1972年の西鉄ライオンズ
1972年の西鉄ライオンズ | |
---|---|
成績 | |
パシフィック・リーグ6位 | |
47勝80敗3分 勝率.370[1] | |
本拠地 | |
都市 | 福岡県福岡市 |
球場 |
平和台野球場 |
球団組織 | |
オーナー | 木本元敬 |
経営母体 | 西日本鉄道 |
監督 | 稲尾和久 |
« 1971 1973 » |
1972年の西鉄ライオンズでは、1972年の西鉄ライオンズの動向をまとめる。
この年の西鉄ライオンズは、稲尾和久監督の3年目のシーズンだったが、シーズン終了後、太平洋クラブが運営会社の福岡野球のスポンサーになる形での身売りが決定する。
概要
[編集]1969年のシーズン終盤に発覚した黒い霧事件以後、チーム成績の低迷を続けた西鉄は3年連続で最下位に終わった。「黒い霧事件」の影響で2年連続最下位とすっかり落ち込んだライオンズ、それでも前年オフ、ドラフト会議に漏れた加藤初を競合の末獲得し、少しは期待が持てたものの、シーズン初頭に木本元敬オーナーが「今後、球団をやっていけそうにもない」と発言、ライオンズの身売りが表面化した。混乱の中で始まったシーズンは、ルーキー加藤の活躍があったものの相も変わらぬ低迷状態が続き、終わってみれば3年連続最下位。個人成績も加藤の「新人王」が目立つ程度で、309.2イニングを投げたエースの東尾修は25敗で2年連続最多敗戦投手。打撃陣も基満男が初の3割打者となった以外は、ロッテオリオンズから移籍の榎本喜八も振るわず、貧打に喘いだ。
シーズン終盤から西鉄は、ロッテオリオンズオーナー・中村長芳に球団譲渡先の仲介を依頼するなど、球団売却へ動き出し、10月16日にはペプシコーラに依頼するも同月18日に破談、ライオンズ絶体絶命となる。しかし、10月28日に中村がロッテを辞職して設立した「福岡野球」へ買収される形で球団売却が成立、平和相互銀行の事実上子会社でレジャー会社太平洋クラブがスポンサーとなり、「太平洋クラブライオンズ」が誕生、球団はなんとか存続するも、1951年以来続いた「西鉄ライオンズ」は終焉となった(ただし、ライオンズのニックネームは現在も残っている)。この年、加藤博一が念願の一軍昇格を果たしたが、太平洋時代は不遇で、才能が開花したのは移籍先の阪神タイガースだった。
チーム成績
[編集]レギュラーシーズン
[編集]1 | 遊 | 菊川昭二郎 |
---|---|---|
2 | 二 | 基満男 |
3 | 一 | 榎本喜八 |
4 | 左 | 東田正義 |
5 | 右 | 竹之内雅史 |
6 | 中 | ポインター |
7 | 三 | 伊原春樹 |
8 | 捕 | 片岡新之介 |
9 | 投 | 高橋明 |
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 9月終了時 | 最終成績 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1位 | 南海 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- |
2位 | 阪急 | 0.5 | 南海 | 3.0 | 南海 | 7.0 | 南海 | 6.5 | 南海 | 13.0 | 南海 | 13.0 | 近鉄 | 14.0 |
3位 | 近鉄 | 1.5 | 東映 | 4.5 | 東映 | 8.5 | 東映 | 11.5 | 東映 | 16.0 | 東映 | 15.0 | 南海 | 14.0 |
4位 | ロッテ | 2.0 | 近鉄 | 7.5 | ロッテ | 8.5 | ロッテ | 12.5 | ロッテ | 17.0 | 近鉄 | 東映 | 15.0 | |
5位 | 東映 | 3.0 | ロッテ | 8.5 | 近鉄 | 14.5 | 近鉄 | 13.5 | 近鉄 | 20.5 | ロッテ | 16.0 | ロッテ | 20.5 |
6位 | 西鉄 | 5.0 | 西鉄 | 12.5 | 西鉄 | 20.5 | 西鉄 | 22.0 | 西鉄 | 26.5 | 西鉄 | 31.0 | 西鉄 | 32.5 |
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | 阪急ブレーブス | 80 | 48 | 2 | .625 | 優勝 |
2位 | 近鉄バファローズ | 64 | 60 | 6 | .5161 | 14.0 |
3位 | 南海ホークス | 65 | 61 | 4 | .5159 | 14.0 |
4位 | 東映フライヤーズ | 63 | 61 | 6 | .508 | 15.0 |
5位 | ロッテオリオンズ | 59 | 68 | 3 | .465 | 20.5 |
6位 | 西鉄ライオンズ | 47 | 80 | 3 | .370 | 32.5 |
オールスターゲーム1972
[編集]ファン投票 | 監督推薦 |
---|---|
東田正義 | 東尾修 加藤初 基満男 |
できごと
[編集]- 10月16日 - 西鉄ライオンズの譲渡先を請け負っていたロッテオリオンズオーナー・中村長芳、飲料水メーカー・ペプシコーラ(日本ペプシコ=現:サントリー)に依頼するも、2日後の18日、ペプシコーラは買収を断念。
- 10月28日 - 中村長芳、ロッテオリオンズオーナーを辞職し、西鉄ライオンズ球団(西鉄野球株式会社)を買収。「福岡野球株式会社」に社名を変更。レジャー会社・太平洋クラブをスポンサーにつける。新球団「太平洋クラブライオンズ」誕生。
選手・スタッフ
[編集]表彰選手
[編集]リーグ・リーダー | |
---|---|
選手名 | タイトル |
加藤初 | 新人王 |
ベストナイン | ||
---|---|---|
選手名 | ポジション | 回数 |
基満男 | 二塁手 | 初受賞 |
ダイヤモンドグラブ賞(新設) | ||
選出なし |
ドラフト
[編集]順位 | 選手名 | ポジション | 所属 | 結果 |
---|---|---|---|---|
1位 | 中島弘美 | 投手 | 八代第一高 | 入団 |
2位 | 山口富夫 | 投手 | 三協精機 | 入団 |
3位 | 真弓明信 | 内野手 | 電電九州 | 入団 |
4位 | 久木山亮 | 投手 | 川内実業高 | 入団 |
5位 | 上林成行 | 投手 | クラレ岡山 | 拒否 |
6位 | 加藤敏彦 | 投手 | 日本楽器 | 拒否 |
7位 | 中川信秀 | 内野手 | 津久見高 | 入団 |
8位 | 貞山健源 | 投手 | 別府鶴見丘高 | 入団 |
9位 | 待井昇 | 外野手 | 日本大学第三高 | 入団 |
10位 | 金城致勲 | 投手 | 生野工業高 | 入団 |
出典
[編集]- ^ a b “年度別成績 1972年 パシフィック・リーグ”. 日本野球機構. 2017年4月23日閲覧。
- ^ “西武ライオンズ公式HP 背番号の歴史”. 埼玉西武ライオンズ. 2017年4月23日閲覧。
- ^ 『日本プロ野球80年史 1934-2014』 【記録編】、ベースボール・マガジン社、2014年12月24日。ISBN 978-4-583-10668-7。
セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
優勝 | 読売ジャイアンツ | 2位 | 阪神タイガース | 優勝 | 阪急ブレーブス | 2位 | 近鉄バファローズ |
3位 | 中日ドラゴンズ | 4位 | ヤクルトアトムズ | 3位 | 南海ホークス | 4位 | 東映フライヤーズ |
5位 | 大洋ホエールズ | 6位 | 広島東洋カープ | 5位 | ロッテオリオンズ | 6位 | 西鉄ライオンズ |
:日本一 :日本シリーズ出場 | |||||||