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利用者:Quark Logo/sandbox淀殿

よどどの / よどぎみ

淀殿 / 淀君
伝・淀殿像(奈良県立美術館所蔵)
生誕 永禄12年(1569年[諸説あり]
下記を参照
死没 慶長20年5月8日1615年6月4日
墓地 養源院京都府京都市東山区
別名 菊子、茶々(於茶々)、野々(於野々)、淀、淀の方、二の丸殿、西の丸殿、大広院、他は下記参照
配偶者 豊臣秀吉
非婚配偶者 大野治長[注釈 1]
子供 鶴松秀頼、猶子:完子[注釈 2]
父:浅井長政、母:小谷殿
親戚 常高院崇源院浅井万福丸浅井井頼[異説あり]、蒼玉寅首座[注釈 3]宝光院刑部卿局
京極高次京極マリア京極竜子
ほか多数
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淀殿(よどどの)は、安土桃山時代から江戸時代初頭にかけての女性。太閤豊臣秀吉側室[2][注釈 4]で、豊臣家最後の当主・豊臣秀頼の生母。近江国戦国大名浅井長政の長女[注釈 5]。母は織田信秀の五女小谷殿(市)で、信長の姪にあたる[注釈 6]

所謂、浅井三姉妹の一人で、同母妹に初(常高院京極高次正室)と江与(崇源院徳川秀忠正室)。異母弟妹に、宝光院[注釈 7]刑部卿局(秀頼の正室千姫乳母)、蒼玉寅首座[注釈 3][4]などがいる。

子は、秀吉との間に、棄(鶴松)と拾(秀頼)の二児があり、猶子完子[注釈 2]がいる。

名称について[編集]

淀殿と淀君[編集]

「一魁随筆:淀之君」月岡芳年

淀殿淀君といった呼び名は、いずれも同時代の史料には一切見られず、彼女の死後、いずれも江戸時代に登場した呼び名である[5][6]

「淀殿」という呼称は、江戸時代初期の『駿府記』に「秀頼 御母儀、号淀殿」との記述があるほか[7]貞享元年(1684年)に作成された『片桐又七郎[注釈 8]条書』には一貫して「淀殿」とされており[9]、江戸時代後期[注釈 9]随筆翁草[注釈 9]にも見られる。「淀君」という呼称は『絵本太閤記[注釈 10]などの講談本に登場しており、初見は不明だが、江戸時代中期には両方とも存在していた。

「淀君」が一般(=学者以外の大衆)に定着するのは明治時代坪内逍遥の戯曲『桐一葉』が上演[注釈 11]された以降、「淀殿」が一般に定着するのは昭和35年(1960年)に発表された井上靖の小説『淀どの日記』以降だともいうが[11]>[12]、名称の定着度を推し量るすべはなく、単にそれぞれの称を用いたそれらの作品が有名であったというに過ぎず、淀君も淀殿もどちらの使用も見られた。フィクションの分野の作品でどう呼ばれていたかに余り意味はないが[注釈 12]黒田基樹によれば1950年代頃には「淀君」の方が世間ではより一般的であったという[9]

悪意ある呼び名か[編集]

ところが、歴史学者の中ではこの淀君の称は蔑称にあたるのではないかという考えがあった。

桑田忠親は、「『淀君』と題したのは、読者諸氏が彼女に抱いている親近感を傷つけたくないためである」として、著書に『淀君』(初版は1958年)の書名を用いているが、「彼女の存命中にはそんな呼び方をされたことは一回もない」[13]とし、江戸時代も後半になってから彼女を貶める評価の定着によって広まったものだと指摘し[9]小和田哲男は「淀君」の呼称は悪女・淫婦というイメージと共に売春婦の呼称(遊君、辻君など)と結びつけられていると主張した[14]。これらの説に田中貴子も追随して[15]二木謙一[注釈 13]も「淀殿が淀君などというへんてこな名前をつけられ、悪女に仕立てられたのは、豊臣家を滅ぼした徳川氏時代の産物」としている[16]田端泰子は「『君』を付けて女性を呼ぶのは中世には『図子君』『立君』のような『性』を売って生活する『遊君』についての呼称であることを思い起こさねばならない。江戸時代に淀殿が『淀君』と呼ばれたのは、彼女がその若さによって秀吉を寵絡し、道を誤らせた張本人であり、遊君と同じであるとの見方から生じた呼称であると思われる」とまで言っている[11]

北川央も「江戸時代になると、淀殿は大野治長名古屋山三郎などを相手に不義密通を重ねた淫乱な女で、ついには豊臣家を滅亡に導いた、とんでもない悪女であったという噂話が広まる。そうした評価が定着した結果、彼女は、路傍に断つよたかを『辻君』というのと同じ意味合いで、蔑んで『淀君』と呼ばれるようになったのである」と説明し、「淀君」を卑称として避け「淀殿」を(自著に)採用していて[17]辻ミチ子は著書で全く余談としながらも『茶々が淀城の主になったので「淀の方」が本来の呼名であるが、江戸時代に淀君になってしまって現代に至っていた。この場合の「君」は室町時代の売春婦を「立君」とか「辻君」と呼んだ、卑しめの意味が込められていたものであった。それが茶々が正当に評価されるなかで、心して淀殿というようになったのである」と[18][19]、淀君から淀殿への変化を説明した。

しかし福田千鶴は、幕末に編纂された『徳川幕府家譜』には、徳川家康御台所は「築山」「朝日」とあり、秀忠の御台所は「於江与(おえどのきみ)」(崇源院)と号されていることから、近世後期になっても「君」が敬称として用いられる場合もあるので、淀君をすぐさま蔑称と決めつけることはできないと主張し、留意が必要であるとした[20]。また、本来「淀の方」と呼ぶべきというならば、なぜそうしないのかと疑問を呈し、なぜ淀殿なのかの根拠が説明されていないと指摘[6]。江戸時代中期に荻生徂徠が八代将軍徳川吉宗に献じた『政談』の記述を根拠に、側室は妾であるから「殿」付で呼ぶという(江戸時代の)通念にちなんで淀殿の称ができたとした上で、「様」「殿」「君」「方」の敬称の使い方がその人物の社会的な立場・格式に拠るならば、彼女のそれを明らかにする必要があるとした[21]

秀吉には5人の正妻がいた[編集]

江戸時代の大名は「一夫一妻多妾制」を基本としていたが、これは慶長20年(1615年)7月に武家諸法度が発令されて、大名の婚姻が幕府の許可制(私婚禁止)となったことを起因とする。しかしこれは武家諸法度以前の武家社会の常識とは異なった。江戸時代の大名は婚姻を許可された1人の女性を正室と定め、それ以外は側室=妾として区別するようになったが、室町・戦国時代の大名は「一夫多妻制」であり、複数の妻を持っていることが多く、正妻(本妻)の他に別妻がいたが、側室=妾(卑しい女性)という概念はなく、正室は1人であるという常識も江戸時代になってから生まれたものなのである。妻の中に序列があるにしてもそれは制度的なものではなく、婚姻形態が一夫一妻でなければならない必然性もなかった[22]


太閤五妻洛東遊観之図』(喜多川歌麿作)

天皇家の場合、後醍醐天皇までは1人の天皇に2人の皇后が置かれる事が多く、皇后宮と中宮と呼び分けられており、后以外にも女御などの別妻や多数の女官(侍妾)がいた。摂関家の場合も一夫多妻制であり、御堂関白と称されて栄華を極めた藤原道長には倫子明子という2人の北の方(正妻)がいた。武家関白として人臣の最高位にあった豊臣秀吉の場合、形式的に摂関家よりも上位に立ち、実質的に天皇を超越する権力を持って天皇家と強く結びついた天下人であったわけであるから、正妻が1人でなければならない理由はなかったのである[21]

存命時の秀吉には少なくとも5人の妻がいた。北政所として知られる高台院(寧)、当時は西の丸と呼ばれていた淀殿(茶々)、松の丸(京極竜子)、三の丸(韶陽院殿)、加賀(摩阿姫)である[23]。秀吉の妾の数は百人を超えたともいうが、この5人は別格であった。

2代関白の豊臣秀次には、一の台という正妻のほかに若政所と呼ばれるもう1人の正妻がいて、さらに9人の別妻と、さらに多数の妾がいた[24]

太田資宗を奉行として林羅山と中止に編纂された『寛永諸家系図伝』では、京極竜子を側室ではなく「秀吉の北方。松の丸殿と号す」と記しているが、近世前期のこのような認識は近世後期『寛政重修諸家譜』では「豊臣太閤の妾となり、松の丸と号す」と貶められ、敬称も付けられなくなる[25]


また一説に、太田牛一の『大かうさまくんきのうち』の小田原征伐の条(天正18年3月)にある北の御方は、北政所(高台院)ではなく、淀殿をさすという解釈があり[26]、その場合は正室の称が彼女に用いられていたことを意味する。豊臣秀次に関しても二人の正室を持っていたことがわかっており、


福田千鶴は、呼称について検証して、本名が「浅井茶々」で通称を「淀」と号した[注釈 14]とみなすのが適切ではないかとし、呼称が「」で、生存中に「淀殿」や「淀君」と記した史料はなく様付けで呼ばれていることから、同時代的な呼び方としては淀様とするのが正しいと主張している[28][注釈 15]

存命中の呼称[編集]

存命中の淀殿の呼称は時期により異なり、また、呼ばれる相手によっても異なった。

淀殿のは「菊子(きくこ)」で、これは朝廷より従五位下を賜った際に授かった正式な名前である[29]。浅井家の家紋に菊をあしらったものがあったことに由来し、以後、淀殿は(豊臣家の)桐と菊の両方の家紋が入ったものを愛用した。ただし、菊子の名は朝廷などの公の場でのみで使用されるだけで、一般には用いないものであった。

よく知られている「茶々(ちゃちゃ)」というのは、幼名とされる名称であり、これは接頭辞を付けて「於茶(おちゃ)」や「於茶々(おちゃちゃ)」ともする。一方、『翁草』では幼名は「於野々(おやや)」であったとする別説を載せている[30]。幼名は成長しても生涯に渡って使用されることはあるものの、それは極めて親しい間柄に限られる話で、書簡などで(親しみを込めた)略称として用いられるものだった。秀吉が奥州仕置から戻った後に鶴松母子を気遣って出した手紙に「おちやちや」とある[7]が、これも近親者ではない者が用いることができる呼び名ではなかった。

高貴な女性は、存命中には通称で呼ばれるのが当時の慣習であった。女性の通称は役職またはその居場所によって付けられ、その変化に伴って名称も変化した。すなわち秀吉より懐妊後の宿所として淀城を与えられたことに由来して、「淀の方(よどのかた)」「淀の者[注釈 16]」「淀の上様」「淀の女房[注釈 17]」などと呼ばれた[31]。それが宿所を大坂城に移して後はその城内の在所に由来して「二の丸殿(にのまるどの)」「二の丸様」、伏見城では「西の丸殿(にしのまるどの)」「西の丸様」と呼ばれたわけである[32][33]。つまり「淀」を冠されて呼ばれていた時期は天正17年から18年の間と数年のみで極めて限られたのである。

鶴松・秀頼の出産後は「御袋様」など[注釈 18]と、誰々の母を意味する各種の一般的な呼称も用いられた。また、前述のように当時、正室と呼ばれる女性は必ずしも1人に限定されるわけではなかった[注釈 19]ので、淀殿は秀吉の正室の1人として処遇された[35]。「御上様(おうえさま)」「簾中」「北の方」「北政所」「御台様」「御台所」と淀殿が呼ばれているのは、秀吉の正室としての呼称となる[36]。慶長4年(1599年)に秀頼が羽柴家当主となると高台院と共に「両御台様」と呼ばれている[35]

秀吉の死後には落飾して、大広院(大廣院)または大康院[注釈 20]院号を名乗っていたという説もある[37]が、死去の後の戒名での院号は他に大虞院大廬院淀光院など複数伝わる[38]。後述するが、法名は英岩英巌[注釈 21]あるいは妙香といったという[38]

※なお、当記事では特に断りがなければ、便宜上、「淀殿」の称を用いることとする。

生涯[編集]

前歴[編集]

出生について[編集]

淀殿は、近江国東浅井郡小谷城[注釈 22]に生まれた。

生年については、浅井家の記録である『浅井三代記』に茶々の誕生に関する記述が全くないため、お市の方(小谷の方)の結婚時期の推定から、長らく永禄10年(1567年)生まれであると推測されてきたが、下の姉妹の生年と辻褄が合わないことから、根拠とされていた結婚時期の推定も含めて、議論が重ねられた。田端泰子は、お市の結婚を、奥野高廣の永禄10年末から翌11年早々説か、小和田哲男の11年春説が妥当とし、桑田忠親が論拠として挙げた浅井長政の市橋氏宛の書状に信長が「尾張守」を名乗っていることから、これが用いられていたのが永禄9年9月から同11年8月までで、信長が美濃を手に入れたのが同10年8月であり、『浅井三代記』に輿入れは春とあるので、永禄11年春が妥当であろうとする[39]。それで結婚の翌年に長女が生まれたとして、永禄12年(1569年)に誕生したというわけである。これを裏付けるように、『渓心院文』に天正11年に13歳という記述があったことから[40]永禄12年誕生説(47歳で亡くなったことになる)が有力視された。平成4年(1992年)、井上安代[注釈 23]が著書で、お市の結婚を『武功夜話』より永禄11年とした上で、醍醐寺三宝院の門跡義演の『義演准后日記』の慶長十一丙午年五月三日条の有氣(卦)[注釈 24]修法に着目し、午の年に有卦入りするのが(六星占術の)土星と水星の星座の人であることから算出して、淀殿の星座を「己巳八白土星(つちのとみのはっぱくどせい)」と割り出して、永禄12年生まれで享年47と推定した[41]。小和田哲男、宮本義己、福田千鶴、黒田基樹らも井上説を支持していて、現在ではこれを確定と見ている[42]

なお旧説としては、他に4つの異説があった[注釈 25]

出生[注釈 6]についても異説があったが、これは前述の結婚時期の推定の変遷に関係したものであり、生年が確定した現在ではあまり考慮されない。通説では浅井長政の長女。生母は信長の妹・お市の方(小谷殿)とされるが、結婚の際には彼女は信長の妹ではなく娘分(つまり養女)として輿入れした[45]。初(常高院)、江(崇源院)は妹[注釈 26]乳母大蔵卿局大野治長の母)、饗庭局(あえばのつぼね)[注釈 27]、大局(前田利家の弟・佐脇良之の妻だった後家)などで、成長後も侍女として仕えた。

父母との死別と流転[編集]

元亀元年(1570年)、父・長政は伯父・織田信長との同盟を破談。天正元年(1573年)、信長の軍勢に小谷城は包囲され、城が落城直前になった際に小谷殿の随臣であった藤掛永勝が母子を城から脱出させて救出した。長政の長姉(阿久姫)が出家して昌安見久尼として開いた庵である実宰院[注釈 28](じっさいいん)の縁起書によれば、母子は小谷落城後にはこの実宰院でしばらく保護されていたという[注釈 29]

落城時に父と祖父・久政は自害し、祖母・小野殿は捕らえられて惨殺された。兄の万福丸は潜伏するが、誘い出されて捕らえられ、信長は羽柴秀吉に万福丸を串刺しにするように命じた。秀吉は初めこれを諫止したが聞き入れられず、処刑を実行した[47]。この年の5月に生まれたばかりの弟(万寿丸)は難を逃れた[48]

信長は実の妹と姪たちの生還を喜んだ。通説では三姉妹は伯父・織田信包(信兼)のもと伊勢安濃津城[注釈 30]に預けられた[48]とされることが多いが、『渓心院文』によりこれは誤りであることがわかっており、実際には尾張国守山城主で信長の叔父(淀殿から見れば大叔父)にあたる織田信次に預けられた[49][50]

ところが天正2年(1574年)9月に信次が戦死してしまうことから、母子は信長のもとに引き取られて当時の本拠地である美濃岐阜城に移った[51]。天正4年(1576年)に信長が安土城に移った後もそのまま岐阜城に留まり、織田家当主となる織田信忠の庇護下に置かれた[50]

天正10年(1582年)、本能寺の変で信長・信忠が家臣の明智光秀に殺されると、清洲会議によって信忠の子・三法師(織田秀信)が織田家の当主となることが決まり、母子は新たに岐阜城城主となった織田信孝(信長三男)の庇護を受けることになった。通説では、信孝は織田家随一の老臣であった柴田勝家と連携して秀吉に対抗していたので、お市の方と呼ばれるようになった小谷殿を説得して、秀吉の求婚を断らせ、勝家との再婚を取り纏めたとするが、10月6日付の勝家が堀秀政に与えた書状によると、お市の方と勝家の結婚はすでに清州会議で決まったものであったらしく、秀吉はお市の方を勝家に譲ることでさらに有利な地位を占めることになった[52]。いずれにしろ、三姉妹は母と共に継父のいる越前国北ノ庄城[注釈 31]に移った。

柴田修理進勝家と小谷の方(喜多川歌麿作)

天正11年(1583年)、信孝、勝家、滝川一益が挙兵するが、秀吉はこれを各個撃破。4月21日の賤ヶ岳の戦いに敗れると、勝家は越前北ノ庄城に逃げ帰る。24日の落城を前に、『柴田勝家始末記』によれば、勝家はお市の方に脱出を勧めたが、彼女はこれを拒絶して、娘の3姉妹だけの明け渡しを提案し、共に自害した[53]。(柴田一族を中心とした)股肱の臣80名は刺し違えて自害し、12名の妾、30余名の女房もこれに従って亡くなった[54]。一方で、勝家は信長の姪にあたる三姉妹を富永新六郎という家臣に預けて秀吉のもとに届けさせ、お市の方も「主筋」であるから大切にして欲しいとの書状を添えた。秀吉はこれを引き受けて保護した[55][注釈 32]

他方でこの経緯には異説もある。『玉興記』では勝家が北ノ庄城落城の前に三姉妹を「遥の谷」に遣わして隠したと云い、秀吉はこの噂を聞いて直ちに迎えを出して、三姉妹を安土城に入れたとする[57]。また三姉妹は炎上する北ノ庄城から脱出し、ほど近い前田利家の越前府中城に逃れ保護されていて、次いで安土城へ送られたともいう[58]。この時、安土城はすでに焼失しており、三姉妹は総見寺で生活した後、城下の家臣の邸宅を住居とした。

その後は、秀吉ではなく、信孝没後に織田一族の筆頭となって信長の母や妻子の面倒も見ていた織田信雄(信長次男)が、三姉妹についても、その後見となって面倒をみていたらしい[59]。この時に一年間程、茶々の世話をしたのが、信長の妹のお犬の方(前佐治信方室)である[61]。また、当時信雄の家臣であった叔父・織田長益(有楽、または有楽斎)は、後に淀殿の後見人として淀城に入っているため、この時から淀殿はその庇護を受けていたのではないかと桑田忠親は主張しているが、長益の当時の所在もはっきりせず、淀殿の所在は6年間ほど不明となる[62]

秀吉の側室に[編集]

妙教寺の境内にある淀古城石碑

三姉妹が秀吉の庇護下に入ったのが、秀吉と信雄が和解した後なのか前なのか、時期や経緯ははっきりしないが、安土城は当初、信雄の勢力下にあり、天正11年秋には妹の江(崇源院)が信雄家臣であった佐治一成(信方の子)のもとに嫁ぎ、天正12年(1584年)に秀吉と信雄とが小牧・長久手の戦いで戦って、その論功行賞で秀吉の勘気を被った佐治は追放された。また天正13年(1585年)に安土城は豊臣秀次八幡山城を築城したために廃城となって、信雄も伊勢長島城から清洲城へ移っている。

前述のように北ノ庄脱出直後に秀吉に庇護されたとする通説は間違いのようであるが、少なくとも天正16年(1588年)には淀殿は秀吉のお手つきとなってその側室となったようだ。というのも、同年、淀殿が秀吉の子を身籠もったからである。しかし彼女が如何にして秀吉の妾になったのか経緯を記す史料はなく、このくだりを語るのは小説の類しかない[63]。淀殿は秀吉の子を身籠もったことで、初めて第一側室の地位を獲得したのであって、それまでに淀殿は特に秀吉の関心を引く存在ではなかったようである[64]

天正17年(1589年)正月、淀殿の懐妊を喜んだ秀吉は、山城国淀城[注釈 33]を与えた。淀城は豊臣秀長を後見に細川忠興を補佐にして3月頃には改修工事を終えたので、淀殿は織田長益(淀殿の後見人)と一族の浅井大膳、弟・蒼玉寅首座[注釈 3][4]を御供にしてここに移り住んだ。

鶴松の誕生と夭折[編集]

豊臣鶴松(棄丸)肖像

5月27日、淀殿は淀城で自身の第一子となる(すて)[注釈 34]を生んだ。この「お棄」は武運長久を願って八幡太郎という通称を与えられたが、長寿を願って幼名をさらに「鶴松」と改名した[65]。また、出産を境に翌年以後、淀の方と呼ばれるようになった[31]

豊臣家の跡取りがすでに決まったことを天下に示すため、秀吉は生後4か月の鶴松を大坂城に招き入れようと考えた。同年9月13日、鶴松と淀殿の豪華な大行列は淀川を下って大坂に入った[65]

また12月、淀殿はこの年に17回忌にあたる父・浅井長政と母・お市の方の肖像を高野山持明院に奉納して追善供養をしている。なお、この肖像画には奉納者である淀殿の記名はないが、これは淀殿の豊臣政権に対する自発的な配慮によるものであるという[66]

天正18年(1590年)正月、京都の公家衆が鶴松に年始の挨拶を陳べるためにわざわざ大坂に下向。この返礼もあって、2月13日、秀吉は鶴松を淀殿を伴って京都の聚楽第に入り、母大政所と正妻である北政所(高台院)に対して公式に対面させた。その上で3月1日に秀吉は小田原遠征に出立した[67]。そして遠征地からの4月13日付の書状で、北政所に指示して淀殿を陣中に送るように言い含めた。5月7日、秀吉は侍臣の稲田清蔵を迎えに派遣して、東海道の諸大名にも号令を発し、淀殿の御供としては近江衆の大野木甚之丞・草野次郎右衛門を配し、また大坂の一柳越後守も随従して下向するように命じた。そこで淀殿は鶴松と離れて小田原に向かった[68]。小田原は7月5日に落城し、秀吉はさらに奥州仕置に向かったので、15日に淀殿を帰京させた。

小田原攻めの論功行賞で、淀殿の庇護者の1人でもあった織田信雄が東海道五カ国への移封を拒否して改易され、秀次がその所領の一部を加増されて清洲城に移封された。新たな八幡山城主には京極高次が入るが、その母・京極マリアは長政の妹(淀殿から見れば叔母)で、従兄でもある高次の妻は淀殿の妹・初(常高院)である[注釈 36]

天正19年(1591年)閏正月3日頃から鶴松は淀城で病気に罹った。秀吉が神社仏閣に病平癒の祈願をさせてこの時は全快したが、8月2日に鶴松は再び大病を罹り、祈願の甲斐無く、そのまま5日に没した。秀吉は大いに嘆き、髻を断って喪に服した。

文禄元年(1592年)3月26日、秀吉は文禄の役の都督ために聚楽第を発して肥前名護屋城に向かったが、小田原出陣に倣って、淀殿や松の丸殿[注釈 37]ら妻女を伴って出陣した。

秀吉は母である大政所の危篤により、7月に一時京都・大坂に戻るが、淀殿の動向や帰京の時期はよく分からない。しかし翌文禄2年(1593年)の5月にはすでに(淀城から)大坂城の二の丸に居を移していて懐妊していたから、大政所の葬儀(文禄元年8月6日)の前後に帰京したと考えて無理はない。この頃、淀殿は二の丸殿と呼ばれている。桑田忠親は、鶴松の忌服を終えると程なく(つまり帰京頃)、北政所が鶴松が亡くなった場所である淀城を離れて大坂移住するように勧めたのであろうと推測している[69]が、これは秀吉の留守中は北政所が大坂城を預かっていたためである。留守中の家族の管理はすべて北政所の管轄であった[70]。秀吉の家族への書状の宛先は秀次以外では全て北政所かその女房宛で[70]、書状で淀殿懐妊を秀吉に伝えたのも北政所である。

淀殿の懐妊は秀吉にとっては特に嬉しいことであったに違いないが、北政所への気遣いも忘れてはいなかった。秀吉は書状で、鶴松は太閤の子であったが他界してしまった、だから今度の子は「二の丸殿」だけの子にすればよいのではないか、と北政所に語っている。子のない北政所の悔しさを慮っての言葉であろう。田端は、実際に生まれた子が女子ならば淀殿だけの子になっていた可能性はあるとするが、しかし今度も男子が生まれた[71]

秀頼の生母として[編集]

8月3日、淀殿は大坂城二の丸で第二子である(ひろい)を産んだ。秀吉はわざわざ家臣松浦重政(讃岐守)に拾った子供であるということにして「拾」と名付けたのである。拾子であるというので、下々にもおの字を付けて呼ぶのを禁止したほど、前回以上に徹底された。ただし「お拾」と呼んではいけない件は、秀吉自らが破ってしまっている[72]

『駒井日記』によると10月頃、淀殿の侍女の中に禁制を破った者がおり、醜行を理由に処罰された。11月、疱瘡が大流行し、淀殿もこれに罹った。伏見城普請[注釈 38]を監督していた秀吉は、心配して12月7日に全国の寺社に病平癒の祈祷を行わせた。幸い、淀殿は軽症で程なくして全快した。

秀吉は愛息「御ひろいさま」を熱烈に溺愛したことから、その養育を担う、豊臣家世嗣の生母・「おかかさま」である淀殿(二の丸殿)の権勢は日に日に増していった[74]。鶴松時代は北政所と淀殿という二人の「かかさま」がいたが、拾の時は、母親といえば淀殿だけを指す状況が自然のものとなり、大坂城内二の丸の淀殿のもとで拾は養育された[75]

文禄3年(1594年)4月に伏見城が完成したので、秀吉は淀殿と拾を移転させようとしたが、同じように鶴松が2歳の時に大坂城への移徒(わたまし)の儀をして亡くなったことから、淀殿の反対で中止された[76]

他方で淀殿は、同年5月、亡き父・浅井長政や祖父浅井久政らの二十一回忌の供養のために秀吉に願って京都東山養源院を創建させ、浅井亮親の次男成伯を開基とした[77]。当時、疱瘡の病や不幸などは先祖の祟りであるとする風習があったので、懇ろに弔って功徳を積む必要があると思ったようである。そうした後で、12月になって淀殿と拾は伏見城に移り、淀殿は西の丸に入った。以後は西の丸殿と呼ばれている[76]

『洛中洛外図屏風(池田本)』に描かれる木幡山伏見城。
『醍醐花見図屏風』の一部。

文禄4年(1595年)4月21日、淀殿は高野山持明院で亡き義父・柴田勝家の十三回忌の供養を行った[78]

同年7月15日、秀次切腹事件が起こるが、この原因の1つが拾の誕生にあったようである。ただし文書史料によると、秀次と淀殿とは書簡の上で友好的な関係が続いており、石田三成讒言説における黒幕として淀殿を見立てるのは、江戸時代の創作に過ぎない。他方で、秀吉は天下を秀次に譲り渡したのを取りやめて、奉行衆を介して改めて諸大名に対して拾への忠誠を誓う誓紙に血判連箸するように求めた[79][80]。この頃、咳気を患って心身共に衰弱した最晩年の秀吉は、拾に対する異常な熱愛を示す狂態を見せるようになった[81]

同年9月17日、妹・江が徳川秀忠と再々婚するが、これは朝日姫(秀吉の妹)および秀吉養女・小姫(淀殿の後見人織田信雄の娘)の死によって断ち切れた豊臣と徳川の縁を繋ぐためのものであり、かつ豊臣家の世継ぎになる拾およびその生母と、徳川家の二代目を結ぶための縁組であった。秀次実弟の豊臣秀勝(小吉秀勝)と江との間には娘・完子がいたが、伯母である淀殿が引き取って養うことになった。淀殿は彼女を実の子同然に大切に養育したが、明経博士舟橋秀賢の『慶長日件録』によれば、養子ではなく猶子であったという。

文禄5年/慶長元年(1596年)12月、5歳の拾は、秀頼と名付けられた。

翌慶長2年(1597年)4月(2月より工事)、秀吉は京都大内裏跡に秀頼の朝廷参内のためにわざわざ秀頼卿御城(京都新城)を築かせ[注釈 39]、これが完成したので、9月26日に秀頼は伏見城から新城へと移った。翌27日、参内した秀頼は元服して従四位下左近衛少将に叙任され、29日には同じく左近衛中将に昇進した。豊臣家世嗣としての立場はこうして完全に強固なものとなり、同時に生母の立場も盤石となる。

慶長3年(1598年)3月15日、秀吉は醍醐寺三宝院で観桜の宴を盛大に開いた。醍醐寺の外では院外の五十町四方に、三町に一所ずつ、番所を立て、弓鉄砲で武装した者を置き、警護を固めさせた。こうした醍醐周辺の姿はまさに「醍醐惣構」と呼ぶに相応しいもので、このものものしい惣構の中に輿に乗って、女房衆が入ってきた[82]。淀殿の輿の警護には木下周防守石川掃部が随従した。所謂、この醍醐の花見では、従姉妹にあたる松の丸殿(京極竜子)と杯の順番を巡って争うという事件があった[注釈 40][注釈 41]。妻妾の二番手の西の丸殿(淀殿)と、三番手の松の丸殿とは、親戚でありながら因縁があり、松の丸殿の方が(浅井氏の)主筋の京極氏の人であり、家中随一の美貌と秀吉の寵愛とを誇っていた。2人は伏見城の西の丸と松の丸に住んでおり、この頃、少し啀み合っていたようだ[注釈 42]。2人を仲裁したが、北政所と前田利家の妻である芳春院[注釈 43]であった[84]。醍醐寺の寺内では、趣向を凝らした茶屋が増田長盛長束正家などによって設けられ、秀頼から三宝院へ銀子二百枚、小袖十重、北政所からは鳥目百貫文、精糸二十疋が送られ、他の側室たちからの贈り物もおびただしかった。秀吉は三宝院に対して新知行地として1,600石(日野三ヵ村、勧修寺村、笠取村、小野村)を与えている[82]

太閤秀吉の死[編集]

8月18日、秀吉は伏見城で息を引き取った。1ヶ月前から死の床に就いていた秀吉は、五大老に秀頼の行く末を懇願して亡くなったのである。5歳の秀頼の生母として、まだ30歳そこそこの淀殿は後見人のような役目を負うようになる。

慶長4年(1599年)正月10日、秀吉の遺言に従い、淀殿は(新第の)秀頼を伴って大坂城の西の丸に入った。代わって伏見城には五大老筆頭の徳川家康が入って政務を取り仕切り、同二位の前田利家が大坂城で秀頼の傳役を務めることになった。

しかし、政道を取り仕切ることになった家康は、天下を継ぐ人物として台頭していった。閏3月3日に前田利家が亡くなると、五奉行石田三成武断派七将に襲撃された事件から失脚して、家康と毛利輝元は誓紙を交わして友誼を結び、三成は奉行を退隠して佐和山へ蟄居するように取り決めた。宇喜多秀家は同年1月の宇喜多騒動により、上杉景勝は国替えによる領国経営のために、それぞれ国許に帰っており、大老として1人残って独裁体制を築いた家康は、重陽の嘉儀を秀頼に述べるためと称して、満を持して大坂城に乗り込んでくることになる。

北政所はこの頃まで淀殿と同じ曲輪で同居していたが、9月に大坂城西の丸を出て、古株の女房衆を連れて京都の三本木屋敷(京都新城)に移った。この理由は淀殿との確執が表面化したとか、淀殿の素行について忌まわしい風評が立ったためなどともいうが[85]、家康の大坂入城を憚って自発的に退去して石田木工頭邸に移り、それから京に上って、木工頭邸は平岩親吉へ渡し、西の丸は家康に明け渡すためであろう[86]。その後、北政所は太閤の冥福を祈るために剃髪したが、家康とも強固な友好関係を続けた。二人の後家の役割は2つに分けられ、北政所が秀吉の菩提を弔う役割になって、秀頼の母として後見する役割は淀殿のものとなった[87]

淀殿は、大蔵卿局の息子で乳兄妹にあたる大野治長(修理)を近くに置いて特に重用していた。それで二人の間には不義密通の噂が立ってしまい、治長の身柄は宇喜多秀家に預けられたとする話[88]を記す書[注釈 44]もあるが、それが真偽不明の噂話にすぎないとする書[注釈 45]もある。

しかしそのような噂話ではなく、むしろ重陽(9月9日)の家康の入城の後に、大野治長と土方雄久[注釈 46]が家康を暗殺しようとしたとする増田長盛長束正家の告発されたことの方が、追放理由であったろう[92]。この計画に関わったとして浅野長政(奉行)も蟄居となり、前田利長(大老)もこれを理由に討伐されそうになったので、細川忠興[注釈 47]が間に入って11月に誓紙を交わして、家康に屈服せざる得なかった。その後(翌慶長5年6月)利長の母・芳春院は人質として江戸に送られることになり、江戸屋敷に留置された大名家婦女の第一号となった[93]

家康は大坂城の西の丸に、本丸に匹敵する天守閣を建築して、自らが秀頼と並び立つ存在であることを天下に誇示した。

関ヶ原の戦い[編集]

慶長5年(1600年)春頃より、家康と上杉景勝との対立が表面化する。石田三成・直江兼続安国寺恵瓊らが打倒家康の密議を凝らしていたが、これに淀殿が関与したような形跡はない。三成や大谷吉継が会津に向けて出征した家康に対する挙兵を企てているという情報が入った際には、7月12日、家康と広島城に居た毛利輝元に対して、淀殿は三奉行(増田・長束・前田玄以)と連名で、至急大坂に戻って謀叛の動きを鎮定するように要請する書状を送って、家康に三成を討つ大義名分を与えている[94][注釈 48]。このことから淀殿は三成に与していたわけではなく、家康・秀忠父子を主軸とした秀吉遺言覚書体制、すなわち内府(家康)・五奉行(ないし三奉行)体制による政権運営を是認する、確たる意思があったことが窺える[96]

しかし、要請に応じた毛利輝元は16日に大坂に到着すると、17日に家康が残した留守居の佐野綱正を追い出して西の丸に入った。乱を鎮める代わりに、嫡男・毛利秀就児玉元兼国司元蔵を付けて本丸に送り込んで秀頼に近侍させると、大坂を掌握する[97]。そして恵瓊の策により、西軍の総大将として担ぎ上げられたのである。こうなると、三奉行は態度を変えて西軍に与し、家康糾弾の書状・内府ちかひの条々に署名したが、(家康暗殺を疑われた)長束正家以外は最初から東軍に内通していた。家康は先の書状を以て、三奉行、淀殿や前田利長までも東軍の味方であり、謀反人は石田・大谷であって、これを追討する家康の行動は「秀頼様の御為」であるという大義名分の根拠として、全国の諸大名に檄を飛ばした[98]。対して、7月30日夜、三成は大坂城に入って秀頼・淀殿に謁して、輝元や三奉行らと会した[99][100]

東西両軍の対決が避けられなくなると、淀殿と秀頼は中立的立場を堅持した。秀頼の墨付きの発給や、秀頼の出陣なども許さず、旗幟を鮮明にするような一切の行動はとらなかったのである。これは大坂方の方針ではなく、三成が(たとえ敗戦しても)累を大坂に及ぼさないように自粛していたとする解釈もある[101]が、結果的に西軍は幼君・豊臣秀頼を擁するという強みを活かせなかった。毛利秀元は輝元に秀頼と共に出馬して、先手を打って関東に出陣すべきだと主張したが、策はいれられなかった[102][注釈 49]。(東軍に内通する)吉川広家福原広俊らに説得された輝元は、結局は大坂から動かず、西軍総大将である彼までもが局外中立と化した。

東軍の京極高次が守る大津城には、松の丸殿がおり、大津城の戦いでは、9月13日に西軍の立花勢三井寺の高所より大筒で砲撃して天守を攻撃し、瓦礫で松の丸殿は気絶・侍女2名が死亡するという事態になった。これを伝え聞いた淀殿は憂慮し、京都の高台院と協議して、その侍女孝蔵主、淀殿の侍女饗庭局木食応其の三者を介在として和議を成立させ、15日に開城させて松の丸殿らを救出した[104]

9月15日関ヶ原の戦いは東軍が勝利した。家康は20日に大津に至り、淀殿の信頼の厚い大野治長[注釈 50]を大坂城に送って、今回の事変は三成・恵瓊らの策謀であり、弱少の秀頼が関与したはずはなく、女性である淀殿が与り知るところではなかったと了解していると述べさせた。淀殿は大いに喜び、25日に治長をそのまま使者として返して、厚意に対して感謝の旨を返答している[105]

毛利輝元は26日に福島正則池田輝政浅野幸長黒田長政藤堂高虎の五将の前に大坂城西の丸を明け渡して、木津の邸に蟄居した。27日、家康は大坂城に入って本丸で秀頼に謁し、自らは西の丸に入り、淀殿の義弟にあたる徳川秀忠を二の丸に入れた[106]

10月15日、本丸に家康を迎えて饗応することになり、淀殿を交えて和睦の盃事(さかずきごと)が行われた[107]。この時、盃は淀殿から家康へ、家康から秀頼の順で回された。家康は自らが盃を秀頼に回すことを遠慮して辞退しようとした[注釈 51]が、淀殿は「今よりは秀頼は家康のことを故太閤同然に心得なければならない」[107]と人々が見守る中で述べて強く進めて、家康は秀頼に盃を回した[108]。この儀礼は家康が父親代わりたるべきで(秀頼が成長するまで)天下を預かると公に宣言するという意味があった。

豊臣家の後見人[編集]

家康による政権簒奪[編集]

家康は伏見城に居を移して、着々と幕府の成立に向けて準備し、諸大名を従えていったが、まず着手されたのは豊臣恩顧の大名の取り込みであった。関ヶ原の戦後の論功行賞で、没収された西軍諸大名の所領、石高632万石のうち、80%にあたる520万石が福島正則や黒田長政を筆頭とする豊臣恩顧の諸大名に宛がわれた。豊臣系の大名が国持大名となった地域は20カ国以上に及んだが、なお大坂城に秀頼がいる状況下で、彼らが今後は徳川氏に対して忠誠を尽くすことを期待した政策であった[109]

一方、淀殿は秀頼の後見人として、家康ら五大老五奉行、そして北政所の去った大坂城での主導権を握った。秀頼の傳役としては秀吉の遺命で小出秀政片桐且元らが家老として残っていたが、秀政は隠居した後は、且元一人が家康の命で家宰を取り仕切るように指示された[110]。しかし小大名である且元の影響力は弱く、家康から扶持を与えられた身でもあったので大坂方からは完全には信任されておらず、淀殿が大蔵卿局饗庭局和期の方ら女房衆を介して、豊臣家の家政にまで口を出していたようだ。

豊臣家直轄領の大半は全国に分布する太閤蔵入地であったが、『讃岐内御蔵米勘定状事』によると、その算用勘定の責任者は慶長9年頃(つまり幕府開始後)になっても大坂の筆頭家老の片桐且元が行っており、蔵米は大坂城に運び込まれていて、「御袋様」である淀殿が免減等の裁量権を行使していたこともわかっている[111][注釈 52]

しかし家康は大名領有権を擁護するという巧妙な形で、秀吉政権下で大名領内に楔として打ち込まれていた太閤蔵入地を、それぞれの国持大名の領内統治に任せることによって解消させていった[113]。秀吉の時代は蔵入地の代官や大名家臣の知行分などを細かく指定していたものが、家康の時代になると大名一括で宛がわれ、大名の裁量に任され、不介入が原則となった。そしてその国持大名の三分の一は豊臣恩顧の大名で占められていた[114]のであり、彼らは分権化[注釈 53]を進めて豊臣政権中央集権制を解体することで、権力簒奪の片棒を担ぐことになったのである。

大日本名将鑑徳川家康(月岡芳年作)

慶長5年12月19日、家康は前関白の九条兼孝を関白に再任させて、豊臣家の関白職独占を崩した[115]。関白職が摂家に戻されたわけであるが、それでも簡単には、秀頼が成人した暁には関白職に選任されて公儀の主催者の地位を継ぐという世間の認識は揺るがなかった[116]。慶長6年(1601年)3月、僅か9歳の秀頼が正二位権中納言に叙任されており[117]、順調に官位を上げていっていたことから、秀頼が成長しさえすれば再ぴ関白職は豊臣家に返されると、淀殿は和平の方向に期待をかけていたようである[87]。慶長7年(1602年)の年礼でも、家康が伏見城から大坂城の秀頼のもとに参向する次第で、家康の覇権が確立されてもなお、翌年までは在京諸大名はまず大坂に伺候し、家康はその後だったのであり[118][注釈 54]、公儀の礼的な秩序・序列において、依然として豊臣秀頼が首位の座を占めていたからだ[118]

とはいえ、曲直瀬玄朔によれば、慶長6年になると淀殿は「気鬱」が激しくなり、胸が痛み、食事が取れなくなったり、頭痛に悩まされていたという。曲瀬はその薬を処方しているが、秀頼の後見役としての気苦労、豊臣家を維持しなければならない政治的重圧が、淀殿の体調に変化を生んだと思われる[120]。権威的に首位にあっても、(仮に蔵入地収入を一部でも得ていたとしても)実質的に秀頼は摂津河内和泉の国持大名でしかなく、65万7,400石[121]の一大名に成り下がったも同然で、豊臣家に残されたのは大坂城と三カ国だけだった[87]から、淀殿の心労はいかばかりであったか。

また、慶長7年(1602年)11月、秀頼は、文禄5年の慶長伏見地震で倒壊して秀吉が再建の夢をもちつつも病で果たせなかった、京都方広寺の大仏殿の再建に着手した。これは前年より始まっていた天下普請の1つである家康の二条城築城に対抗したものとされる[122]。ところが、12月4日、鋳物師が過失で火災を起こしてしまい、仏像は溶解して堂宇も灰燼とかしてしまった[123]

慶長8年(1603年)2月12日、家康は従一位右大臣に叙任され、征夷大将軍を拝して、源氏長者淳和奨学両院別当、牛車兵仗を許された[124]。そして新しく完成した二条城に入城して、武家の棟梁として、天下に号令を始める。ところが一方で、家康は自分の昇進で空位になった内大臣の地位を秀頼に与えるよう朝廷に奏請して、4月22日、秀頼を内大臣に昇進させた。そして7月28日、秀吉の遺言に従い、江戸城徳川秀忠の娘・千姫を大坂城の秀頼のもとに嫁がせたのである[125]。そうすることで、徳川=豊臣両家(徳川将軍家と豊臣関白家)の血縁的な融合一体化をはかり、家康が孫聟・秀頼に対しても家長的な支配が及ぶ内容で公儀の頂点形成をし、他方では豊臣恩顧の大名達の懸念も払拭されるようにしむけたのである[126]

家康の配慮に、淀殿も安心したようである。なぜなら同年8月、淀殿は明経博士・舟橋秀賢に『貞永式目仮名抄』上下2冊を作らせ、手に入れているからである。自ら率先して学び、秀頼にも政治向きの学習をさせようと思ったからであろう。当時家康は伏見城に入っており、秀吉の跡を襲ったかたち、つまり豊臣家にとっては隠居として大坂城に臨んでいるような錯覚を与えていた[87]

なお、秀吉の死後剃髪していた北政所が、高台院の院号を勅許されたのもこの年で、以後はその称で呼ばれた。高台院は京都新城に住んでいたが、翌慶長9年に家康より1万6千石余の隠居料を貰い、同10年には彼女のために高台寺が建設されたので、同寺に入って出家した。彼女は豊臣家の中心から完全に身を引くかたちになった[87]。豊臣恩顧の大名に強い影響力を持っていた高台院の退場も、後から見れば、豊臣家から藩屏を剥がすような効果をもった。

慶長9年(1604年)6月3日、猶子・豊臣完子九条忠栄(幸家)に嫁がさせたが、これは淀君の才覚だったという[127]。忠栄は関白・兼孝の長男であり、摂家との縁組は秀頼の関白就任をさらに後押し、位で徳川家を越えてその後に武家の官位や実権を手にしようとすることを意図していたことが推測される[122]。11月10日、関白・兼孝は突然、辞職して出家した。理由はわかっていないが、これは豊臣家との縁組か秀忠への将軍宣下に関して、家康の不興を買った(あるいは兼孝が家康の思いを忖度して離職した)ことが原因らしい。

伏見上洛を拒否[編集]

慶長10年(1605年)4月、家康はわずか2年で将軍職を秀忠に譲った[128]。これによって徳川氏の天下を子孫に相続させることを明確にした[129]。武家の官位は秀頼のものとはならないことが明白となったのである[122]

ところが一方で、経緯も詳しく見ると、孫聟・秀頼は疎略に扱われたわけではなかった。家康は4月7日に将軍職を辞して秀忠を将軍職に就ける旨を奏請し、8日に二条城に入り、10日に参内。12日に内大臣・秀頼が右大臣に昇進し、16日に権中納言・秀忠は将軍職を拝して正二位内大臣に陞っている[129]。右大臣の上には左大臣と関白しかないというところまで来ていたのであって、武家と公家との2つの権威のなかで、秀頼にはまだ後者の余地が残されていた。ただしそれには、かつて家康が秀吉の軍門に降ったように、徳川家に臣従するというのが条件であった。

5月8日、家康はこれを機に秀頼の上洛を促した[130]。秀忠は秀頼の義父であり、義父の就任に伏見城まで来て祝辞を述べるのは当然のことという家長的権威の理屈を用いたのであるが、暗に臣従を求めるものでもあった。使いを高台院とするなど配慮がなされていたが、淀殿は激怒して拒否し、強いて上洛を求めるならば、秀頼を手にかけて自害も厭わないと放言した[131][130]。淀殿が立腹した理由は、官位で下になる将軍・秀忠に上位の秀頼の方から伺候せよという点と、秀頼に将軍位が帰ってくるのではないかという期待が脆くも崩れたことに原因があると考えられる[122]

徳川・豊臣の両家の対立により、上方では戦雲急が告げられたかのごとき騒動になった[132]。11日、秀忠の名代として弟・松平忠輝が大坂に派遣されて、秀頼の右大臣就任を祝う贈り物などさせてことは収められた[133]

家康が大坂誅滅を決意したのはこの頃だっただろうと桑田忠親はしている[134]が、笠谷和比古は次節の二条会見においても家康は最高の礼遇で秀頼を迎えて臣従を強制していなかったと指摘し[135]、(最後の瞬間まで)豊臣家滅亡を画策していなかったとする[136]。家康の野望は徳川幕藩体制が確立した後、方広寺の梵鐘において突然現れて、大坂の役の帰着によって二重公儀体制を解体させたとしている。

慶長10年7月26日、淀殿は片桐且元を普請奉行とし、伊勢遷宮に備えて宇治橋をかけ直す工事を始めて、慶長11年(1606年)4月27日に完成し、翌日仏僧千人に読経させて橋供養した[137]。この他、積極的に寺社の復興を行っているが、慶長12年(1607年)に北野天満宮、同13年(1608年)に鞍馬寺、同14年(1609年)に出雲大社、同18年(1613年)に金戒光明寺の御影堂、河内観心寺の金堂が再建された[138]

通説では、家康が、豊臣家の家運挽回や亡族の供養に託けて、寺社仏閣の修造を秀頼に勧めて、豊臣家の財力を消耗させることで、その勢力の削減を図ったとされる[139]が、この寺社修造の方針は秀吉の政策を受け継ぐものでもあったという異説もある。秀吉は関東など、未征服地の寺社に対して、平定戦の直前に、勝利の暁には修造を約束し、平定後にそれを実行して、平定戦を必要としない地域では、醍醐の花見の時のように、文化的な催しに付随させて、大規模な修造を行い、寺社勢力を吸引してきた。淀殿と秀頼も秀吉の政策を忠実に履行していただけで、寺社の修造は、秀頼の官位昇進と並ぶ、豊臣政権の生き残りのための大切な切り札であったと言えると、田端泰子はしている[122]。他方で、徳富蘇峰も淀殿・秀頼が秀吉の土木癖を相続したのだろうかとしつつも、当時の大坂の人々が理解に苦しむほど数多の造営であったと指摘。『当代記』にも「惣而寺社佛閣、此近年営造也。秀頼公幼稚にまします、御袋の発願歟、奇特と云々。故吉兆霊夢度々ありと、京中に風聞」とあり[140]、母子の熱心な祈願の表れであろうと人々が噂していたと書かれている。

他方で、秀頼は大名御手伝普請からは除かれており、慶長12年の駿府城普請でも(臣従関係を伴わない)国役として500石につき人夫一人を課されたが、これは公家、寺社、幕領と同格の賦役だった[141]。駿府城普請の件はしばしば豊臣家が一大名に転落した例に挙げられたが[142]、笠谷は、全く逆に、豊臣氏は自余の諸大名とは別格であり、徳川将軍と幕府の支配体制に包摂されない存在であったことの論拠としている[112]

田端は、秀頼による積極的な寺社造営政策も、むしろ、俸か三ヵ国ではあるが独立国の主としての姿であったとしている[120]

二条城会見[編集]

伝豊臣秀頼像(京都府養源院蔵)

慶長15年(1610年)秋、『大坂御陣覚書』によれば、淀殿と秀頼から前田利長に宛てた内密の書状があって、太閤秀吉の厚恩に報いるように促されたが、利長はすでに亡父・利家の死と関ヶ原の役によって恩義は果たしており、家康からの新恩によって三カ国の国持大名になったのでその恩に忠義で報いる義務があり、金銭の援助はできるが戦に荷担するような要望には応じられないと拒否し、本多政重を介して駿府の家康にも報告したという[143]。この件があってから、家康は慎重になり、自分が生きている間に大坂との問題を解決しようと思ったという逸話がある[144]

ただし、実際には、利長は慶長10年に隠居して22万石の富山城に引っ込み、庶弟・前田利常が100万石を相続して、同年6月24日に襲封を告げるために大坂城に伺候しているのであり[145]、その5年後に内密の書状があったとするこの話には辻褄が合わないところがある。

慶長16年(1611年)3月、後陽成天皇が譲位して27日に後水尾天皇が即位する予定だったので、この即位の賀式のために家康はもとより西国諸大名も京都に参集することになっていたが、家康は(淀殿の叔父)織田有楽斎を使者として大坂城の秀頼に対しても上洛を促した。秀頼の身の危険を案じる淀殿は難色を示したが、加藤清正浅野幸長が一命を懸けて秀頼の安全を保障すると言ったので応諾した[146][147]

『東武談叢』によると、この時、淀殿は軍配者[注釈 55]白井龍珀を召して秀頼の上洛について吉凶を占わせたところ大凶と出たが、片桐且元が無理に勘文を大吉と書き換えさせたという[148]

二条城会見では、家康は自ら庭上まで出て秀頼を迎え入れ、対等な形で礼儀を行う「両敬」を提案したが、秀頼は遠慮して固辞し、家康に上座を譲って拝礼した。会見は成功裏に終わり、豊臣家と徳川家の和睦は徳川家の優位のもとで成立したが、臣従関係までは成立しなかった。4月に交わされた慶長16年の三ヵ条誓詞では、秀頼は除外されているからである[149]。しかし豊臣対徳川の主従関係が逆転したことは天下に誇示されたので、諸大名が徳川幕府の統制下に心服させるという目的は達せられ[150]、親豊臣系の諸大名すら徳川幕府に全面的に恭順していく状況になった[135]。しかしその反面に却って、大坂討滅の口実を見失ってしまった[151]

大坂の役[編集]

方広寺の鐘銘事件から開戦へ[編集]

前述の京都方広寺の再建は火災によって頓挫していたが、慶長13年(1608年)、家康の勧めもあって秀頼は再び工事に着手し、材料も集めなおして、同15年(1610年)6月12日に起工、2年間かけて同17年(1612年)春に完成させた[122][138][152]。このとき秀吉が蓄えた大法馬金を鋳つぶして、その費用に充てたという[123]。西国、四国、北国の諸大名が兵糧米を秀頼に進上してその費用を補助したが[153]、他方で、淀殿が妹の秀忠夫人(崇源院)を介して江戸に助力を求めたにも関わらず、駿府の家康は秀忠が造営に関与することを許可しなかった[154]。『当代記』が「太閤の御貯の金銀、此時可払底と云々」と資金を使い果たしたとする[155]のを、桑田は「記述は少々大袈裟」[138]と書いているが、何れにしても、莫大な費用をかけた、大変に豪華な伽藍だったことは確かなようである。

同17年9月、造営奉行・片桐且元は金地院崇伝を介して大仏殿棟札式の相談を重ね、

慶長19年(1614年)3月、巨大な鐘を鋳るために下野天明[注釈 56]から鋳物師39人を集め、4月16日、1万9,000貫(71.25トン)の銅を溶かして10万6,250斤(63.75トン)の巨鐘を完成させた[156]。且元は、加藤清正と旧知である南禅寺の学僧・清韓に銘詞を撰ばせた。

4月




徳川方はこの事件が発生する前から合戦準備を始めていた。三月以来、イギリスから鉄砲や鉛を買っているからである。一方、大坂城にやってきたイギリス商人は購入を断られている。よってこのことから見れば、大坂冬の陣は徳川方からは準備も怠りない既定路線であり、きっかけさえあればとねらっていた合戦であったことがわかる。大仏殿の鐙銘問題はそのきっかけとして利用されたものなのであった[120]


江戸下向を拒否 、関東との交渉役片桐且元と淀殿侍女の大蔵卿局の家康の意図解釈の齟齬をきっかけとして大坂の陣が勃発。

冬の陣と和議[編集]

『当代記』の慶長19年10月28の条には「大坂自城中出たる者、二條候被召寄被相尋、彼者言上、秀頼の御袋着武具、番所改給、随之女性三四人着武呉云々」とある。つまり冬の陣中かその後の時期に、大坂城中では淀殿(=秀頼の御袋)が武具を着て3、4の武装した女房を従え、番所の武士たちに声を掛け、激励していたことがわかる。『当代記』は大坂の籠城衆は3万人余りであったとも記しているが、田端は、籠城衆の頂点にあって兵士たちを束ねていたのはむしろ淀殿の方であったのではなかろうか、としている[157]

『駿府記』にも同年12月15日条に、「(後藤)少三郎申云、彼使申様、城中悉受秀頼御母儀命」とあり、つまり当時大坂城の中では淀殿(=秀頼御 母儀)が悉く命令を下していたとされる[157]

こうした大坂の様相を見て、家康は徳川方からの使者も女性がよいと考えたのか、「阿茶局」を任命したのであろう。


期待した諸大名の加勢がない中で大坂城本丸への砲撃を受け、講和を指示する。

夏の陣[編集]

『大坂夏の陣図屏風(右隻)』

慶長20年(1615年)5月7日の大坂夏の陣では、秀頼が出馬を躊躇っている間に、大坂方は天王寺口・岡山口で敗北して、船場口の明石全登も策を棄てて市街戦に参加し、それぞれ戦いながら大坂城に向かって敗走した。

城の桜門に陣取っていた秀頼は、奮起して天王寺に向かおうとしたが、出城を待って放火する者がいるかもしれないという流言を聞いて、本丸に留まることにした[10]

ほどなく台所頭の大隅与右衛門が裏切り、台所に火を放ち、火焔は風に煽られて瞬く間に広がったが、徳川方はこれを合図に三の丸に侵入。大野修理屋敷も放火され、二の丸も陥落した[10]

落城と最期[編集]

本丸御殿に続く千畳敷では、郡主馬(旗奉行)らが秀頼の旗を護衛して最後まで戦っていたが、ついに力尽きて旗を突き立てて自害した。これに続いて真野頼包(豊後守)、中島氏種(式部少輔)ら七手組の面々が切腹した[158]。他方で、伊東長実(丹後守)は裏切りを露わにして屋敷に籠もって味方の大坂方に鉄砲を撃ちかけ、佐々孫介[注釈 57]も逆心して城(本丸)に火を放った。南口の戦いで重傷を負って退いてきた野々村雅春(伊予守)は炎上によって本丸に近づけず、二の丸の橋で自害した。堀田図書も本丸に行くのを諦めて屋敷に戻って妻子を殺し、加賀勢と戦い本丸陥落時に死んだが、討死とも自害ともいう[158]

天王寺口の突撃に参加して深手を負っていた渡辺内蔵介はこの時にその母・正栄尼に看取られて自害した。津川左近(親行)は馬印を預かる役目だったが、火の手の上がる混乱の中で、これを打ち棄ててしまった。打ち棄てられた千成瓢箪を伊藤武蔵守[注釈 58]なる人物が持ち帰って城に掲げ、喝采を浴びた。

大阪城公園にある秀頼・淀殿自害の地の石碑(供養墓)

秀頼は千姫や淀殿と共に天守閣の上に登って自決しようと言ったが、速水守之(甲斐守)の諫言で最後まで家名存続を謀ることになり、家康に助命を願う試みに望みをかけることにして、火の手を避けて蘆田曲輪の地下通路から(本丸の奥にある)山里丸の地下に入って潜伏することになった。


混乱の中で城を脱出した千姫は


淀殿と秀頼の母子もついに覚悟を決めて自刃して果てた。『明良洪範』によれば、淀殿は速水守之が介錯したという[160]


『駿府記』は殉死した者として、大野治長信濃守[注釈 59]、速水守之(守久)・速水出来丸※[注釈 60]、津川左近[注釈 61]竹田栄翁、堀対馬守[注釈 62]、武田左吉[注釈 63]、高橋半三郎[注釈 64]、高橋十三郎[注釈 64]、埴原八蔵[注釈 65]、埴原三十郎、寺尾庄右衛門、小室茂兵衛[注釈 62]、土肥庄五郎[注釈 64][注釈 66]、加藤弥平太[注釈 67]、森島長意[注釈 68]、片岡十右衛門[注釈 69]和期の方(わごのかた)、大蔵卿局(治長の母)、饗庭局[注釈 27]右京大夫[注釈 70]宮内卿局、お玉(阿玉局[注釈 71]、二位局[注釈 72]毛利勝永毛利勘解由[注釈 73]氏家道喜、中方将監[注釈 74]・中方半兵衛、真田大助の30名(淀殿と秀頼を含めて32名)を挙げて、1箇所で自害したとしている[161]。なお、大坂城の山里丸の近くにある「淀君並殉死者三十ニ名忠霊塔」では、これに毛利長門[注釈 62]と伊藤武蔵守[注釈 58]を加えた32名を義士としているようである。

養源院 (東山区三十三間堂廻り町)

淀殿の墓所は、京都市東山区養源院(浅井家菩提寺)にあり、戒名は大広院殿英岩(英巌)とされる。『翁草』にはこれ以外に淀光院大廬院花顔妙香という別の院号、戒名も記されている。また高野山奥の院の豊臣家霊廟には淀殿の供養塔もあり、大阪城公園内の生害地跡にある石碑(右の写真)も供養墓である。後述するが、この他にも民間伝承に基づく墓が大阪市内にある。

異説・落人伝説[編集]

淀殿や秀頼の最期を目撃した者の証言や記録などは存在せず、また落城跡で見つかった遺体の大半は黒焦げか腐敗かで損壊が激しく判別不能であったこともあり、そこから逃亡・生存したという落人伝説が生まれた。

島津氏を頼りに薩摩に落ち延びた話[162]が比較的有名であるが、これは秀頼・国松、幸村(信繁)らの脱出と同じ、当時から流れていた豊臣家存続の風説である。『鹿児島外史』によれば、淀殿は落城に先だって薩摩の伊集院半衛門(半兵衛)の案内で鹿児島に来て同地で亡くなり、祀られたという[163][164]。ただし同外史は秀頼を皇室の子孫だとも書いており、谷山市には「秀頼の墓」と称するものや各種の伝承がある。

他方で、上州に逃れたとする話は、豊臣家の存続とは関係なく、1人の女性として描かれている点が異色だ。落城の際、淀殿は秋元長朝の陣中に逃げ込んで匿われ、上州総社城まで輿で運ばれて、世を憚って「お艶」を名乗っていたが、長朝の求婚を断って利根川に身を投げで溺死したという伝説である。秋元家の菩提寺の元景寺 [注釈 75]には、「淀君の墓」と呼ばれる墓石があって、そこでの戒名は心窓院殿華月芳永大姉とされている[29][165]

また上毛史談会の調査によると、前橋市の近くに淀君神社と称して淀殿を祀った神社もあるというが、桑田忠親はこれも後述するような淀姫神社との混同ではないかとする[162]

人物[編集]

北政所との関係[編集]

佐々成政(落合芳幾作)黒百合を献上している図
  • 秀吉の正室である北政所と愛妾の淀殿が犬猿の間柄であったとする話は、『絵本太閤記』『慶長小説』『閨閤伝』などによるもので、それらはすべて江戸時代に創作されたエピソードであって、史実とは言い難い。例えば、佐々成政の失脚にまつわる黒百合献上の逸話などは非常に有名な話であるが、これは完全な虚構であると考えられる[166]。当時の武家社会に於いて現当主の生母は優遇されたが、近年の研究では、秀吉の閨房は上下の秩序は比較的に保たれていたことがわかっている[167]。北政所は女房衆や側室達を監督する立場で、世継ぎの養育、人質として聚楽第に住まわせた諸大名の妻らの対応も全て任されて、取り仕切っていた[168]。大坂城でも北の丸に住む北政所と、西の丸に住む淀殿(西の丸殿)との立場は序列は明らかであった。通説として北政所と淀殿と間に確執があったと言われるが、少なくとも表面上は極めて平静であり、争うようなことはなく[169]、両者間での確執を示すような史料は存在しない。田端泰子[170]跡部信[171]らによって近年、(北政所と淀殿に関する)人物像の見直しが提起されて、むしろ本人同士は豊臣家存続という共通の目的のもと助け合っていたと考えられるようになった[注釈 76]
  • 秀吉の最晩年の秀頼への手紙には、北政所を「まんかゝ」と、淀殿を「かゝさま」と呼ぶものがあり、秀頼も慶長5年頃に北政所を「まんかゝ様」とする直筆の手紙を残していて、桑田忠親は、北政所も秀頼を我が子同然に扱い、秀頼も北政所を敬慕する様子が窺えるとして、その生母である淀殿も、北政所に対して反感を持つようなことは無かったのだろうと書いている[172]

容姿について[編集]

伝淀君像(京都養源院/高野山持明院)
  • 秀吉の主な側室16人の中で一番の美貌は、従姉妹にあたる松の丸殿(京極竜子)であったと記された同時代の文献があるが、淀殿の容貌を美女だと記した同時代の記録は1つもない[173]。淀殿は、秀吉の側室となった4年後に疱瘡に罹り、以後は幾分あばた顔だった[173]
  • 淀殿が美人であると誤解されているのは、母の市が「天下一ノ美人ノ聞ヘ」[注釈 77]と戦国一の美女と謳われた美女であったからだが、桑田忠親は持明院所蔵の肖像画(右図)を見る限り淀殿は父親の浅井長政の面影を受け継いでいて父親似であって、美女とは思えないとしている[175]。ただし桑田は、典型的な美女ではないと言いながらも、「男ずきのする丸ぽちゃ美人であろう」ともしていて、絶世ではなかったと指摘しているに過ぎない[176]
  • 『大坂御陣覚書』に大坂の陣の際に淀殿が鎧をまとって城内を見回ったという記述があり、当時の鎧は30キロ前後の重量があるため、当時の女性としては大柄だったのではないかという推測がある。また息子の秀頼も『明良洪範』に身長は6尺5寸(約197センチ)とあり、『長沢聞書』には「世にな肥満」という記述があって大柄だったことで知られている。

不義の噂について[編集]

  • 淀殿と大野治長とは乳兄妹であるが、二人の密通が噂されていたという記録が残っている[注釈 78]。ただしこれは慶長4年の話で、秀吉の死後である[注釈 1]。また前述のように風説の類である。
  • 姜沆による『看羊録』では、秀吉の遺命によって家康が淀殿を娶ろうとしたが、治長の子を身ごもっていた淀殿が拒否した[177]。家康は治長を流刑にして殺したという事実とは異なる風説が流れていたという記録がある[注釈 79]
  • 秀頼は秀吉の実子ではないという者があり、占卜でそれを確かめようとした法師がいて、大野修理(治長)と密通して二児を産んだというものがあり、また秀吉の死後は歌舞伎役者の名古屋山三郎という美男を寵愛して不義を働いていたから大坂方は滅んだのだ言われていたと、『明良洪範』に書かれている[178]。ただしこれらは江戸時代の創られた稗史小説の類で[1]史実ではない

亡霊伝説[編集]

落城によって、淀殿と秀頼を始めとして数多くの将や女中衆に至るまで、恨みを呑んで自害した。秀頼とその側室との間にできた豊臣国松という8つの子は、河内国の枚方で捕らえられて、京都の六条河原で首を刎ねられ、さらに京都の阿弥陀ヶ峰に祀った豊国大明神の御霊屋まで破壊された[179]。このような目に遭えば、恨まないはずはないというので、亡霊伝説が生まれた[179]

  • 大阪城内には、「入らずの間」と称する部屋があって、そこには淀殿がこの世にあった姿のままでいつも座っている、という伝説(怪談)があった[179]
誤伝に基づく「史跡 淀殿之墓」(大阪市北区太融寺町太融寺
  • 牧村史陽の『大坂城物語』によれば、生害地である大坂城山里の曲輪から堀を隔てて東北にあたる鴫野(しぎの)の弁天島に、淀殿を祀った祠があり、大坂城落城の後始末を命じられた松平忠明が、淀殿の怨霊を慰めるために、片桐且元に指示して建立させたものだという伝説(民間伝承)があった[179][180]
    • ただしこれは誤伝であり、弁天島の祠は生国魂神社の末社の淀姫神社であって、淀姫とは海神の豊玉姫の異称(与止日女の別字)である[179]。『大阪府全志』は「淀姫は秀頼の生母浅井氏なり」[180]としているがこれは完全な間違い(「名称について」も参照)で、桑田忠親によれば、淀姫と淀殿を混同した後世の付会の説で、淀殿とは何の関係もない[179]
      鴫野の弁天島には、淀姫神社と共に、立派な九重の石塔(九輪塔)が建っていたが、維新後、日本陸軍営地(練兵場)にされたことから取り壊されることになり、明治10年1月に北野村戸長の西尾孫四郎という人が、神社と石塔を自分の敷地に移して祀りたいと願い出て許可を得、祠の下を掘ったところ古い骨壺が出てきた。これこそ淀殿の遺骨であろうと憶測し、それを石塔と共に西尾家に近くにあった太融寺大阪市北区)に収めた。このために今なお、太融寺境内の西北隅に、淀殿の墓と称する石塔(右の写真)が残されている[181]。ただし明治時代の発見者の憶測というだけで、歴史学・考古学的には何の証拠もないものである。
      ちなみに現在の太融寺にある脇の金属プレートに「法名を大虞院英岩と寺伝にいう」と書かれているが、その寺伝というのは東慶寺(孫・天秀尼の寺)の過去帳のことである。宇賀御魂祠に収められた位牌は秀吉と秀頼とがあり、もう1つ小さい「国泰祐松院殿霊位」とあるものが、秀吉の法名(国泰院俊山雲龍大居士)に似てることから、淀殿であろうと憶測された[180]が、この国泰祐松院殿も秀吉をさした法名であろう。3つの位牌の裏面に「花園比丘尼立之」とあるが、この尼僧がいつの誰なのかも不明である[180]

その他[編集]

  • 醍醐の花見の際に淀殿(西の丸殿)が詠んだとされる和歌が二首[注釈 80]残されている。ただしどれも代筆で、直筆の書状は残っていない。
あひをひの 松も桜も八千世へん 君かみゆきのけふをはしめに[183][184]
はなもまた 君のためにとさきいでゝ 世にならひなき 春にあふらし[185][184]
  • 末妹の督(江)が徳川秀忠に再嫁する際に前夫・羽柴秀勝との間にできていた完子を引き取って育てた事も知られる。後に完子を猶子として五摂家の九条忠栄に嫁がせるという政治的な婚姻に仕立て、その政治力を発揮している[127]
  • 『川上久国雑記』によると、大坂の陣直前に、徳川と豊臣の何れが勝つがと問われた細川忠興が、「秀頼は乳飲子なり、お袋(淀殿)専制なり」と答えたとされる。当時の秀頼はゆうに青年であり、豊臣家を淀殿が支配していたという認識があったことを伺わせる。
  • 輿入れ前に世話になっていた従兄の織田信雄は、秀吉の勘気に触れて改易され、京都の邸宅も火事で焼失して放浪することになったが、淀殿はこれを大坂城に招いて住まわせ、秀吉の赦免を得て御伽衆とさせた。

関連作品[編集]

小説
  • 塚原渋柿、『淀殿 - 豊太閤の愛嬖』第一編 第二編 第三編、隆文館、1908年。
  • 井上靖『淀どの日記』文芸春秋新社、1961年。 
  • 南条範夫『わが恋せし淀君』講談社、2007年1月(原著1958年6月)。 
  • 宮本昌孝『もしかして時代劇』早川書房(原著1988年12月)。ISBN 4150302839 
  • 『戦国姫 茶々の物語』(藤咲あゆな 2016年、集英社みらい文庫)
楽曲
映画
TVドラマ
舞台
漫画

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 史料によって確認できるのは、毛利家家臣内藤隆春が書状に秀吉の死後である慶長4年(1599年)に大野治長が密通のかどで成敗されそうになったが、五大老の宇喜多秀家によって身柄を保護されたという噂話を書いていたということだけで、他の話はかなり脚色された俗伝である[1]
  2. ^ a b 妹の江と豊臣秀勝(秀次弟)の間の娘で、姪にあたる。
  3. ^ a b c 末弟で出家僧。近江福田寺の住職。読みは「そうぎょくいん」で、首座は僧階の1つ。『翁草』では福田寺に入り、法名を慶安とする。
  4. ^ ただし、同時代の史料で淀殿を敢えて側室または愛妾などと記述するものは存在せず、秀吉没後、正室高台院と共に「両御台所」と記した史料(『佐竹古文書』一四五)も存在する[3]
  5. ^ 浅井家の菩提寺である徳勝寺には、三姉妹の内で淀殿の位牌のみがなく、結婚順から次女とする説もある。
  6. ^ a b 母の市が長政に嫁いだのが、前説の永禄6年ではなく永禄10年頃とされたため、市の連れ子で長政以前に嫁いだ時に産まれた子であるという異説もあった。しかし最近は結婚を永禄11年とみる説が有力で、時期的な問題は解消されており、かつ連れ子とする史料的根拠は見つかっていない。また市を信長の妹ではなく従妹とする史料もあるため、茶々は信長と市の娘とする説もある。また、淀殿の兄と言われる浅井万福丸が市の子であるかどうか明記した史料はないが、通説では三女二男とされている。ただしこれらの説はいずれも十分な史的考察に裏付けられている訳ではない。
  7. ^ 秀吉の別の側室で、親類でもある松丸殿の侍女(姥)となった。
  8. ^ 片桐為元の次男。諱は且昭。兄の大和竜田藩片桐為次が早世すると、嗣子がなく同藩は廃絶されたが、祖先の功績によって且昭は3,000石をあたえられ旗本寄合となった[8]
  9. ^ a b 寛政3年 (1791年)頃に成立。
  10. ^ 寛政9年(1797年)から享和2年(1802年)頃成立。
  11. ^ 初演は明治37年(1904年)。内容は前述の講談本の焼き直しである[10]
  12. ^ 一般への影響力が大きいNHK大河ドラマでも昭和62年(1987年)に放送された『独眼竜政宗』を最後に「淀君」という呼称は一切使われていない。平成28年(2016年)に放送された『真田丸』においては秀吉存命時には「茶々様」、秀吉死後は「御上様(おかみさま)」と呼称された。映画『GOEMON』では「浅井茶々」の呼称が使用された。
  13. ^ 桑田忠親の教え子である。
  14. ^ 寛文4年(1664年)に成立した『御当家紀年録』には、「長政女、号淀」(長政の女(むすめ)、淀と号す)との割注があり、呼び名が「淀」であったとの認識が示されている[27]
  15. ^ 坪内逍遥『桐一葉』でも配役では淀君とあるが、セリフの中には「淀様」とする部分がある。
  16. ^ 史料の天正18年の秀吉から女房(=女官の意味)「五さ」宛ての書状中の表記に「よとの物」とある[7]。ただしこれは目上である秀吉が使った称であり、他の人物ならば「淀の御方様」などとなる[7]
  17. ^ 史料での表記は「淀之女房」。
  18. ^ 秀吉の書状に「おかかさま」「おふくろさま」とある[34]
  19. ^ 正室が一人に限定されるようになるのは、藩主の正室と世継ぎが江戸詰めを命じられるようになった江戸時代以後。
  20. ^ 読みは3つ共に「だいこういん」。
  21. ^ 秀吉の母・大政所の法名が春岩(春巌)である。
  22. ^ 現在の滋賀県長浜市
  23. ^ 研究者。著書に『豊臣秀頼』など。
  24. ^ 有卦とは、誕生年を干支で表し、その星に応じて吉事が7年続くという吉運の年回りのこと。有卦の吉年は7年続き、次の5年は無卦の凶年が続く。
  25. ^ 江戸時代の『翁草』は、慶長20年(1615年)に大坂城落城で亡くなった際に49歳(享年48)だったとしている一方で、45、40、39歳の異説があることを記している[43]。49歳で亡くなったとすると永禄10年(1567年)生まれ[44]、45歳では元亀2年(1571年)生まれ、40歳では天正4年(1576年)生まれ、39歳では天正5年(1577年)生まれとなる。
  26. ^ 江については生没年がはっきりしているが、初については生没年がはっきりしない。享年に異説があり、64歳で没したとする説(生年は永禄13年)と、66歳で没したとする説(生年は永禄11年)もあり、後者の場合には姉になってしまう[39]。ただし一般的には前者つまり妹とされる。
  27. ^ a b 大叔母にあたる海津殿と、浅井明政の間に生まれた次女[46]
  28. ^ 滋賀県長浜市平塚町にある。
  29. ^ 昌庵尼は後年に姉妹を保護した恩賞に秀吉から知行を賜っている。
  30. ^ 信包の居城。
  31. ^ 現在の福井県福井市
  32. ^ 前掲・桑田『淀君』は『賤嶽合戦記』に基づくが、より史料価値の高い『渓心院文』にも同様の記述がある[56]
  33. ^ 現在残っている淀城の遺構は江戸時代に再建された淀城跡である。
  34. ^ 棄丸。漢字は「捨」とするものもある。この名前は棄て児は良く育つという迷信からきているとされる。
  35. ^ 織田信行(信勝)の嫡男で、明智光秀の女婿として本能寺の変後に討たれた津田信澄の居城。
  36. ^ 高次はそれ以前は近江高島郡にあった大溝城[注釈 35]主であった。
  37. ^ 京極局。大坂城では西の丸殿、後に伏見城ができてからは松の丸殿と呼ばれた。院号は寿芳院。
  38. ^ 『小瀬太閤記』は伏見城築城の動機を拾誕生と絡めているが、桑田によると築城に取り掛かったのは誕生前で関係ないとのこと[73]。田端も懐妊を知る前に秀吉が伏見城普請を進めていた事実を指摘している[70]
  39. ^ 秀次の聚楽第は、秀吉の命令で破却された。
  40. ^ 『陳善録』による。これは前田利家の御伽衆村井重頼が直接見聞きしたことを記したもので、かなり信頼性が高い史料である[83]
  41. ^ 田端泰子はこの事件は妾同士の対立というよりは、浅井家と京極家という対立であり、女性はいつまでも生家を背負っていたことを感得する出来事と分析している[82]
  42. ^ 後述するように、大津城の戦いの際には、淀殿は松の丸殿の命を救っているので、些細な喧嘩にすぎなかったようである。
  43. ^ 秀吉の妻妾の五番手である加賀殿は前田利家の側室の娘である。
  44. ^ 閥閲録』『板坂卜斎覚書』『慶聞記』など[89]。江戸時代初期の書物であるが、どれも徳川方からみた記述でもある。
  45. ^ 江戸時代後期の国学者小寺玉晁の随筆である『翁物語』は、徳川方に寝返った片桐且元を忠臣とした風潮を批判し、主君に殉じた大野治長を奸臣とするのに異議をを唱えた[90]
  46. ^ 土方雄久は前田利家の正室芳春院の従弟にあたる[91]
  47. ^ 忠興の長男の細川忠隆の妻・春香院は、前田利家と芳春院の間の娘である。
  48. ^ 7月27日付の榊原康政から秋田実季に宛てた書状によると、三成と吉継が謀反を企てているので、事態を沈静化させるために急いで家康に上洛をするように淀殿と三奉行(増田長盛長束正家前田玄以)から書状を送っていることがわかる[95]
  49. ^ 秀元は、関ヶ原敗戦後の大坂城の無血開城にも反対し、秀頼を擁して籠城するように主張した[103]
  50. ^ 下野国結城郡に幽閉されていたが、関原役の前に釈放され、会津遠征に参加し、そのまま東軍に従軍した。
  51. ^ 盃を渡すということは、渡した側が上位で、受け取った側が下位を意味するため。
  52. ^ この讃岐国だけでなく大和国の法隆寺内の紛争でも豊臣氏の裁量で処分が行われており、これらは近隣国であるものの、豊臣氏の政治的支配が関ヶ原以後も河内・和泉・摂津国を越えて超えて及んでいた可能性も指摘される[112]
  53. ^ 中央の政権からの封建的な分権を意味し、領内統治の独立・分権であったが、領国内では藩主を中心とする中央集権化を進めるという二重構造となっていた。
  54. ^ 『当代記』によると、上方の大名衆は慶長8年の元日はまず秀頼に出仕し、夜中に移動して2日に伏見の家康に出仕していた[119]
  55. ^ 陣中で卜筮を行ったり儀式を行ったりした呪術師、軍師のこと。
  56. ^ 当時、鋳物業が盛んな二大地の一つ、下野国安蘇郡天明。同地で鋳られた釜を「天明釜」といった。
  57. ^ 御鷹衆の一人[159]
  58. ^ a b 秀吉の鉄砲組頭だった伊藤長弘の次男という。ただし『大坂御陣覚書』では広島浪人とされている。
  59. ^ 諱は長徳または治徳。冬の陣の際に織田長政(織田有楽斎の子)と共に人質とされた。
  60. ^ 『駿府記』では「でき」とだけ書かれている。講談『真田三代記』に登場する人物でもあるが、モデルに史実の人物がいるかどうかは不詳。
  61. ^ 前述のように本丸で討死にとも云うが、『駿府記』には殉死者の列に記されている。
  62. ^ a b c 人物不詳。
  63. ^ 同名の織田信長家臣の子か孫であろう。
  64. ^ a b c 『武辺咄聞書』に登場する秀頼の小姓衆。
  65. ^ 秀吉の馬廻・埴原次郎右衛門の子。
  66. ^ 篠原甚五の甥。
  67. ^ 真田大助と刺し違えて自害したとされる人物。
  68. ^ 秀吉の金切裂指物使番の松井藤助(藤介)の兄。
  69. ^ 秀吉の家臣・片岡長雲院の子。
  70. ^ 秀頼の乳母の1人。
  71. ^ 湯川孫左衛門の姉。
  72. ^ 渡辺筑後守勝の母、渡辺与右衛門重の室。
  73. ^ 勝永(吉政)の実弟。元は毛利吉近といったが、土佐配流の際に山内一豊に仕えて山内姓を授かった。
  74. ^ 浅井長房の子。
  75. ^ 群馬県前橋市総社町。
  76. ^ ただし、取り巻きや近親者、縁者となると話は別である。北政所と親しい子飼武将ら木下氏・杉原氏・浅野氏といった親戚筋と、淀殿の縁者の浅井氏旧臣や石田三成を筆頭とする近江衆などは、二つの派閥(武断派文治派)を作って、対立を深めていった。
  77. ^ 『祖父物語』による[174]
  78. ^ 『萩藩閥閲録』九九の二[88]
  79. ^ 関ヶ原の前に治長は家康暗殺謀議の嫌疑で一時、関東に流されたが、殺されてはおらず、大坂城に戻った。
  80. ^ 以前の三首目としてここに掲示されていた和歌は、高柳光寿が無名の和歌とするもので、桑田は北政所の作ではないかとする[182]
    とてもないて 眺めにあかし深雪山 帰るさ惜しき 花の面影

出典[編集]

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参考文献[編集]

論文

関連項目[編集]