コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ピンク・レディー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ピンク・レディー
出身地 日本の旗 日本 静岡県静岡市(後の葵区
ジャンル
活動期間
レーベル
共同作業者
メンバー

ピンク・レディーPink Lady)は日本の女性デュオ。1970年代後半、斬新な振付と衣装を伴ったユニークなヒット曲の数々で、アイドルとして爆発的なブームを巻き起こした。

メンバーは、根本美鶴代(ミー、現:未唯mie)と増田啓子(ケイ、現:増田惠子)。1976年から1981年当時の所属事務所はT&C。レコード会社はビクターエンタテインメント(二代目法人、旧:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント ← ビクターエンタテインメント〈初代法人〉 ← ビクター音楽産業)。

メンバー

[編集]
愛称 本名(デビュー時)※ 生年月日 出身地 現芸名
ミー 根本美鶴代 1958年3月9日 静岡県静岡市(後の葵区 未唯mie
ケイ 増田啓子 1957年9月2日 静岡県静岡市(後の葵区) 増田惠子

※ 1976年8月25日から1981年3月31日までの芸名でもあった。

経歴

[編集]

出会い

[編集]

中学2年時(1971年)に、ミーの在学する静岡市立末広中学校にケイが転校して来て演劇部に入り2人が知り合う。

1973年に、ヤマハ音楽が主催するオーディションにそれぞれ合格する。授業料免除の特待生にも合格したことから、ヤマハボーカルスクールに通うことになる。講師の勧めで、当時人気のあった「キャンディーズ」にあやかった『クッキー』というフォークソング系のデュオを結成し、プロデビューを目指すことになった[4]1974年のヤマハ主催のポプコン東海地区大会決勝に進出して、「恋のレッスン」を歌っている。

ヤマハ所属のセミプロ歌手として同社の新商品発売イベントやキャンペーン開催時に参加し、歌を披露することもあった[注釈 1]

スター誕生

[編集]

プロをめざし、ヤマハの全国オーディションに出場しグランプリを獲得するものの、デビューの話は具体化しなかった。次にオーディション番組『君こそスターだ!』に出場するが不合格[5]。最後の挑戦と意気込み応募したのが『スター誕生!』である。第224回(1976年1月11日放送)合格者となり、決勝大会へ進む。

1976年3月14日、『スター誕生!』第16回決勝大会に出演。白いシャツにサロペット(ミーは赤、ケイは紺青)を着用、化粧もほぼ施さず、垢抜けない雰囲気を演出して登場[注釈 2]。当時ほとんど無名に近かったフォークグループ、ピーマンの「部屋を出て下さい」[注釈 3][6]を披露。合計8社のレコード会社や芸能プロダクションから獲得の意向を示すプラカードが上がった。熱心だったのは、アクト・ワン・エンタープライズ(同年4月にT&Cに吸収される)の相馬一比古とビクター音楽産業の飯田久彦。2人は両社に所属することになる。

デビューまで

[編集]

クッキーと契約を交わしたレコード会社・ビクター音楽産業でディレクターを務めていた飯田久彦は、ミーとケイをフォークデュオで売り出そうとする上層部に異議を唱えた。ディスコミュージックブームの波が押し寄せ、フォークの時代に陰りが見え始めており、洋楽の要素を含んだ楽曲の時代を予見していた。何よりも、ミーとケイの溌溂とした若さと魅力的なルックスは武器になり、リズムやビートの効いた楽曲を歌わせることで新たな魅力が引き出せると確信していた。上層部に粘り強く交渉して方針変更の許可を得てプロデュースに本腰を入れる。

『スター誕生!』出演時の時のような、化粧ひとつしない素朴なイメージを封印。大胆に肌を素出させたボディラインにフィットするデザイン(マイクロミニ丈のミニスカートホットパンツ、キャミソールドレス、ワンショルダーやチューブトップなど。デザイナーは野口庸子)の衣装に身を包み、セクシーでありながら爽やかな可愛らしさを前面に打ち出した。

活動名も、大人っぽく都会的なイメージに変更。作曲家・都倉俊一が、カクテルピンク・レディーに因んで『ピンク・レディー』と命名した[7]。『ピンク・レディー』(複数形)としなかったのはこのためである。

デビュー曲選考にあたり、「乾杯お嬢さん」「ペッパー警部」の2曲が挙がり、前者が有力視されていた。しかし、楽曲提供した阿久悠と都倉がインパクトのある「ペッパー警部」を推し、デビューシングル(A面)に決定した。

レコードデビュー

[編集]

1976年8月25日、レコード・デビュー。『スター誕生!』決勝大会から半年足らずでのスピードデビューである。

デビュー直後はキワモノ的な見方もされ、ミニスカートから伸びた太ももをがに股に開け閉めする振付を行うことから成人向け深夜番組の出演が多かった。しかし、リリースされる楽曲が次々とヒットチャートを駆け上がり、人気音楽番組に出始めるようになると、当時の子供たちがこぞって振付を覚えて真似をし始めた(振付師土居甫が担当)。

人気が高まるにつれ、衣料品や文房具、食器、自転車や食品まで多くの業種のさまざまな商品に2人の姿がプリントされたキャラクターグッズが販売された。また、ミーとケイをネコに模したマスコットキャラクターも考案され、こちらもグッズ化された。

人気絶頂期

[編集]
1976年
ピンク・レディーのデビュー・シングル「ペッパー警部」(1976年8月)は売上60万枚(オリコン調べ)、出荷ベースではミリオンセラーのヒットとなり、1976年末の「第18回日本レコード大賞」新人賞を獲得、翌1977年に掛けてロングヒットとなる。この曲では両脚をがに股に開くポーズを含む斬新な踊りが、当時の世間に大きな注目を集めた。
第2弾シングルの「S・O・S」(1976年11月)、第3弾シングルの「カルメン'77」(1977年3月)もオリコン1位を記録する大ヒットとなり、大きな注目を集めたことから人気が社会的に広がった。
1977年
第4弾シングル「渚のシンドバッド」(1977年6月)は、ピンク・レディー初のミリオンセラーとなった(オリコン調べ)。なお、翌年デビューしたサザンオールスターズは、「渚のシンドバッド」および同年1977年にリリースした沢田研二の「勝手にしやがれ」の曲名を掛け合わせ、デビューシングルの曲名を「勝手にシンドバッド」としている[注釈 4]
第5弾シングルの「ウォンテッド(指名手配)」(1977年9月)もオリコンで12週連続1位を記録する大ヒットとなり、アメリカで外国人歌手によるカバーソングまで発売された。1977年末、ピンク・レディーは第19回日本レコード大賞において「S・O・S」「カルメン'77」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド(指名手配)」をノンストップメドレーで歌い「大衆賞」を受賞した。
1978年
第6弾シングル「UFO」(1977年12月)もミリオンセラーを記録し、1978年末の「第20回日本レコード大賞」を受賞する。それまでピンク・レディーのような“ディスコ・ポップス系”のアイドル歌手がレコード大賞を受賞した前例はなかった。また“地球の美女が異星人に恋をする”という阿久悠作詞の歌詞も、当時としては画期的なものであった。
第7弾シングルの「サウスポー」(1978年3月)もミリオンセラーとなった。この「サウスポー」では“左利きの女性投手が王貞治一騎討ちをする場面”が描かれており、これは当時一世を風靡した“読売巨人軍の四番打者・王貞治のホームラン世界記録ブーム”を背景としたものである(この頃、王貞治は第1号の国民栄誉賞を受賞した)。ピンク・レディーの作詞家・阿久悠は「作詞とは“時代”である」をポリシーとしていた。
さらに、次のシングル「モンスター」(1978年6月)も、これまでの勢いを受けて、ミリオンセラーを記録した。
1978年のブロマイドの年間売上成績でも人気No.1を獲得した。また「サウスポー」や「透明人間」(1978年9月)などのように、男女の恋愛を直接のテーマとしていない曲も、当時の歌謡曲には見られない特徴的なものだった。

このように、ピンク・レディーの人気絶頂期は、1976年から1978年までの3年間、実質的にはブレイク後の1977年から1978年の2年間[8]にわたって続いた。絶頂期のピンク・レディー人気を支えていたのは主に子供たちであり、1978年のオリコンの調査によると、ピンク・レディーの支持層は3歳から12歳が42.5%を占めていた[9]

オリコンでの連続9曲1位・10曲連続ミリオンセラー(出荷ベース)は、当時の新記録。オリコンシングルチャートにおける通算首位獲得数(63週)は、2015年1月26日付に、B'zが「有頂天」で記録更新するまで最高記録であった[10](ピンク・レディーは9曲で通算63週を達成。B'zは47曲で通算64週を達成[10]。また1977年7月第3週から1978年2月第3週までの28週のうち27週にわたり、ピンク・レディーが1位を獲得していた)。

また、女性グループアーティストによる通算9曲首位も、2006年11月20日付に、モーニング娘。が「歩いてる」で記録更新するまで最高記録であった。3年ほど早くデビュー(1973年9月)していた、アイドルトリオのキャンディーズと比較されることが多かったが、当時のレコード売上枚数はピンク・レディーが圧倒的に上回っていた。

ピンク・レディーの2人の初任給は5万円であったが、1980年頃には月給350万円になったという。所属事務所「T&C」の社長だった貫泰夫は「20歳の娘に350万円の月給を出し、5000万円のマンションを買い与えた」と語っている[11]。しかし、実際には本人たちの給与からマンションの「家賃」が月々天引きされていた。事務所を信頼して預金通帳を預けていたため、解散の頃まで気がつかなかったという[12]

紅白歌合戦辞退によるバッシングと日本での人気急落

[編集]

カメレオン・アーミー」(1978年12月)もオリコン1位を獲得、これで1976年の「S・O・S」からオリコンシングルチャート連続首位記録が9曲となった。

そんな中、1978年大晦日の『第29回NHK紅白歌合戦』への出場を敢えて辞退、日本テレビ系のチャリティー番組『ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分!!』に出演する。しかし視聴率ビデオリサーチ・関東地区調べ)は当時の国民的番組であった『紅白』の72.2%に対し、ピンク・レディーが出演した裏番組は8.2%と惨敗する結果となった。それでも前年度の『コント55号の紅白歌合戦をぶっ飛ばせ!なんてことするの!?』の6.2%を上回り善戦したともされる[13]

ニューミュージック全盛期を迎える翌1979年、「ジパング」(1979年3月)はオリコン4位に留まり、連続首位記録がついにストップする。その後「ピンク・タイフーン」(1979年5月)と、「波乗りパイレーツ」(1979年7月)まではオリコンベスト10内を維持した。

この頃には子どものファンも意識したエンターテインメント路線が飽きられつつあった。前代未聞の紅白歌合戦出場辞退によりマスコミから激しいバッシングを受けた上に、事務所のトラブルやメンバーの恋愛報道なども相まって逆風に晒された。1980年4月には前年から芸能活動を開始していた松田聖子が満を持して歌手デビュー。また、男性であるがたのきんトリオブーム到来と続々新しいアイドルが台頭。世代交代が進む中、以前ほどヒットに恵まれなくなる。

アメリカ進出

[編集]

ただし、以前から進められていたアメリカでの活動は順調で、全米デビューシングルとなった「Kiss In The Dark」はビルボード総合37位、全米三大ネットワークの一つNBCのゴールデンタイムで、自らの名前を冠する番組を持つなど確実に実績を積んでいた。しかし、アメリカでの契約を更新することは無いまま帰国することとなり、再び日本での活動に力を入れたものの、往時の勢いを取り戻すことは全くできなかった。またマスコミによる報道は現地での実績を報道しない冷たいものであったことから、アメリカ進出について日本では失敗と言われることが多かった。冠番組の放送内容については賛否が分かれているが、米国内ではDVD化もされている。

グループ解散、事務所の倒産

[編集]

1980年9月1日、ピンク・レディーは解散を発表。7か月後の1981年3月31日後楽園球場で解散コンサートを開催する。しかし、そのコンサート当日はみぞれ交じりの冷雨が降り続く悪天候であり、空席が目立ったスタンドに象徴されるように絶頂期の面影はほとんど無く、何かと比較されたキャンディーズの解散コンサート(1978年4月)が超満員だったことと比べると、あまりにも寂し過ぎるものであった。感涙し抱擁する瞬間までテレビサイズに収めるためにディレクターから急かされたとされている[14]。解散コンサートの観客動員数は主催者発表で3万人、消防署関係者の証言では1万5000人程度とされる[15]

活動期間は4年7ヶ月。なお当時の所属事務所は解散直後に倒産し、社長であった貫泰夫も芸能界を離れた。ピンク・レディーが稼ぎ出したのは500億円とも言われているが、実際に所属事務所に入ったお金は50億円ほどであり、そのお金も「制作費などの諸費用により出費して全て消え、口座が維持できなくなってパンクしてやめた」と言う[16]

解散後の2人には、「女優やアーティストにならないか?」という誘いが殺到したという。しかしミーは、「これまで通り、ピンク・レディーをプロデュースしてくださった方のお世話になりなさい」と親が移籍に反対したことから断念している。数年ほど活動を続け、解散前と変わらぬ多忙さだったが、不完全燃焼のような気持ちは拭えず、袂を分かつことを決意。

1987年、ミーは同世代のミュージシャン仲間から誘われ29歳で独立。その仲間たちと新会社を設立するが、経営に興味がなく他人任せで、大きな利益はあったものの一方で過剰に出費をしていたため、経営に失敗して億単位の借金を抱える。33歳になり、借金だらけの会社を自分の手で経営を立て直すことを決意。ピンク・レディー全盛期並みの睡眠時間で働き続けて、3年後にようやく借金返済の目途がたったという[17]

再結成

[編集]

解散後はそれぞれ女優タレントとしてソロ活動。ピンク・レディーとしては、2005年までは期間限定ながら数度、再結成して活動。二人でテレビ出演する際の衣装は、ケイがピンク、未唯はブルーで登場することが多い。これは、現役の頃から今までもケイがピンクが大好きだということの表れである。

それ以外にも、1993年にはポッカコーポレーション(現:ポッカサッポロフード&ビバレッジ)「つぶコーンスープ」のCMソングをレコーディングするために、一時的に再結成したことがある[18][19]ほか、2000年第51回NHK紅白歌合戦にも出場している。

2010年、解散宣言からちょうど30年後の9月1日に「解散やめ!」を宣言、ピンク・レディーとしての活動を再開しソロ活動と並行して継続することを表明。2011年5月から本格的な再始動として全国ツアー「ピンク・レディー Concert Tour 2011 "INNOVATION"」を開催[20][21]

2017年12月30日、TBSの『第59回日本レコード大賞』に39年ぶりに特別ゲストとして出演した。これはピンク・レディーの歌詞を担当した作詞家、阿久悠が特別賞を受賞したことを祝したものである。披露した曲は「ペッパー警部」「ウォンテッド(指名手配)」「UFO」の3曲ノンストップメドレーを歌った。翌2018年12月30日の第60回日本レコード大賞にも、「UFO」での1978年レコ大受賞当時の司会者・高橋圭三への追悼で再びステージに立った。2017年よりも1曲多い「UFO」「S・O・S」「渚のシンドバッド」「サウスポー」の4曲ノンストップメドレーを歌った。

年表

[編集]

エピソードなど

[編集]
グループ名
後に増田惠子(ケイ)は、素朴な田舎娘っぽいイメージはオーディション番組に受かるための手段で、当初より歌って踊れる歌手を目指していたと語っている。当初のユニット名の候補には「みかん箱」「ちゃっきり娘」があり、最終的には「白い風船」に決まったということで、これに増田はフォークソンググループの名前みたいで「終わった~、でもデビューさせてもらえるだけでもありがたいよね」と思ったという。しかし都倉俊一は「白い風船じゃないなぁ」として名前を変えたく思い、赤坂プリンスホテルバーで飲んでいる時に、前述のように「カクテルのピンク・レディー」を発想して、これにしようと命名に至ったとのこと[25]
プロダクション
二人は最初『スター誕生!』でスカウトされた相馬一比古が代表を務める「アクト・ワン」というプロダクションに所属していたが、同社は借金の肩代わりに1976年4月に設立された「T&C」に吸収合併された(相馬はT&Cの制作部長に就く[26][27][28][29][30]。「T&C」の社長・貫泰夫、専務・加納亨一はそれぞれ証券生命保険の大手企業出身の堅気で、一攫千金を夢見て脱サラした人物だったのだが[27][28][31][32]先の借金の融資を広島で原爆の焼け野原で一緒にボールを追った野球部仲間だった総会屋小川薫に頼み、小川が同社のオーナーとなったのがまずかった[27][28][31][33][34]
ピンク・レディーが爆発的に売れるに連れ、警察から格好の標的にされ[33]、小川が余罪で追及されたり、スーパーアイドルと総会屋との接点が当時のマスメディアに散々書かれた[28][33][35]。しかしT&C自体はまともな会社で、むしろ既存の芸能界とは全く関係のないズブの素人が始めたT&Cの一時の大成功は、その後素人による芸能プロ参入を増やしたという功績がある[31][32][36]
多忙によるミスが多発
アイドル歌手では一般的なことだが、活動方針やイメージ戦略などはピンク・レディー本人(ミーとケイ)が立案しているのではなく、所属事務所など周囲の関係者が行っていた。多忙がたたり、当時の仕事の現場はダブルブッキングなどは日常茶飯事な状態であった。ミーとケイは、デビュー当時から寝る間もないほどの仕事を課せられていたため、自分たちが実際にどれくらい人気なのか全く分からなかったと後述している[注釈 5]
女児に「振り付け」が大流行
当時の子供向けテレビ雑誌「テレビマガジン」(講談社)、「テレビランド」(徳間書店)、「てれびくん」(小学館)誌上における短期グラビア連載を展開した他、女児の間ではピンク・レディーの振り付けの真似が大流行した。『探偵!ナイトスクープ2001年2月9日放送分の「30代の女性は皆ピンク・レディーの振り付けを踊れる?」の調査でも、街頭インタビューを行った一般の女性達が次々と完璧に「UFO」「サウスポー」などを踊りこなし、当時の人気振りを偲ばせた[注釈 6]
亜流ピンク・レディー
当時、フィーバーやアパッチキャッツ★アイなど、ピンク・レディー人気にあやかろうと亜流といえる歌謡グループが複数登場したのも人気を物語るエピソードである。
ブロマイドの販売数
絶頂期当時、ピンク・レディーのブロマイドの販売数も驚異的なものであったが、山口百恵や他のアイドル達の写真がスタジオなどできちんとした撮影がされているのに比べてピンク・レディーの写真はその多くがテレビ局の廊下や階段などで撮影されたものが使用されている。これは写真スタジオで撮影するだけの時間が全くなかったほど多忙であり、番組出演の移動の合間に手っ取り早く撮影していたことが理由であったと本人達が後に語っている。
アメリカ進出
アメリカ進出の経緯については一般に知られていないが、多くのファンを得て、米3大ネットワークのNBCで主演の冠番組を獲得するなど、当時の外国人デュオとしては成功を収めた。しかしながら、よりセックスアピールを前面に出したスタイルであったため、国内でのイメージを損なう恐れがあるとの判断から日本ではほとんど報道されなかった。アメリカのマーケットにおける長期的な見通しの欠如と、国内マーケット重視の営業判断から、活動途中でアメリカから撤退を余儀なくされた。
また当時、主に私生活上(特に恋愛関係)の要因からケイが日本への帰国を強く主張していたことを、後にケイ自身が著書で明らかにしており[37]、それもアメリカ撤退の一因となった。
テレビプロデューサーでコメンテーターでもあるデーブ・スペクターは、「ピンク・レディーは名前が悪すぎた。アメリカでピンク・レディーという名前では売れるはずがないんですよ。」と語っている。これは、アメリカにおける「ピンク・レディー」という言葉には、カクテルの名前の他に“共産主義者っぽい女性”、“バルビツール酸系催眠鎮静剤”、“売春婦”といった意味があるためである。
パブリシティ権侵害の損害賠償訴訟
光文社女性自身2007年2月27日号に掲載された「ピンク・レディーdeダイエット」の写真について、無断で掲載されたパブリシティ権侵害の損害賠償を求めて提訴したものの、最高裁判所で訴えが棄却され、主張した損害賠償請求は認められなかった(ピンク・レディー事件、最高裁判所 平成21(受)2056 民集第66巻2号89頁)。
烏龍茶に貢献?
日本で烏龍茶が浸透したのは、「夜のヒットスタジオ」(1979年9月10日放送)で『マンデー・モナリザ・クラブ』を歌った際のインタビューがきっかけだったとする説もある。
パラパラ写真
1970年代の年少者向け雑誌では、ピンク・レディーの「パラパラ写真」が付録となっていた。このパラパラ写真はピンク・レディーの振付をコマ撮りしたものであり、雑誌から切り取ってすべてをバラし、片端をクリップなどで留めてもう一方の端をはじくことで動作を再現できた。

シングル

[編集]

現役時代

[編集]
  1. ペッパー警部(1976年8月25日 売上枚数60.5万枚)
    作詞の阿久悠の書籍『夢を食った男たち - 「スター誕生」と黄金の70年代』によると、阿久がこの曲名をつけた際の由来についてはドクターペッパーからの引用か、またはビートルズのアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』からか、『ピンク・パンサー』の登場人物クルーゾー警部からか、落語のくしゃみ講釈の落ちに登場する胡椒(故障)からペッパーを連想したのか、あるいは曽根史朗の往年のヒット曲「若いお巡りさん」[注釈 7]からの連想なのかもしれないが、どれも(阿久悠自身による)後付けの解釈であり、本当のところは分からないとしている。なお、映画『007 死ぬのは奴らだ』と『007 黄金銃を持つ男』に出てくるペッパー保安官(後に警部)については同書では言及されていない。
    ダンスで大胆に足を開く振り付けは当初は下品とマスコミ関係者に不評であった。B面の「乾杯お嬢さん」も人気で、こちらはキャンディーズを意識した楽曲でもあった。前述書『夢を食った男たち』によると、阿久は最初からA面を「ペッパー警部」、B面を「乾杯お嬢さん」にするつもりで作詞したが、当初ビクターは「乾杯お嬢さん」をA面で売り出そうとしたという。
  2. S・O・S(1976年11月25日 売上枚数65.4万枚)
    初のオリコン1位。イントロにSOSのモールス信号が入っており、電波法遭難信号に関する条項との兼ね合いを懸念したラジオ局では一時期放送を自粛したところもあった。また、テレビ出演時は発売直後のみモールス信号からはじまるイントロを使用していたが、ただちにそれを抜いた演奏に切り替えられた[注釈 8]
  3. カルメン'77(1977年3月10日 売上枚数66.3万枚)
    この曲あたりから激しい振付が増えてゆき、さらなるインパクトがつけられた。
  4. 渚のシンドバッド(1977年6月10日 売上枚数100万枚)
    オリコン上における初のミリオンセラーで、以後「モンスター」までオリコンでは5作連続でミリオンセラーを記録。オリコンチャートにおいて計8週に渡り1位を獲得。
  5. ウォンテッド (指名手配)(1977年9月5日 売上枚数120万枚)
    オリコンチャートで「渚のシンドバッド」から連続して1位を獲得し続け、この曲だけで12週連続1位を獲得。簡単な振り付けが子供たちの間に広まり、振り付けの真似が流行るきっかけとなる。イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)が結成初期のコンサートで演奏したこともある。
  6. UFO(1977年12月5日 売上枚数155万枚)
    オリコン枚数155万枚、出荷枚数195万枚。ピンク・レディーのシングルとしては最大の売上を記録(オリコン枚数、出荷枚数共に)。「ウォンテッド (指名手配)」から中島みゆきの「わかれうた」(1週のみ)を挟んでオリコンチャートで10週連続1位を獲得。第20回日本レコード大賞受賞曲。
  7. サウスポー(1978年3月25日)
    当時まだ珍しかった「オリコン初登場1位」を達成。歌詞中には同時代のスターであった王貞治をイメージした打者が登場する(王貞治#関連作品を参照)。また、高校野球の応援歌では、現在も山本リンダの「狙いうち」等と共に定番の曲である。
    同曲にはお蔵入りになったバージョンが存在する。こちらは歌詞も曲調も異なり、王貞治をイメージした打者も登場しない。こちらはレコーディングまでされたものの日の目を見ることはなかった。没バージョンの「サウスポー」は、2008年になって阿久悠の作詞作品を集めたCD-BOX『続・人間万葉歌』に収録され商品化された[注釈 9]
    高倉健主演の映画『冬の華』内では挿入歌となり、倍賞美津子の演じるメリーさんこと娼婦との再会シーンでこの曲が流された。
  8. モンスター(1978年6月25日)
    出だしから「ワハハハ…」という不気味なモンスターの声(都倉俊一の声に音声加工)に、二人が「キャー!」と叫ぶイントロが話題になった。
  9. 透明人間(1978年9月9日)
    レコード予約枚数が60万枚を超え当時としては異例の記録を作った。また衣装は三角ブラとホットパンツを基調としたシースルーの衣装で歌った。B面は『飛べ!孫悟空』の主題歌「スーパーモンキー孫悟空」。
  10. カメレオン・アーミー(1978年12月5日)
    オリコンにおいて、初登場88位→翌週1位という珍記録を達成[注釈 10]
    ルパン三世 (TV第2シリーズ)』 第74話「恐怖のカメレオン人間」では挿入歌としてこの曲が使用されていた。
    松田優作主演のアクション映画『俺達に墓はない』では挿入歌となり、主人公達のアジトであるバー亜邪馬の店内で、松田の演じる主人公「島勝男」が都築興業襲撃の最初の打合せをしていた時にこの曲が流された。
  11. ジパング(1979年3月9日)
    デビュー曲以来続いた出荷枚数の連続100万枚突破記録、「S・O・S」以来続いたオリコン連続1位記録が途切れるが、総シングルレコードの売上合計枚数が1000万枚を突破した。これもオリコン史上初となる快挙であった。
    「カメレオン・アーミー」と同じく、『俺達に墓はない』で、島が都築興業の襲撃に失敗して滝田と手を組み、店に帰ってきてミチが店を開いていた時に、この曲が流れていた。
  12. ピンク・タイフーン (In The Navy)(1979年5月1日)
    ヴィレッジ・ピープルの「In The Navy」をカバー。同じカバー曲の渋谷哲平「ヤング・セーラーマン (In The Navy)」と競作となる。
  13. 波乗りパイレーツ(1979年7月5日)
    B面の「USA吹込盤」は、ザ・ビーチ・ボーイズがコーラスに参加。
  14. Kiss In The Dark(1979年9月5日)
    全米デビューシングル。ビルボード誌の「HOT 100」で37位にランクインした。総合チャートにおいては坂本九に次ぐ記録。2011年までの時点で40位以内に入った最後の日本人歌手となる(ラジオ番組『American Top 40』の影響もあり、40位以内へのランクインがヒット曲の基準として重視される傾向にある)。
  15. マンデー・モナリザ・クラブ(1979年9月9日)
    阿久悠都倉俊一のコンビが「そろそろ、子どものお客を無視した、ミーとケイ、ふたりのための曲を作ろう」と話し合った上で作りあげた。
  16. DO YOUR BEST(1979年12月5日)
    1980年のモスクワオリンピックに出場予定だった日本選手を応援するため、「がんばれ! ニッポン募金 Do your best!」というキャッチフレーズでピンク・レディーが選手強化募金を呼びかけた曲。その後政治的理由により、アメリカに続き日本もモスクワオリンピックをボイコットし、強化募金呼びかけは消滅。フジテレビ『夜のヒットスタジオ』では披露されていない。
  17. 愛・GIRI GIRI(1980年3月5日)
    発売当時、ピンク・レディーはアメリカで活動中だったため、テレビでは一度しか歌われなかった曲。
  18. 世界英雄史(1980年5月21日)
    日本帰国後のシングル。当時解散説が流れ、2人と事務所は当初完全否定していたが、それから約3か月後の9月1日に解散宣言を公表する。
  19. うたかた(1980年9月21日)
    アメリカで発売したアルバム『ピンク・レディー・イン・USA』収録曲「Strangers When We Kiss」の日本語バージョン。
  20. リメンバー (フェーム)(1980年12月5日)
    後に映画『フラッシュダンス』の主題歌を大ヒットさせるアイリーン・キャラが歌った、映画『フェーム』の主題歌を日本語でカバーしたもの。
  21. Last Pretender(1981年1月21日)
    発表当時からテレビで歌われたことが一度も無く、2005年5月27日に行われた『〜グランドフィナーレ〜MEMORIAL CONCERT SPECIAL』の最中に、コンサートの中で歌っていないシングル曲があるが、歌うことを封印したことが告げられ、実際に最後まで歌われることは無かった。よって振付などは不明。
    1980年に発売されたラジの「偽りの瞳」(作詞: 高橋幸宏大村憲司、作曲・編曲・プロデュース: 高橋幸宏)と異歌詞同曲で、作詞は糸井重里、編曲とプロデュースは高橋幸宏自身が手がけたテクノ歌謡。
  22. OH!(1981年3月5日)
    ラスト・シングル[注釈 11]。二人の曲を結果的に最も多く手掛けた阿久悠・都倉俊一コンビが最後を飾ることになった。
  • なおピンク・レディーが1981年解散の後、未唯mie(当時・MIE)は1984年に「NEVER」(TBS系「不良少女とよばれて」主題歌)を、増田惠子(当時・けい子)は1982年に「すずめ」(中島みゆき作詞・作曲)を、それぞれソロ歌手として大ヒットさせている。

解散後

[編集]

1度目の再結成時

[編集]
  • 不思議LOVE(1984年6月21日)
    • ピンク・レディーとして3年ぶりのシングル。VAPより発売。

2度目の再結成時

[編集]

1990年、ポリドールK.K.(現:ユニバーサルミュージックジャパン)より「2年目のジンクス/ポロロッカ」がシングル発売される予定だったが、未唯とケイの契約上の問題など諸事情から見送られた。「2年目のジンクス」はNHKのテレビ番組出演時に披露され、同年末の第41回NHK紅白歌合戦においても、「ピンク・レディー・メドレー[注釈 12]」の中で歌われた。

この2曲は1993年に、ビクターエンタテインメントから発売されたベスト・アルバム『BEST ONE』に収録された。

3度目の再結成時

[編集]
  • PINK EYED SOUL(1996年11月21日)
    • シングルとしては「不思議LOVE」以降12年ぶりの新曲。ビクターエンタテインメントより発売。

4度目の再結成時

[編集]

解散やめ宣言以降

[編集]

その他

[編集]
  • PINK LADY DANCE MIX TRAX(1993年9月) - リミックス・シングル
  • リミックス・マキシ・シングル(1996年8月) - 5枚同時発売
    • ペッパー警部
    • カルメン'77
    • 渚のシンドバッド
    • UFO
    • モンスター

アルバム

[編集]

スタジオ・アルバム

[編集]
  1. ペッパー警部(1977年1月25日)
  2. ピンク・レディーの「星から来た二人」(1978年11月5日)
  3. ピンク・レディーの不思議な旅(1979年8月5日)
  4. ピンク・レディー・イン・USA(1979年9月5日)
    • 1979年6月1日に全米で発売されたアルバム『PINK LADY』と同内容の日本版
  5. WE ARE SEXY(1979年12月1日)
    • 洋楽のカバー・アルバム
  6. SUSPENCE 〜Pink Lady Again(1984年6月21日)

ライブ・アルバム

[編集]
  1. チャレンジ・コンサート(1977年6月5日)
  2. サマー・ファイア'77(1977年9月10日)
  3. バイ・バイ・カーニバル(1978年3月5日)
  4. アメリカ!アメリカ!アメリカ!(1978年6月25日)
  5. '78ジャンピング・サマー・カーニバル(1978年9月5日)
  6. LIVE IN 武道館(1979年2月5日)
  7. さよならピンク・レディー(1981年6月25日)
    • 1981年3月31日、後楽園球場で行われた解散コンサートを収録

ベスト・アルバム

[編集]
  1. ベスト・ヒット・アルバム(1977年12月5日)
  2. ベスト・ヒット・アルバム(1978年12月5日)
  3. UFO/サウスポー(1979年6月1日)
  4. ターニング・ポイント(1980年12月5日)
  5. PINK LADY(1981年3月21日)
    • 全米発売された『PINK LADY』とは別。新曲11曲を含む全42曲収録の3枚組限定ベスト・アルバム(通称・銀箱)。
  6. PINK LADY HISTORY 〜ピンク・レディー・シングル全曲集〜(1990年12月1日)
  7. BEST ONE(1993年12月1日)
    • 「2年目のジンクス」「ポロロッカ」収録
  8. TWIN BEST(1995年6月28日)
  9. Mie & Kei 〜Pink Lady Best Selection〜(1996年12月18日)
    • シングル「PINK EYED SOUL」含む本人選曲のベスト・アルバム
  10. ピンク・レディー ベスト・ヒット・アルバム(2003年6月4日)
    • 1977年版のベスト・ヒット・アルバムをCD化し、更にそれ以降に発売されたシングルA面曲集を加えた2枚組のベスト・アルバム
  11. MEGA HITS!!(2006年2月22日)
    • オリジナル・カラオケDiscを含む2枚組ベスト・アルバム
  12. ピンク・レディー「阿久 悠 作品集」(2008年3月26日)
  13. GOLDEN☆BEST ピンク・レディー コンプリート・シングル・コレクション(2009年9月16日)
    • 1981年までのシングルA・B面を完全収録
  14. INNOVATION(2010年12月1日)
    • 現役当時のマスターテープをそのまま使い、ヴォーカルのみ新しく録音し直したベスト・アルバム。これは、当時の一流スタジオミュージシャンの演奏まで捨てて新アレンジにするのは惜しいという理由からのもの。

リミックス・アルバム

[編集]
  • BLOOD NEW(1987年12月1日)
  • REMIXES(1990年12月5日)
  • RARE TRAX(2006年1月21日)

サウンドトラック

[編集]

CD-BOX

[編集]
  • ピンク・レディー・プラチナ・ボックス(2006年5月31日)
    • CD4枚+DVD2枚。クッキー時代の曲「恋のレッスン」を収録。諸事情により「2001年愛の詩」が収録されていない。DVDにはNHKの『レッツゴーヤング』・『第11回日本作詩大賞』(1978年)・『とびだせヤング!』出演時の映像と、1984年の『ピンク・レディー・フォーエバー/武道館ライブ』の模様が収録されている。
  • PINK LADY ORIGINAL ALBUM COLLECTION BOX(2006年7月26日)
    • 『ペッパー警部』から『バイ・バイ・カーニバル』までの4作を収納。
  • Singles Premium(2011年8月25日)
    • CD23枚+DVD2枚。1981年までのシングルA・B面、「サウスポー」の幻の初期バージョンを収録。DVDには『スター誕生!』・『NTV紅白歌のベストテン』を中心とした日本テレビ出演時の番組映像と、1978年のコンサート『アメリカ!アメリカ!アメリカ!』(ラスベガス公演)・『'78ジャンピング・サマー・カーニバル』(後楽園球場コンサート)のライブ映像が収録されている。

映像作品

[編集]

VHS・LD・VHD

[編集]
  • ピンク・レディ FOREVER 武道館ライブ(1984年)
  • ピンク・レディーのすべて〜スター誕生からさよならピンク・レディーまで〜(1990年10月5日)
  • NOW in Los Angels(1991年3月21日)
  • PINK EYED SOUL(1997年1月1日)
  • 再会 Pink Lady(1997年9月19日)
  • Pink Lady & Jeff 1 [VHS](2001年6月26日)
  • Pink Lady & Jeff 2 [VHS](2001年6月26日)

DVD

[編集]
  • Pink Lady & Jeff(2001年10月9日)米国のみで発売
  • メモリアル・コンサートVol.3 PINK LADY LAST TOUR Unforgettable Final Ovation(2005年8月25日)
  • ピンク・レディーの活動大写真(2006年7月28日)
  • ピンク・レディー IN 夜のヒットスタジオ〜フジテレビ秘蔵映像集〜(2011年5月27日)
  • CONCERT TOUR 2011 "INNOVATION"(2011年12月28日)

DVD BOOK

[編集]

DVD BOX

[編集]

テレビ作品

[編集]

NHK紅白歌合戦出場歴

[編集]
年度 放送回 曲目 出演順 対戦相手
1977年 第28回 ウォンテッド (指名手配) 02/24 狩人
1989年 第40回 2 ヒット・メドレー[注釈 13] 第1部に出演 (対戦相手なし)
1990年 第41回 3 ピンク・レディー・メドレー[注釈 12] 11/29 たま
2000年 第51回 4 スペシャルメドレー ピンクレディー2000[注釈 13] 21/28 アリス
注意点
  • 出演順は「出演順/出場者数」で表す。

CM

[編集]
他多数

映画

[編集]

ラジオ

[編集]
  • ピンク・レディーのスーパー・ポップ・ステーション (1978年10月 - 1979年3月、ニッポン放送)

絵本

[編集]
  • ひかりのくに ピンクレディー絵本(1)うたっておどろう サウスポー/ウォンテッド/カルメン'77
  • ひかりのくに ピンクレディー絵本(2)UFO/ペッパー警部/渚のシンドバッド
  • ひかりのくに ピンクレディー絵本(3)モンスター
  • ひかりのくに ピンクレディー絵本(4)透明人間
  • ひかりのくに ピンクレディー絵本(5)カメレオン・アーミー
  • ひかりのくに ピンクレディー絵本(6)ミラクル伝説 ジパング

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ ワンステージで3曲程度歌い、ギャラは3000円ほどであったという。
  2. ^ 歌い出し前に「コンビを組んで1年半。聴かせるタレントより魅せるタレントが目標です」とナレーションされている。
  3. ^ ピーマンのメンバーのうち、叶正子は後にコーラス・グループサーカス」のメンバーとして再デビュー。
  4. ^ それ以前にも、『8時だョ!全員集合』で志村けんが「勝手にシンドバッド」というギャグを披露している。
  5. ^ 地方公演に行った際、驚異的な数の観衆が集まっているのを見て、初めて自分たちが爆発的な人気を得ていると実感したという。当時の多忙ぶりを象徴するエピソードとして『欽ドン!』にゲスト出演した際、最後に出演者一同が布団に入り「お休みなさい」と言って番組終了を伝えるシーンで、演技ではなく本当に眠ってしまったことがある。
  6. ^ このようなファン層を意識して近年のツアーでは会場は全てオールスタンディング、キャパシティーに対して一人一人それぞれ肩がぶつからない程度のスペースを保てるように販売数が調整されており、客が振り付けを完コピして全員が一体となって踊りくるうというライブが繰り広げられている。
  7. ^ 公園のベンチにいるカップルに「早く帰りなさい」と諭す巡査が主人公の歌。「ペッパー警部」と同じビクターより発売。
  8. ^ モールス符号による通信は、1999年に廃止されている。
  9. ^ 「サウスポー <未発表バージョン>」として収録。CMソングの「シャワランきらめきの夏」で一部分が使用されている。(当時の)未発表曲をCMソングに流用していたことがうかがえる。
  10. ^ 正式な発売日以前にフライング発売された分がオリコンに集計されたため。この当時はフライング販売は一部店舗で行われていたに過ぎない稀だったために、集計日にあわせる発売日が1日早かった。
  11. ^ 解散コンサートでのアンコール前のラストナンバーは舟木一夫が1980年に発表した自作曲『グッド・バイ・ソング』のカバーだった(『舟木一夫の青春賛歌』2012年 産経新聞出版 ISBN 978-4-8191-1157-7 P185・186、アルバム『さよならピンク・レディー』で『OH!』の後に歌われているのが確認できる)。実際に最後に唄ったのはレイフ・ギャレットの「ダンスに夢中(I was made for dancin')」である。これは、当時発売のライヴ・アルバム『さよならピンク・レディー』にも、同時放送の時間内の中でも放映されず、収録されているのは現行ではVHSの『ピンク・レディーのすべて〜スター誕生からさよならピンク・レディーまで〜』だけである。
  12. ^ a b 「S・O・S」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド(指名手配)」「2年目のジンクス」のメドレー。
  13. ^ a b 「ペッパー警部」「UFO」「サウスポー」のメドレー。

出典

[編集]
  1. ^ a b Bentz, Zac (2012年7月2日). “J-Pop: A Video Guide”. Red Bull Music Academy. 2021年6月21日閲覧。
  2. ^ McCombs, Joseph. Pink Lady | Biography & History - オールミュージック. 2021年6月21日閲覧。
  3. ^ 『国文学解釋と鑑賞』 46巻、1-4号、至文堂、1981年、151頁。 
  4. ^ "運命を変えたボーカル講師の「ソロよりデュオ」ケイ「2人一緒のほうが心強いと思うよと」". ZAKZAK. 株式会社産経デジタル. 10 April 2023. 2023年4月10日閲覧
  5. ^ 増田惠子『あこがれ』幻冬舎、2004年9月1日。ISBN 978-4344006768 
  6. ^ "踊り&ヒット曲封印〝作戦〟成功で「スター誕生!」決戦へ!!ピンク・レディー念願のデビュー". ZAKZAK. 株式会社産経デジタル. 11 April 2023. 2023年4月11日閲覧
  7. ^ 『週刊ポスト』2021年10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度・後編より萩本欽一と都倉俊一の対談p148-149
  8. ^ 【1977年8月】渚のシンドバッド/日本中を席巻したピンク・レディー 4作目でミリオン スポニチ 2011年8月16日記事
  9. ^ 「ニュースすくらんぶる “透明人気”じゃないのよ… ピンク・レディーはモンスター」『読売新聞』1978年11月1日付夕刊、2-3頁。
  10. ^ a b “首位獲得週数でB'zが歴代単独1位”. 産経ニュース. (2015年1月23日). オリジナルの2015年3月4日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/T3oHP 2015年3月3日閲覧。 
  11. ^ https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/310090/3
  12. ^ 増田惠子『あこがれ』幻冬舎、2004年。ISBN 4-344-00676-3 
  13. ^ 読売新聞』1979年1月4日付夕刊、6頁、1979年1月6日付夕刊、7頁。
  14. ^ 速水健朗円堂都司昭栗原裕一郎大山くまお、成松哲『バンド臨終図巻』河出書房新社、2010年、141頁。 
  15. ^ アサヒグラフ』1981年4月17日号、20頁。
  16. ^ 「週刊大衆」1983年5月23日号)
  17. ^ 独立するも億単位の借金…ピンク・レディー解散後に「それでも追いかけた夢」”. shuchi.php.co.jp. 2023年3月9日閲覧。
  18. ^ a b 「談話室 ピンクレディー期待」『日経産業新聞』1993年9月8日付、7頁。
  19. ^ a b 「マーケティング勝敗の分岐点 ポッカつぶコーンスープ」『日経産業新聞』1993年9月9日付、15頁。
  20. ^ 「解散やめ!」ピンク・レディーが再結成 年内ニュー・アルバム&来年復活コンサート”. ORICON NEWS. 2023年3月9日閲覧。
  21. ^ ニュース&エンタメ”. 株式会社共同通信社 | 株式会社共同通信社の情報ポータルサイト. 2023年3月9日閲覧。
  22. ^ ピンク・レディーが39年ぶりに「レコ大」出演へ2017年12月18日 ハフィントンポスト
  23. ^ ピンク・レディー、15年ぶりの楽曲が映画『妖怪ウォッチ』新作のテーマ曲に - ORICON NEWS 2019年6月28日(2019年6月29日閲覧)
  24. ^ 第6回プラチナエイジ受賞者様のご紹介”. 一般社団法人プラチナエイジ振興協会. 2023年12月10日閲覧。
  25. ^ 元ピンク・レディー増田恵子が生島ラジオ出演「デビュー前に芸名は『白い風船』に決まっていた」”. 日刊スポーツ (2023年3月17日). 2023年3月17日閲覧。
  26. ^ SANSPO.COM”. web.archive.org (2005年3月5日). 2023年3月9日閲覧。
  27. ^ a b c ピンク・レディー 「モンスター神話」の真実(1)デビュー時はゲテモノ扱いされ…”. アサ芸プラス. 2023年3月9日閲覧。
  28. ^ a b c d ピンク・レディー 「モンスター神話」の真実(2)人気上昇の中にも様々な思惑が…”. アサ芸プラス. 2023年3月9日閲覧。
  29. ^ 『ぶらりぶらり』2006年8月 - 貫泰夫のブログ、『ぶらりぶらり』2009年4月28日『ぶらりぶらり』:「背中から見たピンク・レディー」発売
  30. ^ 日本レコード大賞 炎の四番勝負!<第2回>「1978年~沢田研二VSピンクレディー~」(2)”. アサ芸プラス. 2023年3月9日閲覧。
  31. ^ a b c 島野功緒『「ザ・芸能プロ ウラと表」』日之出出版、1981年、22-35頁。 
  32. ^ a b 星野陽平『芸能人はなぜ干されるのか?』鹿砦社、2014年、87,90-92頁。ISBN 978-4846310011 
  33. ^ a b c 大下英治『日本最大の総会屋「論談」を支配した男』青志社、2014年、82-84,140-143頁。ISBN 978-4-905042-88-4 
  34. ^ 哀悼 小川 薫 - 『ぶらりぶらり』 2009年4月28日付、『ぶらりぶらり』2008年12月 - 『ぶらりぶらり』 2008年12月付
  35. ^ 週刊サンケイ』 1977年7月17日号、151 - 152頁、朝日新聞夕刊、1981年1月24日、7頁、サンデー毎日、1978年1月22日号、111頁
  36. ^ 『ぶらりぶらり』:相馬 一比古『ぶらりぶらり』2014年7月12日
  37. ^ 増田恵子著『あこがれ』(2004年幻冬舎ISBN 978-4344006768

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]