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田村耕太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
田村耕太郎
たむら こうたろう
内閣府大臣政務官就任に際し公表された公式肖像写真
生年月日 (1963-07-23) 1963年7月23日(61歳)
出生地 鳥取県鳥取市職人町
出身校 早稲田大学商学部
慶應義塾大学大学院経営管理研究科
イェール大学大学院
デューク大学法律大学院
東京大学EMP修了
前職 会社役員
現職 ミルケン・インスティテュートシニア・フェロー
シンガポール国立大学リー・クアンユー公共政策大学院兼任教授
所属政党自由民主党→)
民主党→)
無所属
称号 MBA
経済学修士
法学修士→

日本の旗 参議院議員
選挙区 鳥取県選挙区
当選回数 2回
在任期間 2002年 - 2010年
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田村 耕太郎(たむら こうたろう、1963年7月23日 - )は、日本の元政治家。元参議院議員(2期)。

義父は新日本海新聞社社主、グッドヒル社長を務めた吉岡利固

経歴

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学歴・職歴

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鳥取県鳥取市出身。

鳥取市立遷喬小学校鳥取市立北中学校鳥取県立鳥取西高等学校早稲田大学商学部卒業、慶應義塾大学大学院経営管理研究科経営管理専攻修士課程修了(MBA課程)。在学中にフランス高等経営大学院(HEC-ISA)に交換留学[1]

山一證券に新入社員として入社すると、企業買収・合併担当に抜擢され、1990年から1991年に全社で営業成績第1位となった。その実績で企業派遣留学生として選抜され、イェール大学大学院(国際経済学科・開発経済学科)修士課程を修了し経済学修士、デューク大学ロースクール(証券規制・会社法専攻)を修了し法学修士を取得[2]。またベルギーのブリュッセル自由大学[要曖昧さ回避]にて単位取得。イェール時代の指導教官は浜田宏一だった。

その後新日本海新聞社に入社し、取締役編集局長などを経て、系列紙の大阪日日新聞取締役社長に就任。37歳での社長就任は新聞協会加盟紙で最年少だったが[2]、夕刊紙だった同紙を朝刊紙として再生させた[3][4]

以後、オックスフォード大学上級管理者養成プログラム、ハーバード大学ケネディスクール危機管理プログラム・国際金融プログラム・国際安全保障プログラム、スタンフォード大学ビジネススクールEコマースプログラム、スイスバンキングスクール(現・スイス金融研究所)国際資産管理プログラム[1]、東京大学エグゼクティブプログラム(8期)[5]を修了し、中欧国際商工学院(上海)顧問やシンガポール国立大学リー・クアンユー公共政策大学院フェローも務めた[2]。また、デューク大学ロースクールでは在学中に特別講師を、慶應義塾大学大学院法学研究科でも非常勤講師を務めた他、エール大学シニアフェロー、ハーバード大学フェロー、ペンシルベニア大学ウォートン経営大学院ウォートンフェローも歴任。後に、日本の政治家として初めてハーバード・ビジネス・スクールのケース(事例)となり、授業内講演を行った[6]

政界への転身

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1998年、第18回参議院議員通常選挙鳥取県選挙区より無所属で出馬。自民党現職の坂野重信に挑んで10万1403票を獲得するも、2万6682票差で落選。

1999年、鳥取県知事選挙に出馬。西尾邑次知事の事実上の後継候補である片山善博に挑んで12万5618票を獲得するも、8万3539票差で落選。

2000年に第42回衆議院議員総選挙鳥取1区より無所属で出馬。自民党現職の石破茂に挑み6万2811票を獲得するも、2万8352票差で落選。

2002年坂野重信参議院議員死去に伴う参議院鳥取県選挙区補欠選挙では自民党本部によって擁立されるが、それに反発した坂野系の自民党鳥取県議が中心となって元鳥取県議会議長であった藤井省三を候補を擁立し、自民党本部と坂野系の自民党鳥取県議が対立。自民党系無所属として選挙戦を戦って9万274票を獲得し、3712票差の僅差で藤井を破り、4度目の選挙で初当選して政界入りをする。

政界入り前のこれらの選挙戦において義父がオーナーであり鳥取県内のシェア約80%である日本海新聞の記者職在職のまま、選挙戦予定候補として署名記事を書き続けたことで、公職選挙法で禁止されている事前活動の疑いがあるとして問題となった。

参院選当選後に自民党に入党し、橋本派に所属。

2004年第20回参議院議員選挙では自民党公認候補として立候補し、民主党候補の土屋正秀を相手に再選。

2006年内閣府大臣政務官経済財政政策金融再チャレンジ)に就任。

2008年自民党総裁選挙ではかつて自身が戦った地元選出の石破茂の推薦人に名前を連ねた[7]

2009年6月、自民党鳥取県連が公募をしたが田村以外の応募がなかったため、次回参院選の公認候補として申請する動きを固めていた。しかし自民党が8月の第45回衆議院議員総選挙で惨敗し、翌9月に政権交代、下野する事となり、県連は信任投票を行って公認候補を決定する方針を示した。田村はブログで「自民党員に支持されていないと選挙にならないというが、大いなる時代錯誤」「今の自民党でも支持するような人たちが信任する候補者が無党派の心をつかめるだろうか」と県連の信任投票を批判した。田村の批判に対して「無党派層を取り込まなければ勝てないとの主張は理解できるが、 党員の支持がいらないとの趣旨の発言は公認候補としては不適切」などの意見が鳥取県連青年部を中心に出たため、鳥取県連は信任投票取り止めの代わりとして田村に対して信任投票批判のコラムの削除と謝罪を要求する事態となり、田村と自民党鳥取県連との関係が悪化した。

自民党離党と民主党入り

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2009年12月、自民党から離党[8][9][10]。これは、自民党の下野後で初めての自民党現職国会議員の離党として注目された[11]。自民党を離党した理由として、自民党の国会での審議拒否戦術や、経済政策の不一致をあげた[12]

2010年2月、小沢一郎民主党幹事長と会談を経て、自身の経済政策の考え方を与党に反映させるためとして民主党へ入党[13]。その際、Twitterで「入党なう」とつぶやいた。これにより民主党は参議院社民党を除いても半数超えを達成、以後の政権運営に与える影響も少なくないと予想されたため、大きな話題となり、「(小沢の)甘い水に誘われて自民党議員が次々と切り崩されていく可能性は高い」といった見方もあったが[14]、この後2012年12月まで続いた民主党政権において、現職の国会議員が自民党を離れて民主党に移籍したのは、田村が最初にして最後の例だった[15]

民主党は2010年参院選鳥取県選挙区で坂野重信の孫娘である坂野真理を擁立することが決まっていたため、鳥取県選挙区ではかつて自身が戦った坂野重信の孫娘を支援しつつ、自身は比例区からの当選を目指すことになった。

2010年7月、第22回参議院議員通常選挙では、自身のゆかりのある大阪府東京都と有力支援者から紹介された九州などでも支援を求めつつ、地元の鳥取県を最も重視して選挙戦を戦って6万688票を獲得したが、民主党比例代表の当選ラインである10万票余りには及ばず落選。また鳥取県選挙区では、田村の後任として公募を勝ち抜いた自民党新人の浜田和幸が坂野を敗って勝利した。田村の離党・民主党入りが、とかく内紛続きだった自民党県連を「反田村」で一致団結させ、結束強化につながったことが背景にあるとの皮肉な見方もなされている[16]。しかしその浜田も後に離党し、連立与党の国民新党に参加したことで民主党政権に協力することとなった。

落選後

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その後はランド研究所で唯一の日本人研究員となり、執筆・講演活動などを行なう他、インドで衣料ビジネスを立ち上げるなどしている[17]。現在はシンガポールに居に構え、国立シンガポール大学リークワンユー公共政策大学院で兼任教授として日本の政府・民間のリーダー向けのエグゼクティブプログラム[18]を主催し、アジアで活躍する日本人リーダーの育成に励む。2015年から世界的な金融・経済シンクタンクであるミルケン・インスティテュート[19]の初の日本人フェローとなり、世界のリーダーと日本の橋渡し役となっている。

人物像

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趣味は、キックボクシングとラテンダンス。ファッションにおいては派手なスーツやネクタイを着用することが多く、議員時代は自身のウェブサイトで毎日のコーディネートを紹介していた。高校時代の同期に田子譲治がいる。日本版政府投資会社の設立を提唱し、ディスカッションに参加している。

所属していた団体・議員連盟

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著書

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脚注

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  1. ^ a b Yahoo!みんなの政治・田村耕太郎
  2. ^ a b c 田村耕太郎・ランド研究所研究員-50人インタビュー「日本再創造へのビジョンと行動」
  3. ^ 田村耕太郎の「君はこんなワクワクする世界を見ずに死ねるか!?」
  4. ^ ただし、発行部数は夕刊紙時代の公称11万部から朝刊紙移行後は6千部程度へと大幅に減少(もっとも、夕刊紙時代の発行部数はあくまでも自社公称であり、大幅に水増しされた実体のない数字であった可能性はある)、府内で発行される朝刊紙におけるシェアも1%以下というわずかなものである。
  5. ^ 田村耕太郎の「これからの世界はこう生きろ」
  6. ^ 日本政策学校・田村耕太郎講義
  7. ^ “総裁選5候補の推薦人名簿”. 東京新聞. (2008年9月10日). http://www.tokyo-np.co.jp/hold/2008/ntok0066/list/CK2008091002000314.html 2015年11月4日閲覧。 
  8. ^ 宇多川はるか (2009年12月18日). “自民党:田村耕太郎参院議員が離党を表明”. 毎日新聞. http://mainichi.jp/select/seiji/news/20091218k0000e010060000c.html 2009年12月20日閲覧。 
  9. ^ “田村議員離党「県連に何の相談もない」と地元・鳥取県連不快感”. 産経新聞. (2009年12月18日). https://web.archive.org/web/20091221175605/http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091218/stt0912181806005-n1.htm 2009年12月18日閲覧。 
  10. ^ “理不尽なケンカ買わせていただきます”. 田村耕太郎公式ブログ. http://kotarotamura.net/b/blog/?itemid=5327 2009年12月20日閲覧。 
  11. ^ “田村参院議員が自民離党届 野党転落後初、民主入り模索か”. 共同通信. (2009年12月18日). https://web.archive.org/web/20091221063224/http://www.47news.jp/CN/200912/CN2009121801000339.html 2010年1月15日閲覧。 
  12. ^ “田村耕太郎参院議員が自民に離党届”. 参院中央新聞. (2009年12月18日) 
  13. ^ 自民離党の田村耕太郎参院議員が民主入党 参院で過半数を確保
  14. ^ 小沢早くも剛腕、自民離党議員を一本釣り 参院過半数へ着々夕刊フジ、2010年2月6日
  15. ^ ただし、民主党に入党はしなくても、自民党を離党して民主党政権や与党入りした例はある。
    *吉村剛太郎が自民党離党して国民新党に入党。
    *与謝野馨が自民党離党(受理されず除名)やたちあがれ日本を経て2011年に民主党内閣閣僚及び無所属として衆議院民主党会派所属という形で、民主党政権に参加。
    *浜田和幸が自民党離党(受理されず除名)して、無所属として民主党内閣政務官に就任という形で民主党政権に参加。
  16. ^ 2010参院選:鳥取選挙区 支持基盤・戦略、自民が上手/鳥取
  17. ^ グロービス特別セミナー広報
  18. ^ [1]
  19. ^ [2]

関連項目

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外部リンク

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議会
先代
吉田博美
日本の旗 参議院国土交通委員長
2008年 - 2009年
次代
椎名一保
公職
先代
山谷えり子
平井卓也
日本の旗 内閣府大臣政務官
岡下信子
谷本龍哉と共同

2006年 - 2007年
次代
戸井田徹
加藤勝信
西村明宏