南部氏歴史年表
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根城南部氏~三戸南部氏移行への歴史年表では、南部氏及びその支配した領域、盛岡藩及び八戸藩等に関する歴史事件等を年代順に並べて表記する。
鎌倉時代~戦国時代
[編集]南部氏が北奥羽で本格的な活動を開始するのは、南北朝争乱の頃からである。
元弘3年(1333年)5月に鎌倉幕府が滅亡して、後醍醐天皇による建武の新政が始まり、鎮守府将軍に任じられた足利尊氏には北条泰家の遺領である外が浜、糠部郡を与えた。尊氏が離反すると鎮守府将軍職は北畠顕家に移り、陸奧守として義良親王を奉じて多賀城の国府に赴任し、随行した根城南部氏第3代の南部師行が北奥各郡の検断・奉行として任じられた。
1189年 | 文治 5年 | 奥州平泉攻撃 | ||
1215年 | 建保 3年 | 11月 | 21日 | 南部光行、鎌倉で死去。 |
1322年 | 元亨 2年 | 安藤氏の乱 | ||
1324年 | 4年 | 正中の変 | ||
1333年 | 正慶 3年 | 5月 | 南部政長、新田義貞の鎌倉攻めに加わり、その功により、甲斐国倉見山、陸奥国糠部郡七戸郷を与えられる。その後陸奥国に下向する。 | |
後醍醐天皇、北条氏滅亡を受けて京都に帰り、北畠顕家を陸奧守に任じる。 | ||||
1334年 | 建武元年 | 建武の新政 | ||
南部師行、糠部郡の郡奉行と郡検断を兼ねる国代として任じられる。 | ||||
大光寺合戦 | ||||
1335年 | 2年 | 3月 | 南部師行、北条得宗領の外ヶ浜内摩部郷(現青森市)のうち、泉田、潮方(後潟)、中沢を与えられる[1]。 | |
7月 | 北条時行が兵を挙げ、鎌倉に入る。(中先代の乱) | |||
10月 | 足利尊氏が鎌倉で反旗を翻すと、曾我氏、安藤家季以下安藤氏一族も呼応[1]。 | |||
1336年 | 建武 3年 | (延元元年) | 足利尊氏の御教書を受けた安藤家季が合戦奉行となる。津軽曾我氏などがそれに従い、藤崎城、平内城の南朝方の軍勢と戦う[1]。 | |
1338年 | 暦応元年 | ( 3年) | 5月 | 北畠顕家・南部師行ら、和泉国石津で討死。(石津の戦い) |
1339年 | 2年 | ( 4年) | 8月 | 後醍醐天皇、吉野において崩御。義良親王が帝位を継がれる。 |
1340年 | 3年 | (興国元年) | 12月 | 南部政長、根城南部氏第5代当主となる[2]。 |
1341年 | 4年 | ( 2年) | 春 | 栗谷川の合戦、宮方勢、岩手・斯波両郡を制圧。 |
6月 | 津軽の曾我氏と糠部郡の南部氏の間で抗戦が始まる。 | |||
1343年 | 康永 2年 | ( 4年) | 陸奧国司北畠顕信、滴石(雫石)に逃げる。 | |
1352年 | 文和元年 | (正平 7年) | 南部信長、多賀府中合戦に出陣中に北朝方に転じる。 | |
1373年 | 応安 6年 | (文中 2年) | 南部守行、一族を伴って糠部に下る。(三戸南部の糠部定着) | |
1386年 | 至徳 3年 | ( 3年) | 11月 | 北畠氏、「奥州新国司」を自称して浪岡に入部。[3] |
1392年 | 明徳 3年 | (元中 9年) | 閏10月 | 南北朝合一。 |
1393年 | 4年 | 根城南部氏第8代当主の南部政光、甲斐の本領を室町幕府に返上、根城に移住する。 | ||
1407年 | 応永14年 | 4月 | 根城南部氏第10代当主の南部光経、修理亮に推挙。 | |
18年 | 南部守行、八戸南部氏と共同で仙北刈和野で安東鹿季と合戦、領地を確保。(秋田合戦) | |||
1417年 | 24年 | 北畠氏の仲介により安東領と南部領の領境を定める[4]。 | ||
1418年 | 25年 | 8月 | 南部氏、上洛。馬100疋、金1000両を将軍に献上。 | |
1428年 | 正長元年 | 十三湊、南部勢に掌握される[4]。 | ||
1432年 | 永享 4年 | 10月 | 南部義政、藤崎城を攻める。敗れた安藤盛季・康季、蝦夷地に敗走、幕府が調停する。 | |
1435年 | 7年 | 和賀惣領家と須々孫氏の内訌(和賀・稗貫の動乱) | ||
1437年 | 9年 | 関東地方で発生した永享の乱の影響により、奥州においても葛西氏と大崎氏が合戦を始める(永享・嘉吉の乱) | ||
1440年 | 12年 | 結城合戦 | ||
1442年 | 宝徳 2年 | 安藤盛季・康季、南部義政のため十三湊を追われる。翌年12月、小泊から蝦夷地松前に逃れる。 | ||
1451年 | 嘉吉 3年 | 蠣崎蔵人信純、錦帯城を築く[4]。 | ||
1452年 | 享徳元年 | 武田信広、田名部・蠣崎の知行を許され、蠣崎氏と名乗る[5]。 | ||
1453年 | 2年 | 津軽安東氏第9代義季が、再び南部軍と戦い討死。その養子の第10代政季が南部氏の捕虜となり、下北に配流。のちに再び蝦夷地に逃避[4]。 | ||
1455年 | 3年 | 享徳の乱 | ||
1456年 | 康正 2年 | 4月 | 糠部南部義政、秋田に出陣、湊安東氏と交戦、南部方敗退[2]。(秋田高寺合戦) | |
1457年 | 3年 | 2月 | 陸奧の田名部において蠣崎蔵人の兵乱起る[2]。 | |
2月 | 根城南部氏南部河内守政経、兵船をもって田名部に進攻[2]。 | |||
4月 | 田名部一帯が南部政経により制圧され、蠣崎蔵人、蝦夷地に逃れる[2]。 | |||
4月 | 南部政経、軍功により田名部全土を所領に加えられる[2]。 | |||
1467年 | 応仁元年 | 1月 | 京都に攪乱起る。(応仁の乱) | |
2月に | (三戸)南部政盛は斯波政直の軍触によって、葛西氏秋田氏等と共に、信夫郡に征上、伊達・蘆名氏等と合戦したが兵糧が続かずに帰陣。 | |||
1468年 | 2年 | 南部家信、仙北支配を断念し三戸に撤退。 | ||
1477年 | 文明 9年 | 11月 | 応仁以来の兵乱略治まる。 | |
1483年 | 15年 | 南部彦四郎の乱(『南部史要』) | ||
1485年 | 17年 | 8月 | 南部政盛、葛西領気仙郡有住郷に侵入し敗績した。 | |
1491年 | 延徳 3年 | 久慈南部光信を津軽西浜の鼻和郡の種里城におく。 | ||
1498年 | 明応 7年 | 南部弾正康時が津軽外ヶ浜の堤浦(青森市)に入部[6]。 | ||
1502年 | 文亀 2年 | 久慈光信、種里から大浦に進出し、大浦氏と名乗る。 | ||
1521年 | 大永元年 | 6月 | 志和郡郡山にて三戸南部氏と和賀氏の合戦。 | |
1533年 | 天文 2年 | 南部安信の弟高信、津軽で起きた反乱を鎮圧。津軽郡代に任命。 | ||
1534年 | 3年 | 6月 | 大崎領内に内乱が惹起。大崎義直の族新田頼遠が主家に叛く。(大崎内乱) | |
8月 | 三戸南部氏が北上地方に南侵し、柏山氏と合戦、敗退する[7]。 | |||
1536年 | 5年 | 6月 | 大崎再乱。陸奥国守護職伊達稙宗は江刺左衛門督に対し大崎領袋中に出兵するよう申し送る。 | |
10月 | 伊達稙宗の子・小僧丸が大崎高兼の娘を娶る形で養子として送り込まれ、大崎氏は伊達氏に従属したく。 | |||
1539年 | 8年 | 6月 | 家臣赤沼備中の放火により、本三戸城(聖寿寺館)が焼失。 | |
八戸義継、早世のため弟次郎(治義)が家を継ぐ。(八戸家内訌) | ||||
7月 | 南部晴政、上洛し将軍足利義晴より偏諱を拝領。 | |||
1540年 | 9年 | 南部氏、雫石戸沢氏を攻めて、岩手郡より出羽仙北郡角館に走らせる。 | ||
1541年 | 10年 | 南部晴政、三戸南部家第24代当主となる。 | ||
1555年 | 弘治 元年 | 浪岡中将具永が死去。 | ||
1562年 | 永禄 5年 | 4月 | 浪岡具運、所領をめぐり叔父の川原御所具信と対立から川原御所の乱。 | |
1565年 | 8年 | 7月 | 鹿角郡及び比内郡においてに、南部氏と秋田安東氏との間で衝突。(鹿角合戦) | |
1569年 | 10年 | 正月 | 新田左馬助行政が卒去し、八戸政栄が出向いて会葬している留守を狙い、櫛引氏が八戸根城城を襲撃。 | |
1568年 | 11年 | 正月 | 安東愛季、鹿角郡に侵攻。長牛館を攻める。 | |
3月 | 南部信直、晴信の陣代として鹿角出陣。 | |||
1569年 | 12年 | 南部晴政、鹿角を奪回。 | ||
1571年 | 元亀 2年 | 2月 | 大浦為信、石川城攻略。石川高信、自害。 | |
8月 | 八戸政栄、櫛引領に侵入。櫛引方は大敗。 | |||
1572年 | 3年 | 8月 | 田子城主南部左衛門尉高信、津軽三郡を平定。 |
安土桃山時代
[編集]三戸(盛岡)南部家文書には中世三戸南部家の家伝伝書は伝えられておらず、信直以後の文書がその総てである。本来、盛岡南部家には膨大な史料が伝えられていたと考えられていたが、確認されているのは盛岡市中央図書館に所蔵されているもののみであり、1539年(天文 8年)本三戸城の炎上のさいに、類焼、多くを失ったとされている[8]。
1573年 | 天正元年 | 春 | 三戸南部氏、厨川平野より南方に進出し、和賀氏と交戦。 | ||
1575年 | 3年 | 1月 | 大浦為信、大光寺城城攻略。 | ||
1578年 | 6年 | 7月 | 大浦為信、浪岡城攻略。浪岡御所北畠顕村は自害して浪岡氏、滅亡。 | ||
1581年 | 9年 | 6月 | 南部方の津軽郡代、石川城主南部高信が卒去。 | ||
一戸城主一戸兵部大輔政連、子息一戸出羽と共に一戸信州に惨殺される。 | |||||
1582年 | 10年 | 1月 | 南部晴政・晴継父子、相次いで死去。田子信直、三戸南部家第26代当主となる。 | ||
6月 | 2日 | 本能寺の変 | |||
7月 | 九戸政実、和賀郡侵攻。 | ||||
1583年 | 11年 | 3月 | 秋田愛季、庄内平野の酒田に侵入後、比内に侵入して浅利氏を倒す。 | ||
南部勢、志和郡東武、大萱生城にて合戦。 | |||||
1585年 | 13年 | 3月 | 大浦為信、外浜油川城を攻略。油川城主奥瀬膳九郎、田名部ヘ逃れる。 | ||
5月 | 大浦為信、田舎館城を攻略。 | ||||
1586年 | 14年 | 春 | 南部信直、加賀の前田利家に使者を遣わす。 | ||
高水寺斯波氏の娘婿高田吉兵衛康実、斯波家を出奔。南部信直に出仕し、中野修理亮康実と改称。 | |||||
9月 | 南部信直、雫石斯波氏を攻撃し岩手郡を手に入れる。 | ||||
1587年 | 15年 | 2月 | 南部信直、北信愛を加賀の前田利家に派遣。 | ||
1588年 | 16年 | 6月 | 大浦為信、飯詰高楯城攻略。津軽一帯と外ヶ浜ならび糠部郡の一部を手中に収める。 | ||
7月 | 南部信直、志和郡に侵入し高水寺城を落とす。斯波氏滅亡。 | ||||
1589年 | 17年 | 南部信直、秋田氏の同族争い(湊騒動)に乗じて北信愛を総指揮に比内に侵入占拠。 | |||
1590年 | 18年 | 3月 | 南部信直、小田原参陣、豊臣秀吉に謁見。 | ||
7月 | 27日 | 南部信直、宇都宮で秀吉より南部領の内7ヶ郡を安堵される。奥州仕置により、葛西・大崎領没収。 | |||
10月 | 葛西・大崎一揆、和賀・稗貫一揆がおこる。 | ||||
1591年 | 19年 | 3月 | 九戸政実の乱(九戸一揆)。 | ||
9月 | 九戸政実の乱鎮圧のため奥州再仕置軍下向。九戸城落城、九戸政実斬首。 | ||||
1592年 | 20年 | 南部氏、領内諸城破却。(12城存置36城破却) | |||
1597年 | 慶長 2年 | 3月 | 不来方(のち盛岡と改称)に築城を開始。 | ||
1599年 | 4年 | 10月 | 5日 | 南部信直、二戸郡福岡城で死去。 | |
12月 | 南部利直、三戸南部家第27代当主、盛岡藩初代藩主となる。 |
江戸時代
[編集]1600年 | 慶長 5年 | 7月 | 徳川家康の命により南部利直、最上に出陣。 | ||
9月 | 関ヶ原の戦い。和賀忠親、利直の留守中に和賀郡で一揆を起こす(岩崎一揆)。 | ||||
1601年 | 6年 | 4月 | 南部利直、岩崎一揆を平定。 | ||
1603年 | 8年 | 2月 | 12日 | 徳川家康、征夷大将軍宣下。 | |
1614年 | 19年 | 11月 | 大坂冬の陣。 | ||
1615年 | 20年 | 4-5月 | 大坂夏の陣。 | ||
1617年 | 元和 3年 | 3月 | 南部利直、八戸氏(根城南部氏)から下北の支配権を接収。 | ||
1627年 | 寛永 4年 | 3月 | 八戸直義(直栄)を八戸根城から遠野横田城へ陸奥国代として転封させて、遠野南部氏となる。根城は廃城となった。 | ||
南部利直、八戸城築城。 | |||||
1632年 | 9年 | 南部重直、第2代藩主となる。 | |||
1633年 | 10年 | 南部重直、盛岡城を居城と定める。 | |||
1634年 | 11年 | 8月 | 糠部郡が北、三戸、二戸、九戸の4ヶ郡に分割されて、徳川家光により、領内10郡10万石の領知判物拝領。 | ||
1643年 | 寛永20年 | 6月 | 閉伊郡山田浦にオランダ船来航。(ブレスケンス号事件) | ||
1664年 | 寛文 4年 | 9月 | 南部重直が、嗣子を定めず江戸で死去。 | ||
12月 | 幕府、重直の弟七戸重信に盛岡8万石(3代藩主)、中里数馬に八戸2万石を分割相続させ、八戸藩分立。 | ||||
1668年 | 8年 | 8月 | 八戸領 | 南部直政、八戸藩第2代藩主となる。 | |
1669年 | 9年 | 9月 | 盛岡領 | シャクシャインの乱に対し、野辺地・田名部を警備。 | |
1683年 | 天和 3年 | 5月 | 盛岡領 | 南部重信、幕府に届け出て高直しを願い出、10万石に復した。 | |
1692年 | 元禄 5年 | 6月 | 盛岡領 | 南部行信、盛岡藩第4代藩主となる。 | |
1694年 | 7年 | 南部行信は弟の政信に(麹町候)5,000石、同じく勝信に(三田候)3,000石を分知して、それぞれを旗本として出仕。 | |||
1699年 | 12年 | 5月 | 八戸領 | 南部通信、八戸藩第3代藩主となる。 | |
1702年 | 15年 | 盛岡領 | 南部信恩、盛岡藩第5代藩主となる。 | ||
12月 | 24日 | 赤穂事件。 | |||
1705年 | 宝永 4年 | 盛岡領 | 南部利幹、盛岡藩第6代藩主となる。 | ||
1716年 | 享保元年 | 10月 | 八戸領 | 南部広信、八戸藩第4代藩主となる。 | |
1725年 | 10年 | 盛岡領 | 南部利視、盛岡藩第7代藩主となる。 | ||
1741年 | 寛保元年 | 12月 | 八戸領 | 南部信興、八戸藩第5代藩主となる。 | |
1749年 | 寛延 2年 | 八戸領 | 猪・鹿の異常繁殖による猪飢饉。 | ||
1752年 | 宝暦 2年 | 盛岡領 | 南部利雄、盛岡藩第8代藩主となる。 | ||
1755年 | 宝暦 5年 | 12月 | 旗本 南部利正、盛岡藩主南部利雄の養子となり、それにともない三田候3000石は廃家。 | ||
1765年 | 明和 2年 | 1月 | 盛岡領 | 尾去沢銅山を藩営化。 | |
5月 | 八戸領 | 南部信依、八戸藩第6代藩主となる。 | |||
1774年 | 安永 3年 | 宝暦の大飢饉。 | |||
1780年 | 9年 | 2月 | 盛岡領 | 南部利正、盛岡藩第9代藩主となる。 | |
1781年 | 天明元年 | 2月 | 八戸領 | 南部信房、八戸藩第7代藩主となる。 | |
1783年 | 3年 | 天明の大飢饉。 | |||
1784年 | 4年 | 盛岡領 | 南部利敬、盛岡藩第10代藩主となる。 | ||
1793年 | 寛政 5年 | 2月 | ラクスマン来航事件のロシア遣日使節との幕吏(宣論使)交渉の警護の幕命、盛岡・弘前両藩と共に松前で警護。 | ||
1795年 | 7年 | 11月 | 盛岡領 | 和賀・稗貫地方で大百姓一揆おこる。 | |
12月 | 八戸領 | 久慈で百姓一揆おこる。 | |||
1796年 | 8年 | 八戸領 | 南部信真、八戸藩第8代藩主となる。 | ||
1797年 | 9年 | 10月 | 盛岡藩に松前警備の命が下る。 | ||
1799年 | 11年 | 1月 | 東蝦夷地収公(前期蝦夷地幕領期)にともない、幕府、盛岡・弘前両藩に箱舘守備を命ずる。 | ||
1807年 | 文化 4年 | 4月 | エトロフ島に20数名のロシア人が発砲しながら上陸。応戦した盛岡藩士大村治五平は、負傷してロシア人に捕えられる。(文化露寇) | ||
1808年 | 5年 | 12月 | 盛岡領 | 南部利敬、蝦夷地警備の功により、幕府によって領地加増を伴わない20万石への高直しが行われる。また、弘前藩も7万石から10万石へ石高を改める。 | |
1812年 | 9年 | 盛岡領 | 武家屋敷地を「小路」、町人地を「町」と表記。 | ||
盛岡領 | 南部藩を盛岡藩に改称。 | ||||
1817年 | 14年 | 七戸藩 | 盛岡藩からの分知旗本家(麹町候)当主・南部信鄰に新たに6,000石を支給し、七戸藩(盛岡新田藩)を立藩する。 | ||
1820年 | 文政 3年 | 9月 | 盛岡領 | 南部利用、盛岡藩第11代藩主となる。 | |
12月 | 七戸藩 | 南部信鄰、盛岡新田藩初代藩主となる。 | |||
1821年 | 4年 | 4月 | 23日 | 相馬大作事件。 | |
12月 | 幕府、蝦夷地を松前藩に返還、盛岡・弘前藩等へ蝦夷地警備廃止。 | ||||
1822年 | 5年 | 1月 | 七戸藩 | 南部信誉、七戸藩第2代藩主となる。 | |
1825年 | 8年 | 9月 | 盛岡領 | 南部利済、盛岡藩第12代藩主となる。 | |
1829年 | 12年 | 10月 | 八戸領 | 藩校文武講習所を新築落成。 | |
1832年 | 天保 3年 | 4月 | 天保の飢饉が始まる。 | ||
1834年 | 5年 | 1月 | 八戸領 | 久慈の惣百姓一揆(稗三合一揆)。翌月、野村武一失脚。 | |
1836年 | 7年 | 盛岡領 | 領内各地で百姓一揆おこる。(盛岡南方一揆) | ||
1838年 | 9年 | 八戸領 | 南部信真、城主格となる。 | ||
1842年 | 13年 | 八戸領 | 南部信順、八戸藩第9代藩主となる。 | ||
1847年 | 弘化 4年 | 11月 | 盛岡領 | 三閉伊一揆おこる。 | |
1848年 | 嘉永元年 | 6月 | 盛岡領 | 南部利義、盛岡藩第13代藩主となる。 | |
1849年 | 2年 | 9月 | 盛岡領 | 南部利義、父利済の強訴により隠居。 | |
10月 | 盛岡領 | 南部利剛、盛岡藩第14代藩主となる。 | |||
1853年 | 嘉永 6年 | 6月 | 盛岡領 | 嘉永の三閉伊一揆おこる。 | |
1854年 | 安政元年 | 3月 | 3日 | 日米和親条約調印。 | |
6月 | 幕府、松前藩より箱舘および周辺5-6里四方を上知(後期蝦夷地幕領期)、箱館奉行をおき、盛岡・弘前両藩等に蝦夷地警護を命ずる。 | ||||
1855年 | 2年 | 盛岡領 | 箱館開港によって幕府に、箱館山岬と恵山岬から幌別(登別市)までの沿岸警備を命じられる。 | ||
8月 | 盛岡領 | 新渡戸傳、三本木新田の御用掛となる。 | |||
1856年 | 3年 | 盛岡領 | 蝦夷地警護のため、砂原陣屋、モロラン出張陣屋を構築。 | ||
1858年 | 5年 | 七戸藩 | 南部信誉、城主格となる。 | ||
1859年 | 6年 | 6月 | 幕府、蝦夷地を東北諸藩に分与、警備・開拓を行わせる。各藩の負担に配慮して警備地の一部の領有を認める。 | ||
1860年 | 7年 | 3月 | 3日 | 桜田門外の変。 | |
1862年 | 文久 2年 | 七戸藩 | 南部信民、七戸藩第3代藩主となる。 | ||
1867年 | 慶応 3年 | 10月 | 14日 | 大政奉還。 | |
12月 | 9日 | 王政復古の大号令。 |
明治以降
[編集]1868年 | 慶応 4年 | 1月 | 戊辰戦争。 | ||
5月 | 奥羽越列藩同盟成立。 | ||||
7- | 9月 | 秋田戦争。 | |||
8月 | 箱館戦争。 | ||||
1868年 | 明治元年 | 9月 | 8日 | 明治元年と改元。 | |
1868年 | 9月 | 20日 | 盛岡藩降伏。 | ||
9月 | 23日 | 野辺地戦争。 | |||
10月 | 総督府、東北平定宣言。 | ||||
12月 | 7日 | 盛岡領 | 南部利剛、隠居差控を命じられ、盛岡藩20万石を幕府直轄地として没収。 | ||
17日 | 盛岡領 | 南部利恭、家名相続を許される。 | |||
24日 | 南部利恭、白石13万石(宮城県)に転封。白石藩が発足 | ||||
盛岡領 | 弘前藩主津軽承昭、旧南部氏領域のうち、北郡、三戸郡、二戸郡の取締りを命じられる。 | ||||
1869年 | 2年 | 1月 | 七戸藩 | 南部信方、七戸藩第4代藩主となる。 | |
2月 | 9日 | 北郡、三戸郡、二戸郡の津軽氏の取締りに対し住民による反対運動がおきたため、下野黒羽藩(栃木県那須)大関美作守の支配とした。 | |||
4月 | 26日 | 黒羽藩、三戸県を設置。 | |||
5月 | 五稜郭の旧幕府軍降伏、箱館戦争終結。 | ||||
6月 | 17日 | 南部利恭、版籍奉還を許され、白石藩知事に任命。 | |||
22日 | 版籍奉還、南部信順、八戸藩知事に任命。 | ||||
23日 | 楢山佐渡、盛岡・報恩寺において刎首。 | ||||
24日 | 南部信方、七戸藩知事に任命。 | ||||
8月 | 7日 | 南部利恭、旧領盛岡に復帰。 | |||
10日 | 南部利恭、盛岡藩知事。 | ||||
11月 | 松平容大(会津藩主)、陸奧国3万石(旧南部領の北郡、三戸郡、二戸郡金田一以北)に移封、三戸県は解体され、斗南藩成立。 | ||||
1870年 | 3年 | 5月 | 14日 | 南部利恭、県制施行を建白し、盛岡藩知事の辞任を請う。 | |
15日 | 松平容大、斗南藩知事に任命。 | ||||
7月 | 盛岡藩を廃し、盛岡県を置く(廃藩置県)。 | ||||
1871年 | 4年 | 2月 | 斗南藩、藩庁を五戸から田名部に移す。 | ||
7月 | 14日 | 廃藩置県により一関県(岩手県)、弘前、黒石、斗南、七戸、八戸、館(北海道の一部)県(青森県)成立。 | |||
9月 | 5日 | 黒石、斗南、七戸、八戸、館の5県、弘前に合併。 | |||
23日 | 弘前県を青森県に改称し、県庁は弘前から青森に移す。 | ||||
11月 | 2日 | 盛岡・一関・胆沢・江刺の四県を廃し、盛岡県と一関県を置く。 | |||
1872年 | 5年 | 1月 | 8日 | 盛岡県を岩手県に改称。 |
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 菊池悟郎『南部史要』菊池悟郎、1910年8月28日。
- 青森県史編さん中世部会『青森県史 資料編 中世 1 南部氏関係資料』青森県、2004年3月31日。
- 青森県史編さん中世部会『青森県史 資料編 中世 2 安藤氏・津軽氏関係資料』青森県、2005年3月31日。
- 青森県史編さん近世部会『青森県史 資料編 近世篇 2 津軽1 前期津軽領』青森県、2002年3月31日。
- 青森県史編さん近世部会『青森県史 資料編 近世篇 3 津軽2 後期津軽領』青森県、2006年3月31日。
- 青森県史編さん近世部会『青森県史 資料編 近世篇 4 南部1 盛岡藩』青森県、2003年3月3日。
- 青森県史編さん近世部会『青森県史 資料編 近世篇 5 南部2 八戸藩』青森県、2011年3月31日。
- 青森県史編さん近現代部会『青森県史 資料編 近現代 2 近代成立期』青森県、2000年3月31日。
- 青森県史編さん民俗部会『青森県史 民俗編 資料 南部』青森県、2001年3月31日。
- 青森県史編さん民俗部会『青森県史 民俗編 資料 下北』青森県、2007年3月31日。
- 『岩手県史 第2巻 中世篇 上』岩手県、1961年3月25日。
- 『岩手県史 第3巻 中世篇 下』岩手県、1961年10月20日。
- 『岩手県史 第5巻 近世篇 2』岩手県、1963年1月30日。
- 『岩手県史 第9巻 近代篇 4 岩手県篇(その2)』岩手県、1964年3月30日。
- 『岩手県史 第10巻 近代篇 5 岩手県篇(その3)』岩手県、1965年3月30日。
- 『岩手県史 第12巻 年表』岩手県、1966年11月1日。
- 『秋田県史 第1巻 古代・中世編』秋田県、1977年4月30日。
- むつ市史編さん委員会『むつ市史 近世 編』青森県むつ市、1988年3月31日。
- むつ市史編さん委員会『むつ市史 年表 編』青森県むつ市、1988年2月20日。
- 工藤睦男『大畑町史』青森県下北郡大畑町(現むつ市)、1992年2月1日。
- 川内町史編さん委員会『川内町史 原始・古代 中世 近世 編』青森県下北郡川内町(現むつ市)、2005年3月13日。
- 『五所川原市史 通史編Ⅰ』青森県五所川原市、1998年3月31日。
- 『矢巾町文化財報告書第31集 久慈文書』岩手県紫波郡矢巾町教育委員会、2003年2月28日。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 2 青森県』角川書店、1985年12月1日。ISBN 4-04-001020-5。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 3 岩手県』角川書店、1985年3月8日。ISBN 4-04-001030-2。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 5 秋田県』角川書店、1980年3月8日。ISBN 4-04-001050-7。
- (有)平凡社地方資料センター『日本歴史地名大系 第2巻 青森県の地名』平凡社、1982年7月10日。ISBN 4-582-49002-6。
- (有)平凡社地方資料センター『日本歴史地名大系 第3巻 岩手県の地名』平凡社、1990年7月13日。ISBN 4-582-91022-X。
- (有)平凡社地方資料センター『日本歴史地名大系 第5巻 秋田県の地名』平凡社、1980年6月6日。ISBN 4-582-49005-0。
- 児玉幸多、坪井清足『日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。
- 「角川日本姓氏歴史人物大辞典」編纂委員会『角川日本姓氏歴史人物大辞典 第3巻 「岩手県姓氏歴史人物大辞典」』角川書店、1998年5月18日。ISBN 4-04-002030-8。
- 木村 礎、藤野 保、村上 直『藩史大辞典 第1巻 北海道・東北編』雄山閣、2002年4月15日。ISBN 4-639-10033-7。
- 松岡孝一『青森県百科事典』株式会社東奥日報社、1981年3月1日。
- 岩手放送『新版 岩手百科事典』岩手放送株式会社、1988年10月15日。
- 秋田魁新報社『秋田大百科事典』秋田魁新報社、1981年9月1日。ISBN 4-87020-007-4。
- 細井計、伊藤博幸、菅野文夫、鈴木宏『岩手県の歴史』山川出版社、1999年8月17日。ISBN 4-634-32030-4。
- 浪川健治『街道の日本史 4 下北・渡島と津軽海峡』吉川弘文館、2001年7月10日。ISBN 4-642-06204-1。
- 瀧本壽史、名須川溢男『街道の日本史 5 三陸海岸と浜街道』吉川弘文館、2004年12月20日。ISBN 4-642-06205-X。
- 細川計『街道の日本史 6 南部と奥州道中』吉川弘文館、2002年5月20日。ISBN 4-642-06206-8。
- 西ヶ谷恭弘『国別 戦国大名城郭事典』東京堂出版、1999年12月5日。ISBN 4-490-10533-9。
- 地方史研究協議会『地方史事典』弘文館、1997年4月30日。ISBN 4-335-25056-8。
- 大正十三造『不来方の賦 -南部藩主物語-』岩手日報社、1987年4月10日。ISBN 4-87201-015-9。