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「1961年の西鉄ライオンズ」の版間の差分

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*33 [[山野本忠志]]
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*34 [[鹿谷幸和]]
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*47 [[岩永功]](途中退団)
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*48 [[斎藤正弘]]
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2020年10月5日 (月) 09:43時点における版

1961年の西鉄ライオンズ
成績
パシフィック・リーグ3位
81勝56敗3分 勝率.589[1]
本拠地
都市 福岡県福岡市
平和台野球場
球団組織
経営母体 西日本鉄道
監督 川崎徳次
« 1960
1962 »

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1961年の西鉄ライオンズでは、1961年の西鉄ライオンズの動向をまとめる。

この年の西鉄ライオンズは、川崎徳次監督の2年目のシーズンである。

概要

川崎監督2年目、「何とか今年こそ」と意気込んで迎えたチームは4月を首位の南海と2ゲーム差とまずまずの滑り出しを見せるが、5月に4位に転落。6月には3位に上がると、8月には南海と5ゲーム差と自力優勝の可能性を残したが、最終的に優勝の南海・2位の東映の後塵を拝して3位に終わった。前年の10から貯金を25まで増やしたものの、投手陣は稲尾和久がチーム勝ち星の4割を稼ぎ最多勝や最優秀防御率などを総なめにしたがそれ以外の投手は不調だった。打撃陣は田中久寿男城戸則文といった新鋭の選手が台頭し、中西太豊田泰光仰木彬などもそれなりの成績を収めるが後の選手は不調だった。シーズン終了後、川崎監督は2年で辞任し主砲の中西太が選手兼任の監督となり、豊田が助監督を、稲尾が投手コーチを兼ねるがこの三頭体制がチームの足かせになり、豊田が翌年のオフに国鉄へ移籍する伏線となる。

チーム成績

レギュラーシーズン

開幕オーダー
1 高倉照幸
2 滝内弥瑞生
3 田中久寿男
4 豊田泰光
5 中西太
6 関口清治
7 城戸則文
8 和田博実
9 稲尾和久
1961年パシフィック・リーグ順位変動
順位 4月終了時 5月終了時 6月終了時 7月終了時 8月終了時 9月終了時 最終成績
1位 南海 -- 南海 -- 南海 -- 南海 -- 南海 -- 東映 -- 南海 --
2位 西鉄 2.0 東映 4.5 東映 4.5 西鉄 4.0 西鉄 5.0 南海 1.0 東映 2.5
3位 東映 2.5 大毎 6.0 西鉄 5.0 東映 4.5 東映 6.0 西鉄 4.0 西鉄 5.5
4位 大毎 4.5 西鉄 7.5 大毎 7.0 大毎 8.0 大毎 11.5 大毎 12.5 大毎 15.0
5位 阪急 8.5 阪急 17.0 阪急 20.5 阪急 25.0 阪急 27.0 阪急 27.5 阪急 33.5
6位 近鉄 9.5 近鉄 19.0 近鉄 26.0 近鉄 33.5 近鉄 43.5 近鉄 47.0 近鉄 51.5
1961年パシフィック・リーグ最終成績
順位 球団 勝率
1位 南海ホークス 85 49 6 .634 優勝
2位 東映フライヤーズ 83 52 5 .615 2.5
3位 西鉄ライオンズ 81 56 3 .591 5.5
4位 毎日大映オリオンズ 72 66 2 .522 15.0
5位 阪急ブレーブス 53 84 3 .387 33.5
6位 近鉄バファロー 36 103 1 .259 51.5

[1]


オールスターゲーム1961

コーチ ファン投票 監督推薦
川崎徳次 稲尾和久
仰木彬
中西太
豊田泰光
和田博実
高倉照幸
田中久寿男
  • 取り消し線は出場辞退した選手

できごと

選手・スタッフ

[2]

表彰選手

リーグ・リーダー
選手名 タイトル 成績 回数
稲尾和久 最優秀防御率 1.69 3年ぶり4度目
最多勝利 42勝 3年ぶり3度目
最多奪三振 353個 3年ぶり2度目
最高勝率 .750 4年ぶり2度目
ベストナイン
選手名 ポジション 回数
稲尾和久 投手 3年ぶり3度目
中西太 三塁手 3年ぶり7度目
豊田泰光 遊撃手 3年連続5度目

出典