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「ヤエノムテキ」の版間の差分

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'''ヤエノムテキ'''(欧字名:{{Lang|en|Yaeno Muteki}}、[[1985年]][[4月11日]] - [[2014年]][[3月28日]])は[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]<ref name="jbis"/>。
'''ヤエノムテキ'''(欧字名:{{Lang|en|Yaeno Muteki}}、[[1985年]][[4月11日]] - [[2014年]][[3月28日]])は[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]<ref name="jbis"/>。


[[1990年]]の[[JRA賞最優秀父内国産馬]]である。[[1988年]]の[[皐月賞]]、1990年の[[天皇賞(秋)]]と[[東京競馬場]]芝2000メートルの{{GI}}2勝した。その他の勝ち鞍に、1988年の[[京都新聞杯]]({{GII}})、[[鳴尾記念]](GII)、1989年の[[大阪杯|産経大阪杯]](GII)
[[1990年]]の[[JRA賞最優秀父内国産馬]]である。[[1988年]]の[[皐月賞]](GI)、1990年の[[天皇賞(秋)]](GI)勝した。


また、1988年の[[京都新聞杯]](GII)、[[鳴尾記念]](GII)、1989年の[[大阪杯|産経大阪杯]](GII)を優勝した。
==生涯==
=== デビューまで ===
ツルミスターは、[[抽せん馬]]であった<ref name=":0">『優駿』2002年4月号 49頁</ref>。[[栗東トレーニングセンター]]の[[荻野光男]]調教師の下で3戦に出走し未勝利に終わったが<ref>{{Cite web2 |title=ツルミスター |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000127734/ |website=JBISサーチ |accessdate=2021-07-21}}</ref>、東京優駿優勝馬の父である[[イエローゴッド]]、[[ソロナウェー]]、[[トサミドリ]]を祖先に持つ血統的な背景と、馬体に力があったことに荻野が着目<ref name=":0" />。荻野がツルミスターの馬主を説得して「[[繁殖牝馬#仔分け|仔分け]]」という形で、生まれ故郷の宮村牧場にて[[繁殖牝馬]]となった<ref name=":0" />。


==デビューまで==
荻野は、配合相手も自身で選び、繁殖生活1年目は[[ニジンスキー (競走馬)|Nijinsky]]産駒の[[ヤマニンスキー]]を推薦、ツルミスターと種付けを行った<ref name=":0" />。1985年4月11日、宮村牧場にて、栗毛で[[馬のマーキング#顔のマーキング|四白流星]]を持つ牡馬(後のヤエノムテキ)が誕生した<ref name=":0" />。


=== 誕生までの経緯 ===
産まれた仔は、同世代の馬に比べて大柄であった<ref name=":0" />。当歳の頃から、牝馬と同じ場所で放牧すると、牝馬の後ろを付け回していたことから、牧場で放牧するときは、1頭のみにされていた<ref name=":0" />。2歳となり、[[三重県]]の育成場に移動。荻野は時間が空くと、厩舎を構える[[滋賀県]]の栗東トレーニングセンターから1時間かけてたびたび訪れて、指示を出したり、様子を確認していた<ref name=":0" />。


===競走馬時代===
==== 宮村牧場 ====
宮村牧場は、[[北海道]][[浦河町]]の競走馬生産牧場である。1953年に伏木田牧場から宮村岩雄が、「円満独立{{Efn|宮村の妻は、伏木田牧場の娘である<ref name="優駿-1991-2-24" />。}}」(伏木田達之)して開場していた<ref name="優駿-1988-8-12">『優駿』1988年8月号 12頁</ref>。宮村は、伏木田牧場での修行時代、第三ハンナーという[[繁殖牝馬]]に惚れ込んでいた<ref name="優駿-1988-8-12" />。修行時代には、宮村自身で、その第三ハンナ―にトキノチカラをあてがっていた。そして産まれた牝馬が、フジサカエだった<ref name="優駿-1988-8-12" />。宮村は独立の際、繁殖牝馬1頭で独立している。その牧場の基礎繁殖牝馬に選り抜いたのが、お気に入りの牝馬の仔であるフジサカエだった<ref name="優駿-1988-8-12" />。
==== 3-4歳(1987-88年) ====
3歳夏前に荻野厩舎に入厩し、夏の[[函館競馬場]]開催でデビューする予定であったが、後肢の成長が十分でなかったことから延期。栗東に戻り、立て直したためにデビューは4歳の2月となった。[[阪神競馬場]]ダート1700メートルの[[新馬戦]]に、[[西浦勝一]]騎手鞍上で出走<ref name=":0" />。3番手から直線で前2頭をかわすと、後方に7馬身離す独走状態で初勝利を挙げた<ref name=":0" />。再びダート、[[中京競馬場]]1700メートルの沈丁花賞(400万円以下)では、2秒差、12馬身差という大差で連勝した<ref name=":0" />。[[ローテーション (競馬)|連闘]]で初めての芝コース、重馬場の[[毎日杯]]({{GIII}})に挑戦した<ref name=":0" /><ref name=":1">『優駿』2002年4月号 50頁</ref>。[[オグリキャップ]]が[[ペガサスステークス]]({{GIII}})に続いて重賞連勝を果たし、その3馬身半ほど遅れた4着に敗れた<ref name=":1" />。


そのフジサカエは[[トサミドリ]]とまぐわい、ハマミドリという牝馬を生産する。そしてハマミドリは、[[ソロナウェー]]とまぐわい、フジコウという牝馬を生産する<ref name="優駿-1988-8-12" />。このフジコウは牧場で繁殖牝馬となり、宮村が「カマド馬」と称するほどの活躍で牧場を支えることとなる<ref name="優駿-1988-8-12" />。産駒は、[[地方競馬]]で多く活躍した<ref name="優駿-1988-6-139" />。そして1979年、フジコウは[[イエローゴッド]]とまぐわう。翌1980年に産まれたのがツルミスターだった<ref name="優駿-1988-6-139" />。
出走に必要な賞金の上乗せには失敗したものの、その後[[皐月賞]]({{GI}})に登録。400万円以下を勝利したに過ぎないヤエノムテキは、出走馬決定順で16位タイであった<ref name=":1" />。同じ16位には同じ賞金の6頭がおり、フルゲート18頭に対して3頭超過していた<ref name=":1" />。そこで、16位の6頭から出走できる3頭を選ぶ確率2分の1の抽選が実施され、ヤエノムテキは当選、出走が叶った<ref name=":1" />。単勝オッズ25.2倍の9番人気の支持、有利とされる1番枠からの発走だった。第2コーナーでメイブレーブ、マイネルフリッセによる斜行で1番人気のモガミナインが不利を受ける中、その影響を受ける事無く[[サクラチヨノオー]]をマークしながら好位の4番手で進み、直線で鋭く脚を伸ばして2着のディクターランドに4分の3馬身差をつけて優勝した<ref name=":1" />。芝でのレース初勝利が{{GI}}及び[[クラシック (競馬)|クラシック]]であり、デビューから3戦で皐月賞を制したのは、[[トウショウボーイ]]以来12年ぶりのことだった<ref name=":1" /><ref group="注釈">トウショウボーイが制した1976年皐月賞も、東京競馬場での開催であった。</ref>。


==== ツルミスター ====
9番人気で皐月賞を制したために評価が急上昇、[[東京優駿]](日本ダービー)に向けて次第に取材のメディアも増え、荻野の後頭部が[[円形脱毛症]]になるほどのプレッシャーを感じていた<ref name=":2">『優駿』2002年4月号 51頁</ref>。人気は、皐月賞を回避した[[JRA賞最優秀2歳牡馬|JRA賞最優秀3歳牡馬]]の[[サッカーボーイ]]に譲り、2番人気。最初のコーナーを6番手、中団から徐々に外へ持ち出して最後の直線に入った<ref name=":2" />。しかし、内から抜け出した[[サクラチヨノオー]]や[[メジロアルダン]]、コクサイトリプルなどを捕らえることができず、勝利したサクラチヨノオーに約3馬身離された4着、荻野は敗因を距離に求めていた<ref name=":2" />。
ツルミスターは、父イエローゴッド、母フジコウの牝馬である。[[抽せん馬]]として競走馬となり、[[栗東トレーニングセンター]]所属の荻野光男調教師の管理のもとでデビュー<ref name="優駿-1994-6-78" />。4歳でデビューしたが、球節をきたして上手く走れず、3戦未勝利だった<ref name="優駿-2002-4-49" />。


引退後の処遇について荻野は、乗馬或いは使役馬にするつもりだった<ref name="優駿-1994-6-78" />。しかし血統を思い返した時、母系に引き合わされた種牡馬が三代連続(父(イエローゴッド)、母父(ソロナウェー)、母母父(トサミドリ))でいずれも東京優駿優勝馬の父{{Efn|父[[イエローゴッド]](1981年[[カツトップエース]])、母父[[ソロナウェー]](1965年[[キーストン]]、1966年[[テイトオー]])、母母父[[トサミドリ]](1959年[[コマツヒカリ]])}}であることに気づく<ref name="優駿-1994-6-78" />。さらに馬体自体も高く買っていたことから、一転、繁殖牝馬にしようと決意<ref name="優駿-2002-4-49" />。荻野が馬主を説得して「仔分け」として、宮村牧場で繋養された<ref name="優駿-1994-6-78" />。
放牧に出ずに7月、1800メートルの[[ファルコンステークス|中日スポーツ賞4歳ステークス]]({{GIII}})に進み、勝ったサッカーボーイに半馬身差の2着<ref name=":2" />。2か月の休養を経て、9月の函館競馬場、UHB杯(OP、芝1800メートル)で復帰し、[[金鯱賞]]({{GIII}})を制したパッシングパワー、[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]({{GII}})を制したトウショウサミットなど初対戦となる古馬勢に対して勝利した<ref name=":2" />。


ツルミスターの初年度である1984年には、父[[ニジンスキー]]、母父[[バックパサー]]の[[ヤマニンスキー]]が選ばれる。「父ニジンスキー、母父バックパサー」は、1976年[[朝日杯3歳ステークス]]を制するなど8戦無敗、クラシック不参戦の[[持込馬]][[マルゼンスキー]]と同じ血統構成だった<ref name="優駿-1988-6-111">『優駿』1988年6月号 111頁</ref>。ヤマニンスキーも同様にクラシック参戦不能の持込馬としてデビュー、条件戦優勝に留まる22戦5勝だった<ref>『優駿』1988年6月号 160頁</ref>。競走成績はそれほどだったが、血統が高く買われて種牡馬となる<ref name="優駿-1988-6-111" />。供用初年度の1982年から32頭の繁殖牝馬を、以降1994年までは少なくとも30頭は集め、70頭に達したこともあった<ref>{{Cite web |title=種牡馬情報:世代・年次別(サラ系総合)|ヤマニンスキー|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000077996/sire/generation/thorough_s/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-07-13}}</ref>。
菊花賞の前哨戦である[[京都新聞杯]]({{GII}})も制して[[菊花賞]]({{GI}})に挑んだ。ダービー馬サクラチヨノオーは[[屈腱炎]]で戦線離脱、サッカーボーイは短距離路線に、オグリキャップは古馬相手に挑戦<ref name=":2" />。これまで敗れた相手の参戦がなく、皐月賞馬かつ前哨戦で勝利するなど順調であったことから1番人気に推された<ref name=":2" />。6番手につけて、直線コースで追い込みを図ったが失速、10着に敗れた<ref name=":2" />。なお、この年の12月発売の『優駿』誌上において、評論家の[[大川慶次郎]]は菊花賞の敗因を距離が長かったことだと指摘し、適距離は1800mから2200mだとの見解を示し、翌年は宝塚記念および秋の天皇賞を目指すべきと主張している<ref>大川慶次郎「げっかん評論 東」『優駿』1989年1月号、日本中央競馬会、122頁</ref>。距離適性を改めて確認するために、[[有馬記念]]ではなく当時2500メートルで行われていた[[鳴尾記念]]({{GII}})を選択し、ハナ差の接戦を制して重賞3勝目を挙げた<ref name=":2" />。


ツルミスターの相手にヤマニンスキーを選んだのは、宮村岩雄の次男徳二{{Efn|長男は急性肺炎を患い、長女は豪雨の際に事故に遭遇。当初は、工業高校から他の仕事をするつもりだったが、牧場の手伝いをしていた<ref name="優駿-1991-2-24" />。}}によれば、安原實だったという<ref name="優駿-1988-8-14">『優駿』1988年8月号 14頁</ref>。安原は、同じ浦河町でヤスハラ・ホースガーデン(安原馬苑)を営んでおり、アメリカの調教師免許を取得した過去もあった<ref name="優駿-1988-8-14" />。宮村が「ツルミスターに何がいいかなぁ?」と訊いたときに、安原が提案したという<ref name="優駿-1988-8-14" />。安原はヤマニンスキーについて、特に母系を高く買っていたほかに、このように述べている<ref name="優駿-1988-8-14" />。{{Quotation|イエローゴッド系列の仔は大きく出ます。ヤマニンスキーもゴツい馬です。大きすぎる仔が出るんじゃないかと、それだけが心配でしたね。|安原實<ref name="優駿-1988-8-14" />}}一方で、荻野は、自身で選んだと自称している。既に走っていたヤマニンスキー産駒を見て、その走りっぷりを高く買っていたという<ref name="優駿-2002-4-49" />。他にこのように述べている。{{Quotation|(ヤエノ)ムテキの母のツルミスターは抽せん馬だったけれど馬力があった。そこで私はヤマニンスキーをつけてもらった。ヤマニンスキーはニジンスキー産駒で馬格があり、私が好きな馬だったんだ。言わば私が気に入ったもの同士を一緒にさせたようなものでね。 |荻野光男<ref>『優駿』1988年6月号 137頁</ref>}}1985年4月11日、北海道浦河町の宮村牧場にて、ツルミスターの初仔となる栗毛の牡馬(後のヤエノムテキ)が誕生する<ref name="優駿-1994-6-78" />。
====5-6歳(1989-90年)====
[[古馬]]となり、2200メートルの[[日経新春杯]]({{GII}})2着と敗れた後、荻野は適性が2000メートルであると突き止め<ref name=":2" />、2000メートルに戻って[[産経大阪杯]]({{GII}})に参戦。3番手から最後の直線に進入し、先行する[[ランドヒリュウ]]や[[ゴールドシチー]]を差し切り、3馬身半差を離して勝利した<ref name=":2" />。前哨戦を経ずに[[宝塚記念]]({{GI}})に1番人気で出走したが、2番人気のイナリワンが勝利し、その1.6秒遅れた7着に敗れた<ref name=":2" />。秋には調整の失敗もあってぶっつけで[[天皇賞(秋)]]({{GI}})に挑むも4着、[[有馬記念]]は6着に終わった<ref name=":2" />。年明けて6歳となっても日経新春杯2着、[[マイラーズカップ]]({{GII}})3着、産経大阪杯3着と勝ちきれない競馬が続いた<ref name=":3">『優駿』2002年4月号 52頁</ref>。[[安田記念]]({{GI}})からはそれまで主戦だった西浦から[[岡部幸雄]]に乗り替わって参戦したが2着、宝塚記念は3着と{{GI}}でも上位になるも勝利を挙げることができなかった<ref name=":3" />。


=== 幼駒時代 ===
前年と同じく、宝塚記念からぶっつけで天皇賞(秋)に参戦。7番枠からスタートすると中団の内側を追走、直線では内を突いて残り400メートルで先頭に立つと、最後は[[メジロアルダン]]の急襲をアタマ差抑えて優勝、サクラユタカオーが保持していたコースレコードを上回るタイムで走破し、{{GI}}2勝目を飾った<ref name=":4">『優駿』2002年4月号 53頁</ref>。(レースに関する詳細は、[[第102回天皇賞]]を参照。)続く[[ジャパンカップ]]({{GI}})では6着(レースに関する詳細は、[[第10回ジャパンカップ]]を参照)、引退レースとなる有馬記念に出走。ヤエノムテキは本馬場入場直後に放馬。馬体に異常無しとしてレースには出走したものの7着に敗れ、現役生活を終えた<ref name=":4" />。
初仔は、他と比べて大柄だった。周りに相撲をふっかけては下し<ref name="優駿-1988-8-15" />、牝馬がいればその後ろを追いかけまわした<ref name="優駿-2002-4-49" />。初仔がいじめばかりするため、放牧するときは隔離する措置が取られた<ref name="優駿-1994-6-78" /><ref name="優駿-2002-4-49">『優駿』2002年4月号 49頁</ref>。2歳末に、三重県の大静牧場へ移動し、育成が施された<ref name="優駿-1994-6-78" />。荻野は、栗東から頻繁に訪れて、初仔の成長を見守った<ref name="優駿-2002-4-49" />。


荻野は、馬主歴30年超の有限会社富士取締役社長・大池正夫に「いい馬がいるから買いませんか」と勧めた<ref name="優駿-1988-6-64">『優駿』1988年6月号 64頁</ref>。大池はそれに応えて1300万円で購入、有限会社富士名義での所有となる<ref name="優駿-1990-12-68">『優駿』1990年12月号 68頁</ref><ref name="優駿-1994-6-78">『優駿』1994年6月号 78頁</ref>。初仔には、有限会社富士の冠名「ヤエノ」に「ムテキ」が組み合わされた「'''ヤエノムテキ'''」という競走馬名が与えられた。同期の有限会社富士名義の競走馬には、トウショウボーイ産駒のヤエノダイヤがいた。ヤエノダイヤは、浦河の鮫川牧場生産であり、同じ荻野厩舎だった<ref>{{Cite web |title=ヤエノダイヤ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000179392/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-07-13}}</ref>。ただ購入金額は3000万円であり、ヤエノムテキに比べて人に従順な性格だった<ref name="優駿-1990-12-68" />。大池は当初、ヤエノダイヤに大きな期待をかけていたという<ref name="優駿-1988-6-64" />。後の担当調教助手、荻野の長男荻野功も、同様にヤエノダイヤに好感触を得ていたが、ヤエノムテキについて目立っていなかった<ref name="優駿-1990-12-68" />。
===種牡馬時代===
引退後、総額5億円の[[種牡馬#シンジケート|シンジケート]]が組まれ、1991年(平成3年)新冠町農協畜産センターにて種牡馬デビューした。しかし、1996年には早くもシンジケートが解散、その後安価のシンジケートが組まれたがそれも解散。先行きを案じた同馬のファン150人がヤエノムテキ会を結成し、北海道[[日高スタリオンステーション]]で種牡馬として供用されていた。ただし、2003年を最後に種付けは行われなかった。2010年を最後に種牡馬を引退し、日高スタリオンステーションで功労馬として余生を送る。2014年3月28日、[[腸閉塞]]により死亡した<ref>{{Cite news2 |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=85590 |title=天皇賞馬ヤエノムテキが29歳で死去 |newspaper=netkeiba.com |date=2014-03-28 |accessdate=2014-03-29}}</ref>。


3歳夏前に栗東の荻野厩舎に入厩する。荻野は当初、3歳夏の函館競馬場開催でのデビューを考えていた<ref name="優駿-2002-4-49" />。しかし、函館に移して調教したが、後ろ脚の成長が十分ではなく、腰が弱かった<ref name="優駿-1994-6-78" />。おまけに前脚に骨瘤をきたしたために休養となる<ref name="優駿-2002-4-49" />。獣医師が「普通に走るのもむずかしいかもしれない<ref name="優駿-1990-12-66">『優駿』1990年12月号 66頁</ref>」と所見するほどの状態だった。このため、3歳でのデビューは果たせなかった<ref name="優駿-2002-4-49" />。
==競走成績==
以下の内容は、[[netkeiba.com]]<ref name="netrcd">{{Cite web2 |url= https://db.netkeiba.com/horse/result/1985104215/ |title=ヤエノムテキの競走成績 |website=netkeiba.com |publisher=ネットドリーマーズ |accessdate=2019-08-20}}</ref>およびJBISサーチ<ref name="jbisrcd">{{Cite web2 |url= https://www.jbis.or.jp/horse/0000179698/record/ |title=ヤエノムテキ 競走成績 |website=JBISサーチ |publisher=日本軽種馬協会 |accessdate=2019-08-20}}</ref>、『中央競馬全重賞競走成績 GI編』(1996年)<ref>{{Cite book |和書 |year=1996 |title=中央競馬全重賞競走成績集 GI編 |publisher=日本中央競馬会 }} 292-293・756-757頁。</ref>の情報に基づく。


気性が悪く、腰が良くなくて乗り心地が悪いヤエノムテキは、厩舎の調教助手は誰も進んで担当しようとしなかった<ref name="優駿-1990-12-66" />。そんなときに「しょうがないから」という理由で荻野功が担当することとなった<ref name="優駿-1990-12-66" />。功は、アメリカ合衆国カリフォルニアの{{仮リンク|ロン・マッカナリー|en|Ron McAnally}}に厩舎で修行した後、日本で調教助手をしていたが、その技量を以てしても、ヤエノムテキを扱うのは容易ではなかった<ref name="優駿-1994-6-78" />。
{| style="font-size:90%; text-align:center; border-collapse:collapse; white-space:nowrap"

!競走日!!競馬場!!競走名!!格!!頭<br />数!!枠<br />番!!馬<br />番!!colspan="2"|オッズ<br />(人気)!!着順!!騎手!!斤量<br />[kg]!!距離(馬場)!!タイム<br />(上り3F)!!タイム<br />差!!1着馬(2着馬)
== 競走馬時代 ==

=== 4歳(1988年) ===

===== 毎日杯 =====
2月27日、[[阪神競馬場]]の[[新馬戦]](ダート1700メートル)でデビューする。[[西浦勝一]]が騎乗、西浦はしばらくの間、騎乗し続けることとなる。3番手を追走して直線で先行2頭をかわし、後は突き放す一方だった<ref name="優駿-2002-4-49" />。メジロマーシャスに7馬身差をつけて初勝利を挙げる<ref name="優駿-1994-6-79" />。続く3月19日、[[中京競馬場]]の沈丁花賞(400万円以下、ダート1700メートル)でも、2番手から最終コーナーで抜け出し、突き放した。アグネスターフに大差、約12馬身、2秒差をつけて優勝、連勝とする<ref name="優駿-1994-6-79" />。

ダートで大きな差をつけての連勝に陣営は、芝の[[クラシック (競馬)|クラシック]]参戦を考え始め<ref name="優駿-1994-6-79" />、特にクラシック二冠目、5月下旬の[[東京優駿]](日本ダービー)を志向する<ref name="優駿-1988-5-150" />。そのためにヤエノムテキに[[連闘]]を課した。沈丁花賞から1週間後の3月27日、初めての芝となる[[毎日杯]](GIII)に臨む。関西馬にとって毎日杯は、4月中旬に[[東京競馬場]]で行われるクラシック一冠目・[[皐月賞]]出走、東上を賭ける一戦と認識されていた。しかしヤエノムテキの目標は、あくまで東京優駿であり、勝利しても皐月賞は見送るつもりだった<ref name="優駿-1988-5-150>『優駿』1988年5月号 150頁</ref>。

重馬場、10頭が出走する中、4番人気となる<ref name="ネット競馬-毎日杯">{{Cite web |title=毎日杯|1988年3月27日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/198809020211/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2022-07-13}}</ref>。1番人気は12戦10勝の[[笠松競馬場|笠松]]から転入し、中央初戦の[[ペガサスステークス]]を勝利し目下9連勝中の[[オグリキャップ]]。2番人気はオープン競走優勝重賞2着のファンドリデクター、3番人気は重賞優勝馬ディクターランドだった<ref name="ネット競馬-毎日杯" />。主要な出走メンバーは、皐月賞を確定的した者、諦めた者、そもそも出走する資格がない者で占めており、例年の毎日杯とは違った趣だった<ref name="優駿-1988-5-150 />。

ヤエノムテキはまず「枠入り不良」を犯した<ref name="優駿-1988-5-151">『優駿』1988年5月号 151頁</ref>。スタートしても重馬場で苦しく、後方追走となる。ただ第3コーナーから最終コーナーにかけては、外から位置を上げることはできた<ref name="優駿-2013-11-73">『優駿』2013年11月号 73頁</ref>。しかし直線では、先に抜け出していたファンドリデクター、後方から追い込んだオグリキャップに屈し、3馬身半以上離された4着となる<ref name="優駿-1988-5-151" />。出走に必要な賞金の上乗せに失敗した。ただこの4着について荻野は、まだ未熟な3戦目の重馬場で「頑張った」と実力を高く見込むようになり、東上の後押しとなった<ref name="優駿-1988-12-134">『優駿』1988年12月号 134頁</ref>。まだクラシック出走を確定させるような賞金は得ていないが、一応皐月賞に出走登録を行う<ref name="優駿-2013-11-73" />。同厩、同馬主のヤエノダイヤが皐月賞と同じ週、同じ競馬場で行われる[[クリスタルカップ]]への出走を予定していたため、それに便乗する形で、一応東上した<ref name="優駿-1994-6-79" />。

==== 皐月賞 ====
この世代の3歳チャンピオンは、関東は[[サクラチヨノオー]]、関西は[[サッカーボーイ]]だった。中でもサッカーボーイの走りは「[[テンポイント]]の再来」との声が挙がるほどで、クラシックの本命はサッカーボーイと考えられていた<ref>『優駿』2002年6月号 60頁</ref>。迎えた4歳春、皐月賞の[[トライアル競走]]である[[弥生賞]]では、この東西チャンピオンが初めて顔を合わせている。[[共同通信杯4歳ステークス]]でミュゲロワイヤルに及ばず4着から臨むサクラチヨノオーに、始動戦のサッカーボーイが東上して挑む形だったが、サクラチヨノオーが勝利していた<ref name="優駿-1999-7-95">『優駿』1999年7月号 95頁</ref><ref>『優駿』2006年11月号 59頁</ref>。

2頭の再戦の場は、いきおい皐月賞だと考えられた。しかしサッカーボーイは、[[飛節炎]]を発症して皐月賞を断念となる<ref name="優駿-2006-11-60">『優駿』2006年11月号 60頁</ref>。他にも、サクラチヨノオーを下したミュゲロワイヤルも回避<ref name="優駿-1988-6-136" />。3歳重賞、オープン競走を無敗で制したコクサイトリプル、[[グリンモリー]]は負け知らずのまま復帰していないなど、有力馬は、次々に失われていった<ref name="優駿-1988-6-136" />。そんな中、400万円以下を勝利したに過ぎないヤエノムテキは、出走馬決定順で16位タイ、抽選圏内に滑り込む<ref name="優駿-2013-11-73" />。ただ同じ賞金の16位には6頭が存在しており、出走可能頭数18頭に対して3頭超過していた<ref name="優駿-2002-4-50" />。よって、6頭のうちの3頭、確率2分の1の抽選となったが、ヤエノムテキは当選する{{Efn|ギャラントリーダー、リアリスト、ロイヤルジェネラルが落選した。}}。皐月賞出走を叶えた<ref name="優駿-2002-4-50" />。

4月17日、皐月賞(GI)に臨む。[[中山競馬場]]が改修中のため、[[トウショウボーイ]]が制した1979年以来12年ぶりとなる東京競馬場での代替開催だった<ref name="優駿-2013-11-74">『優駿』2013年11月号 74頁</ref><ref name="優駿-1988-6-130">『優駿』1988年6月号 130頁</ref>。枠が与える影響を多分に含む東京芝2000メートルという舞台設定の中、ヤエノムテキは抽選を潜り抜けたうえに、最内枠、有利とされる1枠1番に割り当てられる<ref name="優駿-1988-7-82">『優駿』1988年7月号 82頁</ref>。西浦には、[[カツラギエース]]で逃げ切った1984年ジャパンカップ、同じ1枠1番から[[テルテンリュウ]]で制した1979年[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]の記憶があって東京を相性が良いと思い込んでおり、またヤエノムテキにも十分な能力があることから、皐月賞戴冠は現実的だと考えていた<ref name="優駿-1988-6-136">『優駿』1988年6月号 136頁</ref>。さらに荻野は「(前略)抽せん{{ママ}}でもチャンスがあるならと望みを託して東京に連れてきた。もう1頭のヤエノダイヤが[[メルセデス・ベンツ|(メルセデス)ベンツ]]なら、ムテキは[[ダンプカー]]や。東京の長い直線はピッタリや<ref name="優駿-1988-6-136" />」と述べていた。しかしダートで2勝、芝未勝利では信頼を集めることができず、単勝オッズ25.2倍の9番人気だった<ref name="優駿-1988-5-8">『優駿』1988年5月号 8頁</ref><ref name="ネット競馬-皐月賞" />。 

1番人気は、5戦4勝[[スプリングステークス]]優勝馬モガミナイン、2番人気はサクラチヨノオー、3番人気は弥生賞2着のトウショウマリオ、4番人気は重賞2着2回のモガミファニーであり、この4頭がオッズ一桁台だった<ref name="ネット競馬-皐月賞">{{Cite web |title=皐月賞|1988年4月17日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/198805030810/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2022-07-13}}</ref>。西浦は勝利のために、先行策、好位奪取を目論むとともに、同型の有力馬であるサクラチヨノオーのマークを心掛けていた<ref name="優駿-1988-7-82" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=qTOlwXchCNU&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1988年 皐月賞(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}
最内枠から好発したヤエノムテキは、逃げ馬2頭とサクラチヨノオーに先を譲り、スムーズに好位、最内4番手を確保する<ref name="優駿-2013-11-74" />。一方、後方では、第2コーナーにて、メイブレーブ、マイネルフリッセによる[[斜行]]が発生<ref name="優駿-1988-6-138">『優駿』1988年6月号 138頁</ref>。モガミナインはそのあおりを受けて進路を失い、たちまち戦線から脱落している<ref name="優駿-2013-11-74" />。逃げ馬が速いペースで引っ張って後方有利に思われ、後方勢は前との距離を縮めて馬群は凝縮する<ref>『優駿』1988年5月号 7頁</ref>。ただ1000メートル通過は59.8秒であり平均ペース、先行勢、後方勢共にイーブン、最後方勢だけが苦しくなる展開だった<ref>『優駿』2002年6月号 61頁</ref>。

迎えた最終コーナーでは、まず、サクラチヨノオーが動いて先頭に立ち、すぐにトウショウマリオが追っていた<ref name="優駿-1988-6-137">『優駿』1988年6月号 137頁</ref>。ただサクラチヨノオーを見下ろすヤエノムテキは、最終コーナーでも動かなかった<ref name="優駿-1988-6-137" />。最後の直線の坂の手前、逃げ馬を安全にかわしてから末脚を発揮する<ref name="優駿-1994-6-79" />。繰り出された末脚はサクラチヨノオーのそれを上回るものだった<ref name="優駿-1994-6-79">『優駿』1994年6月号 79頁</ref>。内からサクラチヨノオーをかわして抜け出し、以後先頭を守り続けて、決勝線を通過する<ref name="優駿-2013-11-75">『優駿』2013年11月号 75頁</ref>。大外からはディクターランドが追い上げており、ヤエノムテキに遅れてサクラチヨノオーを吸収していたが、ヤエノムテキの先頭を脅かすものではなかった<ref name="優駿-1988-6-137" />。

ディクターランドに4分の3馬身差をつけて皐月賞優勝を果たす<ref name="優駿-1988-6-138" />。走破タイム2分1秒3は、過去10回あった東京の皐月賞で最も速かった{{Efn|最速だった前回、1979年トウショウボーイの2分1秒6を0.3秒上回った<ref name="優駿-1988-6-130" />。}}<ref name="優駿-1988-6-130" />。さらにデビューから4戦目で皐月賞を制したのは、1952年[[クリノハナ]]、1965年[[チトセオー]]、1979年トウショウボーイ、1985年[[ミホシンザン]]などに並び立ったが<ref name="優駿-1988-6-131">『優駿』1988年6月号 131頁</ref>、特筆すべきは芝初勝利が皐月賞だった<ref name="優駿-2002-4-50">『優駿』2002年4月号 50頁</ref>。また関西馬にとっては、1977年[[ハードバージ]]以来11年ぶりの優勝<ref name="優駿-1994-6-79" />。2着ディクターランドも関西馬であり、関西馬によるワンツーフィニッシュは、1965年[[チトセオー]]、[[ダイコーター]]以来23年ぶりだった<ref name="優駿-1988-6-130" />。併せて西浦、荻野は共にクラシック初優勝<ref>『優駿』1988年5月号 9頁</ref>、大池は重賞初優勝<ref name="優駿-1988-6-64" />。さらに加えて、ヤマニンスキー産駒は初重賞優勝<ref name="優駿-1988-5-8" />。父内国産馬としては、前年の[[サクラスターオー]]に次いで皐月賞連覇となった<ref name="優駿-1988-5-8" />{{Efn|また前週の桜花賞は、[[アラホウトク]]が優勝している。アラホウトクは、トウショウボーイ産駒であり、父内国産馬だった。父内国産馬が桜花賞、皐月賞を連勝したのは1958年、桜花賞ホウシュウクイン(父:トシシロ)皐月賞タイセイホープ(父:イッセイ)以来30年ぶりだった<ref name="優駿-1988-6-131" />。}}。

==== 夏 ====
続いて5月29日、二冠目指して東京優駿(GI)に挑む。皐月賞の後から、評価は急速に高まっていた<ref name="優駿-2002-4-51">『優駿』2002年4月号 51頁</ref>。その感触は、荻野が取材に追われ、[[円形脱毛症]]になるほどだったという<ref name="優駿-2002-4-51" />。皐月賞組に、NHK杯から臨むマイネルグラウベン、[[メジロアルダン]]、コクサイトリプル、サッカーボーイ、ファンドリデクターなどが加わった24頭が出走した<ref>『優駿』1988年7月号 130頁</ref>。1番人気のオッズが5.8倍、支持率が過去最低の混戦となる中<ref>『優駿』1988年7月号 128頁</ref>、ヤエノムテキは6.4倍の2番人気となる<ref name="ネット競馬-東京優駿">{{Cite web |title=東京優駿|1988年5月29日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/198805050410/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2022-07-13}}</ref>。皐月賞を回避したサッカーボーイに1番人気を譲った<ref name="ネット競馬-東京優駿" />。以下、コクサイトリプル、サクラチヨノオー、マイネルグラウベン、メジロアルダンと続いていた<ref name="ネット競馬-東京優駿" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=fue8Oj3XpCw&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1988年 東京優駿(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}4枠11番からスタート、先行することはできなかった。第2コーナーでは他に押し込まれて、位置を下げ中団後方の追走だった<ref name="優駿-2013-11-75" />。それでも第3コーナーにて、外に持ち出して追い上げを開始<ref name="優駿-2013-11-75" />。先行して先頭を窺うサクラチヨノオーを視野に入れる位置まで押し上げて、最終コーナーを通過、直線にてスパートする。ただし繰り出された末脚には、皐月賞の時のような伸びは見られず、サクラチヨノオーやメジロアルダン、コクサイトリプルの末脚に劣り、敵わなかった<ref>『優駿』2002年6月号 63頁</ref><ref>『優駿』1988年7月号 9頁</ref>。3頭は、横一線の争い続け、サクラチヨノオーが制している。ヤエノムテキはそれに加わることなく、約3馬身以上離された4着だった<ref>『優駿』1988年7月号 132頁</ref>。<br/>続いて「ダービーのあとも元気だから<ref name="優駿-1988-9-144">『優駿』1988年9月号 144頁</ref>」(荻野)と放牧に出ずに続戦する。7月3日の[[中日スポーツ賞4歳ステークス]](GIII)に臨んだ。クラシック優勝馬がその年の夏の中京開催に見参するのは、初めての例だった<ref name="優駿-1988-9-144" />。11頭が出走する中、東京優駿1番人気14着直後、東京優駿直後からようやく体調が上向いたサッカーボーイとの対決となる<ref name="優駿-1999-7-95" />。ただヤエノムテキの方は、[[負担重量]]が2キログラム重かった<ref name="優駿-2006-11-60" />。共に単枠指定制度の対象となり<ref name="優駿-1988-90-145">『優駿』1988年9月号 145頁</ref>、人気も抜けて集めていたが、ヤエノムテキの方が信頼される<ref name="優駿-2006-11-60" /><ref>{{Cite web |title=中日スポーツ賞4歳S|1988年7月3日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/198807020611/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2022-07-15}}</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=3rvVfXyE6RE&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1988年 中日スポーツ賞4歳S(GIII)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}大外枠からスタートしたヤエノムテキは、スローペースの2番手を追走し、手応え十分なまま直線で抜け出し、勝利パターンに嵌った<ref>『優駿』1988年9月号 144頁</ref>。しかし後方待機、大外から追い込んだサッカーボーイの末脚が鋭く接近を許して、やがて決勝線手前で差し切られた<ref>『優駿』1988年9月号 82頁</ref>。サッカーボーイに半馬身屈して2着となる<ref name="優駿-1988-90-145" />。

2か月の夏休みを挟んで9月11日、[[函館競馬場]]のUHB杯(OP)で復帰<ref name="優駿-2002-4-51" />。1枠1番の単枠指定<ref name="優駿-1989-1-126">『優駿』1989年1月号 126頁</ref>、1番人気の支持を集めながら好位追走、年上重賞優勝馬を制して抜け出した<ref>{{Cite web |title=UHB杯|1988年9月11日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/198802020409/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2022-07-15}}</ref><ref name="優駿-2013-11-75" />。以後独走、終いで手綱を緩める動作を見せながら先頭で入線する<ref name="優駿-2013-11-75" />。

==== 秋 ====

10月16日、[[菊花賞]]のトライアル競走である[[京都新聞杯]](GII)に、再び1枠1番、単枠指定で臨む<ref name="優駿-1988-12-135">『優駿』1988年12月号 135頁</ref>。皐月賞2着のディクターランド、神戸新聞杯2着3着のコウエイスパート、[[スーパークリーク]]などが揃う16頭立ての中、1.4倍の1番人気だった<ref name="優駿-1988-12-134" />。最内枠から好発して好位の3番手を確保<ref name="優駿-1988-12-134" />。道中では、2番人気コウエイスパートに終始マークを受けた。第3コーナーにてコウエイスパートがスパートするも構わず、直線に入ってからスパートを開始<ref name="優駿-1988-12-134" />。一時、失速するモガミチャンピオンに接触するアクシデントがあったが、すぐに立ち直って末脚を発揮、逃げるメイショウボーイをかわし、絡まれるコウエイスパートを振り払った<ref name="優駿-1988-12-134" />。コウエイスパートに1馬身半差をつけて先頭で入線<ref name="優駿-1988-12-135" />。重賞2勝目、菊花賞の[[優先出走権]]を獲得する<ref name="優駿-1988-12-135" />。

続いて11月6日の菊花賞(GI)に、返す返す1枠1番、単枠指定となる<ref>『優駿』1989年1月号 127頁</ref>。この年の4歳牡馬は、東京優駿で先着を許したワンツースリー、サクラチヨノオー、メジロアルダン、コクサイトリプルはいずれも離脱、おまけに5着のファンドリデクターも<ref name="優駿-1989-1-126" />、中日スポーツ賞4歳ステークス直後の[[函館記念]]で名を高めたサッカーボーイも<ref name="優駿-1989-1-126" />、京都新聞杯で2着のコウエイスパートも<ref name="優駿-1988-12-134" />、[[セントライト記念]]優勝のダイゴウシュールも離脱し<ref name="優駿-1994-4-79">『優駿』1994年4月号 79頁</ref>、連勝継続中のオグリキャップは出走できなかった。そんな中、ヤエノムテキは、勝利を重ねて、順調に菊花賞に到達。信頼を集めて2.1倍、ディクターランドやスーパークリークを約8倍に突き放す1番人気だった<ref name="優駿-1994-4-79" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=4tPcE0sxH-o&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1988年 菊花賞(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}スタートから6番手追走し、直線に向く。しかしそれ以降伸びず、終始マークされていたスーパークリークに突き放された<ref>『優駿』2006年8月号 65頁</ref>。優勝したスーパークリークに1.5秒後れを取る10着、デビュー以来初めて二桁着順の敗退を喫する<ref name="優駿-1994-6-79" />。

12月4日、[[鳴尾記念]](GII)に臨む。菊花賞3000メートルの敗因を距離に求めた荻野は、ヤエノムテキに2500メートルを課し、格の低いGII、[[ハンデキャップ競走]]に挑ませていた<ref name="優駿-2002-4-51" />。ハンデは、4歳ながらトップハンデ――例えば年上の50キログラムや同期の51キログラムがいる中、58キログラムを課された。それでも1番人気の支持だった<ref>{{Cite web |title=鳴尾記念|1988年12月4日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/198809050210/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2022-07-19}}</ref>。「枠入り不良」を犯した後<ref name="優駿-1989-2-153">『優駿』1989年2月号 153頁</ref>、6歳騸馬の56キログラム2番人気ハツシバエースとともに中団を追走する<ref name="優駿-1989-2-152">『優駿』1989年2月号 152頁</ref>。最終コーナーにてヤエノムテキは、相手に先んじてスパートを開始し、直線で突き放した<ref name="優駿-1989-2-152" />。しかし半ばを過ぎてからハツシバエース、4歳牡馬の51キログラム3番人気カゲマルの追い上げを許した<ref name="優駿-1989-2-152" />。特にハツシバエースの末脚は鋭く、早めにスパートして余力なくなったヤエノムテキは並ばれる<ref name="優駿-1989-2-85">『優駿』1989年2月号 85頁</ref>。それでも終いは抵抗し、2頭ほぼ同時の入線にこぎつけた<ref name="優駿-1989-2-85" />。写真判定で以て、決勝線のヤエノムテキのハナ差先着が認められ、重賞3勝目となる<ref name="優駿-1989-2-153" /><ref name="優駿-1989-2-152" />。この後は休養に専念するため暮れの有馬記念を見送り、年内休養となる<ref name="優駿-1989-2-152" />。

この年の[[JRA賞]]では、[[JRA賞最優秀父内国産馬|最優秀父内国産馬]]、[[JRA賞最優秀スプリンター|最優秀スプリンター]]にて票が存在したものの、いずれも1票に留まり、受賞には至らなかった<ref name="優駿-1989-2-3435">『優駿』1989年2月号 34-35頁</ref>。またヤエノムテキを含めた同世代の牡馬から選ばれる[[JRA賞最優秀3歳牡馬|最優秀4歳牡馬]]は、重賞連勝、[[天皇賞(秋)]]2着、[[ジャパンカップ]]3着、有馬記念優勝のオグリキャップが、172票中170票を集めて受賞している<ref name="優駿-1989-2-3435" />。残る2票は、サクラチヨノオーであり、ヤエノムテキへの票は存在しなかった<ref name="優駿-1989-2-3435" />。

=== 5歳(1989年) ===

==== 春 ====
1月22日、[[日経新春杯]](GII)で古馬初戦となり、単枠指定、1番人気に推される<ref name="優駿-1989-3-146147">『優駿』1989年3月号 146-147頁</ref>。中団を追走し、直線では先に抜け出していた3番人気の8歳馬[[ランドヒリュウ]]を外から追った<ref name="優駿-1989-3-146147" />。ただ前を行くランドヒリュウが、ヤエノムテキの方に斜行して来ており、ヤエノムテキは追いづらかった<ref name="優駿-1989-6-144">『優駿』1989年6月号 144頁</ref>。結局、ランドヒリュウに並び立つことはできたが、差し切ることはできず、クビ差敵わず2着となる<ref>『優駿』1989年3月号 100頁</ref><ref name="優駿-1989-3-146147" />。

荻野はこの頃から、距離適性が中距離にあると認識するようになった。そのため上半期は、3200メートルの[[天皇賞(春)]]を考えず、2200メートルの[[宝塚記念]]を大目標に据える。日経新春杯の後、2か月間の休養を取ったヤエノムテキは、余裕を持った状態で4月2日の[[産経大阪杯]](GII)で始動する<ref name="優駿-1989-6-144" />。日経新春杯で先着を許したランドヒリュウとの再戦となるが、1番人気を得た<ref>{{Cite web |title=産經大阪杯|1989年4月2日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/198909020411/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2022-07-18}}</ref>。スタートから4番手の好位を確保し<ref name="優駿-1989-6-144" />、手応え十分のまま最終コーナーに至る<ref name="優駿-1989-6-100">『優駿』1989年6月号 100頁</ref>。直線にて前を行く逃げ馬、ランドヒリュウ、[[ゴールドシチー]]を捉えて突き放し、以後独走となった<ref name="優駿-1989-6-100" />。手綱を緩める動作を見せる余裕がありながら決勝線を通過<ref name="優駿-1989-6-100" />。ランドヒリュウに3馬身半差をつけて優勝する<ref>『優駿』1989年6月号 145頁</ref>。

そして目標、6月11日の宝塚記念(GI)に臨む。オグリキャップとスーパークリークが不在だったが<ref>『優駿』1989年8月号 143頁</ref>、ヤエノムテキ、サクラチヨノオー、[[優駿牝馬]]優勝馬[[コスモドリーム]]、[[安田記念]]優勝馬[[フレッシュボイス]]並びに[[バンブーメモリー]]、[[阪神3歳ステークス]]優勝馬ゴールドシチー、天皇賞(春)優勝から臨む[[イナリワン]]というGI級競走優勝馬7頭が顔を揃えた<ref>『優駿』1989年7月号 16頁</ref>。そんな中、ヤエノムテキはイナリワンと並び立つ扱いで単枠指定となる<ref name="優駿-1989-8-144">『優駿』1989年8月号 144頁</ref>。ただヤエノムテキが信頼されて1番人気だった<ref name="優駿-1989-8-142">『優駿』1989年8月号 142頁</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=zDKXrKo_crU&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1989年 宝塚記念(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}しかしこの日のヤエノムテキには、前に行こうとする心意気が見られなかった<ref name="優駿-1989-8-142" />。好位につけるつもりが、最後方追走<ref name="優駿-1989-8-142" />。そのまま、追い上げなく7着に敗退する<ref name="優駿-1989-8-144" />。

==== 秋 ====
この後は[[笹針]]を伴う夏休み<ref>『競馬名馬読本』242頁</ref>、函館競馬場で過ごした<ref name="優駿-1989-9-99">『優駿』1989年9月号 99頁</ref>。秋は天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念出走を計画し<ref name="優駿-1989-6-144" />、初めの目標である天皇賞(秋)には、[[毎日王冠]]を叩いて挑むつもりだった<ref name="優駿-1989-9-99" />。しかし休養中、函館の温泉に入ったところ、ヤエノムテキは緩みすぎ、おかげで状態回復に時間がかかっていた<ref name="優駿-1990-12-134">『優駿』1990年12月号 134頁</ref>。「少し出遅れ気味<ref name="優駿-1989-9-102">『優駿』1989年9月号 102頁</ref>」(紺野真)の8月1日から馬場での調教を開始<ref name="優駿-1989-9-102" />、毎日王冠には現れず、「間に合った<ref name="優駿-1990-12-134" />」(荻野)という形で天皇賞(秋)ぶっつけでの参戦となる<ref name="優駿-1990-12-134" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=U5P_PgH32BE&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1989年 天皇賞(秋)(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}オグリキャップ、スーパークリーク、メジロアルダン、イナリワンという「四強」が形成される中<ref>『優駿』1989年12月号 124頁</ref>、ヤエノムテキは6番人気だった。スタートから好位を確保、直線にてスパートして抜け出し先頭に立った<ref>『優駿』1989年12月号 7頁</ref>。しかしそれ以降は、伸びず、スーパークリーク、オグリキャップ、メジロアルダンに呑みこまれた<ref name="優駿-2013-11-76">『優駿』2013年11月号 76頁</ref>。それらが横一線で先頭を争いスーパークリークが優勝、ヤエノムテキはそれに1馬身4分の3馬身以上後れを取る4着だった<ref>『優駿』1989年12月号 126頁</ref>。それからジャパンカップは出ず、暮れの有馬記念に臨んだが、宝塚記念のように最後方追走となる<ref name="優駿-2013-11-76" />。終いに追い上げることはできたが、イナリワンとスーパークリークの先頭争いに7馬身以上後れを取る6着に敗れた<ref>『優駿』1990年2月号 140頁</ref>。この年のJRA賞では、最優秀父内国産馬での1票に留まり、受賞には至らなかった<ref>『優駿』1990年2月号 55頁</ref>。

=== 6歳(1990年) ===

==== 春 ====

1月21日、日経新春杯から始動。60キログラムを背負いながらも、前年に続いて再び1番人気となる<ref>{{Cite web |title=日経新春杯|1990年1月21日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/199008010811/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2022-07-17}}</ref>。9頭立て6番手を追走し、向こう正面から2番手追走のトーワトリプルを目指した<ref name="優駿-1990-3-146">『優駿』1990年3月号 146頁</ref><ref name="優駿-1990-3-147">『優駿』1990年3月号 147頁</ref>。早めにスパートして外から差を縮めたが、56キログラムのトーワトリプルには敵わなかった<ref name="優駿-1990-3-146" />。4分の3馬身及ばず、前年に続いて2着となる<ref name="優駿-1990-3-147" />。続いて2月25日、[[マイラーズカップ]](GII)は、60キログラム、1番人気で臨む<ref name="優駿-1990-4-151">『優駿』1990年4月号 151頁</ref>。1975年[[キタノカチドキ]]以来、15年ぶりとなる皐月賞優勝馬のマイラーズカップ参戦であり、重馬場だった<ref name="優駿-1990-4-150">『優駿』1990年4月号 150頁</ref>。7枠10番が与えられたヤエノムテキだったが、スタート直後に躓き、大きく後れを取った<ref name="優駿-1990-4-150" />。それでも道中で追い上げ、直線でスパートして先頭集団に取り付いた<ref name="優駿-1990-4-151" />。しかし内から伸びる[[メジロワース]]、外から追い上げるスカイジャイアントに差し切られ、1位入線のメジロワースに、4分の3馬身とクビ差及ばず3着となる<ref name="優駿-1990-4-151" /><ref name="優駿-1990-4-150" />。

それから4月3日、産経大阪杯に臨む。天皇賞(春)を目指すスーパークリーク、中距離を得意とする[[オサイチジョージ]]、[[サクラホクトオー]]との対決であり、ヤエノムテキはそれらに続く4番人気だった<ref name="優駿-1990-6-144">『優駿』1990年6月号 144頁</ref><ref>{{Cite web |title=産經大阪杯|1990年4月1日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/199009030411/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2022-07-18}}</ref>。後方を追走したヤエノムテキは、第3コーナーから外から追い上げた<ref name="優駿-2013-11-76" />。先行するスーパークリーク、オサイチジョージに迫り、やがて直線にて3頭で並び立った。しかし終い、スーパークリークにもう一伸びを許して、及ばなかった<ref name="優駿-1990-6-144" />。スーパークリークに4分の3と4分の3馬身、オサイチジョージに4分の3馬身敵わず3着となる<ref>『優駿』1990年6月号 145頁</ref>。

5月13日、安田記念(GI)に参戦。これまで騎乗し続けた西浦から、[[岡部幸雄]]に乗り替わった<ref name="優駿-2013-11-77">『優駿』2013年11月号 77頁</ref>。この2週間前に、栗東から美浦所属の岡部に騎乗依頼をしているが、有力馬の騎乗依頼が押し寄せる人気の岡部は、判断するには時間を要した<ref name="優駿-1990-12-70">『優駿』1990年12月号 70頁</ref>。ただ依頼から1週間後、安田記念の1週間前に、ヤエノムテキの騎乗依頼に応えて、コンビ結成が決定する<ref name="優駿-1990-12-70" />。以後、岡部は引退まで騎乗し続けることとなる。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=LdUyGrWgDYU&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1990年 安田記念(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}オグリキャップの半年ぶりの復帰戦として大きな注目を集める中、オグリキャップ、オサイチジョージ、バンブーメモリーに次ぐ4番人気で出走する<ref>{{Cite web |title=安田記念|1990年5月13日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/199005020810/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2022-07-18}}</ref>。「枠入り不良」の後にスタートし<ref name="優駿-1990-7-150">『優駿』1990年7月号 150頁</ref>、単枠指定、1番人気、先行するオグリキャップの背後を取る4番手で、マークし続けた<ref name="優駿-2013-11-77" />。直線でも抜け出したオグリキャップを追いかけ、その差を1馬身にまで縮めた<ref name="優駿-1990-7-148">『優駿』1990年7月号 148頁</ref>。しかし終いになってのもう一伸びには、敵わなかった<ref>『優駿』1990年7月号 23頁</ref><ref name="優駿-1990-7-148" />。オグリキャップが[[ニッポーテイオー]]、ラブシックブルースを上回るレースレコード、コースレコードで制する中、2馬身後れを取った<ref name="優駿-1990-7-150" /><ref>『優駿』1999年2月号 93頁</ref>。ただオサイチジョージとの2着争いはクビ差制し、2着を確保する<ref name="優駿-1990-7-150" />。<br/>続いて6月10日の宝塚記念は、オグリキャップ、オサイチジョージに加えてイナリワンとの戦いだった。それらに次ぐ4番人気で出走<ref>{{Cite web |title=宝塚記念|1990年6月10日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/199009040810/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2022-07-18}}</ref>。良馬場だったが、開催晩期で芝が荒れていた。それに気をとられて、思うような追走とはならなかった<ref name="優駿-1990-8-141">『優駿』1990年8月号 141頁</ref>。再びオグリキャップをマークして直線で脚を伸ばしたが、オグリキャップとともに伸びなかった<ref>『優駿』1990年7月号 30頁</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=xnetMPVzjGc&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1990年 宝塚記念(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}安田記念にてオグリキャップをマークしながら3着に敗れたオサイチジョージが、開き直って2番手先行から押し切り優勝<ref name="優駿-1990-8-141" />。3馬身半後れを取りオグリキャップが2着。ヤエノムテキは、オグリキャップに再び敵わず、半馬身後れる3着だった<ref>『優駿』1990年8月号 142頁</ref>。この後は函館競馬場で夏休み、秋は前年と同様に天皇賞(秋)を目指すことになる。前年、緩めすぎたことを省みて、函館ではそれを許さなかった<ref name="優駿-1990-12-134" />。また毎日王冠参戦は、前哨戦で疲労が出て、本番に影響するのを懸念して見送った<ref name="優駿-1990-12-134" />。この年は、前もって計画してぶっつけでの天皇賞(秋)参戦となる<ref>『優駿』1990年10月号 19頁</ref>。

獲得タイトルが皐月賞しかないヤエノムテキは、オグリキャップやスーパークリーク、イナリワンが「三強」と崇め奉られる世の中にあって、地味な印象が強かった<ref name="優駿-2002-4-52" />。そのため荻野は、種牡馬としての将来のため、或いは名声を高めるために、皐月賞に続くGI2勝目を渇望する<ref name="優駿-2002-4-52" />。その舞台として、皐月賞と同じ条件で行われる天皇賞(秋)は絶好の舞台であると捉えていた。そこで荻野はヤエノムテキに、渾身の調教を施す。ヤエノムテキは、調教で走る際には手を抜いて走る癖の持ち主だったが、今回ばかりは妥協しなかった<ref name="優駿-2002-4-52" />。「生涯最高の出来<ref name="優駿-1994-6-80">『優駿』1994年6月号 80頁</ref>」(横尾一彦)まで仕上げられて天皇賞(秋)直前、荻野、調教助手で荻野の長男荻野功、厩務員の3人が[[馬運車]]に乗り、東上する<ref name="優駿-2002-4-52">『優駿』2002年4月号 52頁</ref>。運転手のほかに、3人の同乗は、異例のことだった<ref name="優駿-2002-4-52" />。阿部珠樹によれば陣営には「それだけ気合が入っていた<ref name="優駿-2002-4-52" />」という。

==== 天皇賞(秋) ====

10月28日、天皇賞(秋)に臨む。安田記念や宝塚記念で先着を許したオグリキャップ、オサイチジョージとの再戦だった。「三強」のイナリワンとスーパークリークは、共に引退の後押しとなる怪我を負って断念しており、残った1頭オグリキャップに注目が集中する<ref name="優駿-1990-12-134" />。宝塚記念で敗れたものの信頼は揺るがず、単枠指定、2.0倍の1番人気、単勝支持率は38.3パーセントに達していた<ref name="優駿-1990-12-134" />。そのオグリキャップを下したオサイチジョージが5.3倍の2番人気であり、そして8.0倍の3番人気がヤエノムテキだった<ref name="ネット競馬-天皇賞(秋)">{{Cite web |title=天皇賞(秋)|1990年10月28日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/199005040810/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2022-07-18}}</ref>。以下、同じ8倍台のバンブーメモリー、10倍台にメジロアルダンなどと続く18頭立てだった<ref name="ネット競馬-天皇賞(秋)" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=XvN9ssIjm6Q&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1990年 天皇賞(秋)(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}4枠7番から好発したヤエノムテキは、好位の直後、最も内側を確保する<ref name="優駿-2013-11-77" />。オグリキャップやオサイチジョージは外枠から先行して好位を得ており、ヤエノムテキはその2頭を見据える位置にいた<ref name="優駿-2013-11-77" />。ロングニュートリノにラッキーゲランが絡み、1000メートル通過は58.2秒というハイペースだった<ref name="優駿-1990-12-134" />。後方待機勢は外から追い上げて、先頭との距離を縮めていき、オグリキャップやオサイチジョージも外から進出を開始する<ref name="優駿-2002-4-53" />。しかしヤエノムテキは最も内側で待機し続けた<ref name="優駿-2002-4-53" />。

迎えた直線、外から追い上げてきた馬らが終いの末脚に備えて脚を溜め、駆け引きをしている頃、ヤエノムテキは、進路が塞がるのを懸念して早めに打開し、末脚を発揮する<ref name="優駿-2002-4-53" /><ref name="優駿-1994-6-80" />。内から外に横一線となっていた中を最も内側から抜け出し、伸びあぐねるオグリキャップなどを突き放した<ref name="優駿-2002-4-53" />。ただ、早めにスパートしたことで終いが少し鈍くなる。同じく内にこだわり、ヤエノムテキの背後から追い込んだメジロアルダン、バンブーメモリーが末脚を発揮しており、接近を許した。特にメジロアルダンの末脚は鋭くゴール手前で並ばれる。それでもヤエノムテキは粘って、先頭を守り切った<ref>『優駿』1990年12月号 10頁</ref><ref name="優駿-1994-6-80" />。メジロアルダンにアタマ差先んじて決勝線通過を果たす<ref name="優駿-1991-2-24">『優駿』1990年12月号 136頁</ref>。

1年半ぶりの勝利、GI2勝目となる。走破タイム1分58秒2は、1986年に[[サクラユタカオー]]が記録したレースレコード、コースレコードを上回った<ref name="優駿-1991-2-24" />。また岡部は、1978年春[[グリーングラス]]、1985年春[[シンボリルドルフ]]、1986年春[[クシロキング]]に続いて4回目の天皇賞制覇となり、天皇賞(秋)初優勝だった<ref>『優駿』1990年12月号 135頁</ref>。岡部は「オグリ(キャップ)、(メジロ)アルダン、マキバサイクロンなどこれまで自分の乗ったことのある馬のなかから選んだ馬での勝利だけに気分がいい。春2回オグリキャップに負けているので、大一番で勝ててほんとうにうれしいですよ<ref name="優駿-1990-12-134" />。」と述べている。

==== 引退 ====
その後は11月25日のジャパンカップ(GI)、10頭の外国調教馬相手に8番人気で出走<ref>{{Cite web |title=ジャパンカップ|1990年11月25日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/199005050810/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2022-07-18}}</ref>。オーストラリアの[[ベタールースンアップ]]、フランスのオード、イギリスの[[カコイーシーズ]]の横一線の叩き合いに加わることはできず、それらに約3馬身以上後れを取る6着<ref>『優駿』1991年1月号 136頁</ref>。それから12月23日には有馬記念(GI)に臨む。これが引退レースと予め決まっていた<ref name="優駿-1994-6-77">『優駿』1994年6月号 77頁</ref>。ヤエノムテキは、その激しい気性から不慮の事故の心配があるため、引退式は行わなかった<ref name="優駿-1994-6-77" />。ただその代わりに、荻野がファンに披露する最後の機会として用意したのが、有馬記念だった<ref name="優駿-1994-6-77" />。しかし当日、本馬場入場直後に岡部を振り落として[[放馬]]する<ref name="優駿-1991-2-9">『優駿』1991年2月号 9頁</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=d0ZIUa6zALs&ab_channel=%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AC%E7%AB%B6%E9%A6%AC%E3%80%90%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%80%91 1990年 有馬記念(GI)<br />レース映像 関西テレビ競馬公式YouTubeチャンネルによる動画]}}捕獲された後、異状が見られず参戦決定<ref name="優駿-1991-2-9" />、「枠入り不良」の後<ref name="優駿-1991-2-140">『優駿』1991年2月号 140頁</ref>、好スタートして2番手を追走したが、及ばなかった<ref>『優駿』1991年2月号 138頁</ref>。同じく引退レースとなったオグリキャップの復活優勝を許す7着となった<ref name="優駿-1991-2-140" />。

この年のJRA賞では、最優秀父内国産馬にて、首位となる全180票中82票を集めた<ref name="優駿-1991-2-53">『優駿』1991年2月号 53頁</ref>。ただ[[メジロライアン]](父:[[アンバーシャダイ]])、[[メジロマックイーン]](父:[[メジロティターン]])に共に29票が入るなど割れて過半数に達せず、自動的選出はされなかった<ref name="優駿-1991-2-53" /><ref name="優駿-1991-2-49">『優駿』1991年2月号 49頁</ref>。しかし選考委員会{{Efn|東京競馬記者クラブから小峰隆と原田純一、関西競馬記者クラブから萩谷宗秀と市橋直和、民放競馬記者クラブから中根幹夫、中央競馬関西放送記者クラブから小崎愃、関東競馬新聞協会並びに東京競馬新聞協会から谷真翁、関西中央競馬専門紙協会から野辺好一、評論家として大川慶次郎と大坪元雄、日本中央競馬会から岡部龍文と甲佐勇<ref name="優駿-1991-2-49" />。}}の話し合いで認められて選出、最優秀父内国産馬を受賞する<ref name="優駿-1991-2-49" />。

== 種牡馬時代 ==
競走馬引退後は、新冠町農協畜産センターで種牡馬として供用される<ref name="優駿-1994-6-81" />。1株1000万円の全50株という総額5億円の[[シンジケート#種牡馬|種牡馬シンジケート]]が結成された<ref name="優駿-1994-6-81" />。初年度から5年間は、年間約50頭の繁殖牝馬の相手をしたが、6年目の1996年から半減して20頭<ref name="JBIS-種牡馬成績">{{Cite web |title=種牡馬情報:世代・年次別(サラ系総合)|ヤエノムテキ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000179698/sire/generation/thorough_s/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-07-18}}</ref>。結成から6年でシンジケートは解散となった。その後、馬主を中心に少人数のシンジケートを再結成<ref name=":0">『優駿』2014年5月号 144頁</ref>。1997年からは浦河町の[[日高スタリオンステーション]]に繋養されたが<ref name="ふるさと-死亡">{{Cite web |title=追悼~ヤエノムテキ {{!}} 馬産地ニュース {{!}} 競走馬のふるさと案内所 |url=https://uma-furusato.com/news/76339.html |website=uma-furusato.com |access-date=2022-07-18}}</ref>、結成から4年で解散した<ref name=":0" />。9年目の1999年には一桁台に達し、再浮上することはなかった<ref name="JBIS-種牡馬成績" />。2003年を最後に種付けされなかったが<ref name="JBIS-種牡馬成績" />、ヤエノムテキのファンによって種牡馬登録は存続し、2010年になって種牡馬を引退している<ref name="ふるさと-死亡" />。産駒では、ムテキボーイ(母父:[[バンブーアトラス]])が1997年[[東京湾カップ]]、1998年[[テレビ埼玉杯]]を優勝している<ref name="JBIS-ムテキボーイ">{{Cite web |title=ムテキボーイ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000283540/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-07-18}}</ref>。

種牡馬引退後も日高スタリオンステーションに留まり、功労馬として余生を過ごした<ref>{{Cite web |title=ヤエノムテキ死す…’88皐月賞&’90天皇賞秋V |url=http://race.sanspo.com/keiba/news/20140401/etc14040102180000-n1.html |website=予想王TV@SANSPO.COM |date=2014-04-01 |access-date=2022-07-18 |language=ja-JP}}</ref>。2014年3月28日午前2時45分、[[腸閉塞]]により29歳で死亡する<ref>{{Cite web |title=天皇賞馬ヤエノムテキが29歳で死去 {{!}} 競馬ニュース |url=https://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=85590 |website=netkeiba.com |access-date=2022-07-18 |language=ja}}</ref><ref name="ふるさと-死亡" />。

==競走成績==
以下の内容は、[[netkeiba.com]]<ref name="netrcd">{{Cite web2 |url= https://db.netkeiba.com/horse/result/1985104215/ |title=ヤエノムテキの競走成績 |website=netkeiba.com |publisher=ネットドリーマーズ |accessdate=2019-08-20}}</ref>およびJBISサーチ<ref>{{Cite web |title=競走成績:全競走成績|ヤエノムテキ|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000179698/record/?sort=ymd&page=1&order=A |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-07-13}}</ref>、『中央競馬全重賞競走成績 GI編』(1996年)<ref>{{Cite book |和書 |year=1996 |title=中央競馬全重賞競走成績集 GI編 |publisher=日本中央競馬会 }} 292-293・756-757頁。</ref>の情報に基づく。
{| style="border-collapse: collapse; font-size: 90%; text-align: center; white-space: nowrap;"
!競走日
! nowrap="" |競馬場
!競走名
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(馬場)
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! colspan="2" |オッズ
(人気)
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(上り3F)
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[kg]
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[kg]
|-
|-
|[[1988年|1988]].{{0}}[[2月27日|2.27]]
|[[1988年|1988]].{{0}}[[2月27日|2.27]]
71行目: 178行目:
|[[新馬|4歳新馬]]
|[[新馬|4歳新馬]]
|
|
|ダ1700m(稍)
|8
|8
|4
|4
77行目: 185行目:
|(2人)
|(2人)
|{{0}}{{Color|darkred|1着}}
|{{0}}{{Color|darkred|1着}}
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|ダ1700m(稍)
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|1:49.6(51.8)
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|{{Nowiki|-}}1.1
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|55
|(メジロマーシャス)
|(メジロマーシャス)
|500
|-
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[3月19日|3.19]]
|{{0|0000.}}{{0}}[[3月19日|3.19]]
88行目: 196行目:
|沈丁花賞
|沈丁花賞
|4下
|4下
|ダ1700m(稍)
|8
|8
|3
|3
94行目: 203行目:
|(1人)
|(1人)
|{{0}}{{Color|darkred|1着}}
|{{0}}{{Color|darkred|1着}}
|{{0}}西浦勝一
|55
|ダ1700m(稍)
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|1:48.1(39.4)
|{{Nowiki|-}}2.0
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|{{0}}西浦勝一
|55
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|(アグネスターフ)
|506
|-
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[3月27日|3.27]]
|{{0|0000.}}{{0}}[[3月27日|3.27]]
105行目: 214行目:
|[[毎日杯]]
|[[毎日杯]]
|GIII
|GIII
|芝2000m(重)
|10
|10
|7
|7
111行目: 221行目:
|(4人)
|(4人)
|{{0}}4着
|{{0}}4着
|2:05.5(51.5)
|{{0|-}}0.7
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|55
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|2:05.5(51.5)
|{{0|-}}0.7
|[[オグリキャップ]]
|[[オグリキャップ]]
|502
|-
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[4月17日|4.17]]
|{{0|0000.}}{{0}}[[4月17日|4.17]]
122行目: 232行目:
|[[皐月賞]]
|[[皐月賞]]
|GI
|GI
|芝2000m(良)
|18
|18
|1
|1
128行目: 239行目:
|(9人)
|(9人)
|{{0}}{{Color|darkred|1着}}
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|2:01.3(48.1)
|{{Nowiki|-}}0.1
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|57
|57
|芝2000m(良)
|2:01.3(48.1)
|{{Nowiki|-}}0.1
|(ディクターランド)
|(ディクターランド)
|496
|-
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[5月29日|5.29]]
|{{0|0000.}}{{0}}[[5月29日|5.29]]
139行目: 250行目:
|[[東京優駿]]
|[[東京優駿]]
|GI
|GI
|芝2400m(良)
|24
|24
|4
|4
145行目: 257行目:
|(2人)
|(2人)
|{{0}}4着
|{{0}}4着
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|{{0|-}}0.6
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|57
|57
|芝2400m(良)
|2:26.9(48.2)
|{{0|-}}0.6
|[[サクラチヨノオー]]
|[[サクラチヨノオー]]
|494
|-
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[7月3日|7.{{0}}3]]
|{{0|0000.}}{{0}}[[7月3日|7.{{0}}3]]
|中京
|中京
|[[ファルコンステークス|中スポーツ賞4歳S]]
|[[ファルコンステークス|中スポ賞4歳S]]
|GIII
|GIII
|芝1800m(良)
|11
|11
|'''8'''
|'''8'''
162行目: 275行目:
|(1人)
|(1人)
|{{0}}{{Color|darkblue|2着}}
|{{0}}{{Color|darkblue|2着}}
|1:49.0(34.5)
|{{0|-}}0.1
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|58
|58
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|1:49.0(34.5)
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|[[サッカーボーイ]]
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|-
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[9月11日|9.11]]
|{{0|0000.}}{{0}}[[9月11日|9.11]]
173行目: 286行目:
|UHB杯
|UHB杯
|OP
|OP
|芝1800m(稍)
|12
|12
|1
|1
179行目: 293行目:
|(1人)
|(1人)
|{{0}}{{Color|darkred|1着}}
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|{{0}}西浦勝一
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|1:49.4(36.5)
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|{{0}}西浦勝一
|57
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|(パッシングパワー)
|498
|-
|-
|{{0|0000.}}[[10月16日|10.16]]
|{{0|0000.}}[[10月16日|10.16]]
190行目: 304行目:
|[[京都新聞杯]]
|[[京都新聞杯]]
|GII
|GII
|芝2200m(良)
|16
|16
|'''1'''
|'''1'''
196行目: 311行目:
|(1人)
|(1人)
|{{0}}{{Color|darkred|1着}}
|{{0}}{{Color|darkred|1着}}
|{{0}}西浦勝一
|57
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|2:14.5(48.3)
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|57
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|(コウエイスパート)
|496
|-
|-
|{{0|0000.}}[[11月6日|11.{{0}}6]]
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207行目: 322行目:
|[[菊花賞]]
|[[菊花賞]]
|GI
|GI
|芝3000m(良)
|18
|18
|'''1'''
|'''1'''
213行目: 329行目:
|(1人)
|(1人)
|10着
|10着
|{{0}}西浦勝一
|57
|芝3000m(良)
|3:08.8(49.1)
|3:08.8(49.1)
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|{{0|-}}1.5
|{{0}}西浦勝一
|57
|[[スーパークリーク]]
|[[スーパークリーク]]
|504
|-
|-
|{{0|0000.}}[[12月4日|12.{{0}}4]]
|{{0|0000.}}[[12月4日|12.{{0}}4]]
224行目: 340行目:
|[[鳴尾記念]]
|[[鳴尾記念]]
|GII
|GII
|芝2500m(良)
|12
|12
|5
|5
230行目: 347行目:
|(1人)
|(1人)
|{{0}}{{Color|darkred|1着}}
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|2:33.1(47.2)
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|58
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|2:33.1(47.2)
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|(ハツシバエース)
|500
|-
|-
|[[1989年|1989]].{{0}}[[1月22日|1.22]]
|[[1989年|1989]].{{0}}[[1月22日|1.22]]
241行目: 358行目:
|[[日経新春杯]]
|[[日経新春杯]]
|GII
|GII
|芝2200m(良)
|9
|9
|5
|5
247行目: 365行目:
|(1人)
|(1人)
|{{0}}{{Color|darkblue|2着}}
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|2:14.5(47.7)
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|58
|58
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|ランドヒリュウ
|ランドヒリュウ
|498
|-
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[4月2日|4.{{0}}2]]
|{{0|0000.}}{{0}}[[4月2日|4.{{0}}2]]
258行目: 376行目:
|[[大阪杯|産経大阪杯]]
|[[大阪杯|産経大阪杯]]
|GII
|GII
|芝2000m(良)
|13
|13
|7
|7
264行目: 383行目:
|(1人)
|(1人)
|{{0}}{{Color|darkred|1着}}
|{{0}}{{Color|darkred|1着}}
|2:01.4(48.4)
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|58
|58
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|2:01.4(48.4)
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|(ランドヒリュウ)
|(ランドヒリュウ)
|498
|-
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[6月11日|6.11]]
|{{0|0000.}}{{0}}[[6月11日|6.11]]
275行目: 394行目:
|[[宝塚記念]]
|[[宝塚記念]]
|GI
|GI
|芝2200m(良)
|16
|16
|'''5'''
|'''5'''
281行目: 401行目:
|(1人)
|(1人)
|{{0}}7着
|{{0}}7着
|{{0}}西浦勝一
|56
|芝2200m(良)
|2:15.6(49.9)
|2:15.6(49.9)
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|{{0|-}}1.6
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|56
|[[イナリワン]]
|[[イナリワン]]
|498
|-
|-
|{{0|0000.}}[[10月29日|10.29]]
|{{0|0000.}}[[10月29日|10.29]]
292行目: 412行目:
|[[天皇賞(秋)]]
|[[天皇賞(秋)]]
|GI
|GI
|芝2000m(良)
|14
|14
|7
|7
298行目: 419行目:
|(6人)
|(6人)
|{{0}}4着
|{{0}}4着
|{{0}}西浦勝一
|58
|芝2000m(良)
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|1:59.5(46.5)
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|58
|スーパークリーク
|スーパークリーク
|496
|-
|-
|{{0|0000.}}[[12月24日|12.24]]
|{{0|0000.}}[[12月24日|12.24]]
309行目: 430行目:
|[[有馬記念]]
|[[有馬記念]]
|GI
|GI
|芝2500m(良)
|16
|16
|8
|8
315行目: 437行目:
|(8人)
|(8人)
|{{0}}6着
|{{0}}6着
|2:33.0(36.4)
|{{0|-}}1.3
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|{{0}}西浦勝一
|57
|57
|芝2500m(良)
|2:33.0(36.4)
|{{0|-}}1.3
|イナリワン
|イナリワン
|496
|-
|-
|[[1990年|1990]].{{0}}[[1月21日|1.21]]
|[[1990年|1990]].{{0}}[[1月21日|1.21]]
326行目: 448行目:
|日経新春杯
|日経新春杯
|GII
|GII
|芝2200m(良)
|9
|9
|3
|3
332行目: 455行目:
|(1人)
|(1人)
|{{0}}{{Color|darkblue|2着}}
|{{0}}{{Color|darkblue|2着}}
|{{0}}西浦勝一
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|芝2200m(良)
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|2:15.1(47.7)
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|トーワトリプル
|トーワトリプル
|508
|-
|-
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343行目: 466行目:
|[[マイラーズカップ|マイラーズC]]
|[[マイラーズカップ|マイラーズC]]
|GII
|GII
|芝1600m(重)
|12
|12
|7
|7
349行目: 473行目:
|(1人)
|(1人)
|{{0}}{{Color|darkgreen|3着}}
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|{{0}}西浦勝一
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|芝1600m(重)
|1:36.8(48.8)
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|メジロワース
|506
|-
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[4月1日|4.{{0}}1]]
|{{0|0000.}}{{0}}[[4月1日|4.{{0}}1]]
360行目: 484行目:
|産経大阪杯
|産経大阪杯
|GII
|GII
|芝2000m(稍)
|9
|9
|7
|7
366行目: 491行目:
|(4人)
|(4人)
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|{{0}}{{Color|darkgreen|3着}}
|2:03.1(49.5)
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|59
|59
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|2:03.1(49.5)
|{{0|-}}0.2
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|スーパークリーク
|504
|-
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[5月13日|5.13]]
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377行目: 502行目:
|[[安田記念]]
|[[安田記念]]
|GI
|GI
|芝1600m(良)
|16
|16
|7
|7
383行目: 509行目:
|(4人)
|(4人)
|{{0}}{{Color|darkblue|2着}}
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|{{0}}[[岡部幸雄]]
|57
|57
|芝1600m(良)
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|オグリキャップ
|オグリキャップ
|498
|-
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[6月10日|6.10]]
|{{0|0000.}}{{0}}[[6月10日|6.10]]
394行目: 520行目:
|宝塚記念
|宝塚記念
|GI
|GI
|芝2200m(良)
|10
|10
|1
|1
400行目: 527行目:
|(4人)
|(4人)
|{{0}}{{Color|darkgreen|3着}}
|{{0}}{{Color|darkgreen|3着}}
|{{0}}岡部幸雄
|57
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|2:14.7(49.6)
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|{{0}}岡部幸雄
|57
|[[オサイチジョージ]]
|[[オサイチジョージ]]
|498
|-
|-
|{{0|0000.}}[[10月28日|10.28]]
|{{0|0000.}}[[10月28日|10.28]]
411行目: 538行目:
|天皇賞(秋)
|天皇賞(秋)
|GI
|GI
|芝2000m(良)
|18
|18
|4
|4
417行目: 545行目:
|(3人)
|(3人)
|{{0}}{{Color|darkred|1着}}
|{{0}}{{Color|darkred|1着}}
|{{0}}岡部幸雄
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|芝2000m(良)
|{{Color|darkred|R1:58.2}}(35.7)
|{{Color|darkred|R1:58.2}}(35.7)
|{{0|-}}0.0
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|{{0}}岡部幸雄
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|([[メジロアルダン]])
|496
|-
|-
|{{0|0000.}}[[11月25日|11.25]]
|{{0|0000.}}[[11月25日|11.25]]
428行目: 556行目:
|[[ジャパンカップ|ジャパンC]]
|[[ジャパンカップ|ジャパンC]]
|GI
|GI
|芝2400m(良)
|15
|15
|3
|3
434行目: 563行目:
|(8人)
|(8人)
|{{0}}6着
|{{0}}6着
|{{0}}岡部幸雄
|57
|芝2400m(良)
|2:23.8(35.4)
|2:23.8(35.4)
|{{0|-}}0.6
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|{{0}}岡部幸雄
|57
|[[ベタールースンアップ]]
|[[ベタールースンアップ]]
|496
|-
|-
|{{0|0000.}}[[12月23日|12.23]]
|{{0|0000.}}[[12月23日|12.23]]
445行目: 574行目:
|有馬記念
|有馬記念
|GI
|GI
|芝2500m(良)
|16
|16
|1
|1
451行目: 581行目:
|(6人)
|(6人)
|{{0}}7着
|{{0}}7着
|2:34.7(35.6)
|{{0|-}}0.5
|{{0}}岡部幸雄
|{{0}}岡部幸雄
|56
|56
|芝2500m(良)
|2:34.7(35.6)
|{{0|-}}0.5
|オグリキャップ
|オグリキャップ
|496
|}
|}
* タイム欄の{{color|darkred|R}}はレコード勝ちを示す。
* タイム欄の{{color|darkred|R}}はレコード勝ちを示す。
462行目: 592行目:


==種牡馬成績==
==種牡馬成績==

=== 主な産駒 ===
=== 年度別成績 ===
* ムテキボーイ(1997年[[東京湾カップ]]、1998年[[テレビ埼玉杯]])
以下の内容は、JBISサーチの情報に基づく<ref name="JBIS-種牡馬成績" />。
{| class="wikitable"
!種付年度
!生産年度
!種付頭数
!生産頭数
!血統登録頭数
!出走頭数
!勝馬頭数
!重賞勝馬頭数
![[アーニングインデックス|AEI]]
![[コンパラブルインデックス|CPI]]
|-
!1991
!1992
|52
|37
|35
|27
|13
|0
|1.21
|
|-
!1992
!1993
|53
|39
|38
|28
|20
|0
|1.13
|
|-
!1993
!1994
|51
|40
|40
|29
|16
|1
|0.43
|
|-
!1994
!1995
|55
|41
|40
|34
|28
|0
|0.62
|
|-
!1995
!1996
|48
|33
|32
|26
|18
|0
|0.43
|
|-
!1996
!1997
|20
|8
|8
|7
|7
|-
|0.48
|
|-
!1997
!1998
|11
|8
|8
|7
|4
|-
|0.15
|
|-
!1998
!1999
|20
|11
|12
|12
|7
|0
|0.25
|
|-
!1999
!2000
|7
|6
|6
|5
|1
|-
|0.07
|
|-
!2000
!2001
|2
|1
|1
|1
|1
|-
|0.07
|
|-
!2001
!2002
|1
|0
|0
|0
|-
|-
|-
|
|-
!2002
!2003
|3
|1
|1
|1
|1
|-
|0.20
|
|-
!2003
!2004
|1
|0
|0
|0
|-
|-
|-
|
|-
! colspan="4" |合計
|221
|177
|116
|1
|0.66
|0.91
|}

=== 重賞優勝産駒 ===
地方競馬独自の重賞にはアスタリスク(*)を充てる。
* ムテキボーイ(牡、母父:[[バンブーアトラス]]、1997年*[[東京湾カップ]]、1998年*[[テレビ埼玉杯]])<ref name="JBIS-ムテキボーイ" />

==== ブルードメアサイアーとしての重賞優勝産駒 ====

* ロードグリン(牡、父:[[トーホウエンペラー]]、2012年*[[新春盃]])<ref>{{Cite web |title=ロードグリン|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000886801/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-07-18}}</ref>


==エピソード==
==エピソード==

* [[日本中央競馬会]](JRA)からヤエノムテキの引退式が提案されたが、同馬の気性の悪さを考慮して調教師らが断っている。
=== 叶わなかった悲願 ===
* 勝ったGIレースは2つとも東京競馬場芝2000メートル(うち一度は代替開催)であること、同コース、同距離のレコードホルダーであることから、引退の翌年作られたヤエノムテキのポスター([[ヒーロー列伝]])には「東京の二千に咲いたムテキの舞い」と書かれた。
宮村牧場の黎明期を支えたのが、藤木幸太郎だった。横浜の海運業者である藤木は、宮村が独立した際に連れ出した牝馬フジサカエの所有馬主だった。藤木は、牧場の主要な顧客であるほか、牧場が金銭不足に陥った時に、補ってくれるなど全面的に支援していた<ref name="優駿-1988-8-12" />。またフジコウも藤木の所有馬だった。藤木は、引退後のフジコウを宮村に譲渡している<ref name="優駿-1988-8-12" />。繁殖牝馬となったフジコウは、活躍馬を多数輩出し、牧場の経営を支えた「カマド馬」となっていた<ref name="優駿-1988-8-15">『優駿』1988年8月号 15頁</ref>。宮村はその恩から、フジコウの血を守り続けたが、時代とともにフジコウの血は時代遅れとなっており、ある人にフジコウに固執していることを侮蔑されたこともあった<ref name="優駿-1988-8-13">『優駿』1988年8月号 13頁</ref>。しかしフジコウにこだわった結果、孫にヤエノムテキが出現した。宮村は皐月賞優勝を「一番見て欲しかった」人として藤木の名を挙げている<ref name="優駿-1988-8-13" />。
* [[厩務員]]([[調教助手|持ち乗り調教助手]])の荻野功によると、同期の牝馬[[シヨノロマン]]が近くを通ると、じっとそちらのほうを見たまま動かなくなった。

* 荻野功は1980年代にアメリカ合衆国のマッカナリー厩舎で研修を行ったことがあり、現地で岡部幸雄と知り合った。そのときに「日本でいい馬を育て、岡部に乗ってもらう」ことが目標となっていたが、1990年にヤエノムテキによってそのことが実現した。
馬主歴30年超の有限会社富士の社長大池正夫は、大正2年生まれの72歳で迎えた1988年皐月賞が重賞初優勝だった<ref name="優駿-1988-6-64" />。しかしヤエノムテキが、イナリワン、スーパークリークに太刀打ちできなかった頃の1989年末に死去<ref name="優駿-1990-12-11">『優駿』1990年12月号 11頁</ref>。1990年天皇賞(秋)の復活優勝は見届けることができなかった。天皇賞(秋)の表彰式には、敏江夫人が参加しており、夫人は涙を浮かべている<ref name="優駿-1990-12-11" />。
* 生産者の宮村岩雄は、ヤエノムテキの祖母フジコウをカマド馬(経済を支えてくれた馬)と呼び、その馬主である藤木幸太郎を恩人として挙げている。藤木はフジコウを宮村牧場にプレゼントしただけでなく、様々な経済援助を行っていた。藤木が亡くなった後には「親分(藤木)はもう死んだのに、まだそんな古い血統を守ってんのか」と笑われることもあったが、その血筋からGI馬が誕生した<ref>『優駿』1988年8月号 12-13頁</ref>。

* [[岡部幸雄]]は第35回有馬記念のヤエノムテキの放馬について「あれが無ければ勝ってましたね」と話していた。
=== 叶った悲願 ===
宮村牧場の「カマド馬」フジコウは、1980年にヤエノムテキの母であるツルミスターを産んだ後、1981年から84年までの3年間で3頭を出産。しかし1985年からは産駒を残すことができなかった<ref name="優駿-1988-6-139">『優駿』1988年6月号 139頁</ref>。宮村牧場は、繁殖牝馬を6頭しか繋養していない小規模牧場であり、用途のない馬を飼う金銭的余裕はなく、用途変更の後、然るべきところに送ることが最善とされた<ref name="優駿-1988-8-15" /><ref name="優駿-1988-6-137" />。しかし宮村は、フジコウに恩を感じており、家族に対し「75歳の年寄りの最後の我儘を聞いてくれ、ワシの目の黒いうちはどんなに苦しくともフジコウの処分まかりならん{{ママ}}<ref name="優駿-1988-6-137" />」と説得。フジコウは生き永らえ、孫のヤエノムテキの皐月賞優勝に至っている<ref name="優駿-1988-6-137" />。宮村は「そうしたわたしの気持ちがフジコウに通じたんだ、フジコウがわたしに感謝の気持ちを示したんだ<ref name="優駿-1988-6-137" />」と感じ取ったという。「(フジコウを)最後の最後まで面倒みてやる{{ママ}}<ref name="優駿-1989-2-152" />」とも話している。

抽選を潜り抜けて9番人気で臨んだ皐月賞、宮村は優勝するなど思っていなかった。同じ浦河町荻伏にある鮫川牧場の場主に東京競馬場へ出向くように誘われたが、時期だった種付け業務を優先、或いは「みじめな負け方をするのを見に行ってもしょうがない<ref name="優駿-1988-12-134" />」と考えて、断っていた<ref name="優駿-1988-8-12" />。代わりに、出向く予定のあった鮫川に一応、もしも優勝することがあったら、表彰式に参加しておくよう頼んでいたところ、優勝してしまう<ref name="優駿-1988-8-12" />。宮村牧場の初重賞優勝{{Efn|1963年、64年の東京障碍特別を連覇したキンタイムはいた<ref name="優駿-1991-2-24" /><ref>{{Cite web |title=キンタイム|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000005934/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-07-18}}</ref>。キンタイムは1963年の中山大障害にて、[[フジノオー]]に接近したが、3着に敗れた<ref>{{Cite web |title=キンタイム {{!}} 競走馬データ |url=https://db.netkeiba.com/horse/1958z00293/ |website=netkeiba.com |access-date=2022-07-18 |language=ja}}</ref>。}}となったが、表彰式、記念撮影は鮫川だった<ref name="優駿-1988-12-134" /><ref name="優駿-1988-8-12" />。

その後宮村は、皐月賞で表彰台を逃してから、盛んにヤエノムテキの応援へ出向くようになる<ref name="優駿-1990-12-134" />。地元北海道、函館のUHB賞でも優勝を見届けることができた<ref name="優駿-1989-2-152" />。しかしその後のヤエノムテキは、勝利から見放されるようになった。観戦するたびに敗れ、表彰台が遠い宮村はとうとうヘソを曲げてしまう<ref name="優駿-1990-12-134" />。1990年天皇賞(秋)は「負けると年寄りには寒さが身にしみる」という幼稚な理由で、出向かない予定だった<ref name="優駿-1990-12-134" />。しかし前日土曜日の午後、皐月賞で代理で表彰台に立った鮫川が、再び代役になることを嫌がって宮浦に観戦を促し、宮浦はそれに応じて東京競馬場に出向いている<ref name="優駿-1990-12-134" />。翌日の日曜日、天皇賞(秋)の優勝を見届けて、宮浦は表彰台の上を実現した<ref name="優駿-1990-12-134" />。

=== その他のエピソード ===

* 4歳の頃、[[シヨノロマン]](父:[[リードワンダー]])という牝馬が気になってしょうがなかった。調教する直前には、シヨノロマンが現れないか待って、なかなか走り出さなかった<ref name="優駿-1990-12-69">『優駿』1990年12月号 69頁</ref>。また近くにシヨノロマンが来れば、立ち止まっていた<ref name="優駿-1990-12-69" />。騎乗する荻野功によれば、ヤエノムテキはシヨノロマンに惚れていたという<ref name="優駿-1990-12-69" />。
* 1993年春、新冠町農協畜産センターで種牡馬をしている頃、ある見学者の若者から、たてがみや尻尾の毛を強引にむしりとられた<ref name="優駿-1994-6-81">『優駿』1994年6月号 81頁</ref>。ヤエノムテキは暴れ狂うも、怪我はなかった。このため、しばらく見学を断っていた<ref name="優駿-1994-6-81" />。

== 評価==
<!--
=== ファン投票 ===
{| class="wikitable" style="border-collapse: collapse; font-size:smaller; text-align:center; margin:10px; white-space: nowrap;"
!
!88年宝塚記念
!
! colspan="2" |88年有馬記念<ref>『優駿』1989年1月号 54頁</ref>
!
! colspan="2" |89年宝塚記念<ref>『優駿』1989年7月号 158頁</ref>
!
! colspan="2" |89年有馬記念
!
! colspan="2" |90年宝塚記念<ref>『優駿』1990年7月号 166頁</ref>
!
! colspan="2" |90年有馬記念<ref>『優駿』1991年1月号 54頁</ref>
|-
!1
|
!1
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|183,473
!1
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!1
|
|
!1
|オグリキャップ
|152,016
!1
|オグリキャップ
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|-
!2
|
!2
|オグリキャップ
|173,851
!2
|オグリキャップ
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!2
|
|
!2
|スーパークリーク
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!2
|'''ヤエノムテキ'''
|'''125,717'''
|-
!3
|
!3
|サッカーボーイ
|158,341
!3
|サクラチヨノオー
|{{0}}96,097
!3
|
|
!3
|イナリワン
|136,844
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|-
!4
|
!4
|'''ヤエノムテキ'''
|'''114,371'''
!4
|サッカーボーイ
|{{0}}91,392
!4
|
|
!4
|'''ヤエノムテキ'''
|'''102,686'''
!4
|メジロライアン
|116,982
|}
-->
=== フリーハンデ ===
{| class="wikitable" style="border-collapse: collapse; font-size:smaller; text-align:center; margin:10px; white-space: nowrap;"
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! colspan="3" |1988年(4歳(4歳)<ref>『優駿』1989年2月号 114頁</ref>
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! rowspan="2" |
! colspan="3" |1990年(6歳(5歳上)<ref>『優駿』1991年2月号 73頁</ref>
|-
!競走馬名
!値
!優勝競走
!競走馬名
!値
!優勝競走
!競走馬名
!値
!優勝競走
|-
!1
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|65
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|-
!2
|[[サクラチヨノオー]]
|63
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|-
!3
|[[サッカーボーイ]]
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|[[マイルCS]]
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|スーパークリーク
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| style="opacity: 0.9; background-image: linear-gradient(to bottom,#f09199 0%, #f09199 15%, #BCE2E8 15%, #BCE2E8 25%, #f09199 25%, #f09199 35%, #fff 35%, #fff 65%, #ff0 65%, #ff0 68%, #00f 68%, #00f 71%,#ff0 71%, #ff0 77%,#fff 77%,#fff 81%, #f00 81%, #f00 84%,#fff 84%, #fff 88%, #ff0 88%, #ff0 94%, #00f 94%, #00f 97%,#ff0 97%, #ff0 100%);"rowspan="2" |'''61'''
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| style="opacity: 0.9; background-image: linear-gradient(to bottom,#ff0 0%, #ff0 17%, #00f 17%, #00f 25.5%, #ff0 25.5%, #ff0 34%,#fff 34%,#fff 47%, #f00 47%, #f00 53%,#fff 53%, #fff 66%, #ff0 66%, #ff0 73%, #00f 73%, #00f 81.5%,#ff0 81.5%,#ff0 100%);"rowspan="2"|'''59'''
|" rowspan="2" |'''[[産経大阪杯]]'''
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|イナリワン
| rowspan="2" |60
|天皇賞(春)2着
|-
|[[バンブーメモリー]]
|[[スプリンターズステークス|スプリンターズS]]
|}


==血統表==
==血統表==
510行目: 993行目:


==脚注==
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}

=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
<references group="注釈" />
<references group="注釈" />


=== 出典 ===
=== 出典 ===
{{Reflist}}
{{Reflist|2}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* 日本中央競馬会、『中央競馬全重賞競走成績 GI編』(1996年)
* 日本中央競馬会、『中央競馬全重賞競走成績 GI編』(1996年)
* 『[[優駿]]』(日本中央競馬会)
* 『[[優駿]]』(日本中央競馬会)
** 1988年5月号
*** 「【第48回皐月賞詳報】西から新しい風、府中に咲いた八重桜、ヤエノムテキ」
*** 山下勝彦(デイリースポーツ)「【今月の記録室】第35回毎日杯(GIII)オグリキャップ」
** 1988年6月号
*** 「【オーナー愛馬を語る(27)】ヤエノムテキの大池正夫さん」
*** 「【日本の種牡馬】ヤマニンスキー」
*** 瀬上保男(読売新聞)「【今月の記録室】ヤエノムテキが皐月賞馬に 関西馬の11連敗を救う」
*** 瀬上保男(読売新聞)「【今月の記録室】内国産種牡馬の仔がクラシックV2」
*** 野村英俊(東京中日スポーツ)「【今月の記録室】第48回皐月賞(GI)ヤエノムテキ」
**1988年7月号
***「【第55回日本ダービー詳報】ハイレベルのダービーレコード、サクラチヨノオー」
***「【杉本清の競馬談義(40)】ゲスト西浦勝一騎手」
***「【今月の記録室】サクラチヨノオー 戦国ダービーに快勝」
***天野保彦(日刊スポーツ)「【今月の記録室】第55回日本ダービー(GI)サクラチヨノオー」
** 1988年8月号
** 1988年8月号
*** 結城恵助「【'88春・ヒーローの故郷紀行】皐月賞馬ヤエノムテキの故郷・宮村牧場」
**1988年9月号
***「【第2回中日スポーツ賞4歳ステークス】大外一気、お待たせゴール、サッカーボーイ」
***山口梅治(中日スポーツ)「【今月の記録室】第2回中日スポーツ賞4歳ステークス(GIII)サッカーボーイ」
**1988年12月号
***濱野圭司(KBS京都)「【今月の記録室】第36回京都新聞杯〈菊花賞トライアル〉(GII)ヤエノムテキ」
**1989年1月号
***「【第32回有馬記念】白い馬2頭の対決が、はたまた… 伏兵場も多士済済。」
***井上泰司(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第49回菊花賞(GI)スーパークリーク」
**1989年2月号
***「【1988年度JRA賞決定】年度代表馬にタマモクロス 馬事文化賞に、長島信弘氏 坂内誠一氏」
***「【第41回鳴尾記念】ハナでも抜かせない、ヤエノムテキ」
***「【1988年度フリーハンデ】4歳馬 オグリキャップは、三冠馬・ミスターシービーに並ぶ65キロ。サクラチヨノオーは63キロ。」
***北村正顕(サンケイスポーツ)「【今月の記録室】第41回農林水産省賞典 鳴尾記念(GII)ヤエノムテキ」
** 1989年3月号
*** 「【第36回日経新春杯】若い者には負けられん、ランドヒリュウ」
*** 市橋直和(日本経済新聞)「【今月の記録室】第36回日経新春杯(GII)ランドヒリュウ」
**1989年6月号
***「【第33回産経大阪杯】中距離王へ前進、ヤエノムテキ」
***森本昭夫(サンケイスポーツ)「【今月の記録室】第33回産経大阪杯(GII)ヤエノムテキ」
**1989年7月号
***「【第30回宝塚記念】ここはユタカVSミキオ 若いパワー炸裂もイナリワン」
***「【ニュース&インフォメーション】第30回宝塚記念ファン投票結果」
** 1989年8月号
***末永紀元(大阪スポーツ)「【今月の記録室】第30回宝塚記念(GI)イナリワン」
** 1989年9月号
*** 「【全調査 秋をめざす有力馬たち】5歳以上有力馬の近況 第100回天皇賞はオールスター・キャスト」
*** 紺野真(東京スポーツ)「【全調査 秋を目指す有力馬たち】菊花賞戦線は、ウィナーズサークルに"鋭""鈍""爽"の三頭が挑むぞ。」
** 1989年12月号
*** 「【第100回天皇賞詳報】新しい時代のヒーロー、スーパークリーク&武豊」
*** 原田純一(報知新聞)「【今月の記録室】第100回天皇賞(秋)(GI)スーパークリーク」
** 1990年2月号
*** 「【1989年度JRA賞年度代表馬、各部門最優秀馬決定!!】年度代表馬はGI3勝のイナリワン」
*** 「【1989年度フリーハンデ決定】5歳以上総合 実力のオグリキャップ対実績のイナリワンは、ともに史上4番目の65キロで決着。」
*** 伊藤元彦(夕刊フジ)「【今月の記録室】第34回有馬記念〈グランプリ〉(GI)イナリワン」
** 1990年3月号
*** 市橋直和(日本経済新聞)「【今月の記録室】第37回日経新春杯(GII)トーワトリプル」
** 1990年4月号
*** 浅利大策(読売新聞)「【今月の記録室】第21回読売マイラーズカップ(GII)メジロワース」
**1990年6月号
***橋本忠(サンケイスポーツ)「【今月の記録室】第34回産経大阪杯(GII)スーパークリーク」
**1990年7月号
***「【第40回安田記念詳報】新コンビ、ヒーローの始動に歓呼の嵐 オグリキャップ」
***「【第31回宝塚記念詳報】オグリを封じる先制攻撃、大金星です、オサイチジョージ」
***野村英俊(東京中日スポーツ)「【今月の記録室】第40回農林水産省賞典 安田記念(GI)オグリキャップ」
***「【ニュース&インフォメーション】第31回宝塚記念ファン投票結果」
**1990年8月号
***大野良郎(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第31回宝塚記念(GI)オサイチジョージ」
**1990年10月号
***「【'90秋古馬戦線】2年間続いた"長期三強時代"の行方は。」
**1990年12月号
***「【第102回天皇賞(秋)詳報】オグリキャップ散り、輝く星はヤエノムテキ」
***山際淳司「【ドキュメント・第102回天皇賞(秋)】岡部の選択」
***原田純一(報知新聞)「【今月の記録室】第102回天皇賞(秋)(GI)ヤエノムテキ」
**1991年1月号
***「【練熟か、若さか '90FINAL RUN】第35回有馬記念ファン投票結果」
***片山良三(サンケイスポーツ)「【今月の記録室】第10回ジャパンカップ〈国際招待〉(GI)ベタールースンアップ」
**1991年2月号
***「【第35回有馬記念詳報】平成2年、熱狂のフィナーレ、ヒーローは死なず、オグリキャップ」
***吉川良「【秋のGI競走勝馬の故郷紀行】ヤエノムテキの故郷 宮村牧場」
***「【1990年度JRA賞決定】年度代表馬にオグリキャップ 馬事文化賞に、白井透氏、山野浩一氏」
***「【1990年度フリーハンデ決定】5歳以上総合 オグリキャップは89年乎強さに比べると2キロ減。スーパークリークと並べる。」
***榎本正男(道新スポーツ)「【今月の記録室】第35回有馬記念〈グランプリ〉(GI)オグリキャップ」
** 1994年6月号
*** 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝(97)】四白流星の暴れん坊 ヤエノムテキ」
**1999年2月号
***井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝〈レース編(50)〉】オグリキャップのラストラン(下)復活」
**1999年7月号
***阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝〈レース編(55)〉】サッカーボーイの熱い夏(上)失意の春を乗り越えて」
** 2002年4月号
** 2002年4月号
*** 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち 11】ヤエノムテキ」
*** 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち(11)】ヤエノムテキ 東京二千のスペシャリスト
**2002年6月号
***阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち(13)】サクラチヨノオー 巻き返してダービー制覇」
**2006年11月号
***井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝(66)】サッカーボーイ 金色の弾丸」
** 2013年11月号
** 2013年11月号
*** 谷川善久「【優駿激闘譜】ヤエノムテキ 八重の勝利に華を添える二つの勲章」
*** 谷川善久「【優駿激闘譜】ヤエノムテキ 八重の勝利に華を添える二つの勲章」
**2014年5月号

***山田康文(馬事通信)「【優駿コラム】馬産地最前線 内国産種牡馬不遇の時代を生き 余生を送っていたヤエノムテキが死亡」

* もしや万一「紀三井寺80年の歴史に花束を投げろ! ヤエノムテキ」『競馬名馬読本』〈別冊宝島143号〉(宝島社、1996年)
==外部リンク==
==外部リンク==
* [https://ameblo.jp/yaenomuteki19850411/ ヤエノムテキ会公認ブログ『Muteki☆通信.jp』]
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2022年7月20日 (水) 13:25時点における版

ヤエノムテキ
欧字表記 Yaeno Muteki[1]
品種 サラブレッド[1][2]
性別 [1][2]
毛色 栗毛[1][2]
生誕 1985年4月11日[1][2]
死没 2014年3月28日(29歳没)[3]
ヤマニンスキー[1][2]
ツルミスター[1][2]
母の父 イエローゴッド[1][2]
生国 日本の旗 日本北海道浦河町[1]
生産者 宮村牧場[4]
生産牧場 宮村牧場[1][2]
馬主 (有)富士[1][2]
調教師 荻野光男(栗東[1][2]
厩務員 荻野功[5]
競走成績
タイトル JRA賞最優秀父内国産馬(1990年)[1]
生涯成績 23戦8勝[1][2]
獲得賞金 5億2422万7500円[2]
勝ち鞍
GI 皐月賞 1988年
GI 天皇賞(秋) 1990年
GII 京都新聞杯 1988年
GII 鳴尾記念 1988年
GII 産経大阪杯 1989年
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ヤエノムテキ(欧字名:Yaeno Muteki1985年4月11日 - 2014年3月28日)は、日本競走馬種牡馬[1]

1990年JRA賞最優秀父内国産馬である。1988年皐月賞(GI)、1990年の天皇賞(秋)(GI)を優勝した。

また、1988年の京都新聞杯(GII)、鳴尾記念(GII)、1989年の産経大阪杯(GII)を優勝した。

デビューまで

誕生までの経緯

宮村牧場

宮村牧場は、北海道浦河町の競走馬生産牧場である。1953年に伏木田牧場から宮村岩雄が、「円満独立[注釈 1]」(伏木田達之)して開場していた[7]。宮村は、伏木田牧場での修行時代、第三ハンナーという繁殖牝馬に惚れ込んでいた[7]。修行時代には、宮村自身で、その第三ハンナ―にトキノチカラをあてがっていた。そして産まれた牝馬が、フジサカエだった[7]。宮村は独立の際、繁殖牝馬1頭で独立している。その牧場の基礎繁殖牝馬に選り抜いたのが、お気に入りの牝馬の仔であるフジサカエだった[7]

そのフジサカエはトサミドリとまぐわい、ハマミドリという牝馬を生産する。そしてハマミドリは、ソロナウェーとまぐわい、フジコウという牝馬を生産する[7]。このフジコウは牧場で繁殖牝馬となり、宮村が「カマド馬」と称するほどの活躍で牧場を支えることとなる[7]。産駒は、地方競馬で多く活躍した[8]。そして1979年、フジコウはイエローゴッドとまぐわう。翌1980年に産まれたのがツルミスターだった[8]

ツルミスター

ツルミスターは、父イエローゴッド、母フジコウの牝馬である。抽せん馬として競走馬となり、栗東トレーニングセンター所属の荻野光男調教師の管理のもとでデビュー[9]。4歳でデビューしたが、球節をきたして上手く走れず、3戦未勝利だった[10]

引退後の処遇について荻野は、乗馬或いは使役馬にするつもりだった[9]。しかし血統を思い返した時、母系に引き合わされた種牡馬が三代連続(父(イエローゴッド)、母父(ソロナウェー)、母母父(トサミドリ))でいずれも東京優駿優勝馬の父[注釈 2]であることに気づく[9]。さらに馬体自体も高く買っていたことから、一転、繁殖牝馬にしようと決意[10]。荻野が馬主を説得して「仔分け」として、宮村牧場で繋養された[9]

ツルミスターの初年度である1984年には、父ニジンスキー、母父バックパサーヤマニンスキーが選ばれる。「父ニジンスキー、母父バックパサー」は、1976年朝日杯3歳ステークスを制するなど8戦無敗、クラシック不参戦の持込馬マルゼンスキーと同じ血統構成だった[11]。ヤマニンスキーも同様にクラシック参戦不能の持込馬としてデビュー、条件戦優勝に留まる22戦5勝だった[12]。競走成績はそれほどだったが、血統が高く買われて種牡馬となる[11]。供用初年度の1982年から32頭の繁殖牝馬を、以降1994年までは少なくとも30頭は集め、70頭に達したこともあった[13]

ツルミスターの相手にヤマニンスキーを選んだのは、宮村岩雄の次男徳二[注釈 3]によれば、安原實だったという[14]。安原は、同じ浦河町でヤスハラ・ホースガーデン(安原馬苑)を営んでおり、アメリカの調教師免許を取得した過去もあった[14]。宮村が「ツルミスターに何がいいかなぁ?」と訊いたときに、安原が提案したという[14]。安原はヤマニンスキーについて、特に母系を高く買っていたほかに、このように述べている[14]

イエローゴッド系列の仔は大きく出ます。ヤマニンスキーもゴツい馬です。大きすぎる仔が出るんじゃないかと、それだけが心配でしたね。 — 安原實[14]

一方で、荻野は、自身で選んだと自称している。既に走っていたヤマニンスキー産駒を見て、その走りっぷりを高く買っていたという[10]。他にこのように述べている。

(ヤエノ)ムテキの母のツルミスターは抽せん馬だったけれど馬力があった。そこで私はヤマニンスキーをつけてもらった。ヤマニンスキーはニジンスキー産駒で馬格があり、私が好きな馬だったんだ。言わば私が気に入ったもの同士を一緒にさせたようなものでね。  — 荻野光男[15]

1985年4月11日、北海道浦河町の宮村牧場にて、ツルミスターの初仔となる栗毛の牡馬(後のヤエノムテキ)が誕生する[9]

幼駒時代

初仔は、他と比べて大柄だった。周りに相撲をふっかけては下し[16]、牝馬がいればその後ろを追いかけまわした[10]。初仔がいじめばかりするため、放牧するときは隔離する措置が取られた[9][10]。2歳末に、三重県の大静牧場へ移動し、育成が施された[9]。荻野は、栗東から頻繁に訪れて、初仔の成長を見守った[10]

荻野は、馬主歴30年超の有限会社富士取締役社長・大池正夫に「いい馬がいるから買いませんか」と勧めた[17]。大池はそれに応えて1300万円で購入、有限会社富士名義での所有となる[18][9]。初仔には、有限会社富士の冠名「ヤエノ」に「ムテキ」が組み合わされた「ヤエノムテキ」という競走馬名が与えられた。同期の有限会社富士名義の競走馬には、トウショウボーイ産駒のヤエノダイヤがいた。ヤエノダイヤは、浦河の鮫川牧場生産であり、同じ荻野厩舎だった[19]。ただ購入金額は3000万円であり、ヤエノムテキに比べて人に従順な性格だった[18]。大池は当初、ヤエノダイヤに大きな期待をかけていたという[17]。後の担当調教助手、荻野の長男荻野功も、同様にヤエノダイヤに好感触を得ていたが、ヤエノムテキについて目立っていなかった[18]

3歳夏前に栗東の荻野厩舎に入厩する。荻野は当初、3歳夏の函館競馬場開催でのデビューを考えていた[10]。しかし、函館に移して調教したが、後ろ脚の成長が十分ではなく、腰が弱かった[9]。おまけに前脚に骨瘤をきたしたために休養となる[10]。獣医師が「普通に走るのもむずかしいかもしれない[20]」と所見するほどの状態だった。このため、3歳でのデビューは果たせなかった[10]

気性が悪く、腰が良くなくて乗り心地が悪いヤエノムテキは、厩舎の調教助手は誰も進んで担当しようとしなかった[20]。そんなときに「しょうがないから」という理由で荻野功が担当することとなった[20]。功は、アメリカ合衆国カリフォルニアのロン・マッカナリー英語版に厩舎で修行した後、日本で調教助手をしていたが、その技量を以てしても、ヤエノムテキを扱うのは容易ではなかった[9]

競走馬時代

4歳(1988年)

毎日杯

2月27日、阪神競馬場新馬戦(ダート1700メートル)でデビューする。西浦勝一が騎乗、西浦はしばらくの間、騎乗し続けることとなる。3番手を追走して直線で先行2頭をかわし、後は突き放す一方だった[10]。メジロマーシャスに7馬身差をつけて初勝利を挙げる[21]。続く3月19日、中京競馬場の沈丁花賞(400万円以下、ダート1700メートル)でも、2番手から最終コーナーで抜け出し、突き放した。アグネスターフに大差、約12馬身、2秒差をつけて優勝、連勝とする[21]

ダートで大きな差をつけての連勝に陣営は、芝のクラシック参戦を考え始め[21]、特にクラシック二冠目、5月下旬の東京優駿(日本ダービー)を志向する[22]。そのためにヤエノムテキに連闘を課した。沈丁花賞から1週間後の3月27日、初めての芝となる毎日杯(GIII)に臨む。関西馬にとって毎日杯は、4月中旬に東京競馬場で行われるクラシック一冠目・皐月賞出走、東上を賭ける一戦と認識されていた。しかしヤエノムテキの目標は、あくまで東京優駿であり、勝利しても皐月賞は見送るつもりだった[22]

重馬場、10頭が出走する中、4番人気となる[23]。1番人気は12戦10勝の笠松から転入し、中央初戦のペガサスステークスを勝利し目下9連勝中のオグリキャップ。2番人気はオープン競走優勝重賞2着のファンドリデクター、3番人気は重賞優勝馬ディクターランドだった[23]。主要な出走メンバーは、皐月賞を確定的した者、諦めた者、そもそも出走する資格がない者で占めており、例年の毎日杯とは違った趣だった[22]

ヤエノムテキはまず「枠入り不良」を犯した[24]。スタートしても重馬場で苦しく、後方追走となる。ただ第3コーナーから最終コーナーにかけては、外から位置を上げることはできた[25]。しかし直線では、先に抜け出していたファンドリデクター、後方から追い込んだオグリキャップに屈し、3馬身半以上離された4着となる[24]。出走に必要な賞金の上乗せに失敗した。ただこの4着について荻野は、まだ未熟な3戦目の重馬場で「頑張った」と実力を高く見込むようになり、東上の後押しとなった[26]。まだクラシック出走を確定させるような賞金は得ていないが、一応皐月賞に出走登録を行う[25]。同厩、同馬主のヤエノダイヤが皐月賞と同じ週、同じ競馬場で行われるクリスタルカップへの出走を予定していたため、それに便乗する形で、一応東上した[21]

皐月賞

この世代の3歳チャンピオンは、関東はサクラチヨノオー、関西はサッカーボーイだった。中でもサッカーボーイの走りは「テンポイントの再来」との声が挙がるほどで、クラシックの本命はサッカーボーイと考えられていた[27]。迎えた4歳春、皐月賞のトライアル競走である弥生賞では、この東西チャンピオンが初めて顔を合わせている。共同通信杯4歳ステークスでミュゲロワイヤルに及ばず4着から臨むサクラチヨノオーに、始動戦のサッカーボーイが東上して挑む形だったが、サクラチヨノオーが勝利していた[28][29]

2頭の再戦の場は、いきおい皐月賞だと考えられた。しかしサッカーボーイは、飛節炎を発症して皐月賞を断念となる[30]。他にも、サクラチヨノオーを下したミュゲロワイヤルも回避[31]。3歳重賞、オープン競走を無敗で制したコクサイトリプル、グリンモリーは負け知らずのまま復帰していないなど、有力馬は、次々に失われていった[31]。そんな中、400万円以下を勝利したに過ぎないヤエノムテキは、出走馬決定順で16位タイ、抽選圏内に滑り込む[25]。ただ同じ賞金の16位には6頭が存在しており、出走可能頭数18頭に対して3頭超過していた[32]。よって、6頭のうちの3頭、確率2分の1の抽選となったが、ヤエノムテキは当選する[注釈 4]。皐月賞出走を叶えた[32]

4月17日、皐月賞(GI)に臨む。中山競馬場が改修中のため、トウショウボーイが制した1979年以来12年ぶりとなる東京競馬場での代替開催だった[33][34]。枠が与える影響を多分に含む東京芝2000メートルという舞台設定の中、ヤエノムテキは抽選を潜り抜けたうえに、最内枠、有利とされる1枠1番に割り当てられる[35]。西浦には、カツラギエースで逃げ切った1984年ジャパンカップ、同じ1枠1番からテルテンリュウで制した1979年NHK杯の記憶があって東京を相性が良いと思い込んでおり、またヤエノムテキにも十分な能力があることから、皐月賞戴冠は現実的だと考えていた[31]。さらに荻野は「(前略)抽せん〔ママ〕でもチャンスがあるならと望みを託して東京に連れてきた。もう1頭のヤエノダイヤが(メルセデス)ベンツなら、ムテキはダンプカーや。東京の長い直線はピッタリや[31]」と述べていた。しかしダートで2勝、芝未勝利では信頼を集めることができず、単勝オッズ25.2倍の9番人気だった[36][37]。 

1番人気は、5戦4勝スプリングステークス優勝馬モガミナイン、2番人気はサクラチヨノオー、3番人気は弥生賞2着のトウショウマリオ、4番人気は重賞2着2回のモガミファニーであり、この4頭がオッズ一桁台だった[37]。西浦は勝利のために、先行策、好位奪取を目論むとともに、同型の有力馬であるサクラチヨノオーのマークを心掛けていた[35]

映像外部リンク
1988年 皐月賞(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

最内枠から好発したヤエノムテキは、逃げ馬2頭とサクラチヨノオーに先を譲り、スムーズに好位、最内4番手を確保する[33]。一方、後方では、第2コーナーにて、メイブレーブ、マイネルフリッセによる斜行が発生[38]。モガミナインはそのあおりを受けて進路を失い、たちまち戦線から脱落している[33]。逃げ馬が速いペースで引っ張って後方有利に思われ、後方勢は前との距離を縮めて馬群は凝縮する[39]。ただ1000メートル通過は59.8秒であり平均ペース、先行勢、後方勢共にイーブン、最後方勢だけが苦しくなる展開だった[40]

迎えた最終コーナーでは、まず、サクラチヨノオーが動いて先頭に立ち、すぐにトウショウマリオが追っていた[41]。ただサクラチヨノオーを見下ろすヤエノムテキは、最終コーナーでも動かなかった[41]。最後の直線の坂の手前、逃げ馬を安全にかわしてから末脚を発揮する[21]。繰り出された末脚はサクラチヨノオーのそれを上回るものだった[21]。内からサクラチヨノオーをかわして抜け出し、以後先頭を守り続けて、決勝線を通過する[42]。大外からはディクターランドが追い上げており、ヤエノムテキに遅れてサクラチヨノオーを吸収していたが、ヤエノムテキの先頭を脅かすものではなかった[41]

ディクターランドに4分の3馬身差をつけて皐月賞優勝を果たす[38]。走破タイム2分1秒3は、過去10回あった東京の皐月賞で最も速かった[注釈 5][34]。さらにデビューから4戦目で皐月賞を制したのは、1952年クリノハナ、1965年チトセオー、1979年トウショウボーイ、1985年ミホシンザンなどに並び立ったが[43]、特筆すべきは芝初勝利が皐月賞だった[32]。また関西馬にとっては、1977年ハードバージ以来11年ぶりの優勝[21]。2着ディクターランドも関西馬であり、関西馬によるワンツーフィニッシュは、1965年チトセオーダイコーター以来23年ぶりだった[34]。併せて西浦、荻野は共にクラシック初優勝[44]、大池は重賞初優勝[17]。さらに加えて、ヤマニンスキー産駒は初重賞優勝[36]。父内国産馬としては、前年のサクラスターオーに次いで皐月賞連覇となった[36][注釈 6]

続いて5月29日、二冠目指して東京優駿(GI)に挑む。皐月賞の後から、評価は急速に高まっていた[45]。その感触は、荻野が取材に追われ、円形脱毛症になるほどだったという[45]。皐月賞組に、NHK杯から臨むマイネルグラウベン、メジロアルダン、コクサイトリプル、サッカーボーイ、ファンドリデクターなどが加わった24頭が出走した[46]。1番人気のオッズが5.8倍、支持率が過去最低の混戦となる中[47]、ヤエノムテキは6.4倍の2番人気となる[48]。皐月賞を回避したサッカーボーイに1番人気を譲った[48]。以下、コクサイトリプル、サクラチヨノオー、マイネルグラウベン、メジロアルダンと続いていた[48]

映像外部リンク
1988年 東京優駿(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

4枠11番からスタート、先行することはできなかった。第2コーナーでは他に押し込まれて、位置を下げ中団後方の追走だった[42]。それでも第3コーナーにて、外に持ち出して追い上げを開始[42]。先行して先頭を窺うサクラチヨノオーを視野に入れる位置まで押し上げて、最終コーナーを通過、直線にてスパートする。ただし繰り出された末脚には、皐月賞の時のような伸びは見られず、サクラチヨノオーやメジロアルダン、コクサイトリプルの末脚に劣り、敵わなかった[49][50]。3頭は、横一線の争い続け、サクラチヨノオーが制している。ヤエノムテキはそれに加わることなく、約3馬身以上離された4着だった[51]
続いて「ダービーのあとも元気だから[52]」(荻野)と放牧に出ずに続戦する。7月3日の中日スポーツ賞4歳ステークス(GIII)に臨んだ。クラシック優勝馬がその年の夏の中京開催に見参するのは、初めての例だった[52]。11頭が出走する中、東京優駿1番人気14着直後、東京優駿直後からようやく体調が上向いたサッカーボーイとの対決となる[28]。ただヤエノムテキの方は、負担重量が2キログラム重かった[30]。共に単枠指定制度の対象となり[53]、人気も抜けて集めていたが、ヤエノムテキの方が信頼される[30][54]

映像外部リンク
1988年 中日スポーツ賞4歳S(GIII)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

大外枠からスタートしたヤエノムテキは、スローペースの2番手を追走し、手応え十分なまま直線で抜け出し、勝利パターンに嵌った[55]。しかし後方待機、大外から追い込んだサッカーボーイの末脚が鋭く接近を許して、やがて決勝線手前で差し切られた[56]。サッカーボーイに半馬身屈して2着となる[53]

2か月の夏休みを挟んで9月11日、函館競馬場のUHB杯(OP)で復帰[45]。1枠1番の単枠指定[57]、1番人気の支持を集めながら好位追走、年上重賞優勝馬を制して抜け出した[58][42]。以後独走、終いで手綱を緩める動作を見せながら先頭で入線する[42]

10月16日、菊花賞のトライアル競走である京都新聞杯(GII)に、再び1枠1番、単枠指定で臨む[59]。皐月賞2着のディクターランド、神戸新聞杯2着3着のコウエイスパート、スーパークリークなどが揃う16頭立ての中、1.4倍の1番人気だった[26]。最内枠から好発して好位の3番手を確保[26]。道中では、2番人気コウエイスパートに終始マークを受けた。第3コーナーにてコウエイスパートがスパートするも構わず、直線に入ってからスパートを開始[26]。一時、失速するモガミチャンピオンに接触するアクシデントがあったが、すぐに立ち直って末脚を発揮、逃げるメイショウボーイをかわし、絡まれるコウエイスパートを振り払った[26]。コウエイスパートに1馬身半差をつけて先頭で入線[59]。重賞2勝目、菊花賞の優先出走権を獲得する[59]

続いて11月6日の菊花賞(GI)に、返す返す1枠1番、単枠指定となる[60]。この年の4歳牡馬は、東京優駿で先着を許したワンツースリー、サクラチヨノオー、メジロアルダン、コクサイトリプルはいずれも離脱、おまけに5着のファンドリデクターも[57]、中日スポーツ賞4歳ステークス直後の函館記念で名を高めたサッカーボーイも[57]、京都新聞杯で2着のコウエイスパートも[26]セントライト記念優勝のダイゴウシュールも離脱し[61]、連勝継続中のオグリキャップは出走できなかった。そんな中、ヤエノムテキは、勝利を重ねて、順調に菊花賞に到達。信頼を集めて2.1倍、ディクターランドやスーパークリークを約8倍に突き放す1番人気だった[61]

映像外部リンク
1988年 菊花賞(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

スタートから6番手追走し、直線に向く。しかしそれ以降伸びず、終始マークされていたスーパークリークに突き放された[62]。優勝したスーパークリークに1.5秒後れを取る10着、デビュー以来初めて二桁着順の敗退を喫する[21]

12月4日、鳴尾記念(GII)に臨む。菊花賞3000メートルの敗因を距離に求めた荻野は、ヤエノムテキに2500メートルを課し、格の低いGII、ハンデキャップ競走に挑ませていた[45]。ハンデは、4歳ながらトップハンデ――例えば年上の50キログラムや同期の51キログラムがいる中、58キログラムを課された。それでも1番人気の支持だった[63]。「枠入り不良」を犯した後[64]、6歳騸馬の56キログラム2番人気ハツシバエースとともに中団を追走する[65]。最終コーナーにてヤエノムテキは、相手に先んじてスパートを開始し、直線で突き放した[65]。しかし半ばを過ぎてからハツシバエース、4歳牡馬の51キログラム3番人気カゲマルの追い上げを許した[65]。特にハツシバエースの末脚は鋭く、早めにスパートして余力なくなったヤエノムテキは並ばれる[66]。それでも終いは抵抗し、2頭ほぼ同時の入線にこぎつけた[66]。写真判定で以て、決勝線のヤエノムテキのハナ差先着が認められ、重賞3勝目となる[64][65]。この後は休養に専念するため暮れの有馬記念を見送り、年内休養となる[65]

この年のJRA賞では、最優秀父内国産馬最優秀スプリンターにて票が存在したものの、いずれも1票に留まり、受賞には至らなかった[67]。またヤエノムテキを含めた同世代の牡馬から選ばれる最優秀4歳牡馬は、重賞連勝、天皇賞(秋)2着、ジャパンカップ3着、有馬記念優勝のオグリキャップが、172票中170票を集めて受賞している[67]。残る2票は、サクラチヨノオーであり、ヤエノムテキへの票は存在しなかった[67]

5歳(1989年)

1月22日、日経新春杯(GII)で古馬初戦となり、単枠指定、1番人気に推される[68]。中団を追走し、直線では先に抜け出していた3番人気の8歳馬ランドヒリュウを外から追った[68]。ただ前を行くランドヒリュウが、ヤエノムテキの方に斜行して来ており、ヤエノムテキは追いづらかった[69]。結局、ランドヒリュウに並び立つことはできたが、差し切ることはできず、クビ差敵わず2着となる[70][68]

荻野はこの頃から、距離適性が中距離にあると認識するようになった。そのため上半期は、3200メートルの天皇賞(春)を考えず、2200メートルの宝塚記念を大目標に据える。日経新春杯の後、2か月間の休養を取ったヤエノムテキは、余裕を持った状態で4月2日の産経大阪杯(GII)で始動する[69]。日経新春杯で先着を許したランドヒリュウとの再戦となるが、1番人気を得た[71]。スタートから4番手の好位を確保し[69]、手応え十分のまま最終コーナーに至る[72]。直線にて前を行く逃げ馬、ランドヒリュウ、ゴールドシチーを捉えて突き放し、以後独走となった[72]。手綱を緩める動作を見せる余裕がありながら決勝線を通過[72]。ランドヒリュウに3馬身半差をつけて優勝する[73]

そして目標、6月11日の宝塚記念(GI)に臨む。オグリキャップとスーパークリークが不在だったが[74]、ヤエノムテキ、サクラチヨノオー、優駿牝馬優勝馬コスモドリーム安田記念優勝馬フレッシュボイス並びにバンブーメモリー阪神3歳ステークス優勝馬ゴールドシチー、天皇賞(春)優勝から臨むイナリワンというGI級競走優勝馬7頭が顔を揃えた[75]。そんな中、ヤエノムテキはイナリワンと並び立つ扱いで単枠指定となる[76]。ただヤエノムテキが信頼されて1番人気だった[77]

映像外部リンク
1989年 宝塚記念(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

しかしこの日のヤエノムテキには、前に行こうとする心意気が見られなかった[77]。好位につけるつもりが、最後方追走[77]。そのまま、追い上げなく7着に敗退する[76]

この後は笹針を伴う夏休み[78]、函館競馬場で過ごした[79]。秋は天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念出走を計画し[69]、初めの目標である天皇賞(秋)には、毎日王冠を叩いて挑むつもりだった[79]。しかし休養中、函館の温泉に入ったところ、ヤエノムテキは緩みすぎ、おかげで状態回復に時間がかかっていた[80]。「少し出遅れ気味[81]」(紺野真)の8月1日から馬場での調教を開始[81]、毎日王冠には現れず、「間に合った[80]」(荻野)という形で天皇賞(秋)ぶっつけでの参戦となる[80]

映像外部リンク
1989年 天皇賞(秋)(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

オグリキャップ、スーパークリーク、メジロアルダン、イナリワンという「四強」が形成される中[82]、ヤエノムテキは6番人気だった。スタートから好位を確保、直線にてスパートして抜け出し先頭に立った[83]。しかしそれ以降は、伸びず、スーパークリーク、オグリキャップ、メジロアルダンに呑みこまれた[84]。それらが横一線で先頭を争いスーパークリークが優勝、ヤエノムテキはそれに1馬身4分の3馬身以上後れを取る4着だった[85]。それからジャパンカップは出ず、暮れの有馬記念に臨んだが、宝塚記念のように最後方追走となる[84]。終いに追い上げることはできたが、イナリワンとスーパークリークの先頭争いに7馬身以上後れを取る6着に敗れた[86]。この年のJRA賞では、最優秀父内国産馬での1票に留まり、受賞には至らなかった[87]

6歳(1990年)

1月21日、日経新春杯から始動。60キログラムを背負いながらも、前年に続いて再び1番人気となる[88]。9頭立て6番手を追走し、向こう正面から2番手追走のトーワトリプルを目指した[89][90]。早めにスパートして外から差を縮めたが、56キログラムのトーワトリプルには敵わなかった[89]。4分の3馬身及ばず、前年に続いて2着となる[90]。続いて2月25日、マイラーズカップ(GII)は、60キログラム、1番人気で臨む[91]。1975年キタノカチドキ以来、15年ぶりとなる皐月賞優勝馬のマイラーズカップ参戦であり、重馬場だった[92]。7枠10番が与えられたヤエノムテキだったが、スタート直後に躓き、大きく後れを取った[92]。それでも道中で追い上げ、直線でスパートして先頭集団に取り付いた[91]。しかし内から伸びるメジロワース、外から追い上げるスカイジャイアントに差し切られ、1位入線のメジロワースに、4分の3馬身とクビ差及ばず3着となる[91][92]

それから4月3日、産経大阪杯に臨む。天皇賞(春)を目指すスーパークリーク、中距離を得意とするオサイチジョージサクラホクトオーとの対決であり、ヤエノムテキはそれらに続く4番人気だった[93][94]。後方を追走したヤエノムテキは、第3コーナーから外から追い上げた[84]。先行するスーパークリーク、オサイチジョージに迫り、やがて直線にて3頭で並び立った。しかし終い、スーパークリークにもう一伸びを許して、及ばなかった[93]。スーパークリークに4分の3と4分の3馬身、オサイチジョージに4分の3馬身敵わず3着となる[95]

5月13日、安田記念(GI)に参戦。これまで騎乗し続けた西浦から、岡部幸雄に乗り替わった[96]。この2週間前に、栗東から美浦所属の岡部に騎乗依頼をしているが、有力馬の騎乗依頼が押し寄せる人気の岡部は、判断するには時間を要した[97]。ただ依頼から1週間後、安田記念の1週間前に、ヤエノムテキの騎乗依頼に応えて、コンビ結成が決定する[97]。以後、岡部は引退まで騎乗し続けることとなる。

映像外部リンク
1990年 安田記念(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

オグリキャップの半年ぶりの復帰戦として大きな注目を集める中、オグリキャップ、オサイチジョージ、バンブーメモリーに次ぐ4番人気で出走する[98]。「枠入り不良」の後にスタートし[99]、単枠指定、1番人気、先行するオグリキャップの背後を取る4番手で、マークし続けた[96]。直線でも抜け出したオグリキャップを追いかけ、その差を1馬身にまで縮めた[100]。しかし終いになってのもう一伸びには、敵わなかった[101][100]。オグリキャップがニッポーテイオー、ラブシックブルースを上回るレースレコード、コースレコードで制する中、2馬身後れを取った[99][102]。ただオサイチジョージとの2着争いはクビ差制し、2着を確保する[99]
続いて6月10日の宝塚記念は、オグリキャップ、オサイチジョージに加えてイナリワンとの戦いだった。それらに次ぐ4番人気で出走[103]。良馬場だったが、開催晩期で芝が荒れていた。それに気をとられて、思うような追走とはならなかった[104]。再びオグリキャップをマークして直線で脚を伸ばしたが、オグリキャップとともに伸びなかった[105]

映像外部リンク
1990年 宝塚記念(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

安田記念にてオグリキャップをマークしながら3着に敗れたオサイチジョージが、開き直って2番手先行から押し切り優勝[104]。3馬身半後れを取りオグリキャップが2着。ヤエノムテキは、オグリキャップに再び敵わず、半馬身後れる3着だった[106]。この後は函館競馬場で夏休み、秋は前年と同様に天皇賞(秋)を目指すことになる。前年、緩めすぎたことを省みて、函館ではそれを許さなかった[80]。また毎日王冠参戦は、前哨戦で疲労が出て、本番に影響するのを懸念して見送った[80]。この年は、前もって計画してぶっつけでの天皇賞(秋)参戦となる[107]

獲得タイトルが皐月賞しかないヤエノムテキは、オグリキャップやスーパークリーク、イナリワンが「三強」と崇め奉られる世の中にあって、地味な印象が強かった[108]。そのため荻野は、種牡馬としての将来のため、或いは名声を高めるために、皐月賞に続くGI2勝目を渇望する[108]。その舞台として、皐月賞と同じ条件で行われる天皇賞(秋)は絶好の舞台であると捉えていた。そこで荻野はヤエノムテキに、渾身の調教を施す。ヤエノムテキは、調教で走る際には手を抜いて走る癖の持ち主だったが、今回ばかりは妥協しなかった[108]。「生涯最高の出来[109]」(横尾一彦)まで仕上げられて天皇賞(秋)直前、荻野、調教助手で荻野の長男荻野功、厩務員の3人が馬運車に乗り、東上する[108]。運転手のほかに、3人の同乗は、異例のことだった[108]。阿部珠樹によれば陣営には「それだけ気合が入っていた[108]」という。

天皇賞(秋)

10月28日、天皇賞(秋)に臨む。安田記念や宝塚記念で先着を許したオグリキャップ、オサイチジョージとの再戦だった。「三強」のイナリワンとスーパークリークは、共に引退の後押しとなる怪我を負って断念しており、残った1頭オグリキャップに注目が集中する[80]。宝塚記念で敗れたものの信頼は揺るがず、単枠指定、2.0倍の1番人気、単勝支持率は38.3パーセントに達していた[80]。そのオグリキャップを下したオサイチジョージが5.3倍の2番人気であり、そして8.0倍の3番人気がヤエノムテキだった[110]。以下、同じ8倍台のバンブーメモリー、10倍台にメジロアルダンなどと続く18頭立てだった[110]

映像外部リンク
1990年 天皇賞(秋)(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

4枠7番から好発したヤエノムテキは、好位の直後、最も内側を確保する[96]。オグリキャップやオサイチジョージは外枠から先行して好位を得ており、ヤエノムテキはその2頭を見据える位置にいた[96]。ロングニュートリノにラッキーゲランが絡み、1000メートル通過は58.2秒というハイペースだった[80]。後方待機勢は外から追い上げて、先頭との距離を縮めていき、オグリキャップやオサイチジョージも外から進出を開始する[2]。しかしヤエノムテキは最も内側で待機し続けた[2]

迎えた直線、外から追い上げてきた馬らが終いの末脚に備えて脚を溜め、駆け引きをしている頃、ヤエノムテキは、進路が塞がるのを懸念して早めに打開し、末脚を発揮する[2][109]。内から外に横一線となっていた中を最も内側から抜け出し、伸びあぐねるオグリキャップなどを突き放した[2]。ただ、早めにスパートしたことで終いが少し鈍くなる。同じく内にこだわり、ヤエノムテキの背後から追い込んだメジロアルダン、バンブーメモリーが末脚を発揮しており、接近を許した。特にメジロアルダンの末脚は鋭くゴール手前で並ばれる。それでもヤエノムテキは粘って、先頭を守り切った[111][109]。メジロアルダンにアタマ差先んじて決勝線通過を果たす[6]

1年半ぶりの勝利、GI2勝目となる。走破タイム1分58秒2は、1986年にサクラユタカオーが記録したレースレコード、コースレコードを上回った[6]。また岡部は、1978年春グリーングラス、1985年春シンボリルドルフ、1986年春クシロキングに続いて4回目の天皇賞制覇となり、天皇賞(秋)初優勝だった[112]。岡部は「オグリ(キャップ)、(メジロ)アルダン、マキバサイクロンなどこれまで自分の乗ったことのある馬のなかから選んだ馬での勝利だけに気分がいい。春2回オグリキャップに負けているので、大一番で勝ててほんとうにうれしいですよ[80]。」と述べている。

引退

その後は11月25日のジャパンカップ(GI)、10頭の外国調教馬相手に8番人気で出走[113]。オーストラリアのベタールースンアップ、フランスのオード、イギリスのカコイーシーズの横一線の叩き合いに加わることはできず、それらに約3馬身以上後れを取る6着[114]。それから12月23日には有馬記念(GI)に臨む。これが引退レースと予め決まっていた[115]。ヤエノムテキは、その激しい気性から不慮の事故の心配があるため、引退式は行わなかった[115]。ただその代わりに、荻野がファンに披露する最後の機会として用意したのが、有馬記念だった[115]。しかし当日、本馬場入場直後に岡部を振り落として放馬する[116]

映像外部リンク
1990年 有馬記念(GI)
レース映像 関西テレビ競馬公式YouTubeチャンネルによる動画

捕獲された後、異状が見られず参戦決定[116]、「枠入り不良」の後[117]、好スタートして2番手を追走したが、及ばなかった[118]。同じく引退レースとなったオグリキャップの復活優勝を許す7着となった[117]

この年のJRA賞では、最優秀父内国産馬にて、首位となる全180票中82票を集めた[119]。ただメジロライアン(父:アンバーシャダイ)、メジロマックイーン(父:メジロティターン)に共に29票が入るなど割れて過半数に達せず、自動的選出はされなかった[119][120]。しかし選考委員会[注釈 7]の話し合いで認められて選出、最優秀父内国産馬を受賞する[120]

種牡馬時代

競走馬引退後は、新冠町農協畜産センターで種牡馬として供用される[121]。1株1000万円の全50株という総額5億円の種牡馬シンジケートが結成された[121]。初年度から5年間は、年間約50頭の繁殖牝馬の相手をしたが、6年目の1996年から半減して20頭[122]。結成から6年でシンジケートは解散となった。その後、馬主を中心に少人数のシンジケートを再結成[123]。1997年からは浦河町の日高スタリオンステーションに繋養されたが[124]、結成から4年で解散した[123]。9年目の1999年には一桁台に達し、再浮上することはなかった[122]。2003年を最後に種付けされなかったが[122]、ヤエノムテキのファンによって種牡馬登録は存続し、2010年になって種牡馬を引退している[124]。産駒では、ムテキボーイ(母父:バンブーアトラス)が1997年東京湾カップ、1998年テレビ埼玉杯を優勝している[125]

種牡馬引退後も日高スタリオンステーションに留まり、功労馬として余生を過ごした[126]。2014年3月28日午前2時45分、腸閉塞により29歳で死亡する[127][124]

競走成績

以下の内容は、netkeiba.com[128]およびJBISサーチ[129]、『中央競馬全重賞競走成績 GI編』(1996年)[130]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離

(馬場)

オッズ

(人気)

着順 タイム

(上り3F)

着差 騎手 斤量

[kg]

1着馬(2着馬) 馬体重

[kg]

1988.02.27 阪神 4歳新馬 ダ1700m(稍) 8 4 4 02.8 (2人) 01着 1:49.6(51.8) -1.1 0西浦勝一 55 (メジロマーシャス) 500
0000.03.19 中京 沈丁花賞 4下 ダ1700m(稍) 8 3 3 01.3 (1人) 01着 1:48.1(39.4) -2.0 0西浦勝一 55 (アグネスターフ) 506
0000.03.27 阪神 毎日杯 GIII 芝2000m(重) 10 7 7 06.1 (4人) 04着 2:05.5(51.5) -0.7 0西浦勝一 55 オグリキャップ 502
0000.04.17 東京 皐月賞 GI 芝2000m(良) 18 1 1 25.2 (9人) 01着 2:01.3(48.1) -0.1 0西浦勝一 57 (ディクターランド) 496
0000.05.29 東京 東京優駿 GI 芝2400m(良) 24 4 11 06.4 (2人) 04着 2:26.9(48.2) -0.6 0西浦勝一 57 サクラチヨノオー 494
0000.07.03 中京 中スポ賞4歳S GIII 芝1800m(良) 11 8 11 01.8 (1人) 02着 1:49.0(34.5) -0.1 0西浦勝一 58 サッカーボーイ 486
0000.09.11 函館 UHB杯 OP 芝1800m(稍) 12 1 1 01.4 (1人) 01着 1:49.4(36.5) -0.3 0西浦勝一 57 (パッシングパワー) 498
0000.10.16 京都 京都新聞杯 GII 芝2200m(良) 16 1 1 01.4 (1人) 01着 2:14.5(48.3) -0.2 0西浦勝一 57 (コウエイスパート) 496
0000.11.06 京都 菊花賞 GI 芝3000m(良) 18 1 1 02.1 (1人) 10着 3:08.8(49.1) -1.5 0西浦勝一 57 スーパークリーク 504
0000.12.04 阪神 鳴尾記念 GII 芝2500m(良) 12 5 5 02.1 (1人) 01着 2:33.1(47.2) -0.0 0西浦勝一 58 (ハツシバエース) 500
1989.01.22 京都 日経新春杯 GII 芝2200m(良) 9 5 5 01.5 (1人) 02着 2:14.5(47.7) -0.1 0西浦勝一 58 ランドヒリュウ 498
0000.04.02 阪神 産経大阪杯 GII 芝2000m(良) 13 7 10 01.8 (1人) 01着 2:01.4(48.4) -0.6 0西浦勝一 58 (ランドヒリュウ) 498
0000.06.11 阪神 宝塚記念 GI 芝2200m(良) 16 5 8 02.5 (1人) 07着 2:15.6(49.9) -1.6 0西浦勝一 56 イナリワン 498
0000.10.29 東京 天皇賞(秋) GI 芝2000m(良) 14 7 11 22.8 (6人) 04着 1:59.5(46.5) -0.4 0西浦勝一 58 スーパークリーク 496
0000.12.24 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 16 8 14 34.0 (8人) 06着 2:33.0(36.4) -1.3 0西浦勝一 57 イナリワン 496
1990.01.21 京都 日経新春杯 GII 芝2200m(良) 9 3 3 02.9 (1人) 02着 2:15.1(47.7) -0.1 0西浦勝一 60 トーワトリプル 508
0000.02.25 阪神 マイラーズC GII 芝1600m(重) 12 7 10 02.6 (1人) 03着 1:36.8(48.8) -0.2 0西浦勝一 60 メジロワース 506
0000.04.01 阪神 産経大阪杯 GII 芝2000m(稍) 9 7 7 04.2 (4人) 03着 2:03.1(49.5) -0.2 0西浦勝一 59 スーパークリーク 504
0000.05.13 東京 安田記念 GI 芝1600m(良) 16 7 12 10.4 (4人) 02着 1:32.7(35.0) -0.3 0岡部幸雄 57 オグリキャップ 498
0000.06.10 阪神 宝塚記念 GI 芝2200m(良) 10 1 1 11.7 (4人) 03着 2:14.7(49.6) -0.7 0岡部幸雄 57 オサイチジョージ 498
0000.10.28 東京 天皇賞(秋) GI 芝2000m(良) 18 4 7 08.0 (3人) 01着 R1:58.2(35.7) -0.0 0岡部幸雄 58 メジロアルダン 496
0000.11.25 東京 ジャパンC GI 芝2400m(良) 15 3 4 13.8 (8人) 06着 2:23.8(35.4) -0.6 0岡部幸雄 57 ベタールースンアップ 496
0000.12.23 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 16 1 2 12.0 (6人) 07着 2:34.7(35.6) -0.5 0岡部幸雄 56 オグリキャップ 496
  • タイム欄のRはレコード勝ちを示す。
  • 枠番・馬番の太字強調は単枠指定を示す。

種牡馬成績

年度別成績

以下の内容は、JBISサーチの情報に基づく[122]

種付年度 生産年度 種付頭数 生産頭数 血統登録頭数 出走頭数 勝馬頭数 重賞勝馬頭数 AEI CPI
1991 1992 52 37 35 27 13 0 1.21
1992 1993 53 39 38 28 20 0 1.13
1993 1994 51 40 40 29 16 1 0.43
1994 1995 55 41 40 34 28 0 0.62
1995 1996 48 33 32 26 18 0 0.43
1996 1997 20 8 8 7 7 0.48
1997 1998 11 8 8 7 4 0.15
1998 1999 20 11 12 12 7 0 0.25
1999 2000 7 6 6 5 1 0.07
2000 2001 2 1 1 1 1 0.07
2001 2002 1 0 0 0
2002 2003 3 1 1 1 1 0.20
2003 2004 1 0 0 0
合計 221 177 116 1 0.66 0.91

重賞優勝産駒

地方競馬独自の重賞にはアスタリスク(*)を充てる。

ブルードメアサイアーとしての重賞優勝産駒

エピソード

叶わなかった悲願

宮村牧場の黎明期を支えたのが、藤木幸太郎だった。横浜の海運業者である藤木は、宮村が独立した際に連れ出した牝馬フジサカエの所有馬主だった。藤木は、牧場の主要な顧客であるほか、牧場が金銭不足に陥った時に、補ってくれるなど全面的に支援していた[7]。またフジコウも藤木の所有馬だった。藤木は、引退後のフジコウを宮村に譲渡している[7]。繁殖牝馬となったフジコウは、活躍馬を多数輩出し、牧場の経営を支えた「カマド馬」となっていた[16]。宮村はその恩から、フジコウの血を守り続けたが、時代とともにフジコウの血は時代遅れとなっており、ある人にフジコウに固執していることを侮蔑されたこともあった[132]。しかしフジコウにこだわった結果、孫にヤエノムテキが出現した。宮村は皐月賞優勝を「一番見て欲しかった」人として藤木の名を挙げている[132]

馬主歴30年超の有限会社富士の社長大池正夫は、大正2年生まれの72歳で迎えた1988年皐月賞が重賞初優勝だった[17]。しかしヤエノムテキが、イナリワン、スーパークリークに太刀打ちできなかった頃の1989年末に死去[133]。1990年天皇賞(秋)の復活優勝は見届けることができなかった。天皇賞(秋)の表彰式には、敏江夫人が参加しており、夫人は涙を浮かべている[133]

叶った悲願

宮村牧場の「カマド馬」フジコウは、1980年にヤエノムテキの母であるツルミスターを産んだ後、1981年から84年までの3年間で3頭を出産。しかし1985年からは産駒を残すことができなかった[8]。宮村牧場は、繁殖牝馬を6頭しか繋養していない小規模牧場であり、用途のない馬を飼う金銭的余裕はなく、用途変更の後、然るべきところに送ることが最善とされた[16][41]。しかし宮村は、フジコウに恩を感じており、家族に対し「75歳の年寄りの最後の我儘を聞いてくれ、ワシの目の黒いうちはどんなに苦しくともフジコウの処分まかりならん〔ママ[41]」と説得。フジコウは生き永らえ、孫のヤエノムテキの皐月賞優勝に至っている[41]。宮村は「そうしたわたしの気持ちがフジコウに通じたんだ、フジコウがわたしに感謝の気持ちを示したんだ[41]」と感じ取ったという。「(フジコウを)最後の最後まで面倒みてやる〔ママ[65]」とも話している。

抽選を潜り抜けて9番人気で臨んだ皐月賞、宮村は優勝するなど思っていなかった。同じ浦河町荻伏にある鮫川牧場の場主に東京競馬場へ出向くように誘われたが、時期だった種付け業務を優先、或いは「みじめな負け方をするのを見に行ってもしょうがない[26]」と考えて、断っていた[7]。代わりに、出向く予定のあった鮫川に一応、もしも優勝することがあったら、表彰式に参加しておくよう頼んでいたところ、優勝してしまう[7]。宮村牧場の初重賞優勝[注釈 8]となったが、表彰式、記念撮影は鮫川だった[26][7]

その後宮村は、皐月賞で表彰台を逃してから、盛んにヤエノムテキの応援へ出向くようになる[80]。地元北海道、函館のUHB賞でも優勝を見届けることができた[65]。しかしその後のヤエノムテキは、勝利から見放されるようになった。観戦するたびに敗れ、表彰台が遠い宮村はとうとうヘソを曲げてしまう[80]。1990年天皇賞(秋)は「負けると年寄りには寒さが身にしみる」という幼稚な理由で、出向かない予定だった[80]。しかし前日土曜日の午後、皐月賞で代理で表彰台に立った鮫川が、再び代役になることを嫌がって宮浦に観戦を促し、宮浦はそれに応じて東京競馬場に出向いている[80]。翌日の日曜日、天皇賞(秋)の優勝を見届けて、宮浦は表彰台の上を実現した[80]

その他のエピソード

  • 4歳の頃、シヨノロマン(父:リードワンダー)という牝馬が気になってしょうがなかった。調教する直前には、シヨノロマンが現れないか待って、なかなか走り出さなかった[136]。また近くにシヨノロマンが来れば、立ち止まっていた[136]。騎乗する荻野功によれば、ヤエノムテキはシヨノロマンに惚れていたという[136]
  • 1993年春、新冠町農協畜産センターで種牡馬をしている頃、ある見学者の若者から、たてがみや尻尾の毛を強引にむしりとられた[121]。ヤエノムテキは暴れ狂うも、怪我はなかった。このため、しばらく見学を断っていた[121]

評価

フリーハンデ

1988年(4歳(4歳)[137] 1989年(5歳(5歳上)[138] 1990年(6歳(5歳上)[139]
競走馬名 優勝競走 競走馬名 優勝競走 競走馬名 優勝競走
1 オグリキャップ 65 有馬記念 1 イナリワン 65 有馬記念他GI2勝 1 オグリキャップ 63 安田・有馬記念
2 サクラチヨノオー 63 東京優駿 オグリキャップ マイルCS スーパークリーク 天皇賞(春)
3 サッカーボーイ 62 マイルCS 3 スーパークリーク 63 天皇賞(秋) 3 オサイチジョージ 61 宝塚記念
4 スーパークリーク 61 菊花賞 4 メジロアルダン 60 高松宮杯 ヤエノムテキ 天皇賞(秋)
ヤエノムテキ 皐月賞 5 ヤエノムテキ 59 産経大阪杯 5 イナリワン 60 天皇賞(春)2着
バンブーメモリー スプリンターズS

血統表

ヤエノムテキ血統ニジンスキー系 / Menow 5×5×5, Nearco 5×5 (血統表の出典)

ヤマニンスキー
1975 栗毛
父の父
Nijinsky II
1967 鹿毛
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Flaming Page Bull Page
Flaring Top
父の母
* アンメンショナブル
Unmentionable
1970 鹿毛
Buckpasser Tom Fool
Busanda
Petticoat Palestinian
Sabana

ツルミスター
1980 鹿毛
* イエローゴッド
Yellow God
1967 栗毛
Red God Nasrullah
Spring Run
Sally Deans Fun Fair
Cora Deans
母の母
フジコウ
1964 黒鹿
* ソロナウェー
Solonaway
Solferino
Anyway
ハマミドリ トサミドリ
フジサカエ F-No.1-o


脚注

注釈

  1. ^ 宮村の妻は、伏木田牧場の娘である[6]
  2. ^ イエローゴッド(1981年カツトップエース)、母父ソロナウェー(1965年キーストン、1966年テイトオー)、母母父トサミドリ(1959年コマツヒカリ
  3. ^ 長男は急性肺炎を患い、長女は豪雨の際に事故に遭遇。当初は、工業高校から他の仕事をするつもりだったが、牧場の手伝いをしていた[6]
  4. ^ ギャラントリーダー、リアリスト、ロイヤルジェネラルが落選した。
  5. ^ 最速だった前回、1979年トウショウボーイの2分1秒6を0.3秒上回った[34]
  6. ^ また前週の桜花賞は、アラホウトクが優勝している。アラホウトクは、トウショウボーイ産駒であり、父内国産馬だった。父内国産馬が桜花賞、皐月賞を連勝したのは1958年、桜花賞ホウシュウクイン(父:トシシロ)皐月賞タイセイホープ(父:イッセイ)以来30年ぶりだった[43]
  7. ^ 東京競馬記者クラブから小峰隆と原田純一、関西競馬記者クラブから萩谷宗秀と市橋直和、民放競馬記者クラブから中根幹夫、中央競馬関西放送記者クラブから小崎愃、関東競馬新聞協会並びに東京競馬新聞協会から谷真翁、関西中央競馬専門紙協会から野辺好一、評論家として大川慶次郎と大坪元雄、日本中央競馬会から岡部龍文と甲佐勇[120]
  8. ^ 1963年、64年の東京障碍特別を連覇したキンタイムはいた[6][134]。キンタイムは1963年の中山大障害にて、フジノオーに接近したが、3着に敗れた[135]

出典

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参考文献

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      • 山下勝彦(デイリースポーツ)「【今月の記録室】第35回毎日杯(GIII)オグリキャップ」
    • 1988年6月号
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      • 「【日本の種牡馬】ヤマニンスキー」
      • 瀬上保男(読売新聞)「【今月の記録室】ヤエノムテキが皐月賞馬に 関西馬の11連敗を救う」
      • 瀬上保男(読売新聞)「【今月の記録室】内国産種牡馬の仔がクラシックV2」
      • 野村英俊(東京中日スポーツ)「【今月の記録室】第48回皐月賞(GI)ヤエノムテキ」
    • 1988年7月号
      • 「【第55回日本ダービー詳報】ハイレベルのダービーレコード、サクラチヨノオー」
      • 「【杉本清の競馬談義(40)】ゲスト西浦勝一騎手」
      • 「【今月の記録室】サクラチヨノオー 戦国ダービーに快勝」
      • 天野保彦(日刊スポーツ)「【今月の記録室】第55回日本ダービー(GI)サクラチヨノオー」
    • 1988年8月号
      • 結城恵助「【'88春・ヒーローの故郷紀行】皐月賞馬ヤエノムテキの故郷・宮村牧場」
    • 1988年9月号
      • 「【第2回中日スポーツ賞4歳ステークス】大外一気、お待たせゴール、サッカーボーイ」
      • 山口梅治(中日スポーツ)「【今月の記録室】第2回中日スポーツ賞4歳ステークス(GIII)サッカーボーイ」
    • 1988年12月号
      • 濱野圭司(KBS京都)「【今月の記録室】第36回京都新聞杯〈菊花賞トライアル〉(GII)ヤエノムテキ」
    • 1989年1月号
      • 「【第32回有馬記念】白い馬2頭の対決が、はたまた… 伏兵場も多士済済。」
      • 井上泰司(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第49回菊花賞(GI)スーパークリーク」
    • 1989年2月号
      • 「【1988年度JRA賞決定】年度代表馬にタマモクロス 馬事文化賞に、長島信弘氏 坂内誠一氏」
      • 「【第41回鳴尾記念】ハナでも抜かせない、ヤエノムテキ」
      • 「【1988年度フリーハンデ】4歳馬 オグリキャップは、三冠馬・ミスターシービーに並ぶ65キロ。サクラチヨノオーは63キロ。」
      • 北村正顕(サンケイスポーツ)「【今月の記録室】第41回農林水産省賞典 鳴尾記念(GII)ヤエノムテキ」
    • 1989年3月号
      • 「【第36回日経新春杯】若い者には負けられん、ランドヒリュウ」
      • 市橋直和(日本経済新聞)「【今月の記録室】第36回日経新春杯(GII)ランドヒリュウ」
    • 1989年6月号
      • 「【第33回産経大阪杯】中距離王へ前進、ヤエノムテキ」
      • 森本昭夫(サンケイスポーツ)「【今月の記録室】第33回産経大阪杯(GII)ヤエノムテキ」
    • 1989年7月号
      • 「【第30回宝塚記念】ここはユタカVSミキオ 若いパワー炸裂もイナリワン」
      • 「【ニュース&インフォメーション】第30回宝塚記念ファン投票結果」
    • 1989年8月号
      • 末永紀元(大阪スポーツ)「【今月の記録室】第30回宝塚記念(GI)イナリワン」
    • 1989年9月号
      • 「【全調査 秋をめざす有力馬たち】5歳以上有力馬の近況 第100回天皇賞はオールスター・キャスト」
      • 紺野真(東京スポーツ)「【全調査 秋を目指す有力馬たち】菊花賞戦線は、ウィナーズサークルに"鋭""鈍""爽"の三頭が挑むぞ。」
    • 1989年12月号
      • 「【第100回天皇賞詳報】新しい時代のヒーロー、スーパークリーク&武豊」
      • 原田純一(報知新聞)「【今月の記録室】第100回天皇賞(秋)(GI)スーパークリーク」
    • 1990年2月号
      • 「【1989年度JRA賞年度代表馬、各部門最優秀馬決定!!】年度代表馬はGI3勝のイナリワン」
      • 「【1989年度フリーハンデ決定】5歳以上総合 実力のオグリキャップ対実績のイナリワンは、ともに史上4番目の65キロで決着。」
      • 伊藤元彦(夕刊フジ)「【今月の記録室】第34回有馬記念〈グランプリ〉(GI)イナリワン」
    • 1990年3月号
      • 市橋直和(日本経済新聞)「【今月の記録室】第37回日経新春杯(GII)トーワトリプル」
    • 1990年4月号
      • 浅利大策(読売新聞)「【今月の記録室】第21回読売マイラーズカップ(GII)メジロワース」
    • 1990年6月号
      • 橋本忠(サンケイスポーツ)「【今月の記録室】第34回産経大阪杯(GII)スーパークリーク」
    • 1990年7月号
      • 「【第40回安田記念詳報】新コンビ、ヒーローの始動に歓呼の嵐 オグリキャップ」
      • 「【第31回宝塚記念詳報】オグリを封じる先制攻撃、大金星です、オサイチジョージ」
      • 野村英俊(東京中日スポーツ)「【今月の記録室】第40回農林水産省賞典 安田記念(GI)オグリキャップ」
      • 「【ニュース&インフォメーション】第31回宝塚記念ファン投票結果」
    • 1990年8月号
      • 大野良郎(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第31回宝塚記念(GI)オサイチジョージ」
    • 1990年10月号
      • 「【'90秋古馬戦線】2年間続いた"長期三強時代"の行方は。」
    • 1990年12月号
      • 「【第102回天皇賞(秋)詳報】オグリキャップ散り、輝く星はヤエノムテキ」
      • 山際淳司「【ドキュメント・第102回天皇賞(秋)】岡部の選択」
      • 原田純一(報知新聞)「【今月の記録室】第102回天皇賞(秋)(GI)ヤエノムテキ」
    • 1991年1月号
      • 「【練熟か、若さか '90FINAL RUN】第35回有馬記念ファン投票結果」
      • 片山良三(サンケイスポーツ)「【今月の記録室】第10回ジャパンカップ〈国際招待〉(GI)ベタールースンアップ」
    • 1991年2月号
      • 「【第35回有馬記念詳報】平成2年、熱狂のフィナーレ、ヒーローは死なず、オグリキャップ」
      • 吉川良「【秋のGI競走勝馬の故郷紀行】ヤエノムテキの故郷 宮村牧場」
      • 「【1990年度JRA賞決定】年度代表馬にオグリキャップ 馬事文化賞に、白井透氏、山野浩一氏」
      • 「【1990年度フリーハンデ決定】5歳以上総合 オグリキャップは89年乎強さに比べると2キロ減。スーパークリークと並べる。」
      • 榎本正男(道新スポーツ)「【今月の記録室】第35回有馬記念〈グランプリ〉(GI)オグリキャップ」
    • 1994年6月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝(97)】四白流星の暴れん坊 ヤエノムテキ」
    • 1999年2月号
      • 井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝〈レース編(50)〉】オグリキャップのラストラン(下)復活」
    • 1999年7月号
      • 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝〈レース編(55)〉】サッカーボーイの熱い夏(上)失意の春を乗り越えて」
    • 2002年4月号
      • 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち(11)】ヤエノムテキ 東京二千のスペシャリスト」
    • 2002年6月号
      • 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち(13)】サクラチヨノオー 巻き返してダービー制覇」
    • 2006年11月号
      • 井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝(66)】サッカーボーイ 金色の弾丸」
    • 2013年11月号
      • 谷川善久「【優駿激闘譜】ヤエノムテキ 八重の勝利に華を添える二つの勲章」
    • 2014年5月号
      • 山田康文(馬事通信)「【優駿コラム】馬産地最前線 内国産種牡馬不遇の時代を生き 余生を送っていたヤエノムテキが死亡」
  • もしや万一「紀三井寺80年の歴史に花束を投げろ! ヤエノムテキ」『競馬名馬読本』〈別冊宝島143号〉(宝島社、1996年)

外部リンク