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「レノン=マッカートニー」の版間の差分

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作詞作曲の過程や、2人の貢献度の割合は楽曲によって大きく異なる。初期のシングル曲はジョンとポールの共作が多く、特に1963年は発売された4枚のシングル中「[[プリーズ・プリーズ・ミー (曲)|プリーズ・プリーズ・ミー]]」を除く3枚(「[[フロム・ミー・トゥ・ユー]]」、「[[シー・ラヴズ・ユー]]」、「[[抱きしめたい (代表的なトピック)|抱きしめたい]]<!-- 「WP:CARMEN」に基づく内部リンクの設定ですので、変更しないでください。 -->」)がジョンとポールの完全な共作曲である。一方が曲を作った場合のケースでは、具体例として「[[ミッシェル (曲)|ミッシェル]]」の場合、ポールが「こういう曲を作ってみたんだけど、どうも何かが足りないんだ」とジョンに相談した。するとジョンが「サビ部分をコーラスにしてみたらどうだい?」と助言して曲が完成した。結局、この部分が同曲の中で最も印象的なフレーズになった(他の楽曲については、[[ビートルズの作品]]を参照)。
作詞作曲の過程や、2人の貢献度の割合は楽曲によって大きく異なる。初期のシングル曲はジョンとポールの共作が多く、特に1963年は発売された4枚のシングル中「[[プリーズ・プリーズ・ミー (曲)|プリーズ・プリーズ・ミー]]」を除く3枚(「[[フロム・ミー・トゥ・ユー]]」、「[[シー・ラヴズ・ユー]]」、「[[抱きしめたい (代表的なトピック)|抱きしめたい]]<!-- 「WP:CARMEN」に基づく内部リンクの設定ですので、変更しないでください。 -->」)がジョンとポールの完全な共作曲である。一方が曲を作った場合のケースでは、具体例として「[[ミッシェル (曲)|ミッシェル]]」の場合、ポールが「こういう曲を作ってみたんだけど、どうも何かが足りないんだ」とジョンに相談した。するとジョンが「サビ部分をコーラスにしてみたらどうだい?」と助言して曲が完成した。結局、この部分が同曲の中で最も印象的なフレーズになった(他の楽曲については、[[ビートルズの作品]]を参照)。


ポールのライブ・アルバム『[[バック・イン・ザ・U.S. -ライブ2002]]』のライナー・ノーツでは、同アルバムに収録されているレノン=マッカートニーの作品のすべての作曲者名を"Paul McCartney and John Lennon"と表記したので「[[オノ・ヨーコ]]がポールへの提訴を検討している」と報道された<ref name="airnet"/>。しかし、ポールがソロで歌う場合、特にジョンが作詞作曲に全く関与していない曲(「[[イエスタデイ]]」など)においては名義を逆にしても良いという了解事項がジョンとの間にあったという<ref name="airnet"/>。
ポールのライブ・アルバム『[[バック・イン・ザ・U.S. -ライブ2002]]』のライナー・ノーツでは、同アルバムに収録されているレノン=マッカートニーの作品のすべての作曲者名を"Paul McCartney and John Lennon"と表記したので「[[オノ・ヨーコ]]がポールへの提訴を検討している」と報道された<ref name="airnet"/>。しかし、ポールがソロで歌う場合、特にジョンが作詞作曲に全く関与していない曲(「[[イエスタデイ (ビートルズの曲)|イエスタデイ]]」など)においては名義を逆にしても良いという了解事項がジョンとの間にあったという<ref name="airnet"/>。


レノン=マッカートニー名義で発表されたものは、ビートルズ以外にも[[1969年]]にジョン・レノンが[[プラスティック・オノ・バンド]]名義で発表したシングル盤「[[平和を我等に]]」は、ジョンとヨーコの共作であるにもかかわらずレノン=マッカートニーのクレジットになっており<ref>1997年以降ジョン・レノン単独表記に変更。現在、著作権登録もジョン・ウィンストン・レノン単独になっている。</ref>、ビートルズ関連の作品としては唯一の例外である。このことについて、生前のジョンは前述した『PLAYBOYインタビュー ジョン・レノン』で、ビートルズから離れることへの後ろめたさのようなものがあったからであると語っていた。
レノン=マッカートニー名義で発表されたものは、ビートルズ以外にも[[1969年]]にジョン・レノンが[[プラスティック・オノ・バンド]]名義で発表したシングル盤「[[平和を我等に]]」は、ジョンとヨーコの共作であるにもかかわらずレノン=マッカートニーのクレジットになっており<ref>1997年以降ジョン・レノン単独表記に変更。現在、著作権登録もジョン・ウィンストン・レノン単独になっている。</ref>、ビートルズ関連の作品としては唯一の例外である。このことについて、生前のジョンは前述した『PLAYBOYインタビュー ジョン・レノン』で、ビートルズから離れることへの後ろめたさのようなものがあったからであると語っていた。

2021年9月20日 (月) 13:47時点における版

ビートルズ > レノン=マッカートニー
ポール・マッカートニー(左)とジョン・レノン(右)(1964年撮影)

レノン=マッカートニー英語: Lennon-McCartney)はジョン・レノンポール・マッカートニーが作詞・作曲した楽曲における共同名義。

解説

ビートルズの活動期間中に公式に発表された全213曲中144曲(全体の約68%)がレノン=マッカートニー名義の曲で、二人の共作、またはどちらか一人が単独で作詞・作曲をしていてもこの名義を使っている。デビュー・シングル盤「ラヴ・ミー・ドゥ / P.S.アイ・ラヴ・ユー」は「レノン / マッカートニー」("Lennon / McCartney")。2枚目「プリーズ・プリーズ・ミー / アスク・ミー・ホワイ」と3枚目のシングル「フロム・ミー・トゥ・ユー / サンキュー・ガール」およびアルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』は「マッカートニー=レノン」("McCartney / Lennon")、アルバム『ハード・デイズ・ナイト」では "JOHN LENNON AND PAUL McCARTNEY" と表記されている。この名義は主にイギリスで使われていて(イギリスでは作詞作曲者は名字のみでの記載が多い)、その他にも、"Lennon, McCartney"、アメリカではフルネーム表記が多く、"John Lennon - Paul McCartney"や"John Lennon & Paul McCartney"、または名前のみをイニシャルにした"J. Lennon - P. McCartney"などと表記されている。

ジョン・レノンは「ポールとぼくは、15のときに、取り決めをつくったんだよ。法律的なものじゃないんだけれども、協力して曲を書こうって決めたとき、それが何であっても、ふたりの名前で出すことにするって取り決めをね」と1980年に述べている[1]。デビュー前に2人が作った曲としては、「ワン・アフター・909」、「アイル・ビー・オン・マイ・ウェイ」などが挙げられる。

この名義をジョンとポールが使い始めた当初は、作詞・作曲への貢献度が高い方の名前を先に入れるようにしていたが、それも徹底したものではなかったようで、1963年に「アルファベットでは、LMの前に来る」、「口に出した時の語感の良さ」、「ジョンの方が年上」等という理由により、貢献度に関係なくジョンの名前を先に入れることになった[2]

基本的にはリード・ボーカル、または主旋律を歌っている方がメインで作詞・作曲を行っていることが多い(但し一部例外もあり、ジョンは高い声の部分を、メンバーで一番高い声が出せるポールに歌わせている曲がある)。但し、ジョージ・ハリスン(2曲)とリンゴ・スター(4曲。1曲「Lennon-McCartney-Starkey」名義で発表した曲がある)がリード・ボーカルを取っている楽曲については、ジョンとポールのどちらがメインで作ったかは、曲によって異なっている。

作詞作曲の過程や、2人の貢献度の割合は楽曲によって大きく異なる。初期のシングル曲はジョンとポールの共作が多く、特に1963年は発売された4枚のシングル中「プリーズ・プリーズ・ミー」を除く3枚(「フロム・ミー・トゥ・ユー」、「シー・ラヴズ・ユー」、「抱きしめたい」)がジョンとポールの完全な共作曲である。一方が曲を作った場合のケースでは、具体例として「ミッシェル」の場合、ポールが「こういう曲を作ってみたんだけど、どうも何かが足りないんだ」とジョンに相談した。するとジョンが「サビ部分をコーラスにしてみたらどうだい?」と助言して曲が完成した。結局、この部分が同曲の中で最も印象的なフレーズになった(他の楽曲については、ビートルズの作品を参照)。

ポールのライブ・アルバム『バック・イン・ザ・U.S. -ライブ2002』のライナー・ノーツでは、同アルバムに収録されているレノン=マッカートニーの作品のすべての作曲者名を"Paul McCartney and John Lennon"と表記したので「オノ・ヨーコがポールへの提訴を検討している」と報道された[2]。しかし、ポールがソロで歌う場合、特にジョンが作詞作曲に全く関与していない曲(「イエスタデイ」など)においては名義を逆にしても良いという了解事項がジョンとの間にあったという[2]

レノン=マッカートニー名義で発表されたものは、ビートルズ以外にも1969年にジョン・レノンがプラスティック・オノ・バンド名義で発表したシングル盤「平和を我等に」は、ジョンとヨーコの共作であるにもかかわらずレノン=マッカートニーのクレジットになっており[3]、ビートルズ関連の作品としては唯一の例外である。このことについて、生前のジョンは前述した『PLAYBOYインタビュー ジョン・レノン』で、ビートルズから離れることへの後ろめたさのようなものがあったからであると語っていた。

また、ブライアン・エプスタインがプロデュースした他のグループ(ザ・フォーモストアップルジャックスなど)や、ブライアンの死後にアップル・コアからデビューしたピーター&ゴードンメリー・ホプキンなどのアーティストにジョンとポールが曲を提供した際にもレノン=マッカートニーとクレジットされた。これらの曲は、1979年コンピレーション・アルバムThe Songs Lennon and McCartney Gave Away』としてEMIからリリースされた。一部の曲はビートルズとしても演奏・録音されており、『ザ・ビートルズ・ライヴ!! アット・ザ・BBC』や『ザ・ビートルズ・アンソロジー』に収録されている。また、デビュー前にはデッカ社のオーディションにおいて「ハロー・リトル・ガール」(のちにザ・フォーモストに提供)、「ライク・ドリーマーズ・ドゥ」(後にジ・アップルジャックスに提供)、「ラヴ・オブ・ザ・ラヴド」(後にシラ・ブラックに提供)の3曲が録音された。

関連項目

脚注

  1. ^ 『PLAYBOYインタビュー ジョン・レノン』、集英社(112頁)
  2. ^ a b c NOW!”. 2009年10月23日閲覧。
  3. ^ 1997年以降ジョン・レノン単独表記に変更。現在、著作権登録もジョン・ウィンストン・レノン単独になっている。

外部リンク