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「日本の降伏」の版間の差分

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しかしながら、憲兵隊を配下に持ち陸軍最大の権力者でもある東條が内閣総辞職して、後継内閣の背後に回ったため、その後の内閣も戦争を無理矢理継続せざるを得ず、岸が半ば命を懸けて訴えた停戦講和の必要性すら公然と検討しにくいという状態が続いた<ref>[[福田和也]] 『悪と徳と岸信介と未完の日本』 産経新聞社 2012年4月 第19回『サイパン陥落』、第20回『尊攘同志会』 pp.228-246</ref>。1944年(昭和19年)以降の[[連合国軍]]の反攻による[[日本本土空襲|日本列島への空襲]]は時間の問題であったため、戦争終結への動きは、この後も水面下で続いた。
しかしながら、憲兵隊を配下に持ち陸軍最大の権力者でもある東條が内閣総辞職して、後継内閣の背後に回ったため、その後の内閣も戦争を無理矢理継続せざるを得ず、岸が半ば命を懸けて訴えた停戦講和の必要性すら公然と検討しにくいという状態が続いた<ref>[[福田和也]] 『悪と徳と岸信介と未完の日本』 産経新聞社 2012年4月 第19回『サイパン陥落』、第20回『尊攘同志会』 pp.228-246</ref>。1944年(昭和19年)以降の[[連合国軍]]の反攻による[[日本本土空襲|日本列島への空襲]]は時間の問題であったため、戦争終結への動きは、この後も水面下で続いた。

2023年1月3日 (火) 21:21時点における版

1945年9月2日、戦艦「ミズーリ」艦上でリチャード・サザランド中将が見守る中、降伏文書に署名する重光葵外務大臣。右は随行の加瀬俊一

日本の降伏(にっぽん/にほんのこうふく)とは通常、第二次世界大戦太平洋戦争/大東亜戦争)末期の日本(大日本帝国)によるポツダム宣言受諾(1945年8月10日)から戦闘停止(8月15日)、降伏文書署名(9月2日)に至るまでの過程を指す。以下、日本及びその各占領地における経過を説明する。

ポツダム宣言受諾までの経緯

ポツダム会談の様子。写真には、クレメント・アトリーアーネスト・ベヴィンヴャチェスラフ・モロトフヨシフ・スターリンウィリアム・リーヒジェームズ・F・バーンズ及びハリー・S・トルーマンを含む。

1944年(昭和19年)7月、サイパンの戦いサイパン島が陥落すると、岸信介国務大臣兼軍需次官(開戦時は商工大臣)が東條英機首相に「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需を生産できず、軍需次官としての責任を全うできないから講和すべし」と進言した。これに対し、東條は岸に「ならば辞職せよ」と辞職を迫った。ところが、岸は東條配下の憲兵隊の脅しにも屈せず、辞職要求を拒否し続けたため、閣内不一致は明白となり、「東條幕府」とも呼ばれた開戦内閣ですら、内閣総辞職をせざるを得なくなった。

しかしながら、憲兵隊を配下に持ち陸軍最大の権力者でもある東條が内閣総辞職して、後継内閣の背後に回ったため、その後の内閣も戦争を無理矢理継続せざるを得ず、岸が半ば命を懸けて訴えた停戦講和の必要性すら公然と検討しにくいという状態が続いた[1]。1944年(昭和19年)以降の連合国軍の反攻による日本列島への空襲は時間の問題であったため、戦争終結への動きは、この後も水面下で続いた。

東條内閣の後継となった小磯内閣は、本土決戦を準備しつつも、和平工作を秘密裏に模索した。元陸相であった宇垣一成大陸に派遣し、中華民国重慶国民政府との和平交渉を打診した。そして、サイパンが陥落し、本土への連合国軍による空襲が本格化した1945年(昭和20年)3月には南京国民政府高官でありながら、既に重慶政府と通じていることが知られていた繆斌を日本に招き、和平の仲介を依頼した。ところが、重光葵外相が繆斌を信用せず、小磯国昭首相と対立し、これも閣内不一致で内閣総辞職となった。

この間の1945年2月、元首相の近衛文麿を中心としたグループは、戦争がこれ以上長期化すれば「ソビエト連邦軍による占領及び“日本の赤化”を招く」という危険性を訴えた上で、戦争の終結を求める「近衛上奏文」を昭和天皇に献言した。ところが、昭和天皇はこれを却下し、この工作を察知した憲兵隊により、吉田茂岩淵辰雄殖田俊吉らいわゆる「ヨハンセングループ」が逮捕された。そして昭和前期の日本軍・政治家・官僚は、「国体護持」を主張しつつ、もはや勝利の見通しの全く立たなくなった戦争を、更に神風特別攻撃隊まで編成して、無謀な戦闘を継続させた。

1945年4月7日に成立した鈴木貫太郎内閣東郷茂徳外相は、日ソ中立条約が翌年4月には期限が切れても、それまでは有効なはずであったことから、ソビエト社会主義共和国連邦を仲介役として和平交渉を行おうとした。東郷個人はスターリンが日本を「侵略国」と呼んでいること(1944年革命記念日演説)から、連合国との和平交渉の機会を既に逸したと見ていたものの、陸軍が日ソ中立条約の終了時、もしくはそれ以前のソ連軍の満州への侵攻を回避するための外交交渉を望んでいたため、ソ連が日本と連合国との和平を仲介すると言えば、軍部もこれを拒めないであろうという事情、また逆にソ連との交渉が破綻すれば、日本が外交的に孤立していることが明らかとなり、大本営も実質上の降伏となる条件を受け入れざるをえないであろうという打算があったとされている。かつて東郷自身、駐ソ大使として、モスクワでノモンハン事件を処理し、ソ連との和平を実現させたという成功体験も背景にあったとされる。

翌5月、最高戦争指導会議構成員会合(首相・陸相・海相・外相・陸軍参謀総長・海軍軍令部総長の6人)において、東郷外相は、ソ連の参戦防止及びソ連の中立をソ連に確約させるための外交交渉を行なうという合意を得た。当初、これには戦争終結も目的として含まれていたが、阿南惟幾陸相が「本土を失っていない日本はまだ負けていない」と反対したため、上記2項目のみを目的とすることとなった[2]。東郷は、かつての上司であった元首相の広田弘毅ヤコフ・マリクソ連大使とソ連大使館(強羅ホテルに疎開中)などで会談させたが、戦争終結のための具体的条件や「戦争終結のための依頼」であることを明言しなかったため、何ら成果はなかった。

その上、6月6日、最高戦争指導会議構成員会合で「国体護持と皇土保衛」のために戦争を完遂するという「今後採ルヘキ戦争指導ノ基本大綱」が採択され、それが御前会議で正式決定されたため、日本側からの早期の戦争終結は少なくとも表面上は全く不可能となった。にもかかわらず、矛盾する事に、木戸幸一内大臣と東郷外相及び米内光政海相は、第二次世界大戦の際限ない長期化を憂慮して、ソ連による和平の斡旋へと動き出した[3]。木戸からソ連の斡旋による早期戦争終結の提案を受けた昭和天皇はこれに同意し、6月22日の御前会議でソ連に和平斡旋を速やかに行うよう政府首脳に要請した[4]

しかし、東郷による広田・マリク会談は、それまでと同様、何ら進展しなかった。ただし広田は、1932年(昭和7年)のリットン報告書のことを考えれば遅きに失した感はあるが、マリクとの最後の会談で、和平斡旋の条件として満州国(現在の中国東北部)を中立化することをソ連に提案している[5]。しかし、マリクは政府上層部で真剣に考慮されるだろうと回答しただけであった[6]。7月7日、これを伝え聞いた天皇は東郷に親書を持った特使を派遣してはどうかと述べた[7]。そこで東郷外相は近衛に特使を依頼し、7月12日、近衛は天皇から正式に特使に任命された。日本外務省は、モスクワの日本大使館を通じて、特使派遣と和平斡旋の依頼をソ連外務省に伝えることとなった[8]

しかしながら、既にソ連は、1945年(昭和20年)2月のヤルタ会談において、ヨーロッパでの戦勝の日から3ヶ月以内に対日宣戦することで英米と合意しており、それとは矛盾する日本政府からのソ連中立の要請や、大東亜戦争の停戦講和の依頼など受けられるはずがなかった。5月から6月にかけて、ポルトガルスイスにある在外公館の陸海軍駐在武官から、ソ連の対日参戦についての情報が日本に送られたり[9]、モスクワから帰国した陸軍駐在武官補佐官の浅井勇中佐から「シベリア鉄道におけるソ連兵力の極東方面への移動」が関東軍総司令部に報告されたりしていたが[10]、これらの決定的に重要な情報は全て、日本軍・外務省の間では、不都合過ぎて真剣に共有されなかったか、重要性に気付かれないまま捨て置かれていただけであった。

1945年7月、ソ連は、ベルリン郊外のソ連支配地域であるポツダムにおいてポツダム会談を主催し、イギリスアメリカ合衆国中華民国の首脳会談によるポツダム宣言に同意する。その際、ソ連への近衛文麿特使による和平工作について、米英と協議し、ソ連は対日宣戦布告まで大日本帝国政府の照会を放置することとした。

他方、帝国政府は、なおもソ連政府による和平仲介に期待し続けた。これを受けた東郷は最高戦争指導会議と閣議において、「本宣言は有条件講和であり、これを拒否する時は極めて重大なる結果を惹起する」と発言したが、内閣総理大臣鈴木貫太郎7月28日に「政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、斷固戰争完遂に邁進する」と述べ、本土決戦に備えた。

8月6日には広島への、8月9日午前11時には長崎への原爆投下があったが、日本の降伏を決定付けたのは、8月9日未明のソ連対日参戦であった。日ソ中立条約を結んでいたソ連からの突然の宣戦布告満洲国への侵攻により、大日本帝国には「全日本軍の無条件降伏(帝国政府に対しては「ポツダム宣言受託」という条件付き降伏)」しか選択肢がなくなった[8]

ポツダム宣言受諾

松花江を渡って上陸するソ連赤軍(8月10日)
8月10日

8月10日午前0時3分から行われた第15回御前会議での議論は、東郷茂徳外相、米内光政海相、平沼騏一郎枢密院議長は、天皇の地位の保障のみを条件とするポツダム宣言受諾を主張、それに対し阿南惟幾陸相、梅津美治郎陸軍参謀総長、豊田副武軍令部総長は「受諾には多数の条件をつけるべきで、条件が拒否されたら本土決戦をするべきだ」と受諾反対を主張した。

しかし唯一の同盟国のドイツの政府は無条件降伏し、イギリスとアメリカ、オーストラリアやカナダなどの連合軍は本土に迫っており、さらに唯一の頼みの綱であった元中立国のソ連も先日の開戦により満州国や日本領土朝鮮半島に侵略し、日本本土へ迫っており、北海道上陸さえ時間の問題であった。ここで鈴木首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にしたことにより御前会議での議論は降伏へと収束し、10日の午前3時から行われた閣議で承認された。

日本政府は、ポツダム宣言受諾により全日本軍が降伏を決定する事実を、10日の午前8時に海外向けのラジオの国営放送を通じ、日本語と英語で3回にわたり世界へ放送し、また同盟通信社からモールス通信で交戦国に直接通知が行われた。また中立国の加瀬俊一スイス公使と岡本季正スウェーデン公使から、11日に両国外務大臣に手渡され、両国から連合国に渡された。しかしその後も日本政府と軍内部、特に鈴木首相や東郷外相らと阿南陸相ら陸海軍の上層部内で意見が紛糾し、第15回御前会議での決定を知らされた陸軍省では、天皇の元の会議で決定されたにもかかわらず、徹底抗戦を主張していた多数の将校から激しい反発が巻き起こった。

10日午前11時からソ連大使館側の要請によって貴族院貴賓室において東郷外相とヤコフ・マリク駐日ソ連大使の会談が行われた。その中で、マリク大使から正式に対日宣戦布告の通知が行われたのに対し、東郷外相は「日本側はソ連側からの特使派遣の回答を待っており、ポツダム宣言の受諾の可否もその回答を参考にして決められる筈なのに、その回答もせずに何をもって日本が宣言を拒否したとして突然戦争状態に入ったとしているのか」とソ連側を強く批判した。また10日夜にはソ連軍による南樺太および千島列島への進攻も開始された。

御前会議(8月14日午前11時/日本標準時)
終戦の詔書の国務大臣署名欄(8月14日)
小田原空襲後の市街地(8月14日)
日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン大統領(8月14日/東部標準時
玉音放送を聞く日本国民(8月15日12時)
占守島で戦いを続けるソ連軍と戦う日本軍(8月18日)

なおポツダム宣言は日本政府により正式に受諾されたものの、この時点では日本軍や一般市民に対してもそのことは伏せられており、さらに停戦も全軍に対して行われておらず、それはポツダム宣言受諾を受けた連合国も同様であった。つまり10日の午前8時の日本政府のポツダム宣言受諾から玉音放送、つまり日本軍戦闘停止の命令が下る15日正午までの5日間の「日本陸海軍の為の敗戦調整期間」に亡くなった両軍の戦闘員と民間人は、「無駄死」といわれることがある。実際10日には花巻空襲が行われている。

8月11日と12日

11日と12日の両日においては日本、連合国の双方において大きな動きはなかった。唯一12日午前0時過ぎに連合国は、アメリカのジェームズ・F・バーンズ国務長官による返答、いわゆる「バーンズ回答」を行った。

その回答を一部和訳すると「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に『subject to』する」というものであった。外務省は「subject to」を「制限の下に置かれる」だと緩めの翻訳、解釈をしたが、12日午前中に原文を受けとった参謀本部は、これを「隷属する」と曲解して阿南陸相に伝えたため、軍部強硬派が国体護持について再照会を主張し、鈴木首相も再照会について同調した。

8月13日

13日午前9時から行われた軍と政府の最高戦争指導会議では、「バーンズ回答」をめぐり再度議論が紛糾した上、この日の閣議は2回行われ、2回目には宣言の即時受諾が優勢となった。しかし1日以上経っても「バーンズ回答」に対して日本政府側からの回答がなかったため、アメリカ軍とアメリカ政府では「日本の回答が遅い」という意見が起きており、13日の夕刻には日本政府の決定を訝しむアメリカ軍が、東京に早期の申し入れと「バーンズ回答」を記したビラを散布している。

さらに日本政府はポツダム宣言受諾の意思を日本国民及び前線に伝えなかったために、日本政府の態度を懐疑的に見たイギリス軍やアメリカ軍との戦闘や爆撃は継続され、千葉(下記参照)や小田原熊谷土崎などへの空襲が継続された。

8月14日

14日午前11時から行われた第16回御前会議は、昭和天皇自身もその開催を待ち望んでおり、阿南は午後1時が都合がいいと申し出していたが、昭和天皇はなるべく早く開催せよと鈴木首相に命じて、午前11時開始となった[11]。御前会議ではまだ阿南陸相や梅津陸軍参謀総長らが戦争継続を主張したが(この時阿南陸相や梅津陸軍参謀総長は陸軍内でクーデターが起こることを認知していた)、昭和天皇が「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」訴えたことで、鈴木首相は至急詔書勅案奉仕の旨を拝承した。

これを受けて夕方には閣僚による終戦の詔勅への署名、深夜には昭和天皇による玉音放送が皇居内で録音され、録音されたレコードが放送局に搬出された。また加瀬スイス公使を通じて、宣言受諾に関する詔書を発布した旨、また受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国側に伝えられた。

阿南陸相は14日の御前会議の直後に井田正孝中佐ら陸軍のクーデター首謀者と会い、御前会議での昭和天皇の言葉を伝え「国体護持の問題については、本日も陛下は確証ありと仰せられ、また元帥会議でも朕は確証を有すと述べられている」[12]「御聖断は下ったのだ、この上はただただ大御心のままにすすむほかない。陛下がそう仰せられたのも、全陸軍の忠誠に信をおいておられるからにほかならない」[13]、と諄諄と説いて聞かせたが、クーデター計画の首謀者の1人であった井田中佐は納得せず「大臣の決心変更の理由をおうかがいしたい」と尋ねると、阿南陸相は「陛下はこの阿南に対し、お前の気持ちはよくわかる。苦しかろうが我慢してくれと涙を流して申された。自分としてはもはやこれ以上抗戦を主張できなかった」[14]「御聖断は下ったのである。いまはそれに従うばかりである。不服のものは自分の屍を越えていけ」と説いた[15]

また、この場でも一部の佐官から抗議の声が上がったが、阿南はその者たちに対して「君等が反抗したいなら先ず阿南を斬ってからやれ、俺の目の黒い間は、一切の妄動は許さん」と大喝している[16]

8月15日

しかし8月15日未明には、「聖断」をも無視する椎崎二郎中佐や井田正孝中佐などの狂信的な陸軍軍人らにより、玉音放送の録音音源の強奪とクーデター未遂事件が皇居を舞台に発生し、森赳近衛師団長が殺害されたが、15日朝に鎮圧される(宮城事件)など、昭和天皇の元ポツダム宣言受諾をしたにもかかわらず陸軍内で争いが起きていた。また、午前6時過ぎにクーデターの発生を伝えられた昭和天皇は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べている。

正午の昭和天皇によるラジオ放送、いわゆる玉音放送をもって、改めてポツダム宣言受諾を日本の全国民と全軍に表明し、ここに全軍の戦闘行為は停止された[17]。なお昭和天皇がラジオで国民に向けて話すのはこれが初めてのことであった。

公式な第二次世界大戦の最後の戦死者は、15日の午前10時過ぎに、イギリス海軍空母「インディファティガブル」から化学製品工場を爆撃すべく千葉県長生郡に飛来したグラマン TBF アヴェンジャーが日本軍に撃墜され、乗組員3名が死亡したものだった。なお、同作戦でスーパーマリン シーファイア零式艦上戦闘機との戦闘で撃墜され、フレッド・ホックレー少尉が無事パラシュート降下し陸軍第147師団歩兵第426連隊に捕えられ、その約1時間後に玉音放送があったもののそのまま解放されず、夜になり陸軍将校により斬首された事件も発生した(一宮町事件)。

なおソ連軍による日本侵攻作戦は、自ら8月9日に承認したポツダム宣言受諾による戦闘行為停止の8月15日正午のみならず、9月2日の日本との降伏文調印をも完全に無視して継続された。南樺太と千島列島、満洲などは沖縄戦同様民間人を巻き込んだ凄惨な地上戦となった。

また満州ではソ連軍や中華民国軍より逃げ遅れた日本人開拓民が混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残ることとなった。結局ソ連軍は満洲のみならず、日本領土の南樺太、北千島択捉国後色丹歯舞朝鮮半島北部の全域を完全に支配下に置いた9月5日になってようやく、一方的で違法な戦闘攻撃を終了した。

停戦後

特攻直前の宇垣纒中将(8月16日)

8月15日正午からの玉音放送終了後、ただちに終戦に伴う臨時閣議が開催され、まず鈴木首相から阿南陸相の自決が報告された。また午後に大本営大日本帝国陸軍及び大日本帝国海軍に対して「別に命令するまで各々の現任務を続行すべし」と命令し、8月16日に自衛の為の戦闘行動以外の戦闘行動を停止するように命令した[18]。しかし、日本の敗戦を知った厚木基地の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり、停戦連絡機を破壊するなどの抵抗をしたが、まもなく徹底抗戦や戦争継続の主張は止んだ。他は大きな反乱は起こらず、外地や占領地を含むほぼ全ての日本軍が速やかに戦闘を停止した。

15日早朝の陸軍によるクーデター発生最中に自決した阿南惟幾陸相をはじめ、「武人としての死に場所を与えてくれ」と11機23名(うち5人が生還)とともに玉音放送を受け特攻機で命を絶った宇垣纏中将、ウルシー沖から伊401で内地へ帰投する途中アメリカ軍に拿捕される直前、艦内で自決した有泉龍之助大佐[19]陸軍省参謀本部大正天皇御野立所で切腹した晴気誠少佐など、日本の降伏を受け入れられず、また降伏の責任を負って、または連合国からの逮捕を逃れ、皇居前や代々木練兵場、内外の基地、自宅などで自ら命を絶った軍人や政治家、民間人は数千人に渡った。また東条英機元陸相のように9月になってから連合国軍総司令部から逮捕、出頭を命ざれたあと、自殺に失敗し逮捕される者もいた。

東久邇宮稔彦王と内閣(8月17日)
アメリカ海軍のF6Fに護衛されながら飛行する機上作業練習機「白菊」緑十字機(8月19日)
敗戦後の漢口基地に駐機された飛行第85戦隊および飛行第22戦隊疾風

なお17日には、日本本土を偵察に来たB-32を、厚木基地の日本軍機が攻撃し、翌日米側搭乗員1名が死亡するなどのトラブルが起きた。しかし、本土では同じような連合国とのトラブルはこれ以降おこらなかった上、すぐにイギリス軍やアメリカ軍が陸海空軍の相当数の部隊を上陸できる体制にあった。

しかし、わずか20数年前の第一次世界大戦で負けたばかりのドイツとは違い、日本が国家として確立して以来初めての敗戦で、さらに未だに本土と首都が陥落していなかった上に、まだ相当の軍人と武器や航空機、船舶が残っていた日本に対する連合国軍の動きは慎重に慎重を重ね、連合国軍の日本占領部隊の第一弾であるアメリカ軍が日本本土に上陸するまでに、結果として約2週間を要するという異例な長さだった。

17日に鈴木貫太郎内閣は総辞職し、皇族である東久邇宮稔彦王が首相を継いだ。皇族が首相についたのは武器解除を速やかに進めるためともいわれ、皇族の首相は初めてのことであった。副総理格の国務大臣には近衛文麿、大蔵大臣には津島寿一内閣書記官長情報局総裁には緒方竹虎が任命された。また海軍大臣には元首相の米内光政が留任したが、外務大臣への留任を要請された東郷茂徳は開戦時の戦争責任を問われる可能性があるとしてこれを辞退したため、代わりに重光葵が任命された。陸軍大臣は任命が内定していた下村定陸軍大将が23日に帰国するまでの間、東久邇宮が兼任した。

なおこの時点においても、日本は連合軍に占領された沖縄県を除く日本本土と樺太千島、台湾、朝鮮半島などの開戦前からの元来の領土の他に、中華民国の上海をはじめとする沿岸部、現在のベトナム、マレー半島、インドネシア、ティモールなどの北東アジアから東南アジア、ウェーク島からラバウルなど太平洋地域にも広大な占領地を維持しており、他にもタイや満州国などの友好国、スイスやスペイン、アフガニスタンやチリなどの中立国に膨大な数の民間人と軍人が駐留していることから、これらの地からの引き上げと権限の移譲を速やかに行う必要があった。

そこで16日に連合国は中立国スイスを通じ、日本に対して占領軍の日本本土受け入れや、総勢1万数千機以上の残存機、空母や戦艦、潜水艦など数千隻の残存艇に上る各地の日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼した。これを受けて19日には、日本政府側の停戦全権委員が2機の緑十字飛行の塗装をした一式陸上攻撃機木更津から伊江島に飛行し、そこからダグラスC-54でマニラへと向かい、マニラ・ホテルでチャールズ・ウィロビー少将らなどと停戦及び全権移譲の会談をするなど、イギリス軍やオーストラリア軍、アメリカ軍やフランス軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。

バターン号厚木海軍飛行場に到着したマッカーサー元帥と幕僚たち(1945年8月30日)

しかし、ルバング島で日本軍の残留兵として戦い続けた小野田寛郎の様に、1974年まで日本軍の将兵として戦闘行為を継続していたものや、アナタハン島のように島単位で引き上げから取り残されるものも発生した。

さらには、引き上げを受け入れず「欧米諸国からのアジアの解放」という、大東亜戦争の理念を信じて、ジャワやビルマ、マレーなどで勃発したイギリスやオランダからの独立戦争に協力する日本軍の将兵や、再び国共内戦に向かいつつある中華民国軍に佐官級で残ることを依頼されそのまま残留を決めたもの(通化事件)、のちに個人の意思で中国共産党の人民解放軍に編入されたものもいた[注釈 1]。また、これらの独立戦争で戦う側とフランスやオランダなどの現地の政府軍などの双方に、日本軍の残留した航空機(九九式襲撃機九八式直接協同偵察機など)や戦車、銃器など接収した武器がそのまま利用されることも多かった。

また、日本の後ろ盾を失った満洲国はソ連軍の侵攻を受けて崩壊し、18日に退位した皇帝の愛新覚羅溥儀愛新覚羅溥傑ら満洲国帝室と、関東軍の吉岡安直中将や橋本虎之助中将などはその後日本への亡命を図るが、奉天に侵攻してきたソ連軍に身柄を拘束された。さらに、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたスターリンの命令で、ソ連軍は日本の降伏後も南樺太・千島への攻撃を継続した。22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃を受ける三船殉難事件が発生した。北方領土択捉島国後島は8月末、歯舞諸島占領は9月上旬になってからであった。

なお日本と同盟下にあったタイは、16日の日本降伏後に日本側の内諾を得た上で「宣戦布告の無効宣言」を発し、連合国側と独自に講和した[20]

上記のような準備と混乱を経て、ようやく停戦から2週間後の28日に連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてチャールズ・テンチ大佐率いる45機のカーチスC-47からなるアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着。同基地を占領した。また、同日大森の英米軍の捕虜収容所にアメリカ海軍の軽巡洋艦「サンファン」から上陸用舟艇が手配され、病院船「ビネボレンス」に怪我人などを収容していった。30日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も厚木基地に到着、午後に横浜市内のホテルニューグランドに宿をとった。続いてイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍、カナダ軍、中華民国軍、フランス軍、ソ連軍などの日本占領部隊も到着した。

降伏文書調印

戦艦「ミズーリ」艦上の日本側全権代表団(9月2日)
連合国側全権代表団(9月2日)
退艦する日本側全権代表団(9月2日)

降伏文書調印式は9月2日に、東京湾(内の瀬水道中央部千葉県寄りの海域)に停泊中のアメリカ海軍戦艦「ミズーリ」艦上[21]で、日本側全権代表団と連合国代表が出席して行われた。

午前8時56分に「ミズーリ」艦上に日本側全権代表団が到着した。日本側代表団は、大日本帝国政府全権外務大臣重光葵大本営全権参謀総長梅津美治郎陸軍大将、随員は終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男、参謀本部第一部長宮崎周一陸軍中将、軍令部第一部長富岡定俊海軍少将(軍令部総長豊田副武海軍大将は出席拒否)、大本営陸軍部参謀永井八津次陸軍少将、海軍省出仕横山一郎海軍少将、大本営海軍部参謀柴勝男海軍大佐、大本営陸軍部参謀杉田一次陸軍大佐、内閣情報局第三部長加瀬俊一、終戦連絡中央事務局第三部長太田三郎らであった。

先に到着していた連合国側全権代表団は、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、中華民国、アメリカ、フランス、オランダなど17カ国の代表団と、さらには8月8日に参戦し、15日の日本軍の停戦を無視して満洲や択捉島などで進軍を続けていたソビエト連邦の代表団も「戦勝国」の一員として臨席した。9時2分に日本側全権代表団による対連合国降伏文書への調印が、その後連合国側全権代表団による調印が行われ、9時25分にマッカーサー連合国軍最高司令官による降伏文書調印式の終了が宣言され、ここに1939年9月1日から足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。

しかし、そのとき甲板ではカナダ代表が署名する欄を間違えたことによる4ヶ国代表の署名欄にずれが見つかり、正式文書として通用しないとして降伏文書の訂正がなされていた。具体的には、連合国用と日本用の2通の文書のうち、日本用文書にカナダ代表のエル・コスグレーブ大佐が署名する際、自国の署名欄ではなく1段飛ばしたフランス代表団の欄に署名した。しかし、次の代表であるフランスのフィリップ・ルクレール大将はこれに気づかずオランダ代表の欄に署名、続くオランダのコンラート・ヘルフリッヒ大将は間違いには気づいたものの、マッカーサー元帥の指示に従い渋々ニュージーランド代表の欄に署名した。最後の署名となるニュージーランドのレナード・イシット少将もアメリカ側の指示に従い欄外に署名することとなり、結果的にカナダ代表の欄が空欄となった。

その後各国代表は祝賀会の為に船室に移動したが、オランダ代表のヘルフリッヒ大将はその場に残り、日本側代表団の岡崎勝男に署名の間違いを指摘した。岡崎が困惑する中、マッカーサー元帥の参謀長リチャード・サザーランド中将は日本側に降伏文書をこのまま受け入れるよう説得したが、「不備な文書では枢密院の条約審議を通らない」と重光がこれを拒否したため、岡崎はサザーランド中将に各国代表の署名し直しを求めた。しかし、各国代表はすでに祝賀会の最中だとしてこれを拒否。結局、マッカーサー元帥の代理としてサザーランド中将が間違った4カ国の署名欄を訂正することとなった。日本側代表団はこれを受け入れ、9時30分に退艦した。

さらに翌9月3日に、連合国軍最高司令官総司令部はトルーマン大統領の布告を受け、「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言を反故にし、「行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く」という布告を下し、さらに「公用語も英語にする」とした。

これに対して重光外相は、マッカーサー連合国軍最高司令官に「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを強く要求した。その結果、連合国軍側は即時にトルーマン大統領の布告の即時取り下げを行い、占領政策はポツダム宣言の条件通りに日本政府を通した間接統治となった連合国軍占領下の日本も参照)[22][注釈 2]

旅順口区を不法占領したソ連軍(9月15日)

一方、中四国イギリス連邦占領軍が駐留することに決まり、また沖縄県を含む南西諸島および小笠原諸島は停戦時にすでにアメリカ軍の占領下ないし勢力下にあり、小笠原諸島は1968年まで、沖縄は1972年の本土復帰までアメリカの被占領の歴史を歩んだ。

なお連合国軍は直ちに日本軍および政府関係者40人の逮捕令状を出し[23]、のちに極東国際軍事裁判などで裁かれた。また中華民国や香港、フィリピン、マレー、シンガポールなどにいた日本軍人はそれぞれの現地で捕虜となり、その後B級並びにC級戦犯として、現地で裁判に掛るものが多かった。

さらにソ連の捕虜になった日本軍将兵は、シベリア抑留などで強制就労にさせられ5万5千人が現地で死亡した。その後帰国してきた軍人も、赤化されているだけでなく瀬島龍三中佐のようにソ連軍のスパイ(スリーパー)として仕込まれているものも多かった[24]。また民間人や軍属なども帰国の途に就いたが、自国領土の台湾や朝鮮、またマレーやインドシナなどからは比較的順調に行ったものの、中華民国や満州国からの帰国はソ連の占領下にあるなど混乱が多く、中国残留孤児など戦後の混乱でやむなく置いておかれるものも多かった。

占領軍による間接統治

厚木航空隊事件」のような反乱事件がいくつか起きたものの、日本国内、アジア各地に展開していた日本軍は、ほとんど抵抗らしい抵抗もなく約60日で武装解除された[25]。満州、南樺太(サハリン)、千島列島などにいた日本軍兵士数10万人(86万人といわれる)は、ソ連軍によって武装解除後シベリアをはじめとするソ連領内に連れ去られ、1年から数年にわたる過酷な自然と劣悪な待遇の元で強制労働に服し、約6万8,000人が死亡した[26]

日本は朝鮮半島を米ソに、台湾を中華民国に、南樺太及び千島列島及び歯舞・色丹をソ連に、「本州北海道九州四国並びに吾等(連合国)の決定する小島」(ポツダム宣言)をイギリス軍とアメリカ軍によって占領されたが、同じ敗戦国のドイツとは違い、日本政府による統治が継続されたことから、イデオロギーが対立する複数の連合国による分割占領を免れた[26]

ソ連は参戦後に釧路市と留萌町(現在の留萌市)の両都市と、それらを結ぶ線より北の北海道を占領する意向を8月15日に示したが、アメリカ合衆国大統領トルーマンが即座に拒否した。マッカーサーは、初め日本を直接に統治する軍政を布こうとし、9月3日にその旨布告しようとしていたが、前日にこの方針を知った日本政府の苦情を受け入れ、結局、日本政府を通じた間接統治の形をとることとした[26]

このマッカーサーの突然の判断変更の背景事情としては、アメリカの対日政策立案を1944年暮れから手がけていた、SWNCC(スウンク;国務・陸軍・海軍調整委員会)が、1945年8月22日から31日にかけて起草した「降伏後におけるアメリカの初期の対日方針」の中で「最高司令官は・・・天皇を含む日本政府機構及諸機関を通じて其権限を行使すべし」、つまり間接統治が対日占領政策として最適であろうと分析していたことが上げられる[26]

日本政府は、イギリス連邦占領軍とアメリカ軍を中心とした連合国軍による占領統治の下に置かれ、GHQが一連の戦後改革連合国軍最高司令官の布告・命令・指示によって展開させた。1946年(昭和21年)11月3日に、大日本帝国憲法が改正された日本国憲法が公布され、1947年(昭和22年)5月3日に同憲法が施行された。

占領の終了と日本の主権回復

1951年7月20日、日本政府に講和会議出席の招請状が届いた[27]。その10日前の7月10日には開城(ケソン)で朝鮮戦争の休戦会議が始まっていた[27]。9月8日に、サンフランシスコ市内のオペラハウスで、サンフランシスコ平和条約日本を含む49か国で調印され、日本の主権が回復した[27]

講和会議に招かれた52か国のうち、ソ連とチェコスロバキアポーランドは、米英などとの意見の対立から調印を拒否した[27]。また、戦後独立したばかりで独立国家として日本と対戦していなかったインドビルマユーゴスラビアは招請に応じなかった。また、国共内戦の結果台湾へ逃れた中華民国と、建国されたばかりで日本と交戦していない中華人民共和国枢軸国として日本の同盟国であったドイツを引き継いだ西ドイツ東ドイツイタリアは招請されなかった[27]

なお、出来たばかりの大韓民国は会議への招請を主張したが、大戦当時の朝鮮半島は日本領土であるうえに、朝鮮人の多くが自主的に日本軍や満洲軍の将兵として参戦しており(のちの朴正煕大統領など)、臨時政府を承認されなかったことを理由にアメリカから招請を拒否された[28][29]

講和条約が発効し、連合国軍による日本占領が終結したのは、1952年4月28日であった[27]。しかしながら、横井庄一小野田寛郎に代表されるように、少なからぬ日本兵が終戦の伝達が困難な環境で潜伏していたために終戦後も戦闘状態を長期継続していた(ただし、大半は、数年で帰還した)。旧日本軍兵士や満蒙開拓青少年義勇軍たちの中には、八路軍国民政府軍に強制的に参加させられ、国共内戦に従軍した者もあった[30]。また、自ら除隊し、インドネシア独立戦争や、ベトナム独立戦争に身を投じる者もいた。

「終戦の日」はいつか

伝統的な戦時国際法において休戦協定の合意は口頭による同意によれば良く文書の手交を要件としない。このため休戦が協定された日と休戦協定が外交文書(降伏文書)として固定された日は異なり、実際に各地の戦線で休戦が合意された日もまた異なる。そのため現実に戦闘が停止された日付(あるいは現地日本軍が降伏した日、あるいは降伏式を執り行った日付)には前後があり、また日本政府が停戦を通告した日(最初のものは短波ラジオを通じた8月10日)、連合国の各司令部により停戦の事実が確認された日などにも前後関係がある。

今日、「終戦の日」とは、昭和天皇が「玉音放送」によって、日本政府がポツダム宣言の受諾(=日本軍の降伏表明)を連合国側に通告したことを、国民に放送を通じて公表した1945年(昭和20年)8月15日とするのが一般的である。一方、日本政府がポツダム宣言の受諾を連合国側に通告したのは、前日の8月14日であり、玉音放送によって読み上げられた「終戦の詔書」の日付もその日となっている。

日本政府及び連合国代表が降伏文書に調印した日は、1945年(昭和20年)9月2日であり、連合国ではこの日を「対日戦勝記念日」としている例が多いが、中華民国や中華人民共和国、旧ソビエト連邦のように9月3日とする国もある。なお国際条約として日本国が交戦国と正式に平和条約などを締約し戦争状態が終了した日は日本国との平和条約が発効した1952年4月28日、日本国と中華民国との間の平和条約が発効した1952年8月5日、日ソ共同宣言が発効した1956年12月12日である(ただし日ソ共同宣言は戦争状態の終了を確認した条約であって平和条約ではない)。

終戦工作の例

日本軍が有利な展開なうちに早期に休戦・終結させる試みは、1942年(昭和17年)の時期から一部の政治家・官僚・民間人の間で摸索された。しかし、戦争勝利を大義とした東條内閣及び軍部により弾圧され、中野正剛のように自決に追い込まれる者もいた。終戦工作としては、他に以下のようなものが知られる。

これらはいずれも和平条件の問題や日本側による仲介者への不信、時機などから、実現には至らなかった。

軍の降伏

日本軍は、各地域でGHQに対する降伏と降伏式を行った。降伏先の指定は1945年9月2日の降伏文書調印直後に「一般命令第一号」としてGHQから発令された。

本土

  • 青森県:9月9日、海軍大湊警備府司令長官の宇垣完爾、陸軍50軍司令官の星野利元、県知事の金井元彦らが大湊湾洋上のアメリカ軍艦パミナント上で占領命令書に署名している[37]。アメリカ軍側は9月2日に日本と連合国の降伏文書調印を踏まえ、24時間以内に北海道と北東北を管轄する同警備府が武装解除することなどを命じている。

沖縄

外地・大陸・南方

参考文献

史伝資料

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    • 改訂版「終戦史録」 北洋社(全6巻・別巻[43]), 1977-78
  • 外務省編「日本の選択 第二次世界大戦 終戦史録」 山手書房新社(3巻組), 1990
  • 外務省編「初期対日占領政策 朝海浩一郎報告書」毎日新聞社(上下), 1978-79
  • 江藤淳監修、栗原健波多野澄雄編「終戦工作の記録」、講談社文庫(上下), 1986
  • 江藤淳編・波多野澄雄解題「占領史録」(全4巻)、講談社, 1981-82/講談社学術文庫, 1989、文庫新版(上下), 1995
  • 林茂辻清明編「日本内閣史録 5」第一法規, 1981(全6巻)
  • 鹿島平和研究所編「日本外交史 25 大東亜戦争・終戦外交」 松本俊一監修, 1972 
  • 同上「日本外交史 26 終戦から講和」 鈴木九萬監修, 1973、鹿島出版会(各新版)
  • 中尾裕次編「昭和天皇発言記録集成」 芙蓉書房出版(上下), 2003
  • 参謀本部所蔵 「敗戦の記録」 原書房, 1967、新版1989、2005
  • 森松俊夫監修「『大本營陸軍部』大陸命・大陸指総集成 10巻」エムティ出版, 1994
  • 防衛庁防衛研修所戦史室「大本營陸軍部10 昭和二十年八月まで」朝雲新聞社, 1975
  • 軍事史学会編「大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌」 錦正社(上下), 1998/新版合本2008
  • 佐藤元英黒沢文貴編「GHQ歴史課陳述録 終戦史資料」原書房(上下), 2002
  • 外務省編『日本外交文書 占領期』 六一書房(全3巻), 2017-2018
    • 『日本外交文書 占領期 関係調書集』 六一書房, 2019

日記・回想録

  • 鈴木一編「鈴木貫太郎自伝」時事通信社, 1968、新版1985[44]
  • 鈴木貫太郎伝記編纂委員会編「鈴木貫太郎伝」鈴木貫太郎伝記編纂委員会, 1960
    • 新版「歴代総理大臣伝記叢書32 鈴木貫太郎」ゆまに書房, 2006
  • 「東久邇日記 日本激動期の秘録」徳間書店, 1968
    • 東久邇稔彦「一皇族の戦争日記」日本週報社, 1957 /「私の記録」東方書房, 1947
  • 東郷茂徳「時代の一面 東郷茂徳外交手記」 改造社, 1952 / 原書房, 新版2005 / 中公文庫, 新版2021
  • 迫水久常「機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで」 恒文社, 1964、新版1986 / ちくま学芸文庫, 2011
  • 迫水久常「大日本帝国最後の四か月」 オリエント書房, 1973 / 河出文庫, 2015
  • 下村海南「終戦秘史」 講談社, 1950 / 講談社学術文庫, 1985
  • 藤田尚徳侍従長の回想」 講談社, 1961 / 中公文庫, 1987 / 講談社学術文庫, 2015
  • 細川護貞「細川日記」 中央公論社(新版), 1978 / 中公文庫(上下), 1979、改版2002
  • 重光葵「重光葵手記」(正・続) 中央公論社, 1986-88
  • 重光葵「昭和の動乱」(上・下) 中央公論社, 1952 / 中公文庫, 2001
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  • 岡崎勝男「戦後二十年の遍歴」 中公文庫, 1999。初刊・私家版
  • 木戸幸一「木戸幸一日記」 東京大学出版会(上・下), 1966
  • 「証言・私の昭和史5 終戦前後」聞き手三國一郎、旺文社文庫、文春文庫(新版), 1989
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  • 「証言記録 太平洋戦争 終戦への決断」サンケイ新聞社「第二次世界大戦ブックス」, 1975
  • 富田健治「敗戦日本の内側」古今書院, 1962
    • 「近衛文麿と日米開戦――内閣書記官長が残した『敗戦日本の内側』」祥伝社新書, 2019。川田稔解説。
  • 松村謙三「三代回顧録」東洋経済新報社, 1964 / 新版・吉田書店、2021年。武田知己編
  • 高松宮宣仁親王「高松宮日記」 中央公論新社(全8巻), 1997
  • 河辺虎四郎回想録 市ヶ谷台から市ヶ谷台へ」 時事通信社, 1962 / 毎日新聞社, 1979
  • 保科善四郎大東亜戦争秘史 失われた和平工作」原書房, 1975
  • 「最後の参謀総長 梅津美治郎」 同刊行会編、芙蓉書房, 1976
  • 有末精三「終戦秘史 有末機関長の手記」 芙蓉書房, 1987(新版)
  • 宮崎周一「大本営陸軍部作戦部長 宮崎周一中将日誌」 錦正社, 2003
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  • 富岡定俊「開戦と終戦」毎日新聞社, 1968 / 中公文庫, 2018
  • 高木惣吉「自伝的日本海軍始末記 続篇」光人社, 1979
  • 藤田信勝「敗戦以後」秋田屋, 1947 / リーダーズノート新書, 2011

歴史書・伝記

  • 半藤一利決定版 日本のいちばん長い日」 文藝春秋, 1995、文春文庫, 2006
  • 半藤一利「聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎」 文藝春秋, 1985/PHP文庫(新版), 2006
  • 小堀桂一郎「宰相鈴木貫太郎」 文藝春秋, 1982、文春文庫, 1987
    • 「鈴木貫太郎 用うるに玄黙より大なるはなし」 ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉, 2016。増訂版
  • 波多野澄雄「宰相鈴木貫太郎の決断 「聖断」と戦後日本」岩波書店〈岩波現代全書〉, 2015
  • 萩原延壽「東郷茂徳 伝記と解説」 原書房, 2005(新版)/朝日新聞社, 2008
  • 東郷茂彦「祖父東郷茂徳の生涯」 文藝春秋, 1993
  • 豊田穣「孤高の外相 重光葵」 講談社, 1990
  • 渡辺行男「重光葵 上海事変から国連加盟まで」中公新書, 1996
  • 実松譲米内光政正伝」光人社, 2009(新版)
  • 「海軍大将米内光政覚書 太平洋戦争終結の真相」実松譲編、産経NF文庫, 2022。元版:光人社
  • 「昭和史の天皇」 中公文庫(1-4), 2012。元版:読売新聞社(全30巻), 1980完結
    • 「天皇の終戦 激動の227日」 読売新聞社, 1988 - 上記の再編版
  • 入江隆則「敗者の戦後」 中央公論社〈中公叢書〉, 1989/文春学藝ライブラリー(文庫新版), 2015
  • 長谷川毅「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」 中央公論新社, 2006、中公文庫(上下), 2011
  • 仲晃「黙殺 ポツダム宣言の真実と日本の運命」 NHKブックス(上下), 2000
  • 五百旗頭真「占領期 首相たちの新日本」 読売新聞社〈20世紀の日本3〉, 1997/講談社学術文庫, 2007
  • 五百旗頭真「日本の近代6 戦争・占領・講和 1941〜1955」 中央公論新社, 2001、中公文庫, 2013
  • 戸部良一「日本の近代9 逆説の軍隊」 中央公論新社, 1998、中公文庫, 2012
  • 児島襄「天皇5 帝国の終焉」 カゼット出版(新版、全5巻), 2007
  • ジョン・トーランド「大日本帝国の興亡5 平和への道」 毎日新聞社外信部訳、ハヤカワ文庫(全5巻)、2015(新版)
  • レスター・ブルークス「終戦秘話 一つの帝国を終わらせた秘密闘争」井上勇訳、時事通信社, 1968、新版1985。原題はBehind Japan's surrender
  • 芦田均「第二次世界大戦外交史」岩波文庫(上下), 2015(新版)。解説井上寿一

個別研究

  • 五百旗頭真『日米戦争と戦後日本』(新版)講談社学術文庫、2005年。 
  • 保阪正康新版 敗戦前後の日本人』朝日文庫、2007年。 
  • アービン・クックス 著、加藤俊平 訳『天皇の決断 昭和20年8月15日』サンケイ新聞社〈第二次世界大戦ブックス〉、1971年。 
  • 遠山茂樹今井清一藤原彰昭和史(新版)岩波新書、1959年。 
  • 纐纈厚『日本降伏 迷走する戦争指導の果てに』日本評論社、2013年。 
  • 加藤聖文『「大日本帝国」崩壊 東アジアの1945年中公新書、2009年7月。ISBN 4-12-102015-4 
  • 趙景達『植民地朝鮮と日本』岩波新書、2013年。 
  • 若林正丈『台湾 変容し躊躇するアイディンティティ』ちくま新書、2001年。 
  • 小倉貞男『物語ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』中公新書、1997年7月。ISBN 4-12-101372-7 
  • 小林英夫『日本軍政下のアジア』岩波新書、1993年。 
  • 中野聡 著「植民地統治と南方軍政―帝国・日本の解体と東南アジア」、編集委員倉沢愛子ほか 編『岩波講座アジア・太平洋戦争 第7巻 支配と暴力』岩波書店、2006年。 

辞典・事典項目

その他

  • 『消えた潜水艦とたった一人の和平工作』(日本テレビ「知ってるつもり?!」2002年5月28日放送分)

脚注

注釈

  1. ^ 林航空隊は東北民主連軍航空学校として中国人民解放軍空軍創立に尽力した。
  2. ^ 永井和によれば、重光の具申により方針を撤回させたことは重要であり、無条件降伏があくまで日本軍に対するものであって国に対するものではないことに基づくとする。
  3. ^ 沖縄戦の降伏文書には、リーガル版の厚手の用紙が使用されており、米軍側は青インクで署名をしている[38]

出典

  1. ^ 福田和也 『悪と徳と岸信介と未完の日本』 産経新聞社 2012年4月 第19回『サイパン陥落』、第20回『尊攘同志会』 pp.228-246
  2. ^ 長谷川毅『暗闘(上)』中公文庫、2011年、p151
  3. ^ 『暗闘(上)』 p.198
  4. ^ 『暗闘(上) 』 pp.290 - 212、218 - 220
  5. ^ 『満洲国―「民族協和」の実像』塚瀬進 吉川弘文館 p.147
  6. ^ 『暗闘(上)』 p.226
  7. ^ 『暗闘(上)』 pp.248 - 250
  8. ^ a b 寺崎英成著 『昭和天皇独白録』 136ページによれば、「私が今迄聞いてゐた所では、海岸地方の防備が悪いといふ事であつたが、報告に依ると、海岸のみならず、決戦師団さへ、武器が満足に行き渡つてゐないと云ふ事だつた。敵の落した爆弾の鉄を利用して「シャベル」を作るのだと云ふ、これでは戦争は不可能と云ふ事を確認した。木戸は米内にも東郷にも鈴木にも意見を聞いたが、皆講和したいと云ふ、然し誰も進んで云ひ出さない。それで私は最高指導会議の者を呼んで、速かに講和の手筈を進める様に云つた。「ソビエト」を経てやれと云つたかどうかは記憶して居らぬ。この時鈴木その他から先づ「ソビエト」の肝を探らうと、云ひ出した、私はそれは良い事と思ふが、現状に於ては速かに事を処理する必要があると云つた。これですつかり講和の決意が出来て安心した、但し講和の条件に付ては、皆各と意見があつた。之と前后して、鈴木は詔書を出して国民を激励して頂きたいと云つて釆たが、前述の理由で、絶対に反対だと云つたら、鈴木は御尤もだと云つて帰つた。どうも政府も軍人も二股かける傾向があるのはよろしくない。この場合鈴木だから、隔意なく思ふ事が云へたのだ。・・・然しソ連は誠意ある国とは思へないので、先づ探りを入れる必要がある、それでもし石油を輸入して呉れるなら南樺太も、満洲も与へてよいといふ内容の広田「マリク」会談を進める事にした。しかし、「スターリン」は会議から帰つた后も、返事を寄越さず、その中に、不幸にして「ソビエト」の宣戦布告となつた。こうなつては最早無条件降伏の外はない。」とある
  9. ^ NHKスペシャル「終戦 なぜ早く決められなかったのか」(2012年8月15日放映)[1]。当番組では連合国に傍受解読された駐在武官発の電報(ロンドンに保存)が紹介された。
  10. ^ NHK取材班 『太平洋戦争 日本の敗因6 外交なき戦争の終末』 角川文庫、1995年、pp.204 - 208
  11. ^ 新人物往来社 1995, p. 166.
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  21. ^ 外務省
  22. ^ 杉田一次の回想-2-杉田一次著『情報なきミズリー号艦上の降伏調印 映像で見る占領期の日本-占領軍撮影フィルムを見る- 永井和京都大学教授
  23. ^ 「大日本帝国の興亡5」ジョン・ト―ランド著 早川書房 P.318
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  25. ^ 石川真澄 『戦後政治史 新版』(2004年)岩波新書、6ページ
  26. ^ a b c d 石川真澄 『戦後政治史 新版』(2004年)岩波新書、7ページ
  27. ^ a b c d e f 石川真澄著『戦後政治史 新版』(2004年)岩波新書56ページ
  28. ^ United States Department of State (1951). United States Department of State / Foreign relations of the United States, 1951. Asia and the Pacific (in two parts). VI, Part 1. pp. p. 1296. http://digital.library.wisc.edu/1711.dl/FRUS.FRUS1951v06p1 
  29. ^ 塚本孝「韓国の対日平和条約署名問題」『レファレンス』 494巻、国立国会図書館調査立法考査局、1992年3月、95-101頁。 
  30. ^ 池谷薫『蟻の兵隊 日本兵2600人山西省残留の真相』(新潮社、2007年(平成19年))、米濱泰英『日本軍「山西残留」』(オーラル・ヒストリー企画、2008年(平成20年)6月)、山口盈文『僕は八路軍の少年兵だった』(草思社 1994年(平成6年)、新版が光人社文庫、2006年)に詳しい、また中国山西省日本軍残留問題を参照。
  31. ^ 回想に小野寺百合子『バルト海のほとりにて 武官の妻の大東亜戦争』(共同通信社。初版1985年)。
  32. ^ 情報開示により近年研究が進み、評伝に岡部伸(産経新聞編集委員)による『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』(新潮選書、2012年)、『「諜報の神様」と呼ばれた男 連合国が恐れた情報士官小野寺信の流儀』(PHP研究所、2014年)がある。
  33. ^ 小野寺工作を元に、作家の佐々木譲が小説で『ストックホルムの密使』(新潮社、のち新潮文庫)を著し、1995年(平成7年)10月に、NHKでドラマ放送(前・後)された。
  34. ^ 岡本・加瀬のルートによるスイスでの活動は、竹内修司『幻の終戦工作 ピース・フィーラーズ1945夏』(文春新書2005年)に詳しい。著者は『月刊文藝春秋』、『諸君!』などの編集者で、昭和史関連の著作編集を行っている。なお、岡本・加瀬と藤村は別個に活動しており、お互いの活動をほとんど知らなかったとされる。
  35. ^ 有馬哲夫『「スイス諜報網」の日米終戦工作 ポツダム宣言はなぜ受けいれられたか』(新潮選書、2015年)では、藤村の和平工作に否定的な見解を述べている。
  36. ^ 藤村=ダレス工作を元に、作家の西村京太郎が小説『D機関情報』(講談社)を著し、『アナザー・ウェイ ―D機関情報―』(主演役所広司1988年)で映画化された。
  37. ^ 「占領の瞬間生々しく 降伏式の写真見つかる」デーリー東北新聞社オンライン(2010/03/11)[2]
  38. ^ a b “日本軍の降伏文書 公開 沖縄市が終戦70年展”. 琉球新報. (2015年8月19日). http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-247513.html 2016年5月27日閲覧。 
  39. ^ 9月7日 沖縄での降伏調印式 (1945年)”. 沖縄県公文書館. 2016年5月28日閲覧。
  40. ^ 独立混成第5旅団(桐)l”. アジア歴史資料センター. 2018年12月21日閲覧。
  41. ^ Second Instrument of Surrender Document”. Lillian Goldman Law Library. 2018年12月21日閲覧。
  42. ^ Instrument of Surrender, Rabaul”. National Archives of Australia. 2018年12月21日閲覧。
  43. ^ 別巻は「終戦を問い直す シンポジウム」栗原健ほか編、江藤淳解説, 1980。
  44. ^ 時事及び図書センター版は、回顧談「終戦の表情」(労働文化社, 1946)を収録
  45. ^ 終戦・占領での当事者・その親族13名へのインタビュー

関連項目