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2021年11月19日 (金) 09:53時点における版

{{Infobox 鉄道路線 |路線名= 相模線 |路線色=#009793 |路線色2= |画像= Series-E131-500 G-01 Takasaki-line.jpg |画像サイズ=300px |画像説明=相模線用のE131系
桶川駅 - [[北上尾駅 ) |国=日本の旗 日本 |所在地=神奈川県 |種類=普通鉄道在来線幹線) |起点=茅ケ崎駅 |終点=橋本駅 |駅数=18駅 |電報略号 = サミセ[1] |開業=1921年9月28日 |所有者=東日本旅客鉄道(JR東日本) |運営者=東日本旅客鉄道(全線)
日本貨物鉄道(茅ケ崎-厚木間) |車両基地=国府津車両センター |使用車両=使用車両を参照 |路線構造= |路線距離=33.3 km |軌間=1,067 mm |線路数=単線 |電化方式=直流1,500 V
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概要

東海道本線の茅ケ崎駅から相模川に沿って北へ向かう路線である。南側は相模川の東岸沿いを通り、北側は相模原台地の西側を築堤や切通しの連続で登り詰める。元は相模鉄道(法人としては現在の相鉄ホールディングス)の路線であったが、東海道本線と中央本線とを結ぶバイパス路線として後に国有化された。過去には支線として、1931年に廃止された寒川駅から川寒川駅への支線(通称:川寒川支線)と、1984年に廃止された寒川駅から西寒川方面への支線(通称:西寒川支線、寒川支線。「西寒川駅」の記事も参照)があった。

路線名の「相模」は相模鉄道に由来するもので、相模鉄道が神中鉄道を吸収合併した際に、相模鉄道の路線(相模鉄道相模線、現在のJR相模線)と旧 神中鉄道の路線(相模鉄道神中線、現在の相鉄本線相鉄厚木線)を区別するためにつけられた「相模線」の名称を踏襲している。旧国名に直接由来するものではない。

全線が旅客営業規則の定める「東京近郊区間」、およびIC乗車カードSuica」の首都圏エリアに含まれている。旅客案内や車体に使用されるラインカラーは相模川をイメージした濃い水色()である。

終点である橋本駅中央新幹線の停車駅となる予定であることや、寒川町倉見地区への東海道新幹線相模新駅の誘致が絡み、抜本的な輸送力増強策として地元自治体から列車行き違い施設設置や複線化などの要望があるが、莫大な費用がかかることが予想されるため、JR東日本からの具体的な動きはない[3][4]

路線データ

  • 管轄・路線距離(営業キロ
  • 軌間:1,067mm
  • 駅数:18(起終点駅含む)
    • 相模線所属駅に限定する場合、起終点駅(茅ケ崎駅は東海道本線、橋本駅は横浜線の所属[5])が除外され、16駅となる。
  • 複線区間:なし(全線単線
  • 電化区間:全線(直流1,500V)
  • 閉塞方式:自動閉塞式(特殊)
  • 保安装置:ATS-P[2]
  • 最高速度:85km/h
  • 運転指令所:橋本CTCセンター
    • 運転取扱駅(駅が信号を制御):茅ケ崎駅
    • 準運転取扱駅(入換時は駅が信号を制御):厚木駅・橋本駅
  • 最小曲線半径:107m(茅ケ崎駅付近の1か所)

全線が横浜支社の管轄である。

歴史

相模線は相模川砂利輸送を目的として建設された路線である。1921年(大正10年)に相模鉄道(法人格としては現在の相鉄ホールディングス)による私鉄線として開業後、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)6月に国有鉄道化された。相模線を国有化した理由は、戦時体制のもと、都心が攻撃された場合に備え八高横浜・相模線の迂回ルートを確保するためであったとされる[6][7]。戦後には元の運営者である相模鉄道による払い下げの動きもあり、国鉄分割民営化の前には、相模鉄道が当路線の譲受を検討したこともあったが、従業員の引き取りなどで条件が折り合わず実現しなかった。詳細は「相模鉄道#歴史」を参照。

相模線は、高度経済成長後の1980年代になって沿線がベッドタウン化し、現在のような運行形態が取られるようになったが、それまでは沿線人口は少なく、1960年代の沿線都市人口は相模原市の約20万人が最大で、沿線第3の都市であった厚木市でさえ8.9万人に過ぎなかった[注釈 1]。さらに相模川の砂利採掘が禁止された1960年頃には貨物輸送も激減し、1971年度の収支係数は374と、関東地方国鉄線の中では鹿島線の634、木原線の459に次ぐ第3位の赤字路線であり、これは現在第三セクター化されている足尾線の361や真岡線の345よりも悪く、1968年(昭和43年)に「赤字83線」に選定され廃止対象とされた烏山線の265を遥かに下回っていた。このような経営状況にも関わらず、相模線は1970年昭和45年)12月21日日本国有鉄道諮問委員会報告書において一地方ローカル線としては破格の幹線系線区に区分され、これが翌年明るみに出ると、専門家の間ではこれを疑問視する声も聞かれた。相模線はこのように関東有数の赤字路線であったにもかかわらず厚木市の日産自動車工場の製品である自動車を輸送する路線として、またベッドタウンの足として位置付けられ、国の資本が投下され続けた(とはいえ非電化であり、全線電化していた相模鉄道の現存路線との差も明らかだった)。このため、この事情を知る専門家からは「一部独占資本に奉仕する国鉄」と囁かれていた[6][8]

相模線は1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化でJR東日本の路線となり、1991年(平成3年)には全線が電化され、当線のために新製された当時では最新型の車両が投入された。電化によるスピードアップ、およびダイヤ改正による運行本数の増加(約1.5倍)、海老名駅の開業(1日乗車人数9千人前後)、横浜線への直通運転の復活などで利便性向上が図られ、また京王相模原線の橋本駅乗り入れや沿線のベッドタウン化など周辺環境の変化もあって通勤通学での利用客が増加し、現在は通勤・通学路線として定着しているものの、それでも都心へ向かう旅客流動とは無関係な線形ゆえ、周辺他線と比較すれば圧倒的に乗客が少ない。

相模鉄道

開業前

  • 1915年大正4年):会社設立が計画され、10月21日に最初の定款が作成される。当初の計画では、茅ケ崎 - 寒川 - 厚木 - 原当麻 - 久保沢(城山町)付近 - 相原の路線であった。
  • 1916年(大正5年)6月26日:相模鉄道の発起人鳥越金之助(元帝国鉄道庁技師)ほか21名に対して茅ケ崎 - 相原間の軽便鉄道敷設免許が交付される[9]
  • 1917年(大正6年)12月18日:相模鉄道の創立総会が高座郡茅ヶ崎町茅ヶ崎の伊藤里之助(当時の茅ヶ崎町長)宅にて開催。資本金は60万円、本社所在地は茅ヶ崎町茅ヶ崎5573-2に置かれた。
  • 1918年(大正7年)1月4日:相模鉄道株式会社の設立登記がされる。
  • 1919年(大正8年)
    • 7月10日:相模鉄道が日本鋼管との間に軌条約8km分の購入契約を結ぶ。
    • 7月11日:国鉄茅ケ崎駅付近(茅ケ崎駅を出て左カーブの左側)に本社事務所と機関庫が完成。
    • 7月19日:寒川 - 川寒川間の砂利採取支線の敷設許可がおりる。
    • 7月22日:砂利採取、販売兼営認可がおりる。
    • 当時は、手掘りにて砂利を採取し、鉄道開通以前であったため、狭い専用線を茅ヶ崎から敷設して、トロッコに積んで馬力で茅ヶ崎停車場に運搬し、ここから東海道線の貨車に積み替えて目的地まで運ぶというものであった[11]。敷設された専用線は、鉄道用地ではなく県道を借用していたとの記述もある。
    • 11月10日:一期工事の土木工事の入札が行われる。
    • 11月21日:香川駅停車場予定地付近にて軌道敷設起工式を開催。線路予定地から反対運動も起き、さらに鋼材が高騰し資金不足で会社設立から起工式まで2年もかかった。
  • 1920年(大正9年)
    • 1月10日:茅ケ崎駅への乗り入れ連絡が承認される。乗り入れ工事は鉄道院によって施工。
    • 5月末:乗り入れ工事完成。工事期間中に茅ヶ崎停車場共同使用願及び連帯輸送開始願を鉄道院に提出。
    • 7月:砂利の採取地を寒川村一之宮、宮山及び神田村田村(現在の平塚市田村)と決める。
  • 1921年(大正10年)
    • 5月29日:茅ケ崎駅 - 寒川駅間5.0kmにて試運転。貨車3両を連結して寒川駅 - 川寒川駅間試運転。開業に向け、鉄道省からテンダー式蒸気機関車4両、4輪客車2両、4輪無蓋車11両、4輪緩急車3両の計18両の払い下げを受けた(以上のように書かれた資料もあるが、当時の話では2両しか機関車がなかった〈1924年参照〉とされ、払い下げが記述通りに行われたのか、記憶違いかは不明)。
    • 9月12日:鉄道係員服務規則、鉄道係員懲罰規定、旅客及び貨物運輸規則、貨物運賃及び料金規則、貨物営業マイル程、運賃割引準則、増運賃規則、列車運転時刻などの諸規則が認可される。
    • 9月20日:開通を目前に岡崎久次郎をはじめ役員のほとんどが退任。草津軽便鉄道の別府藤馬[12]が代表取締役となる[13][14]

開業後

  • 1921年(大正10年)9月28日:相模鉄道線 茅ケ崎駅 - 川寒川駅間(4.0mi.≒6.44km)が開業[15]。香川駅・寒川駅・川寒川駅が開業。当時は28kgレールを使用していた。
  • 1922年(大正11年)5月10日:砂利支線(貨物線・後の西寒川支線)寒川駅 - 四之宮駅間(1.2M≒1.93km)が開業。四之宮駅が開業[16]
  • 1923年(大正12年)
    • 2月5日:東河原駅(のちの西寒川駅)が開業(貨物営業)[17]
    • 9月1日関東大震災が発生し、復旧工事のため約1か月間不通となる。
  • 1924年(大正13年)
  • 「大正12・13年頃の機関区には機関士3人、機関助手3人、技工1人、炭水夫1人、主任1人しかいなかった。機関車も101号と102号の2両しかなく、その2両で寒川まで運行していた」と相模鉄道社内報(1977年10月)に当時の話として載っている。
  • 1925年(大正14年)
    • 2月8日:投資家の南俊二が社長に就任。
    • 7月8日:茅ケ崎駅 - 寒川駅 - 四之宮駅間に対する政府補助金の申請が許可される。この前後に茅ケ崎駅構内に機関庫1棟、川寒川駅・四之宮駅に貨物扱所、寒川駅 - 川寒川駅間の四之宮分岐点に信号所などが新設される。
    • 7月:自社施設として汐留駅に砂利荷揚場が新設。震災復興資材として砂利供給の拠点となった。
  • 1926年(大正15年)
    • 1月25日:寒川駅 - 厚木駅間の起工式開催。工区は2区に分けられ倉見駅までを先行工区とし、併せて厚木駅までの線路用地及び停車場用地の買収も進めた。
    • 4月1日:寒川駅 - 倉見駅間(2.3mi.≒3.70km)が延伸開業。倉見駅が開業(旅客営業のみ貨物営業開始は7月15日)[18]
    • 7月15日:倉見駅 - 厚木駅間(3.7mi.≒5.95km)が延伸開業。のちに合併する神中鉄道の二俣川駅まで直通運転を開始。社家駅・厚木駅が開業[19]
    • 7月30日:厚木駅 - 橋本駅間の工事起工式開催。
    • 11月:工事区間の用地買収・全補償問題完了。
  • 1927年(昭和2年)4月1日:資本金を増資。目的には、茅ケ崎駅 - 寒川駅間の複線化、28kgレールを30kg以上へのレール交換などが含まれていた[20]
  • 1930年(昭和5年)
    • 4月:厚木起点5.6kmまでの区間で軌条敷設・砂利散布、つき固め工事完了。
    • 4月1日 マイル表示からメートル表示に変更(茅ケ崎駅 - 厚木駅間 9.1mi.→14.6km、寒川駅 - 川寒川駅間 0.9mi.→0.9km、寒川駅 - 四之宮駅間 1.2mi.→2.0km)。
  • 1931年(昭和6年)
    • 1月30日:厚木駅 - 橋本駅間の工事が完成するも工事代金未払いのため引き渡しを受けられず、日本興業銀行から借入支払いを行う。
    • 4月29日:厚木駅 - 橋本駅間 (18.7km) 延伸開業し全通。上今泉停留場(現在の井戸坂踏切橋本側にあたる)・座間新戸駅(現在の相武台下駅)・下溝駅・原当麻駅・上溝駅(現在の番田駅)・相模横山駅(現在の上溝駅)・作ノ口停留場が開業[21]
    • 6月19日:南俊二が投資に失敗し相模鉄道株を売却したため社長を退任[22]。次に就任した登坂小三郎は元鉄道院理事で横荘鉄道取締役であり同年に山梨電気鉄道社長に就任している[23]
    • 7月1日:宮山停留場・門沢橋停留場・本座間停留場が開業。
    • 11月1日:貨物支線 寒川駅 - 川寒川駅間 (0.9km) が廃止。川寒川駅が廃止[24]
  • 1932年(昭和7年)
    • 5月:原当麻駅 - 橋本駅間に対して鉄道省から補助金の交付を受ける。昭和6年度上期から欠損があり、日本興業銀行に対する未払い利息が25万9300円に達するほど経営状況が悪化していた。
    • 6月:ガソリン自動客車を導入。導入当時の話として「ボディーが高く、すぐに脱線してしまう。寒川駅の分岐点から少しでも入ると脱線してしまう。これではとても本線を走ることができない、何度やっても脱線する。そこで、機関区でボディーの高さを2センチほど低くしたら脱線しなくなった。」と相模鉄道社内報(1977年10月)に当時の話として載っている。
    • 6月1日:円蔵停留場・上磯部停留場が開業。
    • 11月1日:中新田停留場・大河原停留場(現在の南橋本駅)が開業。
  • 1935年(昭和10年)
    • 6月23日:貨物停車場として入谷駅が開業。
    • 8月20日:座間新戸駅構内側線が1.0km延長。
    • 10月16日:重油動力併用認可を受ける。
    • 11月2日:汽車製造会社と共同開発の日本初の電気式気動車キハ1000形流線型ディーゼル電動客車を購入、軽油を燃料に茅ケ崎駅 - 橋本駅間で運転を開始。
    • 11月7日届出:相模横山駅が本上溝駅に改称。
    • 12月24日:国鉄横浜線に乗り入れ、八王子駅までの直通運転の承認を受ける。
  • 1936年(昭和11年)1月15日:国鉄八王子駅へ直通運転開始。同時に運転本数を増やし、スピードアップを行う。
  • 1937年(昭和12年):厚木駅構内に小田急連絡線(小田急独身寮 - 坂本祭典間にあたる)が設置される。
  • 1938年(昭和13年)10月1日:座間新戸駅が陸士前駅に改称[25]
  • 1939年(昭和14年)10月1日届出:東河原駅が昭和産業駅に改称。
  • 1940年(昭和15年)
    • 月日不明:大河原停留場が相模町停留場に改称。
    • 2月1日:日東駅(現在の北茅ケ崎駅)が開業。
    • 4月20日:寒川駅 - 昭和産業駅間の旅客営業を開始[26]
    • 11月1日:陸士前駅が座間町駅に改称[27]
    • 11月15日:座間町駅が相武台下駅に改称[27]
    • 11月25日:円蔵停留場が移転。
  • 1941年(昭和16年)
    • 3月3日:香川台停留場が開業。
    • 4月1日届出:相模町停留場が駅に変更。
  • 1942年(昭和16年)4月:海軍昭和産業の工場を買収。当線での軍需輸送が始まる。
    • 10月30日届出:昭和産業駅が四之宮口駅に改称。
  • 1943年(昭和18年)
    • 4月1日:神中鉄道と相模鉄道の合併により、相模鉄道相模線となる。
    • 4月:相模海軍工廠が発足し、さらに軍事輸送が本格化する。
    • 10月1日:香川台停留場、中新田停留場、上今泉停留場、上磯部停留場、作ノ口停留場休止。
  • 1944年(昭和19年)
    • 1月21日陸運統制令により運輸通信省との間に買収協定を締結する。買収は茅ケ崎駅 - 橋本駅間および寒川駅 - 四之宮駅間の35.3kmで、その価格は390万円であった。
相模鉄道の輸送・収支実績[28]
年度 輸送人員(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1921 40,714 38,097 21,743 30,110 ▲ 8,367
1922 81,044 104,019 63,897 49,504 14,393
1923 68,755 191,164 109,529 66,384 43,145 砂利業11,176 3,789 24,931
1924 86,487 339,383 195,960 108,518 87,442 兼業雑損111,092
償却金77,794
18,905
1925 86,487 339,383 195,960 108,518 87,442 兼業雑損111,092
償却金77,794
18,905
1926 251,872 932,841 529,625 218,737 310,888 砂利採取6,013 雑損2,644
償却金13,000
31,797
1927 294,569 1,040,889 605,195 306,641 298,554 額面超過益その他
87,244
雑損その他18,742
償却金20,000
73,834
1928 277,861 1,190,779 661,518 338,691 322,827 砂利採取業10,252 償却金40,000 71,049
1929 254,539 1,195,097 682,029 346,860 335,169 砂利採取業435 雑損2,810 31,980
1930 180,825 667,282 403,858 248,109 155,749 砂利採取業143 18,424
1931 192,529 316,755 229,121 174,417 54,704 砂利採取98,810
雑損4,118
95,739
1932 279,852 340,687 252,470 165,089 87,381 雑損158,165
砂利業113,792
145,407
1933 332,983 331,843 393,402 143,742 249,660 雑損12,918
砂利業57,117
131,875 68,513
1934 366,029 363,907 258,924 151,824 107,100 砂利業3,356 雑損7,921 73,878 80,303
1935 381,206 366,445 247,232 165,963 81,269 砂利業8,676
雑損償却金17,598
72,270 128,488
1936 445,822 459,965 297,352 199,443 97,909 砂利自動車業41,054 雑損償却金45,748 85,951
1937 514,684 491,526 322,231 228,816 93,415 自動車砂利業67,806 雑損償却金22,793 83,225
1939 841,665 706,746
1941 1,473,227 645,662

国有化後

  • 1944年(昭和19年)6月1日戦時買収私鉄に指定され国有化、運輸通信省鉄道総局の管轄の相模線となる[29]
    • 停留場が駅に変更。日東駅が北茅ケ崎駅に、上溝駅が番田駅に、本上溝駅が上溝駅に、相模町駅が南橋本駅に、四之宮口駅が西寒川駅に改称。円蔵停留場・本座間停留場・香川台停留場・中新田停留場・上今泉停留場・上磯部停留場・作ノ口停留場が廃止。四之宮駅 - 西寒川駅間が廃止 (-0.5km)。厚木駅が茅ケ崎方に0.4km、原当麻駅が茅ケ崎方に0.3km移転など一部で改キロ。
  • 1946年(昭和21年)4月25日:社家駅 - 厚木駅間に山王原信号場が開設。
  • 1949年(昭和24年)
    • 3月2日:山王原信号場が廃止。
    • 6月1日:日本国有鉄道が発足。
  • 1954年(昭和29年)10月1日:寒川駅 - 西寒川駅間の旅客営業が廃止。1946年頃から旅客列車の運転はなかった。
  • 1956年(昭和31年)3月5日:キハ10形4両が茅ヶ崎機関区に新製配置。
  • 1957年(昭和32年):茅ヶ崎機関区煤煙問題で神奈川県が国鉄に抗議を行う(問題そのものは戦後からあった)
  • 1958年(昭和33年)6月5日:ダイヤ改正で相模線の客車列車がなくなり、全てディーゼル化される[注釈 2][30]
  • 1958年(昭和33年)9 - 10月:キハ20形6両が茅ヶ崎機関区に新製配置。
  • 1960年(昭和35年)11月15日:寒川駅 - 西寒川駅間の旅客営業再開[31]
  • 1961年(昭和36年)4月1日:相模線管理所が発足。
  • 1964年(昭和39年):相模川での砂利採取が禁止になる。
  • 1965年(昭和40年)
    • 1966年(昭和41年)にかけてキハ30形5両が茅ヶ崎機関区に新製配置。
    • 夏:茅ヶ崎機関区でこれまで相模線や東海道線で貨車・客車などの牽引、入換作業に従事してきた蒸気機関車の引退式。
  • 1966年(昭和41年)3月25日:蒸気機関車運転廃止。この時点では貨物列車や入換作業のみに使用されていた。国鉄から蒸気機関車の営業列車がなくなる9年前のことである。
  • 1969年(昭和44年):相模線の担当機関区が茅ヶ崎→八王子に移管された。
  • 1981年(昭和56年)4月29日:相模線全線開通から50年目をむかえ、記念のヘッドマークを掲出。
  • 1982年(昭和57年)7月27日:キハ20 56の廃車により、当線所属の気動車は35系にて統一される。
  • 1984年(昭和59年)3月31日:寒川駅 - 西寒川駅間支線廃止に伴うさよなら列車が寒川駅 - 西寒川駅間で運転。支線 寒川駅 - 西寒川駅間 (1.5km) が廃止[32]。西寒川駅が廃止[33]
  • 1986年(昭和61年)3月3日:ダイヤ改正で試行列車として運転されていた22本が定期列車になる。
    • キハ30 25・49を皮切りに朱色一色からクリームと青の相模線カラーに塗装変更された。相模線の担当機関区が八王子→茅ヶ崎に戻された。
  • 1987年(昭和62年)3月21日:海老名駅が開業。厚木駅 - 相武台下駅間の閉塞方式通票閉塞式[注釈 3]から自動閉塞式(特殊)に変更。

民営化後

電化記念ヘッドマークをつけて走る205系500番台(1991年3月17日 上溝駅)
当線経由で回送されたクモハ40形電車 40054+40074(1998年5月5日未明 橋本駅)
  • 1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道が承継。日本貨物鉄道が茅ケ崎駅 - 厚木駅間、南橋本駅 - 橋本駅間の第二種鉄道事業者となる。厚木駅 - 南橋本駅間の貨物営業が廃止。
  • 1989年平成元年)3月6日:電化工事着工[34]
  • 1990年(平成2年):南武線用205系で電化に伴う訓練列車運転。
  • 1991年(平成3年)3月16日:全線電化[35]。205系500番台電車営業運転開始。キハ30・35形気動車使用終了。茅ケ崎駅 - 厚木駅間および相武台下駅 - 橋本駅間の閉塞方式がタブレット閉塞式から自動閉塞式(特殊)に変更。これにより、全線自動閉塞式(特殊)となった。
  • 1996年(平成8年)
  • 1997年(平成9年)
    • 7月1日:日本貨物鉄道の南橋本駅 - 橋本駅間の第二種鉄道事業 (2.0km) が廃止。
    • 11月13日:茅ヶ崎車掌区と茅ヶ崎運転区を統合し、茅ヶ崎運輸区が発足。
  • 1998年(平成10年)
  • 2011年(平成23年)
    • 2月27日:電化開業から20周年を記念し、115系(豊田車両センター配置)3両編成を使用した団体臨時列車を海老名駅 - 茅ケ崎駅 - 熱海駅 - 横浜駅間にて運行[36]
    • 3月14日:11日に発生した東日本大震災に伴う輪番停電の影響を受けて、この日から終日全線で運転が見合せとなる。その後、3月20日[37]から寒川駅 - 茅ケ崎駅間で、3月28日から橋本駅 - 寒川駅間で運転が再開されたものの、全線の運転が再開されるまでに約2週間を要した。これは、相模線が他の路線のようなJR自前の変電所を持たず、東京電力からの電力供給に依存していたことが原因であった[37]
  • 2015年(平成27年)
    • 3月14日:ダイヤ改正により、朝夕の横浜線直通列車が10往復から6往復に減便。
    • 3月22日:「さがみロボット産業特区」のPRのため、9月末まで相模線の1編成(R13編成)をラッピングした「アトムトレイン」を運行。
    • 12月12日:団体臨時列車として485系「彩」を使用した「Shu-Shu Train」を橋本駅 - 茅ケ崎駅 - 根府川駅 - 横浜駅間で運行。
  • 2016年(平成28年)4月2日:団体臨時列車として485系「彩」を使用した「Shu-Shu Train2」を橋本駅 - 茅ケ崎駅 - 根府川駅 - 横浜駅間で運行。
  • 2020年令和2年)
  • 2021年(令和3年)11月18日E131系電車500番台の営業運転を開始[38]

運行形態

全列車が相模線用に投入された205系500番台電車4両編成で運転されており、すべての列車が各駅停車である。

基本的には茅ケ崎駅 - 橋本駅間の線内折り返し運用だが、朝夕の一部列車は橋本駅から横浜線に乗り入れて八王子駅まで運転されている。この八王子駅発着列車は2015年3月13日までは10往復設定されていたが、翌14日のダイヤ改正で6往復に減便された。また、茅ケ崎駅 - 海老名駅間の区間運転も行われている。日中は全線直通の列車が約20分間隔で運転されている。かつての非電化時代には、橋本駅 - 南橋本駅原当麻駅厚木駅間、茅ケ崎駅 - 寒川駅間などの区間運転も行われていた。また、両運転台気動車による単行運転の列車も存在した。1991年の電化後もしばらくは橋本駅 - 厚木駅間の区間運転が下り始発・上り最終に1往復設定されていたが、茅ケ崎駅まで延伸されて消滅した。

旅客列車が運行されるほか、相模鉄道の車両の甲種輸送の際に使用される。2021年現在、厚木駅経由の相模鉄道への甲種輸送などは、昼間に貨物列車のダイヤ設定がなくなったため、深夜帯に臨時貨物列車として運転されている。

列車交換のために特定の駅(交換駅)ごとに停車時間が2分 - 5分と長めに取られているため、茅ケ崎駅 - 橋本駅間で所要時間が最速列車(下り始発の49分)に比べて最大24分遅くなる列車がある。

  • 下り 北茅ケ崎駅・寒川駅・倉見駅・社家駅
  • 上り 社家駅・倉見駅・北茅ケ崎駅

使用車両

現在の使用車両

全列車とも205系500番台国府津車両センター配置)の4両編成が使用される。車体の帯は水色濃淡2色()である。1991年製の車両で、新造編成としては205系の最終形態である[注釈 4]

相模線では電化以前(少なくとも1976年以降)よりドアの開閉を12月から3月まで半自動扉で行っていた(一部35系の半自動装置非装備車を除く)が、電化以後のこの車両では、当時としては最新型のボタン式半自動扉を採用し、通年で使用している。ただし直通先の横浜線内では車掌の一括操作によりすべてのドアが開閉する。橋本駅では八王子行も含めて相模線ホームに発着のため半自動扱いとなる(2020年4月8日より、新型コロナウイルス感染症対策として、始発駅と終着駅を除き、すべての区間でドアが自動開閉するようになっている[39])。

電化開業前の試運転では、南武線用の205系6両編成を4両に短縮した編成が使用されたことがある。

導入予定車両

  • E131系 - 4両編成12本(計48両)製造し、2021年11月18日運行開始予定[40][38]

過去の主な使用車両

電化前に使用されていたキハ35系(1988年頃、橋本駅)

相模線は国鉄分割民営化当時、JR東日本の東京近郊区間内では、八高線とともに気動車が運転される数少ない線区であった。1991年に相模線が電化されたことにより、神奈川県は日本で初めて気動車による定期旅客列車が存在しない(貨物専用線を除く県内すべての鉄道旅客路線が電化されており、なおかつ他線区から乗り入れる気動車列車が全くない)県となった[注釈 5]

また、横浜市金沢区東急車輛製造(現・総合車両製作所横浜事業所)で落成した全国各地向け気動車の公式試運転路線としても有名であった。北海道向けから九州向けまでの車両を見ることもできたことは、夏季に見られた房総線(現在の内房外房成田線にあたる)の臨時快速で全国から駆り出された(あるいは試運転前提で投入された)各地域仕様気動車が見られた千葉地区に次ぐものである。

過去には以下の車両を使用していた。以下に示すのはすべて気動車である。

  • キハ04形・キサハ04形200番台
    • 1963年2月9日にキサハ04 202が廃車となり、当線から本系列は消滅した。
  • キハ10形・キハ16形・キハ17形・キハユニ16形[41]
    • 気動車の首都圏色(朱色5号一色)は、1976年に当線で運用されていたキハ10 61に施されたのが初めてである[42]。首都圏色はその後日本全国に波及した。
    • キハ16形は5・6・24・64の4両のみ配属。キハ17形は30・357の2両のみ配属。キハユニ16形は2・6の2両のみ配属。
    • キハ10 23-26の4両は当線新製配属車両である。
    • 1980年3月17日にキハ10 42が廃車となり、当線から本系列は消滅した。
  • キハ20形
    • 1958年にキハ20 206-211の6両が新製配属されるも、209・210を残して早期に転出。1976年にはキハ20 281が転入するも1981年前半に一旦当線においては形式消滅。その後キハ20 56が1981年後半に転入し、1982年まで運用された。
  • キハ30形・キハ35形・キハ36形
    • 気動車において地域別のカラーリングを採用したのは、1986年に当線で運用されていたキハ30 25に対して、クリーム1号地に青20号の帯というデザインが施されたものが初めてである[43](このカラーリングは、茅ケ崎駅の乗り換え専用跨線橋の内装デザインにも使われている)。1991年の電化完成で運用を終了した。寒冷地仕様の500番台車(車号は下記参照)、及びステンレス車のキハ35 904が1991年まで運用されていた。
    • キハ36形は2・3・37の3両のみ配属。
    • キハ30 41・42・67・77・97の5両は当線新製配属車両である。また、キハ30 26は福井機関区配属時代に正面左側に気笛増設工事が行われ、外見は気笛のシャッターが残されていた。
    • 寒冷地仕様の500番台車で当線に転入した車を以下に示す。
      キハ30 505・506、キハ35 513-520・524・531
    • 1991年まで運用されていた車両のうち、キハ30 62はいすみ鉄道国吉駅に保存され、キハ30 100は水島臨海鉄道に譲渡されて運用されている。この2両は当線電化後に久留里線へ転属し、2012年の車両置き換えまで運用されていたものである。
  • キハ26形400番台
    • キハ26 428の1両のみ配属。

相模鉄道時代の車両

車両数の変遷[28]
年度 蒸気機関車 内燃動車 客車 貨車
有蓋 無蓋
1921 2 2 11
1922 2 2 14
1923 2 2 20
1924-1925 4 2 20
1926 6 6 2 154
1927 9 6 2 166
1928-1930 9 6 2 166
1931 9 6 2 156
1932 7 4 6 2 156
1933-1934 5 4 6 2 154
1935-1937 5 8 6 2 154

駅一覧

  • 全列車各駅停車(全駅に停車)
  • 線路(全線単線) … ◇・∨・∧:列車交換可、|:列車交換不可
  • 全駅神奈川県内に所在
駅名 駅間
営業キロ
累計
営業キロ
接続路線 線路 所在地
茅ケ崎駅 - 0.0 東日本旅客鉄道JT 東海道線 (JT 10)(湘南新宿ライン上野東京ラインを含む) 茅ヶ崎市
北茅ケ崎駅 1.3 1.3  
香川駅 2.1 3.4  
寒川駅 1.7 5.1   高座郡
寒川町
宮山駅 2.1 7.2  
倉見駅 1.4 8.6  
門沢橋駅 1.4 10.0   海老名市
社家駅 1.6 11.6  
厚木駅 2.6 14.2 小田急電鉄OH 小田原線 (OH33)
相模鉄道厚木線(貨物線)
海老名駅 1.7 15.9 小田急電鉄:OH 小田原線 (OH32)
相模鉄道:SO 本線 (SO18)
入谷駅 3.0 18.9   座間市
相武台下駅 1.7 20.6   相模原市 南区
下溝駅 2.9 23.5  
原当麻駅 1.3 24.8  
番田駅 2.1 26.9   中央区
上溝駅 1.5 28.4  
南橋本駅 2.9 31.3  
橋本駅 2.0 33.3 東日本旅客鉄道:JH 横浜線 (JH 28)(八王子駅まで直通運転)
京王電鉄KO 相模原線 (KO45)
緑区

2019年度の時点で、JR東日本自社による乗車人員集計[44]の除外対象となる駅(完全な無人駅)は、宮山駅・倉見駅・門沢橋駅・社家駅・入谷駅・相武台下駅・下溝駅・番田駅である。

発車メロディ

相模線内各駅の発車メロディは、後述する茅ケ崎駅を除き、他線区にはない「近郊地域20番」「近郊地域20-1番」(旭電通(現・東洋メディアリンクス)製)と鉄道愛好家の中で通称されている曲のみとなっている。かつては2001年の高架化から2016年まで上溝駅で「せせらぎ」(日本電音製)のフェードアウト版が使用されていた(さらにその前は「近郊地域20番」を使用していた)。近郊地域20番は橋本駅・原当麻駅・海老名駅・厚木駅・寒川駅の各駅で使用されている(橋本駅は余韻が短い。以前は総武本線佐倉駅で使用されていた)。もう1曲の近郊地域20-1番は、南橋本駅・上溝駅・番田駅・下溝駅・相武台下駅・入谷駅・社家駅・倉見駅・門沢橋駅・宮山駅・香川駅・北茅ケ崎駅の各駅で使用されている。電化され駅自動放送が導入された当初は、全駅が近郊地域20番に統一されていた。2021年9月28日より、茅ケ崎駅で加山雄三の「海 その愛」の使用が開始され、合わせて加山の復元音声による啓発放送の使用も開始された[45]。なお、変更前は「ベル・高音」と「ベル・低音」が使用されていた。

また、駅自動放送は茅ケ崎駅・橋本駅がATOS型、海老名駅・原当麻駅が東海道型放送(詳細型)、寒川駅が巌根型放送、北茅ケ崎駅・香川駅・宮山駅・倉見駅・門沢橋駅・社家駅・相武台下駅・下溝駅・番田駅・上溝駅・南橋本駅が巌根・館山型放送、入谷駅が新仙石型放送、それ以外の駅は仙石型放送である。なお、以前は全駅とも東海道型放送(簡易型)、上溝駅は2001年の高架化から2016年までユニペックス型放送が使われていたが、放送装置更新や、駅舎リニューアルなどに伴い、現在の形になっている。

廃止区間

( )内は起点からの営業キロ。

寒川支線
寒川駅 (0.0km) - 西寒川駅 (1.5km) - 四之宮駅 (2.0km)
寒川駅 (0.0km) - 川寒川駅 (0.9km) (貨物線)

廃駅・廃止信号場

#廃止区間にある駅を除く。括弧内は茅ケ崎駅起点の営業キロ

  • 円蔵停留場:1944年廃止、北茅ケ崎駅 - 香川駅間(1940年の移転前は2.0km、移転後は不明)
  • 香川台停留場:1943年休止、北茅ケ崎駅 - 香川駅間
  • 山王原信号場:1949年廃止、社家駅 - 厚木駅 (12.9km)
  • 中新田停留場:1943年休止、社家駅 - 厚木駅間 (13.9km)
  • 上今泉停留場:1943年休止、海老名駅 - 入谷駅間 (17.3km)
    • 井戸坂踏切の橋本寄りの東側にあった。現在でも不自然な空間があり駅のホームがあった場所が見てとれる。
    • 郷土出版社「目で見る大和・座間・海老名・綾瀬の100年」に上今泉駅の写真が1枚掲載されており、40m程のホームがあったことが画像から分かる。
  • 本座間停留場:1944年廃止、入谷駅 - 相武台下駅間 (19.7km)
  • 上磯部停留場:1943年休止、相武台下駅 - 下溝駅間 (22.6km)
  • 作ノ口停留場:1943年休止、上溝駅 - 南橋本駅間 (30.2km)

駅別乗車人員上位10駅

JR東日本調べ 1日平均(2018年度)[46]

順位 駅名 人数
1 橋本駅 66,136
2 茅ケ崎駅 56,519
3 海老名駅 14,127
4 寒川駅 6,938
5 厚木駅 6,864
6 上溝駅 6,286
7 南橋本駅 5,594
8 香川駅 5,465
9 原当麻駅 5,164
10 北茅ケ崎駅 2,855
参考 八王子駅 85,003

(ランキングにない駅は無人駅のためデータ非公表)

脚注

注釈

  1. ^ 相模線は厚木市内を走っていないが、厚木駅が相模線にある。
  2. ^ 茅ヶ崎市文化資料館
  3. ^ 国鉄時代の呼び方。現在はタブレット閉塞式。
  4. ^ 編成単位での最終増備は同年10月武蔵野線向け0番台、増結車を含めると1994年12月の横浜線向けサハ204形100番台がそれぞれ205系の最終形態となっている。
  5. ^ 神奈川県以外では奈良県東京都もこの条件を満たしている。

出典

  1. ^ 日本国有鉄道電気局『鉄道電報略号』1959年9月17日、21頁。 
  2. ^ a b サステナビリティレポート2018 34頁 - JR東日本、2018年9月
  3. ^ JR相模線の増発について(平成26年5月回答)”. 茅ヶ崎市 (2014年10月20日). 2018年6月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年4月1日閲覧。
  4. ^ 神奈川県鉄道輸送力増強促進会議 令和元年度 要望・回答 東日本旅客鉄道 相模線” (PDF). 神奈川県. p. 1 (2020年5月1日). 2021年1月23日閲覧。
  5. ^ 『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』JTB 1998年
  6. ^ a b 福田行高、山田俊明「ローカル線を探る 相模線」『鉄道ピクトリアル』1974年2月号 通巻289号 電気車研究会 p.64 - p.65, p.67
  7. ^ 相鉄グループ100年史』相鉄ホールディングス 、2018年12月、36ページ
  8. ^ 『1971(昭和46)年度 国鉄線区別収支係数』、 鉄道ピクトリアル 1972年11月号、 通巻271号(鉄道図書刊行会刊)
  9. ^ 「鉄道免許状下付」『官報』1916年6月28日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  10. ^ 『人事興信録. 6版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  11. ^ 『相鉄70年史』p.17
  12. ^ 『日本全国諸会社役員録. 第29囘』
  13. ^ 『相鉄線物語』230クラブ新聞社、1997年、39頁
  14. ^ 『日本全国諸会社役員録. 第29囘』『日本全国諸会社役員録. 第30囘』
  15. ^ 『鉄道省鉄道統計資料. 大正10年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  16. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1922年5月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  17. ^ 「地方鉄道停車場設置」『官報』1923年2月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  18. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年4月7日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  19. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年7月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  20. ^ 『相鉄70年史』
  21. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1931年5月5日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  22. ^ 『相鉄線物語』51頁
  23. ^ 『帝国銀行会社要録. 第19版(昭和6年)』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  24. ^ 「地方鉄道運輸営業廃止」『官報』1931年11月9日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  25. ^ 鉄道省監督局「地方鉄道、軌道事業の現況並に異動」『電気協会雑誌』第205号、日本電気協会、1939年1月、附録2頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)
  26. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1940年5月23日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  27. ^ a b 鉄道省監督局「地方鉄道・軌道異動並に現況表」『電気協会雑誌』第231号、日本電気協会、1941年3月、附録2頁。(国立国会図書館デジタルコレクション)
  28. ^ a b 鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版
  29. ^ 「運輸通信省告示第250号」『官報』1944年5月27日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  30. ^ 『時刻表』昭和33年7月号による。
  31. ^ 1960年(昭和35年)11月12日日本国有鉄道公示第571号「日本国有鉄道線路名称の一部を改正する件」
    1960年(昭和35年)11月12日日本国有鉄道公示第572号「相模線西寒川停車場において旅客の取扱を開始する件」
  32. ^ 1984年(昭和59年)3月22日日本国有鉄道公示第215号「運輸営業の廃止」
  33. ^ 1984年(昭和59年)3月22日日本国有鉄道公示第216号「駅の廃止」
  34. ^ “JR相模線 電化工事クワ入れ 2年度完成へ安全祈願祭”. 交通新聞 (交通新聞社): p. 1. (1989年3月7日) 
  35. ^ “相模線16日に電化開業”. 交通新聞 (交通新聞社): p. 3. (1991年3月1日) 
  36. ^ 「相模線電化20周年記念 115系電車の旅」運転 - 『鉄道ファン交友社 railf.jp鉄道ニュース 2011年3月1日
  37. ^ a b JR相模線、10日連続運休…自前変電所なし - 読売新聞、2011年3月24日
  38. ^ a b "相模線E131系営業運転開始について" (PDF) (Press release). 東日本旅客鉄道横浜支社. 17 September 2021. 2021年9月17日時点のオリジナル (PDF)よりアーカイブ。2021年9月17日閲覧
  39. ^ JR相模線ドア開閉「ボタン式」中止『タウンニュース』茅ヶ崎版、2020年4月17日号
  40. ^ "相模線への新型車両の投入について" (PDF) (Press release). 東日本旅客鉄道横浜支社. 17 June 2021. 2021年6月17日時点のオリジナル (PDF)よりアーカイブ。2021年6月17日閲覧
  41. ^ 鉄道ピクトリアル No.637 p.7
  42. ^ 鉄道ピクトリアル』通巻637号 電気車研究会 p.22
  43. ^ 鉄道ファン』通巻302号 交友社 p.128
  44. ^ 各駅の乗車人員”. 東日本旅客鉄道. 2020年12月15日閲覧。
  45. ^ 相模線開業100周年記念イベントを開催します” (PDF). JR東日本. p. 1 (2021年9月17日). 2021年9月29日閲覧。
  46. ^ 各駅の乗車人員 2018年度 ベスト100- 東日本旅客鉄道、2020年5月13日閲覧

関連項目

外部リンク