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全日本歌謡音楽祭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
全日本歌謡音楽祭
最末期に使用されていた日本武道館
受賞対象最も活躍した歌手
会場
日本の旗 日本
主催NETテレビ

全国朝日放送
朝日放送名古屋テレビ放送他系列局
初回1975年
最新回1990年

全日本歌謡音楽祭(ぜんにほんかようおんがくさい)は、1975年から1990年までテレビ朝日(旧:NETテレビ)およびテレビ朝日系列局の主催により開催された、日本の音楽祭、音楽番組である。後援は朝日新聞社

概要

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1975年10月、『あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭 輝け! ゴールデングランプリ』と題し、第1回授賞式がコンテスト形式で開催された。

各賞はANNフルネット局(開始年からANNの関西圏は朝日放送)の視聴者からの投票により授与された。

同音楽祭のテーマ曲には小川寛興が担当。 入賞者発表は東京會舘(1981年・1982年)、赤坂プリンスホテル(1980年・1984年・1985年)で、決戦大会の会場は日劇(1979年まで)、郵便貯金ホール(1980年のみ)、中野サンプラザ(1981年 - 1984年)、日本武道館(1985年以降)であった。

1985年からは審査員による審査方式へ変更になり、『全日本歌謡音楽祭』と改題され、会場も武道館へと変更した。

平成に入ると、音楽祭に対する考えの変化から、音楽賞に左右されない音楽活動を行うアーティストが増加、それに比例してノミネートを辞退するアーティストも増加していく。このため『日本歌謡大賞』や『日本テレビ音楽祭』、『FNS歌謡祭音楽大賞』、『メガロポリス歌謡祭』など、放送局主導による音楽祭の廃止が相次ぐ中、この『全日本歌謡音楽祭』も、1990年(第16回)で終了した。

その後は1991年11月6日に『水曜特バン! 特別企画!夢の音楽祭 今夜歌手267名生出演 史上最大の感謝祭』(司会はタモリ生島ヒロシ笑福亭鶴瓶研ナオコ)というタイトルで賞レースの要素を撤廃した生放送の音楽特番が放送され、1992年より『ミュージックステーションスーパーライブ』に引き継がれた。

発表形式

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1984年までの「ゴールデングランプリ」の発表形式は従来の司会者などの受賞者の読み上げではなく、コンピューターで発表。男性司会者が「コンピューター スイッチ・オン!」とコールして、テレビ朝日のコンピューター室に居る男性アナウンサーがボタンを押した後、グランプリ・ノミネートの名前が全て出た後、ゴールデングランプリの受賞者を発表された。

表彰規定

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第4回以前は不明

金賞
ゴールデングランプリの権利を持つ。(第6回から)、第5回まではグランプリ候補。
銀賞
最優秀新人賞の権利を持つ。(第5回・第10回から)、第4回までは新人賞候補、第6回から第9回は新人奨励賞も同様に最優秀新人賞の権利を持つ。
ゴールデングランプリ
金賞受賞者の中から、視聴者1万人の投票で最も多かったアーティストに授与。末期にはテレビ朝日系列の音楽番組での活躍が顕著で、且つ優秀な歌手に対して授与された。受賞者にゴールデントロフィーと賞金500万円が贈られた。
優秀新人賞
銀賞受賞者から、数組に授与。年によっては受賞者がない場合もあった。
最優秀新人賞
銀賞受賞者から、本年度にデビューした歌手を対象とし、視聴者投票の最も多かったアーティスト1組に授与。末期にはテレビ朝日系列の音楽番組での活躍が顕著で、且つ将来性が期待できる歌手1組(1984年のみ2組、「エピソード」を参照)に対して授与された。受賞者に50万円が贈られる。

歴代受賞一覧

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年(回) 入賞発表 決勝 ゴールデングランプリ 最優秀新人賞
1975年(第1回) 10月1日 12月10日 布施明シクラメンのかほり 岩崎宏美
細川たかし
1976年(第2回) 10月13日 五木ひろしどこへ帰る 新沼謙治
1977年(第3回) 12月21日 12月28日 沢田研二勝手にしやがれ 狩人
1978年(第4回) 12月12日 12月26日 沢田研二「LOVE (抱きしめたい) 渡辺真知子
1979年(第5回) 10月23日 11月13日 西城秀樹勇気があれば 倉田まり子
1980年(第6回) 10月21日 11月11日 五木ひろし「ふたりの夜明け 田原俊彦
1981年(第7回) 10月13日 10月28日 寺尾聰ルビーの指環 近藤真彦
1982年(第8回) 10月12日 10月26日 五木ひろし契り シブがき隊
1983年(第9回) 10月11日 10月25日 松田聖子ガラスの林檎 THE GOOD-BYE
1984年(第10回) 10月16日 10月30日 中森明菜十戒 (1984) 吉川晃司
岡田有希子
1985年(第11回) 10月29日 11月12日 近藤真彦大将 芳本美代子
1986年(第12回) 10月21日 10月28日 中森明菜「Fin 少年隊
1987年(第13回) 10月9日 10月16日 近藤真彦「泣いてみりゃいいじゃん 酒井法子
1988年(第14回) 昭和天皇の病状悪化により中止
1989年(第15回) 10月13日 光GENJI太陽がいっぱい 田村英里子
マルシア
1990年(第16回) 10月12日 堀内孝雄恋唄綴り 晴山さおり
忍者

歴代司会者一覧

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開催年 男性 女性
1975年 田宮二郎 うつみ宮土理
1976年 森ミドリ
1977年 夏目雅子
1978年 川崎敬三 若原瞳
1979年 関口宏 水沢アキ
1980年 中井貴恵
1981年 多岐川裕美
1982年
1983年
1984年
1985年
1986年
1987年 渡辺徹 榊原郁恵
1988年 中止
1989年 生島ヒロシ
神田正輝
東ちづる
1990年

エピソード

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  • 1975年(第1回)の予選は東日本放送の開局日でもあり、開局記念番組としてテレビ朝日(当時:NETテレビ)スタジオと宮城県スポーツセンターとの2元生中継を行った。
  • 1977年(第3回)ではピンク・レディーケイが病欠し、受賞曲である「ウォンテッド」のケイのパートを司会の田宮・夏目など出演歌手にリレーパートして披露した。
  • 1984年(第10回)では優秀新人賞がなかったことが影響したことで、例年1組に贈られる最優秀新人賞がこの回のみ2組に贈られた。
  • 概ねの放送回が火曜日に行われたが、1975年の入賞者発表と決勝、1981年の決勝は水曜日の『水曜スペシャル』枠(1975年の入賞者・決勝は84分枠)に、1987年以降は金曜日(『ミュージックステーション』枠。1987年の入賞者は19:30 - 20:54・決勝は19:00 - 20:54、1989年以降は19:00 - 21:48)で放送された。
    • 1983年は入賞者発表と決勝はともに火曜日に放送されたが、入賞者発表は20:00 - 21:48、決勝は19:30 - 21:48に放送された。これは『ザ・ベストヒット'83』終了と『そーっと歌ってみよう』開始までのつなぎとして放送された。

スタッフ

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美術・技術

  • 美術:岡田道哉、板垣昭次
  • 技術:服部弘一、板倉仡、荒川純一、安保洋一、中村伴部
  • カメラ:辻井明、後藤賢
  • 照明:辻井一義、高見光平
  • カラー調整:岡田研介、藤本一夫
  • 音声:高橋正勝
  • 大道具:(株)ムラヤマ
  • 電飾:古磨電設
  • タイトル:盛合正典
  • コンピューター担当:青沼暎男

制作

  • T・K:宮本美智子
  • ディレクター:村居義弘、成田信夫
  • アシスタントプロデューサー:中村元一、斉藤由雄
  • 演出:安藤仁、鈴木宏男、斉藤由雄、中村元一、山本清
  • 総合演出:成田信夫
  • プロデューサー:土屋順二、湧口義輝、北村英一
  • プロデューサー→チーフプロデューサー:皇達也

関連項目

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