ミホノブルボン
この記事は「旧馬齢表記」が採用されており、国際的な表記法や2001年以降の日本国内の表記とは異なっています。 |
ミホノブルボン | ||||||||||||||||||
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ファイル:Mihono bourbon.jpg 京都新聞杯出走時(1992年10月18日) | ||||||||||||||||||
欧字表記 | Mihono Bourbon[1] | |||||||||||||||||
品種 | サラブレッド[1] | |||||||||||||||||
性別 | 牡[1] | |||||||||||||||||
毛色 | 栗毛[1] | |||||||||||||||||
生誕 | 1989年4月25日[1] | |||||||||||||||||
死没 | 2017年2月22日(28歳没) | |||||||||||||||||
父 | マグニテュード[1] | |||||||||||||||||
母 | カツミエコー[1] | |||||||||||||||||
母の父 | シャレー[1] | |||||||||||||||||
生国 | 日本(北海道門別町)[1] | |||||||||||||||||
生産者 | 原口圭二[1] | |||||||||||||||||
馬主 |
(有)美浦商事[2] →(有)ミホノインターナショナル[1] | |||||||||||||||||
調教師 |
戸山為夫[3](栗東) →鶴留明雄(栗東) →松元茂樹[1](栗東) | |||||||||||||||||
調教助手 | 安永司[注釈 1] | |||||||||||||||||
厩務員 | 安永司[3] | |||||||||||||||||
競走成績 | ||||||||||||||||||
タイトル |
JRA賞年度代表馬[1](1992年) JRA賞最優秀3歳牡馬[1](1991年) JRA賞最優秀4歳牡馬[1](1992年) | |||||||||||||||||
生涯成績 | 8戦7勝[1] | |||||||||||||||||
獲得賞金 | 5億2596万9800円[1] | |||||||||||||||||
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ミホノブルボン(欧字名:Mihono Bourbon、1989年4月25日 - 2017年2月22日)は、日本の競走馬、種牡馬[1]。
1992年の皐月賞、東京優駿(日本ダービー)を無敗で優勝。無敗で菊花賞までたどり着いたが、ライスシャワーに敗れて中央競馬クラシック三冠を逃し、二冠馬にとどまった。1991年JRA賞最優秀3歳牡馬、1992年JRA賞年度代表馬および最優秀4歳牡馬である。
最新の施設であった坂路での調教によって鍛え上げられた分厚いトモ[注釈 2]を持ち、機械の如く正確なペースで逃げを打つことから、「坂路の申し子」「サイボーグ」「栗毛の超特急」などと形容された。
デビューまで
誕生までの経緯
1968年に北海道藤原牧場で生産された牝馬のハイフレームは、10戦1勝で競走馬を引退し藤正牧場[注釈 3]で繁殖牝馬となった[4]。ダンディルートを配合し1977年に産まれた牡馬のトウショウハイネスは鶴留明雄厩舎に所属し中央競馬で5勝、高知競馬で20勝を挙げる活躍で種牡馬となった[5]。13歳となったハイフレームは原田圭二に見初められ、北海道門別町にて家族経営の原田良牧場に譲渡された。母体にダンディルートの仔を宿した状態であったが、トウショウ牧場[注釈 4]に産まれた仔を返すという契約であった[6]。(詳細は後述。)
圭二の父、原田良はトウショウハイネスの活躍を見て、自力で再びダンディルートとの配合を検討していた。しかし、ダンディルートの種付け料は、家族経営の牧場では賄えないほど高く設定されて実現することができなかった。代わりに、ダンディルートと同じ父リュティエのシャレーが配合された[7]。
1983年5月18日に産まれたシャレーの牝馬は後に、カツミエコーと名付けられて南関東競馬で12戦1勝の成績を残し、生まれ故郷の原田良牧場で繁殖牝馬となった。ミルリーフの仔である種牡馬が多く活躍しており、圭二[注釈 5]は、その中でもイナリワンなどを産んだミルジョージを初年度の配合相手として検討していた[7][8]。しかし牧場では、1回100万円を越える種付け料を賄うことができないために断念。代わりに同じミルリーフの仔の種牡馬で、2年間で50万円という安価な種付け料に設定されたマグニテュードが選ばれた[7]。
高井克敏は、この配合の父マグニテュードを「一流に手が届くかどうかの種牡馬」、母の父シャレーを「三流と呼んでも一向に構わない種牡馬」と表していた[9]。
幼駒時代
1989年4月25日、良が引退し圭二が引き継いで名を改めた、原口圭二牧場でカツミエコーの初仔となる牡馬(後のミホノブルボン)が誕生[1]。出産の際には、腰幅が広く引っ掛かってしまうほどであった[10]。牧場では一人ぼっちでいることが多くおとなしい気性であり、馬体も目立つものではなかった[11]。
産まれた原田牧場は、1951年に農業とともにアラブ種の競走馬生産を始め、次第にサラブレッド生産に取り組んでいた[8]。牧場の人脈に乏しく、ほとんどの生産馬が地方競馬に登録されており、中央競馬への登録はそれまでに5頭ほどであった。そのため、圭二の当面の目標は中央競馬への生産馬の登録、加えて未勝利戦を勝利することであった[12]。750万円で取引されて美浦商事が所有することとなり、「ミホノブルボン」と命名された[12]。
栗東トレーニングセンターの戸山為夫調教師は、坂路を用いたスパルタ調教で実績を残していた[11]。戸山は初仔の方が調教に耐えうる丈夫な体質になりやすいという持論から、初仔の幼駒獲得に集中していた[11]。小柄になりやすいとされる初仔、同じくその傾向にあるマグニテュードの仔だったが、傾向に反して大柄であったことを戸山に気に入られた[11]。さらにトウショウハイネスに注目していた過去も手伝って、当歳の頃に戸山厩舎の所属が決定、中央競馬でデビューすることが決定した[11]。すぐに戸山は圭二に飼料にアルファルファを用いることや、与えるカルシウムの品種などを指定した[11][13]。2歳10月から、三石軽種馬共同育成センターに移動して育成が施された後、1991年4月に栗東トレーニングセンターの戸山厩舎に入厩した[11]。
入厩直後から戸山により坂路調教が課され、他の厩舎が登坂3回で終えるところ、4回を消化した[13]。負担の大きい調教をこなしたのは食事量の多さにある[13]。厩務員と調教助手を兼ねていた[注釈 6]安永司によれば、食事中に人が近寄ることを嫌っていた[13]。安永自身も食事中のミホノブルボンに接近することは恐怖だったという[13]。
競走馬時代
3歳(1991年)
デビュー2連勝
1991年8月に安永が騎乗して坂路での追い切り[注釈 7]を実施。オープンクラスの古馬が500メートル30秒台で駆けるところ、3歳で29.9秒[注釈 8]を記録し[注釈 9]、調教スタンドの戸山は興奮して声を張り上げるほどであった[14]。9月7日、中京競馬場の新馬戦(芝1000メートル)に小島貞博が騎乗してデビュー。先の調教内容から単勝オッズ1.4倍の1番人気に推されていた[14]。出走する他の馬がゲート入り拒み、ゲートの中で長時間待ったことで良いスタートを切ることができなかった。さらに両隣から挟まれるなど先行することができず、第3コーナーでは13頭立て10番手で通過した[14]。直線コースでは進路を外に選択して追い上げ、残り50メートルで先頭となり後方に1馬身4分の1差を広げて入線。走破タイム58.1秒は3歳コースレコードを更新する勝利であった。上がり3ハロンはメンバー中最速の33.1秒を記録。これはメンバー中2位のホーマンチカラが34.7秒、同3位のホウエイセイコーが34.9秒と1.6秒以上も上回っていた[14]。
直後にソエのため、連戦することができなかった。2か月後の11月23日、東京競馬場の500万円以下(芝1600メートル)で復帰。2番手から残り400メートルで先頭となり、後方に6馬身離して入線、2連勝とした[14]。
朝日杯3歳ステークス
それまで3歳馬のGI競走は、関東の朝日杯3歳ステークスに対して、関西の阪神3歳ステークスがあり、それぞれ東西の3歳チャンピオンが決定する舞台であった。しかし、この年より阪神3歳ステークスが阪神3歳牝馬ステークスと名を改め、牝馬限定戦となり3歳牝馬チャンピオンを決定する舞台となった[10]。対して朝日杯3歳ステークスは、東西の3歳牡馬[注釈 10]がチャンピオンを争うGI競走に生まれ変わった[10]。12月8日の朝日杯3歳ステークス(GI)では、1.5倍の1番人気に推された。8頭立ての中、京成杯3歳ステークス(GII)優勝のヤマニンミラクル、府中3歳ステークス(OP)優勝のマチカネタンホイザがオッズ4倍台で続き、オッズ一桁台の3頭はすべて関西馬であった[7]。
映像外部リンク | |
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1991年 朝日杯3歳ステークス レース映像 jraofficial(JRA公式YouTubeチャンネル)による動画 |
スタートからマイネルアーサーが逃げたが、ミホノブルボンが並び2頭が先頭となった[7]。短い間隔で出走するミホノブルボンは走る気が勝ってしまい、小島は折り合いをつけるのに苦労していた[7]。最終コーナーまでそのまま2頭が先頭で進み、直線に入るとマイネルアーサーが後退し、ミホノブルボンが先頭となった[7]。後方外からヤマニンミラクルが追い上げて並びかけ、そのまま2頭並んだまま、決勝線を通過した。ミホノブルボンがハナ差先着[15]。3連勝でGI優勝となった。小島は平地競走GI初勝利[注釈 11]であり、戸山にとってもグレード制導入後初のGI優勝となった[7][16]。小島は「瞬発力が抜群。これからがとても楽しみな馬[7]」と発言。しかし距離については「2000メートルがぎりぎり[7]」とし、戸山も皐月賞に向けて「現状では不安が先立つ[7]」と考えていた。序盤から走る気を抑え、ハナ差の決着を招いた小島の騎乗に対し、戸山は走る気のままにさせていれば楽勝と考えていた。そのため、戸山は小島に対し、顔を赤らめるなど激怒した[16]。小島は、これを機にミホノブルボンの走る気を抑えることなく、逃がす競馬をするようになった[16]。
年末のJRA賞選定では、全176票中、ミホノブルボンが174票[注釈 12]を集めて、JRA賞最優秀3歳牡馬を獲得した[3]。美浦トレーニングセンターと栗東トレーニングセンターのハンデキャッパーが競走馬の実力を数値化する「フリーハンデ」では、3歳馬関西部門首位の「56」が与えられ[注釈 13]、テンポイントとサッカーボーイ、リンドシェーバーと並ぶ評価となった[注釈 14][17]。
3歳時の評価
この頃の戸山は、ミホノブルボンを短距離を得意とする「スプリンター」と考えていた[13]。さらなるスピードを追求し、調教と調教の間に十分な休息を設け、いかに速いタイムで走ることができるかを重視した[13]。戸山はこう言い表している。
速さというのは、間違いなく才能なんです。それもミホノブルボンは、デビュー前に坂路で30秒を切った。これはかなりのものですよ。ただしこの馬はデビュー戦の後でソエに苦しんだように、骨が決して丈夫とはいえないし、行く気が先走って体力やスタミナもそんなにある方じゃない。
極端な言い方をすれば、ただ速いだけの馬なんです。だったらない物ねだりをするよりも、いいところを伸ばしてやった方が馬のためにはずっといいんですよ。幸い日本の競馬は馬場も含めて、スプリンター向きですからね。いくらスタミナが足りない馬でも、ある程度の距離まではこなすことができるんですよ。 — 戸山為夫[13]
戸山の調教により、馬体は大きく変化していった。朝日杯3歳ステークス当日、1年2か月ぶりにミホノブルボンと対面した原田圭二は、胴の伸長や、顔つき、目つきの変化を認めるほどだった[13]。
4歳(1992年)
スプリングステークス
シンザン記念(GIII)から始動する予定であったが、1月8日の坂路調教中に左腰を捻挫したため回避[18]。皐月賞のトライアル競走であるスプリングステークスと菜の花ステークス[注釈 15]の二択から、3月29日のスプリングステークス(GII)に出走した[18]。前回から200メートル距離が伸び、1800メートルに挑戦することとなった。勝ちにこだわる戸山は、ここでよい走りを見せなかった場合、皐月賞出走を諦め、短距離路線へ転向すると宣言[19]。また「デビュー以来最高の状態」に仕上げたと話した[12]。世代唯一のGI優勝馬に加えて無敗にもかかわらず、長い距離への適性が疑われて2番人気に甘んじた。代わって1番人気に推されたのは、既に2000メートルの重賞を優勝し距離に不安のないノーザンコンダクトであった[16]。
小島は、朝日杯3歳ステークス後の戸山の指示を守ってハナを奪って逃げ、重馬場としては速いペース[注釈 16]を刻んだ。2番手のサクラバクシンオーが失速するなど、先行する馬に不利な状況にあった[16]。しかし、有利となる後方の馬がミホノブルボンに迫ることができず、最後の直線では差を広げる一方となった。後方に7馬身離して決勝戦を通過、4連勝となった。小島は「精神的にも肉体的にも大人になった」と証言[19]。戸山も「満足できる勝ち方」とし、皐月賞出走を決断した。この勝利に、サンケイスポーツの石田敏徳は「栗毛の超特急」と言い表している[19]。
皐月賞
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1992年 皐月賞 レース映像 jraofficial(JRA公式YouTubeチャンネル)による動画 |
4月19日の皐月賞(GI)に出走、戸山は「最高」と表した前走以上の状態であるとしていた。距離に対する不安が解消されたのか、単勝オッズ1.4倍の1番人気という支持であった[20]。スタート後最初の3歩[注釈 17]で先頭を奪い、馬なり[注釈 18]の状態で逃げた。第1コーナーで外に張り出したが、抑えることに成功した。第2コーナーでは、小島が落ち着かせるために1歩、2歩踏み出すのに合わせて口笛を吹いていた[21]。前半の1000メートルを59秒8で通過するという速いペースとなり、ミホノブルボンにとって不利な状況となっていた[12]。第3コーナーから最終コーナーにかけて後方の追い上げてリードは縮まったが、並びかけるほどではなかった[20]。小島は位置取りに自信がなく、最終コーナーで3回後ろを振り返り後続の位置を確認していた。直線では追い上げる後続が失速し、そのまま後方に2馬身半離して決勝線を通過。逃げ切り勝利を果たした。
入線後、クールダウンを1周して退場する際に「小島コール」が発生、小島はそれに応えて右手でガッツポーズを披露した[21]。クラシック競走初勝利となり、富士重工業よりアルシオーネSVXが贈呈された[22]。レース後のインタビューでは「僕を男にしてくれたミホノブルボンにお礼を言いたい」と答えると同時に、騎手デビュー22年目40歳にして初めてうれし涙を流した[21]。
東京優駿
5月31日の東京優駿(日本ダービー)(GI)出走を目指した。さらに400メートルの距離延長に対応するために、戸山はついに登坂5回を課したが、余りにも消耗が激しく結局登坂4回で調整された。しかし5月15日の調教後に右前脚橈骨に骨膜炎の兆候が表れ、患部を癒すために2日間プールでの調教に切り替えられた[23]。ルーチンの坂路調教を実施せず、5月18日のメディアは「ミホノブルボンの体調不安説」を展開したが、翌19日には坂路調教に復帰。本番が近づくにつれて、登坂4回をこなすなど良化して参戦することとなった[23]。
出走する18頭は、皐月賞のメンバーに青葉賞、NHK杯勝ち馬と5頭の900万円以下の馬を加えた構成で、ミホノブルボンを脅かすパフォーマンスを見せた馬はおらず、大勢はミホノブルボン有利の状況とされていた[23]。月刊誌『優駿』が展開した著名人61人の「ダービー・アンケート」では、6割以上の38人がミホノブルボンの逃げ切り勝利を支持するほどであった[注釈 19][24]。小島は逃げるために「内枠の偶数番」を希望していたが、ミホノブルボンは「外枠の奇数番」の7枠15番となり、それまで優勝馬の出ていない枠番からの発走となった[25]。単勝オッズ2.3倍の1番人気の評価を受けた。
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1992年 東京優駿(日本ダービー) レース映像 jraofficial(JRA公式YouTubeチャンネル)による動画 |
スタートから内枠の馬を制して先頭となり、第1コーナーで後方2-3馬身離して逃げていた。第2コーナーで独走状態となった[26]。1000メートルを61.2秒で通過し、第3コーナーから最終コーナーにかけて後続の追い上げてきた[26]。直線に入って後続は、騎手によって再度前進を促されていたが、追いつくことができなかった。坂でミホノブルボンが差を広げて独走し、後方に4馬身離して決勝線を通過[27]。デビューから6連勝でダービー優勝し、フレーモアやガヴァナー、前年のトウカイテイオーなどに続く史上8頭目[注釈 20]となる無敗のダービー馬[28]、また前年のトウカイテイオーに続いて史上5頭目となる「無敗の二冠馬」が誕生した[29]。
小島は、皐月賞の時よりもリラックスした状態で騎乗することができ、直線坂を登るまで「馬なり」だったと振り返っている[28]。またトヨタ自動車よりセリカが贈呈された[30]。戸山は「ここまでは能力が違ったということでしょうね。これなら次(三冠目、菊花賞)を考えてみたい。ひと夏越してメジロマックイーン[注釈 21]のようなステイヤーが出てきたら、どうなるかわかりませんけどね[28]」と話していた。なお2着には、単勝16番人気のライスシャワーが入り、馬番連勝式「13 - 15」は2万9580円という配当となった[30]。直後に、北海道早来町の吉田牧場に放牧に出され、夏休みに入った[29]。
京都新聞杯
9月上旬、栗東トレーニングセンターに戻り、10月18日菊花賞のトライアル競走である京都新聞杯(GII)で再始動した。当日の京都競馬場にはGIIにもかかわらず開門前から行列を作るなど、7万人が来場した。単勝オッズ1.2倍の1番人気という支持を集め、続く7.1倍の2番人気にライスシャワー、8.9倍の3番人気にキョウエイボーガンと続いた。本馬場入場で落ち着きがないと感じた小島は、返し馬をいつもより加減させた[31]。
主に逃げで4連勝中だったキョウエイボーガンとの兼ね合いに注目が集まったが、スタートでキョウエイボーガンが出遅れてしまった。一方のミホノブルボンは、スタートから前に出て、独りで逃げることができた[31]。先頭のまま向こう正面を過ぎ、第3コーナーの坂の下りからライスシャワーが迫り来られたが、1馬身後方まで接近したのみで並びかけるものではなく、そのまま直線でも先頭を保ち続けた[31]。結局ライスシャワーに1馬身半離して逃げ切り勝利、勝ちタイムの2分12秒0は、芝2400メートルの中央競馬レコードを0.1秒更新するものであった[31]。小島は最終コーナーの手応えから勝利を確信していたが、ゴール手前では「正直なところ一杯一杯[31]」として、促してもそれ以上伸びなかったことを明かしていた[31]。
菊花賞
菊花賞出走に向けた11月4日の追い切り[注釈 7]では、登坂4回を実施。2本目に「29秒4」という栗東トレーニングセンターの坂路レコード[注釈 22]を更新する動きを見せ、さらに4本目にも同じ「29秒4」で登坂した[32]。戸山は「バチが当たるくらい順調[32]」と状態を言い表していた。以降の2日間は主にプール調教を行った。この時集めた報道陣は40人と、プール調教施設に来た報道陣の数としては過去最高であった[33]。
前年の無敗の二冠馬トウカイテイオーが骨折で三冠目に到達できなかったこともあり、無事出走を果たしたミホノブルボンには、なおのこと三冠達成が期待された。かつて1800メートルのスプリングステークスでも距離を不安視されていたが、東京優駿よりもさらに距離が伸びる3000メートルに参戦することとなった。戸山は本質的に「スプリンター」であるという見方を崩しておらず、報道陣90人が集まった記者会見の場で「先生は(中略)スプリンターが3000メートルのレースに出走するというのは、どんな意味があるんですか?[32]」という質問に、このように答えた。
確かに(ミホノ)ブルボンはかわいそうですね。(ミホノ)ブルボン自身は走りたくないに決まっています。菊花賞に出すのは競馬に携わる人間の勝手ですよ。天皇賞は来年でも出られるけれど、このチャンスは1回しかありませんからね。出す意味といったら、『人間の欲』しかないと思います。 — 戸山為夫[32]
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1992年 菊花賞 レース映像 jraofficial(JRA公式YouTubeチャンネル)による動画 |
菊花賞当日の11月8日、京都競馬場には12万人が集まり[34]、単勝オッズ1.5倍の1番人気という支持を集めた。戦前に逃げることを宣言した11番人気のキョウエイボーガンが積極的に動き、予告通り先頭に立った。逃げようとしたミホノブルボンだったが、キョウエイボーガンの逃げを認識した小島は、焦ることなく2番手に位置、馬なりの状態であった[29]。スプリングステークス以降、すべて逃げ切り勝ちであり、前に逃げ馬がいる状況は、かかってしまい僅差で勝利した朝日杯3歳ステークス以来のことだった。そのため、無理に逃げるキョウエイボーガンを追い抜こうとする姿も見られてしまい、小島がそれを抑えた[29]。キョウエイボーガンが変わらず逃げ、最初の1000メートル通過は59.7秒という「菊花賞史上、稀にハイペース[34]」(優駿)となり、馬群は縦長となった[29][34]。
第3コーナーから最終コーナーの中間で失速するキョウエイボーガンをかわして先頭[34]。しかし、残り100メートルで外から追い上げるライスシャワーにかわされて、差し返す余力もなく1馬身4分の1離されて、2着となった[34]。デビュー以来初の敗戦を喫し、三冠を達成することができなかった。
クラシック以後
故障、復帰することなく引退
ジャパンカップ(GI)の追い切り直前に、右後肢跛行が確認されて出走を断念。続いて目標に据えた有馬記念も回避を表明した。二冠達成が評価されて、1992年JRA賞年度代表馬およびJRA賞最優秀4歳牡馬を獲得した。
5歳となっても復帰を目指していたが、1月27日に右後脚脛骨骨膜炎を発症。2月4日に吉田牧場に放牧に出されたが、4月7日に今度は、右後脚第3中足骨を骨折。5月29日、管理していた戸山の死去に伴い鶴留厩舎に一時転厩し、戸山厩舎の後継者が森秀行調教師が受け入れ拒否したため、安永とともに9月に松元茂樹厩舎に転厩した。10月13日には福島県いわき市の馬用の温泉施設がある競走馬総合研究所常磐支所に移動して療養された。
しかし、1994年1月19日に現役引退を正式に発表、2月6日に東京競馬場にて、小島を背に東京優駿(日本ダービー)優勝時のゼッケン「15」をつけて引退式を行った。
種牡馬時代
1994年、日高軽種馬農業協同組合で種牡馬生活に入った。地方競馬では重賞勝ち馬を出したが、JRA重賞の勝ち馬は出すことはできなかった。日高軽種馬農業協同組合を退いた後は、生まれ故郷である日高町のファニーフレンズファーム[注釈 23]で繋養された。圭二は、自身の繁殖牝馬を中心に4,5頭の種付けを実施した[35]。2012年11月1日付で用途変更となり、種牡馬を引退。その後は圭二の義理の息子が経営するスマイルファームで余生を送った。
1996年にはJRAのコマーシャルメッセージに出演し、その背中に女優の鶴田真由が跨った。2000年、日本中央競馬会が実施した「20世紀の名馬大投票」で7474票を集め第17位となった。2004年6月13日にはJRA50周年記念キャンペーン(JRAゴールデンジュビリーキャンペーン)の一環として中京競馬場で「ミホノブルボンメモリアル」という名称の競走が行われた[注釈 24]。2010年8月8日には、函館競馬場のパドックにて展示周回した。
2017年2月21日朝より寝たきりの状態となり、22日午後6時過ぎ、老衰のため死亡した[36]。
競走成績
以下の内容は、netkeiba.com[37]の情報に基づく。
競走日 | 競馬場 | 競走名 | 格 | 距離(馬場) | 頭 数 |
枠 番 |
馬 番 |
オッズ (人気) |
着順 | タイム (上り3F) |
着差 | 騎手 | 斤量 [kg] |
1着馬(2着馬) |
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1991. 9. 7 | 中京 | 3歳新馬 | 芝1000m(良) | 13 | 3 | 3 | 1.4 (1人) | 1着 | R(33.1) 58.1 | -0.2 | 小島貞博 | 53 | (ホウエイセイコー) | |
11.23 | 東京 | 3歳500万下 | 芝1600m(良) | 11 | 7 | 9 | 1.5 (1人) | 1着 | 1:35.1(35.7) | -1.0 | 小島貞博 | 54 | (クリトライ) | |
12. 8 | 中山 | 朝日杯3歳S | GI | 芝1600m(良) | 8 | 4 | 4 | 1.5 (1人) | 1着 | 1:34.5(35.4) | -0.0 | 小島貞博 | 54 | (ヤマニンミラクル) |
1992. 3.29 | 中山 | スプリングS | GII | 芝1800m(重) | 14 | 1 | 1 | 4.5 (2人) | 1着 | 1:50.1(37.6) | -1.2 | 小島貞博 | 56 | (マーメイドタバン) |
4.19 | 中山 | 皐月賞 | GI | 芝2000m(良) | 17 | 2 | 4 | 1.4 (1人) | 1着 | 2:01.4(37.1) | -0.4 | 小島貞博 | 57 | (ナリタタイセイ) |
5.31 | 東京 | 東京優駿 | GI | 芝2400m(稍) | 18 | 7 | 15 | 2.3 (1人) | 1着 | 2:27.8(37.1) | -0.7 | 小島貞博 | 57 | (ライスシャワー) |
10.18 | 京都 | 京都新聞杯 | GII | 芝2200m(良) | 10 | 8 | 10 | 1.2 (1人) | 1着 | R2:12.0(35.9) | -0.2 | 小島貞博 | 57 | (ライスシャワー) |
11. 8 | 京都 | 菊花賞 | GI | 芝3000m(良) | 18 | 4 | 7 | 1.5 (1人) | 2着 | 3:05.2(35.2) | 0.2 | 小島貞博 | 57 | ライスシャワー |
- タイム欄のRはレコード勝ちを示す。
種牡馬成績
主な産駒
- ミヤシロブルボン(南部駒賞、東北サラブレッド3歳チャンピオン)
- ナムラライジン(福島3歳ステークス)
- メモリーフォーラム(北関東ダービー、北関東皐月賞)
- メモリーブロンコ(北関東ダービー、北関東菊花賞、スプリンターズカップ、スプリンターズ賞、エメラルドカップ)
- トップコーリング(牛若丸ジャンプステークス)
- シュイベモア(種牡馬)
エピソード
種牡馬の「代用」
ミホノブルボンは、原口良、圭二がダンディルートの代わりにシャレー、ミルジョージの代わりにマグニテュードと安い種付け料の種牡馬を配合したことで生み出された。それから約20年後、原口圭二牧場から名を改めたファニーフレンズファームでは、再び「代替種牡馬」ディープインパクトの全弟[注釈 25]オンファイアを配合[38]。2010年に生産されたウキヨノカゼは、クイーンカップ(GIII)福島牝馬ステークス(GIII)など重賞3勝[39]、前身の原口圭二牧場も含めた生産馬のJRA重賞勝利は、ミホノブルボンが勝利した京都新聞杯以来であった[40][41]。
ハイフレーム
原口圭二は、長男であることから牧場の後継者とみなされていたが、当初は牧場を継ぐつもりはなかった[42]。大学卒業後に、肉牛の研究と語学の勉強を目的にアメリカ留学したが、結局ワシントンのサラブレッドの生産牧場に身を置いた[42]。しかし帰国後に、オイルショックが直撃して就職先がなく、結局父のコネクションから藤正牧場に約1年間在籍することとなった。中でも初めての仕事は、デビュー前のトウショウボーイを東京競馬場に輸送することだった[42]。
主に繁殖牝馬の世話を担当し、その中の1頭ハイフレームがいた。サクラスターオー、サクラユタカオーなどGI優勝馬を輩出している牝系、クレイグダーロッチ系に属する良血馬で、高額の繁殖牝馬であった[43]。原口は、藤正牧場のハイフレームの様子をこう振り返っている。
あそこ(藤正牧場)へ入ってまず驚いたのは、まるっきり馬が違うということでしたね。ウチ(原口良牧場)で繋養していた馬と比べると、どんな馬でもひと回りは大きい。こりゃ敵わないなって思いましたよ。中でもハイフレームは惚れ惚れする馬体で、そのくせ、性格は猫のようにおとなしいんです。僕の目からすれば、理想の繁殖牝馬でした。 — 原田圭二[43]
圭二が牧場を継いだ2年後、前述のように条件付きで自らの牧場にハイフレームを迎えることができた。原口牧場の初年度、1981年の父ダンディルートの牝馬を産んだものの、放牧中の事故で死亡[44][45]。翌年の父グリーングラスグリーンの仔は、死産に終わった[44][46]。3年目にして父シャレーの牝馬(後のカツミエコー)を生産した。その後、4年目の父トウショウゲートの仔を産んだ直後に、ハイフレームは死亡した[44]。結局、原口牧場では2頭しか産駒を残すことができず、そのうち牝馬はカツミエコー(後述)だけであった[46]。原口牧場では、同時期にハイフレーム以外にも死産、母馬の死亡が相次いだこともあり、圭二は何度も涙を流してしまった[44][注釈 26]。
カツミエコー
カツミエコーはミホノブルボンを産んだ後、2年連続で受胎に失敗した。小規模家族経営の原口牧場にとって、生産馬の減少は大きな損失であり、原口圭二は、手放すことを決意した[47]。父シャレーという血統に対する評価が低いことに加え、目立った競走成績でもなかったことから、繁殖牝馬として他所に売却することもできなかった[19]。そのため、圭二は殺処分を計画していた[19]。しかし圭二の妻が、牧場生産馬であることを理由に猛反対し、殺処分が1年間先送りになった[19]。
するとデビューしたミホノブルボンが、GIを勝利するなど活躍。殺処分を免れたカツミエコーは原口牧場で生産を続けた。ジャパン・スタッドブック・インターナショナル(JAIRS)によれば、2001年4月28日に数え年19歳で死亡とある。
殺処分回避後にカツミエコーから産まれた唯一の牝馬、4番仔ダンシングエコーは、繁殖牝馬となった。カツミエコーから繋がって4代目、2017年生まれのアベニンドリーム(父:オンファイア)は、2020年の北海優駿(H1)を優勝[48]。他に2019年の北海道2歳優駿(JpnIII)や鎌倉記念(SII)、王冠賞(H2)で2着に入った[48]。(以下、ファミリーラインを参照。)
産駒とファミリーライン
- 以下、ミホノブルボンの弟妹である。
生年 | 馬名 | 性 | 毛色 | 生産 | 父 | 戦績 | 出典 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
初仔 | 1989年 | ミホノブルボン | 牡 | 栗毛 | 原口圭二 | マグニテュード | 8戦7勝 | [1] |
1990年 | 不受胎 | [49] | ||||||
1991年 | ||||||||
2番仔 | 1992年 | 血統登録されず | 牡 | セクレフアスター | [50] | |||
3番仔 | 1993年 | ミホノポタラ | 牡 | 鹿毛 | マグニテュード | 未出走 | [51] | |
4番仔 | 1994年 | ロドリゴオーカン | 牡 | 黒鹿毛 | ロドリゴデトリアーノ | 19戦2勝 | [52] | |
5番仔 | 1995年 | ダンシングエコー | 牝 | 黒鹿毛 | ダンシングブレーヴ | 未出走 | [53] | |
1996年 | 不受胎 | マグニテュード | [49] | |||||
1997年 | 流産 | |||||||
6番仔 | 1998年 | 血統登録されず | 牡 | フォーティナイナー | [54] | |||
7番仔 | 1999年 | ローレルファイター | 牡 | 黒鹿毛 | マグニテュード | 17戦0勝 | [55] | |
2000年 | 不受胎 | [49] | ||||||
2001年 | コロニアルアッフェアー |
- ミホノブルボン 1989 牝(種牡馬)
- ミホノポタラ 1993 牡
- ロドリゴオーカン 1994 牡
- ダンシングエコー 1995 牝(繁殖牝馬)
- ダンシングバード 2000 牝(繁殖牝馬)
- ジュンノヒーロー 2005 牡
- ソラトブペンギン 2007 牡
- アベニンプラナス 2008 牝(繁殖牝馬)
- アベニンマルカート 2015 牝
- アベニンローズ 2016 牝
- アベニンドリーム 2017 牡(2019年北海優駿)
- アベニンバード 2012 牡
- ショーマン 2013 牡
- オオカゼ 2001 牡
- ゴーグルシチー 2002 牡
- デサイドシチー 2003 牡
- ローレルスマッシュ 2004 牡
- ラッシュオブラブ 2006 牝
- ミュルザンヌ 2007 牝
- アルカンシエル 2008 牝(繁殖牝馬)
- シュクセサール 2017 牝
- ダンシングバード 2000 牝(繁殖牝馬)
- ローレルファイター 1999 牡
- 情報は、2021年6月19日現在。
血統表
ミホノブルボンの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
父系 | ミルリーフ系 |
[§ 2] | ||
父 * マグニテュード Magnitude 1975 鹿毛 |
父の父 Mill Reef1968 黒鹿毛 |
Never Bend | Nasrullah | |
Lalun | ||||
Milan Mill | Princequillo | |||
Virginia Water | ||||
父の母 Altesse Royale1968 栗毛 |
*セントクレスピン | Aureole | ||
Neocracy | ||||
Bleu Azur | Crepello | |||
Blue Prelude | ||||
母 カツミエコー 1983 青毛 |
* シャレー Chalet 1976 青鹿毛 |
Luthier | Klairon | |
Flute Enchantee | ||||
Christiana | Double Jump | |||
Mount Rosa | ||||
母の母 ハイフレーム1968 栗毛 |
* ユアハイネス | Chamossaire | ||
Lady Grand | ||||
カミヤマト | *ライジングフレーム | |||
コロナ | ||||
母系(F-No.) | クレイグダーロッチ系(FN:11-c) | [§ 3] | ||
5代内の近親交配 | Nearco 5・5(父内) | [§ 4] | ||
出典 |
関連項目
脚注
注釈
- ^ 厩務員、調教助手の兼務。
- ^ 腰から臀部にかけての筋肉
- ^ 「とうしょうぼくじょう」と読む。
- ^ 藤正牧場をカタカナ(トウショウ)に変更した。
- ^ 良にとって3番目の子で姉が二人、長男であった。
- ^ 「持ち乗り」と呼ばれる。
- ^ a b レース出走直前の調教のこと。
- ^ 一部29.8秒と伝えられているものもある。
- ^ 坂路500メートルのレコードは、1992年6月時点でセンリョウヤクシャ、ヌエボトウショウが記録した「29.6秒」。ミホノブルボンは、デビュー前にそれに迫るタイムで駆けていた。なお1987年に坂路は、570メートルに延長されている。
- ^ なお、騸馬も出走できる。牝馬は出走することができない。
- ^ GI級競走としては障害競走、1982年の中山大障害(春)、中山大障害(秋)(ともに騎乗馬:キングスポイント)の2勝を挙げていた。
- ^ 残り2票はノーザンコンダクト(4戦3勝、ラジオたんぱ杯3歳ステークス(GIII)優勝)だった。
- ^ 3歳馬では、同じ「56」に牝馬のニシノフラワー、「55」に朝日杯3歳ステークス2着のヤマニンミラクルが続いた。さらに関東部門首位は「53」で朝日杯3歳ステークス3着のエーピージェットであった。
- ^ 直近の評価では、1989年アイネスフウジン、1990年ビッグファイトは「55」が与えられていた。
- ^ 3月28日の中山競馬場芝1200メートル。4歳限定のオープン競走。
- ^ 馬場状態が悪化している時の芝コースは、通過タイムが遅くなる傾向にある。
- ^ 馬の歩幅は「完歩」と表され、一歩は7メートルから8メートルとされる。
- ^ 騎手が促すわけでもなく、馬自身で走る様子。
- ^ 前年のトウカイテイオー優勝には、90パーセントの支持があった。
- ^ フレーモア、ガヴァナー、クリフジ、トキノミノル、コダマ、シンボリルドルフ、トウカイテイオーに続く8頭目。
- ^ 夏の函館開催から頭角を現し、1990年の菊花賞を制した。
- ^ 坂路500メートルのレコードは、1992年6月時点でセンリョウヤクシャ、ヌエボトウショウが記録した「29.6秒」。
- ^ 原田圭二牧場から改称
- ^ エリモハリアーが勝利。
- ^ ディープインパクトと同じ、父サンデーサイレンス、母ウインドインハーヘアの種牡馬。
- ^ 圭二は「僕は人が死んでも泣かないけど、馬が死んだら涙が止まらないんです。」とも話している。
出典
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- ^ 『優駿』1992年3月号 10-11頁
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- ^ a b c d e f g h i 『優駿』1992年3月号 12-13頁
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- ^ 『優駿』1992年2月号、32頁
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- ^ 『優駿』1992年2月号、14-15頁
- ^ a b 『優駿』1992年4月号 25頁
- ^ a b c d e f 『優駿』1992年5月号 158頁
- ^ a b 『優駿』1992年6月号 10-11頁
- ^ a b c 『優駿』1992年6月号 38-39頁
- ^ 『優駿』1992年6月号 13頁
- ^ a b c 『優駿』1992年7月号 20-21頁
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- ^ a b c d e 『優駿』2013年3月号 80頁
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- ^ a b c d e 『優駿』1992年12月号 8-10頁
- ^ “あの馬は今Vol.23~皐月賞・ミホノブルボン”. 競走馬のふるさと案内所 date=2007-05-02. 2021年6月5日閲覧。
- ^ “「坂路の申し子」ミホノブルボン死す 老衰、28歳”. 日刊スポーツ. (2017年2月24日). オリジナルの2017年2月24日時点におけるアーカイブ。 2017年2月24日閲覧。
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- ^ 『優駿』1992年12月号、日本中央競馬会、143頁
参考文献
- 『優駿』(日本中央競馬会、中央競馬ピーアール・センター)
- 1991年1月号
- 「平成3年度競馬番組 重賞競走の主な変更点」
- 1992年2月号
- 「1991年度JRA賞決定/1991年度フリーハンデ決定」
- 「視界良好'92クラシック、ミホノブルボン」
- 橋本邦治「【今月の記録室】第43回朝日杯3歳ステークス(GI)」
- 1992年3月号
- 高井克敏「【近づく'92クラシック開幕】朝日杯3歳ステークスの勝馬 ミホノブルボン」
- 1992年4月号
- 「【皐月賞の有力馬&ジョッキー】ミホノブルボン&小島貞博」
- 1992年5月号
- 1992年6月号
- 「【第52回皐月賞詳報】ミホノブルボンは重戦車特急だ。」
- 鶴木遵「ダービー・主役への22年 小島貞博」
- 石田敏徳(サンケイスポーツ)「【今月の記録室】第52回皐月賞(GI)」
- 1992年7月号
- 1992年8月号
- 高井克敏「【'92春のGI競走勝ち馬の故郷】すべてが幸運、これは生涯一の祭り」
- 1992年11月号
- 畠山直毅「【第53回菊花賞】ミホノブルボンは淀の3000メートルも逃げきれるか!?」
- 1992年12月号
- 畠山直毅「1頭の栗毛馬をめぐる 栗東狂騒曲」
- 濱野圭司(京都放送)KBS京都)「【今月の記録室】第40回京都新聞杯〈菊花賞トライアル〉(GII)」
- 2013年3月号
- 河村清明「【優駿激闘譜】ミホノブルボン 強固な信念が生みだした無敗の二冠馬」
- 2017年12月号
- 1991年1月号
外部リンク
- 最強ヒストリー ミホノブルボン 無敵の“人造サラブレッド” at the Wayback Machine (archived 2009-02-21)(文:瀬戸慎一郎)
- 競走馬成績と情報 netkeiba、スポーツナビ、JBISサーチ
- ミホノブルボン - 競走馬のふるさと案内所