コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「オードリー・ヘプバーン」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
m キャリア初期: テンプレート呼び出しエラーのあるページ/CS1/URL 引数titleを引数transcriptに変更
 
(100人を超える利用者による、間の501版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Otheruses|[[イギリス人]]の女優|彼女を基にした2022年5月6日に劇場公開された同名のドキュメンタリー映画|オードリー・ヘプバーン (映画)}}
{{ActorActress|
{{ActorActress
| 芸名 = オードリー・ヘプバーン
| ふりがな = Audrey Hepburn
| 芸名 = Audrey Hepburn
| ふりがな = オードリー・ヘプバーン
| 画像ファイル = Audrey Hepburn Roman Holiday cropped.jpg
| 画像 = 200px
| 画像ファ = Audrey Hepburn 1956.jpg
| 画像サイズ = 225px
| 画像コメント = 映画『[[ローマの休日]]』での王女役、ヘプバーン
| 画像コメント = 1956年のヘプバーン
| 本名 = Audrey Kathleen Ruston
| 本名 = オードリー・キャスリーン・ヘプバーン=ラストン({{lang-en-short|Audrey Kathleen Hepburn-Ruston}}){{Sfn|竹書房|2004|p=「はじめに」ix}}
| 別名 = Edda van Heemstra
| 出生地 = {{BEL}}[[ブリュッセル]]
| 出生地 = {{BEL}} [[ブリュッセル]]・[[イクセル]]
| 死没地 = {{CHE}} [[ヴォー州]]
| 国籍 = {{UK}}
| 国籍 = {{UK}}
| 民族 =
| 民族 =
| 身長 = 170cm<ref>ヘプバーンの長男ショーン・ヘプバーン・フェラー(ファーラー)著(2004年5月18日初版発行)『AUDREY HEPBURN―母、オードリーのこと』.「はじめに」x頁6行目.竹書房.</ref>
| 血液型 =
| 身長 = 170cm
| 生年 = 1929
| 生年 = 1929
| 生月 = 5
| 生月 = 5
18行目: 18行目:
| 没月 = 1
| 没月 = 1
| 没日 = 20
| 没日 = 20
| 職業 = 女優
| 職業 = [[俳優|女優]]
| ジャンル = [[映画]]
| ジャンル = [[映画]]、[[演劇|舞台]]、[[テレビドラマ]]
| 活動期 = 1948年 - 1989年
| 活動期 = 1948年 - 1989年(女優)
| 活動内容 =
| 活動内容 =
| 配偶者 = [[メル・ファーラー]] (1954年 - 1968)<br />アンドレア・ドッティ (1969年 - 1982)
| 配偶者 = [[メル・ファーラー]](1954年 - 1968年)<br />アンドレア・ドッティ(1969年 - 1982年)
| 家族 = ショーン・ヘプバーン・ファーラー (1960年生)<br />ルカ・ドッティ (1970年生)
| 著名な家族 = 息子:ショーン・ヘプバーン・ファーラー(1960年生<br />息子:ルカ・ドッティ(1970年生)<br />孫:エマ・ファーラー(1994年生
| 事務所 =
| 公式サイト =
| 公式サイト =
| 主な作品 = 『[[ローマの休日]]』<br />『[[ティファニーで朝食を]]』<br />『[[マイ・フェア・レディ_(映画)|マイ・フェア・レディ]]』
| 主な作品 = 『[[ローマの休日]]』(1953年)<br />『[[麗しのサブリナ]]』(1954年)<br />『[[パリの恋人]]』(1957年)<br />『[[昼下りの情事]]』(1957年)<br />『[[ティファニーで朝食を (映画)|ティファニーで朝食を]]』(1961年)<br />『[[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]』(1963年)<br />『[[マイ・フェア・レディ_(映画)|マイ・フェア・レディ]]』(1964年)<br />『[[おしゃれ泥棒]]』(1966年)<br />『[[いつも2人で]]』(1967年)<br />『[[暗くなるまで待って (映画)|暗くなるまで待って]]』(1967年)
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]<br />'''1953年『[[ローマの休日]]』<br />
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]<br />'''[[第26回アカデミー賞|1953年]]『[[ローマの休日]]』<br />'''[[ジーン・ハーショルト友愛賞]]'''<br />[[第65回アカデミー賞|1992年]]
| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞|主演女優賞]]'''<br />[[第19回ニューヨーク映画批評家協会賞|1953年]]『[[ローマの休日]]』<br />[[第25回ニューヨーク映画批評家協会賞|1959年]]『[[尼僧物語]]』
'''[[ジーン・ハーショルト友愛賞]]'''<br />1992年『''Outstanding Contributions to Humanitarian Causes''』
| AFI賞 = '''[[映画スターベスト100]]'''<br />1998年(女優部門第3位)<br />'''[[アメリカ映画主題歌ベスト100]]'''(第4位)<br />[[2004年]]『[[ムーン・リバー]]』
| アリエル賞 =
| 英国アカデミー賞 = '''[[英国アカデミー賞 主演女優賞|英国女優賞]]'''<br />1954年『[[ローマの休日]]』<br />1960年『[[尼僧物語]]』<br />1965年『[[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]』<br />'''特別賞'''<br />1992年<ref name="BAFTA">{{cite web|url=http://awards.bafta.org/award/1992/film/special-award-3|title=Film Special Award in 1992|publisher=[[英国映画テレビ芸術アカデミー]]|language=英語|accessdate=2021-11-16}}</ref><ref name="BAFTA Heritage">{{cite web|url=https://www.bafta.org/heritage/features/100-bafta-moments-9-days-to-go|title=100 BAFTA Moments - Audrey Hepburn Receives the Special Award|publisher=[[英国映画テレビ芸術アカデミー]]|language=英語|accessdate=2021-11-16}}</ref>{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=185}}
| AFI賞 =
| エミー賞 = '''情報番組個人業績賞'''<br />[[第45回プライムタイム・エミー賞|1993年]]『[[オードリー・ヘプバーンの庭園紀行]]』
| 英国アカデミー賞 = [[英国アカデミー賞 主演女優賞|主演女優賞]]<br />1953年『[[ローマの休日]]』<br />1959年『[[尼僧物語]]』<br />1964年『[[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]』
| グラミー賞 = '''児童向け朗読アルバム賞'''<br />[[第36回グラミー賞|1994年]]『オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語』
| エミー賞 = Outstanding Individual Achievement - Informational Programming<br />
| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)|主演女優賞 (ドラマ部門)]]'''<br />[[第11回ゴールデングローブ賞|1953年]]『[[ローマの休日]]』<br />'''[[ゴールデングローブ賞 セシル・B・デミル賞|セシル・B・デミル賞]]'''<br />[[第47回ゴールデングローブ賞|1989年]]
1993年『''[[Gardens of the World with Audrey Hepburn]]''』
| グラミー賞 = Best Spoken Word Album for Children<br />1994年『''Audrey Hepburn's Enchanted Tales''』
| ゴールデングローブ賞 = [[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)|主演女優賞 (ドラマ部門)]]<br />1953年『[[ローマの休日]]』<br />[[セシル・B・デミル賞]]<br />1989年『''Lifetime Achievement''』
| ゴールデンラズベリー賞 =
| ゴールデンラズベリー賞 =
| ゴヤ賞 =
| ゴヤ賞 =
| ジェミニ賞 =
| ジェミニ賞 =
| 全米映画俳優組合賞 = '''[[全米映画俳優組合賞生涯功労賞|生涯功労賞]]'''<br />[[1992年]]
| ジニー賞 =
| セザール賞 =
| セザール賞 =
| トニー賞 = '''[[トニー賞#最優秀演劇女優賞|最優秀演劇女優賞]]'''<br />1954年『''Ondine''』<br />Special Tony Award<br />1968年『''Lifetime Achievement''<br />
| トニー賞 = '''[[トニー賞 演劇主演女優賞|演劇主演女優賞]]'''<br />1954年『[[オンディーヌ (戯曲)|オンディーヌ]]』<br />'''特別賞'''<br />1968年
| 日本アカデミー賞 =
| 日本アカデミー賞 =
| フィルムフェア賞 =
| フィルムフェア賞 =
| ブルーリボン賞 =
| ブルーリボン賞 =
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
| その他の賞 = '''[[ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞]]'''<br />'''外国女優賞'''<br />1960年『尼僧物語』<br />1962年『ティファニーで朝食を』<br />1965年『マイ・フェア・レディ』<hr />'''[[サン・セバスティアン国際映画祭]]'''<br />'''女優賞'''<br />1959年『尼僧物語』<hr />'''ゴールデン・ローレル賞'''<br />'''女性コメディ演技賞'''<br />1958年『昼下りの情事』
| その他の賞 =
| 備考 =
| 備考 =
AFI([[米国映画協会]])の「最も偉大な女優50選」では第3位。
同協会の2002年選出で「最も愛すべきラブストーリー・映画ベスト100本」にも、第4位『[[ローマの休日]]』、第12位『[[マイ・フェア・レディ]]』、第54位『[[麗しのサブリナ]]』、第57位『[[いつも二人で]]』、第61位『[[ティファニーで朝食を]]』。
}}
}}
[[ファイル:Audrey Hepburn signature.svg|thumb|260px|ヘプバーンのサイン]]
'''オードリー・ヘプバーン'''({{lang-en-short|'''Audrey Hepburn'''}}、[[1929年]][[5月4日]] - [[1993年]][[1月20日]])は、[[イギリス人]][[俳優|女優]]。'''ヘップバーン'''とも表記される。ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびにファッション界のアイコンとして知られる。[[アメリカン・フィルム・インスティチュート]] (AFI) の「[[映画スターベスト100|最も偉大な女優50選]]」では第3位にランクインし、インターナショナル・ベスト・ドレッサーに殿堂入りしている。


<!-- 全体のリード文なので、「概要」節などで区切らないでください -->
'''オードリー・ヘプバーン'''({{lang-en-short|'''Audrey Hepburn'''}}、[[1929年]][[5月4日]] - [[1993年]][[1月20日]])は、[[イギリス]]の女優。
[[ブリュッセル]]の[[イクセル]]で生まれ、幼少期を[[ベルギー]]、[[イングランド]]で過ごした。[[オランダ]]にも居住した経験があり、第二次世界大戦中には[[ドイツ軍]]が占領していた[[オランダ]]の[[アーネム]]に住んでいたこともあった。古い資料の一部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」とするものがある。これは、戦時中にドイツ軍占領下にあった[[オランダ]]で、「オードリー」の名があまりにイギリス風であることを心配した母・エラが、自らの証明書の1つに手を加えた({{lang|nl|Ella}}を{{lang|nl|Edda}}とした)偽名である{{Sfn|竹書房|2004|pp=「まえがき」xiv-xv}}。5歳ごろから[[バレエ]]を初め、[[アムステルダム]]では{{仮リンク|ソニア・ガスケル|en|Sonia Gaskell}}のもとでバレエを習い、1948年には[[マリー・ランバート]]にバレエを学ぶためにロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞台に立った経験がある。


イギリスで数本の映画に出演した後に、1951年のブロードウェイ舞台作品『[[ジジ]]』で主役を演じ、1953年には『[[ローマの休日]]』で[[アカデミー主演女優賞]]を獲得した。その後も『[[麗しのサブリナ]]』(1954年)、『[[尼僧物語]]』(1959年)、『[[ティファニーで朝食を (映画)|ティファニーで朝食を]]』(1961年)、『[[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]』(1963年)、『[[マイ・フェア・レディ_(映画)|マイ・フェア・レディ]]』(1964年)、『[[暗くなるまで待って (映画)|暗くなるまで待って]]』(1967年)などの人気作、話題作に出演している。女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、[[ゴールデングローブ賞]]、[[英国アカデミー賞]]を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品である[[オンディーヌ (戯曲)|オンディーヌ]]で[[トニー賞 演劇主演女優賞]]を受賞している。ヘプバーンは死後に[[グラミー賞]]と[[エミー賞]]も受賞しており、[[アカデミー賞・エミー賞・グラミー賞・トニー賞を全て受賞した人物の一覧|アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物]]の一人となっている。
本名は、'''オードリー・キャスリーン・ファン・ヘームストラ・ヘプバーン=ラストン'''('''Audrey Kathleen Van Heemstra Hepburn-Ruston''')。日本においては'''ヘップバーン'''と表記する場合もある<ref>ヘップバーンの表記に関する解説:安藤邦男「[http://www.wa.commufa.jp/~anknak/ronbun08katakana1.htm カタカナ英語と英語教育]」</ref><ref>ヘップバーン明記での刊行物:『アルバムオードリー・ヘップバーン』(ゼンバッハ・K・ユルゲン編、川原亜矢子翻訳、ISBN 4062119145)など。</ref>。各種資料の一部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」とするものもある。「エッダ」は、戦時中、[[ドイツ]]占領下にあった[[オランダ]]で、「オードリー」という名がイギリス的であることを心配した母エッラが、自らの名前をもじって(EllaをEddaとした)一時的に変えたものである<ref>[[メル・ファーラー]]との間に生まれた息子ショーン・ヘプバーン・ファーラーの著書 『AUDREY HEPBURN―母、オードリーのこと』(ISBN 4-8124-1668-X)による。</ref>。


70年代以降、後半生の多くの時間を[[国際連合児童基金]](ユニセフ)の仕事に捧げた。[[ユニセフ親善大使]]として1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。1992年終わりに[[アメリカ合衆国]]で文民の最高勲章である[[大統領自由勲章]]を授与されたが受勲一か月後の1993年に、ヘプバーンはスイスの自宅で[[虫垂癌]]により63歳で死去した<ref>{{cite book|last=Ferrer|first=Sean
== 生涯 ==
|title=Audrey Hepburn, an Elegant Spirit|publisher=Atria|location=New York|year=2005|isbn=978-0-671-02479-6|page=148}}</ref><ref name=barryparis>{{cite book|last=Paris|first=Barry|title=Audrey Hepburn|publisher=Berkley Trade|location=City|year=2001|isbn=978-0-425-18212-3}}</ref><ref>{{cite book|last=|first=|title=『AUDREY HEPBURN A Life in Pictures』の中のAxelle Emdennoの文|publisher=Pavilion|location=London|year=2007|isbn=978-1-86205-775-3|page=19|date=|author=|editor=Yann-Brice Dherbier}}</ref>。
=== 生い立ち ===
[[イングランド]]人でイギリスの保険会社に勤める父ジョゼフ・アンソニー・ヘプバーン=ラストンと[[オランダ]]人の母エッラ・ファン・ヘームストラ([[バロネス]]Baronessの[[爵位]]を持ち、男性の[[男爵]]に相当する。)のもとに、[[ベルギー]]の首都[[ブリュッセル]]で生まれる。生後3週間で[[百日咳]]にかかり、発作のために心臓停止状態となるも母親の必死の心臓マッサージにより蘇生する。5歳でイギリス・[[ケント州]]にある寄宿学校に入学。


== 前半生 ==
その頃、両親は離婚し、[[ファシズム]]に共鳴した父親は家族から去った。10歳のときに祖父のいるオランダへ移住し、6年間アーネム・コンセルヴァトリーで[[バレエ]]の特訓を受ける。15歳には有能な[[バレリーナ]]になった。
ヘプバーンは、1929年5月4日にベルギーの首都[[ブリュッセル]]の[[イクセル]]に生まれ、オードリー・キャスリーン・ラストンと名付けられた{{Sfn|竹書房|2004|pp=「まえがき」xiv-xv}}。


父親は[[オーストリア・ハンガリー帝国]][[ボヘミア]]のウジツェ出身のジョゼフ・ヴィクター・アンソニー・ラストン(1889年 - 1980年)である{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=34}}{{Sfn|ハイアム|1986|p=7}}{{efn|ヘプバーンの出生証明書には、父ジョゼフはロンドン生まれだと記されている。しかしながらこの記録は1952年になって生母エラによって「(オーストリア領)ボヘミアのウジツェ出身」と改められた。ウジツェは現在ではチェコに属している<ref>[https://web.archive.org/web/20210514202242/http://www.pitt.edu/~votruba/qsonhist/celebrities/hepburnaudrey.html https://sites.pitt.edu/~votruba/qsonhist/celebrities/hepburnaudrey.html]。</ref>。}}。ジョゼフの母親はオーストリア系で{{efn|母アンナは[[スロヴァキア]]出身だった<ref> [https://web.archive.org/web/20210514202242/http://www.pitt.edu/~votruba/qsonhist/celebrities/hepburnaudrey.html https://sites.pitt.edu/~votruba/qsonhist/celebrities/hepburnaudrey.html]</ref>。}}、父親はイギリス、オーストリア系だった<ref name="Walker, page 62">Walker, page 6</ref>。ジョゼフはヘプバーンの母エラと再婚する以前に、[[オランダ領東インド]]で知り合ったオランダ人女性と結婚していたことがある{{Sfn|ウォーカー|2003|p=25}}。ジョゼフはヘプバーンの各伝記によって銀行家など様々な職業とされているが、実際は一度もまともに職業に就いたことはない{{Sfn|竹書房|2004|pp=9-10}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=35}}。趣味は一流で13か国語の話者であった{{Sfn|竹書房|2004|p=10}}。
=== 戦中 ===
[[第二次世界大戦]]中はオランダで、密かに[[ドイツ]]のオランダ占領に対する抵抗運動の資金集めのために踊るなど、反ドイツの[[レジスタンス運動]]に従事していた。オードリーの叔父と母親の従兄弟はドイツに対する抵抗者だったため、オードリーの目の前で銃殺された。彼女の異父兄弟もドイツの[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]に入れられた。オードリーは[[栄養失調]]のため急性[[貧血]]症で浮腫み、[[呼吸困難]]、[[水腫]]に罹り、黄疸が出る程の重体となりアムステルダムの病院に入院する。入院しても満足な治療を施せない物資不足の中、母親が必死で手に入れた[[ペニシリン]]で九死に一生を得る。


ヘプバーンの母エラ・ファン・ヘームストラ(1900年 - 1984年)は[[爵位|バロネス]]の称号を持つオランダ貴族だった{{Sfn|カーニー|1994|p=15}}{{Sfn|ハイアム|1986|p=8}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=21}}。エラの父親は男爵{{仮リンク|アールノート・ファン・ヘームストラ|en|Aarnoud van Heemstra}}で、1910年から1920年にかけて[[アーネム]]市長を、1921年から1928年にかけて[[スリナム]]総督を務めた政治家である{{Sfn|ウォーカー|2003|p=21}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=21-22}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=29-37}}。エラの母親もオランダ貴族の出身だった{{Sfn|ウッドワード|1993|p=22}}。エラは19歳のときに、ナイト爵位を持つヘンドリク・グスターフ・アドルフ・クアレス・ファン・ユフォルトと結婚したが、1925年に離婚している{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=31-34}}。エラとヘンドリクの間には、ヘプバーンの異父兄のアールノート・ロベルト・アレクサンデル・クアレス・ファン・ユフォルト(1920年 - 1979年)と、イアン・エドハル・ブルーセ・クアレス・ファン・ユフォルト(1924年 - 2010年)の二人の男子が生まれている{{Sfn|ハイアム|1986|p=9}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=31-34}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=26}}。
16歳の時、[[オランダ]]の病院で[[ボランティア]]の看護婦をしていたが、[[マーケット・ガーデン作戦]]で大激戦地となった[[アーネム]]の病院で、一人の[[イギリス陸軍]]兵を介護する(20年後彼は[[映画監督]]になって彼女の作品を演出することになる―『[[暗くなるまで待って (映画)|暗くなるまで待って]]』の[[テレンス・ヤング]]である)。また、戦争中、食料がないときは[[チューリップ]]の球根を食べ、飢えをしのいだという。なお、「マーケット・ガーデン作戦」を描いた[[1977年]]公開の映画『[[遠すぎた橋]]』において、ケイト・テル・ホルスト夫人役(アーネム郊外の自宅をイギリス軍負傷兵のため提供する)をオファーされたが、拒否している。


ジョゼフとエラは、1926年9月に[[バタヴィア]](現・[[ジャカルタ]])で結婚式を挙げた{{Sfn|カーニー|1994|p=15}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=31-34}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=26}}。その後二人はイギリスの生活を経てベルギーのイクセルへ移住し、1929年にオードリー・ヘプバーンが生まれた{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=35-36}}。一家は1932年1月にリンケベークへと移住している<ref>
[[アンネ・フランク]]と同い年で、戦後、オードリーはアンネの事を知りひどく心を痛めたという。後年、映画『[[アンネの日記]]』のアンネ役のオファーもあったのだが、辛い過去を思い出すのを恐れて断った事もある。[[ロンドン]]でバレエを習う等、[[ヨーロッパ]]を中心とする各国で生活した経験を持つ。そのためか[[英語]]、[[フランス語]]、[[オランダ語]]、[[スペイン語]]、[[イタリア語]]が抜群に堪能であった。
{{cite web
|author=vrijdag 6 mei 2011, 07u26
|url=https://www.bruzz.be/culture/news/de-vijf-hoeken-van-de-wereld-amerika-elsene-2011-05-06
|title=De vijf hoeken van de wereld: Amerika in Elsene
|publisher=brusselnieuws.be
|accessdate=14 March 2012
}}</ref>{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=36-37}}。ヘプバーンはベルギーで生まれたが、父ジョゼフの家系を通じてイギリス国籍を持っていた{{Sfn|ウォーカー|2003|p=27}}。


結婚後、家系図マニアだったエラは、ジョゼフの祖父(ヘプバーンの曽祖父)の妻にスコットランド女王[[メアリ]]の3番目の夫である第4代ボスウェル伯[[ジェームズ・ヘップバーン (第4代ボスウェル伯爵)|ジェームズ・ヘプバーン]]の末裔がいるのを発見し{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|pp=13-14}}<ref>日本では未訳の、Warren G.Harris の伝記に書かれている、とバリー・パリスの伝記の日本版上巻p36(単行本版)に書いている。</ref>、それを機にヘプバーン=ラストンを公式に使用するようになった{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|pp=13-14}}<ref>2004年に発行された息子ショーンの『母、オードリーのこと』ではジョセフが発見したことになっていたが、2006年の『the audrey hepburn treasures』はショーンも関わっているので、後年のエラが発見した方を採用。</ref>。そのためオードリーの戸籍上でもヘプバーンが足されることになった{{Sfn|竹書房|2004|p=「まえがき」xiv}}。1948年、[[デン・ハーグ|ハーグ]]の英国大使館にて発行されたヘプバーンの身分証明には“オードリー・ヘプバーン=ラストン”と書かれており{{Sfn|竹書房|2004|p=「まえがき」xv}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|pp=44及びその隣にレプリカが封入}}、1982年以降のパスポートにはオードリー・K・ヘプバーンと書かれている{{Sfn|竹書房|2004|pp=「まえがき」xviii-xix}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=165}}<ref group="注釈">それ以前のパスポートではオードリー・ドッティ、さらにそれ以前はA・ファーラーとサインされている。</ref>。ジョゼフもオードリーも死ぬまで自分がヘプバーン家の血をひいていると信じていたが{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=23-24}}、オードリーの従兄弟の調べたところによるとジョゼフの父は祖父の2番目の妻の子供であったため、ヘプバーン家の血は本当は入っていないと書かれている伝記もある{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=23-24}}。
===「ジジ」「ローマの休日」への抜擢===
[[File:Audrey Hepburn screentest in Roman Holiday trailer.jpg|thumb|upright|<small>[[ローマの休日]]スクリーンテストでのヘプバーン。映画のプロモーショントレイラーでも使用された</small>]]
第二次世界大戦終結後、オードリー母娘はスーツケーツ1個とわずかな全財産でロンドンに移り住み、母のエッラは様々な職に就いて生活を支え、オードリー自身も[[タレント・エージェント|エージェント]]の持ち込む映画や[[テレビ]]、舞台の端役をこなし家族を支えていたが、『[[ラベンダー・ヒル・モブ]]』へ出演した際、主演俳優の[[アレック・ギネス]]に注目され、[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]]製作のスペクタクル大作『[[クォ・ヴァディス (映画)|クォ・ヴァディス]]』の主演女優を探していた[[マービン・ルロイ]]監督へ主演候補として推薦されたが、結局は[[デボラ・カー]]が主演女優となった。


=== 幼少時代と第二次世界大戦期の少女時代 ===
ハリウッド大作への主演は逃すも『[[初恋 (1952年の映画)|初恋]]』で、主役の妹でバレリーナの役柄を演じている。『モンテカルロへ行こう』の撮影のために訪れた[[コート・ダジュール|リヴィエラ]]([[フランス]])において、同地に滞在していた女流作家の[[シドニー=ガブリエル・コレット]]に見出され、彼女の[[ブロードウェイ (ニューヨーク)|ブロードウェイ]]上演舞台作品である『ジジ(原題''[[:en:Gigi (1951 play)|Gigi]]'')』の主役・ジジ役に大抜擢。ジジ役を探していたコレットが、オードリーを初めて見た際に、「私のジジを見つけたわ!」と言った有名なエピソードがある。<ref>バリー・パリス著 『オードリー・ヘップバーン物語〈上〉』(ISBN 4-08-760390-3)による。</ref>しかし、それまでの舞台で踊った事はあっても、あまり演技経験がないオードリーは、コレットからのブロードウェイでの主演舞台への出演オファーに後込みする。そんなオードリーにコレットは「踊り子は忍耐強いから大丈夫、あなたならできる」と彼女を説得し、イギリスの無名女優をブロードウェイ上演舞台の主役に起用しようとする事への不安を抱くアメリカの興行主をも説得する。
ヘプバーンの両親は1930年代に[[イギリスファシスト連合]]に参加し{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=39-41}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=30-34}}、父ジョゼフは過激な[[ナチズム]]の信奉者となり、1935年5月に家庭を捨てて出て行った{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=30-34}}。1939年6月、正式に離婚が成立している<ref>{{cite web|url=http://www.thepeerage.com/p47215.htm#i472145|title=Ella barones van Heemstra|publisher=The Peerage|accessdate=31 January 2020}}</ref>。ジョゼフはイギリスに渡り、戦争が始まると逮捕され[[マン島]]で過ごした{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=59-60,99}}。その後1960年代になってから、当時の夫[[メル・ファーラー]]の尽力でヘプバーンは[[赤十字社]]の活動を通じて父ジョゼフと[[ダブリン]]で再会することができた{{Sfn|竹書房|2004|pp=7-9}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=336-337}}<ref group="注釈">ヘプバーンの次男ルカ・ドッティ、及びアレグザンダー・ウォーカーの伝記では1959年、となっている。</ref>。その後もスイスの自宅で会っている{{Sfn|竹書房|2004|pp=7-9}}。ヘプバーンはジョゼフが死去するまで連絡を保ち、経済的な援助を続けている{{Sfn|竹書房|2004|pp=7-9}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=336-337}}<ref>Klein, Edward. (5 March 1989). [https://web.archive.org/web/20080308082422/http://audreyhepburnlibrary.com/80s/images/parade5-5-89pg2.jpg "You Can't Love Without the Fear of Losing"]. ''[[:en:Parade (magazine)|Parade]]''.</ref>。ジョゼフは愛情を表現できない人物であったが、1980年、ジョゼフが危篤状態になったとき、再度ダブリンを訪れたヘプバーンには話さなかったものの、同行した{{仮リンク|ロバート・ウォルダーズ|en|Robert Wolders}}に娘オードリーのことを大事に思っている、父親らしいことをしなかったことを後悔している、そして娘を誇りに思っていると伝えた{{Sfn|竹書房|2004|pp=9-10}}。


ジョゼフが家庭を捨てた後、1935年にエラは子供たちと故郷のアーネムへと戻った{{Sfn|ウォーカー|2003|p=37}}。このときエラの最初の夫との間の息子たちは、母エラと暮らしていたが、[[デン・ハーグ]]にいる父親のもとで過ごすことも多かった{{Sfn|ウォーカー|2003|p=37}}。1937年に幼いヘプバーンはイギリスの[[ケント (イングランド)|ケント]]へと移住した{{Sfn|ウォーカー|2003|p=38}}。ヘプバーンは<!--[[エラム]]-->イーラム ([[:en:Elham, Kent|Elham]]) 村の小さな私立女学校に入学し、バレエにも通い始めた{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=38-41}}<ref>
この頃、既に巨匠ウィリアム・ワイラー監督で映画化がきまっていた『[[ローマの休日]]』の主演女優探しも難航していた。候補として名前が挙がっていたのは[[エリザベス・テイラー]]や[[ジーン・シモンズ (女優)|ジーン・シモンズ]]であったが、彼女たちはそれぞれ所属する映画会社との専属契約があった。そんな中、オードリーはワイラー監督が考えていた「アメリカ訛りでない英語を話し、気品溢れる女優」としてアン王女役のスクリーンテストに合格。[[パラマウント映画]]と専属契約を結んだ。『[[ローマの休日]]』ではアカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞している。
{{cite web
|url=http://www.elham.co.uk/Famous_People.htm
|title=Famous and Notable People 'In and Around' the Elham Valley
|publisher=www.elham.co.uk
|accessdate=4 September 2009
}}</ref>。[[第二次世界大戦]]が勃発する直前の1939年に、母エラは再度アーネムへの帰郷を決めた{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=43-45}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=41-42}}。オランダは[[第一次世界大戦]]では中立国であり、再び起ころうとしていた世界大戦でも中立を保ち、ドイツからの侵略を免れることができると思われていたためである{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=43-45}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=42-43}}。ヘプバーンは公立学校に編入し、1941年からはアーネム音楽院に通いウィニャ・マローヴァのもとでバレエを学んだ{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=46,48}}。1940年にドイツが[[オランダにおける戦い (1940年)|オランダに侵攻]]し、ドイツ占領下のオランダでは、オードリーの「イギリス風の響きを持つ」名は危険だと母エラは考え、ヘプバーンはエッダ・ファン・ヘームストラと偽名を名乗るった{{Sfn|竹書房|2004|pp=まえがきxiv-xv}}。1942年に、母エラの姉ミーシェと結婚していたヘプバーンお気に入りの貴族の伯父オットー・ファン・リンブルク=シュティルムが、反ドイツの[[レジスタンス運動]]に関係したとして処刑された{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=62-63}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|pp=31-32}}。ヘプバーンの異父兄イアンは国外追放を受けてベルリンの強制労働収容所に収監されており、もう一人の異父兄アレクサンデルも弟イアンと同様に強制労働収容所に送られるところだったが、捕まる前に身を隠している{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=63,84}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=41}}<ref>
{{cite news
|title=Audrey Hepburn: an iconic problem
|url=https://www.theguardian.com/film/2011/jan/20/audrey-hepburn-breakfast-at-tiffanys
|first=Alex
|last=Cox
|date=20 January 2011
|work=The Guardian
|location=UK
}}</ref>。オットーが処刑された後に、エラ、ヘプバーン母娘と夫を亡くしたミーシェは、ヘプバーンの祖父アールノート・ファン・ヘームストラとともに、[[ヘルダーラント州|ヘルダーラント]]のフェルプ近郊へと身を寄せた{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=63-64}}。後にヘプバーンは回顧インタビューで「駅で貨車に詰め込まれて輸送されるユダヤ人たちを何度も目にしました。とくにはっきりと覚えているのが一人の少年です。青白い顔色と透き通るような金髪で、両親と共に駅のプラットフォームに立ち尽くしていました。そして、身の丈にあわない大きすぎるコートを身につけたその少年は列車の中へと呑み込まれていきました。そのときの私は少年を見届けることしか出来ない無力な子供だったのです」と語っている{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=44-45}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=50}}<ref group="注釈">長男ショーンの書いた『母、オードリーのこと』では赤いコートを着た女の子になっている。</ref>。


1943年ごろには、ヘプバーンはオランダの反ドイツレジスタンスのために、秘密裏にバレエの公演を行って資金稼ぎに協力していた{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=67-68}}。ヘプバーンはこのときのことを「私の踊りが終わるまで物音ひとつ立てることのない最高の観客でした」と振り返っている{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=67-68}}。連合国軍が[[ノルマンディー上陸作戦|ノルマンディーに上陸]]しても一家の生活状況は好転せず、アーネムは連合国軍による[[マーケット・ガーデン作戦]]の砲撃にさらされ続けた。当時のオランダの食料、燃料不足は深刻なものとなっていた。1944年にオランダ大飢饉が発生したときも、ドイツ占領下のオランダで起こった鉄道破壊などのレジスタンスによる妨害工作の報復として、物資の補給路はドイツ軍によって断たれたままだった。飢えと寒さによる死者が続出し、ヘプバーンたちはチューリップの球根を食べて飢えをしのぐ有様だった{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=79-81}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=47}}<ref name="nytimesobit">
===「オンディーヌ」と「麗しのサブリナ」===
{{cite news
[[Image:Audrey Hepburn and Gregory Peck on Vespa in Roman Holiday trailer.jpg|thumb|220px| 『ローマの休日』(1953)[[グレゴリー・ペック]]と]]
|last=James
[[画像:CaryGrantCharade.jpg|thumb|220px| 『シャレード』(1963)[[ケーリー・グラント]]と]]
|first=Caryn
オードリーは舞台女優として、既にニューヨークのフルトン劇場で主演舞台「ジジ」の本公演を行い、新聞の劇評欄で絶賛されていた。彼女は次の主演舞台『[[オンディーヌ]]』への出演を熱望する。パラマウント映画側は反対するも、舞台が成功したら映画化する事を条件にオードリーの舞台出演を認める。オードリーは舞台作品『オンディーヌ』において[[トニー賞]]の主演女優賞を受賞し、舞台女優としても大成功を収めることとなる。
|year=1993
|url=https://archive.nytimes.com/www.nytimes.com/specials/magazine4/articles/hepburn1.html
|title=Audrey Hepburn, Actress, Is Dead at 63
|work=New York Times
|accessdate=26 November 2006
|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070118162914/http://www.nytimes.com/specials/magazine4/articles/hepburn1.html
|archivedate= 18 January 2007
}}</ref>。当時のヘプバーンは何もすることがなければ絵を描いていたことがあり、少女時代のヘプバーンの絵が今も残されている{{Sfn|竹書房|2004|pp=20-24}}{{Sfn|シーボルト・ブックス|2004|p=25}}。大戦中にヘプバーンは栄養失調に苦しみ、戦況が好転しオランダが解放された時には[[貧血]]、[[気管支喘息|喘息]]、[[黄疸]]、[[水腫]]にかかっていた{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=83}}。ヘプバーンの回復を助けたのは、ユニセフの前身の[[連合国救済復興機関]](UNRRA)から届いた食料と医薬品だった{{Sfn|ウォーカー|2003|p=56}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=82-83}}。ヘプバーンは後年に受けたインタビューの中で、このときに配給された物資から、砂糖を入れすぎたオートミールとコンデンスミルクを一度に平らげたおかげで激しく吐いてしまい、もう体が食べ物を受け付けなくなったと振り返っている{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=82-83}}。そして、ヘプバーンが少女時代に受けたこれらの戦争体験が、後年のユニセフへの献身につながったといえる<ref name="nytimesobit" />。


== 女優業 ==
一方、映画女優としては主演映画の2作目となる『麗しのサブリナ』の企画が採用される。これはオードリー自身が立てた企画で、ブロードウェイで上演予定だった舞台『サブリナ・フェア』の台本を事前に読み、映画化権を買うようパラマウント映画に働きかけたものであった。
=== キャリア初期 ===
1945年の第二次世界大戦終結後に兄2人が帰ってきて独立すると、10月に母エラとオードリーは[[アムステルダム]]へと移住した{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=86}}。アムステルダムでヘプバーンは3年にわたってソニア・ガスケルにバレエを学び、オランダでも有数のバレリーナとなっていった<ref>
{{cite web
|url=http://audreyhepburn.com/|title=Welcome to Audrey Hepburn.com
|publisher=Audreyhepburn.com
|accessdate=10 March 2010
|archiveurl= https://web.archive.org/web/20100323170817/http://www.audreyhepburn.com/
|archivedate= 23 March 2010 <!--DASHBot-->
|deadurl= no
}}</ref>。1948年にヘプバーンは初めて映像作品に出演している。教育用の旅行フィルム『[[オランダの七つの教訓]]』で、ヘプバーンの役どころは[[オランダ航空]]のスチュワーデスだった{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=95-96}}{{Sfn|ハイアム|1986|pp=33-34}}{{Sfn|バーミリー|1997|pp=21,68}}。オランダでのバレエの師ガスケルからの紹介で、1948年にヘプバーンは母親と共にロンドンへと渡り、イギリスのバレエ界で活躍していたユダヤ系ポーランド人の舞踊家[[マリー・ランバート]]が主宰する[[ランバート・ダンス・カンパニー|ランバート・バレエ団]]で学んだ。ヘプバーンが自身の将来の展望を尋ねたときに、ランバートはヘプバーンが優秀で、セカンド・バレリーナとしてキャリアを積める、この学校で教えていくことで生活もできる、と答えた{{Sfn|竹書房|2004|pp=34,36}}。ヘプバーンは170cmの高身長と{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|pp=46,48}}、体格や筋肉を形成する成長期に第二次世界大戦下で十分な栄養が摂れず、練習も満足にできなかったことから{{Sfn|竹書房|2004|p=37}}、ヘプバーンが[[プリマドンナ|プリマ・バレリーナ]]になることは難しいと言われている{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=104-105}}{{Sfn|ハイアム|1986|pp=39-40}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=56}}。ヘプバーンのバレリーナへの夢はこの時に潰え、演劇の世界で生きていくことを決心した{{Sfn|竹書房|2004|p=37}}<ref>
{{cite episode
|series=Larry King Live
|transcript=Audrey Hepburn's Son Remembers Her Life
|transcripturl=https://transcripts.cnn.com/show/lkl/date/2003-12-24/segment/00
|airdate=2003-12-24
|network=CNN
}}</ref>。


ヘプバーンが出演した舞台劇として、ロンドンのロンドン・ヒッポドローム劇場で上演された『ハイ・ボタン・シューズ』(1948年)、ウエスト・エンドの[[ケンブリッジ・シアター]]で上演されたセシル・ランドーの『ソース・タルタル』(1949年)と『ソース・ピカンテ』(1950年)がある。舞台に立つようになってから、ヘプバーンは自身の声質が舞台女優としては弱いことに気付き、高名な舞台俳優フェリックス・エイルマーのもとで発声の訓練を受けたことがある{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=112-113}}<ref>
[[ビリー・ワイルダー]]監督の手により映画化され、オードリーはアカデミー賞主演女優賞にノミネートされた<ref>劇中でパリ帰りのヒロインが身に纏うデコルテサブリナのドレスや、グランソワレを施したイブニング・ガウンは、当時パリモード界で注目を集めていた26歳の[[ユベール・ド・ジバンシィ]]のデザインによるものである。ジバンシィは、衣装の打合せにヘップバーンが来ると伝え聞いていた、そのため大女優[[キャサリン・ヘップバーン]]が来ると思い込んでいたという事を1993年に発売されたドキュメンタリービデオ「想い出のオードリー・ヘップバーン」のインタビュー映像中で、ジバンシィ自身が語っている{{要出典|date=2011年1月}}。以後、ジバンシィはオードリー主演映画の衣装を数多くデザインする事となる。</ref>。
{{cite book
|last=Walker
|first=Alexander
|title=Audrey, Her Real Story
|publisher=Orion
|location=London
|year=1994
|page=55
|isbn=1-85797-352-6
}}</ref>。『ソース・ピカンテ』の出演時に、イギリスの映画会社アソシエイテッド・ブリティッシュ・ピクチュア・コーポレーションの配役担当者に認められたヘプバーンは、フリーランスの女優としてイギリスの映画俳優リストに登録されたが、依然としてウエスト・エンドの舞台にも立っていた<ref name=barryparis/>。1950年に映画に出演するようになり、『[[素晴らしき遺産]]』、『[[若気のいたり]]』、『[[ラベンダー・ヒル・モブ]]』、『[[若妻物語]]』といった作品が1951年に公開された。1951年2月には{{仮リンク|ソロルド・ディキンスン|en|Thorold Dickinson}}の監督作品『[[初恋 (1952年の映画)|初恋]]』に、主人公の妹役で出演した{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=124-126}}{{Sfn|ハイアム|1986|pp=43-47}}。ヘプバーンは1952年に公開されたこの映画で優れた才能を持つバレリーナを演じており、バレエのシーンではヘプバーンが踊っている姿を見ることができる{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=126-127}}。


1951年にヘプバーンはフランス語と英語で撮影される『[[モンテカルロへ行こう]]』への出演依頼を受け、フランスの[[コート・ダジュール|リヴィエラ]]での撮影ロケに参加した。この現場に、当時自身が書いたブロードウェイ戯曲『ジジ』の主役・ジジを演じる女優を探していたフランス人女流作家[[シドニー=ガブリエル・コレット]]が訪れた。そしてコレットがヘプバーンを見て「私のジジを見つけたわ!」と言った有名なエピソードがある{{Sfn|ハイアム|1986|p=54}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=136-137}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=114-115}}{{Sfn|カーニー|1994|p=40}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=85-87}}。
=== 引退まで ===
その後も『[[戦争と平和]]』、『[[ティファニーで朝食を]]』、『[[マイ・フェア・レディ]]』等に出演。[[1954年]]に俳優の[[メル・ファーラー]]と結婚、息子ショーンが生まれる。メルはこれが三度目の結婚で、俳優から映画制作へと軸足を移していた。二人は[[1968年]]に離婚した。


『ジジ』出演決定後、同時期にパラマウントの英国の制作部長の推薦で『ローマの休日』の王女役のテストが行われることになった{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=139-140}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=118-122}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=91-94}}。ベッドで寝ているシーンを撮り、「カット」の声がかかった後に起き上がったヘプバーンだが、実はまだカメラは回っていた{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=140-141}}{{Sfn|ハイアム|1986|pp=60-61}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=118-122}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=91-94}}。そこで見せた笑顔と反応を見た監督[[ウィリアム・ワイラー]]とパラマウント本社はヘプバーンを王女役に決定した{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=140-141}}{{Sfn|ハイアム|1986|pp=60-61}}{{Sfn|カーニー|1994|p=48}}<ref group="注釈">このテストのフィルムは現存するか不明だが、1954年9月号の『スクリーン』や1993年10月5日初版発行スクリーン特別編集『ハリウッドの妖精 オードリー・ヘプバーン写真集』などで写真を見ることができる。</ref>。ヘプバーンは映画撮影の合間には舞台やテレビ出演も認める条件で[[パラマウント映画|パラマウント映画社]]と契約した{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=143}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=91-94}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=122-123}}<ref group="注釈">この契約についてバリー・パリスの伝記では2年、アレグザンダー・ウォーカーの伝記では7本、イアン・ウッドワードの伝記では短期間に2本、となっている。</ref>。
[[1969年]]に、10歳年下のイタリア人[[精神科]]医アンドレア・マリオ・ドッティと再婚し、[[1970年]]に息子ルカをもうけたが、[[1981年]]に離婚。彼女の出演歴が日本向けの「エクスラン・ヴァリーエ」(1971年)「銀座リザ」(1982年)CM出演を除いて[[1960年代]]後半から[[1970年代]]にかけて欠落しているのは、子育てに専念するため、引く手あまたの大作の出演を拒否し続けたためである{{要出典|date=2011年1月}}。ドッティとの別離後から亡くなるまで、オランダ人俳優ロバート・ウォルダーズ(女優[[マール・オベロン]]の最後の夫)と同棲した。


『ジジ』は3回の試演の後、1951年11月24日に[[ブロードウェイ]]の{{仮リンク|フルトン・シアター|en|Fulton Theatre}}で初演を迎えたが、批評は絶賛の嵐だった{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=153-157}}。劇場入り口には「『ジジ』 出演オードリー・ヘプバーン」と掲出されていたが、公演1週間後には「オードリー・ヘプバーン主演の『ジジ』」に改められた{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=129-130}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=101}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=158}}。『ジジ』の総公演回数は219回を数え、1952年5月31日に[[千秋楽]]を迎えた<ref name="gigi">{{ibdb title|id=1977|title=Gigi}}</ref>。ヘプバーンはこのジジ役で、ブロードウェイ、オフ・ブロードウェイで初舞台を踏んだ優れた舞台俳優に贈られる{{仮リンク|シアター・ワールド・アワード|en|Theatre World Award}}を受賞している<ref name="gigi" />。『ローマの休日』撮影終了後、『ジジ』は1952年10月13日のピッツバーグ公演を皮切りにアメリカ各地を巡業し、1953年5月16日のサンフランシスコ公演を最後に、ボストン、クリーヴランド、シカゴ、デトロイト、ワシントン、ロサンゼルスで上演された{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=171,174}}。
[[1989年]]の[[スティーヴン・スピルバーグ]]監督作品『[[オールウェイズ (映画)|オールウェイズ]]』を最後に女優業を引退した。


=== 晩年 ===
=== 『ローマの休日』 ===
[[ファイル:Audrey Hepburn screentest in Roman Holiday trailer.jpg|thumb|200px|『[[ローマの休日]]』の衣装のテスト時のヘプバーン(1952年)。この写真は映画の宣伝素材としても使用された。]]
1989年の引退後に、[[国際連合児童基金]](ユニセフ)の[[ユニセフ親善大使]]に就任し、当時[[内戦]]が続いていた[[ソマリア]]や[[スーダン]]を訪問している。就任の際に、オードリーは「わたしは、ユニセフが子どもにとってどんな存在なのか、はっきり証言できます。なぜって、私自身が第二次世界大戦の直後に、食べ物や医療の援助を受けた子どもの一人だったのですから」と語っている<ref>[http://www.unicef.or.jp/special/index.html 日本ユニセフ協会]</ref>。その一方で『世界の庭園(庭園紀行)』という番組のホスト役として、日本を含め7ヶ国、16の[[庭園]]を訪れる。
1952年夏に撮影が始まったアメリカ映画『[[ローマの休日]]』(公開は1953年)で、ヘプバーンは初の主役を射止めた。『ローマの休日』はイタリアのローマを舞台とした作品で、ヘプバーンは王族としての窮屈な暮らしから逃げ出し、[[グレゴリー・ペック]]が演じたアメリカ人新聞記者と恋に落ちるヨーロッパ某国の王女アンを演じた。『ローマの休日』の製作者は、当初アン王女役に[[エリザベス・テイラー]]や[[ジーン・シモンズ (女優)|ジーン・シモンズ]]を望んでいたが、どちらも出演できなかった{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=139}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=117-118}}{{Sfn|カーニー|1994|p=48}}{{Sfn|バーミリー|1997|pp=29,80-81}}。


製作当初は、主演としてグレゴリー・ペックの名前が作品タイトルの前に表示され、ヘプバーンの名前はタイトルの後に共演として載る予定だった{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=140-141}}。しかしペックは撮影が始まってすぐ<ref group="注釈">イアン・ウッドワードの伝記では撮影が始まって2・3日、となっている。p140</ref>に自分のエージェントに問い合わせ、自分と対等にするように要求{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=167-168}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=140-141}}。エージェントもスタジオも最初は渋ったが、ペックは「後で恥をかく。彼女は初めての主演でアカデミー賞を手にするぞ」と主張<ref group="注釈">この話はグレゴリー・ペック自身が語っている映像が残っている。ただし『想い出のオードリー・ヘップバーン』ではエージェントに、『ローマの休日』デジタル・ニューマスター2枚組の特典DVDの「『ローマの休日』の思い出」ではスタジオに要求したことになっている。</ref>、ヘプバーンの名前は作品タイトルが表示される前に、ペックの名前と同じ主演として表示することになった{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=140-141}}。各国のポスターなどの宣材でもペックと同等の扱いになった<ref>{{Cite book|和書|title=『オードリー・ヘップバーン 華麗なるパラマウント映画時代』|date=2006年12月26日初版|year=|publisher=東京書籍|author=トニー・ヌールマンド|pages=17-27}}</ref>。
[[1993年]][[1月20日]]、[[スイス]]・[[ローザンヌ]]近郊のトロシュナ村で[[大腸癌]]のため亡くなる。


『[[ニューヨーク・タイムズ]]』では「このイギリスの女優はスリムで妖精のようで、物思いに沈んだ美しさを持ち、反面堂々としていて、新しく見つけた単純な喜びや愛情に心から感動する無邪気さも兼ね備えている。恋の終わりに勇敢にも謝意を表した笑顔を見せるが、彼女の厳格な将来に立ち向かって気の毒なくらい寂しそうな姿が目に残る」と評されている{{Sfn|バーミリー|1997|p=86}}。ヘプバーンの人気は高まり、1953年9月に『タイム』誌、12月には『LIFE』誌とアメリカのメジャー誌の表紙を飾った<ref>{{Cite book|title=『マイ ファニーフェイス/オードリー・ヘプバーン』p17|date=2009年12月15日初版発行|year=|publisher=近代映画社}}</ref><ref>
== 評価 ==
{{cite news|title=Audrey Hepburn: Behind the sparkle of rhinestones, a diamond's glow|url=https://time.com/time/covers/0,16641,19530907,00.html|publisher=TIME|date=1953-9-7|accessdate=2009-5-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090512220104/http://www.time.com/time/covers/0,16641,19530907,00.html|archivedate=2009-5-12|deadurl=no}}</ref>。『ローマの休日』のヘプバーンは評論家からも大衆からも絶賛され、[[アカデミー主演女優賞]]のほかに、[[英国アカデミー賞 主演女優賞|英国アカデミー最優秀主演英国女優賞]]、[[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)|ゴールデングローブ主演女優賞]]をヘプバーンにもたらした。
[[2012年]]現在、[[アカデミー賞]]、[[トニー賞]]、[[エミー賞]]、[[グラミー賞]]を全て獲得した[[:en:List of persons who have won Academy, Emmy, Grammy, and Tony Awards|11名]]の中の一人である。


=== 『麗しのサブリナ』 ===
AFI([[米国映画協会]])が選出した「最も偉大な女優50選」では第3位である。また、同協会が[[2002年]]に選出した「最も愛すべきラブストーリー・映画ベスト100本」にも第4位に『ローマの休日』が、第12位に『マイ・フェア・レディ』が、第54位に『麗しのサブリナ』が、第57位に『いつも二人で』、第61位に『ティファニーで朝食を』が、それぞれ選ばれている。
[[File:Holden-Hepburn-Sabrina.jpg|thumb|[[ウィリアム・ホールデン]]と共演した『[[麗しのサブリナ]]』(1954年公開)。]]
『ローマの休日』で大成功を収めたヘプバーンは、続いて[[ビリー・ワイルダー]]監督の『[[麗しのサブリナ]]』に出演した。1953年に撮影され、1954年に公開されたこの作品は、お抱え運転手の娘で美しく成長したヘプバーン演じるサブリナが、[[ハンフリー・ボガート]]と[[ウィリアム・ホールデン]]が演じる富豪の兄弟の間で心が揺れ動く物語である。『ニューヨーク・タイムズ』紙では「彼女はその華奢な身体から限りなく豊かな感情と動作を生み出せる女性だ。彼女は昨年の王女役よりもこの役の方がはるかに光り輝いている{{Sfn|バーミリー|1997|p=92}}」と評された。ヘプバーンはこのサブリナ役でアカデミー主演女優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞最優秀主演英国女優賞を受賞した。


『麗しのサブリナ』が公開された1954年には、ブロードウェイの舞台作品『オンディーヌ』で[[メル・ファーラー]]と共演した。ヘプバーンはそのしなやかな痩身を活かして水の精オンディーヌを演じ、ファーラー演じる人間の騎士ハンスとの恋愛悲劇を繰り広げた。この作品について『ニューヨーク・タイムズ』は彼女には「魔力」があり、「熱狂するほど美しい」と評した{{Sfn|バーミリー|1997|p=33}}。
[[日経リサーチ]]が[[2004年]][[12月27日]]に発表した「タレント・キャラクターイメージ調査」において、好意度ランキングで第1位に選ばれた<ref>「タレント・キャラクター消費者の好意度 麗しのオードリー不滅 イメージネット調査」『[[日経MJ|日経流通新聞MJ]]』2004年12月27日付、2面</ref>。


そしてヘプバーンは『オンディーヌ』で1954年の[[トニー賞 演劇主演女優賞]]を受賞した。同じ年には前年の『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得しており、ヘプバーンは[[シャーリー・ブース]]に次いで2番目のトニー賞とアカデミー賞のダブル同年受賞者になった{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=323}}。(その後、1974年に[[エレン・バースティン]]も受賞して3人になった{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=323}}。2013年現在)。『オンディーヌ』で共演したヘプバーンとファーラーは、1954年9月25日にスイスで結婚式を挙げ<ref name=":0">『スクリーン』近代映画社、1954年12月号。再録『スクリーン復刻特別編集 オードリー・ヘプバーン「ローマの休日」〜「戦争と平和」』p36−37.2014年10月5日.</ref><ref name=":17">{{Cite book|和書|title=オードリー・ヘップバーン物語|date=1954年11月20日発行|year=|publisher=東京タイムズ|editor=泉 三樹夫|pages=123,126}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=スクリーン臨時増刊 オードリー・ヘプバーン特別号|date=1963年5月15日発行|year=|publisher=近代映画社|pages=66-67}}</ref>{{Sfn|カタログ オードリー・ヘプバーン|1977|p=202}}<ref name=":0" group="注釈">結婚した日には24日説と25日説がある。24日説の本が長男ショーン、バリー・パリス、ジェリー・バーミリー、『the audrey hepburn treasures』<nowiki>''。''</nowiki>25日説の本がチャールズ・ハイアム、イアン・ウッドワード、アレグザンダー・ウォーカー、ロビン・カーニー、ショーンも関わった『timeless audrey』、『オードリー・ヘプバーン:私のスタイル』など。1954年『スクリーン』12月号(10月発売)にそのことの詳細が書かれており、24日にルツェルン湖畔のブオクスで町長に執り行ってもらったもので、出席者はヘプバーンとファーラー以外には2名だけ。25日に正式にビュルゲンシュトックで親族が呼ばれて結婚式が挙げられている。</ref>、二人の結婚は14年間続いた。
[[2006年]][[9月23日]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列で放映された「日本人が選ぶ100人の美女」の第2位に選ばれた。


ヘプバーンは1955年にはゴールデングローブ賞の「世界でもっとも好かれた女優賞」を受賞し<ref>
このような高い人気に着目した日本の[[三井住友銀行]]が、[[インターネット]]を利用した銀行サービスや女性顧客向けの総合口座サービスの[[コマーシャルメッセージ|CM]]キャラクターにヘプバーンを起用している。CMは、ヘプバーンが出演した映画から有名な場面を抜き出し、宣伝する商品に合うような日本語の[[台詞]]を吹き込む形式を取っている。
{{cite web
なお、この時に[[吹き替え|吹替]]を担当した[[声優]]が[[池田昌子]]である。
|url=http://www.goldenglobes.org/browse/member/28367
|title=Hepburn's Golden Globe nominations and awards
|publisher=Goldenglobes.org
|date=2010-1-14
|accessdate=2010-3-10
|archiveurl= https://web.archive.org/web/20100408051329/http://www.goldenglobes.org/browse/member/28367
|archivedate=2010-4-8
|deadurl= no}}</ref>、ファッション界にも大きな影響力を持つようになった。


===『パリの恋人』と『昼下りの情事』===
[[2007年]][[11月3日]]放送の『[[SmaSTATION!!|スマステ]]』での特別企画「大人が選ぶ映画のヒロインベスト30」で彼女が演じた『ローマの休日』のアン王女が1位に選ばれた。
[[ファイル:Audrey Hepburn War&Peace.jpg|thumb|right|『[[戦争と平和 (1956年の映画)|戦争と平和]]』のヘプバーン。1956年公開。]]
ヘプバーンはハリウッドでもっとも集客力のある女優のひとりとなり、10年間にわたって話題作、人気作に出演するスター女優であり続けた。[[ヘンリー・フォンダ]]、夫メル・ファーラーらと共演した、ロシアの文豪[[レフ・トルストイ]]の作品を原作とした1955年撮影の3時間28分の超大作『[[戦争と平和 (1956年の映画)|戦争と平和]]』(公開は1956年)のナターシャ・ロストワ役で、英国アカデミー賞とゴールデングローブ賞にノミネートされている。


1956年にはバレエで鍛えた踊りの能力を活かした最初のミュージカル映画『[[パリの恋人]]』に出演した。ヘプバーンはパリ旅行に誘い出された本屋の店員ジョー役で、[[フレッド・アステア]]演じるファッション・カメラマンに見出されて美しいモデルになっていく物語である。
[[2010年]]、[[アメリカ]]の通信販売大手[[QVC]]による「[[20世紀]]最高の美女」を決める[[アンケート]]調査(女性2000人を対象に実施)において、1位に選ばれた<ref>[http://news.sky.com/skynews/Home/Showbiz-News/Audrey-Hepburn-Tops-List-Of-20th-Centurys-Most-Beautiful-Women-QVC-Poll-Finds/Article/201006415657271 Actress Tops Poll Of 20th Century Beauties]</ref>。

=== 主な受賞 ===
この年には『[[昼下りの情事]]』にも出演しており、[[ゲイリー・クーパー]]や[[モーリス・シュヴァリエ]]と共演した。こちらはゴールデン・ローレル賞の最優秀女性コメディ演技賞を受賞し、ゴールデングローブ賞にもノミネートされている{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=184}}。どちらも1957年に公開された。
{| class="wikitable" style="text-align:center"

|- style="text-align:center;"
1957年にはヘプバーンは映画出演を一切しておらず、唯一2月にテレビ映画『[[マイヤーリング]]』にのみ夫メル・ファーラーと共に出演している{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=217-218}}。
! colspan=4 style="background:#B0C4DE;" |[[アカデミー賞]]

|- style="text-align:center;"
ヘプバーンは、1957年に[[アンネ・フランク]]の『[[アンネの日記]]』を題材とした[[アンネの日記 (1959年の映画)|映画作品]]への出演依頼を受けた{{Sfn|竹書房|2004|p=103}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=285-286}}{{Sfn|シーボルト・ブックス|2004|p=97}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=217}}。監督の[[ジョージ・スティーヴンス]]の頼みでアンネの父、[[オットー・フランク]]が出演を説得するためにオードリーに会いに来たが{{Sfn|竹書房|2004|p=103}}{{Sfn|シーボルト・ブックス|2004|p=97}}、アンネと同年の生まれであるヘプバーンはアンネ役を引き受けることが「戦時中の記憶に戻るのが辛すぎる」{{Sfn|竹書房|2004|p=103}}さらに「アンネの一生と死を出演料や名誉で自分の利益とするために利用する気になれない」として断っている{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=285-286}}。最終的に映画のアンネ役は[[ミリー・パーキンス]]が演じた{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=285-286}}。
! style="background:#ccc;"|

! style="background:#ccc;"| 年度
===『尼僧物語』===
! style="background:#ccc;"| 部門
[[File:Hepburn-Perkins-1959.JPG|thumb|『[[緑の館 (映画)|緑の館]]』のヘプバーンと[[アンソニー・パーキンス]]。1959年公開。]]
! style="background:#ccc;"| 対象作品
1958年に入ると[[ピーター・フィンチ]]と共演した『[[尼僧物語]]』に出演する(公開は1959年)。この映画では心の葛藤に悩む修道女ルークを演じた。ヘプバーンは撮影前のキャラクターの準備のために、実際に修道院で数日過ごした<ref>{{Cite book|title=『フレッド・ジンネマン自伝』p246|date=1993年10月23日初版|year=|publisher=キネマ旬報社|author=フレッド・ジンネマン}}</ref>。『バラエティ』誌は「彼女としては最高の演技を見せてくれた」と評し、『フィルムズ・イン・レビュー』誌はヘプバーンの演技が「映画界でも最も優れた演技である」と評した{{Sfn|バーミリー|1997|p=137}}。公開されるとワーナー・ブラザーズ映画史上最大のヒットとなった{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=98}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=228-229}}。ヘプバーンはこのルーク役で3度目となるアカデミー主演女優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞を獲得した。他にゴールデングローブ賞にもノミネートされている。

ヘプバーンは『尼僧物語』に続いて同じく1958年に『[[緑の館 (映画)|緑の館]]』に出演した(公開は1959年)。この作品でヘプバーンは、[[アンソニー・パーキンス]]演じるベネズエラ人アベルと恋に落ちる、密林で暮らす妖精のような少女リーマを演じた。監督は当時ヘプバーンの夫であった[[メル・ファーラー]]だった。

1959年にはヘプバーンが出演した唯一の[[西部劇]]『[[許されざる者 (1960年の映画)|許されざる者]]』(公開は1960年)でレイチェル役を演じた。レイチェルは[[バート・ランカスター]]や[[リリアン・ギッシュ]]が演じる家族に育てられたカイオワ族の娘で、取り戻しに来たカイオワ族と育ての家族の間で苦悩する役である。

=== 『ティファニーで朝食を』===
[[ファイル:Audrey Hepburn in Breakfast at Tiffany's.jpg|thumb|『[[ティファニーで朝食を (映画)|ティファニーで朝食を]]』のオープニング・シーン。ヘプバーンが着用している黒のドレスは[[ジバンシィ|ユベール・ド・ジバンシィ]]がデザインしたものである。]]
ファーラーとの間の長男ショーンが生まれた3か月後の1960年10月に、ヘプバーンは[[ブレイク・エドワーズ]]の監督作品『[[ティファニーで朝食を (映画)|ティファニーで朝食を]]』に出演した(公開は1961年)。この映画はアメリカ人小説家[[トルーマン・カポーティ]]の同名の小説を原作としているが、原作からは大きく内容が変更されて映画化されている。カポーティは失望し、主役の気まぐれな娼婦ホリー・ゴライトリーを演じたヘプバーンのことも「ひどいミスキャストだ」と公言した<ref>E.A. Hanks. [https://www.vanityfair.com/culture/2010/06/holly-golightly-is-a-call-girl-and-other-revelations-about-breakfast-at-tiffanys], ''Vanity Fair'', 2010-6-22</ref>{{Sfn|ワッソン|2011|pp=247-249}}。これは、カポーティがホリー役には[[マリリン・モンロー]]が適役だと考えていたためだった<ref name=DMBAT>
{{cite news
|url=https://www.dailymail.co.uk/tvshowbiz/article-1326830/Breakfast-At-Tiffany-s-Clashing-egos-nearly-killed-best-loved-films.html
|location=London
|work=Daily Mail
|first=Corinna
|last=Honan
|title=Tantrums at Tiffany's: How a viper's nest of clashing egos nearly killed off one of the best-loved films ever made
|date=14 November 2010}}</ref>。ヘプバーンは撮影前には「この役に必要なのはとても外交的な性格だけど、私は内向的な人間だから」と自分のエージェントに不安を語っている{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=349}}{{Sfn|フォンタナ&ファーラー|2011|p=72}}。

映画のヘプバーンは高く評価されて1961年度のアカデミー主演女優賞とゴールデングローブ賞にノミネートされた。このホリー・ゴライトリーはヘプバーンを代表する役と言われることも多く<ref name=BBCSA>
{{cite news
|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/3667517.stm
|work=BBC News
|title=Audrey Hepburn: Style icon
| date=2004-5-4
}}</ref>、清純派であったヘプバーンが清純でないホリーを演じて以来、映画の中の女性像が変わったと言われている{{Sfn|ワッソン|2011|pp=10-14}}。『ティファニーで朝食を』の冒頭シーンで、[[オードリー・ヘプバーンの黒いジバンシィドレス|ヘプバーンが身にまとっているジバンシィがデザインしたリトルブラックドレス]](シンプルな黒のカクテルドレス) は、20世紀のファッション史を代表する[[リトルブラックドレス]]であるだけでなく、おそらく史上最も有名なドレスだと言われている<ref name="Glam">
{{cite web
|url=https://www.glamour.com/gallery/famous-dresses#slide=3
|title=The Most Famous Dresses Ever
|publisher=Glamour.com
|date=2007-4
|accessdate=2011-5-16
}}</ref><ref name="HM">
{{cite web
|url=https://www.hellomagazine.com/celebrities/2006/12/06/audrey-hepburn-dress/
|title=Audrey Hepburn dress
|work=Hello Magazine
|date=2006-12-6
|accessdate=2013-4-6
}}</ref><ref name="Independent">
{{
cite news
|url=https://www.independent.co.uk/life-style/fashion/news/audrey-hepburn-s-little-black-dress-tops-fashion-list-1984507.html
|title=Audrey Hepburn's little black dress tops fashion list
|work=The Independent
|location=UK
|date=2010-5-17 May 2010
|accessdate=2011-5-16
}}</ref><ref name="Steele2010">
{{cite book
|last=Steele
|first=Valerie
|title=The Berg Companion to Fashion
|url=https://books.google.co.jp/books?id=Hemsvn9ZbRkC&pg=PA483&redir_esc=y
|accessdate=2011-5-16 May 2011
|date=2010-11-9
|publisher=Berg Publishers
|isbn=978-1-84788-592-0
|page=483
}}</ref>。

[[ファイル:Childrens Hour trailer.jpg|thumb|『[[噂の二人]]』(1961年)の予告編の[[シャーリー・マクレーン]]とヘプバーン。]]
ヘプバーンは1961年のウィリアム・ワイラー監督作品『[[噂の二人]]』で、[[シャーリー・マクレーン]]、[[ジェームズ・ガーナー]]と共演した。『噂の二人』は[[レズビアン]]をテーマとした作品で、ヘプバーンとマクレーンが演じる女教師が、学校の生徒に二人がレズビアンの関係にあると噂を流されてトラブルとなっていく物語だった。アメリカ映画協会が規則を改正し、レズビアンを取り上げた作品としてはハリウッドで最初の映画である{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=356-357}}<ref name=BBCSA/>。当時の保守的な社会的背景のためか、映画評論家はあら探しをするばかりであったが{{Sfn|バーミリー|1997|p=156}}、『バラエティ』誌はヘプバーンの「柔らかな感性、深い心理描写と控えめな感情表現が見られる」と高く評価し、さらにヘプバーンとマクレーンを「互いを引き立てあう素晴らしい相手役」だと賞賛した{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=112}}。アカデミー賞にも5部門でノミネートされている{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=359}}。

=== 『シャレード』 ===
[[ファイル:Audrey Hepburn and Cary Grant 1.jpg|thumb|[[ケーリー・グラント]]と共演した『[[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]』(1963年公開)。]]

ヘプバーンは1962年に2本の映画を撮影した。1つ目は『[[パリで一緒に]]』で、『麗しのサブリナ』で共演したウィリアム・ホールデンと、9年ぶりにコンビを組んだ。パリで撮影されたこの作品は2年後の1964年に公開された。ヘプバーンの演技は「大げさに誇張された話のなかで、一服の清涼剤だった」と言われている<ref name="vari">
{{cite news|title=Paris When It Sizzles|url=https://variety.com/review/VE1117793876.html|work=Variety|date=1964-1-1|accessdate=2009-5-28 May}}</ref>。

後年のヘプバーンの伝記では、ホールデンがアルコール依存症になっていたことなどで撮影現場の雰囲気や状況が悪化し、撮影日数が遅れたと書かれている{{Sfn|ハイアム|1986|pp=206-208,210}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=365-366}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=247-248}}{{Sfn|カーニー|1994|pp=127-128}}。しかし、撮影中に実際に現場にいて宣伝写真を撮っていたボブ・ウィロビーによると、監督、ホールデン、ヘプバーンが「この撮影を通して人生をエンジョイしていた」「このときのオードリーは最高の輝きを見せていた」と逆のことを述べている<ref>{{Cite book|和書|title=『オードリー・ヘプバーン』|date=1993年12月30日初版発行|year=|publisher=朝日新聞社|author=ボブ・ウィロビー|page=79}}</ref>。ヘプバーン自身も息子ショーンに「パリで一緒に」の撮影はとても楽しかったと語っており、「映画を製作するときの体験とその出来栄えは関係ない」と述べている{{Sfn|竹書房|2004|p=165}}。

ヘプバーンは続いて『[[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]』で[[ケーリー・グラント]]と共演した。ヘプバーンは、亡き夫が盗んだとされる金塊を求める複数の男たちに付け狙われる未亡人レジーナ・ランパートを演じている。かつてヘプバーンが主演した『麗しのサブリナ』と『昼下りの情事』の相手役にも目されていたグラントは撮影当時58歳で、年齢差がある当時33歳のヘプバーンを相手に恋愛劇を演じることに抵抗を感じていた。このようなグラントの意を汲んだ製作側は、ヘプバーンの方からグラントに心惹かれていく脚本に変更している{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=373}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=265-266}}<ref>
{{Cite book
|last=Eastman
|first=John
|title=Retakes: Behind the Scenes of 500 Classic Movies
|publisher=Ballantine Books
|year=1989
|pages=57–58
|isbn=0-345-35399-4
}}</ref>。グラントはヘプバーン個人に対しては好印象を持っており、「クリスマスに欲しいものは、ヘプバーンと共演できる新しい作品だ」と語った{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=117}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=266}}。1963年に公開された時にヘプバーンはこの役で、三回目の英国アカデミー最優秀主演英国女優賞を獲得し、ゴールデングローブ賞にもノミネートされた。

=== 『マイ・フェア・レディ』 ===
[[ファイル:Harry Stradling-Audrey Hepburn in My Fair Lady.jpg|thumb|200px|『[[マイ・フェア・レディ (映画)|マイ・フェア・レディ]]』(1964年公開)の撮影現場。左は撮影監督の[[ハリー・ストラドリング]]。]]
1964年のミュージカル映画『[[マイ・フェア・レディ (映画)|マイ・フェア・レディ]]』(撮影は1963年)は、ジーン・リングゴールドが「『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』以来、これほど世界を熱狂させた映画はない」と1964年の『サウンドステージ』誌で絶賛した<ref name="soundstage">Ringgold, Gene. My Fair Lady – the finest of them all!, ''Soundstage'', December 1964</ref>。ジョージ・キューカーが監督したこの作品は、同名の舞台ミュージカル『[[マイ・フェア・レディ]]』の映画化である。舞台で[[イライザ・ドゥーリトル]]を演じていたのは[[ジュリー・アンドリュース]]だったが、製作の[[ジャック・L・ワーナー]]がアンドリュースにスクリーン・テストを持ちかけたところ、アンドリュースは「スクリーン・テストですって?私があの役を立派にやれることを知っているはずよ」と拒否{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=26}}。ワーナーは「映画未経験の君のスクリーン写りを確かめる必要がある」と言ったが、アンドリュースはテストを断った{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=26}}。ジャック・L・ワーナーはワーナー映画史上最大の制作費1700万ドルを回収するために実績のあるヘプバーンを考えることとなった{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=24-25,27}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=271-272}}。イライザ役を持ちかけられたヘプバーンは、アンドリュースがイライザ役を自分のものにしているとして一旦断った{{Sfn|バーミリー|1997|p=177}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|pp=117,120}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=26}}。しかしジャック・L・ワーナーはアンドリュースに演じさせるつもりは無く、次はエリザベス・テイラー<ref group="注釈">エリザベス・テイラーは乗り気で、バリー・パリスの伝記では、「『マイ・フェア・レディ』の役を取ってきて」と当時の夫エディー・フィッシャーやエージェントに言っていたとなっている。イアン・ウッドワードの伝記ではヘプバーンに決定後も「『マイ・フェア・レディ』を私にやらせて」と何度もエディー・フィッシャーに言っていた、となっている。</ref>に役を回すとわかり、最終的にイライザ役を引き受けた{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=26-27}}{{Sfn|バーミリー|1997|p=177}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|pp=117,120}}。

ヘプバーンは以前出演したミュージカル映画『パリの恋人』で歌った経験があり、さらに『マイ・フェア・レディ』出演に備えて撮影3か月前の1963年5月{{Sfn|ハイアム|1986|p=219}}から、撮影に入った後も毎日発声練習をこなしていた{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=32-33,36-40}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=274}}{{Sfn|ハイアム|1986|pp=219,222-225}}。ヘプバーンが歌う場面は[[マーニ・ニクソン]]によってある程度吹き換えられると聞いていたが、どの程度使われるのかはヘプバーンにもマーニ・ニクソンにも知らされていなかった{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=36}}。そのためヘプバーンはニクソンと一緒に録音スタジオに入り、歌い方のアドバイスも求めていた{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=36}}。撮影のかなり後半のインタビューでも「歌は私も全部録音しましたが、別にマーニ・ニクソンも吹き込んであるのです。どちらを使うかは会社が決めるでしょう」と答えている<ref>{{Cite book|title=『映画の友』p250|date=1964年2月号(1963年12月発売)|year=|publisher=株式会社映画の友}}</ref>。しかし結局大部分の歌を吹き替えると知らされたヘプバーンは深く傷つき、「おお!」と一言だけ言ってセットから立ち去った{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=40}}。翌日になって戻ってきたヘプバーンはわがままな行動を全員に謝罪している{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=40}}{{Sfn|ハイアム|1986|p=225}}。そして吹き替えも使うが、ヘプバーンの歌はできるだけ残すと約束したが関わらず、最終的にはヘプバーンの歌が残っていたのは10パーセントほどだった{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=52}}。ヘプバーンの歌声が残されているのは「踊り明かそう」の一節、「今に見てろ」の前半と後半、「スペインの雨」での台詞と歌の掛け合い部分、「今に見てろ」のリプライズ全部である。

映画のプレミアの前からヘプバーンの声が吹き替えであるとことが外部に漏れたが、多くの評論家は『マイ・フェア・レディ』でのヘプバーンの演技を「最高」だと賞賛した<ref name="telegraphob">
{{cite news|url=https://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/5894883/Audrey-Hepburn.html|location=London|work=The Daily Telegraph|title=Audrey Hepburn|date=1993-1-22}}</ref>。ボズリー・クロウザーは『ニューヨーク・タイムズ』紙で「『マイ・フェア・レディ』で最も素晴らしいことは、オードリー・ヘプバーンを主演にするジャック・L・ワーナーの決断が正しかったことを、ヘプバーン自身が最高のかたちで証明して見せたことだ」と評した<ref name="bcmyfairlady">
{{cite news|url=https://www.nytimes.com/1964/10/22/archives/screen-lots-of-chocolates-for-miss-eliza-doolittlemy-fair-lady-bows.html|work=The New York Times|first=Bosley|last=Crowther|title=Screen: Lots of Chocolates for Miss Eliza Doolittle:'My Fair Lady' Bows at the Criterion|date=1964-10-22}}</ref>。『サウンドステージ』誌のジーン・リングゴールドも「オードリー・ヘプバーンはすばらしい。彼女こそ現在のイライザだ」「ジュリー・アンドリュースがこの映画に出演しないのであれば、オードリー・ヘプバーン以外の選択肢はありえないという意見に反対するものは誰もいないだろう」とコメントしている<ref name="soundstage" />。

ところが、ゴールデングローブ賞ではノミネートされたものの、第37回アカデミー賞のノミネートでは『マイ・フェア・レディ』はアカデミー賞に12部門でノミネートされたが、ヘプバーンは主演女優賞にノミネートすらされなかった{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=56}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=267-268}}。ヘプバーンはひどく落胆したが、ジュリー・アンドリュースにオスカーが取れるように祈ると祝辞を送っている{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=267-268}}。[[キャサリン・ヘプバーン]]はすぐオードリーに「ノミネートされなくても気にしないで。そのうち大したことのない役で候補に選ばれるから」と慰めの電報を送っている{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=56}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=268}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=281}}。[[ジュリー・アンドリュース]]や共演者[[レックス・ハリソン]]もヘプバーンはノミネートされるべきだった、ノミネートされなくて残念だと述べている{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=56}}。ノミネートされていなくても、ヘプバーンに投票しようと運動が起こっているが{{Sfn|ウッドワード|1993|p=281}}、結局その年の主演女優賞を獲得したのはミュージカル作品『[[メリー・ポピンズ]]』のジュリー・アンドリュースだった。ヘプバーンは後でアンドリュースにお祝いの花束を贈っている{{Sfn|バーミリー|1997|p=49}}。『マイ・フェア・レディ』はその年最高の8部門でアカデミー賞を受賞した{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=59-60}}{{Sfn|バーミリー|1997|p=177}}。

このような騒動はあったものの、大多数の観客はヘプバーンに満足しており、1993年にヘプバーンが亡くなった時にも『エンターテイメント・ウィークリー』誌が見出しに大きく「さようなら、フェア・レディ」と哀悼の意を表し、他にも似たような見出しが数多くみられた{{Sfn|バーミリー|1997|p=177}}。

=== 『いつも2人で』と『暗くなるまで待って』 ===
ヘプバーンは1965年撮影のコメディ映画『[[おしゃれ泥棒]]』(公開は1966年)で、有名な美術コレクターだが実は所有しているのは全て偽物である贋作者の娘で、父親の悪事が露見することを恐れる娘ニコルを演じた。ニコルは[[ピーター・オトゥール]]演じる探偵サイモン・デルモットに、相手が父親のことを調べている探偵だとは知らずに父親の悪事の隠蔽を依頼する役だった。

1967年には2本の映画が公開された。1966年に撮影された『[[いつも2人で]]』は、一組の夫婦の12年間の軌跡を、6つの時間軸を交錯させて描き出す映画である。監督の[[スタンリー・ドーネン]]は、「この作品は結婚の困難な一面を描いた作品だった。彼女の作品は恋の喜びを描いたものがほとんどだが、これはその後の試練を描いている」と語っている<ref>日本コロムビアや20世紀フォックスからDVDが発売され、BS11でも放送された『想い出のオードリー・ヘプバーン』、ドーネン監督自身の言葉。</ref>。そして撮影中のヘプバーンがそれまでになく快活で楽しそうに見えたと語り、共演した[[アルバート・フィニー]]のおかげだったと言っている{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=120}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=96}}{{Sfn|ワッソン|2011|p=262}}。多くの人々は『いつも2人で』がヘプバーンの最高の演技であるとしている{{Sfn|ハイアム|1986|p=238}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=98}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=124}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=119}}。

1967年公開のもう1本の映画が、サスペンススリラー映画『[[暗くなるまで待って (映画)|暗くなるまで待って]]』であり、ヘプバーンは脅迫を受ける盲目の女性を演じた。この『暗くなるまで待って』はヘプバーンとメル・ファーラーの別居直前に撮影された映画だった。ヘプバーンは撮影前にローザンヌの視覚障害者の訓練を専門にしている医師について勉強し{{Sfn|ハイアム|1986|p=244}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=102}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=303}}、ニューヨークでは視覚障害者福祉施設(ライトハウス)で数日から数週間目隠しをして訓練をした{{Sfn|ドッティ|2016|p=161}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=303}}{{Sfn|カーニー|1994|p=162}}。撮影中は午後四時になるとティー・ブレイクがあり、キャストやスタッフは和気藹々と撮影出来た{{Sfn|ハイアム|1986|p=251}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=104-106}}。ただしヘプバーンの体重は撮影中に15ポンドも痩せてしまった{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=106}}。監督のテレンス・ヤングは「この役はオードリーがそれまでやった中で一番大変な役だった。あまりの辛さに一日ごとに体重が減っていくのが目に見えるようだった」と述べている{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=106}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=304}}。

ヘプバーンは68年に『いつも2人で』『暗くなるまで待って』それぞれでゴールデン・グローブ賞にノミネートされ、『暗くなるまで待って』では5回目のアカデミー主演女優賞にノミネートされている。

=== 最後の映画作品 ===
1967年に、ヘプバーンはハリウッドにおける15年間にわたる輝かしい経歴に区切りをつけ、家族との暮らしに時間を費やすことを決めた。その後ヘプバーンが映画への復帰を企図したのは1975年のことで、[[ショーン・コネリー]]と共演した歴史映画『[[ロビンとマリアン]]』(公開は1976年)への出演だった。映画の評価は高く{{Sfn|ハイアム|1986|p=273}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=159}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=320}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=135}}、『ロビンとマリアン』はヘプバーンの才能にふさわしい最後の作品となったと評されている{{Sfn|カーニー|1994|p=174}}。

1979年にはサスペンス映画『[[華麗なる相続人]]』の主役エリザベス・ロフを演じた。この作品は『暗くなるまで待って』のテレンス・ヤング監督が、乗り気でないヘプバーンを説得してやっと出演が決まった{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=166}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=341}}。共演は[[ベン・ギャザラ]]、[[ジェームズ・メイソン]]、[[ロミー・シュナイダー]]らだった。『華麗なる相続人』の原作は[[シドニー・シェルダン]]の小説『[[血族]]』で、シェルダンは映画化に当たり、ヘプバーンの実年齢にあわせてエリザベス・ロフを23歳から35歳の女性に書き直している{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=169-170}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=340-341}}。大富豪の一族を巡る国際的な陰謀や人間関係をテーマとした映画だったが、評論家からは酷評され、興行的にも失敗した{{Sfn|バーミリー|1997|pp=206-207}}。

ヘプバーンが映画で最後に主役を演じたのは、[[ピーター・ボグダノヴィッチ]]が監督した1980年に撮影されたコメディ映画『[[ニューヨークの恋人たち]]』である。しかしながら、ボグダノヴィッチの交際相手でこの作品にも出演していた[[ドロシー・ストラットン]]が、撮影終了数週間後に離婚寸前だった夫に1980年8月に殺害され{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=191}}、その上、配給を予定していた[[20世紀フォックス]]が出来上がりに不満を示し、[[ピーター・ボグダノヴィッチ]]監督が自ら買い戻した{{Sfn|バーミリー|1997|p=209}}。最終的には81年に公開までこぎつけたが、それでも短期間の上映に留まってしまっている。

テレビ映画では1987年に『[[おしゃれ泥棒2]]』に最後の主演で出演した。出演を決めたのは、共演の[[ロバート・ワグナー]]がヘプバーンが欠かさず見ていた『[[探偵ハート&ハート|探偵ハート&ハート]]』の出演者であり、[[グシュタード]]の別荘の隣に住んでおり、友人であり俳優としても好きだったからである{{Sfn|ドッティ|2016|p=217}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=225-226}}。

ヘプバーンは[[スティーヴン・スピルバーグ]]監督の『[[E.T.]]』を公開時に見て感動していたので、スピルバーグから1989年の作品『[[オールウェイズ (映画)|オールウェイズ]]』の天使の役での[[カメオ出演]]の依頼の手紙が来た時は喜んで引き受けた{{Sfn|ドッティ|2016|p=12}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=172}}。そしてこれがヘプバーンの最後の出演映画となった{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|pp=172,182}}。

=== 1990年以降 ===
それ以降、ヘプバーンが携わった娯楽関連の作品はわずかしかないが、非常に高く評価されており、ヘプバーンの死後ではあるが国際的な賞を受賞しているものもある。

ヘプバーンは指揮者の[[マイケル・ティルソン・トーマス]]に請われて1990年3月19日からアメリカの5つの都市と、91年にはロンドンでユニセフのための慈善コンサートを行った{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=250-256}}{{Sfn|ドッティ|2016|p=21}}。それはヘプバーンが『[[アンネの日記]]』からの抜粋を朗読し、トーマスのオリジナルの管弦楽曲『アンネ・フランクの日記より』と合わせて全体を構成する試みだった{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=252-253}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=367-368}}{{Sfn|バーミリー|1997|p=64}}。ヘプバーンはそれまで[[アンネ・フランク]]を演じる話を全て断っていたが、「今度は、私はアンネ・フランクを演じるのではなく、読むだけなのです。今でも彼女を演じようとは思いません。それはあの戦争の恐怖の中へ自分を押し戻すことだからです」と語っている{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=251}}。ロンドンの舞台に立つのは40年ぶりのことであり、これが最後となった{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=256}}。トーマスは1995年の4月と5月に再度コンサートをやって、きちんと録音することを望んだが、それは叶わなかった{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=258}}。「彼女は意に反してアンネ・フランクになりきっていた。ヴィデオ・テープが残っていないのが残念でならない」とトーマスは語っている{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=253}}。

[[Public Broadcasting Service|PBS]]のテレビドキュメントシリーズ『[[オードリー・ヘプバーンの庭園紀行]]』は、1990年の春から夏にかけて撮影された、世界7か国の美しい庭園を紹介する紀行番組だった。本放送に先立って1991年3月に1時間のスペシャル番組が放送され、シリーズ本編の放送が開始されたのはヘプバーンが死去した翌日の1993年1月21日からだった{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=262-271,274,351}}。このテレビ番組で、ヘプバーンは死後に1993年のエミー賞の情報番組個人業績賞({{lang|en|Outstanding Individual Achievement – Informational Programming}})を受賞した{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=185}}。

1992年5月に2つの録音を行なっている。1つは[[ラロ・シフリン]]が指揮をする[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]の『[[動物の謝肉祭]]』で{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=329-330}}、ヘプバーンは「鳥」のナレーターをつとめた{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=177}}<ref group="注釈">バリー・パリスは、「マ・メール・ロワ組曲」を使った『オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語』と、『動物の謝肉祭』を同じCDだと思って書いているが、実際は別物であり、アマゾンなどではそれぞれのCDが発売されている。</ref>。もう1本の1992年に発売された子供向け昔話を朗読したアルバム『{{仮リンク|オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語|en|Audrey Hepburn's Enchanted Tales}}』では、[[グラミー賞]]の「最優秀児童向け朗読アルバム賞」を受賞した{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|pp=178,185}}。ヘプバーンはグラミー賞とエミー賞をその死後に獲得した、数少ない人物の一人となっている。

== 私生活 ==
[[ファイル:Audrey Hepburn and Mel Ferrer 1955.jpg|thumb|『戦争と平和』撮影中のヘプバーンとメル・ファーラー。1955年。]]
ヘプバーンは1949年に舞台『ソース・タルタル』で共演したフランス人の歌手、マルセル・ル・ボンに心惹かれ、初めて真剣な交際をした{{Sfn|ドッティ|2016|p=247}}{{Sfn|芳賀書店|1971|pp=102-103}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=111}}。マルセル・ル・ボンは『ソース・ピカント』の後にヘプバーンや舞台の仲間と新しいショーで巡業を計画したが頓挫、責任を感じてアメリカに逃げてしまった{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=115}}。ヘプバーンはこの新しいショーの為に、『素晴らしき遺産』では主要人物の役が割り振られていたが断っている{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=115}}。ショーの頓挫後、慌てて再度監督に会いに行ったが、既に配役が決まっており、ヘプバーンは残っていたシガレット・ガールの役を演じることになった{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=115}}。

1950年に『[[ラベンダー・ヒル・モブ]]』撮影直後にヘプバーンは男爵{{仮リンク|ジェイムズ・ハンソン|en|James Hanson, Baron Hanson}}と知り合いすぐに恋に落ち{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=119}}、1951年12月には婚約した{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=160}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=132}}。しかしながら、ウェディングドレスが出来上がり、日程も決まっていたにもかかわらず、この結婚は1952年『ローマの休日』撮影後に破談となった{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=171-174}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=111-112}}{{Sfn|オードリイ・ヘップバーン全集|1966|p=57}}。二人の仕事があまりにも異なっており、ほとんどすれ違いの結婚生活になってしまうとヘプバーンが判断したためだった<ref name=":20">{{Cite book|和書|title=映画ストーリー臨時増刊 オードリー・ヘップバーン|date=1954年10月15日発行|year=|publisher=雄鶏社|page=(この本にはノンブルが無いためページ表記不可)}}</ref>。当時のヘプバーンの言葉に「私は結婚するのなら「本当の」結婚がしたいのです」がある{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=172}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=143}}。

ヘプバーンは1952年撮影の『ローマの休日』で共演したグレゴリー・ペックとコラムニストに噂を書き立てられたが、傷つき怒ってこの噂を一蹴している{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=176}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=113-114}}。ヘプバーンは「多かれ少なかれ女優は主演男優に好意を抱くものですし、その逆の場合もあるでしょう。演じられているキャラクターを好きになった経験がある人には理解できると思います。珍しいことではありません。ただ、それは映画や舞台の上以上には進展させてはならない感情で、少なくとも私自身は今後もそれを実行していくつもりです」と語っている<ref name=":20" />。後年、ヘプバーンは『ローマの休日』出演での最大の宝物はウィリアム・ワイラーとグレゴリー・ペックとの終生の友情だと語っている{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=76}}。

1953年撮影の『麗しのサブリナ』で、ヘプバーンと既婚だったウィリアム・ホールデンは恋愛関係にあったと言われている{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=131-133}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=160-162}}。ヘプバーンはホールデンとの結婚と子供を望んだが、ホールデンは病気のため精管を切除しており子供ができないことを告げられ、これによりヘプバーンが別れを切り出したと言われている{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=198-199}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=162}} 。『麗しのサブリナ』で共演したハンフリー・ボガートがヘプバーンに辛く当たっていたと言われているが{{Sfn|ハイアム|1986|pp=87-90}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=156-157}}、息子ショーンがヘプバーンに訊いてみたところ、関係は良かったと答えている{{Sfn|竹書房|2004|p=69}}。ただ、一人の女優としては認めてないと感じていたし、ボガートがそう言っている噂も耳にしていたとも言っている{{Sfn|竹書房|2004|p=69}}。ショーンがそんなのフェアじゃないと言うと「あの方がそう思う理由があったのよ」と息子を諌めている{{Sfn|竹書房|2004|p=69}}。

[[ファイル:Audrey Hepburn and Andrea Dotti by Erling Mandelmann - 2.jpg|thumb|ヘプバーンとアンドレア・ドッティ]]
母エラが1953年7月に開いたパーティーで、ヘプバーンはグレゴリー・ペックに紹介されてアメリカ人俳優メル・ファーラーと出会った{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=178}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=119-121}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=72-73}}。ファーラーは「僕たちは劇場について話しはじめた。彼女は僕とグレゴリー・ペックが舞台を共同製作したこともある、ラ・ジョラ・プレイハウス・サマー劇場のことをとてもよく知っていた。僕が出ていた映画『リリー』は3回観たとも言っていた。別れ際に彼女は、僕と共演したいからいい作品があればぜひ声をかけて欲しいと言ってきた」と、ファーラーはこの出会いを振り返っている{{Sfn|ウッドワード|1993|p=146}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=192}}。ファーラーはヘプバーンの役を獲得するために奔走し、ブロードウェイ作品『オンディーヌ』の脚本をヘプバーンに送った{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=208-210}}。ヘプバーンはこの舞台への出演を承諾し、1954年1月1日から稽古が始まっている{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|pp=82及びその隣に封入された製作スケジュールのレプリカ}}。出会い、共演し、そして愛し合うようになった二人は、1954年9月25日にスイスの[[ビュルゲンシュトック]]で結婚した<ref name=":0" /><ref name=":17" />{{Sfn|カタログ オードリー・ヘプバーン|1977|p=202}}<ref name=":0" group="注釈" />。二人の共演が決まっていた映画『戦争と平和』の撮影準備中のことだった。

結婚後ファーラーがヘプバーンを支配下に置き、自分のキャリアのための踏み台として彼女のキャリアを利用していると噂されるようになった{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=239,251-252}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=189-192}}。「一種の主人と奴隷の関係」と記事にされた時にはヘプバーンは激怒している{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=252}}。

ファーラーとの間の唯一の子供が誕生する以前に、1955年と1959年の二度にわたってヘプバーンは流産している{{Sfn|ハイアム|1986|pp=122-123,189}}。二度目の流産は『許されざる者』の撮影中に起こった落馬事故によるもので、投げ出されたヘプバーンは背中を4箇所骨折し、結局撮影終了後に流産してしまった{{Sfn|ドッティ|2016|p=90}}{{Sfn|ハイアム|1986|pp=188-189}}。このことはヘプバーンにとって心身ともに大きな傷となった。その後間もなく妊娠したヘプバーンは、子供を無事に出産するために一年間仕事を休んでいる{{Sfn|ドッティ|2016|p=90}}。そして1960年7月17日に二人の長男ショーン・ヘプバーン・ファーラーが生まれた{{Sfn|竹書房|2004|p=「まえがき」xx}}<ref group="注釈">ほとんどのヘプバーンの伝記ではショーンの誕生日を1月17日にしており、2003年発行の『母、オードリーのこと』でショーン本人が明確に否定している。ところが2009年に原著が出ているマーティン・ギトリンの伝記(日本版は2019年株式会社クレヴィス発行)でも未だに1月17日になっている。正確に7月17日にしているのは『the audrey hepburn treasures』と『ライフ・オブ・オードリー・ヘップバーン』など、ごく一部である。</ref>。

それまでも何度かメル・ファーラーとの不仲の噂があったが、『マイ・フェア・レディ』撮影中から再び離婚説が囁かれた{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=63-65}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=279}}<ref>{{Cite book|和書|title=別冊スクリーン オードリー・ヘプバーン特集号|date=1965年1月1日発行|year=|publisher=近代映画社|pages=86-88}}</ref>{{Sfn|オードリイ・ヘップバーン全集|1966|pp=72-73}}。

その後も1965年12月にヘプバーンは妊娠したが1966年1月には流産{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=123}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=91}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=278}}、1967年7月に再び流産した{{Sfn|ウォーカー|2003|p=297}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=109}}。

1967年7月22日、スペインの別荘に行くために空港に降り立ったオードリーをメルが迎えに行ったが、それまでとは違い一切写真を撮らせず、7月31日にはオードリーはスイスへ帰って行った<ref name=":3">{{Cite book|title=『映画の友』1967年11月号(9月発売)p118-120「つくられた偶像(オードリイ)はこわされた」|date=|year=|publisher=株式会社映画の友}}</ref><ref>出典元になった『映画の友』では、この期間に別居についての最終的な話し合いを持ったのだろうと書かれている。</ref>。そしてヘプバーンとメルは1967年8月31日に別居を世界中に発表<ref group="注釈">日本の当時の雑誌『映画の友』では8月31日だが、後年のバリー・パリスの伝記『オードリー・ヘプバーン』p111では9月1日となっている。</ref>。二人の代理人は8月はじめには別居に同意していたと述べている<ref name=":3" />。最終的に二人は1968年12月に離婚し<ref group="注釈">イアン・ウッドワードの伝記では11月21日、ロビン・カーニーの『ライフ・オブ・オードリー・ヘプバーン』では11月、アレグザンダー・ウォーカーの伝記では11月20日、息子ショーンも関わっている『the audrey hepburn tresures』では12月となっている。ここでは息子の本が一番信憑性が高いと判断している。</ref>、二人の結婚は14年間で終わりを告げた。その後ファーラーは長寿を保ったが、2008年6月に心不全のために90歳で死去している。

[[ファイル:President Ronald Reagan talking with Audrey Hepburn and Robert Wolders.jpg|thumb|左から、当時のアメリカ合衆国大統領[[ロナルド・レーガン]]、ヘプバーン、オランダ人俳優ロバート・ウォルダース。1981年。]]
ヘプバーンは1965年にスイス、レマン湖地方、モルジュ近郊のトロシュナ村にある家屋「ラ・ペジブル」を購入{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=75-77}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=123}}{{Sfn|ハイアム|1986|pp=232-234}}。息子ショーンとの生活をはじめ、穏やかな生活を楽しみながら後半生を過ごした。その後、1968年6月ヘプバーンは船旅でイタリア人精神科医アンドレア・マリオ・ドッティと出会い、ギリシア遺跡を巡る旅行中にドッティに惹かれていった{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=119-122}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=130}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=128}}。当時40歳のヘプバーンと30歳のドッティは1969年1月18日に結婚し、1970年2月8日には[[帝王切開]]で男子ルカ・ドッティが生まれている{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=124,129}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=304,308}}。ルカを妊娠中のヘプバーンは日々の暮らしに非常に気を使い、「ラ・ペジブル」で数か月間、読書や庭いじりや絵を描いたりしながら過ごしていた{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=134}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=128-129}}。1974年にヘプバーンは再びドッティの子を身篭ったが流産している{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=137}}。ドッティはヘプバーンを愛し、前夫メル・ファーラーとの息子ショーンとの仲も良好だったが、若い女性と関係を持つようになった{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=125,127-129,133-134,164,174-177}}。ヘプバーンも1979年の映画『華麗なる相続人』の撮影中に、共演した[[ベン・ギャザラ]]と不倫の関係になっていた{{Sfn|ハイアム|1986|pp=276-278}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=173}}<ref>
{{cite news|url=https://www.nytimes.com/2012/02/04/movies/ben-gazzara-actor-of-stage-and-screen-dies-at-81.html?hpw|work=The New York Times|first=Neil|last=Genzlinger|title=Ben Gazzara, Actor of Stage and Screen, Dies at 81|date=2012-2-3|accessdate=2012-2-3}}</ref>。ヘプバーンとドッティは1980年夏に離婚を決意、別居した{{Sfn|ドッティ|2016|pp=112-113}}。1982年に正式に離婚し、二人の結婚は13年で終わった{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=214}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=338}}。離婚したファーラーとの接触は徹底的に避けていたヘプバーンだったが、ドッティとは息子ルカの養育のことで離婚後も連絡を取り合った{{Sfn|竹書房|2004|p=13}}。ドッティは2007年10月に消化管内視鏡検査の合併症で死去している。

ドッティとの結婚生活が終わりを迎えようとしていた時期に、友人を介してオランダ人俳優ロバート・ウォルダースと知り合い、1980年から死去するまで恋愛関係にあった{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|pp=145,148-153,182}}<ref>
{{cite news|url=https://archive.nytimes.com/www.nytimes.com/specials/magazine4/articles/hepburn1.html|work=The New York Times|title=Audrey Hepburn, Actress, Is Dead at 63}}</ref>{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=195-198,205-206,213-214-215,240-242,}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=334,336-339,376}}。ドッティとの離婚が成立するとヘプバーンとウォルダースは一緒に暮らし始めた。ウォルダースは妻[[マール・オベロン]]と死別していたが、ヘプバーンと正式に結婚することはなかった。ヘプバーンは1989年のアメリカ人ジャーナリストバーバラ・ウォルターズとのインタビューで、ウォルダースと暮らしたそれまでの9年間を人生で最良の日々と振り返っている。

1984年8月26日にスイスの自宅「ラ・ペジブル」で母エラが亡くなっている{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=213}}。ヘプバーンを厳しく育て、ヘプバーンの父ジョゼフと同じように愛情を表すのが苦手だった{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=208-212}}。『パリの恋人』で知り合って以来、脚本家のレナード・ガーシュは母エラと友達であったが、「エラは素晴らしいユーモアのセンスを持っていたし、オードリーもそうだった。残念なことに母と娘が一緒にユーモアを楽しむことがなかった」しかし「エラは娘を心から愛していた」と語っている{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=208-212}}。ロバート・ウォルダーズも「母親は感情を外に出すことができずに苦しんでいたのだと思う」「娘本人に対してはそれができなかった」と述べている{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=208-212}}。

== ユニセフ親善大使 ==
1970年12月22日、ヘプバーンは[[ジュリー・アンドリュース]]が司会を務めるというユニセフの特別番組『愛の世界』に当時住んでいたイタリアを代表して出演した{{Sfn|ドッティ|2016|p=250}}。これが晩年に人生を捧げることになるユニセフへの最初の貢献だった{{Sfn|ドッティ|2016|p=250}}。

1987年10月、オランダ大使としてポルトガルにいた従兄弟にマカオで開かれる国際音楽祭の来賓として招待され、ユニセフのポルトガル支部へのスピーチを依頼された{{Sfn|竹書房|2004|p=142}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=162}}。2分間のスピーチは全世界にテレビ放送され、ユニセフの活動に人々の目を向けさせることに成功した{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=162}}。これがユニセフのための本格的な活動の始まりだった{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=286-287}}。ヘプバーンはスピーチ後、ユニセフの職員と会って「もし私が必要とされるなら、ユニセフのために喜んで役に立ちたい」と自ら申し出た{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=287}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=352}}。

次に[[ジュゼッペ・シノーポリ]]指揮で世界中の演奏家を集めたワールド・フィルハーモニック・オーケストラのチャリティコンサートが東京で行われるので、ヘプバーンは演奏前のスピーチをユニセフに依頼され、喜んで1987年12月に東京に向かった<ref>来日時の記事『スクリーン』1988年3月号(1988年1月発売)、再録2009年2月『SCREEN+プラス』vol.18号.p26−27.近代映画社.</ref>{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=287}}<ref>『the audrey hepburn treasures』とアレグザンダー・ウォーカー、イアン・ウッドワードの伝記では東京へは1988年3月に行ったとなっているが、間違い。当時の『スクリーン』1988年3月号で来日は1987年12月18日となっている。コンサートは12月20日。</ref>。

マカオと東京での成功後、各国のユニセフからの依頼が続々と舞い込み{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=288}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=162}}、1988年3月9日に[[ユニセフ親善大使の一覧|ユニセフ親善大使]]の依頼を引き受けることとなった{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=168及び隣に封入されているユニセフの辞令のレプリカ}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=353}}{{Sfn|リッチ|2001|p=190}}<ref group="注釈">バリー・パリスの伝記などで1989年になっているものがあるが、''『the audrey hepburn treasures』では1988年3月8日付のユニセフの辞令が添付されており、1988年4月22日発行の国連のパスポートには既に「ユニセフ親善大使」と書いてある''(''『the audrey hepburn treasures』『母、オードリーのこと』'')''。''</ref>。「私は全人生をこの仕事のためにリハーサルしてきて、ついに役を得たのよ」と言っている{{Sfn|ドッティ|2016|p=239}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=164}}。

第二次世界大戦後にユニセフの前身の [[UNRRA]]に助けられ、その後女優として大きな成功を収められた経験から、残りの人生を最貧困国の恵まれない子供たちへの支援活動に充てることを決めたのである。ヘプバーンは多くの国々を訪れているが、言葉の面で苦労したことはほとんどなかった。東京のコンサートで初めて会い、後にヘプバーンの親友および世話役になる、ユニセフのジュネーヴ事務局の責任者クリスタ・ロート{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=287}}は「オードリーが持つ天性の才能で自分の仕事に生かしたものに語学がありました。(英語の他にも)フランス語、イタリア語、ドイツ語を話しますし、スペイン語も少々。オランダ語は当然です。ユニセフの活動をスポットで緊急に流さないといけないとき、すぐその場でオードリーがどの主要言語でもアナウンスを流してくれました」と語っている{{Sfn|ウォーカー|2003|p=362}}<ref>1963年5月15日発行.近代映画社刊.『スクリーン臨時増刊 オードリー・ヘプバーン特別号』p63でも、「オードリーは英語、フランス語、オランダ語をしゃべり、ドイツ語、イタリー語もわかる」と書かれている。</ref><ref>1998年5月4日発行.集英社.バリー・パリス『オードリー・ヘプバーン』上巻p194では、1953年ごろの宣伝係の質問に対してヘプバーンは「七ヶ国語をよどみなく話します」と答えていることになっている。言語の種類は不明。</ref><ref>{{cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=X2xdJiExvUk |title=Audrey Hepburn Speaking 5 languages|work=Youtube |accessdate=2017-12-14}}</ref>。

ヘプバーンのユニセフでの本格的な活動は、[[ユニセフ親善大使の一覧|ユニセフ親善大使]]の任命の発表から2週間と経たない1988年3月の[[エチオピア]]への訪問が最初だった{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=289-296}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=354}}。当時のエチオピアは軍事クーデターで大統領となった独裁者[[メンギスツ・ハイレ・マリアム]]と、反政府組織が内戦を繰り広げており、100万人を超える難民で疲弊しきった国だった。このエチオピアでヘプバーンは、ユニセフが食糧支援を行餓死寸前の子供たち500人を収容していたメケレの孤児院を慰問した{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=355}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=289-296}}。

ヘプバーンは1988年8月に、予防接種のキャンペーンのために[[トルコ]]を訪れ、10月には南米諸国を訪れた{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=297-299}}。[[ベネズエラ]]と[[エクアドル]]をめぐったヘプバーンは「小さな山村やスラム街、貧民街にも水道が設置されています。これはユニセフによるちょっとした奇跡といってもいいでしょう。少年たちがユニセフから送られたレンガとセメントで自分たちの学校を立てているのも目にしました」と振り返っている。1989年2月には中米を訪問し、[[ホンジュラス]]、[[エルサルバドル]]、[[グアテマラ]]でそれぞれの大統領と面会している{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=299-304}}。同年4月にはロバート・ウォルダースとともに「ライフライン作戦」計画の一環として[[スーダン]]を訪れた{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=304-308}}。当時のスーダンは内戦下にあり、援助団体からの食糧支援が途絶えており、この計画は[[南スーダン|スーダン南部]]へ食料を運びこもうとするものだった{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=304-308}}。さらに10月にヘプバーンとウォルダースは[[バングラデシュ]]へ赴いた{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=308-314}}。国連の報道写真家、{{仮リンク|ジョン・アイザック|en|John Isaac (Photographer)}}は「身体中に蝿がたかった子供たちにしばしば出会ったが、彼女(ヘプバーン)はいやな顔一つせず彼らを抱きしめる。そんな光景は見たことがなかった。他の人間は躊躇したが、彼女は全く気にせずに手を差し伸べた。子供たちは吸い寄せられるように近づいてきて、彼女の手を握ったりまとわりついたりしてくるんだ。彼女はまるで[[ハーメルンの笛吹き男|ハーメルンの笛吹き]]みたいだったよ」とそのときの様子を振り返っている{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=309}}{{Sfn|アーウィン&ダイヤモンド|2006|p=172}}。1990年10月にヘプバーンは[[ベトナム]]を訪れ、ユニセフが支援する予防接種の普及と水道設備設置に協力した{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=314-316}}。

死去する4カ月前の1992年9月に、ヘプバーンは[[ソマリア]]を訪問した{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=319-326}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=368-371}}。当時のソマリアは、以前ヘプバーンが心を痛めたエチオピアやバングラデシュを上回るほどの悲惨な状況にあった。それでもなおヘプバーンは希望を捨ててはいなかった。「政治家たちは子供たちのことにはまったく無関心です。でもいずれの日にか[[人道援助|人道支援]]の政治問題化ではなく、政治が人道化する日がやってくるでしょう」{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=326}}。

1992年、ユニセフでの活動をたたえてアメリカ合衆国大統領[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]が、文民に与えられるアメリカ最高位の勲章である[[大統領自由勲章]]をヘプバーンに授与することとなった{{Sfn|ドッティ|2016|p=234}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=341}}。しかしすでにヘプバーンは授与式には参加出来ず、メダルはヘプバーンが亡くなった後に届けられた{{Sfn|ドッティ|2016|p=234}}。さらに[[映画芸術科学アカデミー]]が、人道活動への貢献をたたえてヘプバーンの死後に[[ジーン・ハーショルト友愛賞]]を贈り、息子が代理として賞を受け取った{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=356}}。

== 死去 ==
[[ファイル:Grave of Audrey Hepburn, Tolochenaz, Switzerland - 20080711.jpg|thumb|180px|スイス・[[モルジュ]]に近いトロシュナにあるヘプバーンの墓]]
=== 癌の発見と手術 ===
1992年9月終わり、ユニセフの活動で赴いていたソマリアからスイスの自宅へ戻ったヘプバーンは腹痛に悩まされるようになった。専門医の診察を受けたが原因がはっきりせず、10月に精密検査のためロサンゼルスに渡航した{{Sfn|竹書房|2004|p=147}}。10月末にシダーズ・サイナイ・メディカル・センターに入院し{{Sfn|ドッティ|2016|p=251}}、腹腔鏡検査の結果、腹膜偽粘液腫であることが明らかとなった。5年ほどかけて成長した癌が[[転移 (医学)|転移]]しており、[[小腸]]をも薄く覆い尽くしていた{{Sfn|竹書房|2004|p=149}}。そして11月1日、手術が行われた{{Sfn|竹書房|2004|p=149}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=372-373}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=379}}<ref group="注釈">バリー・パリスの伝記や『the audrey hepburn treasures』では11月2日に手術されたことになっているが、ここでは息子の伝記に合わせた。</ref>。

病院の広報は「悪性の腫瘍は完全に切除され、どの臓器にも転移はない。」と語ったが、[[タブロイド]]紙の「ナショナル・エンクワイアラー」が手術室の誰かを買収して「彼女の癌は手の施しようがなく、あと3か月の命」だとセンセーショナルに報じた{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=359}}。ロバート・ウォルダース、息子のショーンとルカはヘプバーンは快方に向かいつつあると声明を出したが、ウォルダーズは「あの時だけは真実を語っていたのは彼らの方で、われわれは嘘をついていた。われわれが嘘をついたのは自分を力づけるためだった。」とのちに語っている{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=341}}。

術後は病室に家族や友人の他、エリザベス・テイラーやグレゴリー・ペックが何度も見舞いに来ていた{{Sfn|ウォーカー|2003|p=373}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=380}}。1週間後には退院し、「第二のホーム」と呼ぶヘプバーンの親友のコニー・ウォルドの家に移った{{Sfn|竹書房|2004|p=150}}。傷口が塞がってから[[抗がん剤]][[フルオロウラシル]]と[[フォリン酸]]による[[化学療法 (悪性腫瘍)|化学療法]]が始まった<ref name="cr">
{{cite web
|url=http://www.crmagazine.org/archive/Fall2009/Pages/AudreyHepburnAppendixCancer.aspx|title=Selim Jocelyn, ""The Fairest of All", ''CR Magazine'', Fall 2009
|publisher=Crmagazine.org
|accessdate=10 March 2010
|archiveurl= https://web.archive.org/web/20100419051634/http://www.crmagazine.org/archive/Fall2009/Pages/AudreyHepburnAppendixCancer.aspx
|archivedate= 19 April 2010
|deadurl= no}}</ref>。副作用もなく、1週間以内に再度化学療法を受けることになって家族は希望をつないでいた{{Sfn|竹書房|2004|p=151}}。しかし数日後腸閉塞になり、12月1日に再入院した{{Sfn|ウォーカー|2003|p=373}}。病院に戻る為にヘプバーンとショーンが準備をしていた時、本当は怯えていた心の内側を1度だけヘプバーンは見せて、「ああ、ショーン、たまらなく恐いの」と涙をいっぱいにたたえた目でショーンにしがみついて囁いた{{Sfn|竹書房|2004|p=151}}。同日再手術が行われたが、腫瘍が急激に広がりすでに手の施しようがなく、開腹したもののすぐに閉じたため1時間もせずに終了した{{Sfn|竹書房|2004|pp=152-153}}。

ヘプバーンの余命がわずかであることを知らされた家族たちは、ヘプバーンの希望で、最後になるであろうクリスマスをスイスの自宅で過ごさせるために飛行機で送り返すことを決めた{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=342}}。しかしヘプバーンはかなり衰弱しており通常の国際便での旅には耐えられない状態だった{{Sfn|ウォーカー|2003|p=375}}。このことを知ったヘプバーンの衣装デザイナーで長年の友人だった[[ユベール・ド・ジバンシィ]]が、[[メロン財閥]]の[[ポール・メロン]]の妻レイチェル・ランバート・メロンに頼んで、メロンが所有する[[ビジネスジェット|プライベートジェット機]]をヘプバーンのために手配した{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=168,170}}<ref name=":21">Harris, Warren G., (1994). – ''Audrey Hepburn: A Biography''. – New York, New York: Simon & Schuster. – p.289. – {{ISBN2|0-671-75800-4}}</ref>{{Sfn|ウォーカー|2003|p=375}}。それを知ったヘプバーンは喜びと感謝で目が潤み、急いでショーンにジバンシィに電話を掛けさせたが、胸がいっぱいで言葉にならず、「ああ、ユベール…本当に感激だわ」と呟くのがやっとだった{{Sfn|竹書房|2004|p=154}}。電話を切ると、「あの方は、私が彼の人生のすべてだとおっしゃってくださったのよ!」と言って顔を輝かせた{{Sfn|竹書房|2004|p=154}}。

出発前日の12月19日に医師たちは、離陸時の気圧の変化に耐えられず腸の血管が破れ[[腹膜炎]]を起こす可能性があり、そうなると敗血症で1時間ともたないだろうと告げたが{{Sfn|竹書房|2004|p=209}}、ヘプバーンはビリー・ワイルダー夫妻やグレゴリー・ペック夫妻や[[ジェームズ・ステュアート (俳優)|ジェームズ・スチュワート]]ら親しい友人に会って最後の別れを告げた{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=342-343}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=170}}{{Sfn|竹書房|2004|p=209}}。ヘプバーンは痛みがものすごくひどいことを隠して、みんなの気持ちをひきたてようとしていた{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=170}}。帰りに夫人からそれを聞いたペックはグレープフルーツ大の塊が喉につかえた感じだったと語っている{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=170}}。

翌12月20日にロサンゼルスを出発{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=342}}。ジェット機には医師と看護師が付き添った{{Sfn|ウォーカー|2003|p=375}}。パイロットは非常にゆっくり高度を上げ、着陸時にもできるだけ気圧の変化が無いように少しずつ降下させていった{{Sfn|竹書房|2004|p=209}}。途中、グリーンランドで給油する必要があったため、危険性は2倍であった{{Sfn|竹書房|2004|p=209}}。ジュネーヴの滑走路に降りたとき「帰ってきたわ」とヘプバーンの顔は輝き、長男のショーンは、家に帰れたことがどれだけヘプバーンにとって重大な意味を持っていたか、そのとき知った{{Sfn|竹書房|2004|p=209}}。

=== スイスで ===
クリスマス、食べることの出来なかったヘプバーンはみんなのディナーの後で苦労して2階から降りてきて、友人や家族にクリスマスプレゼントを渡した{{Sfn|竹書房|2004|p=211}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=345}}。ヘプバーンは買い物に出かけられないため、これまで持っていたスカーフ、セーター、ロウソクなどから一人一人に選んだものであったが、皆が感動した{{Sfn|竹書房|2004|p=211}}。そのあとヘプバーンはサム・レヴェンソンの「時の試練によって磨かれる美」の一部を息子のショーンとルカのために読んでいる{{Sfn|竹書房|2004|p=211}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=344}}。ロバート・ウォルダーズはヘプバーンが超人的な勇気を奮い起こして、ウォルダーズと子供達がヘプバーンを失うことに耐えられるよう助けようとしていると感じた{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=344}}。ウォルダーズは、その夜ヘプバーンが暗闇のベッドの中で「今年のクリスマスが今までで一番幸せだったわ」という声が、今も耳に残っている、と語っている{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=346}}。

スイスの自宅では、ヘプバーンは家族や友人に付き添ってもらって毎日庭に出て20分散歩するのが精神的な支えであったが、塀越しに隠し撮りしたり、ヘリコプターで上空からどこまでも追いかけてくる[[パパラッチ]]のために諦めないといけないことがあった{{Sfn|竹書房|2004|pp=211-212}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=343}}。ジバンシィがパリから来た時にも一緒に庭を散歩したが、10歩ごとに立ち止まって休まなくてはならなかった{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=346}}。ヘプバーンは最後の贈り物としてキルトのコートを買い、ジバンシィが帰り際にヘプバーンはそのうちのネイビー・ブルーのコートを贈った{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=346-347}}。軽く口づけし、「これを着たらわたしのことを思い出してね」と小声で言いながらジバンシィに渡した{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=346-347}}。1月17日にヘプバーンは最後の散歩をしている{{Sfn|竹書房|2004|p=215}}。ヘプバーンは死の2、3日前まで「わたしのために笑って」とウォルダーズに言っていた{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=348}}。

病が進行するにつれて次第に長い時間を眠って過ごすようになり、最後の2日間は数分以上起きていられなかった{{Sfn|竹書房|2004|p=212}}。1993年1月20日の午後7時、ヘプバーンはスイスのトロシュナの自宅で、がんのために息を引き取った{{Sfn|竹書房|2004|pp=212-215}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=349}}。

ヘプバーンの葬儀は、1993年1月24日にトロシュナの教会で執り行われた{{Sfn|竹書房|2004|pp=216-219}}{{Sfn|カーニー|1994|pp=183-186}}。ヘプバーンとメル・ファーラーの結婚式で牧師を務め、1960年に生まれた二人の息子ショーンの洗礼も担当したモーリス・アインディグエルがこの葬儀を取り仕切った{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=353}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=382}}。ユニセフからは{{仮リンク|サドルッディン・アガ・カーン皇太子|en|Prince Sadruddin Aga Khan}}が弔辞を述べ、高官たちがこの葬儀に加わっている{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=353}}。家族や友人、知人としては、ヘプバーンの息子たちや共に暮らしていたロバート・ウォルダース、異父兄イアン・クアレス・ファン・ユフォルト、元夫のアンドレア・ドッティとメル・ファーラー、ユベール・ド・ジバンシィ、[[アラン・ドロン]]、[[ロジャー・ムーア]]らが参列した{{Sfn|カーニー|1994|pp=184-186}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=353}}{{Sfn|ウォーカー|2003|pp=382-383}}<ref>
{{cite news
|url=https://www.nytimes.com/1993/01/25/arts/hepburn-s-role-as-ambassador-is-paid-tribute.html
|work=The New York Times
|first=David
|last=Binder
|title=Hepburn's Role As Ambassador Is Paid Tribute
|date=1993-1-25
}}</ref>。グレゴリー・ペック、エリザベス・テイラー、オランダ王室からは献花が届けられた{{Sfn|ウォーカー|2003|p=382}}<ref>
{{cite news
|url=https://people.com/people/archive/article/0,,20063483,00.html
|work=People
|title= A Gentle Goodbye -Surrounded by the Men She Loved, the Star Was Laid to Rest on a Swiss Hilltop
|date=1993-1-1
}}</ref>。葬儀の後、ショーンが挨拶に立った。最後のクリスマスにヘプバーンが読んだサム・レヴェンソンの「時の試練によって磨かれる美」を読んだ後、最後に庭を散歩した時のことを語っている{{Sfn|竹書房|2004|p=218-219}}。「庭師のジョバンニがやって来てこう言いました。『奥様、よくおなりになったら枝を刈り込んだり花を植えたりするのを手伝ってくださいまし。』母はにっこり笑って答えました。『ジョバンニ、お手伝いするわ……でもこれまでとは違うやり方でね』{{Sfn|竹書房|2004|p=219}}」そしてヘプバーンはトロシュナを一望できる小高い丘の小さな墓地に埋葬された{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=354}}<ref>News Service, N.Y. Times. (25 January 1993). "Hepburn buried in Switzerland". ''Record-Journal''. p. 10.</ref>。

== エピソード ==
* 日本では1971年テレビCM(エクスラン・ヴァリーエ)<ref>1971年『スクリーン』9月〜12月号</ref>のコーディネートがきっかけで[[加藤タキ]]との交友が知られている<ref>2004年テレビ東京「トホホ人物伝」など。</ref>。
* ヘプバーンは3回来日している。1回目は1983年、友人ジバンシィのサロン開設30周年記念のショーのため。2回目は1987年、ユニセフ主催の両国国技館でのチャリティーコンサートでの前説のため。最後は1990年にテレビ番組『庭園紀行』の「日本の庭園」編撮影のため。
* ヘプバーンの名言として広くインターネットで拡散されている、

「魅力的な唇になるために、優しい言葉を話しなさい。
愛らしい瞳を持つためには、人の良いところを探しなさい
スリムな体型のためには、お腹を空かした人に食べ物を分けてあげなさい」
「大人になればきっと自分にも二つの手があることに気づくだろう。
一つは自分を支えるため、もう一つは誰かを助けるため」(翻訳は色々有り)

:というのはオードリー・ヘプバーンの言葉ではない。これは{{仮リンク|サム・レヴェンソン|en|Sam Levenson}}の“Time Tested Beauty Tips(時の試練によって磨かれる美)”という詩をヘプバーンが気に入って、最後のクリスマスに息子たちに読み聞かせた{{Sfn|竹書房|2004|p=211,218-219}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=344}}、というのが誤っていつの間にかヘプバーンの言葉として広がってしまったものである{{Sfn|フォンタナ&ファーラー|2011|p=148}}。

== 後世の影響と評価 ==
ヘプバーンの女優としての業績とその人間性は死後も長く伝えられている。[[アメリカン・フィルム・インスティチュート|米国映画協会]]が選定した「[[映画スターベスト100|最も偉大な女優50選]]」でヘプバーンは第3位になっている。ハリウッドから遠ざかった晩年においても、ヘプバーンは映画界で存在感を放っていた。1991年にはリンカーン・フィルム・ソサエティから表彰を受け、アカデミー授賞式では何度もプレゼンターを務めている。ヘプバーンが死後に受けた賞としては、1993年の[[ジーン・ハーショルト友愛賞]]、グラミー賞、エミー賞などがある。

ヘプバーンは生前、自伝を書くように多くの出版社から求められたが、「人間はほかの多くの人との関わりの中で生きているのだから、必然的に他人についても語らなくてはいけません。そんなことをする権利は私にはないし、するつもりもありません」としてそのたびに断っている{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=364-365}}{{Sfn|ドッティ|2016|p=14}}。ヘプバーンの死後、奔流のように他人が書いた伝記本が発売されたが{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=365}}、書籍によって内容が凄まじく異なっている<ref>{{Cite book|和書|title=『文藝別冊 オードリー・ヘプバーン 妖精、そして女性として』|date=2019年5月30日初版発行|year=|publisher=河出書房新社|author=瀬川裕司|pages=38-39}}</ref>。中にはヘプバーンに直接インタビューをした「公認の伝記」と偽って出されたものまであるが、ウォルダーズは「オードリーが話をしたことは絶対に無い」「詳細な記録もつけているし、泊まったホテルの電話の記録まで取り寄せた。その時期にはヘプバーンには死期が迫っていた」と語り、息子二人とウォルダーズに訴訟を起こされたものまである<ref group="注釈">バリー・パリスの伝記下巻のp365にダイアナ・メイチック著の本に対して書かれている。メイチックの本に基づいてテレビでシリーズ化も計画されていたが、訴訟問題になったため中止されている。未だに発売当時の「公認の伝記」というコピーに惑わされて、メイチックの本に基づく本やサイトが国内外で出回っている。</ref>。

=== 広告媒体 ===
ヘプバーンの映像は、世界中の広告媒体に使用されている。

ヘプバーンは世界で唯一日本にだけ、新しく撮り下ろしたテレビ[[コマーシャルメッセージ|CM]]に出演した。1971年([[日本エクスラン工業]]のエクスラン・ヴァリーエ{{Sfn|芳賀書店|1971|pp=117-120}}<ref>{{Cite book|和書|title=オードリー・ヘプバーン物語 白鳥よ永遠に気高く|date=1972年10月10日初版ハードカバー版のみに掲載|year=|publisher=集英社|author=草鹿宏|pages=37,176-177,207}}</ref>{{Sfn|バーミリー|1997|pp=56-57}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=137}})・82年([[ワールド (企業)|株式会社ワールド]]の銀座リザ{{Sfn|ハイアム|1986|p=284}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://corp.world.co.jp/company/about/history.html|title=『企業情報:沿革』|accessdate=2019年8月20日|publisher=株式会社ワールド}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://corp.world.co.jp/company/history/ |title=企業情報:沿革 1980年代 |access-date=2023-06-10 |publisher=株式会社ワールド}}</ref>)と2度も出演している。海外では放送されておらず、日本でのみ放送された{{Sfn|バーミリー|1997|pp=56-57}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=137}}。

既存のフィルムを使うものとしては、2000年〜2001年に『ローマの休日』の[[映画の着色化|モノクロフィルムを着色]]してデジタル化された映像が[[麒麟麦酒|キリン]]の[[午後の紅茶]]の[[コマーシャルメッセージ|CM]]に採用されていたほか<ref name=":23">{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/prof/50683/cm/|title=CM出演情報 オードリー・ヘップバーン|accessdate=2019年8月20日|publisher=オリコン株式会社}}</ref>、2005年〜2007年には[[三井住友銀行]]が、[[インターネット]]を利用した銀行サービスや女性顧客向けの総合口座サービスのCMキャラクターにヘプバーンを起用していた<ref name=":23" />。このCMは、ヘプバーンが出演した映画から有名な場面を抜き出し、宣伝する商品に合うような日本語の[[台詞]]を吹き込む形式を取っている。この[[吹き替え|吹替]]を担当した[[声優]]がヘプバーンの映画作品でヘプバーンの声を多く担当した[[池田昌子]]だった。その他多くの企業がオードリー・ヘプバーンを使用している。

アメリカでは『パリの恋人』でヘプバーンが踊るシーンが、[[AC/DC]]の曲『バック・イン・ブラック』とともに衣料メーカの[[ギャップ (企業)|GAP]]のCMに採用された。GAPはオードリー・ヘプバーン子供基金に多額の献金をしている<ref>
{{cite web
|url=https://www.wboc.com/global/story.asp?S=5371942
|title=New Gap marketing campaign featuring original film footage of Audrey Hepburn helps Gap "Keeps it Simple" this Fall – WBOC-TV 16
|publisher=Web.archive.org
|date=2007-9-28
|accessdate=2010-9-6
|archiveurl = https://web.archive.org/web/20070928010941/http://www.wboc.com/Global/story.asp?S=5371942
|archivedate = 2007-9-28
}}</ref>。2013年には、3DCG制作されたヘプバーンの映像が、イギリス製チョコレートのギャラクシーの広告に使用された<ref>
{{cite news
|url=https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/tv/features/audrey-hepburn-advertise-galaxy-chocolate-bars-over-her-dead-body-8508603.html
|title=Audrey Hepburn advertise Galaxy chocolate bars? Over her dead body!
|work=The Independent
|date=2013-2-24
|accessdate=2013-2-28
|author=Usborne, Simon
}}</ref>。

=== ファッション・アイコンとして ===
[[ファイル:Audrey Hepburn Tiffany's 3.jpg|thumb|『ティファニーで朝食を』(1961年公開)のヘプバーン。]]ヘプバーンは1961年にインターナショナル・ベスト・ドレッサーに選ばれて殿堂入りしており、死後においてもファッション界から敬意を払われている。アメリカの通信販売大手[[QVC]]による「20世紀最高の美女」を決める[[アンケート]]調査(女性2000人を対象に実施)と、飲料水[[エビアン (ミネラルウォーター)|エビアン]]を発売する[[ダノン]]による「史上最高の美女」の調査アンケートで、ともに1位となった<ref>
{{cite book
|title=Ultimate Style – The Best of the Best Dressed List
|pages=74–77 & 89
|isbn= 2 84323 513 8
|year=2004
}}</ref><ref name = "SMH">
{{cite news
|url = https://www.smh.com.au/entertainment/audrey-hepburn-most-beautiful-woman-of-all-time-20040601-gdj1dd.html
|title = Audrey Hepburn 'most beautiful woman of all time'
|date = 2004-1-1
|work=The Sydney Morning Herald
}}</ref><ref name = "BBC">
{{cite news
|url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/3763887.stm
|title = Audrey Hepburn tops beauty poll
|publisher=BBC NEWS
|date = 2004-5-31
}}</ref>。当時のハリウッドでもてはやされていた、[[マリリン・モンロー]]や[[ジェーン・マンスフィールド]]といった豊満な女優たちとは異なり、ヘプバーンは大きな瞳をもつ細身で優雅な女優だった{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=26-27,69-71}}。映画監督ビリー・ワイルダーは「この女性が大きな胸を過去の遺物としてしまうだろう」と言った<ref name=":20" />{{Sfn|カタログ オードリー・ヘプバーン|1977|p=196}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=204}}{{Sfn|ウッドワード|1993|p=158}}。

しかしヘプバーンは自分が魅力ある女性だとは思っていなかった{{Sfn|パリス 上巻|1998|pp=103,225}}<ref>日本コロムビアや20世紀フォックスからDVDが発売され、BS11でも放送された『想い出のオードリー・ヘプバーン』でも息子ショーンが肯定している。</ref>。痩せ過ぎで、鼻筋がまっすぐではなく、足が大きすぎると悩んでいた{{Sfn|竹書房|2004|p=「まえがき」xiii}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=85-86,94}}それ以外にも歯並びが悪く{{Sfn|ハイアム|1986|pp=209-210}}{{Sfn|フォンタナ&ファーラー|2011|p=120}}、鼻孔が広いのを気にしていた{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=94}}{{Sfn|フォンタナ&ファーラー|2011|p=120}}。「映画の仕事をするなんて思ってもみなかったわ。こんな顔なのに」とヘプバーンは言っていた{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=94}}。だから目をかけてもらうだけでもありがたいと感謝し、時間を遵守し、セリフは完璧に覚え、周囲の人たちへの礼儀と尊敬を忘れなかった{{Sfn|竹書房|2004|p=「まえがき」xiii}}。

ヘプバーンはその生涯を通じてファッション界に刺激を与え、死後も影響を及ぼし続けている{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=24}}。ヘプバーンが現代ファッションに及ぼした影響は飛び抜けており、デザイナーの[[マイケル・コース]]は「今のファッションを、女性たちは当然のように思って着ているが、もしオードリー・ヘプバーンがいなかったら、そういった服を今着てはいないだろう」と述べている{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=24-25}}>。

=== ユベール・ド・ジバンシィ ===
ヘプバーンのイメージを作りあげたのは、ファッションデザイナーの[[ユベール・ド・ジバンシィ]]がデザインした洋服だった{{Sfn|カーニー|1994|pp=12,53}}{{Sfn|竹書房|2004|p=154}}。ジバンシィがヘプバーンのドレスを最初にデザインしたのは、1954年の映画『[[麗しのサブリナ]]』からである。衣装は[[イーディス・ヘッド]]の担当だったが、監督のビリー・ワイルダーは、パリで美しく変貌を遂げたサブリナの衣装は、パリのマネキンが着るような最新モードであるべきだと考え、ジバンシィのサロンで自分で直接買い付けるようヘプバーンをフランスに送り出した{{Sfn|ハイアム|1986|pp=83-86}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=205}}{{Sfn|カーニー|1994|p=53}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=30}}。

パラマウントの関係者から、「ヘプバーン」という女優が今パリに来ており、次の映画で使う衣装を探していると言われたジバンシィは、その名前から、憧れの大女優[[キャサリン・ヘプバーン]]だと思い込み、大喜びでアポイントメントを受けた{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=206}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=30-36}}。そのためオードリーと初めて顔を合わせたジバンシィは失望し、秋冬コレクション前で空いている時間がほとんどないため衣装を新たに作る時間はないとヘプバーンに答えている{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=206}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=30-36}}。それでもジバンシィは「すでにある服を試して衣装としてふさわしいならなんとかなるかもしれません」と答えた{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=30-36}}。ヘプバーンはそれを受け入れ、1953年春夏コレクションの中から最終的に3つのドレスとそれに合わせた帽子を選びだし、パリ・コレクションの一流モデルに合わせて作られたドレス(ウエスト50.8cm)を着こなしてみせた{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=30-36}}<ref group="注釈">この最初の出会いについては、ジバンシィ本人が何度も語っている。日本コロムビアや20世紀フォックスからDVDが発売され、BS11でも放送された『想い出のオードリー・ヘプバーン』や、2013年11月23日にNHK BSプレミアムで放送された『松下奈緒 永遠のオードリー』など。ここでの記述も一部ジバンシィ本人の言い方に直している。</ref>。その後もヘプバーンは彼がデザインした多くの洋服を着こなし、そのファッションスタイルはジバンシィの名とともに世界的に高く評価されることになっていった。二人の友情と協力関係はヘプバーンが死去するまで続いた{{Sfn|竹書房|2004|p=154}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=30-36}}。

後年、ジバンシィはヘプバーンから「あなたの作ってくれたブラウスやスーツを着ていると、服が私を守ってくれている気がするわ」と言われて感激したと話している{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=114}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=272}}<ref>日本コロムビアや20世紀フォックスからDVDが発売され、BS11でも放送された『想い出のオードリー・ヘプバーン』、ジバンシィ自身の言葉。</ref>。ジバンシィは『麗しのサブリナ』以降も『パリの恋人』、『昼下りの情事』、『ティファニーで朝食を』、『パリで一緒に』、『シャレード』、『おしゃれ泥棒』、『華麗なる相続人』、『おしゃれ泥棒2』でヘプバーンの衣装を担当した{{Sfn|バーミリー|1997|pp=87,100,108,146,160,166,182,205,215}}。ジバンシィはヘプバーンとの35年にわたる交友で「彼女(ヘプバーン)の身体のサイズは、1インチとして変わらない」と述べている{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=226}}。ジバンシィはヘプバーンの生涯を通じての友人、理解者であり、ヘプバーンはジバンシィにとって芸術の女神[[ムーサ|ミューズ]]だった{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=40-43}}。ジバンシィは「ランテルディ」という香水をヘプバーンのために調合している<ref>{{Cite book|和書|title=シュプール特別編集『永遠のオードリー・ヘップバーン』|date=1993年5月5日発行|year=|publisher=集英社|page=58}}</ref>{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=200,284-285}}。

=== リチャード・アヴェドン ===
ジバンシィと同様に、著名なファッションカメラマンの[[リチャード・アヴェドン]]にとってもヘプバーンはミューズだった<ref>{{Cite book|和書|title=『永遠のファッション・アイコン オードリーに学ぶおしゃれ練習帳』|date=2008年|year=|publisher=近代映画社|author=清藤秀人|pages=117,124-125}}</ref>。アヴェドンが撮影したヘプバーンの顔のクローズアップ写真は、国際的に有名になった。この写真にはヘプバーンの特徴である眼差し、眉、口元が見事に映し出されていた。アヴェドンはヘプバーンについて「カメラの前に立ったときのオードリー・ヘプバーンの天性の素晴らしさには永遠に圧倒され続けるだろう。私には彼女の更なる魅力を引き出すことはできない。彼女はただそこに在り、私はそれを記録するのがやっとだ。何も付け加えることができない素晴らしい女性といえる。彼女の存在それ自身が完璧な肖像写真だ」と語っている{{Sfn|カーニー|1994|p=8}}。

=== サルヴァトーレ・フェラガモ ===
イタリアの靴デザイナーである[[サルヴァトーレ・フェラガモ]]とは1954年から親交があり{{Sfn|竹書房|2004|pp=168-169}}{{Sfn|リッチ|2001|pp=13-18,64}}、ヘプバーンの足の木型は現在でもフィレンツェのサルヴァトーレ・フェラガモ博物館が所蔵している{{Sfn|リッチ|2001|p=64}}。1999年にはそのフェラガモ博物館で「オードリー・ヘプバーン:私のスタイル({{lang|en|Audrey Hepburn, a woman, the style}})」と銘打った展示会が開かれ<ref name=":2">{{Cite web|url=https://www.ferragamo.com/museo/en/usa/exhibitions/archive/#|title=PREVIOUS EXHIBITIONS|accessdate=2019年6月29日|publisher=サルバトーレ・フェラガモ博物館}}</ref>、2000年〜2001年には日本各地を巡回した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.s2corp.com/records/exh/audrey.html|title=「オードリー・ヘプバーン:私のスタイル」展|accessdate=2019年6月29日|publisher=S2 Corporation}}</ref><ref name=":2" />。この展示会はヘプバーンの映画や私生活での衣装や靴、写真などが大量に展示される大規模な展示会だった。フェラガモは虐待児童をケアするオードリー・ヘプバーン・チルドレンズ・ハウスを作る資金を集めると発表し、この展示会の収益もこれに充てられた{{Sfn|竹書房|2004|pp=168-169}}。(2004年〜2009年には息子ショーンによって、「timeless audrey」展という大規模な展示会も世界で開かれた。こちらも世界に先駆けて2004年〜2005年に日本全国を巡回している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bunkamura.co.jp/old/museum/lineup/04_audrey/index.html|title=Bunkamuraザ・ミュージアム「オードリー・ヘプバーン展 timeless audrey」|accessdate=2019年6月29日|publisher=Bunkamura}}</ref>。)

=== ヴァレンティノ・ガラヴァーニ ===
ヘプバーンがドッティと結婚していてローマに住んでいた70年代、ジバンシィでは高価すぎるので、友人に頼んでイタリアの当時新進気鋭のデザイナー、[[ヴァレンティノ・ガラヴァーニ]]を紹介してもらい、友人となっている{{Sfn|ドッティ|2016|pp=161-162}}{{Sfn|クラーク・キオ|2000|pp=131-133}}{{Sfn|パリス 下巻|1998|pp=137-138}}。日本のCM「エクスラン・ヴァリーエ」に出演した時や{{Sfn|芳賀書店|1971|pp=118}}、『ロビンとマリアン』のポスターやパンフレットで着ていた衣装{{Sfn|カタログ オードリー・ヘプバーン|1977|p=28.150.152}}はヴァレンティノのものである{{Sfn|リッチ|2001|pp=214,216}}{{Sfn|シーボルト・ブックス|2004|pp=142-143}}。後年、ヴァレンティノのデビュー25周年の展示会で使うために、ヘプバーンのために作られた衣装を貸したところ、「こんなに大切に扱ってくれたのは貴方だけだ。新品のようだね」とヴァレンティノに言われて、ヘプバーンはずっと誇りに思っていたという{{Sfn|ドッティ|2016|pp=161-162}}。

=== ラルフ・ローレン ===
ヘプバーンは晩年には[[ラルフ・ローレン]]の服も多用しており、『庭園紀行』の企画が持ち込まれたとき、衣装で相談したのもローレンだった{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=273}}。「夜はジバンシィを着るのが好きだけど、昼間はあなたのスポーティーな衣装の方がいいわ」とローレンに言っている{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=273}}。1991年、リンカーン・センター映画協会の「オードリー・ヘプバーンをたたえる夕べ」で、ラルフ・ローレンはファションに及ぼしたヘプバーンの並外れた影響力について話している{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=90}}。「オードリー・ヘプバーンの名はあらゆる雑誌編集者やファションに従事するものによって、おそらく絶えず口にされているはずです。“すごくオードリーだ!”という形で」「こういう表現をオードリーが聞いたことがあるかどうかわかりませんが、ジバンシィは聞いたことがあるはずです」と述べて喝采を浴びた{{Sfn|クラーク・キオ|2000|p=90}}。

=== 衣装 ===
2006年12月5日に、『ティファニーで朝食を』のためにジバンシィがデザインしたリトル・ブラックドレスが[[クリスティーズ]]のオークションにかけられた。落札予想額は70,000ポンドだったが、最終的にはその7倍近い467,200ポンド(約92万ドル)で落札された。映画由来の衣装についた価格としては当時最高額だったが<ref>
{{cite news
|last=Dahl
|first=Melissa
|title=Stylebook: Hepburn gown fetches record price|
publisher=Pittsburgh Post-Gazette
|date=2006-12-11
|url=https://old.post-gazette.com/pg/06345/745167-314.stm
|accessdate=1 January 2010
}}</ref>、マリリン・モンローが『七年目の浮気』で着用した、地下鉄の通気口からの風でまくれ上がった「サブウェイ・ドレス」が2011年6月に460万ドルで売却されてヘプバーンの記録を更新している<ref>
{{cite news
|url=https://www.reuters.com/article/2011/06/19/us-monroe-idUSTRE75I2NM20110619
|title=Marilyn Monroe "subway" dress sells for $4.6 million
|publisher=Reuters
|date=19 June 2011
|accessdate=29 June 2011
}}</ref>。このヘプバーンのドレスの収益金は、インドの恵まれない子供たちを救済するチャリティー基金に寄付された。基金の責任者は「私は涙を禁じえません。伝説的とも言える女優が着用した衣装がレンガやセメントの購入資金となり、世界中の貧しい子供たちが通える学校を建てられることになるとは、本当に信じられない気持ちです」と述べた<ref name="BBC2">
{{cite news
|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/6209658.stm
|title=Auction Frenzy over Hepburn dress
|publisher=BBC NEWS
|date=2006-12-5
}}</ref>。しかしながら、このクリスティーズのオークションに出品されたドレスは<ref>[https://www.christies.com/lot/lot-4832498/?sid=&intObjectID=4832498&AllObjectIDs=&SRObjectID=&AllSaleIDs=&SRSaleID=&RefineQueryURL= Christie's online catalog]. Retrieved 7 December 2006.</ref>、ヘプバーンが『ティファニーで朝食を』で着用したドレスではなかった<ref name="BBC2" /><ref name=":15">"[https://archive.is/20120324062830/http://www.richnewbold.co.uk/blog/15/where-is-the-real-breakfast-at-tiffanys-dress Where is the real Breakfast at Tiffany's dress?]". ''Richard Newbold''. Archived from the original on 24 March 2012.</ref>。『ティファニーで朝食を』のオープニングシーンの為にジバンシィが3着の同じドレスを用意したが、ジバンシィのデザインはサイドに深いスリットが入っていたためヘプバーンの映画には不適として、パラマウントでイーディス・ヘッドによってスリットの無い複製が作られることとなった<ref name=":15" /><ref>{{Cite book|title=『週刊オードリー・ヘプバーン』第3号p16|date=2010年2月9日|year=|publisher=イーグルモス・インターナショナル}}</ref>。実際にヘプバーンが着用したドレスは撮影後に廃棄され、現存していない<ref name=":15" />。

2009年12月にもロンドンでヘプバーンが映画で使用した衣装のオークションが開催され、60,000ポンドの価格がついた『おしゃれ泥棒』で着用した黒のカクテルガウンなど、総額270,200ポンド(437,000ドル)で落札された。そしてオークションの収益金のうち半分が、オードリー・ヘプバーン子供基金とユニセフが共同で行っている学童支援活動に寄付された<ref name="Daily Mail">
{{cite news
|url=https://www.dailymail.co.uk/femail/article-1234361/Audrey-Hepburns-Givenchy-couture-collection-sold-auction-270-000.html
|title=Audrey Hepburn's Givenchy couture collection sold at auction for £270,000
|work=Daily Mail
|location=UK
|date=2009-12-9
|first=Claire
|last=Ellicott
}}</ref>。

== 出演作品 ==
{| class="wikitable" width="100%"
|+ 映画作品
|-
|-
! width="5%"| 公開年
|rowspan=2|{{small|受賞}}
! width="25%"| 邦題<br />原題
|1953年
! width="25%"| 配役
|[[アカデミー主演女優賞]]
! width="45%"| 備考
|[[ローマの休日]]
|-
|-
|1992
| 1948
|[[オランダの七つの教訓]]<br />''Nederlands in Zeven Lessen''
|[[ジーン・ハーショルト友愛賞]]
|オランダ航空のスチュワーデス
|
|オランダ語版79分{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=97}}、英語版39分{{Sfn|バーミリー|1997|p=68}}{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=97}}<br />日本未公開、全世界でビデオ・DVD未発売
|-
|-
|rowspan=4|{{small|ノミネート}}
| rowspan="4"| 1951年
| [[若気のいたり]]<br />''One Wild Oat''
|1954年
| ホテルの受付嬢
|アカデミー主演女優賞
| 端役<br />日本未公開、日本ではビデオ・DVD未発売
|[[麗しのサブリナ]]
|-
|-
| [[素晴らしき遺産]]<br />''Laughter in Paradise''
|1959年
| 煙草売りのフリーダ
|アカデミー主演女優賞
| 端役。ヘプバーンが英国で撮った最初の作品{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=115-117}}{{Sfn|ウッドワード|1993|pp=91-95}}<ref>日本コロムビアや20世紀フォックスからDVDが発売され、BS11でも放送された『想い出のオードリー・ヘプバーン』でヘプバーン自身が(英国での)最初の作品だと語っている。</ref>。公開は『若気のいたり』の後になった<br />日本未公開
|[[尼僧物語]]
|-
|-
| [[ラベンダー・ヒル・モブ]]<br />''The Lavender Hill Mob''
|1961年
| チキータ
|アカデミー主演女優賞
| 端役<br />日本未公開(1975年8月5日に[[東京国立近代美術館]]の[[フィルムセンター]]で1日だけ特別上映、2019年6月15日に『オードリー・ヘプバーン映画祭』で[[109シネマズ]]二子玉川にて1回のみ特別上映)
|[[ティファニーで朝食を]]
|-
|-
| [[若妻物語]]<br />''Young Wives' Tale''
|1967年
| イヴ・レスター
|アカデミー主演女優賞
| クレジットの7番目に登場<br />日本未公開(2019年6月14日に『オードリー・ヘプバーン映画祭』で109シネマズ二子玉川にて1回のみ特別上映)
|[[暗くなるまで待って (映画)|暗くなるまで待って]]
|-
|-
| rowspan="2"| 1952年
|- style="text-align:center;"
| [[初恋 (1952年の映画)|初恋]]<br />''Secret People''
! colspan=4 style="background:#B0C4DE;" |[[ゴールデングローブ賞]]
| ノラ・ブレンターノ
|- style="text-align:center;"
| メインタイトルの3番目、エンド・クレジットの4番目に登場
! style="background:#ccc;"|
! style="background:#ccc;"| 年度
! style="background:#ccc;"| 部門
! style="background:#ccc;"| 対象作品
|-
|-
| [[モンテカルロへ行こう]]<br />(フランス語版)<br />''Nous irons à Monte Carlo''<br />[[モンテカルロ・ベイビー]]<br />(英語版)<br />''Monte Carlo Baby''
|rowspan=3|{{small|受賞}}
| メリッサ・ウォルター(フランス語版)<br />リンダ・ファレル(英語版)
|1954年
| 英語版とフランス語版の二種類が製作された。<br />配役と上映時間(フランス語版102分<ref>アミューズソフトエンタテインメント株式会社.『モンテカルロへ行こう』DVD.2007年5月25日発売.品番ASBY-3785.</ref>、英語版79分{{Sfn|バーミリー|1997|p=78}})はそれぞれで違う。<br />ヘプバーンの衣装は[[クリスチャン・ディオール]]{{Sfn|パリス 上巻|1998|p=131}}{{Sfn|ウォーカー|2003|p=85}}<br />日本未公開、英語版は全世界でビデオ・DVD未発売
|[[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)|主演女優賞 (ドラマ部門)]]
|ローマの休日
|-
|-
|1954
| 1953
| [[ローマの休日]]<br />''Roman Holiday''
|世界でもっとも好かれた女優
| アン王女(アーニャ・スミス)
|
| [[アカデミー賞]] [[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]受賞<br />[[英国アカデミー賞]] [[英国アカデミー賞 主演女優賞|英国女優賞]]受賞<br />[[ゴールデングローブ賞]] [[ゴールデングローブ賞 映画部門 主演女優賞 (ドラマ部門)|主演女優賞(ドラマ部門)]]受賞<br />[[ニューヨーク映画批評家協会賞]] [[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞|主演女優賞]]受賞
|-
|-
|1989
| 1954
| [[麗しのサブリナ]]<br />''Sabrina''
|[[セシル・B・デミル賞]]
| サブリナ・フェアチャイルド
|
| アカデミー賞 主演女優賞ノミネート<br />英国アカデミー賞 英国女優賞ノミネート<br />ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート
|-
|-
| 1956年
|- style="text-align:center;"
| [[戦争と平和 (1956年の映画)|戦争と平和]]<br />''War and Peace''
! colspan=4 style="background:#B0C4DE;" |[[トニー賞]]
| ナターシャ・ロストワ
|- style="text-align:center;"
| 英国アカデミー賞 英国女優賞ノミネート<br />ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)ノミネート<br />ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート
! style="background:#ccc;"|
! style="background:#ccc;"| 年度
! style="background:#ccc;"| 部門
! style="background:#ccc;"| 対象作品
|-
|-
|rowspan=2|{{small|受賞}}
| rowspan="2"| 1957年
|[[パリの恋人]]<br />''Funny Face''
|1954年
| ジョー・ストックトン
|[[トニー賞 演劇主演女優賞|演劇主演女優賞]]
| 最初のミュージカル映画作品
|[[オンディーヌ]]
|-
|-
| [[昼下りの情事]]<br />''Love in the Afternoon''
|1968年
| アリアーヌ・シャバス
|Special Tony Award
| ゴールデン・ローレル賞(Laurel Awards)女性コメディ演技賞受賞<br />ゴールデングローブ賞 [[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)|主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)]]ノミネート<br />ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート
|
|-
|-
| rowspan="2"| 1959年
|- style="text-align:center;"
|[[緑の館 (映画)|緑の館]]<br />''Green Mansions''
! colspan=4 style="background:#B0C4DE;" |[[ニューヨーク映画批評家協会賞]]
| リマ
|- style="text-align:center;"
|「尼僧物語」よりも撮影は後だった
! style="background:#ccc;"|
! style="background:#ccc;"| 年度
! style="background:#ccc;"| 部門
! style="background:#ccc;"| 対象作品
|-
|-
| [[尼僧物語]]<br />''The Nun's Story''
|rowspan=2|{{small|受賞}}
| シスター・ルーク(ガブリエル・ヴァン・デル・マル)
|[[第19回ニューヨーク映画批評家協会賞|1953年]]
| 英国アカデミー賞 英国女優賞受賞<br />ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞受賞<br />[[サン・セバスティアン国際映画祭|サン・セバスティアン映画祭]]女優賞受賞<br />[[ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞]]外国女優賞受賞<br />アカデミー賞 主演女優賞ノミネート<br />ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)ノミネート<br />ゴールデン・ローレル賞女性ドラマ演技賞2位
|[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞|主演女優賞]]
|ローマの休日
|-
|-
| 1960年
|[[第25回ニューヨーク映画批評家協会賞|1959年]]
| [[許されざる者 (1960年の映画)|許されざる者]]<br />''The Unforgiven''
|[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞|主演女優賞]]
| レイチェル・ザカリー
|尼僧物語
| 唯一の西部劇映画
|-
|-
| rowspan="2"| 1961年
|- style="text-align:center;"
| [[ティファニーで朝食を (映画)|ティファニーで朝食を]]<br />''Breakfast at Tiffany's''
! colspan=4 style="background:#B0C4DE;" |[[エミー賞]]
| ホリー・ゴライトリー
|- style="text-align:center;"
| ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞外国女優賞受賞<br />アカデミー賞 主演女優賞ノミネート<br />ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)ノミネート<br />ゴールデン・ローレル賞女性コメディ演技賞3位
! style="background:#ccc;"|
! style="background:#ccc;"| 年度
! style="background:#ccc;"| 部門
! style="background:#ccc;"| 対象作品
|-
|-
| [[噂の二人]]<br />''The Children's Hour''
|rowspan=1|{{small|受賞}}
| カレン・ライト
|1993年
|ゴールデン・ローレル賞女性ドラマ演技賞4位
|Outstanding Individual Achievement - Informational Programming
|''[[:en:Gardens of the World with Audrey Hepburn|Gardens of the World with Audrey Hepburn]]''
|-
|-
| 1963年
|- style="text-align:center;"
| [[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]<br />''Charade''
! colspan=4 style="background:#B0C4DE;" |[[グラミー賞]]
| レジーナ・ランパート
|- style="text-align:center;"
| 英国アカデミー賞 英国女優賞受賞<br />ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)ノミネート<br />ゴールデン・ローレル賞女性コメディ演技賞3位
! style="background:#ccc;"|
! style="background:#ccc;"| 年度
! style="background:#ccc;"| 部門
! style="background:#ccc;"| 対象作品
|-
|-
|rowspan=1|{{small|受賞}}
| rowspan="2"| 1964年
| [[パリで一緒に]]<br />''Paris When It Sizzles''
|1994年
| ガブリエル・シンプソン/<br />ギャビーの二役
|Best Spoken Word Album for Children
|「シャレード」よりも撮影は先だった
|''[[:en:Audrey Hepburn's Enchanted Tales|Audrey Hepburn's Enchanted Tales]]''
|-
|-
| [[マイ・フェア・レディ_(映画)|マイ・フェア・レディ]]<br />''My Fair Lady''
|- style="text-align:center;"
| [[イライザ・ドゥーリトル]]
! colspan=4 style="background:#B0C4DE;" |[[英国アカデミー賞]]
| ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞外国女優賞受賞<br />ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)ノミネート<br />ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート<br />ゴールデン・ローレル賞女性コメディ演技賞3位
|- style="text-align:center;"
! style="background:#ccc;"|
! style="background:#ccc;"| 年度
! style="background:#ccc;"| 部門
! style="background:#ccc;"| 対象作品
|-
|-
| 1966年
|rowspan=3|{{small|受賞}}
| [[おしゃれ泥棒]]<br />''How to Steal a Million''
|1953年
| ニコル・ボネ
|最優秀英国女優賞
|
|ローマの休日
|-
|-
| rowspan="2"| 1967年
|1959年
| [[いつも2人で]]<br />''Two for the Road''
|最優秀英国女優賞
| ジョアンナ・ウォレス
|尼僧物語
| ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)ノミネート
|-
|-
| [[暗くなるまで待って (映画)|暗くなるまで待って]]<br />''Wait Until Dark''
|1964年
| スージー・ヘンドリクス
|最優秀英国女優賞
| アカデミー賞 主演女優賞ノミネート<br />ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)ノミネート<br />ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート<br />ゴールデン・ローレル賞女性ドラマ演技賞3位
|[[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]
|-
|-
| 1976年
|}
| [[ロビンとマリアン]]<br />''Robin and Marian''

| レディ・マリアン
=== ファッション界に与えた影響 ===
|
[[ココ・シャネル]]と同様に、オードリーは単に女性達のドレスを変えただけでなく、女性達の自分自身に対する見方をも変えた。露骨なグラマーではない見本を示して、美人の定義を広げた<ref name="オードリー・スタイル24">[[#キオ 2000|キオ 2000]]、24頁</ref>。

デザイナーの[[マイケル・コース]]は「今のファッションを女性達は当然のように着ているが、もしオードリー・ヘプバーンがいなかったらそういう服を今着てはいないだろう<ref name="オードリー・スタイル26">[[#キオ 2000|キオ 2000]]、26頁</ref>」と述べ、[[ヴェラ・ウォン]]は「オードリーは現代女性のはしりだった。誰の真似でもない文化を作り出すのは容易ではない<ref name="オードリー・スタイル24" />」と述べた。

また、『麗しのサブリナ』等の衣装を担当したデザイナーの[[ユベール・ド・ジバンシィ]]との協力関係は他に例を見ないほど長く続き、また映画史上最も成功した一つとなった<ref name="オードリー・スタイル40">[[#キオ 2000|キオ 2000]]、40頁</ref>。

== 主な出演作品 ==
<!--日本での公開順、未公開・ドラマなどは制作国に準じる。賞歴は主なものだけに。-->
{| class="wikitable"
|-
|-
| 1979年
!公開年!!邦題 <br />原題!!役名!!備考
| [[華麗なる相続人]]<br />''Bloodline''
| エリザベス・ロフ
| 唯一のR指定作品
|-
|-
| 1981年
|style="text-align: center;"| 1948 || [[オランダの7つの教訓]]<br />''[[:en:Nederlands in 7 lessen|Nederlands in 7 lessen]]'' ||スチュワーデス||
| [[ニューヨークの恋人たち]]<br />''They All Laughed''
| アンジェラ・ニオティーズ
| 日本未公開。日本ではビデオのみ発売
|-
|-
| 1989年
|style="text-align: center;" rowspan="3"| 1951 || [[若気のいたり]]<br />''[[:en:One Wild Oat|One Wild Oat]]'' ||ホテルの受付嬢||
| [[オールウェイズ (映画)|オールウェイズ]]<br />''Always''
| 天使ハップ
|
|}

{| class="wikitable sortable" width="100%"
|+ テレビ番組
|-
|-
! width="5%"| 放送年
| [[素晴らしき遺産]]<br />''[[:en:Laughter in Paradise|Laughter in Paradise]]'' ||シガレットガール||
! width="25%"| 番組名
! width="25%"| 配役
! class="unsortable" width="45%"| Notes
|-
|-
| 1951年
| [[ラベンダー・ヒル・モブ]]<br />''[[:en:The Lavender Hill Mob|The Lavender Hill Mob]]'' ||チキータ||
| サンデー・ナイト・シアター<br />[[:en:Sunday Night Theatre|Sunday Night Theatre]]
|-
| セリア
| エピソード "The Silent Village"
|-
|-
| 1952年
|style="text-align: center;" rowspan="3"| 1952 || [[若妻物語]] <br />''[[:en:Young Wives' Tale|Young Wives' Tale]]'' ||イヴ・レスター||
| [[エド・サリヴァン・ショー|トースト・オブ・ザ・タウン]]<br />''Toast of the Town''
|
| 2月10日放送。『九日間の女王(レディ・ジェーン)』の[[ジェーン・グレイ]]を演じる。
|-
|-
| 1952年
|CBSテレビジョン・ワークショップ<br />[[:en:CBS Television Workshop|CBS Television Workshop]]
| 本人
| 4月13日放送。<br />エピソード "Rainy Day at Paradise Junction"
|-
|-
| 1952年
| [[モンテカルロへ行こう]]<br />''[[:en:Nous irons à Monte Carlo|Nous irons à Monte Carlo]]'' ||メリッサ・ウォルター(フランス語版)/リンダ・ファレル(英語版) ||
| [[エド・サリヴァン・ショー|トースト・オブ・ザ・タウン]]<br />''Toast of the Town''
|
| 5月25日放送。後に『[[マイ・フェア・レディ (映画)|マイ・フェア・レディ]]』で共演する[[レックス・ハリソン|レックス・ハリスン]]と初共演。『1000日のアン』の[[アン・ブーリン]]を演じる。
|-
|-
| 1957年
| [[マイヤーリング]]<br />''Mayerling''
| マリー・フォン・ヴェッツェラ
| アメリカの[[NBC]]が制作したテレビ映画<br />日本では2014年1月4日から劇場公開された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.allcinema.net/cinema/53979|title=マイヤーリング|publisher=[[allcinema]]|accessdate=2014-01-04}}</ref>
|-
|-
| 1970年
| [[初恋 (1952年の映画)|初恋]]<br />''[[:en:The Secret People (film)|The Secret People]]'' ||ノラ・ブレンターノ||
| 愛の世界<br />''A World of Love''
| 本人
| 12月22日放送。[[ジュリー・アンドリュース]]が司会を務める[[国際連合児童基金|ユニセフ]]のドキュメンタリー。ヘプバーンがユニセフに関わった最初のもの{{Sfn|ドッティ|2016|p=250}}
|-
|-
| 1987年
| [[おしゃれ泥棒2]]<br />''Love Among Thieves''
| 男爵夫人キャロライン・デュラック
| テレビ映画
|-
|-
| 1993年
|style="text-align: center;"| 1953 || [[ローマの休日]]<br />''[[:en:Roman Holiday|Roman Holiday]]'' ||アン王女(アーニャ・スミス)|| アカデミー賞最優秀主演女優賞受賞<br />ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞受賞 (ドラマ部門)<br />ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞受賞
| [[オードリー・ヘプバーンの庭園紀行]]<br />''Gardens of the World with Audrey Hepburn''
| 進行
| [[エミー賞]] 情報番組個人業績賞
|-
|-
| 1993年
| ''{{lang|en|Audrey Hepburn: In Her Own Words}}''
| 本人
| [[国際連合児童基金|ユニセフ]]のドキュメンタリー(DVDのみの発売)
|}

{| class="wikitable" width="100%"
|+ 舞台作品
|-
|-
! width="5%"| 上演年
|style="text-align: center;"| 1954 || [[麗しのサブリナ]]<br />''[[:en:Sabrina (1954 film)|Sabrina]]'' ||サブリナ・フェアチャイルド||
! width="25%"| 作品名
! width="25%"| 配役
! width="15%"| 劇場名
! width="30%"| Notes
|-
|-
| 1948年 - 1949年
|style="text-align: center;"| 1956 || [[戦争と平和 (1956年の映画)|戦争と平和]]<br />''[[:en:War and Peace (1956 film)|War and Peace]]'' ||ナターシャ||
| ハイ・ボタン・シューズ<br />[[:en:High Button Shoes|High Button Shoes]]''
| コーラスガール
| ロンドン・ヒッポドローム劇場<br />[[:en:Hippodrome, London|London Hippodrome]]
| 1948年12月22日初演、全291回公演
|-
|-
| 1949年
| ソース・タルタル<br />''Sauce Tartare''
| コーラスガール
| [[ケンブリッジ・シアター]]
| 1949年5月18日初演
|-
|-
| 1950年
|style="text-align: center;" rowspan="3"| 1957 || [[パリの恋人]]<br />''[[:en:Funny Face|Funny Face]]'' ||ジョー・ストックトン||
| [[ソース・ピカンテ]]<br />''Sauce Piquante''
| 主役級
| ケンブリッジ・シアター
| 1950年4月27日初演
|-
|-
| 1951年 - 1952年
| [[ジジ (舞台)|ジジ]]<br />''[[:en:Gigi (1951 play)|Gigi]]''
| ジジ
| フルトン・シアター<br />[[:en:Fulton Theatre|Fulton Theatre]]
| 1951年11月24日初演、1952年5月31日終演<br />シアター・ワールド賞受賞
|-
|-
| 1952年 - 1953年
|| [[昼下りの情事]]<br />''[[:en:Love in the Afternoon (1957 film)|Love in the Afternoon]]'' ||アリアーヌ・シャバッス||
| ジジ<br />''{{lang|en|Gigi}}''
| ジジ
| アメリカ各地
| アメリカ巡業公演<br />1952年10月13日にピッツバーグで開幕、1953年5月16日にサンフランシスコで閉幕<br />その他、ボストン、クリーヴランド、シカゴ、デトロイト、ワシントン、ロサンゼルスで上演
|-
|-
| 1954年
| [[オンディーヌ (戯曲)|オンディーヌ]]<br />''Ondine''
| オンディーヌ
| リチャード・ロジャース・シアター<br />[[:en:Richard Rodgers Theatre|Richard Rodgers Theatre]]
| 1954年2月18日初演、1954年6月26日終演<br />[[トニー賞]] [[トニー賞 演劇主演女優賞|最優秀演劇女優賞]]受賞
|-
|-
| 1990年
|マイヤーリンク<br />''[[:en:Mayerling (1957 TV film)|Mayerling]]''
| アンネ・フランクの日記より<br />''From the Diary of Anne Frank''
||[[マリー・フォン・ヴェッツェラ]]<br />''[[:en:Baroness Mary Vetsera|Maria Vetsera]]
| 朗読
||1957年2月24日放送のアメリカNBC製作のテレビドラマ<br />ビデオ・DVD未発売
| アメリカ各地
| 1990年3月19日〜25日<br />[[マイケル・ティルソン・トーマス]]作曲・指揮、[[ニューワールド交響楽団]]演奏。<br />フィラデルフィア、マイアミ、シカゴ、ヒューストン、ニューヨークで上演。
|-
|-
|1991年
|style="text-align: center;" rowspan="2"| 1959 || [[緑の館 (映画)|緑の館]]<br />''[[:en:Green Mansions (film)|Green Mansions]]'' ||リマ||
| アンネ・フランクの日記より<br />''From the Diary of Anne Frank''
|-
| 朗読
|-
| ロンドン
| [[尼僧物語]] <br />''[[:en:The Nun's Story (film)|The Nun's Story]]'' || ガブリエル(シスター・ルーク) || 英国アカデミー賞イギリス女優賞受賞<br />ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞受賞
| 1991年5月<br />マイケル・ティルソン・トーマス作曲・指揮、[[ロンドン交響楽団]]演奏([[レナード・バーンスタイン]]の助言によりフィナーレがアメリカ版から手直しされた{{Sfn|パリス 下巻|1998|p=256}})
|-
|}
|style="text-align: center;"| 1960 || [[許されざる者 (1960年の映画)|許されざる者]]<br />''[[:en:The Unforgiven (1960 film)|The Unforgiven]]'' ||レーチェル・ザカリー ||

|-
{| class="wikitable sortable" width="100%"
|style="text-align: center;" rowspan="2"| 1961 || [[ティファニーで朝食を]]<br />''[[:en:Breakfast at Tiffany's (film)|Breakfast at Tiffany's]]'' ||ホリー・ゴライトリー ||
|+ 日本のみの新規撮り下ろしテレビ・コマーシャル
|-
|-
! width="5%"| 放送年
| [[噂の二人]]<br />''[[:en:The Children's Hour (film)|The Children's Hour]]'' || カレン・ライト||
! width="25%"| 商品名
! class="unsortable" width="45%" | 備考
|-
|-
| 1971-1972年
|style="text-align: center;"| 1963 || [[シャレード (1963年の映画)|シャレード]]<br />''[[:en:Charade|Charade]]'' || レジーナ・ランパート || 英国アカデミー賞イギリス女優賞受賞
| エクスラン・ヴァリーエ
|-
| 撮影は1971年5月<ref name=":4">{{Cite book|和書 |title=「[[SCREEN (雑誌)|スクリーン]]」1971年9月号 |date=7月21日発売 |publisher=[[近代映画社]] |pages=128-131 |chapter=オードリー・ヘプバーン コマーシャルフィルム ロケ撮影記}}</ref>。当時ヘプバーンが住んでいたローマ近郊で撮影された<ref name=":4" />。[[日本エクスラン工業]]がかつて販売していたウィッグのCM<ref name=":4" />。<br />[[ACC (社団法人)|ACC]] CMフェスティバル(第12回テレビフィルムCM部門秀作賞)受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bpcj.or.jp/search/show_detail.php?program=150746 |title=ヴァリーエ「かわるがわるかえるかわった」 |access-date=2023-08-06 |publisher=公益財団法人 放送番組センター 放送ライブラリー}}</ref>。
|style="text-align: center;" rowspan="2"| 1964 || [[パリで一緒に]]<br />''[[:en:Paris When It Sizzles|Paris When It Sizzles]]'' ||ガブリエル・シンプソン||
|-
| [[マイ・フェア・レディ_(映画)|マイ・フェア・レディ]]<br />''[[:en:My Fair Lady (film)|My Fair Lady]]'' || イライザ・ドゥーリトル ||
|-
|style="text-align: center;"| 1966 || [[おしゃれ泥棒]]<br />''[[:en:How to Steal a Million|How to Steal a Million]]''||ニコル・ボネ||
|-
|style="text-align: center;" rowspan="2"| 1967 || [[いつも2人で]]<br />''[[:en:Two for the Road (1967 film)|Two for the Road]]'' ||ジョアンナ・ウォレス||
|-
| [[暗くなるまで待って (映画)|暗くなるまで待って]]<br />''[[:en:Wait Until Dark (film)|Wait Until Dark]]'' ||スージー・ヘンドリクス||
|-
|style="text-align: center;"| 1976 || [[ロビンとマリアン]]<br />''[[:en:Robin and Marian|Robin and Marian]]''||Lady Marian||
|-
|style="text-align: center;"| 1979 || [[華麗なる相続人]]<br />''[[:en:Bloodline (film)|Bloodline]]''||エリザベス||
|-
|style="text-align: center;"| 1981 || [[ニューヨークの恋人たち]]<br />''[[:en:They All Laughed|They All Laughed]]''||アンジェラ||
|-
|style="text-align: center;"| 1987 || [[おしゃれ泥棒2]]<br />''[[:en:Love Among Thieves|Love Among Thieves]]''||カロリーヌ||
|-
|style="text-align: center;"| 1989 || [[オールウェイズ (映画)|オールウェイズ]]<br />''[[:en:Always (1989 film)|Always]]''||天使ハップ||
|-
|-
| 1982年
| 銀座リザ
| [[ワールド (企業)|ワールド]]の旗艦店「銀座リザ」立ち上げの際に製作<ref>{{Cite web |url=https://corp.world.co.jp/company/history/ |title=沿革 |access-date=2023-08-06 |publisher=株式会社ワールド}}</ref>。
|}
|}


== 日本語文献 ==
== 受賞 ==
『the audrey hepburn treasures』には巻末にヘプバーンが受賞、あるいはノミネートされた賞や名誉が117掲載されている。詳細は『{{仮リンク|オードリー・ヘプバーンの受賞リスト|en|List of awards and honours received by Audrey Hepburn|}}』を参照。
:購入しやすい本のみ。
*『オードリー・ヘプバーン オートグラフ・コレクション』 [[近代映画社]]、2008年 (ISBN 9784764822214)
*ヘップバーン・フェラー・ショーン 『母、オードリーのこと』 実川元子訳 [[竹書房]]、2004年
*ボブ・ウィロビー写真 『世にも素敵なオードリー王国 ヘプバーン写真集』 [[山本容子]]・文 [[講談社]]+α文庫 2003年
* 清藤秀人 『オードリー・ヘプバーン98の真実』 近代映画社、2007年
* 『オードリー・ヘプバーン 世界を魅了した20作ヒロイン集』 近代映画社、2004年
*『オードリー・ヘプバーンスタイル』 近代映画社 2003年
*チャールズ・ハイアム 『オードリー・ヘプバーン 映画に燃えた華麗な人生』 柴田京子訳、近代映画社 1986年
*バリー・パリス 『オードリー・ヘップバーン』 永井淳訳、集英社 1998年(2001年の文庫版タイトルは『オードリー・ヘップバーン物語』)
* {{Cite book|和書|author=パメラ.クラーク・キオ|year=2000|title=オードリー・スタイル ~エレガントにシックにシンプルに|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062105323|ref=キオ 2000}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[オードリー・ヘプバーン (映画)]] - 彼女を基にしたドキュメンタリー映画。2022年5月6日劇場公開。
* [[国際連合児童基金]]
* [[オードリー・ヘプバーンの黒いジバンシィドレス]] - [[リトル・ブラック・ドレス]]の一種。[[ユベール・ド・ジバンシィ]]によってデザインされたもので、このドレスは該当するカテゴリーにおいて最も有名な[[被服]]である。
* [[池田昌子]] - 日本語版の吹き替え声優、CMでも担当している。
* [[池田昌子]] - オードリーの専属([[フィックス]])声優として<ref>{{Cite web|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000743.000008010.html|title=豪華レジェンド声優陣集結の日本語吹替版も独占初公開!STAR CHANNEL MOVIES『オードリー・ヘプバーン』早くもBS10 スターチャンネルにて9月17日(土)、独占プレミア放送決定!|publisher=[[PR TIMES]]|date=2022-08-06|accessdate=2023-11-05}}</ref><ref name="foxjapan">{{Cite interview|和書|subject=池田昌子|interviewer=村上健一|url=https://video.foxjapan.com/library/fukikae/interview/interview01/|title=インタビュー ~吹替の現場から~ vol.1 池田昌子|work=[[吹替の帝王]]|publisher=[[20世紀スタジオ ホーム エンターテイメント|20世紀フォックス]]|accessdate=2023-01-03|deadlink=2023-01-03|archiveurl=https://web.archive.org/web/20191206180157/https://video.foxjapan.com/library/fukikae/interview/interview01/|archivedate=2019-12-06}}</ref>、ほとんどの作品で日本語吹き替えを担当している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fukikaekingdom.com/post-1612/ |title=池田昌子さんインタビュー |publisher= 吹替キングダム|date=2015-11-20 |accessdate=2023-09-18}}</ref>。初めて担当した作品は、1968年にテレビ放送された『許されざる者』<ref>{{Cite|和書|author=[[テレビ朝日]]|title=映画はブラウン館の指定席で―淀川長治と『日曜洋画』の20年|date=1986|page=70|publisher=全国朝日放送|isbn=4881310798}}</ref>。
* [[オードリー・ヘプバーン物語]] - 2000年放送の[[テレビ映画]]
* 『{{仮リンク|オードリー・ヘプバーン物語|en|The Audrey Hepburn Story}} 』- 2000年にヘプバーンの半生(『ティファニーで朝食を』まで)がテレビ映画化された。このテレビ映画でヘプバーン役を演じたのは[[ジェニファー・ラブ・ヒューイット]]で、少女時代のヘプバーンは[[エミー・ロッサム]]が演じた<ref>{{cite news|last=Tynan|first=William|url=https://time.com/time/magazine/article/0,9171,996489,00.html|title=The Audrey Hepburn Story|work=TIME|date=200-3-27|accessdate=2010-3-10}}</ref>。
* [[加藤タキ]] - テレビCMをコーディネート。
* [[オードリー (テレビドラマ)]] - [[2000年]] - [[2001年]]にかけて放送された[[日本放送協会|NHK]]の[[連続テレビ小説]]。タイトルは主人公が「オードリー」とあだ名をつけられたことに由来する。
* [[オードリー (お笑いコンビ)]] - コンビ名は彼女の名前に由来する。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{reflist}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|author=ショーン・ヘプバーン・フェラー(ファーラー)|date=2004年5月18日|year=|title=AUDREY HEPBURN―母、オードリーのこと|translator=実川元子|publisher=竹書房|isbn=978-4812416686|ref={{SfnRef|竹書房|2004}} }}
* {{Citation|和書|author=ルカ・ドッティ|date=2016年6月1日(改訂版2019年)|year=|title=オードリー at Home|translator=網野千代美|publisher=株式会社フォーイン スクリーンプレイ事業部|isbn=978-4-89407-552-8|ref={{SfnRef|ドッティ|2016}} }}
* {{Citation|和書|author=チャールズ・ハイアム|date=1986年3月15日|year=|title=オードリー・ヘプバーン 映画に燃えた華麗な人生|translator=柴田京子|publisher=[[近代映画社]]|isbn=978-4764813212|ref={{SfnRef|ハイアム|1986}} }}
* {{Citation|和書|author=バリー・パリス|date=1998年5月4日|year=|title=オードリー・ヘップバーン 上巻(2001年の文庫版タイトルは『オードリー・ヘップバーン物語』)|translator=永井淳|publisher=[[集英社]]|isbn=978-4087732894|ref={{SfnRef|パリス 上巻|1998}} }}
* {{Citation|和書|author=バリー・パリス|date=1998年5月4日|year=|title=オードリー・ヘップバーン 下巻(2001年の文庫版タイトルは『オードリー・ヘップバーン物語』)|translator=永井淳|publisher=[[集英社]]|isbn=978-4087732955|ref={{SfnRef|パリス 下巻|1998}} }}
* {{Citation|和書|author=アレグザンダー・ウォーカー|date=2003年1月20日|year=|title=オードリー リアル・ストーリー|translator=斎藤静代|publisher=株式会社アルファベータ|isbn=978-4871984676|ref={{SfnRef|ウォーカー|2003}} }}
* {{Citation|和書|author=イアン・ウッドワード|date=1993年12月25日|year=|title=オードリーの愛と真実|translator=坂口玲子|publisher=[[日本文芸社]]|isbn=978-4537023886|ref={{SfnRef|ウッドワード|1993}} }}
* {{Citation|和書|author=ロビン・カーニー|date=1994年1月20日|year=|title=ライフ・オブ・オードリー・ヘップバーン|translator=中俣真知子|publisher=[[キネマ旬報社]]|isbn=978-4873760759|ref={{SfnRef|カーニー|1994}} }}
* {{Citation|和書|author=パメラ・クラーク・キオ|date=2000年12月18日|year=|title=オードリー・スタイル 〜エレガントにシックにシンプルに|translator=坂口玲子|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062105323|ref={{SfnRef|クラーク・キオ|2000}} }}
* {{Citation|和書|author=ステファニア・リッチ|date=2001年6月1日|year=|title=オードリー・ヘプバーン:私のスタイル|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=978-4022586742|ref={{SfnRef|リッチ|2001}} }}
* {{Citation|和書|date=2004年5月22日|title=timeless audrey|translator=坂口玲子|publisher=シーボルト・ブックス|ref={{SfnRef|シーボルト・ブックス|2004}} }}
* {{Citation|和書|author=エレン・アーウィン&ジェシカ・Z・ダイヤモンド|date=2006年9月25日|year=|title=the audrey hepburn treasures|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062134934|ref={{SfnRef|アーウィン&ダイヤモンド|2006}} }}
* {{Citation|和書|author=ジェリー・バーミリー|date=1997年6月13日|year=|title=スクリーンの妖精 オードリー・ヘップバーン|translator=河村美紀|publisher=[[シンコー・ミュージック]]|isbn=978-4401615766|ref={{SfnRef|バーミリー|1997}} }}
* {{Citation|和書|author=サム・ワッソン|date=2011年10月31日|year=|title=オードリー・ヘプバーンとティファニーで朝食を オードリーが創った、自由に生きる女性像|translator=清水晶子|publisher=マーブルトロン発行、[[中央公論新社]]発売|isbn=978-4-12-390314-1|ref={{SfnRef|ワッソン|2011}} }}
* {{Citation|和書|author=エレン・フォンタナ&ショーン・ヘプバーン・ファーラー|date=2011年11月25日|year=|title=AUDREY100 オードリー物語 100枚の写真に秘められた伝説|translator=松井貴子|publisher=二見書房|isbn=978-4576111452|ref={{SfnRef|フォンタナ&ファーラー|2011}} }}
* {{Citation|和書|date=1971年12月20日|year=|title=シネアルバム5 オードリー・ヘプバーン きらめく真珠のように夢みる白鳥のように|publisher=[[芳賀書店]]|editor=南俊子|ref={{SfnRef|芳賀書店|1971}} }}
* {{Citation|和書|date=1977年1月25日|year=|title=カタログ オードリー・ヘプバーン|translator=|publisher=[[雄鶏社]]|ref={{SfnRef|カタログ オードリー・ヘプバーン|1977}} }}
* {{Citation|和書|date=1966年11月10日|year=|title=[[映画の友]] 11月号臨時増刊 オードリイ・ヘップバーン全集|translator=|publisher=映画の友社|ref={{SfnRef|オードリイ・ヘップバーン全集|1966}} }}
* シュプール特別編集『永遠のオードリー・ヘップバーン』集英社、1993年5月5日。
* {{Citation|和書|date=2008年7月15日|year=|title=永遠のファッション・アイコン オードリーに学ぶおしゃれ練習帳|author=清藤秀人|publisher=[[近代映画社]]|isbn=978-4-7648-2189-7|ref={{SfnRef|清藤|2008}} }}
* {{cite book|last=Harris|first=Warren G.|title=Audrey Hepburn: A Biography|year=1994|publisher=Simon & Schuster|isbn=9780671758004}}
* {{Cite book|last=Hepburn-Ferrer|first=Sean|year=2003|title=Audrey Hepburn, An Elegant Spirit: A Son Remembers|publisher=Atria|isbn=0-671-02478-7}}
* {{Cite book|author=Paris, Barry|year=1997|title=Audrey Hepburn|publisher=Weidenfeld & Nicolson|isbn=978-0-297-81728-4}}
* {{Cite book|author=Walker, Alexander|year=1994|title=Audrey: Her Real Story|publisher=Weidenfeld & Nicholson|isbn=978-1-85797-352-5}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{commons|Audrey Hepburn}}
{{commons&cat|Audrey Hepburn}}
{{wikiquotelang|en|Audrey Hepburn}}
* [http://www.audreyhepburn.com/ Audrey Hepburn Official site]{{en icon}}
* {{NYTtopic|people/h/audrey_hepburn}}
* {{imdb name | id = 30 | name = Audrey Hepburn }}
* {{allcinema name|42469}}
* {{Worldcat id|lccn-n84-66746}}
* {{IMDb name|0000030|Audrey Hepburn}}
* {{IBDB name|44925|Audrey Hepburn}}
* {{tcmdb name|85047|Audrey Hepburn}}
* {{Amg name|31869|Audrey Hepburn}}
* {{allcinema name|id=42469|name=オードリー・ヘプバーン}}


{{Navboxes
{{アカデミー賞主演女優賞 1941-1960}}
|title = オードリー・ヘプバーンの受賞歴
|list =
{{アカデミー賞主演女優賞}}
{{ジーン・ハーショルト友愛賞}}
{{ジーン・ハーショルト友愛賞}}
{{英国アカデミー賞主演女優賞}}
{{Normdaten|PND=118746731|LCCN=n/84/66746|VIAF=66543141}}
{{ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)}}
{{ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞}}
{{全米映画俳優組合賞生涯功労賞}}
}}
{{EGOT}}
{{Normdaten}}
{{Good article}}

{{DEFAULTSORT:へふはあん おおとりい}}
{{DEFAULTSORT:へふはあん おおとりい}}
[[Category:グランドの俳優]]
[[Category:オードリー・ヘプバー|*]]
[[Category:1929年生]]
[[Category:1993年没]]
[[Category:20世紀イギリスの女優]]
[[Category:20世紀オランダの人物]]
[[Category:20世紀アメリカ合衆国の女優]]
[[Category:アメリカ合衆国の人道支援家]]
[[Category:イングランドの人道支援家]]
[[Category:女性の人道支援家]]
[[Category:イングランドの女優]]
[[Category:大統領自由勲章受章者]]
[[Category:大統領自由勲章受章者]]
[[Category:アカデミー賞受賞者]]
[[Category:アカデミー賞受賞者]]
377行目: 887行目:
[[Category:ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]
[[Category:ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]
[[Category:ブリュッセル出身の人物]]
[[Category:ブリュッセル出身の人物]]
[[Category:フリジア系人]]
[[Category:オランダ系イギリス人]]
[[Category:オランダ系イギリス人]]
[[Category:イギリス系オランダ人]]
[[Category:アイルランド系イギリス人]]
[[Category:オーストリア系イギリス人]]
[[Category:チェコ系イギリス人]]
[[Category:オランダの貴族]]
[[Category:オランダの貴族]]
[[Category:1929年生]]
[[Category:ジーン・ハーショルト友愛賞受賞者]]
[[Category:1993年没]]
[[Category:アイルランド系イギリス人]]

{{Link FA|hr}}
{{Link FA|it}}
{{Link FA|mk}}

{{Link FA|vi}}
{{Link GA|fr}}

2024年11月28日 (木) 16:02時点における最新版

オードリー・ヘプバーン
Audrey Hepburn
Audrey Hepburn
1956年のヘプバーン
本名 オードリー・キャスリーン・ヘプバーン=ラストン(: Audrey Kathleen Hepburn-Ruston[1]
生年月日 (1929-05-04) 1929年5月4日
没年月日 (1993-01-20) 1993年1月20日(63歳没)
出生地 ベルギーの旗 ベルギー ブリュッセルイクセル
死没地 スイスの旗 スイス ヴォー州
国籍 イギリスの旗 イギリス
身長 170cm[2]
職業 女優
ジャンル 映画舞台テレビドラマ
活動期間 1948年 - 1989年(女優)
配偶者 メル・ファーラー(1954年 - 1968年)
アンドレア・ドッティ(1969年 - 1982年)
著名な家族 息子:ショーン・ヘプバーン・ファーラー(1960年生)
息子:ルカ・ドッティ(1970年生)
孫:エマ・ファーラー(1994年生)
主な作品
ローマの休日』(1953年)
麗しのサブリナ』(1954年)
パリの恋人』(1957年)
昼下りの情事』(1957年)
ティファニーで朝食を』(1961年)
シャレード』(1963年)
マイ・フェア・レディ』(1964年)
おしゃれ泥棒』(1966年)
いつも2人で』(1967年)
暗くなるまで待って』(1967年)
受賞
アカデミー賞
主演女優賞
1953年ローマの休日
ジーン・ハーショルト友愛賞
1992年
ニューヨーク映画批評家協会賞
主演女優賞
1953年ローマの休日
1959年尼僧物語
AFI賞
映画スターベスト100
1998年(女優部門第3位)
アメリカ映画主題歌ベスト100(第4位)
2004年ムーン・リバー
英国アカデミー賞
英国女優賞
1954年『ローマの休日
1960年『尼僧物語
1965年『シャレード
特別賞
1992年[3][4][5]
エミー賞
情報番組個人業績賞
1993年オードリー・ヘプバーンの庭園紀行
グラミー賞
児童向け朗読アルバム賞
1994年『オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語』
ゴールデングローブ賞
主演女優賞 (ドラマ部門)
1953年ローマの休日
セシル・B・デミル賞
1989年
全米映画俳優組合賞
生涯功労賞
1992年
トニー賞
演劇主演女優賞
1954年『オンディーヌ
特別賞
1968年
その他の賞
ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞
外国女優賞
1960年『尼僧物語』
1962年『ティファニーで朝食を』
1965年『マイ・フェア・レディ』
サン・セバスティアン国際映画祭
女優賞
1959年『尼僧物語』
ゴールデン・ローレル賞
女性コメディ演技賞
1958年『昼下りの情事』
テンプレートを表示
ヘプバーンのサイン

オードリー・ヘプバーン: Audrey Hepburn1929年5月4日 - 1993年1月20日)は、イギリス人女優ヘップバーンとも表記される。ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびにファッション界のアイコンとして知られる。アメリカン・フィルム・インスティチュート (AFI) の「最も偉大な女優50選」では第3位にランクインし、インターナショナル・ベスト・ドレッサーに殿堂入りしている。

ブリュッセルイクセルで生まれ、幼少期をベルギーイングランドで過ごした。オランダにも居住した経験があり、第二次世界大戦中にはドイツ軍が占領していたオランダアーネムに住んでいたこともあった。古い資料の一部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」とするものがある。これは、戦時中にドイツ軍占領下にあったオランダで、「オードリー」の名があまりにイギリス風であることを心配した母・エラが、自らの証明書の1つに手を加えた(EllaEddaとした)偽名である[6]。5歳ごろからバレエを初め、アムステルダムではソニア・ガスケル英語版のもとでバレエを習い、1948年にはマリー・ランバートにバレエを学ぶためにロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞台に立った経験がある。

イギリスで数本の映画に出演した後に、1951年のブロードウェイ舞台作品『ジジ』で主役を演じ、1953年には『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得した。その後も『麗しのサブリナ』(1954年)、『尼僧物語』(1959年)、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『暗くなるまで待って』(1967年)などの人気作、話題作に出演している。女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞英国アカデミー賞を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品であるオンディーヌトニー賞 演劇主演女優賞を受賞している。ヘプバーンは死後にグラミー賞エミー賞も受賞しており、アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっている。

70年代以降、後半生の多くの時間を国際連合児童基金(ユニセフ)の仕事に捧げた。ユニセフ親善大使として1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。1992年終わりにアメリカ合衆国で文民の最高勲章である大統領自由勲章を授与されたが受勲一か月後の1993年に、ヘプバーンはスイスの自宅で虫垂癌により63歳で死去した[7][8][9]

前半生

[編集]

ヘプバーンは、1929年5月4日にベルギーの首都ブリュッセルイクセルに生まれ、オードリー・キャスリーン・ラストンと名付けられた[6]

父親はオーストリア・ハンガリー帝国ボヘミアのウジツェ出身のジョゼフ・ヴィクター・アンソニー・ラストン(1889年 - 1980年)である[10][11][注釈 1]。ジョゼフの母親はオーストリア系で[注釈 2]、父親はイギリス、オーストリア系だった[14]。ジョゼフはヘプバーンの母エラと再婚する以前に、オランダ領東インドで知り合ったオランダ人女性と結婚していたことがある[15]。ジョゼフはヘプバーンの各伝記によって銀行家など様々な職業とされているが、実際は一度もまともに職業に就いたことはない[16][17]。趣味は一流で13か国語の話者であった[18]

ヘプバーンの母エラ・ファン・ヘームストラ(1900年 - 1984年)はバロネスの称号を持つオランダ貴族だった[19][20][21]。エラの父親は男爵アールノート・ファン・ヘームストラ英語版で、1910年から1920年にかけてアーネム市長を、1921年から1928年にかけてスリナム総督を務めた政治家である[21][22][23]。エラの母親もオランダ貴族の出身だった[24]。エラは19歳のときに、ナイト爵位を持つヘンドリク・グスターフ・アドルフ・クアレス・ファン・ユフォルトと結婚したが、1925年に離婚している[25]。エラとヘンドリクの間には、ヘプバーンの異父兄のアールノート・ロベルト・アレクサンデル・クアレス・ファン・ユフォルト(1920年 - 1979年)と、イアン・エドハル・ブルーセ・クアレス・ファン・ユフォルト(1924年 - 2010年)の二人の男子が生まれている[26][25][27]

ジョゼフとエラは、1926年9月にバタヴィア(現・ジャカルタ)で結婚式を挙げた[19][25][27]。その後二人はイギリスの生活を経てベルギーのイクセルへ移住し、1929年にオードリー・ヘプバーンが生まれた[28]。一家は1932年1月にリンケベークへと移住している[29][30]。ヘプバーンはベルギーで生まれたが、父ジョゼフの家系を通じてイギリス国籍を持っていた[31]

結婚後、家系図マニアだったエラは、ジョゼフの祖父(ヘプバーンの曽祖父)の妻にスコットランド女王メアリの3番目の夫である第4代ボスウェル伯ジェームズ・ヘプバーンの末裔がいるのを発見し[32][33]、それを機にヘプバーン=ラストンを公式に使用するようになった[32][34]。そのためオードリーの戸籍上でもヘプバーンが足されることになった[35]。1948年、ハーグの英国大使館にて発行されたヘプバーンの身分証明には“オードリー・ヘプバーン=ラストン”と書かれており[36][37]、1982年以降のパスポートにはオードリー・K・ヘプバーンと書かれている[38][39][注釈 3]。ジョゼフもオードリーも死ぬまで自分がヘプバーン家の血をひいていると信じていたが[40]、オードリーの従兄弟の調べたところによるとジョゼフの父は祖父の2番目の妻の子供であったため、ヘプバーン家の血は本当は入っていないと書かれている伝記もある[40]

幼少時代と第二次世界大戦期の少女時代

[編集]

ヘプバーンの両親は1930年代にイギリスファシスト連合に参加し[41][42]、父ジョゼフは過激なナチズムの信奉者となり、1935年5月に家庭を捨てて出て行った[42]。1939年6月、正式に離婚が成立している[43]。ジョゼフはイギリスに渡り、戦争が始まると逮捕されマン島で過ごした[44]。その後1960年代になってから、当時の夫メル・ファーラーの尽力でヘプバーンは赤十字社の活動を通じて父ジョゼフとダブリンで再会することができた[45][46][注釈 4]。その後もスイスの自宅で会っている[45]。ヘプバーンはジョゼフが死去するまで連絡を保ち、経済的な援助を続けている[45][46][47]。ジョゼフは愛情を表現できない人物であったが、1980年、ジョゼフが危篤状態になったとき、再度ダブリンを訪れたヘプバーンには話さなかったものの、同行したロバート・ウォルダーズ英語版に娘オードリーのことを大事に思っている、父親らしいことをしなかったことを後悔している、そして娘を誇りに思っていると伝えた[16]

ジョゼフが家庭を捨てた後、1935年にエラは子供たちと故郷のアーネムへと戻った[48]。このときエラの最初の夫との間の息子たちは、母エラと暮らしていたが、デン・ハーグにいる父親のもとで過ごすことも多かった[48]。1937年に幼いヘプバーンはイギリスのケントへと移住した[49]。ヘプバーンはイーラム (Elham) 村の小さな私立女学校に入学し、バレエにも通い始めた[50][51]第二次世界大戦が勃発する直前の1939年に、母エラは再度アーネムへの帰郷を決めた[52][53]。オランダは第一次世界大戦では中立国であり、再び起ころうとしていた世界大戦でも中立を保ち、ドイツからの侵略を免れることができると思われていたためである[52][54]。ヘプバーンは公立学校に編入し、1941年からはアーネム音楽院に通いウィニャ・マローヴァのもとでバレエを学んだ[55]。1940年にドイツがオランダに侵攻し、ドイツ占領下のオランダでは、オードリーの「イギリス風の響きを持つ」名は危険だと母エラは考え、ヘプバーンはエッダ・ファン・ヘームストラと偽名を名乗るった[56]。1942年に、母エラの姉ミーシェと結婚していたヘプバーンお気に入りの貴族の伯父オットー・ファン・リンブルク=シュティルムが、反ドイツのレジスタンス運動に関係したとして処刑された[57][58]。ヘプバーンの異父兄イアンは国外追放を受けてベルリンの強制労働収容所に収監されており、もう一人の異父兄アレクサンデルも弟イアンと同様に強制労働収容所に送られるところだったが、捕まる前に身を隠している[59][60][61]。オットーが処刑された後に、エラ、ヘプバーン母娘と夫を亡くしたミーシェは、ヘプバーンの祖父アールノート・ファン・ヘームストラとともに、ヘルダーラントのフェルプ近郊へと身を寄せた[62]。後にヘプバーンは回顧インタビューで「駅で貨車に詰め込まれて輸送されるユダヤ人たちを何度も目にしました。とくにはっきりと覚えているのが一人の少年です。青白い顔色と透き通るような金髪で、両親と共に駅のプラットフォームに立ち尽くしていました。そして、身の丈にあわない大きすぎるコートを身につけたその少年は列車の中へと呑み込まれていきました。そのときの私は少年を見届けることしか出来ない無力な子供だったのです」と語っている[63][64][注釈 5]

1943年ごろには、ヘプバーンはオランダの反ドイツレジスタンスのために、秘密裏にバレエの公演を行って資金稼ぎに協力していた[65]。ヘプバーンはこのときのことを「私の踊りが終わるまで物音ひとつ立てることのない最高の観客でした」と振り返っている[65]。連合国軍がノルマンディーに上陸しても一家の生活状況は好転せず、アーネムは連合国軍によるマーケット・ガーデン作戦の砲撃にさらされ続けた。当時のオランダの食料、燃料不足は深刻なものとなっていた。1944年にオランダ大飢饉が発生したときも、ドイツ占領下のオランダで起こった鉄道破壊などのレジスタンスによる妨害工作の報復として、物資の補給路はドイツ軍によって断たれたままだった。飢えと寒さによる死者が続出し、ヘプバーンたちはチューリップの球根を食べて飢えをしのぐ有様だった[66][67][68]。当時のヘプバーンは何もすることがなければ絵を描いていたことがあり、少女時代のヘプバーンの絵が今も残されている[69][70]。大戦中にヘプバーンは栄養失調に苦しみ、戦況が好転しオランダが解放された時には貧血喘息黄疸水腫にかかっていた[71]。ヘプバーンの回復を助けたのは、ユニセフの前身の連合国救済復興機関(UNRRA)から届いた食料と医薬品だった[72][73]。ヘプバーンは後年に受けたインタビューの中で、このときに配給された物資から、砂糖を入れすぎたオートミールとコンデンスミルクを一度に平らげたおかげで激しく吐いてしまい、もう体が食べ物を受け付けなくなったと振り返っている[73]。そして、ヘプバーンが少女時代に受けたこれらの戦争体験が、後年のユニセフへの献身につながったといえる[68]

女優業

[編集]

キャリア初期

[編集]

1945年の第二次世界大戦終結後に兄2人が帰ってきて独立すると、10月に母エラとオードリーはアムステルダムへと移住した[74]。アムステルダムでヘプバーンは3年にわたってソニア・ガスケルにバレエを学び、オランダでも有数のバレリーナとなっていった[75]。1948年にヘプバーンは初めて映像作品に出演している。教育用の旅行フィルム『オランダの七つの教訓』で、ヘプバーンの役どころはオランダ航空のスチュワーデスだった[76][77][78]。オランダでのバレエの師ガスケルからの紹介で、1948年にヘプバーンは母親と共にロンドンへと渡り、イギリスのバレエ界で活躍していたユダヤ系ポーランド人の舞踊家マリー・ランバートが主宰するランバート・バレエ団で学んだ。ヘプバーンが自身の将来の展望を尋ねたときに、ランバートはヘプバーンが優秀で、セカンド・バレリーナとしてキャリアを積める、この学校で教えていくことで生活もできる、と答えた[79]。ヘプバーンは170cmの高身長と[80]、体格や筋肉を形成する成長期に第二次世界大戦下で十分な栄養が摂れず、練習も満足にできなかったことから[81]、ヘプバーンがプリマ・バレリーナになることは難しいと言われている[82][83][84]。ヘプバーンのバレリーナへの夢はこの時に潰え、演劇の世界で生きていくことを決心した[81][85]

ヘプバーンが出演した舞台劇として、ロンドンのロンドン・ヒッポドローム劇場で上演された『ハイ・ボタン・シューズ』(1948年)、ウエスト・エンドのケンブリッジ・シアターで上演されたセシル・ランドーの『ソース・タルタル』(1949年)と『ソース・ピカンテ』(1950年)がある。舞台に立つようになってから、ヘプバーンは自身の声質が舞台女優としては弱いことに気付き、高名な舞台俳優フェリックス・エイルマーのもとで発声の訓練を受けたことがある[86][87]。『ソース・ピカンテ』の出演時に、イギリスの映画会社アソシエイテッド・ブリティッシュ・ピクチュア・コーポレーションの配役担当者に認められたヘプバーンは、フリーランスの女優としてイギリスの映画俳優リストに登録されたが、依然としてウエスト・エンドの舞台にも立っていた[8]。1950年に映画に出演するようになり、『素晴らしき遺産』、『若気のいたり』、『ラベンダー・ヒル・モブ』、『若妻物語』といった作品が1951年に公開された。1951年2月にはソロルド・ディキンスン英語版の監督作品『初恋』に、主人公の妹役で出演した[88][89]。ヘプバーンは1952年に公開されたこの映画で優れた才能を持つバレリーナを演じており、バレエのシーンではヘプバーンが踊っている姿を見ることができる[90]

1951年にヘプバーンはフランス語と英語で撮影される『モンテカルロへ行こう』への出演依頼を受け、フランスのリヴィエラでの撮影ロケに参加した。この現場に、当時自身が書いたブロードウェイ戯曲『ジジ』の主役・ジジを演じる女優を探していたフランス人女流作家シドニー=ガブリエル・コレットが訪れた。そしてコレットがヘプバーンを見て「私のジジを見つけたわ!」と言った有名なエピソードがある[91][92][93][94][95]

『ジジ』出演決定後、同時期にパラマウントの英国の制作部長の推薦で『ローマの休日』の王女役のテストが行われることになった[96][97][98]。ベッドで寝ているシーンを撮り、「カット」の声がかかった後に起き上がったヘプバーンだが、実はまだカメラは回っていた[99][100][97][98]。そこで見せた笑顔と反応を見た監督ウィリアム・ワイラーとパラマウント本社はヘプバーンを王女役に決定した[99][100][101][注釈 6]。ヘプバーンは映画撮影の合間には舞台やテレビ出演も認める条件でパラマウント映画社と契約した[102][98][103][注釈 7]

『ジジ』は3回の試演の後、1951年11月24日にブロードウェイフルトン・シアター英語版で初演を迎えたが、批評は絶賛の嵐だった[104]。劇場入り口には「『ジジ』 出演オードリー・ヘプバーン」と掲出されていたが、公演1週間後には「オードリー・ヘプバーン主演の『ジジ』」に改められた[105][106][107]。『ジジ』の総公演回数は219回を数え、1952年5月31日に千秋楽を迎えた[108]。ヘプバーンはこのジジ役で、ブロードウェイ、オフ・ブロードウェイで初舞台を踏んだ優れた舞台俳優に贈られるシアター・ワールド・アワード英語版を受賞している[108]。『ローマの休日』撮影終了後、『ジジ』は1952年10月13日のピッツバーグ公演を皮切りにアメリカ各地を巡業し、1953年5月16日のサンフランシスコ公演を最後に、ボストン、クリーヴランド、シカゴ、デトロイト、ワシントン、ロサンゼルスで上演された[109]

『ローマの休日』

[編集]
ローマの休日』の衣装のテスト時のヘプバーン(1952年)。この写真は映画の宣伝素材としても使用された。

1952年夏に撮影が始まったアメリカ映画『ローマの休日』(公開は1953年)で、ヘプバーンは初の主役を射止めた。『ローマの休日』はイタリアのローマを舞台とした作品で、ヘプバーンは王族としての窮屈な暮らしから逃げ出し、グレゴリー・ペックが演じたアメリカ人新聞記者と恋に落ちるヨーロッパ某国の王女アンを演じた。『ローマの休日』の製作者は、当初アン王女役にエリザベス・テイラージーン・シモンズを望んでいたが、どちらも出演できなかった[110][111][101][112]

製作当初は、主演としてグレゴリー・ペックの名前が作品タイトルの前に表示され、ヘプバーンの名前はタイトルの後に共演として載る予定だった[113]。しかしペックは撮影が始まってすぐ[注釈 8]に自分のエージェントに問い合わせ、自分と対等にするように要求[114][113]。エージェントもスタジオも最初は渋ったが、ペックは「後で恥をかく。彼女は初めての主演でアカデミー賞を手にするぞ」と主張[注釈 9]、ヘプバーンの名前は作品タイトルが表示される前に、ペックの名前と同じ主演として表示することになった[113]。各国のポスターなどの宣材でもペックと同等の扱いになった[115]

ニューヨーク・タイムズ』では「このイギリスの女優はスリムで妖精のようで、物思いに沈んだ美しさを持ち、反面堂々としていて、新しく見つけた単純な喜びや愛情に心から感動する無邪気さも兼ね備えている。恋の終わりに勇敢にも謝意を表した笑顔を見せるが、彼女の厳格な将来に立ち向かって気の毒なくらい寂しそうな姿が目に残る」と評されている[116]。ヘプバーンの人気は高まり、1953年9月に『タイム』誌、12月には『LIFE』誌とアメリカのメジャー誌の表紙を飾った[117][118]。『ローマの休日』のヘプバーンは評論家からも大衆からも絶賛され、アカデミー主演女優賞のほかに、英国アカデミー最優秀主演英国女優賞ゴールデングローブ主演女優賞をヘプバーンにもたらした。

『麗しのサブリナ』

[編集]
ウィリアム・ホールデンと共演した『麗しのサブリナ』(1954年公開)。

『ローマの休日』で大成功を収めたヘプバーンは、続いてビリー・ワイルダー監督の『麗しのサブリナ』に出演した。1953年に撮影され、1954年に公開されたこの作品は、お抱え運転手の娘で美しく成長したヘプバーン演じるサブリナが、ハンフリー・ボガートウィリアム・ホールデンが演じる富豪の兄弟の間で心が揺れ動く物語である。『ニューヨーク・タイムズ』紙では「彼女はその華奢な身体から限りなく豊かな感情と動作を生み出せる女性だ。彼女は昨年の王女役よりもこの役の方がはるかに光り輝いている[119]」と評された。ヘプバーンはこのサブリナ役でアカデミー主演女優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞最優秀主演英国女優賞を受賞した。

『麗しのサブリナ』が公開された1954年には、ブロードウェイの舞台作品『オンディーヌ』でメル・ファーラーと共演した。ヘプバーンはそのしなやかな痩身を活かして水の精オンディーヌを演じ、ファーラー演じる人間の騎士ハンスとの恋愛悲劇を繰り広げた。この作品について『ニューヨーク・タイムズ』は彼女には「魔力」があり、「熱狂するほど美しい」と評した[120]

そしてヘプバーンは『オンディーヌ』で1954年のトニー賞 演劇主演女優賞を受賞した。同じ年には前年の『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得しており、ヘプバーンはシャーリー・ブースに次いで2番目のトニー賞とアカデミー賞のダブル同年受賞者になった[121]。(その後、1974年にエレン・バースティンも受賞して3人になった[121]。2013年現在)。『オンディーヌ』で共演したヘプバーンとファーラーは、1954年9月25日にスイスで結婚式を挙げ[122][123][124][125][注釈 10]、二人の結婚は14年間続いた。

ヘプバーンは1955年にはゴールデングローブ賞の「世界でもっとも好かれた女優賞」を受賞し[126]、ファッション界にも大きな影響力を持つようになった。

『パリの恋人』と『昼下りの情事』

[編集]
戦争と平和』のヘプバーン。1956年公開。

ヘプバーンはハリウッドでもっとも集客力のある女優のひとりとなり、10年間にわたって話題作、人気作に出演するスター女優であり続けた。ヘンリー・フォンダ、夫メル・ファーラーらと共演した、ロシアの文豪レフ・トルストイの作品を原作とした1955年撮影の3時間28分の超大作『戦争と平和』(公開は1956年)のナターシャ・ロストワ役で、英国アカデミー賞とゴールデングローブ賞にノミネートされている。

1956年にはバレエで鍛えた踊りの能力を活かした最初のミュージカル映画『パリの恋人』に出演した。ヘプバーンはパリ旅行に誘い出された本屋の店員ジョー役で、フレッド・アステア演じるファッション・カメラマンに見出されて美しいモデルになっていく物語である。

この年には『昼下りの情事』にも出演しており、ゲイリー・クーパーモーリス・シュヴァリエと共演した。こちらはゴールデン・ローレル賞の最優秀女性コメディ演技賞を受賞し、ゴールデングローブ賞にもノミネートされている[127]。どちらも1957年に公開された。

1957年にはヘプバーンは映画出演を一切しておらず、唯一2月にテレビ映画『マイヤーリング』にのみ夫メル・ファーラーと共に出演している[128]

ヘプバーンは、1957年にアンネ・フランクの『アンネの日記』を題材とした映画作品への出演依頼を受けた[129][130][131][132]。監督のジョージ・スティーヴンスの頼みでアンネの父、オットー・フランクが出演を説得するためにオードリーに会いに来たが[129][131]、アンネと同年の生まれであるヘプバーンはアンネ役を引き受けることが「戦時中の記憶に戻るのが辛すぎる」[129]さらに「アンネの一生と死を出演料や名誉で自分の利益とするために利用する気になれない」として断っている[130]。最終的に映画のアンネ役はミリー・パーキンスが演じた[130]

『尼僧物語』

[編集]
緑の館』のヘプバーンとアンソニー・パーキンス。1959年公開。

1958年に入るとピーター・フィンチと共演した『尼僧物語』に出演する(公開は1959年)。この映画では心の葛藤に悩む修道女ルークを演じた。ヘプバーンは撮影前のキャラクターの準備のために、実際に修道院で数日過ごした[133]。『バラエティ』誌は「彼女としては最高の演技を見せてくれた」と評し、『フィルムズ・イン・レビュー』誌はヘプバーンの演技が「映画界でも最も優れた演技である」と評した[134]。公開されるとワーナー・ブラザーズ映画史上最大のヒットとなった[135][136]。ヘプバーンはこのルーク役で3度目となるアカデミー主演女優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞を獲得した。他にゴールデングローブ賞にもノミネートされている。

ヘプバーンは『尼僧物語』に続いて同じく1958年に『緑の館』に出演した(公開は1959年)。この作品でヘプバーンは、アンソニー・パーキンス演じるベネズエラ人アベルと恋に落ちる、密林で暮らす妖精のような少女リーマを演じた。監督は当時ヘプバーンの夫であったメル・ファーラーだった。

1959年にはヘプバーンが出演した唯一の西部劇許されざる者』(公開は1960年)でレイチェル役を演じた。レイチェルはバート・ランカスターリリアン・ギッシュが演じる家族に育てられたカイオワ族の娘で、取り戻しに来たカイオワ族と育ての家族の間で苦悩する役である。

『ティファニーで朝食を』

[編集]
ティファニーで朝食を』のオープニング・シーン。ヘプバーンが着用している黒のドレスはユベール・ド・ジバンシィがデザインしたものである。

ファーラーとの間の長男ショーンが生まれた3か月後の1960年10月に、ヘプバーンはブレイク・エドワーズの監督作品『ティファニーで朝食を』に出演した(公開は1961年)。この映画はアメリカ人小説家トルーマン・カポーティの同名の小説を原作としているが、原作からは大きく内容が変更されて映画化されている。カポーティは失望し、主役の気まぐれな娼婦ホリー・ゴライトリーを演じたヘプバーンのことも「ひどいミスキャストだ」と公言した[137][138]。これは、カポーティがホリー役にはマリリン・モンローが適役だと考えていたためだった[139]。ヘプバーンは撮影前には「この役に必要なのはとても外交的な性格だけど、私は内向的な人間だから」と自分のエージェントに不安を語っている[140][141]

映画のヘプバーンは高く評価されて1961年度のアカデミー主演女優賞とゴールデングローブ賞にノミネートされた。このホリー・ゴライトリーはヘプバーンを代表する役と言われることも多く[142]、清純派であったヘプバーンが清純でないホリーを演じて以来、映画の中の女性像が変わったと言われている[143]。『ティファニーで朝食を』の冒頭シーンで、ヘプバーンが身にまとっているジバンシィがデザインしたリトルブラックドレス(シンプルな黒のカクテルドレス) は、20世紀のファッション史を代表するリトルブラックドレスであるだけでなく、おそらく史上最も有名なドレスだと言われている[144][145][146][147]

噂の二人』(1961年)の予告編のシャーリー・マクレーンとヘプバーン。

ヘプバーンは1961年のウィリアム・ワイラー監督作品『噂の二人』で、シャーリー・マクレーンジェームズ・ガーナーと共演した。『噂の二人』はレズビアンをテーマとした作品で、ヘプバーンとマクレーンが演じる女教師が、学校の生徒に二人がレズビアンの関係にあると噂を流されてトラブルとなっていく物語だった。アメリカ映画協会が規則を改正し、レズビアンを取り上げた作品としてはハリウッドで最初の映画である[148][142]。当時の保守的な社会的背景のためか、映画評論家はあら探しをするばかりであったが[149]、『バラエティ』誌はヘプバーンの「柔らかな感性、深い心理描写と控えめな感情表現が見られる」と高く評価し、さらにヘプバーンとマクレーンを「互いを引き立てあう素晴らしい相手役」だと賞賛した[150]。アカデミー賞にも5部門でノミネートされている[151]

『シャレード』

[編集]
ケーリー・グラントと共演した『シャレード』(1963年公開)。

ヘプバーンは1962年に2本の映画を撮影した。1つ目は『パリで一緒に』で、『麗しのサブリナ』で共演したウィリアム・ホールデンと、9年ぶりにコンビを組んだ。パリで撮影されたこの作品は2年後の1964年に公開された。ヘプバーンの演技は「大げさに誇張された話のなかで、一服の清涼剤だった」と言われている[152]

後年のヘプバーンの伝記では、ホールデンがアルコール依存症になっていたことなどで撮影現場の雰囲気や状況が悪化し、撮影日数が遅れたと書かれている[153][154][155][156]。しかし、撮影中に実際に現場にいて宣伝写真を撮っていたボブ・ウィロビーによると、監督、ホールデン、ヘプバーンが「この撮影を通して人生をエンジョイしていた」「このときのオードリーは最高の輝きを見せていた」と逆のことを述べている[157]。ヘプバーン自身も息子ショーンに「パリで一緒に」の撮影はとても楽しかったと語っており、「映画を製作するときの体験とその出来栄えは関係ない」と述べている[158]

ヘプバーンは続いて『シャレード』でケーリー・グラントと共演した。ヘプバーンは、亡き夫が盗んだとされる金塊を求める複数の男たちに付け狙われる未亡人レジーナ・ランパートを演じている。かつてヘプバーンが主演した『麗しのサブリナ』と『昼下りの情事』の相手役にも目されていたグラントは撮影当時58歳で、年齢差がある当時33歳のヘプバーンを相手に恋愛劇を演じることに抵抗を感じていた。このようなグラントの意を汲んだ製作側は、ヘプバーンの方からグラントに心惹かれていく脚本に変更している[159][160][161]。グラントはヘプバーン個人に対しては好印象を持っており、「クリスマスに欲しいものは、ヘプバーンと共演できる新しい作品だ」と語った[162][163]。1963年に公開された時にヘプバーンはこの役で、三回目の英国アカデミー最優秀主演英国女優賞を獲得し、ゴールデングローブ賞にもノミネートされた。

『マイ・フェア・レディ』

[編集]
マイ・フェア・レディ』(1964年公開)の撮影現場。左は撮影監督のハリー・ストラドリング

1964年のミュージカル映画『マイ・フェア・レディ』(撮影は1963年)は、ジーン・リングゴールドが「『風と共に去りぬ』以来、これほど世界を熱狂させた映画はない」と1964年の『サウンドステージ』誌で絶賛した[164]。ジョージ・キューカーが監督したこの作品は、同名の舞台ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の映画化である。舞台でイライザ・ドゥーリトルを演じていたのはジュリー・アンドリュースだったが、製作のジャック・L・ワーナーがアンドリュースにスクリーン・テストを持ちかけたところ、アンドリュースは「スクリーン・テストですって?私があの役を立派にやれることを知っているはずよ」と拒否[165]。ワーナーは「映画未経験の君のスクリーン写りを確かめる必要がある」と言ったが、アンドリュースはテストを断った[165]。ジャック・L・ワーナーはワーナー映画史上最大の制作費1700万ドルを回収するために実績のあるヘプバーンを考えることとなった[166][167]。イライザ役を持ちかけられたヘプバーンは、アンドリュースがイライザ役を自分のものにしているとして一旦断った[168][169][165]。しかしジャック・L・ワーナーはアンドリュースに演じさせるつもりは無く、次はエリザベス・テイラー[注釈 11]に役を回すとわかり、最終的にイライザ役を引き受けた[170][168][169]

ヘプバーンは以前出演したミュージカル映画『パリの恋人』で歌った経験があり、さらに『マイ・フェア・レディ』出演に備えて撮影3か月前の1963年5月[171]から、撮影に入った後も毎日発声練習をこなしていた[172][173][174]。ヘプバーンが歌う場面はマーニ・ニクソンによってある程度吹き換えられると聞いていたが、どの程度使われるのかはヘプバーンにもマーニ・ニクソンにも知らされていなかった[175]。そのためヘプバーンはニクソンと一緒に録音スタジオに入り、歌い方のアドバイスも求めていた[175]。撮影のかなり後半のインタビューでも「歌は私も全部録音しましたが、別にマーニ・ニクソンも吹き込んであるのです。どちらを使うかは会社が決めるでしょう」と答えている[176]。しかし結局大部分の歌を吹き替えると知らされたヘプバーンは深く傷つき、「おお!」と一言だけ言ってセットから立ち去った[177]。翌日になって戻ってきたヘプバーンはわがままな行動を全員に謝罪している[177][178]。そして吹き替えも使うが、ヘプバーンの歌はできるだけ残すと約束したが関わらず、最終的にはヘプバーンの歌が残っていたのは10パーセントほどだった[179]。ヘプバーンの歌声が残されているのは「踊り明かそう」の一節、「今に見てろ」の前半と後半、「スペインの雨」での台詞と歌の掛け合い部分、「今に見てろ」のリプライズ全部である。

映画のプレミアの前からヘプバーンの声が吹き替えであるとことが外部に漏れたが、多くの評論家は『マイ・フェア・レディ』でのヘプバーンの演技を「最高」だと賞賛した[180]。ボズリー・クロウザーは『ニューヨーク・タイムズ』紙で「『マイ・フェア・レディ』で最も素晴らしいことは、オードリー・ヘプバーンを主演にするジャック・L・ワーナーの決断が正しかったことを、ヘプバーン自身が最高のかたちで証明して見せたことだ」と評した[181]。『サウンドステージ』誌のジーン・リングゴールドも「オードリー・ヘプバーンはすばらしい。彼女こそ現在のイライザだ」「ジュリー・アンドリュースがこの映画に出演しないのであれば、オードリー・ヘプバーン以外の選択肢はありえないという意見に反対するものは誰もいないだろう」とコメントしている[164]

ところが、ゴールデングローブ賞ではノミネートされたものの、第37回アカデミー賞のノミネートでは『マイ・フェア・レディ』はアカデミー賞に12部門でノミネートされたが、ヘプバーンは主演女優賞にノミネートすらされなかった[182][183]。ヘプバーンはひどく落胆したが、ジュリー・アンドリュースにオスカーが取れるように祈ると祝辞を送っている[183]キャサリン・ヘプバーンはすぐオードリーに「ノミネートされなくても気にしないで。そのうち大したことのない役で候補に選ばれるから」と慰めの電報を送っている[182][184][185]ジュリー・アンドリュースや共演者レックス・ハリソンもヘプバーンはノミネートされるべきだった、ノミネートされなくて残念だと述べている[182]。ノミネートされていなくても、ヘプバーンに投票しようと運動が起こっているが[185]、結局その年の主演女優賞を獲得したのはミュージカル作品『メリー・ポピンズ』のジュリー・アンドリュースだった。ヘプバーンは後でアンドリュースにお祝いの花束を贈っている[186]。『マイ・フェア・レディ』はその年最高の8部門でアカデミー賞を受賞した[187][168]

このような騒動はあったものの、大多数の観客はヘプバーンに満足しており、1993年にヘプバーンが亡くなった時にも『エンターテイメント・ウィークリー』誌が見出しに大きく「さようなら、フェア・レディ」と哀悼の意を表し、他にも似たような見出しが数多くみられた[168]

『いつも2人で』と『暗くなるまで待って』

[編集]

ヘプバーンは1965年撮影のコメディ映画『おしゃれ泥棒』(公開は1966年)で、有名な美術コレクターだが実は所有しているのは全て偽物である贋作者の娘で、父親の悪事が露見することを恐れる娘ニコルを演じた。ニコルはピーター・オトゥール演じる探偵サイモン・デルモットに、相手が父親のことを調べている探偵だとは知らずに父親の悪事の隠蔽を依頼する役だった。

1967年には2本の映画が公開された。1966年に撮影された『いつも2人で』は、一組の夫婦の12年間の軌跡を、6つの時間軸を交錯させて描き出す映画である。監督のスタンリー・ドーネンは、「この作品は結婚の困難な一面を描いた作品だった。彼女の作品は恋の喜びを描いたものがほとんどだが、これはその後の試練を描いている」と語っている[188]。そして撮影中のヘプバーンがそれまでになく快活で楽しそうに見えたと語り、共演したアルバート・フィニーのおかげだったと言っている[189][190][191]。多くの人々は『いつも2人で』がヘプバーンの最高の演技であるとしている[192][193][194][195]

1967年公開のもう1本の映画が、サスペンススリラー映画『暗くなるまで待って』であり、ヘプバーンは脅迫を受ける盲目の女性を演じた。この『暗くなるまで待って』はヘプバーンとメル・ファーラーの別居直前に撮影された映画だった。ヘプバーンは撮影前にローザンヌの視覚障害者の訓練を専門にしている医師について勉強し[196][197][198]、ニューヨークでは視覚障害者福祉施設(ライトハウス)で数日から数週間目隠しをして訓練をした[199][198][200]。撮影中は午後四時になるとティー・ブレイクがあり、キャストやスタッフは和気藹々と撮影出来た[201][202]。ただしヘプバーンの体重は撮影中に15ポンドも痩せてしまった[203]。監督のテレンス・ヤングは「この役はオードリーがそれまでやった中で一番大変な役だった。あまりの辛さに一日ごとに体重が減っていくのが目に見えるようだった」と述べている[203][204]

ヘプバーンは68年に『いつも2人で』『暗くなるまで待って』それぞれでゴールデン・グローブ賞にノミネートされ、『暗くなるまで待って』では5回目のアカデミー主演女優賞にノミネートされている。

最後の映画作品

[編集]

1967年に、ヘプバーンはハリウッドにおける15年間にわたる輝かしい経歴に区切りをつけ、家族との暮らしに時間を費やすことを決めた。その後ヘプバーンが映画への復帰を企図したのは1975年のことで、ショーン・コネリーと共演した歴史映画『ロビンとマリアン』(公開は1976年)への出演だった。映画の評価は高く[205][206][207][208]、『ロビンとマリアン』はヘプバーンの才能にふさわしい最後の作品となったと評されている[209]

1979年にはサスペンス映画『華麗なる相続人』の主役エリザベス・ロフを演じた。この作品は『暗くなるまで待って』のテレンス・ヤング監督が、乗り気でないヘプバーンを説得してやっと出演が決まった[210][211]。共演はベン・ギャザラジェームズ・メイソンロミー・シュナイダーらだった。『華麗なる相続人』の原作はシドニー・シェルダンの小説『血族』で、シェルダンは映画化に当たり、ヘプバーンの実年齢にあわせてエリザベス・ロフを23歳から35歳の女性に書き直している[212][213]。大富豪の一族を巡る国際的な陰謀や人間関係をテーマとした映画だったが、評論家からは酷評され、興行的にも失敗した[214]

ヘプバーンが映画で最後に主役を演じたのは、ピーター・ボグダノヴィッチが監督した1980年に撮影されたコメディ映画『ニューヨークの恋人たち』である。しかしながら、ボグダノヴィッチの交際相手でこの作品にも出演していたドロシー・ストラットンが、撮影終了数週間後に離婚寸前だった夫に1980年8月に殺害され[215]、その上、配給を予定していた20世紀フォックスが出来上がりに不満を示し、ピーター・ボグダノヴィッチ監督が自ら買い戻した[216]。最終的には81年に公開までこぎつけたが、それでも短期間の上映に留まってしまっている。

テレビ映画では1987年に『おしゃれ泥棒2』に最後の主演で出演した。出演を決めたのは、共演のロバート・ワグナーがヘプバーンが欠かさず見ていた『探偵ハート&ハート』の出演者であり、グシュタードの別荘の隣に住んでおり、友人であり俳優としても好きだったからである[217][218]

ヘプバーンはスティーヴン・スピルバーグ監督の『E.T.』を公開時に見て感動していたので、スピルバーグから1989年の作品『オールウェイズ』の天使の役でのカメオ出演の依頼の手紙が来た時は喜んで引き受けた[219][220]。そしてこれがヘプバーンの最後の出演映画となった[221]

1990年以降

[編集]

それ以降、ヘプバーンが携わった娯楽関連の作品はわずかしかないが、非常に高く評価されており、ヘプバーンの死後ではあるが国際的な賞を受賞しているものもある。

ヘプバーンは指揮者のマイケル・ティルソン・トーマスに請われて1990年3月19日からアメリカの5つの都市と、91年にはロンドンでユニセフのための慈善コンサートを行った[222][223]。それはヘプバーンが『アンネの日記』からの抜粋を朗読し、トーマスのオリジナルの管弦楽曲『アンネ・フランクの日記より』と合わせて全体を構成する試みだった[224][225][226]。ヘプバーンはそれまでアンネ・フランクを演じる話を全て断っていたが、「今度は、私はアンネ・フランクを演じるのではなく、読むだけなのです。今でも彼女を演じようとは思いません。それはあの戦争の恐怖の中へ自分を押し戻すことだからです」と語っている[227]。ロンドンの舞台に立つのは40年ぶりのことであり、これが最後となった[228]。トーマスは1995年の4月と5月に再度コンサートをやって、きちんと録音することを望んだが、それは叶わなかった[229]。「彼女は意に反してアンネ・フランクになりきっていた。ヴィデオ・テープが残っていないのが残念でならない」とトーマスは語っている[230]

PBSのテレビドキュメントシリーズ『オードリー・ヘプバーンの庭園紀行』は、1990年の春から夏にかけて撮影された、世界7か国の美しい庭園を紹介する紀行番組だった。本放送に先立って1991年3月に1時間のスペシャル番組が放送され、シリーズ本編の放送が開始されたのはヘプバーンが死去した翌日の1993年1月21日からだった[231]。このテレビ番組で、ヘプバーンは死後に1993年のエミー賞の情報番組個人業績賞(Outstanding Individual Achievement – Informational Programming)を受賞した[5]

1992年5月に2つの録音を行なっている。1つはラロ・シフリンが指揮をするサン=サーンスの『動物の謝肉祭』で[232]、ヘプバーンは「鳥」のナレーターをつとめた[233][注釈 12]。もう1本の1992年に発売された子供向け昔話を朗読したアルバム『オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語英語版』では、グラミー賞の「最優秀児童向け朗読アルバム賞」を受賞した[234]。ヘプバーンはグラミー賞とエミー賞をその死後に獲得した、数少ない人物の一人となっている。

私生活

[編集]
『戦争と平和』撮影中のヘプバーンとメル・ファーラー。1955年。

ヘプバーンは1949年に舞台『ソース・タルタル』で共演したフランス人の歌手、マルセル・ル・ボンに心惹かれ、初めて真剣な交際をした[235][236][237]。マルセル・ル・ボンは『ソース・ピカント』の後にヘプバーンや舞台の仲間と新しいショーで巡業を計画したが頓挫、責任を感じてアメリカに逃げてしまった[238]。ヘプバーンはこの新しいショーの為に、『素晴らしき遺産』では主要人物の役が割り振られていたが断っている[238]。ショーの頓挫後、慌てて再度監督に会いに行ったが、既に配役が決まっており、ヘプバーンは残っていたシガレット・ガールの役を演じることになった[238]

1950年に『ラベンダー・ヒル・モブ』撮影直後にヘプバーンは男爵ジェイムズ・ハンソン英語版と知り合いすぐに恋に落ち[239]、1951年12月には婚約した[240][241]。しかしながら、ウェディングドレスが出来上がり、日程も決まっていたにもかかわらず、この結婚は1952年『ローマの休日』撮影後に破談となった[242][243][244]。二人の仕事があまりにも異なっており、ほとんどすれ違いの結婚生活になってしまうとヘプバーンが判断したためだった[245]。当時のヘプバーンの言葉に「私は結婚するのなら「本当の」結婚がしたいのです」がある[246][247]

ヘプバーンは1952年撮影の『ローマの休日』で共演したグレゴリー・ペックとコラムニストに噂を書き立てられたが、傷つき怒ってこの噂を一蹴している[248][249]。ヘプバーンは「多かれ少なかれ女優は主演男優に好意を抱くものですし、その逆の場合もあるでしょう。演じられているキャラクターを好きになった経験がある人には理解できると思います。珍しいことではありません。ただ、それは映画や舞台の上以上には進展させてはならない感情で、少なくとも私自身は今後もそれを実行していくつもりです」と語っている[245]。後年、ヘプバーンは『ローマの休日』出演での最大の宝物はウィリアム・ワイラーとグレゴリー・ペックとの終生の友情だと語っている[250]

1953年撮影の『麗しのサブリナ』で、ヘプバーンと既婚だったウィリアム・ホールデンは恋愛関係にあったと言われている[251][252]。ヘプバーンはホールデンとの結婚と子供を望んだが、ホールデンは病気のため精管を切除しており子供ができないことを告げられ、これによりヘプバーンが別れを切り出したと言われている[253][254] 。『麗しのサブリナ』で共演したハンフリー・ボガートがヘプバーンに辛く当たっていたと言われているが[255][256]、息子ショーンがヘプバーンに訊いてみたところ、関係は良かったと答えている[257]。ただ、一人の女優としては認めてないと感じていたし、ボガートがそう言っている噂も耳にしていたとも言っている[257]。ショーンがそんなのフェアじゃないと言うと「あの方がそう思う理由があったのよ」と息子を諌めている[257]

ヘプバーンとアンドレア・ドッティ

母エラが1953年7月に開いたパーティーで、ヘプバーンはグレゴリー・ペックに紹介されてアメリカ人俳優メル・ファーラーと出会った[258][259][260]。ファーラーは「僕たちは劇場について話しはじめた。彼女は僕とグレゴリー・ペックが舞台を共同製作したこともある、ラ・ジョラ・プレイハウス・サマー劇場のことをとてもよく知っていた。僕が出ていた映画『リリー』は3回観たとも言っていた。別れ際に彼女は、僕と共演したいからいい作品があればぜひ声をかけて欲しいと言ってきた」と、ファーラーはこの出会いを振り返っている[261][262]。ファーラーはヘプバーンの役を獲得するために奔走し、ブロードウェイ作品『オンディーヌ』の脚本をヘプバーンに送った[263]。ヘプバーンはこの舞台への出演を承諾し、1954年1月1日から稽古が始まっている[264]。出会い、共演し、そして愛し合うようになった二人は、1954年9月25日にスイスのビュルゲンシュトックで結婚した[122][123][125][注釈 10]。二人の共演が決まっていた映画『戦争と平和』の撮影準備中のことだった。

結婚後ファーラーがヘプバーンを支配下に置き、自分のキャリアのための踏み台として彼女のキャリアを利用していると噂されるようになった[265][266]。「一種の主人と奴隷の関係」と記事にされた時にはヘプバーンは激怒している[267]

ファーラーとの間の唯一の子供が誕生する以前に、1955年と1959年の二度にわたってヘプバーンは流産している[268]。二度目の流産は『許されざる者』の撮影中に起こった落馬事故によるもので、投げ出されたヘプバーンは背中を4箇所骨折し、結局撮影終了後に流産してしまった[269][270]。このことはヘプバーンにとって心身ともに大きな傷となった。その後間もなく妊娠したヘプバーンは、子供を無事に出産するために一年間仕事を休んでいる[269]。そして1960年7月17日に二人の長男ショーン・ヘプバーン・ファーラーが生まれた[271][注釈 13]

それまでも何度かメル・ファーラーとの不仲の噂があったが、『マイ・フェア・レディ』撮影中から再び離婚説が囁かれた[272][273][274][275]

その後も1965年12月にヘプバーンは妊娠したが1966年1月には流産[276][277][278]、1967年7月に再び流産した[279][280]

1967年7月22日、スペインの別荘に行くために空港に降り立ったオードリーをメルが迎えに行ったが、それまでとは違い一切写真を撮らせず、7月31日にはオードリーはスイスへ帰って行った[281][282]。そしてヘプバーンとメルは1967年8月31日に別居を世界中に発表[注釈 14]。二人の代理人は8月はじめには別居に同意していたと述べている[281]。最終的に二人は1968年12月に離婚し[注釈 15]、二人の結婚は14年間で終わりを告げた。その後ファーラーは長寿を保ったが、2008年6月に心不全のために90歳で死去している。

左から、当時のアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン、ヘプバーン、オランダ人俳優ロバート・ウォルダース。1981年。

ヘプバーンは1965年にスイス、レマン湖地方、モルジュ近郊のトロシュナ村にある家屋「ラ・ペジブル」を購入[283][276][284]。息子ショーンとの生活をはじめ、穏やかな生活を楽しみながら後半生を過ごした。その後、1968年6月ヘプバーンは船旅でイタリア人精神科医アンドレア・マリオ・ドッティと出会い、ギリシア遺跡を巡る旅行中にドッティに惹かれていった[285][286][287]。当時40歳のヘプバーンと30歳のドッティは1969年1月18日に結婚し、1970年2月8日には帝王切開で男子ルカ・ドッティが生まれている[288][289]。ルカを妊娠中のヘプバーンは日々の暮らしに非常に気を使い、「ラ・ペジブル」で数か月間、読書や庭いじりや絵を描いたりしながら過ごしていた[290][291]。1974年にヘプバーンは再びドッティの子を身篭ったが流産している[292]。ドッティはヘプバーンを愛し、前夫メル・ファーラーとの息子ショーンとの仲も良好だったが、若い女性と関係を持つようになった[293]。ヘプバーンも1979年の映画『華麗なる相続人』の撮影中に、共演したベン・ギャザラと不倫の関係になっていた[294][295][296]。ヘプバーンとドッティは1980年夏に離婚を決意、別居した[297]。1982年に正式に離婚し、二人の結婚は13年で終わった[298][299]。離婚したファーラーとの接触は徹底的に避けていたヘプバーンだったが、ドッティとは息子ルカの養育のことで離婚後も連絡を取り合った[300]。ドッティは2007年10月に消化管内視鏡検査の合併症で死去している。

ドッティとの結婚生活が終わりを迎えようとしていた時期に、友人を介してオランダ人俳優ロバート・ウォルダースと知り合い、1980年から死去するまで恋愛関係にあった[301][302][303][304]。ドッティとの離婚が成立するとヘプバーンとウォルダースは一緒に暮らし始めた。ウォルダースは妻マール・オベロンと死別していたが、ヘプバーンと正式に結婚することはなかった。ヘプバーンは1989年のアメリカ人ジャーナリストバーバラ・ウォルターズとのインタビューで、ウォルダースと暮らしたそれまでの9年間を人生で最良の日々と振り返っている。

1984年8月26日にスイスの自宅「ラ・ペジブル」で母エラが亡くなっている[305]。ヘプバーンを厳しく育て、ヘプバーンの父ジョゼフと同じように愛情を表すのが苦手だった[306]。『パリの恋人』で知り合って以来、脚本家のレナード・ガーシュは母エラと友達であったが、「エラは素晴らしいユーモアのセンスを持っていたし、オードリーもそうだった。残念なことに母と娘が一緒にユーモアを楽しむことがなかった」しかし「エラは娘を心から愛していた」と語っている[306]。ロバート・ウォルダーズも「母親は感情を外に出すことができずに苦しんでいたのだと思う」「娘本人に対してはそれができなかった」と述べている[306]

ユニセフ親善大使

[編集]

1970年12月22日、ヘプバーンはジュリー・アンドリュースが司会を務めるというユニセフの特別番組『愛の世界』に当時住んでいたイタリアを代表して出演した[307]。これが晩年に人生を捧げることになるユニセフへの最初の貢献だった[307]

1987年10月、オランダ大使としてポルトガルにいた従兄弟にマカオで開かれる国際音楽祭の来賓として招待され、ユニセフのポルトガル支部へのスピーチを依頼された[308][309]。2分間のスピーチは全世界にテレビ放送され、ユニセフの活動に人々の目を向けさせることに成功した[309]。これがユニセフのための本格的な活動の始まりだった[310]。ヘプバーンはスピーチ後、ユニセフの職員と会って「もし私が必要とされるなら、ユニセフのために喜んで役に立ちたい」と自ら申し出た[311][312]

次にジュゼッペ・シノーポリ指揮で世界中の演奏家を集めたワールド・フィルハーモニック・オーケストラのチャリティコンサートが東京で行われるので、ヘプバーンは演奏前のスピーチをユニセフに依頼され、喜んで1987年12月に東京に向かった[313][311][314]

マカオと東京での成功後、各国のユニセフからの依頼が続々と舞い込み[315][309]、1988年3月9日にユニセフ親善大使の依頼を引き受けることとなった[316][317][318][注釈 16]。「私は全人生をこの仕事のためにリハーサルしてきて、ついに役を得たのよ」と言っている[319][320]

第二次世界大戦後にユニセフの前身の UNRRAに助けられ、その後女優として大きな成功を収められた経験から、残りの人生を最貧困国の恵まれない子供たちへの支援活動に充てることを決めたのである。ヘプバーンは多くの国々を訪れているが、言葉の面で苦労したことはほとんどなかった。東京のコンサートで初めて会い、後にヘプバーンの親友および世話役になる、ユニセフのジュネーヴ事務局の責任者クリスタ・ロート[311]は「オードリーが持つ天性の才能で自分の仕事に生かしたものに語学がありました。(英語の他にも)フランス語、イタリア語、ドイツ語を話しますし、スペイン語も少々。オランダ語は当然です。ユニセフの活動をスポットで緊急に流さないといけないとき、すぐその場でオードリーがどの主要言語でもアナウンスを流してくれました」と語っている[321][322][323][324]

ヘプバーンのユニセフでの本格的な活動は、ユニセフ親善大使の任命の発表から2週間と経たない1988年3月のエチオピアへの訪問が最初だった[325][326]。当時のエチオピアは軍事クーデターで大統領となった独裁者メンギスツ・ハイレ・マリアムと、反政府組織が内戦を繰り広げており、100万人を超える難民で疲弊しきった国だった。このエチオピアでヘプバーンは、ユニセフが食糧支援を行餓死寸前の子供たち500人を収容していたメケレの孤児院を慰問した[327][325]

ヘプバーンは1988年8月に、予防接種のキャンペーンのためにトルコを訪れ、10月には南米諸国を訪れた[328]ベネズエラエクアドルをめぐったヘプバーンは「小さな山村やスラム街、貧民街にも水道が設置されています。これはユニセフによるちょっとした奇跡といってもいいでしょう。少年たちがユニセフから送られたレンガとセメントで自分たちの学校を立てているのも目にしました」と振り返っている。1989年2月には中米を訪問し、ホンジュラスエルサルバドルグアテマラでそれぞれの大統領と面会している[329]。同年4月にはロバート・ウォルダースとともに「ライフライン作戦」計画の一環としてスーダンを訪れた[330]。当時のスーダンは内戦下にあり、援助団体からの食糧支援が途絶えており、この計画はスーダン南部へ食料を運びこもうとするものだった[330]。さらに10月にヘプバーンとウォルダースはバングラデシュへ赴いた[331]。国連の報道写真家、ジョン・アイザック英語版は「身体中に蝿がたかった子供たちにしばしば出会ったが、彼女(ヘプバーン)はいやな顔一つせず彼らを抱きしめる。そんな光景は見たことがなかった。他の人間は躊躇したが、彼女は全く気にせずに手を差し伸べた。子供たちは吸い寄せられるように近づいてきて、彼女の手を握ったりまとわりついたりしてくるんだ。彼女はまるでハーメルンの笛吹きみたいだったよ」とそのときの様子を振り返っている[332][220]。1990年10月にヘプバーンはベトナムを訪れ、ユニセフが支援する予防接種の普及と水道設備設置に協力した[333]

死去する4カ月前の1992年9月に、ヘプバーンはソマリアを訪問した[334][335]。当時のソマリアは、以前ヘプバーンが心を痛めたエチオピアやバングラデシュを上回るほどの悲惨な状況にあった。それでもなおヘプバーンは希望を捨ててはいなかった。「政治家たちは子供たちのことにはまったく無関心です。でもいずれの日にか人道支援の政治問題化ではなく、政治が人道化する日がやってくるでしょう」[336]

1992年、ユニセフでの活動をたたえてアメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュが、文民に与えられるアメリカ最高位の勲章である大統領自由勲章をヘプバーンに授与することとなった[337][338]。しかしすでにヘプバーンは授与式には参加出来ず、メダルはヘプバーンが亡くなった後に届けられた[337]。さらに映画芸術科学アカデミーが、人道活動への貢献をたたえてヘプバーンの死後にジーン・ハーショルト友愛賞を贈り、息子が代理として賞を受け取った[339]

死去

[編集]
スイス・モルジュに近いトロシュナにあるヘプバーンの墓

癌の発見と手術

[編集]

1992年9月終わり、ユニセフの活動で赴いていたソマリアからスイスの自宅へ戻ったヘプバーンは腹痛に悩まされるようになった。専門医の診察を受けたが原因がはっきりせず、10月に精密検査のためロサンゼルスに渡航した[340]。10月末にシダーズ・サイナイ・メディカル・センターに入院し[341]、腹腔鏡検査の結果、腹膜偽粘液腫であることが明らかとなった。5年ほどかけて成長した癌が転移しており、小腸をも薄く覆い尽くしていた[342]。そして11月1日、手術が行われた[342][343][344][注釈 17]

病院の広報は「悪性の腫瘍は完全に切除され、どの臓器にも転移はない。」と語ったが、タブロイド紙の「ナショナル・エンクワイアラー」が手術室の誰かを買収して「彼女の癌は手の施しようがなく、あと3か月の命」だとセンセーショナルに報じた[345]。ロバート・ウォルダース、息子のショーンとルカはヘプバーンは快方に向かいつつあると声明を出したが、ウォルダーズは「あの時だけは真実を語っていたのは彼らの方で、われわれは嘘をついていた。われわれが嘘をついたのは自分を力づけるためだった。」とのちに語っている[338]

術後は病室に家族や友人の他、エリザベス・テイラーやグレゴリー・ペックが何度も見舞いに来ていた[346][347]。1週間後には退院し、「第二のホーム」と呼ぶヘプバーンの親友のコニー・ウォルドの家に移った[348]。傷口が塞がってから抗がん剤フルオロウラシルフォリン酸による化学療法が始まった[349]。副作用もなく、1週間以内に再度化学療法を受けることになって家族は希望をつないでいた[350]。しかし数日後腸閉塞になり、12月1日に再入院した[346]。病院に戻る為にヘプバーンとショーンが準備をしていた時、本当は怯えていた心の内側を1度だけヘプバーンは見せて、「ああ、ショーン、たまらなく恐いの」と涙をいっぱいにたたえた目でショーンにしがみついて囁いた[350]。同日再手術が行われたが、腫瘍が急激に広がりすでに手の施しようがなく、開腹したもののすぐに閉じたため1時間もせずに終了した[351]

ヘプバーンの余命がわずかであることを知らされた家族たちは、ヘプバーンの希望で、最後になるであろうクリスマスをスイスの自宅で過ごさせるために飛行機で送り返すことを決めた[352]。しかしヘプバーンはかなり衰弱しており通常の国際便での旅には耐えられない状態だった[353]。このことを知ったヘプバーンの衣装デザイナーで長年の友人だったユベール・ド・ジバンシィが、メロン財閥ポール・メロンの妻レイチェル・ランバート・メロンに頼んで、メロンが所有するプライベートジェット機をヘプバーンのために手配した[354][355][353]。それを知ったヘプバーンは喜びと感謝で目が潤み、急いでショーンにジバンシィに電話を掛けさせたが、胸がいっぱいで言葉にならず、「ああ、ユベール…本当に感激だわ」と呟くのがやっとだった[356]。電話を切ると、「あの方は、私が彼の人生のすべてだとおっしゃってくださったのよ!」と言って顔を輝かせた[356]

出発前日の12月19日に医師たちは、離陸時の気圧の変化に耐えられず腸の血管が破れ腹膜炎を起こす可能性があり、そうなると敗血症で1時間ともたないだろうと告げたが[357]、ヘプバーンはビリー・ワイルダー夫妻やグレゴリー・ペック夫妻やジェームズ・スチュワートら親しい友人に会って最後の別れを告げた[358][359][357]。ヘプバーンは痛みがものすごくひどいことを隠して、みんなの気持ちをひきたてようとしていた[359]。帰りに夫人からそれを聞いたペックはグレープフルーツ大の塊が喉につかえた感じだったと語っている[359]

翌12月20日にロサンゼルスを出発[352]。ジェット機には医師と看護師が付き添った[353]。パイロットは非常にゆっくり高度を上げ、着陸時にもできるだけ気圧の変化が無いように少しずつ降下させていった[357]。途中、グリーンランドで給油する必要があったため、危険性は2倍であった[357]。ジュネーヴの滑走路に降りたとき「帰ってきたわ」とヘプバーンの顔は輝き、長男のショーンは、家に帰れたことがどれだけヘプバーンにとって重大な意味を持っていたか、そのとき知った[357]

スイスで

[編集]

クリスマス、食べることの出来なかったヘプバーンはみんなのディナーの後で苦労して2階から降りてきて、友人や家族にクリスマスプレゼントを渡した[360][361]。ヘプバーンは買い物に出かけられないため、これまで持っていたスカーフ、セーター、ロウソクなどから一人一人に選んだものであったが、皆が感動した[360]。そのあとヘプバーンはサム・レヴェンソンの「時の試練によって磨かれる美」の一部を息子のショーンとルカのために読んでいる[360][362]。ロバート・ウォルダーズはヘプバーンが超人的な勇気を奮い起こして、ウォルダーズと子供達がヘプバーンを失うことに耐えられるよう助けようとしていると感じた[362]。ウォルダーズは、その夜ヘプバーンが暗闇のベッドの中で「今年のクリスマスが今までで一番幸せだったわ」という声が、今も耳に残っている、と語っている[363]

スイスの自宅では、ヘプバーンは家族や友人に付き添ってもらって毎日庭に出て20分散歩するのが精神的な支えであったが、塀越しに隠し撮りしたり、ヘリコプターで上空からどこまでも追いかけてくるパパラッチのために諦めないといけないことがあった[364][365]。ジバンシィがパリから来た時にも一緒に庭を散歩したが、10歩ごとに立ち止まって休まなくてはならなかった[363]。ヘプバーンは最後の贈り物としてキルトのコートを買い、ジバンシィが帰り際にヘプバーンはそのうちのネイビー・ブルーのコートを贈った[366]。軽く口づけし、「これを着たらわたしのことを思い出してね」と小声で言いながらジバンシィに渡した[366]。1月17日にヘプバーンは最後の散歩をしている[367]。ヘプバーンは死の2、3日前まで「わたしのために笑って」とウォルダーズに言っていた[368]

病が進行するにつれて次第に長い時間を眠って過ごすようになり、最後の2日間は数分以上起きていられなかった[369]。1993年1月20日の午後7時、ヘプバーンはスイスのトロシュナの自宅で、がんのために息を引き取った[370][371]

ヘプバーンの葬儀は、1993年1月24日にトロシュナの教会で執り行われた[372][373]。ヘプバーンとメル・ファーラーの結婚式で牧師を務め、1960年に生まれた二人の息子ショーンの洗礼も担当したモーリス・アインディグエルがこの葬儀を取り仕切った[374][375]。ユニセフからはサドルッディン・アガ・カーン皇太子英語版が弔辞を述べ、高官たちがこの葬儀に加わっている[374]。家族や友人、知人としては、ヘプバーンの息子たちや共に暮らしていたロバート・ウォルダース、異父兄イアン・クアレス・ファン・ユフォルト、元夫のアンドレア・ドッティとメル・ファーラー、ユベール・ド・ジバンシィ、アラン・ドロンロジャー・ムーアらが参列した[376][374][377][378]。グレゴリー・ペック、エリザベス・テイラー、オランダ王室からは献花が届けられた[375][379]。葬儀の後、ショーンが挨拶に立った。最後のクリスマスにヘプバーンが読んだサム・レヴェンソンの「時の試練によって磨かれる美」を読んだ後、最後に庭を散歩した時のことを語っている[380]。「庭師のジョバンニがやって来てこう言いました。『奥様、よくおなりになったら枝を刈り込んだり花を植えたりするのを手伝ってくださいまし。』母はにっこり笑って答えました。『ジョバンニ、お手伝いするわ……でもこれまでとは違うやり方でね』[381]」そしてヘプバーンはトロシュナを一望できる小高い丘の小さな墓地に埋葬された[382][383]

エピソード

[編集]
  • 日本では1971年テレビCM(エクスラン・ヴァリーエ)[384]のコーディネートがきっかけで加藤タキとの交友が知られている[385]
  • ヘプバーンは3回来日している。1回目は1983年、友人ジバンシィのサロン開設30周年記念のショーのため。2回目は1987年、ユニセフ主催の両国国技館でのチャリティーコンサートでの前説のため。最後は1990年にテレビ番組『庭園紀行』の「日本の庭園」編撮影のため。
  • ヘプバーンの名言として広くインターネットで拡散されている、
「魅力的な唇になるために、優しい言葉を話しなさい。
愛らしい瞳を持つためには、人の良いところを探しなさい
スリムな体型のためには、お腹を空かした人に食べ物を分けてあげなさい」

「大人になればきっと自分にも二つの手があることに気づくだろう。
一つは自分を支えるため、もう一つは誰かを助けるため」(翻訳は色々有り)
というのはオードリー・ヘプバーンの言葉ではない。これはサム・レヴェンソン英語版の“Time Tested Beauty Tips(時の試練によって磨かれる美)”という詩をヘプバーンが気に入って、最後のクリスマスに息子たちに読み聞かせた[386][362]、というのが誤っていつの間にかヘプバーンの言葉として広がってしまったものである[387]

後世の影響と評価

[編集]

ヘプバーンの女優としての業績とその人間性は死後も長く伝えられている。米国映画協会が選定した「最も偉大な女優50選」でヘプバーンは第3位になっている。ハリウッドから遠ざかった晩年においても、ヘプバーンは映画界で存在感を放っていた。1991年にはリンカーン・フィルム・ソサエティから表彰を受け、アカデミー授賞式では何度もプレゼンターを務めている。ヘプバーンが死後に受けた賞としては、1993年のジーン・ハーショルト友愛賞、グラミー賞、エミー賞などがある。

ヘプバーンは生前、自伝を書くように多くの出版社から求められたが、「人間はほかの多くの人との関わりの中で生きているのだから、必然的に他人についても語らなくてはいけません。そんなことをする権利は私にはないし、するつもりもありません」としてそのたびに断っている[388][389]。ヘプバーンの死後、奔流のように他人が書いた伝記本が発売されたが[390]、書籍によって内容が凄まじく異なっている[391]。中にはヘプバーンに直接インタビューをした「公認の伝記」と偽って出されたものまであるが、ウォルダーズは「オードリーが話をしたことは絶対に無い」「詳細な記録もつけているし、泊まったホテルの電話の記録まで取り寄せた。その時期にはヘプバーンには死期が迫っていた」と語り、息子二人とウォルダーズに訴訟を起こされたものまである[注釈 18]

広告媒体

[編集]

ヘプバーンの映像は、世界中の広告媒体に使用されている。

ヘプバーンは世界で唯一日本にだけ、新しく撮り下ろしたテレビCMに出演した。1971年(日本エクスラン工業のエクスラン・ヴァリーエ[392][393][394][395])・82年(株式会社ワールドの銀座リザ[396][397][398])と2度も出演している。海外では放送されておらず、日本でのみ放送された[394][395]

既存のフィルムを使うものとしては、2000年〜2001年に『ローマの休日』のモノクロフィルムを着色してデジタル化された映像がキリン午後の紅茶CMに採用されていたほか[399]、2005年〜2007年には三井住友銀行が、インターネットを利用した銀行サービスや女性顧客向けの総合口座サービスのCMキャラクターにヘプバーンを起用していた[399]。このCMは、ヘプバーンが出演した映画から有名な場面を抜き出し、宣伝する商品に合うような日本語の台詞を吹き込む形式を取っている。この吹替を担当した声優がヘプバーンの映画作品でヘプバーンの声を多く担当した池田昌子だった。その他多くの企業がオードリー・ヘプバーンを使用している。

アメリカでは『パリの恋人』でヘプバーンが踊るシーンが、AC/DCの曲『バック・イン・ブラック』とともに衣料メーカのGAPのCMに採用された。GAPはオードリー・ヘプバーン子供基金に多額の献金をしている[400]。2013年には、3DCG制作されたヘプバーンの映像が、イギリス製チョコレートのギャラクシーの広告に使用された[401]

ファッション・アイコンとして

[編集]
『ティファニーで朝食を』(1961年公開)のヘプバーン。

ヘプバーンは1961年にインターナショナル・ベスト・ドレッサーに選ばれて殿堂入りしており、死後においてもファッション界から敬意を払われている。アメリカの通信販売大手QVCによる「20世紀最高の美女」を決めるアンケート調査(女性2000人を対象に実施)と、飲料水エビアンを発売するダノンによる「史上最高の美女」の調査アンケートで、ともに1位となった[402][403][404]。当時のハリウッドでもてはやされていた、マリリン・モンロージェーン・マンスフィールドといった豊満な女優たちとは異なり、ヘプバーンは大きな瞳をもつ細身で優雅な女優だった[405]。映画監督ビリー・ワイルダーは「この女性が大きな胸を過去の遺物としてしまうだろう」と言った[245][406][407][408]

しかしヘプバーンは自分が魅力ある女性だとは思っていなかった[409][410]。痩せ過ぎで、鼻筋がまっすぐではなく、足が大きすぎると悩んでいた[411][412]それ以外にも歯並びが悪く[413][414]、鼻孔が広いのを気にしていた[415][414]。「映画の仕事をするなんて思ってもみなかったわ。こんな顔なのに」とヘプバーンは言っていた[415]。だから目をかけてもらうだけでもありがたいと感謝し、時間を遵守し、セリフは完璧に覚え、周囲の人たちへの礼儀と尊敬を忘れなかった[411]

ヘプバーンはその生涯を通じてファッション界に刺激を与え、死後も影響を及ぼし続けている[416]。ヘプバーンが現代ファッションに及ぼした影響は飛び抜けており、デザイナーのマイケル・コースは「今のファッションを、女性たちは当然のように思って着ているが、もしオードリー・ヘプバーンがいなかったら、そういった服を今着てはいないだろう」と述べている[417]>。

ユベール・ド・ジバンシィ

[編集]

ヘプバーンのイメージを作りあげたのは、ファッションデザイナーのユベール・ド・ジバンシィがデザインした洋服だった[418][356]。ジバンシィがヘプバーンのドレスを最初にデザインしたのは、1954年の映画『麗しのサブリナ』からである。衣装はイーディス・ヘッドの担当だったが、監督のビリー・ワイルダーは、パリで美しく変貌を遂げたサブリナの衣装は、パリのマネキンが着るような最新モードであるべきだと考え、ジバンシィのサロンで自分で直接買い付けるようヘプバーンをフランスに送り出した[419][420][421][422]

パラマウントの関係者から、「ヘプバーン」という女優が今パリに来ており、次の映画で使う衣装を探していると言われたジバンシィは、その名前から、憧れの大女優キャサリン・ヘプバーンだと思い込み、大喜びでアポイントメントを受けた[423][424]。そのためオードリーと初めて顔を合わせたジバンシィは失望し、秋冬コレクション前で空いている時間がほとんどないため衣装を新たに作る時間はないとヘプバーンに答えている[423][424]。それでもジバンシィは「すでにある服を試して衣装としてふさわしいならなんとかなるかもしれません」と答えた[424]。ヘプバーンはそれを受け入れ、1953年春夏コレクションの中から最終的に3つのドレスとそれに合わせた帽子を選びだし、パリ・コレクションの一流モデルに合わせて作られたドレス(ウエスト50.8cm)を着こなしてみせた[424][注釈 19]。その後もヘプバーンは彼がデザインした多くの洋服を着こなし、そのファッションスタイルはジバンシィの名とともに世界的に高く評価されることになっていった。二人の友情と協力関係はヘプバーンが死去するまで続いた[356][424]

後年、ジバンシィはヘプバーンから「あなたの作ってくれたブラウスやスーツを着ていると、服が私を守ってくれている気がするわ」と言われて感激したと話している[425][426][427]。ジバンシィは『麗しのサブリナ』以降も『パリの恋人』、『昼下りの情事』、『ティファニーで朝食を』、『パリで一緒に』、『シャレード』、『おしゃれ泥棒』、『華麗なる相続人』、『おしゃれ泥棒2』でヘプバーンの衣装を担当した[428]。ジバンシィはヘプバーンとの35年にわたる交友で「彼女(ヘプバーン)の身体のサイズは、1インチとして変わらない」と述べている[429]。ジバンシィはヘプバーンの生涯を通じての友人、理解者であり、ヘプバーンはジバンシィにとって芸術の女神ミューズだった[430]。ジバンシィは「ランテルディ」という香水をヘプバーンのために調合している[431][432]

リチャード・アヴェドン

[編集]

ジバンシィと同様に、著名なファッションカメラマンのリチャード・アヴェドンにとってもヘプバーンはミューズだった[433]。アヴェドンが撮影したヘプバーンの顔のクローズアップ写真は、国際的に有名になった。この写真にはヘプバーンの特徴である眼差し、眉、口元が見事に映し出されていた。アヴェドンはヘプバーンについて「カメラの前に立ったときのオードリー・ヘプバーンの天性の素晴らしさには永遠に圧倒され続けるだろう。私には彼女の更なる魅力を引き出すことはできない。彼女はただそこに在り、私はそれを記録するのがやっとだ。何も付け加えることができない素晴らしい女性といえる。彼女の存在それ自身が完璧な肖像写真だ」と語っている[434]

サルヴァトーレ・フェラガモ

[編集]

イタリアの靴デザイナーであるサルヴァトーレ・フェラガモとは1954年から親交があり[435][436]、ヘプバーンの足の木型は現在でもフィレンツェのサルヴァトーレ・フェラガモ博物館が所蔵している[437]。1999年にはそのフェラガモ博物館で「オードリー・ヘプバーン:私のスタイル(Audrey Hepburn, a woman, the style)」と銘打った展示会が開かれ[438]、2000年〜2001年には日本各地を巡回した[439][438]。この展示会はヘプバーンの映画や私生活での衣装や靴、写真などが大量に展示される大規模な展示会だった。フェラガモは虐待児童をケアするオードリー・ヘプバーン・チルドレンズ・ハウスを作る資金を集めると発表し、この展示会の収益もこれに充てられた[435]。(2004年〜2009年には息子ショーンによって、「timeless audrey」展という大規模な展示会も世界で開かれた。こちらも世界に先駆けて2004年〜2005年に日本全国を巡回している[440]。)

ヴァレンティノ・ガラヴァーニ

[編集]

ヘプバーンがドッティと結婚していてローマに住んでいた70年代、ジバンシィでは高価すぎるので、友人に頼んでイタリアの当時新進気鋭のデザイナー、ヴァレンティノ・ガラヴァーニを紹介してもらい、友人となっている[441][442][443]。日本のCM「エクスラン・ヴァリーエ」に出演した時や[444]、『ロビンとマリアン』のポスターやパンフレットで着ていた衣装[445]はヴァレンティノのものである[446][447]。後年、ヴァレンティノのデビュー25周年の展示会で使うために、ヘプバーンのために作られた衣装を貸したところ、「こんなに大切に扱ってくれたのは貴方だけだ。新品のようだね」とヴァレンティノに言われて、ヘプバーンはずっと誇りに思っていたという[441]

ラルフ・ローレン

[編集]

ヘプバーンは晩年にはラルフ・ローレンの服も多用しており、『庭園紀行』の企画が持ち込まれたとき、衣装で相談したのもローレンだった[448]。「夜はジバンシィを着るのが好きだけど、昼間はあなたのスポーティーな衣装の方がいいわ」とローレンに言っている[448]。1991年、リンカーン・センター映画協会の「オードリー・ヘプバーンをたたえる夕べ」で、ラルフ・ローレンはファションに及ぼしたヘプバーンの並外れた影響力について話している[449]。「オードリー・ヘプバーンの名はあらゆる雑誌編集者やファションに従事するものによって、おそらく絶えず口にされているはずです。“すごくオードリーだ!”という形で」「こういう表現をオードリーが聞いたことがあるかどうかわかりませんが、ジバンシィは聞いたことがあるはずです」と述べて喝采を浴びた[449]

衣装

[編集]

2006年12月5日に、『ティファニーで朝食を』のためにジバンシィがデザインしたリトル・ブラックドレスがクリスティーズのオークションにかけられた。落札予想額は70,000ポンドだったが、最終的にはその7倍近い467,200ポンド(約92万ドル)で落札された。映画由来の衣装についた価格としては当時最高額だったが[450]、マリリン・モンローが『七年目の浮気』で着用した、地下鉄の通気口からの風でまくれ上がった「サブウェイ・ドレス」が2011年6月に460万ドルで売却されてヘプバーンの記録を更新している[451]。このヘプバーンのドレスの収益金は、インドの恵まれない子供たちを救済するチャリティー基金に寄付された。基金の責任者は「私は涙を禁じえません。伝説的とも言える女優が着用した衣装がレンガやセメントの購入資金となり、世界中の貧しい子供たちが通える学校を建てられることになるとは、本当に信じられない気持ちです」と述べた[452]。しかしながら、このクリスティーズのオークションに出品されたドレスは[453]、ヘプバーンが『ティファニーで朝食を』で着用したドレスではなかった[452][454]。『ティファニーで朝食を』のオープニングシーンの為にジバンシィが3着の同じドレスを用意したが、ジバンシィのデザインはサイドに深いスリットが入っていたためヘプバーンの映画には不適として、パラマウントでイーディス・ヘッドによってスリットの無い複製が作られることとなった[454][455]。実際にヘプバーンが着用したドレスは撮影後に廃棄され、現存していない[454]

2009年12月にもロンドンでヘプバーンが映画で使用した衣装のオークションが開催され、60,000ポンドの価格がついた『おしゃれ泥棒』で着用した黒のカクテルガウンなど、総額270,200ポンド(437,000ドル)で落札された。そしてオークションの収益金のうち半分が、オードリー・ヘプバーン子供基金とユニセフが共同で行っている学童支援活動に寄付された[456]

出演作品

[編集]
映画作品
公開年 邦題
原題
配役 備考
1948年 オランダの七つの教訓
Nederlands in Zeven Lessen
オランダ航空のスチュワーデス オランダ語版79分[457]、英語版39分[458][457]
日本未公開、全世界でビデオ・DVD未発売
1951年 若気のいたり
One Wild Oat
ホテルの受付嬢 端役
日本未公開、日本ではビデオ・DVD未発売
素晴らしき遺産
Laughter in Paradise
煙草売りのフリーダ 端役。ヘプバーンが英国で撮った最初の作品[459][460][461]。公開は『若気のいたり』の後になった
日本未公開
ラベンダー・ヒル・モブ
The Lavender Hill Mob
チキータ 端役
日本未公開(1975年8月5日に東京国立近代美術館フィルムセンターで1日だけ特別上映、2019年6月15日に『オードリー・ヘプバーン映画祭』で109シネマズ二子玉川にて1回のみ特別上映)
若妻物語
Young Wives' Tale
イヴ・レスター クレジットの7番目に登場
日本未公開(2019年6月14日に『オードリー・ヘプバーン映画祭』で109シネマズ二子玉川にて1回のみ特別上映)
1952年 初恋
Secret People
ノラ・ブレンターノ メインタイトルの3番目、エンド・クレジットの4番目に登場
モンテカルロへ行こう
(フランス語版)
Nous irons à Monte Carlo
モンテカルロ・ベイビー
(英語版)
Monte Carlo Baby
メリッサ・ウォルター(フランス語版)
リンダ・ファレル(英語版)
英語版とフランス語版の二種類が製作された。
配役と上映時間(フランス語版102分[462]、英語版79分[463])はそれぞれで違う。
ヘプバーンの衣装はクリスチャン・ディオール[464][465]
日本未公開、英語版は全世界でビデオ・DVD未発売
1953年 ローマの休日
Roman Holiday
アン王女(アーニャ・スミス) アカデミー賞 主演女優賞受賞
英国アカデミー賞 英国女優賞受賞
ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)受賞
ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞受賞
1954年 麗しのサブリナ
Sabrina
サブリナ・フェアチャイルド アカデミー賞 主演女優賞ノミネート
英国アカデミー賞 英国女優賞ノミネート
ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート
1956年 戦争と平和
War and Peace
ナターシャ・ロストワ 英国アカデミー賞 英国女優賞ノミネート
ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)ノミネート
ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート
1957年 パリの恋人
Funny Face
ジョー・ストックトン 最初のミュージカル映画作品
昼下りの情事
Love in the Afternoon
アリアーヌ・シャバス ゴールデン・ローレル賞(Laurel Awards)女性コメディ演技賞受賞
ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)ノミネート
ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート
1959年 緑の館
Green Mansions
リマ 「尼僧物語」よりも撮影は後だった
尼僧物語
The Nun's Story
シスター・ルーク(ガブリエル・ヴァン・デル・マル) 英国アカデミー賞 英国女優賞受賞
ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞受賞
サン・セバスティアン映画祭女優賞受賞
ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞外国女優賞受賞
アカデミー賞 主演女優賞ノミネート
ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)ノミネート
ゴールデン・ローレル賞女性ドラマ演技賞2位
1960年 許されざる者
The Unforgiven
レイチェル・ザカリー 唯一の西部劇映画
1961年 ティファニーで朝食を
Breakfast at Tiffany's
ホリー・ゴライトリー ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞外国女優賞受賞
アカデミー賞 主演女優賞ノミネート
ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)ノミネート
ゴールデン・ローレル賞女性コメディ演技賞3位
噂の二人
The Children's Hour
カレン・ライト ゴールデン・ローレル賞女性ドラマ演技賞4位
1963年 シャレード
Charade
レジーナ・ランパート 英国アカデミー賞 英国女優賞受賞
ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)ノミネート
ゴールデン・ローレル賞女性コメディ演技賞3位
1964年 パリで一緒に
Paris When It Sizzles
ガブリエル・シンプソン/
ギャビーの二役
「シャレード」よりも撮影は先だった
マイ・フェア・レディ
My Fair Lady
イライザ・ドゥーリトル ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞外国女優賞受賞
ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)ノミネート
ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート
ゴールデン・ローレル賞女性コメディ演技賞3位
1966年 おしゃれ泥棒
How to Steal a Million
ニコル・ボネ
1967年 いつも2人で
Two for the Road
ジョアンナ・ウォレス ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)ノミネート
暗くなるまで待って
Wait Until Dark
スージー・ヘンドリクス アカデミー賞 主演女優賞ノミネート
ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ドラマ部門)ノミネート
ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート
ゴールデン・ローレル賞女性ドラマ演技賞3位
1976年 ロビンとマリアン
Robin and Marian
レディ・マリアン
1979年 華麗なる相続人
Bloodline
エリザベス・ロフ 唯一のR指定作品
1981年 ニューヨークの恋人たち
They All Laughed
アンジェラ・ニオティーズ 日本未公開。日本ではビデオのみ発売
1989年 オールウェイズ
Always
天使ハップ
テレビ番組
放送年 番組名 配役 Notes
1951年 サンデー・ナイト・シアター
Sunday Night Theatre
セリア エピソード "The Silent Village"
1952年 トースト・オブ・ザ・タウン
Toast of the Town
2月10日放送。『九日間の女王(レディ・ジェーン)』のジェーン・グレイを演じる。
1952年 CBSテレビジョン・ワークショップ
CBS Television Workshop
本人 4月13日放送。
エピソード "Rainy Day at Paradise Junction"
1952年 トースト・オブ・ザ・タウン
Toast of the Town
5月25日放送。後に『マイ・フェア・レディ』で共演するレックス・ハリスンと初共演。『1000日のアン』のアン・ブーリンを演じる。
1957年 マイヤーリング
Mayerling
マリー・フォン・ヴェッツェラ アメリカのNBCが制作したテレビ映画
日本では2014年1月4日から劇場公開された[466]
1970年 愛の世界
A World of Love
本人 12月22日放送。ジュリー・アンドリュースが司会を務めるユニセフのドキュメンタリー。ヘプバーンがユニセフに関わった最初のもの[307]
1987年 おしゃれ泥棒2
Love Among Thieves
男爵夫人キャロライン・デュラック テレビ映画
1993年 オードリー・ヘプバーンの庭園紀行
Gardens of the World with Audrey Hepburn
進行 エミー賞 情報番組個人業績賞
1993年 Audrey Hepburn: In Her Own Words 本人 ユニセフのドキュメンタリー(DVDのみの発売)
舞台作品
上演年 作品名 配役 劇場名 Notes
1948年 - 1949年 ハイ・ボタン・シューズ
High Button Shoes
コーラスガール ロンドン・ヒッポドローム劇場
London Hippodrome
1948年12月22日初演、全291回公演
1949年 ソース・タルタル
Sauce Tartare
コーラスガール ケンブリッジ・シアター 1949年5月18日初演
1950年 ソース・ピカンテ
Sauce Piquante
主役級 ケンブリッジ・シアター 1950年4月27日初演
1951年 - 1952年 ジジ
Gigi
ジジ フルトン・シアター
Fulton Theatre
1951年11月24日初演、1952年5月31日終演
シアター・ワールド賞受賞
1952年 - 1953年 ジジ
Gigi
ジジ アメリカ各地 アメリカ巡業公演
1952年10月13日にピッツバーグで開幕、1953年5月16日にサンフランシスコで閉幕
その他、ボストン、クリーヴランド、シカゴ、デトロイト、ワシントン、ロサンゼルスで上演
1954年 オンディーヌ
Ondine
オンディーヌ リチャード・ロジャース・シアター
Richard Rodgers Theatre
1954年2月18日初演、1954年6月26日終演
トニー賞 最優秀演劇女優賞受賞
1990年 アンネ・フランクの日記より
From the Diary of Anne Frank
朗読 アメリカ各地 1990年3月19日〜25日
マイケル・ティルソン・トーマス作曲・指揮、ニューワールド交響楽団演奏。
フィラデルフィア、マイアミ、シカゴ、ヒューストン、ニューヨークで上演。
1991年 アンネ・フランクの日記より
From the Diary of Anne Frank
朗読 ロンドン 1991年5月
マイケル・ティルソン・トーマス作曲・指揮、ロンドン交響楽団演奏(レナード・バーンスタインの助言によりフィナーレがアメリカ版から手直しされた[228]
日本のみの新規撮り下ろしテレビ・コマーシャル
放送年 商品名 備考
1971-1972年 エクスラン・ヴァリーエ 撮影は1971年5月[467]。当時ヘプバーンが住んでいたローマ近郊で撮影された[467]日本エクスラン工業がかつて販売していたウィッグのCM[467]
ACC CMフェスティバル(第12回テレビフィルムCM部門秀作賞)受賞[468]
1982年 銀座リザ ワールドの旗艦店「銀座リザ」立ち上げの際に製作[469]

受賞

[編集]

『the audrey hepburn treasures』には巻末にヘプバーンが受賞、あるいはノミネートされた賞や名誉が117掲載されている。詳細は『オードリー・ヘプバーンの受賞リスト英語版』を参照。

関連項目

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ ヘプバーンの出生証明書には、父ジョゼフはロンドン生まれだと記されている。しかしながらこの記録は1952年になって生母エラによって「(オーストリア領)ボヘミアのウジツェ出身」と改められた。ウジツェは現在ではチェコに属している[12]
  2. ^ 母アンナはスロヴァキア出身だった[13]
  3. ^ それ以前のパスポートではオードリー・ドッティ、さらにそれ以前はA・ファーラーとサインされている。
  4. ^ ヘプバーンの次男ルカ・ドッティ、及びアレグザンダー・ウォーカーの伝記では1959年、となっている。
  5. ^ 長男ショーンの書いた『母、オードリーのこと』では赤いコートを着た女の子になっている。
  6. ^ このテストのフィルムは現存するか不明だが、1954年9月号の『スクリーン』や1993年10月5日初版発行スクリーン特別編集『ハリウッドの妖精 オードリー・ヘプバーン写真集』などで写真を見ることができる。
  7. ^ この契約についてバリー・パリスの伝記では2年、アレグザンダー・ウォーカーの伝記では7本、イアン・ウッドワードの伝記では短期間に2本、となっている。
  8. ^ イアン・ウッドワードの伝記では撮影が始まって2・3日、となっている。p140
  9. ^ この話はグレゴリー・ペック自身が語っている映像が残っている。ただし『想い出のオードリー・ヘップバーン』ではエージェントに、『ローマの休日』デジタル・ニューマスター2枚組の特典DVDの「『ローマの休日』の思い出」ではスタジオに要求したことになっている。
  10. ^ a b 結婚した日には24日説と25日説がある。24日説の本が長男ショーン、バリー・パリス、ジェリー・バーミリー、『the audrey hepburn treasures』''。''25日説の本がチャールズ・ハイアム、イアン・ウッドワード、アレグザンダー・ウォーカー、ロビン・カーニー、ショーンも関わった『timeless audrey』、『オードリー・ヘプバーン:私のスタイル』など。1954年『スクリーン』12月号(10月発売)にそのことの詳細が書かれており、24日にルツェルン湖畔のブオクスで町長に執り行ってもらったもので、出席者はヘプバーンとファーラー以外には2名だけ。25日に正式にビュルゲンシュトックで親族が呼ばれて結婚式が挙げられている。
  11. ^ エリザベス・テイラーは乗り気で、バリー・パリスの伝記では、「『マイ・フェア・レディ』の役を取ってきて」と当時の夫エディー・フィッシャーやエージェントに言っていたとなっている。イアン・ウッドワードの伝記ではヘプバーンに決定後も「『マイ・フェア・レディ』を私にやらせて」と何度もエディー・フィッシャーに言っていた、となっている。
  12. ^ バリー・パリスは、「マ・メール・ロワ組曲」を使った『オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語』と、『動物の謝肉祭』を同じCDだと思って書いているが、実際は別物であり、アマゾンなどではそれぞれのCDが発売されている。
  13. ^ ほとんどのヘプバーンの伝記ではショーンの誕生日を1月17日にしており、2003年発行の『母、オードリーのこと』でショーン本人が明確に否定している。ところが2009年に原著が出ているマーティン・ギトリンの伝記(日本版は2019年株式会社クレヴィス発行)でも未だに1月17日になっている。正確に7月17日にしているのは『the audrey hepburn treasures』と『ライフ・オブ・オードリー・ヘップバーン』など、ごく一部である。
  14. ^ 日本の当時の雑誌『映画の友』では8月31日だが、後年のバリー・パリスの伝記『オードリー・ヘプバーン』p111では9月1日となっている。
  15. ^ イアン・ウッドワードの伝記では11月21日、ロビン・カーニーの『ライフ・オブ・オードリー・ヘプバーン』では11月、アレグザンダー・ウォーカーの伝記では11月20日、息子ショーンも関わっている『the audrey hepburn tresures』では12月となっている。ここでは息子の本が一番信憑性が高いと判断している。
  16. ^ バリー・パリスの伝記などで1989年になっているものがあるが、『the audrey hepburn treasures』では1988年3月8日付のユニセフの辞令が添付されており、1988年4月22日発行の国連のパスポートには既に「ユニセフ親善大使」と書いてある『the audrey hepburn treasures』『母、オードリーのこと』
  17. ^ バリー・パリスの伝記や『the audrey hepburn treasures』では11月2日に手術されたことになっているが、ここでは息子の伝記に合わせた。
  18. ^ バリー・パリスの伝記下巻のp365にダイアナ・メイチック著の本に対して書かれている。メイチックの本に基づいてテレビでシリーズ化も計画されていたが、訴訟問題になったため中止されている。未だに発売当時の「公認の伝記」というコピーに惑わされて、メイチックの本に基づく本やサイトが国内外で出回っている。
  19. ^ この最初の出会いについては、ジバンシィ本人が何度も語っている。日本コロムビアや20世紀フォックスからDVDが発売され、BS11でも放送された『想い出のオードリー・ヘプバーン』や、2013年11月23日にNHK BSプレミアムで放送された『松下奈緒 永遠のオードリー』など。ここでの記述も一部ジバンシィ本人の言い方に直している。

出典

[編集]
  1. ^ 竹書房 2004, p. 「はじめに」ix.
  2. ^ ヘプバーンの長男ショーン・ヘプバーン・フェラー(ファーラー)著(2004年5月18日初版発行)『AUDREY HEPBURN―母、オードリーのこと』.「はじめに」x頁6行目.竹書房.
  3. ^ Film Special Award in 1992” (英語). 英国映画テレビ芸術アカデミー. 2021年11月16日閲覧。
  4. ^ 100 BAFTA Moments - Audrey Hepburn Receives the Special Award” (英語). 英国映画テレビ芸術アカデミー. 2021年11月16日閲覧。
  5. ^ a b アーウィン&ダイヤモンド 2006, p. 185.
  6. ^ a b 竹書房 2004, pp. 「まえがき」xiv-xv.
  7. ^ Ferrer, Sean (2005). Audrey Hepburn, an Elegant Spirit. New York: Atria. p. 148. ISBN 978-0-671-02479-6 
  8. ^ a b Paris, Barry (2001). Audrey Hepburn. City: Berkley Trade. ISBN 978-0-425-18212-3 
  9. ^ Yann-Brice Dherbier, ed (2007). 『AUDREY HEPBURN A Life in Pictures』の中のAxelle Emdennoの文. London: Pavilion. p. 19. ISBN 978-1-86205-775-3 
  10. ^ パリス 上巻 1998, p. 34.
  11. ^ ハイアム 1986, p. 7.
  12. ^ https://sites.pitt.edu/~votruba/qsonhist/celebrities/hepburnaudrey.html
  13. ^ https://sites.pitt.edu/~votruba/qsonhist/celebrities/hepburnaudrey.html
  14. ^ Walker, page 6
  15. ^ ウォーカー 2003, p. 25.
  16. ^ a b 竹書房 2004, pp. 9–10.
  17. ^ パリス 上巻 1998, p. 35.
  18. ^ 竹書房 2004, p. 10.
  19. ^ a b カーニー 1994, p. 15.
  20. ^ ハイアム 1986, p. 8.
  21. ^ a b ウォーカー 2003, p. 21.
  22. ^ ウッドワード 1993, pp. 21–22.
  23. ^ パリス 上巻 1998, pp. 29–37.
  24. ^ ウッドワード 1993, p. 22.
  25. ^ a b c パリス 上巻 1998, pp. 31–34.
  26. ^ ハイアム 1986, p. 9.
  27. ^ a b ウォーカー 2003, p. 26.
  28. ^ パリス 上巻 1998, pp. 35–36.
  29. ^ vrijdag 6 mei 2011, 07u26. “De vijf hoeken van de wereld: Amerika in Elsene”. brusselnieuws.be. 14 March 2012閲覧。
  30. ^ パリス 上巻 1998, pp. 36–37.
  31. ^ ウォーカー 2003, p. 27.
  32. ^ a b アーウィン&ダイヤモンド 2006, pp. 13–14.
  33. ^ 日本では未訳の、Warren G.Harris の伝記に書かれている、とバリー・パリスの伝記の日本版上巻p36(単行本版)に書いている。
  34. ^ 2004年に発行された息子ショーンの『母、オードリーのこと』ではジョセフが発見したことになっていたが、2006年の『the audrey hepburn treasures』はショーンも関わっているので、後年のエラが発見した方を採用。
  35. ^ 竹書房 2004, p. 「まえがき」xiv.
  36. ^ 竹書房 2004, p. 「まえがき」xv.
  37. ^ アーウィン&ダイヤモンド 2006, pp. 44及びその隣にレプリカが封入.
  38. ^ 竹書房 2004, pp. 「まえがき」xviii-xix.
  39. ^ アーウィン&ダイヤモンド 2006, p. 165.
  40. ^ a b ウォーカー 2003, pp. 23–24.
  41. ^ パリス 上巻 1998, pp. 39–41.
  42. ^ a b ウォーカー 2003, pp. 30–34.
  43. ^ Ella barones van Heemstra”. The Peerage. 31 January 2020閲覧。
  44. ^ パリス 上巻 1998, pp. 59–60, 99.
  45. ^ a b c 竹書房 2004, pp. 7–9.
  46. ^ a b パリス 上巻 1998, pp. 336–337.
  47. ^ Klein, Edward. (5 March 1989). "You Can't Love Without the Fear of Losing". Parade.
  48. ^ a b ウォーカー 2003, p. 37.
  49. ^ ウォーカー 2003, p. 38.
  50. ^ ウォーカー 2003, pp. 38–41.
  51. ^ Famous and Notable People 'In and Around' the Elham Valley”. www.elham.co.uk. 4 September 2009閲覧。
  52. ^ a b パリス 上巻 1998, pp. 43–45.
  53. ^ ウォーカー 2003, pp. 41–42.
  54. ^ ウォーカー 2003, pp. 42–43.
  55. ^ パリス 上巻 1998, pp. 46, 48.
  56. ^ 竹書房 2004, pp. まえがきxiv-xv.
  57. ^ パリス 上巻 1998, pp. 62–63.
  58. ^ アーウィン&ダイヤモンド 2006, pp. 31–32.
  59. ^ パリス 上巻 1998, pp. 63, 84.
  60. ^ ウッドワード 1993, p. 41.
  61. ^ Cox, Alex (20 January 2011). “Audrey Hepburn: an iconic problem”. The Guardian (UK). https://www.theguardian.com/film/2011/jan/20/audrey-hepburn-breakfast-at-tiffanys 
  62. ^ パリス 上巻 1998, pp. 63–64.
  63. ^ ウッドワード 1993, pp. 44–45.
  64. ^ ウォーカー 2003, p. 50.
  65. ^ a b パリス 上巻 1998, pp. 67–68.
  66. ^ パリス 上巻 1998, pp. 79–81.
  67. ^ ウッドワード 1993, p. 47.
  68. ^ a b James, Caryn (1993年). “Audrey Hepburn, Actress, Is Dead at 63”. New York Times. オリジナルの18 January 2007時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20070118162914/http://www.nytimes.com/specials/magazine4/articles/hepburn1.html 26 November 2006閲覧。 
  69. ^ 竹書房 2004, pp. 20–24.
  70. ^ シーボルト・ブックス 2004, p. 25.
  71. ^ パリス 上巻 1998, p. 83.
  72. ^ ウォーカー 2003, p. 56.
  73. ^ a b パリス 上巻 1998, pp. 82–83.
  74. ^ パリス 上巻 1998, p. 86.
  75. ^ Welcome to Audrey Hepburn.com”. Audreyhepburn.com. 23 March 2010時点のオリジナルよりアーカイブ。10 March 2010閲覧。
  76. ^ パリス 上巻 1998, pp. 95–96.
  77. ^ ハイアム 1986, pp. 33–34.
  78. ^ バーミリー 1997, pp. 21, 68.
  79. ^ 竹書房 2004, pp. 34, 36.
  80. ^ アーウィン&ダイヤモンド 2006, pp. 46, 48.
  81. ^ a b 竹書房 2004, p. 37.
  82. ^ パリス 上巻 1998, pp. 104–105.
  83. ^ ハイアム 1986, pp. 39–40.
  84. ^ クラーク・キオ 2000, p. 56.
  85. ^ Larry King Live. 24 December 2003. CNN. Audrey Hepburn's Son Remembers Her Life
  86. ^ パリス 上巻 1998, pp. 112–113.
  87. ^ Walker, Alexander (1994). Audrey, Her Real Story. London: Orion. p. 55. ISBN 1-85797-352-6 
  88. ^ パリス 上巻 1998, pp. 124–126.
  89. ^ ハイアム 1986, pp. 43–47.
  90. ^ パリス 上巻 1998, pp. 126–127.
  91. ^ ハイアム 1986, p. 54.
  92. ^ パリス 上巻 1998, pp. 136–137.
  93. ^ ウッドワード 1993, pp. 114–115.
  94. ^ カーニー 1994, p. 40.
  95. ^ ウォーカー 2003, pp. 85–87.
  96. ^ パリス 上巻 1998, pp. 139–140.
  97. ^ a b ウッドワード 1993, pp. 118–122.
  98. ^ a b c ウォーカー 2003, pp. 91–94.
  99. ^ a b パリス 上巻 1998, pp. 140–141.
  100. ^ a b ハイアム 1986, pp. 60–61.
  101. ^ a b カーニー 1994, p. 48.
  102. ^ パリス 上巻 1998, p. 143.
  103. ^ ウッドワード 1993, pp. 122–123.
  104. ^ パリス 上巻 1998, pp. 153–157.
  105. ^ ウッドワード 1993, pp. 129–130.
  106. ^ ウォーカー 2003, p. 101.
  107. ^ パリス 上巻 1998, p. 158.
  108. ^ a b Gigi - インターネット・ブロードウェイ・データベース(英語)
  109. ^ パリス 上巻 1998, pp. 171, 174.
  110. ^ パリス 上巻 1998, p. 139.
  111. ^ ウッドワード 1993, pp. 117–118.
  112. ^ バーミリー 1997, pp. 29, 80–81.
  113. ^ a b c ウッドワード 1993, pp. 140–141.
  114. ^ パリス 上巻 1998, pp. 167–168.
  115. ^ トニー・ヌールマンド『『オードリー・ヘップバーン 華麗なるパラマウント映画時代』』東京書籍、2006年12月26日初版、17-27頁。 
  116. ^ バーミリー 1997, p. 86.
  117. ^ 『マイ ファニーフェイス/オードリー・ヘプバーン』p17. 近代映画社. (2009年12月15日初版発行) 
  118. ^ “Audrey Hepburn: Behind the sparkle of rhinestones, a diamond's glow”. TIME. (1953年9月7日). オリジナルの2009年5月12日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090512220104/http://www.time.com/time/covers/0,16641,19530907,00.html 2009年5月28日閲覧。 
  119. ^ バーミリー 1997, p. 92.
  120. ^ バーミリー 1997, p. 33.
  121. ^ a b パリス 上巻 1998, p. 323.
  122. ^ a b 『スクリーン』近代映画社、1954年12月号。再録『スクリーン復刻特別編集 オードリー・ヘプバーン「ローマの休日」〜「戦争と平和」』p36−37.2014年10月5日.
  123. ^ a b 泉 三樹夫 編『オードリー・ヘップバーン物語』東京タイムズ、1954年11月20日発行、123,126頁。 
  124. ^ 『スクリーン臨時増刊 オードリー・ヘプバーン特別号』近代映画社、1963年5月15日発行、66-67頁。 
  125. ^ a b カタログ オードリー・ヘプバーン 1977, p. 202.
  126. ^ Hepburn's Golden Globe nominations and awards”. Goldenglobes.org (2010年1月14日). 2010年4月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年3月10日閲覧。
  127. ^ アーウィン&ダイヤモンド 2006, p. 184.
  128. ^ ウッドワード 1993, pp. 217–218.
  129. ^ a b c 竹書房 2004, p. 103.
  130. ^ a b c パリス 上巻 1998, pp. 285–286.
  131. ^ a b シーボルト・ブックス 2004, p. 97.
  132. ^ ウッドワード 1993, p. 217.
  133. ^ フレッド・ジンネマン (1993年10月23日初版). 『フレッド・ジンネマン自伝』p246. キネマ旬報社 
  134. ^ バーミリー 1997, p. 137.
  135. ^ アーウィン&ダイヤモンド 2006, p. 98.
  136. ^ ウッドワード 1993, pp. 228–229.
  137. ^ E.A. Hanks. [1], Vanity Fair, 2010-6-22
  138. ^ ワッソン 2011, pp. 247–249.
  139. ^ Honan, Corinna (14 November 2010). “Tantrums at Tiffany's: How a viper's nest of clashing egos nearly killed off one of the best-loved films ever made”. Daily Mail (London). https://www.dailymail.co.uk/tvshowbiz/article-1326830/Breakfast-At-Tiffany-s-Clashing-egos-nearly-killed-best-loved-films.html 
  140. ^ パリス 上巻 1998, p. 349.
  141. ^ フォンタナ&ファーラー 2011, p. 72.
  142. ^ a b “Audrey Hepburn: Style icon”. BBC News. (2004年5月4日). http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/3667517.stm 
  143. ^ ワッソン 2011, pp. 10–14.
  144. ^ The Most Famous Dresses Ever”. Glamour.com (2007年4月). 2011年5月16日閲覧。
  145. ^ Audrey Hepburn dress”. Hello Magazine (2006年12月6日). 2013年4月6日閲覧。
  146. ^ “Audrey Hepburn's little black dress tops fashion list”. The Independent (UK). (2010-5-17 May 2010). https://www.independent.co.uk/life-style/fashion/news/audrey-hepburn-s-little-black-dress-tops-fashion-list-1984507.html 2011年5月16日閲覧。 
  147. ^ Steele, Valerie (2010-11-9). The Berg Companion to Fashion. Berg Publishers. p. 483. ISBN 978-1-84788-592-0. https://books.google.co.jp/books?id=Hemsvn9ZbRkC&pg=PA483&redir_esc=y 2011-5-16 May 2011閲覧。 
  148. ^ パリス 上巻 1998, pp. 356–357.
  149. ^ バーミリー 1997, p. 156.
  150. ^ アーウィン&ダイヤモンド 2006, p. 112.
  151. ^ パリス 上巻 1998, p. 359.
  152. ^ “Paris When It Sizzles”. Variety. (1964年1月1日). https://variety.com/review/VE1117793876.html 2009-5-28 May閲覧。 
  153. ^ ハイアム 1986, pp. 206–208, 210.
  154. ^ パリス 上巻 1998, pp. 365–366.
  155. ^ ウォーカー 2003, pp. 247–248.
  156. ^ カーニー 1994, pp. 127–128.
  157. ^ ボブ・ウィロビー『『オードリー・ヘプバーン』』朝日新聞社、1993年12月30日初版発行、79頁。 
  158. ^ 竹書房 2004, p. 165.
  159. ^ パリス 上巻 1998, p. 373.
  160. ^ ウッドワード 1993, pp. 265–266.
  161. ^ Eastman, John (1989). Retakes: Behind the Scenes of 500 Classic Movies. Ballantine Books. pp. 57–58. ISBN 0-345-35399-4 
  162. ^ アーウィン&ダイヤモンド 2006, p. 117.
  163. ^ ウッドワード 1993, p. 266.
  164. ^ a b Ringgold, Gene. My Fair Lady – the finest of them all!, Soundstage, December 1964
  165. ^ a b c パリス 下巻 1998, p. 26.
  166. ^ パリス 下巻 1998, pp. 24–25, 27.
  167. ^ ウッドワード 1993, pp. 271–272.
  168. ^ a b c d バーミリー 1997, p. 177.
  169. ^ a b アーウィン&ダイヤモンド 2006, pp. 117, 120.
  170. ^ パリス 下巻 1998, pp. 26–27.
  171. ^ ハイアム 1986, p. 219.
  172. ^ パリス 下巻 1998, pp. 32–33, 36–40.
  173. ^ ウッドワード 1993, p. 274.
  174. ^ ハイアム 1986, pp. 219, 222–225.
  175. ^ a b パリス 下巻 1998, p. 36.
  176. ^ 『映画の友』p250. 株式会社映画の友. (1964年2月号(1963年12月発売)) 
  177. ^ a b パリス 下巻 1998, p. 40.
  178. ^ ハイアム 1986, p. 225.
  179. ^ パリス 下巻 1998, p. 52.
  180. ^ “Audrey Hepburn”. The Daily Telegraph (London). (1993年1月22日). https://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/5894883/Audrey-Hepburn.html 
  181. ^ Crowther, Bosley (1964年10月22日). “Screen: Lots of Chocolates for Miss Eliza Doolittle:'My Fair Lady' Bows at the Criterion”. The New York Times. https://www.nytimes.com/1964/10/22/archives/screen-lots-of-chocolates-for-miss-eliza-doolittlemy-fair-lady-bows.html 
  182. ^ a b c パリス 下巻 1998, p. 56.
  183. ^ a b ウォーカー 2003, pp. 267–268.
  184. ^ ウォーカー 2003, p. 268.
  185. ^ a b ウッドワード 1993, p. 281.
  186. ^ バーミリー 1997, p. 49.
  187. ^ パリス 下巻 1998, pp. 59–60.
  188. ^ 日本コロムビアや20世紀フォックスからDVDが発売され、BS11でも放送された『想い出のオードリー・ヘプバーン』、ドーネン監督自身の言葉。
  189. ^ クラーク・キオ 2000, p. 120.
  190. ^ パリス 下巻 1998, p. 96.
  191. ^ ワッソン 2011, p. 262.
  192. ^ ハイアム 1986, p. 238.
  193. ^ パリス 下巻 1998, p. 98.
  194. ^ アーウィン&ダイヤモンド 2006, p. 124.
  195. ^ クラーク・キオ 2000, p. 119.
  196. ^ ハイアム 1986, p. 244.
  197. ^ パリス 下巻 1998, p. 102.
  198. ^ a b ウッドワード 1993, p. 303.
  199. ^ ドッティ 2016, p. 161.
  200. ^ カーニー 1994, p. 162.
  201. ^ ハイアム 1986, p. 251.
  202. ^ パリス 下巻 1998, pp. 104–106.
  203. ^ a b パリス 下巻 1998, p. 106.
  204. ^ ウッドワード 1993, p. 304.
  205. ^ ハイアム 1986, p. 273.
  206. ^ パリス 下巻 1998, p. 159.
  207. ^ ウォーカー 2003, p. 320.
  208. ^ クラーク・キオ 2000, p. 135.
  209. ^ カーニー 1994, p. 174.
  210. ^ パリス 下巻 1998, p. 166.
  211. ^ ウッドワード 1993, p. 341.
  212. ^ パリス 下巻 1998, pp. 169–170.
  213. ^ ウッドワード 1993, pp. 340–341.
  214. ^ バーミリー 1997, pp. 206–207.
  215. ^ パリス 下巻 1998, p. 191.
  216. ^ バーミリー 1997, p. 209.
  217. ^ ドッティ 2016, p. 217.
  218. ^ パリス 下巻 1998, pp. 225–226.
  219. ^ ドッティ 2016, p. 12.
  220. ^ a b アーウィン&ダイヤモンド 2006, p. 172.
  221. ^ アーウィン&ダイヤモンド 2006, pp. 172, 182.
  222. ^ パリス 下巻 1998, pp. 250–256.
  223. ^ ドッティ 2016, p. 21.
  224. ^ パリス 下巻 1998, pp. 252–253.
  225. ^ ウォーカー 2003, pp. 367–368.
  226. ^ バーミリー 1997, p. 64.
  227. ^ パリス 下巻 1998, p. 251.
  228. ^ a b パリス 下巻 1998, p. 256.
  229. ^ パリス 下巻 1998, p. 258.
  230. ^ パリス 下巻 1998, p. 253.
  231. ^ パリス 下巻 1998, p. 262-271,274,351.
  232. ^ パリス 下巻 1998, pp. 329–330.
  233. ^ アーウィン&ダイヤモンド 2006, p. 177.
  234. ^ アーウィン&ダイヤモンド 2006, pp. 178, 185.
  235. ^ ドッティ 2016, p. 247.
  236. ^ 芳賀書店 1971, pp. 102–103.
  237. ^ パリス 上巻 1998, p. 111.
  238. ^ a b c パリス 上巻 1998, p. 115.
  239. ^ パリス 上巻 1998, p. 119.
  240. ^ パリス 上巻 1998, p. 160.
  241. ^ ウッドワード 1993, p. 132.
  242. ^ パリス 上巻 1998, pp. 171–174.
  243. ^ ウォーカー 2003, pp. 111–112.
  244. ^ オードリイ・ヘップバーン全集 1966, p. 57.
  245. ^ a b c 『映画ストーリー臨時増刊 オードリー・ヘップバーン』雄鶏社、1954年10月15日発行、(この本にはノンブルが無いためページ表記不可)頁。 
  246. ^ パリス 上巻 1998, p. 172.
  247. ^ ウッドワード 1993, p. 143.
  248. ^ パリス 上巻 1998, p. 176.
  249. ^ ウォーカー 2003, pp. 113–114.
  250. ^ アーウィン&ダイヤモンド 2006, p. 76.
  251. ^ ウォーカー 2003, pp. 131–133.
  252. ^ ウッドワード 1993, pp. 160–162.
  253. ^ パリス 上巻 1998, pp. 198–199.
  254. ^ ウッドワード 1993, p. 162.
  255. ^ ハイアム 1986, pp. 87–90.
  256. ^ ウッドワード 1993, pp. 156–157.
  257. ^ a b c 竹書房 2004, p. 69.
  258. ^ パリス 上巻 1998, p. 178.
  259. ^ ウォーカー 2003, pp. 119–121.
  260. ^ クラーク・キオ 2000, pp. 72–73.
  261. ^ ウッドワード 1993, p. 146.
  262. ^ パリス 上巻 1998, p. 192.
  263. ^ パリス 上巻 1998, pp. 208–210.
  264. ^ アーウィン&ダイヤモンド 2006, pp. 82及びその隣に封入された製作スケジュールのレプリカ.
  265. ^ パリス 上巻 1998, pp. 239, 251–252.
  266. ^ ウッドワード 1993, pp. 189–192.
  267. ^ パリス 上巻 1998, p. 252.
  268. ^ ハイアム 1986, pp. 122–123, 189.
  269. ^ a b ドッティ 2016, p. 90.
  270. ^ ハイアム 1986, pp. 188–189.
  271. ^ 竹書房 2004, p. 「まえがき」xx.
  272. ^ パリス 下巻 1998, pp. 63–65.
  273. ^ ウッドワード 1993, p. 279.
  274. ^ 『別冊スクリーン オードリー・ヘプバーン特集号』近代映画社、1965年1月1日発行、86-88頁。 
  275. ^ オードリイ・ヘップバーン全集 1966, pp. 72–73.
  276. ^ a b アーウィン&ダイヤモンド 2006, p. 123.
  277. ^ パリス 下巻 1998, p. 91.
  278. ^ ウォーカー 2003, p. 278.
  279. ^ ウォーカー 2003, p. 297.
  280. ^ パリス 下巻 1998, p. 109.
  281. ^ a b 『映画の友』1967年11月号(9月発売)p118-120「つくられた偶像(オードリイ)はこわされた」. 株式会社映画の友 
  282. ^ 出典元になった『映画の友』では、この期間に別居についての最終的な話し合いを持ったのだろうと書かれている。
  283. ^ パリス 下巻 1998, pp. 75–77.
  284. ^ ハイアム 1986, pp. 232–234.
  285. ^ パリス 下巻 1998, pp. 119–122.
  286. ^ アーウィン&ダイヤモンド 2006, p. 130.
  287. ^ クラーク・キオ 2000, p. 128.
  288. ^ パリス 下巻 1998, pp. 124, 129.
  289. ^ ウォーカー 2003, pp. 304, 308.
  290. ^ アーウィン&ダイヤモンド 2006, p. 134.
  291. ^ パリス 下巻 1998, pp. 128–129.
  292. ^ アーウィン&ダイヤモンド 2006, p. 137.
  293. ^ パリス 下巻 1998, pp. 125, 127–129, 133–134, 164, 174–177.
  294. ^ ハイアム 1986, pp. 276–278.
  295. ^ パリス 下巻 1998, p. 173.
  296. ^ Genzlinger, Neil (2012年2月3日). “Ben Gazzara, Actor of Stage and Screen, Dies at 81”. The New York Times. https://www.nytimes.com/2012/02/04/movies/ben-gazzara-actor-of-stage-and-screen-dies-at-81.html?hpw 2012年2月3日閲覧。 
  297. ^ ドッティ 2016, pp. 112–113.
  298. ^ パリス 下巻 1998, p. 214.
  299. ^ ウォーカー 2003, p. 338.
  300. ^ 竹書房 2004, p. 13.
  301. ^ アーウィン&ダイヤモンド 2006, pp. 145, 148–153, 182.
  302. ^ “Audrey Hepburn, Actress, Is Dead at 63”. The New York Times. https://archive.nytimes.com/www.nytimes.com/specials/magazine4/articles/hepburn1.html 
  303. ^ パリス 下巻 1998, pp. 195–198, 205–206, 213-214-215, 240–242, .
  304. ^ ウォーカー 2003, pp. 334, 336–339, 376.
  305. ^ パリス 下巻 1998, p. 213.
  306. ^ a b c パリス 下巻 1998, pp. 208–212.
  307. ^ a b c ドッティ 2016, p. 250.
  308. ^ 竹書房 2004, p. 142.
  309. ^ a b c アーウィン&ダイヤモンド 2006, p. 162.
  310. ^ パリス 下巻 1998, pp. 286–287.
  311. ^ a b c パリス 下巻 1998, p. 287.
  312. ^ ウォーカー 2003, pp. 352.
  313. ^ 来日時の記事『スクリーン』1988年3月号(1988年1月発売)、再録2009年2月『SCREEN+プラス』vol.18号.p26−27.近代映画社.
  314. ^ 『the audrey hepburn treasures』とアレグザンダー・ウォーカー、イアン・ウッドワードの伝記では東京へは1988年3月に行ったとなっているが、間違い。当時の『スクリーン』1988年3月号で来日は1987年12月18日となっている。コンサートは12月20日。
  315. ^ パリス 下巻 1998, p. 288.
  316. ^ アーウィン&ダイヤモンド 2006, p. 168及び隣に封入されているユニセフの辞令のレプリカ.
  317. ^ ウォーカー 2003, p. 353.
  318. ^ リッチ 2001, p. 190.
  319. ^ ドッティ 2016, p. 239.
  320. ^ アーウィン&ダイヤモンド 2006, p. 164.
  321. ^ ウォーカー 2003, p. 362.
  322. ^ 1963年5月15日発行.近代映画社刊.『スクリーン臨時増刊 オードリー・ヘプバーン特別号』p63でも、「オードリーは英語、フランス語、オランダ語をしゃべり、ドイツ語、イタリー語もわかる」と書かれている。
  323. ^ 1998年5月4日発行.集英社.バリー・パリス『オードリー・ヘプバーン』上巻p194では、1953年ごろの宣伝係の質問に対してヘプバーンは「七ヶ国語をよどみなく話します」と答えていることになっている。言語の種類は不明。
  324. ^ Audrey Hepburn Speaking 5 languages”. Youtube. 2017年12月14日閲覧。
  325. ^ a b パリス 下巻 1998, pp. 289–296.
  326. ^ ウォーカー 2003, p. 354.
  327. ^ ウォーカー 2003, pp. 355.
  328. ^ パリス 下巻 1998, pp. 297–299.
  329. ^ パリス 下巻 1998, pp. 299–304.
  330. ^ a b パリス 下巻 1998, pp. 304–308.
  331. ^ パリス 下巻 1998, pp. 308–314.
  332. ^ パリス 下巻 1998, pp. 309.
  333. ^ パリス 下巻 1998, pp. 314–316.
  334. ^ パリス 下巻 1998, pp. 319–326.
  335. ^ ウォーカー 2003, pp. 368–371.
  336. ^ パリス 下巻 1998, p. 326.
  337. ^ a b ドッティ 2016, p. 234.
  338. ^ a b パリス 下巻 1998, p. 341.
  339. ^ パリス 下巻 1998, p. 356.
  340. ^ 竹書房 2004, p. 147.
  341. ^ ドッティ 2016, p. 251.
  342. ^ a b 竹書房 2004, p. 149.
  343. ^ ウォーカー 2003, pp. 372–373.
  344. ^ ウッドワード 1993, p. 379.
  345. ^ パリス 下巻 1998, p. 359.
  346. ^ a b ウォーカー 2003, p. 373.
  347. ^ ウッドワード 1993, p. 380.
  348. ^ 竹書房 2004, p. 150.
  349. ^ Selim Jocelyn, ""The Fairest of All", CR Magazine, Fall 2009”. Crmagazine.org. 19 April 2010時点のオリジナルよりアーカイブ。10 March 2010閲覧。
  350. ^ a b 竹書房 2004, p. 151.
  351. ^ 竹書房 2004, pp. 152–153.
  352. ^ a b パリス 下巻 1998, p. 342.
  353. ^ a b c ウォーカー 2003, p. 375.
  354. ^ クラーク・キオ 2000, pp. 168, 170.
  355. ^ Harris, Warren G., (1994). – Audrey Hepburn: A Biography. – New York, New York: Simon & Schuster. – p.289. – ISBN 0-671-75800-4
  356. ^ a b c d 竹書房 2004, p. 154.
  357. ^ a b c d e 竹書房 2004, p. 209.
  358. ^ パリス 下巻 1998, pp. 342–343.
  359. ^ a b c クラーク・キオ 2000, p. 170.
  360. ^ a b c 竹書房 2004, p. 211.
  361. ^ パリス 下巻 1998, p. 345.
  362. ^ a b c パリス 下巻 1998, p. 344.
  363. ^ a b パリス 下巻 1998, p. 346.
  364. ^ 竹書房 2004, pp. 211–212.
  365. ^ パリス 下巻 1998, p. 343.
  366. ^ a b パリス 下巻 1998, pp. 346–347.
  367. ^ 竹書房 2004, p. 215.
  368. ^ パリス 下巻 1998, p. 348.
  369. ^ 竹書房 2004, p. 212.
  370. ^ 竹書房 2004, pp. 212–215.
  371. ^ パリス 下巻 1998, p. 349.
  372. ^ 竹書房 2004, pp. 216–219.
  373. ^ カーニー 1994, pp. 183–186.
  374. ^ a b c パリス 下巻 1998, p. 353.
  375. ^ a b ウォーカー 2003, p. 382.
  376. ^ カーニー 1994, pp. 184–186.
  377. ^ ウォーカー 2003, pp. 382–383.
  378. ^ Binder, David (1993年1月25日). “Hepburn's Role As Ambassador Is Paid Tribute”. The New York Times. https://www.nytimes.com/1993/01/25/arts/hepburn-s-role-as-ambassador-is-paid-tribute.html 
  379. ^ “A Gentle Goodbye -Surrounded by the Men She Loved, the Star Was Laid to Rest on a Swiss Hilltop”. People. (1993年1月1日). https://people.com/people/archive/article/0,,20063483,00.html 
  380. ^ 竹書房 2004, p. 218-219.
  381. ^ 竹書房 2004, p. 219.
  382. ^ パリス 下巻 1998, p. 354.
  383. ^ News Service, N.Y. Times. (25 January 1993). "Hepburn buried in Switzerland". Record-Journal. p. 10.
  384. ^ 1971年『スクリーン』9月〜12月号
  385. ^ 2004年テレビ東京「トホホ人物伝」など。
  386. ^ 竹書房 2004, p. 211,218-219.
  387. ^ フォンタナ&ファーラー 2011, p. 148.
  388. ^ パリス 下巻 1998, pp. 364–365.
  389. ^ ドッティ 2016, p. 14.
  390. ^ パリス 下巻 1998, p. 365.
  391. ^ 瀬川裕司『『文藝別冊 オードリー・ヘプバーン 妖精、そして女性として』』河出書房新社、2019年5月30日初版発行、38-39頁。 
  392. ^ 芳賀書店 1971, pp. 117–120.
  393. ^ 草鹿宏『オードリー・ヘプバーン物語 白鳥よ永遠に気高く』集英社、1972年10月10日初版ハードカバー版のみに掲載、37,176-177,207頁。 
  394. ^ a b バーミリー 1997, pp. 56–57.
  395. ^ a b パリス 下巻 1998, p. 137.
  396. ^ ハイアム 1986, p. 284.
  397. ^ 『企業情報:沿革』”. 株式会社ワールド. 2019年8月20日閲覧。
  398. ^ 企業情報:沿革 1980年代”. 株式会社ワールド. 2023年6月10日閲覧。
  399. ^ a b CM出演情報 オードリー・ヘップバーン”. オリコン株式会社. 2019年8月20日閲覧。
  400. ^ New Gap marketing campaign featuring original film footage of Audrey Hepburn helps Gap "Keeps it Simple" this Fall – WBOC-TV 16”. Web.archive.org (2007年9月28日). 2007年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年9月6日閲覧。
  401. ^ Usborne, Simon (2013年2月24日). “Audrey Hepburn advertise Galaxy chocolate bars? Over her dead body!”. The Independent. https://www.independent.co.uk/arts-entertainment/tv/features/audrey-hepburn-advertise-galaxy-chocolate-bars-over-her-dead-body-8508603.html 2013年2月28日閲覧。 
  402. ^ Ultimate Style – The Best of the Best Dressed List. (2004). pp. 74–77 & 89. ISBN 2 84323 513 8 
  403. ^ “Audrey Hepburn 'most beautiful woman of all time'”. The Sydney Morning Herald. (2004年1月1日). https://www.smh.com.au/entertainment/audrey-hepburn-most-beautiful-woman-of-all-time-20040601-gdj1dd.html 
  404. ^ “Audrey Hepburn tops beauty poll”. BBC NEWS. (2004年5月31日). http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/3763887.stm 
  405. ^ クラーク・キオ 2000, pp. 26–27, 69–71.
  406. ^ カタログ オードリー・ヘプバーン 1977, p. 196.
  407. ^ パリス 上巻 1998, p. 204.
  408. ^ ウッドワード 1993, p. 158.
  409. ^ パリス 上巻 1998, pp. 103, 225.
  410. ^ 日本コロムビアや20世紀フォックスからDVDが発売され、BS11でも放送された『想い出のオードリー・ヘプバーン』でも息子ショーンが肯定している。
  411. ^ a b 竹書房 2004, p. 「まえがき」xiii.
  412. ^ クラーク・キオ 2000, pp. 85–86, 94.
  413. ^ ハイアム 1986, pp. 209–210.
  414. ^ a b フォンタナ&ファーラー 2011, p. 120.
  415. ^ a b クラーク・キオ 2000, p. 94.
  416. ^ クラーク・キオ 2000, p. 24.
  417. ^ クラーク・キオ 2000, pp. 24–25.
  418. ^ カーニー 1994, pp. 12, 53.
  419. ^ ハイアム 1986, pp. 83–86.
  420. ^ パリス 上巻 1998, p. 205.
  421. ^ カーニー 1994, p. 53.
  422. ^ クラーク・キオ 2000, p. 30.
  423. ^ a b パリス 上巻 1998, p. 206.
  424. ^ a b c d e クラーク・キオ 2000, pp. 30–36.
  425. ^ クラーク・キオ 2000, p. 114.
  426. ^ パリス 上巻 1998, p. 272.
  427. ^ 日本コロムビアや20世紀フォックスからDVDが発売され、BS11でも放送された『想い出のオードリー・ヘプバーン』、ジバンシィ自身の言葉。
  428. ^ バーミリー 1997, pp. 87, 100, 108, 146, 160, 166, 182, 205, 215.
  429. ^ パリス 上巻 1998, p. 226.
  430. ^ クラーク・キオ 2000, pp. 40–43.
  431. ^ 『シュプール特別編集『永遠のオードリー・ヘップバーン』』集英社、1993年5月5日発行、58頁。 
  432. ^ ウッドワード 1993, pp. 200, 284–285.
  433. ^ 清藤秀人『『永遠のファッション・アイコン オードリーに学ぶおしゃれ練習帳』』近代映画社、2008年、117,124-125頁。 
  434. ^ カーニー 1994, p. 8.
  435. ^ a b 竹書房 2004, pp. 168–169.
  436. ^ リッチ 2001, pp. 13–18, 64.
  437. ^ リッチ 2001, p. 64.
  438. ^ a b PREVIOUS EXHIBITIONS”. サルバトーレ・フェラガモ博物館. 2019年6月29日閲覧。
  439. ^ 「オードリー・ヘプバーン:私のスタイル」展”. S2 Corporation. 2019年6月29日閲覧。
  440. ^ Bunkamuraザ・ミュージアム「オードリー・ヘプバーン展 timeless audrey」”. Bunkamura. 2019年6月29日閲覧。
  441. ^ a b ドッティ 2016, pp. 161–162.
  442. ^ クラーク・キオ 2000, pp. 131–133.
  443. ^ パリス 下巻 1998, pp. 137–138.
  444. ^ 芳賀書店 1971, pp. 118.
  445. ^ カタログ オードリー・ヘプバーン 1977, p. 28.150.152.
  446. ^ リッチ 2001, pp. 214, 216.
  447. ^ シーボルト・ブックス 2004, pp. 142–143.
  448. ^ a b パリス 下巻 1998, p. 273.
  449. ^ a b クラーク・キオ 2000, p. 90.
  450. ^ Dahl, Melissa (2006年12月11日). “Stylebook: Hepburn gown fetches record price”. Pittsburgh Post-Gazette. https://old.post-gazette.com/pg/06345/745167-314.stm 1 January 2010閲覧。 
  451. ^ “Marilyn Monroe "subway" dress sells for $4.6 million”. Reuters. (19 June 2011). https://www.reuters.com/article/2011/06/19/us-monroe-idUSTRE75I2NM20110619 29 June 2011閲覧。 
  452. ^ a b “Auction Frenzy over Hepburn dress”. BBC NEWS. (2006年12月5日). http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/6209658.stm 
  453. ^ Christie's online catalog. Retrieved 7 December 2006.
  454. ^ a b c "Where is the real Breakfast at Tiffany's dress?". Richard Newbold. Archived from the original on 24 March 2012.
  455. ^ 『週刊オードリー・ヘプバーン』第3号p16. イーグルモス・インターナショナル. (2010年2月9日) 
  456. ^ Ellicott, Claire (2009年12月9日). “Audrey Hepburn's Givenchy couture collection sold at auction for £270,000”. Daily Mail (UK). https://www.dailymail.co.uk/femail/article-1234361/Audrey-Hepburns-Givenchy-couture-collection-sold-auction-270-000.html 
  457. ^ a b パリス 上巻 1998, p. 97.
  458. ^ バーミリー 1997, p. 68.
  459. ^ パリス 上巻 1998, p. 115-117.
  460. ^ ウッドワード 1993, pp. 91–95.
  461. ^ 日本コロムビアや20世紀フォックスからDVDが発売され、BS11でも放送された『想い出のオードリー・ヘプバーン』でヘプバーン自身が(英国での)最初の作品だと語っている。
  462. ^ アミューズソフトエンタテインメント株式会社.『モンテカルロへ行こう』DVD.2007年5月25日発売.品番ASBY-3785.
  463. ^ バーミリー 1997, p. 78.
  464. ^ パリス 上巻 1998, p. 131.
  465. ^ ウォーカー 2003, p. 85.
  466. ^ マイヤーリング”. allcinema. 2014年1月4日閲覧。
  467. ^ a b c 「オードリー・ヘプバーン コマーシャルフィルム ロケ撮影記」『「スクリーン」1971年9月号』近代映画社、7月21日発売、128-131頁。 
  468. ^ ヴァリーエ「かわるがわるかえるかわった」”. 公益財団法人 放送番組センター 放送ライブラリー. 2023年8月6日閲覧。
  469. ^ 沿革”. 株式会社ワールド. 2023年8月6日閲覧。
  470. ^ 豪華レジェンド声優陣集結の日本語吹替版も独占初公開!STAR CHANNEL MOVIES『オードリー・ヘプバーン』早くもBS10 スターチャンネルにて9月17日(土)、独占プレミア放送決定!”. PR TIMES (2022年8月6日). 2023年11月5日閲覧。
  471. ^ 池田昌子(インタビュアー:村上健一)「インタビュー ~吹替の現場から~ vol.1 池田昌子」『吹替の帝王』、20世紀フォックスオリジナルの2019年12月6日時点におけるアーカイブhttps://web.archive.org/web/20191206180157/https://video.foxjapan.com/library/fukikae/interview/interview01/2023年1月3日閲覧 
  472. ^ 池田昌子さんインタビュー”. 吹替キングダム (2015年11月20日). 2023年9月18日閲覧。
  473. ^ テレビ朝日『映画はブラウン館の指定席で―淀川長治と『日曜洋画』の20年』全国朝日放送、1986年、70頁。ISBN 4881310798 
  474. ^ Tynan, William (200-3-27). “The Audrey Hepburn Story”. TIME. https://time.com/time/magazine/article/0,9171,996489,00.html 2010年3月10日閲覧。 

参考文献

[編集]
  • ショーン・ヘプバーン・フェラー(ファーラー) 著、実川元子 訳『AUDREY HEPBURN―母、オードリーのこと』竹書房、2004年5月18日。ISBN 978-4812416686 
  • ルカ・ドッティ 著、網野千代美 訳『オードリー at Home』株式会社フォーイン スクリーンプレイ事業部、2016年6月1日(改訂版2019年)。ISBN 978-4-89407-552-8 
  • チャールズ・ハイアム 著、柴田京子 訳『オードリー・ヘプバーン 映画に燃えた華麗な人生』近代映画社、1986年3月15日。ISBN 978-4764813212 
  • バリー・パリス 著、永井淳 訳『オードリー・ヘップバーン 上巻(2001年の文庫版タイトルは『オードリー・ヘップバーン物語』)』集英社、1998年5月4日。ISBN 978-4087732894 
  • バリー・パリス 著、永井淳 訳『オードリー・ヘップバーン 下巻(2001年の文庫版タイトルは『オードリー・ヘップバーン物語』)』集英社、1998年5月4日。ISBN 978-4087732955 
  • アレグザンダー・ウォーカー 著、斎藤静代 訳『オードリー リアル・ストーリー』株式会社アルファベータ、2003年1月20日。ISBN 978-4871984676 
  • イアン・ウッドワード 著、坂口玲子 訳『オードリーの愛と真実』日本文芸社、1993年12月25日。ISBN 978-4537023886 
  • ロビン・カーニー 著、中俣真知子 訳『ライフ・オブ・オードリー・ヘップバーン』キネマ旬報社、1994年1月20日。ISBN 978-4873760759 
  • パメラ・クラーク・キオ 著、坂口玲子 訳『オードリー・スタイル 〜エレガントにシックにシンプルに』講談社、2000年12月18日。ISBN 978-4062105323 
  • ステファニア・リッチ『オードリー・ヘプバーン:私のスタイル』朝日新聞社、2001年6月1日。ISBN 978-4022586742 
  • 坂口玲子 訳『timeless audrey』シーボルト・ブックス、2004年5月22日。 
  • エレン・アーウィン&ジェシカ・Z・ダイヤモンド『the audrey hepburn treasures』講談社、2006年9月25日。ISBN 978-4062134934 
  • ジェリー・バーミリー 著、河村美紀 訳『スクリーンの妖精 オードリー・ヘップバーン』シンコー・ミュージック、1997年6月13日。ISBN 978-4401615766 
  • サム・ワッソン 著、清水晶子 訳『オードリー・ヘプバーンとティファニーで朝食を オードリーが創った、自由に生きる女性像』マーブルトロン発行、中央公論新社発売、2011年10月31日。ISBN 978-4-12-390314-1 
  • エレン・フォンタナ&ショーン・ヘプバーン・ファーラー 著、松井貴子 訳『AUDREY100 オードリー物語 100枚の写真に秘められた伝説』二見書房、2011年11月25日。ISBN 978-4576111452 
  • 南俊子 編『シネアルバム5 オードリー・ヘプバーン きらめく真珠のように夢みる白鳥のように』芳賀書店、1971年12月20日。 
  • 『カタログ オードリー・ヘプバーン』雄鶏社、1977年1月25日。 
  • 映画の友 11月号臨時増刊 オードリイ・ヘップバーン全集』映画の友社、1966年11月10日。 
  • シュプール特別編集『永遠のオードリー・ヘップバーン』集英社、1993年5月5日。
  • 清藤秀人『永遠のファッション・アイコン オードリーに学ぶおしゃれ練習帳』近代映画社、2008年7月15日。ISBN 978-4-7648-2189-7 
  • Harris, Warren G. (1994). Audrey Hepburn: A Biography. Simon & Schuster. ISBN 9780671758004 
  • Hepburn-Ferrer, Sean (2003). Audrey Hepburn, An Elegant Spirit: A Son Remembers. Atria. ISBN 0-671-02478-7 
  • Paris, Barry (1997). Audrey Hepburn. Weidenfeld & Nicolson. ISBN 978-0-297-81728-4 
  • Walker, Alexander (1994). Audrey: Her Real Story. Weidenfeld & Nicholson. ISBN 978-1-85797-352-5 

外部リンク

[編集]