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「Wikipedia‐ノート:スタイルマニュアル/人物伝」の版間の差分

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Kyoyaku (会話 | 投稿記録)
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:{{返信}}年号については確かにこちらの編集が間違っていたようで、その点はこちらに非があります。
:{{返信}}年号については確かにこちらの編集が間違っていたようで、その点はこちらに非があります。
:ただ、私が問題にしているのは「編集に文句がある」と言う事ではなく「どちらかのスタイルに従えばいいのか分かり辛いので改善すべきではないか?」と言う事ですね。現状、どっちに従えばいいのか分かり辛いので。個人的にはテンプレートと冒頭の両方にあって良いと思っていますが、どちらか選べと言われたら程度なのでそれほど強い意見ではありません。--[[利用者:Mercurius|Mercurius]]([[利用者‐会話:Mercurius|会話]]) 2016年3月29日 (火) 12:49 (UTC)
:ただ、私が問題にしているのは「編集に文句がある」と言う事ではなく「どちらかのスタイルに従えばいいのか分かり辛いので改善すべきではないか?」と言う事ですね。現状、どっちに従えばいいのか分かり辛いので。個人的にはテンプレートと冒頭の両方にあって良いと思っていますが、どちらか選べと言われたら程度なのでそれほど強い意見ではありません。--[[利用者:Mercurius|Mercurius]]([[利用者‐会話:Mercurius|会話]]) 2016年3月29日 (火) 12:49 (UTC)

== 出身地に関する記述について ==
明治以降の日本の人物の記述において、出身地が人物概要と来歴と両方に入っている例があります。改善案として、

*出身地は来歴に統一する。
*人物概要には都道府県名、来歴には市区町村名まで入れる
というのはどうでしょう?<span style="font-size:smaller">&mdash;&mdash;以上の[[Wikipedia:署名|署名]]の無いコメントは、[[利用者:日比谷の池ちゃん|日比谷の池ちゃん]]([[利用者‐会話:日比谷の池ちゃん|ノート]]・[[特別:Contributions/日比谷の池ちゃん|履歴]])さんが 2016年9月22日 (木) 09:20 (UTC) に投稿したものです([[利用者:Nami-ja|<span style="color:#CC0000">Nami-ja(凪海)</span>]] <span style="font-size:80%">([[利用者‐会話:Nami-ja|会話]] / [[特別:Contributions/Nami-ja|履歴]])</span>による付記)。</span>

{{コメント}} なぜ明治以降の日本人だけに特定しているのか([[Wikipedia:日本中心にならないように]]に反する)。別に両方に入っていても、または片方にだけ記載されていてもどちらでもいいように思うが、それをマニュアルで規定しなければならないような重大なことなのだろうか。--[[利用者:Chiba ryo|Chiba ryo]]([[利用者‐会話:Chiba ryo|会話]]) 2016年9月23日 (金) 19:11 (UTC)

:{{返信}}貴重なご意見ありがとうございます。
:別に両方に入っていても、または片方にだけ記載されていてもどちらでもいいということですね。[[利用者:日比谷の池ちゃん|日比谷の池ちゃん]]

2016年10月1日 (土) 11:23時点における版

ここでは、人物伝の書式標準化について議論し、結論を出し、スタイルマニュアルに反映させます。

人物伝冒頭の定義における「平成期」なる加筆について

以下はWikipedia:井戸端より移動 スタイルマニュアル/人物伝の記述例には「安土桃山時代の武将」とか「昭和・平成の政治家」といった例が存在しますが、これは過去の歴史的人物、あるいは政治家や学者といった人物の説明でよく見かける記述ではあっても、存命中の小説家や漫画家、現在も活躍中の芸能人やアスリートに用いるのは不適切と考えております。しかしながら一所懸命にこれを書き加える方も見受けられます。そこでこの際、広く意見を募って「歴史上の人物なら記載が好ましい」、「小説家の場合はマニュアル化しない」、「漫画家の場合は不要」等々のガイドラインを決められるだけ決めて、人物伝の下位に想定されるプロジェクトに明記してはどうかと思い提案します。Lan-Cruer 2005年12月8日 (木) 12:19 (UTC)[返信]

Wikipedia:すぐに古くなる表現は使わないをどうぞ。Tietew 2005年12月8日 (木) 14:41 (UTC)[返信]
早速ありがとうございます。念のためというか確認させて欲しいのですが、Tietewさまの意見を具体例化するならば「○○○は昭和末期・平成期のお笑い芸人である」という風に書き込む人へ「すぐに古くなる表現はつかわない」を参照例として示し、無用の編集を中止させましょう、となりますか? それとも「すぐに古く~」を活用してウィキプロジェクトの修正を行いましょう、となりますか?(両方かなw)。 すみません、実社会でも「オマエ鈍い!」とよく言われるんでひとつお手柔らかに願います<(_ _)> Lan-Cruer 2005年12月8日 (木) 16:01 (UTC)[返信]

こんにちは、現代の人物に関するそのような表記は違和感がありますね。ただ、違和感は感じるのですが、ではそれはすべきではないかと言われると迷います。注意書きを加えるなら、ジャンルごとで記述を分けるよりも、「存命、活躍中の人物に関しては使わない」という書き方で十分のような気がします。その場合は注意書きはウィキプロジェクトではなくWikipedia:スタイルマニュアル/人物伝でしょうね。--Yas 2005年12月10日 (土) 17:02 (UTC)[返信]

Wikipedia:すぐに古くなる表現は使わないの内容は、むしろ「昭和・平成期の~」とか「1980年代に活躍した~」という表現の方が推奨されますよ、というものです。存命中であっても、いつ頃脚光を浴びていたか、いつ頃活躍したかというのは、百科事典にとって結構重要な情報だと思います。++shimoxx 2005年12月10日 (土) 17:34 (UTC)[返信]
Yas様、shimoxx様、参加ありがとうございます。「存命中である、現在も活躍中である人物」という枠での使用制限を盛り込むという形であれば、成る程スタイルマニュアルに加筆するのがよさそうです。問題提起した当方としては、これはshimoxx様の指摘にも繋がるのかもしれませんが、その人物の活躍している業種によっては冒頭から明記する方が良い場合もあるのかなぁ~?と思った為で、故に提案から強硬主張する事は遠慮しました。スタイルマニュアルに加筆できるなら当面ベストかと考えます。
それと、shimoxx様の意見に関してですが、ご指摘の通り「すぐに古く~」では当方の問題提起よりむしろ積極的に記載せよと解釈されそうである事は承知しており、TIETEW様へは実はそれも含んでの問いかけでした。ただ、今回私が基本的に無用では?と考えたのは記事冒頭での(よみがな 生没年)の直後附近における記載の必然性についてであり、中でも存命中の漫画家や芸能人ともなれば40歳未満の方の記事が大半です。仮に漫画家活動や芸能生活が60年を越える人であったとしても、果たして本当に冒頭で特筆すべき重要な事項でしょうか? どうしても脚光を浴びた時期等に触れたい場合であっても詳細項目の段で触れておけば充分ではないか(モーニング娘。の黄金期の項みたいに)と思う訳です。そう考えつつも一歩引いて提案したのは、例えば現役期間の短いアスリートの場合などで判断に迷いがあった(個人的には無用と考えている)為です。と言う訳ですので、プロジェクト化あるいはマニュアル記載を念頭に「冒頭の定義文の中に必要か?」に明確に絞って進めさせて下さいますよう、念の為お願い申し上げます。(shimoxx様の現在の文章は第三者には冒頭・本文どちらにも解釈可能なので…)Lan-Cruer 2005年12月10日 (土) 18:57 (UTC)[返信]
冒頭で「昭和・平成期の」と書くことが有用か無用かと問われれば、有用だと思います。そこまで制限する必要もないでしょう。今活躍してるタレントや漫画家だって10年20年も経てば殆どが忘れ去られてしまうわけですし、存命の人であっても、20年前なら誰でも知ってたのに今では誰も覚えてない人は大勢います。そんなとき、冒頭部分に「~は上方を中心に活動する落語家。1960年代末期から1970年代初頭にかけて、乳房は夫のものでないですよという意味のギャグで一世を風靡した。」と書いてあれば、わざわざ本文を読まなくても月亭可朝のおおよそのことが判るじゃないですか。そっちの方が読者にとって親切だと思いますよ。ともかく、今でもルールが多すぎる位なのに、「冒頭部へ『○○期~』と書くことは禁止する」と無用とも言えるルールができることには反対です。++shimoxx 2005年12月10日 (土) 19:29 (UTC)一部修正shimoxx 2005年12月10日 (土) 19:34 (UTC)[返信]
ご意見ありがとうございます。当方の提起にやや過剰に反応しているようでもありますが、ここはやはりスタイルマニュアルへの記載まで考えるのは行き過ぎという事なのでしょうね。ただ、shimoxx様に冷静に考えて欲しいのは、何故存命中の人物について活躍期を述べると違和感が存在するのか?です。「10年20年も経てば~」とのことですが、ウィキペディアは予言ではなく、したがってその10年で特筆すべき活躍が増える場合や逆に明日にも急逝するケースだって否定は出来ません。存命中とはそういう事でもあります。月亭可朝の例と同じ扱いにして「綿矢りさは平成期に活躍した小説家」で良いですか? 彼女の今後は切り捨てでよいですか? 元号が変わったら活躍しないと予言でもするのでしょうか? 芸能人に至ってはもっと若い人でも著名(神木くんとか)ですよね? 言わんとする事を理解していただけたと思います。これについて「将来的に修正すればよい」と主張するなら「当面記載しなくてよい」とも主張できるのです。生年月日や略歴が整ってさえいればいつでも加筆修正できるからです。今回shimoxx様は○○年代という表現で例示されましたが、当方が懸念したのはあくまでも「平成期」との記載に懸命な方の事です。またこれと同時にshimoxx様は、出来ればルール増加も控えたいとの意見に思われました。当方も細かい決め事が少なくて済むのは歓迎です。しかしながら現状では一緒懸命に書き加える方とせっせと削除に励む方が存在するわけです。だからこそここへ問題提起した訳ですから。
当方の主張を絶対通せというつもりはありません。また必ずしも絶対的ルールを追加せよと求めるものでもありません。ただ現状ではスタイルマニュアルを各個人が自由勝手に解釈することが可能、つまり前述の例文を元に「記載すべき」とも「記載されなくてよい」ともなります。これが編集合戦(まだ静かに進行してる程度ですが)の根源になっている訳です。だからといってshimoxx様が明記されたように「禁止」という強制的なものでなければならないという事もないでしょう。そこまで決め決めでなくともプロジェクトとして、例えば漫画家では必ずしも書かなくて良いとか、なるべく書くとかいったどちら寄りかという方向を示すだけでも合意となれば大変有意義であると考えます。無論徹底出来るならそれも良いと思いますが。
もともとは良い意味でのグレーゾーンだったのかもしれませんが、いざ編集合戦となればやはり方向性が示される事は大変重要だと考えます。今回は某記事において現実に編集合戦となる予兆を見てこちらへ提起しました。プロジェクトの編集を出発点にする事も考えましたが、石原さとみの本名公開問題や性別明記問題が頭をよぎり、それらと同様に単一記事だけでなく複数の記事やプロジェクトに関係すると判断しました。「そんなんどっちでもええやん!」という方に無理に意見を求めるものではありませんが、どちらかでないと気が済まない方への対処の為には方向性が見える事は大変有意義と思います。完結していない作品について使用するテンプレなどもあるわけですから、現在進行中である記事の扱いは完了の物と同一である必要はないと思います。今暫くは引き続き意見を募りたいと思います。そののちにプロジェクトへの加筆を考えています。 Lan-Cruer 2005年12月10日 (土) 22:38 (UTC)[返信]
まあ、例えば自分が中村弘海の項目を書いたとして、冒頭を「~は昭和期の政治家。長崎出身~」と始めたときに、「それはスタイルマニュアルに沿ってないからダメだ」と言われることがなければそれで良いです。「綿矢りさは平成期の小説家。」これを絶対ダメという訳にもいかないと思います。ウィキペディアはみんなで執筆するものですから、広い心でもって、割とゆるやかな決まり事の中でやっていければ良いと思います。++shimoxx 2005年12月11日 (日) 02:02 (UTC)[返信]
言い忘れましたけど、広い心であっても、あくまで百科事典を作ることが最優先事項ということは認識してます。なので、「平成期の~」と書くことが百科事典にとってそんなに有害かなあ、とも思う訳です(ウソ書いてる訳じゃないし。困る人がいる訳じゃないし)。それでは。++shimoxx 2005年12月11日 (日) 03:46 (UTC)[返信]
日本国内で完結しているならともかく、日本でも海外でも活動した人物にまでそれを適用する人が居る(Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト スポーツ人物伝)のでどうかと思います。けふこえて 2005年12月11日 (日) 09:20 (UTC)[返信]
けふこえて様、連絡誘導をありがとうございます。スポーツ人物伝での討議に一通り目を通してきました。えっと、いかがなもんでしょう? こちらの討議とも併せて考えると、とどのつまりは「昭和期」、「平成期」という表現が幾多のトラブルの引き金に成っていると思うのです。shimoxx様との意見交換をふまえるとして、以下の文章でどうでしょうか?
  • 冒頭の定義において人物の活躍期を明示する場合は原則として西暦を用いることとする(例:1980年代に活躍した、等)。これは存命中の人物においては特に留意されたい。ウィキペディアは未来を予言するものではなく、現在までの事実に基づいて記述されるものである。尚、過去の人物において和暦などを用いる方が理解が容易な場合においては西暦と併記される事が望ましい。
部分的には既に存在しているルール(生没年などで)なんですけど、活躍期の場合も同じなんだよ!ってことを(理解してくれない人の為に)改めて明記するって感じになります。いかがですか? Lan-Cruer 2005年12月11日 (日) 15:56 (UTC)[返信]
師走の喧噪ではや2週間近く過ぎてしまいましたが、特に反論もない様ですので上記文例を持ってスタイルマニュアル/人物伝の下位相当とされる各プロジェクトへの明文化を進行させたいと思います。尚、当方が把握しきれていないプロジェクトがあるやも知れませんので、同意者の協力が頂戴できるなら幸いです。 Lan-Cruer 2005年12月23日 (金) 05:48 (UTC)[返信]
活躍期は、本来生没年が不詳の場合に使うものでしょう。(和泉式部とか)そうした記載は、記述のところで展開するもので、最初の紹介の項目は、生没(or活躍期)+国(地域)+分野 という形がよろしいのでは? ねこぱんだ 2005年12月26日 (月) 03:12 (UTC)[返信]

冒頭の最低限情報の一つとしてあっても良いのでは?それにしても、既に余りにも多くの記事で活躍期が書かれてしまっているんですよね。件の氏は、特別:Contributions/210.199.110.13のように今度は元号と西暦を併用されるようになりました。ただ、-でなく~を使ったり「~出身。」という妙な切り方は変えていませんが。けふこえて 2005年12月26日 (月) 06:02 (UTC)[返信]

元号と西暦について「どちらを使う」などといった決まりを定めるのは良くないです。人それぞれに好みや考えが有りますから。それに大まかな時代の記述は有っても良いと感じます。場合によってはそちらの方が内容を理解しやすいかもしれません。ということで、新たな決まりは加えない方が良いと思います。-- 2006年1月2日 (月) 19:41 (UTC)[返信]

とりあえず論点としては、

  1. 「○○出身。」という妙な文の切れ方
  2. 健在で活動中の人物に行われる違和感
  3. 海外・日本の両方で活躍した人物に対する日本の視点しか存在しないいい加減な記述

といったものが挙げられています。

闇雲にルールを決めない方が良いという主張は理解できますが、問題は複雑でして、上記の論点に加え、こういった行為を行っているユーザーは実質一人と思われ、しかも呼びかけに対する応答が0なのです。(利用者‐会話:210.199.110.76利用者‐会話:210.199.111.51けふこえて 2006年1月3日 (火) 08:54 (UTC)[返信]

えーと、この件なのですが、最近「昭和後期(1970年代-1980年代)」を冒頭に書かれる人がいるようですが、これ、見ていて非常に疲れます。冗長な表現だと思います。記事本文にきちんとした年代があれば済む話だと思うのですが、どうでしょうか。まあ、もんだいはけふこえてさんのいうように、勝手に進める人なんでしょうが。あまりにも呼びかけに応じない場合、ブロック依頼するべきですかね。ゆきち 2006年1月6日 (金) 18:24 (UTC)[返信]

こんな風にコメントアウトで書いてみたけどそれも無視して書き込んでますね。これはブロックの対象にならないんでしょうか?Singletwin2000 2006年2月26日 (日) 04:37 (UTC)[返信]

翻訳に支障をきたしますので、できれば西暦を使ってほしいですね。昭和期や平成期を殊更強調する必要もないのですが。--H.L.LEE 2006年2月27日 (月) 07:53 (UTC)[返信]
[1]『福岡ソフトバンクホークス(入団時は福岡ダイエーホークス)の投手』なんて蛇足な表現がお好きなようです。いつからいつまでがダイエーだったかなんて球団の項目を見れば良いだけのことなのに。Singletwin2000 2006年2月28日 (火) 05:16 (UTC)[返信]
  • 諸般の事情から止むを得ず半年ばかりアクセスしておりませんでしたが、その後に私と同じ様に疑問に感じた方があり、一定の合意が形成された様です。以下の節がその模様で、後々の検索も考慮して「同一事案」として同一ページ内の下の方からこの場所へ平行移動させました。それぞれの議論に参加された皆様、どうかご了承下さい。Lan-Cruer 2006年8月26日 (土) 14:01 (UTC)[返信]

「昭和・平成期の○○」について

よく、人物記事の冒頭部分で「昭和・平成期のプロ野球選手」というものを見かけますが、これは不要だと思います。近世以前(「千歩」譲って1945年以前)ならともかく、いつ活躍したかなんて冒頭部分に書く必要がありますか?本文で記載すれば十分です。--Goki 2006年3月15日 (水) 01:03 (UTC)[返信]

  • 賛成です。○○時代って名前はいずれ歴史家が作るでしょうから、いま無理に元号で表す必要はないですね。それに引退された方ならまだしも現に活躍なさっている方に時期を限定してしまう文章は抵抗があります。--代言人(!) 2006年3月15日 (水) 02:37 (UTC)[返信]
  • (賛成) 代言人さんと同じ理由。--Koichi 2006年3月15日 (水) 04:06 (UTC)[返信]
  • (賛成) 活躍期にしても野球の外国人選手に関しては日本での活躍時期しか考慮してなかったり、現役引退してしばらくして指導者に復帰した人物でも、まるでずっと現役を続けていたり引退後の空白期間がなかったかのような誤解を与えかねない記述があります。いい加減な記述が多いので必要性を感じません。大量に記述して既成事実化を謀ろうとしているのかもしれないし、何らかの対処が必要でしょうね。singletwin2000 (talk) 2006年3月15日 (水) 04:35 (UTC)[返信]
  • (賛成)人物記事の冒頭で書く必要はない。本文で書けばよい。--hyolee2 2006年3月15日 (水) 04:38 (UTC)[返信]

(報告)と、いうわけで撤去作業が開始されました。 58.188.69.33 2006年3月28日 (火) 08:14 (UTC)[返信]

(報告)例からも「昭和・平成」の文字を削除しました。--Goki 2006年6月6日 (火) 02:47 (UTC)[返信]

琉球の人名、年号の表記について

琉球史上の人物の投稿、加筆修正を行っているのですが、作業を進めるにあたり疑問点がでてきましたので、現在私のとっている執筆方針と併せて提示し、皆様のご意見を賜り、今後の指針が定まればと考えています。

  • 琉球の人名表記はどうするべきか
1879年以前の琉球人は個人を指す名称として、「唐名」「采地名(無論名島を含む)+位階称号」「采地名+位階称号+名乗」「童名(いわゆる幼名とは異なる)」などが用いられ、純粋な「和名」はありません。多くの人名事典類では「采地名+名乗」をして擬似的に和名スタイルにしていますが、名乗不明な者は「采地名+位階称号」で、王、久米村籍の者は「唐名」を用いるのが一般的です(事典により立項の揺れもあるが)。
これらを踏まえ、私は王、王号追贈者、久米村籍の者は「唐名」での立項・リンク。それ以外の士族は「采地名+名乗」での立項、記事中の表記は「唐名・采地名+位階称号+名乗」で「采地名+位階称号+名乗」でのリンク。名乗不明者は「采地名+位階称号」での立項・リンクをしています。ほかにもいくつか気になる事項(離島士族、帰化人、僧籍)もありますが、現在このような編集方針をとっています。
現在の記事中の表記とリンク(左側)、および立項(右側)の例
  • 琉球史の年号表記はどうするべきか
琉球は1609年の薩摩の侵入後、日中両属になりましたが、1879年の琉球処分までは明暦・清暦を用いており、琉球史を執筆する上で年号に和暦を用いるのはかなりの違和感を覚えます。
私は現在和暦は一切使用しておりません(無論史書の原典は明暦・清暦、これらを西暦に一旦変換したあと、さらに和暦に変換するという作業自体も煩雑で避けたいし、やはりナンセンスだと思う)。
現在の記事中の例
== 経歴(月日は旧暦) ==
  • 1560年嘉靖39)10月18日 生まれる。
  • 1564年(嘉靖43)閏2月12日 金武間切総地頭となる(→金武王子朝公)

以上が私の疑問点です。もちろん私個人としては私が掲げる執筆方針が一番良いと考えていますが、このWikipediaの性格上、コンセンサスを得ないまま作業を進めるのはいかがなものか、と思い至りましたのでここに提起致しました。新里紹顕 2006年2月26日 (日) 09:18 (UTC)[返信]

当時の琉球や史書の原典で用いられている明暦清暦を優先すべきと思います。日本との関わりが強い記述に関しては和暦も有ると便利かもしれません。-- 2006年3月4日 (土) 10:16 (UTC)[返信]
少なくても近代以前の琉球の人名を日本本土の基準でそのまま当てはめると問題があると思います。琉球人名については例外ルールがあっても良いと思います。--水野白楓 2006年3月5日 (日) 03:42 (UTC)[返信]

新里さん同様、琉球の歴史について執筆している者です。琉球史に精通している方ならお解かりかと思いますが、琉球人名や琉球の暦法については日本本土のそれとは異なる独自ルールがあり、両者を一纏めに出来ようはずがありません。その独自のルールを理解する者(私など)からすると新里さんのご提案は全く理路整然としており非常に納得の行くものであります。私はこの方針に対し大いに首肯すると同時に、より多くの方にご納得頂き賛成して頂ける様、私からもお願い致します。--Kunipoo 2006年3月24日 (金) 06:33 (UTC)[返信]

  • 琉球の人名表記について
唐名・采地名+位階称号+名乗」ですが、「五男・唐名・采地名+位階称号+名乗」と書くような場合、中黒が連続して日本語として不自然に思います。それで、「五男・唐名、采地名+位階称号+名乗」と記事を書いたところ、訂正された上に、「スタイルマニュアルで異論が出てない」とのご指摘でしたので、自分の見解を述べたいと思います。
琉球の人名には、唐名、童名、和名的なもの(采地名+名乗り)などがあり、一般の日本人読者には難解なのはもちろんのこと、琉球史に詳しくない現今の沖縄の人にとっても、難解なものになっています。それゆえ沖縄史関係の書籍などでは、采地名+名乗りで和名扱いで人名を記したり、唐名を書く場合は、「唐名・尚健、伊江王子朝直」といった説明を付随して、一般の読者に理解しやすいように配慮しています。
Wikipediaは、専門家向けの事典ではなく、不特定多数の、専門的知識のない方も閲覧するものですから、当然こういった分かりやすい配慮は必要だと考えます。それゆえ、采地名+名乗りで和名的に記すのを可とする、というような柔軟性があってもいいと思います。また、唐名の後は絶対に中黒(・)でなければならない、というような規則も硬直的です。記事によって、「唐名・尚健、伊江王子朝直」、「摂政・尚健、伊江王子朝直」、「五男・尚健、伊江王子朝直」と書いても構わないように、中黒を点(、)に表記を変更するのも認められるべきだと考えます。
  • 琉球史の年号について
琉球王国時代の年号を和暦で記すのは、私も違和感を覚えます。それゆえ、明暦、清暦を用いることに異存はありません。ただし、これも、一般の日本人にはもちろんのこと、現代の沖縄人にとっても、明暦、清暦はなじみの薄いものですから、琉球史関係の記事だからと、やたらと明暦、清暦を使用した場合、「難解な印象を与える」、「専門的、衒学的な印象を与える」という悪影響も考えられます。こういった点を考慮すると、明暦、清暦の使用は、できるだけ最低限にとどめるべきだと思います。--尚玉 2006年8月8日 (火) 08:16 (UTC)[返信]
  • 尚泰王の年号について
はじめまして、斎東小世と言うものです。尚泰王の年号は清暦(生年月日)と和暦(没年月日)とするほうがいいのか和暦で統一するべきか迷っています。私は統一されたほうがわかりやすくてよいと考え尚泰王の生年月日に天保14年7月8日と書きましたがその後清暦(生年月日)と和暦(没年月日)ほうがよいのでは?という迷いが生まれました。みなさんの意見を聞かせてください。最後になりますがこの質問にもはや答えが出ているならすいません。また、お門違いならすいません。--斎東小世2007年6月7日 (木) 11:22 (JST)
  • 琉球の人名表記について

上記、人名の議論について「王、王号追贈者、久米村籍の者は「唐名」での立項・リンク。それ以外の士族は「采地名+名乗」での立項」に賛同致します。但し、その場合、王、王号追贈者、久米村籍、士族でもない王族(王子、按司)はどちらになるかという議論が必要だと思います。私の提案としては、王子(按司から昇格しての王子ではなく、純粋に王の子か兄弟の場合)は唐名で尚○○とし、唐名姓が「向」となる按司から「采地名+名乗」としてはいかがでしょうか。どこで線引きをするかは決め手に欠くこともあるかと思いますが、尚○○という名は馴染みがあり、容易に理解できるが、向○○とあると、琉球史に詳しい人でない場合は理解が難しいと思われることと、第二尚氏に関する系図で、王子までを尚○○として記載しているケース(例として「王代記」琉球大学附属図書館など)が多いからです。 また久米村籍の人でも大和名の方が一般的に知られている人物、(例えば高嶺徳明など)に関しては采地名+名乗の方が妥当ではないかと思います。 --Franz Rekio 2012年9月17日 (月) 14:51 (UTC)[返信]

はっきりした区別があるわけではないですが、一般的に古琉球期の王子は「尚~」で表記される場合が多いように思います(例:尚維衡小禄御殿元祖)、尚韶威具志川御殿元祖))。これに対して、系図座が設置され、家譜編纂が行われるようになって以降は、大和名が多いように思います。(小禄王子朝奇(具志頭御殿元祖)、読谷山王子朝憲(読谷山御殿元祖))。これは向氏の場合、家譜編纂が始まって、御殿殿内ごとに門中意識が形成されるようになったこと関係があるかもしれまん。全般的にはやはり近世期の王子のほうが数が多いですから、基準を一つにすればやはり大和名が無難かとは思います。--ウィキナ会話2012年9月18日 (火) 04:28 (UTC)[返信]

琉球国王の記事名に王号をつける提案

現在、ウィキペディアの琉球国王の記事名は王号なし(例:尚真)となっています。

しかし、日本の天皇は「明治天皇」、中国の皇帝は「康煕帝」などと、称号をつけた記事名となっています。それは単に元号と同一になり紛らわしいからでなく、桓武天皇のように元号名と一致しない天皇名についても、「桓武」とは記事を立てずに、「桓武天皇」としています。

それゆえ、私は、琉球が統一された第一尚氏以降の琉球国王については、王号をつけて記事名とするのがふさわしいと思います。例えば、「王代記」などの史書では、尚真王と王号をつけて記述しており、歴史的な呼び方としては王号をつけて呼ぶのが一般的です。また、王号をつけたほうが、王位に就かなかった王族(例:尚悦)との区別も明確になります。ただし、王号を追贈された(例:尚哲)が、実際には王位に就かなかった人物は、王号をつけないほうがいいとは思います。みなさんのご意見をお聞かせ下さい。--尚玉 2006年7月27日 (木) 09:30 (UTC)[返信]

提案から二週間ちかく反対意見が無いようなので、いったん記事名を変更したいと思います。変更前の記事名は、リダイレクトにより生きていますので、リンク先などの変更は不要です。--尚玉 2006年8月8日 (火) 11:07 (UTC)[返信]
無知なので素朴な疑問として尋ねてみるのですが、琉球国王たちに諡号または廟号は贈られなかったのでしょうか?--shimoxx 2006年8月8日 (火) 19:20 (UTC)[返信]
琉球には、号というのがありますが、これはいわゆる雅号ではなく、死後につける法名のようなものです。『王代記』や『中山世譜』といった史書を読むと、第二尚氏王朝の初期の王たちには、神号というものが贈られてますが、後の王になるとその習慣はなくなったようです。諡は、第二代国王の尚宣威王にのみ贈られていますが、他には見られません。習慣的なものではなかったようです。それゆえ、琉球国王の死後は、中国皇帝のように諡号廟号で呼ばれることはありません。国王は唐名で呼ばれます。例えば、尚真王の場合、尚が姓、真が名です。--尚玉 2006年8月9日 (水) 02:24 (UTC)[返信]
大変勉強になりました。ありがとうございます。ご教示頂いた内容を踏まえますと、尚玉さんご提案のとおり、王号を付けることに何ら問題はないと思料いたします。--shimoxx 2006年8月10日 (木) 13:36 (UTC)[返信]

琉球国王の記事名から王号を削除する提案

現在、ウィキペディアの琉球国王の記事名は王号が付加されています。(例:尚真王

しかし、尚真王を例に挙げれば『尚』は姓(氏)であり、『真』は名です。 上記の王号を付加する提案では「明治天皇」や「康煕帝」などを称号をつけた記事の例としてあげていますが、「明治」は元号諡号であり「康煕」は単に元号であり、桓武天皇については「桓武」は諡号であります。決して姓名ではありません。明治天皇を「睦仁天皇」と呼称・記載したりする事はまず在り得ませんし、康熙帝が「愛新覚羅玄燁帝」などと記載された事がかつてあったでしょうか?

琉球国王の記事において、第一尚氏第二尚氏の各王の記事名を「尚~王」と王号を付加するのは、の高祖を「劉邦帝」、煬帝を「楊広帝」、の太祖を「朱元璋帝」、後醍醐天皇を「尊治天皇」とする事と等しく、非常に違和感を覚えると言わざるを得ません。

ゆえに私は、第一尚氏王統以前の歴代国王の記事との整合性の上から、また中国歴代皇帝の記事や我が国の歴代天皇の記事との整合性の上からも、第一・第二尚氏王統の各王の記事名からは王号を削除した方がよいと考えます。

  • ただし、王号を付加する事が絶対に在り得ないかと言うとそうではありません。例えば、上杉鷹山山内容堂島津斉彬松平春嶽などは、それぞれ鷹山公、容堂公、斉彬公、春嶽公などと親しみを込めて呼ばれますが、ウィキペディアの記事には姓名のみが記事名となっています。同様に呼称としては「尚~王」というのは実際に見聞きされる事であり、各記事の文中において王号を付加するのは構わないかと考えます。それゆえ私は、第一・第二尚氏王統の各王の記事名からは王号を削除した方がよいと考えております。
  • 加えて、王号を付加すると、記事冒頭において姓と名の間にスペースが入っている場合、あらぬ誤解を招く虞があります。例えば前述の尚真王の記事の冒頭では下記の様になっており、姓が「尚」、名が「真王」だと誤解される可能性が皆無ではありません。
    • 尚 真王(しょう しんおう、1465年 - 1526年)
  • イギリス君主一覧フランス君主一覧などと比較してみても、記事名に王号を付加する事はその整合性を著しく損なうと言わざるを得ないと思われます。

尚玉さん、新里紹顕さんをはじめ、みなさんのご意見をお聞かせ下さい。--Kunipoo 2006年12月22日 (金) 08:20 (UTC)[返信]

違和感というのは、「聞き慣れない」、「そのような使用例を聞いたことがない」という意味でしょうか? 尚真王という言い方は、沖縄史ではごく普通の言い方です。「尚真王」をGoogleで検索すると、13,000件以上の検索結果が出ます。沖縄県立図書館で前方一致検索すると、尚真王は53件、尚真は69件。単純に引き算して、尚真王の書名タイトルは53件、尚真の書名タイトルは16件ということになります。私はむしろ、尚真という王号なしの呼び捨てに違和感を感じます。--尚玉 2006年12月22日 (金) 12:56 (UTC)[返信]
尚玉さんには私の提案をご一読頂いたようですが熟読しては頂けていない様で残念です。「聞き慣れない」「使用例がない」などとは申し上げていないばかりでなく、付記の部分で『呼称としては「尚~王」というのは実際に見聞きされる事』と申しているのですが・・・。記事名・記事中を問わず王号を外せなどと言う言語統制まがいの事を提案するつもりは毛頭ございませんし、『各記事の文中において王号を付加するのは構わないかと考えます。』と申し添えました。私が申し上げているのは記事名に王号をつけるのは如何なものか?という事です。逆に尚玉さんにお尋ね致しますが、1.三山時代以前の王の記事名には王号がついていないのですが、それらの記事との整合性についてどう思われますか?2.尚 真王(しょう しんおう)という書き方が初学者の誤解を招きかねないとはお思いになりませんか?--Kunipoo 2006年12月23日 (土) 01:10 (UTC)[返信]
Kunipooさんのご主張には、いくつか矛盾があるように思います。「尚真王」という呼称は一般的であり、記事中に使うのはいっこうに構わない、とするならば、記事名では不可とする根拠がなくなるのではないでしょうか。Kunipooさんが駄目だとされる根拠は、ご自身の「違和感」以外は述べられていないように思います。「睦仁天皇」ではなく「明治天皇」が記事名に相応しいのは、後者の呼称が一般的だからです。「尚真王」の場合、「尚真」からもリダイレクトが張られているので、検索上も問題ありません。三山時代の君主に王号をつける件については、私は別に構わないと思います。ただ、この時代は、冊封を受けていない=王爵を授与されておりませんので、実際には王を称していた可能性は乏しく、後世の付け足しであろうと考えられるので、前回の提案では、その点で一応線引きしたほうがいいと考えました。--尚玉 2006年12月23日 (土) 02:57 (UTC)[返信]

王号を付記するかどうか、歴史学の書籍を見る限り、かなりわかれますね。私は基本的に尚玉さんのご提案を支持しましたし、その意向に変わりありません。ちなみに私が王号を賛成の理由は、統一性には欠けるものの一般的な用法であると評価できる、尚氏一門の血筋で王位につかなかった人物の差別化が容易であること、尚玉さんのご提案が王号を称する以前と以後を明確にわけておいででしたので、提案に一定の信頼ができたことがあります。

実際に尚氏に王号を付して概説する書物はいくらでもあります。しかし、史料上、用例としては拮抗していることもまた事実。こうした問題提起はあってしかるべきであると考えました。また、歴史学書では残念ながら、王号を記さない例も多いことは確かで、覆る恐れはあるように思います。今後の項目名の安定化を図るためにも、ここは項目名についての合意形成をしてみるのも一案かと思います。--海衛士 2007年1月4日 (木) 12:04 (UTC)[返信]

尚玉さんに対する二つの質問のうち、一つ目しか回答を頂いていない様でしたので、二つ目の質問に関して、尚玉さんからのお答えを長らくお待ちしておりましたが、なかなかご回答を頂けない様ですのでこちらからの解答を先にさせて頂きます。
まず、矛盾点についてですが、自分自身でも矛盾してるなぁと思います。しかしこの場は不毛な争いをする場ではなく合意を導き出す場だと認識しておりますので、ダブルスタンダードである事は重々承知の上で、敢えて「記事中の王号の削除や付加にはこだわらない」としました。そこまで言論統制しようとは考えておりませんし、そこまで拘って尚玉さんの体面を潰すのも私の本意ではありません。謂わば「ここまでは妥協できますよ」との意思表示だと考えて頂ければと思います。
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「王号を除くべきだ」と私が考えるのは、Wikipediaの「普遍性」「中立性」や記事間の「整合性」に関して問題が生じると思われるからです。
1-1.琉球史を「世界史」の一部だと考えた場合の「普遍性」
「世界史」の一部と考えた場合、琉球国王と比較されるべき世界の王の名前について、尚玉さんのおっしゃる「王号をつけて呼ぶのが普通だ」と思われる王の名前を以下に列挙してみました。
ピョートル大帝イワン雷帝ビクトリア女王エリザベス女王カール大帝プミポン国王アショカ王
これらはみな、話し言葉では王号や帝号をつけて呼ぶのが一般的と思われるものですが、この中で実際の項目(記事)名に王号(帝号)が付加されているのはカール大帝とアショカ王のみです。(王号/帝号のつかないもののみを挙げると「不公平だ」「恣意的だ」との批判が出ると考え、王号/帝号のついている記事も敢えてあげました。浅学にして七つほどしか思いつかなかったのですがさらに挙げられればご指摘願います。)カール大帝は英語版や仏語版でも「シャルルマーニュ」に相当する語(Charlemagne)が項目名として使われているのでこれは致し方ないと考えられます。アショカ王は日本語でそれ以外の表記がないと考えられます(英語版にはKingまたはEmperorなどの入った呼称は項目名としては使われていません)。エリザベス女王は曖昧さ回避のページへと導かれ、エリザベス一世、エリザベス二世ともに王号はついていません。つまりこれは、それぞれの記事を執筆したWikipedianの方々が「口語(話し言葉)において王号/帝号をつけて呼ぶ事が一般的であっても、王号/帝号を付加しない方が百科事典の項目としてはより相応しく、付加された方の項目については、より相応しい項目名へのRedirectによる対応で充分である」と考えたのではないでしょうか?
(また、念の為にこれらのページから他言語版へ行き、それらのページにおいて項目名に王号・帝号がつくかどうかも確認される事をお勧めします。)
1-2.琉球史を「日本史」の一部だと考えた場合の「普遍性」
「日本史」の一部と考えた場合、琉球国王と比較されるべきは日本全国各地の諸大名(旧華族)かと思われます(実際、尚家も侯爵家でした)。上杉鷹山山内容堂島津斉彬松平春嶽など以前にも列挙しましたが何れも称号などはついておりません。徳川幕府歴代将軍もまた然り(さらに遡って室町幕府の足利将軍も、です)。しかも、尚玉さんや海衛士さんがおっしゃるところの「王位に就いた者と就かなかった者との区別」云々に至っては、15人の将軍と御三家御三卿との区別は項目名のみでは「将軍職に就いた者と就かなかった者」が区別され得ておりません。同じく、島津斉彬の弟・島津久光は藩主にはなっていませんが、歴代藩主との違いは項目名のみでは判り得ません。これらの記事を執筆したWikipedianの方々はなぜ項目のみで判るように称号を付加しなかったのでしょうか?「記事本文に目を通せば判る事をことさら項目に付加する必要はない」と判断されたのではないでしょうか?
2.他言語版との「整合性」について
目下、関連記事は英語版と中国語版にしか存在しないものの、琉球国王の一覧に対応する「琉球君主列表」や尚寧に対応する尚寧が中国語版にあり、尚巴志英語版中国語版の双方にあります。これらの項目名はもちろん、記事中においても王号は付加されておりません。これらも該当記事を執筆したWikipedianの方々が「王号/帝号をつける事は百科事典の項目としては相応しくない」と考えた結果ではないでしょうか?上記の1-1.でも他言語版について書きましたが、ピョートル大帝以下の各王/帝の記事においても言語間での整合性があるにも拘らず、なぜ両尚氏各王の記事では整合性がないままの状態で放置されているのでしょうか?
3-1.王号を付加しないことによる「中立性」
上記において検証したとおり、世界史の視点で見ても王号の付加はほぼみられず、また、即位や冊封の有無によって王号を付加すべきと言うのも必然性がないと言わざるを得ないのですが、にも拘らず両尚氏の各王にのみ王号を付加するというのは、それによって何かを意図してはいないのでしょうか?王号を「奉っている」ように感じるのは私だけでしょうか?これはWikipediaの「中立性」に抵触する可能性はないのでしょうか?
3-2.日本の歴代天皇・中国歴代皇帝の「特殊性」
以上私が述べた中に日本の歴代天皇や中国の歴代皇帝について触れておらず、その事を訝しく感じる方もいらっしゃるかと思いますが、これに関しては以前にも
  • 尚真王を例に挙げれば『尚』は姓(氏)であり、『真』は名です。「明治天皇」や「康煕帝」などを称号をつけた記事の例として挙がっていますが、「明治」は元号諡号であり「康煕」は単に元号であり、桓武天皇については「桓武」は諡号でありまして、決して姓名ではありません。明治天皇を「睦仁天皇」と呼称・記載したりする事、康熙帝が「愛新覚羅玄燁帝」などと記載された事がかつてあったでしょうか?これらを踏まえ私は、第一尚氏王統以前の歴代国王の記事との整合性の上から、また中国歴代皇帝の記事や我が国の歴代天皇の記事との整合性の上からも、第一・第二尚氏王統の各王の記事名からは王号を削除した方がよいと考えます。(上記の自分の意見より抜粋・一部の接続詞などを書き換え)
と私見を述べました。加えて、「~天皇」という尊称に関して言えば、近世までは歴代天皇(上古を除く)を院号で呼ぶのが一般的(崇徳院、順徳院、後鳥羽院など)であり、天皇号を奉るようになったのは天皇主権を謳うようになった明治以降の事で(後西天皇の諡号についての記載も参照)、歴史を中立かつ公平に扱う立場とは全く異なる、いわゆる皇国史観から来るものです。これらを例に挙げて王号付加を提案し追認するのは、やはりWikipediaの原則である「普遍性」「中立性」とは相容れないのではないかと考えます。
4.統計は事実を映すがそれが真実とは限らない
尚玉さんの主張の中に以下のような文言があります。
  • 「尚真王」をGoogleで検索すると、13,000件以上の検索結果が出ます。沖縄県立図書館で前方一致検索すると、尚真王は53件、尚真は69件。単純に引き算して、尚真王の書名タイトルは53件、尚真の書名タイトルは16件ということになります。
これを私も試して見ました。Googleで検索すると「尚真王」は約13,500件(尚玉さんがWikipedia内で努力されたお陰で若干増えたのでしょうか?)でしたが「尚真」だと約58,000件もあります。これで統計的に見ても(これが統計と呼べるのかどうかはさておき)私の主張が正しい・・・のでしょうか?実際に試してみればお解かりになると思いますが、Wikipedia内の「谷口尚真」といった項目も掛かってしまっています。我が子に尚真(なおまさ)と名づけた母親のブログだって存在するかも知れません。それを除くために「尚真 王」として検索してみるとやや減って約34,300件、「尚真 琉球」だと約16,300件、「尚真 国王」だと約953件が検出されました。これにはもちろん「尚真王」と王号のついた記事を含みますので、尚玉さん方式で単純に引き算(-13,500)してみると・・・それぞれ、20,800件・2,800件・-12,547件となります。マイナスがついている時点で単純に引き算する方法は破綻している事が判りますし、そもそもGoogleなどの検索の数を以ってどちらが優勢か争う事自体が、検索語によってこれほど違いが出る事から見てもナンセンスだという事がお判り頂けるかと思います。
さらに、念には念を入れて、沖縄県立図書館蔵書検索でも調べてみました。「尚真」70件、「尚真王」54件、差し引き16件、むむぅ・・・。では「尚巴志」ではどうでしょう?「尚巴志」60件、「尚巴志王」25件、差し引き35件、おや?・・・さらに「尚泰」73件、「尚泰王」16件、差し引き57件!しかしこれは実はインチキです。「尚泰」で検索した結果には「尚泰久(王)」も含まれるからです。そもそも沖縄県立図書館の蔵書中には琉球王国関係の資料が多数ある事は事実ですが、琉球王府の手によって編纂された史書は、Wikipediaでいうところの「中立性」を重んじて記述されているのでしょうか?むしろ、皇国史観と同様の「琉球王国史観」的な立場で書かれていると考えるのが普通ではないでしょうか?そうであれば「尚~王」と記すのは当然であり、そこらへんの事情を考慮に入れた上でこれらの数字を眺めなければならないと思われます。
(尚玉さんはGoogleでの「尚真王」の検索結果のみを示しておられますが「尚真」では検索なさらなかったのでしょうか?また、図書館蔵書検索では尚真以外の王についても検索なされたのでしょうか?私は尚玉さんが自分に有利な結果のみを恣意的に載せたのではないと信じたいです。)
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以上、長々と書き連ねてしまいましたが(しかも前回からの間が長く空いてしまいましたが)、私が「項目名から王号を除くべきだ」と考える所以を述べました。文中、尚玉さんや海衛士さんの発言の揚げ足を取ったかのように勘違いされる虞のある文面もありますが、自分の意見との対比のためであり、他意は毛頭ございませんが、もしも腹に据えかねるような表現だと受け取られたとしたら、それはこちらの言葉の足りない部分であり、深くお詫び申し上げます。
なお、余談ですが、上記の意見はWikipedianとしての「公」の面での私の意見であり、琉球人としての「私」の部分では、舜天王以来の各王に王号をつけた呼称に慣れ親しんでいる事、特に第二尚氏に関しては(自らの出自を辿ると尚清王に至る故に)各王に対し敬愛の情を込めて王号を使用している事、を申し添えておきます。--Kunipoo 2007年1月26日 (金) 07:19 (UTC)[返信]
「尚 真王」という分かち書きについては、私も疑問を感じます。確かに「尚真」は姓+名(正確には)ですが、琉球史関連の書籍で分かち書きしているのを見たことがありません。「世界史の普遍性」「日本史の普遍性」という分類はどうでしょうか。私の理解では、世界史は特殊なものの集合だと思います。沖縄の名前の表記は歴史的にかなり特殊で(詳しくは沖縄の名字を参照)、羽地朝秀という記事名も本来は疑問の残るところです。羽地は采地名であって名字ではありませんから。便宜的に無理矢理日本風に解釈しているだけで、本来は島津斉彬などと同一視することはできません。あと、王号付加が中立的でないとする立場は、果たしてそれ自体「中立的」なのでしょうか? 私はイデオロギー論争を避けるために、より統計的に使用例の多いものを選択すべきだという立場に立ちました。その意味で、一般的によく見かける尚真王という表記は、より記事名として相応しいと思います。「~天皇」とするのは皇国史観とのご意見ですが、私はかなり特殊な見解のように感じます。少なくとも現在定着している呼称を記事名にするのは、きわめて妥当な判断ではないでしょうか。また王府編纂による史書の表記は、「皇国史観と同様の「琉球王国史観」的な立場で書かれていると考えるのが普通ではないでしょうか?」とのご意見ですが、そういう立場は一般的に聞いてことがありませんし、少数意見ではないかと思います。-尚玉 2007年2月1日 (木) 15:44 (UTC)[返信]

インデント戻します。姓名の分かち書きについては、Wikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)において姓と名の間を半角スペースで分かつ事が推奨されていますので、尚玉さんが見かけた経験があろうがなかろうが無関係です。平たく言えば私は「王号をつけるまでは『尚 真』で問題はなかったのに、王号をつけた事によって『尚 真王』のように表示が紛らわしい事になってしまった、どうしてくれるんだ?」と言う事が言いたいわけです。「世界史は特殊なものの集合だ」というのも尚玉さんの私見であって、それをもとに百科事典を編集すべきではありません。「羽地朝秀なども疑問が残る、無理やり日本風に解釈しているだけで本来は島津斉彬とは同一視できない」というのなら、何も王号だけちまちま変えてないで、新里紹顕さんのように琉球の人名全般にわたるスタイルマニュアルを(新里さん案にかわる対案を)提案すべきでしょう。そもそも後からやってきて先にやっていた人のものを「これはこうではない」と言うのは簡単です、簡単な楽な事をせず「対案を出す」という生みの苦しみも味わってみては如何ですか?(まぁ私はそれができなかったので新里さん案に追従したのですが。)『統計的に多いもの』を是とする事には未だ首肯し得ません。ためしにGoogleで「早急 さっきゅう」と「早急 そうきゅう」の両方を検索してみて下さい。早急は「さっきゅう」と読むのが正しく後者は誤りであるにも拘らず後者の方が件数が多いのです。「王府編纂による史書の表記が『琉球王国史観』的な立場で書かれていると考えるのが普通ではないか」というのを聞いたことがない、少数意見だとおっしゃるにいたっては笑止ですね。歴史と言うのは勝者によって紡がれ、時の為政者の都合の良いように紡がれていくというのは、歴史を知る者であれば古今東西を問わず共通の常識なのですがね。中国の易姓革命の考え方も「前王朝末期の悪王を倒し現王朝を立てた聖王」というものですし、日本でも日本書紀は天智・天武朝に書かれたもので、中大兄皇子(天智)の政敵であった蘇我氏を悪者に仕立てていますし、琉球でも「政治を省みない悪王である尚徳は滅ぼされ金丸が群衆の推挙により尚円として即位した」とされているのですが。ご存じないのでしたらお勉強なさってみて下さい。--Kunipoo 2007年3月6日 (火) 09:19 (UTC) 追伸として述べさせて頂くならば、源氏系(惟宗氏系?)の島津氏、藤原氏系の伊達氏、大江氏系の毛利氏、清和源氏(実は在原氏あるいは賀茂氏)系の松平氏などはみな、その初代において自らの所領を名乗っており、これと「采地名」とはどう違うのかというのも浅学な私には判りませんのでご教授頂ければありがたいです。--Kunipoo 2007年3月6日 (火) 09:31 (UTC)[返信]

私は王号は削るべきと思います。(私なんかが意見するのはおこがましいですが)

私自身、最初は沖縄について何の興味もありませんでした。ですから最初調べたとき尚~王とあって名前の一部なのか王号なのかずいぶん戸惑いました。(いろいろと調べていくうちに~王は王号なのだと気づきましたが)

まあ、私事は置いといて、理由としては

  • まず、国王といっても人ですから王号をつけることによって人名としての正式名称ではなくなってしまうのでは?と思います。ですから、天皇や中国皇帝等も元号ではなく名前で記載すべきと思っています。
  • それから、私的には日本史のなかの沖縄史と思っています。(本来なら別個のものと捕らえるべきでしょうが、今現在は日本の沖縄という地域なので郷土史と考えました)その観点からいろいろ歴史に関する本等で調べてました日本歴史大辞典(河出書房)には、尚思紹尚巴志尚泰と、新詳日本史(浜島書店)には、尚巴志尚泰とも王号はついていません。関係ないかもしれませんが、広辞苑第五版を調べたところ〝しょうねい【尚寧】シヤウ 琉球国中山王。第二尚氏7代。1609年薩摩の島津氏の侵攻を受けて捕虜となり…云々〟と。(もう少し載せたかったのですが、すいません。)このように日本において文中で紹介するときは国王であろうと王号などはつけないと言うことではないでしょうか?と思うのですが。
  • 沖縄史において尚~王とつけるのが一般的であると思っていますが、それは好事家や専門家そういうものに秀でた者の間だけでは?と思ったことがあります、一般人がはたして一般的だと思っているかというと疑問に思います。(敬称でつけるときや親しみからつけることはありますが)つまり、ウィキペディアは製作者側からではなく、一般人がわかりやすいように作るべきと思います。

以上が私の理由です--斎東小世 2007年6月22日 (金) 18:02 (JST)

(コメント)私は特に琉球史に詳しくないので、現時点では賛否は保留します。ただ、もし削るならば、Category:フランスの君主の例にあるように、「尚真 (琉球王)」・「尚泰 (琉球王)」・「尚思紹 (琉球王)」と、全てに括弧「~ (琉球王)」を付けては如何でしょうか?。スタイルの統一という点と、ついでに「谷口尚真」さんとか「金尚泰」さん等、下の名前との曖昧回避の意味合いも込めて。--MZM 2007年6月22日 (金) 11:25 (UTC)[返信]
(コメント)王号だけではなく天皇号も削るのなら、明治天皇は睦仁になりますね。ところが、睦仁では国語辞典等では記載がありません。すると、今度は睦仁は一般的な表記ではないから明治天皇という記事名が相応しいということになり、人名で統一するのは望ましくないということになります。さて、尚~王という表記は、沖縄史の書籍では一般的な表記です。好事家や専門家だけの表記ではありません。このことは上でもすでに述べています。--尚玉 2007年6月22日 (金) 23:56 (UTC)[返信]
うーん・・・確かにそうですが、やっぱり私は一般的でなかろうと正式名称にするべきだと思っています、実現されることはないでしょうが。(天皇については。理由と言うよりは願いといったほうがいいですね、すいません。)それから私は沖縄史はあくまで日本史の一部として話しています。日本史でみると王号をつけないほうが圧倒的です。一部からではなく全体的に見るべきと思うのです。私が聞いているのは書籍等についてではなく(大半が王号をつけているのは分かっています、それなりに持ってはいますから)、一般人(全体的に)が王号をつけて呼ぶことが一般的と捉えているのかということです。(琉球王に関して)--斎東小世 2007年6月23日 (土) 13:23 (JST)
(コメント)沖縄史で広く受け入れられている一般的表記を、日本史では非一般的表記であるから間違いである、というのは極論のように聞こえます。原則論を振りかざせば、徳川家康の記事名は、源朝臣家康にすべきです。家康のは源姓、徳川は名字ですから。豊臣秀吉は豊臣朝臣羽柴秀吉が正式名称でしょう。日本史でさえ、姓+名であったり、名字+名であったり、組み合わせは統一されていないのです。従って、日本史の立場から云々、という理屈は意味をなさないと思います。--尚玉 2007年6月23日 (土) 10:55 (UTC)[返信]
間違っているというつもりはありません。私はただ日本史の全体では王号をつけないほうが一般的ではと言いたかっただけです、すいません。
ここからは私事です。私なりに聞いて回りました。質問は〝琉球国王の尚泰はそのままの尚泰と呼ぶか尚泰王と呼ぶか?〟30人くらいには聞きましたがまあ、結果は誰一人としてそれ以前の問題、その人誰?という感じでした。(当たり前ですが)このことから推定ではありますが一般人の大半は知らないという事になりそうです。ですが中には今度調べてみよう思ってくれた人もいました。そういう人が現在のウィキぺディアで調べたらKunipooさんもおっしゃっていますが、尚~王まで名前だと思ってしまう人もいるし(私がそうです)そこから発展して琉球の人は名前の最後に王をつけるのかと誤解するかもしれません。そういうことは避けなければいけません。そのためにも記事名だけは尚巴志、尚泰という王号をつけないことによって本文中に王号までついていてもそれは王号なのだとすぐに気づくことが出来ます。知らないから知ってみようという気持ちで百科事典を引くものではないでしょうか?多少知っているからもっと知りたいから引くこともあるでしょう。後者の場合は王号がついていても大丈夫でしょう、しかし、前者の場合は混乱を招くことになると思います。前者と後者なら後者に配慮して書く、それがウィキペディアでいうわかりやすさではないでしょうか?--斎東小世 2007年6月23日 (土) 22:19 (JST)
日本史でも、たとえば以仁王は王号を付けて一般には表記します。これを以仁高倉宮以仁にすれば、余計に分からなくなります。静御前を静にしたら、誰のことか分からなくなるでしょう。日本史の表記でも統一されているわけではないのです。--尚玉 2007年6月24日 (日) 04:18 (UTC)[返信]
ええ確かにその通りです、ですから一般的と言っているのです。そして、王号をつけたり、一般的呼び方をするのは、混乱等がおこるからそうしている。つまり、必要性があるからです。私はそれらを無理やり正式名称にしろとはいいません。しかし、必要性もないのにそうするのはどうかと疑問に思うのです。琉球時代の人ならそういうのをさけるため擬似的に日本名にしたりするのでしょうが、国王は唐名で性と名がはっきりしていますから、混乱をおこす恐れは少ないと思います。これに王号をつけるとかえって混乱をおこすことになる(先に述べましたが)ことがあり、王号をつけることに必要性が感じられません。ですから削ることに賛成しているのです。--斎東小世 2007年6月24日 (日) 23:07 (JST)

議論も煮詰まって来たようですね。私が長文で書いた、複数の観点(1〜4)から見た「王号削除の妥当性」について、残念ながら尚玉さんからはまともな回答(少なくとも私が論破されたと感じる回答)は得られないままのようです。王号削除賛成派は新里さん、斎東さん、私の3名、反対派は尚玉さん、海衛士さんのお二人、多数決を取れば王号を削除すべく行動に移すべきでしょうか?まぁ、尚玉さんのようにわずか2週間で結論を急ごうとは思いませんが、近々のうちに王号を削除して行こうかと考えています。暇があればの話ですが(笑)。--Kunipoo 2008年1月27日 (日) 03:46 (UTC)[返信]

最初の提案から一年以上も経過して、また最後のレスから半年以上にわたって応答を放置して、「議論も煮詰まった」とおっしゃるのは、いささか非常識ではないでしょうか。また削除賛成派に新里さんを加えていますが、新里さんはこの提案に対して一度もレスをしていないのに、削除が多数決という強引な結論付けも理解しがい行為です。素直に考えれば、賛否同数で数ヶ月間レスが付かなかった時点で、この提案は今回は否決されたと見なすのが妥当でしょう。--尚玉 2008年1月28日 (月) 10:04 (UTC)[返信]
おやおや、早速のお返事ありがとうございます。火消しは速いですね(笑)。非常識呼ばわりされておりますが、編集のガイドラインなどと言う重大な議論の裁定に、拙速さと慎重さとどちらが大事なのでしょうか?より多くの方のご意見を頂くため待っていた期間であり、どなたかの様に2週間で独断に近い形での改変という暴挙を避けていたと捉えて頂くべきかと。新里さんがレスしてない?最初に叩き台としての大まかなルールである「王号は付加しない」と言う提案をしたのはどなたなのかお忘れですか?確かに新里さんのWikipediaでの執筆活動は目下停止しているようですが、尚玉さんと新里さんとの間にあった編集合戦や意見の相違から派生する個人的感情で、大本の提案者を無視するというのは、まさしく「笑止千万」です。否決したいのならば、わたしの論じている妥当性(1〜4)をことごとく論破し、さらにインデント戻し後の追伸部分「采地名」についても納得のいく説明をしてからになさい。--Kunipoo 2008年1月31日 (木) 20:16 (UTC)[返信]
追伸:Wikipediaの編集は下調べ/資料集めなど時間を要する作業であり、執筆者の中には仕事など日常生活の上で多忙を極め(本人の意思とは無関係に)1〜2ヶ月してしまう事も社会人ならばあり得る事であり、相手の事情など考慮せず性急に結論を導きだそうとするのは、例えば国会の委員会での与党の強行採決のようなものであり、暴挙と言わざるを得ない。まぁ、それを承知の上で恣意的にやるのであれば、こういった議論の場そのものを否定する事になり、我々のやっている「合意形成」は形骸化してしまう。--Kunipoo 2008年1月31日 (木) 20:31 (UTC)[返信]
私が提案したときには、二週間にわたってどなたも反論がありませんでしたので、とりあえず変更しました。反論がついた場合は確かに二週間は拙速かもしれませんが、新里氏をはじめとしてどなたからも反論がありませんでしたので。後出しジャンケンのような批判をして、私を個人攻撃するのはやめてもらえないでしょうか。それと私は貴殿の見解には十分論理的な反論をしたつもりであり、それに対してまともな反論は一つも頂いておりません。--尚玉 2008年2月13日 (水) 22:09 (UTC)[返信]

Kunipooさんが仰る通り、私の考えている方針は「王号は付加しない」というものから些かも動いてはおりません。またこれもKunipooさんの指摘しているところですが、例の二週間で王号を付加した件などは正直なところ快くは思っていませんでした。そのような感情と、これ以外でも衝突している編集方針があり(それについての議論を試みようとしても、こちらの提出した意見に対して肝心のところの回答を避けている(ように私には感じられている)。)、それらの事情からWikipediaでの編集・執筆活動を停止しました。私は感情的な書込をしたくはなかったので長きに亘り傍観をしていましたが、名前も挙がっているようですので一応レスをつけておきます。新里紹顕 2008年2月13日 (水) 16:35 (UTC)[返信]

琉球国王の記事名から王号を削除する再度の提案

現在、ウィキペディアの琉球国王の記事名は王号が付加されています。(例:尚真王

しかし、尚真王を例に挙げれば『尚』は姓(氏)であり、『真』は名です。 上記の王号を付加する提案では「明治天皇」や「康煕帝」などを称号をつけた記事の例としてあげていますが、「明治」は元号諡号であり「康煕」は単に元号であり、桓武天皇については「桓武」は諡号であります。決して姓名ではありません。明治天皇を「睦仁天皇」と呼称・記載したりする事はまず在り得ませんし、康熙帝が「愛新覚羅玄燁帝」などと記載された事がかつてあったでしょうか?

琉球国王の記事において、第一尚氏第二尚氏の各王の記事名を「尚~王」と王号を付加するのは、の高祖を「劉邦帝」、煬帝を「楊広帝」、の太祖を「朱元璋帝」、後醍醐天皇を「尊治天皇」とする事と等しく、非常に違和感を覚えると言わざるを得ません。

ゆえに私は、第一尚氏王統以前の歴代国王の記事との整合性の上から、また中国歴代皇帝の記事や我が国の歴代天皇の記事との整合性の上からも、第一・第二尚氏王統の各王の記事名からは王号を削除した方がよいと考えます。

  • ただし、王号を付加する事が絶対に在り得ないかと言うとそうではありません。例えば、上杉鷹山山内容堂島津斉彬松平春嶽などは、それぞれ鷹山公、容堂公、斉彬公、春嶽公などと親しみを込めて呼ばれますが、ウィキペディアの記事には姓名のみが記事名となっています。同様に呼称としては「尚~王」というのは実際に見聞きされる事であり、各記事の文中において王号を付加するのは構わないかと考えます。それゆえ私は、第一・第二尚氏王統の各王の記事名からは王号を削除した方がよいと考えております。
  • 加えて、王号を付加すると、記事冒頭において姓と名の間にスペースが入っている場合、あらぬ誤解を招く虞があります。例えば前述の尚真王の記事の冒頭では下記の様になっており、姓が「尚」、名が「真王」だと誤解される可能性が皆無ではありません。
    • 尚 真王(しょう しんおう、1465年 - 1526年)
  • イギリス君主一覧フランス君主一覧などと比較してみても、記事名に王号を付加する事はその整合性を著しく損なうと言わざるを得ないと思われます。

「ああいえばこういう」人がいなくなったので再提案してみます。 ご安心ください,2週間程度のわずかな時間で勝手に合意形成がなされたとみなして勝手に変更することはありません。

再度言いますが,「人名(姓名)+王号」という奇妙な記事名は,琉球王国第二尚氏王統の歴代王を除いては存在しえないのです。

追記 短くても半年は,変更する気はありません。1年ほど議論を続け合意形成に至る雰囲気を醸成するべきでしょう。--時空無限(ときそら・げんない)会話2015年6月1日 (月) 05:53 (UTC)[返信]

本名非公開の人物の生年月日の記載について

本名をWikipedia上で公開とせず、かつこれが通称やペンネームと異なることが明らかな場合において、Wikipediaでウソを書いてはいけないらいので、生年月日も記載すべきではない(出生届が本名で提出されていることは明らか)と思うのですがいかがでしょうか。--プロバロン 2006年8月16日 (水) 10:54 (UTC)[返信]

  • 何となく放置されている感じなので、コメントだけ。嘘を書いてはいけないというか、Wikipedia:ウィキペディアは何でないかWikipedia:検証可能性辺りにそぐわない内容を書くのはマズイ、という事ではないかと思います。あと通称やペンネームとして公開されているプロフィール上で、生年月日が存在する場合は、それを記述するという事で良いのでは。ただそれが人物伝としてふさわしいかどうか、という判断は必要になると思います。その辺りの判断や合意が出来ないなら記述しない、という選択になるかも。なっしゅびる 2006年10月7日 (土) 13:00 (UTC)[返信]

スタイルマニュアル (導入部)との不一致について

スタイルマニュアル (導入部)では例では原語の強調がされていませんが、スタイルマニュアル (人物伝)では原語の強調がされています。どちらがより推奨されるのですか?おなじマニュアルなのに文書によって例が異なるのは混乱につながります。Nevylaxさんのように強調しているスタイルをご丁寧に外している人と無駄に争いたくありませんから。--Afaz 2006年10月17日 (火) 17:00 (UTC)[返信]

個人的見解ですが、こちらの表記を導入部に要点部分として反映させる、という事で良いのではないかと思いますが、どうでしょうか。--なっしゅびる 2006年10月22日 (日) 02:09 (UTC)[返信]

本名記載についての記述修正

2006年11月5日 (日) 2:44 (UTC)の版 において、IPユーザ 222.145.48.41から、いきなり要約のみで修正が行われています。言っている事は分かるのですが、手続きを踏んでいない点と、文面的にもバランスが悪い(ですます調とである調の混在)部分が気になる、という印象です。

  • きっかけはおそらくノート:片瀬那奈辺りからと考えます。どうも、公開を歓迎していないケースというのを拡大解釈している可能性もあります。

という訳で、皆さんのご意見を伺いたく。--なっしゅびる 2006年11月5日 (日) 09:23 (UTC)[返信]

毎度どうも。実は今、余所で噛み付かれている事にも通じるんですが、ページ冒頭の文章(枠の中のも含む)がくせ者なんですよ。今回の場合は『大きな変更を加える場合は、先にノートページで…』ってありますが、『大きな変更じゃないっ』と考えてる人は安易に編集しちゃうって事です。 222.145.48.41氏の主張は、表現上の程度問題であって、その意図する処は概ね賛同できうるんじゃないかなぁと思いますが、その変更手順としてはやはり乱暴な感が強く、その点は残念というのが感想です。この際、記事本文の語尾統一もさることながら冒頭の文言を先に強化・明確化したいなぁと思う次第です。「考慮すべきガイドライン」ってのは「考慮すべきだが遵守し従う義務はない」と考えるユーザが増加中みたいで。。。(公式な方針への昇格を諮るって事になるのかなぁ…) --Lan-Cruer 2006年11月5日 (日) 17:53 (UTC)[返信]
そもそも、母体のスタイルマニュアルが「ガイドライン」ですからねぇ。その全体について「公式方針への昇格」となると、さらに合意が面倒になりそうな気がします。そもそも表記上の問題なので、あまり制限を加えすぎると編集が窮屈になる、という部分はあるかと思います。それに、各ガイドラインでの表記上の揺れも有りますし、中には不一致な部分だけでなく、矛盾すら有ったりしますし。
今回は、その「公式方針との矛盾を無くす」という意味では、私も賛成なんですけどね。まぁ何故こんな乱暴な形になったのか、だいたいの経緯は推測出来るのですが、それこそ「憶測で物を言うな」という事になりそうなので保留します。
あと「従う義務はない」といっても、「では、従わない理由の提示と、そのためにこちらが納得し得るだけの対案はありますか?」という提案は出来るかと思います。もし対案が無ければ「さしたる反対理由にはならない」という形には持っていけると思います。--なっしゅびる 2006年11月13日 (月) 16:40 (UTC)[返信]

Wikipedia:削除の方針は公式な方針です。 これに反する身勝手な定義で編集しないように注意します。 ケース B-2:プライバシー問題に関して 積極的に実名を用いて活動している政治家・スポーツ選手・研究者・作家・芸術家・アーティスト・芸能人などの著名人を除き、本名(個人の実名)を含んでいたり、個人が特定できる記事は、削除の対象になります。日本国法の個人情報保護法、民法709条などを参考にしていますが、法令とは関係なく日本語版Wikipediaは個人のプライバシーを尊重する方針を採っています。下記に、ウィキペディア日本語版で伝統的に削除されている例を挙げます。 本名を敢えて非公開にしている著名人の実名(例:覆面作家)。

ウィキペディア日本語版内で、削除されず、伝統的に認められている例を挙げます。 本名を公開している著名人の本名。 220.111.54.208 2006年11月16日 (木) 05:07 (UTC)[返信]

えーとですねぇ、わざわざ当方のノートにまで出向いて同様の書き込みをされている220.111.54.208さんが、何をおっしゃりたいのか? が漠然としすぎてて対処できません。 それと、急激に忙しくなった為ここ数日活動できてませんので、何か返答をお望みなのでしたら具体的な個々の例を含む提示や質問と、月末くらいまでの猶予をお願いします。--Lan-Cruer 2006年11月16日 (木) 09:16 (UTC)[返信]
見出しに関しては、IP:222.145.48.41会話 / 投稿記録氏が、公式方針に基づいて修正したとはいえ、ノートでの提案が抜けていたため、「本当にこういう手順で良いのかな?」と思って補足提案した次第です。guidelineテンプレートにも「必要に応じて編集することは可能ですが、大きな変更を加える場合は、先にノートページで提案してください。」と示されていますし。今回は「公式方針を提示して、提案理由とする」という意図なのでしょうか?加筆された内容もどうやら、そういう趣旨のようですし。
あとIP:220.111.54.208会話 / 投稿記録さんが、当方のノートなども含めた書き込みに関しては、それぞれ私が関わっている範囲でコメントさせていただきました。--なっしゅびる 2006年11月16日 (木) 10:24 (UTC)[返信]

公式方針だけ示されて放置されたようなので、さらに提案を行います。現状では

  • 普段、通称で活動している方の本名は本人が公開しているときには記載してもかまいません。
    • 本人が公開していないとき、あるいは公開を歓迎していないときにはWikipedia:削除の方針のケース B-2:プライバシー問題に関してに従い書いてはいけない。
      • そのような理由で非公開とした場合には、<!--本名は非公開。公開すると削除の対象になります-->とコメントアウトして、注意を促す。

としていますが、先述の通り、文体のバランスが悪い状態です。さらに「非公開とした」や「本名は非公開」という記述についても、前後の繋がりを考慮し、敢えて踏み込んで書いている内容についても見直す必要があると考えます。

改善例:

  • 普段、通称で活動している方の本名は、本人が公開しているときには記載してもかまいません。
    • 本人が公開していないとき、あるいは公開を歓迎していないときには、Wikipedia:削除の方針の「ケース B-2:プライバシー問題に関して」に従い、本名は書かないで下さい。
      • 上記のような理由で本名を書かない場合は、<!--特に公開されていない本名を、理由無く記述した場合、削除の対象になります。-->とコメントアウトして、注意を促します。

「理由無く」を追加したのは、Wikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側にによります。本当はもう少し書きたいのですが、あまり長くなると、却って読まれない可能性があると考えます。一応、1週間くらい待って、特に反論・改善提案等が無ければ、ひとまず上記の内容に変更したいと考えます。--なっしゅびる 2006年12月16日 (土) 12:49 (UTC)[返信]

追記。過去ログの/archive 03において、本名非公開の表記が前提という形での議論がなされていますが、ここを或る程度拡大解釈しても運用出来るような形に持っていければ、というのも今回の提案理由です。そもそもB-2違反についての記載内容変更に関わる部分ですし、本名非公開と書かれなくても、本名を記載していないケースは多々有りますので。そこで「本名非公開」と表記しなくても、注意喚起までは行える、という内容まで持っていければ、と考えます。--なっしゅびる 2006年12月17日 (日) 00:00 (UTC)[返信]

1週間としていましたが、2週間待って特に意見が出ないため、ひとまず上記の通りに記述を修正しました。いかがでしょうか。--なっしゅびる 2007年1月2日 (火) 13:21 (UTC)[返信]

お願い

wikipediaに載せる人物伝の記事はすべて第三者が検証できる内容であることが望ましいです。要するに、ホームページ、本人談、手紙、メールなどや電話で確認した内容を公表することは個人情報保護法との兼ね合いもあり、絶対に控えるべきだということです。例え本人や回答者からの了解を得られたものであってもです。よって、本人に関わるすべてのいろいろなことを公表することで本人や回答者が何らかの不利益を被ることになるかもしれないということですので、載せなくても良いことは載せないほうが無難です。それに、多くの人が情報提供した時にいろいろと意見が食い違ったりすると、編集合戦にもなりかねませんので、注意してください。--60.39.50.120 2006年11月24日 (金) 05:40 (UTC)[返信]

(短くコメント)wikipediaは個人プライバシーの尊重はしますが、それは個人情報保護法に則ったものではございません。それは間違いです。--Los688 2006年11月24日 (金) 05:44 (UTC)[返信]

追伸 上記のことはwikipediaの編纂の某先輩からの言葉です。それを「お願い」として述べたまでです。--219.103.153.148 2006年12月4日 (月) 01:45 (UTC)[返信]

では、その言葉をどこから引用してきたか位は、Wikipedia:出典を明記するなどを考慮して、Wikipedia内のどの記事のどの版かくらいは、記述されても宜しいのではないでしょうか。ここからは個人的見解ですが、その箇所をちゃんと示せば、言いたい事の趣旨理解の助けにはなる、と考えます。--なっしゅびる 2006年12月9日 (土) 06:45 (UTC)[返信]
もちろん出典は第三者が参照できる刊行物であることが望ましいのですが、やむをえずそのような状態に無い出典を使うことが学術の世界ではまれにあります。「本人の談話、○年×月×日」「どこどこでの口頭発表、著者の好意により原稿を参照させていただいた」「○○所蔵の未公開草稿、所蔵者の好意により(以下同文につき省略)」などと書きます。あまり望ましくないが、まったく論外といったほどのものでもないです。学界の慣行よりきつい基準を導入するのでしたら、匿名氏の「お願い」以上に、どこの誰がどのような根拠に基づいていっているのかを明確にしたほうがよいように思います。--Aphaia 2006年12月9日 (土) 06:53 (UTC)[返信]
あ、ちょと分かりにくかったかしら。私はこれ、匿名氏の「お願い」について逆お願いをしているのです。また「先輩」のお願いであるといわれても、その方の個人的な希望を強制される根拠もわかりませんし、お返事はいたしかねますね。明示の方針がこれこれなので、それに鑑みこうこうお願いします、というならまだ話はわかるのですが。--Aphaia 2006年12月9日 (土) 09:26 (UTC)[返信]
「Wikipediaの編纂の某先輩からの言葉」という記述だけでは、どこに示されている内容かが極めて分かりにくいです(Wikipedia日本語版だけでも、30万件近い記事がありますし、どの版かまで追うとなると、さらに増えます)。その曖昧さを解決する提案として、Wikipedia内で考慮すべきガイドラインの1つを示しました。ただ、適切な提案ではなかったようです。という訳で、記述を少し変更します。--なっしゅびる 2006年12月9日 (土) 08:07 (UTC)[返信]

人名のイタリック体表記について

引用文中などの場合を除いて、人名はイタリック体では表記しません。これは「日本語の文末には”。”をつける」というのと同レベルの、文章を書く上での基礎知識ですので、本来であればこのガイドラインに明記する必要もなかったのですが、人名表記をわざわざイタリック体に変更して回っている人がいましたので明記する必要が出てきました。イタリック体の使用には厳格なルールがあります(例えば[2])。「見栄えがいいからイタリック体にする」というのは、「”「」”より”『』”の方が好きだから俺の文章は全部”『』”にする」というのと同レベルの行為になりますのでご注意ください。2週間ほど様子を見て異論がないようであれば本文にその旨を明記します。--猪山人 2006年12月5日 (火) 04:18 (UTC)[返信]

決めるのであれば好きなように決めればよいが、字体を変えるだけの編集が起こらないように注意するべきだと思うね。それとこの部分
  • >本来であればこのガイドラインに明記する必要もなかったのですが
以下は真っ赤な嘘だな。それは利用者‐会話:Kobayanを見ると分かる。
  • >ウィキペディアのガイドラインによれば、外人の人名はボールド体で表記することになっています。--猪山人
とあるとおり、書く必要の有無はどうあれ猪山人という人物は「ボールド体で表記すること」になっていると思いこんでいたのは明白な事実である。この後、そんなことは全く書いてないという事を指摘したら、猪山人は逆切れしてトンズラしたというのもそこに書いてある通りだ。んで、今は嘘を嘘で塗り固めるのに必死で、今このような提案をしてるわけだ。猪山人という人物は、見ての通りただの嘘吐きでしかないということは、ここではっきりとさせておくよ。--Kobayan 2006年12月5日 (火) 11:37 (UTC)[返信]
現行のガイドラインについて勘違いしていたのは申し訳ありませんでした。人名のイタリック体表記の件については同意いただいたようですのでありがとうございます。--猪山人 2006年12月5日 (火) 11:59 (UTC)[返信]

関連ガイドラインのリンク追加、及びその位置について

現状、関連項目としてウィキプロジェクト関連のリンク記載はなされていますが、関連ガイドラインのリンク記述をどこで行うか、という点で迷う部分が有るので、提案を追加します。基準としては、全見出しに影響する内容なら関連項目、そうではないものなら関係する箇所に、というレベルで良いとは思うのですが、注意喚起も考慮する必要がある内容についての扱いが難しい、という印象です。

なお、現在翻訳中・タイトル変更提案中ではありますが、Wikipedia:存命人物の伝記辺りは追加しても良いのではないでしょうか。追加位置は小見出し「芸能人、漫画家ほか現代人の記事について」が妥当と考えます。--なっしゅびる 2006年12月16日 (土) 23:44 (UTC)[返信]

「ウィキプロジェクト 人物伝」の開設について

人物伝の記事に関するガイドラインには、カテゴリの設定やテンプレートの使用など、「Wikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)」で規定するにはなじまないものがあります。これらについて検討する場として、「Wikipedia:ウィキプロジェクト 人物伝」を開設しました。「Wikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)」とは補完関係になると考えています。ご意見よろしくお願いします。--猪山人 2006年12月24日 (日) 14:53 (UTC)[返信]

Template:プライバシー導入について

「Wikipedia:削除の方針の「ケース B-2:プライバシー問題に関して」に従い、本名は書かないで下さい。」というあとに「本名の記載があった場合Template:プライバシーで注意を呼びかける」という文を追加したいのですがよろしいでしょうか?--222.0.165.19 2007年2月3日 (土) 11:29 (UTC)[返信]

読み仮名の強調について

こんにちわ、悠卯斗と言います。一通り調べたのですが自身で結論を出せなかったため質問させて頂きます。

さて、人名の読み仮名の強調を外すだけの編集行為が、IPユーザーを中心に多々見られます。スタイルマニュアル上では「読み仮名は標準体かボールド体で記載してください。」と、つまりどちらでも構わないとの方針がされています。しかし読み仮名の強調を外すだけの編集は、はたして必要なのでしょうか。また、こういった編集は方針の何れかに違反しますでしょうか。--悠卯斗 2007年4月4日 (水) 12:39 (UTC)[返信]

かなり遅まきなコメントですが・・・Wikipedia‐ノート:スタイルマニュアル (導入部)#導入部における読み仮名の強調についてでも、提案された内容と共通するものがあるかと思います。強調しない理由については「リダイレクトされるものなら強調、単なる読み仮名なら強調はしない」という事を提案しています。--なっしゅびる 2007年8月11日 (土) 21:57 (UTC)[返信]

生没年の元号併記について

日本人の人物伝にて生没年に元号を併記する場合、どのようなスタイルですべきなのでしょうか?たとえば夏目漱石はWikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)の例では

夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年12月9日(大正5年))・・・・・

と、元号は年月日の後に書かれていますが、実際の夏目漱石では

夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)・・・・・

と、グレゴリウス暦採用以前の元号年月日は西暦年月日の後に、グレゴリウス暦採用以後の元号年は西暦年の後に書かれています。 --61.126.223.165 2007年8月7日 (火) 13:52 (UTC)[返信]

太陽暦採用後の生年月日の表記は、XXXX年(元号YY年)MM月ZZ日の形が多く使われているようです(例:吉田茂鳩山一郎など)。人物伝の冒頭部に限らず、地の文でも和暦併記の場合はこの形が多く採用されているので、表記法を揃える意味でもこの方の形が望ましいと思います。--ととりん 2007年8月11日 (土) 03:19 (UTC)[返信]

上記に関連して、太陽暦採用後の生年月日の和暦併記の例が中途半端な状態なので、野口英世と小泉純一郎(保護中なので適用は解除後になりますが)についても記事に和暦を追加し、例に反映させようと思いますがいかがでしょうか。--ととりん 2007年8月11日 (土) 03:19 (UTC)[返信]


ととりんさんが示された例で言えば、

夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日慶応3年1月5日) - 1916年12月9日)・・・・・

というように表記しましょう、ということで合意ができていました。太陽暦採用後の元号は西暦をクリックすれば確かめられるから一々書かなくてもいいことになっていましたけど、元号表記しておいた方がいい場合は書いてもいいことになっていました。ただしリンクは元号のみとすることになっていました。杓子定規に決めなくても良いんじゃないのという空気が支配的だったので、元号表記禁止しなかったように記憶しております。やっぱりビシッと決めておかないと多様な書き方がされて統一性を失ってしまいますね。いい機会ですからここで話し合ってガイドラインかすればよいのではないでしょうか。 --赤い飛行船 2007年8月14日 (火) 15:09 (UTC)[返信]

確かに、いままでの私のように、公式でない多数の例を編集スタイルと思い込み編集していたケースもあり、今後も他の方々も同じことをしてしまう可能性があるので、公式なガイドラインが必要かと感じます。

私は、ととりん様の提案されてるスタイルを支持する意見です。--かんな文移 2007年8月14日 (火) 15:40 (UTC)[返信]

元号併記の形式を決めて、併記型の統一性を確保すればそれで問題はないのでしょうか。また、元号を併記するかの判断は従来通り執筆者に任せることが現実的な判断だと思います。元号の使用自体を禁止するという議論は、「日本に関する記事には和暦を必ず併記する」という対案を呼び込むでしょうし、議論の進行ととりまとめはなかなか大変だと思います。--ととりん 2007年8月15日 (水) 06:00 (UTC)[返信]
赤い飛行船さん>上記で述べられている合意の件ですが、参考にしたいので過去ログのどの辺にあるのか教えていただけないでしょうか。ざっとみたところ見つからなかったので、よろしくお願いします。--ととりん 2007年8月16日 (木) 12:43 (UTC)[返信]

ごめんなさい。気づくのが遅くなりました。かなり昔のことなので私も記憶が曖昧なのですが、井戸端の古いログにあるかと思います。2004年か2005年の前半だったように記憶しています。--赤い飛行船 2007年9月23日 (日) 11:22 (UTC)[返信]

井戸端の方でしたか。スタイルマニュアルの方の履歴を追っていたので、見つからないはずですね。該当部はこれでしょうか?→ Wikipedia:井戸端の過去ログ/2004年9月#年号について --ととりん 2007年9月23日 (日) 16:17 (UTC)[返信]

生年月日の編集スタイルについての質問です

ベテランのユーザの方からいろいろアドバイスを受け、勉強中の身です。なるべく多数の方々が編集されてるスタイルにならい生年月日を書いていますが。たまに西暦と和暦が混じるスタイルが見受けられます。

例その1・(1961年昭和36年)11月3日 - 2007年平成19年)8月14日

例その2・(昭和36年(1961年11月3日 - 平成19年(2007年8月14日

例その3・昭和36年(1961年11月3日 - 平成19年(2007年8月14日


西暦と和暦の順序のスタイルは決まっているものなのでしょうか?

それとも個性として放置してよろしいものなのでしょうが?

Wikipedia:井戸端にて、赤い飛行船様、ととりん様からご意見を頂きましたことに感謝と恐縮です。

1961年11月3日 - )とすべきか、

1961年昭和36年)11月3日 - )とすべきか、考えてます。

スタイルマニュアルを読んでも、例が複数あり、今まで通りにすべきか、和暦を付け加えるべきか、悩んでますが、私の意見としては和暦を加えるのがいいかなと感じます。--かんな文移 2007年8月14日 (火) 14:49 (UTC)[返信]

井戸端の方にも書きましたが、和暦を併記するならば、スタイルはWikipedia:表記ガイド#年月日・時間で最初に提示されている「XXXX年(元号YY年)」の例と揃えるのがいいのではないでしょうか。地の文と冒頭部のスタイルを揃えておけば、混乱を招かずに済むと思います。--ととりん 2007年8月16日 (木) 12:12 (UTC)[返信]
現在、Wikipedia:井戸端にて議論が進んでいる様子ですので、しばらく見守りたいと存じます--かんな文移 2007年8月19日 (日) 12:51 (UTC)[返信]

井戸端の方でも、和暦の有無についてどちらかに一本化するという流れにはなりませんでした。そこで、例としては、小泉純一郎を和暦無し、野口英世・夏目漱石(没年)を和暦ありの例として「その1」の形で反映させたいと思います。--ととりん 2007年9月16日 (日) 04:07 (UTC)[返信]

上記の通り反映させました。--ととりん 2007年9月23日 (日) 09:01 (UTC)[返信]

ととりんさん、せっかく作業していただきましたが、元に戻していただけませんか? きちんと合意を得ないままにAでもBでも良いというような形にしてしまうと統一性を欠いたものになってしまいます。それを避けるために数々のプロジェクトが進行しているのですが、中にはなかなか合意が取れないものもあります。だからと言って統一性を欠くような形で見切り発車してしまうのは危険です。--赤い飛行船 2007年9月25日 (火) 14:39 (UTC)[返信]

なるほど、議論のプロセスついてどうあるべきかは、一般論としておっしゃる通りだと思います。しかし本音を言わせていただくと、対話に一ヶ月以上間をあけておいて(しかも作業開始にあたって予告後一週間の期間を置いています)、決定的な動きがあった後に異議を唱えるというのはいががなものでしょうか。赤い飛行船さんが今後この問題に積極的に関与するおつもりであるなら、改めて議論を提起して頂くのが筋かと思います。また、統一性の確保についてご心配されているようですが、現行ルールは「Aを基本にBも認めている」形となっており実際に二通りの記事(まれに和暦だけの記事もありますが)が作成されています。ルール上も実質的にも並立が容認・実施されているのがウィキペディア日本語版であり、ご懸念にはおよばないと思います。--ととりん 2007年9月25日 (火) 19:55 (UTC)[返信]

武士テンプレート使用記事の定義部生没年月日記述について

すでに過去ログ化されておりますが、以前にTemplate:武士を使用した人物記事において重複する生没年月日の記述をどうするか、という議論がこちらで行われていました。 それに関して、テンプレートの側の解説に「スタイルマニュアルには従わない」という記述があるため、それを根拠に、定義部の生没年月日を削除する編集を行われている方がおられます(利用者‐会話:小者Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 武士/Template#テンプレート適用記事の本文書き出しを参照)。

こちらでの議論を拝見しましたが、まだ結論が出ておらず合意が行われていないようにお見受けしました。 私個人の理解では、現状、合意が形成されていない状況のため、スタイルマニュアルが優先されるとの認識ですが、こちらでの議論に参加された方はどのようにお考えか、よろしければご意見を伺いたくお願いいたします。--Horlicks 2007年11月19日 (月) 05:37 (UTC)[返信]

実際の姓名より、名前+官職名の方が有名な人物についての取り扱い

例えば、古田織部と古田重然大岡忠相と大岡越前、徳川光圀と水戸黄門、浅野長矩と浅野内匠頭のように、 実際の名前ではなく、名前+官職名の通称の方が一般に有名な人物を登録する場合の定義をどうするべきかの議論を、 提案したいと思います。自分が調べた限りでは、名前+官職名で正式登録されているケースの方が少ない、もしくは変更されている物が多いように見受けられるのですが、現在、高山右近のノートで改名をするか否かの議論が行われています。現在のところ「学術的、一般的に一番知名度が高いのだからそのままでいいのではないか」という意見が出ていますが、このあたりの定義が曖昧なので、ハッキリとしておきたいので意見をお願い致します。--ポテンシャル0 2007年12月27日 (木) 14:07 (UTC)[返信]

「どちらがよりよいのか」という観点では、どちらの考え方もあると思いますが、現時点での方針としてどうかということになると、Wikipedia:記事名の付け方#正式な名称を使うことに従うのが原則ということになるのだと思います。例としてはたとえば「真田幸村」としてよく知られている武将の記事名は「真田信繁」となっています。
個人的には「どちらがよいか」と考えるなら、より「通りのよい」方がよいように思うのですが、そうすると判断が分かれる記事も少なくないような気がしますね。意外と難しい問題のように思います。--Horlicks 2007年12月27日 (木) 14:25 (UTC)[返信]
私が個人的に見て回ったところでは「実際の名前」が不明な人物では当然名前+官職名ですが(福島越前守)、「実際の名前」が不明確な場合の扱いについてはまちまちのように見えます(たとえば簗田政綱については名前が不明なので簗田出羽守に改題すべきという提案がなされたことがあります)。厳密に考えると「実際の名前」は必ずしも確定されていないのにも関わらず、歴史を題材にしたゲームなどの影響でその作品中の名称をそのまま採用している記事は案外多そうですね。もっとも、ここでの議論は「(「実際の名前」が明らかとなっているのに)「実際の名前」ではなくそれ以外の名称(官職名、通称、法名)」に限定してのご提案に見えます(「実際の名前」が確定されていない高山右近は例として不適切でしょう)ので、その点に限定して一般論を述べるならば、官職名入りの名前は場合によっては複数の人物について「 ( )」付でいちいち区別する手間ができるのであまり望ましくないとは思います。もちろんケースバイケースで例外はありますけどね。--Kangoshiyouichi 2007年12月27日 (木) 17:54 (UTC)[返信]
正式な名前が確定できる場合にはやはり正式な名前を使うべきだと思いますが、そうでない場合――例えば、異説がある場合には結局は通称名を使わざるを得ないような気がします。高山右近については通称の知名度が非常に高く、それ以外の名前の確定が難しい以上は右近のままがいちばん適当な気がします。
で、一般論ですが、Kangoshiyouichiさんの議論の中で、官職名や通称に対して法名は、確かに議論の共通点もありますが分離して考えるべきかと思います。法名は基本的に個人に対する名前ですから混同の可能性はかなり低いですが、官職名となりますと「名字と官職が同じ」という混同の可能性はかなり高くなるでしょう(近世になると代々同じ官職を受け継ぐことも多いですし)。通称は微妙なケースですが、本名が確定できるならWikipedia:記事名の付け方#正式な名称を使うことになるべく従う方が適切であると思います。つまりは、高山右近は現状維持を推しますが、本名が確定できないことを理由とする次善策としての意見です。ただし、「確定できない」のならばかなり蓋然性が高くても通称名を優先する方が良いと個人的には考えています。
ちなみに、例えば法名に関しては武田信玄上杉謙信の例がありますし、淀殿のように通称名を使っているケースもありますね(個人的には、「淀殿」は同時代的な呼称でない可能性がある上に、本名がほぼ確定しているので正直微妙なケースだと思うのですが……)。--Nukkie 2007年12月28日 (金) 14:38 (UTC)[返信]

元・○○という表現

人物のページに元・○○(職業や役職)とつける投稿ユーザーが多いですが、これはどうかと思います。亡くなってしまった人はともかく、存命する人が再びその職に就く可能性はよほどのことがない限り否定できませんし、現任していないなら歴史上の人物全てに元を付けなければならなくなります。同じ理由で(故人)や故をつけないよう推奨されていますし。--Baioextra 2008年1月31日 (木) 22:21 (UTC)[返信]

記事「手島慶介」を拝見したときに同じ感想を持ちました。Baioextraさんのご意見はごもっともかと思います。また、どう表現してよいかわかりませんが、たとえば「元スポーツ選手」という定義文をつけられた人物は、スポーツ選手としての活動よりも「元スポーツ選手」としての活動が著名だということになってしまうのではないでしょうか。そういった方は大抵別の肩書きで活躍しているものであり、あえて「元」を付ける必要性を感じません。以上のことから、スタイルマニュアルに「肩書きに『元』『前』といった言葉をつけないでください」のような一文を加えてはどうかと思いますが、いかがでしょうか。ご意見をお願い致します。--Bellcricket 2009年1月27日 (火) 03:45 (UTC)[返信]
比較的最近の人で、その後も活動している人について、違和感を覚える人がいるのかもしれません。徳川家康は「日本の戦国武将・江戸幕府の初代征夷大将軍」と、すんなり書けるとしても、山口百恵を「歌手」、片山右京を「F1ドライバー」と書くと、現役であるように読まれる可能性があり、とはいえ、「主婦」「登山家、大阪産業大学工学部客員教授」という職業や役職が主体になるような記述にするのも適切とは言えないように思います。「付けないでください」だけでは、ちょっと話がこじれることが増えそうな気がします。
基本的には、「歌手。○○年に引退した」とか、「○年までF1ドライバー。その後はほげほげ」などと書くことで対応できると思いますし、そのように導くのがよいかなと思いました。職業によっては、いつまでと明記することが難しかったり、本人は今でも現役のつもりだけど社会的にはそのように認知されていなかったりということがあるかもしれません。--Ks aka 98 2009年1月27日 (火) 13:21 (UTC)[返信]
一律でつけないというのは難しいと思います。先にあげられておられるように、手島慶介の冒頭には違和感を覚えますが、山口百恵ではやはり元をつけるべきでしょう。ゴッホには元画家といった表現は問題だと思いますが、やはり個々で対応してもらうしかないかと思います。Ks aka 98さんのおっしゃるように「○○年代に活動を行っていた女優」といったように、「元に替わる表現の方がいいよ」といったことならまだ問題がないのかもしれません(これもやや難しい所がありますが)。なお、再び職につかれた場合は、その時点で修正すればいいだけのように感じます。--Baldanders 2009年1月27日 (火) 14:05 (UTC)[返信]
英語版ですと retired や former といった表現が私が翻訳したり閲覧することの多い記事に見られます。故人について元といった表現をするのは不適当ではないかと思いますが、たとえばマイケル・ジョーダンはバスケットボール選手。より元バスケットボール選手の方がしっくりいくように思います。現国王、現大統領でない存命の人物の場合など、ギャネンドラ・ビール・ビクラム・シャー・デーヴでは「かつてネパールの第12代国王であった人物」とありますが硬い表現のように感じます。--Tiyoringo 2009年1月27日 (火) 17:19 (UTC)[返信]

(インデント戻します)人物記事の定義として、職業や役職に「元」を付けないことに賛成します。百科事典の記事は過去形が基本です。元というのは、いまこの時点限定で現職でないという点で確定しておらず、「古くなる表現」です。別の言い方をすれば、百科事典の人物記事はなにをもって書かれるか、ということです。それは一定の評価を受けた事績や業績が対象であって、例を挙げるなら山口百恵ちあきなおみは歌手(ほかの活動があればそれも)として活動したことが記事に書かれるわけです。スタイルマニュアルの「導入部」の4.はこのことを示しています。現役かどうかは記事内容・活動期間で述べればわかることで、引退した人物が生きていたら「元」、死ぬと復帰の可能性がなくなるので「元」を消す、というような使い分けは無用ではないでしょうか。--みっち 2009年1月28日 (水) 12:32 (UTC)[返信]

みっちさんのご意見に賛成ですが、「肩書きに『元』『前』といった言葉をつけないでください」だけでは、既存の記事から単純に「元」「前」を取る人が出てくる恐れがあり、その結果読者に誤解を与える不正確な記事になりかねません。追加文にもうひと工夫必要だと思います。--Penn Station 2009年1月28日 (水) 12:55 (UTC)[返信]
おっしゃることはその通りだと思います。ここはスタイルマニュアルですから、スタイルとして「元」を付けない、ということを意見として述べました。原則はそうであっても、ただ「元」を消せばいいということではなく、転身した例でいえば、「国王、のちタレント」(あくまで例です)など、各記事の内容に即して個別に表現を考えることが必要なのはもちろんです。などと書かないと、字句だけを一面的に受け取って消して回られたりするのかなあ。--みっち 2009年1月29日 (木) 10:05 (UTC)[返信]
初心者を含めいろいろな方が参加されていますし、「予防保守」の観点から、できれば最初からガイドラインで説明しておいた方が後で手間がかからないと思うんですよね。とは言えいい文言はなかなか思い浮かばないのですが、例えば、「肩書きに『元』『前』といった言葉はつけないでください。ただし、読者が誤解することのないように表現を工夫して記述してください。例:『○○はXX年にデビューしYY年に引退した日本の歌手。』『○○は日本のプロ野球選手。YY年に引退。』『○○は日本の政治家。△△、□□を歴任。』」とか…。--Penn Station 2009年1月29日 (木) 11:31 (UTC)[返信]
Penn Stationさんのご提案もよいと思います。例まではいらないかも、ということであれば、「職業名に「元」や「前」は付けないようにします。ただし、タレントやスポーツ選手など、活動期間が限られたり転職した場合は、引退時期や転職後の主な活動を併記するなど、読者が理解しやすいように記述してください。」という感じでしょうか。
書く場所については、導入部の4. 「人物の主な活動(政治家・作家・学者など)」、「在位期間・在職期間」の節、「その他細目」の「芸能人、漫画家ほか現代人の記事について」が候補になると思います。こうしたことが議論になるのはまず現代人でしょうから、個人的には最後の「芸能人、漫画家ほか現代人の記事について」に付け加えるのがいいように思います。といっても、合意になればの話ですが。--みっち 2009年1月30日 (金) 09:49 (UTC)[返信]
私は例示した方が分かりやすいと思いますが、それはともかく、方向性はそのような感じですね。一律禁止に反対されている方(Baldandersさん、Tiyoringo さん、KeirinLoverさん…?)の本議論に関するご意見もお聞きしたいです。--Penn Station 2009年1月31日 (土) 08:31 (UTC)[返信]

(インデント戻します)手島慶介の件からノートで意見表明を求められました。様子見するつもりでしたが、多数の意見が出ていますので、私の考えを表明させていただきます。すでにある意見の中では私はKs aka 98さん、Baldandersさんの意見がいちばん近いです。選手のまま亡くなられた手島慶介や内田慶のような事例での違和感は理解できますが、では元や前をつけないというルールを中野浩一井上茂徳に適用されたら実情に合いません(中野はタレント的活動をするスポーツコメンテイター、井上は競輪評論家です)。特に競輪選手の事例に特化すれば、一度引退すると復帰できない規定になっていますので、競輪の引退選手については何らかの形で定義に明示すべきでしょう。ただし、それが元や前を付けるという手段に頼らない(現役期間を明記する等で代用する)というのは構わないと思います。--KeirinLover 2009年1月29日 (木) 01:11 (UTC)[返信]

芸能関係の人に多いようですが、経歴を華やかに見せることだけを目的にして、ダンサー、歌手のようにやたらと前歴を並べ立てて、意図的に事実関係を曖昧にさせている例が見られます。あまり売れていない芸能人などにこの傾向があります。実際はダンサー歴が1~2年、歌手歴が30年として、現在職業として踊ることがないのであれば、この場合は歌手、元ダンサーという表現に違和感はありません。みっちさんが危惧されるように「古くなる表現」となる懸念もありません。要するに、事例ごとに「元」をつけるのが妥当なこともあれば、そうでないこともあるのではないでしょうか。一律で禁止するのには賛成できません。
在職期間が相対的または比較的短かった職業については、元●●という表現は可能。
というルールを提案したいと思います。何年以下なら可能で、何年以上なら不可という線引きは難しいので、この程度の規定にとどめるべきだと思います。国会議員を1期しか務めなかった人を「元衆議院議員」と説明するのは百科事典として何ら問題ないと思います。これをいちいち「xx年からxx年まで衆議院議員」と書くことを義務化するのはやりすぎでしょう。--トトト 2009年2月13日 (金) 15:40 (UTC)[返信]
上で「一律禁止」と書いてしまいましたが、本文書がガイドラインという位置づけである前提でのことです。あくまでも推奨であって、義務化とは考えていません。「元○○」という表現の問題点は、例えば当該人物が亡くなられた場合や(場合によっては前言を翻して)その職業に再び就いた場合に、記事の正確性が担保できないためです(いずれ誰かが修正するのでしょうが、それが翌日なのか、数年後なのか、保証はありません)。問題が予見されるのに、敢えてその表現をとる必然性はないと思うのです。とはいえ、お気持ちは分かります。上記みっちさんとの議論で話し合った文面を、「時間経過と共に記事の正確性が損なわれるおそれがあるため、肩書きには『元』『前』といった言葉を付けないことが推奨されます。ただし(or 例:)…」というように表現を緩和する、ということでいかがでしょうか。--Penn Station 2009年2月14日 (土) 00:26 (UTC)[返信]
緩和していただけると助かりますが、その前にもう一つクリアしなければならない点として「元」を職業名にをつけるのか、それとも役職名につけるのか、という問題があるように思います。ある人が40年間銀行員として活躍したとして、最後の20年は引退生活だったとしても、その人を冒頭説明で「銀行員」とするのは全く賛成です。「A氏、銀行員」はよいとして、しかし、役職名はどうでしょう。「A氏、△×銀行岡山支店長」「B氏、○×銀行頭取」。これらの場合、A氏やB氏を説明するのに必要な記述ですが、最初から陳腐化することが明白です。なぜなら、その役職に永久に留まる人は皆無ですから。事務次官などは2年務めればおしまいで返り咲く可能性は皆無です。その人がその役職を下りた時点で、「C氏、元警視総監」とするのは問題ないでしょう。役職名に「元」をつけて時間経過と共に正確性が損なわれる例はむしろ少なく、逆に「元」をつけないことで百科事典としての正確性が損なわれます。というわけで、
比較的長期間務めた職業(職業を表わす一般名詞)については、その職業から退いた後でも『元』『前』をつけないことが推奨されます。ただし、役職名についてはこの限りではありません。
(やはり職業には「長期間」の条件は入れてほしいのですが…。長くやってこそ、職業がその人の「顔」になるわけですから)
はどうでしょう? 岡崎久彦さんはご自分の肩書を「元駐タイ大使」としておられたように記憶しています。新聞の訃報欄でも誰かが亡くなると、普通は「元××商事社長」となってますよね? これを単純に肩書として一括りでつけないように推奨してしまいますと、大変なことになりませんか。--トトト 2009年2月14日 (土) 12:44 (UTC)[返信]
間があいてしまってすみません。役職についてですが、仰るようにすぐに陳腐化するため、例えば「第○代内閣総理大臣」「○○年から××銀行頭取」など、最初から(在任時から)世代・時代を特定する説明を入れておくべきと思っています。また訃報欄は亡くなった直後のことですので、没後何十年にも渡って掲載される百科事典とは事情が異なるのではないでしょうか。それからここでの議論は、「その人の顔」となる職業に限らず、つまり冒頭の定義文(?)に限らず(そのような例を主として取り上げてはきましたが)、より一般的な話をしていると思っていますので、期間の長短は本質的ではないと思うのですが…。
例えば、「○○は元外交官・元◇◇・△△駐在大使、外交評論家、NPO法人□□研究所所長。」は、「○○は外交官、外交評論家。◇◇駐在大使、△△駐在大使を歴任。××年よりNPO法人□□研究所所長。」というように記述すべきかと思うのです。--Penn Station 2009年2月27日 (金) 12:47 (UTC)[返信]
没後一定期間を経て歴史上の人物となってしまえば、御提案のような記述は全く妥当だと思います。しかし存命中ですと他の方も懸念されているように、「元」を完全に排除するのは難しいと思われます。社会通念上の「肩書」概念と乖離が生じます。そこで、
1. 存命中
2. 死後X年後
に場合分けしては如何でしょうか。御提案のように「~~を歴任」とすることで、なるべく使わないようにするのは良いことかもしれませんが、官職などの場合、退いたら「元」をつけないと不正確になります。そうした不可欠な場合もあることを考慮した上でのガイドラインとして頂きたいと思います。百科事典でも新聞でも、読むのは現在の読者であるという点で変わりないはずです。既に歴史となった人とは異なり、生存中の人物の記事はそもそも現在進行中なのですから(それが数十年続くこともある)、没後に訂正が必要になるとしてもそれはやむを得ないことでしょう。--トトト 2009年2月28日 (土) 06:15 (UTC)[返信]
トトトさんのご意見を考慮して、以下のように文面案を作成してみました。いかがでしょうか?「必要な場合には」と曖昧に書いてしまいましたが、もう少し具体的な条件を挙げていただくことは可能でしょうか?
職業名・役職名の『元』『前』といった言葉について
  1. 存命中の場合:職業名(歌手、政治家、作家、建築家、プロ野球選手など)には『元』『前』は付けません。ただし活動期間が限られたり転職した場合は、引退時期や転職後の主な活動を併記するなど、読者が理解しやすいように記述してください。また、役職名(○○会社社長、○○銀行頭取、○○研究所所長など)については、在任期間を明示したり「〜〜を歴任」のように『元』『前』を使わない記述が推奨されますが、必要な場合には『元』『前』を付けて簡潔に記述しても構いません。
  2. 没後の場合:職業名・役職名ともに『元』『前』は付けません。必要に応じて活動期間や在任期間などを記述してください。
--Penn Station 2009年2月28日 (土) 08:23 (UTC)[返信]
1.存命中の職業名にプロ野球選手とありますが、たとえば原辰徳の記事はどうでしょうか。「元プロ野球選手、監督」。これは世間一般の肩書表記方法に合致しており、原が生存中である限り特に問題なさそうです。真弓明信金田正一もしかり。別分野では伊藤みどり朝陽丸勝人。新聞でも同様の方法をとっていますね。前々回での私のお答えでは役職名のみを問題と指摘しましたが、職業名でも「元」表記が必要な場合があるようです。(人名一覧で見ると元○○女優というのが目立ちます。これはどうなんでしょうか?)
2.没後の人物についても役職名で「元」が必要なケースがありました。野上進向井長年、どちらも「政治家・元参議院議員」。高柳先男・元中央大学教授。冒頭文ですが特に問題はなく、逆に「元」をとると読者が一瞬混乱します。結論からいうと必要でしょう。
これらは氷山の一角で他にも必要な例がありそうです。これまで申し上げたことと矛盾するようで恐縮ですが、確実に「元」をつけないことを推奨できるのは、2.没後直後かどうかは不明の職業名のみであり、他はケースバイケースのように思われます。ガイドライン制定を急がずに、もう少し職業名・役職名について事例ごとに議論を深めた方がよいのではないでしょうか。--トトト 2009年2月28日 (土) 16:44 (UTC)[返信]

(インデント戻します)私自身は本件に関するガイドライン制定を急いでいる訳ではありませんので、事例に基づいて議論を継続することは問題ありません。原辰徳の例ですが、私としては「…は、日本のプロ野球選手、監督。」(元なし、国籍・地域付き-Wikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)#導入部参照)の方が百科事典的だと思いますが、現役のプロ野球選手と誤解される読者が出てくるでしょうから、そのような誤解が生じないように追加説明(あるいは記述変更)を行う必要がある、というのが、上でみっちさんと話したときの議論でした。野上進や他の例も同様です。「ただし活動期間が限られたり転職した場合は、引退時期や転職後の主な活動を併記するなど、読者が理解しやすいように記述してください。」とあるのは、その議論の中から生まれたものです。
人名一覧の場合の括弧書きは、その人物を代表する肩書きを書くのでしょうから、その意味で、例えば「元大相撲力士」とされている人は「大相撲力士」でもおかしくはないし誤りでもないと思うのです。誤解が生じる問題については、その人物の記事の中できちんと説明することで対処できるのではないでしょうか。故人には「故」を付けないことになっていますが(Wikipedia:表記ガイド#人名)、ここでの議論と同じだと思っています。
たぶん、百科事典の記事を見る視点の違い(現在という特定の時点に立脚しているのか、その人物の人生(半生)全体を見渡す位置から判断しているのか)だと思うのですが…。--Penn Station 2009年3月1日 (日) 00:25 (UTC)[返信]

Penn Stationさんとほぼ同意見です。「○○は日本のプロ野球選手、のち監督。」または「○○は日本のプロ野球選手。現役引退後は監督。」などとすれば、「元」をつける必要がありません。参議院議員や大学教授職などの「肩書き」は、経歴の一部であって人物の定義としてふさわしいかというと必ずしもそうではありません。挙げられた例の場合、政治家あるいは○○学者などとすれば、現職かそうでないかにとらわれないですみます。百科事典と新聞との違いについて、考えてもらえるとありがたいです。--みっち 2009年3月1日 (日) 02:14 (UTC)[返信]
まず最初にお断りしますが、『元』表記が必要なのはその人物を1行で表現しなければならないときで、ほとんどがリスト表示における1行や冒頭定義文などに限られます。個別の記事で詳しく説明可能なのは当然ですが、であれば上記のような『元』表記を全て廃止してよいのか、というのが立脚点です。
みっちさんもPenn Stationさんも「百科事典は数十年先まで見通して…」ということを強調され、それのみをガイドライン改訂の根拠とされているようですが、生存している人間があと30~40年程度生きる可能性があるということもまた否定できない事実です。特にWikipediaの場合、通常の事典では落とされるような泡沫な人間を多く載せておりますので、なおさらその可能性が高いわけです。
そうした人物の場合、現在進行中であるという視点を欠けば情報としての質が低下するのは否めません。『元』をつけるのが妥当かどうかは業界や職種によっても異なります。野球や大相撲では現役かどうかが情報として重要なことであり、それを1行表示の中で『元』することに問題はないはずです。原の場合は世間の認知度が高いものの、そうでない人の方が大半です。苦労して情報を作り出している人がいるのに(例えば元プロ野球選手)、それを一律で否定するのはいかにも強引ではないでしょうか。他の方々の懸念もこうしたものであると思われます。
現状Wikiにさしたる問題が生じていないのになぜお二方が改訂にこだわるのか、私はどうも理解に苦しみます。厖大な野球選手の記事にコミットする覚悟はおありでしょうか? 野球以外の全てのジャンルを検討されたのでしょうか? どうしても改訂を希望されるのでしたら合意の得られた部分のみにして頂きたいと思います。すでにPennStationさんから表現緩和のお申し出がありましたので(2009年2月14日 (土) 00:26 (UTC))、
【暫定改定案】
肩書にはなるべく在任期間を明示したり「~~を歴任」「第X代○○」のように『元』『前』を使わない記述が推奨されます。ただし、
1.生存中の人物職業名(歌手、政治家、作家、建築家、プロ野球選手など)で、活動期間が限られたり転職した場合で社会通念上『元』をつけるのが妥当とされている場合役職名(○○会社社長、○○銀行頭取、○○研究所所長など)については必要な場合に『元』を付けて簡潔に記述しても構いません。
2.没後の人物: 原則として職業名に『元』『前』は付けません。役職名についても誤解を招かない限りにおいてなるべく『元』『前』を使わない記述が推奨されます。
というのはどうでしょうか。--トトト 2009年3月1日 (日) 05:32 (UTC)[返信]
トトトさんが問題とされているのは(1)冒頭定義文 (2)一覧(人物名+肩書き)とのことですが、(1)冒頭定義文については上記でみっちさんからもコメントがあるように、「元」「前」を付けなくても記述可能ではないでしょうか。あまり著名でない(しかし特筆性はある)人物についても、転職や役職変更の経緯や活動期間などを明記することで、情報の質が高まりさえすれ劣化することはないと思うのですが。(2)一覧(人物名+肩書き)については確かにその一覧だけを見れば現役と誤解する恐れがある(人物記事へのリンクにしておけばリンク先記事で説明可能ですが、そこまで確認しない人も多い)でしょうし、「元」を付けて簡潔に記述した方が良い状況も理解できますので、例外としてもよいかなと個人的には思います。
既存記事を一律に否定する意図はありません。すぐに陳腐化する可能性のある表現をできるだけ避け、より百科事典らしい記述に改善する、という観点から改訂提案に賛成しています(元々の提案者はBaioextraさんやBellcricketさんです)。私的には、例えガイドラインが改訂されたとしても、既存記事を一気に変更する必要はなく、新規に記事を執筆する際や既存記事を編集する際に参考にしてもらい、徐々に対応していけばよいのではないかと思っています。あくまでも推奨であって、既存記事から「元」「前」を削除することを強制するものではありません。
暫定改定案ですが、ちょっと理解しずらいように思いました。下記のように例外として一覧の場合を明示する、ということではいかがでしょうか。また、没後の役職名も、没後であれば例外は必要ないのではないでしょうか。
【改定案(対案)】
  1. 存命中の場合:肩書(職業名・役職名)には『元』『前』は付けないことが推奨されます。活動期間や在任期間が限られたり転職した場合は、引退時期や転職後の主な活動を併記するなど、読者が理解しやすいように記述してください。ただし、一覧で人物名とその人物の代表的な肩書きを併記する場合で活動期間などを記述することが相応しくない場合は、『元』『前』を付けても構いません。
  2. 没後の場合:肩書(職業名・役職名)には『元』『前』を付けません。必要に応じて活動期間や在任期間などを記述してください。
--Penn Station 2009年3月1日 (日) 07:45 (UTC)[返信]
推奨に過ぎないとしてもガイドラインを根拠に書換を始める人が出てくることは十分によ予想されます。潮匡人の冒頭定義文・「元防衛庁広報誌編集長」(役職名)など、『元』を除けば理解しづらくなる例は多数あります。堂々めぐりですが、岡崎久彦も存命中なら『元外交官』の方がしっくり来ます。4文字で的確に表現できるものを、読者を一瞬でも混乱させ、多数の行を読ませることを強いるのは賢明な改訂とは思われません。
より百科事典らしい記述に改善する」という方針は、「社会通念上の肩書概念と乖離してよい」ということを意味するものではないでしょう。正当化としてやや無理があるように思われます。
「「元」「前」を付けなくても記述可能」と仰いますが、Baldandersさん(2009年1月27日 (火) 14:05 (UTC))、Tiyoringo さん(2009年1月27日 (火) 17:19 (UTC))と同様、私も存命中の人物の一部記事において冒頭定義文から『元』表記を外すことには違和感を覚えます。参議院議員や大学教授職など、没後の役職名についても『元』をつけた方が分かりやく、かつ長期間にわたって正確性が損なわれない例はすでに示しました。
【改定案(再対案)】
肩書(職業名・役職名)にはなるべく在任期間を明示したり「~~を歴任」「第X代○○」のように『元』『前』を使わない記述が推奨されます。引退時期や転職後の主な活動を併記するなど、読者が理解しやすいように記述してください。ただし、冒頭定義文や氏名と代表的肩書を併記する一覧表示において活動期間などを記述することが相応しくない場合は、
1.存命中の場合:(職業名・役職名)活動期間や在任期間が限られたり転職した場合で、その業界において『元』『前』をつけるのが妥当とされている場合は、『元』『前』を付けても構いません。
2.没後の場合:肩書(職業名)には『元』『前』を付けません。
(役職名)時間の経過とともに正確性を損なわれないことが明白でかつ必要な場合は『元』『前』を付けても構いません。
※職業名=歌手、政治家、作家、建築家、プロ野球選手など。役職名=○○会社社長、○○銀行頭取、○○研究所所長、○○バレエ団エトワールなど
再対案の骨子は、冒頭定義文でも可能とする、没後の役職名も場合を限定して可能とする、の2点です。-トトト 2009年3月1日 (日) 09:55 (UTC)[返信]
かなり議論が煮詰まってきていて、繰り返し反論するのも建設的ではありませんので、他の参加者の方の意見を待ちたいと思います。
「改定案(再対案)」に関する印象だけ述べておきますと、(1)「その業界において『元』『前』をつけるのが妥当とされている場合は、『元』『前』を付けても構いません。」…この箇所は条件がはっきりしません。「元」「前」を付けるのが妥当の業界、妥当でない業界、といった区別があるのでしょうか。ガイドラインを読む編集者が混乱しそうです。(2)没後の役職名に「元」が付くのは日本語的におかしいのではないかと感じます。野上進高柳先男の例でも敢えて「元」付きの役職名で説明する必要はないように思います。--Penn Station 2009年3月1日 (日) 10:46 (UTC)[返信]
1) 例えばバレエダンサーですとエトワールまでキャリアを全うしたら舞台に出なくなっても『元』をつけないのが通例です。雑誌ジャーナリズムの使用法などである程度の線引きは可能でしょう。評論家、芸術家もつけませんね。Wiki記事を見る限り、野球や相撲はつける方向で統一されているようです。官職も同様(田中均片山さつき町村信孝・元官僚)。この一文は、『元』がついている優良記事群を追認するのが狙いです。最初に原則をのべ、但書としてありますのでどうしても迷ったら原則に従えばよいし、論争になったらWikiプロジェクト毎に解決した方が良いのではないでしょうか。少なくとも、実情を検討せずに観念論的な条文いじりで優良記事群を(結果的に)破壊することは避けねばなりません。
2) 衆議院議員職ではつけていない記事もありましたので没後の議員職は微妙ですが、出井伸之の冒頭記事、父(故人)に関する記述=元早稲田大学教授。中村良夫、元ホンダF1の監督。『元』があった方が読みやすく、しっくりくる例です。日本語としても変ではありません。長期にわたり正確性が損なわれる恐れもありません。少なくとも目の敵にして排斥する理由はないでしょう。きちんと検証したわけではありませんが、新聞の追悼録にのる元・(役職名)は、死後20年程度は有効なのではないでしょうか。死んでもまだ完全に「歴史」の一部にはなっていないためだと思われます。冒頭で「なるべく使わない」としていますが、場合により問題ないということです。
こうした条文では、例外が生じることを考慮することが大切ではないでしょうか。杓子定規に理想論をふりかざせば社会常識から乖離した記事になってしまうばかりでなく、記事を作成した大勢の人の努力を無にしてしまいます。--トトト 2009年3月2日 (月) 07:47 (UTC)[返信]
PJ野球から参りましたチェンジオブベースです。議論の呼びかけがありましたので、簡単にではありますが個人的な印象を申し上げたいと思います。正直、議論の流れは掴みきれていませんので、重複するような内容や的外れな発言がありましたら申し訳ありません。
さて、確かに現状、引退した野球選手の記事の定義は「元プロ野球選手」がほとんどだと思います。ですが、Penn Stationさん提案の「○○は日本のプロ野球選手。YY年に引退。」という書き方や、みっちさん提案の「○○は日本のプロ野球選手、のち監督。」といった書き方にも、私自身違和感はありません(あくまで私個人の感覚で、PJ野球としてどういう認識かは把握していませんが)。では、どちらで記載すべきかという点についても、元をつけないのが百科事典らしい記述であるならば、スタイルマニュアルもそれに準じた形で、現在の議論の流れを踏まえて書き換えて構わないと思います(百科事典的かどうかというのは、ここで議論されている方々のほうがよほど詳しいと思いますので、私からは意見申し上げません)。要約すると、元を外す表記にも必ずしも反対しない、といったところでしょうか。議論進行に少しでもお力添えできれば幸いです。失礼しました。--チェンジオブベース 2009年3月2日 (月) 13:22 (UTC)[返信]

(インデント戻します)各国語版のWikipediaではどうなっているかをざっと調べてみました。結論からいうと、存命中の人物の冒頭表記で『元』が使用されている例は普通に見られます。以下有名人物も含まれています。
何が百科事典的であるかということは、昔の印刷された百科事典からだけでは結論できないように思います。『元』をつけることで読み手にとって簡潔・明瞭な記事になるならば、ある程度は構わないのではないでしょうか。

英語版

  • Michael Dukakis(政治家): former Governor of Massachusetts (元州知事)
  • Al Gore(環境運動家): former journalist.  (元ジャーナリスト)
  • Phil Simms: a former American football quarterback, (元クォーターバック)
  • José Canseco: a former outfielder (元外野手)

フランス語版

  • Ségolène Royal: Ancienne députée, ancienne ministre des gouvernements Bérégovoy et Jospin (元代議士、元閣僚)
  • Monique Pelletier: ancienne ministre et membre du conseil constitutionnel français. (元閣僚、憲法院委員)
  • Marie-José Perec: une ancienne athlète française. (元陸上選手)
  • Carin Jennings-Gabarra: une ancienne footballeuse américaine (元サッカー選手)
  • Perrine Pelen: une ancienne skieuse alpine française (元アルペンスキー選手)
  • Élodie Chérie: une ancienne actrice pornographique française. (元ポルノ女優)

ドイツ語版

  • Joschka Fischer: ein ehemaliger deutscher Politiker (元政治家)
  • Andreas Krautscheid: ehemaliger Bundestagsabgeordneter (元連邦議会議員)
  • Murad Wilfried Hofmann: ein deutscher Jurist und ehemaliger Diplomat (法学者・元外交官)
  • Michael Schumacher: ein ehemaliger deutscher Automobilrennfahrer. (元ドライバー)
  • Fritz Altmeyer: ein ehemaliger deutscher Fußballspieler (元サッカー選手)
  • Hans Appel(死後の場合): (* 8. Juni 1911 in Berlin; † 27. Juli[1] 1973) war ein deutscher Fußballspieler. (『元』つけず、過去形でサッカー選手)

--トトト 2009年3月3日 (火) 03:11 (UTC)[返信]

2016年8月10日以降の議論

  • Kyoyaku-25会話) というユーザーは、小池百合子などのページを通して「現職でないものには『元』表記を付けなければならない」と主張しているようです。「元」表記を強制するこのような主張について、上掲議論を踏まえた上で明確に反対の意を申し述べるとともに、その論理的正当性の欠如について簡単に言及しておきます。
まず、Wikipediaは百科事典であって、選挙公報でもなければ個人のホームページでもありません。Wikipedia‐ノート:スタイルマニュアル (人物伝) では、導入部について、人物の「活動」を記すことが求められていますが、現職者の肩書きでないものに「元」を記さなければならないとするなら、伊藤博文も「武士」「政治家」と表記しなければならなくなるはずです。「伊藤博文が故人であるから関係ない」などという主張もあるかもしれませんが、故人であっても(あるいは故人であるからこそ)伊藤博文が現職の「武士」「政治家」でないことに変わりはなく、伊藤博文を「元武士」「元政治家」と表記しないことに妥当性を認めておきながら「現職の肩書きでないものには『元』を記さなければならない」と判断することは、論理として成立しません。Kyoyaku-25会話) のようなユーザーさんには、少なくとも現時点で「『元』表記は必要ない」という前提が存在すること、そして、その前提を覆すような「自分ルール」の押し付けは不適切であることを理解しておいていただきたいものですね。--210.4.242.26 2016年8月10日 (水) 09:59 (UTC)[返信]
  • そこで提案というか確認です。こちらのスタイルマニュアルで全般的な合意形成がなされる(その必要性はさておき)までは、各人物の活動に「元」を付け加えるべきか否かは、各人物ページのノートで個別に議論することが適切であると考えます(もっとも、議題として上がらない場合がほとんどでしょうが)。スタイルマニュアルとして全般的な合意が形成されていない以上、ある人物の活動に「元」を付け加えるべきか否かで議論が生じ(てい)る場合には、各ノートで個別に合意形成を図るしかないでしょう。--210.4.242.26 2016年8月10日 (水) 10:09 (UTC)[返信]
返信 (210.4.242.26さん宛) 私は、210.4.242.26さんがすべての人物記事から「元」を除去すべきだと考えていると勘違いしていたのですが(なので記事のノートではなく別の場所で議論すべきと言う意味で「他のページを「反対意見なし」として処理しないで下さい」と述べました)、そうではなくて、人物によってつけるかどうかを個別に判断すべきだということですね。
私は、すべての人物記事において原則として現状維持することを提案します。先の提案の時点では、「現状」がいつかはあまり意識していませんでした。編集合戦が起きている場合、編集合戦が始まる直前の版を現状とし、まだ編集合戦が起きていない場合は最新版を現状とすればどうでしょう? 編集合戦が始まっていない状態で「元」を追加/除去し、それを起点に編集合戦が始まればその編集は取り消されます。「元」を追加/除去しても編集合戦にならなければ、それは皆が問題ないと考えているものとして取り消す必要はありません(それが原則としての意)。
もちろん、編集合戦が起こるかどうか試してみよ、というわけではありません。事前にノートに提起して、反対意見があれば編集すべきでありません。もし反対意見があればほぼ確実に編集合戦になりますから、実際にやってみるまでもありません。
ただし、このような規則をゴテゴテ作るよりも、「~を経て」とすれば良い気がしますが、どうでしょう? 210.4.242.26さんは小池百合子には問題提起していないので、これで万事解決ではないでしょうか。
また、私以外の様々な人の意見を聞くために、コメント依頼に出すという手もあるので、おすすめしておきます。
最後に、210.4.242.26さんが提起した議論をまとめておきます。記事に個別の議論は以下で行い、人物記事全般についてはここで行うことにしましょう。

--GodsGarden. [Talk|Contribution] 2016年8月10日 (水) 12:01 (UTC)[返信]

返信 (GodsGardenさん宛) ご意見ありがとうございます。「編集合戦が始まる直前の版」を「現状」とみなすべきということは、言い換えるならば、「編集合戦が生じる以前に定着していた版」を「現状」とみなすべきということになろうかと存じます(表記が「定着」していない状況を「編集合戦」と呼ぶのでしょうから)。編集合戦が生じた場合には版を保護した上でノートで議論を進めればよいのですから、その点については、私としては異論はございません。
〜を経て」というスタイルをすべてのページに当てはめるというのは、果たしていかがなものでしょうか。すでに「元」表記の「ある」ページと「ない」ページがWikipedia上では数多混在し、どのページに「元」が表記されているかなどといったことは把握すらされていません(それどころか把握が図られてすらいません)。編集合戦が生じたページについては「〜を経て」というスタイルを和解案として採用することも一案とは存じますが、「人物」に関する全ページに当てはめる規定としては望ましくないものと思われます。--210.4.242.26 2016年8月10日 (水) 15:57 (UTC)[返信]
〜を経て」というスタイルにすれば経歴を説明する文章として親切・適切であり、「推奨」の一つとしても問題ないでしょう。「元」表記のあるページないページの把握がこの議論のどう関係するのか不明です。--Kyoyaku-25会話2016年8月12日 (金) 22:08 (UTC)[返信]
「推奨」の趣旨が分かりません。一般的に「推奨」とは「〜にすべき」「〜であるのが望ましい」との意味を指すと存じますが、Kyoyaku-25さんは、活動の「元」表記について特に議論が浮上していない人物の記事においても「〜を経て」というスタイルに強制的に変更するべきだとお考えなのでしょうか。だとすれば、「元」表記の「あるページないページの把握」に関わりなく「手当たり次第」に各人物の記事を編集することが求められることになります。それとも、活動の「元」表記について議論が生じている場合にのみ、「〜を経て」というスタイルの採用をスタイルマニュアルとして「推奨」するべきだとお考えなのでしょうか。Kyoyaku-25さんの数百字程度の説明からはその趣旨がまったく掴めませんので、ぜひ具体的にご説明ください。--210.4.242.26 2016年8月13日 (土) 13:49 (UTC)[返信]
  • GodsGardenさんの、「〜を経て」というスタイルの推奨に賛同します。冒頭文で現職のように記載し、本文中でいついつまで勤めたというように書くと同じ記事内で矛盾が発生します。210.4.242.26さんは本文を読めばいいと主張しておりますが、そもそも、冒頭文に現職のように書くことは虚偽記載に当たりますので望ましくないものと思われます。編集合戦の回避につきましても賛同いたします。--Kyoyaku-25会話2016年8月12日 (金) 04:02 (UTC)[返信]
    • 2016年8月10日 (水) 12:01 時点のGodsGardenさんの主張からは、GodsGardenさんが「〜を経て」という表記を「推奨」化しようとしているのか「ルール」化しようとしているのかは判然としません。にもかかわらず、GodsGardenさんの主張を「推奨」化の試みと決めつけ、自らの決め付けに基づいて勝手に「賛同」することは慎むべきでしょう。また、仮に「〜を経て」という記述を推奨化するにしてもルール化するにしても、現時点では「〜を経て」という表記を採用していないページが圧倒的多数であることは間違いありません。Kyoyaku-25さんは、手当たり次第に、人物に関するすべてのページの記述を「〜を経て」という表記に改めることが望ましいとお考えなのでしょうか。
冒頭文で現職のように記載」「冒頭文に現職のように書くこと」の趣旨が分かりません。例えば、「ニュースキャスター」と記載されていれば「冒頭文で現職のように記載」することや「冒頭文に現職のように書くこと」に該当すると判断されますが、伊藤博文が「政治家」と書かれていなかったり、明石家さんまが「歌手」と記されていなかったりするからといって、「冒頭文に現職のように書くこと」に該当するとは考えられません。人物のページにおける「活動」の部位は「現在の肩書き」を記す欄ではなく、あくまでもその人物の「活動」を記載する部位なので、現職でないものに「」を付けなければならないと「推奨」したり「ルール」化したりすることは不適切でしょう。--210.4.242.26 2016年8月12日 (金) 07:42 (UTC)[返信]
  • 何度も説明申し上げたはずですが、「AはBである」これは現在形です。故人については存命人物と条件が大きく異なりますので例示として不適切ですね。これも何度も申し上げました。ただし、故人の記事で「人物の主な活動を記載する」との理由で「元」をつけないという考え方は一理あると思います。--Kyoyaku-25会話2016年8月12日 (金) 15:00 (UTC)[返信]
    • 故人の場合(例:伊藤博文の「政治家」)であろうが存命人物の場合(例:明石家さんまの「歌手」)であろうが「現職」でないことに変わりはないため、まったく説明になっていません。「条件が大きく異な」るというのであれば、まずはその「条件」の違いを提示した上で、なぜ「現職でないものには『元』を付けなければならない」というルールを故人には適用外とするかを説明する必要がありますが、Kyoyaku-25さんからは未だ説明されておりません。また、「人物の主な活動を記載する」のだから「元」は不要であると判断するならば、例えばタモリが「作詞家」「作曲家」、明石家さんまが「歌手」として「活動」したことは、伊藤博文が「政治家」として「活動」したことと同様に史実なので、やはり「現職でないものには『元』を付けなければならない」という従来の主張と齟齬を来します。これでは、Kyoyaku-25さんの主張はダブルスタンダードであると指摘されても致し方ないでしょう。--210.4.242.26 2016年8月12日 (金) 15:17 (UTC)[返信]
      • 故人と存命人物とで条件が異なることが分からないということに驚きを隠せません。いのちがある/ないという違いが理解できないのでしょうか?再三注意申し上げたのに未だに人身攻撃を繰り返されているようで残念です。--Kyoyaku-25会話2016年8月12日 (金) 22:03 (UTC)[返信]
        • 反論どころか回答になっていません。私が「故人」(いのちがない)と「存命人物」(いのちがある)の違いではなく、「現職でないものには『元』を付けなければならない」と主張するならば、なぜ「故人」の場合と「存命人物」の場合で対応が変化するのかとお尋ねしているのですよ。また、根拠もなく私が「人身攻撃」と繰り返し主張しているKyoyaku-25さんこそ、レッテル貼りという名の「人身攻撃」を繰り返していらっしゃるのではないでしょうか。Kyoyaku-25さんは「再三注意申し上げたのに未だに人身攻撃を繰り返されているようで」とも仰っていますが、そもそも私が「人身攻撃」をしてきたと主張しているのはKyoyaku-25さんのみです(現に私はそのことが理由でブロックされたこともございませんし、第三者に「人身攻撃」の過去を確認されたこともありません)。レッテル貼りや人身攻撃に終始するのはやめて、議題について誠実かつ冷静に対応してくださるよう要請します。--210.4.242.26 2016年8月13日 (土) 13:49 (UTC)[返信]
          • 最初に敬称もつけず「Kyoyaku-25(会話) というユーザーは・・・」と喧嘩腰に議論を始める方が「誠実かつ冷静に対応」といっても説得力は皆無ですよ。残念ですが。それに私は故人と存命人物で条件が異なると言っているのであって、対応が変化するとまでは判断していません。対応をどうするかは、コミュニティの判断に依るべきと思います。議論相手の文章を正しく読まれるよう要請します。--Kyoyaku-25会話2016年8月13日 (土) 15:03 (UTC)[返信]
            • 「ある時、ある文章に敬称が付けられていなかったことを未だに根に持っている」ということ以外に、Kyoyaku-25さんの記述している内容の趣旨がまったく分かりません。まさしく私は「故人と存命人物で条件が異なる」理由を再三にわたってお尋ねしているのですが、なぜ未だにお答えいただけないのでしょうか。また、まさしくこのノートでは「コミュニティの判断」が議論されているのですから、「コミュニティの判断に拠るべき」などという主張は意味を持ちません(ある議題についての結論を出すための会議で「会議の結論を結論とすべき」と主張したところで無意味なのと同様です)。--210.4.242.26 2016年8月13日 (土) 19:17 (UTC)[返信]
              • 伊藤博文を例に出すことは時代背景も制度も違うから存命人物と同等に扱うのは不適切であると再三再四申し上げたはずですが・・・。--Kyoyaku-25会話2016年8月13日 (土) 22:32 (UTC)[返信]
                • ですから、なぜ「時代背景も制度も違う」ことが、「現職でないものには『元』を付けなければならない」という主張の適用可否を「故人」の場合と「存命人物」の場合とで区別すべき理由となるのかを再三再四尋ねているのですが……。私は「故人」と「存命人物」の違いを尋ねているのではありませんよ。--210.4.242.26 2016年8月14日 (日) 03:41 (UTC)[返信]
                  • 区別すべきとは一言も申し上げておりません。条件が大きく違うと言っています。区別するかどうかはコミュニティの議論で決めるべき問題と思料します。前にも指摘しましたが、あなたは決めつけが酷過ぎます。これでは議論になりません。--Kyoyaku-25会話2016年8月14日 (日) 05:36 (UTC)[返信]
                    • 決めつけが酷過ぎます」などというレッテル貼りはおやめください。「コミュニティの議論で決めるべき問題」であることはここにいる誰もがあらかじめ理解している事柄なので(だからこそノートという議論の場が存在するのですよ)、そのような主張には恐縮ですが意味がありません。また、「故人」の場合と「存命人物」の場合とで異なる判断基準を採用すべき(「区別すべき」)と考えていないのであれば、そもそも論点が存在しません。「現職でないものには『元』を付けなければならない」というあなたの主張に従えば、やはり、明石家さんまを「歌手」と表記しなければならなくなるのと同様に、伊藤博文を「政治家」と表記しなければならないことになりますね(これに異論があるならば、再三再四申し上げている通り、あなたの主張の適用可否を「故人」の場合と「存命人物」の場合とで区別すべきとする理由を説明してください)。--210.4.242.26 2016年8月14日 (日) 08:15 (UTC)[返信]
                      • 区別すべきとは主張していないのに、さも主張しているように決めつけるのはおやめください。決してレッテル貼りではなく事実です。条件が大きく異なりますから、論点が存在しないことはありません。これを同様とされるのは理解に苦しみます。他の方の意見を待ちませんか?--Kyoyaku-25会話2016年8月14日 (日) 12:26 (UTC)[返信]
                        • Kyoyaku-25さんの主張はまったく理解に苦しみます。Kyoyaku-25さんは「区別すべき」だとは考えていないのですか。だとしたら、少なくとも現時点で「現職でないものには『元』を付けなければならないという『ルール』の適用可否を『故人』と『存命人物』とで区別すべき」と主張している人はどこにも存在しないため、「元」表記について「故人」と「存命人物」の違いは論点となり得ません(逆に、なぜ存在しない主張をめぐって議論が起こり得るのでしょうか)。Kyoyaku-25さんが「区別すべきとは主張していない」のであれば、仮に「現職でないものには『元』を付けなければならない」という「ルール」を採用した場合には、「故人の場合でも存命人物の場合でも現職でない『活動』には『元』を付けなければならない」という規定が自動的に適用されることになります。これ以外の論理的帰結はあり得ません。--210.4.242.26 2016年8月14日 (日) 17:42 (UTC)[返信]
                          • 理解に苦しむのはあなたが理解しようとしていないか、理解力が足りないせいでしょう。議論参加が少人数であるので、論点になり得ないという主張になりません。「規定が自動的に適用される」「これ以外の論理的帰結はあり得ません」というのはあなた個人の考えです。考え方が極端過ぎます。--Kyoyaku-25会話2016年8月14日 (日) 21:55 (UTC)[返信]
                            • まったく反論にも説明にもなっていません。Kyoyaku-25さんは「現職でないものには『元』を付けなければならない」という「ルール」の適用可否を「故人」の場合と「存命人物」の場合とで区別すべきだとは考えていないのですよね。だとすれば、誰からも提起されていない議題をめぐって議論することは不可能です(そのことは「議論参加」者の「人数」の多少の問題ではありません)。なお、「あなたが理解していないせい」などという決め付けや、「理解力が足りないせい」などという誹謗中傷はおやめください。--210.4.242.26 2016年8月15日 (月) 17:39 (UTC)[返信]
                              • 210.4.242.26は「おそらくは時計を読むことができない方だけであろうと存じます」という中傷をしていますがね。自分が中傷するのはいいけど、他人がするのはダメなんですね。ダブルスタンダードですな。210.4.242.26は理解力が無いんじゃなくて、自分の都合のいいように曲解する方なんじゃないですかね。--180.38.12.74 2016年8月16日 (火) 03:56 (UTC)[返信]
                                • まさにその「指摘」こそ、具体的な根拠を伴わない誹謗中傷以外の何物でもありませんよね。ちなみに私は、現在と過去の区別が付かない方は「おそらくは時計を読むことができない方だけであろうと存じます」と申し上げたのみであって(「時点Aの」よりも「時点Aの」のほうが過去であることは、「時計を読むことができ」る方なら誰でも理解できますよね)、特定の人物に対して「お前は時計は読めない馬鹿だな」などと中傷したわけではありません。「理解力」以前に改めて読解力を働かせていただければ、きっとそのことはお分かりになるかと存じます。また、私の人格への「指摘」をしたいだけなのであれば、スタイルマニュアルをめぐって特定の議題を論じているこのノートではなく、せめて私の利用者ページにて「指摘」をお願いしたいところです。ところで、このノートでは「おそらくは時計を読むことができない方だけであろうと存じます」という文章はその存在を確かめられないのですが、180.38.12.74さんはどうして私が他のページでそのように記述したことをご存知なのでしょうか。ご回答いただければ幸いです。--210.4.242.26 2016年8月16日 (火) 17:16 (UTC)[返信]
  • 報告210.4.242.26さんは再度一週間のブロックとなりました。私としましては、210.4.242.26さんの議論姿勢について大いに疑問を感じるので然るべき対応をすべきと考えております。--Kyoyaku-25会話2016年8月17日 (水) 20:09 (UTC)[返信]

人物伝の導入部の「例」に対しての提案。

現在の「2 導入部」の「「2.1 例」」は、同じく導入部の「2.3 生年月日・没年月日」が反映されてなく、2008年3月31日 (月) 23:02ののスタイルにするのはどうでしょうか?また、「例」の位置を、「2.1」から「2.6」にした方が、注意事項を読み飛ばす事無く、スタイルを提示する事ができるのではないでしょうか?--Resto1578 2008年4月7日 (月) 15:57 (UTC)リンクを修正・追加させていただきました--Dark Eyes 2008年4月12日 (土) 05:26 (UTC)[返信]

定義文の( )内が長くなり過ぎるのは、可読性の面からよろしくないと思います。また現代日本の人物の例に和暦を併記するかどうかについて、両例を挙げていた元の例示の方が適切であると思います。「2.3 生年月日・没年月日」で グレゴリオ暦かユリウス暦かを明記することが望ましい とされているのは グレゴリオ暦とユリウス暦との境界をまたいで生存していた人物 のみですので、反映するとしても徳川家康の例にのみグレゴリオ暦とユリウス暦の字句を追加するのが適切でしょう(英語版では記事ごとにいちいち "Julian calendar" とか書かれてはいないようなので明記の必要性も疑問ですが)。またこの問題について変更するならば、生没年月日に限らず年月日の表記について、スタイルマニュアルなどでの全体的な議論が望ましい気もします。例の節にあれこれ説明文を書いたり例の位置を変えたりする事については、(好みの問題でしょうが)元の方が理解しやすく感じます。--Dark Eyes 2008年4月12日 (土) 05:26 (UTC)[返信]

一つの項目に複数人物の伝記がある場合のスタイルマニュアルとの整合性について

具体的には「茶屋四郎次郎」という項目で起こっている話ですが、代々当主で同じ名前を名乗っているため一つの項目の下に複数の人物の伝記が箇条書きで書かれています。この箇所について、利用者:Noir氏によってHelp:箇条書きルールに則り箇条書きの体裁が何回か変更されているのですが(→12)、「;」を使った箇条書きの場合、その項目全体が太字になってしまい、Wikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)#導入部

  • 最初に記載する名前のみ太字
  • 読み仮名、生年月日は標準体

というルールに反しています。こういう場合、どちらのルールを優先すべきでしょうか。それとも全く別の書き方を適用するべきなのでしょうか。判断できないため、ご意見をよろしくお願いします。--こぶまき 2008年9月26日 (金) 06:02 (UTC)[返信]

実名と世間で普及している俗称や別名が違う場合についての扱い

16番目の話題とちょっと被るのですが、現在「立花道雪」などのノートでどうするべきか悩んでいるのですが、実際に史上で扱われていたり、名乗っていた名前より、後世に別のメディア展開や伝聞などで実際には名乗っていない名前や、創作されて普及した呼称が有名になってしまった人物の項目のタイトルを「史実に忠実」にするべきか「世間で有名なもの」を優先するべきか、御意見を伺いたいです。複数の名前・呼称が実際にある人物(改名を繰り返した人物)などは、一番世間で著名である呼び名で構わないと思うのですが、実際に本人はそのように名乗ってはいないにも関わらず、後世に世間の人が講談などで付け足し・改名したり、間違って伝わった呼称が定着してしまったケースについて、どう扱うべきでしょうか?現在のところ、その辺の定義が曖昧で、「メジャーでなくとも史実に沿った名前」にされているケースと、「史実ではないが、世間で普及している名前」にされているケースが分かれていると思います。この辺の扱いはどうしたらいいのでしょうか?--ポテンシャル0 2008年10月15日 (水) 14:05 (UTC)[返信]

結論から申し上げますと、決着が付いていない問題です。上の「実際の姓名より、名前+官職名の方が有名な人物についての取り扱い」でも、またそれ以前から(Wikipedia‐ノート:スタイルマニュアル (人物伝)/archive 03#問題提起しろと言われたのでノート:高山右近など)話題にされてはおりますが決定打となる方針は出ておりません。ただ、現状の流れとしましては、通常政治的な人物に関しては「苗字+諱」、文化的な人物は「苗字+号」、諱が不明或いは複数説あって決め手がない場合は「苗字+通称」、その他ケース・バイ・ケースという「雰囲気」で運用されているように思います。例外は明治維新期の人物ですが(例:坂本龍馬高杉晋作など。高杉晋作に至っては諱からのリダイレクトすらない)これは同時期に活躍した明治まで生きた人たちが通称を戸籍名にしている場合があることからも、ある程度はしょうがないと思います。「立花道雪」に関しては、ノート:真田信繁ノート:真田幸村も参考にしてみて下さい。--ろう(Law soma) D C 2009年1月28日 (水) 03:47 (UTC)[返信]

英語読みが広く使われている非英語圏の人物について

ややこしい質問で恐縮ですが、「非英語圏出身で、英語圏で著名な活動をし、その後祖国に戻った人物」の記事名で悩んでいます。Ivan Kralというチェコ(当時チェコスロバキア)出身のミュージシャンがいますが、彼はアメリカで著名な活動(パティ・スミスのバック・バンド等)をした後、チェコに戻りました。原語を尊重するなら「イヴァン・クラール」または「イワン・クラール」なのでしょうが、アメリカでの活動が長かったこともあり、日本語の各種ウェブサイトや活字資料(パティ・スミスの日本盤CDライナー等)では「アイヴァン・クラール」表記の方が圧倒的に多いという現状で、クラール氏の個人名義の作品が日本のレコード・レーベルから発売されていないこともあり、どちらを記事名とすべきか迷っています。知恵を拝借できればと思います。--Ikespirit 2009年3月22日 (日) 09:17 (UTC)[返信]

日本語版ウィキペディアでは、日本語話者にとって最もよく知られた名称・表記(今回の場合は英語的発音に基づく表記)で立項するのが適切かと思いますが、その他にも知られた名称や表記がある場合は、それらについてはリダイレクトを作成すればなおよいのではないでしょうか。--Horlicks 2009年3月22日 (日) 10:13 (UTC)[返信]
ありがとうございます。とりあえず今回は、「最も広く使われている日本語表記」ということでアイヴァン・クラールとして作成しました。--Ikespirit 2009年3月23日 (月) 08:12 (UTC)[返信]

肖像のリンクについて

日本のウィキの場合、肖像については権利を厳格に適用して、人物画像をアップしにくい状況にありますが、その分、画像のリンクを設定することは前向きに認められてしかるべきと考えますがいかがでしょうか。--天気予報 2009年5月20日 (水) 11:19 (UTC)[返信]

議論の告知

Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 人物伝#性別の記述において人物伝において性別の表記はどうあるべきかについて議論しております。職業によって性別が必要か不要かを決めるのはWikipedia:中立的な観点に反すると考えて問題提起しました。皆さん、議論に参加してください。なお参考までにかつてこのテーマで議論されていたWikipedia‐ノート:スタイルマニュアル (人物伝)/archive 03Wikipedia:井戸端/subj/職業と性別の書き方及びWikipedia:井戸端/subj/声優の性別についても参照して下さい(但し、いずれのページでも結論は出ていません)。--コバルトブルーとターコイズブルー 2009年7月26日 (日) 14:58 (UTC)[返信]

「日本の」は不要だと思います

  • ここでいいのかどうか分かりませんが、日本人の記述にいちいち「日本の」とつけるのは不要でしょう。西洋諸国の場合、アルファベットだし、複数国を移動する人も多いので、「オーストリアの」などと書いてあるのであり、日本語で明らかに日本人らしい人名の場合、「日本の」をいちいちつけるのは醜悪ですらあると思います。--以上の署名のないコメントは、121.92.81.252会話/Whois)さんが 2011-09-28T19:38:44 に投稿したものです(Horlicksによる付記)。
それについてはちゃんとした理由があります。「Wikipedia:日本中心にならないように」と「Wikipedia:中立的な観点」をまずご覧ください。個人的な好みでいえば、私自身も文章的にあまり美しくないなぁとは思うのですが、百科事典的な観点で必要なことだと理解していただければと思います。また、これに関連して過去にこのような議論もありましたのでご参考まで。「Wikipedia:井戸端/subj/日本POV・現代POVはダメなのよ」--Horlicks 2011年9月28日 (水) 15:14 (UTC)[返信]
コメント「日本の」が必要なんですが、「日本」をウィキリンクすべきではないものだと思う。国名等は記事に重要ではない場合には、リンクすべきでないものにより、単なる日本語の単語をリンクすべきではないし、英語版のWP:OVERLINKにより、「the names of major geographic features and locations; languages; religions; common occupations; and pre- and post-nominals」等もリンクすべきではないものだと思う。-Marchjuly会話2014年2月24日 (月) 05:10 (UTC)[返信]
コメント Category:大相撲力士のような存在に対して、外国人力士もおりますが、日本の大相撲力士とするのは不適切であると思います。○○県出身の大相撲力士、モンゴル出身の大相撲力士といった表現で十分でしょう。日本の俳優といった表現があった場合、日本を代表するような俳優である印象を受けるので、個人的には出身都道府県がわかっている場合は、東京都出身の俳優といった方が良いように思います。ただ大相撲力士などと異なり、出身都道府県が本人にとってそれほど重要なものではないケースが多そうですが。--Tiyoringo会話2014年2月25日 (火) 11:11 (UTC)[返信]
返信 (Tiyoringoさん宛) ご回答ありがとうございます。ご説明のとおり、「日本の」は必要だと思いますが、「日本の」は必要ではいないと思う。しかし、私はまだウィキペディアの初心者なので分からないことが多く、毎日勉強になります。 感謝- Marchjuly会話2014年2月25日 (火) 12:20 (UTC)[返信]

親族に関する記述について

人物記事において、「関連項目」や「親族」などの項目で親戚の名前が記載されていますが、どこまでの範囲を含むかといった基準はこれまでにどこかで決まっているのでしょうか?

例えば松岡陽子マックレイン親族の項など、夏目家の人物記事では従姪孫などまでが記載されていますが、個人的には過剰な羅列になっているのではないかと感じております。仮に同等の範囲まで他の記事で記載すると、王族皇族の人物記事などで膨大なリストが各記事に生じるのではないでしょうか?また、近藤廉平などのように子の配偶者の親を書いている例についても、同様に感じております。

もちろん、両親や兄弟、配偶者などについては(独立した項の有無に関わらず)記載する蓋然性があると思います。以上について、どなたか過去の議論の場所やご見解をお教え頂ければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。--Okapia2 2012年2月6日 (月) 06:17 (UTC)[返信]

日本人のケースと外国人のケースなどでも少し異なるように思いますが、基本的には二親等ぐらいまでで十分なのではないでしょうか。政治家などで、おじ、おいなどの後継者となっているケースなどの記述は必要でしょうけれども。たとえ事実だとしても、信頼できる情報源で、その人物を説明する際に説明として用いられる常識的範囲以上に羅列する必要はないように思います。--Tiyoringo 2012年2月6日 (月) 06:50 (UTC)[返信]
Tiyoringoさん、ご意見を頂きましてありがとうございました。おっしゃるような目安は私も妥当だと思います。引き続き(取り合えず2ヶ月程度)ご意見などをお待ちしておりますので、他の方々もよろしくお願いいたします。--Okapia2 2012年2月8日 (水) 14:16 (UTC)[返信]
ちょっと補足しておきます。日本人と外国人のケースについて書いたのは、日本人の場合や日本在住の場合、特にプライバシーに注意する必要からです。--Tiyoringo 2012年2月8日 (水) 14:50 (UTC)[返信]

性別の表記

導入部に「性別」を表記することを促すよう提案します。日本語話者であれば、記事名などの氏名からご本人の性別を類推することで記事を読むのにそれほど不便は感じないのでしょうが、日本語版から他言語版への翻訳時や日本語初学者が日本語版の記事を読む場合には困難が予想されます。また、日本語の氏名であっても男女共に用いられる名前や、アーティスト名などでは性別が判断できないものも多くあります。記事内に婚姻状況や出産といった情報があれば性別が判断できるの場合があるのですが、常にそのような記述があるわけではありませんし、記事を全て読み終えても性別すら不明な時の落胆は(私には)大きいものです。特に学者や公務員などでは、記事内の外部リンクや他のWebページなどを検索しても、性別や顔写真などが見当たらないこともよくあります。生年の表記から年齢は明らかなのですから、Wikipediaへの記載が妥当な特筆性を有する人物の性別が秘匿すべき個人情報ではないと考えます。おそらく本ガイドラインも英語版からの翻訳によって作成されたのでしょうが、英語では"He"や"She"が文章中に用いられるために特段の性別表記を求める必要は無かったのに対して、日本語では本文中でも氏名や役職名だけで主語を形成して「彼」や「彼女」はあまり用いられないようであり、他言語版との言語的な差異として本ガイドライン上に加える必要があると考えます。一般的な事典類でも性別の表記が成されていないものがあるので気になりますが、性別を記載することで性差別を助長するという考えや性別の表記は文化的ではないといった判断があったのでしょうか?

具体的な提案としては「2.人物の生年月日…」の最後に「、(名前から判断できない場合は)性別」を加えておき、それに続く「生年月日・没年月日」節の節名を「生年月日・没年月日・性別」節に変えて、その末尾に「記事本文でご本人の性別に関する記述がない場合は、可能な限り導入部で性別を明示するようにしてください」とします。また、私見ながら、「例」の中の「シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール」と「斉明天皇」は、没年の後に「、男性」と「、女性」をそれぞれ加えるのも良いかと考えます。

名前から判断するのはあいまいなので、性別表記は付けるなら付ける/付けないなら全て付けないようにすべきだ……とか、導入部は簡潔であらねばならず男性や女性といった語句は導入部の最初には加えずに本文中で明示することのみ推奨すべきだ……といった多様なご意見があろうかと思います。皆様のお考えをお聞かせ下さい。--Shigeru23 2012年2月9日 (木) 21:08 (UTC)[返信]

過去の議論についてはWikipedia‐ノート:スタイルマニュアル (人物伝)/archive 03#男性か女性かをご参照願います。Shigeru23さんの提案に関しては、私は反対です。「可能な限り導入部で性別を明示する」という部分が強制力を発揮して、延々と性別を付ける作業を繰り返す利用者の登場が心配だからです。--Shinya1739会話2012年7月22日 (日) 16:55 (UTC)[返信]
昔から何度も議論になった話ですね。しかし、この議論に入る前に、記事「性別」をご一読いただくべきかと思います。性別は「男性」と「女性」で完全に2分できるものではないのです。性染色体による性別、肉体的特徴による性別、戸籍上の性別、性自認による性別、社会生活上の性別、その他さまざまなものがあり、すべての人がすべてにおいて男女どちらかの性に統一されているとは限りません。また、男女に区分することが難しい性別のあり方も存在します。そういったことを踏まえると、人物の記事において、各個人ごとに「男性」「女性」のいずれか一方のみを必ず記述する、ということは、その人物の説明として不適切である場合もあり得る、ということを考えなければなりません。著名なところでは、たとえば椿姫彩菜さん、はるな愛さん、中村中さんなどを考えていただければわかるかと思います。--Horlicks会話2012年7月23日 (月) 18:00 (UTC)[返信]
その話題は脇道だと思います。一意に決まらない人物が存在するということでは生没年もそうだし、読みですらそうです。肩書きももちろんそうです。だからといってこれらを冒頭部に書くべきでないかというとそんなことはないはずです。ここでは、ほぼ問題なく一意に決まる場合においてどうするかということだと思います。いずれか一方のみを記述すると不適切な場合は適切な記述をすればよいだけです。--КОЛЯ 会話 2012年7月23日 (月) 19:05 (UTC)[返信]
脇道ということはありません。そもそも「性別とは何か」ということを正しく理解し、それを踏まえたうえでなければ「性別を記載するべきかどうか」を論じることはできません。『だからといってこれらを冒頭部に書くべきでないかというとそんなことはないはずです』とのことですが、私はそんな主張をしているわけではありませんので、早とちりしないで、趣旨をちゃんとお読みいただきたいと思います。「性別」の定義そのものが「ある個人において男性または女性のいずれか」といえるものではない、という理解を踏まえる必要がある、ということです。ある人物の性別を、だれが、どのような基準で確定するのか、それじたいが曖昧なのです、という指摘です。これはGIDに限らず、あらゆる人に当てはまる話なので、「GIDは例外だからそれは脇に置いておけ」で済む話ではないのです。--Horlicks会話2012年7月24日 (火) 14:13 (UTC)[返信]
お答えします。「あらゆる人に当てはまる話」とのことですが、前回明らかにそのような主張はされていませんね。もしそういう原理的な主張なのであれば「また、男女に区分することが難しい」以下の記述は全く余計です。しかし仮にそういうお話だとしましょうか。するとやはりそういう「そもそも論」は執筆上の議論として益がないと言わざるを得ません。あらゆる言語表現に「そもそも」統一できない要素があるからです。--КОЛЯ 会話 2012年7月24日 (火) 15:35 (UTC)[返信]
お答えを求めた覚えはないです。『前回明らかにそのような主張はされていませんね』いいえ。明確に『性別は「男性」と「女性」で完全に2分できるものではないのです。』と一番最初から書いています。主張していないのではなく、あなたがそう読み取らなかった、というだけではないかと思います。『以下の記述は全く余計です。』何に対して「余計」なのでしょうか?「そのようなことは書かなくともだれでも理解できることだから書く必要がない」という意味でしょうか?「同じことの繰り返しだから冗長であり無駄」という意味でしょうか?どちらも違うような気がします。もし「私を納得させる情報ではない」という意味なら、それはすでに指摘した通り、あなたの読み取りに誤りがあったためですので、正しく読み取っていただければ「余計」ではないと思います。
もう一度言いますが、だれかが「男性」「女性」という記述をするからには、検証可能性のある客観的な情報として「男性」「女性」といえる必要があり、基準が必要になります。その基準は何でしょうか?染色体でしょうか?では歴史上の人物の染色体の情報を検証可能な方法で示すことができますでしょうか?戸籍でしょうか?戸籍がない地域や時代の人はどうなるのでしょうか?他人がどう認識したか、でしょうか?では性自認は性別に影響しないことになりますね。そういうことを考えていくと、「この人は男性」「この人は女性」と全員に書くようにすべき、というのは簡単に行かない問題ということがわかると思います。だれがどういう基準で性別を決めるのか、独自研究にならない、検証可能性が担保された方法があるなら別なのですが。前回の議論でも言われていることですが「すべてに記述すべき」の反対は「すべて記述すべきではない」ではないので、記述する必要があって、検証可能性が担保されるなら記述してよいでしょうけど、すべてに、ということになるとそれでは済まない問題がいろいろ出てきますよ、そういうことも考えないといけないでしょう、と、視点・観点を提供しているわけで、「そんなのは反対の理由にならん」みたいな反応をされるのはたいへん心外です。--Horlicks会話2012年7月25日 (水) 12:10 (UTC)[返信]
心外でしょうが、仕方がありません。まさか「検証可能な客観的情報は存在しない」と主張されたいわけではないでしょう。もしそうだとしたら、あらゆる記事のあらゆる情報に、そんな「客観的情報」など存在しないことになってしまいます。--КОЛЯ 会話 2012年7月25日 (水) 14:17 (UTC)[返信]
コメント 導入部に書く方式は避けた方がよいと思います。理由は導入部は簡潔な方がよいこと、文章上の冗長表現を避けたいこと(例:○○は日本の女性の小説家)からです。また、本文中においても基本的に義務乃至推奨の形にはしない方がよいと思います。理由としては、グレーゾーンの方々の表記が難しいことなどが挙げられます。性別があった方がよい場合には、(支障がなければ)自然な形で本文中で書けばよいとも思いますが、少なくとも強制力は持たせない方がよいのではないでしょうか。人称代名詞の性別がない言語の場合、自然な形で書くのは難しいかもしれませんが、それは「○○は××の長男として出生」などと書けばよいだけだと思います。--ろう(Law soma) D C 2012年7月24日 (火) 02:54 (UTC)[返信]
コメント 私もろう(Law soma)さんの意見に賛成です。特に声優の記事は導入部が「○○は日本の男性声優」「○○は日本の女性声優」となっている記事が多く、正直うざいとしか思えません。私は「声ヲタは性別を導入部に記入しないとその声優の性別が判らない位頭が悪いのか?」とさえ思います。政治家や学者の記事から性別を除去しているユーザーも数名いますが、そのユーザーたちも声優の記事については放置しているようです。この件についてはWikipedia‐ノート:スタイルマニュアル (人物伝)/archive 03Wikipedia:井戸端/subj/職業と性別の書き方Wikipedia:井戸端/subj/声優の性別についてプロジェクト‐ノート:人物伝#性別の記述等でも議論されていますので(但しいずれの議論も結論は出ておりません)、この議論を提案されたShigeru23さんは参考までに上にリンクを貼った4つの議論をお読みになるのもよいかと思います。--116.80.59.221 2013年5月15日 (水) 15:43 (UTC)[返信]

年譜形式の経歴を非推奨と明記する提案

プロジェクト:作家で同様の提案を以前行ったのですが、年譜(のみ)の伝記的記述を推奨しない点を明記することを提案します。具体的には、表ページに「本文」くらいの節を設けて

人物の伝記は流れのあるまとまった文章で執筆してください。年譜形式は推奨されません。ただし、学歴・職歴や受賞歴を別途まとめる場合や、伝記本文とは別に簡便な年表を設けることは否定されていません。その場合も年譜のほうが記事の主体とならないようにしてください。

というような文をおきます。

また伝記部分が年譜になっている記事に修正を促すテンプレートの作成を考えています。--頭痛会話2013年2月17日 (日) 18:27 (UTC)[返信]

コメント 提案自体には賛成なのですが、テンプレートはどのようなものを考えていますか?単に貼られたらマークアップだけを止めれば良いというようなタグであれば作成する意味はない気がします。問題は年譜形式だと文章が簡素になりすぎて伝記としては情報が不十分になることでしょうから、伝記本文が不十分であることを強調できた方が良いかと思います。--半保護用会話2013年2月19日 (火) 11:15 (UTC)[返信]
年譜形式であるかどうかなので、箇条書きのマークアップを使っているかどうかは関係ありません。その点はテンプレートの説明文に書こうと考えていました。テンプレートの本文は
年譜形式の経歴は推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。
くらいのものを考えています。私は年譜の問題はどちらかといえば「雑多な内容の箇条書き」と同じで瑣末な事柄まで詰め込めてしまうことにあると思います。内容が不十分なものは単に節スタブでも貼れば済むことなので。--頭痛会話2013年2月20日 (水) 20:01 (UTC)[返信]
コメント 確かに{{節スタブ}}と併用すれば伝記部分が不足している記事にも応用できそうですので、賛成します。--半保護用会話2013年2月21日 (木) 10:23 (UTC)[返信]

コメント 賛成です。そもそもが、事典の記事にもかかわらず内容が年表/年譜というのは、かなり問題です。なかには、「見やすいから」という理由で、文章形式をわざわざ年譜形式に書き換えてしまう輩もいて、困ってしまいますorz。ある意味「常識」なのですが、悲しいかな、やはり明文化しないとダメみたいですね。--Ashtray (talk) 2013年2月21日 (木) 12:55 (UTC)[返信]

コメント 本来百科事典の形式としての常識であると思う点も含め、Ashtrayさんと全く同意見です。--ろう(Law soma) 2013年2月21日 (木) 23:57 (UTC)[返信]

コメント 基本的に文章とするべきというのは同意します。一方、発展段階の記事では、加筆がしやすく、情報源との対応付けもやりやすいという面があるとも思います。それを最終的に整理して、記事の体裁にする。そうした手法を明文で認めると、記述を冗長にしたり、好ましくない編集を助長したりしてしまう可能性があるとは思います。しかし、たとえば、年譜の部分をただ単に除去してしまったり、ほとんどが年譜のみだからといって削除依頼を出してしまったり、あるいは、そうした加筆をする人に、厳しすぎる対応をしたりということは、この修正が意図するものではないということは、この議論の中で確認しておいて欲しいと思いました。--Ks aka 98会話2013年2月22日 (金) 12:47 (UTC)[返信]

基本的にはWikipedia:雑多な内容を箇条書きした節を避けると同じことだと思います。年譜形式だからと言って除去や削除を求めるものではない、ということは上の文章に付け加えておいたほうがよさそうですね。--頭痛会話2013年2月24日 (日) 23:08 (UTC)[返信]

本文に反映させました[3]。同時にTemplate:年譜のみの経歴を作りました。なにか修正すべきところがありましたらご意見をお願いします。特になければテンプレートはこのまま使い始めるつもりです。--頭痛会話2013年3月2日 (土) 16:11 (UTC)[返信]

敬称「Sir」について、問題を孕む記述の除去を提案します

敬称の扱いについての例示には、「人物が敬称で呼ばれる場合は第1段落中で紹介するべきです。ただし、あくまで紹介にとどめて、本文を敬称で書かないようにしてください。 例えば:」という記述に続けて、

  • Sir(卿またはサー)- チャーチル卿

が挙げられています。これにはいくつかの疑問があります。

もし、「Sir」の例を残したいのであれば、例えば次のようにすべきでしょう。

  • Sir(サー)- サー・ポール・マッカートニー

「卿」の例を残したいのであれば、

などとすべきではないかと思います。

とりあえず、誤解を生じる虞れが大きいと考えますので、要検証範囲をつけた部分の除去について提案し、ご意見をうかがいたいと思います。特にご異論がなければ、1週間程度で要検証範囲箇所を除去します。その後、どのような記述を残すべきかについては、別途議論していただければよろしいものと考えております。--山田晴通会話2014年11月18日 (火) 08:26 (UTC)[返信]

特にご意見がないまま10日以上が経過しましたので、要検証範囲を付した部分を除去しました。--山田晴通会話2014年11月29日 (土) 06:01 (UTC)[返信]

概要節について

私が記事を書くとき、結構悩むのが概要節の扱いです。特に人物伝はこれまであまり手がけてきていないので、概要節を入れるべきなのかどうか悩みます。現在手がけている記事の完成が見えてきたこともあり、概要節の必要性について皆様のご意見を伺えればと思います。私の個人的意見としては、概要節の必要性はさほど高くないのではと考えています。人物伝では冒頭部の説明と概要節とが被ってしまう部分が大きく、例えば英語版の長大な人物伝を見ても特に概要節は記載されていないようです。皆様のご意見をお聞かせいただければと思います。--のりまき会話2015年8月2日 (日) 09:39 (UTC)[返信]

Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)#「概要」節を作る場合に書かれていますように、概要節は「特に長大な記事の場合に作ることが認められている」だけであって、長大な記事であっても必ず作らなければならないということは全くありません。ほとんどの場合は導入部に十分な情報が書かれていればそれでよく、概要節が必要になるようなケースはほとんど無いと思います。--重陽会話2015年8月2日 (日) 22:30 (UTC)[返信]
重陽さんどうもありがとうございました。ご連絡が少々遅れて失礼しました。現在執筆中の記事については、一応冒頭部分で人物についての概略説明を行い、概要節は設けない方法で書いてみようかと思います。--のりまき会話2015年8月8日 (土) 04:50 (UTC)[返信]

冒頭の重複記述の改善提案

2006年4月14日18:35より、ガイドラインテンプレートが貼られ、もう9年半も、守るべきという二重の説明となっています。ガイドラインの書き方であるWikipedia:方針とガイドライン#内容は、2011年に追加されていますが、他のガイドラインとの重複を避けるように言っています。ですので、重複した文章で多く占めるのではなく、本来の説明で使った方が分かりやすいということです。また導入部のガイドラインを反映するということがあります。修正範囲は、ガイドラインのテンプレート以降、項目名の節までです。以下修正案です。

人物についての記事のスタイルマニュアルです。導入部の第1段落にて、名前、生没日時、国籍や地域、主な活動によって人物を定義し、別名を紹介し、実際の主な活躍によって特筆性も定めます。続いて導入部では、記事本文の重要な側面を要約し、小さな百科事典の記事とすることで、その人物への興味をそそるようにします。冒頭での敬称の紹介を除いて、敬称は用いません。記事本文は、通常は年譜形式ではなく、まとまった文章による執筆が推奨されています。

Wikipedia:存命人物の伝記の方針にも気をつけ、特に否定的な情報の記述は、信頼性の高い参考資料を必要とします。

記事名(ここは実際には節です)
Wikipedia:記事名の付け方を参考にします。未執筆の赤リンクの表記についても同様です。

--タバコはマーダー会話2015年10月12日 (月) 21:53 (UTC)[返信]

反映しました。ついでに「本文」の語を、適宜修正しました。--タバコはマーダー会話2015年10月20日 (火) 21:25 (UTC)[返信]

過剰な例の減量

小泉 純一郎の例は、固有名詞であるにもかかわらず、定義しかなく漠然としており、何をなして知られているのかが分からないため例として不適切です。例示されている基準の「人物の主な活動(政治家・作家・学者など)」は満たしているが、「人物がどうして重要か(主な活躍を記載する)」を満たしていません。例が多いとは思っていましたので、異論がなければ、1週間後に削除します。--タバコはマーダー会話2015年11月11日 (水) 07:40 (UTC)[返信]

反映しました。--タバコはマーダー会話2015年11月18日 (水) 09:07 (UTC)[返信]

第1段落以降という節の追加

「導入部」節に、以下を追加します。人物伝に辞書の定義のような導入部もまだ多く、本文書でも第1段落以降について触れていないので誤解が生じて仕方がないかと思われるためです。

第1段落以降には記事の要約を

続いて最初の節が始まるまでに、記事本文の重要な側面を要約し、それ自体が小さな百科事典の記事となるようにします。知りたいことが書いてあるかどうかを簡単に判別できるようにし、またその人物への興味をそそるようにします。百科事典の導入部は、辞書の定義以上のものとなります。

異論がなければ1週間後に追加します。--タバコはマーダー会話2016年2月2日 (火) 15:34 (UTC)[返信]

反映しました。--タバコはマーダー会話2016年2月10日 (水) 14:41 (UTC)[返信]

日本史における導入部の生没年月日について

上の#武士テンプレート使用記事の定義部生没年月日記述についてと内容的には同じ話ですが、あらためて提起しておいたほうがいいかと思いまして。

昨日木下俊忠について、こちらのスタイルマニュアルを確認した上で冒頭の部分に生没年月日を追記したところ、別の方に差し戻されてしまいました。で、改めて確認したところTemplate:基礎情報 武士で「このテンプレートを適用した記事本文の書き出しは、Wikipedia:スタイルマニュアル (人物伝)とは異なる書式になります。生没年や別名といった基礎情報は、表の方へ移し、重複記載しません。端的に、どのような業績を歴史に残した人物なのかについての説明から始めます。

  • テンプレートを使わない場合の例 (スタイルマニュアル準拠)
徳川 家康(とくがわ いえやす、天文11年12月26日(1543年1月31日) - 元和2年4月17日(1616年6月1日))は、日本の戦国・安土桃山時代の武将。江戸幕府の初代征夷大将軍として、幕府を長期安定政権とする基礎をつくった。
  • テンプレートを使用した場合の例
徳川 家康(とくがわ いえやす)は、江戸幕府の初代征夷大将軍として、幕府を長期安定政権とする基礎をつくった人物。」と両方が説明されています。

一方スタイルマニュアルでは「第1段落には次のことを記載すべきです。

  • 人物の生年月日と(死亡していれば)没年月日」
  • 徳川 家康(とくがわ いえやす、天文11年12月26日(1543年1月31日) - 元和2年4月17日(1616年6月1日))は、日本の戦国・安土桃山時代の武将。江戸幕府の初代征夷大将軍として、幕府を長期安定政権とする基礎をつくった。」となっており、こちらはテンプレートへの言及がない(他にTemplate:基礎情報 公家(例:藤原道長)でも同様)ため、誤解する人が出る可能性があります(恥ずかしながら自分もその一人)しかし、一方で同じ日本史でもTemplate:基礎情報 天皇(例:斉明天皇)などは冒頭で生没年が記載されているので「日本史」として統一されているともいえないようです。

これらについて、こちらの説明を変更するのか、それともあちら(プロジェクト:日本史)にボールを投げるのか、どちらにせよ矛盾のないように変更した方がいいと思うのですが、いかがでしょう。個人的には冒頭で記載されている方が人物伝として統一できてよいと思うのですが、あちらで合意ができていれば難しく、出来てもテンプレート内に「冒頭へ重複して記述しないでください」と追記してもらうくらいでしょうか。--Mercurius会話2016年3月22日 (火) 17:30 (UTC)[返信]

コメント 編集を戻したのは私ですが、私個人は重複ルールにはさほどこだわってませんが、しかし日本史の記述をされている方の何人がテンプレートのルール通りにするように希望されていて、私のものも変更されています。そもそも初版で書いていたのは私です。Mercurius氏の記述は、括弧の使い方も間違っていたので、松茸氏がわざわざ訂正されたものを、あえて間違ったまま放置することもできず、リバートしました。私は重複云々よりも、テンプレートがある場合、左右のバランスが極端に悪い記事を気にするので、左の記述が極端に少ない場合は、生年記述を残しておくことをしています。ルールに則って重複を削除されるのはそれはそれでしょうがないです。--Quark Logo会話2016年3月29日 (火) 10:14 (UTC)[返信]
返信 年号については確かにこちらの編集が間違っていたようで、その点はこちらに非があります。
ただ、私が問題にしているのは「編集に文句がある」と言う事ではなく「どちらかのスタイルに従えばいいのか分かり辛いので改善すべきではないか?」と言う事ですね。現状、どっちに従えばいいのか分かり辛いので。個人的にはテンプレートと冒頭の両方にあって良いと思っていますが、どちらか選べと言われたら程度なのでそれほど強い意見ではありません。--Mercurius会話2016年3月29日 (火) 12:49 (UTC)[返信]

出身地に関する記述について

明治以降の日本の人物の記述において、出身地が人物概要と来歴と両方に入っている例があります。改善案として、

  • 出身地は来歴に統一する。
  • 人物概要には都道府県名、来歴には市区町村名まで入れる

というのはどうでしょう?——以上の署名の無いコメントは、日比谷の池ちゃんノート履歴)さんが 2016年9月22日 (木) 09:20 (UTC) に投稿したものです(Nami-ja(凪海) 会話 / 履歴による付記)。[返信]

コメント なぜ明治以降の日本人だけに特定しているのか(Wikipedia:日本中心にならないようにに反する)。別に両方に入っていても、または片方にだけ記載されていてもどちらでもいいように思うが、それをマニュアルで規定しなければならないような重大なことなのだろうか。--Chiba ryo会話2016年9月23日 (金) 19:11 (UTC)[返信]

返信 貴重なご意見ありがとうございます。
別に両方に入っていても、または片方にだけ記載されていてもどちらでもいいということですね。日比谷の池ちゃん