隠岐国
隠岐国 | |
---|---|
■-隠岐国 ■-山陰道 | |
別称 | 隠州(おんしゅう、いんしゅう) |
所属 | 山陰道 |
相当領域 | 島根県隠岐郡(隠岐諸島) |
諸元 | |
国力 | 下国 |
距離 | 遠国 |
郡・郷数 | 4郡12郷 |
国内主要施設 | |
隠岐国府 | 島根県隠岐郡隠岐の島町 |
隠岐国分寺 | 島根県隠岐郡隠岐の島町 |
隠岐国分尼寺 | 島根県隠岐郡隠岐の島町(隠岐国分尼寺跡) |
一宮 | 水若酢神社(島根県隠岐郡隠岐の島町) |
隠岐国(おきのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。
「隠岐」の名称
[編集]平城宮(平城京)木簡には「隠伎国」と表記されている。六国史の表記過程では、『続日本紀』(794年)に、「隠伎」や「隠岐」と表記され、『日本後紀』(840年)以降は、「隠岐」に統一されている[1]。
隠岐諸島
[編集]隠岐諸島(おきしょとう)は、日本海にある島根県所属の島々である。島根半島から北東へ約65km、日本海にある隠岐諸島は大小180余りの島々から成り立つ群島型離島。西ノ島、中ノ島、知夫里島と島後(どうご)の4島に人が住み、島後に対して前3島を島前(どうぜん)と呼ぶ。
沿革
[編集]古墳時代(応神天皇朝)に天八現津彦命の後裔が意岐国造に任命され、その支配領域は7世紀の律令制隠岐国に引き継がれた。
近世以降の沿革
[編集]- 「旧高旧領取調帳」の記載によると、明治初年時点で全域が幕府領(松江藩預地)であった。(61村・12,559石余)
- 慶応4年(1868年)
- 明治2年(1869年)
- 明治4年(1871年)
- 明治9年(1876年)8月21日 - 第2次府県統合により島根県の管轄となる。
国内の施設
[編集]国府
[編集]『和名類聚抄』によれば、国府は周吉郡にあった。現在の隠岐郡隠岐の島町で稲益・横田(おおた)、甲ノ原遺跡、原田地区と推定されるが、遺構は発見されていない。
国分寺
[編集]- 隠岐国分寺跡(所在未詳)
- 隠岐国分尼寺跡(隠岐郡隠岐の島町有木、北緯36度13分16.76秒 東経133度18分37.98秒 / 北緯36.2213222度 東経133.3105500度)
- 島根県指定史跡。現国分寺の南東方約500メートルに位置する。寺域は1町(約109メートル)四方と推定される。金堂・講堂・中門と見られる建物跡などが検出されているが、金堂・講堂が東西に並ぶという通常とは異なる伽藍配置であり、国分尼寺ではないとする説もある[3]。後継寺院はない。
神社
[編集]- 知夫郡 由良比女神社
- 海部郡 宇受加命神社
- 穏地郡 水若酢命神社
- 比定社:水若酢神社(隠岐郡隠岐の島町郡)
- 穏地郡 伊勢命神社
- 比定社:伊勢命神社(隠岐郡隠岐の島町久見、北緯36度19分11.62秒 東経133度14分7.61秒 / 北緯36.3198944度 東経133.2354472度)
- 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[4]。
- 総社:玉若酢命神社(隠岐郡隠岐の島町下西、北緯36度12分25.59秒 東経133度18分45.22秒 / 北緯36.2071083度 東経133.3125611度)
- 一宮:水若酢神社(隠岐郡隠岐の島町郡、北緯36度16分48.82秒 東経133度14分56.55秒 / 北緯36.2802278度 東経133.2490417度)
『大日本国一宮記』では由良比女神社を一宮とするが、実態から言って水若酢神社が一宮であったとされる[4]。二宮以下はなし。
後醍醐天皇の行在所
[編集]元弘2年(1332年)に後醍醐天皇は隠岐へ流罪となる。隠岐での後醍醐天皇の行在所と伝えられる土地は二箇所あり、島根県西ノ島町の天皇山には天皇の行在所と伝えられる黒木御所址や黒木神社、寵姫の阿野廉子の三位局屋敷跡や監視を行っていた見付島などの史跡が存在し、古文書も保管されている。一方国分寺の存在した隠岐の島町にも行在所があったと伝えられている。
地域
[編集]郡
[編集]戦国時代
[編集]尼子氏は隠岐の守護代から守護となり隠岐を支配したが、尼子氏の滅亡とともに隠岐国は毛利氏一門の吉川元春の支配となった。その後、三男の吉川経言に隠岐一国が分与されたが、後に経言(広家と改名)が吉川氏を相続したために再び吉川宗家の所領に吸収された。
江戸時代
[編集]隠岐は松江藩(堀尾家、京極家)の分国となったが、寛永15年(1638年)以降は天領となった。
人物
[編集]国司
[編集]- 犬養大万侶:天平5年2月19日(733年3月13日)見
- 民古麻呂:天平5年2月19日(733年3月13日)見
- 日下部乙万呂:天平宝字元年8月5日(757年8月28日)見
- 下道黒麻呂:天平宝字6年4月1日(762年5月3日)任
- 坂本男足:天平宝字8年10月9日(764年11月10日)任
- 石川永年:天平神護元年8月1日(765年8月25日)任
- 越智貞厚:貞観11年10月26日(869年12月7日)見
- 伴有世:仁和2年2月3日(886年3月16日)見
- (姓欠)良宗:延喜16年(916年)見
- 吉備忠常:延喜16年(916年)見
- 八木雅光:長徳2年(996年)任
- 語(名欠):長保2年(1000年)任
- 滋野(名欠):寛弘4年(1007年)任
- 藤原親通:寛弘6年(1009年)任終
- 藤原実雅:寛弘7年1月(1010年1月)任、長和3年1月(1014年2月)得替
- (姓欠)遠晴:長和3年1月24日(1014年3月4日)見
- (姓欠)時重:治安1年12月16日(1022年1月26日)見
- 源道成:長元4年1月25日(1031年2月25日)見
- 宗岡国任:長元7年1月29日(1034年2月26日)任
- 八木元蔭:長元8年1月(1035年2月)任、長暦2年1月(1038年2月)停
- 平兼基:承暦4年8月2日(1080年8月25日)見
- 卜部兼経:永保元年(1081年)見
- 源成経:永保元年12月16日(1082年1月23日)功過
- 平資季:応徳元年1月17日(1084年3月2日)見
- (姓欠)経直:寛治7年6月9日(1093年7月11日)見
- 橘為重:嘉保元年2月22日(1094年3月17日)任
- 紀成久:嘉保元年12月(1095年1月)任
- 平正盛:承徳元年8月25日(1097年10月9日)任
- (姓欠)延行:嘉承元年(1106年)任
- 藤原実盛:元永元年1月18日(1118年2月17日)任
- 藤原資定:大治元年2月(1126年3月)任
- 中原師遠:大治5年1月28日(1130年3月16日)任
- 大江行重:長承元年10月30日(1132年12月16日)見
- (大江?)遠兼:保延元年6月26日(1135年8月14日)見
- 藤原資憲:保延4年5月2日(1138年6月17日)見
- 藤原光忠:保延5年1月24日(1139年3月3日)任隠岐権介、※下国の隠岐に介は無いため讃岐権介か?
- 藤原信盛:久安3年1月28日(1147年3月8日)任
- 平繁賢:久安3年7月18日(1147年8月23日)見
- 藤原家輔:仁平2年1月28日(1152年3月13日)任
- (姓欠)宗輔:久寿元年1月3日(1154年2月23日)見
- 源雅範:保元2年1月24日(1157年3月13日)任
- 源光泰:平治元年12月10日(1160年1月27日)任
- 秦松国:平治元年1月29日(1159年2月25日)任
- 佐々木義清:嘉禄3年3月21日(1227年4月8日[5])
守護
[編集]鎌倉幕府
[編集]- 1193年 - 1205年:佐々木定綱
- 1205年 - 1221年:佐々木広綱[6]
- 1221年 - 1227年:佐々木義清
- 1233年 - 1251年:佐々木政義[7]
- 1251年 - 1276年 - 佐々木泰清
- 1277年 - ?:佐々木宗泰
- ? - 1305年:佐々木時清
- 1305年 - 1332年:佐々木宗清
- 1332年 - 1333年:佐々木清高
室町幕府
[編集]- 1336年 - 1341年:塩冶高貞
- 1341年 - 1343年:山名時氏
- 1343年 - 1349年:京極高氏
- 1351年 - 1352年:山名時氏
- 1352年 - ?:京極高氏
- 1365年 - ?:佐々木氏
- 1366年 - 1368年:京極高氏
- 1368年 - 1379年:京極高秀
- 1379年 - 1381年:山名義幸
- 1385年 - 1391年:山名満幸
- 1392年 - 1401年:京極高詮
- 1401年 - 1413年:京極高光
- 1413年 - 1434年:京極持光
- 1435年 - 1439年:京極持高
- 1439年 - 1441年:京極高数
- 1441年 - 1470年:京極持清
- 1470年 - 1471年:京極氏
- 1471年 - 1508年:京極政高
- 1508年 - ?:京極氏
- 1552年 - 1561年:尼子晴久
武家官位としての隠岐守
[編集]- 江戸時代以前
- 江戸時代石見津和野藩亀井家
- 江戸時代下総関宿藩久世家
- 江戸時代遠江横須賀藩西尾家
- 江戸時代伊予松山藩定勝系久松松平家宗家
- 松平定勝:定勝系久松松平家宗家初代。遠江掛川藩主、山城伏見藩主、伊勢桑名藩初代藩主
- 松平定行:同2代。遠江掛川藩主、伊勢桑名藩主、伊予松山藩初代藩主
- 松平定頼:同3代。伊予松山藩第2代藩主
- 松平定長:同4代。伊予松山藩第3代藩主
- 松平定直:同5代。伊予松山藩4代藩主
- 松平定英:同6代。伊予松山藩5代藩主
- 松平定喬:同7代。伊予松山藩6代藩主
- 松平定功:同8代。伊予松山藩7代藩主
- 松平定静:同9代。伊予松山藩8代藩主
- 松平定国:同10代。伊予国松山藩第9代藩主
- 松平定通:同12代。伊予松山藩11代藩主
- 松平勝善:同13代。伊予松山藩12代藩主
- 松平勝成:同14代・16代。伊予松山藩13代および15代(再勤)の藩主
- 江戸時代その他
隠岐に流された人物
[編集]脚注
[編集]- ^ 佐藤信 『日本古代の宮都と木簡』 (日本史学研究叢書、1997年) pp.369 - 370
- ^ 禅尾山国分寺 境内説明板。
- ^ 隠岐国分尼寺跡 説明板。
- ^ a b 中世諸国一宮制研究会編『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000年、pp. 440-442。
- ^ 『明月記』嘉禄3年3月21日條
- ^ 『隠岐古記集』に「承久三年、隠岐地頭・(佐々木)広綱、定綱嫡子。(広綱は)佐々木判官民部大輔山城守左衛門尉従五位下、元久二年より承久三年迄地頭たり、後島羽院に従て関東を討、依之地頭職を失ふ」とあり。
- ^ 佐々木政義、無断出家により家督から外される。(『吾妻鏡』第40巻、建長2年12月29日庚申(1251年1月22日)條
参考文献
[編集]- 角川日本地名大辞典 32 島根県
- 旧高旧領取調帳データベース