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'''満洲民族'''(まんしゅうみんぞく、マンジュみんぞく)、'''満洲族'''(まんしゅうぞく、マンジュぞく、[[満洲語]]: {{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠨᠵᡠ<br>ᡠᡴ᠋ᠰᡠᡵᠠ}}, manju uksura)、'''満族'''(まんぞく、マンぞく)は、[[中国東北部]]、[[ロシア]][[沿海地方]](旧[[満洲]])などに発祥し、現在は[[中国]]各地に散在している[[民族]]。同じく中国東北部に興り、かつて金を建国した[[女真]]を祖先とする。[[17世紀]]に現在の[[中華人民共和国]]および[[モンゴル国]]の全土を支配する[[清]]を興した。[[清朝]]では、民族全体が[[八旗]]({{ManchuSibeUnicode|ᠵᠠᡴᡡᠨ ᡤᡡᠰᠠ}}, jakūn gūsa=八つの旗)に組織され(=[[満洲八旗]])、[[蒙古八旗]]、[[漢軍八旗]]と呼ばれる主にモンゴル人や漢人によって構成された軍事集団[[八旗]]のメンバーとともに[[旗人]]とも呼ばれた。同系の民族に[[シベ族|シベ]]、[[ナナイ]]、[[ウリチ|ウルチャ]]などがある。[[中華人民共和国]]による[[民族識別工作]]では、[[蒙古八旗]]や[[漢軍八旗]]も含む「[[旗人]]の末裔」全体が「満族」に「識別」(=区分)され、「55の少数民族」の一つとされた。[[2010年]]の中国の[[国勢調査]]では人口1,038万人とされ、「少数民族」としては[[チワン族]]・[[回族]]に次ぐ人口である<ref name="asahi20130906">「消えゆく満州語守れ」『[[朝日新聞]]』2013年9月6日</ref><ref group="注釈">[[2000年]]の人口調査では満族人口は10,387,958人であった</ref>。
'''満洲民族'''(まんしゅうみんぞく、マンジュみんぞく)、'''満洲族'''(まんしゅうぞく、マンジュぞく、[[満洲語]]: {{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠨᠵᡠ<br>ᡠᡴ᠋ᠰᡠᡵᠠ}}, manju uksura)、'''満族'''(まんぞく、マンぞく)は、[[中国東北部]]、[[ロシア]][[沿海地方]](旧[[満洲]])などに発祥し、現在は[[中国]]各地に散在している[[民族]]。同じく中国東北部に興り、かつて金を建国した[[女真]]を祖先とする。[[17世紀]]に現在の[[中華人民共和国]]および[[モンゴル国]]の全土を支配する[[清]]を興した<ref name="kotobank">{{Kotobank|満洲族}}</ref>。[[清朝]]では、民族全体が[[八旗]]({{ManchuSibeUnicode|ᠵᠠᡴᡡᠨ ᡤᡡᠰᠠ}}, jakūn gūsa=八つの旗)に組織され(=[[満洲八旗]])、[[蒙古八旗]]、[[漢軍八旗]]と呼ばれる主にモンゴル人や漢人によって構成された軍事集団[[八旗]]のメンバーとともに[[旗人]]とも呼ばれた。同系の民族に[[シベ族|シベ]]、[[ウデヘ]]、[[ナナイ]]、[[ウリチ]]などがある。[[中華人民共和国]]による[[民族識別工作]]では、[[蒙古八旗]]や[[漢軍八旗]]も含む「[[旗人]]の末裔」全体が「満族」に「識別」(=区分)され、「[[中国の少数民族|55の少数民族]]」の一つとされた。[[2010年]]の中国の[[国勢調査]]では人口1,038万人とされ、「少数民族」としては[[チワン族]]・[[回族]]に次ぐ人口である<ref name="asahi20130906">「消えゆく満州語守れ」『[[朝日新聞]]』2013年9月6日</ref>{{refnest|group="注釈"|[[2010年]]の人口調査では満族人口は10,387,958人であった<ref name="kotobank" />。}}


== 概要 ==
== 概要 ==
[[ファイル:Foochow Manchu.jpg|360px|right|thumb|[[福州市]]の満洲民族(1915年)]]
「満洲」の漢字は[[満洲語]]の民族名'''{{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠨᠵᡠ}}、manju'''(マンジュ)の当て字で、元来は「'''満洲'''」であるが、現在の[[日本]]では一般に[[常用漢字]]をもって「満州」と表記することが多い。
「満洲」の漢字は[[満洲語]]の民族名'''{{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠨᠵᡠ}}、manju'''(マンジュ)の当て字で、元来は「'''満洲'''」であるが、現在の[[日本]]では一般に[[常用漢字]]をもって「満州」と表記することが多い<ref name="kotobank" />。


満洲民族の興った地域は、英語で満洲民族の土地という意味でマンチュリア(Manchuria)と呼ばれ、[[日本語]]ではこれに対応して'''満洲'''と呼ばれる。特に民族のことを指す場合は、満洲民族、満洲族、満洲人、満人などと表記する。映画『[[ラストエンペラー]]』で知られる清朝最後の皇帝である[[溥儀]]や、[[戯曲]]『茶館』などの作品で有名な作家[[老舎]]も満洲人の出身である<ref name="asahi20130906"/>。
満洲民族の興った地域は、英語で満洲民族の土地という意味でマンチュリア(Manchuria)と呼ばれ、[[日本語]]ではこれに対応して'''満洲'''(満州)と呼ばれる。特に民族のことを指す場合は、'''満洲民族''''''満洲族''''''満洲人''''''満人'''などと表記する。映画『[[ラストエンペラー]]』で知られる清朝最後の皇帝である[[溥儀]]や、[[戯曲]]『茶館』などの作品で有名な作家[[老舎]]も満洲人の出身である<ref name="asahi20130906"/>。[[11世紀]]、満洲族の直接の祖先の一つと考えられる[[女真]]が文献上現れ、[[12世紀]]には[[金 (王朝)|金王朝]]を開いた<ref name="kotobank" />。


民族名である満洲/マンジュの起源については諸説あり、今のところ不明である。よく[[サンスクリット|サンスクリット語]]のマンジュシュリー(文殊師利、[[文殊菩薩]]のこと)に由来するとわれているが、元来は[[16世紀]]までに女真の名の下に括られていた人々のうち、'''[[建州女直|建州女真]]'''に属するつの部族(スクスフ、フネヘ、ワンギャ、ドンゴ、ジェチェン)の総称であった。[[岡田英弘]]は[[ダライ・ラマ]]が「マンジュと言われるからには、清朝皇帝は文殊菩薩の化身である」と宣伝したものを[[乾隆帝]]が利用したとから、文殊菩薩が民族名の由来となったという俗説が生まれたのではないかとしている<ref name="名前なし-1">『清朝とは何か』(藤原書店)</ref>。
民族名である 満洲/マンジュ の起源については諸説あり、今のところ不明である。しばしば、[[サンスクリット|サンスクリット語]]のマンジュシュリー(文殊師利、[[文殊菩薩]]のこと)に由来するともいわれるが<ref name="mitamura197">[[#三田村|三田村(1975)pp.197-199]]</ref>、元来は[[16世紀]]までに女真の名の下に括られていた人々のうち、'''[[建州女直]]'''(建州女真、「女直」は明側の呼称である)に属する5つの部族(スクスフ、フネヘ、ワンギャ、ドンゴ、ジェチェン)を一括する呼称であった<ref name="ishibashi66">[[#石橋|石橋(2000)pp.66-67]]</ref>日本の東洋史学者である[[岡田英弘]]は清朝時代の[[ダライ・ラマ]]が「マンジュと言われるからには、清朝皇帝は文殊菩薩の化身である」と宣伝したものを第6代皇帝の[[乾隆帝]]が政治的に利用したところから、文殊菩薩が民族名の由来となったという俗説が生まれたのではないかとしている<ref name="okada">[[#岡田編|岡田編(2009)]]</ref>。


現在の中華人民共和国のもとでは、モンゴル人・漢人の末裔の一部(旧「蒙古八旗」, 旧「漢軍八旗」の末裔ら)と合わせて「'''満族'''」(满族, Măn zú)としてひとくくりにされ、中華人民共和国の[[中国の少数民族|55の少数民族]]の一つと位置付けられている。[[1911年]]の[[辛亥革命]]による清朝崩壊後は排斥を受けた過去を持ち、[[1949年]]に中華人民共和国が成立した後には他の少数民族と同じく区域自治権が与えられ、合計11の自治県がある。
現在の中華人民共和国のもとでは、モンゴル人・漢人の末裔の一部(旧「蒙古八旗」, 旧「漢軍八旗」の末裔ら)と合わせて「'''満族'''」(满族, Măn zú)としてひとくくりにされ、中華人民共和国の[[中国の少数民族|55の少数民族]]の一つと位置付けられている。[[1911年]]の[[辛亥革命]]による清朝崩壊後は排斥を受けた過去を持ち、[[1949年]]に中華人民共和国が成立した後には他の少数民族と同じく区域自治権が与えられ、合計11の自治県がある(一覧は後述)


== 分布 ==
かつて中国を支配した[[清]]朝'''[[旗人]]'''の末裔であり、中国全土に散在する。満族の過半数は、[[遼寧省]]に居住している<ref name="asahi20130906"/>が、[[河北省]]、[[吉林省]]、[[黒竜江省]]、[[内モンゴル自治区]]、[[新疆ウイグル自治区]]、[[甘粛省]]、[[山東省]]にも分布し、[[北京市|北京]]、[[天津市|天津]]、[[成都]]、[[西安]]、[[広州市|広州]]、[[銀川]]などの大都市やその他中小都市にも居住する。清朝前期の公文書や民間史料は[[満洲語]]だけで記されているが、満洲語に対する意識は薄れており、満洲語は危機に瀕している。[[2013年]]現在、中国国内で満洲語を解し、古文献も読めるレベルの学者は10名ほどにすぎない{{Verify credibility|黒竜江大学、中央民族大学、北京市社会科学院などをはじめとする大学・研究機関によっても満洲語に関する研究が行われている。満洲文字はモンゴル文字を起源とするアルファベットであり、満洲文字を解すモンゴル族の研究者(哈斯巴特爾氏など)もおられる。日本でも有名な『論語』『孟子』『孫子兵法』など中国の伝統文化を代表する著作にも満洲語の訳本が存在し、満洲文字が漢文と併記されている。研究機関以外の場所で自学や授業を通じて満洲語を習得した学習者の人数を除いても、満洲語を解し、古文献を読むことができるレベルの学者が10名ほどに過ぎないのは疑わしい。|date=2022年2月10日}} <ref name="asahi20130906"/>。清朝発祥の地といわれているのが、遼寧省の[[撫順市]]の新賓満族自治県である<ref name="asahi20130906"/>。しかし、そこにあっても満洲民族の小学校は1校しかなく、満洲族固有の姓を用いる児童もいない<ref name="asahi20130906"/>。一方で、ヌルハチが城や寺を築いて最初の根拠地とした[[ヘトゥアラ]]({{ManchuSibeUnicode|ᡥᡝᡨᡠ᠋<br>ᠠᠯᠠ}}, hetu ala、「横岡」の意<ref>『満洲実録』</ref>、赫圖阿拉)こと同県は「清朝発祥の地」とされ、[[太陰暦]]4月18日に各地の満洲族が集まる祭礼の場となっている<ref>[https://www.asahi.com/articles/DA3S14025696.html 「祖先への祈り 遼寧省で満州族」]『朝日新聞』朝刊2019年5月23日(国際面)2019年6月13日閲覧。</ref>。
{{multiple image
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| image1 = Yongling Tomb of Qing Dynasty - 0.JPG
| caption1 = 永陵の四祖碑亭
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}}


満洲族は、かつて中国を支配した[[清]]朝'''[[旗人]]'''の末裔であり、中国全土に散在する<ref name="kotobank" />。過半数は、[[遼寧省]]に居住しており<ref name="asahi20130906"/>、[[河北省]]、[[吉林省]]、[[黒竜江省]]、[[内モンゴル自治区]]、[[新疆ウイグル自治区]]、[[甘粛省]]、[[山東省]]にも分布し、[[北京市|北京]]、[[天津市|天津]]、[[成都]]、[[西安]]、[[広州市|広州]]、[[銀川]]などの大都市やその他中小都市にも居住する。清朝前期の公文書や民間史料は[[満洲語]]だけで記されているが、人びとの満洲語に対する意識は薄れており、満洲語は危機に瀕している<ref name="asahi20130906"/>。「[[朝日新聞]]」の報道によれば[[2013年]]現在、中国国内で満洲語を解し、古文献も読めるレベルの学者は決して多くないという<!--は10名ほどにすぎない-->という<!--{{Verify credibility|黒竜江大学、中央民族大学、北京市社会科学院などをはじめとする大学・研究機関によっても満洲語に関する研究が行われている。満洲文字はモンゴル文字を起源とするアルファベットであり、満洲文字を解すモンゴル族の研究者(哈斯巴特爾氏など)もおられる。日本でも有名な『論語』『孟子』『孫子兵法』など中国の伝統文化を代表する著作にも満洲語の訳本が存在し、満洲文字が漢文と併記されている。研究機関以外の場所で自学や授業を通じて満洲語を習得した学習者の人数を除いても、満洲語を解し、古文献を読むことができるレベルの学者が10名ほどに過ぎないのは疑わしい。|date=2022年2月10日}}--><ref name="asahi20130906"/>。
== 遺伝的特徴 ==
満洲民族の[[Y染色体ハプログループ]]は多数の系統が存在する。最も多いのは[[漢民族]]などに多い[[ハプログループO-M122 (Y染色体)|O2系統]]であり、37%みられる<ref name = Xue>Xue Y, Zerjal T, Bao W, et al. [https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1456369/ Male demography in East Asia: a north-south contrast in human population expansion times.] Genetics. 2006;172(4):2431-2439. doi:10.1534/genetics.105.054270</ref>。次いで多いのは[[ハプログループC-M217 (Y染色体)|C2系統]]であり、[[アルタイ諸語]]を話す民族に関連するタイプである。[[満洲語]]はアルタイ諸語の[[ツングース語族]]に属すが、C2系統は25.7%<ref name = Xue/>と特段多いとは言えない。3番目に多いのは[[ウラル語族]]に関連する[[ハプログループN-M231 (Y染色体)|N系統]]であり、14.3%みられる<ref name = Xue/>。N系統は[[遼河文明]]の担い手であり<ref>Yinqiu Cui, Hongjie Li, Chao Ning, Ye Zhang, Lu Chen, Xin Zhao, Erika Hagelberg and Hui Zhou (2013)"Y Chromosome analysis of prehistoric human populations in the West Liao River Valley, Northeast China. " BMC 13:216</ref>、かつては満洲地域に高頻度に観察されたようであるが、現在は後から進出したO2系統やC2系統に上書きされたかたちとなっている。また[[日本人]]に高頻度の[[ハプログループO1b2 (Y染色体)|O1b2]]系統も15%前後観察され<ref name = Xue/>、東アジア諸民族の中では比較的日本人とも共通性は高いと言える。[[ハプログループO1b (Y染色体)|O1b]]系統からは[[華南]]や[[東南アジア]]に多い[[ハプログループO-M95 (Y染色体)|O1b1]]も低頻度見られる。(O1b1は[[オーストロアジア語族]]<ref>崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史』(勉誠出版 2009年)</ref>に、O1b2は[[弥生人]]に関連すると想定される。)その他西ユーラシア起源の[[ハプログループR1a (Y染色体)|R1a]]や[[ハプログループJ (Y染色体)|J]]も僅かながら見られる<ref name="Hammer2006">Hammer, M.F., Karafet, T.M., Park, H. et al. [https://www.nature.com/articles/jhg20068 Dual origins of the Japanese: common ground for hunter-gatherer and farmer Y chromosomes.] J Hum Genet 51, 47–58 (2006). https://doi.org/10.1007/s10038-005-0322-0</ref>。

また、[[HLA]]ハプロタイプは、日本の[[日本海]]沿岸に特徴的なB44-DR13、B7-DR1がよく見られる<ref>徳永勝士 (1995)「HLA遺伝子群からみた日本人のなりたち」『[[モンゴロイド]]の地球(3)日本人のなりたち』[[東京大学出版会]], 第4章, 遺伝子からみた日本人, p193-210</ref><ref>徳永勝士 (1996) 「HLA の人類遺伝学」『日本臨床免疫学会会誌』=『Japanese journal of clinical immunology』19(6), 541-543</ref><ref>徳永勝士 (2003)「HLA と人類の移動」『Science of humanity Bensei』(42), 4-9, 東京:勉誠出版</ref><ref>徳永勝士 (2008)「HLA遺伝子:弥生人には別ルートをたどってやってきた四つのグループがあった!」『日本人のルーツがわかる本』逆転の日本史編集部, 東京:宝島社, p264-p280</ref>。

== 歴史 ==
{{出典の明記|date=2021年6月|section=1}}
=== 起源 ===
満洲人の前身は、[[12世紀]]に中国の北半分を支配した[[金 (王朝)|金]]を建てた女真であった。日本の東洋史学者の[[岡田英弘]]は、[[ダライ・ラマ]]が「マンジュと言われるからには、清朝皇帝は文殊菩薩の化身である」と宣伝したものを[[乾隆帝]]が利用したことから、文殊菩薩が民族名の由来となったという俗説が生まれたのではないかとしている<ref name="名前なし-1"/>。

これら諸部族がスクスフ部出身の'''[[ヌルハチ]]'''によって統一されると、ヌルハチの支配する国は'''マンジュ国'''({{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠨᠵᡠ<br>ᡤᡠᡵᡠᠨ}}, manju gurun, 満洲国)と呼ばれるようになった。さらにマンジュ国が'''[[海西女直|海西女真]]'''4部、'''[[野人女真]]'''4部を併合して'''[[後金]]'''に発展したため、満洲の名が広く女真全体の総称として用いられるようになった。ヌルハチは、満洲語を表記するために[[アラム文字]]をルーツにする[[モンゴル文字]]を改良させて無圏点[[満洲文字]]を作り、当時の満洲語を表記した。無圏点文字では差異を見出すことのできないha({{ManchuSibeUnicode|ᡥᠠ}})とga({{ManchuSibeUnicode|ᡤᠠ}})、de({{ManchuSibeUnicode|ᡩ᠋ᡝ᠋}})とte ({{ManchuSibeUnicode|ᡨᡝ᠋}})などを区別するべく、17世紀に有圏点満洲文字が誕生した。

ヌルハチの死後、後継者の[[ホンタイジ]]は女真を民族名として用いることを禁じ、「満洲」(マンジュ)の民族名が定着した。「洲」という文字がついていることで、現在では日本語で満洲というと「[[中国東北部]]」や[[満洲里]]などの地域の名前のイメージが強く、現在でも[[英語]]では“[[:en:Manchuria|Manchuria]]”のように地域呼称として用いられる。

中国語においては民族名であり、土地の名前ではない。満洲語においても{{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠ}}, manju)は専ら満洲族を指し、「満洲語 ({{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠ<br>ᡤᡳᠰᡠᠨ}}, manju gisun) 、「満洲文字 ({{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠ<br>ᡥᡝᡵᡤᡝᠨ}}, manju hergen)なども「満洲人の言葉」「満洲人の文字」と解す。

=== 清代及び近代 ===
{{Wide image|Macang Lays Low the Enemy Ranks.jpg|1000px|[[乾隆帝]]時代の大臣であるマチャン|dir=rtl}}
[[File:Manchu Soldiers.jpg|thumb|250px|清朝末期の満洲族の武人たち]]
女真族出身のホンタイジは女真の概念を捨て、女真人、蒙古人、遼東漢人等の北方諸民族を満洲(人)と統合し、国号を'''[[清]]'''と改めた。ちなみに、民族の名称を表す“満”と“洲”、そして政権の名称を表す“清”のいずれにも“[[水部|氵(さんずい)]]”が付いているのは、[[五行思想|五行]]の火徳に結び付く“明”を“以水克火”するという陰陽五行思想に基づいているとされる<ref>[http://www.nxnet.net/shouye/zktj/shxb/200901/t20090107_414004.htm {{lang|cn|清朝为什么叫大清}}]</ref>。[[多民族国家]]である清のもとで、満洲人は[[八旗]]と呼ばれる8グループに分けられた集団に編成されて、清を支える軍人・官僚を輩出する支配層を構成する主な民族となる。

[[帆船]]の[[遭難|漂着]]により[[朝鮮]]に抑留されていた[[ヘンドリック・ハメル]]の報告によれば、満洲人支配下の[[17世紀|17世紀初期]]の朝鮮では、[[朝鮮の君主一覧|朝鮮国王]]は絶対的権力をもっているものの、後継者を決める際は満洲人の[[ハーン]]の同意を得なければならず、また、満洲人の勅使や[[ウリャンカイ]]は、年に3回朝鮮に貢物を徴収し、朝鮮高官は満洲人に怯え、[[賄賂]]を送って口止め料を支払っていた<ref>{{Cite news|author=黄文雄|authorlink=黄文雄 (評論家)|url=https://www.mag2.com/p/news/524520/2|title=「中国が世界で一番信用できない」韓国人が日本より中国を嫌う訳|newspaper=|publisher=|date=2022-01-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220206014926/https://www.mag2.com/p/news/524520/2|archivedate=2022-02-06}}</ref>。

清は、[[1644年]]に[[明]]が滅びると[[万里の長城]]以南に進出して明の旧領を征服し、八旗を[[北京市|北京]]に集団移住させて漢人の土地を満洲人が支配する体制を築き上げた。清の歴代の皇帝は、漢人が圧倒的多数を占める中国を支配するにあたっても、満洲語をはじめとする独自の民族文化の維持・発展に努めたが、次第に満洲語は廃れ、満洲人の間でも[[中国語|漢語]]が話されるようになり、習俗も[[漢化]]していった。

逆に、中国を扱った映画などの作品で見られる[[辮髪]]や[[両把頭]]や[[チャイナドレス]]は元来は満洲人の習俗であったものが清の時代に漢人の社会に持ち込まれたものである。まず、明との戦争に際し、{{要出典|敵味方の区別を容易にするため、|date=2022年2月9日}}辮髪にするよう命じ、1644年の明朝滅亡後、清朝の統治者は満洲族の髪型と服装を本格的に強制し、漢人の服飾を身に付けることを禁止し文化を抑圧する態度を取った(「剃髪易服」 - 髪を剃り、服を替えるの意)。なお、一方では、それと引き換えに[[科挙]]、[[内閣大学士|内閣]]、[[六部]]、そして地方に[[総督]]、[[巡撫]]を置き軍事・政治を管轄させりなど明朝の制度は存続させるなど、強硬政策と懐柔政策を併用した。

17世紀には[[シベリア]]を獲得した[[ロシア・ツァーリ国]]が[[不凍港]]を求めて南下政策を開始したため、満洲は清・ロシア間の係争地となった([[清露国境紛争]])が、[[1689年]]に両国間で[[ネルチンスク条約]]が結ばれ、[[外満洲]]を含めた満洲全体が清の領土と確定した。しかし19世紀に清が[[アヘン戦争]]や[[太平天国の乱]]などによって弱体化すると、ロシアは清に対して武力による威圧を強め、[[1858年]]には[[アイグン条約]]を結んで、清領とされてきた外満洲のうち[[アムール川]]左岸をロシア割譲し、[[ウスリー川]]以東を両国の共同管理とすることとなった。さらに2年後の[[1860年]]には[[北京条約]]によって、この共同管理地も正式にロシア領となった。

また、清領内においても、1860年までは、満洲人の故地である満洲は皇帝の故郷として保護され、漢人の移住は制限されていたが、1860年以降は開放策に転じ、漢人の農民が移住するようになった、[[中国史]]ではこれを[[闖関東]]と呼ぶ。これにより漢人人口が急増して、満洲人の人口や生活範囲を越した。

[[File: Manchukuo map.png|thumb|right|満洲国(1932-1945)の地図]]
[[1932年]]には[[大日本帝国|日本]]の手によって、清の最後の皇帝だった[[愛新覚羅溥儀|溥儀]]を執政(のちに皇帝)として[[満洲国]]が建てられた(「[[満洲事変]]」を参照)。満洲国は[[日本人|日]][[満洲人|満]][[蒙古人|蒙]][[中国人|中]][[朝鮮人|朝]]の五民族による「五族協和」「王道楽土」を理念としており、国名に「満洲」が含まれているものの、満洲国の内部において自国が満洲人の国家として意識されていたわけではない。しかしながら満洲人においては建国後に帝政期成運動を起こすなど、満洲国に民族の復権を期待する向きも一部ではみられた。

=== 現代 ===
[[第二次世界大戦]]後に成立した[[中華人民共和国]]はかつては清の最後の皇帝で満洲国皇帝でもあった溥儀を満洲族の代表として[[中国人民政治協商会議]]全国委員に任命し、「[[民族識別工作]]」を行い国内の少数民族を一定の権利を有する民族として公認していった。清代の[[旗人]]たちは、主にマンジュたちにより構成された[[満洲八旗]]のほか、[[蒙古八旗]]・[[漢軍八旗]]など三つの集団から構成されていたが、この「民族識別工作」では、蒙古八旗や漢軍八旗の末裔たちを、「[[蒙古族]]」や「[[漢族]]」に区分するのではなく、「旗人」全体をまとめて「満族」と区分されることになった。

[[満洲八旗]]に属していた[[シベ族|錫伯(シベ)族]]、[[ダグール族|達斡尔(ダグール)族]]などについては、それぞれ[[中華民族|56の民族]]の一員である独自の民族として識別されている。

== 教育水準 ==
満洲族は、清代に支配者階級として[[万里の長城|長城]]以南に移住した経緯上から都市住民が多いため、漢民族に比べて教育水準が高い。1990年の人口調査資料によれば満洲族人口1万人当たりの大学進学者数は1,652.2人で、全国平均水準139.0人、漢族平均水準143.1人に比べて遥かに高かった。また、15歳以上で非識字・半非識字が占める比率は、満族は1.41%で、全国22.21%、漢族21.53%よりも遥かに低く、中国国内の各民族の中で非識字率(半非識字を含む)が最も低い。<ref>[http://www.1news1.cn/news/minzufengqing/2008/11/081125162351619_3.html 焦点中国網「民族風情 - 満族」]</ref>。

== 姓氏の特徴 ==
満洲民族の姓氏は本来、アイシンギョロ(愛新覚羅、{{ManchuSibeUnicode|ᠠᡳ᠌ᠰᡳ᠍ᠨ<br>ᡤᡳᠣᡵᠣ}}, aisin gioro)、[[葉赫那拉氏|イェヘナラ]](葉赫那拉、{{ManchuSibeUnicode|ᠶᡝᡥᡝ<br>ᠨᠠᡵᠠ}}, yehe nara)、ヒタラ(喜塔蝋、{{ManchuSibeUnicode|ᡥᡳᡨ᠋ᠠᡵᠠ}}, hitara) 等に見るように[[満洲語]]に基づいたものだったが、現代満族の多くは、漢民族の姓氏に擬えて主に一文字の「漢姓」(苗字)を用いている。これは、清末期の[[辛亥革命]]の風潮、[[第二次世界大戦]]後の「[[漢奸]]」狩り、[[文化大革命]]等による中国当局の弾圧を避けるための方便であったと考えられる。しかしながら、[[アイシンギョロ]](愛新覚羅)は「[[金 (姓)|金]]」、「[[羅 (姓)|羅]]」または「[[趙 (姓)|趙]]」に、グワルギャ(瓜爾佳、{{ManchuSibeUnicode|ᡤᡡᠸᠠᠯᡤᡳᠶᠠ}}, gūwalgiya)は「[[関 (姓)|関]]」に、[[葉赫那拉氏|イェヘナラ]](葉赫那拉)は「[[葉 (姓)|葉]]」または「[[那 (姓)|那]]」、[[伊爾根覚羅氏|イルゲンギョロ]](伊爾根覚羅、{{ManchuSibeUnicode|ᡳᡵᡤᡝᠨ<br>ᡤᡳᠣᡵᠣ}}, irgen gioro)は「趙」または「[[佟]]」に、ニオフル(鈕祜禄)は「[[郎 (姓)|郎]]」、フチャ(富察、{{ManchuSibeUnicode|ᡶ᠋ᡠᠴᠠ}}, fuca)は「[[富 (姓)|富]]」または「[[傅 (姓)|傅]]」に、ヘシェリ(赫舎里、{{ManchuSibeUnicode|ᡥᡝᡧᡝᡵᡳ}}, hešeri)は「[[赫 (姓)|赫]]」「[[何]]」または「[[英 (姓)|英]]」に、トゥンギャ(佟佳 {{ManchuSibeUnicode|ᡨᡠ᠋ᡢᡤᡳᠶᠠ}}, tunggiya)は「佟」に、[[完顔氏|ワンギャ]](完顔、{{ManchuSibeUnicode|ᠸᠠᠩᡤᡳᠶᠠ}}, wanggiya)は「[[王氏|王]]」のように、改姓の際にも一定の原則に従っている。現代満族は、「氏族―哈喇<!--満洲語:{{ManchuSibeUnicode|ᡥᠠᠯᠠ}}, hala、「姓」-->漢訳表」と照らし合わせることによって自分の本来の姓氏を知ることができるようになっている。

本来、満洲民族はモンゴル人の影響を受けて、漢民族のように姓氏と名を同時に呼ぶ習慣は無く、名前のみを呼ぶか、名前の前に爵位や官職名を付けて呼んでいた(例:睿親王ドルゴン)。あえて姓氏と名を続けて呼ぶ場合は例えば「[[グワルギャ氏]]の[[オボイ]](満洲語: {{ManchuSibeUnicode|ᡤᡡᠸᠠᠯᡤᡳᠶᠠ<br>ᡥᠠᠯᠠ ᡳ<br>ᠣᠪᠣᡳ}} , gūwalgiya hala-i oboi) 」という呼び方をしていた。

== 著名人 ==
* [[愛新覚羅溥儀|溥儀(愛新覚羅氏)]]
* [[愛新覚羅溥傑|溥傑(愛新覚羅氏)]]
* [[婉容|婉容(郭布羅氏)]]
* [[川島芳子]](顯㺭(愛新覚羅氏))
* [[愛新覚羅慧生|慧生(愛新覚羅氏)]]
* [[老舎]] - 中国の作家、「人民芸術家」とも称される
* [[英若誠|英若誠(赫舎里氏)]] - 中国の俳優、『[[ラストエンペラー]]』で収容所所長を演じ、音訳でイン・ルオ・チェンとも表記される
* [[英達|英達(赫舎里氏)]] - 中国の俳優
* [[郎雄]] - 俳優
* [[郎朗]] - 中国のピアニスト
* [[那英]] - 中国の歌手
* [[佟健]] - 中国のフィギュアスケート選手
* [[關之琳|關之琳/ロザムンド・クワン(瓜爾佳氏)]] - イギリス領香港→中国・香港の女優
* [[金大偉]] - ミュージシャン、作曲家、映像作家、演出家、[[インスタレーション]]作家、画家。[[日本人|日]][[中国人|中]]混血。映画『ロスト マンチュリア サマン』({{ManchuSibeUnicode|ᠠᡴᡡ<br>ᠣᡥᠣ<br>ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠ<br>ᠰᠠᠮᠠᠨ}}, akū oho manju saman)の監督
* [[:zh:南仁东|南仁東]] - 中国の科学者、[[500メートル球面電波望遠鏡]]の開発者<ref>{{cite web|url=http://www.most.gov.cn/tztg/201705/W020170516443986711308.doc|title =全国创新争先奖章拟表彰名单|publisher= [[中華人民共和国科学技術部]]|accessdate=2018-03-18}}</ref>
* [[呉京 (俳優)|呉京]] - 中国の俳優
*[[李文亮]] - 中国の医師


清朝発祥の地といわれているのが、遼寧省の[[撫順市]]の[[新賓満族自治県]]である<ref name="asahi20130906"/>。しかし、そこにあっても満洲民族の小学校は1校しかなく、満洲族固有の姓を用いる児童もいない<ref name="asahi20130906"/>。一方で、ヌルハチが城や寺を築いて最初の根拠地とした[[ヘトゥアラ]]({{ManchuSibeUnicode|ᡥᡝᡨᡠ᠋<br>ᠠᠯᠠ}}, hetu ala、赫圖阿拉){{refnest|group="注釈"|太祖ヌルハチの事績をまとめた『満洲実録』によれば地名「ヘトゥアラ」は「横岡」という意味である<ref>[[#満洲実録|『満和蒙和対訳満洲実録』]]</ref>。}}、すなわち、同自治県の西方、永陵鎮老城村はヌルハチ即位の地であり、ヌルハチの祖先の陵墓である[[永陵 (清)|永陵]]があり、[[太陰暦]][[4月18日 (旧暦)|4月18日]]に各地の満洲族が集まる祭礼の地となっている<ref>[https://www.asahi.com/articles/DA3S14025696.html 「祖先への祈り 遼寧省で満州族」]『朝日新聞』朝刊2019年5月23日(国際面)2019年6月13日閲覧。</ref>{{refnest|group="注釈"|ヘトゥアラで生まれたヌルハチは、モンゴルの[[ハルハ|ハルハ部]]と友好関係を結ぶことに成功し、[[1616年]]、同地で明朝からの独立とアイシン(後金)の建国、自身の即位を宣したという<ref name="ishibashi79">[[#石橋|石橋(2000)pp.79-80]]</ref>。}}。
その他


満洲民族の人口は清朝の時代には200万人ほどとされていたが、清朝滅亡後は迫害を恐れたため、続いて行われた[[中華民国]]初期の国勢調査で自らを満洲族としたのは約50万人にすぎなかったという。しかし、少数民族の権利が謳われるようになると、その人口は一気に500万人に増えたといわれている。
== 自治地方 ==


=== 自治県 ===
=== 主要分布域 ===
{{multiple image
| total_width = 900
| align = left
| caption_align = left
| image1 =Manchu autonomous prefectures and counties in China.png
| caption1 = 満洲族の自治県
| image2 =Xibe autonomous prefectures and counties in China.png
| caption2 = シベ族の自治県
}}
{{-}}
=== 自治県・民族鎮・民族郷 ===
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;自治県
満洲族には11の自治県がある。
満洲族には11の自治県がある。

* [[遼寧省]]
* [[遼寧省]]
** [[新賓満族自治県]]
** [[新賓満族自治県]]
117行目: 76行目:
** [[豊寧満族自治県]]
** [[豊寧満族自治県]]
** [[囲場満族モンゴル族自治県]]
** [[囲場満族モンゴル族自治県]]
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=== 民族鎮 ===
;民族鎮

* [[興城市]]
* [[興城市]]
** 沙後所満族鎮
** 沙後所満族鎮
139行目: 97行目:
* [[望奎県]]
* [[望奎県]]
** 恵七満族鎮
** 恵七満族鎮
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=== 民族郷 ===
;民族郷

* [[北京市]][[懐柔区]]
* [[北京市]][[懐柔区]]
** 長哨営満族郷
** 長哨営満族郷
177行目: 135行目:
* [[赤峰市]][[松山区 (赤峰市)|松山区]]
* [[赤峰市]][[松山区 (赤峰市)|松山区]]
** 当鋪地満族郷
** 当鋪地満族郷
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{{-}}:
* [[カラチン旗]]
* [[カラチン旗]]
** 十家満族郷
** 十家満族郷
212行目: 172行目:
* [[鉄嶺県]]
* [[鉄嶺県]]
** 白旗寨満族郷
** 白旗寨満族郷
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{{-}}:
* [[西豊県]]
* [[西豊県]]
** 徳興満族郷
** 徳興満族郷
248行目: 210行目:
* [[梅河口市]]
* [[梅河口市]]
** 小楊満族朝鮮族郷
** 小楊満族朝鮮族郷
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{{-}}:
* [[通化県]]
* [[通化県]]
** 大泉源満族朝鮮族郷
** 大泉源満族朝鮮族郷
283行目: 247行目:
* [[肥東県]]
* [[肥東県]]
** 牌坊回族満族郷
** 牌坊回族満族郷
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{{-}}:
* [[黔西市]]
* [[黔西市]]
** 金坡ミャオ族イ族満族郷
** 金坡ミャオ族イ族満族郷
290行目: 256行目:
** 安洛ミャオ族イ族満族郷
** 安洛ミャオ族イ族満族郷
** 新化ミャオ族イ族満族郷
** 新化ミャオ族イ族満族郷
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== 呼称の変遷 ==
== 歴史 ==
=== 古代の記録 ===
女真語・満洲語による呼称の変遷
中国東北地方の諸民族については[[周]]代より記録があり、それによれば、そのころ「[[粛慎 (中国)|粛慎]](しゅくしん)」と称される狩猟民が[[毛皮]]や青石製の[[石鏃]]、あるいは楛矢(こし)といった物産を中原の諸王朝に献上していた<ref name="kotobank" /><ref name="zoku226">[[#語|ブリタニカ小項目事典6「満州族」(1974)p.226]]</ref>。[[濊貊|貊]](はく)という民族もあったが<ref name="zoku226" />、[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]から[[漢]]代にかけての漢民族の進出と[[楽浪郡]]([[紀元前108年|前108年]]設置)以下4郡の設置という動きのなかで、貊のなかから[[夫余]](ふよ)が起こり<ref name="zoku226" />、紀元前後以降は、夫余、[[挹婁]](ゆうろう)、[[勿吉]](もっきつ)、[[靺鞨]](まっかつ)といった諸民族が興亡した<ref name="kotobank" /><ref name="zoku226" />。
*ジュシェン({{ManchuSibeUnicode|ᠵᡠᡧᡝᠨ}}, jušen) 1636年まで
*マンジュ({{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠨᠵᡠ}}, manju) 1636年、[[清朝|アイシンギョロ朝]]の[[ホンタイジ]]により改称。


中国語による呼称の変遷
* [[しゅくしん|粛慎]](- [[晋 (春秋)|晋]])
* [[しゅくしん|粛慎]](- [[晋 (春秋)|晋]])
* [[夫余]]([[漢]] - [[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]])
* [[挹婁]]([[後漢]] - [[三国時代 (中国)|三国時代]])
* [[挹婁]]([[後漢]] - [[三国時代 (中国)|三国時代]])
* [[勿吉]]([[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]]
* [[勿吉]](南北朝時代)
* [[靺鞨]]([[隋]] - [[唐]]) - [[渤海 (国)|渤海]]の建国と密接な関係を有す(学説論争については[[南北国時代]]も参照)。
* [[靺鞨]]([[隋]] - [[唐]])
* [[女真]]([[契丹]] - [[明]]) - [[金 (王朝)|金]]、[[東夏国|東夏]]、[[後金]]を建国。
* 満洲([[清]] - [[満洲国]]) - 清を建国。
* 満(族)(「満洲八旗」だけでなく、「蒙古八旗」「漢軍八旗」の末裔も含めた中華人民共和国における[[少数民族]]としての呼称)


[[高句麗]]を建国したのも[[朝鮮民族|韓族]]ではなく、貊族であった。[[7世紀]]末葉、[[粟末靺鞨]]に高句麗の遺民を加え、南満洲から現在の[[朝鮮半島]]北部にかけての地に、「海東の盛国」と称された[[渤海 (国)|渤海]]が建国された<ref name="kotobank" /><ref name="zoku226" />。これらのうち、貊、夫余、靺鞨はツングース系の民族と考えられている<ref name="kotobank" />{{refnest|group="注釈"|靺鞨族の文化については、[[考古学]]的研究によってその多くが解明されてきている<ref name="ogihara55" />。}}。
== 満洲民族の出自をめぐる論争 ==

『[[松漠紀聞]]』『[[満洲源流考]]』などのいくつかの[[中国]][[史料]]には、[[女真]][[完顔氏|完顔部]]の[[先祖]]であり、[[金 (王朝)|金朝]]の始祖である[[函普]]が「[[新羅|新羅人]]」あるいは「[[高麗]]より来た」と記録されている。これを根拠に[[大韓民国|韓国]]・[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]では満洲民族の[[先祖|ルーツ]]は[[朝鮮民族]]であるという主張がある<ref>{{Cite news|url=http://japanese.donga.com/List/3/all/27/292170/1|title=韓・日・モンゴルの共通のルーツは「ジュシン族」|newspaper=[[東亜日報]]|publisher=|date=2006-03-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161130075135/http://japanese.donga.com/List/3/all/27/292170/1|archivedate=2016-11-30}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/01/23/2016012300446.html|title=【寄稿】「水」で見る北京・東京・ソウルの歴史|newspaper=[[朝鮮日報]]|publisher=|date=2016-01-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160126045005/http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/01/23/2016012300446.html|archivedate=2016-01-26}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/01/23/2016012300446_2.html|title=【寄稿】「水」で見る北京・東京・ソウルの歴史|newspaper=[[朝鮮日報]]|publisher=|date=2016-01-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160126045010/http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/01/23/2016012300446_2.html|archivedate=2016-01-26}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=79900|title=「金、清、韓国史に編入を」…東北工程対応策提案|newspaper=[[中央日報]]|publisher=|date=2006-09-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131005155738/http://japanese.joins.com/article/900/79900.html?sectcode=&servcode=|archivedate=2013-10-05 }}</ref><ref>{{Cite news |author= |url=http://www.kbs.co.kr/1tv/sisa/historyspecial/view/vod/1605745_30885.html |title=특별기획 만주대탐사 2부작 2부 금나라를 세운 아골타, 신라의 후예였다! |newspaper=[[韓国放送公社]]|publisher=|date=2009-09-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091109220105/http://www.kbs.co.kr/1tv/sisa/historyspecial/view/vod/1605745_30885.html|archivedate=2009-11-09}}</ref>。しかしながら、史料解釈に問題があり、[[中華人民共和国|中国]]・[[日本]]などから批判されている。{{Main|函普}}
=== 金王朝と女真族 ===
{{see also|女真|金 (王朝)}}
{{multiple image
| total_width = 550
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| caption_align = left
| image1 = Am ma ni ba mi xu.svg
| caption1 = [[女真文字]]{{refnest|group="注釈"|女真文字による六字真言([[六字大明呪]])である。}}
| image2 = 南宋疆域图(繁).png
| caption2 = [[1142年]]における女真族王朝「金」と周辺諸王朝<br/>[[宋 (王朝)|宋]]([[南宋]])は漢民族王朝、[[西夏]]はチベット系[[タングート]]の王朝、[[大理国|大理]]はチベット系[[ペー族]]の王朝
}}

渤海国は[[10世紀]]に滅亡するが、[[11世紀]]には満洲族の直接の祖先の一つと考えられる半農半猟の[[女真]](女直)族が現れ、[[1115年]]には[[阿骨打|完顔阿骨打]](ワンヤン・アクダ)が[[金 (王朝)|金]]王朝を開いた<ref name="kotobank" /><ref name="kawauchi230">[[#河内|河内(1989)pp.230-232]]</ref>{{refnest|group="注釈"|遼代の女真族のなかでもさほど有力とはいえない[[完顔氏|完顔部]]が金王朝を樹立させるにいたった原因は、[[砂金]]を産する河川流域を支配地に収めたことによると考えられる<ref name="kawauchi230" />。}}。女真は、靺鞨七部のうち、[[黒水部|黒水靺鞨]]と呼ばれた集団だと考えられる<ref>{{kotobank|女真}}</ref>。金は、渤海を滅ぼしたモンゴル系[[契丹|契丹族]]による遊牧民王朝の[[遼]]を滅ぼし、さらに[[1126年]]、[[漢民族]]王朝の[[宋 (王朝)|宋]]の[[徽宗]]・[[欽宗]]のニ帝および皇族・重臣らを捕らえて中国北半を支配し、燕京(いまの[[北京市]])に都を移して宋朝を南へと追いやった<ref name="kotobank" /><ref name="mikami819">[[#三上|三上(1975)pp.819-823]]</ref>。金は、[[漢字]]をもとにして[[女真文字]]という独特の文字体系を整備し、政府組織を中央、地方ともに中国風にして支配体制を整えたが、軍事権力を強く握って独占したのは女真族であり、政府首脳もまた女真族によって占められた<ref name="kotobank" /><ref name="mikami819" />。女真人には行政と軍事を兼ねた[[猛安・謀克]](ミンガン・ムクン)の制度など独自の統治体制がとられて特別の保護を受け、漢化を防いだ<ref name="kotobank" /><ref name="mikami819" />。東北部(満洲)にあっては大部分が猛安・謀克制によって統治されたが、他民族の住む西部や南部では[[州県制]]が採用された<ref name="mikami819" />。

金はしかし、[[1206年]]に[[チンギス・カン]]によって成立した[[モンゴル帝国]]の猛攻を受けて劣勢に立ち、都を[[開封府|開封]]に移したものの[[1232年]]にはその開封が包囲された<ref name="kawauchi235">[[#河内|河内(1989)pp.235-237]]</ref>。そして、[[1234年]]、[[オゴデイ]]らの進撃により、逃走していた[[哀宗 (金)|哀宗]]が自殺して金は滅んだ<ref name="kotobank" /><ref name="mikami819" /><ref name="kawauchi235" />。一方、これに先立って、契丹の反乱鎮圧を称して挙兵していた金王朝の将領[[蒲鮮万奴]]は、[[1215年]]に金より自立して「天王」を名乗り、東夏国([[大真国]])を建国していた<ref name="kawauchi235" />。東夏は、モンゴルに服属したり自立したりを繰り返していたが、この国もまた、[[1233年]]、オゴデイの子[[グユク]]によって滅ぼされた<ref name="mikami819" /><ref name="kawauchi235" />。

女真族は、金がモンゴル帝国に滅ぼされてからのちは、モンゴル帝国、[[元 (王朝)|大元]]、[[明|大明]]の支配下に置かれた<ref name="mikami819" /><ref name="ishibashi64">[[#石橋|石橋(2000)pp.64-66]]</ref>。その間、金の時代に創始した女真文字もしだいに失われ、金建国以前の部族集団に後退した<ref name="ishibashi64" />。当時の女真族の家族は、主人と[[奴婢]]に完全に二分されており、主人は[[狩猟]]や採集、交易、戦争などの外仕事、奴婢は農耕や[[ブタ]]の飼養など食糧生産を担当するという分業体制が確立していた<ref name="matsumura145">[[#松村|松村(2006)pp.145-147]]</ref>。その役割は固定し、世襲されていったが、代々起居や食事をともにし、双方の物産・物資は分け隔てなく均等に分配されたから、両者の結びつきはきわめて緊密であった<ref name="matsumura145">[[#松村|松村(2006)pp.145-147]]</ref>。東北部に残留した女真(女直)は、元代には[[遼陽等処行中書省]]の管轄下に入ったが、その統制はゆるやかなもので、ほぼ完全な自治がゆるされていた<ref name="matsumura147">[[#松村|松村(2006)pp.147-149]]</ref>。元代から明代にかけての女真人は、[[遼東半島]]の[[建州女直]]、[[松花江]]流域の[[海西女直]]、黒竜江([[アムール川]])方面の[[野人女直]]の三部に大別されて、モンゴル族や漢族の支配下にあった<ref name="kotobank" /><ref name="ishibashi66" /><ref name="mikami819" />{{refnest|group="注釈"|現在、ロシア連邦の沿海州に住み、狩猟を主な生業としてきた少数民族[[ウデヘ]]は、このうちの野人女直の末裔と考えられる<ref>[[#松浦|松浦(2006)]]</ref>。}}。

=== 女真族から満洲族へ ===
[[ファイル:Manchu chinese.jpg|right|thumb|300px|[[満洲文字]](右)と[[漢字]](左)
----
[[紫禁城]](北京)乾清門の額]]
しかしながら、明朝の勢力が揺らぐ16世紀にはその支配を脱し、ふたたび統一の気運が高まった<ref name="kotobank" />。とりわけシナ本土に近く、文化程度も相対的に高かった建州女真(建州女直)からは、スクスフ部の有力な氏族であったアイシンギョロ([[愛新覚羅氏|愛新覚羅]])氏から英傑[[ヌルハチ]]が出て勢力を急速に拡大した<ref name="kotobank" /><ref name="mikami819" />。ヌルハチの支配する領域は、一方では「マンジュ国」({{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠨᠵᡠ<br>ᡤᡠᡵᡠᠨ}}, manju gurun, 満洲国)と称されるようになったが、マンジュ国がさらに海西女真四部(マンジュ政権からは「フルン四部」)、野人女真四部(同じく「東海四部」)を統合していく過程で、「マンジュ」が広く女真全体の総称として用いられるようになった<ref name="ishibashi66" />。なお、建州・海西・野人の各女真には、それぞれ内部的に何らかの結合関係があったと考えられがちだが、実際はそうではなかった<ref name="ishibashi66" />。建州女真のなかの五部もまた、それぞれ別個に建てられた5つの国のような様相を呈しており、それを越えてのまとまりはなかった<ref name="ishibashi66" />。「マンジュ国」は、その意味で複合部族国家であった<ref name="ishibashi66" />。

金の滅亡後、女真文字は失われ、女真族はモンゴル文や漢文に翻訳して文書をつくるようになっていたが、「マンジュ国」の勢威が拡大し、民族統合を進めるなかで民族的自覚は高まり、その長であるヌルハチは自分たちの文書を外国語に翻訳して記述している状況を不自然だと感じるようになっていた<ref name="ishibashi39">[[#石橋|石橋(2000)pp.39-40]]</ref>。ヌルハチは、モンゴル族の学者{{仮リンク|エルデニ|zh|额尔德尼 (满族)|label=エルデニ・バクシ}}に命じて文字をつくらせた<ref name="ishibashi39">[[#石橋|石橋(2000)pp.39-40]]</ref>。[[1599年]]のこととされている<ref name="ishibashi39" />。すなわち、広大な地域で話されるようになった「マンジュ国」の言語を表記するため、[[アラム文字]]をルーツにする[[モンゴル文字]](縦書きの[[ウイグル文字]]を応用したもの)を改良させて無圏点[[満洲文字]]をつくり、当時の女真語(満洲語)を表記することとしたのである<ref name="ishibashi39" />。さらに、無圏点文字では区別することのできないha({{ManchuSibeUnicode|ᡥᠠ}})とga({{ManchuSibeUnicode|ᡤᠠ}})、de({{ManchuSibeUnicode|ᡩ᠋ᡝ᠋}})とte ({{ManchuSibeUnicode|ᡨᡝ᠋}})などを識別するため、ヌルハチの子息[[ホンタイジ]]は、17世紀に{{仮リンク|ダハイ|zh|达海|label=ダハイ・バクシ}}に有圏点満洲文字をつくらせた<ref name="ishibashi39" />{{refnest|group="注釈"|「バクシ」とは、書記官の意であるとも<ref name="kishimoto250">[[#岸本宮嶋|岸本(2008)pp.250-253]]</ref>、学者・博士の意であるともいわれる。}}。

ヌルハチは、[[1616年]]に中国東北地方のほぼ全域を領有して女真国家を再び築き、「[[後金]]」と号した<ref name="kotobank" /><ref name="mikami819" />。これは、数百年の空白を隔てて、2度にわたり歴史に名を残す統一国家を樹立して中国内地を支配した、稀有な例であった<ref name="ishibashi64" />。後金はヌルハチ没後も発展し、子息ホンタイジは内モンゴルを併合し、[[李氏朝鮮]]を属国となして国号を「[[清]]」に改め、また、民族名も「女真」を民族名として用いることを禁じ、"マンジュ"と改め、それに「満洲」の字を当てた<ref name="kotobank" /><ref name="matsumura156">[[#松村|松村(2006)pp.156-159]]</ref>{{refnest|group="注釈"|[[1634年]]、後金軍はモンゴルの一大拠点[[フフホト市|フフホト]]を占領し、[[ドルゴン]]らを派遣して[[リンダン・ハーン]]の子息を捜索させた<ref name="matsumura156" />。[[1635年]]、ドルゴンはモンゴル帝国最後の君主となった[[エジェイ・ハーン]]を降伏させ、彼をともなって都の[[瀋陽市|瀋陽]]に帰還した<ref name="matsumura159">[[#松村|松村(2006)pp.159-160]]</ref>。エジェイは、「制誥之宝」と刻まれた大元伝国の璽をたずさえ、ホンタイジにこれを献上した<ref name="matsumura159" />。元朝の皇帝権を象徴する印璽がホンタイジの手に入ったということは、彼が全中国の支配権を元から継承したことを意味していた<ref name="matsumura159" />。}}。
* ジュシェン({{ManchuSibeUnicode|ᠵᡠᡧᡝᠨ}}, jušen, 女真) 1635年11月22日([[天聡]]9年十月庚寅)まで。
* マンジュ({{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠨᠵᡠ}}, manju, 満洲) [[1636年]]([[崇徳]]に[[改元]])以降。ホンタイジによる改称{{refnest|group="注釈"|これにより「満洲」の名が定着するが、東方世界を支配するとされる仏である[[文殊菩薩]]と満洲の語を結びつける説明については、当時の[[チベット仏教]]の指導者の発言を乾隆帝が利用したところから生じた俗説だという見解もある<ref name="okada"/>。}}。

満洲については「洲」の文字が含まれていることから、日本語では「[[中国東北部]]」を指す広域地名「満洲」や国境の町「[[満洲里]]」など地域名称のイメージが強く、現在でも[[英語]]では“[[:en:Manchuria|Manchuria]]”のように地域呼称として用いられる。しかし、中国語においてはあくまでも民族名であり、土地の名前ではない。満洲語においても "{{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠ}}, manju" は専ら満洲族を指し、「満洲語 ({{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠ<br>ᡤᡳᠰᡠᠨ}}, manju gisun) 」、「満洲文字 ({{ManchuSibeUnicode|ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠ<br>ᡥᡝᡵᡤᡝᠨ}}, manju hergen)」なども「満洲人の言葉」「満洲人の文字」と解される。

=== 清朝の中国支配 ===
{{see also|清#政治}}
女真族出身のホンタイジは女真の概念を捨て、女真人、蒙古人、遼東漢人等の北方諸族を満洲(人)と統合し、国号を「大清」に改めた。ちなみに、民族の名称を表す“満”と“洲”、そして政権の名称を表す“清”のいずれにも“[[水部|氵(さんずい)]]”が付いているのは、[[五行思想|五行]]の火徳に結び付く“明”を“以水克火”するという[[陰陽五行思想]]に基づいているとされる<ref>[http://www.nxnet.net/shouye/zktj/shxb/200901/t20090107_414004.htm {{lang|cn|清朝为什么叫大清}}]</ref>。ホンタイジは、[[1636年]]、清の国号を称したとき、満、漢、モンゴルの三勢力に推戴され、[[多民族国家]]の君主として[[ハーン]]であると同時に皇帝でもあるということを、内外に宣言した<ref name="1kishimoto348">[[#岸本1|岸本(2008)pp.348-349]]</ref>。多民族王朝となった清のもと、満洲人は、[[八旗]]と称する8グループに編成され、王朝を支える支配層を構成する主要民族のひとつとなり、軍人・官僚を輩出した。

[[ファイル:Yonghe Gong sign.jpg|280px|right|thumb|[[雍和宮]](北京)昭泰門に掲げられた扁額。左からモンゴル文、チベット文、漢文、満洲文の四体合璧となっている。]]
[[ファイル:Z2a1 (3986226178).jpg|180px|right|thumb|チーパオを着た女性]]
[[1644年]]、清は[[山海関]]を越えて[[万里の長城]]以南に進出し、[[李自成|李自成の乱]]で滅亡した明にかわって[[北京市|北京]]に入城、以後、[[1911年]]の[[辛亥革命]]に至るまで中国大陸に君臨した<ref name="kotobank" />。清帝国は、中国の伝統的な統治機構を踏襲する一方で、満洲族独自の軍事・行政・生産機構である八旗制度を制定し、自らの[[ヘアスタイル]]である[[辮髪]]を漢族にも強要し、東北地方への入植を禁ずるなどの非漢化政策を採用した<ref name="kotobank" />。明滅亡後は、明の旧領を征服し、八旗を北京に集団移住させて漢人の土地を満洲人が支配する体制を築き上げた<ref name="ishibashi131">[[#石橋|石橋(2000)pp.131-132]]</ref>。なお、漂着により[[朝鮮]]に抑留されていた[[ヘンドリック・ハメル]]によれば、満洲人支配下の17世紀初期の朝鮮では、[[朝鮮の君主一覧|朝鮮国王]]は国内では絶対的権力をもっているものの、後継者を決める際は満洲人のハーンの同意を得なければならず、また、満洲人の[[勅使]]や[[ウリャンカイ]](野人女真)は、年に3回朝鮮から貢物を徴収し、朝鮮高官は満洲人に怯えきっていたという<ref>[[#ハメル|ハメル『朝鮮幽囚記』]]</ref>。

歴代の清朝皇帝は、同時に、満洲やモンゴルなど北方民族社会の長としてのハーンでもあった<ref name="1kishimoto348" /><ref name="ishibashi40">[[#石橋|石橋(2000)pp.40-48]]</ref>。その意味で清朝は、非漢族のハンが中国皇帝でもあるという「夷」と「華」が同居する二重性を有していたが<ref name="1kishimoto348" />、東洋史学者[[石橋崇雄]]は、さらにこれに「旗=満(東北部での満・蒙・漢)」の体系を加えた「三重の帝国」であったとしている<ref name="ishibashi40" />。首都[[北京市|北京]]は中国内地の[[華北]]に、副都盛京(現、[[瀋陽市|瀋陽]])は中国東北部に、行在所「[[避暑山荘]]」は[[承徳市|熱河]](現、[[承徳避暑山荘と外八廟|承徳]])にそれぞれ位置しており、いずれも清朝のハン(大清皇帝)が政治の実務を執り行った場所という点では共通しているが、実際はこの3か所の性格はまったく異質であった<ref name="ishibashi40" />。清朝の皇帝は、北京にいるときは中華世界の[[天子]]として君臨していたが、長城外に位置する熱河の[[離宮]](「避暑山荘」)では、内陸アジア世界におけるモンゴル族の首長、ボグド=セチェン=ハンとして行動し、熱河は、モンゴル族や[[チベット民族|チベット族]]のみならず、[[ウイグル]]の王公、[[チュルク系民族]]の首長([[ベグ]])、[[李氏朝鮮]]および[[ベトナム]]([[阮朝]])・[[タイ王国]]・[[ミャンマー|ビルマ]]([[コンバウン王朝]])といった[[東南アジア]]における[[冊封国|朝貢国]]の使節、さらに[[イギリス]]の使節までも[[朝覲]]する非漢族世界「藩」の中心であった<ref name="ishibashi40" />{{refnest|group="注釈"|[[1793年]]、[[ジョージ・マカートニー (初代マカートニー伯爵)|初代マカートニー伯爵ジョージ・マカートニー]]はイギリス王[[ジョージ3世 (イギリス王)|ジョージ3世]]の派遣した乾隆帝の80歳を祝う使節団として熱河に赴き、[[三跪九叩頭の礼]]を拒否した(のちに清側が妥協して英国流に膝をつき皇帝の手に接吻することで事態を収拾した)ことで知られる<ref name="ishibashi40" />。}}。一方、瀋陽の[[瀋陽故宮|奉天行宮]](瀋陽故宮)東郭には右翼王および左翼王の執務室と八旗それぞれの建造物をともなう、旗人の部族長会議を反映した十王亭がある<ref name="ishibashi40" />{{refnest|group="注釈"|清朝の皇帝が皇帝であるためには、満洲人、モンゴル人、漢人の支配権を確立しなければならなかった<ref name="okada213">[[#岡田|岡田(2006)pp.213-214]]</ref>。モンゴル人に対しては大元伝国の玉璽を有して最後のハーンからその権利を譲られ、漢人に対しては大明の帝位を継承したとしてその支配権を主張できたのであるが、実のところ、肝心の満洲人に対しては本来独裁の権限はなく、部族長会議の議長にすぎない存在であり、当初は皇帝自身がその部族長会議で軍事・外交のリーダーとして[[選挙]]で選ばれた存在だった<ref name="okada213" />。}}。

清朝期の建築物は、複数言語で表記される「[[合璧]]形式」の額が掲げられることを一大特徴としているが、ここでは満・漢合璧であるだけでなく、満・漢・蒙の合璧、それにチベットを加えた四体合璧、さらにウイグルを加えた五体完璧もある<ref name="ishibashi40" />。清朝の記録はまた、『[[満洲実録]]』をはじめとする実録類が原則として満文本・漢文本・蒙古文本の三種類によって編纂されており、満・漢・蒙の各語を担当する翻訳官がおり、そのための科挙もあった<ref name="ishibashi40" />。これにチベットやウイグルなどの諸語も含めた官撰・私撰の[[辞典|辞書]]が多く作られたのも清朝文化の特徴となっている<ref name="ishibashi40" />。大清帝国は、満・漢・藩の三重構造を基本としており、瀋陽・北京・熱河にあった3政務所はそれを象徴するものというとらえ方ができるのである<ref name="ishibashi40" />。

中国を扱った映画などにみられる[[辮髪]]や[[両把頭]]、チーパオ([[チャイナドレス]])は、本来は満洲人の習俗であったものが清代に漢人の社会に持ち込まれたものである<ref name="ishibashi13" />{{refnest|group="注釈"|チーパオ(旗袍)は本来、清朝旗人社会の婦人のうち、冬の綿入れの形を普遍化したものであるが、現在のようなかたちで統一・普及するのは、[[中華民国]]成立以降のことである<ref name="ishibashi13">[[#石橋|石橋(2000)pp.13-15]]</ref>。清朝では、支配者である旗人と一般漢人とは厳格に区別されていたため、漢人女性がチーパオを着用することは認められていなかった<ref name="ishibashi13" />。このことが逆に女性の憧れとなったのか、政治とは別次元として「チャイナドレス」として独り歩きし、[[ボディコン|ボディコンシャス]]な[[ワンピース]]として広く愛用されることになった<ref name="ishibashi13" />。}}。明との戦争に際しては占領地の男性住民に辮髪を命じ、明の滅亡は満洲族の髪型と服装を漢族にも強制して漢人の服飾を身に付けることを禁止し、漢民族の伝統文化を抑圧する態度をとった<ref name="ishibashi13" />{{refnest|group="注釈"|辮髪は、満洲族(女真族)に限らず、北アジア系諸民族のあいだに古くから広くみられる風習である<ref name="ishibashi13" />。}}。これを「剃髪易服」(髪を剃り、服を替えるの意)という。一方、[[科挙]]の実施や中央に[[内閣大学士|内閣]]、[[六部]]、地方に[[総督]]、[[巡撫]]を設置して軍事・政治を管轄させるなど、明朝の行政制度を存続させて強硬政策と懐柔政策を併用した<ref name="ishibashi120">[[#石橋|石橋(2000)pp.120-121]]</ref>。また、指導理念として[[朱子学]]をはじめとする[[儒教|儒家]]の思想も取り入れていた<ref name="ishibashi120" />。
{{Wide image|Macang Lays Low the Enemy Ranks.jpg|1300px|[[乾隆帝]]時代の大臣であるマチャン|dir=rtl}}

=== 盛期の清王朝と満洲人 ===
{{see also|清露国境紛争}}
{{multiple image
| total_width = 380
| align = right
| caption_align = left
| image1 = 清 郎世宁绘《清高宗乾隆帝朝服像》.jpg
| caption1 = 史上最大版図をきずいた乾隆帝の肖像([[ジュゼッペ・カスティリオーネ]]画、1736年)
| image2 = Portrait of the Imperial Bodyguard Zhanyinbao.jpg
| caption2 = 乾隆帝に仕えた満洲族衛兵 占音保 紫禁城の紫光閣に掲げられていた[[:zh:紫光閣功臣像|武功臣の肖像画]](作者不明、1760年)。満洲語と漢文で彼に対する賛が書かれている。彼には名誉称号である[[バトゥル]]が与えられている。
}}

[[17世紀]]、[[コサック]](カザク)によるシベリアへの東進が著しい[[ロシア・ツァーリ国]]と清とが国境をめぐって対立した([[清露国境紛争]])<ref name="89katoh454">[[#加藤3|加藤(1989)pp.454-456]]</ref>。[[1650年代]]初頭、[[エロフェイ・ハバロフ]]率いるコサックの一派は[[アムール川]]に臨む清側の拠点ヤクサ(雅克薩)を奪い、同地を[[アルバジン]]と改めて東方進出への拠点とした<ref name="89katoh454" />。ロシア人はアムール川を下りながら先住民からヤサク(毛皮税)を徴収した<ref name="89katoh454" />。[[1652年]]、現在の[[ハバロフスク]]周辺とみられるアチャンスクで清露の戦闘が起こった。[[1658年]]には[[李氏朝鮮|朝鮮国]]軍も動員した清国側が勝利し、アムール川流域からロシア人勢力を駆逐したが、[[1665年]]、シベリアに追放されていた[[ポーランド]][[貴族]]の{{仮リンク|ニキフォール・チェルノゴフスキー|en|Nikifor Chernigovsky}}が{{仮リンク|イリムスク|en|Ilimsk}}の[[ヴォイヴォダ]](軍司令官)を殺害して逃走、{{仮リンク|ヤクサ王国|en|Jaxa (state)}}を建国して先住民から毛皮税を徴収した。清露国境紛争は再燃し、[[1683年]]、アルバジン戦争が勃発、戦況は清側優勢で推移し、[[1689年]]、清露両国は[[ネルチンスク条約]]を結んで講和した<ref name="89katoh454" />。その結果、[[外満洲]]を含めた満洲全体が清の領土と確定した<ref name="ishibashi25">[[#石橋|石橋(2000)pp.25-27]]</ref>{{refnest|group="注釈"|ネルチンスク条約は、東アジア史上はじめて[[ヨーロッパ]]の一国と結んだ[[条約|国際条約]]であった<ref name="ishibashi25" />。}}。なお、この時のロシア人[[捕虜]]は「ニル」に編成され[[鑲黄旗]]満洲に配属された{{refnest|group="注釈"|ニル(niru、「矢」の意)とは、八旗制において有事の際に兵士となる成年男子300人を供出しうる集団を指す<ref name="kishimoto250" />。清朝は、5ニルをジャラン(jalan、1,500人)とし、5ジャランをグサ(gūsa、25ニル、7,500人)として、1グサ(7,500人)をもって一旗とした<ref name="kishimoto250" /><ref name="matsumura152">[[#松村|松村(2006)pp.152-154]]</ref>。「旗」は[[本籍]]の所在をもあらわしており、単なる兵制上の単位ではなく、旗人の基本的な帰属先を示す社会組織であった<ref name="kishimoto250" />。}}。

清の歴代の皇帝は、漢人が圧倒的多数を占める中国を支配するにあたっても、満洲語をはじめとする独自の民族文化の維持・発展に努めていた<ref name="kotobank" />。しかし、次第に満洲語は廃れ、満洲人の間でも[[中国語|漢語]]が話されるようになり、習俗もしだいに[[漢化]]していった<ref name="kotobank" />。清代中期の北京の満洲人によって編まれた「子弟書」という俗曲集には、漢語と満洲語を交ぜてできている曲があり、当時の満洲人の言語状況の一端がかいまみえる<ref>[[#池上2|池上(1975)p.823]]</ref>。

清朝によって優遇された満洲族は清朝発展にともない中国本土に移住する者が増加した一方、満洲人の故地である満洲では人口が減り、荒廃したため、[[1653年]]から[[1668年]]まで[[遼東招民開墾令]]を出して漢人の移住を勧めた<ref name="mikami819" />。しかし、18世紀に入ると東北部(満洲)に自発的に移住する漢人の数が急増したため、[[1740年]]には移住禁止令を出して満洲人の生活を保護しようとした<ref name="mikami819" />。

[[1735年]]から[[1795年]]まで治世60年におよぶ第6代乾隆帝は、45年にわたる外征を「十全武功」と称し、晩年好んで用いた[[玉璽]]にも「十全老人」の文字を彫らせた<ref name="ishibashi170">[[#石橋|石橋(2000)pp.170-172]]</ref>。[[1750年代]]の後半には、清は乾隆帝の外征により中国東北部、中国内地、[[モンゴル高原]]、[[東トルキスタン]]を含む[[天山山脈|テンシャン山脈]]の南北両側、チベットより構成される最大版図を築いた<ref name="ishibashi182">[[#石橋|石橋(2000)pp.182-183]]</ref>。[[1759年]]にはテンシャンの南北両側地域を「新彊」と命名した<ref name="ishibashi182" />。現代の中国の骨格は、乾隆帝によってかたちづくられたということができる<ref name="ishibashi170" />。

=== 列強の進出と満洲族 ===
{{see also|滅満興漢|満洲国}}
[[ファイル:Manchu Soldiers.jpg|thumb|right|250px|清朝末期の満洲族の武人たち]]
[[ファイル: Manchukuo map.png|thumb|right|250px|満洲国(1932-1945)の地図]]
[[1840年]]以降、清が[[アヘン戦争]]や[[アロー戦争]]に敗北し、大規模な農民反乱である[[太平天国の乱]]が起こって弱体化すると、ロシアは清に対して武力による威圧を強め、[[1858年]]には[[アイグン条約]]を結んで、清領とされてきた外満洲のうち[[アムール川]]左岸をロシアに割譲し、[[ウスリー川]]以東を両国の共同管理とすることとなった<ref>{{kotobank|愛琿条約}}</ref>。さらに2年後の[[1860年]]には[[北京条約]]によって、この共同管理地も正式にロシア領となった<ref name="peking">{{kotobank|北京条約}}</ref>{{refnest|group="注釈"|北京条約は[[アロー戦争]]終結のための[[イギリス]]・[[フランス]]との講和条約であった一方、ロシアが清と英仏との講和を斡旋したことから、ロシアの要求を受け入れて同国と結んだ条約である<ref name="peking" />。}}。

一方、皇帝の故郷満洲は[[1860年]]までは保護され、漢人の移住はある程度制限されていたが、[[特普欽]]らの献策を容れて開放策に転じ、漢人農民の移住が急増した。[[中国史]]ではこれを「[[闖関東]]」と呼んでいる{{refnest|group="注釈"|[[1931年]]の[[満洲事変]]までに、数百万規模の人々が関内から移動したといわれている。}}。漢人人口はさらに急増して満洲人人口を上回り、その生活域は蚕食された。また、[[イギリス]]領事館が[[営口市|営口]]に置かれるなど外国人勢力が満洲の南方からも入り込んで、満洲人の故郷は大きな変貌を遂げた<ref name="mikami819" />。アヘン戦争の敗北後、清国は[[海禁|海禁政策]]を放棄して欧米列強に門戸を開いたが、[[日清戦争]](1894-1895)や[[北清事変]](1900)の敗北などによって深刻な半植民地状態に陥った。[[1911年]]の[[辛亥革命]]の際には「[[滅満興漢]]」がスローガンとして掲げられた<ref name="metsuman">{{kotobank|滅満興漢}}</ref>{{refnest|group="注釈"|清初以来、[[秘密結社]]の間では清朝に反抗して明朝を復興させようとする「反清復明」のスローガンが伝えられてきたが、太平天国はこれを発展させ、満洲族を滅ぼし漢民族を復興しようとする「滅満興漢」のスローガンを提唱した<ref name="metsuman" />。太平天国では反清の意思として辮髪を廃止したが、清朝はこのような反政府勢力を「長髪賊」と呼んだ。また、[[1905年]]に東京で結成された[[中国同盟会]]の綱領にある「駆除韃虜、恢復中華」も同じ意味であった<ref name="metsuman" />。}}。

[[1932年]]には[[大日本帝国|日本]]の手によって、清の最後の皇帝だった[[愛新覚羅溥儀|宣統帝溥儀]]を執政(のちに皇帝)として[[満洲国]]が建てられた<ref name="mikami819" /><ref name="mans">{{kotobank|満州国}}</ref><ref name="suzuki34">[[#鈴木|鈴木(2021)p.34]]</ref>{{refnest|group="注釈"|愛新覚羅溥儀は、[[1917年]]7月、軍閥の指導者[[張勲 (清末民初)|張勲]]によって13日間だけだが、帝位に就いたことがあった([[張勲復辟]])<ref>{{kotobank|張勲復辟}}</ref>。}}。満洲国は[[日本人|日]]・[[満洲人|満]]・[[蒙古人|蒙]]・[[中国人|中]]・[[朝鮮人|朝]]の五民族による「[[五族協和 (満洲国)|五族協和]]」「[[王道楽土]]」を理念としており<ref name="mans" />、国名に「満洲」を含むものの、満洲人がこの国を自分たちの民族国家として意識していたわけではない。しかし、建国後の満洲族には帝政期成運動を起こすなど、この国に民族の復権を期待する傾向も一部ではみられた。満洲国の建国宣言は、溥儀を担いだ旧清朝帝政派の人びとの主導によってなされ、それを関東軍が承認したものだが、そこには「礼教(儒教とほぼ同じだが、[[道徳]]秩序や祭礼面を前面に立てる)」を国教とすることが謳われていた<ref name="suzuki16">[[#鈴木|鈴木(2021)pp.16-17]]</ref>。[[1934年]]の皇帝即位式において溥儀は、満洲族の民族衣装で、清の皇帝のみが着用を許された礼服「竜袍」を用意していたが、関東軍は「五族協和」の見地からこれを許さず、[[満洲国軍]]大総帥服を着用するよう溥儀に求めた<ref name="huffpo">{{Cite web|url=https://www.huffingtonpost.jp/2017/10/17/the-last-emperor-pu-yi_a_23246525/|title=「ラストエンペラー」溥儀の没後50年。波乱の生涯をふり返る|author=
吉川慧|date=2017-10-09|accessdate=2022-09-10|website=HUFFPOST|publisher=The Huffington Post}}</ref>。溥儀はこれに従ったが、それに先立って祖霊に即位を報告する「告天礼」の開催を主張し、関東軍はその開催と竜袍の着用を認めた<ref name="huffpo" />。なお、満洲国における筆頭公用語は中国語(漢語)であり、第二公用語は[[日本語]]であった<ref name="suzuki157">[[#鈴木|鈴木(2021)pp.157-159]]</ref>。ただし、筆頭公用語は中国語とも漢語(シナ語)とも称されず「満洲語」もしくは「満語」と称され{{refnest|group="注釈"|満洲族に固有の言語(本来の満洲語)は「固有満洲語」と称された<ref name="suzuki157" />。}}、満洲国の住人は満族・漢族とわず「満人」と称された<ref name="suzuki157" />。

=== 現代の満族 ===
{{see also|民族識別工作}}
[[第二次世界大戦]]後に成立した[[中華人民共和国]]は、愛新覚羅溥儀を「思想改造」したのち満洲族代表として[[中国人民政治協商会議]]全国委員に任命し<ref name="huffpo" />、「[[民族識別工作]]」を行って国内の少数民族を一定の権利を有する民族として公認していった。清代の[[旗人]]たちは、主にマンジュたちにより構成された[[満洲八旗]]のほか、[[蒙古八旗]]・[[漢軍八旗]]など3つの集団から構成されていたが、この「民族識別工作」では、蒙古八旗や漢軍八旗の末裔たちを「[[蒙古族]]」や「[[漢族]]」に区分するのではなく、「旗人」全体をまとめて「満族」と区分した。満族は辛亥革命以降、概して冷遇された状態にあったものの、[[文化大革命]]以降の少数民族政策の転換によってその地位はいくらか改善された<ref name="kotobank" />{{refnest|group="注釈"|しかし、「中国的夢」を掲げる[[習近平]]政権に入ってからは、以前にも増していっそう抑圧的な少数民族政策がとられるようになっている<ref name="hirano">{{Cite web|url=https://toyokeizai.net/articles/-/539782|title=中国が少数民族に抑圧的な政策を採る構造的要因|author=[[平野聡 (歴史学者)|平野聡]]|date=2022-03-21|accessdate=2022-09-10|website=東洋経済 ON LINE|publisher=[[東洋経済新報社]]}}</ref>。}}。

[[満洲八旗]]に属していた[[シベ族|錫伯(シベ)族]]、[[ダグール族|達斡尔(ダグール)族]]などについては、それぞれ[[中華民族|56の民族]]の一員である独自の民族として識別されている。しかし、満洲族の大多数は独自の言語と古来の文化を失いつつあるのが現状である<ref name="kotobank" />。

なお、満洲族は、清代に支配者階級として[[万里の長城|長城]]以南に移住した経緯上から都市住民が多いため、漢民族に比べて教育水準が高い。[[1990年]]の人口調査資料によれば満洲族人口1万人当たりの大学進学者数は1,652.2人で、全国平均水準139.0人、漢族平均水準143.1人に比べて遥かに高かった。また、15歳以上で非識字・半非識字が占める比率は、満族は1.41パーセントで、全国22.21パーセント、漢族21.53パーセントよりも遥かに低く、中国国内の各民族の中で非識字率(半非識字率を含む)が最も低い<ref>[http://www.1news1.cn/news/minzufengqing/2008/11/081125162351619_3.html 焦点中国網「民族風情 - 満族」]</ref>。

== 生業と文化・習俗 ==
=== 伝統的生業 ===
中国東北地方は、明代にいたるまで半猟半農状態が続き、[[石器]]・[[土器]]類、[[骨角器]]類もまだ使用されていたとされている<ref name="kotobank" />。その後は[[大興安嶺山脈|大シンアンリン山脈]]などの山岳地帯、[[アムール川]]・[[松花江]]などの大河流域においては[[狩猟]]と[[漁撈]]の果たす役割が依然大きいとはいうものの、建州女真や清代以後の満洲族にとっては、牛馬の[[牧畜]]をともなう[[畑|畑作]][[農耕]] が主な生業であった<ref name="kotobank" />。農耕は[[ムギ]]、[[アワ]]、[[ヒエ]]、[[キビ]]など穀類を中心とする[[乾燥農業|天水農業]]であった<ref name="matsumura145" />。狩猟は[[テン]]、[[キツネ]]、[[ミンク]]、[[リス]]など[[毛皮]]目的であり、[[中華料理]]の食材となる[[キクラゲ]]、[[キノコ]]類、[[松の実]]、薬用として知られる[[オタネニンジン|朝鮮人参]](オタネニンジン)の採集などもおこなわれた<ref name="ishibashi64" /><ref name="matsumura145" /><ref name="kishimoto239">[[#岸本宮嶋|岸本(2008)pp.239-242]]</ref>。清朝の軍事組織として知られる八旗も、その編成方法は元来、満洲族の狩猟生活からあみだされた[[巻狩]]の制を応用したものだったといわれる<ref name="mitamura197" /><ref name="kishimoto250" />。

明代後期の遼東地方で当時高額で取引された二大商品といえば、[[クロテン]]の毛皮と山岳地帯に自生する薬用人参であった<ref name="kishimoto239" />{{refnest|group="注釈"|クロテンの毛皮は冬の厳しい[[華北]]地方で人びとの耳当てとして大量の需要があったほか、明や朝鮮での奢侈の風潮からも人気があった<ref name="kishimoto239" />。オタネニンジン(朝鮮人参)は、上等なものだと[[銀]]に匹敵するといわれたほど高価であったが、これを採集するには夏の数か月、[[猛獣]]の多く棲む高山地帯で集団生活を送る必要があった<ref name="kishimoto239" />。}}。こうした産物は現地で消費されず、奥地から[[リレー走|リレー]]式に遼陽にもたらされ、さらに北京方面へと送られて、[[穀物]]、[[織物]]、[[金属]]製品といった中国内地の商品と交換される<ref name="matsumura145" />。ヌルハチはこうした特産品のルートを掌握して交易の利益を得ていた氏族長のひとりであった<ref name="kishimoto239" />。

ヌルハチの故地に関して言えば、その地は山がちで大小の河川が縦横に流れ、斜面や点在する平地では[[モロコシ|コーリャン]]などが栽培されていたが、農地としては必ずしも恵まれていなかった<ref name="kanda258">[[#神田|神田(1989)pp.258-262]]</ref>。したがって、西方に隣接する肥沃で広大な[[遼河平原|遼東平野]]の農地は、彼にすれば垂涎の的であった<ref name="kanda258" />。ヌルハチは遼東に進出するや女真人(満洲人)をこの地に続々と移住させ、農耕国家として発展する基礎を固めた<ref name="kanda258" />。

同地方はまた[[ブタ]]の産地でもあり、夫余、靺鞨の時代からブタ飼養がなされており、近代には良質のブタの産地としても有名であった<ref name="kotobank" />{{refnest|group="注釈"|「ツングース」の名前の由来も、[[トルコ語]]のトングス(=ブタ)の訛ったものといわれている<ref name="matsumura145" />。}}。ただし、こうした生業のみで十分な[[自給自足]]ができるというほどの経済的基盤を有していたわけではなかった<ref name="ishibashi64" />{{refnest|group="注釈"|明帝国は、対モンゴル政策の一環として女真族を利用する政策を採用し、[[衛所]]の制度を適用して各地の女真族の部族長に[[官職]]を授け、それを示す[[勅|勅書]]・[[封蝋|印璽]]をあたえて、[[朝貢]]・馬市にかかわる特権の付与に便宜を図った<ref name="ishibashi64" />。これは、自給自足の難しい女真族の社会に[[権威]]と[[利権]]をめぐる熾烈な争奪抗争を生むこととなって、結果的に女真族内に覇権闘争を生んだ<ref name="ishibashi66" /><ref name="ishibashi64" />。明朝の政策の根底には女真族分断の意図もあったが、ヌルハチはこうした覇権闘争を勝ち抜いたうえで明の対抗勢力となるまでに勢力を拡大させたのであるから、長期的に考えれば明にとって皮肉な結果だったといえる<ref name="ishibashi66" /><ref name="ishibashi64" />。}}。なお、[[吉林省]][[吉林市]]の鷹屯(ヌルハチはここを「打漁楼」と名付けた)は、[[鷹狩]]に従事する八旗の兵士が代々居住し、鷹匠を数多く輩出した地であり、古い狩猟文化を今日に伝えている<ref name="people">[http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/2014/ji_lin/html/photo.html 人民中国・文化観光"吉林省"]</ref>。

=== 習俗と生活文化 ===
{{see also|辮髪}}
[[ファイル:Travelling barber.jpg|300px|right|thumb|辮髪にカットする巡回理髪者(19世紀、{{仮リンク|トーマス・アロム|en|Thomas Allom}}画)]]
満洲族の[[家屋]]や[[服飾]]においては漢族の影響が強かったが、満洲族女性には[[纏足]]の習慣がなかった<ref name="kotobank" />。女性の服飾は、上述したチーパオまたは[[ベスト]]を着用することが多く<ref name="people" />、男性は伝統的に[[筒袖]]の[[ウェストコート|チョッキ]]と[[ズボン]]という服飾を好んだ<ref>[[#三田村|三田村(1975)p.208]]</ref>。

漢族に対しても強制した[[辮髪]]は古来、満洲族男性のヘアスタイルであった<ref name="kotobank" /><ref name="2kanda186">[[#神田2|神田(2006)pp.186-188]]</ref>。1644年の北京入城直後、清の第3代皇帝[[順治帝]]の摂政[[ドルゴン]]は、清に服属するか逆らうかを区別するため、漢族に対しても「薙髪令」を発令し、これを満洲人に対する服従の証拠とした<ref name="2kanda186" /><ref name="ishibashi118" /><ref name="tifa">{{kotobank|薙髪令}}</ref>。この際は、[[中華思想]]の根強い抵抗のため強制できなかった<ref name="ishibashi118" />{{refnest|group="注釈"|清朝の北京入城は、概ね人民の歓迎を受けたが、辮髪の強制はこれに対する裏切り行為として受け止められた<ref name="ishibashi118" />。}}。しかし、翌[[1645年]]、「薙髪令」を再発令し、辮髪を強制した<ref name="2kanda186" /><ref name="tifa" />。このとき、辮髪を拒否する者には[[死刑]]を以て臨み、「頭を留めんとすれば髪を留めず、髪を留めんとすれば頭を留めず」といわれたほどであった<ref name="2kanda186" /><ref name="ishibashi118" /><ref name="tifa" />。[[儒教]]の伝統的な考えでは、毛髪を含む身体を傷付けることは「不孝」とされ、[[タブー]]であったため、抵抗する者も多かったが、清朝は辮髪を行った者に対しては「髪を切って我に従うものには、すべてもとどおり安堵する」として従来の生活や慣習が行えることを保証した<ref name="ishibashi118">[[#石橋|石橋(2000)pp.118-120]]</ref>。清朝は、漢族が辮髪を死ぬほど嫌い抜いていることを承知したうえで、あえて「薙髪令」を再発令したのであり、ある意味、清朝の敵味方の識別のためには、これ以上効果的な策はなかった<ref name="ishibashi118" />。

やがて、清朝支配の安定とともに[[19世紀]]には辮髪が完全に普及し、[[僧侶]]と[[道士]]と女性のほかはことごとく辮髪するようになり<ref name="2kanda186" />、中国の一般的風習と見なされるようになった<ref name="tifa" />。

=== 氏族制と社会文化 ===
[[ファイル:A Manchu young man dressed in traditional clothes.jpg|170px|right|thumb|伝統衣装を着た現代の満族男性(2012年)]]
満洲族の社会には強い[[父系制|父系原理]]が働いており、「ハラ(hala、哈喇、{{ManchuSibeUnicode|ᡥᠠᠯᠠ}},)」または「ムクン(mukūn)」と呼ばれる父系[[氏族]]を主要な社会組織とし、また、父系拡大家族が主要な経済単位となった<ref name="kotobank" /><ref name="riryu138">[[#李劉1|李鴻彬・劉小萌(1996)pp.138-148]]</ref>。ロシアの{{仮リンク|セルゲイ・シロコゴロフ|en|S. M. Shirokogoroff}}はかつて、ハラが基本的な血縁組織であり、その後、血縁組織の発展にともないガルガン(garugan)、ムクンの2層が生じたと論じ、中国の莫東寅はこれを継承して、ハラ(部族)、ガルガン(胞族)、ムクン(氏族)の三層構造を唱えた<ref name="riryu138" />。しかし、シロコゴルフ・莫東寅の説は、[[今西春秋]]が指摘しているように何ら[[史料]]的根拠を有しない<ref name="riryu138" />。これに対し、[[三田村泰助]]は、詳細な検討の結果、ムクンをハラから派生した地域関係を基とする血族集団とみなす見解を示した<ref name="riryu138" />。ムクンがハラより発生したとする説は、現在、多くの専門家の支持する定説となっている<ref name="riryu138" />。ムクンは、金代女真族の「謀克」を原義としているとみられ、一義的には「族」、二義的には「氏」を表しており、一方、ハラには「姓」の字があてられる<ref name="riryu138" />。清代にあっては、ハラはもはや実体をともなった血縁組織とはいえず、ムクンだけがのこったが、野人女直と呼ばれた人びととその末裔にあってはハラ組織が濃厚に残存したのだった<ref name="riryu138" />。一族の統合を象徴するものとしては「族譜」と呼ばれる、氏族成員の名と相互の関係を記した系譜があった<ref name="kotobank" />。族譜は通常、[[廟]]などにおいて大切に保管された<ref name="kotobank" />。

明・清両王朝の皇宮となった[[紫禁城]]では、明が内廷([[後宮]])と外廷の間に塀を設け、その区別が厳格であったのに対し、清朝ではその塀を撤去して両者の区別は緩やかなものとなり、また、内廷においても男子禁制が明ほどには厳しくなかった<ref name="2mitamura169">[[#三田村2|三田村(1991)pp.169-173]]</ref>。このことは、漢族の家族制と満洲族の氏族制の相違が反映しているものととらえることができる<ref name="2mitamura169" />{{refnest|group="注釈"|清朝にあっては、明代には顕著だった後宮勢力を背景とする宦官の専権という現象はあまりみられなかった。}}。

==== 満洲族の姓氏 ====
1個のハラは複数のムクンを包含するが、1個のムクンはただ1つのハラに帰属しており、ハラ組織は元来、地域的同一性を有していた<ref name="riryu138" />。女真族(満洲民族)のハラの由来は、次の2種に大別できる<ref name="riryu138" />。
# 地名や河川名を姓とするもの … グワルギャ({{仮リンク|瓜爾佳氏|zh|瓜尔佳氏|label=瓜爾佳}})、トゥンギャ(佟佳)、ドンゴ(董鄂)、マギャ(馬佳)など。
# 古来の[[トーテム]]を姓とするもの … ニョフル({{仮リンク|鈕祜禄氏|zh|鈕祜禄氏|label=鈕祜禄}}、原義は「[[オオカミ]]」)、サクダ(薩克達、原義は「[[イノシシ]]」)、ニマチャ(尼馬察、原義は「[[魚類|魚]]」)、ショムル(舒穆禄)など<ref name="riryu138" />。

ハラは、当初は[[族外婚]]の単位であると同時に族内への受け入れ機能を有し、血讐の義務をともない、また、精神生活の単位でもあった<ref name="riryu138" />。それに対し、ムクンはハラの瓦解を受けて不断に分節化し、発展していったもので、その過程も示していた<ref name="riryu148">[[#李劉1|李鴻彬・劉小萌(1996)pp.148-154]]</ref>。たとえば、ギョロ(覚羅)というハラは、『氏族通譜』によれば、イルゲンギョロ([[伊爾根覚羅氏|伊爾根覚羅]])、シュシュギョロ(舒舒覚羅)、シリンギョロ(西林覚羅)、トゥンギャンギョロ(通顔覚羅)、アヤンギョロ(阿顔覚羅)、フルンギョロ(呼倫覚羅)、アハギョロ(阿哈覚羅)、チャラギョロ(察喇覚羅)という8つのムクンに分かれ、さらにそれぞれが多数の分枝を持っていた<ref name="riryu148" />。ハラからムクンが生じた理由のひとつは族外婚規制の機能緩和であって、すでに明代女真族において婚姻禁忌が破られていた<ref name="riryu148" />。すなわち、同一ハラ内の異ムクンとの通婚を可としたのである<ref name="riryu148" />。太祖ヌルハチは[[アイシンギョロ]](愛新覚羅)氏出身であったが、その妻にはイルゲンギョロ氏2名、シリンギョロ氏1名、ギャムフギョロ(嘉穆湖覚羅)1名、計4人の異ムクンの妻女が含まれていた<ref name="riryu148" />。

満洲民族の姓氏は本来、アイシンギョロ(愛新覚羅、{{ManchuSibeUnicode|ᠠᡳ᠌ᠰᡳ᠍ᠨ<br>ᡤᡳᠣᡵᠣ}}, aisin gioro)、[[葉赫那拉氏|イェヘナラ]](葉赫那拉、{{ManchuSibeUnicode|ᠶᡝᡥᡝ<br>ᠨᠠᡵᠠ}}, yehe nara)、ヒタラ(喜塔蝋、{{ManchuSibeUnicode|ᡥᡳᡨ᠋ᠠᡵᠠ}}, hitara) 等にみられるように[[満洲語]]に基づいたものであった。しかし、現代満族の多くは、漢民族の姓氏になぞらえて主に一文字の「漢姓」を用いている。これは、清末期の[[辛亥革命]]の風潮、[[第二次世界大戦]]後の「[[漢奸]]」狩り、[[中華人民共和国]]成立後の[[文化大革命]]など、中国当局の弾圧を避けるための一方策であったと考えられる。しかしながら、その場合であっても、
* アイシンギョロ(愛新覚羅) → 「[[金 (姓)|金]]」「[[羅 (姓)|羅]]」または「[[趙 (姓)|趙]]」に
* [[グワルギャ氏|グワルギャ]](瓜爾佳、{{ManchuSibeUnicode|ᡤᡡᠸᠠᠯᡤᡳᠶᠠ}}, gūwalgiya) → 「[[関 (姓)|関]]」に
* イェヘナラ(葉赫那拉) → 「[[葉 (姓)|葉]]」または「[[那 (姓)|那]]」に
* イルゲンギョロ(伊爾根覚羅、{{ManchuSibeUnicode|ᡳᡵᡤᡝᠨ<br>ᡤᡳᠣᡵᠣ}}, irgen gioro) → 「趙」または「[[佟]]」に
* ニョフル(鈕祜禄) → 「[[郎 (姓)|郎]]」または「[[浪 (姓)|浪]]」に<ref name="riryu138" />
* フチャ(富察、{{ManchuSibeUnicode|ᡶ᠋ᡠᠴᠠ}}, fuca) → 「[[富 (姓)|富]]」または「[[傅 (姓)|傅]]」に
* ヘシェリ(赫舎里、{{ManchuSibeUnicode|ᡥᡝᡧᡝᡵᡳ}}, hešeri) →「[[赫 (姓)|赫]]」「[[何]]」または「[[英 (姓)|英]]」に
* トゥンギャ(佟佳 {{ManchuSibeUnicode|ᡨᡠ᠋ᡢᡤᡳᠶᠠ}}, tunggiya) → 「佟」に
* [[完顔氏|ワンギャ]](完顔、{{ManchuSibeUnicode|ᠸᠠᠩᡤᡳᠶᠠ}}, wanggiya) → 「[[王氏|王]]」に
というように、改姓の際にも一定の原則に従っている。現代満族は、「氏族 ― 哈喇(姓)漢訳表」と照らし合わせることによって自分の本来の姓氏を知ることができるようになっている。

満洲民族はもともとモンゴル人の影響を受けて、漢民族のように姓氏と名を同時に呼ぶ習慣はなく、名前のみを呼ぶか、名前の前に爵位や官職名を付けて呼んでいた(例:睿親王ドルゴン)。あえて姓氏と名を続けて呼ぶ場合は、例えば「グワルギャ姓の[[オボイ]](満洲語: {{ManchuSibeUnicode|ᡤᡡᠸᠠᠯᡤᡳᠶᠠ<br>ᡥᠠᠯᠠ ᡳ<br>ᠣᠪᠣᡳ}} , gūwalgiya hala-i oboi) 」のような呼び方をしていた。

==== 婚姻 ====
伝統的な[[結婚|婚姻]]は、[[族外婚]]と満漢不婚によって特徴づけられる<ref name="u47">[[#烏|烏丙安(1996)pp.47-48]]</ref><ref name="riryu171">[[#李劉2|李鴻彬・劉小萌(1996)pp.171-175]]</ref>。族外婚規制は、同じ氏族同士は結婚しないという原則であり、現代においても濃厚に確認でき、しかも、その規制の強さは漢族以上である<ref name="u47" /><ref name="riryu171" />{{refnest|group="注釈"|漢族にあっては、同姓であっても同祖でなければ通婚は制限されないし、同姓同祖であっても五服親([[高祖父]]を同じくする三従兄弟姉妹までの親族)の範囲を越えれば結婚は可能である<ref name="riryu171" />。満族にあっては、かつては禁忌とされた、同姓であるが同祖でない男女、同祖であるが五服親の範囲外にある男女の結婚がみられるようになったというものの、特に老人たちはそのことに否定的である<ref name="riryu171" />。}}。上述した「ハラ(旧氏族)」は当初、族外婚の単位であったが、その分節化によって生じた「ムクン(新氏族)」が現代における族外婚単位となっている<ref name="riryu138" /><ref name="riryu148" />。

満漢不婚は、満族と漢族の婚姻禁止の[[慣習]]であったが、現代においては守られていない<ref name="u47" /><ref name="riryu171" />。かつて満洲族は全体が八旗の組織に入る旗人であり、入旗していない漢族との通婚は許されていなかったが、入旗している漢族(漢軍八旗)との結婚は可能であった<ref name="u47" /><ref name="riryu171" />。なお、彼らが女真族と称していた時代にあっては、子が継母を娶ったり、弟が嫂を娶ったりする収継婚も多かったが、ホンタイジの時代に入ると漢人的な観念が浸透して旧俗矯正が図られ、収継婚は禁止された<ref name="riryu171" />。

満洲族の婚姻の旧俗では、子女が成年に達すると双方の両親または仲人の話し合いを経て、双方の「門戸帳」(本人の生辰八字([[誕生日|生年月日]])と姓氏三代(曾祖父母・祖父母・父母の姓名)が記されている)を交換し、これが適合すれば婚約できるなど、おびただしい数のしきたりと規制があった<ref name="riryu171" />。

==== 葬送と殉死の風習 ====
[[ファイル:《孝烈武皇后朝服像》.jpg|130px|right|thumb|太祖ヌルハチに殉死した夫人、アバハイ(孝烈武皇后)]]
女真族の旧俗では、[[火葬]]が行われていた<ref name="riryu175">[[#李劉2|李鴻彬・劉小萌(1996)pp.175-180]]</ref>。ヌルハチもホンタイジも火葬され、3代フリン([[順治帝]])は火葬制度を詳細に定め、彼自身も火葬された<ref name="riryu175"/>。[[順治]]年間以降、北京の満洲族はしだいに[[土葬]]を行うようになったが、清朝は漢化を防止する観点から、各地に駐防する旗人の行動に厳しい制限を課し、死後、現地に[[墓|墳墓]]を設けることを許さず、必ず京旗に帰葬することとした<ref name="riryu175"/>。そのため、火葬の風習は各地の駐防にたずさわる旗人の間で保たれた<ref name="riryu175"/>。しかし、[[乾隆]]年間になると、各地の戦役も収まり、火葬を不孝・不道とみなす漢族の[[儒教|儒家]]思想の影響も受けていたので、乾隆帝は死後に現地で土葬することを許可し、帰葬を一律に禁止した<ref name="riryu175"/>。

女真の人びとはまた、死者の葬送のために牛・馬を殺してこれを死者に捧げ、その肉を食すという旧俗をもっていた<ref name="riryu175"/>。このような習俗は[[康熙帝]]の頃まではつづいたが、やがて漢民族の習俗を取り入れ、紙馬をもって祭礼をおこなうようになった<ref name="riryu175"/>。

[[殉死]]の風習も広く行われ、ヌルハチの妻の死去の際には4人の奴婢が、ヌルハチ自身の死去の際にも正妃[[アバハイ]]と2人の側室が殉死した<ref name="riryu175"/>。ホンタイジは殉死の強制を禁止したが、禁止されたのは強制行為のみであって殉死そのものは否定されなかった<ref name="riryu175"/>。ホンタイジの死去の際には近侍2名が殉死している<ref name="riryu175"/>。殉死の旧俗が満洲族の社会で連綿と続いてきたのは、奴婢の制度と無関係ではないと考えられる<ref name="riryu175"/>。康熙帝が在位中に殉死の禁止を諭す命令を発し、以降は紙人を焼くことで死者の[[霊魂]]を祭ることとなった<ref name="riryu175"/>。

=== 言語・文字 ===
{{see also|満洲語|満洲文字}}
[[ファイル:Sealeg25.png|170px|right|thumb|満州文字の朱印
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「白山黒水、源遠流長」の満洲語 "Šanyan alin, sahaliyan muke, sekiyen goro, eyen golmin" を満文で示している。]]
[[満洲語]]は広義の[[ツングース語族|ツングース語]]のなかの一言語であり、言語構造も概ね他のツングース諸語のそれに等しい<ref name="ogihara55">[[#荻原|荻原(1989)p.55]]</ref><ref name="linga">{{kotobank|満州語}}</ref>。しかし、[[音韻]]、[[文法]]、[[語彙]]において他言語と顕著に異なる点もある<ref name="linga" />。語彙ではとくに、[[モンゴル語]]、[[中国語|漢語]]からの借用語も多い<ref name="linga" />。清朝にあっては第一公用語の地位にあった<ref name="ishibashi38">[[#石橋|石橋(2000)pp.38-40]]</ref>。満洲語は、その話者が北京はじめ中国全土に居住するようになり、言語分布は拡大したが、漢人に比較すると人口の絶対数がきわめて少なかったので、満洲族の文化は漢化し、言語も漢語を話すようになり、満洲語はしだいに使わなくなっていった<ref name="ikegami157">[[#池上|池上(1989)pp.157-159]]</ref><ref name="go226">[[#語|ブリタニカ小項目事典6「満州語」(1974)p.226]]</ref>。満洲語使用は、すでに清朝中期の隆盛期には衰微の兆候を示していたという<ref name="ikegami157" />。現代、満洲語は中国東北部のごく一部でしか話されなくなっている<ref name="linga" />{{refnest|group="注釈"|[[嫩江]]沿岸やアイグン([[黒竜江省]][[黒河市]])周辺などの少数の集落では、満洲語が口頭語として用いられている<ref name="ogihara132">[[#荻原|荻原(1989)pp.132-133]]</ref>。}}。なお、清代の乾隆年間中期に国境地域の警備のため、東北部から新疆の[[イリ地方]]へ移住した[[シベ族]]の末裔は今日でも満洲語を話している<ref name="linga" /><ref name="go226" />。これを[[シベ語]]といい、シベ語(シベ文字)の[[新聞]]や[[本|書籍]]も発行されている<ref name="linga" />。

満洲[[文語]]の資料には、『[[満文老檔]]』をはじめとする記録類<ref name="routou">{{kotobank|満文老檔}}</ref>、満洲・モンゴル・漢・[[チベット民族|チベット]]・[[ウイグル]]5族の言語を対照させた『御製[[五体清文鑑]]』などの辞書類、『[[仏典|大蔵経]]』、漢文古典その他大量の翻訳文献などがある<ref name="go226" />{{refnest|group="注釈"|『満文老檔』は、[[内藤湖南]]が[[1905年]]に[[瀋陽故宮|奉天故宮]]の崇謨閣で発見し学界に紹介した清初史の貴重な記録であり、文献の題名も内藤の命名による<ref name="routou" />。}}。また、文語資料にはあたらないが17世紀の[[越前国]]の船乗りが漂流した際の記録、『[[韃靼漂流記]](異国物語)』には当時の満洲語が[[仮名 (文字)|仮名文字]]で収録されている<ref name="go226" />。

満洲文字に先立つ[[女真文字]]については、[[金石文]]の発見や[[辞典|辞書]]『華夷訳語』に収録された「女真館訳語」における対訳単語集・文例集によって文字体系が、ほぼ解明されつつある<ref name="umemura464">[[#梅村|梅村(2008)pp.464-465]]</ref>。{{仮リンク|完顔希尹|zh|完顏希尹}}や完顔葉魯(耶魯)らによって[[1119年]]に創成された女真大字は表意文字、[[1138年]]に金の第3代皇帝[[熙宗 (金)|熙宗]]が制定し、[[1145年]]に公布したと記される女真小字は表音文字であった<ref name="umemura465">[[#梅村|梅村(2008)pp.465-469]]</ref>。大字のみで表記、小字のみで表記、[[語幹]]としての表意文字に[[接尾辞|接尾]]の表音文字をともなう書き方という三様の表記法があった<ref name="umemura465" />。[[女真語]]は満洲語に近い言語だとみられる<ref name="go226" />。両者は姉妹語関係にあったというよりは、むしろ[[方言]]的関係にあって、女真語は広義の満洲語のなかに没していったものと考えられる<ref name="umemura464" />。

[[満洲文字]]は、明末の女真人が自民族の言語をモンゴル語に訳し、[[モンゴル文字]]で記録していた不便さを解消しようとして、太祖ヌルハチが[[1601年]]につくらせた[[音素文字]]である<ref name="script">{{kotobank|満州文字}}</ref>。左から縦書きで右に改行する<ref name="ishibashi38" />。当初はモンゴル文字の[[音読み|字音]]を借りて書写する無圏点文字であったが、[[1632年]]、太宗ホンタイジが、ギオルチャ氏の満洲旗人のダハイ(達海)に命じて同字異音を区別する点(、)や円(。)を加えた有圏点文字に改良させた<ref name="ishibashi38" /><ref name="script" /><ref>[[#文字|ブリタニカ小項目事典6「満州文字」(1974)p.226]]</ref>{{refnest|group="注釈"|無圏点文字と有圏点文字は明瞭に区別され、満洲文[[史料]]の年代を検討する際の重要な指標のひとつとなっている<ref name="ishibashi38" />。}}。清朝では満洲文字を「国字」と呼び、[[公文書]]の記録などに利用した<ref name="script" />。[[新疆ウイグル自治区]]に在住するシベ族は、満洲文字を改良したシベ文字を使用している<ref name="ishibashi38" />。

=== 宗教 ===
[[ファイル:MYK-1-三仙女浴布勒瑚里泊.png|170px|right|thumb|水浴びをする三仙女(『満洲実録』)]]
満洲族の宗教は、婚姻儀礼や葬送儀礼などにおいて民族独自の[[シャーマニズム]]や[[祖先崇拝]]の要素が含まれていた<ref name="kotobank" />。自然崇拝においては、火神・星神および神山・神石を尊崇し、とりわけ星神に対する信仰は最も普遍的なものであった<ref name="riryu181">[[#李劉2|李鴻彬・劉小萌(1996)pp.181-182]]</ref>。『吉林通志』にも「祭祀典礼は、満洲の最も重んずるは、一に祭星、二に祭祖」とある<ref name="riryu181" />。星神とは、具体的には[[北斗七星]]であり、満洲語では「ナダン(七つ)ウシハ(星)」と称する<ref name="riryu181" />。記録によれば、満洲族の祭星は、多くは月が沈む後に行う背灯祭で、そこでは灯火がかき消され静寂のなかで執り行われ、通常は[[占い|占卜]]や祟り祓い、病祓いなどの巫術と結びついた除災の祭りである<ref name="riryu181" />。満洲族に近い、同じツングース系のホジェン族(赫哲族、ロシアでは「[[ナナイ]]」と称する)もまた、七星を除災の神とみなし、「吉星神」と呼称する<ref name="riryu181" />。満洲族の七星神は、のちに祭礼が固定的なものに整備されていき、それにともない人格神化していった<ref name="riryu181" />。

[[ファイル:沈阳故宫.JPG|170px|right|thumb|[[瀋陽故宮]](旧、奉天行宮)の神杆(神鳥の止まり木)]]
満洲族は鳥・鵲([[カササギ]])・[[イヌ]]を崇拝した<ref name="riryu182">[[#李劉2|李鴻彬・劉小萌(1996)pp.182-184]]</ref>。鳥・鵲の崇拝は満洲族のシャーマニズム信仰の古層をなしており、[[白頭山|長白山]]で水浴びをしていた[[天女]](三仙女の末娘)フォクレン(仏庫倫)が神鵲がくわえてきた朱果を食して感精し、満洲の始祖{{仮リンク|ブクリヨンション|zh|布庫里雍順}}(布庫里雍順、愛新覚羅氏)を産んだという[[伝説]]がのこる<ref name="riryu182" />。『満洲実録』でも鳥や鵲に関するいくつかの伝承が記述されており、同著の満文本では満洲人の後裔はカササギを祖としたことを伝えている<ref name="riryu182" />。また、ヘトゥアラに抑留されていた朝鮮人[[李民煥]]の著述した『建州聞見録』では、建州女真がイヌを自分たちの祖先と見なしていて、イヌを殺したり食べたり、イヌ皮を使用することを決して許さないという[[風俗|習俗]]をもっていたことにふれている<ref name="riryu182" />。こうした習俗は、清朝を通じて変わらなかった<ref name="riryu182" />。

満洲族は元来、自身を地上に降臨した天上界に住む神々の子孫であると信じ、自身の[[氏神]]を中心として団結した<ref name="mitamura197" />。[[トラ|虎]]神、人面[[ヒョウ|豹]]身の神、大鳥神(人面怪鳥の神)、突忽到瑪法([[海獣]]の形象から変化した神)、[[シカ|鹿]]神などは、満洲の各氏族における保護神や[[祖神]]などとして崇められた<ref name="riryu182" />。彼らは森林地帯での狩猟や採集に際して、しばしば各種の猛獣の襲撃に直面し、予期せぬ災禍や不幸に見舞われ、あるいは[[漁撈]]に際しても数々の危険や事故に遭遇し、自分たちの無力さを悟ることも多かったと考えられる<ref name="riryu182" />。そこで鳥獣を神格化して祭祀し、その勇気や能力を借りて災厄を逃れようと願ったところから動物崇拝が始まったのだろうと推測される<ref name="riryu182" />。ここにおいてシャーマンが[[憑依]]して、たとえば、虎の各種の動作を真似て病人に災いをなす妖魔を威嚇することにより、[[病気]]が治癒されるものと信じられた<ref name="riryu182" />。鹿神は、ウジャラ(烏扎拉)氏が鹿の角を採取する際に祭った神であったが、ここではシャーマンが帽子の上に一対の鹿の角を挿し、鹿神に憑依するものとされた<ref name="riryu182" />。

女真族(満洲族)は、[[仏教]]、とりわけモンゴル族の影響で[[チベット仏教]]になじんでいき、漢民族との交流を通じて彼らの[[民間信仰]]、とくに[[道教]]からの影響も受けていった<ref name="kotobank" /><ref name="riryu184">[[#李劉2|李鴻彬・劉小萌(1996)pp.184-185]]</ref>。1616年の後金建国の際、ヌルハチはヘトゥアラ城東の山上に[[仏教寺院]]、玉皇廟、十王殿などを建設して、これを「七大廟」と称した<ref name="riryu184" />。[[関帝]]([[関羽]])、仏祖([[釈迦]])、[[観音菩薩|観世音菩薩]]はしだいにシャーマニズムの[[神祇]]の列に加えられ、清朝宮廷や一般満洲族から尊崇されるようになり、満洲古来の神々よりも篤い崇拝を受けた<ref name="riryu184" />。

[[1626年]]、ホンタイジが即位した直後の儀礼では、最後に支配領域における弓の達人らに弓を射させる「射柳の儀式」が執行されたが、これは金時代の女真がシャーマニズムの拝天の祭儀に付属して行った儀式を継承したものであった<ref name="ishibashi31">[[#石橋|石橋(2000)pp.31-40]]</ref>。北京の[[紫禁城]]内廷の坤寧宮、[[奉天市|盛京]](現、[[瀋陽市|瀋陽]])の[[瀋陽故宮|奉天行宮]]の清寧宮は、ともに、中国皇帝を兼ねる満洲族のハーンが、シャーマンの祭祀を行った祭神殿として独特の設計が施されており、その入り口の南には神杆(しんかん)、すなわち神鳥の止まり木が建てられていた<ref name="ishibashi31" />。坤寧宮では[[元日|元旦]]行礼などの特別な祭祀のほか、常祭である朝・夕の祭りが毎日行われ、ブタが生贄として供えられた<ref name="ishibashi31" />。また、神々の前で「薩満太々(サマンタイタイ)」と称される[[巫女]]が満洲語の神歌を唱え、跳ね回ったという<ref name="ishibashi31" />。シャーマニズムの伝統は、満洲族が中国内地の支配的地位に立ってからも温存されたのであった。

=== 神話・伝承 ===
『満文老檔』[[天命 (後金)|天命]]6年([[1621年]])条や満文『内国史院檔』天聰8年([[1634年]])条には、当時の女真族(満洲族)が[[日食]]や[[月食]]という[[天文現象]]を「天界の犬が[[太陽]]・[[月]]を食べること」であると考えていたことを示唆する記述が収載されており、こうした伝承は他のツングース系の諸民族や[[朝鮮民族]]、[[チュルク系民族]]、また、[[古シベリア諸語|パレオアジア語系]]とみられる[[ニヴフ]](ギリヤーク)にもみられる<ref name="masui">{{Cite web|url=
https://ritsumei.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=6197&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1|title= <太陽を食べる犬>その他三則:ジュシェン人とその近縁諸族の歴史・文化点描|author=[[増井寛也]]|date=2011-07|accessdate=2022-7-15|website=立命館東洋史學 第34|publisher=立命館東洋史學會}}</ref>。

また、『満洲実録』や『満文老檔』には、天命元年(1616年)、ヌルハチがダルハン・ヒヤとションコロ・バトゥルに命じてサハリヤン部を討伐させたとき、[[アムール川]](黒竜江)の渡河に際して、往還ともに時ならぬ奇跡的な[[結氷]]に助けられて討伐を成功させたことが史実として記されている<ref name="masui" />。これに似た[[説話]]として、イチェ・マンジュ(伊徹満洲 ice manju/ 新満洲)人の伝承として、1.背後に敵軍が迫り、2.行く手を大河が遮り滅亡の危機を迎えるが、3.大河に魚の浮き橋ができて難を逃れ、4.滅亡を免れる(新天地へ移住する)という4つの[[モチーフ (物語)|モチーフ]]をともなう説話も伝わっている<ref name="masui" />。この4モチーフは、夫余・高句麗の開国説話([[東明王]]・[[東明聖王|朱蒙]]伝説)にも共通し、[[オロチョン族]]や[[ナナイ|ナナイ族]]などツングース系民族の説話にもみられる<ref name="masui" />{{refnest|group="注釈"|浮き橋のモチーフは、説話によっては、魚ではなく[[カメ]]によってつくられる場合もある<ref name="masui" />。}}。

=== 歌舞と武術 ===
[[ファイル:Hyouki-zu.jpg|350px|right|thumb|金昆・程志道・福隆安「氷嬉図」(『清代宮廷生活』より
----
厳寒期の北京でスケートをしながら矢を射る技を披露する八旗軍人
]]
満洲族は、[[舞|歌舞]]に長けた民族として知られており、そこには鮮やかな民族的個性と独特の品格がみられる<ref name="riryu185">[[#李劉2|李鴻彬・劉小萌(1996)pp.185-187]]</ref>。満洲族のなかで最もさかんに行われたのは、莽勢舞(莽式舞)と称する歌舞で、別名を「空斉」といった<ref name="riryu185" />。莽勢舞は、集団のなかの1人が歌い、他の衆は「空斉」を以てこれに和し、正月や祝祭日に男女が相対して舞うというものであった<ref name="riryu185" />。この舞には「九折十八式」と称される、漁撈・狩猟・騎射などの生活を反映した9つの舞のかたち、身体部位を用いた18の所作があったと伝わっている<ref name="riryu185" />。清朝の北京入城後は宮廷に取り入れられて大規模化し、[[慶隆舞]]へと発展した<ref name="riryu185" />。慶隆舞は、揚列舞(武舞)と喜起舞(文舞)の二部で構成された<ref name="riryu185" />。

習武に関しては、満洲族は古来[[騎兵|騎馬]]・射猟を得意とし、清朝建国後はこれを満洲の根本とみなして狩猟や軍事に活用するのみならず、[[競技]]化した<ref name="riryu187">[[#李劉2|李鴻彬・劉小萌(1996)pp.187-191]]</ref>。ヌルハチは、その趣味が弓の試合であり、すぐれた射手と技を競って負けなかったという弓の名手であったし、ホンタイジも飛翔する一羽の鳥をただの一矢で射落とすほどの腕前であった<ref name="riryu187" />。競技種目としては歩射と騎射があり、[[弓術]]は、近代に至るまで満洲民族の伝統として受け継がれた<ref name="riryu187" />。

[[スケート]]も満洲族が得意とする[[スポーツ]]で、これまた初期の生業や軍事活動と結びついていた<ref name="riryu187" />。冬季における酷寒の東北部では[[川|河川]]や[[湖沼]]が凍結して天然の[[スケートリンク]]となった<ref name="riryu187" />。スケートはスポーツであると同時に軍事訓練でもあり、乾隆帝はこれを「国俗」と称した<ref name="riryu187" />。氷上で行われた競技としては他に、王などのリーダーが侍衛を率いて鞠([[ボール]])を蹴りながら氷上を走り、次いで諸貴族・官員の妻女たちが氷上で競争し、先に終点に着いたものを勝ちとする「踢行頭」などがあった<ref name="riryu187" />。

満洲人たちはまた、[[相撲]](角觝)をことのほか愛好し、それは満洲語で「布庫(プク)」と称された<ref name="riryu187" />。すでに入関前の[[宮殿|宮廷]]で弓試合や[[宴会]]の際に、相撲の実演が催されている<ref name="riryu187" />。ホンタイジの時代にモンゴルとの関係が深まると、[[朝貢]]に訪れたモンゴル族の[[力士]]たちはしばしば宮廷内で技を披露し、満洲族の力士と勝負した<ref name="riryu187" />。幼くして帝位に就き、権臣[[オボイ]]の専横に苦しんだ[[康熙帝]]は若年の際、相撲好きと称して旗人より強壮な少年たちを選抜して密かに[[親衛隊]]をつくり、日々これを鍛錬させて、機が熟したときにオボイを逮捕、その腹心たちを一網打尽にして[[親政]]を開始したという[[逸話]]をもっている<ref name="okada213" /><ref name="riryu187" />。

== 函普の伝承 ==
{{Main|函普}}
『[[松漠紀聞]]』『[[満洲源流考]]』などのいくつかの[[中国]][[史料]]には、[[女真]][[完顔氏|完顔部]]の[[先祖]]であり、[[金 (王朝)|金朝]]の始祖である[[函普]]が「[[新羅|新羅人]]」あるいは「[[高麗]]より来た」と記録するものがある。[[大韓民国|韓国]]や[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]では、これを根拠として、満洲民族の[[先祖|ルーツ]]は[[朝鮮民族]]であるとする主張がなされている<ref>{{Cite news|url=http://japanese.donga.com/List/3/all/27/292170/1|title=韓・日・モンゴルの共通のルーツは「ジュシン族」|newspaper=[[東亜日報]]|publisher=|date=2006-03-14|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161130075135/http://japanese.donga.com/List/3/all/27/292170/1|archivedate=2016-11-30}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/01/23/2016012300446.html|title=【寄稿】「水」で見る北京・東京・ソウルの歴史(1)|newspaper=[[朝鮮日報]]|publisher=|date=2016-01-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160126045005/http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/01/23/2016012300446.html|archivedate=2016-01-26}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/01/23/2016012300446_2.html|title=【寄稿】「水」で見る北京・東京・ソウルの歴史(2)|newspaper=朝鮮日報|publisher=|date=2016-01-24|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160126045010/http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/01/23/2016012300446_2.html|archivedate=2016-01-26}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=79900|title=「金、清、韓国史に編入を」…東北工程対応策提案|newspaper=[[中央日報]]|publisher=|date=2006-09-15|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131005155738/http://japanese.joins.com/article/900/79900.html?sectcode=&servcode=|archivedate=2013-10-05 }}</ref><ref>{{Cite news |author= |url=http://www.kbs.co.kr/1tv/sisa/historyspecial/view/vod/1605745_30885.html |title=특별기획 만주대탐사 2부작 2부 금나라를 세운 아골타, 신라의 후예였다! |newspaper=[[韓国放送公社]]|publisher=|date=2009-09-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20091109220105/http://www.kbs.co.kr/1tv/sisa/historyspecial/view/vod/1605745_30885.html|archivedate=2009-11-09}}</ref>。なかには「[[愛新覚羅氏|愛新覚羅]](アイシン=「[[金 (王朝)|金]]」のギョロ族)」の族名を「新羅を愛し、覚える(思う)」と解釈する見解さえある。しかし、周辺諸国ではその解釈には問題があるという意見が多い。中国では「高麗から来た」としても「高麗人」とは限らず、靺鞨人もしくは女真人であるとする見解が多く、日本では、函普が実在の人物とみなすには根拠が薄弱で、始祖伝説に登場する架空の人物とみなす専門家が多い。

== 遺伝的特徴 ==
満洲民族の[[Y染色体ハプログループ]]は多数の系統が存在する。最も多いのは[[漢民族]]などに多い[[ハプログループO-M122 (Y染色体)|O2系統]]であり、37パーセントみられる<ref name = Xue>Xue Y, Zerjal T, Bao W, et al. [https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1456369/ Male demography in East Asia: a north-south contrast in human population expansion times.] Genetics. 2006;172(4):2431-2439. doi:10.1534/genetics.105.054270</ref>。次いで多いのは[[ハプログループC-M217 (Y染色体)|C2系統]]であり、[[アルタイ諸語]]を話す民族に関連するタイプである。[[満洲語]]はアルタイ諸語の[[ツングース語族]]に属すが、C2系統は25.7パーセント<ref name = Xue/>と特段多いとは言えない。3番目に多いのは[[ウラル語族]]に関連する[[ハプログループN-M231 (Y染色体)|N系統]]であり、14.3パーセントみられる<ref name = Xue/>。N系統は[[遼河文明]]の担い手であり<ref>Yinqiu Cui, Hongjie Li, Chao Ning, Ye Zhang, Lu Chen, Xin Zhao, Erika Hagelberg and Hui Zhou (2013)"Y Chromosome analysis of prehistoric human populations in the West Liao River Valley, Northeast China. " BMC 13:216</ref>、かつては満洲地域に高頻度に観察されたようであるが、現在は後から進出したO2系統やC2系統に上書きされたかたちとなっている。また[[日本人]]に高頻度の[[ハプログループO1b2 (Y染色体)|O1b2]]系統も15パーセント前後観察され<ref name = Xue/>、東アジア諸民族の中では比較的日本人とも共通性は高いと言える。

[[ハプログループO1b (Y染色体)|O1b]]系統からは[[華南]]や[[東南アジア]]に多い[[ハプログループO-M95 (Y染色体)|O1b1]]も低頻度みられる(O1b1は[[オーストロアジア語族]]に<ref>[[#崎谷|崎谷満(2010)]]</ref>、O1b2は[[弥生人]]に関連すると想定される)。その他西ユーラシア起源の [[ハプログループR1a (Y染色体)|R1a]] や [[ハプログループJ (Y染色体)|J]] も、わずかながらみられる<ref name="Hammer2006">Hammer, M.F., Karafet, T.M., Park, H. et al. [https://www.nature.com/articles/jhg20068 Dual origins of the Japanese: common ground for hunter-gatherer and farmer Y chromosomes.] J Hum Genet 51, 47-58 (2006). https://doi.org/10.1007/s10038-005-0322-0</ref>。

また、[[HLA]]ハプロタイプは、日本の[[日本海]]沿岸に特徴的なB44-DR13、B7-DR1がよく見られる<ref>[[#徳永1|徳永(1995)pp.204-208]]</ref><ref>[[#徳永2|徳永(2008)pp.264-280]]</ref><ref>徳永勝士 (1996)「HLA の人類遺伝学」『日本臨床免疫学会会誌』=『Japanese journal of clinical immunology』19(6), pp.541-543</ref><ref>徳永勝士 (2003)「HLA と人類の移動」『Science of humanity Bensei』(42), pp.4-9, 東京:勉誠出版</ref>。

== 満族出身の著名人 ==
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* [[愛新覚羅溥儀]]
* [[愛新覚羅溥傑]]
* [[愛新覚羅慧生]]
* [[愛新覚羅顕琦]]
* [[婉容]] ‐ ゴブロ氏([[郭布羅氏]])出身。
* [[ヘシェン]] ‐ 清朝の政治家。ニョフル氏(鈕祜禄氏)出身
* [[西太后]] - [[同治帝]]の母。イェヘナラ氏([[葉赫那拉氏]])出身
* [[崇厚]] - 清朝の官僚。ワンギャ氏([[完顔氏]])出身
* [[川島芳子]](顯㺭) -アイシンギョロ氏(愛新覚羅氏)出身
* [[老舎]] - 中国の作家、「人民芸術家」とも称される。
* [[常書鴻]] - 画家。イルゲンギョロ氏(伊爾根覚羅氏)出身
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* [[英若誠]] - ヘシェリ氏({{仮リンク|赫舎里氏|zh|赫舍里氏}})出身。中国の俳優。映画『[[ラストエンペラー]]』で収容所所長を演じ、音訳でイン・ルオ・チェンとも表記される。
* [[英達]] - 英若誠の子息。中国の俳優・演出家
* [[郎雄]] - 俳優
* [[郎朗]] - 中国のピアニスト
* [[那英]] - 中国の歌手
* [[佟健]] - 中国のフィギュアスケート選手
* [[關之琳|關之琳(ロザムンド・クワン)]] - グワルギャ氏({{仮リンク|瓜爾佳氏|zh|瓜尔佳氏}})出身。[[イギリス領香港]]→中国・香港の女優。
* [[金大偉]] - ミュージシャン、作曲家、映像作家、演出家、[[インスタレーション]]作家、画家。[[日本人|日]][[中国人|中]]混血。映画『ロスト マンチュリア サマン』({{ManchuSibeUnicode|ᠠᡴᡡ<br>ᠣᡥᠣ<br>ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠ<br>ᠰᠠᠮᠠᠨ}}, ak・ oho manju saman)の監督
* {{仮リンク|南仁東|zh|南仁东}} - 中国の科学者。[[500メートル球面電波望遠鏡]]の開発者<ref>{{cite web|url=http://www.most.gov.cn/tztg/201705/W020170516443986711308.doc|title =全国创新争先奖章拟表彰名单|publisher= [[中華人民共和国科学技術部]]|accessdate=2018-03-18}}</ref>。
* [[呉京 (俳優)|呉京]] - 中国の俳優
*[[李文亮]] - 中国の医師
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈|2}}
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=== 出典 ===
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=[[愛新覚羅顕琦]]・[[江守五夫]]|year=1996|month=4|title=満族の家族と社会|publisher=[[第一書房]]|isbn=4-8042-0105-X}}
** {{Cite book|和書|author=烏丙安|translator=韓敏|year=1996|chapter=第1部第1章 満族発祥の揺籃の地|title=満族の家族と社会|publisher=第一書房|ref=烏}}
** {{Cite book|和書|author=李鴻彬・劉小萌|translator=柳沢明|year=1996|chapter=第2部第1章 女真(満族)のハラとムクン|title=満族の家族と社会|publisher=第一書房|ref=李劉1}}
** {{Cite book|和書|author=李鴻彬・劉小萌|translator=柳沢明|year=1996|chapter=第2部第2章 満族の社会習俗|title=満族の家族と社会|publisher=第一書房|ref=李劉2}}
* {{Cite book|和書|author=石橋崇雄|authorlink=石橋崇雄|year=2000|month=1|title=大清帝国|publisher=[[講談社]]|series=講談社選書メチエ|isbn=4-06-258174-4|ref=石橋}}
* {{Cite book|和書|translator=今西春秋|year=1992|month=3|title=満和蒙和対訳満洲実録|publisher=[[刀水書房]]|isbn=978-4887081321|ref=満洲実録}}
* {{Cite book|和書|author=梅村坦|authorlink=梅村坦|year=2008|month=6|chapter=第2部 中央ユーラシアのエネルギー|title=世界の歴史7 宋と中央ユーラシア|publisher=[[中央公論新社]]|series=中公文庫|isbn=978-4-12-204997-0|ref=梅村}}
* {{Cite book|和書|editor=[[岡田英弘]]|year=2009|month=5|title=清朝とは何か|publisher=[[藤原書店]]|series=別冊環16|isbn=978-4894346826|ref=岡田編}}
* {{Cite book|和書|author1=岡田英弘|author2=神田信夫|author3=松村潤|year=2006|month=5|title=紫禁城の栄光|publisher=講談社|series=[[講談社学術文庫]]|isbn=4-06-159784-1}}
** {{Cite book|和書|author=松村潤|authorlink=松村潤|year=2006|chapter=第7章 大元伝国の璽|title=紫禁城の栄光|publisher=講談社|ref=松村}}
** {{Cite book|和書|author=神田信夫|authorlink=神田信夫|chapter=第9章 国性爺合戦|year=2006|title=紫禁城の栄光|publisher=講談社|ref=神田2}}
** {{Cite book|和書|author=岡田英弘|year=2006|chapter=第10章 康熙大帝|title=紫禁城の栄光|publisher=講談社|ref=岡田}}
* {{Cite book|和書|author1=岸本美緒|authorlink1=岸本美緒|author2=宮嶋博史|authorlink2=宮嶋博史|year=2008|month=9|title=世界の歴史12 明清と李朝の時代|publisher=[[中央公論新社]]|series=中公文庫|isbn=978-4-12-205054-9}}
** {{Cite book|和書|author1=岸本美緒|author2=宮嶋博史|year=2008|chapter=5章 華夷変態|title=世界の歴史12 明清と李朝の時代|publisher=中央公論新社|ref=岸本宮嶋}}
** {{Cite book|和書|author=岸本美緒|year=2008|chapter=7章 清朝の平和|title=世界の歴史12 明清と李朝の時代|publisher=中央公論新社|ref=岸本1}}
* {{Cite book|和書|author=崎谷満|authorlink=崎谷満|year=2010|month=2|title=DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史―日本人集団・日本語の成立史|publisher=[[勉誠出版]]|isbn=978-4585053941|ref=崎谷}}
* {{Cite book|和書|editor=フランク・B・ギブニー|year=1974|month=11|title=ブリタニカ国際大百科事典:小項目事典6 ホエ-ワン|publisher=[[ティビーエス・ブリタニカ]]}}
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* {{Cite book|和書|author=鈴木貞美|authorlink=鈴木貞美|year=2021|month=2|title=満洲国 交錯するナショナリズム|publisher=[[平凡社]]|series=平凡社新書|isbn=978-4-582-85967-6|ref=鈴木}}
* {{Cite book|和書|author=徳永勝士|authorlink=徳永勝士|editor=[[百々幸雄]]|year=1995|month=7|chapter=第4章 遺伝子からみた日本人|title=モンゴロイドの地球(3) 日本人のなりたち|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=4-13-054107-2|ref=徳永1}}
* {{Cite book|和書|author=徳永勝士|editor=「逆転の日本史」編集部|year=2008|month=10|chapter=HLA遺伝子:弥生人には別ルートをたどってやってきた四つのグループがあった!|title=日本人のルーツがわかる本|publisher=[[宝島社]]|series=宝島社文庫|isbn=978-4796666862|ref=徳永2}}
* {{Cite book|和書|author=ヘンドリック・ハメル|authorlink=ヘンドリック・ハメル|translator=[[生田滋]]|year=1969|month=1|title=朝鮮幽囚記|publisher=[[平凡社]]|series=東洋文庫|isbn=978-4582801323|ref=ハメル}}
* {{Cite book|和書|author=松浦茂|authorlink=松浦茂|year=2006|month=2|title=清朝のアムール政策と少数民族|publisher=[[京都大学]]学術出版会|series=東洋史研究叢刊|isbn=978-4876985272|ref=松浦}}
* {{Cite book|和書|editor=三上次男・神田信夫|year=1989|month=9|title=東北アジアの民族と歴史|series=民族の世界史3|publisher=山川出版社|isbn=4-634-44030-X}}
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** {{Cite book|和書|author=河内良弘|authorlink=河内良弘|chapter=第2部第I章2 契丹・女真|editor=三上・神田|year=1989|title=東北アジアの民族と歴史|series=民族の世界史3|publisher=山川出版社|ref=河内}}
** {{Cite book|和書|author=神田信夫|chapter=第2部第I章3 満洲・漢|editor=三上・神田|year=1989|title=東北アジアの民族と歴史|series=民族の世界史3|publisher=山川出版社|ref=神田}}
** {{Cite book|和書|author=加藤九祚|authorlink=加藤九祚|chapter=第2部第III章 ロシア人の進出とシベリア原住民|editor=三上・神田|year=1989|title=東北アジアの民族と歴史|series=民族の世界史3|publisher=山川出版社|ref=加藤3}}
* {{Cite book|和書|author=三田村泰助|authorlink=三田村泰助|editor=[[田村実造]]|year=1975|month=3|chapter=満州からきた王朝|title=世界の歴史9 最後の東洋的社会|series=中公文庫|publisher=[[中央公論社]]|ref=三田村}}
* {{Cite book|和書|author=三田村泰助|year=1991|month=5|title=生活の世界歴史2 黄土を拓いた人びと|series=河出文庫|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=4-309-47212-5|ref=三田村2}}


== 関連項目 ==
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* [[満洲]](地名)
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* [[チャイナドレス]] - 満洲民族の服が元になっている。
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* [[シベ]]ボ語)
* [[シベ]] - [[ベ族]] – [[シベ文字]]
* [[韃靼疾風録]] - 明から清への興亡を、[[平戸藩]]出身の桂庄助の目を通し描いた小説
* [[シベ族]](シボ族)
* [[韃靼疾風録]] - 明から清への興亡を、[[平戸藩]]出身の桂庄助の目を通し描く


== 外部リンク ==
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* {{Kotobank|満洲族}}
* [http://www.recordchina.co.jp/group/g432.html 満州族(写真と概要)]{{リンク切れ|date=2022-3}}(日本語) - [http://www.recordchina.co.jp Record China]
* [http://www.searchnavi.com/~hp/chosenzoku/manzu/01.htm 満州族](朝鮮族ネット・日本語)
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2022年10月14日 (金) 23:21時点における版

満洲民族
ᠮᠠᠨᠵᡠ
ᡠᡴ᠋ᠰᡠᡵᠠ

ヌルハチホンタイジ康熙帝雍正帝
乾隆帝西太后光緒帝溥儀(愛新覚羅氏)
ドルゴンオボイヘシェン溥傑(愛新覚羅氏)
老舍川島芳子ロザムンド・クワン郎朗
総人口
10,700,000
全人類の0.15%
(見積)
居住地域
中華人民共和国の旗 中国10,682,263[1]
香港の旗 香港288[2]
中華民国の旗台湾12,000[3]
アメリカ合衆国の旗 アメリカ379[4]
関連する民族
シベ族モンゴル族漢民族ダグール族など

満洲民族(まんしゅうみんぞく、マンジュみんぞく)、満洲族(まんしゅうぞく、マンジュぞく、満洲語: ᠮᠠᠨᠵᡠ
ᡠᡴ᠋ᠰᡠᡵᠠ
, manju uksura)、満族(まんぞく、マンぞく)は、中国東北部ロシア沿海地方(旧満洲)などに発祥し、現在は中国各地に散在している民族。同じく中国東北部に興り、かつて金を建国した女真を祖先とする。17世紀に現在の中華人民共和国およびモンゴル国の全土を支配するを興した[5]清朝では、民族全体が八旗(ᠵᠠᡴᡡᠨ ᡤᡡᠰᠠ, jakūn gūsa=八つの旗)に組織され(=満洲八旗)、蒙古八旗漢軍八旗と呼ばれる主にモンゴル人や漢人によって構成された軍事集団八旗のメンバーとともに旗人とも呼ばれた。同系の民族にシベウデヘナナイウリチなどがある。中華人民共和国による民族識別工作では、蒙古八旗漢軍八旗も含む「旗人の末裔」全体が「満族」に「識別」(=区分)され、「55の少数民族」の一つとされた。2010年の中国の国勢調査では人口1,038万人とされ、「少数民族」としてはチワン族回族に次ぐ人口である[6][注釈 1]

概要

福州市の満洲民族(1915年)

「満洲」の漢字は満洲語の民族名ᠮᠠᠨᠵᡠ、manju(マンジュ)の当て字で、元来は「満洲」であるが、現在の日本では一般に常用漢字をもって「満州」と表記することが多い[5]

満洲民族の興った地域は、英語で満洲民族の土地という意味でマンチュリア(Manchuria)と呼ばれ、日本語ではこれに対応して満洲(満州)と呼ばれる。特に民族のことを指す場合は、満洲民族満洲族満洲人満人などと表記する。映画『ラストエンペラー』で知られる清朝最後の皇帝である溥儀や、戯曲『茶館』などの作品で有名な作家老舎も満洲人の出身である[6]11世紀、満洲族の直接の祖先の一つと考えられる女真が文献上現れ、12世紀には金王朝を開いた[5]

民族名である 満洲/マンジュ の起源については諸説あり、今のところ不明である。しばしば、サンスクリット語のマンジュシュリー(文殊師利、文殊菩薩のこと)に由来するともいわれるが[7]、元来は16世紀までに女真の名の下に括られていた人々のうち、建州女直(建州女真、「女直」は明側の呼称である)に属する5つの部族(スクスフ、フネヘ、ワンギャ、ドンゴ、ジェチェン)を一括する呼称であった[8]。日本の東洋史学者である岡田英弘は清朝時代のダライ・ラマが「マンジュと言われるからには、清朝皇帝は文殊菩薩の化身である」と宣伝したものを第6代皇帝の乾隆帝が政治的に利用したところから、文殊菩薩が民族名の由来となったという俗説が生まれたのではないかとしている[9]

現在の中華人民共和国のもとでは、モンゴル人・漢人の末裔の一部(旧「蒙古八旗」, 旧「漢軍八旗」の末裔ら)と合わせて「満族」(满族, Măn zú)としてひとくくりにされ、中華人民共和国の55の少数民族の一つと位置付けられている。1911年辛亥革命による清朝崩壊後は排斥を受けた過去を持ち、1949年に中華人民共和国が成立した後には他の少数民族と同じく区域自治権が与えられ、合計11の自治県がある(一覧は後述)。

分布

永陵の四祖碑亭
永陵の龍壁

満洲族は、かつて中国を支配した旗人の末裔であり、中国全土に散在する[5]。過半数は、遼寧省に居住しており[6]河北省吉林省黒竜江省内モンゴル自治区新疆ウイグル自治区甘粛省山東省にも分布し、北京天津成都西安広州銀川などの大都市やその他中小都市にも居住する。清朝前期の公文書や民間史料は満洲語だけで記されているが、人びとの満洲語に対する意識は薄れており、満洲語は危機に瀕している[6]。「朝日新聞」の報道によれば2013年現在、中国国内で満洲語を解し、古文献も読めるレベルの学者は決して多くないというという[6]

清朝発祥の地といわれているのが、遼寧省の撫順市新賓満族自治県である[6]。しかし、そこにあっても満洲民族の小学校は1校しかなく、満洲族固有の姓を用いる児童もいない[6]。一方で、ヌルハチが城や寺を築いて最初の根拠地としたヘトゥアラᡥᡝᡨᡠ᠋
ᠠᠯᠠ
, hetu ala、赫圖阿拉)[注釈 2]、すなわち、同自治県の西方、永陵鎮老城村はヌルハチ即位の地であり、ヌルハチの祖先の陵墓である永陵があり、太陰暦4月18日に各地の満洲族が集まる祭礼の地となっている[11][注釈 3]

満洲民族の人口は清朝の時代には200万人ほどとされていたが、清朝滅亡後は迫害を恐れたため、続いて行われた中華民国初期の国勢調査で自らを満洲族としたのは約50万人にすぎなかったという。しかし、少数民族の権利が謳われるようになると、その人口は一気に500万人に増えたといわれている。

主要分布域

満洲族の自治県
シベ族の自治県

自治県・民族鎮・民族郷

歴史

古代の記録

中国東北地方の諸民族については代より記録があり、それによれば、そのころ「粛慎(しゅくしん)」と称される狩猟民が毛皮や青石製の石鏃、あるいは楛矢(こし)といった物産を中原の諸王朝に献上していた[5][13](はく)という民族もあったが[13]戦国時代から代にかけての漢民族の進出と楽浪郡前108年設置)以下4郡の設置という動きのなかで、貊のなかから夫余(ふよ)が起こり[13]、紀元前後以降は、夫余、挹婁(ゆうろう)、勿吉(もっきつ)、靺鞨(まっかつ)といった諸民族が興亡した[5][13]

高句麗を建国したのも韓族ではなく、貊族であった。7世紀末葉、粟末靺鞨に高句麗の遺民を加え、南満洲から現在の朝鮮半島北部にかけての地に、「海東の盛国」と称された渤海が建国された[5][13]。これらのうち、貊、夫余、靺鞨はツングース系の民族と考えられている[5][注釈 4]

金王朝と女真族

1142年における女真族王朝「金」と周辺諸王朝
南宋)は漢民族王朝、西夏はチベット系タングートの王朝、大理はチベット系ペー族の王朝

渤海国は10世紀に滅亡するが、11世紀には満洲族の直接の祖先の一つと考えられる半農半猟の女真(女直)族が現れ、1115年には完顔阿骨打(ワンヤン・アクダ)が王朝を開いた[5][15][注釈 6]。女真は、靺鞨七部のうち、黒水靺鞨と呼ばれた集団だと考えられる[16]。金は、渤海を滅ぼしたモンゴル系契丹族による遊牧民王朝のを滅ぼし、さらに1126年漢民族王朝の徽宗欽宗のニ帝および皇族・重臣らを捕らえて中国北半を支配し、燕京(いまの北京市)に都を移して宋朝を南へと追いやった[5][17]。金は、漢字をもとにして女真文字という独特の文字体系を整備し、政府組織を中央、地方ともに中国風にして支配体制を整えたが、軍事権力を強く握って独占したのは女真族であり、政府首脳もまた女真族によって占められた[5][17]。女真人には行政と軍事を兼ねた猛安・謀克(ミンガン・ムクン)の制度など独自の統治体制がとられて特別の保護を受け、漢化を防いだ[5][17]。東北部(満洲)にあっては大部分が猛安・謀克制によって統治されたが、他民族の住む西部や南部では州県制が採用された[17]

金はしかし、1206年チンギス・カンによって成立したモンゴル帝国の猛攻を受けて劣勢に立ち、都を開封に移したものの1232年にはその開封が包囲された[18]。そして、1234年オゴデイらの進撃により、逃走していた哀宗が自殺して金は滅んだ[5][17][18]。一方、これに先立って、契丹の反乱鎮圧を称して挙兵していた金王朝の将領蒲鮮万奴は、1215年に金より自立して「天王」を名乗り、東夏国(大真国)を建国していた[18]。東夏は、モンゴルに服属したり自立したりを繰り返していたが、この国もまた、1233年、オゴデイの子グユクによって滅ぼされた[17][18]

女真族は、金がモンゴル帝国に滅ぼされてからのちは、モンゴル帝国、大元大明の支配下に置かれた[17][19]。その間、金の時代に創始した女真文字もしだいに失われ、金建国以前の部族集団に後退した[19]。当時の女真族の家族は、主人と奴婢に完全に二分されており、主人は狩猟や採集、交易、戦争などの外仕事、奴婢は農耕やブタの飼養など食糧生産を担当するという分業体制が確立していた[20]。その役割は固定し、世襲されていったが、代々起居や食事をともにし、双方の物産・物資は分け隔てなく均等に分配されたから、両者の結びつきはきわめて緊密であった[20]。東北部に残留した女真(女直)は、元代には遼陽等処行中書省の管轄下に入ったが、その統制はゆるやかなもので、ほぼ完全な自治がゆるされていた[21]。元代から明代にかけての女真人は、遼東半島建州女直松花江流域の海西女直、黒竜江(アムール川)方面の野人女直の三部に大別されて、モンゴル族や漢族の支配下にあった[5][8][17][注釈 7]

女真族から満洲族へ

満洲文字(右)と漢字(左)
紫禁城(北京)乾清門の額

しかしながら、明朝の勢力が揺らぐ16世紀にはその支配を脱し、ふたたび統一の気運が高まった[5]。とりわけシナ本土に近く、文化程度も相対的に高かった建州女真(建州女直)からは、スクスフ部の有力な氏族であったアイシンギョロ(愛新覚羅)氏から英傑ヌルハチが出て勢力を急速に拡大した[5][17]。ヌルハチの支配する領域は、一方では「マンジュ国」(ᠮᠠᠨᠵᡠ
ᡤᡠᡵᡠᠨ
, manju gurun, 満洲国)と称されるようになったが、マンジュ国がさらに海西女真四部(マンジュ政権からは「フルン四部」)、野人女真四部(同じく「東海四部」)を統合していく過程で、「マンジュ」が広く女真全体の総称として用いられるようになった[8]。なお、建州・海西・野人の各女真には、それぞれ内部的に何らかの結合関係があったと考えられがちだが、実際はそうではなかった[8]。建州女真のなかの五部もまた、それぞれ別個に建てられた5つの国のような様相を呈しており、それを越えてのまとまりはなかった[8]。「マンジュ国」は、その意味で複合部族国家であった[8]

金の滅亡後、女真文字は失われ、女真族はモンゴル文や漢文に翻訳して文書をつくるようになっていたが、「マンジュ国」の勢威が拡大し、民族統合を進めるなかで民族的自覚は高まり、その長であるヌルハチは自分たちの文書を外国語に翻訳して記述している状況を不自然だと感じるようになっていた[23]。ヌルハチは、モンゴル族の学者エルデニ・バクシ中国語版に命じて文字をつくらせた[23]1599年のこととされている[23]。すなわち、広大な地域で話されるようになった「マンジュ国」の言語を表記するため、アラム文字をルーツにするモンゴル文字(縦書きのウイグル文字を応用したもの)を改良させて無圏点満洲文字をつくり、当時の女真語(満洲語)を表記することとしたのである[23]。さらに、無圏点文字では区別することのできないha(ᡥᠠ)とga(ᡤᠠ)、de(ᡩ᠋ᡝ᠋)とte (ᡨᡝ᠋)などを識別するため、ヌルハチの子息ホンタイジは、17世紀にダハイ・バクシに有圏点満洲文字をつくらせた[23][注釈 8]

ヌルハチは、1616年に中国東北地方のほぼ全域を領有して女真国家を再び築き、「後金」と号した[5][17]。これは、数百年の空白を隔てて、2度にわたり歴史に名を残す統一国家を樹立して中国内地を支配した、稀有な例であった[19]。後金はヌルハチ没後も発展し、子息ホンタイジは内モンゴルを併合し、李氏朝鮮を属国となして国号を「」に改め、また、民族名も「女真」を民族名として用いることを禁じ、"マンジュ"と改め、それに「満洲」の字を当てた[5][25][注釈 9]

  • ジュシェン(ᠵᡠᡧᡝᠨ, jušen, 女真) 1635年11月22日(天聡9年十月庚寅)まで。
  • マンジュ(ᠮᠠᠨᠵᡠ, manju, 満洲) 1636年崇徳改元)以降。ホンタイジによる改称[注釈 10]

満洲については「洲」の文字が含まれていることから、日本語では「中国東北部」を指す広域地名「満洲」や国境の町「満洲里」など地域名称のイメージが強く、現在でも英語では“Manchuria”のように地域呼称として用いられる。しかし、中国語においてはあくまでも民族名であり、土地の名前ではない。満洲語においても "ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠ, manju" は専ら満洲族を指し、「満洲語 (ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠ
ᡤᡳᠰᡠᠨ
, manju gisun) 」、「満洲文字 (ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠ
ᡥᡝᡵᡤᡝᠨ
, manju hergen)」なども「満洲人の言葉」「満洲人の文字」と解される。

清朝の中国支配

女真族出身のホンタイジは女真の概念を捨て、女真人、蒙古人、遼東漢人等の北方諸族を満洲(人)と統合し、国号を「大清」に改めた。ちなみに、民族の名称を表す“満”と“洲”、そして政権の名称を表す“清”のいずれにも“氵(さんずい)”が付いているのは、五行の火徳に結び付く“明”を“以水克火”するという陰陽五行思想に基づいているとされる[27]。ホンタイジは、1636年、清の国号を称したとき、満、漢、モンゴルの三勢力に推戴され、多民族国家の君主としてハーンであると同時に皇帝でもあるということを、内外に宣言した[28]。多民族王朝となった清のもと、満洲人は、八旗と称する8グループに編成され、王朝を支える支配層を構成する主要民族のひとつとなり、軍人・官僚を輩出した。

雍和宮(北京)昭泰門に掲げられた扁額。左からモンゴル文、チベット文、漢文、満洲文の四体合璧となっている。
チーパオを着た女性

1644年、清は山海関を越えて万里の長城以南に進出し、李自成の乱で滅亡した明にかわって北京に入城、以後、1911年辛亥革命に至るまで中国大陸に君臨した[5]。清帝国は、中国の伝統的な統治機構を踏襲する一方で、満洲族独自の軍事・行政・生産機構である八旗制度を制定し、自らのヘアスタイルである辮髪を漢族にも強要し、東北地方への入植を禁ずるなどの非漢化政策を採用した[5]。明滅亡後は、明の旧領を征服し、八旗を北京に集団移住させて漢人の土地を満洲人が支配する体制を築き上げた[29]。なお、漂着により朝鮮に抑留されていたヘンドリック・ハメルによれば、満洲人支配下の17世紀初期の朝鮮では、朝鮮国王は国内では絶対的権力をもっているものの、後継者を決める際は満洲人のハーンの同意を得なければならず、また、満洲人の勅使ウリャンカイ(野人女真)は、年に3回朝鮮から貢物を徴収し、朝鮮高官は満洲人に怯えきっていたという[30]

歴代の清朝皇帝は、同時に、満洲やモンゴルなど北方民族社会の長としてのハーンでもあった[28][31]。その意味で清朝は、非漢族のハンが中国皇帝でもあるという「夷」と「華」が同居する二重性を有していたが[28]、東洋史学者石橋崇雄は、さらにこれに「旗=満(東北部での満・蒙・漢)」の体系を加えた「三重の帝国」であったとしている[31]。首都北京は中国内地の華北に、副都盛京(現、瀋陽)は中国東北部に、行在所「避暑山荘」は熱河(現、承徳)にそれぞれ位置しており、いずれも清朝のハン(大清皇帝)が政治の実務を執り行った場所という点では共通しているが、実際はこの3か所の性格はまったく異質であった[31]。清朝の皇帝は、北京にいるときは中華世界の天子として君臨していたが、長城外に位置する熱河の離宮(「避暑山荘」)では、内陸アジア世界におけるモンゴル族の首長、ボグド=セチェン=ハンとして行動し、熱河は、モンゴル族やチベット族のみならず、ウイグルの王公、チュルク系民族の首長(ベグ)、李氏朝鮮およびベトナム阮朝)・タイ王国ビルマコンバウン王朝)といった東南アジアにおける朝貢国の使節、さらにイギリスの使節までも朝覲する非漢族世界「藩」の中心であった[31][注釈 11]。一方、瀋陽の奉天行宮(瀋陽故宮)東郭には右翼王および左翼王の執務室と八旗それぞれの建造物をともなう、旗人の部族長会議を反映した十王亭がある[31][注釈 12]

清朝期の建築物は、複数言語で表記される「合璧形式」の額が掲げられることを一大特徴としているが、ここでは満・漢合璧であるだけでなく、満・漢・蒙の合璧、それにチベットを加えた四体合璧、さらにウイグルを加えた五体完璧もある[31]。清朝の記録はまた、『満洲実録』をはじめとする実録類が原則として満文本・漢文本・蒙古文本の三種類によって編纂されており、満・漢・蒙の各語を担当する翻訳官がおり、そのための科挙もあった[31]。これにチベットやウイグルなどの諸語も含めた官撰・私撰の辞書が多く作られたのも清朝文化の特徴となっている[31]。大清帝国は、満・漢・藩の三重構造を基本としており、瀋陽・北京・熱河にあった3政務所はそれを象徴するものというとらえ方ができるのである[31]

中国を扱った映画などにみられる辮髪両把頭、チーパオ(チャイナドレス)は、本来は満洲人の習俗であったものが清代に漢人の社会に持ち込まれたものである[33][注釈 13]。明との戦争に際しては占領地の男性住民に辮髪を命じ、明の滅亡は満洲族の髪型と服装を漢族にも強制して漢人の服飾を身に付けることを禁止し、漢民族の伝統文化を抑圧する態度をとった[33][注釈 14]。これを「剃髪易服」(髪を剃り、服を替えるの意)という。一方、科挙の実施や中央に内閣六部、地方に総督巡撫を設置して軍事・政治を管轄させるなど、明朝の行政制度を存続させて強硬政策と懐柔政策を併用した[34]。また、指導理念として朱子学をはじめとする儒家の思想も取り入れていた[34]

乾隆帝時代の大臣であるマチャン

盛期の清王朝と満洲人

史上最大版図をきずいた乾隆帝の肖像(ジュゼッペ・カスティリオーネ画、1736年)
乾隆帝に仕えた満洲族衛兵 占音保 紫禁城の紫光閣に掲げられていた武功臣の肖像画(作者不明、1760年)。満洲語と漢文で彼に対する賛が書かれている。彼には名誉称号であるバトゥルが与えられている。

17世紀コサック(カザク)によるシベリアへの東進が著しいロシア・ツァーリ国と清とが国境をめぐって対立した(清露国境紛争[35]1650年代初頭、エロフェイ・ハバロフ率いるコサックの一派はアムール川に臨む清側の拠点ヤクサ(雅克薩)を奪い、同地をアルバジンと改めて東方進出への拠点とした[35]。ロシア人はアムール川を下りながら先住民からヤサク(毛皮税)を徴収した[35]1652年、現在のハバロフスク周辺とみられるアチャンスクで清露の戦闘が起こった。1658年には朝鮮国軍も動員した清国側が勝利し、アムール川流域からロシア人勢力を駆逐したが、1665年、シベリアに追放されていたポーランド貴族ニキフォール・チェルノゴフスキー英語版イリムスク英語版ヴォイヴォダ(軍司令官)を殺害して逃走、ヤクサ王国英語版を建国して先住民から毛皮税を徴収した。清露国境紛争は再燃し、1683年、アルバジン戦争が勃発、戦況は清側優勢で推移し、1689年、清露両国はネルチンスク条約を結んで講和した[35]。その結果、外満洲を含めた満洲全体が清の領土と確定した[36][注釈 15]。なお、この時のロシア人捕虜は「ニル」に編成され鑲黄旗満洲に配属された[注釈 16]

清の歴代の皇帝は、漢人が圧倒的多数を占める中国を支配するにあたっても、満洲語をはじめとする独自の民族文化の維持・発展に努めていた[5]。しかし、次第に満洲語は廃れ、満洲人の間でも漢語が話されるようになり、習俗もしだいに漢化していった[5]。清代中期の北京の満洲人によって編まれた「子弟書」という俗曲集には、漢語と満洲語を交ぜてできている曲があり、当時の満洲人の言語状況の一端がかいまみえる[38]

清朝によって優遇された満洲族は清朝発展にともない中国本土に移住する者が増加した一方、満洲人の故地である満洲では人口が減り、荒廃したため、1653年から1668年まで遼東招民開墾令を出して漢人の移住を勧めた[17]。しかし、18世紀に入ると東北部(満洲)に自発的に移住する漢人の数が急増したため、1740年には移住禁止令を出して満洲人の生活を保護しようとした[17]

1735年から1795年まで治世60年におよぶ第6代乾隆帝は、45年にわたる外征を「十全武功」と称し、晩年好んで用いた玉璽にも「十全老人」の文字を彫らせた[39]1750年代の後半には、清は乾隆帝の外征により中国東北部、中国内地、モンゴル高原東トルキスタンを含むテンシャン山脈の南北両側、チベットより構成される最大版図を築いた[40]1759年にはテンシャンの南北両側地域を「新彊」と命名した[40]。現代の中国の骨格は、乾隆帝によってかたちづくられたということができる[39]

列強の進出と満洲族

清朝末期の満洲族の武人たち
満洲国(1932-1945)の地図

1840年以降、清がアヘン戦争アロー戦争に敗北し、大規模な農民反乱である太平天国の乱が起こって弱体化すると、ロシアは清に対して武力による威圧を強め、1858年にはアイグン条約を結んで、清領とされてきた外満洲のうちアムール川左岸をロシアに割譲し、ウスリー川以東を両国の共同管理とすることとなった[41]。さらに2年後の1860年には北京条約によって、この共同管理地も正式にロシア領となった[42][注釈 17]

一方、皇帝の故郷満洲は1860年までは保護され、漢人の移住はある程度制限されていたが、特普欽らの献策を容れて開放策に転じ、漢人農民の移住が急増した。中国史ではこれを「闖関東」と呼んでいる[注釈 18]。漢人人口はさらに急増して満洲人人口を上回り、その生活域は蚕食された。また、イギリス領事館が営口に置かれるなど外国人勢力が満洲の南方からも入り込んで、満洲人の故郷は大きな変貌を遂げた[17]。アヘン戦争の敗北後、清国は海禁政策を放棄して欧米列強に門戸を開いたが、日清戦争(1894-1895)や北清事変(1900)の敗北などによって深刻な半植民地状態に陥った。1911年辛亥革命の際には「滅満興漢」がスローガンとして掲げられた[43][注釈 19]

1932年には日本の手によって、清の最後の皇帝だった宣統帝溥儀を執政(のちに皇帝)として満洲国が建てられた[17][44][45][注釈 20]。満洲国はの五民族による「五族協和」「王道楽土」を理念としており[44]、国名に「満洲」を含むものの、満洲人がこの国を自分たちの民族国家として意識していたわけではない。しかし、建国後の満洲族には帝政期成運動を起こすなど、この国に民族の復権を期待する傾向も一部ではみられた。満洲国の建国宣言は、溥儀を担いだ旧清朝帝政派の人びとの主導によってなされ、それを関東軍が承認したものだが、そこには「礼教(儒教とほぼ同じだが、道徳秩序や祭礼面を前面に立てる)」を国教とすることが謳われていた[47]1934年の皇帝即位式において溥儀は、満洲族の民族衣装で、清の皇帝のみが着用を許された礼服「竜袍」を用意していたが、関東軍は「五族協和」の見地からこれを許さず、満洲国軍大総帥服を着用するよう溥儀に求めた[48]。溥儀はこれに従ったが、それに先立って祖霊に即位を報告する「告天礼」の開催を主張し、関東軍はその開催と竜袍の着用を認めた[48]。なお、満洲国における筆頭公用語は中国語(漢語)であり、第二公用語は日本語であった[49]。ただし、筆頭公用語は中国語とも漢語(シナ語)とも称されず「満洲語」もしくは「満語」と称され[注釈 21]、満洲国の住人は満族・漢族とわず「満人」と称された[49]

現代の満族

第二次世界大戦後に成立した中華人民共和国は、愛新覚羅溥儀を「思想改造」したのち満洲族代表として中国人民政治協商会議全国委員に任命し[48]、「民族識別工作」を行って国内の少数民族を一定の権利を有する民族として公認していった。清代の旗人たちは、主にマンジュたちにより構成された満洲八旗のほか、蒙古八旗漢軍八旗など3つの集団から構成されていたが、この「民族識別工作」では、蒙古八旗や漢軍八旗の末裔たちを「蒙古族」や「漢族」に区分するのではなく、「旗人」全体をまとめて「満族」と区分した。満族は辛亥革命以降、概して冷遇された状態にあったものの、文化大革命以降の少数民族政策の転換によってその地位はいくらか改善された[5][注釈 22]

満洲八旗に属していた錫伯(シベ)族達斡尔(ダグール)族などについては、それぞれ56の民族の一員である独自の民族として識別されている。しかし、満洲族の大多数は独自の言語と古来の文化を失いつつあるのが現状である[5]

なお、満洲族は、清代に支配者階級として長城以南に移住した経緯上から都市住民が多いため、漢民族に比べて教育水準が高い。1990年の人口調査資料によれば満洲族人口1万人当たりの大学進学者数は1,652.2人で、全国平均水準139.0人、漢族平均水準143.1人に比べて遥かに高かった。また、15歳以上で非識字・半非識字が占める比率は、満族は1.41パーセントで、全国22.21パーセント、漢族21.53パーセントよりも遥かに低く、中国国内の各民族の中で非識字率(半非識字率を含む)が最も低い[51]

生業と文化・習俗

伝統的生業

中国東北地方は、明代にいたるまで半猟半農状態が続き、石器土器類、骨角器類もまだ使用されていたとされている[5]。その後は大シンアンリン山脈などの山岳地帯、アムール川松花江などの大河流域においては狩猟漁撈の果たす役割が依然大きいとはいうものの、建州女真や清代以後の満洲族にとっては、牛馬の牧畜をともなう畑作農耕 が主な生業であった[5]。農耕はムギアワヒエキビなど穀類を中心とする天水農業であった[20]。狩猟はテンキツネミンクリスなど毛皮目的であり、中華料理の食材となるキクラゲキノコ類、松の実、薬用として知られる朝鮮人参(オタネニンジン)の採集などもおこなわれた[19][20][52]。清朝の軍事組織として知られる八旗も、その編成方法は元来、満洲族の狩猟生活からあみだされた巻狩の制を応用したものだったといわれる[7][24]

明代後期の遼東地方で当時高額で取引された二大商品といえば、クロテンの毛皮と山岳地帯に自生する薬用人参であった[52][注釈 23]。こうした産物は現地で消費されず、奥地からリレー式に遼陽にもたらされ、さらに北京方面へと送られて、穀物織物金属製品といった中国内地の商品と交換される[20]。ヌルハチはこうした特産品のルートを掌握して交易の利益を得ていた氏族長のひとりであった[52]

ヌルハチの故地に関して言えば、その地は山がちで大小の河川が縦横に流れ、斜面や点在する平地ではコーリャンなどが栽培されていたが、農地としては必ずしも恵まれていなかった[53]。したがって、西方に隣接する肥沃で広大な遼東平野の農地は、彼にすれば垂涎の的であった[53]。ヌルハチは遼東に進出するや女真人(満洲人)をこの地に続々と移住させ、農耕国家として発展する基礎を固めた[53]

同地方はまたブタの産地でもあり、夫余、靺鞨の時代からブタ飼養がなされており、近代には良質のブタの産地としても有名であった[5][注釈 24]。ただし、こうした生業のみで十分な自給自足ができるというほどの経済的基盤を有していたわけではなかった[19][注釈 25]。なお、吉林省吉林市の鷹屯(ヌルハチはここを「打漁楼」と名付けた)は、鷹狩に従事する八旗の兵士が代々居住し、鷹匠を数多く輩出した地であり、古い狩猟文化を今日に伝えている[54]

習俗と生活文化

辮髪にカットする巡回理髪者(19世紀、トーマス・アロム英語版画)

満洲族の家屋服飾においては漢族の影響が強かったが、満洲族女性には纏足の習慣がなかった[5]。女性の服飾は、上述したチーパオまたはベストを着用することが多く[54]、男性は伝統的に筒袖チョッキズボンという服飾を好んだ[55]

漢族に対しても強制した辮髪は古来、満洲族男性のヘアスタイルであった[5][56]。1644年の北京入城直後、清の第3代皇帝順治帝の摂政ドルゴンは、清に服属するか逆らうかを区別するため、漢族に対しても「薙髪令」を発令し、これを満洲人に対する服従の証拠とした[56][57][58]。この際は、中華思想の根強い抵抗のため強制できなかった[57][注釈 26]。しかし、翌1645年、「薙髪令」を再発令し、辮髪を強制した[56][58]。このとき、辮髪を拒否する者には死刑を以て臨み、「頭を留めんとすれば髪を留めず、髪を留めんとすれば頭を留めず」といわれたほどであった[56][57][58]儒教の伝統的な考えでは、毛髪を含む身体を傷付けることは「不孝」とされ、タブーであったため、抵抗する者も多かったが、清朝は辮髪を行った者に対しては「髪を切って我に従うものには、すべてもとどおり安堵する」として従来の生活や慣習が行えることを保証した[57]。清朝は、漢族が辮髪を死ぬほど嫌い抜いていることを承知したうえで、あえて「薙髪令」を再発令したのであり、ある意味、清朝の敵味方の識別のためには、これ以上効果的な策はなかった[57]

やがて、清朝支配の安定とともに19世紀には辮髪が完全に普及し、僧侶道士と女性のほかはことごとく辮髪するようになり[56]、中国の一般的風習と見なされるようになった[58]

氏族制と社会文化

伝統衣装を着た現代の満族男性(2012年)

満洲族の社会には強い父系原理が働いており、「ハラ(hala、哈喇、ᡥᠠᠯᠠ,)」または「ムクン(mukūn)」と呼ばれる父系氏族を主要な社会組織とし、また、父系拡大家族が主要な経済単位となった[5][59]。ロシアのセルゲイ・シロコゴロフ英語版はかつて、ハラが基本的な血縁組織であり、その後、血縁組織の発展にともないガルガン(garugan)、ムクンの2層が生じたと論じ、中国の莫東寅はこれを継承して、ハラ(部族)、ガルガン(胞族)、ムクン(氏族)の三層構造を唱えた[59]。しかし、シロコゴルフ・莫東寅の説は、今西春秋が指摘しているように何ら史料的根拠を有しない[59]。これに対し、三田村泰助は、詳細な検討の結果、ムクンをハラから派生した地域関係を基とする血族集団とみなす見解を示した[59]。ムクンがハラより発生したとする説は、現在、多くの専門家の支持する定説となっている[59]。ムクンは、金代女真族の「謀克」を原義としているとみられ、一義的には「族」、二義的には「氏」を表しており、一方、ハラには「姓」の字があてられる[59]。清代にあっては、ハラはもはや実体をともなった血縁組織とはいえず、ムクンだけがのこったが、野人女直と呼ばれた人びととその末裔にあってはハラ組織が濃厚に残存したのだった[59]。一族の統合を象徴するものとしては「族譜」と呼ばれる、氏族成員の名と相互の関係を記した系譜があった[5]。族譜は通常、などにおいて大切に保管された[5]

明・清両王朝の皇宮となった紫禁城では、明が内廷(後宮)と外廷の間に塀を設け、その区別が厳格であったのに対し、清朝ではその塀を撤去して両者の区別は緩やかなものとなり、また、内廷においても男子禁制が明ほどには厳しくなかった[60]。このことは、漢族の家族制と満洲族の氏族制の相違が反映しているものととらえることができる[60][注釈 27]

満洲族の姓氏

1個のハラは複数のムクンを包含するが、1個のムクンはただ1つのハラに帰属しており、ハラ組織は元来、地域的同一性を有していた[59]。女真族(満洲民族)のハラの由来は、次の2種に大別できる[59]

  1. 地名や河川名を姓とするもの … グワルギャ(瓜爾佳中国語版)、トゥンギャ(佟佳)、ドンゴ(董鄂)、マギャ(馬佳)など。
  2. 古来のトーテムを姓とするもの … ニョフル(鈕祜禄中国語版、原義は「オオカミ」)、サクダ(薩克達、原義は「イノシシ」)、ニマチャ(尼馬察、原義は「」)、ショムル(舒穆禄)など[59]

ハラは、当初は族外婚の単位であると同時に族内への受け入れ機能を有し、血讐の義務をともない、また、精神生活の単位でもあった[59]。それに対し、ムクンはハラの瓦解を受けて不断に分節化し、発展していったもので、その過程も示していた[61]。たとえば、ギョロ(覚羅)というハラは、『氏族通譜』によれば、イルゲンギョロ(伊爾根覚羅)、シュシュギョロ(舒舒覚羅)、シリンギョロ(西林覚羅)、トゥンギャンギョロ(通顔覚羅)、アヤンギョロ(阿顔覚羅)、フルンギョロ(呼倫覚羅)、アハギョロ(阿哈覚羅)、チャラギョロ(察喇覚羅)という8つのムクンに分かれ、さらにそれぞれが多数の分枝を持っていた[61]。ハラからムクンが生じた理由のひとつは族外婚規制の機能緩和であって、すでに明代女真族において婚姻禁忌が破られていた[61]。すなわち、同一ハラ内の異ムクンとの通婚を可としたのである[61]。太祖ヌルハチはアイシンギョロ(愛新覚羅)氏出身であったが、その妻にはイルゲンギョロ氏2名、シリンギョロ氏1名、ギャムフギョロ(嘉穆湖覚羅)1名、計4人の異ムクンの妻女が含まれていた[61]

満洲民族の姓氏は本来、アイシンギョロ(愛新覚羅、ᠠᡳ᠌ᠰᡳ᠍ᠨ
ᡤᡳᠣᡵᠣ
, aisin gioro)、イェヘナラ(葉赫那拉、ᠶᡝᡥᡝ
ᠨᠠᡵᠠ
, yehe nara)、ヒタラ(喜塔蝋、ᡥᡳᡨ᠋ᠠᡵᠠ, hitara) 等にみられるように満洲語に基づいたものであった。しかし、現代満族の多くは、漢民族の姓氏になぞらえて主に一文字の「漢姓」を用いている。これは、清末期の辛亥革命の風潮、第二次世界大戦後の「漢奸」狩り、中華人民共和国成立後の文化大革命など、中国当局の弾圧を避けるための一方策であったと考えられる。しかしながら、その場合であっても、

  • アイシンギョロ(愛新覚羅) → 「」「」または「」に
  • グワルギャ(瓜爾佳、ᡤᡡᠸᠠᠯᡤᡳᠶᠠ, gūwalgiya) → 「」に
  • イェヘナラ(葉赫那拉) → 「」または「」に
  • イルゲンギョロ(伊爾根覚羅、ᡳᡵᡤᡝᠨ
    ᡤᡳᠣᡵᠣ
    , irgen gioro) → 「趙」または「」に
  • ニョフル(鈕祜禄) → 「」または「」に[59]
  • フチャ(富察、ᡶ᠋ᡠᠴᠠ, fuca) → 「」または「」に
  • ヘシェリ(赫舎里、ᡥᡝᡧᡝᡵᡳ, hešeri) →「」「」または「」に
  • トゥンギャ(佟佳 ᡨᡠ᠋ᡢᡤᡳᠶᠠ, tunggiya) → 「佟」に
  • ワンギャ(完顔、ᠸᠠᠩᡤᡳᠶᠠ, wanggiya) → 「」に

というように、改姓の際にも一定の原則に従っている。現代満族は、「氏族 ― 哈喇(姓)漢訳表」と照らし合わせることによって自分の本来の姓氏を知ることができるようになっている。

満洲民族はもともとモンゴル人の影響を受けて、漢民族のように姓氏と名を同時に呼ぶ習慣はなく、名前のみを呼ぶか、名前の前に爵位や官職名を付けて呼んでいた(例:睿親王ドルゴン)。あえて姓氏と名を続けて呼ぶ場合は、例えば「グワルギャ姓のオボイ(満洲語: ᡤᡡᠸᠠᠯᡤᡳᠶᠠ
ᡥᠠᠯᠠ ᡳ
ᠣᠪᠣᡳ
, gūwalgiya hala-i oboi) 」のような呼び方をしていた。

婚姻

伝統的な婚姻は、族外婚と満漢不婚によって特徴づけられる[62][63]。族外婚規制は、同じ氏族同士は結婚しないという原則であり、現代においても濃厚に確認でき、しかも、その規制の強さは漢族以上である[62][63][注釈 28]。上述した「ハラ(旧氏族)」は当初、族外婚の単位であったが、その分節化によって生じた「ムクン(新氏族)」が現代における族外婚単位となっている[59][61]

満漢不婚は、満族と漢族の婚姻禁止の慣習であったが、現代においては守られていない[62][63]。かつて満洲族は全体が八旗の組織に入る旗人であり、入旗していない漢族との通婚は許されていなかったが、入旗している漢族(漢軍八旗)との結婚は可能であった[62][63]。なお、彼らが女真族と称していた時代にあっては、子が継母を娶ったり、弟が嫂を娶ったりする収継婚も多かったが、ホンタイジの時代に入ると漢人的な観念が浸透して旧俗矯正が図られ、収継婚は禁止された[63]

満洲族の婚姻の旧俗では、子女が成年に達すると双方の両親または仲人の話し合いを経て、双方の「門戸帳」(本人の生辰八字(生年月日)と姓氏三代(曾祖父母・祖父母・父母の姓名)が記されている)を交換し、これが適合すれば婚約できるなど、おびただしい数のしきたりと規制があった[63]

葬送と殉死の風習

太祖ヌルハチに殉死した夫人、アバハイ(孝烈武皇后)

女真族の旧俗では、火葬が行われていた[64]。ヌルハチもホンタイジも火葬され、3代フリン(順治帝)は火葬制度を詳細に定め、彼自身も火葬された[64]順治年間以降、北京の満洲族はしだいに土葬を行うようになったが、清朝は漢化を防止する観点から、各地に駐防する旗人の行動に厳しい制限を課し、死後、現地に墳墓を設けることを許さず、必ず京旗に帰葬することとした[64]。そのため、火葬の風習は各地の駐防にたずさわる旗人の間で保たれた[64]。しかし、乾隆年間になると、各地の戦役も収まり、火葬を不孝・不道とみなす漢族の儒家思想の影響も受けていたので、乾隆帝は死後に現地で土葬することを許可し、帰葬を一律に禁止した[64]

女真の人びとはまた、死者の葬送のために牛・馬を殺してこれを死者に捧げ、その肉を食すという旧俗をもっていた[64]。このような習俗は康熙帝の頃まではつづいたが、やがて漢民族の習俗を取り入れ、紙馬をもって祭礼をおこなうようになった[64]

殉死の風習も広く行われ、ヌルハチの妻の死去の際には4人の奴婢が、ヌルハチ自身の死去の際にも正妃アバハイと2人の側室が殉死した[64]。ホンタイジは殉死の強制を禁止したが、禁止されたのは強制行為のみであって殉死そのものは否定されなかった[64]。ホンタイジの死去の際には近侍2名が殉死している[64]。殉死の旧俗が満洲族の社会で連綿と続いてきたのは、奴婢の制度と無関係ではないと考えられる[64]。康熙帝が在位中に殉死の禁止を諭す命令を発し、以降は紙人を焼くことで死者の霊魂を祭ることとなった[64]

言語・文字

満州文字の朱印
「白山黒水、源遠流長」の満洲語 "Šanyan alin, sahaliyan muke, sekiyen goro, eyen golmin" を満文で示している。

満洲語は広義のツングース語のなかの一言語であり、言語構造も概ね他のツングース諸語のそれに等しい[14][65]。しかし、音韻文法語彙において他言語と顕著に異なる点もある[65]。語彙ではとくに、モンゴル語漢語からの借用語も多い[65]。清朝にあっては第一公用語の地位にあった[66]。満洲語は、その話者が北京はじめ中国全土に居住するようになり、言語分布は拡大したが、漢人に比較すると人口の絶対数がきわめて少なかったので、満洲族の文化は漢化し、言語も漢語を話すようになり、満洲語はしだいに使わなくなっていった[67][68]。満洲語使用は、すでに清朝中期の隆盛期には衰微の兆候を示していたという[67]。現代、満洲語は中国東北部のごく一部でしか話されなくなっている[65][注釈 29]。なお、清代の乾隆年間中期に国境地域の警備のため、東北部から新疆のイリ地方へ移住したシベ族の末裔は今日でも満洲語を話している[65][68]。これをシベ語といい、シベ語(シベ文字)の新聞書籍も発行されている[65]

満洲文語の資料には、『満文老檔』をはじめとする記録類[70]、満洲・モンゴル・漢・チベットウイグル5族の言語を対照させた『御製五体清文鑑』などの辞書類、『大蔵経』、漢文古典その他大量の翻訳文献などがある[68][注釈 30]。また、文語資料にはあたらないが17世紀の越前国の船乗りが漂流した際の記録、『韃靼漂流記(異国物語)』には当時の満洲語が仮名文字で収録されている[68]

満洲文字に先立つ女真文字については、金石文の発見や辞書『華夷訳語』に収録された「女真館訳語」における対訳単語集・文例集によって文字体系が、ほぼ解明されつつある[71]完顔希尹中国語版や完顔葉魯(耶魯)らによって1119年に創成された女真大字は表意文字、1138年に金の第3代皇帝熙宗が制定し、1145年に公布したと記される女真小字は表音文字であった[72]。大字のみで表記、小字のみで表記、語幹としての表意文字に接尾の表音文字をともなう書き方という三様の表記法があった[72]女真語は満洲語に近い言語だとみられる[68]。両者は姉妹語関係にあったというよりは、むしろ方言的関係にあって、女真語は広義の満洲語のなかに没していったものと考えられる[71]

満洲文字は、明末の女真人が自民族の言語をモンゴル語に訳し、モンゴル文字で記録していた不便さを解消しようとして、太祖ヌルハチが1601年につくらせた音素文字である[73]。左から縦書きで右に改行する[66]。当初はモンゴル文字の字音を借りて書写する無圏点文字であったが、1632年、太宗ホンタイジが、ギオルチャ氏の満洲旗人のダハイ(達海)に命じて同字異音を区別する点(、)や円(。)を加えた有圏点文字に改良させた[66][73][74][注釈 31]。清朝では満洲文字を「国字」と呼び、公文書の記録などに利用した[73]新疆ウイグル自治区に在住するシベ族は、満洲文字を改良したシベ文字を使用している[66]

宗教

水浴びをする三仙女(『満洲実録』)

満洲族の宗教は、婚姻儀礼や葬送儀礼などにおいて民族独自のシャーマニズム祖先崇拝の要素が含まれていた[5]。自然崇拝においては、火神・星神および神山・神石を尊崇し、とりわけ星神に対する信仰は最も普遍的なものであった[75]。『吉林通志』にも「祭祀典礼は、満洲の最も重んずるは、一に祭星、二に祭祖」とある[75]。星神とは、具体的には北斗七星であり、満洲語では「ナダン(七つ)ウシハ(星)」と称する[75]。記録によれば、満洲族の祭星は、多くは月が沈む後に行う背灯祭で、そこでは灯火がかき消され静寂のなかで執り行われ、通常は占卜や祟り祓い、病祓いなどの巫術と結びついた除災の祭りである[75]。満洲族に近い、同じツングース系のホジェン族(赫哲族、ロシアでは「ナナイ」と称する)もまた、七星を除災の神とみなし、「吉星神」と呼称する[75]。満洲族の七星神は、のちに祭礼が固定的なものに整備されていき、それにともない人格神化していった[75]

瀋陽故宮(旧、奉天行宮)の神杆(神鳥の止まり木)

満洲族は鳥・鵲(カササギ)・イヌを崇拝した[76]。鳥・鵲の崇拝は満洲族のシャーマニズム信仰の古層をなしており、長白山で水浴びをしていた天女(三仙女の末娘)フォクレン(仏庫倫)が神鵲がくわえてきた朱果を食して感精し、満洲の始祖ブクリヨンション中国語版(布庫里雍順、愛新覚羅氏)を産んだという伝説がのこる[76]。『満洲実録』でも鳥や鵲に関するいくつかの伝承が記述されており、同著の満文本では満洲人の後裔はカササギを祖としたことを伝えている[76]。また、ヘトゥアラに抑留されていた朝鮮人李民煥の著述した『建州聞見録』では、建州女真がイヌを自分たちの祖先と見なしていて、イヌを殺したり食べたり、イヌ皮を使用することを決して許さないという習俗をもっていたことにふれている[76]。こうした習俗は、清朝を通じて変わらなかった[76]

満洲族は元来、自身を地上に降臨した天上界に住む神々の子孫であると信じ、自身の氏神を中心として団結した[7]神、人面身の神、大鳥神(人面怪鳥の神)、突忽到瑪法(海獣の形象から変化した神)、鹿神などは、満洲の各氏族における保護神や祖神などとして崇められた[76]。彼らは森林地帯での狩猟や採集に際して、しばしば各種の猛獣の襲撃に直面し、予期せぬ災禍や不幸に見舞われ、あるいは漁撈に際しても数々の危険や事故に遭遇し、自分たちの無力さを悟ることも多かったと考えられる[76]。そこで鳥獣を神格化して祭祀し、その勇気や能力を借りて災厄を逃れようと願ったところから動物崇拝が始まったのだろうと推測される[76]。ここにおいてシャーマンが憑依して、たとえば、虎の各種の動作を真似て病人に災いをなす妖魔を威嚇することにより、病気が治癒されるものと信じられた[76]。鹿神は、ウジャラ(烏扎拉)氏が鹿の角を採取する際に祭った神であったが、ここではシャーマンが帽子の上に一対の鹿の角を挿し、鹿神に憑依するものとされた[76]

女真族(満洲族)は、仏教、とりわけモンゴル族の影響でチベット仏教になじんでいき、漢民族との交流を通じて彼らの民間信仰、とくに道教からの影響も受けていった[5][77]。1616年の後金建国の際、ヌルハチはヘトゥアラ城東の山上に仏教寺院、玉皇廟、十王殿などを建設して、これを「七大廟」と称した[77]関帝関羽)、仏祖(釈迦)、観世音菩薩はしだいにシャーマニズムの神祇の列に加えられ、清朝宮廷や一般満洲族から尊崇されるようになり、満洲古来の神々よりも篤い崇拝を受けた[77]

1626年、ホンタイジが即位した直後の儀礼では、最後に支配領域における弓の達人らに弓を射させる「射柳の儀式」が執行されたが、これは金時代の女真がシャーマニズムの拝天の祭儀に付属して行った儀式を継承したものであった[78]。北京の紫禁城内廷の坤寧宮、盛京(現、瀋陽)の奉天行宮の清寧宮は、ともに、中国皇帝を兼ねる満洲族のハーンが、シャーマンの祭祀を行った祭神殿として独特の設計が施されており、その入り口の南には神杆(しんかん)、すなわち神鳥の止まり木が建てられていた[78]。坤寧宮では元旦行礼などの特別な祭祀のほか、常祭である朝・夕の祭りが毎日行われ、ブタが生贄として供えられた[78]。また、神々の前で「薩満太々(サマンタイタイ)」と称される巫女が満洲語の神歌を唱え、跳ね回ったという[78]。シャーマニズムの伝統は、満洲族が中国内地の支配的地位に立ってからも温存されたのであった。

神話・伝承

『満文老檔』天命6年(1621年)条や満文『内国史院檔』天聰8年(1634年)条には、当時の女真族(満洲族)が日食月食という天文現象を「天界の犬が太陽を食べること」であると考えていたことを示唆する記述が収載されており、こうした伝承は他のツングース系の諸民族や朝鮮民族チュルク系民族、また、パレオアジア語系とみられるニヴフ(ギリヤーク)にもみられる[79]

また、『満洲実録』や『満文老檔』には、天命元年(1616年)、ヌルハチがダルハン・ヒヤとションコロ・バトゥルに命じてサハリヤン部を討伐させたとき、アムール川(黒竜江)の渡河に際して、往還ともに時ならぬ奇跡的な結氷に助けられて討伐を成功させたことが史実として記されている[79]。これに似た説話として、イチェ・マンジュ(伊徹満洲 ice manju/ 新満洲)人の伝承として、1.背後に敵軍が迫り、2.行く手を大河が遮り滅亡の危機を迎えるが、3.大河に魚の浮き橋ができて難を逃れ、4.滅亡を免れる(新天地へ移住する)という4つのモチーフをともなう説話も伝わっている[79]。この4モチーフは、夫余・高句麗の開国説話(東明王朱蒙伝説)にも共通し、オロチョン族ナナイ族などツングース系民族の説話にもみられる[79][注釈 32]

歌舞と武術

金昆・程志道・福隆安「氷嬉図」(『清代宮廷生活』より
厳寒期の北京でスケートをしながら矢を射る技を披露する八旗軍人

満洲族は、歌舞に長けた民族として知られており、そこには鮮やかな民族的個性と独特の品格がみられる[80]。満洲族のなかで最もさかんに行われたのは、莽勢舞(莽式舞)と称する歌舞で、別名を「空斉」といった[80]。莽勢舞は、集団のなかの1人が歌い、他の衆は「空斉」を以てこれに和し、正月や祝祭日に男女が相対して舞うというものであった[80]。この舞には「九折十八式」と称される、漁撈・狩猟・騎射などの生活を反映した9つの舞のかたち、身体部位を用いた18の所作があったと伝わっている[80]。清朝の北京入城後は宮廷に取り入れられて大規模化し、慶隆舞へと発展した[80]。慶隆舞は、揚列舞(武舞)と喜起舞(文舞)の二部で構成された[80]

習武に関しては、満洲族は古来騎馬・射猟を得意とし、清朝建国後はこれを満洲の根本とみなして狩猟や軍事に活用するのみならず、競技化した[81]。ヌルハチは、その趣味が弓の試合であり、すぐれた射手と技を競って負けなかったという弓の名手であったし、ホンタイジも飛翔する一羽の鳥をただの一矢で射落とすほどの腕前であった[81]。競技種目としては歩射と騎射があり、弓術は、近代に至るまで満洲民族の伝統として受け継がれた[81]

スケートも満洲族が得意とするスポーツで、これまた初期の生業や軍事活動と結びついていた[81]。冬季における酷寒の東北部では河川湖沼が凍結して天然のスケートリンクとなった[81]。スケートはスポーツであると同時に軍事訓練でもあり、乾隆帝はこれを「国俗」と称した[81]。氷上で行われた競技としては他に、王などのリーダーが侍衛を率いて鞠(ボール)を蹴りながら氷上を走り、次いで諸貴族・官員の妻女たちが氷上で競争し、先に終点に着いたものを勝ちとする「踢行頭」などがあった[81]

満洲人たちはまた、相撲(角觝)をことのほか愛好し、それは満洲語で「布庫(プク)」と称された[81]。すでに入関前の宮廷で弓試合や宴会の際に、相撲の実演が催されている[81]。ホンタイジの時代にモンゴルとの関係が深まると、朝貢に訪れたモンゴル族の力士たちはしばしば宮廷内で技を披露し、満洲族の力士と勝負した[81]。幼くして帝位に就き、権臣オボイの専横に苦しんだ康熙帝は若年の際、相撲好きと称して旗人より強壮な少年たちを選抜して密かに親衛隊をつくり、日々これを鍛錬させて、機が熟したときにオボイを逮捕、その腹心たちを一網打尽にして親政を開始したという逸話をもっている[32][81]

函普の伝承

松漠紀聞』『満洲源流考』などのいくつかの中国史料には、女真完顔部先祖であり、金朝の始祖である函普が「新羅人」あるいは「高麗より来た」と記録するものがある。韓国北朝鮮では、これを根拠として、満洲民族のルーツ朝鮮民族であるとする主張がなされている[82][83][84][85][86]。なかには「愛新覚羅(アイシン=「」のギョロ族)」の族名を「新羅を愛し、覚える(思う)」と解釈する見解さえある。しかし、周辺諸国ではその解釈には問題があるという意見が多い。中国では「高麗から来た」としても「高麗人」とは限らず、靺鞨人もしくは女真人であるとする見解が多く、日本では、函普が実在の人物とみなすには根拠が薄弱で、始祖伝説に登場する架空の人物とみなす専門家が多い。

遺伝的特徴

満洲民族のY染色体ハプログループは多数の系統が存在する。最も多いのは漢民族などに多いO2系統であり、37パーセントみられる[87]。次いで多いのはC2系統であり、アルタイ諸語を話す民族に関連するタイプである。満洲語はアルタイ諸語のツングース語族に属すが、C2系統は25.7パーセント[87]と特段多いとは言えない。3番目に多いのはウラル語族に関連するN系統であり、14.3パーセントみられる[87]。N系統は遼河文明の担い手であり[88]、かつては満洲地域に高頻度に観察されたようであるが、現在は後から進出したO2系統やC2系統に上書きされたかたちとなっている。また日本人に高頻度のO1b2系統も15パーセント前後観察され[87]、東アジア諸民族の中では比較的日本人とも共通性は高いと言える。

O1b系統からは華南東南アジアに多いO1b1も低頻度みられる(O1b1はオーストロアジア語族[89]、O1b2は弥生人に関連すると想定される)。その他西ユーラシア起源の R1aJ も、わずかながらみられる[90]

また、HLAハプロタイプは、日本の日本海沿岸に特徴的なB44-DR13、B7-DR1がよく見られる[91][92][93][94]

満族出身の著名人

脚注

注釈

  1. ^ 2010年の人口調査では満族人口は10,387,958人であった[5]
  2. ^ 太祖ヌルハチの事績をまとめた『満洲実録』によれば地名「ヘトゥアラ」は「横岡」という意味である[10]
  3. ^ ヘトゥアラで生まれたヌルハチは、モンゴルのハルハ部と友好関係を結ぶことに成功し、1616年、同地で明朝からの独立とアイシン(後金)の建国、自身の即位を宣したという[12]
  4. ^ 靺鞨族の文化については、考古学的研究によってその多くが解明されてきている[14]
  5. ^ 女真文字による六字真言(六字大明呪)である。
  6. ^ 遼代の女真族のなかでもさほど有力とはいえない完顔部が金王朝を樹立させるにいたった原因は、砂金を産する河川流域を支配地に収めたことによると考えられる[15]
  7. ^ 現在、ロシア連邦の沿海州に住み、狩猟を主な生業としてきた少数民族ウデヘは、このうちの野人女直の末裔と考えられる[22]
  8. ^ 「バクシ」とは、書記官の意であるとも[24]、学者・博士の意であるともいわれる。
  9. ^ 1634年、後金軍はモンゴルの一大拠点フフホトを占領し、ドルゴンらを派遣してリンダン・ハーンの子息を捜索させた[25]1635年、ドルゴンはモンゴル帝国最後の君主となったエジェイ・ハーンを降伏させ、彼をともなって都の瀋陽に帰還した[26]。エジェイは、「制誥之宝」と刻まれた大元伝国の璽をたずさえ、ホンタイジにこれを献上した[26]。元朝の皇帝権を象徴する印璽がホンタイジの手に入ったということは、彼が全中国の支配権を元から継承したことを意味していた[26]
  10. ^ これにより「満洲」の名が定着するが、東方世界を支配するとされる仏である文殊菩薩と満洲の語を結びつける説明については、当時のチベット仏教の指導者の発言を乾隆帝が利用したところから生じた俗説だという見解もある[9]
  11. ^ 1793年初代マカートニー伯爵ジョージ・マカートニーはイギリス王ジョージ3世の派遣した乾隆帝の80歳を祝う使節団として熱河に赴き、三跪九叩頭の礼を拒否した(のちに清側が妥協して英国流に膝をつき皇帝の手に接吻することで事態を収拾した)ことで知られる[31]
  12. ^ 清朝の皇帝が皇帝であるためには、満洲人、モンゴル人、漢人の支配権を確立しなければならなかった[32]。モンゴル人に対しては大元伝国の玉璽を有して最後のハーンからその権利を譲られ、漢人に対しては大明の帝位を継承したとしてその支配権を主張できたのであるが、実のところ、肝心の満洲人に対しては本来独裁の権限はなく、部族長会議の議長にすぎない存在であり、当初は皇帝自身がその部族長会議で軍事・外交のリーダーとして選挙で選ばれた存在だった[32]
  13. ^ チーパオ(旗袍)は本来、清朝旗人社会の婦人のうち、冬の綿入れの形を普遍化したものであるが、現在のようなかたちで統一・普及するのは、中華民国成立以降のことである[33]。清朝では、支配者である旗人と一般漢人とは厳格に区別されていたため、漢人女性がチーパオを着用することは認められていなかった[33]。このことが逆に女性の憧れとなったのか、政治とは別次元として「チャイナドレス」として独り歩きし、ボディコンシャスワンピースとして広く愛用されることになった[33]
  14. ^ 辮髪は、満洲族(女真族)に限らず、北アジア系諸民族のあいだに古くから広くみられる風習である[33]
  15. ^ ネルチンスク条約は、東アジア史上はじめてヨーロッパの一国と結んだ国際条約であった[36]
  16. ^ ニル(niru、「矢」の意)とは、八旗制において有事の際に兵士となる成年男子300人を供出しうる集団を指す[24]。清朝は、5ニルをジャラン(jalan、1,500人)とし、5ジャランをグサ(gūsa、25ニル、7,500人)として、1グサ(7,500人)をもって一旗とした[24][37]。「旗」は本籍の所在をもあらわしており、単なる兵制上の単位ではなく、旗人の基本的な帰属先を示す社会組織であった[24]
  17. ^ 北京条約はアロー戦争終結のためのイギリスフランスとの講和条約であった一方、ロシアが清と英仏との講和を斡旋したことから、ロシアの要求を受け入れて同国と結んだ条約である[42]
  18. ^ 1931年満洲事変までに、数百万規模の人々が関内から移動したといわれている。
  19. ^ 清初以来、秘密結社の間では清朝に反抗して明朝を復興させようとする「反清復明」のスローガンが伝えられてきたが、太平天国はこれを発展させ、満洲族を滅ぼし漢民族を復興しようとする「滅満興漢」のスローガンを提唱した[43]。太平天国では反清の意思として辮髪を廃止したが、清朝はこのような反政府勢力を「長髪賊」と呼んだ。また、1905年に東京で結成された中国同盟会の綱領にある「駆除韃虜、恢復中華」も同じ意味であった[43]
  20. ^ 愛新覚羅溥儀は、1917年7月、軍閥の指導者張勲によって13日間だけだが、帝位に就いたことがあった(張勲復辟[46]
  21. ^ 満洲族に固有の言語(本来の満洲語)は「固有満洲語」と称された[49]
  22. ^ しかし、「中国的夢」を掲げる習近平政権に入ってからは、以前にも増していっそう抑圧的な少数民族政策がとられるようになっている[50]
  23. ^ クロテンの毛皮は冬の厳しい華北地方で人びとの耳当てとして大量の需要があったほか、明や朝鮮での奢侈の風潮からも人気があった[52]。オタネニンジン(朝鮮人参)は、上等なものだとに匹敵するといわれたほど高価であったが、これを採集するには夏の数か月、猛獣の多く棲む高山地帯で集団生活を送る必要があった[52]
  24. ^ 「ツングース」の名前の由来も、トルコ語のトングス(=ブタ)の訛ったものといわれている[20]
  25. ^ 明帝国は、対モンゴル政策の一環として女真族を利用する政策を採用し、衛所の制度を適用して各地の女真族の部族長に官職を授け、それを示す勅書印璽をあたえて、朝貢・馬市にかかわる特権の付与に便宜を図った[19]。これは、自給自足の難しい女真族の社会に権威利権をめぐる熾烈な争奪抗争を生むこととなって、結果的に女真族内に覇権闘争を生んだ[8][19]。明朝の政策の根底には女真族分断の意図もあったが、ヌルハチはこうした覇権闘争を勝ち抜いたうえで明の対抗勢力となるまでに勢力を拡大させたのであるから、長期的に考えれば明にとって皮肉な結果だったといえる[8][19]
  26. ^ 清朝の北京入城は、概ね人民の歓迎を受けたが、辮髪の強制はこれに対する裏切り行為として受け止められた[57]
  27. ^ 清朝にあっては、明代には顕著だった後宮勢力を背景とする宦官の専権という現象はあまりみられなかった。
  28. ^ 漢族にあっては、同姓であっても同祖でなければ通婚は制限されないし、同姓同祖であっても五服親(高祖父を同じくする三従兄弟姉妹までの親族)の範囲を越えれば結婚は可能である[63]。満族にあっては、かつては禁忌とされた、同姓であるが同祖でない男女、同祖であるが五服親の範囲外にある男女の結婚がみられるようになったというものの、特に老人たちはそのことに否定的である[63]
  29. ^ 嫩江沿岸やアイグン(黒竜江省黒河市)周辺などの少数の集落では、満洲語が口頭語として用いられている[69]
  30. ^ 『満文老檔』は、内藤湖南1905年奉天故宮の崇謨閣で発見し学界に紹介した清初史の貴重な記録であり、文献の題名も内藤の命名による[70]
  31. ^ 無圏点文字と有圏点文字は明瞭に区別され、満洲文史料の年代を検討する際の重要な指標のひとつとなっている[66]
  32. ^ 浮き橋のモチーフは、説話によっては、魚ではなくカメによってつくられる場合もある[79]

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  • フランク・B・ギブニー 編『ブリタニカ国際大百科事典18 ペチ-ミツク』ティビーエス・ブリタニカ、1975年5月。 
    • 三上次男「満州」『ブリタニカ国際大百科事典18』ティビーエス・ブリタニカ、1975年。 
    • 池上二良「満州語」『ブリタニカ国際大百科事典18』ティビーエス・ブリタニカ、1975年。 
  • 鈴木貞美『満洲国 交錯するナショナリズム』平凡社〈平凡社新書〉、2021年2月。ISBN 978-4-582-85967-6 
  • 徳永勝士 著「第4章 遺伝子からみた日本人」、百々幸雄 編『モンゴロイドの地球(3) 日本人のなりたち』東京大学出版会、1995年7月。ISBN 4-13-054107-2 
  • 徳永勝士 著「HLA遺伝子:弥生人には別ルートをたどってやってきた四つのグループがあった!」、「逆転の日本史」編集部 編『日本人のルーツがわかる本』宝島社〈宝島社文庫〉、2008年10月。ISBN 978-4796666862 
  • ヘンドリック・ハメル 著、生田滋 訳『朝鮮幽囚記』平凡社〈東洋文庫〉、1969年1月。ISBN 978-4582801323 
  • 松浦茂『清朝のアムール政策と少数民族』京都大学学術出版会〈東洋史研究叢刊〉、2006年2月。ISBN 978-4876985272 
  • 三上次男・神田信夫 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年9月。ISBN 4-634-44030-X 
    • 荻原眞子 著「第1部第II章 民族と文化の系譜」、三上・神田 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年。 
    • 池上二良 著「第1部第III章2 東北アジアの言語分布の変遷」、三上・神田 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年。 
    • 河内良弘 著「第2部第I章2 契丹・女真」、三上・神田 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年。 
    • 神田信夫 著「第2部第I章3 満洲・漢」、三上・神田 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年。 
    • 加藤九祚 著「第2部第III章 ロシア人の進出とシベリア原住民」、三上・神田 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年。 
  • 三田村泰助 著「満州からきた王朝」、田村実造 編『世界の歴史9 最後の東洋的社会』中央公論社〈中公文庫〉、1975年3月。 
  • 三田村泰助『生活の世界歴史2 黄土を拓いた人びと』河出書房新社〈河出文庫〉、1991年5月。ISBN 4-309-47212-5 

関連項目

外部リンク