1971年イタリアグランプリ
レース詳細 | |||
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1971年F1世界選手権全11戦の第9戦 | |||
モンツァ・サーキット (1957-1971) | |||
日程 | 1971年9月5日 | ||
正式名称 | 42o Gran Premio d'Italia[1] | ||
開催地 |
モンツァ・サーキット イタリア モンツァ | ||
コース | 恒久的レース施設 | ||
コース長 | 5.750 km (3.573 mi) | ||
レース距離 | 55周 316.25 km (196.515 mi) | ||
決勝日天候 | 晴(ドライ)[2] | ||
ポールポジション | |||
ドライバー | マトラ | ||
タイム | 1:22.4 | ||
ファステストラップ | |||
ドライバー | アンリ・ペスカロロ | マーチ-フォード | |
タイム | 1:23.8 (9周目) | ||
決勝順位 | |||
優勝 | BRM | ||
2位 | マーチ-フォード | ||
3位 | ティレル-フォード |
1971年イタリアグランプリ (1971 Italian Grand Prix) は、1971年のF1世界選手権第9戦として、1971年9月5日にモンツァ・サーキットで開催された[3]。
優勝したピーター・ゲシンと2位のロニー・ピーターソンとの差はわずか0.01秒で、F1史上最も僅差でフィニッシュしたレースである[注 1]。上位5台の差もわずか0.61秒で、フランソワ・セベールが3位、マイク・ヘイルウッドが4位、ハウデン・ガンレイが5位となった。
背景
[編集]コンストラクターズランキング首位のティレルは2位のフェラーリに19点差を付けているが、フェラーリに乗るいずれかのドライバーが5位以内に入賞できなければ、ティレルが初のコンストラクターズチャンピオンを獲得する[注 2][4]。
レース前
[編集]前戦オーストリアGPの翌週8月22日にオウルトン・パークで行われた非選手権レースのインターナショナル・ゴールドカップは、サーティースのオーナー兼ドライバーであるジョン・サーティースが優勝した[5]。
エントリー
[編集]フェラーリはこの年、312B2とファイアストンタイヤの相性の悪さに起因するタイヤの振動を抑えられず[6]、シーズン中盤以降ティレルはおろか、マーチやBRMにも遅れを取るようになった[7]。前戦オーストリアGPで惨敗を喫した後、エンツォ・フェラーリはこのまま著しい進歩が望めないなら、モンツァはあえて出場を見合わせるようにと技術スタッフに指示し始めたほどであった。開発責任者のマウロ・フォルギエリはシリンダーヘッドを若干改良し、最高出力を落とさずに効率よくトルクを引き出そうとした。主催者も何とかフェラーリを出場させようとエンツォを説得した。エースのジャッキー・イクスは旧型312Bで出場したいという意思を貫き、312Bを走らせることになった。さらに、エンツォ個人の要請によってライバルのグッドイヤータイヤを試験的に装着したことで、ファイアストンの怒りを買った。チームメイトのクレイ・レガツォーニは従来どおり312B2を走らせる[8]。
チーム・ロータスとイタリア当局の間には、前年のイタリアGPで事故死したヨッヘン・リントの件についていくつかの法的な問題が残されていたため「チーム・ロータス」としては本レースを欠場し、コーリン・チャップマンもモンツァには来なかった。代わってロータスのスポーツディレクターを務めるピーター・ウォーが所有する「ワールドワイド・レーシング」によって参加することになった。マシンは四輪駆動でかつプラット・アンド・ホイットニーのガスタービンエンジンを搭載した56Bで、カラーリングも本来使用する「ゴールドリーフ」の赤・白・金ではなく金と黒に塗られ、エマーソン・フィッティパルディのみ参加した[4][5]。なお、フィッティパルディにとってフォード・コスワース・DFVエンジンを搭載しないマシンで走った生涯唯一のF1世界選手権レースとなった[9]。
マクラーレンはエースのデニス・ハルムがUSACチャンピオンシップ[注 3]の出場を優先したため欠場し、ジャッキー・オリバーのみ参加する。前戦オーストリアGPを欠場したマトラは吸気ダクトと潤滑システムを改良した新たなエンジンを投入して戻ってきた[4]。ただし、ジャン=ピエール・ベルトワーズは1月に行われたブエノスアイレス1000kmレースの事故の責任をCSI[注 4]に問われて出場停止中[10]だったため、クリス・エイモンのみ参加する[4]。サーティースはロードレース世界選手権の元チャンピオンであるマイク・ヘイルウッドを3台目のドライバーに起用した。ヘイルウッドは1965年モナコGP以来6年ぶりのF1復帰となる。新人ジャン=ピエール・ジャリエはシェルの支援を受け、古いマーチ・701で参加する。シルビオ・モーザーは前年走らせたベラシを1年ぶりに参加させる。この他、ヘルベルト・ミューラーがロータス・72、カルロス・パーチェがウィリアムズからマーチ・701、フランソワ・マゼがジョー・シフェールのチームからマーチ・701でそれぞれエントリーされていたが、参加には至らなかった[4]。
エントリーリスト
[編集]- 追記
予選
[編集]高速サーキットのモンツァは12気筒エンジンに分があり、マトラのクリス・エイモンがポールポジションを獲得し、フェラーリのジャッキー・イクスが2番手でフロントロー、BRMのジョー・シフェールとハウデン・ガンレイが2列目に並んだ。V8エンジン勢のトップはフランソワ・セベール(ティレル)の5番手で、以下、ロニー・ピーターソン(マーチ)、ジャッキー・スチュワート(ティレル)、クレイ・レガツォーニ(フェラーリ)、ティム・シェンケン(ブラバム)、アンリ・ペスカロロ(ウィリアムズ/マーチ)がトップ10に入った[5]。23番手のロルフ・シュトメレンはクラッシュでマシンが大きく損傷し、決勝までに修復するのは不可能だったため、決勝に出走しなかった[4]。
予選結果
[編集]順位 | No. | ドライバー | コンストラクター | タイム | 差 | グリッド |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 12 | クリス・エイモン | マトラ | 1:22.40 | - | 1 |
2 | 3 | ジャッキー・イクス | フェラーリ | 1:22.82 | +0.42 | 2 |
3 | 20 | ジョー・シフェール | BRM | 1:23.03 | +0.63 | 3 |
4 | 19 | ハウデン・ガンレイ | BRM | 1:23.15 | +0.75 | 4 |
5 | 2 | フランソワ・セベール | ティレル-フォード | 1:23.41 | +1.01 | 5 |
6 | 25 | ロニー・ピーターソン | マーチ-フォード | 1:23.46 | +1.06 | 6 |
7 | 30 | ジャッキー・スチュワート | ティレル-フォード | 1:23.49 | +1.09 | 7 |
8 | 4 | クレイ・レガツォーニ | フェラーリ | 1:23.69 | +1.29 | 8 |
9 | 11 | ティム・シェンケン | ブラバム-フォード | 1:23.73 | +1.33 | 9 |
10 | 16 | アンリ・ペスカロロ | マーチ-フォード | 1:23.77 | +1.37 | 10 |
11 | 18 | ピーター・ゲシン | BRM | 1:23.88 | +1.48 | 11 |
12 | 21 | ヘルムート・マルコ | BRM | 1:23.96 | +1.56 | 12 |
13 | 14 | ジャッキー・オリバー | マクラーレン-フォード | 1:24.09 | +1.69 | 13 |
14 | 10 | グラハム・ヒル | ブラバム-フォード | 1:24.27 | +1.87 | 14 |
15 | 7 | ジョン・サーティース | サーティース-フォード | 1:24.45 | +2.05 | 15 |
16 | 24 | マイク・ボイトラー | マーチ-フォード | 1:25.01 | +2.61 | 16 |
17 | 9 | マイク・ヘイルウッド | サーティース-フォード | 1:25.17 | +2.77 | 17 |
18 | 5 | エマーソン・フィッティパルディ | ロータス-プラット&ホイットニー | 1:25.18 | +2.78 | 18 |
19 | 22 | ナンニ・ギャリ | マーチ-フォード | 1:25.19 | +2.79 | 19 |
20 | 23 | アンドレア・デ・アダミッチ | マーチ-アルファロメオ | 1:25.78 | +3.38 | 20 |
21 | 28 | ヨアキム・ボニエ | マクラーレン-フォード | 1:26.14 | +3.74 | 21 |
22 | 27 | シルビオ・モーザー | ベラシ-フォード | 1:26.54 | +4.14 | 22 |
23 | 8 | ロルフ・シュトメレン | サーティース-フォード | 1:27.92 | +5.52 | 23 |
24 | 26 | ジャン=ピエール・ジャリエ | マーチ-フォード | 1:28.19 | +5.79 | 24 |
ソース:[13][14][15] |
決勝
[編集]レースは夏の太陽と暑さの下で行われた[4]。
全車がスターティンググリッドに停止していなかったが、スターターによりスタートフラッグが振られた[4][注 5]。クレイ・レガツォーニが4列目から抜け出して首位に躍り出るが、序盤からレガツォーニ、ロニー・ピーターソン、ジャッキー・スチュワート、フランソワ・セベール、ジョー・シフェール、ジャッキー・イクス、ハウデン・ガンレイ、ピーター・ゲシンによるスリップストリーム合戦が始まり、目まぐるしく順位が入れ替わる。16周目にスチュワートとイクスがエンジントラブルでリタイアし、2周後にはレガツォーニもエンジントラブルでリタイアする。彼らに代わってマイク・ヘイルウッドとクリス・エイモンが先頭集団に加わった。シフェールはオーバーヒートに苦しむ中で首位に立ったが、ギアボックスの異常により先頭集団から脱落し、エイモンもバイザーを失い、オーバーヒートに悩まされて脱落した。先頭集団に残った5台によるスリップストリーム合戦は最後まで繰り広げられ[5]、首位が25回も入れ替わる大混戦を制したのは、最後の最後で首位に立ったゲシンだった。ゲシンと2位ピーターソンの差は0.01秒というF1史上最も僅差で[注 1]初勝利を挙げ、ゲシンと0.09秒差の3位セベール、同じく0.18秒差の4位ヘイルウッド、同じく0.61秒差の5位ガンレイまで一塊となってチェッカーフラッグを受けた[16]。ゲシンにとってこれがF1世界選手権における唯一の優勝であり[17]、イングランド出身のドライバーが優勝するのは1975年オランダGPのジェームス・ハントまで4年間なかった[18][注 6]。
優勝したゲシンの平均速度は242.616 km/h (150.755 mph)でF1史上最速記録を更新し[4]、2003年イタリアGPで優勝したミハエル・シューマッハが247.585 km/h (153.842 mph)を記録するまで32年間破られなかった[19]。なお、翌1972年からシケインが2ヶ所に設けられたため[20]、シケインがないモンツァで行われた最後のF1世界選手権レースとなった[21]。
セベールが3位に入賞したことにより、ティレルはF1フル参戦初年度[注 7]にして初のコンストラクターズチャンピオンを決めた[4]。
レース結果
[編集]順位 | No. | ドライバー | コンストラクター | 周回数 | タイム/リタイア原因 | グリッド | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 18 | ピーター・ゲシン | BRM | 55 | 1:18:12.60 | 11 | 9 |
2 | 25 | ロニー・ピーターソン | マーチ-フォード | 55 | +0.01 | 6 | 6 |
3 | 2 | フランソワ・セベール | ティレル-フォード | 55 | +0.09 | 5 | 4 |
4 | 9 | マイク・ヘイルウッド | サーティース-フォード | 55 | +0.18 | 17 | 3 |
5 | 19 | ハウデン・ガンレイ | BRM | 55 | +0.61 | 4 | 2 |
6 | 12 | クリス・エイモン | マトラ | 55 | +32.36 | 1 | 1 |
7 | 14 | ジャッキー・オリバー | マクラーレン-フォード | 55 | +1:24.83 | 13 | |
8 | 5 | エマーソン・フィッティパルディ | ロータス-プラット&ホイットニー | 54 | +1 Lap | 18 | |
9 | 20 | ジョー・シフェール | BRM | 53 | +2 Laps | 3 | |
10 | 28 | ヨアキム・ボニエ | マクラーレン-フォード | 51 | +4 Laps | 21 | |
Ret | 10 | グラハム・ヒル | ブラバム-フォード | 47 | ギアボックス | 14 | |
NC | 26 | ジャン=ピエール・ジャリエ | マーチ-フォード | 47 | 規定周回数不足 | 24 | |
Ret | 24 | マイク・ボイトラー | マーチ-フォード | 41 | エンジン | 16 | |
Ret | 16 | アンリ・ペスカロロ | マーチ-フォード | 40 | サスペンション | 10 | |
Ret | 23 | アンドレア・デ・アダミッチ | マーチ-アルファロメオ | 33 | エンジン | 20 | |
Ret | 4 | クレイ・レガツォーニ | フェラーリ | 17 | エンジン | 8 | |
Ret | 3 | ジャッキー・イクス | フェラーリ | 15 | エンジン | 2 | |
Ret | 30 | ジャッキー・スチュワート | ティレル-フォード | 15 | エンジン | 7 | |
Ret | 22 | ナンニ・ギャリ | マーチ-フォード | 11 | 電気系統 | 19 | |
Ret | 11 | ティム・シェンケン | ブラバム-フォード | 5 | サスペンション | 9 | |
Ret | 27 | シルビオ・モーザー | ベラシ-フォード | 5 | サスペンション | 22 | |
Ret | 21 | ヘルムート・マルコ | BRM | 3 | エンジン | 12 | |
Ret | 7 | ジョン・サーティース | サーティース-フォード | 3 | エンジン | 15 | |
DNS | 8 | ロルフ・シュトメレン | サーティース-フォード | 0 | 予選でアクシデント | 23 | |
ソース:[22]
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- アンリ・ペスカロロ - 1:23.8 (9周目)
- クレイ・レガツォーニ - 4周 (1-3, 9)
- ロニー・ピーターソン - 23周 (4-7, 10-14, 17-22, 24, 26, 33, 47-50, 54)
- ジャッキー・スチュワート - 1周 (8)
- フランソワ・セベール - 7周 (15-16, 23, 31-32, 34, 36)
- マイク・ヘイルウッド - 5周 (25, 27, 35, 42, 51)
- ジョー・シフェール - 3周 (28-30)
- クリス・エイモン - 9周 (37-41, 43-46)
- ピーター・ゲシン - 3周 (52-53, 55)
- 達成された主な記録[4]
- ドライバー
- コンストラクター
- エンジン
- 初ポールポジション: マトラ
- 初完走/最終出走: プラット・アンド・ホイットニー[28]
第9戦終了時点のランキング
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- 注: トップ5のみ表示。前半6戦のうちベスト5戦及び後半5戦のうちベスト4戦がカウントされる。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b 当時はまだ1/100秒単位までしかタイム計測が行われていなかったため、現在の1/1000秒単位による計測で最も僅差の2002年アメリカGPの0.011秒(優勝ルーベンス・バリチェロ、2位ミハエル・シューマッハ)の方がF1史上最も僅差である可能性がある。 “(2018年アゼルバイジャンGP終了時点) All-Time F1 Records”. Formula One Art & Genius. 2020年3月15日閲覧。
- ^ 当時のF1世界選手権ポイントシステムは、上位6台に9-6-4-3-2-1点が与えられていた。コンストラクターズポイントは最上位入賞者のみが対象となる。
- ^ 現在のインディカー・シリーズの前身にあたる。
- ^ 1978年に国際自動車スポーツ連盟(FISA)に改編され、1993年に国際自動車連盟(FIA)へ吸収された。
- ^ 当時はスターターが国旗を振るのがスタートの合図だった。
- ^ イングランド出身以外のドライバーを除く。例としてスチュワートはスコットランド出身のため除外。
- ^ ティレルチームとしての初参戦は前年(1970年)であったが、マーチのシャシーを使用した。自製マシンによる参戦開始は同年の第11戦カナダGPで、終盤3戦のみであった。
出典
[編集]- ^ “Motor Racing Programme Covers: 1971”. The Programme Covers Project. 13 November 2017閲覧。
- ^ (林信次 1993, p. 116)
- ^ 1971 Italian Grand Prix Entry list .
- ^ a b c d e f g h i j k “Italy 1971”. STATS F1. 2020年3月16日閲覧。
- ^ a b c d “Italian GP, 1971”. grandprix.com. 2020年3月16日閲覧。
- ^ (アラン・ヘンリー 1989, p. 263)
- ^ (林信次 1993, p. 17)
- ^ (アラン・ヘンリー 1989, p. 265-266)
- ^ “戦績:E.フィッティパルディ”. F1 DataWeb. 2020年3月20日閲覧。
- ^ “Britain 1971”. STATS F1. 2020年2月9日閲覧。
- ^ “Italy 1971 - Race entrants”. STATS F1. 2020年3月17日閲覧。
- ^ a b c “Italy 1971 - Result”. STATS F1. 2020年3月21日閲覧。
- ^ Pritchard, Anthony (1972). The Motor Racing Year No3. ISBN 0393085023
- ^ “Italy 1971 - Qualifications”. STATS F1. 2020年3月18日閲覧。
- ^ “Italy 1971 - Starting grid”. STATS F1. 2020年3月18日閲覧。
- ^ (林信次 1993, p. 22)
- ^ “戦績:P.ゲシン”. F1 DataWeb. 2020年3月20日閲覧。
- ^ “United Kingdom - Wins”. STATS F1. 2020年3月20日閲覧。
- ^ “Fastest races and laps ever”. Autosport (14 September 2003). 9 January 2016閲覧。
- ^ “Monza”. Racingcircuits.info. 2020年3月20日閲覧。
- ^ “Monza”. STATS F1. 2020年3月20日閲覧。
- ^ “1971 Italian Grand Prix”. formula1.com. 2 August 2014時点のオリジナルよりアーカイブ。22 December 2015閲覧。
- ^ “Italy 1971 - Best laps”. STATS F1. 2020年3月21日閲覧。
- ^ “Italy 1971 - Laps led”. STATS F1. 2020年3月21日閲覧。
- ^ “戦績:J.P.ジャリエ”. F1 DataWeb. 2020年3月21日閲覧。
- ^ “戦績:S.モーザー”. F1 DataWeb. 2020年3月21日閲覧。
- ^ “戦績:ベラシ”. F1 DataWeb. 2020年3月21日閲覧。
- ^ “戦績:プラット&ホィットニー”. F1 DataWeb. 2020年3月21日閲覧。
- ^ a b “Italy 1971 - Championship”. STATS F1. 18 March 2019閲覧。
参照文献
[編集]- Wikipedia英語版 - en:1971 Italian Grand Prix(2020年2月12日 12:41:15(UTC))
- 林信次『F1全史 1971-1975 [名手スチュワートの退場/若手精鋭たちの新時代]』ニューズ出版、1993年。ISBN 4-938495-05-8。
- アラン・ヘンリー『チーム・フェラーリの全て』早川麻百合+島江政弘(訳)、CBS・ソニー出版、1989年12月。ISBN 4-7897-0491-2。
外部リンク
[編集]- “1971 Italian Grand Prix (full race)”. 27 August 2015閲覧。
- Italy 1971 - STATS F1
- Italian GP, 1971 - grandprix.com
前戦 1971年オーストリアグランプリ |
FIA F1世界選手権 1971年シーズン |
次戦 1971年カナダグランプリ |
前回開催 1970年イタリアグランプリ |
イタリアグランプリ | 次回開催 1972年イタリアグランプリ |