コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

井田譲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
井田雷堂から転送)
井田譲(1838-1889)

井田 譲(いだ ゆずる、1838年11月8日天保9年9月22日[1]) - 1889年明治22年)11月29日[1])は、日本大垣藩士、陸軍軍人官僚外交官。最終階級は陸軍少将元老院議官[1]正三位勲一等男爵。字・子載、通称・五蔵[2]。号・雷堂、梧窓[2]

経歴

[編集]

大垣藩・井田徹助(藤右衛門)の長男として生まれる[2][3]安井息軒に学ぶ[3]。大垣藩では、藩主侍講、砲術教授方、評定役、京都留守居役などを勤め、第2次長州征討に出征した[3]。その後鳥羽・伏見の戦いに従軍[2][3]

1868年、新政府に出仕し軍務官判事試補となる。徴士・軍務官権判事、会計官権判事、造幣局知事、生野県権知事、生野県知事、久美浜県知事、長崎県知事大蔵大丞、兵部大丞、福岡藩知参事などを歴任し、1871年、陸軍少将となった[2][3][4][5]

鎮西鎮台出張、陸軍省秘史局長、福州在勤領事上海在勤総領事を経て、1874年2月、陸軍に復帰[2][3][4][5]広島鎮台司令長官、陸軍省第1局長、同第4局長、兼同第1局長などを歴任し、西南戦争に出征した山縣有朋の代理として陸軍卿代理となる[2][3][4][5]。広島鎮台司令長官などを経て、1880年3月、再び外交官となる[3][4][5]オーストリア在勤特命全権公使フランス在勤を経て、1883年4月に帰国した[2][3][5]。同年9月19日に元老院議官に就任[2][3][5][6]。後に北白川宮別当を兼任(1886年3月11日[7]1887年11月4日[8])。その死の直前、1889年11月22日に男爵を叙爵し華族となる[1][3][5][9]

栄典

[編集]
位階
勲章等
外国勲章佩用允許

親族

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『官報』第1929号「彙報 - 官庁事項 - 故井田元老院議官履歴」1889年12月2日。
  2. ^ a b c d e f g h i 『明治維新人名辞典』82-83頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸海軍総合事典』第2版、12-13頁。
  4. ^ a b c d 『日本陸軍将官辞典』78頁。
  5. ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』6-7頁。
  6. ^ 『官報』第70号「授爵叙任及辞令」1883年9月20日。
  7. ^ 『官報』第805号、明治19年3月12日。
  8. ^ 『官報』第1307号「授爵叙任及辞令」1887年11月5日。
  9. ^ a b 『官報』第1923号「授爵叙任及辞令」1889年11月25日。
  10. ^ 『官報』第678号「賞勲叙任」1885年10月2日。
  11. ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
  12. ^ 『官報』第1923号「授爵叙任及辞令」1889年11月25日。
  13. ^ 『官報』第1650号「授爵叙任及辞令」1888年12月27日。
  14. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。

参考文献

[編集]
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。

外部リンク

[編集]
公職
先代
(新設)
日本の旗 北白川宮別当
1886年 - 1887年
次代
(欠員→)山尾庸三
先代
(新設)
日本の旗 清国福州在勤領事
1872年
次代
(廃止→)上野専一
副領事代理
先代
伊王野坦
久美浜県知事
1871年
次代
小松彰
権知事
先代
(新設)
生野県知事
1870年 - 1871年
権知事
1869年 - 1870年
次代
(欠員→)小松彰
権知事
先代
甲斐九郎
知事
日本の旗 造幣局知事心得
1869年
次代
井上馨
造幣頭
軍職
先代
三浦梧楼
司令長官
広島鎮台司令官
1879年 - 1880年
司令長官
1878年 - 1879年
次代
黒川通軌
先代
高橋勝政
司令長官心得
広島鎮台司令長官
1875年
次代
高橋勝政
司令長官心得
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
井田(譲)家初代
1889年
次代
井田磐楠