「国鉄キハ04形気動車」の版間の差分
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2023年1月7日 (土) 18:28時点における版
国鉄キハ04形気動車(こくてつキハ04がたきどうしゃ)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)に在籍した、一般形機械式ディーゼル動車である[1]。
ここではその前身である鉄道省キハ41000形と同系のキハ05形・キハ06形、および改造により派生した各形式を合わせて解説する。
キサハ04形とキハ41000形の姉妹車両である鉄道省キハ40000形についてはそれぞれの項目を参照。
概要
本形式は1932年(昭和7年)に鉄道省が設計し、1933年(昭和8年)に竣工したキハ36900形(キハ36900 - 36935)を第一陣とする一連の16 m級機械式気動車シリーズ[注釈 2]を、太平洋戦争後の機関換装によりディーゼル動車化し、形式称号を変更したものである。
設計全般は鉄道省によるものだが、その構造・機構面での基本となったのは、これに先立って日本車輌製造(日車)本店が開発した、日本初の18 m級ガソリンカーである江若鉄道C4形(1931年製造)などの私鉄向け大型気動車であり、その影響は、4枚窓構成の前面窓、型鋼と薄板を多用して軽量化された車体、菱枠構造の軸ばね式台車、それに駆動メカニズムなどに、顕著に現れている。これらは日本車輌製造が1920年代末期から試行錯誤を繰り返した末に実用領域に到達したものであった。
しかし、鉄道省36900形には日本車輌式のシステムやノウハウ、あるいは設計がほとんどそのまま導入されているにも関わらず、鉄道省・国鉄側の設計担当者はこれについて一切言及していない。そればかりか、日本車輌製造が特許や実用新案を保有していた設計や機構について、鉄道省がその使用料を支払った形跡は発見されていない。
気動車の分野に限らず、鉄道省および後身の日本国有鉄道の技術陣には、日本国内での圧倒的な最大手ユーザーという強い立場もあって一種の官尊民卑意識が強く、民間メーカーの独自開発技術をそのまま導入した場合でさえ、そのことに言及しないか「共同開発」という表現で実態を曖昧にする事例が少なくなかった。当時の設計担当者・北畠顕正は、キハ36900形開発から60年余りを経た最晩年にインタビューを受けたが、日本車輌製造からの技術導入・援用についてはまったく言及せず、その全てを鉄道省で開発したかのように証言している[2]。
1936年(昭和11年)までに138両が新造されたキハ41000形、および試作ディーゼル機関搭載車であるキハ41500形(初代)2両の計140両は、木炭ガス発生炉を搭載して代燃車として運行された一部を除き、戦時中の燃料統制で一時使用を停止されていたが、戦後になって一部が天然ガス動車化の上で復活した後、燃料事情の好転を受けて1950年(昭和25年)以降、機関を各種新型ディーゼルエンジンへ換装しディーゼル動車として再生された。
その結果これらは使用燃料や搭載機関の相違から、一旦キハ41200形・キハ41300形・キハ41400形・キハ41500形(2代目)の4形式に細分された。
キハ41000形(←キハ36900形)・キハ41500形(初代)
車体
窓配置1D (1) 14 (1) D1(D:客用扉、(1):戸袋窓、数字:側窓数)、車体長15,500 mm、車体幅2,600 mm(乗降用ステップを含む最大幅は2,650 mm)、全高3,535 mmの半鋼製軽量車体で、各部には型鋼が多用された。その形鋼組立台枠は客車のような車端衝撃入力は考慮せず、垂直荷重のみを考慮した設計としており、また補強用の当て板の類を極力廃し、特に強度を要する台車枕梁上部・機関吊り下げ部以外は溶接組み立てとした[3]。結果、自重は鉄道省公称値で約20 tと、設計当時の鉄道省制式車両では異例の軽量設計であった。製造を担当した日本車輌製造が発行したカタログでも自重20.09tと記載されており、実測値に即した公称値であったことが分かる。
側窓は木枠による2段上昇式で戸袋窓と客用扉にも横桟があり、プラットホームの高さが低い地方線区での使用を前提として、客用扉は1段ステップ付きであった。前面窓は先行した江若鉄道キニ4に倣ってこちらも2段上昇式の4枚窓構成で、運転席のレイアウトの都合もあり、窓幅は左右両脇が500 mm、中央寄り2枚が580 mmと中央部がやや幅広とされている。
屋根は木製帆布張りで、軽量化のために雨樋が省略され、扉上部に水切りが取り付けられた。
車内は戸袋部がロングシート、それ以外が対面式配置の背摺りの低い固定式クロスシートで、ロングシート部には吊革が設けられていた。定員は109名である。
塗装は竣工当時はぶどう色1号で、配置・時期により赤帯の有無があった[2]。この際、当時試行されていたラッカー塗料を用いたものには正面に「ラ」の文字が記入されていた。ぶどう色1号の時期は短く、塗装規定変更により1935年(昭和10年)以降、キハ42000形同様、上半黄かっ色2号、下半青3号の2色塗り分けに変更された。
主要機器
機関
エンジンは鉄道省が民間メーカーと共同で設計した連続定格出力100 PS (90kW) /1,300 rpmのGMF13[注釈 3]を搭載する。この機関は当時江若鉄道などの私鉄が採用していたウォーケシャ社 (Waukesha Motor Co.) [注釈 4]製の「Big Six」こと6RB(連続定格出力105 PS/1,300 rpm)[注釈 5]などの輸入大型機関に代わるものとして、それらに比肩しうるスペックで設計された国産品である。日本のエンジン技術が十分な水準と言えなかった当時、あえて自国開発設計のエンジンを採用したのは、国産化を重視した鉄道省の方針を反映したものといえる。構造面では、当時相前後して鉄道省も開発に関わったバス・トラック用大型シャーシ「商工省標準型式自動車」(のちの「いすゞ・TX」車の前身)用に石川島自動車が開発した6気筒ガソリンエンジン「スミダX型」との近縁性が指摘されている[4]。
シリンダブロックが肉厚なこともあり、出力の割には比較的重いエンジンである。これは、当時のガソリンエンジンは一般に摩耗対策が進んでおらず、シリンダ内部の摩耗が速かったため、シリンダ摩耗後にこれを削正(ボーリング加工)、新たなライナーを打ち込んでさらに再削正する再生措置が常識化しており、最初からその削りしろを考慮したつくりにされていたのが一因である[注釈 6]。エンジン側面に装備されベルト駆動される空気圧縮機は、比較的小容量な2気筒式のC-420であった[6]。
キャブレターは大型のアップドラフト式を1基装備とする平凡堅実な手法で、初期にはアメリカの著名なキャブレターメーカーの一つ、ストロンバーグ製「UT-5」を装備し[注釈 7]、その後、1932年(昭和7年)に設立された新興の国内メーカーである日本気化器がほぼコピーした同等品「トキハ」に切り替えている[7]。サイドバルブエンジン側面の低い位置にキャブレターを配置する構造のため、燃料は床下吊り下げの300Lタンクからポンプなし、フィルターを介するのみの配管で重力供給された[8][注釈 8]。
補機類の中で唯一、点火プラグのみは国産化できず、輸入部品のボッシュ社製点火プラグが純正指定品となっていた。鉄道省は廉価に安定供給可能でかつ国内産業育成に資する国産品採用を原則としていたため、あえて高価な輸入品を選択したことは、国産点火プラグの品質水準がいかに不十分であったかの裏返しといえる。十分な性能と品質の点火プラグを量産できなかったことは、当時の日本製ガソリンエンジン一般の最大のウィークポイントであった[注釈 9]。その他の電装系補機類については点火コイルも含め、ボッシュの設計を模した芝浦製作所、東亜電機(1937年に日立製作所に合併、同社戸塚工場となる)の製品を装備していた[10]。
GMF13は当時の日本の工業水準が反映され、実用性ではウォーケシャ6RBに大きく劣り、特に低温時の始動性に問題があった。このため、輸入エンジンに比肩する大型エンジンとして鉄道省以外の外地鉄道路線や私鉄路線に導入された事例もあったものの、寒冷地では樺太庁鉄道をはじめ、発注時にGMF13を避けてウォーケシャ6RBを指定する事業者や、一時国産機関を採用したもののすぐに輸入機関に戻す事業者が少なからず存在した。
キハ41500形(初代)として1934年(昭和9年)、1935年(昭和10年)に新製された2両(キハ41500・41501)にはGMF13に代わる6気筒100PS級ディーゼルエンジンの試作機が搭載されている。これらは、同じく試作ディーゼル機関を搭載したキハ42500形と同様に、新潟鉄工所および三菱重工が競作した試作機関であり、メーカー形式名はそれぞれLH6X[注釈 10]、6100VD[注釈 11]であった。
変速機・クラッチ
変速機はキハニ5000形に引き続き、変速3段+直結1段(4速MT)の鉄道省独自設計品であるD211が採用されている。
クラッチについても国産品が採用されたものの、その実は「ロング式」と称する、私鉄向け気動車で実績のあるアメリカ・ロング社製34A形円錐クラッチのデッドコピー品である。
1936年(昭和11年)から1940年(昭和15年)にかけ、梅小路庫のキハ41038・41105の2両を使用して液体変速機の試験が行われている。これは神戸製鋼がスウェーデンのユングストローム (Ljungstrom) 社からリスホルム・スミス式のDFR1.15液体変速機[注釈 12]のライセンスを得て製造した「神鋼式流体自動変速機」ことDF1と、大阪鉄道局の小宮山勉技手が考案した、重連総括制御用の回路を搭載していた。この回路は各車の搭載機関の遠隔制御を電磁空気リンクで行うもので、1940年(昭和15年)の試験時にはほぼ完成の域に達しており、関西本線、和歌山線、片町線、姫新線などで試運転を実施しているが、戦前の時点では量産化には至らなかった。1941年(昭和16年)にはディーゼル化をする計画で神戸製鋼所に機関を発注したが実現しなかった。なお、この際の液体変速機が、戦後TC-2として実用化されたものの原形である。小宮山技手は戦後、液体式気動車の量産が軌道に乗った後で、このシステム考案の功績により当時の国鉄工作局長より感謝状を受けている。
逆転機
キハニ5000形の設計を踏襲して、向かい合う2組のベベルギアを子歯車とし、これらを軸方向にスライドさせていずれか一方を親歯車にかみ合わせることで回転方向を逆転させる、D207傘歯車摺動式逆転機が採用された。逆転機の減速比は3.489である。
これに対し、この逆転機を含む機関系各機器の裝架方法は大幅に変更され、日本車輌製造本店が開発した方式が全面的に採用された。車体装架の機関台枠上に、エンジン・クラッチ・変速機を搭載した。動力はユニバーサルジョイントを備えたプロペラシャフトを介して台車装架の逆転機に伝達されている。
この逆転器搭載構造は日本車輌製造の実用新案で、回転トルクによる本体の転動を防止するために動台車のトランサム(横梁)と2本の平行リンクで結合される逆転機で車軸を駆動する、簡潔かつ当時としては合理的なシステムである。逆転ギアそのものは、当時一般的な、2組の向かい合った笠歯車を左右にスライドさせて回転方向を変更するシステムで、最終減速段の大歯車を含むギアボックスと一体化され、水平に近い2本のリンクでエンジンのトルクによる本体の転向を防ぐ構造であった。この日車開発の逆転機支持方法は完成度が高く、戦後まで長らくこれを凌駕しうる代替手段は開発されなかった。他メーカーは日車が保有する実用新案の回避を目的として別方式を採用したが、日本車輛の方式よりも優れたものを作ることは出来なかった。このため競合各社には、日車製逆転機を購入したり、有償で同型品を製作した例もあった。しかし鉄道省がこれに関する使用権を、料金を支払って取得した形跡は今のところ発見されておらず、車両発注数の調整(日本車輌への車両発注を意図的に増やす)で相殺した可能性が高い。
この方式にはユニバーサルジョイントに無理な負荷がかからず、逆転機部分(ファイナルギア)のギア比(最終減速比)を変えることで走行特性の変更が容易に行え、機関台枠部分の仕様を走行特性の異なる形式間で共通化可能、という製造・保守上の大きなメリットがあった。この仕様は、鉄道省でも本形式に引き続き設計されたキハ40000形で勾配線区及び貨車牽引用にギア比を変更する必要が生じた際に有効に活用された。このためキハ40000形の逆転機は本形式のD207でなく、基本構造が同じだが減速比4.057としたD206に変更されている。こうして制式気動車に採用され、川崎車両などの他の各社でも同型車両が量産された結果、日車式の駆動系は、以後の日本の機械式・液体式気動車における標準的な駆動系レイアウトとなった。
なお、この方式は逆転機内の親歯車の軸の中心線と子歯車の軸の中心線が直交するため、親歯車側の軸をそのまま延長してもう一組の逆転機に動力を伝達する、という手法を採ることができず、1台車2軸駆動を実現するには、チェーンあるいはサイドロッドなどによる必要があった。しかも、ギアボックス一体構造の重い逆転機が車軸に吊り掛けられているため、電車の吊り掛け式ほどではないにせよ、台車のばね下重量が大きくなるという問題もあった。このため、日本の気動車においてはキハ90・91形以降、変速機に逆転機を内装して台車側には減速機のみ搭載する方式を採用(この方式の場合も、1台車2軸駆動を実現するには推進軸の干渉を避けるために台車のボルスタをなくし、Zリンク式の仮想心皿を採用(ボルスタレス台車)する必要があり、合わせて枕ばねのダイレクトマウント方式によるダイアフラム形空気ばね化が必須であった)が一般化するまで、これらの問題回避、特に1台車2軸駆動の実用化には様々な困難がつきまとうこととなった。
台車
台車は菱枠構造のペデスタル支持軸ばね式台車であるTR26(軸距1,800 mm)である。これは設計当時、日車本店が各地の私鉄向け気動車に供給していた標準型台車(BB75など)を基本として、各部寸法を調整して再設計されたもので、何より軽量であることを重視した構造の台車である。日本車輛等の原型台車に倣って台車端梁はない。幅員と車軸長を詰めるため車軸はこの時代の国鉄車両で多用されていた標準軌対応可能な「長軸」を使わず、狭軌専用の短い「短軸」、それも許容荷重の小さい「7t短軸」を用いた。最初にキハ36900として製造されたグループでは、廃車になった旧型貨車発生品の7t短軸を、検品のうえ軸受部研削して再利用したという[11]。
なお、軸受には当時の鉄道省の車両では珍しいスウェーデンのSKF社製のローラーベアリングを使用していた。これは非力な機関出力を前提に極力走行抵抗を軽減することを目的として採用されたものである。後には日本精工 (NSK)、東洋ベアリングなどが製造したほぼ同等規格の国産品も採用された。
電車や客車等でのローラーベアリング採用は戦後まで一般化しなかったが、気動車ではその黎明期からローラーベアリングが多用されており、本形式の設計された時期には半ば当然の装備となりつつあった。
ブレーキ
ブレーキは自動空気ブレーキと直通ブレーキを兼用する簡易な構造の、GPSブレーキと称するブレーキ弁が新たに設計され、搭載された。
先行するキハニ36450形ではGAブレーキと呼称するA動作弁による自動空気ブレーキが搭載されていたが、長大編成での運転を考慮しないため、機構的には制御弁が電車用のAブレーキと比較して大幅に簡素化されていた。本形式も1両での運転が主体で、連結運転についても客車列車や電車のような長大編成はやはり想定外であったことから、必要に応じ連結運転に対応する自動空気ブレーキと単行限定ながら応答性の良い直通ブレーキを切り替え可能で、なおかつ軽量な新型ブレーキ装置が設計されている。
連結器
連結器についても、一般的だが重い並形自動連結器を採用せず、機能的に劣り強度も不十分ではあるものの格段に軽量な、日車設計の簡易式連結器を、鉄道建設規定に適合するよう一部修正を施した上で採用した。鉄道省の気動車としては初めての試みである。
もっともこの連結器は軽量だが強度が劣るため、回送時には連結器に負担がかからないように列車最後尾に連結する必要があった。戦時中に代用客車化された際に並形自動連結器へ交換する例があった他、戦後は新開発の日本製鋼所製小型密着自動連結器へ交換された車両もあり、簡易式連結器のまま残ったものは多くない。
キハ41200・41300形
キハ41000形のうち、天然ガスの産地であった千葉・新潟地区に配置されていた、キハ41002・41019 - 41021・41033・41034・41053・41056・41060・41077・41088・41127の合計12両について、1948年(昭和23年)よりガソリンに代えて天然ガスを燃料とする天然ガス動車へ改造し、区分のためキハ41200形(キハ41200 - 41211)という新形式となった。
この天然ガス動車はガソリン使用時の約80%に出力低下したものの、始動不良やエンジン損傷などの問題は、木炭ガス発生装置など他の代替燃料車に比べれば良好であった[注釈 13]。
しかし天然ガス動車は、ガスが燃料としては高価であったことや、ガス充填の手間がかかること、ガス爆発のリスクなどの問題を抱えており、その後の機関老朽化とディーゼル機関の実用化、燃料統制の解除によって役割を終えることになる[注釈 14]。
結局数年をおかずして再度改造され、試作ディーゼル動車であった旧キハ41500形(初代)の2両、およびキハ41500形の一部と共に、DMH17[注釈 15]を2気筒減らしてGMF13とそのまま置き換え可能としたDMF13[注釈 16]に機関を換装し、キハ41300形(キハ41300 - 41335)に改称された。
キハ41400・41500(2代)形
キハ41500(2代)形
燃料事情の好転を受け、1950年(昭和25年)から1952年(昭和27年)にかけてキハ41000形73両の機関を日野自動車製DA55[注釈 17]に換装してディーゼル動車化する工事が実施された。この換装により誕生したのがキハ41500(2代)形である。
DA55は、1930年代末期から開発が進められ、戦時中に量産された陸軍統制型機関の後裔の一つであり、当時すでにトレーラーバスT11B型などに搭載されていた。キハ41000形の車体重量に対しては出力が低く、勾配線区での使用には適さないものの、既に使用実績があり故障も少なく実用的であった。
1951年(昭和26年)には、このキハ41500形と同仕様で車体設計を多少修正した車両が50両新造された。番号は41600 - と区分されたが形式はキハ41500形で、外観上では車体が全溶接構造でリベットがなくなり、屋根に雨樋が追加された。
キハ41400形
キハ41500(2代)形に搭載されたDA55は良好な使用成績であったが、やはり出力が不足であった。そのため一部の車輛は出力強化を図って1954年度(昭和29年度)に機関をDMF13に換装し、キハ41300形に編入されていた。DA55の強化形であるDA58[注釈 18]が開発されたのを契機に、出力強化はDA55をDA58に改造[注釈 19]して行われることとなり、1955年度(昭和30年度)より実施され、形式はキハ41400形に変更された。
エンジンの改造にあわせて各部の更新修繕も行われることとなり、痛みの見られる戦前製の車輛から改造が行われ、1956年度(昭和31年度)末までに戦前製のキハ41500形は全てキハ41400形に改造された。
形式変更と後天的改良・北海道への運用域拡大
1957年(昭和32年)の形式称号改定で、両数が増加した気動車の形式の整理が行われ、キハ41000グループについては、搭載機関の相違を根拠としてキハ04形・キハ05形・キハ06形の3形式に区分・改番された。また塗装についても、1959年(昭和34年)からは、ウインドシルより上をクリーム4号に、腰板部を朱色4号とした2色塗りに変更された。なお、使用線区によっては、幕板部の一部または全てを朱色4号に塗られた車両もあった。
これに先立ち、ディーゼルエンジン化の過程で41000・42000形機械式気動車各車では、トルク増大の影響から起動時に駆動軸周りの車軸・車輪スポークの折損事故が多発したため、1952年には早くもキハ41500形63両の動軸を、細く脆弱な部分のある在来型(図面番号VC4394タイプ)から、脆弱部の段差をテーパー状にして強化した車軸(図面番号VC4383タイプ)に交換している。もっともこの折損現象は、単なる強度不足ではなく、起動時に車輪踏面と軌条面との間に粘着とすべりが短い周期で繰り返されて動軸に発生した捩り振動が、自励振動の形を採ることで(本来は相応に強度がある)動軸の亀裂・折損に至るという、単純ならざる原因で多発したものであった。これが解明されたのは1954年末からの鉄道技術研究所による精密な解析の結果であるが、対策は速やかには進まず、1955年9月には相模線でキハ41314が車軸折損による横転事故を起こしている。結局、41300・41400・41500の各形式合計135両の動輪は、圧延一体車輪導入とセットで太さを増した1954年設計の新車軸(図面番号VC4446タイプ)に1955-1956年に交換され、追ってエンジンを制御するガバナを改良型のニューマチック・ガバナとすることで、ようやく自励振動発生・折損の抑制に至っているTemplate:Refnst。
なお、41000形気動車に起源をもつ気動車はその簡易な構造上、本来は酷寒地に向く車両ではなかったが、1951年のディーゼル化改造開始以降は室蘭本線・日高本線を皮切りに北海道の路線への転用も増え、多くはスノープラウ装着や、液体式気動車同様に軽油燃焼式暖房器(三国ヴェバスト式または五光式)を搭載するなど各種の寒冷地対策を施されて、名寄本線のような酷寒地域の路線にまで運用された。1954年以降渡道する41000系列が増加、1957年4月時点の気動車配置表[15]によれば、道内には道北・道東を主として、旧41000形の系統に属する気動車が36両も配置されていた[注釈 20]。これらは1958年-1960年代前期にかけ、本格的な酷寒地用の両運転台液体式気動車であるキハ22形の大量増備で置き換えられるまで、耐寒性能の不備や、総括制御ができない機械式の制約を押して運用が続けられた。
キハ04形
DMF13搭載のキハ41300形を改番したグループ。 以下のように番台区分されている。
- 0番台
- キハ41300形を改番したもの。
- 一部はキサハ04形200番台や、キクユニ04形に改造された。
- 100番台
- キハ06(一部100番台)のエンジンを、DA55から(キハ04形0番台の廃車発生品を含む)DMF13に換装して出力増強したもの。10両が登場した。
キハ05形
DA58搭載のキハ41400形を改番したグループ。 また、1957年度(昭和32年度)にキハ06形から追加改造された車輛もあり既存車の続番となった。追加改造車は車輛番号が偶然にも50番から付番されているため、便宜上50番台と呼ばれることもある。なおキハ06形からの改造車は、のちに全てキニ05形に改造された。
北海道配属車の一部が、1962年5月から1963年9月までの短期間ながら、釧網本線・標津線直通の準急「らうす」に運用された事例があり、国鉄機械式気動車としては唯一の有料優等列車運用のケースである。
キハ06形
DA55搭載のキハ41500形(この時点では、戦後製のキハ41600 - のみ在籍)を改番したグループ。
- 100番台
- キハ06形を液体式気動車と総括制御運転が可能なように改造した車輛。液体式気動車と連結運転時は気動制御車として機能する。8両が改造されたが、このうち3両は、キハ04形100番台に再改造されている。
キニ05形
1960年(昭和35年)にキハ05形の50 - 58(いわゆる50番台車)から改造された荷物ディーゼル動車。荷重6トンで、荷物の積み下ろしのため、片側2か所に1,800 mmの両開き扉を新設し、床下補強等を実施した。全車四国で運用されたが、1966年(昭和41年)に廃車された。
キクユニ04形
1961年(昭和36年)にキハ04形から1両のみ改造された気動制御郵便荷物車(合造車)。両毛線で液体式気動車と連結して使用されたが、1965年(昭和40年)に廃車された。
廃車
戦後間もなく一部が地方私鉄に譲渡された。さらに昭和30年代以降、老朽化や大型気動車導入による余剰により、廃車あるいは私鉄への譲渡がなされ、少しずつ数を減らしていったが、三河島事故を受けて整備が急がれたATS車上子搭載工事の対象外とされたため、国鉄線上にATSが完備された1966年(昭和41年)をもって営業運転を終了した。
なお、向日町運転所に配置されていたキハ06 43は、向日町運転所の職員輸送用車として廃車を免れ、例外的にATSも装備されて最寄駅と運転所間を往復していたが、1969年(昭和44年)に廃車された。
地方私鉄への譲渡
キハ41000グループは、16m級の車体が地方私鉄には手頃な大きさだったことや、戦時中の休車が復活せずに廃車された際の譲渡例は多く、中には複数の鉄道会社を渡り歩いた車両もある。
また、譲渡後に液体式への改造、機関の交換を行ったものも多かった。なお、キハ06形の譲渡車は無かった。
- 旭川電気軌道
- キハ05 16を譲り受け付随客車コハ05 1 としてラッシュ時の増結用として使用した。書類上はキハ05 16となっているが、実際はキハ05 12の振り替えと推測されている。廃車後は同社の他の車両とともに、洞爺湖町の洞爺少年自然の家に保存されたが、現存しない。
- 美唄鉄道
- 1965年(昭和40年)にキハ05 11・05 14・05 20の3両の払い下げを受け、キハ101~103として使用。入線時に自社工場で液体式に改造、総括制御可能とした。廃車後、2両がレジャー施設内に保存されていたが、荒廃が進んで解体された。
- 南部鉄道
- 1949年(昭和24年)にキハ41094の払い下げを受け、キハ41001として使用した。1963年(昭和38年)に機関をDMF13に換装し、液体式に改造された。
- 秋田中央交通
- キハ41059・41085の2両が入線。エンジンを取り外し、電気機関車が牽引する客車(ナハフ10・20)として使用していた。
- 羽後交通
- 1959年(昭和34年)にキハ04 4の払い下げを受け、キハ4として横荘線で使用した。横荘線の廃止により雄勝線に転属し、雄勝線の廃線により廃車。
- 小名浜臨港鉄道
- キハ41039の払い下げを受け、キハ101として使用。
- 東野鉄道
- キハ41008・キハ04 3の2両が入線、キハ500形502・503として使用された。廃止後、キハ502は茨城交通に譲渡。
- 小湊鉄道
- キハ41076・41048・41049・41006の4両の払い下げを受け、キハ41001 - 41004として使用。
- 茨城交通
- 関東鉄道
- 国鉄から多くの車両が直接入線している以外にも、他社を経て入線した車両もある。
- 常総線:1950年(昭和25年)にキハ41122・41124・41086・41089の払い下げを受け、キハ41001 - 41004とした後、キハ0410・0424の払い下げを受けてキハ41005・41006とし、更に1963年(昭和38年)にキハ04 23の払い下げを受け、これはキサハ41801として1979年(昭和54年)まで使用した。
- 竜ヶ崎線:キハ04 36・04 18の払い下げを受け、キハ41302・41303として使用。41302はワンマンカーとなった。
- 鉾田線→鹿島鉄道:キハ04 7の払い下げを受け、キハ41301とした他、後に竜ヶ崎線からキハ41303、常総線からキハ41004 - 41006の4両が転入し、キハ41005・41006はこの2両は片運転台化され、貫通路が設置されてキハ411・412となった。晩年には前面が2枚窓化されている。
- 筑波線→筑波鉄道:国鉄で1958年(昭和33年)に廃車された後、遠州鉄道・北陸鉄道を経て、1972年(昭和47年)に関東鉄道筑波線に入線したキハ461・462は、廃車されるまで、ほぼ原型のままで残存していた。
- 新潟交通
- キハ41080の払い下げを受け、エンジンを撤去して制御車化、クハ37として使用。
- 蒲原鉄道
- 1950年(昭和25年)にキハ41120の払い下げを受け、エンジンを撤去して制御車化、クハ10として使用された。蒲原鉄道唯一のクロスシート車であった。片運転台化の上、正面は3枚窓に改造されていたが、側面はそのままであった。全線廃止まで稼動。
- 遠州鉄道
- →詳細は「遠州鉄道キハ800形気動車」を参照電化私鉄であるが、非電化区間である国鉄二俣線(現:天竜浜名湖鉄道)西鹿島 - 遠江森(現:遠州森)間の直通運転を実施するため気動車が必要となり、キハ04 6・04 8・04 1の払い下げを受けてキハ801・802・803として導入。1958年(昭和33年)11月(803は1959年)より使用開始されたが、乗り入れ終了に伴い1966年(昭和41年)に廃車、全車北陸鉄道に譲渡された。
- 北陸鉄道
- 1950年(昭和25年)にキハ41043を譲り受け、キハ5201として能登線で使用した。さらに1966年(昭和41年)に遠州鉄道からキハ801 - 803を譲り受け、キハ5212・5211・5213として使用した。能登線廃止後、5211・5212は関東鉄道に譲渡された。
- また、浅野川線の電車付随車用として、キサハ04 101・キサハ04 102を譲り受け、それぞれサハ1651・サハ1652として使用を開始し、その後制御車化改造を行い、クハ1651・クハ1652となった。なお、キサハ改造前の原車番はそれぞれキハ41041・キハ41040である。
- 三岐鉄道
- キハ41097を譲り受け、キハ81として使用。1964年(昭和39年)に玉野市営電気鉄道へ譲渡されてキハ101となり、1972年(昭和47年)の路線廃止まで使用された。
- 江若鉄道
- キハ41014・41023・41044・41045の4両の払い下げを受け、キハ14 - 17(14・15は2代目)として使用。連合国軍のキャンプ場および演習場が沿線にあった関係で1946年(昭和21年)にはキハ41014が入線していたこと(公式には1950年払い下げ)が確認されており、非公式ながらキハ41000形の私鉄払い下げ第1号であったと見られている。1969年(昭和44年)の路線廃止後、キハ16は御坊臨港鉄道へ譲渡されたが、残りの3両は全車三井寺下車庫で解体された。
- 北丹鉄道
- 1965年(昭和40年)・1967年(昭和42年)にキハ04 28・04 22の払い下げを受け、キハ101・102として使用。路線廃止で2両とも廃車解体された。
- 御坊臨港鉄道
- 1950年(昭和25年)にキハ41055の払い下げを受けてキハ308とした他、1969年(昭和44年)に江若鉄道よりキハ16を譲受し、同番で使用。
- 有田鉄道
- キハ41038・41078の払い下げを受けてキハ205・206として使用。その後一畑電気鉄道よりキハ5を譲受し、キハ202として使用。
- 別府鉄道
- 同和鉱業片上鉄道より1両(キハ41057→キハ301)を譲受、キハ101として使用。
- 同和鉱業片上鉄道
- 1950年(昭和25年)にキハ41057・41096、1952年(昭和27年)にキハ41071, 1959年(昭和34年)にキハ05 33の合計4両が入線し、キハ3001 - 3003・3006として使用。1967年(昭和42年)に、キハ300形キハ301 - 303・305と改番して後述のキハ310形と区別している。
- この内、キハ303は現役最後のキハ41000形気動車として、1991年(平成3年)7月1日の鉄道廃止まで旅客営業に使用された。
- 水島臨海鉄道(譲渡当時は倉敷市交通局)
- 1958年(昭和33年)にキハ04 11・04 32の2両の払い下げを受け、キハ311・312とした。
- 一畑電気鉄道立久恵線
- 事故廃車の補充として1962年(昭和37年)にキハ04 29を譲受し、キハ5とした。路線廃止後有田鉄道へ譲渡され、キハ202となった。
キハ41000形の設計を流用して製造された気動車
鉄道省の標準型気動車として量産されたキハ41000形には、鉄道省自身の手になるキハ40000形の他、下記の各社に、その設計を流用して製造された姉妹車と呼ぶべき車両が存在した。
- 鉄道省樺太鉄道局
- 樺太庁鉄道キハ2000形として窓配置を (1) BD (1) 11 (1) D1(D:客用扉、B:荷物室扉、(1):戸袋窓)とした旅客・荷物合造車を1933年(昭和8年)・1934年(昭和9年)に汽車製造東京支店(2001・2002)と日本車輌製造東京支店 (2003) で製造した。キハ41000形との変更点は、車体は側面窓幅が700 mmと広いこと、室内はロングシートで冬季には一部座席を外して石炭ストーブを取付けるようになっており、屋根上にはその煙突が設置されてベンチレーターが6箇所となっていたこと、機関がウォーケシャ6RBとなるなど、アメリカ製の機関・駆動系を搭載し、動台車が軸距850 + 1,250 mmの偏心式であることなどであった。また、汽車会社製のものは台車が下揺枕と端梁付き、日本車輌製造製のものは動軸に砂撒管付きで正面運転台前の窓に旋回窓が設置してあるなどの差異もあった。樺太の内地編入にともない、鉄道省キハニ2000形となる。
- 津軽鉄道
- 窓配置を1D (1) 11 (1) D1(D:客用扉、(1):戸袋窓)とし、客用扉幅を900 mm, 側面窓幅を700 mmにそれぞれ拡大、車体長を500 mm短縮するなどしたキハ2400形2402・2403を1950年(昭和25年)に新潟鐵工所で製造した。室内はオールロングシート、連結器は座付の自動連結器、機関は日野DA55で当初は代燃ガス発生装置付で、変速機、逆転機のギア比もキハ41000形とは異なっていた。
- 羽後鉄道
- 旧日本鉄道の雑形客車の台枠と、手持ちのTR29台車を用いて、1950年(昭和25年)に宇都宮車両でキハ1形1として本形式のほぼ同型車を製造した。室内はロングシート、機関は日野DA54改で変速機、逆転機のギア比もキハ41000形とは異なっていたが、1957年(昭和32年)の車庫火災で焼失、廃車解体された。
- 小名浜臨港鉄道
- 新宮鉄道買収気動車の車体更新名目で、1953年(昭和28年)に日本車輌製造東京支店にてキハ41600形相当のキハ103を新製。
- 関東鉄道常総線
- 元北九州鉄道ジハ20の台車流用で日本車輌製造東京支店にてキハ41600形相当の車体を新製し、キハ41020形41021として使用した。室内はロングシート、台車は汽車会社製で動台車が750 + 1,150 mmの偏心式の端梁付き菱枠台車、機関は日野DA54で変速機、逆転機のギア比もキハ41000形とは異なっていた。
- 五日市鉄道
- 1936年(昭和11年)にキハ41000形をベースに前面のみキハ42000形と同形のものに変更したキハ500形501・502を新潟鐵工所で製造した。詳細は五日市鉄道キハ500形気動車の項を参照。
- 同和鉱業片上鉄道
- 1953年(昭和28年)にキハ04と同様の基本設計によるキハ3004・3005を宇都宮車両で新造。1967年(昭和42年)にキハ310形311・312と改番した。長柱を用いた張り上げ屋根、乗務員扉の設置、正面の2枚窓など、国鉄キハ04形に準じていながら随所にオリジナルの要素が加えられていた。機関は戦後製ながら当初GMF13であったが、変速機、逆転機のギア比はキハ41000形とは異なっていた。キハ311は1985年(昭和60年)に廃車後、個人に引き取られ、静態保存されている。また、キハ312は1991年(平成3年)7月1日の鉄道廃止まで旅客営業に使用され、鉄道廃止後は柵原ふれあい鉱山公園で動態保存及び展示運転されている。
- 中国鉄道
- 燃料統制が始まった1937年(昭和12年)に、商工省の規制枠を回避すべく、一旦3両分の申請認可後に、1両の追加申請を「増車」扱いとして改めて受理するという、会社と鉄道省が示し合わせた一種の回避策を用いることで、日本車輌製造、加藤車両、川崎車輌の3社でキハニ190形190, キハニ200形200・201, キハニ210形210として同時に4両を新製した。これらは軸距が850 mm + 1,250 mmの偏心台車を動台車として装着したキハニ210形を除き、車体・台車はほぼ完全にキハ41000形相当であったが、機関・駆動系はエンジンがウォーケシャ6RB, 変速機はコッターFA, クラッチはロング34Aと、中国鉄道の気動車の標準仕様に従って全てアメリカ製機器が採用されていた。これらは国有化後、キハニ190を除き私鉄各社へ払い下げられ、それぞれ岡山臨港鉄道キハ3001(キハニ200)、倉敷市営鉄道キハ310(キハニ201)、長門鉄道キハ10(キハニ210)→防石鉄道キハ103→島原鉄道キサハ211→ユニ211となった。なお、キハニ190はその後も長く国鉄に残留し、1949年(昭和24年)に雑形客車としての形式を与えられて保健車のコヤ6680となり、更に1953年(昭和28年)の形式改定でコヤ2600と改番され、1968年(昭和43年)まで釧路機関区に配置されて使用された。
- 山鹿温泉鉄道
- 国鉄線乗り入れ用として1951年(昭和26年)にキハ1形1・2を新潟鐵工所で新製。同じメーカーの手になる津軽鉄道キハ2402・2403と同様、窓配置が1D (1) 11 (1) D1(D:客用扉、(1):戸袋窓)で側面窓幅700 mm, 客用扉幅900 mmで、低いホームに対応するため客用扉と戸袋窓部の下部が大きく下がり、2段ステップを備えているのが特徴であった。室内はクロスシート3ボックスとロングシートの組み合わせ、機関は日野DA55Aで変速機、逆転機のギア比もキハ41000形とは異なっていた。予備車がない運用のため、1957年7月の水害による国鉄線直通途絶までは、予備エンジンを用意して夜間に換装することでフル稼働した。路線廃止後にメーカーの新潟鐵工所に引き取られており、同社大山工場で改装工事施工中の1965年撮影の写真が残っている。同社が同時期に類似車を納入していた津軽鉄道への転売を目的にしたものとされるが、経緯不明ながら頓挫、そのまま解体されたと見られている。
保存車
- 筑波鉄道のキハ461は、廃車後に原番号であるキハ04 8に戻され、1987年7月には愛好家団体「LINER」が購入し茨城県つくば市のさくら交通公園に保存、その後キハ048保存会に無償譲渡され[1]修復活動などを実施。2007年(平成19年)には東日本鉄道文化財団に寄贈され、キハ41307時代の仕様へ復元され、さいたま市大宮区の鉄道博物館で展示されている。
- 蒲原鉄道のクハ10は、個人に引き取られ保存されていたが、2013年6月に解体され、部品は後述の同和鉱業片上鉄道キハ303の修理に充てられることとなった。
- 別府鉄道のキハ101は同線の廃止後、兵庫県加古川市内の公園に保存されていたが、荒廃が進み、2008年(平成20年)頃に解体された。
- 同和鉱業片上鉄道のキハ303は、廃止後も岡山県の柵原ふれあい鉱山公園にて、片上鉄道保存会の手により動態保存・展示運転されている。現在、可動状態にある唯一のキハ04形である。
脚注
注釈
- ^ 当形式が製造された時代の時点での気動車は普通列車用しか製造されていないが、同書によれば「一般形機械式ディーゼル動車」に分類されている。ただしこれは制式に分類したものではない
- ^ 竣工直後の称号改正でキハ41000形(キハ41000 - 41035)に改称された。このため1933年度予算で製造された第2陣以降(キハ41036 - 41137)は当初よりキハ41000形として竣工している。
- ^ 縦型直列6気筒サイドバルブ式ガソリンエンジン、排気量12.74リットル。最大出力150 PS/2,000 rpm ボア/ストローク 130×160mm 総重量750kg
- ^ 現、ドレッサー社 (Dresser Inc.) ウォーケシャエンジンディビジョン(ドレッサーウォーケシャ、Dresser Waukesha)。
- ^ 縦型6気筒ガソリンエンジン、排気量11.1リットル。最大出力は120 PS/1,600 rpm. 元々はトラクター用として開発されたもの。
- ^ 坂上(2010)p136-137において引用された1943年文献の図表「鉄道省ガソリン動車部分品の寿命」では、鉄道省ガソリン動車の部品のうち、シリンダブロック(気筒ブロック)の寿命は10年で、その間に6回もの削正(ボーリング加工による再生)を受けるとされ、摩耗程度の激しさが伺われる。同図表ではエンジン、変速機ほかの駆動系機器、排気系・冷却系の機器類や部材がのべ56項目列記されているが、それら部品の寿命は後年の同種機器に比し概して(時に極度に)短い[5]。
- ^ チョークと二重ベンチュリー、真空式加速ポンプを備えており、当時のアップドラフト式としては比較的進んだ機能を持つモデルであった。
- ^ アップドラフト式キャブレターは1930年代以前の古いサイドバルブガソリンエンジンで多く使われた方式で、キャブレター本体から混合気を上昇させて吸気マニホールドに送り込む。キャブレター本体内の燃料油面が安定するため基本的にトラブルが起きにくいメリットはあるが、反面、効率や応答性に難がある。このため、安全対策を要するがより効率や応答性に優れたダウンドラフト式(混合気を下降供給)、サイドドラフト式(混合気を水平に供給)に取って代わられた。アップドラフト式キャブレターでダウンドラフト式同等の加速力を得るためには、アップドラフト式の混合比設定をより濃くしてやる必要があり、ダウンドラフト式に比して燃費・始動性で劣る[9]。
- ^ 高品質製品の最優先供給先である軍用航空機向けでさえ充分な品質を維持できず、エンジン故障の主因の一つとなるような状況であった。
- ^ 縦型6気筒、排気量12.74リットル、連続定格出力100 PS/1,300 rpm, 渦流室式
- ^ 縦型6気筒、排気量14.6リットル、連続定格出力100 PS/1,300 rpm, 直噴式
- ^ 1928年(昭和3年)にバス用として開発。最大入力200 PS. 神戸製鋼所のほかクルップ(ドイツ)、シュコダ(チェコ)、レイランド、VSG(イギリス)、サウラー(スイス)、スパイサー、ツインディスク(アメリカ)が製作権を得て製造し、バス・気動車用として広く使われた。なお、この試作変速機は合計4基が製造され、2基は鉄道省に、1基は試作工兵機材(装甲作業機丙型)用として陸軍技術本部に、残る1基は研究用として東京帝国大学に納入されたと伝えられている。
- ^ 1948年12月にGMF13形エンジン搭載の41000形を使用して木原線で行われたガソリンと天然ガスの燃料性能比較試験では、天然ガス燃料車はガソリン車の85%程度の性能を見積もられていたが、試験結果では75%程度に留まったという[12]。前記報告では、天然ガス燃料は出力でガソリンに劣る一方、キャブレターでの気化を要するガソリンよりも空気との混合が良好で冬季始動が容易、完全燃焼しやすく、点火プラグやエンジンオイルの寿命が長くなるといった優劣、ガスと空気の混合装置(ガソリンエンジンにおけるキャブレターに相当する装置)調整の課題が挙げられている。
- ^ 千葉県在住の鉄道愛好家である白土貞夫による「千葉鉄道管理局における天然ガスカーの盛衰」[13]では1950年前後当時、ガスカーの故障続出のために代行として8620形蒸気機関車牽引の木造客車2~3両編成が運転される光景が見られたことや、中川浩一が1952年に「Romance Car」誌20~22号で「房総をめぐって」と題した探訪記事でのレポートで「東金線列車の41200形2両編成のうち1両がクラッチを切ってトレーラーになっていた」と記録していること、さらに中川が1952年6月に東金線で撮影したキハ41204とキサハ41800のトレーラー牽引2両編成写真をも挙げて、稼働車両不足に悩んでいた現地の実態を記述している。
- ^ 縦型8気筒、連続定格出力150 PS.
- ^ 縦型6気筒、連続定格出力110 PS.
- ^ 縦型6気筒、排気量10.85リットル、連続定格出力75 PS/1,200rpm.
- ^ 縦型6気筒、連続定格出力100 PS/1,700 rpm.
- ^ DA55→58のパワーアップは、排気量10.85Lのまま、ヘッド・ピストン交換による圧縮比15.4→17.5への増大と、燃料噴射タイミングおよび噴射ノズルの口径拡大変更によるチューニングとで実施されていたため、土台となるエンジンブロック部分等を流用して既存のDA55を強化改造できた[14]。
- ^ キハ04形が旭川機関区2両、北見機関区7両の合計9両、キハ05形が池田機関区19両、長万部機関区4両の合計23両、キハ06形が苫小牧機関支区の4両。ほかに戦前開発の機械式気動車としては、名寄機関区にキハ07形10両が集中配置されていた[16]。
出典
- ^ 交友社 日本国有鉄道工作局・車両設計事務所『100年の国鉄車両(3)』 p.431[注釈 1]。
- ^ a b 岡田誠一「キハ41000とその一族(上)」
- ^ 坂上茂樹・原田鋼『ある鉄道事故の構図』(2005)p42-43
- ^ 坂上茂樹「戦前・戦時期の国産中・大型自動車用機関について(2)」(2011)p2
- ^ 坂上論文の原典は鉄道運転会(代表者武井明通)『機関車便覧』通文閣(1943年)p149掲載。
- ^ 坂上・原田(2005)p45-46
- ^ 以上はUT-5解説とも坂上(2011)p3-4による。
- ^ 坂上・原田(2005)p46-47
- ^ 坂上(2011)p5-7
- ^ 坂上(2011)p16
- ^ 坂上・原田(2005)p42-43
- ^ 吉田正一・諏訪間高明「気動車の天然ガス使用について」『交通技術』1950年6月号 p17-18
- ^ 『鉄道ピクトリアル』177号 1965年11月 p27
- ^ 山田秀三「国鉄動車概観」『鉄道ピクトリアル』No.73 1957年8月号 p11-15中、第4表「機関諸元表」に基づく。
- ^ 『鉄道ピクトリアル』No.73 1957年8月号 p42-43
- ^ 以上は前述の鉄道ピクトリアルNo.73の表に基づく。
参考文献
- 岡田誠一『キハ41000とその一族(上・下)』(RM LIBRARY 1・2、ネコ・パブリッシング、1999年)ISBN 4-87366-186-2/ISBN 4-87366-183-8
- 湯口徹「鉄道省制式内燃動車素人試(私)論 -上・下-」『鉄道史料 第114・115号』(鉄道史料保存会、2006・2007年)
- 湯口徹『内燃動車発達史(上・下)』(ネコ・パブリッシング)ISBN 4-7770-5087-4/ISBN 4-7770-5118-8
- 湯口徹『戦後生まれの私鉄機械式気動車(上・下)』(RM LIBRARY 87・88、ネコ・パブリッシング、2006年)ISBN 4-7770-5185-4/ISBN 4-7770-5186-2
- 坂上茂樹・原田鋼『ある鉄道事故の構図』(日本経済評論社 2005年)ISBN 4-8188-1794-5
- 坂上茂樹『鉄道車輌用ころがり軸受と台車の戦前・戦後史』(「Discussion Paper No.60」(CD-ROM版)収録 大阪市立大学経済学部 2010年7月8日)
- 坂上茂樹『戦前・戦時期の国産中・大型自動車用機関について(2)』(「經濟學雜誌」111(4),p1-p31 大阪市立大学 2011年)