。そこで、[[東京大学]]在学中の1945年12月、[[反天皇制]]を掲げていた[[日本共産党]]に入党を申し込む。[[日本青年共産同盟]]の同盟員としてビラ貼りや演説会の勧誘など下積み活動を経験して、[[1947年]]頃、正式な党員として認められる。東大[[細胞 (政党)|細胞]](共産党が地域・職場・学園などに設けた末端組織の旧称、現在の「支部」)に所属し、他大学でも演説を行い党員を増やした。


1947年9月、[[カスリーン台風]]の被害に対する共産党の考えをきっかけに党の思想に疑問を抱き、反マルクス主義の東大新人会運動の展開を開始。1947年12月に自ら離党届を提出したが、党から[[除名]]処分を受け、東大細胞も解散となった<ref>渡邉恒雄 『君命も受けざる所あり』 日本経済新聞出版社、2007年、60-69頁</ref>。離党後の彼を、[[しんぶん赤旗]]は「戦後の一時期に入党した渡辺氏は、青春を燃やした日々が懐かしいのか、いまでも日本共産党に入っていたことをよく口にしている」と評している<ref>[https://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-07-30/11_01.html 渡辺オーナー発言 署名活動は“大衆迎合”か]</ref>。氏家とともに母校である東京高等学校へオルグに行った際に、[[インターハイ]]を目指す後輩の野球部員達に対して「野球なんてくだらないものをする時ではない!」と共産党への入党を勧めた。
{{和暦|1943}}4月、開成4年修了で[[東京高等学校 (旧制) |東京高等学校]]に入学。


{{暦|1945}}4月、[[東京大学|東京帝国大学]][[]]に入学
[[1950年]](昭25年)3月、東京大学新聞研究所(現:[[情報]])を修了


== 読売新聞社での歩み ==
== 読売新聞社での歩み ==
=== 政治記者時代 ===
=== 政治記者時代 ===
[[東京大学文学部]]哲学科卒業後は[[読売新聞社]]に採用試験次席で入社(その年の採用試験首席は、後に作家となる[[三好徹]])。「[[朝日新聞社]]に入社したかったが採用試験で不採用になった」と[[週刊朝日]]のインタビューで答えているが、本心リップサービスのか不明
[[読売新聞社]]に次席で入社(その年の首席は、後に作家となる[[三好徹]])。また、[[東京新聞]]の採用試験にも合格している<ref>渡邉恒雄 『君命も受けざる所あり』 日本経済新聞出版社、2007年、83頁</ref>。「[[朝日新聞社]]に入社したかったが採用試験で不採用になった」と[[週刊朝日]]のインタビューで答えている。「[[中央公論]]」の入社試験も不合格となっており「頭良すぎて採用されなかった」とは本人談である。お、中央公論に関して渡邉が読売新聞社長時代に買収している


『週刊読売』(後の『[[読売ウイークリー]]』)[[記者]]を経て、[[政治部記者]]となる。『週刊読売』の記者時代、[[鳩山一郎]]が[[脳出血]]で倒れたときに、鳩山邸(現[[鳩山会館]])で張り込みをしていた。あわただしい気配がしたため、屋敷の中をのぞいた当時[[秘書]]だった[[石橋義夫]]が大きな犬を連れてきて、追い出された。その後、屋敷を出てきた[[大野伴睦]]に「誰が倒れたのですか」と質問したが無視され、次に現れた[[政治評論家]]の[[岩淵辰雄]]には、「(自分は)鳩山家の者ではない」と言われた。結局、鳩山が倒れた確証を得られないまま、デスクから「死んだのでないのなら放っておけばいい。そろそろ帰ってこい」と指示された<ref>[[水木楊]]『誠心誠意、うそをつく 自民党を生んだ男・三木武吉の生涯』177頁~178頁</ref>。[[警視庁]]出身の社長[[正力松太郎]]の眼鏡にかなって、[[自由民主党_(日本)|自民党]][[党人派]]の大物大野伴睦の番記者になった。以後[[保守]]政界と強い繋がりを持つようになり、大野の事務所を行き交う札束攻勢を目の当たりにする<ref>『渡邉恒雄 メディアと権力』145</ref>。
『週刊読売』(後の『[[読売ウイークリー]]』)[[記者]]を経て、[[政治部記者]]となる。『週刊読売』の記者時代、[[鳩山一郎]]が[[脳出血]]で倒れたときに、鳩山邸(現[[鳩山会館]])で張り込みをしていた。ただしい気配がした渡邉が屋敷の中をいたところ大きな犬を連れた秘書[[石橋義夫]]追い出された<ref group="注釈">後年、石橋は渡邉とともに横綱審議委員となり、その席で渡邉と顔を合わせることとなった。石橋は渡邉の後任の横綱審議委員長に就任した。</ref>。その後、屋敷を出てきた[[大野伴睦]]に「誰が倒れたのですか」と質問したが無視され、次に現れた[[政治評論家]]の[[岩淵辰雄]]に「(自分は)鳩山家の者ではない」と言われ、鳩山が倒れた確証を得られなかった。結局、デスクから「死んだのでないのなら放っておけばいい。そろそろ帰ってこい」と指示されたと言う<ref>[[水木楊]]『誠心誠意、うそをつく 自民党を生んだ男・三木武吉の生涯』177頁 - 178頁</ref>。


[[警視庁]]出身の社長[[正力松太郎]]の眼鏡にかなって、[[自由民主党 (日本)|自民党]][[党人派]]の大物、大野伴睦の[[番記者]]になった。以後[[保守]]政界と強い繋がりを持つようになり、大野の事務所を行き交う[[金権政治|札束攻勢]]を目の当たりにする<ref name="Uozumi_p145">[[魚住昭]] 『渡邉恒雄 メディアと権力』 p145</ref>。
渡邉に対する大野の信頼は篤く、渡邉は大野の依頼を受けて[[自由民主党総裁|自民党総裁]]や[[衆議院]]議長ポスト獲得交渉の代行、自民党[[政治家]]の[[ゴーストライター]]として[[週刊誌]]の論説の執筆まで引き受ける<ref>『渡邉恒雄回顧録』第3章・第4章などを参照。大野の回想録(『大野伴睦回想録』[[弘文堂]])も大半を渡邉が執筆している。</ref>。[[児玉誉士夫]]と懇意になり、児玉の指令のもとに[[九頭竜ダム]]建設の補償問題や日韓国交正常化交渉の場でも暗躍したとされている<ref>『渡邉恒雄 メディアと権力』154-155頁、160-166頁、204-216頁。</ref>。


渡邉に対する大野の信頼は篤く、渡邉は大野の依頼を受けて[[自由民主党総裁|自民党総裁]]や[[衆議院議長]]ポスト獲得交渉の代行、自民党[[政治家]]の[[ゴーストライター]]として、[[週刊誌]]の論説の執筆まで引き受ける<ref>『渡邉恒雄回顧録』第3章・第4章などを参照。大野の回想録(『大野伴睦回想録』[[弘文堂]])も大半を渡邉が執筆している。</ref>。[[児玉誉士夫]]と懇意になり、児玉の指令のもとに[[九頭竜ダム]]建設の補償問題や日韓国交正常化交渉の場でも暗躍したとされている<ref>{{Harvnb|魚住昭|2000|pp=154-155,160-166,204-216}}</ref>。また渡邉は後年、大野が戦時中から自由主義者であり、かつ反戦・反軍主義者であったことから気が合ったと振り返っている<ref>{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/politics/20200809-OYT1T50234/|title=渡辺主筆、戦争体験「書き残していかないといけない」…NHK番組で語る|work=読売新聞オンライン|newspaper=[[読売新聞]]|date=2020-08-10|accessdate=2024-12-20}}</ref>。
また[[鳩山一郎]]の次の自民党総裁・総理大臣を狙っていた正力松太郎が、[[中曽根康弘]]を参謀格に自分の派閥を結成して総裁選出馬準備を進めていた際、正力から中曽根との連絡役を命じられて付き合いが始まり<ref>[[杉山隆男]]『メディアの興亡』(文藝春秋、1986年)349ー350頁。</ref>、大野の死後は中曽根と親密になった


また、[[鳩山一郎]]の次の自民党総裁、総理大臣を狙っていた正力松太郎が、[[中曽根康弘]]を参謀格に自分の派閥を結成して総裁選出馬準備を進めていた際、正力から中曽根との連絡役を命じられて付き合いが始まり<ref>[[杉山隆男]]『メディアの興亡』(文藝春秋、1986年)349ー350頁。</ref>、大野の死後は中曽根と親密になった。
中曽根とは1957年の自民党総裁選の最中に出会った。渡邉は、初入閣を望む中曽根と副総裁の大野伴睦との仲を取り持った。大野は[[造船疑獄]]の際に、自らを追及した中曽根を快く思っていなかったが、渡邉の執り成しによって態度を変え、入閣を確約した。1982年の総裁選の時には、渡邉は中曽根擁立のため、田中角栄の秘書[[早坂茂三]]に引き合わせ働きかけた<ref>『渡邉恒雄 メディアと権力』132-134頁、355-360頁。</ref>。[[1966年]]の[[国有財産|国有地]]払い下げ問題でも大きな役割を果たしている<ref>『渡邉恒雄 メディアと権力』260-274頁。この件については、[[杉山隆男]]『メディアの興亡』下巻などにも詳しい記述がある。</ref>。


中曽根とは、1957年(昭和32年)の自民党総裁選の最中に出会った。渡邉は、初入閣を望む中曽根と副総裁の大野伴睦との仲を取り持った。大野は[[造船疑獄]]の際に、自らを追及した中曽根を快く思っていなかったが、渡邉の執り成しによって態度を変え、入閣を確約した。1982年(昭和57年)の自民党総裁選の時には、渡邉は中曽根擁立のため、田中角栄の秘書[[早坂茂三]]に引き合わせ働きかけた<ref>{{Harvnb|魚住昭|2000|p=132-134,355-360}}</ref>。早坂と、中曽根の秘書の小林克己は渡邉と同じ元[[日本共産党]]員だった。[[1966年]](昭和41年)の[[大手町 (千代田区)|大手町]]にある[[国有財産|国有地]]払い下げ問題でも、大きな役割を果たしている<ref>{{Harvnb|魚住昭|2000|pp=260-274}}。この件については、[[杉山隆男]]『メディアの興亡』下巻などにも詳しい記述がある。</ref>。2019年(令和元年)に中曽根が死去した際には、親の死と同様にショックであると心情を吐露。彼以上に敬愛した人物はいないというコメントを寄せた<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20191129-22CVIOZCINM2PDIWD6XKMDMURU/|title=中曽根元首相死去 渡辺恒雄氏「彼以上に敬愛した人物いない」|work=産経ニュース|newspaper=[[産経新聞]]|date=2019-11-29|accessdate=2024-12-20}}</ref>。
なお、政治記者としてよりは、若いころからジャーナリストとして多くの著作で知られる存在だったが、[[魚住昭]]は「戦後に現れた組織ジャーナリストの中でも、彼はテクニックにおいては最高の人でしょう」と評している<ref>知のゆくえ 第十四回魚住昭 第2週 渡邉恒雄氏の魅力[http://web.archive.org/web/20061231103007/http://www.timebooktown.jp/Service/clubs/00000000/f04/f04_14_02.asp]</ref>。


なお、政治記者としてよりは、若いころからジャーナリストとして多くの著作で知られる存在だったが、[[魚住昭]]は「戦後に現れた組織ジャーナリストの中でも、彼はテクニックにおいては最高の人でしょう」と評している<ref>[https://web.archive.org/web/20061231103007/http://www.timebooktown.jp/Service/clubs/00000000/f04/f04_14_02.asp 知のゆくえ 第十四回魚住昭 第2週 渡邉恒雄氏の魅力]</ref>。
=== 新聞社幹部として ===
[[1977年]]、編集局総務(局長待遇)に就任、同年2月18日付の『[[読売新聞]]』[[社説]]は[[百里飛行場#航空自衛隊百里基地|百里基地]][[訴訟]]一審[[判決]]の[[違憲審査制|違憲立法審査権]]の存在意義を説いていたが、[[1981年]]7月8日付紙面では一転し、二審判決の統治行為論を支持して[[裁判所]]の政治介入を制限する主張に変わった。読売新聞が渡邉の主張を取り入れて、[[中道政治|中道]]から保守に傾斜していく過程の一エピソードである。同年、取締役論説委員長に就任した。[[1984年]]からは[[元旦]]の社説を執筆するようになった。[[1991年]]に読売新聞社社長、[[横綱審議委員会|横綱審議委員]]、[[1999年]]には[[日本新聞協会]]会長に就任した。


=== 編集局総務に就任 ===
世論の大多数が憲法改正そのものを否定していた1990年代初頭より読売新聞は[[日本国憲法第9条|憲法第9条]]の改正を含む[[改憲]]キャンペーンを展開し、それまで半ばタブー視されていた[[改憲論議]]の口火を切る。その後、世論調査では憲法改正自体への賛成が反対を上回ることが多々見られるようになった<ref>[[西川伸一]] [http://www.kisc.meiji.ac.jp/~kokkaron/column/yomiuri.html "読売新聞の論調にみる「改憲意識インプット戦略」"] 社会主義理論学会会報 第56号 (2004)</ref>。
[[1977年]]、編集局総務(局長待遇)に就任、同年2月18日付の『[[読売新聞]]』[[社説]]は[[百里飛行場#航空自衛隊百里基地|百里基地]][[訴訟]]一審[[判決]]の[[違憲審査制|違憲立法審査権]]の存在意義を説いていたが、[[1981年]]7月8日付紙面では一転し、二審判決の[[統治行為論]]を支持して、[[日本の裁判所|裁判所]]の政治介入を制限する主張に変わった。読売新聞が渡邉の主張を取り入れて、[[中道政治|中道]]から[[保守]]に傾斜していく過程の1エピソードである。同年、取締役論説委員長に就任した。


[[1982年]]12月に[[ソビエト連邦|ソ連]]による執拗かつ周到な対日[[諜報活動]]・[[間接侵略]]([[シャープパワー]])が暴露された[[レフチェンコ事件]]当時、[[総理大臣官邸#旧官邸|首相官邸]]に赴いた際に自社の記者について[[後藤田正晴#日ソ関係|後藤田正晴]]や[[中曽根康弘#レフチェンコ事件とミトロヒン文書|中曽根康弘]]とやりあったという。[[1984年]]からは[[元旦]]の社説を執筆するようになった。
[[1996年]]6月5日の衆議院の規制緩和に関する特別委員会(議題は「規制緩和に関する件」(著作物の[[再販制度]]:新聞社・出版社が、取引先である卸売業者や小売店に対して卸売価格や小売価格を指示してこれを維持させていること))に新聞協会を代表して[[参考人]]として出席し、新聞には文化的な価値、公共性があること、新聞ほど競争激烈な商品はない、価格も硬直的でない、再販により安売り競争で弱い所がつぶれてゆくなどの理由から、新聞の再販を認めるべきではないとの見解を示した<ref>[http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/136/0580/13606050580009c.html 第136回国会 衆議院 規制緩和に関する特別委員会 第9号(1996年6月5日)]</ref>。その際に適用除外廃止の意見を伝え実質的に意味のある報道をなぜしないか?との質問に対して、「凶悪な人達の議論を大々的に報道をする義務を感じない。[[オウム真理教]]の[[松本智津夫|教祖]]の[[理論]]を長々と書かないのと同じだ」と述べた。


1987年6月、筆頭副社長に就任。1989年に球団内で組織された最高経営会議のメンバーに選ばれ、[[読売ジャイアンツ]]に関わるようになるが、野球の知識はほとんどなかった。
[[2005年]]、[[読売新聞グループ本社]]の会長に就任。[[2007年]]、第54回[[カンヌ国際広告祭]]で世界の[[マスメディア|メディア]]業界の中から傑出した人物を讃える「メディアパーソン・オブ・ザ・イヤー」を受賞。朝夕刊で1400万部の世界一の発行部数である読売新聞ほか、テレビ局、出版社、[[プロ野球]]球団など[[広告#広告媒体|広告媒体]]としても大きな影響力を持つグループを率いていることが評価された。


===社長就任後===
[[保守]]的な言動で知られているが、首相の[[靖国参拝]]や[[歴史修正主義]]の動きには反対の立場を取っている。[[軍隊]]生活で上官に暴行を受けた経験などから日本の軍国主義に対し嫌悪感を抱いているとされる。特攻については'''「人間を物体としての兵器と化した軍部当事者の非人間性は、日本軍の名誉ではなく汚辱だと思わざるを得ない」'''と述べている<ref>[http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/yamato/tokkou/watanabe.htm 世界の海軍にあって最も下劣 なぜ、今、戦争責任の検証か。渡邉恒雄(読売新聞・主筆)]</ref>。
[[1991年]]に読売新聞社社長、[[横綱審議委員会|横綱審議委員]]、[[1999年]]には[[日本新聞協会]]会長に就任した。


日本国民の世論の大多数が、[[日本国憲法]]改正そのものを否定していた[[1990年代]]初頭より、読売新聞は[[日本国憲法第9条|憲法第9条]]の改正を含む[[改憲]]キャンペーンを展開し、それまで半ば[[タブー]]視されていた[[改憲論議]]の口火を切る。その後、世論調査では憲法改正自体への賛成が、反対を上回ることが多々見られるようになった<ref>[[西川伸一]] [http://www.kisc.meiji.ac.jp/~kokkaron/column/yomiuri.html "読売新聞の論調にみる「改憲意識インプット戦略」"] 社会主義理論学会会報 第56号 (2004)</ref>。
盟友の中曽根を強引に引退させた<ref>[[衆議院]]への[[小選挙区比例代表並立制]]導入に際し、中曽根が小選挙区における公認を求めない代償として、中曽根を終身的に[[比例北関東ブロック]]の名簿一位に載せるという約束を中曽根と当時の自民党執行部([[自民党総裁]][[橋本龍太郎]]及び[[自民党幹事長]][[加藤紘一]])が交わしていたが、小泉は党規の比例代表候補73歳定年制を厳格に適用すべくこの約束を反故とした。</ref>[[小泉純一郎]]政権に対しては極めて批判的であった。小泉首相の[[靖国神社]]参拝に際し、「もしも[[メルケル]](ドイツ首相)がヒトラーの墓参りをしたらどうなるのか」「(靖国神社の)[[遊就館]]は非常に有害な場所であり、あれは閉鎖しなければならない。[[産経新聞]]を除いて日本のメディアは戦争の責任と靖国神社等の問題について重要な共通認識をもっている」「日本の首相の靖国神社参拝は、私が絶対に我慢できないことである。今後誰が首相となるかを問わず、いずれも靖国神社を参拝しないことを約束しなければならず、これは最も重要な原則である。…もしその他の人が首相になるなら、私もその人が靖国神社を参拝しないと約束するよう求めなければならない。さもなければ、私は発行部数1000数万部の『読売新聞』の力でそれを倒す」と答えている<ref>『北京週報』電子版(2007年8月10日付)</ref>。


[[1996年]]6月5日の衆議院の規制緩和に関する特別委員会(議題は「規制緩和に関する件」、著作物の[[再販売価格維持]]制度:新聞社・出版社が、取引先である卸売業者や小売店に対して卸売価格や[[定価]]を指示して、これを維持させていること)に新聞協会を代表して[[参考人]]として出席し、新聞には文化的な価値、公共性があること、新聞ほど競争激烈な商品はない、価格も硬直的でない、再販により安売り競争で弱い所が潰れてゆくなどの理由から、新聞の再販を認めるべきではないとの見解を示した<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=113604019X00919960605 第136回国会 衆議院 規制緩和に関する特別委員会 第9号(1996年6月5日)]</ref>。その際に適用除外廃止の意見を伝え実質的に意味のある報道をなぜしないか?との質問に対して、「凶悪な人達の議論を大々的に報道をする義務を感じない。[[オウム真理教]]の[[麻原彰晃|教祖]]の[[理論]]を長々と書かないのと同じだ」と述べた。渡辺が読売新聞の社長を務めてからは1994年には1000万部を突破するなど部数はさらに伸び2001年の1月には販売部数は1031万部を記録した<ref>https://japanese.joins.com/JArticle/327648?servcode=A00&sectcode=A00</ref>。
自民党員および元自民党員ら保守系議員に多大な影響力を持ち、中曽根康弘と共に2007年の自民党と民主党の[[大連立構想 (日本 2007)|大連立構想]]の[[黒幕]]であったと報じられている。[[小沢一郎]]は朝日新聞の2007年11月16日付のインタビューで、渡邉を「大連立構想の張本人」と答えている。


===会長就任後===
2007年10月26日付日本新聞協会会報のインタビュー記事で「社論と反対の社説を執筆した論説委員に執筆を禁じた」と述べ、虚偽の発言で名誉を毀損された(社論に反する社説を書いた事実は一切ない)として、[[2010年]][[11月25日]]に読売新聞の前澤猛・元論説委員(“執筆を禁じ”られた当人)から提訴されている<ref>読売新聞:元論説委員、渡辺会長を提訴 [[毎日新聞]] 2010年11月25日</ref><ref>渡辺恒雄氏を元部下が提訴 「虚偽の発言で名誉棄損」[[47NEWS]]・[[共同通信社]] 2010年12月25日</ref><ref>[http://www005.upp.so-net.ne.jp/mediawatching/ メディア・ウォッチング―Tokyo Journalim Review]</ref>。
[[2005年]]、[[読売新聞グループ本社]]の会長に就任。[[2007年]]、第54回[[カンヌ国際広告祭]]で世界の[[マスメディア|メディア]]業界の中から傑出した人物を讃える「メディアパーソン・オブ・ザ・イヤー」を受賞。朝夕刊で1400万部の世界一の発行部数である読売新聞ほか、テレビ局、出版社、[[プロ野球]]球団など[[広告#広告媒体|広告媒体]]としても大きな影響力を持つグループを率いていることが評価された。


盟友の中曽根を強引に引退させ<ref group="注釈">{{要出典範囲|[[衆議院]]への[[小選挙区比例代表並立制]]導入に際し、中曽根が小選挙区における公認を求めない代償として、中曽根を終身的に[[比例北関東ブロック]]の名簿一位に載せるという約束を中曽根と当時の自民党執行部([[橋本龍太郎]][[自由民主党総裁|総裁]]及び[[加藤紘一]][[自由民主党幹事長|幹事長]])が交わしていたが、小泉は党規の比例代表候補73歳定年制を厳格に適用すべくこの約束を反故とした|date=2014年2月}}。</ref>、毎年靖国神社を参拝した[[小泉純一郎]]政権に対しては批判的であった。靖国神社に対する見解は[[#靖国神社に対する見解|後述]]。
== 読売ジャイアンツにおける活動 ==


[[ファイル:20110218 The Prime Minister Attends the Opening Ceremony of the Japan Grand Prix International Orchid Festival 2011 3.jpg|サムネイル|[[2011年]]2月、[[内閣総理大臣]][[菅直人]]、[[島津貴子]]らと[[世界らん展日本大賞]]開会式にて(左端)]]
渡邉が巨人の経営に参加するようになったのは、読売新聞社副社長時代の[[1989年]]に球団内で組織された最高経営会議のメンバーに選ばれてからである(他のメンバーは[[務臺光雄]](同社名誉会長)・[[小林與三次]](同社社長)・[[正力亨]](巨人軍オーナー)‐)。[[1991年]]に務臺が死去した後しばらくは沈黙していた渡邉だったが、務臺の一周忌が済むとその発言が徐々に球界に強い影響力を及ぼすようになり、[[1996年]]に正力を名誉オーナーに祭り上げる形で自身がオーナーに就任。「'''野球はやったこともなく興味もなかった'''」と公言するも、その後野球界をすばやく学習し、これまでの巨人軍の人気、資金、読売新聞と[[日本テレビ放送網]]という巨大メディアを背景に、影響力のあるチームオーナーとして球界に君臨、[[コミッショナー]]の[[人事]]も決める男と言われた。
自民党員及び元自民党員ら保守系議員に多大な影響力を持ち、中曽根康弘と共に、2007年の自民党と民主党の[[大連立構想 (日本 2007)|大連立構想]]の[[黒幕]]であったと報じられている。[[小沢一郎]]は『朝日新聞』の2007年11月16日付のインタビューで、渡邉を「大連立構想の張本人」と答えている。


2007年(平成19年)10月26日付日本新聞協会会報のインタビュー記事で「社論と反対の社説を執筆した論説委員に執筆を禁じた」と述べ、虚偽の発言で名誉を毀損された(社論に反する[[社説]]を書いた事実は一切ない)として、[[2010年]](平成22年)[[11月25日]]に読売新聞の前澤猛・元論説委員(“執筆を禁じ”られた当人)から提訴されている<ref>{{Cite news|title=読売新聞:元論説委員、渡辺会長を提訴 |newspaper=[[毎日新聞]] |date=2010-11-25}}, {{Cite news|title=渡辺恒雄氏を元部下が提訴 「虚偽の発言で名誉棄損」|date=2010-11-25|agency=[[共同通信社]] |url=https://web.archive.org/web/20101127000819/http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010112501000941.html }}</ref>。2011年7月5日の判決では、原告の主張は一部認められたが損害賠償は棄却された<ref>[http://www005.upp.so-net.ne.jp/mediawatching/ メディア・ウォッチング―Tokyo Journalim Review]</ref>。
=== 巨人軍オーナーとして ===
[[日本プロ野球選手会]]は、米メジャーリーグにならってドラフト制度を改革し、同時にFA制度を導入することを希望していた。その選手会の要望に端を発した[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA制度]]導入論に勢いを得て、資金力のある球団が有利になるドラフト制度逆指名システムやフリーエージェント(FA)制度などの導入に際して、渡邉はオーナー会議の席上で、(大新聞・系列スポーツ紙は価格カルテルや再販制度、記者クラブ等で自由競争をしていないことが問題視されているにもかかわらず)「自由主義社会なら自由競争するのが当たり前」と言い放ち、「反対するなら脱退して新リーグを結成することも辞さない」などと発言をして、意見を異にする他球団の同意を強く求め、同制度を実現。現実に導入されたシステムでは「戦力の均衡」という理念が大きく損なわれていた。ドラフト制度が改革されて逆指名システムが導入され、大学生と社会人は行きたい球団を指名できることになり、資金力のある球団が有力な新人選手と契約できることになった。また同時にFA制度が導入されて、一定期間を経た選手の移籍契約が自由になったため、資金力のある球団が有利になることになってしまった。([[メジャー・リーグ]]は外国人制限もなく、ドラフト制度は、前年度成績の低かった球団の順に、新人選手を採用できる完全ウェーバー方式を採用しており、戦力を均衡するという理念によって成り立っている。またドラフトで選手の球団選択が制限されていることの見返りに、FAによって、入団後一定の期間を得た選手が他球団への移籍を自分で決めることができ、選手の選択の自由も保障されている)。


『[[週刊文春]]』によると、渡邉は2004年(平成16年)に、不正な方法で[[運転免許証]]を更新し、[[道路交通法]]違反を犯したと報道されている<ref>『週刊文春』(2012年11月7日)「[http://shukan.bunshun.jp/articles/-/2008 渡辺恒雄・読売新聞会長兼主筆が運転免許を不正更新]」</ref>。
この制度の導入後、巨人はパ・リーグを中心とする他球団から多くの有力な選手を高い報酬で次々と獲得した。この逆指名システムやFA制度によって選手の契約金、裏金、年俸の相場が桁外れに暴騰した。


[[ファイル:William F. Hagerty and Shinzo Abe in Tokyo Dome on March 30 2018 07.jpg|サムネイル|[[2018年]]3月、[[内閣総理大臣]][[安倍晋三]]、[[駐日アメリカ合衆国大使]][[ウィリアム・F・ハガティ]]夫妻と[[東京ドーム]]にて(左端)]]
[[スター・システム]]の考え方に基づきチームを強化するため、資金力を背景にフリーエージェント制度を利用して他チームの有名選手を集めたが、監督には他球団で功績を挙げた優秀な人材を得ようとはせず、[[長嶋茂雄]]のような巨人生え抜きのスターにこだわった。長嶋の希望により[[清原和博]]や[[江藤智]]、[[広澤克実]]、[[石井浩郎]]ら各球団の4番バッターや[[工藤公康]]らエースを集めた。しかし峠を越えたスター選手は巨額の複数年契約を結んでも、額面通りの活躍には程遠い成績に終わることが多かった(在任8年間での優勝回数は2回。優勝確率2割5分)。また、他チームから有名選手を引き抜いたために他球団のファンなどからその経営姿勢を強く批判されたり、プロ野球全体の戦力バランスを損ねている、という批判もなされた。
[[2018年]]、[[死亡説]]が流布され、自らそれを打ち消した<ref>[https://www.daily.co.jp/baseball/2018/12/10/0011893919.shtml 渡辺恒雄主筆「死亡説を流されたから来たんだよ」5カ月ぶり公の場で周囲にジョーク]</ref>。


=== 死去 ===
[[2003年]]終盤にリーグ優勝の望みが絶たれ、球団は翌年のコーチ編成や他球団からのエース級の大型補強を嫌う[[原辰徳]]監督と対立、原が監督を辞任して[[堀内恒夫]]の監督就任で事態が収拾したが、これについて渡邉は「読売グループ内の人事異動だ」と発言した。
[[2024年]][[12月19日]]2時、[[肺炎]]のため都内の病院で死去。98歳没。11月末まで定期的に出社し役員会などに出席、12月に体調を崩して病院で治療を受けるも死去数日前まで社説の原稿に目を通すなど、最後まで執務を続けていたという<ref name="yomiuri20241219" /><ref>{{Cite web |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20241219/k10014672231000.html |title=渡辺恒雄さん死去 98歳 読売新聞グループ本社の代表取締役主筆 |access-date=2024年12月19日 |publisher=NHK |date=2024年12月19日}}</ref>。


死去を受けて、各界から悼む声が相次いだ。[[石破茂]][[内閣総理大臣|首相]]は、「偉大な[[ジャーナリスト]]だった」と評した。[[国会議員]]になってから何度も話したといい「特に[[第二次世界大戦|先の大戦]]やいろいろな日本の歴史観について教えていただくことが多かった」と振り返った。渡辺の[[自民党の派閥|自民党派閥]]に関する[[本]]を読んだとも明かした。[[林芳正]][[内閣官房長官|官房長官]]は同日の記者会見で「[[戦後]]政治の生き証人である渡辺さんの迫力ある著作に長く接してきた」と述べた。「何度か会う機会に恵まれ、[[政治]]に関する該博な[[知識]]、見識から多くのことを学ばせていただいた」と回想した<ref>{{cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA191Z70Z11C24A2000000/?msockid=1acbc29daa6064d429d0d7beab1a655c|title=渡辺恒雄氏が死去、石破茂首相「まだ教えほしかった」|newspaper=[[日本経済新聞]]|date=2024-12-19|accessdate=2024-12-20}}</ref>。[[イギリス]]のニュースサイト・[[インデペンデント|インディペンデント]]は、「日本の新聞界の[[ボス]]が死去」と伝えた<ref>{{cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20241219/k00/00m/030/225000c|title=渡辺恒雄氏の訃報「日本の新聞界のボスが死去」 イギリス報道|newspaper=[[毎日新聞デジタル]]|date=2024-12-19|accessdate=2024-12-20}}</ref>。一方で[[コメンテーター]]の[[玉川徹]]は「ジャーナリストというより権力にこだわり続けた人」と率直に語ってる<ref>[https://www.daily.co.jp/gossip/2024/12/20/0018465748.shtml玉川徹氏 渡辺恒雄氏は「ジャーナリストというより権力にこだわり続けた人」 羽鳥アナ「いい評価もあれば悪い評価もある」受け] デイリースポ―ツ 2024.12.20 (2024年12月21日閲覧)</ref>。
2005年、堀内が成績不振で辞任することになり、[[星野仙一]]の監督就任をもくろんだが失敗。再び原を監督に復帰させている<ref>原は渡邉の説得を受け入れ、渡邉自身は特別顧問の肩書で引き続き球団に残った</ref>。

== 読売ジャイアンツにおける活動 ==
渡邉自身、元々野球について詳しくなく<ref>BRUTUS2009年7月15日号</ref>、球団経営に参加するようになったのは、読売新聞社副社長時代の[[1989年]]に球団内で組織された最高経営会議のメンバーに選ばれてからである(他のメンバーは同社名誉会長の[[務臺光雄]]、同社社長の[[小林與三次]]、オーナーの[[正力亨]])。[[1991年]]に務臺が死去した後、渡邉はしばらくは沈黙するも、務臺の一周忌が済むとその発言が徐々に球界に強い影響力を及ぼすようになり、[[1996年]]に正力を[[名誉オーナー]]に祭り上げる形で自身がオーナーに就任。「野球はやったこともなく興味もなかった」と公言するも、その後野球界をすばやく学習し、これまでの球団の人気、資金、読売新聞と[[日本テレビ放送網]]という巨大メディアを背景に、影響力のあるチームオーナーとして球界に君臨、[[コミッショナー]]の[[人事]]も決める人物と言われた。

=== 球団オーナーとして ===
[[2003年]]オフに、[[原辰徳]]が監督を辞任して[[堀内恒夫]]が就任したが、これについて渡邉は「読売グループ内の人事異動だ」と発言した<ref>[https://web.archive.org/web/20110930004959/http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1109/kiji/K20110926001703520.html 【9月26日】2003年(平15) 原辰徳監督 無念の“辞任”「読売グループ内の人事異動」]</ref>。

[[2005年]]、堀内が成績不振で辞任することになり、[[星野仙一]]の監督就任を目論んだが各方面からの反対もあり頓挫。結果的に原を監督に復帰させている<ref group="注釈">原は渡邉の説得を受け入れ、渡邉自身は特別顧問の肩書で引き続き球団に残った。</ref>。


=== プロ野球再編問題とオーナー辞任 ===
=== プロ野球再編問題とオーナー辞任 ===
{{see also|プロ野球再編問題 (2004年)}}
{{see also|プロ野球再編問題 (2004年)}}
2004年、パ・リーグにおいて、人気が低迷していた[[大阪近鉄バファローズ]]と[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]](現:[[]])の間に合併話が持ち上がった。更に、同リーグの[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]と[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]親会社の経営危機による身売り説が飛び交っていた。
[[2004年]][[シフィック・リーグ]]において、人気が低迷していた[[大阪近鉄バファローズ]]とオリックス・ブルーウェーブ(現:[[オリックス・バファローズ]])の間に合併話が持ち上がった。更に、同リーグの[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]と[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]親会社の経営危機による身売り説が飛び交っていた。

この問題の解決に、渡邉は[[埼玉西武ライオンズ|西武]]オーナー・[[堤義明]]、オリックスオーナー・[[宮内義彦]]らと[[日本プロ野球]]1リーグ構想を画策したものの、[[LDH (持株会社)|ライブドア]]社長(当時)の[[堀江貴文]]が近鉄の買収を名乗り出ている状況下、世論の反発を招くこととなった<ref group="注釈">堀江は[[ライブドアベースボール|仙台ライブドアフェニックス]]設立構想を持っていたが, この構想は[[楽天グループ|楽天]]のプロ野球チーム・[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の影響で立ち消えとなっている</ref>。

7月8日、2リーグ12球団の維持を主張していた当時[[日本プロ野球選手会]]会長の[[古田敦也]]([[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]])による経営者側との会談の提案を拒否し、この件に関するインタビューの中で「無礼な事言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が。」と発言した<ref>[http://www.asahi.com/special/baseballteam/TKY200407080343.html asahi.com : ニュース特集 - 球団合併問題「『話をしたい』という古田に、渡辺オーナーが『無礼な』」] - 2004年7月8日21:55配信、2015年12月5日閲覧</ref><ref>[http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20110317/bbl1103171224002-n1.htm 渡辺会長×選手会全面戦争再燃、25日強制開幕でスト必至] zakzak 2011年3月17日</ref>
<ref group="注釈">発言全体の内容は後述の質問に対して、「ふん、無礼な事を言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が。『たかが選手』ったって立派な選手もいるけどね。オーナーとね、対等に話する協約上の根拠が一つも無い。」であり、「(選手会側が)ストライキ権を行使するって言う可能性も…。」と言う質問には「どうぞ!どうぞ、やったらいい。」と答えた。</ref>この発言に対し、選手・野球ファンを中心に、世論全体からの猛反発を招いた。後年ではこの発言が渡邉の傲慢さを表す発言として度々引用される。

このことから先述の通り「球界の独裁者」と評されている。このスポーツ記者([[西村欣也]])の質問とは「明日、選手会と代表レベルの意見交換会があるんですけれども、古田選手会長が代表レベルだと話にならないんで、できれば、オーナー陣といずれ会いたいと(言っている)」というもので、のちに古田自身が全面否定した。そのため捏造を元にした取材であった可能性も指摘されている。

8月13日、プロ野球再編騒動の最中に、明治大学の[[一場靖弘]]を巡る[[一場事件|裏金事件]]が発覚する。渡邉は球団社長の土井誠、球団代表の[[三山秀昭]]と伴に責任を取って辞任、読売新聞東京本社社長の[[滝鼻卓雄]]にオーナーの座を譲った。

世論に後押しされる形で、日本プロ野球選手会は経営者側と激しく対立し、9月17日・18日に日本プロ野球史上初の[[プロ野球ストライキ|ストライキ]]が挙行され、打撃を受けた経営側が折れる形で2リーグ制が維持されることになった。同年11月、ライブドアと同じ[[情報技術|IT]]企業の[[楽天グループ|楽天]]の新規参入が認められて、[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]が設立された。

その後1年足らずして球団会長に就任した。肩書きは変えながらも実質オーナー状態となっていた。


=== 球団会長として ===
この問題の解決に、渡邉は西武オーナー・堤義明、オリックスオーナー・[[宮内義彦]]らとプロ野球1リーグ構想を画策したものの、[[ライブドア]]社長(当時)の[[堀江貴文]]が近鉄の買収を名乗り出ている状況下、世論の反発を招くこととなった。<ref>堀江は[[仙台ライブドアフェニックス]]設立構想を持っていたが, この構想は[[楽天]]のプロ野球チーム・[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の影響で立ち消えとなっている</ref>。
[[2011年]](平成23年)、[[3月11日]]に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]([[東日本大震災]])の影響でプロ野球の開幕が当初の3月25日の予定から延期になることについて、[[3月16日]]の球団激励会の挨拶で、「[[第二次世界大戦|この前の大戦争]]で[[日本の降伏|負けた後]]、選手、監督から3ヶ月でやりたいとい上がってプロ野球をやった歴史もある」と話し、予定通り25日の開幕を主張した<ref>巨人・渡辺会長、25日開幕を主張=プロ野球 時事ドットコム 2011年3月16日</ref>。また延期を決めたパ・リーグに対しては「こういう時には何もやらない方が良いというなら勝手にしろ」と話した。その後セ・リーグもパ・リーグ同様4月12日に開幕になったが渡邉は「いいんじゃないか。もう、しゃあない。ガーガー言ってるんだから」と話した<ref>プロ野球:巨人・渡邉会長「しゃあない」 開幕日再延期 - 2011年4月4日</ref>。


2011年(平成23年)[[11月11日]]、[[専務取締役]]球団代表兼[[ゼネラルマネージャー]]・編成本部長・オーナー代行の[[清武英利]]が「球団のコンプライアンス上の重大な件」とする記者会見を行い、球団が発表した[[岡崎郁]]ヘッドコーチの留任について、「ツルの一声で決めてしまうなど、球団を私物化するようなことがあっていいものか」として渡邉を批判している<ref>[http://www.daily.co.jp/newsflash/2011/11/11/0004612007.shtml 巨人・清武代表、涙の告発「渡辺会長の球団私物化許せない」] デイリースポーツ 2011年11月11日閲覧</ref>。清武は同年[[11月18日]]に全ての役職から解任されている。
2リーグ12球団の維持を主張していた[[古田敦也]][[日本プロ野球選手会]]会長([[ヤクルトスワローズ]])による経営者側との会談の提案を拒否し、この件に関するインタビューの中で「無礼な事を言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手の分際で」と発言した<ref>[http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20110317/bbl1103171224002-n1.htm 渡辺会長×選手会全面戦争再燃、25日強制開幕でスト必至]zakzak 2011年3月17日</ref>。この発言に対し、世論の反発を招いた。このスポーツ記者([[西村欣也]])の質問とは、「明日、選手会と代表レベルの意見交換会があるんですけれども、古田選手会長が代表レベルだと話にならないんで、できれば、オーナー陣といずれ会いたいと(言っている)」というもので、のちに古田自身が全面否定した。


11月25日、清武は[[日本外国特派員協会]]において会見を開き、11日の会見を前にした清武との電話において渡邉が「俺は最後の独裁者」と酒まじりに言い放ったことを述べ<ref>朝日新聞 2011年11月26日</ref>、これに対し渡邉は11月28日付の朝日新聞において「独裁者と呼ばれて」と題したインタビューに応じ、「僕は民主的だよ。物事を決めるときには必ず人に相談することにしている。独裁者と書くメディアもあるが面白いし、売れるからね」と答えている。その一方で、[[正力松太郎]]は独裁者だったとも述べている。
8月13日、プロ野球再編騒動の最中に、明治大学の[[一場靖弘]]をめぐる[[一場靖弘を巡る裏金事件|裏金事件]]が発覚。渡邉は土井誠球団社長、[[三山秀昭]]球団代表とともに責任をとって辞任、[[滝鼻卓雄]]読売新聞東京本社社長にオーナーの座を譲った。


{{Main|清武の乱}}
世論に後押しされる形で日本プロ野球選手会は経営者側と激しく対立し、9月17日・18日に日本プロ野球史上初の[[プロ野球ストライキ|ストライキ]]が挙行され、打撃を受けた経営側が折れる形で2リーグ制が維持されることになった。11月に、ライブドアと同じ[[情報技術|IT]]企業の[[楽天]]の新規参入が認められて、[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]が設立された。


[[2014年]](平成26年)6月10日、読売巨人軍取締役最高顧問に就任した。
その後1年足らずで会長となり現在に至る。


[[2015年]](平成27年)に[[福田聡志]]、[[笠原将生]]、[[松本竜也 (左投手)|松本竜也]]の3名が野球賭博に関与していたことに加え、[[2016年]](平成28年)[[3月8日]]になって[[高木京介]]も関与していたことが発覚したため、11日付で責任を取って最高顧問を辞任した<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/1614226.html 巨人渡辺恒雄最高顧問、白石オーナー、桃井会長辞任] 日刊スポーツ 2016年3月8日閲覧</ref><ref>{{Cite news
=== 巨人軍会長として ===
| url=https://www.daily.co.jp/newsflash/baseball/2016/03/08/0008873429.shtml
[[2011]]年、[[3月11日]]に発生した[[東日本大震災]]の影響でプロ野球の開幕が当初の3月25日の予定から延期になることについて、[[3月16日]]の読売巨人軍激励会の挨拶で、「この前の大戦争で負けた後、選手、監督から3カ月でやりたいという声が上がってプロ野球をやった歴史もある」と話し、予定通り25日の開幕を主張した<ref> 巨人・渡辺会長、25日開幕を主張=プロ野球 時事ドットコム 2011年3月16日</ref>。また延期を決めたパ・リーグに対しては「こういう時には何もやらない方が良いというなら勝手にしろ」と話したが{{要出典範囲|その後文部科学省の通達によりすぐに撤回した|date=2011年5月}}。その後セ・リーグもパ・リーグ同様4月12日に開幕になったが渡邉は「いいんじゃないか。もう、しゃあない。(国などが)ガーガー言ってるんだから」と話した<ref>プロ野球:巨人・渡邉会長「しゃあない」 開幕日再延期 - 2011年4月4日</ref>。
| title=巨人、渡辺恒雄最高顧問が引責辞任
| work=Daily Sports Online
| newspaper=[[デイリースポーツ]]
| date=2016-03-08
| accessdate=2016-03-08
}}</ref>。


{{Main|読売ジャイアンツ所属選手による野球賭博問題}}
2011年11月11日、「専務取締役」としての清武英利(専務取締役球団代表・オーナー代行兼総務本部長コンプライアンス担当)は「読売巨人軍のコンプライアンス上の重大な件」とする記者会見を行い、球団が発表した[[岡崎郁]]ヘッドコーチの留任について、渡邉がそれを覆し江川卓をヘッドコーチに決めたことについて、「ツルの一声で決めてしまうなど、球団を私物化するようなことがあっていいものか」として渡邉を批判している<ref>[http://www.daily.co.jp/newsflash/2011/11/11/0004612007.shtml 巨人・清武代表、涙の告発「渡辺会長の球団私物化許せない」]デイリースポーツ 2011年11月11日閲覧</ref>。


== 他のスポーツとの関係 ==
== 他のスポーツとの関係 ==
=== 相撲 ===
=== 相撲 ===
渡邉は[[1991年]]から[[2005年]]までの間[[横綱審議委員会|横綱審議委員]]として活動。[[2001年]]から2年間は委員長を務め、[[花田勝|若]][[貴乃花光司|貴]][[ブーム]]にわく[[大相撲]]界に影響を及ぼし、さまざまな角度から意見した。また、[[大関]]・[[魁皇博之|魁皇]]の[[横綱]]昇進には最後まで否定的だった。
[[1991年]]から[[2005年]]までの間[[横綱審議委員会|横綱審議委員]]として活動。[[2001年]]から2年間は委員長を務め、[[花田勝|若]][[貴乃花光司|貴]][[流行|ブーム]]にわく[[大相撲]]界に影響を及ぼし、さまざまな角度から意見した。また、[[大関]]・[[魁皇博之|魁皇]]の[[横綱]]昇進には最後まで否定的だった。


===Jリーグとの関係===
=== Jリーグとの関係 ===
読売グループでは、[[1968年]]の[[メキシコオリンピック]]で日本代表が[[銅メダル]]を獲得したことによる[[サッカー]]人気の高まりに乗る形で、[[1969年]]に[[読売サッカークラブ]]を創設。[[1977年]]からは当時のトップリーグである[[日本サッカーリーグ]] (JSL) 1部に昇格し、[[1980年代]]にはJSLや[[天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]を何度も制する強豪チームに育て上げていた。
読売グループでは、[[1968年]]の[[メキシコオリンピック]]で日本代表が[[銅メダル]]を獲得したことによる[[サッカー]]人気の高まりに乗る形で、[[1969年]]に[[読売サッカークラブ]]を創設。[[1977年]]からは当時のトップリーグである[[日本サッカーリーグ]](JSL)1部に昇格し、[[1980年代]]にはJSLや[[天皇杯 JFA 全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]を何度も制する強豪チームに育て上げていた。


[[1992年]]、読売サッカークラブを母体に「ヴェルディ川崎(現「[[東京ヴェルディ1969|東京ヴェルディ]]」)」を設立、翌[[1993年]]に正式スタートした[[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)に参加。[[三浦知良]]・[[ラモス瑠偉]]などの人気選手を擁して優勝し、初代チャンピオンの栄誉を獲得した。なお、1993年[[8月1日]]に目黒区内の[[サレジオ教会]]で行われた三浦と日テレの歌番組出演していた[[設楽りさ子]]の結婚式では、[[媒酌人]]も務めた。
[[1992年]]、読売サッカークラブを母体に「ヴェルディ川崎(現「[[東京ヴェルディ1969|東京ヴェルディ]]」)」を設立、翌[[1993年]]に正式スタートした[[日本プロサッカーリーグ]](Jリーグ)に参加。[[三浦知良]]・[[ラモス瑠偉]]などの人気選手を擁して優勝し、初代チャンピオンの栄誉を獲得した。なお、1993年[[8月1日]]に目黒区内の[[サレジオ教会]]で行われた三浦と日テレの歌番組出演していた[[三浦りさ子|設楽りさ子]]の結婚式では、[[媒酌人]]も務めた。


その後、地域に根差したクラブの運営により裾野からのサッカー人気向上を図るJリーグや[[日本サッカー協会]]と、「読売ヴェルディ」の巨人化を目論む読売グループ間の対立が表面化した。グループ放送局のテレビ中継で使用していた「読売ヴェルディ」の呼称を「ヴェルディ川崎」に改めるようJリーグ執行部から指摘を受け、[[1994年]]からJリーグの勧告を受け入れ、「読売」を外して「ヴェルディ川崎」とアナウンス・表記されるようになった。
その後、地域に根差したクラブの運営により裾野からのサッカー人気向上を図るJリーグや[[日本サッカー協会]]と、「読売ヴェルディ」の巨人化を目論む読売グループ間の対立が表面化した。グループ放送局のテレビ中継で使用していた「読売ヴェルディ」の呼称を「ヴェルディ川崎」に改めるようJリーグ執行部から指摘を受け、[[1994年]]からJリーグの勧告を受け入れ、「読売」を外して「ヴェルディ川崎」とアナウンス・表記されるようになった。


元々ヴェルディは東京都内に本拠地を予定していたが、ホームスタジアムとして使えるスタジアムがなかったため[[川崎市]]に本拠地を置いた経緯があったが、同じような経緯で旧浦和市を本拠地した[[浦和レッズ]]がJリーグ屈指の人気チーム成長したため本拠地を巡るヴェルディと川崎市の確執が浦和レッズの成功例と対比される事多い。また、川崎市との確執がサッカーファンにも渡邊の印象を悪くしている面は否めない。その後[[1998年]]に読売新聞はヴェルディの株式を全て日本テレビに売却し、日本テレビ100%出資の状態が続いたが、[[2001年]]から本拠を東京都([[味の素スタジアム]])に移し、[[稲城市]]や地元企業などの共同出資による「東京ヴェルディ1969」になり[[2005年]]のJ2降格と[[2007年]]のJ1再昇格を経て、[[2008年]]に現名称の「東京ヴェルディ」となった。
元々ヴェルディは東京都内に本拠地を予定していたが、ホームスタジアムとして使えるスタジアムがなかったため[[川崎市]]を本拠地てい。程無く後々発生する「本拠地:東京移転を巡るヴェルディと川崎市の確執」は、本拠地移転を経験しならも地域密着に成功した[[浦和レッドダイヤモン|浦和レッズ]]および[[北海道コンサドーレ札幌|コンサドーレ札幌]]と対比される事多い。また、川崎市との確執がサッカーファンにも渡邊の印象を悪くしている面は否めない。その後[[1998年]]に読売新聞はヴェルディの株式を全て日本テレビに売却し、日本テレビ100%出資の状態が続いたが、[[2001年]]から本拠を東京都([[東京スタジアム (多目的スタジアム)|東京スタジアム(味の素スタジアム]])に移し、[[稲城市]]や地元企業などの共同出資による「東京ヴェルディ1969」になった。


=== オリンピック ===
=== オリンピック ===
渡邉は[[オリンピック]]に対して敵愾心を露にしてきた。[[2000年]][[シドニーオリンピック|シドニー大会]]野球競技アジア最終予選に際して[[大韓民国|韓国]]・[[台湾]]のプロ選手が参加を表明したため、[[アマチュア]]の[[日本野球連盟 (社会人野球)|日本野球連盟]]は日本プロ野球機構にプロ選手派遣を要請した。日頃、オリンピックの商業主義を批判してきた渡邉は、巨人からの選手派遣を拒否したが、[[2004年]][[ アテネオリンピック (2004年)|アテネ大会]]に際しては、[[長嶋茂雄]]日本代表監督をバックアップする形で主力選手を参加させて協力することとなった。
[[近代オリンピック|オリンピック]]に対して敵愾心を露にしてきた。[[2000年]][[シドニーオリンピック|シドニー大会]]野球競技アジア最終予選に際して[[大韓民国|韓国]]・[[台湾]]のプロ選手が参加を表明したため、[[アマチュア]]の[[日本野球連盟]]は日本プロ野球機構にプロ選手派遣を要請した。日頃、オリンピックの商業主義を批判してきたことから巨人からの選手派遣を拒否したが、[[2004年]][[アテネオリンピック (2004年)|アテネ大会]]に際しては、[[長嶋茂雄]]日本代表監督をバックアップする形で主力選手を参加させて協力することとなった。


== 人物 ==
== 人物 ==
* 政界では[[中曽根康弘]]との親交の深さが殊にれている。ほかにも、大手新聞社の実力者であることを武器に、様々な分野において影響力を誇示してきた。[[趣味]]は[[読書]]([[哲学]]書など。新進気鋭の[[哲学者]]の著書は必ず目を通すという)と[[クラシック音楽]]鑑賞。[[ハムスター]]を飼っている。[[葉巻]]と[[タバコ#パイプ|パイプ]]、野鳥の餌付けをこよなく愛する。TVドラマ『[[渡る世間は鬼ばかり]]』([[橋田壽賀子]][[脚本]])の大ファン
* 前述の通り、政界では[[中曽根康弘]]との親交の深さが殊に有名。中曽根の秘書だった小林克己は渡邉と学生時代かの親友だった。ほかにも、大手新聞社の実力者であることを武器に、様々な分野において影響力を発揮してきた。
* [[中川一郎]]とは中川がかつて[[大野伴睦]]の秘書だったので、家族ぐるみで親しく付き合っていたが彼が右派の議員グループ「[[青嵐会]]」を作ってからは疎遠になった。「[[1982年自由民主党総裁選挙]]に出馬し、中川さんは最下位。惨敗だった。ある政治家への不信もあって、急に気力をなくしたように見えた。パーティーで久しぶりに会った彼は「中曽根政権下で協力するからナベさんと喧嘩しなくてもすむ。仲良くやろう」と涙を浮べて私の手を取った。異様な感情の高ぶりが腑に落ちなかった。翌年1月に自殺する予兆だったのだろうか。」<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZZO56431510V00C20A3000000/ #24 渡邉恒雄(24)中曽根首相売上税導入つまずく 主筆を兼務し社論を指揮]</ref> と述べている。
* 『私の死亡記事』([[文藝春秋]] 2004年)という本の中では、自分の死去は[[カラス]]を打ち落とそうとして、屋根から転落死(実際、自宅の庭に置いてある野鳥のエサを食べに来た[[カラス]]をゴム鉄砲で打ち落そうとしたが、石につまづいて大怪我をした事がある。その後、それが元で[[日本野鳥の会]]を除名された)。[[葬儀]]は音楽葬の形式で、また、読売ジャイアンツが[[2000年]]から[[2019年]]に亘って20連覇し、[[2018年]]には[[長嶋茂雄]]が世界最年長のプロ野球監督としてこの年新設された“ノーベルスポーツ賞”を初受賞する事が、最大の私への餞別だと記載している(ただし、この分野の[[ノーベル賞]]は2010年現在、現実には存在しない)。
* [[趣味]]は[[読書]]([[哲学]]書など。新進気鋭の[[哲学者]]の著書は必ず目を通すという)と[[クラシック音楽]]鑑賞。[[ハムスター]]を飼っている。喫煙者で、[[パイプ (たばこ)|パイプ]]と[[葉巻きたばこ]]を好む。野鳥の餌付けをこよなく愛する。TVドラマ『[[渡る世間は鬼ばかり]]』([[橋田壽賀子]][[脚本]])の大ファン。
* あまり知られていないが大変な[[愛妻家]]である。妻が事故により[[認知症]]になった今でも、出かけるときは[[接吻|キス]]を忘れない(本人談)。長い夫婦生活で妻は空気のような存在になっていたが、認知症の発症により自分が面倒を見なければならなくなり、妻が愛おしくなったと渡邉は自伝で記している。
* 『私の死亡記事』([[文藝春秋]] 2004年)という本の中では、自分の死去は[[カラス]]を打ち落とそうとして、屋根から転落死(実際、自宅の庭に置いてある野鳥のエサを食べに来たカラスをゴム鉄砲で打ち落そうとしたが、石につまづいて大怪我をした事がある。その後、それが元で[[日本野鳥の会]]を除名された)。[[葬儀]]は音楽葬の形式で、また、「読売ジャイアンツが[[2000年]]から[[2019年]]に亘って20連覇し、[[2018年]]には[[長嶋茂雄]]が世界最年長のプロ野球監督としてこの年新設された“ノーベルスポーツ賞”を初受賞する事が、最大の私への餞別だ」と、本気なのかリップサービスなのか不明な発言をしている。
* アクの強いキャラクターから、[[いしいひさいち]]の四コマ漫画ではよくネタとして取り上げられており、朝日新聞(朝刊)連載中の四コマ漫画[[ののちゃん]]に、町内会長のナベツネツネオ(時にワンマンマンというヒーローに変身する)として、準レギュラーで登場している。ナベツネツネオは人差し指を立てて円を描くように振り回しながら「バカヤロー、バカヤロー」と連呼するのが特徴。
* アクの強いキャラクターのため、[[いしいひさいち]]の四コマ漫画ではよくネタとして取り上げられており、朝日新聞(朝刊)連載中の四コマ漫画[[ののちゃん]]に、町内会長のナベツネツネオ(時にワンマンマンというヒーローに変身する)として、準レギュラーで登場している。ナベツネツネオは、[[人差し指]]を立てて[[円 (通貨)|円]]を描くように振り回しながら「バカヤロー、バカヤロー」と連呼するのが特徴。
* 酒豪と健啖でも知られ、[[長嶋一茂]]が連れて行った[[カレーライス|カレー]]専門店では、5種類ほどあったその店の全種類のカレーを注文しすべて平らげたという<ref>『長嶋一茂の言いたいこと言えなかったコト』第34回 [[週刊新潮]]2010年1月14日号</ref>。
* 酒豪で健啖でもあり、[[長嶋一茂]]が連れて行った[[カレーライス|カレー]]専門店では、5種類ほどあったその店の全種類のカレーを注文しすべて平らげたという<ref>『長嶋一茂の言いたいこと言えなかったコト』第34回 [[週刊新潮]]2010年1月14日号</ref>。
* [[清武英利]]によれば、渡邉の野球知識は素人以前で、巨人の選手やコーチの名前すら覚えていない。当時球団社長の[[桃井恒和]]に「いまさら誰にも聞けないんだがな。君、遊撃と二塁はどちらが一塁に近いんだ?」と質問したことがある<ref>清武英利 『巨魁』 ワック、2012年、114、224-225頁</ref>。
* 「情報保全諮問会議」の座長となった際、[[高知新聞]]で「『[[報道の自由]]』と相反しかねない[[特定秘密の保護に関する法律|特定秘密保護法]]だけに、取りまとめ役の座長に就くことに違和感が拭えない。」と論評されている<ref>[http://www.kochinews.co.jp/?&nwSrl=314082&nwIW=1&nwVt=knd 【秘密保護法】運用基準で懸念消えるか] 2014年1月16日、2014年1月19日観覧</ref>。

== 靖国神社に対する見解 ==
渡邉は、[[内閣総理大臣]]の[[靖国神社問題|靖国神社参拝]]に反対している事で知られ、「日本の首相の靖国神社参拝は、私が絶対に我慢できないことである。すべての日本人はいずれも[[戦争犯罪|戦犯]]がどのような戦争の罪を犯したのかを知るべきである」<ref name="japanesebeijingreview20070810-01"/>、「今後誰が首相となるかを問わず、いずれも靖国神社を参拝しないことを約束しなければならず、これは最も重要な原則である。…もしその他の人が首相になるなら、私もその人が靖国神社を参拝しないと約束するよう求めなければならない。さもなければ、私は発行部数1000数万部の『[[読売新聞]]』の力で、それを倒す」<ref name="japanesebeijingreview20070810-05">{{Cite news | url = http://japanese.beijingreview.com.cn/yzds/txt/2007-08/10/content_72081_5.htm | title = 日本人に戦争の真相と戦犯犯罪をはっきりと知らせるようにしなければならない─渡辺恒雄氏に対する特別取材 (5/5) | work = 北京週報日本語版 | publisher = [[人民網]] | date = 2007-08-10 | accessdate = 2014-02-20 }}</ref> と述べ、[[靖国神社]]の代わりに無宗教の国立戦没者追悼施設を建設すべきと主張している(後述)<ref>「渡辺恒雄氏 安倍首相靖国参拝に「オレも失望した」と話す(週刊ポスト2014年3月21日号)」</ref>。また「[[内務班]]で受けた[[暴力]]をいまでも許せない、だから首相の靖国参拝には反対だ」<ref>高田里恵子『学歴・階級・軍隊』中央公論新社 2008年 読売新聞『独占スクープ!渡邉恒雄』</ref> と本音を語っている。ただし、[[極東国際軍事裁判]]の判決が絶対的正義ではない、とも述べている<ref>『文藝春秋7月号2005 大論争アンケート 小泉総理 「靖国参拝」是か非か』</ref>。

2001年から2006年に靖国神社を参拝した、当時の内閣総理大臣である[[小泉純一郎]]を「愚かな総理大臣」と辛辣に批判しており、小泉が自身の靖国参拝は「[[心]]」の問題だと語っていた事に対しては、[[日本遺族会]]が選挙における票田になっていることを挙げた上で、小泉が[[2001年自由民主党総裁選挙|自由民主党総裁選挙]]の際、遺族会に向けて、自身が首相に就任すれば靖国神社を参拝することを約束していたとして、「私はそれは偽善的であり、彼は心から参拝に行きたいと思っているのではなく、そういうパフォーマンスで、戦犯の遺族から得票を増やすためであったと思っている」と主張している<ref>{{Cite news | url = http://japanese.beijingreview.com.cn/yzds/txt/2007-08/10/content_72081_2.htm | title = 日本人に戦争の真相と戦犯犯罪をはっきりと知らせるようにしなければならない─渡辺恒雄氏に対する特別取材 (2/5) | work = 北京週報日本語版 | publisher = [[人民網]] | date = 2007-08-10 | accessdate = 2014-02-20 }}</ref>。2006年、ニューヨーク・タイムズのインタビューに対して、渡邉は「(小泉純一郎は)歴史も哲学も知らず、勉強もせず教養も全くない」とまで述べた。渡邉は「小泉首相が『靖国参拝のどこが誤っているのか』『靖国を批判する国は韓国、中国しかない』と愚かな発言をするのは無知から始まったこと」とも述べた<ref>読売新聞会長「小泉首相、歴史も知らない」2006年02月12日18時30分 [ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]</ref>。

旧[[日本軍]]の戦争行為に対する見方も厳しい。[[ミッドウェイ海戦]]と[[ガダルカナル島の戦い]]での大敗以来、[[大日本帝国陸軍]]・[[大日本帝国海軍|海軍]]から再び上申された[[神風特別攻撃隊]]に対しては「今でも許せない軍の非人間的作戦」<ref group="注釈">ただし、特攻隊員は志願による[[予科練]]出身の割合が高い。しかし、その中でも特に敗勢が顕著になった頃からは、上からの命令的な説得、救国を掲げた同調圧力によるもの等の証言も見受けられるため、渡邉のように解することも可能ではある。</ref> としているほか、[[アッツ島の戦い]]で[[大本営]]が前線にいる兵士に全員自決せよとの命令を出した[[玉砕]]に対しては「前線の将兵に対する鬼畜の行為」と怒りを露わにし、[[戦陣訓]]を作成したとされる当時の[[首相]]兼摂[[陸軍大臣]]の[[東條英機]]を批判している。渡邊は東條について「最大最悪の責任者が東條英機であることはまちがいない」<ref>https://news.livedoor.com/article/detail/1797058/</ref>、「「東條っていうのは、[[ヒトラー]]と同じ」と批判し、靖国神社を参拝した中曽根康弘にも自分は東條を「断じて許すことができない」<ref>https://s.japanese.joins.com/JArticle/71402?sectcode=200&servcode=200</ref>と中曽根が東條が合祀されている靖国を参拝したことを本人に直接抗議している。「「渡邉曰く「焦土作戦や玉砕を強制した戦争責任者が祀られている所へ行って頭を下げる義理は全く無い」<ref>雑誌「[[オフレコ!]]」創刊号</ref>、「加害者と被害者を同じ場所に祀って、同様に追悼、顕彰することは不条理ではないか」<ref>[https://web.archive.org/web/20080415143357/http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/yamato/tokkou/watanabe.htm 世界の海軍にあって最も下劣 なぜ、今、戦争責任の検証か。渡邉恒雄(読売新聞・主筆)]</ref>。

[[昭和天皇]]の戦争責任について、「昭和天皇は戦争責任を取って少なくとも終戦後に[[退位]]すべきであった」という意見で[[石原慎太郎]]、中曽根康弘と一致していたという<ref>https://samejimahiroshi.com/politics-ishihara-20220206/</ref>。

靖国神社の[[遊就館]]に対しては、[[真珠湾攻撃]]などの日本が勝利を勝ち取った写真が展示されているため、「非常に有害な場所であり、あれは閉鎖しなければならない」と主張している。また、自民党幹事長だった[[加藤紘一]]が遊就館を参観した後、遊就館はまことに行き過ぎだと語ったとも述べている<ref>{{Cite news | url = http://japanese.beijingreview.com.cn/yzds/txt/2007-08/10/content_72081_3.htm | title = 日本人に戦争の真相と戦犯犯罪をはっきりと知らせるようにしなければならない─渡辺恒雄氏に対する特別取材 (3/5) | work = 北京週報日本語版 | publisher = [[人民網]] | date = 2007-08-10 | accessdate = 2014-02-20 }}</ref>。

2005年、読売新聞社は渡邉の主導のもとで、日本の戦争責任を反省するための「戦争責任検証委員会」を創設し、『戦争責任を検証する』という本にまとめた。[[日本語]]版と[[英語]]版のほか、2007年には[[中国語]]版も新華出版社から出版・発行された<ref name="japanesebeijingreview20070810-01">{{Cite news | url = http://japanese.beijingreview.com.cn/yzds/txt/2007-08/10/content_72081.htm | title = 日本人に戦争の真相と戦犯犯罪をはっきりと知らせるようにしなければならない─渡辺恒雄氏に対する特別取材 (1/5) | work = 北京週報日本語版 | publisher = [[人民網]] | date = 2007-08-10 | accessdate = 2014-02-20 }}</ref>。渡邉は中国語版の序文にて、「本書を出版した動機は、日本のこの戦争に対する非人道性及び責任の所在を研究して明白にし、日本人自身の良心に照らして、正確な歴史認識を得てはじめて、被害国と率直かつ友好的な対話が可能になる、との信念からにほかならない」と記している<ref>{{Cite news | url = http://japanese.beijingreview.com.cn/zrgx/txt/2007-07/19/content_69854.htm | title = 読売新聞の中国語版『戦争責任を検証する』が出版 | work = 北京週報日本語版 | publisher = [[人民網]] | date = 2007-07-19 | accessdate = 2014-02-20 }}</ref>。また[[朝鮮民主主義人民共和国]]の[[金正日]]総書記にも「読んでほしい」と述べている<ref>「世界の海軍にあって最も下劣 なぜ、今、戦争責任の検証か。渡邉恒雄(読売新聞・主筆)」</ref>。

[[社会民主党 (日本 1996-)|社会民主党]]は2006年9月7日午後、[[東京都]]内で「[[千鳥ケ淵戦没者墓苑]]・平和祈念施設提言委員会」を開き、渡邉と意見交換し、渡邉は「世界各国に無名戦士の墓があり、国賓が来た時に訪問する国も多い。日本でこれに該当するのは千鳥ケ淵墓苑だ」と主張し、同墓苑に隣接する公務員宿舎などを廃止して墓苑を拡充、無宗教の追悼施設にする事を提案した。党首(当時)の[[福島瑞穂]]は「社民党の考え方と共通点が大変多く、とても参考になった」と応じた<ref>[[産経新聞]]2006年9月8日号より。</ref>。

尊敬している中国人政治家は[[鄧小平]]と述べ、渡邉が鄧小平に日本の対中侵略戦争の責任問題についてどう見ているのかと尋ねたところ、鄧小平は[[侵略戦争]]を起こしたのは[[大日本帝国]]政府と軍隊の中のひと握りのものであり、広範な日本国民に罪はないと言明し、渡邉はこの言葉を聞いた後「親中派」となった、と言う<ref name="japanesebeijingreview20070810-05"/>。ただし、[[2005年の中国における反日活動]]では「中国の反日暴動は、中国政府の統治能力と国民の文明開化度が日本より[[半世紀]]遅れていることを示すもので、いたずらに興奮するのは無益だが、あの暴挙については、[[日本国政府]]は厳しく抗議して、損害賠償を求め、国の威信を保たねばならない」と中国側を批判していた<ref>『文藝春秋7月号2005 大論争アンケート 小泉総理 「靖国参拝」是か非か』</ref>。

[[2013年]]末に、その当時の内閣総理大臣である[[安倍晋三]]が靖国神社を参拝した事に対して、幹部たちとの会合で、「あれにはオレも失望した」と漏らしている<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20140310_245046.html?DETAIL 「渡辺恒雄氏 安倍首相靖国参拝に「オレも失望した」と話す(週刊ポスト2014年3月21日号)」]</ref>。[[2007年]]には「安倍さんとは歴史観が違うんだ。僕は少年時代から反戦でね。A級戦犯が合祀されている靖国には参拝しない。彼は戦争を知らないから、仕方ないけどね」と述べている<ref>(毎日新聞2007年6月1日)</ref>。

2023年1月に渡辺は戦争と歴史認識の問題について、具体的な提言を行っている。靖国神社参拝問題については、「侵略した加害国と侵略された被害国の政治的なシンボル」となっているとして、A級戦犯の分祀がなされない限り政治的権力者は公式参拝すべきでないと述べている<ref>「読売新聞主筆・渡辺恒雄「若い世代に戦争を伝えることの意義」文春オンライン。</ref>。ただし、渡邊は元将兵や戦没者の遺族が亡き戦友や家族を想って靖国神社を参拝することまでは否定しておらず、理解を示している。


== 略年譜 ==
== 略年譜 ==
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:5月30日 - 現在の[[東京都]][[杉並区]]に生まれる。父・平吉、母・花。
:5月30日 - 現在の[[東京都]][[杉並区]]に生まれる。父・平吉、母・花。
* [[1939年]]([[昭和]]14年)
* [[1939年]]([[昭和]]14年)
: - [[開成中学校]]に入学。
:4月 - [[開成中学校]]に入学。
* [[1943年]]([[昭和]]18年)
* [[1943年]]([[昭和]]18年)
:4月 - 開成4年修了で[[東京高等学校 (旧制) |東京高等学校]]に入学。[[網野善彦]]、[[氏家齊一郎]]と知り合う<ref>氏家が尋常科4年に進級した時、渡邉は東高に入学した。氏家によと、渡邉との出会いは6月頃、東高の校庭でった。以来、2人は共に劇場や[[純喫茶]]に繰り出す仲になった。『渡邉恒雄 メディアと権力』36-37</ref>
:4月 - 開成中学を4年修了で[[東京高等学校 (旧制)|東京高等学校]]に入学<ref>渡邉恒雄 『君命も受けざり』 [[日本経済新聞出版社]]、2007年、33頁</ref>。高校は戦時措置で一年繰り上げ卒業。
* [[1945年]](昭和20年)
* [[1945年]](昭和20年)
:4月 - [[東京大学|東京帝国大学]][[文学部]]に入学。
:4月 - [[東京大学|東京帝国大学]][[文学部]]に入学。
:7月 - 砲兵連隊に入営するも、終戦の2日前に除隊<ref>『渡邉恒雄 メディアと権力』48-49頁。</ref>
:7月 - 砲兵連隊に入営するも、終戦の2日前に除隊<ref>{{Harvnb|魚住昭|2000|pp=48-49}}</ref>
:12月 - [[日本共産党]]に入党を申し込む。[[日本青年共産同盟]]の同盟員を経て、[[1947年]]頃、同党の正規の党員になる<ref>渡邉恒雄 『君命も受けざる所あり』 日本経済新聞出版社、2007年、60-61、315頁</ref>。入党の動機は[[天皇制]]への嫌悪からだという<ref group="注釈">渡邉自身は自著で敗戦後[[天皇]]退位を主張した唯一の政治団体が共産党であったことが入党の理由であると記している。</ref>。
* [[1946年]](昭和21年)
* [[1947年]](昭和22年)
:[[天皇制]]への嫌悪から<ref>渡邉自身は自著で敗戦後[[天皇]]退位を主張した唯一の政治団体が共産党であったことが入党の理由であると記している。</ref>[[日本共産党]]に入党。
:12月 - [[日本共産党]]に離党届を出し、結果的に[[除名]]される<ref>渡邉恒雄 『君命も受けざる所あり』 日本経済新聞出版社、2007年、69頁</ref>。
* [[1949年]] (昭和24年)
* [[1949年]] (昭和24年)
:[[東京大学]]を[[卒業]]して東京大学[[大学院]]に入学する。
:[[東京大学]]を[[卒業]]して[[東京大学大学院]]に入学する。
* [[1950年]](昭和25年)
* [[1950年]](昭和25年)
:11月 - 読売新聞に入社。読売ウィークリーに配属される。高校時代からの学友である[[氏家齊一郎]]を誘う。
:11月 - 読売新聞に入社。読売ウィークリーに配属される。高校時代からの学友である[[氏家齊一郎]]を誘う。
* [[1952年]](昭和27年)
* [[1952年]](昭和27年)
:日本共産党[[山村工作隊]]を取材するため[[奥多摩]]の[[アジト]]に潜入し、拘束されるも、無事解放される。このとき隊のリーダーだった人物が、『生きることの意味』の著者、[[高史明]]であったという。この[[スクープ]]が認められて政治部に異動<ref>[[高史明]]は『青春無明』(1983年、径書房)で、渡邉恒雄は『わが人生記』([[2005年]]、[[中公新書]]ラクレ)でこの事件について詳しい回想文を書いている。</ref>。
:日本共産党[[山村工作隊]]を取材するため[[奥多摩]]の[[アジト]]に潜入し、拘束されるも、無事解放される。このとき隊のリーダーだった人物が、『生きることの意味』の著者、[[高史明]]であったという。このスクープが認められて政治部に異動<ref>[[高史明]]は『青春無明』(1983年、径書房)で、渡邉恒雄は『わが人生記』([[2005年]]、[[中公新書]]ラクレ)でこの事件について詳しい回想文を書いている。</ref>。
* [[1954年]](昭和29年)
* [[1955年]](昭和30年)
:5月 - 元女優でモデルの女性と[[結婚]]<ref>渡邉恒雄 『君命も受けざる所あり』 日本経済新聞出版社、2007年、112頁</ref>。
: [[結婚]]。
:12月 - [[大野伴睦]]の番記者になる。
:12月 - [[大野伴睦]]の[[番記者]]になる。
* [[1956年]](昭和31年)
* [[1956年]](昭和31年)
:中曽根康弘と知り合う。
:中曽根康弘と知り合う。
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:[[日米安保条約|安保]]反対の[[全日本学生自治会総連合|全学連]]デモにおける[[樺美智子]]の死亡に対する内閣声明を執筆。
:[[日米安保条約|安保]]反対の[[全日本学生自治会総連合|全学連]]デモにおける[[樺美智子]]の死亡に対する内閣声明を執筆。
* [[1968年]](昭和43年)
* [[1968年]](昭和43年)
:9月 - [[ワシントンD.C.|ワシントン]]支局赴任のため渡米。
:9月 - [[ワシントンD.C.|ワシントン]]支局
* [[1972年]](昭和47年)
* [[1972年]](昭和47年)
:1月 - ワシントンでの任務を終えて、帰国。編集局参与に、
:1月 - 編集局参与
:10月 - 解説部長。
:10月 - 解説部長。
* [[1975年]](昭和50年)
* [[1975年]](昭和50年)
164行目: 246行目:
* [[1987年]](昭和62年)
* [[1987年]](昭和62年)
:6月 - 筆頭副社長。
:6月 - 筆頭副社長。
* [[1991年]](平成3年)
* [[1991年]]([[平成]]3年)
:社長に就任。[[日本相撲協会]]の諮問機関[[横綱審議委員会]]委員に就任。
:社長に就任。[[日本相撲協会]]の諮問機関[[横綱審議委員会]]委員に就任。
* [[1996年]](平成8年)
* [[1996年]](平成8年)
:読売ジャイアンツのオーナーに就任。
:読売ジャイアンツのオーナーに就任。
* [[1998年]](平成10年)
:[[前立腺癌]]の全摘手術を受ける<ref>[https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20110524-OYTEW59164/ がん克服 新戦略を(1)] – 読売新聞ヨミドクター 2011年5月24日付記事 2021年5月15日閲覧</ref>、
* [[1999年]](平成11年)
* [[1999年]](平成11年)
:[[日本新聞協会]]会長。経営難に陥った「中央公論社」の営業権を買収し、[[中央公論新社]]を設立。
:[[日本新聞協会]]会長。経営難に陥った「中央公論社」の営業権を買収し、[[中央公論新社]]を設立。
175行目: 259行目:
:日本新聞協会会長を任期満了に伴い退任。
:日本新聞協会会長を任期満了に伴い退任。
* [[2004年]](平成16年)
* [[2004年]](平成16年)
:[[一場靖弘を巡る裏金事件]]の責任をとってジャイアンツオーナーを辞任。
:[[一場事件]]の責任をとってジャイアンツオーナーを辞任。
:[[マスコミ集中排除原則]]対策としての渡邉名義[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]株の解消に際し、同社株が管理ポストに割り当てられる。
:[[マスコミ集中排除原則]]対策としての渡邉名義[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]株の解消に際し、同社株が管理ポストに割り当てられる。
:[[東京医科歯科大学]]学長選考委員会座長に就任。
* [[2005年]](平成17年)
* [[2005年]](平成17年)
:横綱審議委員を任期満了で退任。
:横綱審議委員を任期満了で退任。
:ジャイアンツ代表取締役会長に就任。
:ジャイアンツ取締役会長に就任。
* [[2006年]](平成18年)
* [[2006年]](平成18年)
:[[1月5日]]に刊行された[[論座]]([[朝日新聞社]])において、[[靖国神社]]への首相参拝を非難する内容の対談を[[若宮啓文]]・『[[朝日新聞]]』論説委員と行う。この年に[[白内障]]の手術を受ける。
:[[1月5日]]に刊行された[[論座]]([[朝日新聞社]])において、[[靖国神社]]への首相参拝を非難する内容の対談を[[若宮啓文]]・『[[朝日新聞]]』論説委員と行う。この年に[[白内障]]の手術を受ける。
:12月 日本経済新聞[[私の履歴書]]執筆(2007年11月に「君命も受けざる所あり―私の履歴書―」として出版)。
:12月 [[日本経済新聞]]『[[私の履歴書]]執筆(2007年11月に「君命も受けざる所あり―私の履歴書―」として出版)。
* [[2007年]](平成19年)
* [[2007年]](平成19年)
:第54回カンヌ国際広告祭でメディアパーソン・オブ・ザ・イヤーを[[アジア]]人では二番目の受賞。
:第54回カンヌ国際広告祭でメディアパーソン・オブ・ザ・イヤーを[[アジア]]人では二番目の受賞。
* [[2009年]](平成21年)
* [[2009年]](平成21年)
:[[麻生内閣]]の設置した[[安心社会実現会議]]の委員に選ばれる。
:[[麻生内閣]]の設置した[[安心社会実現会議]]の委員に選ばれる。
* [[2014年]](平成26年)
: [[特定秘密の保護に関する法律]]「情報保全諮問会議」の座長となる<ref>[http://www.christiantoday.co.jp/articles/12621/20140118/tokutei-himitsu.htm 特定秘密保護法の有識者会議、初会合を開催議事録全文は非公開に][[クリスチャントゥデイ]]2014年1月18日、2014年1月19日観覧</ref>。
:ジャイアンツ取締役最高顧問に就任<ref>[http://www.giants.jp/G/gnews/news_398530.html 久保新社長が就任「ファンに愛され、常勝の巨人を」]</ref>。
* [[2016年]](平成28年)
:3月 ジャイアンツ取締役最高顧問を辞任。
:6月 読売新聞グループ本社会長を退き、読売新聞グループ本社代表取締役主筆となる<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ24HR3_U6A520C1TJC000/ 読売新聞グループ本社、社長に山口氏 白石氏は会長]</ref>。
* [[2018年]](平成30年)
:12月 巨人・原辰徳監督の野球殿堂入りを祝うパーティに車イスで参加した<ref>https://friday.kodansha.co.jp/article/25701#goog_rewarded</ref>。
* [[2023年]](令和5年)
:3月 「燦燦会」渡辺恒雄主筆のゲキに原監督「発行部数も増えるように頑張ってまいります」<ref>https://www.nikkansports.com/baseball/news/202303070001292.html</ref>。
* [[2024年]](令和6年)
:12月19日 肺炎のため、都内の病院で死去。98歳没<ref name="yomiuri20241219" />。


== 親族 ==
== 家族・親族 ==
=== 渡邉家 ===
父・平吉が勤めていた不動貯金銀行(旧[[協和銀行]]の前身・現[[りそな銀行]])の[[重役]]だった[[柳井信治]]は[[伯父]](母・花の実兄)。[[柳井信治]]は苦学の末、巨額の[[資産]]を築いた立志伝中の人である<ref>『渡邉恒雄 メディアと権力』25頁。</ref>。
* 父・平吉が勤めていた不動貯金銀行(旧:[[協和銀行]]の前身・現:[[りそな銀行]])の[[重役]]だった柳井信治([[千葉県]] [[平民]]<ref name="zinzi7pや22">『人事興信録. 7版』(大正14年)や二二</ref>)は[[伯父]](母・花の実兄)<ref name="Uozumi_p25"/>。柳井信治は苦学の末、巨額の[[資産]]を築いた立志伝中の人である<ref name="Uozumi_p25"/>。
* [[愛妻家]]である。妻が事故により[[認知症]]になって出かけるときは[[接吻|キス]]を忘れなかった(本人談)。長い夫婦生活で妻は空気のような存在になっていたが、認知症の発症により自分が面倒を見なければならなくなり、妻が愛おしくなったと渡邉は[[自伝]]で記している。なお、妻は2017年に87歳で死去した。


== 受賞 ==
== 受賞・栄典 ==
* {{和暦|2002}} - 第14回[[日本メガネベストドレッサー賞]]経済部門を受賞
* [[2002年]]([[平成]]14年) - 第14回[[日本メガネベストドレッサー賞]]経済部門を受賞
* [[2008年]](平成20年) - [[旭日大綬章]]受章<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shikoku-np.co.jp/national/detailed_report/article.aspx?id=20081103000011|title=大綬章受章者の顔触れ|publisher=[[四国新聞社]]|date=2008-11-03|accessdate=2023-06-15}}</ref>
* {{和暦|2008}} - [[旭日大綬章]]受章


== 著書 ==
== 著書 ==
=== 単著・共著・編著 ===
=== 単著・編著 ===
* 派閥――保守党の解剖』([[弘文堂]], 1958年/増補版, 1964年
* {{Cite book ja|title=派閥保守党の解剖|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|2990680}}|url-access=registration|publisher=[[弘文堂]]|date=1958-09-25}}増補版1964年、新装復刊2014年6月。ISBN 978-4-335-46032-6
* {{Cite book ja|title=大臣|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|11616481}}|url-access=registration|publisher=弘文堂|date=1959-02-10}}
* 『大臣』(弘文堂, 1959年)
* 党首と政党――そのリーダーシップの研究』(弘文堂, 1961年)
* {{Cite book ja|title=党首と政党 : そのリーダーシップの研究|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|2987490}}|url-access=registration|publisher=弘文堂|date=1961-11-20}}
* 政治の密室――総理大臣への道』([[雪華社]], 1966/「派閥と多党化時代」に増補改題, 1967年)
* {{Cite book ja|title=政治の密室 : 総理大臣への道|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|2990734}}|url-access=registration|publisher=雪華社|date=1966-11-20}}
**改題『派閥と多党化時代 政治の密室 増補新版』雪華社, 1967年
* 『ホワイトハウスの内幕――アメリカの権力政治』([[読売新聞社]], 1971年/「ウォーターゲート事件の背景」に増補改題, 1973年)
**再改題『自民党と派閥 政治の密室 増補最新版』[[実業之日本社]], 2024年5月。ISBN 978-4-408-65099-9
* 『大統領と補佐官――キッシンジャーの権力とその背景』([[日新報道]], 1972年)
*:前木理一郎(元・読売新聞政治部)解説「令和の派閥と政党政治の将来」、[[電子書籍]]版も刊
* 『保革連立政権論―― 一九七〇年代後半の政治展望』([[ダイヤモンド社]], 1974年)
* {{Cite book ja|title=ホワイトハウスの内幕 : アメリカの権力政治|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|12180409}}|url-access=registration|publisher=[[読売新聞社]]|date=1971-07-25}}増補改題「[[ウォーターゲート事件]]の背景」, 1973年
* 『永田町見聞録――政界・派閥・権力の実像』(編著, [[東洋経済新報社]], 1980年)
* {{Cite book ja|title=大統領と補佐官 : キッシンジャーの権力とその背景|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|11925196}}|url-access=registration|publisher=日新報道|date=1972-10-01}}
* 『ポピュリズム批判――直近15年全コラム』([[博文館新社]], 1999年)
* {{Cite book ja|title=保革連立政権論 : 一九七〇年代後半の政治展望|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|11926367}}|url-access=registration|publisher=[[ダイヤモンド社]]|date=1974-11-08}}
* 『天運天職――戦後政治の裏面史、半生、巨人軍を明かす』([[光文社]], 1999年)
* {{Cite book ja|title=永田町見聞録 : 政界・派閥・権力の実像|url={{国立国会図書館デジタルコレクション|12227237}}|url-access=registration|publisher=[[東洋経済新報社]]|date=1980-05-29}}
* 『渡邉恒雄回顧録』([[中央公論新社]], 2000年/中公文庫, 2007年)
* 『ポピュリズム批判――直近15年全コラム』[[博文館新社]]、1999年
* 『わが人生記――青春・政治・野球・大病』(中央公論新社[中公新書ラクレ], 2005年)
* 『天運天職――戦後政治の裏面史、半生、巨人軍を明かす』[[光文社]]、1999年
* 『「靖国」と小泉首相――渡辺恒雄・読売新聞主筆vs.[[若宮啓文]]・朝日新聞論説主幹』([[論座]]編集部編, 朝日新聞社, 2006年)
* 『わが人生記――青春・政治・野球・大病』[[中公新書]]ラクレ、2005年、増補版2021年3月
* 『君命も受けざる所あり――私の履歴書』([[日本経済新聞社]], 2007年)
* 『君命も受けざる所あり――[[私の履歴書]]』[[日本経済新聞社]]、2007年
* 『反ポピュリズム論』[[新潮新書]]、2012年。電子書籍版も刊

;共著
* 『渡邉恒雄回顧録』[[中央公論新社]]、2000年/[[中公文庫]]、2007年 - 聞き手[[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]・[[御厨貴]]・[[飯尾潤]]
* [[三宅久之]]共著『闘争 渡邉恒雄の経営術』ぺんぎん書房、2005年
* [[論座]]編集部編『「靖国」と小泉首相――渡辺恒雄・読売新聞主筆vs. [[若宮啓文]]・[[朝日新聞]]論説主幹』[[朝日新聞社]]、2006年
* 『独占告白 渡辺恒雄 戦後政治はこうして作られた』[[新潮社]]、2023年 - 聞き手安井浩一郎(NHK報道局)


=== 訳書 ===
=== 訳書 ===
* ジェイムズ・M・キャノン編『政界入門』弘文堂, 1962年
* ジェイムズ・M・キャノン編『政界入門』弘文堂1962年 - 中曽根康弘共訳
* [[セオドア・ホワイト]]『大統領になる方法(上・下)』(弘文堂, 1964年/「大統領への道」に一冊本に改題, 1965年/「大統領職をめぐる死闘」に再改題, 1968年)
* [[セオドア・ホワイト]]『大統領になる方法』弘文堂(上・下)1964年 - 小野瀬嘉慈共訳
**改題『大統領への道』弘文堂 新書判、1965年。全1冊
**再改題『大統領職をめぐる死闘』雪華社、1968年
* フランシス・ラッセル『大統領を創った人々』政府広報センター、1976年 - 監訳

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
===注釈===
{{Notelist}}
===出典===
{{Reflist|3}}

== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=魚住昭|authorlink=魚住昭|title=渡邉恒雄 メディアと権力|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-209819-9 |year=2000|ref=harv}}
* [[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]], [[御厨貴]], [[飯尾潤]] 『渡邉恒雄回顧録』([[中央公論新社]])ISBN 4-12-002976-X
* 『君命も受けざる所あり―私の履歴書―』([[日本経済新聞社]])ISBN 4-53-216643-8
*[[保阪正康]]『昭和史の大河を往く』 第8集『本土決戦幻想コロネット作戦編』2009年([[毎日新聞社]])


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[読売新聞社]]
* [[読売新聞社]]
** [[読売新聞]]
** [[読売新聞]]
* [[正力松太郎]] (渡邉と同じく読売新聞のオーナーでフィクサーと呼ばれた経験を持つ)
* [[水野成夫]](共産党から転向→政界と太いパイプを持つ→メディアトップ→プロ野球オーナーというところが渡邉と類似している)
* [[黒田清]]
* [[黒田清]]
* [[三宅久之]]
* [[三宅久之]]
* [[西山太吉]]
* [[読売ジャイアンツ]]
* [[プロ野球再編問題 (2004年)]]
* [[プロ野球再編問題 (2004年)]]
* [[レフチェンコ事件]] - [[特定秘密の保護に関する法律]]
* [[大連立構想 (日本 2007)]]
* [[大連立構想 (日本 2007)]]
* [[メディア王]]

== 参考文献 ==
* [[魚住昭]]『渡邉恒雄 メディアと権力』([[講談社]]文庫)ISBN 4-06-209819-9
* [[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]], [[御厨貴]], [[飯尾潤]] 『渡邉恒雄回顧録』([[中央公論新社]])ISBN 4-12-002976-X
* 『君命も受けざる所あり―私の履歴書―』([[日本経済新聞社]])ISBN 4-53-216643-4

== 脚注 ==
{{Reflist|2}}


{{読売新聞グループ本社}}
{{読売新聞グループ本社}}
{{読売ジャイアンツ歴代オーナー}}
{{横綱審議委員会委員長}}
{{Normdaten}}


{{DEFAULTSORT:わたなへ つねお}}
{{DEFAULTSORT:わたなへ つねお}}
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[[Category:1926年生]]
[[Category:1926年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:2024年没]]

[[en:Tsuneo Watanabe]]

2024年12月21日 (土) 23:01時点における最新版

渡邉 恒雄
生誕 (1926-05-30) 1926年5月30日
日本の旗 日本東京府豊多摩郡
(現:東京都杉並区
死没 (2024-12-19) 2024年12月19日(98歳没)
日本の旗 日本東京都
別名 ワタツネ、ナベツネ
教育 東京大学文学部哲学科卒業
職業 読売新聞グループ本社主筆
旭日大綬章
活動期間 1950年 - 2024年
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渡邉 恒雄(わたなべ つねお、1926年大正15年〉5月30日 - 2024年令和6年〉12月19日[1])は、日本新聞記者実業家株式会社読売新聞グループ本社代表取締役主筆勲等旭日大綬章。「ナベツネ」の通称で知られ[2]、読売関係者の間では「ワタツネ」と呼ばれていた[3]。株式会社読売新聞社社長読売ジャイアンツの球団オーナー、株式会社読売ジャイアンツ取締役最高顧問、社団法人日本新聞協会会長を歴任した。日本のプロ野球界に関連する渡邉の伝説は数知れず[4]、自ら「俺は最後の独裁者だ」と語ったとされ[5]マスメディアにおいて「野球界の独裁者」または単に「独裁者ヒトラー」と呼ばれていることについては渡邉自身が認めていた。他にも「メディア界のドン」「政界の大フィクサー」とも呼ばれた(詳細は後述[6]

生い立ち - 学生時代

[編集]

生い立ち

[編集]

東京府豊多摩郡(後の東京都杉並区)出身。父の名は平吉、母の名は花。五人姉弟の三番目で長男である[7]

1934年昭和9年)、恒雄が8歳の時、不動貯金銀行(旧協和銀行の前身、現:りそな銀行)に勤めていた父・平吉が東京・杉並区の自宅の玄関で吐血し、胃癌で1週間後に47歳で死去した[7]。父が残した十一軒の貸家からの家賃収入で当面の生活費には困らなかったが、稼ぎ手をなくした一家には将来の生活の不安が重くのしかかった[8]。母親の花は、夫を失った打撃からなかなか立ち直れなかった[9]

戦前家父長下では恒雄が全財産を相続し、一家の柱として責任を負わねばならなかった[9]。母・花はいつもこう言って恒雄を叱咤したという[10]。「お前は総領だ[10]。総領というのは跡継ぎだ[10]。だからお前は勉強して偉くならないかん[10]。成績も全甲(全学科の成績が優秀であること)でないと、援助してくれている目黒の伯父さん[注釈 1] に報告できない[10]。」

学生時代

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第一志望の府立高校尋常科(現:東京都立桜修館中等教育学校)、第二志望の武蔵高校尋常科(現:武蔵高等学校中学校)、第三志望の府立一中(現:東京都立日比谷高等学校)と、続け様に受験に失敗し、ようやく第四志望の開成中(現:開成中学校・高等学校)にビリに近い成績ですべり込んだ[11]。同い年のいとこが府立一中に合格したこともあって母・花は「あんなボロ中学に入って情けない」と親類の前でオイオイ泣いたという[11]

1939年(昭和14年)4月、開成中学校に入学。同中学3年生の時、哲学の道を志し、日々哲学書ばかり読むようになる。また反軍国少年であり、旧制高校の記念祭では上級生らと夕闇の中蜂起して、軍国主義を吹聴する校長をはじめ教職員を襲撃して殴っている。勤労動員された航空機の工場では、密かに不良品を作り、抵抗した[12]

1943年(昭和18年)4月、開成4年修了で旧制東京高等学校(現:東京大学教育学部附属中等教育学校)に入学。網野善彦氏家齊一郎が尋常科四年に進級した1943年(昭和18年)4月、一学年上の高等科に入ってきた[13]。氏家によると、渡邉との出会いは6月頃、東高の校庭であった[14]。以来、2人は共に軽演劇場や純喫茶に繰り出す仲になった[14]

東大入学後、陸軍に徴兵

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1945年(昭和20年)4月、東京帝国大学文学部哲学科に入学。その後陸軍に徴兵され、近衛師団に配属。本土決戦に備えて神奈川県に配置された[15]。渡邉の回顧録によれば、陸軍二等兵としての軍隊生活で、上官から暴行を受けたという[16]

渡邉はもし、米軍が上陸したら真っ先に降伏しようと考えていたという。そのために捕虜になった時のことを考えて、千葉県あたりに置かれる可能性がある捕虜収容所で過ごすため、哲学書を3冊肌身離さず持っていた[17]

同年8月半ばに除隊の内示を受け、8月15日の朝に除隊。除隊日の正午からの玉音放送で終戦となる。兵役期間は、わずか5か月ほどであった。除隊後は千葉県の家族の下で休養。3ヶ月後に東大に復学した[18]

復学後、共産党に入党

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前述の学徒動員時代に陸軍の上官から受けた暴行などから軍人(特に日本陸軍の軍人)を嫌い、軍国主義国家主義的な考えを嫌悪していた。そこで、東京大学在学中の1945年12月、反天皇制を掲げていた日本共産党に入党を申し込む。日本青年共産同盟の同盟員としてビラ貼りや演説会の勧誘など下積み活動を経験して、1947年頃、正式な党員として認められる。東大細胞(共産党が地域・職場・学園などに設けた末端組織の旧称、現在の「支部」)に所属し、他大学でも演説を行い党員を増やした。

1947年9月、カスリーン台風の被害に対する共産党の考えをきっかけに党の思想に疑問を抱き、反マルクス主義の東大新人会運動の展開を開始。1947年12月に自ら離党届を提出したが、党から除名処分を受け、東大細胞も解散となった[19]。離党後の彼を、しんぶん赤旗は「戦後の一時期に入党した渡辺氏は、青春を燃やした日々が懐かしいのか、いまでも日本共産党に入っていたことをよく口にしている」と評している[20]。氏家とともに母校である東京高等学校へオルグに行った際に、インターハイを目指す後輩の野球部員達に対して「野球なんてくだらないものをする時ではない!」と共産党への入党を勧めた。

1950年(昭和25年)3月、東京大学新聞研究所(現:情報学環)を修了。

読売新聞社での歩み

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政治記者時代

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読売新聞社に次席で入社(その年の首席は、後に作家となる三好徹)。また、東京新聞の採用試験にも合格している[21]。「朝日新聞社に入社したかったが採用試験で不採用になった」と週刊朝日のインタビューで答えている。「中央公論」の入社試験も不合格となっており「頭が良すぎて採用されなかった」とは本人談である。なお、中央公論に関しては渡邉が読売新聞社長時代に買収している。

『週刊読売』(後の『読売ウイークリー』)記者を経て、政治部記者となる。『週刊読売』の記者時代、鳩山一郎脳出血で倒れたときに、鳩山邸(現:鳩山会館)で張り込みをしていた。慌ただしい気配がした為、渡邉が屋敷の中を覗いたところ、大きな犬を連れた秘書の石橋義夫に追い出された[注釈 2]。その後、屋敷を出てきた大野伴睦に「誰が倒れたのですか」と質問したが無視され、次に現れた政治評論家岩淵辰雄にも「(自分は)鳩山家の者ではない」と言われ、鳩山が倒れた確証を得られなかった。結局、デスクから「死んだのでないのなら放っておけばいい。そろそろ帰ってこい」と指示されたと言う[22]

警視庁出身の社長正力松太郎の眼鏡にかなって、自民党党人派の大物、大野伴睦の番記者になった。以後保守政界と強い繋がりを持つようになり、大野の事務所を行き交う札束攻勢を目の当たりにする[23]

渡邉に対する大野の信頼は篤く、渡邉は大野の依頼を受けて自民党総裁衆議院議長ポスト獲得交渉の代行、自民党政治家ゴーストライターとして、週刊誌の論説の執筆まで引き受ける[24]児玉誉士夫と懇意になり、児玉の指令のもとに九頭竜ダム建設の補償問題や日韓国交正常化交渉の場でも暗躍したとされている[25]。また渡邉は後年、大野が戦時中から自由主義者であり、かつ反戦・反軍主義者であったことから気が合ったと振り返っている[26]

また、鳩山一郎の次の自民党総裁、総理大臣を狙っていた正力松太郎が、中曽根康弘を参謀格に自分の派閥を結成して総裁選出馬準備を進めていた際、正力から中曽根との連絡役を命じられて付き合いが始まり[27]、大野の死後は中曽根と親密になった。

中曽根とは、1957年(昭和32年)の自民党総裁選の最中に出会った。渡邉は、初入閣を望む中曽根と副総裁の大野伴睦との仲を取り持った。大野は造船疑獄の際に、自らを追及した中曽根を快く思っていなかったが、渡邉の執り成しによって態度を変え、入閣を確約した。1982年(昭和57年)の自民党総裁選の時には、渡邉は中曽根擁立のため、田中角栄の秘書早坂茂三に引き合わせ働きかけた[28]。早坂と、中曽根の秘書の小林克己は渡邉と同じ元日本共産党員だった。1966年(昭和41年)の大手町にある国有地払い下げ問題でも、大きな役割を果たしている[29]。2019年(令和元年)に中曽根が死去した際には、親の死と同様にショックであると心情を吐露。彼以上に敬愛した人物はいないというコメントを寄せた[30]

なお、政治記者としてよりは、若いころからジャーナリストとして多くの著作で知られる存在だったが、魚住昭は「戦後に現れた組織ジャーナリストの中でも、彼はテクニックにおいては最高の人でしょう」と評している[31]

編集局総務に就任

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1977年、編集局総務(局長待遇)に就任、同年2月18日付の『読売新聞社説百里基地訴訟一審判決違憲立法審査権の存在意義を説いていたが、1981年7月8日付紙面では一転し、二審判決の統治行為論を支持して、裁判所の政治介入を制限する主張に変わった。読売新聞が渡邉の主張を取り入れて、中道から保守に傾斜していく過程の1エピソードである。同年、取締役論説委員長に就任した。

1982年12月にソ連による執拗かつ周到な対日諜報活動間接侵略シャープパワー)が暴露されたレフチェンコ事件当時、首相官邸に赴いた際に自社の記者について後藤田正晴中曽根康弘とやりあったという。1984年からは元旦の社説を執筆するようになった。

1987年6月、筆頭副社長に就任。1989年に球団内で組織された最高経営会議のメンバーに選ばれ、読売ジャイアンツに関わるようになるが、野球の知識はほとんどなかった。

社長就任後

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1991年に読売新聞社社長、横綱審議委員1999年には日本新聞協会会長に就任した。

日本国民の世論の大多数が、日本国憲法改正そのものを否定していた1990年代初頭より、読売新聞は憲法第9条の改正を含む改憲キャンペーンを展開し、それまで半ばタブー視されていた改憲論議の口火を切る。その後、世論調査では憲法改正自体への賛成が、反対を上回ることが多々見られるようになった[32]

1996年6月5日の衆議院の規制緩和に関する特別委員会(議題は「規制緩和に関する件」、著作物の再販売価格維持制度:新聞社・出版社が、取引先である卸売業者や小売店に対して卸売価格や定価を指示して、これを維持させていること)に新聞協会を代表して参考人として出席し、新聞には文化的な価値、公共性があること、新聞ほど競争激烈な商品はない、価格も硬直的でない、再販により安売り競争で弱い所が潰れてゆくなどの理由から、新聞の再販を認めるべきではないとの見解を示した[33]。その際に適用除外廃止の意見を伝え実質的に意味のある報道をなぜしないか?との質問に対して、「凶悪な人達の議論を大々的に報道をする義務を感じない。オウム真理教教祖理論を長々と書かないのと同じだ」と述べた。渡辺が読売新聞の社長を務めてからは1994年には1000万部を突破するなど部数はさらに伸び2001年の1月には販売部数は1031万部を記録した[34]

会長就任後

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2005年読売新聞グループ本社の会長に就任。2007年、第54回カンヌ国際広告祭で世界のメディア業界の中から傑出した人物を讃える「メディアパーソン・オブ・ザ・イヤー」を受賞。朝夕刊で1400万部の世界一の発行部数である読売新聞ほか、テレビ局、出版社、プロ野球球団など広告媒体としても大きな影響力を持つグループを率いていることが評価された。

盟友の中曽根を強引に引退させ[注釈 3]、毎年靖国神社を参拝した小泉純一郎政権に対しては批判的であった。靖国神社に対する見解は後述

2011年2月、内閣総理大臣菅直人島津貴子らと世界らん展日本大賞開会式にて(左端)

自民党員及び元自民党員ら保守系議員に多大な影響力を持ち、中曽根康弘と共に、2007年の自民党と民主党の大連立構想黒幕であったと報じられている。小沢一郎は『朝日新聞』の2007年11月16日付のインタビューで、渡邉を「大連立構想の張本人」と答えている。

2007年(平成19年)10月26日付日本新聞協会会報のインタビュー記事で「社論と反対の社説を執筆した論説委員に執筆を禁じた」と述べ、虚偽の発言で名誉を毀損された(社論に反する社説を書いた事実は一切ない)として、2010年(平成22年)11月25日に読売新聞の前澤猛・元論説委員(“執筆を禁じ”られた当人)から提訴されている[35]。2011年7月5日の判決では、原告の主張は一部認められたが損害賠償は棄却された[36]

週刊文春』によると、渡邉は2004年(平成16年)に、不正な方法で運転免許証を更新し、道路交通法違反を犯したと報道されている[37]

2018年3月、内閣総理大臣安倍晋三駐日アメリカ合衆国大使ウィリアム・F・ハガティ夫妻と東京ドームにて(左端)

2018年死亡説が流布され、自らそれを打ち消した[38]

死去

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2024年12月19日2時、肺炎のため都内の病院で死去。98歳没。11月末まで定期的に出社し役員会などに出席、12月に体調を崩して病院で治療を受けるも死去数日前まで社説の原稿に目を通すなど、最後まで執務を続けていたという[1][39]

死去を受けて、各界から悼む声が相次いだ。石破茂首相は、「偉大なジャーナリストだった」と評した。国会議員になってから何度も話したといい「特に先の大戦やいろいろな日本の歴史観について教えていただくことが多かった」と振り返った。渡辺の自民党派閥に関するを読んだとも明かした。林芳正官房長官は同日の記者会見で「戦後政治の生き証人である渡辺さんの迫力ある著作に長く接してきた」と述べた。「何度か会う機会に恵まれ、政治に関する該博な知識、見識から多くのことを学ばせていただいた」と回想した[40]イギリスのニュースサイト・インディペンデントは、「日本の新聞界のボスが死去」と伝えた[41]。一方でコメンテーター玉川徹は「ジャーナリストというより権力にこだわり続けた人」と率直に語ってる[42]

読売ジャイアンツにおける活動

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渡邉自身、元々野球について詳しくなく[43]、球団経営に参加するようになったのは、読売新聞社副社長時代の1989年に球団内で組織された最高経営会議のメンバーに選ばれてからである(他のメンバーは同社名誉会長の務臺光雄、同社社長の小林與三次、オーナーの正力亨)。1991年に務臺が死去した後、渡邉はしばらくは沈黙するも、務臺の一周忌が済むとその発言が徐々に球界に強い影響力を及ぼすようになり、1996年に正力を名誉オーナーに祭り上げる形で自身がオーナーに就任。「野球はやったこともなく興味もなかった」と公言するも、その後野球界をすばやく学習し、これまでの球団の人気、資金、読売新聞と日本テレビ放送網という巨大メディアを背景に、影響力のあるチームオーナーとして球界に君臨、コミッショナー人事も決める人物と言われた。

球団オーナーとして

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2003年オフに、原辰徳が監督を辞任して堀内恒夫が就任したが、これについて渡邉は「読売グループ内の人事異動だ」と発言した[44]

2005年、堀内が成績不振で辞任することになり、星野仙一の監督就任を目論んだが各方面からの反対もあり頓挫。結果的に原を監督に復帰させている[注釈 4]

プロ野球再編問題とオーナー辞任

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2004年パシフィック・リーグにおいて、人気が低迷していた大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブ(現:オリックス・バファローズ)の間に合併話が持ち上がった。更に、同リーグの福岡ダイエーホークス西武ライオンズ親会社の経営危機による身売り説が飛び交っていた。

この問題の解決に、渡邉は西武オーナー・堤義明、オリックスオーナー・宮内義彦らと日本プロ野球1リーグ構想を画策したものの、ライブドア社長(当時)の堀江貴文が近鉄の買収を名乗り出ている状況下、世論の反発を招くこととなった[注釈 5]

7月8日、2リーグ12球団の維持を主張していた当時日本プロ野球選手会会長の古田敦也ヤクルトスワローズ)による経営者側との会談の提案を拒否し、この件に関するインタビューの中で「無礼な事言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が。」と発言した[45][46] [注釈 6]この発言に対し、選手・野球ファンを中心に、世論全体からの猛反発を招いた。後年ではこの発言が渡邉の傲慢さを表す発言として度々引用される。

このことから先述の通り「球界の独裁者」と評されている。このスポーツ記者(西村欣也)の質問とは「明日、選手会と代表レベルの意見交換会があるんですけれども、古田選手会長が代表レベルだと話にならないんで、できれば、オーナー陣といずれ会いたいと(言っている)」というもので、のちに古田自身が全面否定した。そのため捏造を元にした取材であった可能性も指摘されている。

8月13日、プロ野球再編騒動の最中に、明治大学の一場靖弘を巡る裏金事件が発覚する。渡邉は球団社長の土井誠、球団代表の三山秀昭と伴に責任を取って辞任、読売新聞東京本社社長の滝鼻卓雄にオーナーの座を譲った。

世論に後押しされる形で、日本プロ野球選手会は経営者側と激しく対立し、9月17日・18日に日本プロ野球史上初のストライキが挙行され、打撃を受けた経営側が折れる形で2リーグ制が維持されることになった。同年11月、ライブドアと同じIT企業の楽天の新規参入が認められて、東北楽天ゴールデンイーグルスが設立された。

その後1年足らずして球団会長に就任した。肩書きは変えながらも実質オーナー状態となっていた。

球団会長として

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2011年(平成23年)、3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震東日本大震災)の影響でプロ野球の開幕が当初の3月25日の予定から延期になることについて、3月16日の球団激励会の挨拶で、「この前の大戦争負けた後、選手、監督から3ヶ月でやりたいとい上がってプロ野球をやった歴史もある」と話し、予定通り25日の開幕を主張した[47]。また延期を決めたパ・リーグに対しては「こういう時には何もやらない方が良いというなら勝手にしろ」と話した。その後セ・リーグもパ・リーグ同様4月12日に開幕になったが渡邉は「いいんじゃないか。もう、しゃあない。ガーガー言ってるんだから」と話した[48]

2011年(平成23年)11月11日専務取締役球団代表兼ゼネラルマネージャー・編成本部長・オーナー代行の清武英利が「球団のコンプライアンス上の重大な件」とする記者会見を行い、球団が発表した岡崎郁ヘッドコーチの留任について、「ツルの一声で決めてしまうなど、球団を私物化するようなことがあっていいものか」として渡邉を批判している[49]。清武は同年11月18日に全ての役職から解任されている。

11月25日、清武は日本外国特派員協会において会見を開き、11日の会見を前にした清武との電話において渡邉が「俺は最後の独裁者」と酒まじりに言い放ったことを述べ[50]、これに対し渡邉は11月28日付の朝日新聞において「独裁者と呼ばれて」と題したインタビューに応じ、「僕は民主的だよ。物事を決めるときには必ず人に相談することにしている。独裁者と書くメディアもあるが面白いし、売れるからね」と答えている。その一方で、正力松太郎は独裁者だったとも述べている。

2014年(平成26年)6月10日、読売巨人軍取締役最高顧問に就任した。

2015年(平成27年)に福田聡志笠原将生松本竜也の3名が野球賭博に関与していたことに加え、2016年(平成28年)3月8日になって高木京介も関与していたことが発覚したため、11日付で責任を取って最高顧問を辞任した[51][52]

他のスポーツとの関係

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相撲

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1991年から2005年までの間横綱審議委員として活動。2001年から2年間は委員長を務め、ブームにわく大相撲界に影響を及ぼし、さまざまな角度から意見した。また、大関魁皇横綱昇進には最後まで否定的だった。

Jリーグとの関係

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読売グループでは、1968年メキシコオリンピックで日本代表が銅メダルを獲得したことによるサッカー人気の高まりに乗る形で、1969年読売サッカークラブを創設。1977年からは当時のトップリーグである日本サッカーリーグ(JSL)1部に昇格し、1980年代にはJSLや天皇杯を何度も制する強豪チームに育て上げていた。

1992年、読売サッカークラブを母体に「ヴェルディ川崎(現「東京ヴェルディ」)」を設立、翌1993年に正式スタートした日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に参加。三浦知良ラモス瑠偉などの人気選手を擁して優勝し、初代チャンピオンの栄誉を獲得した。なお、1993年8月1日に目黒区内のサレジオ教会で行われた三浦と日テレの歌番組に出演していた設楽りさ子の結婚式では、媒酌人も務めた。

その後、地域に根差したクラブの運営により裾野からのサッカー人気向上を図るJリーグや日本サッカー協会と、「読売ヴェルディ」の巨人化を目論む読売グループ間の対立が表面化した。グループ放送局のテレビ中継で使用していた「読売ヴェルディ」の呼称を「ヴェルディ川崎」に改めるようJリーグ執行部から指摘を受け、1994年からJリーグの勧告を受け入れ、「読売」を外して「ヴェルディ川崎」とアナウンス・表記されるようになった。

元々ヴェルディは、東京都内に本拠地を予定していたが、ホームスタジアムとして使えるスタジアムがなかったため川崎市を本拠地としていた。程無く後々に発生する「本拠地:東京移転を巡るヴェルディと川崎市の確執」は、本拠地移転を経験しながらも地域密着に成功した浦和レッズおよびコンサドーレ札幌と対比される事が多い。また、川崎市との確執がサッカーファンにも渡邊の印象を悪くしている面は否めない。その後1998年に読売新聞はヴェルディの株式を全て日本テレビに売却し、日本テレビ100%出資の状態が続いたが、2001年から本拠を東京都(東京スタジアム(味の素スタジアム))に移し、稲城市や地元企業などの共同出資による「東京ヴェルディ1969」になった。

オリンピック

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オリンピックに対して敵愾心を露にしてきた。2000年シドニー大会野球競技アジア最終予選に際して韓国台湾のプロ選手が参加を表明したため、アマチュア日本野球連盟は日本プロ野球機構にプロ選手派遣を要請した。日頃、オリンピックの商業主義を批判してきたことから巨人からの選手派遣を拒否したが、2004年アテネ大会に際しては、長嶋茂雄日本代表監督をバックアップする形で主力選手を参加させて協力することとなった。

人物

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  • 前述の通り、政界では中曽根康弘との親交の深さが殊に有名。中曽根の秘書だった小林克己は渡邉と学生時代からの親友だった。ほかにも、大手新聞社の実力者であることを武器に、様々な分野において影響力を発揮してきた。
  • 中川一郎とは中川がかつて大野伴睦の秘書だったので、家族ぐるみで親しく付き合っていたが彼が右派の議員グループ「青嵐会」を作ってからは疎遠になった。「1982年自由民主党総裁選挙に出馬し、中川さんは最下位。惨敗だった。ある政治家への不信もあって、急に気力をなくしたように見えた。パーティーで久しぶりに会った彼は「中曽根政権下で協力するからナベさんと喧嘩しなくてもすむ。仲良くやろう」と涙を浮べて私の手を取った。異様な感情の高ぶりが腑に落ちなかった。翌年1月に自殺する予兆だったのだろうか。」[53] と述べている。
  • 趣味読書哲学書など。新進気鋭の哲学者の著書は必ず目を通すという)とクラシック音楽鑑賞。ハムスターを飼っている。喫煙者で、パイプ葉巻きたばこを好む。野鳥の餌付けをこよなく愛する。TVドラマ『渡る世間は鬼ばかり』(橋田壽賀子脚本)の大ファン。
  • 『私の死亡記事』(文藝春秋 2004年)という本の中では、自分の死去はカラスを打ち落とそうとして、屋根から転落死(実際、自宅の庭に置いてある野鳥のエサを食べに来たカラスをゴム鉄砲で打ち落そうとしたが、石につまづいて大怪我をした事がある。その後、それが元で日本野鳥の会を除名された)。葬儀は音楽葬の形式で、また、「読売ジャイアンツが2000年から2019年に亘って20連覇し、2018年には長嶋茂雄が世界最年長のプロ野球監督としてこの年新設された“ノーベルスポーツ賞”を初受賞する事が、最大の私への餞別だ」と、本気なのかリップサービスなのか不明な発言をしている。
  • アクの強いキャラクターのため、いしいひさいちの四コマ漫画ではよくネタとして取り上げられており、朝日新聞(朝刊)連載中の四コマ漫画ののちゃんに、町内会長のナベツネツネオ(時にワンマンマンというヒーローに変身する)として、準レギュラーで登場している。ナベツネツネオは、人差し指を立ててを描くように振り回しながら「バカヤロー、バカヤロー」と連呼するのが特徴。
  • 酒豪で健啖でもあり、長嶋一茂が連れて行ったカレー専門店では、5種類ほどあったその店の全種類のカレーを注文しすべて平らげたという[54]
  • 清武英利によれば、渡邉の野球知識は素人以前で、巨人の選手やコーチの名前すら覚えていない。当時球団社長の桃井恒和に「いまさら誰にも聞けないんだがな。君、遊撃と二塁はどちらが一塁に近いんだ?」と質問したことがある[55]
  • 「情報保全諮問会議」の座長となった際、高知新聞で「『報道の自由』と相反しかねない特定秘密保護法だけに、取りまとめ役の座長に就くことに違和感が拭えない。」と論評されている[56]

靖国神社に対する見解

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渡邉は、内閣総理大臣靖国神社参拝に反対している事で知られ、「日本の首相の靖国神社参拝は、私が絶対に我慢できないことである。すべての日本人はいずれも戦犯がどのような戦争の罪を犯したのかを知るべきである」[57]、「今後誰が首相となるかを問わず、いずれも靖国神社を参拝しないことを約束しなければならず、これは最も重要な原則である。…もしその他の人が首相になるなら、私もその人が靖国神社を参拝しないと約束するよう求めなければならない。さもなければ、私は発行部数1000数万部の『読売新聞』の力で、それを倒す」[58] と述べ、靖国神社の代わりに無宗教の国立戦没者追悼施設を建設すべきと主張している(後述)[59]。また「内務班で受けた暴力をいまでも許せない、だから首相の靖国参拝には反対だ」[60] と本音を語っている。ただし、極東国際軍事裁判の判決が絶対的正義ではない、とも述べている[61]

2001年から2006年に靖国神社を参拝した、当時の内閣総理大臣である小泉純一郎を「愚かな総理大臣」と辛辣に批判しており、小泉が自身の靖国参拝は「」の問題だと語っていた事に対しては、日本遺族会が選挙における票田になっていることを挙げた上で、小泉が自由民主党総裁選挙の際、遺族会に向けて、自身が首相に就任すれば靖国神社を参拝することを約束していたとして、「私はそれは偽善的であり、彼は心から参拝に行きたいと思っているのではなく、そういうパフォーマンスで、戦犯の遺族から得票を増やすためであったと思っている」と主張している[62]。2006年、ニューヨーク・タイムズのインタビューに対して、渡邉は「(小泉純一郎は)歴史も哲学も知らず、勉強もせず教養も全くない」とまで述べた。渡邉は「小泉首相が『靖国参拝のどこが誤っているのか』『靖国を批判する国は韓国、中国しかない』と愚かな発言をするのは無知から始まったこと」とも述べた[63]

日本軍の戦争行為に対する見方も厳しい。ミッドウェイ海戦ガダルカナル島の戦いでの大敗以来、大日本帝国陸軍海軍から再び上申された神風特別攻撃隊に対しては「今でも許せない軍の非人間的作戦」[注釈 7] としているほか、アッツ島の戦い大本営が前線にいる兵士に全員自決せよとの命令を出した玉砕に対しては「前線の将兵に対する鬼畜の行為」と怒りを露わにし、戦陣訓を作成したとされる当時の首相兼摂陸軍大臣東條英機を批判している。渡邊は東條について「最大最悪の責任者が東條英機であることはまちがいない」[64]、「「東條っていうのは、ヒトラーと同じ」と批判し、靖国神社を参拝した中曽根康弘にも自分は東條を「断じて許すことができない」[65]と中曽根が東條が合祀されている靖国を参拝したことを本人に直接抗議している。「「渡邉曰く「焦土作戦や玉砕を強制した戦争責任者が祀られている所へ行って頭を下げる義理は全く無い」[66]、「加害者と被害者を同じ場所に祀って、同様に追悼、顕彰することは不条理ではないか」[67]

昭和天皇の戦争責任について、「昭和天皇は戦争責任を取って少なくとも終戦後に退位すべきであった」という意見で石原慎太郎、中曽根康弘と一致していたという[68]

靖国神社の遊就館に対しては、真珠湾攻撃などの日本が勝利を勝ち取った写真が展示されているため、「非常に有害な場所であり、あれは閉鎖しなければならない」と主張している。また、自民党幹事長だった加藤紘一が遊就館を参観した後、遊就館はまことに行き過ぎだと語ったとも述べている[69]

2005年、読売新聞社は渡邉の主導のもとで、日本の戦争責任を反省するための「戦争責任検証委員会」を創設し、『戦争責任を検証する』という本にまとめた。日本語版と英語版のほか、2007年には中国語版も新華出版社から出版・発行された[57]。渡邉は中国語版の序文にて、「本書を出版した動機は、日本のこの戦争に対する非人道性及び責任の所在を研究して明白にし、日本人自身の良心に照らして、正確な歴史認識を得てはじめて、被害国と率直かつ友好的な対話が可能になる、との信念からにほかならない」と記している[70]。また朝鮮民主主義人民共和国金正日総書記にも「読んでほしい」と述べている[71]

社会民主党は2006年9月7日午後、東京都内で「千鳥ケ淵戦没者墓苑・平和祈念施設提言委員会」を開き、渡邉と意見交換し、渡邉は「世界各国に無名戦士の墓があり、国賓が来た時に訪問する国も多い。日本でこれに該当するのは千鳥ケ淵墓苑だ」と主張し、同墓苑に隣接する公務員宿舎などを廃止して墓苑を拡充、無宗教の追悼施設にする事を提案した。党首(当時)の福島瑞穂は「社民党の考え方と共通点が大変多く、とても参考になった」と応じた[72]

尊敬している中国人政治家は鄧小平と述べ、渡邉が鄧小平に日本の対中侵略戦争の責任問題についてどう見ているのかと尋ねたところ、鄧小平は侵略戦争を起こしたのは大日本帝国政府と軍隊の中のひと握りのものであり、広範な日本国民に罪はないと言明し、渡邉はこの言葉を聞いた後「親中派」となった、と言う[58]。ただし、2005年の中国における反日活動では「中国の反日暴動は、中国政府の統治能力と国民の文明開化度が日本より半世紀遅れていることを示すもので、いたずらに興奮するのは無益だが、あの暴挙については、日本国政府は厳しく抗議して、損害賠償を求め、国の威信を保たねばならない」と中国側を批判していた[73]

2013年末に、その当時の内閣総理大臣である安倍晋三が靖国神社を参拝した事に対して、幹部たちとの会合で、「あれにはオレも失望した」と漏らしている[74]2007年には「安倍さんとは歴史観が違うんだ。僕は少年時代から反戦でね。A級戦犯が合祀されている靖国には参拝しない。彼は戦争を知らないから、仕方ないけどね」と述べている[75]

2023年1月に渡辺は戦争と歴史認識の問題について、具体的な提言を行っている。靖国神社参拝問題については、「侵略した加害国と侵略された被害国の政治的なシンボル」となっているとして、A級戦犯の分祀がなされない限り政治的権力者は公式参拝すべきでないと述べている[76]。ただし、渡邊は元将兵や戦没者の遺族が亡き戦友や家族を想って靖国神社を参拝することまでは否定しておらず、理解を示している。

略年譜

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5月30日 - 現在の東京都杉並区に生まれる。父・平吉、母・花。
4月 - 開成中学校に入学。
4月 - 開成中学を4年修了で東京高等学校に入学[77]。高校は戦時措置で一年繰り上げ卒業。
4月 - 東京帝国大学文学部に入学。
7月 - 砲兵連隊に入営するも、終戦の2日前に除隊[78]
12月 - 日本共産党に入党を申し込む。日本青年共産同盟の同盟員を経て、1947年頃、同党の正規の党員になる[79]。入党の動機は天皇制への嫌悪からだという[注釈 8]
12月 - 日本共産党に離党届を出し、結果的に除名される[80]
東京大学卒業して東京大学大学院に入学する。
11月 - 読売新聞社に入社。読売ウィークリーに配属される。高校時代からの学友である氏家齊一郎を誘う。
日本共産党山村工作隊を取材するため奥多摩アジトに潜入し、拘束されるも、無事解放される。このとき隊のリーダーだった人物が、『生きることの意味』の著者、高史明であったという。このスクープが認められて政治部に異動[81]
5月 - 元女優でモデルの女性と結婚[82]
12月 - 大野伴睦番記者になる。
中曽根康弘と知り合う。
児玉誉士夫と知り合う。初の著作『派閥』を上梓。
児玉誉士夫邸を初訪問。
安保反対の全学連デモにおける樺美智子の死亡に対する内閣声明を執筆。
9月 - ワシントン支局長
1月 - 編集局参与。
10月 - 解説部長。
6月 - 政治部長兼局次長。
7月 - 編集局総務(局長待遇)。
6月 - 取締役論説委員長。読売の論調に変化。
6月 - 筆頭副社長。
社長に就任。日本相撲協会の諮問機関横綱審議委員会委員に就任。
読売ジャイアンツのオーナーに就任。
前立腺癌の全摘手術を受ける[83]
日本新聞協会会長。経営難に陥った「中央公論社」の営業権を買収し、中央公論新社を設立。
中央公論新社から『渡邉恒雄回顧録』を出版。
日本新聞協会会長を任期満了に伴い退任。
一場事件の責任をとってジャイアンツオーナーを辞任。
マスコミ集中排除原則対策としての渡邉名義日本テレビ株の解消に際し、同社株が管理ポストに割り当てられる。
東京医科歯科大学学長選考委員会座長に就任。
横綱審議委員を任期満了で退任。
ジャイアンツ取締役会長に就任。
1月5日に刊行された論座朝日新聞社)において、靖国神社への首相参拝を非難する内容の対談を若宮啓文・『朝日新聞』論説委員と行う。この年に白内障の手術を受ける。
12月 日本経済新聞私の履歴書』執筆(2007年11月に「君命も受けざる所あり―私の履歴書―」として出版)。
第54回カンヌ国際広告祭でメディアパーソン・オブ・ザ・イヤーをアジア人では二番目の受賞。
麻生内閣の設置した安心社会実現会議の委員に選ばれる。
特定秘密の保護に関する法律「情報保全諮問会議」の座長となる[84]
ジャイアンツ取締役最高顧問に就任[85]
3月 ジャイアンツ取締役最高顧問を辞任。
6月 読売新聞グループ本社会長を退き、読売新聞グループ本社代表取締役主筆となる[86]
12月 巨人・原辰徳監督の野球殿堂入りを祝うパーティに車イスで参加した[87]
3月 「燦燦会」渡辺恒雄主筆のゲキに原監督「発行部数も増えるように頑張ってまいります」[88]
12月19日 肺炎のため、都内の病院で死去。98歳没[1]

家族・親族

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渡邉家

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  • 父・平吉が勤めていた不動貯金銀行(旧:協和銀行の前身・現:りそな銀行)の重役だった柳井信治(千葉県 平民[89])は伯父(母・花の実兄)[10]。柳井信治は苦学の末、巨額の資産を築いた立志伝中の人である[10]
  • 愛妻家である。妻が事故により認知症になって出かけるときはキスを忘れなかった(本人談)。長い夫婦生活で妻は空気のような存在になっていたが、認知症の発症により自分が面倒を見なければならなくなり、妻が愛おしくなったと渡邉は自伝で記している。なお、妻は2017年に87歳で死去した。

受賞・栄典

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著書

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単著・編著

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  • 派閥―保守党の解剖弘文堂、1958年9月25日。増補版1964年、新装復刊2014年6月。ISBN 978-4-335-46032-6
  • 大臣』弘文堂、1959年2月10日。
  • 党首と政党 : そのリーダーシップの研究』弘文堂、1961年11月20日。
  • 政治の密室 : 総理大臣への道』雪華社、1966年11月20日。
    • 改題『派閥と多党化時代 政治の密室 増補新版』雪華社, 1967年
    • 再改題『自民党と派閥 政治の密室 増補最新版』実業之日本社, 2024年5月。ISBN 978-4-408-65099-9
    前木理一郎(元・読売新聞政治部)解説「令和の派閥と政党政治の将来」、電子書籍版も刊
  • ホワイトハウスの内幕 : アメリカの権力政治読売新聞社、1971年7月25日。増補改題「ウォーターゲート事件の背景」, 1973年
  • 大統領と補佐官 : キッシンジャーの権力とその背景』日新報道、1972年10月1日。
  • 保革連立政権論 : 一九七〇年代後半の政治展望ダイヤモンド社、1974年11月8日。
  • 永田町見聞録 : 政界・派閥・権力の実像東洋経済新報社、1980年5月29日。
  • 『ポピュリズム批判――直近15年全コラム』博文館新社、1999年
  • 『天運天職――戦後政治の裏面史、半生、巨人軍を明かす』光文社、1999年
  • 『わが人生記――青春・政治・野球・大病』中公新書ラクレ、2005年、増補版2021年3月
  • 『君命も受けざる所あり――私の履歴書日本経済新聞社、2007年
  • 『反ポピュリズム論』新潮新書、2012年。電子書籍版も刊
共著

訳書

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  • ジェイムズ・M・キャノン編『政界入門』弘文堂、1962年 - 中曽根康弘共訳
  • セオドア・ホワイト『大統領になる方法』弘文堂(上・下)、1964年 - 小野瀬嘉慈共訳
    • 改題『大統領への道』弘文堂 新書判、1965年。全1冊
    • 再改題『大統領職をめぐる死闘』雪華社、1968年
  • フランシス・ラッセル『大統領を創った人々』政府広報センター、1976年 - 監訳

脚注

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注釈

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  1. ^ 目黒の伯父さんとは、母・花の実兄で、父・平吉が勤めていた不動貯金銀行(旧協和銀行の前身・現りそな銀行)の重役・柳井信治のこと(魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p25)
  2. ^ 後年、石橋は渡邉とともに横綱審議委員となり、その席で渡邉と顔を合わせることとなった。石橋は渡邉の後任の横綱審議委員長に就任した。
  3. ^ 衆議院への小選挙区比例代表並立制導入に際し、中曽根が小選挙区における公認を求めない代償として、中曽根を終身的に比例北関東ブロックの名簿一位に載せるという約束を中曽根と当時の自民党執行部(橋本龍太郎総裁及び加藤紘一幹事長)が交わしていたが、小泉は党規の比例代表候補73歳定年制を厳格に適用すべくこの約束を反故とした[要出典]
  4. ^ 原は渡邉の説得を受け入れ、渡邉自身は特別顧問の肩書で引き続き球団に残った。
  5. ^ 堀江は仙台ライブドアフェニックス設立構想を持っていたが, この構想は楽天のプロ野球チーム・東北楽天ゴールデンイーグルスの影響で立ち消えとなっている
  6. ^ 発言全体の内容は後述の質問に対して、「ふん、無礼な事を言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が。『たかが選手』ったって立派な選手もいるけどね。オーナーとね、対等に話する協約上の根拠が一つも無い。」であり、「(選手会側が)ストライキ権を行使するって言う可能性も…。」と言う質問には「どうぞ!どうぞ、やったらいい。」と答えた。
  7. ^ ただし、特攻隊員は志願による予科練出身の割合が高い。しかし、その中でも特に敗勢が顕著になった頃からは、上からの命令的な説得、救国を掲げた同調圧力によるもの等の証言も見受けられるため、渡邉のように解することも可能ではある。
  8. ^ 渡邉自身は自著で敗戦後天皇退位を主張した唯一の政治団体が共産党であったことが入党の理由であると記している。

出典

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  3. ^ "長嶋茂雄氏「ワタツネさん」渡辺恒雄さんとの別れに沈痛「頭は白紙」 原氏「恩師でした」". Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社. 2024年12月20日. 2024年12月20日閲覧
  4. ^ 江尻良文『渡邉恒雄とプロ野球』株式会社双葉社、2014年、5ページ、ISBN 978-4-575-30647-7
  5. ^ 2011年11月25日、清武英利による記者会見において
  6. ^ 朝日新聞『独裁者と呼ばれて』(渡邉に対するインタビュー記事) 2011年11月28日
  7. ^ a b 魚住昭 『渡邉恒雄 メディアと権力』 p23
  8. ^ 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p23-24
  9. ^ a b 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p24
  10. ^ a b c d e f g 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p25
  11. ^ a b 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p26
  12. ^ 渡邉恒雄 『君命も受けざる所あり』 日本経済新聞出版社、2007年、27、35-41頁
  13. ^ 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p36
  14. ^ a b 魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』 p37
  15. ^ 『本土決戦幻想コロネット作戦編』p98
  16. ^ 『渡邉恒雄回顧録』(中央公論新社, 2000年
  17. ^ 『本土決戦幻想コロネット作戦編』p100
  18. ^ 『本土決戦幻想コロネット作戦編』p101
  19. ^ 渡邉恒雄 『君命も受けざる所あり』 日本経済新聞出版社、2007年、60-69頁
  20. ^ 渡辺オーナー発言 署名活動は“大衆迎合”か
  21. ^ 渡邉恒雄 『君命も受けざる所あり』 日本経済新聞出版社、2007年、83頁
  22. ^ 水木楊『誠心誠意、うそをつく 自民党を生んだ男・三木武吉の生涯』177頁 - 178頁
  23. ^ 魚住昭 『渡邉恒雄 メディアと権力』 p145
  24. ^ 『渡邉恒雄回顧録』第3章・第4章などを参照。大野の回想録(『大野伴睦回想録』弘文堂)も大半を渡邉が執筆している。
  25. ^ 魚住昭 2000, pp. 154–155, 160–166, 204–216
  26. ^ “渡辺主筆、戦争体験「書き残していかないといけない」…NHK番組で語る”. 読売新聞. (2020年8月10日). https://www.yomiuri.co.jp/politics/20200809-OYT1T50234/ 2024年12月20日閲覧。 
  27. ^ 杉山隆男『メディアの興亡』(文藝春秋、1986年)349ー350頁。
  28. ^ 魚住昭 2000, p. 132-134,355-360
  29. ^ 魚住昭 2000, pp. 260–274。この件については、杉山隆男『メディアの興亡』下巻などにも詳しい記述がある。
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参考文献

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関連項目

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