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「ダイナナホウシユウ」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2015年7月}}
{{競走馬
{{競走馬
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|名 = ダイナナホウシユウ
|説 = ダイナナホウシユウ(皐月賞優勝時)
|性 = [[牡馬|牡]]
|名 = ダイナナホウシユウ<br />(タマサン)
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|生 = [[1951年]][[5月11日]]<ref name="yushun0003">『優駿』2000年3月号、p.38</ref>
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'''ダイナナホウシユウ'''([[1951年]][[5月11日]] - [[1974年]][[1月]])は、[[日本]]の[[競走馬]]である。[[1954年]]に[[皐月賞]]、[[菊花賞]]を制覇し[[二冠馬]]となった。[[馬齢|古馬]]になってからも[[天皇賞|天皇賞・秋]]を制覇した。デビューから皐月賞まで名牝[[クリフジ]]、二冠馬[[トサミドリ]]、[[日本中央競馬会]]歴代最多勝馬[[タカオー]]と並ぶ11連勝を達成した。これは現在でも破られていない[[中央競馬]]レコードである
'''ダイナナホウシユウ'''('''ダイナナホウシュウ'''<ref name="kettou" />、[[1951年]][[5月11日]] - [[1974年]][[1月]])は、[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]。


'''タマサン'''の名で1953年に[[国営競馬]](1954年より[[日本中央競馬会]])でデビュー。一説に380[[キログラム|kg]]台という小柄な馬体ながら初戦より連勝を重ね、1954年よりダイナナホウシユウと改名されたのち[[皐月賞]]を制覇。同競走までの11連勝は[[中央競馬]]における最多連勝タイ記録である。のち連勝を止めたが、同年秋には[[菊花賞]]にも優勝し、同年の[[JRA賞最優秀3歳牡馬|最良4歳牡馬]]に選出された。1955年には[[天皇賞|天皇賞(秋)]]を制し、[[JRA賞最優秀4歳以上牡馬|最良5歳以上牡馬]]となる。それから1年の休養を経て、1956年末に新設された[[有馬記念|中山グランプリ]]を最後に引退した。通算29戦23勝。「褐色の弾丸列車」の異名をとった<ref name="meibameishoubu" />。
驚異的なスピードでレースの主導権を掌握し、「褐色の弾丸列車」との異名で呼ばれた。現代の競馬においては考えられないほどの軽量馬で馬体重は400[[キログラム]]に満たなかった。スピードとスタミナを兼ね備えており、皐月賞、菊花賞では2着に合計14[[着差 (競馬)|馬身]]の大差をつけ制覇。競走生活において60キログラム以上の[[負担重量|斤量]]を10回背負わされたが、それをものともせず8勝2着1回3着1回という戦績を収めている。5歳時には[[屈腱炎]]を発症したが、それをおして出走した秋の天皇賞で勝利するなど、一流の戦績を記録した競走馬であった。


1957年より種牡馬となったが産駒に[[中央競馬]]の重賞勝利馬はなく、その役目を終えてからは[[馬術]]競技馬としても使役された。
== 3、4歳時の戦歴 ==
小柄で馬格が雄大ではなかったため、それほど将来を嘱望されていたわけではなかった。[[京都競馬場]]の[[上田武司 (競馬)|上田武司]]厩舎に入厩してから3歳時まではタマサンという[[競走馬#競走馬名|競走名]]で登録され、3歳の8月に[[小倉競馬場]]でデビューしてクビ差の辛勝だったが、その後は3歳時に8連勝を記録した。


== 経歴 ==
4歳になると、馬名をダイナナホウシユウに改名した。[[馬主]]の[[上田清次郎]]は、「ホウシユウ」や「ブゼン」の冠名を持ち馬に付けていたが、「ホウシユウ」はとくに活躍が期待される馬にのみ与えられており、まさに馬主の期待の表れとも言える改名であった。
=== デビューまで ===
1951年、[[北海道]][[虻田郡]][[豊浦町]]の飯原農場に生まれる<ref name="meibameishoubu">『日本の名馬・名勝負物語』pp.128-135</ref>。牧場での幼名は「タマサン」<ref name="meibameishoubu" />。1948年の天皇賞(春)に優勝した[[シーマー (競走馬)|シーマー]]を父にもち、同父の同期生産馬には後にライバルと目されるようになる[[タカオー]]がいた<ref name="meibameishoubu" />。牧場主・飯原盛作は生産馬に対し極めて厳しい鍛錬を課したことで知られ、タマサン、タカオーともにこの方針のもと育てられた。長じた両馬はいずれも体高5尺1寸<ref name="meibameishoubu" />(約154cm)、体重は平均415kg前後<ref name="meibameishoubu" />、一説にタマサンは380kg台<ref name="meiba">『日本の名馬』pp.173-182</ref>という、当時としても小柄な体格に育った<ref name="meibameishoubu" />。


のち九州で炭鉱を経営する[[上田清次郎]]の所有馬となり、[[京都競馬場]]・[[上田武司 (競馬)|上田武司]]厩舎に入る。清次郎は最初の所有馬ホウシユウが活躍して以来、期待馬に対しては「[[ダイニホウシユウ]]」、「ダイサンホウシユウ」と番号を割り振った命名をすることを常としていたが、タマサンにそうした名付けは行われず、幼名がそのまま競走名となった<ref name="meibameishoubu" />。小柄な体格から、当初はさしたる期待を受けていなかったのだとされる<ref name="meiba" />。
騎手も厩舎の[[主戦騎手]]である[[上田三千夫]]に乗り替わり、4歳戦を2連勝して10連勝という戦績を収めて皐月賞に出走した。迎え撃つ関東馬は、朝日杯3歳ステークス(現在の[[朝日杯フューチュリティステークス]])の優勝馬で、同じ飯原牧場に生まれ父親もともに[[シーマー]]を持つタカオーであった。タカオーも3歳10月以来負けなしの11連勝を記録しており、まさに雌雄を決する注目の一戦となった。


=== 戦績 ===
[[馬場状態|不良馬場]]で行われた第14回皐月賞は、スタートから快調に[[脚質#逃げ|逃げた]]ダイナナホウシユウが、まったく後続に影を踏ませず8馬身の[[着差 (競馬)|着差]]をつけて優勝。タカオーは不良馬場のせいか本来の能力を発揮できずに4着に終わった。
==== 3-4歳時(1953-1954年) ====
1953年8月の小倉開催でデビュー。飯原農場の出身である<ref>『騎手銘鑑』p.8</ref>石崎修を鞍上に、初戦こそ2着とクビ差の辛勝だったものの、以後11月に京都で出走を終えるまでレコード勝ち1回を含む無傷の8連勝を記録。内容はいずれもスタートで先頭に立ってからの逃げ切り勝ちというものだった<ref name="meiba" />。翌年からタマサンは「ダイナナホウシユウ」と改名され、騎手も所属厩舎の主戦騎手・[[上田三千夫]]に替わることになった<ref name="meiba" />。
<gallery>
File:Shu itou.jpg|石崎修
File:1953_nikkei_shinshun_hai_ceremony.jpg|左から上田武司、上田清次郎、上田三千夫
</gallery>


4歳となった1954年3月に復帰。2着に大差(10馬身以上)をつけて逃げ切り勝ちを収め、このころより「褐色の弾丸列車」という異名が冠されはじめる<ref name="meiba" />。4歳クラシック初戦・皐月賞を見据えての東上戦でも大差勝ちを収めた<ref name="meiba" />。なお、この2戦の公式記録は「大差」であるが、[[山野浩一]]著『栄光の名馬』によれば、それぞれの着差は15馬身、24馬身とされる<ref name="yamano">山野(1976)pp.41-44</ref>。
その後両馬は、[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]](現廃止・芝2000[[メートル]])でふたたび対峙することになった。レースではスタートで後手を踏み、タカオーの3着に敗れ、連勝は11で止まった。
[[File:1954 satsuki sho.jpg|thumb|皐月賞。スタートから先頭を奪うダイナナホウシユウ(上)、ゴール前の様子(下)。|250px]]
4月18日、10戦10勝の成績で皐月賞を迎えた。ここにおいて、3歳王者戦・[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日盃三歳ステークス]]や前哨戦の[[スプリングステークス]]を含め17戦14勝、目下11連勝中のタカオーとの初対戦となる。前夜から降雨があり当日の[[馬場状態]]は不良となったなか、タカオー1番人気、ダイナナホウシユウ2番人気の順となったが、両馬とも重馬場は苦にしないとみられ単勝の売上票数は4799対4668と僅差だった<ref name="meiba" />。スタートが切られるとダイナナホウシユウが常の通り先頭を奪い、道中は後続を引き離しての逃げを打つ。第3コーナーから最終コーナーにかけてその差は一時詰まったが、最後の直線に入るとダイナナホウシユウは再び後続を突き放し、2着オーセイに8馬身差をつけての優勝を果たした<ref name="meiba" />。道中、足下の悪さに何度もバランスを崩した(同馬に騎乗した高橋英夫の言)というタカオーは4着に敗れて連勝を11で止め、ダイナナホウシユウがこれに並ぶ無敗の11連勝を達成した。これは当時の[[国営競馬]]の前身・[[日本競馬会]]時代を含めると、[[クリフジ]]、[[トサミドリ]]、[[ウイザート]]に並ぶ最多連勝のタイ記録であった<ref name="meibameishoubu" />。


5月5日には[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]へのトライアル競走・[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]へ出走。1番人気に推されたダイナナホウシュウに対し、タカオーは人気を落として3番人気となったが、ダイナナホウシユウはスタートで出遅れて逃げることができず、終始好位でレースを進めたタカオーが勝利<ref name="meiba" />。ダイナナホウシユウは2着ミネマサにも半馬身遅れての3着と敗れ、タカオーに続き連勝を11で止めた<ref name="meiba" />。
[[東京優駿|日本ダービー]]では、ブリンクビルから不利を受けてスタートで完全に立ち遅れ、すぐに先団に取り付いて第4コーナーでようやく先頭に立ったものの、道中の無理が祟って直線で一杯となり、[[ゴールデンウエーブ]]の4着に敗れた。[[三冠 (競馬)|三冠]]達成の道は閉ざされてしまったが、秋の菊花賞を目指し休養に入った。


5月23日、日本ダービーを迎える。前走で敗れたものの、ダイナナホウシユウは49.5パーセントという支持率で1番人気に推され、タカオーが2番人気でこれに続いた。馬場状態は稍重だったが、前座の競走では良馬場よりも4~5秒のタイムがかかる荒れた状態であった<ref name="meiba" />。
休養後、[[京都新聞杯]]、オープンをともに2着のあと、[[神戸新聞杯]]では64キログラムの斤量を背負いながらも1着となり、本番の菊花賞に臨んだ。[[牝馬]][[クラシック (競馬)|クラシック]]二冠[[ヤマイチ (競走馬)|ヤマイチ]]や日本ダービー馬ゴールデンウエーブ、タカオーが顔を揃えた菊花賞で、ダイナナホウシユウはスタートから快調に逃げて2着に6馬身差をつけて優勝した。紅一点のヤマイチは健闘したものの3着、タカオーはこれまでの連戦が祟ったためか4着に終わった。年末のオープンで66キログラムを背負いながら勝利し、1954年度の[[JRA賞最優秀3歳牡馬|啓衆社賞最良4歳牡馬]]に選出された。


当時はバリヤーという遮蔽テープの後ろに全馬が整列し、テープが跳ねあがると同時にスタートという方式がとられていた。本競走のスタートが切られた瞬間、ダイナナホウシユウの右隣にいたブリンクヒルが、同じく左隣にいたホマレオーと接触するほど急激に横突し、やや立ち後れ気味だったダイナナホウシュウは左右から挟まれる形となり、大きく出遅れた<ref name="meibameishoubu" />。道中は各馬が状態の悪い馬場内側を避け、外めを走っていくなか、上田ダイナナホウシユウは荒れた内側を通って先団に進出していき、最終コーナーから先頭に立った<ref name="meibameishoubu" />。最後の直線では逃げ粘りを図ったが、半ばで失速してタカオーにかわされ<ref name="meibameishoubu" />、さらに同馬をかわして優勝した[[ゴールデンウエーブ]]から約5馬身差の4着と敗れた<ref name="derby">『日本ダービー25年史』p.69</ref>。タカオーは2着であった。
== 5歳時の戦歴 ==
5歳になってからは、オープンを2連勝したが、3戦目のオープンで3着に終わるとレース後に[[屈腱炎]]を発症していることが判明。春の天皇賞は断念し、秋の天皇賞を目指して休養に入った。


その後は休養に入り、9月に復帰して緒戦のオープン競走で勝したが、続く京都盃、オープン競走の2戦は、いずれも日本ダービー3着<ref name="derby" />のミネマサに敗れた<ref name="meiba2">『日本の名馬』pp.182-193</ref>。しかし、クラシック三冠最終戦・菊花賞への前哨戦として臨んだ[[神戸新聞杯|神戸盃]]では、64kgの斤量を負いながらも逃げ切りでの勝利を挙げ、同23日に菊花賞を迎えた。当日はミネマサが1番人気となったが、レースではダイナナホウシユウが後続を大きく離しての逃げからそのままゴールまで押し切り、ミネマサに6馬身差をつけてクラシック二冠を制した<ref name="meiba2" />。この競走で4着となったタカオーとは、これが最後の対戦となった<ref name="meibameishoubu" />。
秋に復帰したダイナナホウシユウは、脚部不安を抱えながらも復帰戦で66キログラムを背負って勝利し、続く[[京都記念]]でもレコードタイムで優勝、中山のオープンを3頭立てながらもレコードで勝利と、3連勝して秋の天皇賞に出走した。いつものように軽快に逃げたダイナナホウシユウは、[[脚質#追い込み|追い込み]]馬の[[フアイナルスコア]]にハナ差まで詰め寄られたがかろうじて1着となった。1955年度の[[JRA賞最優秀4歳以上牡馬|啓衆社賞最良5歳以上牡馬]]に選出されたが、ふたたび脚部不安を発症して休養生活へ入る。


年末にはオープン競走を制し、当年の出走を終える。当年[[啓衆社]]がはじめた中央競馬の年度表彰において、ダイナナホウシユウは最良4歳牡馬に選出された。また、ダイナナホウシユウとタカオーの活躍により、飯原農場は生産者成績で第1位となっている<ref name="derby" />。
== 6歳時の戦歴と引退後 ==
6歳になり、すでに天皇賞を制覇して大きな目標もなくなり、脚元の不安もあって引退も考えられたが、この年開催されることが決定した、初のオールスターレースである中山グランプリ(現・[[有馬記念]])の開催を受けて現役を続行することとなった。屈腱炎は快方に向かわなかったが、陣営の必死の立て直しにより、復帰戦となった11月のオープンを勝利し、続く[[阪神大賞典]]でも勝利を得て、中山グランプリに出走した。


==== 5-6歳時(1955-1956年) ====
初めての中山グランプリでは、[[有馬頼寧]]日本中央競馬会理事長の肝入りもあって、豪華なメンバーが揃った。[[メイヂヒカリ]](天皇賞〈春〉、菊花賞)、[[ミツドフアーム]]([[外国産馬]]。天皇賞〈秋〉)、この年の[[中央競馬クラシック三冠|クラシック三冠]]の勝利馬3頭、[[ヘキラク]]、[[ハクチカラ]]、[[キタノオー]]という顔ぶれであったが、ダイナナホウシユウは2番[[人気]]となった。レースではいつものように逃げたものの、脚の状態はすでに限界を越えており、結局レース中に故障を発生して、メイヂヒカリの11着と惨敗した。
5歳となった1955年は年頭からオープン競走を2連勝したが、[[天皇賞|天皇賞(春)]]を前に出走した3戦目では3着と敗れる。この競走後、屈腱炎のため休養に入った<ref name="meiba2" />。なお、ダイナナホウシユウが回避した天皇賞はタカオーがレコードタイムで優勝している<ref name="meiba2" />。


9月に復帰し、緒戦のオープン競走では66kgを負いながら2着に5馬身差をつけて勝利。続く[[京都記念]]では65kgを負い、2200メートルを2分16秒4の日本レコードタイムで制した<ref name="meiba2" />。のち天皇賞(秋)に備えて東上し、前哨戦として臨んだオープン競走・2000メートルを2分2秒2で駆け抜け、2戦連続のレコード勝利を挙げた<ref name="meiba2" />。なお、前者のレコードは1965年まで(コースレコードとして)、後者は1963年に[[ヤマトキョウダイ]]に破られるまで保持された<ref>山野(1976)p.38</ref>。
この一戦を最後に引退したダイナナホウシユウは[[種牡馬]]となった。当時の日本史上最強馬として大いに期待され、当初は数多くの牝馬に種付けを行ったが、産駒はまったくと言っていいほど走らなかった。もともと馬格もなく、また輸入種牡馬全盛期でもあって、人気は凋落の一途を辿っていった。活躍した産駒としては、わずかに[[1966年]]に[[大井競馬場]]の[[金盃]]を制したスカーレット([[ヒカルイマイ]]の叔父)が記録にとどまるのみである。やがて種牡馬を廃用となり[[乗馬]]となったが、乗馬としての素質は優れており、数々の大会で活躍した。


3連勝の成績で天皇賞を迎えたが、回避も視野に入っていたほど脚部の状態は芳しくなく、最終調教はごく軽いものであった<ref name="meibameishoubu" />。レースでは逃げ粘りつつも、最後の直線でいったんファイナルスコアに交わされたが、これを再び差し返しての優勝を果たした<ref name="meibameishoubu" />。上田三千夫は後に「あれは鼻の差だったが、私は勝ったという自信があった。それよりも脚の方が心配だった」と述べている<ref name="meiba2" />。
[[1974年]]1月、24歳で死亡した。


天皇賞制覇のあと、脚部不安と負担重量の増加を嫌い、翌1956年秋まで約1年にわたって休養する<ref name="meiba2" />。しかし当年、出走馬をファン投票で決める[[オールスター]]競走・[[有馬記念|中山グランプリ]]が新設されることが決まり、これを目標として復帰<ref name="meiba2" />。67kgを負っての復帰初戦、続く阪神大賞典と連勝した<ref name="meibameishoubu" />。
== そのほか ==
[[1984年]]に選定された[[顕彰馬]]の選考では、ダイナナホウシユウも選考対象となったが、結局選ばれることはなかった。選考委員のひとりが小柄な馬格を指摘し、サラブレッドとしての品格に欠けるとして強硬に反対したためといわれている{{要出典|date=2015年7月}}。


中山グランプリのファン投票においてダイナナホウシユウは10位以内に入らず<ref>『優駿』2011年1月号、p.32</ref>、推薦による出走となったが<ref name="yushun0801">『優駿』2008年1月号、p.34</ref>、7頭の[[八大競走]]優勝馬が顔を揃えたなかで、当日の人気では[[メイヂヒカリ]]に次ぐ2番人気となった<ref name="yushun0801" />。しかし競走前から脚部に異常の兆候がみられており、レース中の向正面で故障を発生<ref name="meiba2" />。「四本の脚のうち三本までがいけなかった」(上田<ref name="meiba2" />)という状態で12頭立ての11着に終わり、これを最後として競走生活から退いた。
== おもな勝ち鞍 ==

*天皇賞(秋)
=== 引退後 ===
*菊花賞
競走馬引退後は[[日本中央競馬会]]に買い上げられて種牡馬となった。競走成績の良さを買われて当初は多くの交配相手を集めたものの<ref name="yamano" />、[[地方競馬]]の重賞勝利馬を数頭出した程度(下記)に終わった。1966年まで種牡馬として供され<ref name="kettou" />、その後は日高育成牧場で若駒の追い運動を補助する役<ref name="yamano" />を務めたのち、札幌の大学馬術部に移った<ref name="meibameishoubu" />。1973年には全国学生馬術選手権出場のため、かつて競走馬として走った阪神競馬場にも姿をみせた<ref name="meibameishoubu" />。それから間もなく[[熊本県]]の[[熊本県立翔陽高等学校|大津農業高等学校]]に寄贈され、1974年1月に同地で死亡したと伝えられる<ref name="meibameishoubu" />。24歳没。
*皐月賞

*神戸新聞杯
== 評価 ==
*京都記念
騎乗した上田三千夫は「あの小さな身体でよく走った。ダイナナホウシユウの良さはスピードにあった」と評している<ref name="meiba2" />。評論家の[[山野浩一]]は『栄光の名馬』(1976年刊)において、タイトルの数、勝率、持ちタイム、過酷な負担重量の克服といった諸要素から鑑みて「戦後日本の代表的な競走馬だといえる」「少なくとも[[シンザン]]、[[トキノミノル]]、[[セントライト]]、[[クリフジ]]の四巨星に次ぐ馬としてダイナナホウシュウは[[スピードシンボリ]]、[[トサミドリ]]、[[ハクチカラ]]と並ぶべき馬であろう」と述べている<ref name="yamano" />。日本中央競馬会の広報誌『[[優駿]]』が2000年に選出した「20世紀のベストホース100」に名を連ねた<ref>『優駿』2000年11月号、p.14</ref>ほか、同誌が2004年に識者投票で選んだ「年代別代表馬」という企画においては、1950年代でトキノミノル、ハクチカラに次ぐ3位となっている<ref name="yushun0403" />。
*阪神大賞典

なお、前段で山野が名を挙げた馬は、1984年に[[JRA顕彰馬]]制度が創設されてからすべて殿堂入りしているが、ダイナナホウシユウはそうならなかった。候補には挙げられたが、選考委員のひとりが「馬品に欠ける」と述べたことで選外になったという<ref name="yushun0403">『優駿』2004年3月号、p.12</ref>。馬主の上田清次郎は落選に激怒していたといい、ダイナナホウシユウに深く傾倒していた詩人の[[志摩直人]]も「天下一品の流れるようなリズムでどこまでも先頭をきって走る美しい姿こそサラブレッドの極みではないか」と、件の選考委員の言に反論を加えている<ref name="yushun0403" />。

== 競走成績 ==

{| style="font-size: 100%; text-align: center; border-collapse: collapse;"
|-
|align="center" colspan="3"|年月日
|
|レース名
|頭数
|人気
|着順
|距離([[馬場状態|状態]])
|タイム
|[[騎手]]
|[[斤量]]
|勝ち馬/(2着馬)
|-
|1953
|8.
|2
|[[小倉競馬場|小倉]]
|三歳オープン
|7
|2
|{{color|darkred|1着}}
|1000[[メートル|m]](良)
|1:02.2
|石崎修
|52
|(コウカイ)
|-
|
|9
|5
|[[中京競馬場|中京]]
|三歳オープン
|6
|1
|{{color|darkred|1着}}
|1000m(不)
|1:04.4
|石崎修
|52
|(シヨウセイ)
|-
|
|9.
|19
|中京
|三歳特別
|4
|2
|{{color|darkred|1着}}
|1000m(重)
|1:05.0
|石崎修
|51.5
|(コウカイ)
|-
|
|10.
|4
|[[京都競馬場|京都]]
|三歳オープン
|7
|1
|{{color|darkred|1着}}
|1000m(良)
|1:00.4
|石崎修
|52
|(マナスル)
|-
|
|10.
|17
|京都
|三歳優勝
|4
|1
|{{color|darkred|1着}}
|1200m(良)
|{{color|darkred|R1:12.4}}
|石崎修
|52
|(コマツカゼ)
|-
|
|10.
|24
|[[阪神競馬場|阪神]]
|三歳オープン
|10
|1
|{{color|darkred|1着}}
|1200m(良)
|1:13.0
|石崎修
|52.5
|(コウカイ)
|-
|
|11.
|8
|阪神
|三歳優勝
|3
|2
|{{color|darkred|1着}}
|1200m(良)
|1:14.4
|石崎修
|52.5
|(マツオ)
|-
|
|11.
|21
|京都
|三歳オープン
|6
|1
|{{color|darkred|1着}}
|1200m(良)
|1:16.1
|石崎修
|53
|(トリツバサ)
|-
|1954
|3.
|20
|京都
|四歳オープン
|6
|1
|{{color|darkred|1着}}
|1600m(良)
|1:39.6
|[[上田三千夫]]
|56
|(ヒサニシキ)
|-
|
|4.
|5
|[[中山競馬場|中山]]
|四歳オープン
|5
|1
|{{color|darkred|1着}}
|1800m(良)
|1:53.0
|上田三千夫
|57
|(キタノイヅミ)
|-
|
|4.
|18
|中山
|'''[[皐月賞]]'''
|13
|2
|{{color|darkred|1着}}
|2000m(不)
|2:11.4
|上田三千夫
|57
|(オーセイ)
|-
|
|5.
|5
|[[東京競馬場|東京]]
|[[NHK杯 (競馬)|NHK盃]]
|11
|1
|3着
|2000m(良)
|(3/4身)
|上田三千夫
|57
|[[タカオー]]
|-
|
|5.
|23
|東京
|'''[[東京優駿]]'''
|18
|1
|4着
|2400m(稍)
|(5身)
|上田三千夫
|57
|[[ゴールデンウエーブ]]
|-
|
|9.
|25
|京都
|四歳上オープン
|4
|1
|{{color|darkred|1着}}
|1700m(重)
|1:45.2
|上田三千夫
|60
|(ニユークモハタ)
|-
|
|10.
|3
|京都
|[[京都新聞杯|京都盃]]
|5
|1
|2着
|2400m(重)
|(3/4身)
|上田三千夫
|59
|ミネマサ
|-
|
|10.
|23
|阪神
|四歳上オープン
|5
|1
|2着
|2000m(良)
|(1 1/4身)
|上田三千夫
|61
|ミネマサ
|-
|
|11.
|7
|阪神
|[[神戸新聞杯|神戸盃]]
|6
|1
|{{color|darkred|1着}}
|2000m(良)
|2:03.4
|上田三千夫
|64
|(サンダービー)
|-
|
|11.
|23
|京都
|'''[[菊花賞]]'''
|9
|2
|{{color|darkred|1着}}
|3000m(良)
|3:09.2
|上田三千夫
|57
|(ミネマサ)
|-
|
|12.
|25
|阪神
|四歳上オープン
|6
|1
|{{color|darkred|1着}}
|1800m(良)
|1:52.4
|上田三千夫
|66
|(ロビンオー)
|-
|1955
|1.
|8
|京都
|五歳上オープン
|5
|1
|{{color|darkred|1着}}
|1700m(稍)
|1:44.2
|上田三千夫
|65
|(セカイイチ)
|-
|
|2.
|19
|小倉
|五歳上オープン
|5
|1
|{{color|darkred|1着}}
|1800m(良)
|1:54.6
|上田三千夫
|65
|(セカイイチ)
|-
|
|4.
|17
|京都
|五歳上オープン
|7
|1
|3着
|1700m(不)
|(5 1/4身)
|荒木正勝
|64
|ライリユウ
|-
|
|9.
|24
|京都
|四歳上オープン
|7
|1
|{{color|darkred|1着}}
|2000m(良)
|2:06.2
|上田三千夫
|65
|(ケンシユン)
|-
|
|10.
|9
|京都
|[[京都記念]]
|8
|1
|{{color|darkred|1着}}
|2200m(良)
|{{color|darkred|R2:16.8}}
|上田三千夫
|65
|(ヒデホマレ)
|-
|
|11.
|5
|中山
|四歳上オープン
|3
|1
|{{color|darkred|1着}}
|2000m(良)
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|上田三千夫
|55
|(ブレツシング)
|-
|
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|20
|東京
|'''[[天皇賞|天皇賞(秋)]]'''
|12
|1
|{{color|darkred|1着}}
|3200m(良)
|3:24.8
|上田三千夫
|58
|(フアイナルスコア)
|-
|1956
|11.
|17
|京都
|四歳上オープン
|7
|2
|{{color|darkred|1着}}
|1800m(良)
|1:52.4
|上田三千夫
|67
|(シヤングリラ)
|-
|
|12.
|2
|阪神
|[[阪神大賞典]]
|6
|1
|{{color|darkred|1着}}
|2000m(良)
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|上田三千夫
|61
|(オンワード)
|-
|
|12.
|23
|中山
|'''[[有馬記念|中山グランプリ]]'''
|12
|2
|11着
|2600m(良)
|(3.0秒)
|上田三千夫
|55
|[[メイヂヒカリ]]
|}
#出典:『優駿』2000年3月号、38頁。
#競走名太字は[[八大競走]]。
#タイム欄{{color|darkred|R}}はレコードタイムを表す。敗戦時のタイム欄括弧内は1着馬との着差。

== 重賞勝利産駒 ==
'''地方競馬重賞勝利馬'''
*スカーレット(1964年ゴールドカップ・浦和 1965年金盃・大井<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000008925/ |title=タツミ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月22日 |date=}}(本記事の[[ノート:ダイナナホウシユウ|ノート]]も参照のこと)</ref>)
*ウミタカ(1965年郭公賞・北海道、道新杯・北海道<ref>{{Cite web |url=http://www.jbis.or.jp/horse/0000011444/ |title=ウミタカ |author= |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015年11月22日 |date=}}</ref>)


== 血統表 ==
== 血統表 ==
父は前述の通り天皇賞の優勝馬。ダイナナホウシユウとタカオーが活躍した1954年と55年には、それぞれ種牡馬ランキングで4、5位の成績を残した<ref name="kettou">山野(1976)p.24</ref>。母・白玲は不出走。ダイナナホウシユウの姉エゾレイザン(繁殖名・レイザン)は14勝を挙げている<ref name="kettou" />。祖母シルバーバットンを祖とする[[ファミリーライン|牝系]]「シルバーバットン系」は日本で最も古いもののひとつであり<ref name="meibameishoubu" />、ダイナナホウシユウを日本ダービーで破ったゴールデンウエーブや、ダイナナホウシユウと同じく11連勝の記録をもつウイザートも同じ牝系に属する<ref name="kettou" />。
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=== 近親 ===
*甥 - エゾテツザン([[阪神記念]]2回、[[京都記念]]<ref name="kettou" />)
*従兄 - [[キンテキ]]([[中山大障害|農林省賞典障碍]]<ref name="kettou" />)
*従兄 - [[ウイザート]]([[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神三歳ステークス]]、[[セントライト記念]]<ref name="kettou" />)
*又姪 - クロユリ([[京都大障害|阪神大障害]]<ref name="kettou" />)
*又甥 - ミドリオー([[CBC賞]]<ref name="kettou" />)
*又甥 - [[ハマノパレード]]([[阪神大賞典]]、[[宝塚記念]]<ref name="kettou" />)

== 出典 ==
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== 参考文献 ==
*[[白井透]](編)『日本の名馬』(サラブレッド血統センター、1971年)
**後閑亮輔「タカオーとダイナナホウシユウ」
*[[山野浩一]]『栄光の名馬 - 不滅の血統に生きた22頭』(明文社、1976年)ASIN B000J93QTY
*『日本の名馬・名勝負物語』(中央競馬ピーアール・センター、1980年)
**最上利澄「シーマーが出した小柄な2強 - ダイナナホウシユウ・タカオー」
*『優駿』(日本中央競馬会)各号


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2015年11月22日 (日) 14:12時点における版

ダイナナホウシユウ
(タマサン)
ダイナナホウシユウ(皐月賞優勝時)
品種 サラブレッド
性別 [1]
毛色 鹿毛[1]
生誕 1951年5月11日[2]
死没 1974年1月
シーマー[2]
白玲[2]
母の父 レヴユーオーダー[2]
生国 日本の旗 日本北海道虻田町[2]
生産者 飯原農場[2]
馬主 上田清次郎[2]
調教師 上田武司(京都[2]
競走成績
生涯成績 29戦23勝[2]
獲得賞金 1120万6690円[2]
テンプレートを表示

ダイナナホウシユウダイナナホウシュウ[1]1951年5月11日 - 1974年1月)は、日本競走馬種牡馬

タマサンの名で1953年に国営競馬(1954年より日本中央競馬会)でデビュー。一説に380kg台という小柄な馬体ながら初戦より連勝を重ね、1954年よりダイナナホウシユウと改名されたのち皐月賞を制覇。同競走までの11連勝は中央競馬における最多連勝タイ記録である。のち連勝を止めたが、同年秋には菊花賞にも優勝し、同年の最良4歳牡馬に選出された。1955年には天皇賞(秋)を制し、最良5歳以上牡馬となる。それから1年の休養を経て、1956年末に新設された中山グランプリを最後に引退した。通算29戦23勝。「褐色の弾丸列車」の異名をとった[3]

1957年より種牡馬となったが産駒に中央競馬の重賞勝利馬はなく、その役目を終えてからは馬術競技馬としても使役された。

経歴

デビューまで

1951年、北海道虻田郡豊浦町の飯原農場に生まれる[3]。牧場での幼名は「タマサン」[3]。1948年の天皇賞(春)に優勝したシーマーを父にもち、同父の同期生産馬には後にライバルと目されるようになるタカオーがいた[3]。牧場主・飯原盛作は生産馬に対し極めて厳しい鍛錬を課したことで知られ、タマサン、タカオーともにこの方針のもと育てられた。長じた両馬はいずれも体高5尺1寸[3](約154cm)、体重は平均415kg前後[3]、一説にタマサンは380kg台[4]という、当時としても小柄な体格に育った[3]

のち九州で炭鉱を経営する上田清次郎の所有馬となり、京都競馬場上田武司厩舎に入る。清次郎は最初の所有馬ホウシユウが活躍して以来、期待馬に対しては「ダイニホウシユウ」、「ダイサンホウシユウ」と番号を割り振った命名をすることを常としていたが、タマサンにそうした名付けは行われず、幼名がそのまま競走名となった[3]。小柄な体格から、当初はさしたる期待を受けていなかったのだとされる[4]

戦績

3-4歳時(1953-1954年)

1953年8月の小倉開催でデビュー。飯原農場の出身である[5]石崎修を鞍上に、初戦こそ2着とクビ差の辛勝だったものの、以後11月に京都で出走を終えるまでレコード勝ち1回を含む無傷の8連勝を記録。内容はいずれもスタートで先頭に立ってからの逃げ切り勝ちというものだった[4]。翌年からタマサンは「ダイナナホウシユウ」と改名され、騎手も所属厩舎の主戦騎手・上田三千夫に替わることになった[4]

4歳となった1954年3月に復帰。2着に大差(10馬身以上)をつけて逃げ切り勝ちを収め、このころより「褐色の弾丸列車」という異名が冠されはじめる[4]。4歳クラシック初戦・皐月賞を見据えての東上戦でも大差勝ちを収めた[4]。なお、この2戦の公式記録は「大差」であるが、山野浩一著『栄光の名馬』によれば、それぞれの着差は15馬身、24馬身とされる[6]

皐月賞。スタートから先頭を奪うダイナナホウシユウ(上)、ゴール前の様子(下)。

4月18日、10戦10勝の成績で皐月賞を迎えた。ここにおいて、3歳王者戦・朝日盃三歳ステークスや前哨戦のスプリングステークスを含め17戦14勝、目下11連勝中のタカオーとの初対戦となる。前夜から降雨があり当日の馬場状態は不良となったなか、タカオー1番人気、ダイナナホウシユウ2番人気の順となったが、両馬とも重馬場は苦にしないとみられ単勝の売上票数は4799対4668と僅差だった[4]。スタートが切られるとダイナナホウシユウが常の通り先頭を奪い、道中は後続を引き離しての逃げを打つ。第3コーナーから最終コーナーにかけてその差は一時詰まったが、最後の直線に入るとダイナナホウシユウは再び後続を突き放し、2着オーセイに8馬身差をつけての優勝を果たした[4]。道中、足下の悪さに何度もバランスを崩した(同馬に騎乗した高橋英夫の言)というタカオーは4着に敗れて連勝を11で止め、ダイナナホウシユウがこれに並ぶ無敗の11連勝を達成した。これは当時の国営競馬の前身・日本競馬会時代を含めると、クリフジトサミドリウイザートに並ぶ最多連勝のタイ記録であった[3]

5月5日には東京優駿(日本ダービー)へのトライアル競走・NHK杯へ出走。1番人気に推されたダイナナホウシュウに対し、タカオーは人気を落として3番人気となったが、ダイナナホウシユウはスタートで出遅れて逃げることができず、終始好位でレースを進めたタカオーが勝利[4]。ダイナナホウシユウは2着ミネマサにも半馬身遅れての3着と敗れ、タカオーに続き連勝を11で止めた[4]

5月23日、日本ダービーを迎える。前走で敗れたものの、ダイナナホウシユウは49.5パーセントという支持率で1番人気に推され、タカオーが2番人気でこれに続いた。馬場状態は稍重だったが、前座の競走では良馬場よりも4~5秒のタイムがかかる荒れた状態であった[4]

当時はバリヤーという遮蔽テープの後ろに全馬が整列し、テープが跳ねあがると同時にスタートという方式がとられていた。本競走のスタートが切られた瞬間、ダイナナホウシユウの右隣にいたブリンクヒルが、同じく左隣にいたホマレオーと接触するほど急激に横突し、やや立ち後れ気味だったダイナナホウシュウは左右から挟まれる形となり、大きく出遅れた[3]。道中は各馬が状態の悪い馬場内側を避け、外めを走っていくなか、上田ダイナナホウシユウは荒れた内側を通って先団に進出していき、最終コーナーから先頭に立った[3]。最後の直線では逃げ粘りを図ったが、半ばで失速してタカオーにかわされ[3]、さらに同馬をかわして優勝したゴールデンウエーブから約5馬身差の4着と敗れた[7]。タカオーは2着であった。

その後は休養に入り、9月に復帰して緒戦のオープン競走で勝したが、続く京都盃、オープン競走の2戦は、いずれも日本ダービー3着[7]のミネマサに敗れた[8]。しかし、クラシック三冠最終戦・菊花賞への前哨戦として臨んだ神戸盃では、64kgの斤量を負いながらも逃げ切りでの勝利を挙げ、同23日に菊花賞を迎えた。当日はミネマサが1番人気となったが、レースではダイナナホウシユウが後続を大きく離しての逃げからそのままゴールまで押し切り、ミネマサに6馬身差をつけてクラシック二冠を制した[8]。この競走で4着となったタカオーとは、これが最後の対戦となった[3]

年末にはオープン競走を制し、当年の出走を終える。当年啓衆社がはじめた中央競馬の年度表彰において、ダイナナホウシユウは最良4歳牡馬に選出された。また、ダイナナホウシユウとタカオーの活躍により、飯原農場は生産者成績で第1位となっている[7]

5-6歳時(1955-1956年)

5歳となった1955年は年頭からオープン競走を2連勝したが、天皇賞(春)を前に出走した3戦目では3着と敗れる。この競走後、屈腱炎のため休養に入った[8]。なお、ダイナナホウシユウが回避した天皇賞はタカオーがレコードタイムで優勝している[8]

9月に復帰し、緒戦のオープン競走では66kgを負いながら2着に5馬身差をつけて勝利。続く京都記念では65kgを負い、2200メートルを2分16秒4の日本レコードタイムで制した[8]。のち天皇賞(秋)に備えて東上し、前哨戦として臨んだオープン競走・2000メートルを2分2秒2で駆け抜け、2戦連続のレコード勝利を挙げた[8]。なお、前者のレコードは1965年まで(コースレコードとして)、後者は1963年にヤマトキョウダイに破られるまで保持された[9]

3連勝の成績で天皇賞を迎えたが、回避も視野に入っていたほど脚部の状態は芳しくなく、最終調教はごく軽いものであった[3]。レースでは逃げ粘りつつも、最後の直線でいったんファイナルスコアに交わされたが、これを再び差し返しての優勝を果たした[3]。上田三千夫は後に「あれは鼻の差だったが、私は勝ったという自信があった。それよりも脚の方が心配だった」と述べている[8]

天皇賞制覇のあと、脚部不安と負担重量の増加を嫌い、翌1956年秋まで約1年にわたって休養する[8]。しかし当年、出走馬をファン投票で決めるオールスター競走・中山グランプリが新設されることが決まり、これを目標として復帰[8]。67kgを負っての復帰初戦、続く阪神大賞典と連勝した[3]

中山グランプリのファン投票においてダイナナホウシユウは10位以内に入らず[10]、推薦による出走となったが[11]、7頭の八大競走優勝馬が顔を揃えたなかで、当日の人気ではメイヂヒカリに次ぐ2番人気となった[11]。しかし競走前から脚部に異常の兆候がみられており、レース中の向正面で故障を発生[8]。「四本の脚のうち三本までがいけなかった」(上田[8])という状態で12頭立ての11着に終わり、これを最後として競走生活から退いた。

引退後

競走馬引退後は日本中央競馬会に買い上げられて種牡馬となった。競走成績の良さを買われて当初は多くの交配相手を集めたものの[6]地方競馬の重賞勝利馬を数頭出した程度(下記)に終わった。1966年まで種牡馬として供され[1]、その後は日高育成牧場で若駒の追い運動を補助する役[6]を務めたのち、札幌の大学馬術部に移った[3]。1973年には全国学生馬術選手権出場のため、かつて競走馬として走った阪神競馬場にも姿をみせた[3]。それから間もなく熊本県大津農業高等学校に寄贈され、1974年1月に同地で死亡したと伝えられる[3]。24歳没。

評価

騎乗した上田三千夫は「あの小さな身体でよく走った。ダイナナホウシユウの良さはスピードにあった」と評している[8]。評論家の山野浩一は『栄光の名馬』(1976年刊)において、タイトルの数、勝率、持ちタイム、過酷な負担重量の克服といった諸要素から鑑みて「戦後日本の代表的な競走馬だといえる」「少なくともシンザントキノミノルセントライトクリフジの四巨星に次ぐ馬としてダイナナホウシュウはスピードシンボリトサミドリハクチカラと並ぶべき馬であろう」と述べている[6]。日本中央競馬会の広報誌『優駿』が2000年に選出した「20世紀のベストホース100」に名を連ねた[12]ほか、同誌が2004年に識者投票で選んだ「年代別代表馬」という企画においては、1950年代でトキノミノル、ハクチカラに次ぐ3位となっている[13]

なお、前段で山野が名を挙げた馬は、1984年にJRA顕彰馬制度が創設されてからすべて殿堂入りしているが、ダイナナホウシユウはそうならなかった。候補には挙げられたが、選考委員のひとりが「馬品に欠ける」と述べたことで選外になったという[13]。馬主の上田清次郎は落選に激怒していたといい、ダイナナホウシユウに深く傾倒していた詩人の志摩直人も「天下一品の流れるようなリズムでどこまでも先頭をきって走る美しい姿こそサラブレッドの極みではないか」と、件の選考委員の言に反論を加えている[13]

競走成績

年月日 レース名 頭数 人気 着順 距離(状態 タイム 騎手 斤量 勝ち馬/(2着馬)
1953 8. 2 小倉 三歳オープン 7 2 1着 1000m(良) 1:02.2 石崎修 52 (コウカイ)
9 5 中京 三歳オープン 6 1 1着 1000m(不) 1:04.4 石崎修 52 (シヨウセイ)
9. 19 中京 三歳特別 4 2 1着 1000m(重) 1:05.0 石崎修 51.5 (コウカイ)
10. 4 京都 三歳オープン 7 1 1着 1000m(良) 1:00.4 石崎修 52 (マナスル)
10. 17 京都 三歳優勝 4 1 1着 1200m(良) R1:12.4 石崎修 52 (コマツカゼ)
10. 24 阪神 三歳オープン 10 1 1着 1200m(良) 1:13.0 石崎修 52.5 (コウカイ)
11. 8 阪神 三歳優勝 3 2 1着 1200m(良) 1:14.4 石崎修 52.5 (マツオ)
11. 21 京都 三歳オープン 6 1 1着 1200m(良) 1:16.1 石崎修 53 (トリツバサ)
1954 3. 20 京都 四歳オープン 6 1 1着 1600m(良) 1:39.6 上田三千夫 56 (ヒサニシキ)
4. 5 中山 四歳オープン 5 1 1着 1800m(良) 1:53.0 上田三千夫 57 (キタノイヅミ)
4. 18 中山 皐月賞 13 2 1着 2000m(不) 2:11.4 上田三千夫 57 (オーセイ)
5. 5 東京 NHK盃 11 1 3着 2000m(良) (3/4身) 上田三千夫 57 タカオー
5. 23 東京 東京優駿 18 1 4着 2400m(稍) (5身) 上田三千夫 57 ゴールデンウエーブ
9. 25 京都 四歳上オープン 4 1 1着 1700m(重) 1:45.2 上田三千夫 60 (ニユークモハタ)
10. 3 京都 京都盃 5 1 2着 2400m(重) (3/4身) 上田三千夫 59 ミネマサ
10. 23 阪神 四歳上オープン 5 1 2着 2000m(良) (1 1/4身) 上田三千夫 61 ミネマサ
11. 7 阪神 神戸盃 6 1 1着 2000m(良) 2:03.4 上田三千夫 64 (サンダービー)
11. 23 京都 菊花賞 9 2 1着 3000m(良) 3:09.2 上田三千夫 57 (ミネマサ)
12. 25 阪神 四歳上オープン 6 1 1着 1800m(良) 1:52.4 上田三千夫 66 (ロビンオー)
1955 1. 8 京都 五歳上オープン 5 1 1着 1700m(稍) 1:44.2 上田三千夫 65 (セカイイチ)
2. 19 小倉 五歳上オープン 5 1 1着 1800m(良) 1:54.6 上田三千夫 65 (セカイイチ)
4. 17 京都 五歳上オープン 7 1 3着 1700m(不) (5 1/4身) 荒木正勝 64 ライリユウ
9. 24 京都 四歳上オープン 7 1 1着 2000m(良) 2:06.2 上田三千夫 65 (ケンシユン)
10. 9 京都 京都記念 8 1 1着 2200m(良) R2:16.8 上田三千夫 65 (ヒデホマレ)
11. 5 中山 四歳上オープン 3 1 1着 2000m(良) R2:02.4 上田三千夫 55 (ブレツシング)
11. 20 東京 天皇賞(秋) 12 1 1着 3200m(良) 3:24.8 上田三千夫 58 (フアイナルスコア)
1956 11. 17 京都 四歳上オープン 7 2 1着 1800m(良) 1:52.4 上田三千夫 67 (シヤングリラ)
12. 2 阪神 阪神大賞典 6 1 1着 2000m(良) 2:04.2 上田三千夫 61 (オンワード)
12. 23 中山 中山グランプリ 12 2 11着 2600m(良) (3.0秒) 上田三千夫 55 メイヂヒカリ
  1. 出典:『優駿』2000年3月号、38頁。
  2. 競走名太字は八大競走
  3. タイム欄Rはレコードタイムを表す。敗戦時のタイム欄括弧内は1着馬との着差。

重賞勝利産駒

地方競馬重賞勝利馬

  • スカーレット(1964年ゴールドカップ・浦和 1965年金盃・大井[14]
  • ウミタカ(1965年郭公賞・北海道、道新杯・北海道[15]

血統表

父は前述の通り天皇賞の優勝馬。ダイナナホウシユウとタカオーが活躍した1954年と55年には、それぞれ種牡馬ランキングで4、5位の成績を残した[1]。母・白玲は不出走。ダイナナホウシユウの姉エゾレイザン(繁殖名・レイザン)は14勝を挙げている[1]。祖母シルバーバットンを祖とする牝系「シルバーバットン系」は日本で最も古いもののひとつであり[3]、ダイナナホウシユウを日本ダービーで破ったゴールデンウエーブや、ダイナナホウシユウと同じく11連勝の記録をもつウイザートも同じ牝系に属する[1]

ダイナナホウシユウ血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ザテトラーク系
[§ 2]

シーマー
1944 鹿毛
父の父
*セフト
Theft
1932 鹿毛
Tetratema The Tetrarch
Scotch Gift
Voleuse Volta
Sun Worship
父の母
秀調
1936 黒鹿毛
大鵬 *シアンモア
*フリッパンシー
英楽 *チャペルブラムプトン
慶歌

白玲
1935 栗毛
*レヴユーオーダー
Review Order
1923 栗毛
Grand Parade Orby
Grand Geraldine
Accurate Pericles
Accuracy
母の母
第三シルバーバットン
1916 栗毛
*ブレアーモアー
Blairmore
Blairfinde
Woollahra
*シルバーバットン
Silver Button
Bachelor's Button
Queen of the Florin
母系(F-No.) 4号族(FN:4-g) [§ 3]
5代内の近親交配 5代以内アウトブリード [§ 4]
出典
  1. ^ netkeiba.com ダイナナホウシユウ 5代血統表2015年11月22日閲覧。
  2. ^ JBISサーチ ダイナナホウシユウ 5代血統表2015年11月22日閲覧。
  3. ^ JBISサーチ ダイナナホウシユウ 5代血統表2015年11月22日閲覧。
  4. ^ JBISサーチ ダイナナホウシユウ 5代血統表2015年11月22日閲覧。


近親

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 山野(1976)p.24
  2. ^ a b c d e f g h i j 『優駿』2000年3月号、p.38
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『日本の名馬・名勝負物語』pp.128-135
  4. ^ a b c d e f g h i j k 『日本の名馬』pp.173-182
  5. ^ 『騎手銘鑑』p.8
  6. ^ a b c d 山野(1976)pp.41-44
  7. ^ a b c 『日本ダービー25年史』p.69
  8. ^ a b c d e f g h i j k l 『日本の名馬』pp.182-193
  9. ^ 山野(1976)p.38
  10. ^ 『優駿』2011年1月号、p.32
  11. ^ a b 『優駿』2008年1月号、p.34
  12. ^ 『優駿』2000年11月号、p.14
  13. ^ a b c 『優駿』2004年3月号、p.12
  14. ^ タツミ”. JBISサーチ. 2015年11月22日閲覧。(本記事のノートも参照のこと)
  15. ^ ウミタカ”. JBISサーチ. 2015年11月22日閲覧。

参考文献

  • 白井透(編)『日本の名馬』(サラブレッド血統センター、1971年)
    • 後閑亮輔「タカオーとダイナナホウシユウ」
  • 山野浩一『栄光の名馬 - 不滅の血統に生きた22頭』(明文社、1976年)ASIN B000J93QTY
  • 『日本の名馬・名勝負物語』(中央競馬ピーアール・センター、1980年)
    • 最上利澄「シーマーが出した小柄な2強 - ダイナナホウシユウ・タカオー」
  • 『優駿』(日本中央競馬会)各号

外部リンク