「秋篠宮文仁親王」の版間の差分
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* [http://www.kunaicho.go.jp/about/history/history03.html 文仁親王同妃両殿下 - 宮内庁](公式サイト) |
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2018年12月3日 (月) 09:39時点における版
秋篠宮文仁親王 | |
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2014年(平成26年) | |
続柄 | 今上天皇第二皇男子 |
宮号 | 秋篠宮 |
全名 | 文仁 |
称号 | 礼宮(あやのみや) |
身位 | 親王 |
敬称 | 殿下 |
お印 | 栂 |
出生 |
1965年11月30日(59歳) 日本・東京都千代田区千代田 皇居・宮内庁病院 |
配偶者 | 親王妃紀子(川嶋紀子) |
子女 |
眞子内親王 佳子内親王 悠仁親王 |
父親 | 今上天皇 |
母親 | 皇后美智子 |
役職 |
山階鳥類研究所総裁 日本動物園水族館協会総裁 世界自然保護基金ジャパン名誉総裁 日本テニス協会名誉総裁 東京農業大学農学部客員教授 東京大学総合研究博物館特招研究員 総合研究大学院大学客員研究員 恩賜財団済生会総裁 他多数 |
称号:親王 | |
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敬称 | 殿下 |
皇室 |
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秋篠宮文仁親王(あきしののみや ふみひとしんのう、1965年〈昭和40年〉11月30日 - )は、日本の皇族。今上天皇の第二皇男子。秋篠宮の家祖。母は皇后美智子。身位は親王、皇室典範における敬称は殿下。お印は栂。皇位継承順位は兄・皇太子徳仁親王に次ぐ第2位。勲等は大勲位菊花大綬章。学位は博士(理学)(総合研究大学院大学・1996年)。
宮邸は東京都港区元赤坂の赤坂御用地内。1997年(平成9年)3月からは旧秩父宮・宮邸を使用している。
略歴
少年時代
1965年(昭和40年)11月30日 、皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第二子・次男として宮内庁病院で誕生。幼少時の御称号は礼宮(あやのみや)。「論語」より「博く文を学び、これを約するに礼をもってすれば、またもって畔(そむ)かざるべし」が由来。
幼少時はやんちゃなイメージとして知られていた。テニス等のスポーツに熱心に取り組む一方、地理などにも関心を持っていた。
また妹・清子内親王の夫である黒田慶樹とは少年時代からの学友。
青年時代
1984年(昭和59年)、学習院大学法学部政治学科に入学。翌年には自然文化研究会を結成し、積極的にサークル活動を行うとともに、東京農業大学育種学研究所を前身とする財団法人進化生物学研究所で家禽類研究に従事。一学年下の川嶋紀子と知り合いサークル活動を通じ交際を深め、1986年(昭和61年)6月26日に自ら求婚していた。同年から財団法人山階鳥類研究所総裁。
1988年(昭和63年)、学習院大学法学部政治学科を卒業。同年より社団法人日本動物園水族館協会総裁を務めるとともに、2年間、オックスフォード大学セント・ジョンズ・カレッジ大学院動物学科に留学し魚類に関する分類学を学ぶ。1989年(昭和64年)1月7日、祖父・昭和天皇が崩御、父・今上天皇が即位したことに伴い、兄・皇太子徳仁親王に次いで、皇位継承順位第2位となる。同年から1年間オックスフォード大学大学博物館及びロンドン自然史博物館に在籍。
同年8月26日、川嶋紀子との結婚内定が報道される。9月12日、文仁親王と川嶋紀子の婚姻に関する皇室会議が開催された。全員一致で2人の婚姻が可決され、婚約が内定。午後から記者会見が行われた。平成改元後初の慶事であり、若々しい2人の結婚は国民から盛大に祝福された。関連書籍・アニメが作られ、「紀子さまブーム」[1]とも呼べる現象となった。
昭和天皇の喪が明けた翌1990年(平成2年)1月12日に納采の儀が執り行われ、前年9月12日の皇室会議で認められた2人の婚約が正式決定した。皇室において昭和天皇崩御後初の慶事となり、納采後の皇居には、皇族や三権の長らが祝賀訪問、お祝い記帳も行われた[2]。
同年6月29日、結婚の儀が行われ、同日秋篠宮家を創設した。宮号は奈良県秋篠に由来する。
秋篠宮時代
成婚以来、同妃紀子とともに地道に公務を果たす。特にインドネシア・タイなどの東南アジア諸国を公私ともによく訪問し、チャクリー王朝とも交流が深い。
1991年(平成3年)10月23日、眞子内親王が誕生。"眞"の文字は秋篠宮の"ひらめき"によって選ばれた。1992年(平成4年)に財団法人日本テニス協会名誉総裁に就任。1994年(平成6年)12月29日には、佳子内親王が誕生。しかし、兄宮・皇太子および同妃に遠慮すべきとのバッシングや批判があったとされ[3][4]、以降は長らく子供をもうけなかった。1997年財団法人世界自然保護基金ジャパン総裁就任。2000年より日蘭協会名誉総裁、2004年より特定非営利活動法人全日本愛瓢会名誉総裁、2005年よりサイアム・ソサエティー名誉副総裁。
宮中祭祀・各種公務に取り組む他に、魚類や家禽類の研究も行っている。総合研究大学院大学生命科学研究科遺伝学専攻を構成する国立遺伝学研究所・五條堀孝教授の指導の下、1996年(平成8年)9月30日、家禽のニワトリの起源を遺伝子に基づき解析した研究により、総合研究大学院大学から博士(理学)の学位を授与された[5]。[6]
通称「さんまの会」では友人知人を自邸に招いており、この集まりが妹・清子内親王と長年の友人である黒田慶樹の交際を深めるきっかけを作った。文仁親王は、2005年(平成17年)の彼らの結婚を非常に喜んだ。
兄・皇太子および同妃には、2001年(平成13年)12月に第一子・敬宮愛子内親王が誕生。しかし、この後皇太子および同妃には長らく懐妊の兆候が無かったため、今上天皇の孫の世代に男子が皆無という状況は解消されず、皇位は男系男子による継承が絶える危機に直面していた。2003年(平成15年)12月には湯浅利夫宮内庁長官が、「皇室の繁栄を考えると、(秋篠宮および同妃に)第三子を強く希望する」と発言した[7]。2006年(平成18年)の歌会始では、秋篠宮および同妃ともに前年9月24日のコウノトリ放鳥に関する和歌を詠んだが、コウノトリは赤ん坊をもたらすシンボルである事から、第三子を望む気持ちがあったと考えられている[8]。
2004年(平成16年)からは皇室典範に関する有識者会議により女性・女系天皇容認の議論が進む中、2006年(平成18年)2月7日、同妃紀子の懐妊がスクープされる。当日は文仁親王は公務で我孫子市におり、夫・文仁親王が報告を直接受ける前の報道となった。2月25日に、宮内庁から懐妊が正式発表された。
同年9月6日、皇室史上初の帝王切開により悠仁親王が誕生。皇室においては文仁親王自身の誕生以来、実に41年ぶりの男系男子誕生である。
また、2001年(平成13年)から東京農業大学で学生指導を開始。2006年(平成18年)からは非常勤講師を務め、2008年(平成20年)より秋篠宮妃紀子の弟が講師を務める東京農業大学大学農学部バイオセラピー学科客員教授に就任。2年後の2010年(平成22年)3月まで務める予定である。2007年からは東京大学総合研究博物館特招研究員。
2011年11月15日、今上天皇が入院中で皇太子徳仁親王が長野県訪問中のため皇位継承順位に基づき文仁親王が天皇の名代として初めて天皇の公務を務め、皇居・宮殿で秋の勲章受章者らと接見して天皇の言葉を代読し、皇居・御所で南アフリカのマックス・シスル国民議会議長と懇談した[9]。
有栖川宮職仁親王から始まる有栖川流書道の伝承者でもある。2007年9月5日から現在まで皇室会議の議員を務めている[10]。
年譜
- 1965年(昭和40年)11月30日 、誕生。
- 1970年(昭和45年)10月18日(4歳)、着袴の儀。
- 1985年(昭和60年)11月30日(20歳)、加冠の儀。
- 1988年(昭和63年)(22歳)、学習院大学法学部政治学科卒業。
- 1990年(平成2年)6月29日(24歳)、学習院大学教授川嶋辰彦の長女川嶋紀子と結婚。同日秋篠宮家を創設。
- 1991年(平成3年)10月23日(25歳)、長女眞子内親王誕生。
- 1994年(平成6年)12月29日(29歳)、次女佳子内親王誕生。
- 2006年(平成18年)9月6日(40歳)、長男悠仁親王誕生。
子女
秋篠宮妃紀子との間には、3子がいる。第125代今上天皇の皇孫にあたる。
諱 | 読み | 生年 | 続柄 |
---|---|---|---|
眞子内親王 | まこ | 平成 3年(1991)10月23日(33歳) | 第1女子 |
佳子内親王 | かこ | 平成 6年(1994)12月29日(29歳) | 第2女子 |
悠仁親王 | ひさひと | 平成18年(2006)(18歳) 9月 6日 | 第1男子 |
系譜
文仁親王 | 父: 第125代:今上天皇 |
祖父: 第124代:昭和天皇 |
曾祖父: 第123代:大正天皇 |
曾祖母: 貞明皇后 | |||
祖母: 香淳皇后 |
曾祖父: 邦彦王(久邇宮) | ||
曾祖母: 俔子 | |||
母: 美智子(皇后) |
祖父: 正田英三郎 |
曾祖父: 正田貞一郎 | |
曾祖母: 正田きぬ | |||
祖母: 正田富美子 |
曾祖父: 副島網雄 | ||
曾祖母: 副島アヤ |
秋篠宮文仁親王の系譜 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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|
秋篠宮文仁親王の男系直系祖先
1 神武天皇 | 2 綏靖天皇 | 3 安寧天皇 | 4 懿徳天皇 | 5 孝昭天皇 | 6 孝安天皇 | 7 孝靈天皇 | 8 孝元天皇 | 9 開化天皇 | 10 崇神天皇 |
11 垂仁天皇 | 12 景行天皇 | 日本武尊 | 14 仲哀天皇 | 15 応神天皇 | 稚野毛二派皇子 | 意富富杼王 | 乎非王 | 彦主人王 | 26 継体天皇 |
29 欽明天皇 | 30 敏達天皇 | 押坂彦人 大兄皇子 |
34 舒明天皇 | 38 天智天皇 | 志貴皇子 | 49 光仁天皇 | 50 桓武天皇 | 52 嵯峨天皇 | 54 仁明天皇 |
58 光孝天皇 | 59 宇多天皇 | 60 醍醐天皇 | 62 村上天皇 | 64 円融天皇 | 66 一条天皇 | 69 後朱雀天皇 | 71 後三条天皇 | 72 白河天皇 | 73 堀河天皇 |
74 鳥羽天皇 | 77 後白河天皇 | 80 高倉天皇 | 82 後鳥羽天皇 | 83 土御門天皇 | 88 後嵯峨天皇 | 89 後深草天皇 | 92 伏見天皇 | 93 後伏見天皇 | 北1 光厳天皇 |
北3 崇光天皇 | 栄仁親王(伏見宮) | 貞成親王(伏見宮) | 102 後花園天皇 | 103 後土御門天皇 | 104 後柏原天皇 | 105 後奈良天皇 | 106 正親町天皇 | 誠仁親王 | 107 後陽成天皇 |
108 後水尾天皇 | 112 霊元天皇 | 113 東山天皇 | 直仁親王(閑院宮) | 典仁親王(閑院宮) | 119 光格天皇 | 120 仁孝天皇 | 121 孝明天皇 | 122 明治天皇 | 123 大正天皇 |
124 昭和天皇 | 125 今上天皇 | 秋篠宮文仁親王 |
系図
122 明治天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
123 大正天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
124 昭和天皇 | 秩父宮雍仁親王 | 高松宮宣仁親王 | 三笠宮崇仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
125 上皇 | 常陸宮正仁親王 | 寬仁親王 | 桂宮宜仁親王 | 高円宮憲仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
126 今上天皇 | 秋篠宮文仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
悠仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
皇位継承資格
順位 | 画像 | 皇位継承資格者 | 読み | 性別 | 生年月日 | 現年齢 | 今の天皇から見た続柄 | 摂政就任順位 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
第1位 | 秋篠宮文仁親王 | あきしののみや | ふみひと | 男性 | 1965年11月30日 (昭和40年) |
59歳 | 上皇明仁第2皇男子 | 弟 /第1位 | |
第2位 | 悠仁親王 | ひさひと | 男性 | 2006年 9月 6日 (平成18年) |
18歳 | 秋篠宮文仁親王第1男子 | 甥 /第2位 | ||
第3位 | 常陸宮正仁親王 | ひたちのみや | まさひと | 男性 | 1935年11月28日 (昭和10年) |
89歳 | 昭和天皇第2皇男子 | 叔父 /第3位 |
天皇陛下の譲位にあたり、2018年現在皇位継承順位1位の実兄である皇太子徳仁親王が皇位を継承した場合、文仁親王は新たに皇位継承順位1位となる。政府は文仁親王の新たな敬称について、「皇嗣殿下」とする方針を固めた。なお、その待遇については現在の皇太子と同等になる。[11]なお、文仁親王は兄の皇太子徳仁親王が皇位を継承した後、自身が薨去するか皇室会議で皇位継承順位を入れ替えられない限り、第127代天皇となる。
政府は、文仁親王が皇嗣になることを広く国民に明らかにする立皇嗣の礼を、憲法で定める国事行為として行うことを決めている。
立皇嗣の礼の時期などについて、内閣官房や儀式の事務を担う宮内庁などで検討した結果、来年10月に皇太子徳仁親王が即位を内外に宣明する即位礼正殿の儀に臨んでからおよそ半年後の2020年4月、皇居・宮殿の「松の間」などで行う方向となり、調整が進められている。
退位や即位に伴う式典を円滑に実施するため、宮内庁は「大礼委員会」を設けて検討を進め、立皇嗣の礼の期日や次第についても決められていくことになる。[12]
称号
栄典
日本
- - 大勲位菊花大綬章
外国
- ベルギー: 王冠勲章(英語版) - [13]
- イタリア: イタリア共和国功労勲章 -
- オランダ: 王冠勲章(英語版) -
- ペルー: ペルー太陽勲章 - [14][15]
- スペイン: イザベル・ラ・カトリカ勲章 -
- スウェーデン: 北極星勲章 -
名誉役職
- 皇室会議議員
- 山階鳥類研究所総裁
- 日本動物園水族館協会総裁
- 世界自然保護基金ジャパン名誉総裁
- 日本テニス協会名誉総裁
- 東京農業大学農学部客員教授
- 東京大学総合研究博物館特招研究員
- 総合研究大学院大学客員研究員
- 恩賜財団済生会総裁
名誉学位
- カセートサート大学 - 名誉博士号(水産生物学)
- ブーラパー大学 - 名誉博士号(理学)
- コンケン大学 - 名誉博士号(水産学)
- シーナカリンウィロート大学 - 名誉博士号(理学)
- チュラーロンコーン大学 - 名誉博士号(理学)
- ウボンラーチャタニー大学 - 名誉博士号
- キングモンクット工科大学 - 名誉博士号(水産学)
- カセートサート大学 - 名誉博士号
- チェンマイ大学 - 名誉博士号
- タンマサート大学ランシット校 - 名誉博士号(農業技術)
外国訪問歴(平成以降)
- 1989年(平成元年)
-
- 7月16日 - 8月18日(イギリス・オックスフォード大学留学中): タイ
- 魚類の調査研究のため。
- 11月22日 - 11月24日(オックスフォード大学留学中): リヒテンシュタイン
- 11月13日に崩御した同国元首フランツ・ヨーゼフ2世(リヒテンシュタイン公)の葬儀参列のため。
- 7月16日 - 8月18日(イギリス・オックスフォード大学留学中): タイ
- 1990年(平成2年)
- 1991年(平成3年)
- 1992年(平成4年)
- 1993年(平成5年)
- 1994年(平成6年)
- 1995年(平成7年)
- 1996年(平成8年)
- 1997年(平成9年)
- 1998年(平成10年)
- 1999年(平成11年)
- 2001年(平成13年)
- 2002年(平成14年)
- 2003年(平成15年)
- 2004年(平成16年)
- 2005年(平成17年)
- 2006年(平成18年)
- 2007年(平成19年)
- 2008年(平成20年)
- 2009年(平成21年)
- 2010年(平成22年)
- 2011年(平成23年)
- 2012年(平成24年)
- 2013年(平成25年)
- 2014年(平成26年)
-
- 1月25日 - 2月5日(同妃紀子同行): ペルー、 アルゼンチン(フランス・オーストラリア立ち寄り)
- 秋篠宮および同妃への、ペルー国政府からのペルーと日本との外交関係樹立140周年、また、アルゼンチン国大統領からのアルゼンチンと日本との移住協定発効50周年を記念しての同国訪問の招待による[17]。
- 6月27日 - 7月8日(同妃紀子同行): ザンビア、 タンザニア(南アフリカ共和国・イギリス立ち寄り)
- 秋篠宮および同妃への、ザンビア国政府からのザンビアと日本との外交関係樹立50周年の機会での同国訪問、また、タンザニア国政府からの同国訪問の招待による[18]。
- 9月30日 - 10月10日(同妃紀子同行): グアテマラ、 メキシコ(アメリカ合衆国立ち寄り)
- 秋篠宮および同妃への、グアテマラ国政府から、また、メキシコ国政府から「支倉使節団訪墨400周年記念:日墨交流年」の機会での同国訪問の招待による[19]。
- 1月25日 - 2月5日(同妃紀子同行): ペルー、 アルゼンチン(フランス・オーストラリア立ち寄り)
- 2015年(平成27年)
- 2016年(平成28年)
逸話
誕生・命名に関するもの
- 昭和天皇にとって7人目の孫で、2人目の内孫である。また、正田英三郎から見て4人目の孫である(叔母安西恵美子の長女、伯父正田巌の長男に次ぐ)
- 守り刀は人間国宝・高橋貞次が鍛えた。
- 独立前には宮号の候補として、常陸宮家と同様に上総宮・上野宮など、かつて親王が国司(守)となっていた関東の令制国(親王任国)にちなんだものも検討されていたとされる。
- 宮家創設後は宮号の由来である秋篠が脚光を浴び、同地への旅行が流行し「大和路ブーム」が起こった。また、同地にある秋篠寺の技芸天像が同妃紀子に似ているという人々もいた。
人物像・事跡に関するもの
- 「宮中祭祀を大切にしていきたいと思っている。拝礼の時も心の持ち方が大事であると考える。私はいつもご先祖様に話し掛けるつもりでお辞儀をしている。」(1998年(平成10年)、江森敬治『秋篠宮さま』、毎日新聞社)
- 動物と触れ合うことを好み、東宮御所や御用邸の庭で蛇を捕まえて近臣に見せたなどというエピソードが伝わる。
- 昭和天皇の崩御に際し、武蔵野陵の陵誌(一般の墓誌にあたる)を揮毫した。
- 高松宮妃より有栖川流書道の伝承を受ける際には、「蜥蜴」などお手本にない文字の書き方を質問したという。
- 母・皇后美智子の発言
- 「小さい時からひじょうにものを深く感じる子供で、表面に出てくるのはさりげないけれど、それを自分なりに一生懸命考えているようなところは今も変わらないと思います。」
- 1985年(昭和60年)の誕生日の文書回答にて
- 「礼宮は、繊細に心配りをしてくれる子どもでしたが、同時に私が真実を見誤ることのないよう、心配して見張っていたらしい節(ふし)もあります。」
- 宮邸の庭に様々な植物を植えている。同妃紀子がこれらの植物について詠んだ和歌も伝わる。
- 2006年(平成18年)には伊勢神宮第六十二回式年遷宮を長女眞子内親王とともに視察し、御川曳に参加した[22][23]。なお、2007年の式年遷宮には兄宮である皇太子徳仁親王が参加している。
- 宮内庁筋によるとパソコンはMacintoshを使っている[24]。
外遊に関するもの
- 東南アジアを訪れることが多く、現地で泥の川に膝まで浸かりながら歩く姿なども書籍掲載の写真に残されている。
- タイ国王室との縁も深く、成婚の折にはシリントーン王女が式に参列した。国内でも、タイ大使館の主催によるシリキット王妃の誕生日を祝うチャリティコンサートにも一家で列席している。
- タイのほか、パラグアイなど日系人が多い南米諸国との関係も深い。訪日した日系人の団体が秋篠宮邸を表敬訪問したこともあり、この折には日系人とのかかわりを受け継がせたいとの秋篠宮および同妃の希望により眞子内親王が接見に同席した。
- 2006年(平成18年)11月1日には日本人移住70周年を祝うため、悠仁親王誕生のため訪問が延期されていたパラグアイを訪問し、ABCなど地元大手紙でも大きく報道された。文仁親王到着の当日には、パラグアイ国中から多数の日系人が首都アスンシオンに集まり、彼を歓迎した。同国最初の日本人移住地であるラ・コルメナ(1936年入植)をはじめ、各地で盛んに歓迎のセレモニーが行われた[25][26]。
生物学に関するもの
- 鳥類や両生類、ナマズの研究者としても著名で、また、『生き物文化誌学会』の設立に尽力。現在同学会常任理事。同学会誌『生き物文化誌 BIOSTORY』の編集委員でもある。「生物」ではなく「生き物」としたことには、カッパなどの伝説上の生物も含む意味合いを込めている。
- 生物学への造詣が深く、学習院大学在学中から東京農業大学関連施設の財団法人進化生物学研究所で家禽類研究に従事。大学卒業後はオックスフォード大学大学院動物学科に留学後、五條堀孝教授の指導の下、総合研究大学院大学博士(理学)の学位を取得し、前述の『生き物自然誌学会』の常任理事の他に、東京農業大学農学部バイオセラピー学科客員教授、東京大学総合研究博物館特招研究員、総合研究大学院大学学融合推進センター客員研究員、『山階鳥類研究所』の総裁及び、『WWFジャパン』の名誉総裁も務めている。東京農業大学大学院農学研究科では遺伝育種学の講義を担当[27]。
- 一般にはナマズの研究者として知られ、ナマズの殿下とも通称される。幼少時からナマズへの興味関心は深かった。2006年(平成18年)のパラグアイ訪問時には、現地固有種の1.5メートルを超す大型のナマズスルビ(淡白な味で、現地では重要な蛋白源である)を眺める姿が報道された他に魚類については今上天皇との共同研究も行っている。
- 鶏の起源について8000年前のタイが起源であるという学説を唱えている。また2000年代にはタイ・中国・香港の鳥インフルエンザウイルスの遺伝子を調査し、関連性がないことを証明した。この論文は米国科学アカデミー紀要(PNAS: The Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America)に発表され、同機関のウェブサイトにても閲覧することができる。
テニスに関するもの
両親と同じくテニスを趣味の一つとしており、その腕前は学生時代に関東でダブルストップ10に入る程であった[29]。1992年から2015年まで日本テニス協会の名誉総裁を務めており[30][31]、全日本テニス選手権において表彰式や試合観戦、テニス国別対抗戦のデビスカップ・フェドカップの組み合わせ抽選会において名誉総裁として参加する他[32][33]、ジャパン・オープン・テニス選手権、東レ パン・パシフィック・オープン・テニストーナメント等の日本で開かれる国際テニス大会へはほぼ毎年観戦に訪れている事で知られている[34][35][36][37][38]。なお、日本テニス協会名誉総裁は2015年10月に長女の眞子内親王に譲られた[39]。
長女眞子内親王の婚約
2017年9月3日、長女の眞子内親王と国際基督教大学の同級生で法律事務所勤務の小室圭の婚約内定が発表された。しかし、2018年2月、納采の儀を始めとする結婚関係儀式等の延期が宮内庁から発表された[40]。小室圭と母親に対し、秋篠宮夫妻は、正式な婚約となる「納采の儀」を行うことが現状では困難であるとの考えを伝えている[41]。小室側にあるとされる金銭トラブルを解決することが必要と判断したとみられる[41]。
2018年11月30日、53歳の誕生日を迎えた秋篠宮は誕生日会見で記者たちからの質問に答え、眞子内親王の結婚問題について、今でも結婚したいのであれば「問題をクリア」にし「多くの人が納得し喜んでくれる状況」にするため、(小室家側は)「それ相応の対応をするべきだ」「そういう状況にならなければ、私たちは婚約に当たる納采の儀というのを行うことはできません」と話した[42]。
婚約に至る経緯
学習院大学在学時、一年下級の川嶋紀子(当時)と知り合い、サークル活動等を通じて交際を深めていた。
皇太子・明仁親王(当時)と同妃美智子(当時)は、既に紀子のことは知っていたが、礼宮は同年の12月に葉山で静養中の両親に紀子を会わせた。皇太子および同妃は、学習院大学馬術部の親睦会で紀子の父・川嶋辰彦と何度も顔を合わせていることもあり、紀子と皇太子および同妃の出会いは、とてもスムーズなものであったという[43]。
それから間もなく明仁親王は「2人のことを前向きに検討してほしい」と当時の東宮職に指示をし[44]、職員たちも2人の交際を承知した[45]。一方でゴシップ記事として報道されるのを防ぐため、サークルにおいても離れて写真に写ったり、記者が近くにいる時は友人が割って入ったりしていたという。
1989年(平成元年)8月26日、川嶋紀子との婚約内定が報道される。昭和天皇の喪中(大喪)であること、兄・徳仁親王がまだ独身である事、文仁親王自身が留学中の身である事から時期尚早との批判もあったが、両親や兄からの反対はなく、宮内庁は、挙式や結納に当たる「納采の儀」など晴れの儀式は、喪中はふさわしくないものの、皇室会議の開催は喪中でも差し支えないと判断している。
そもそも、皇室の服喪は三期に分けられ、第一期・第二期各50日の合計100日間を過ぎれば、その後の第三期は「心喪」という服喪形式がとられる[46]。心喪とは、この期間中、天皇はじめ各皇族は公の行事には出席するが、神事のみ遠慮するという形式の服喪である[47]。また、原則として結婚等の祝賀行事も行われないが、特別な理由があれば認められる[46]。
また、1947年(昭和22年)に廃止された皇室服喪令をその後も踏襲していると考えれば、皇族の服喪期間は続柄によって期間が異なり、祖父である昭和天皇に対する礼宮の服喪期間は150日であることから、きちんと喪が明けた後に婚約発表が行われていることになる。ちなみに、過去において1例だけ服喪期間中の婚約発表があり、祖母である貞明皇后に対して同じ150日の服喪期間があった順宮厚子内親王と池田隆政の婚約が内定した旨を、1951年(昭和26年)5月17日の貞明皇后崩御からわずか2か月足らずの同年7月11日に、昭和天皇が自らの裁可で田島宮内庁長官に命じて公式に発表させている。昭和天皇崩御から8か月後に皇室会議の決定として発表された礼宮の場合など、この事例に比べれば何の問題もないといった見解を宮内庁関係者は示している[48]。
兄弟の結婚の順番が逆になることについても、天皇・皇后が子の意思を尊重する考えのため、宮内庁幹部も「一般家庭でもあることで、大きな問題ではない」と述べ[49]、元東宮侍従の浜尾実も「高円宮は兄の桂宮よりも先に結婚しています。これも前例があり、全く問題外です」とインタビューで語っている。また、徳仁親王も1989年(平成元年)9月21日の会見で、「2人の間が不安定になっているのはよくないので、2人の結婚は私も強く勧めたところです」と述べた。
皇室会議では、海部首相が開会を宣言。藤森宮内庁長官が「大学のサークル、自然文化研究会や礼宮主宰のテニスクラブでの活動を通じて親交を深め、1985年(昭和60年)暮れには当時皇太子の天皇から『2人の交際を前向きに検討してほしい』とのご指示もあった」と交際の経緯や川嶋紀子の経歴、家族の略歴などを説明した。
1年間と服喪期間が最長である今上天皇などの喪が明け、皇族全員が服喪期間を終えた1990年(平成2年)1月12日に納采の儀が執り行われ、正式に婚約した。皇室会議での可決を指して「婚約成立」であるとしている媒体も多く、「秋篠宮は昭和天皇の喪中に婚約会見を開いた」と言う者も存在するが誤りであり、納采の儀が正式な婚約成立である[50]。宮内庁は公式HPにおいて、納采の儀=ご婚約と記載している(例:文仁親王同妃両殿下のご略歴)。また、皇位継承順位の変更や皇族の婚姻等を合議するための皇室会議を開催する権限は内閣総理大臣にあり、2人の婚姻は、田村元衆院議長、小野明参院副議長、矢口洪一最高裁長官、伊藤正己最高裁判事、藤森昭一宮内庁長官、福田一衆院議員、三笠宮、常陸宮の全員が満場一致で可決している。皇室会議での可決を受けた後の会見を誤って「婚約会見」だとしている媒体もあるが、宮内庁は納采の儀が行われて初めて整う事としており[51]、皇室会議での承認のみでは正式な婚約であるとは認めていない。また、この皇室会議と婚約の違いについて天皇は、「礼宮の納采の儀は喪明けでなくてはならないが、皇室会議は喪中でもいいのではないでしょうか」という話を側近に語ったといわれる[52]。
発言
- 「火のないところに煙がたった」
- 「記者会見という場所において発言する前に、せめて陛下とその内容について話をして、その上での話であるべきではなかったかと思っております。そこのところは私としては残念に思います。」- 皇太子徳仁親王の人格否定発言に対して
- 「あくまでも私個人としては、自分のための公務は作らない。(中略)私は公務というものはかなり受け身的なものではないかなと。こういう行事があるから出席してほしいという依頼を受けて、それでこちらもそれが非常に意義のあることであればそれを受けてその務めをする。私自身はそういうふうに考えて今までずっと来ています。」 - 公務の在り方について
- 「皇族の公的な活動というのは社会からの要請にこたえて行われるべきものであると思います。」
- 「皇族の役割の大事な一つは、天皇をサポートすることではないかと思っております。」
- 「私にとって非常に大切な友人で、信頼できる人物ですし、人柄も良い。」- 妹婿で友人の黒田慶樹について
- 「自然界に帰すということは自然の中で危険を乗り越えながら自ら生きること、今回のことは残念ですが自然に帰すということはこのようなこともあるということです。」
- 「難しい判断だったと推察するが、今回の意思決定は協会全体として将来的にプラスに働くと思う。」
- 追い込み漁によるイルカの入手を加盟施設に禁じた日本動物園水族館協会の決定について、総裁としての発言
その他
- 成婚を祝う記念番組の一部としてアニメ作品「平成のシンデレラ紀子様物語」も製作・放送(フジテレビ、秋篠宮および同妃の声は同局アナウンサーの笠井信輔と、石川秀美が担当した)されている。
- 政府による正式表記(内閣告示や宮内庁告示など)では皇族に宮号が冠されることはない(皇太子を除く)ため、それらの告示が掲載される官報での表記は「文仁親王」とされ、「秋篠宮」が冠されることはない。ただし、同じ政府による表記であってもウェブサイトなど「国民一般へのわかりやすさ」が重視される場面では「秋篠宮」の表記も用いられる。
- 『週刊ポスト』1989年4月7日号で「礼宮が兄・浩宮との待遇の差にショックを受け、皇籍離脱したいと発言した」、との記事が掲載されたが憶測記事であったことが判明した[53]。1989年(平成元年)9月21日に行われた公式会見で、徳仁親王は、「弟が皇籍を離脱すると言ったということが一部の雑誌などで取り上げられました。私たち家族としてはそういうことは一度も聞いたことがありませんで、非常にびっくりしたというのが事実ですが、その根拠は何だったのでしょうか。一つの雑誌が取りあげて、それを別の雑誌が引用して独り歩きをするということはやはり困ることだと思いますけれども」と発言した。
- 2006年9月6日8時27分に東京都港区の愛育病院で文仁親王妃紀子が悠仁親王を出産した際、同病院の待合室に置かれたテレビでNHK連続テレビ小説『純情きらり』(NHK総合テレビ)を視聴していたとされる[54]。
著作
※鳥類・家禽関係の著書。
- 『欧州家禽図鑑』(共著。写真と解説を執筆)平凡社、平成6年(1994年)、ISBN 4582518133
- 『鶏と人-民族生物学の視点から』、平成12年(2000年) 小学館、ISBN 4096260622
- 『鳥学大全-「鳥のビオソフィア-山階コレクションへの誘い」』(編纂)東京大学総合研究博物館、平成20年(2008年)、ISBN 4130603507 大著
- 『BIOSOPHIA of BIRDS(鳥のビオソフィア)』(編集)東京大学出版会、2008年、ISBN 4130831526 大著
- 『日本の家畜・家禽 フィールドベスト図鑑』(監修・文)学研 平成21年(2009年)
- 『ヒトと動物の関係学2 家畜の文化』(共編・文) 岩波書店、平成21年(2009年)
※このほか雑誌ANIMALにも推薦文を寄せている。
関連書
- 『秋篠宮さま』(江森敬治、毎日新聞社)平成10年(1998年)、ISBN 978-4620312033
脚注
- ^ 日本経済新聞 1990年6月29日夕刊
- ^ 毎日新聞 1990年1月13日夕刊
- ^ 『週刊文春』2006年2月23日号
- ^ 『読売ウィークリー』2006年10月6日臨時増刊号・悠仁さま P.6
- ^ 博士論文タイトル:Molecular Phylogeny of Junglefowls,genus Gallus Monophyletic Origin of Domestic Fowls
- ^ 博士論文書誌データベース
- ^ ただし湯浅長官は半年前の6月の記者会見で、皇太子および同妃に対しても第二子を願う発言をしている[1]。
- ^ 読売新聞 2006年2月8日「紀子さまご懐妊、コウノトリほほ笑む 歌会始、夫婦で詠まれ1か月」
- ^ “秋篠宮さま初の天皇名代務める 叙勲受章者らと面会”. 共同通信 (2011年11月15日). 2012年1月9日閲覧。
- ^ 皇室会議議員名簿 宮内庁 平成28年10月24日現在
- ^ “退位:秋篠宮さま敬称「皇嗣殿下」 政府方針 - 毎日新聞” (日本語). 毎日新聞 2018年5月4日閲覧。
- ^ “「立皇嗣の礼」は再来年4月に - NHK” (日本語). NHK 2018年10月10日閲覧。
- ^ http://portal.belgaimage.be/editorial/image/96965778/coverage/index:3-size:20-pos:3
- ^ http://www.pe.emb-japan.go.jp/jp/politicaperuana201401.html
- ^ [2] 勲章を佩用していることがわかる。
- ^ “文仁親王同妃両殿下のクロアチア国,スロバキア国及びスロベニア国御訪問について”. 宮内庁 (2013年6月4日). 2016年9月9日閲覧。
- ^ “文仁親王同妃両殿下のペルー国及びアルゼンチン国御訪問について”. 宮内庁 (2014年1月14日). 2016年9月9日閲覧。
- ^ “文仁親王同妃両殿下のザンビア国及びタンザニア国御訪問について”. 宮内庁 (2014年6月13日). 2016年9月9日閲覧。
- ^ “文仁親王同妃両殿下のグアテマラ国及びメキシコ国御訪問について”. 宮内庁 (2014年9月12日). 2016年9月9日閲覧。
- ^ “秋篠宮ご夫妻、ブラジルにご出発”. 産経ニュース (2015年10月28日). 2015年10月29日閲覧。
- ^ “文仁親王同妃両殿下のイタリア国御訪問について”. 宮内庁 (2016年4月8日). 2015年10月29日閲覧。
- ^ 伊勢新聞 2006年7月31日
- ^ 伊勢志摩経済新聞 2007年5月15日「華原朋美さんが伊勢神宮のお木曳に参加、一時パニックに」にて文仁親王親子の参加が言及
- ^ [「皇太子ご夫妻はPCが趣味。秋篠宮はマック派」と宮内庁筋 http://www.news-postseven.com/archives/20111204_73021.html]
- ^ “移住者にねぎらいの言葉=パラグアイ=秋篠宮さまラ・コルメナご訪問=勤勉さや不屈の精神讃える”. ニッケイ新聞 (2006年11月7日). 2012年1月9日閲覧。
- ^ “政府支える人材育成を=パラグアイ=秋篠宮さま日パ学院ご視察”. ニッケイ新聞 (2006年11月8日). 2012年1月9日閲覧。
- ^ 「遺伝育種学(2単位)」東京農業大学
- ^ “入倉康ジュエリー工房”. Die Presse. 2012年1月9日閲覧。
- ^ “Österreich-Japan-Jahr: Prinzenpaar auf Donau-Tour” (ドイツ語). Die Presse (2009年5月11日). 2012年1月9日閲覧。
- ^ “日本テニス協会公式サイト - ミュージアム:伊達、松岡、テニス新世代の登場”. 日本テニス協会. 2012年1月9日閲覧。
- ^ “文仁親王同妃両殿下 - 宮内庁”. 宮内庁. 2012年1月9日閲覧。
- ^ 秋山英宏. “日本はシングルスに添田と鈴木を起用”. 日本テニス協会. 2012年1月9日閲覧。
- ^ 中俣拓哉. “秋篠宮殿下のご臨席を賜り、抽選会がおこなわれました。”. 日本テニス協会. 2012年1月9日閲覧。
- ^ “文仁親王同妃両殿下のご日程:平成16年(10月〜12月) - 宮内庁”. 宮内庁. 2012年1月9日閲覧。
- ^ “文仁親王同妃両殿下のご日程:平成17年(10月〜12月) - 宮内庁”. 宮内庁. 2012年1月9日閲覧。
- ^ “文仁親王同妃両殿下のご日程:平成18年(10月〜12月) - 宮内庁”. 宮内庁. 2012年1月9日閲覧。
- ^ “文仁親王同妃両殿下のご日程:平成17年(1月〜3月) - 宮内庁”. 宮内庁. 2012年1月9日閲覧。
- ^ “文仁親王同妃両殿下のご日程:平成18年(1月〜3月) - 宮内庁”. 宮内庁. 2012年1月9日閲覧。
- ^ 眞子さま、日本テニス協会名誉総裁に 初代は秋篠宮さま 朝日新聞 2015年10月10日閲覧
- ^ 眞子内親王殿下のご結婚関係儀式等のご日程の変更について、平成30年2月7日宮内庁、宮内庁公式サイト。
- ^ a b “秋篠宮ご夫妻「納采の儀、現状では困難」”. 産経ニュース (産経新聞社). (2018年8月8日) 2018年9月5日閲覧。
- ^ 眞子さまの結婚「問題」は借金ではない秋篠宮家が「納采の儀は行えない」と明言した理由(2018年12月1日)、AERA dot.公式サイト。
- ^ 江森敬治『秋篠宮さま』
- ^ 礼宮さまと紀子さん、学習院入学直後に書店の出会い 1989年9月12日 読売新聞
- ^ 日本経済新聞 1989年9月12日
- ^ a b 読売新聞 1989年1月7日夕刊「新天皇、1年間の服喪 国事行為は平常通り」
- ^ 村上重良編『皇室辞典』
- ^ 江森敬治『秋篠宮さま』84頁
- ^ 読売新聞 1989年8月26日
- ^ 読売新聞 1989年8月27日社説
- ^ 朝日新聞 1989年9月12日
- ^ 清水一郎・畠山和久監修『平成の皇室辞典』P159
- ^ 『週刊朝日』1989年4月21日号
- ^ 当時の各メディアの報道より
外部リンク
- 文仁親王同妃両殿下 - 宮内庁(公式サイト)
- 好きに生きる