「日本における死刑囚の一覧 (-1950年代)」の版間の差分
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|[[白鳥由栄#札幌刑務所|仕返し農夫殺し]] ([[白鳥由栄]])||||||脱獄後に畑泥棒と勘違いされ、[[集団リンチ]]にされたため、過剰な正当防衛で農夫を刺殺。死刑判決が言い渡されたが、死刑判決を言い渡した裁判官らに仕返しをしようと思い、もう一度脱獄、後に懲役刑に減刑された。 |
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|三重県上野市山林内主婦強盗殺人事件 (K)||1945年2月20日||1944年||死刑執行日は不明。 |
|三重県上野市山林内主婦強盗殺人事件 (K)||1945年2月20日||1944年||死刑執行日は不明。 |
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日本における死刑囚の一覧 (-1969) (にほんにおけるしけいしゅうのいちらん)は、明治維新以降の日本で、刑事裁判によって死刑判決を言い渡された主な死刑囚の一覧記事である。本項目では、1969年(昭和44年)までに死刑が確定した死刑囚について述べる。
1860年代
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
堺事件(箕浦猪之吉) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 土佐藩士によるフランス帝国水兵殺傷(攘夷)事件。即日切腹刑執行。 |
堺事件(西村佐平次) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 即日切腹刑執行。 |
堺事件(池上弥三吉) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 即日切腹刑執行。 |
堺事件(大石甚吉) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 即日切腹刑執行。 |
堺事件(杉本広五郎) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 即日切腹刑執行。 |
堺事件(勝賀瀬三六) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 即日切腹刑執行。 |
堺事件(山本哲助) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 即日切腹刑執行。 |
堺事件(森本茂吉) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 即日切腹刑執行。 |
堺事件(北代堅助) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 即日切腹刑執行。 |
堺事件(稲田貫之丞) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 即日切腹刑執行。 |
堺事件(柳瀬常七) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 即日切腹刑執行。 |
堺事件(橋詰愛平) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 直前で切腹刑中止、流罪に変更。 |
堺事件(川谷銀太郎) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 直前で切腹刑中止、流罪に変更。 |
堺事件(金田時治) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 直前で切腹刑中止、流罪に変更。 |
堺事件(竹内民五郎) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 直前で切腹刑中止、流罪に変更。 |
堺事件(岡崎栄兵衛) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 直前で切腹刑中止、流罪に変更。 |
堺事件(土居八之助) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 直前で切腹刑中止、流罪に変更。 |
堺事件(横田辰五郎) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 直前で切腹刑中止、流罪に変更。 |
堺事件(垣内徳太郎) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 直前で切腹刑中止、流罪に変更。 |
堺事件(武内弥三郎) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 直前で切腹刑中止、流罪に変更。 |
パークス襲撃事件(三枝蓊) | 1868年3月27日 | 1868年3月23日 | ハリー・パークス一行を襲撃。即日梟首(獄門)刑執行。事件時に護衛に首を刎ねられ死亡した朱雀操の首と共に3日間晒された[1]。 |
戊辰戦争(近藤勇) | 1868年5月17日に梟首刑執行。 | ||
浜一色村養父母殺害・窃盗事件(新助) | 1868年11月16日 | 新助は養父母の元に養子に出されていたが、品行が悪く、ひそかに伊勢参りをしたことから離縁された。その後は江戸で別の家の養子になったが、すぐに離縁され帰郷。その際、かつて自分を離縁した遺恨から養父母を殺害し、金銭を盗んだ。磔刑は廃止されていたが、重罪であることから、居村引廻しの上磔刑の判決が言い渡された[2]。 | |
大村益次郎暗殺事件(神代直人) | 1869年11月23日 | 1869年10月7日 | 斬罪執行。 |
会津郡大石村女性強盗殺人事件(伊藤重次郎) | 1869年12月1日 | 1869年5月21日 | 松平容保の元家来(42歳)は降伏の後謹慎中、同村の家に押し入り婦人を竹槍で殺害、金品及び家財を奪った。判決は斬罪[3]。 |
横井小楠暗殺事件(上田立夫) | 1869年12月16日 | 1869年2月15日 | 1870年11月3日に梟首刑執行[4]。 |
横井小楠暗殺事件(津下四郎左衛門) | 1869年12月16日 | 1869年2月15日 | 1870年11月3日に梟首刑執行。 |
横井小楠暗殺事件(前岡力雄) | 1869年12月16日 | 1869年2月15日 | 1870年11月3日に梟首刑執行。 |
横井小楠暗殺事件(鹿島又之允) | 1869年12月16日 | 1869年2月15日 | 1870年11月3日に梟首刑執行。 |
1870年代
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
大村益次郎暗殺事件(關島金十郎) | 1869年10月7日 | 1870年1月28日に梟首刑執行。 | |
大村益次郎暗殺事件(金輪五郎) | 1869年10月7日 | 1870年1月28日に梟首刑執行。 | |
大村益次郎暗殺事件(五十嵐伊織) | 1869年10月7日 | 1870年1月28日に梟首刑執行。 | |
大村益次郎暗殺事件(太田光太郎) | 1869年10月7日 | 1870年1月28日に梟首刑執行。 | |
大村益次郎暗殺事件(團伸二郎) | 1869年10月7日 | 1870年1月28日に梟首刑執行。 | |
高崎五万石騒動(高井喜三郎) | 1870年3月5日 | 1869年11月20日 | 凶作を契機に重い年貢を課せられていた農民らが起こした一揆。1870年3月5日に斬罪執行[5]。 |
高崎五万石騒動(佐藤三喜蔵) | 1870年3月5日 | 1869年11月20日 | 1870年3月5日に斬罪執行[5]。 |
会田・麻績騒動(藤松長兵衛) | 1869年9月30日 | 1870年6月26日もしくは6月28日に斬罪執行[6][7]。 | |
会田・麻績騒動(小林愛次郎) | 1869年9月30日 | 1870年6月28日に斬罪執行[7]。 | |
庚午事変(平瀬伊右衛門) | 1870年9月7日 | 1870年6月11日 | 1870年9月27日に切腹刑執行[8]。 |
庚午事変(大村純安) | 1870年9月7日 | 1870年6月11日 | 1870年9月27日に切腹刑執行[8]。 |
庚午事変(多田禎吾) | 1870年9月7日 | 1870年6月11日 | 1870年9月27日に切腹刑執行[8]。 |
庚午事変(南堅夫) | 1870年9月7日 | 1870年6月11日 | 1870年9月27日に切腹刑執行[8]。 |
庚午事変(小川錦司) | 1870年9月7日 | 1870年6月11日 | 1870年9月27日に切腹刑執行[8]。 |
庚午事変(三木寿三郎) | 1870年9月7日 | 1870年6月11日 | 1870年9月27日に切腹刑執行[8]。 |
庚午事変(瀧直太郎) | 1870年9月7日 | 1870年6月11日 | 1870年9月27日に切腹刑執行[8]。 |
庚午事変(藤岡次郎太夫) | 1870年9月7日 | 1870年6月11日 | 1870年9月27日に切腹刑執行[8]。 |
庚午事変(新居与一助(新居水竹)) | 1870年9月7日 | 1870年6月11日 | 1870年10月9日に切腹刑執行[8]。 |
庚午事変(小倉富三郎) | 1870年9月7日 | 1870年6月11日 | 1870年10月9日に切腹刑執行[8]。 |
高崎五万石騒動(小島文次郎) | 1869年11月20日 | 1870年10月1日に斬罪執行[5]。 | |
ばんどり騒動(宮崎忠次郎) | 1870年11月20日 | 1869年10月-11月 | 年貢減免などを要求して一揆を指導。1870年11月20日に斬罪執行[9]。 |
上田騒動(九郎右衛門) | 1869年9月21日 | 幕末の政情不安に加え、偽二分金の流通により農村の経済が混乱したことで発生した世直し一揆。1870年11月20日梟首刑執行[10]。 | |
雲井龍雄事件(雲井龍雄) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 新政府に不満を持つ旧幕府方諸藩の藩士と集会を開いていたことが政府転覆の陰謀とみなされた。1871年2月17日梟首刑執行[11]。 |
雲井龍雄事件(原直鐵) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(簗瀬勝吉) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(南齊敬吉) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(三木勝) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(大忍坊源吾) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(増岡謇吉) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(星野彌吉) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(田中晋六郎) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(能見武一郎) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(自在院) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(願龍寺慈觀) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(師岡千牧) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(茂木盛朴) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
中野騒動 | 1871年2月8日 | 斬罪6人、絞罪22人。 | |
本多政均暗殺事件(山邊沖太郎) | 1871年4月3日 | 1869年9月12日 | 即日切腹刑執行[12]。 |
本多政均暗殺事件(井口義平) | 1871年4月3日 | 1869年9月12日 | 即日切腹刑執行[12]。 |
松代騒動(小平甚右衛門) | 1871年7月13日 | 1871年1月15日 | 藩が発行した藩札の太政官札に対する2割5分引きの撤回を求める農民一揆を指導。即日斬罪執行[13]。 |
太政官札贋造事件(立花増美) | 1871年8月17日 | 1870年 | 即日斬罪執行。 |
太政官札贋造事件(矢野安雄) | 1871年8月17日 | 1870年 | 即日斬罪執行。 |
太政官札贋造事件(小河愛四郎) | 1871年8月17日 | 1870年 | 即日斬罪執行。 |
太政官札贋造事件(徳永織人) | 1871年8月17日 | 1870年 | 即日斬罪執行。 |
太政官札贋造事件(三隈傳八) | 1871年8月17日 | 1870年 | 即日斬罪執行。 |
大浜騒動(石川台嶺) | 1871年12月28日 | 1871年3月9日 | 廃仏毀釈反対運動中に発生した暴動事件。1871年12月29日に死刑(斬罪)執行(29歳没)[14][15]。 |
大浜騒動(榊原喜與七) | 1871年12月28日 | 1871年3月9日 | 上記共犯。1871年12月29日に絞罪執行(37歳没)[15]。 |
二卿事件(外山光輔) | 1872年1月12日 | 1871年3月18日 | 即日切腹刑執行[16]。 |
二卿事件(愛宕通旭) | 1872年1月12日 | 1871年3月18日 | 即日切腹刑執行[16]。 |
二卿事件(比喜田源二) | 1872年1月12日 | 1871年3月18日 | 即日斬罪執行[16]。 |
二卿事件(古賀十郎) | 1872年1月12日 | 1871年3月18日 | 即日斬罪執行[16]。 |
二卿事件(初岡敬二) | 1872年1月12日 | 1871年3月18日 | 即日斬罪執行[16]。 |
二卿事件(河上彦斎) | 1872年1月12日 | 1871年3月18日 | 即日斬罪執行[16]。 |
久留米藩難事件(小河真文) | 1872年1月12日 | 1870-1871年 | 即日斬罪執行。 |
土佐膏取り一揆(竹本森三郎) | 1872年1月 | 「徴兵令によって年齢を調査し、家屋に番号を付すのは外国人が子供の油を取るためだ」との事実無根の噂を信じた農民らが起こした暴動。旧知事、穢多非人の復活及び政令を十年前に戻すことを要求。主犯の竹本は自らを「五明山の大将平兵部之助」と名乗り、小袴を着用の上帯刀。采牌を執って数百人を指揮して各村を扇動した。1872年2月14日に梟首刑執行[17][18]。 | |
土佐膏取り一揆(兼󠄁太郎) | 1872年1月 | 1872年2月14日に梟首刑執行[17][18]。 | |
土佐膏取り一揆(善平) | 1872年1月 | 1872年2月16日に梟首刑執行[17][18]。 | |
土佐膏取り一揆(作治) | 1872年1月 | 1872年2月16日に梟首刑執行[17][18]。 | |
土佐膏取り一揆(覺治) | 1872年1月 | 1872年2月16日に梟首刑執行[17][18]。 | |
殺鼠剤毒殺事件(原田きぬ) | 1872年3月28日に小塚原刑場で死刑執行(斬首刑)。 | ||
若松県内徒刑場の反乱計画(庄八) | 1872年5月29日 | 1871年 | 強姦と恐喝の罪で徒3年の刑を受け服役していた庄八は、旧会津藩の脱走者らが旧会津藩を復興させようと画策しているとの風聞を聞き共鳴。準流の受刑者200人を誘って徒刑場の役人を殺害の上、会津城に立て篭もって大砲小銃で官邸を襲撃する計画を立てていたが、同囚の者に悟られ密告された。庄八は共犯者とともに斬罪を求刑され、司法省は1872年5月29日、庄八に梟首、他の2人に準流10年の指令を出した。判決言い渡し及び死刑執行日は不明[19][20]。 |
悌輔騒動(渡邊悌輔) | 1872年10月12日 | 1872年5月10日 | 即日梟首刑執行[21]。 |
悌輔騒動(月岡帯刀) | 1872年10月12日 | 1872年5月10日 | 即日梟首刑執行[21]。 |
悌輔騒動(金子松藏) | 1872年10月12日 | 1872年5月10日 | 即日斬罪執行[21]。 |
悌輔騒動(花井五右衛門) | 1872年10月12日 | 1872年5月10日 | 即日斬罪執行[21]。 |
悌輔騒動(川崎九郎治) | 1872年10月12日 | 1872年5月10日 | 即日斬罪執行[21]。 |
悌輔騒動(關五太郎) | 1872年10月12日 | 1872年5月10日 | 即日絞罪執行[21]。 |
悌輔騒動(笹川六七郎) | 1872年10月12日 | 1872年5月10日 | 即日絞罪執行[21]。 |
玉乃世履暗殺未遂事件(服部喜平治) | 1872年10月29日 | 1872年9月12日 | 民事訴訟で恨みを持たれ、短刀で襲撃される。殺人未遂罪で即日斬罪執行[22]。 |
石鐵県死刑囚蘇生事件(田中藤作) | 1872年11月 | 1871年8月15日 | 放火犯。死刑執行も、不備により蘇生。再度の死刑執行はされず。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(岡野悌五郎暗殺事件)(本多弥一) | 1872年12月4日 | 1871年12月28日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(岡野悌五郎暗殺事件)(富田総) | 1872年12月4日 | 1871年12月28日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(岡野悌五郎暗殺事件)(鏑木勝喜知) | 1872年12月4日 | 1871年12月28日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(岡野悌五郎暗殺事件)(吉見亥三郎) | 1872年12月4日 | 1871年12月28日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(菅野輔吉暗殺事件)(矢野策平) | 1872年12月4日 | 1871年12月28日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(菅野輔吉暗殺事件)(西村熊) | 1872年12月4日 | 1871年12月28日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(菅野輔吉暗殺事件)(舟喜鉄外) | 1872年12月4日 | 1871年12月28日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(菅野輔吉暗殺事件)(浅井弘五郎) | 1872年12月4日 | 1871年12月28日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(菅野輔吉暗殺事件)(廣田嘉三郎) | 1872年12月4日 | 1871年12月28日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(菅野輔吉暗殺事件)(湯口藤九郎) | 1872年12月4日 | 1871年12月28日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(多賀堅三郎暗殺事件)(芝木喜内) | 1872年12月4日 | 1872年1月4日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(多賀堅三郎暗殺事件)(藤江金三郎) | 1872年12月4日 | 1872年1月4日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
大小切騒動(小沢留兵衛) | 1872年9月10日 | 1872年12月10日に絞罪執行。 | |
大小切騒動(島田富十郎) | 1872年9月10日 | 1872年12月10日に絞罪執行。 | |
大小切騒動(倉田利作) | 1872年9月10日 | 準流10年となったが、囚人数名とともに脱獄。再び捕縛され処刑。 | |
越前護法大一揆(高橋多左衛門) | 1873年3月22日 | 1873年3月6日 | 新政府が仏教を排斥する方針との誤った噂が広がったことにより発生。寺の住職や庄屋を指導者として農民数万人が各地で焼き打ちや打ちこわしを行った。1873年4月4日に斬罪執行[23][24]。 |
越前護法大一揆(棚専乗) | 1873年3月22日 | 1873年3月6日 | 1873年4月4日に斬罪執行[23][24]。 |
越前護法大一揆(金森顕順) | 1873年3月22日 | 1873年3月6日 | 1873年4月4日に斬罪執行[23][24]。 |
越前護法大一揆(桑崎與八郎) | 1873年3月22日 | 1873年3月6日 | 1873年4月4日に絞罪執行[23][24]。 |
越前護法大一揆(桶屋治助) | 1873年3月22日 | 1873年3月6日 | 1873年4月4日に絞罪執行[23][24]。 |
越前護法大一揆(竹尾五右衛門) | 1873年3月22日 | 1873年3月6日 | 1873年4月4日に斬罪執行[23][24]。 |
豊後農民騒擾(後藤吉十郎) | 1873年4月30日 | 1873年1月13日 | 知藩事の復活と諸新令の改正を求める騒擾を首謀[25]。 |
豊後農民騒擾(阿南千代五郎) | 1873年4月30日 | 1873年1月13日 | 上記共犯。即日斬罪執行[25]。 |
豊後農民騒擾(麻布菊治) | 1873年4月30日 | 1873年1月13日 | 上記共犯。即日斬罪執行[25]。 |
豊後農民騒擾(安部音平) | 1873年4月30日 | 1873年1月13日 | 上記共犯。少属(警察官)の従者を殴殺。即日絞罪執行[25][26]。 |
美作騒擾(筆保宇太郎) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 外国人の通行止め、徴兵令・小学校・太陽暦の廃止等を求めて蜂起。即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(高橋辨藏) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(川田嘉平治) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(宇治貞藏) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(内山豊藏) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(蘆谷島五郎) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(水島寅平) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(大谷類治郎) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(川島伴次郎) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(井上良藏) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(蘆平林平) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(内田數平) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(鈴木七郎治) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(小林久米藏) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(蘆田島吉) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
筑前竹槍一揆(井上勝次) | 1873年7月5日 | 1873年6月16日 | 即日斬罪執行[28]。 |
筑前竹槍一揆(石坂九右衛門) | 1873年7月5日 | 1873年6月16日 | 即日斬罪執行[28]。 |
筑前竹槍一揆(長澤小三郎) | 1873年7月5日 | 1873年6月16日 | 即日斬罪執行[28]。 |
筑前竹槍一揆(淵上琢璋) | 1873年7月5日 | 1873年6月16日 | 即日絞罪執行[28]。 |
西讃竹槍騒動(矢野文次) | 1873年8月2日 | 1873年6月27日 | 1873年10月28日に斬罪執行[29][30]。 |
西讃竹槍騒動(合田龜太郎) | 1873年8月2日 | 1873年6月27日 | 1873年10月28日に斬罪執行[29][30]。 |
西讃竹槍騒動(横内駒吉) | 1873年8月2日 | 1873年6月27日 | 1873年10月28日に斬罪執行[29][30]。 |
西讃竹槍騒動(大谷清平) | 1873年8月2日 | 1873年6月27日 | 1873年10月28日に斬罪執行[29][30]。 |
西讃竹槍騒動(矢野丹次) | 1873年8月2日 | 1873年6月27日 | 1873年10月28日に絞罪執行[29][30]。 |
西讃竹槍騒動(矢野廣次) | 1873年8月2日 | 1873年6月27日 | 1873年10月28日に絞罪執行[29][30]。 |
西讃竹槍騒動(篠原伊勢吉) | 1873年8月2日 | 1873年6月27日 | 1873年10月28日に絞罪執行[29][30]。 |
喰違の変(武市熊吉) | 1874年7月9日 | 1874年1月14日 | 即日斬罪執行。 |
喰違の変(武市喜久馬) | 1874年7月9日 | 1874年1月14日 | 即日斬罪執行。 |
喰違の変(山崎則雄) | 1874年7月9日 | 1874年1月14日 | 即日斬罪執行。 |
喰違の変(島崎直方) | 1874年7月9日 | 1874年1月14日 | 即日斬罪執行。 |
喰違の変(下村義明) | 1874年7月9日 | 1874年1月14日 | 即日斬罪執行。 |
喰違の変(岩田正彦) | 1874年7月9日 | 1874年1月14日 | 即日斬罪執行。 |
喰違の変(中山泰道) | 1874年7月9日 | 1874年1月14日 | 即日斬罪執行。 |
喰違の変(中西茂樹) | 1874年7月9日 | 1874年1月14日 | 即日斬罪執行。 |
喰違の変(澤田悦彌太) | 1874年7月9日 | 1874年1月14日 | 即日斬罪執行。 |
佐賀の乱(江藤新平) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日梟首刑執行。 |
佐賀の乱(島義勇) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日梟首刑執行。 |
佐賀の乱(副島義高) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日斬罪執行。 |
佐賀の乱(村山長栄) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日斬罪執行。 |
佐賀の乱(福地常彰) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日斬罪執行。 |
佐賀の乱(重松基吉) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日斬罪執行。 |
佐賀の乱(中川義純) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日斬罪執行。 |
佐賀の乱(山中一郎) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日斬罪執行。 |
佐賀の乱(中島鼎蔵) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日斬罪執行。 |
佐賀の乱(朝倉尚武) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日斬罪執行。 |
佐賀の乱(西義質) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日斬罪執行。 |
佐賀の乱(香月経五郎) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日斬罪執行。 |
佐賀の乱(山田平蔵) | 1874年4月17日 | 1874年2月1日 | 即日斬罪執行。 |
ドイツ領事ハーバー殺害事件(田崎秀親) | 1874年9月26日 | 1874年8月11日 | 自らが修めている皇学が衰退してきているのは外国人と親しくしているためと考えた秋田県士族の田崎は、外人を斬害しようと郷里を出奔。函館に赴いたところ、外国人であるドイツ領事ルードヴィッヒ・ハーバーを見つけたため、追いかけて殺害した。函館裁判所で罪状申渡の上即日斬罪執行[31][32]。 |
紅屋の市右衛門毒殺事件(浅子お仲) | 1876年8月24日 | 1874年8月6日 | 浅草で紅屋(現在の化粧品販売店に当たる。)を営んでいた夫の市右衛門が長年に渡り病気の身であることをきっかけに紅屋で働いていた安川巳之助と不倫関係を持つ。そして、自身が安川との間に出来た子供を懐妊しお腹が膨らんできたのをきっかけに、安川と共謀して殺害し、正式に夫婦となり紅屋の乗っ取りを決意する。そして、医師の鹿倉道伯に夫を病気の苦しみから解放し、楽に極楽浄土へ逝かせるための薬が欲しい。」と何度もしつこく催促し毒薬を貰って、1874年8月6日午前10時ごろに市右衛門を毒殺。しかし、お仲の息子が跡を継ぐことになり、当初の目的が果たせず、失敗に終わってしまう。なお、お仲が身ごもっていた子供は、鹿倉道伯に3円払って中絶している[33]。
この毒殺事件により、1876年8月24日に東京裁判所で梟首(獄門)刑の判決を下されたが[34][35]、明治12年(1879年)1月4日に明治12年太政官布告第1号により梟首を正式に廃止[36][37]されたため斬首刑となり、高橋お伝と同じ市ヶ谷監獄で同じ日に高橋お伝と安川巳之助より前に、斬首刑により執行された[38][39]。 また、西南戦争で西郷軍側に立ち戦ったことにより禁錮5年の刑を受刑した高田露によれば、浅子お仲は執行前に安川巳之助に「では、私は一歩先に参ります。貴方もすぐにいらっしゃいな。」と言いながら談笑していたという[39]。 |
紅屋の市右衛門毒殺事件(安川巳之助) | 1876年8月24日 | 1874年8月6日 | 上記の浅子お仲と共謀して、浅子お仲の夫を毒殺。その後、お仲と一緒に暮らしたいため、1874年12月26日夜にお仲の家の物置を放火して58戸を延焼させ、失火であると偽る。
放火事件後、お仲が自分に冷たい態度を取り、他の男との関係をもっている噂を聞いたことをきっかけにお仲殺害を決意。1875年3月29日に購入した折箱寿司に殺鼠剤を混ぜて、お仲・お仲の息子・お仲の弟がそれを食べ腹痛嘔吐の症状が出たものの未遂に終わる。 その後、これらの犯罪の内、浅子お仲の夫を毒殺したことを理由に1876年8月24日に東京裁判所(現・東京地方裁判所)で斬首刑の判決が下されこととなった[40][35][41] そして、安川巳之助の斬首刑執行を担当していた八代目山田浅右衛門の弟吉亮によれば、斬首刑の執行に対する恐怖のあまり震えていたため、高橋お伝はこの姿に対し笑って、 「お前さんも臆病だね。男の癖にさ。私をご覧よ。女じゃあないか。」 と励ましていた[38][42]。そして、高橋お伝より1つ前になる形で1879年1月31日に死刑執行。 |
呉服屋店主井上仙次郎殺人事件(井上喜三郎) | 1875年3月19日 | 1875年2月2日 | 明治維新後の日本史上初の少年死刑囚(当時18歳)。1874年9月20日に結婚をしたが、夫婦仲が悪く、1875年1月15日に離婚をし、実兄であり新潟県で呉服屋を営む井上仙次郎の家に舞い戻った。そして、商売をするための費用が必要となり、父が亡くなった際に遺言により本宅の土地家屋を仙次郎、別宅の土地家屋を喜三郎を相続していたが、本宅は売却され、別宅が仙次郎の住む家となったため、別宅を売却して費用を捻出することが出来なくなっていた。
井上仙次郎に前述を理由に財産の分け与えるよう直談判したが、分け与えても商売のために使わないと判断されたため、聞き入れてもらえず、仙次郎殺害を決意する。 そして、1875年2月2日夜に仙次郎が寝ているときに、短刀で喉元を突き刺し殺害し、同日7日に逮捕された[43][44]。その後、同年3月19日に司法省より尊属殺人の罪で梟示(獄門)にするよう認可され、同月23日に新潟県へ指令が出され、同月31日に判決を言い渡された[45][46][47]。 なお、1875年3月時点で18歳5ヵ月であり20歳未満であった。 |
おしん短刀串刺し殺人事件(白澤喜三郎) | 1875年9月19日 | 1875年2月11日 | 表具師の白澤喜三郎は、飯島おしんと1872年4月24日に結婚したが、自身の我侭で粗暴な性格とおしんの両親の言うことを聞きいれず夫婦仲が悪くなり、1875年2月1日に離縁状と手切れ金10円(現在の価値で20万円[48])で離婚した。その後、同年2月11日の夜に飯島おしんに忍び寄り、寝ているおしんを短刀で気管を突き破る形で串刺しにして殺害する。その際、おしんの父は、娘の殺害に怒り、白澤喜三郎に飛降りて、組伏せ押さえつけていた[49][50][44]。
執行月日は不明だが、司法省の死刑認可日が1875年9月19日であるため、その日以降から1875年12月31日までの間で執行された可能性がある[51][52]。 なお、Wikipediaの「東京日日新聞」に、この事件の様子を現した錦絵の画像(短刀による串刺し殺害のおしんの遺体が描きだされているため、閲覧注意)が掲載されている。 |
神風連の乱(浦楯記) | 1876年12月3日 | 1876年10月24日 | 即日斬罪執行[53]。 |
神風連の乱(高津運記) | 1876年12月3日 | 1876年10月24日 | 即日斬罪執行[53]。 |
神風連の乱(吉村義節) | 1876年12月3日 | 1876年10月24日 | 即日斬罪執行[53]。 |
秋月の乱(今村百八郎) | 1876年12月3日 | 1876年10月27日 | 即日斬罪執行。 |
秋月の乱(益田静方) | 1876年12月3日 | 1876年10月27日 | 即日斬罪執行[53]。 |
萩の乱(佐世八十郎(前原一誠)) | 1876年12月3日 | 1876年10月28日 | 即日(翌日説あり)斬罪執行。 |
萩の乱(奥平謙輔) | 1876年12月3日 | 1876年10月28日 | 即日(翌日説あり)斬罪執行。 |
萩の乱(山田頴太郎) | 1876年12月3日 | 1876年10月28日 | 即日(翌日説あり)斬罪執行。 |
萩の乱(佐世一清) | 1876年12月3日 | 1876年10月28日 | 即日(翌日説あり)斬罪執行。 |
萩の乱(小倉信一) | 1876年12月3日 | 1876年10月28日 | 即日(翌日説あり)斬罪執行。 |
萩の乱(有福旬允) | 1876年12月3日 | 1876年10月28日 | 即日(翌日説あり)斬罪執行。 |
萩の乱(横山俊彦) | 1876年12月3日 | 1876年10月28日 | 即日(翌日説あり)斬罪執行。 |
萩の乱(河野義一) | 1876年12月3日 | 1876年10月28日 | 即日(翌日説あり)斬罪執行。 |
思案橋事件(井口慎次郎) | 1877年2月7日 | 1876年10月29日 | 即日斬罪執行[54][55]。 |
思案橋事件(中原成業) | 1877年2月7日 | 1876年10月29日 | 即日斬罪執行[54][55]。 |
思案橋事件(竹村俊秀) | 1877年2月7日 | 1876年10月29日 | 即日斬罪執行[54][55]。 |
堤上村老人強盗殺人事件(土川與五郎) | 1877年3月27日 | 1868年7月17日 | 土川は廃寺の堂主及び掃除をして生活していたが、80代位の老人がその仕事を引き継ぐことになった。その際に被害者は貯金をしている様子だったことから強盗を計画。2人の共犯者(深谷艶吉・篠塚直十)とともに金を出さなかったら殺すと被害者を脅したが、出さなかったため竹や棒で殴打した。被害者は強盗に殴られたと隣家に助けを求めたが、そこで力尽きた。1868年、土川は一度笠間藩に逮捕されたが、深谷に罪をなすりつけ、自分は見張っていただけで殴っていない旨証言したため徒30日に処された。しかし、1875年に深谷が逮捕され事件を自供したことから土川も再逮捕された。一審の茨城裁判所は、被害者の死因は病死の可能性があるとして殺人を認めず、土川に懲役3年、深谷に別件の事件と併せて終身刑を言い渡した。検察は判決を不服として上告。その後大審院は強盗殺人の成立を認めて土川に斬罪を言い渡した。深谷は上告中に病死している[56]。 |
福岡の変(越智彦四郎) | 1877年5月1日 | 1877年3月27日 | 斬罪執行[57]。 |
福岡の変(久光忍太郎) | 1877年5月1日 | 1877年3月27日 | 斬罪執行[57]。 |
福岡の変(村上彦十) | 1877年5月1日 | 1877年3月27日 | 斬罪執行[57]。 |
福岡の変(加藤堅武) | 1877年5月1日 | 1877年3月27日 | 斬罪執行[57]。 |
福岡の変(武部小四郎) | 1877年5月1日 | 1877年3月27日 | 斬罪執行[57]。 |
西南戦争(大山綱良) | 1877年9月30日 | 1877年1月29日 | 即日斬罪執行[58]。 |
西南戦争(上田休) | 1877年9月30日 | 1877年1月29日 | 即日斬罪執行[58]。 |
西南戦争(堀田政一) | 1877年1月29日 | 1877年10月6日に斬罪執行[58][59]。 | |
西南戦争(後藤純平) | 1877年10月22日 | 1877年1月29日 | 即日斬罪執行[58]。 |
西南戦争(坂田諸潔) | 1877年10月22日 | 1877年1月29日 | 即日斬罪執行[58]。 |
西南戦争(鮫島元) | 1877年1月29日 | 1877年10月25日に斬罪執行[58]。 | |
西南戦争(池辺吉十郎) | 1877年10月26日 | 1877年1月29日 | 即日斬罪執行[58]。 |
西南戦争(石井貞興) | 1877年10月26日 | 1877年1月29日 | 即日斬罪執行[58]。 |
西南戦争(松浦新吉郎) | 1877年10月31日 | 1877年1月29日 | 斬罪執行[58]。 |
西南戦争(櫻田總四郎) | 1877年10月31日 | 1877年1月29日 | 斬罪執行[58]。 |
西南戦争(友成正雄) | 1877年10月31日 | 1877年1月29日 | 斬罪執行[58]。 |
西南戦争(大里八郎) | 1877年10月31日 | 1877年1月29日 | 斬罪執行[58]。 |
西南戦争(横山經營) | 1877年1月29日 | 1877年12月30日に斬罪執行[58]。 | |
広島県笠岡町川上松助殺人事件(川上春) | 女性死刑囚、出刃包丁で夫を殺害、1878年2月15日に梟首刑[60]。 | ||
紀尾井坂の変(島田一郎) | 1878年7月27日 | 1878年5月14日 | 大久保利通殺害犯。同志5人とともに判決確定1時間後に斬首刑に処せられた(30歳没)。 |
紀尾井坂の変(長連豪) | 1878年7月27日 | 1878年5月14日 | 上記共犯で斬首刑に処された(23歳没)。 |
紀尾井坂の変(杉本乙菊) | 1878年7月27日 | 1878年5月14日 | 上記共犯で斬首刑に処された(30歳没)。1889年に大赦。 |
紀尾井坂の変(脇田巧一) | 1878年7月27日 | 1878年5月14日 | 上記共犯で斬首刑に処された(29歳没)。1889年に大赦。 |
紀尾井坂の変(浅井寿篤) | 1878年7月27日 | 1878年5月14日 | 上記共犯で斬首刑に処された(25歳没)。1889年に大赦。 |
紀尾井坂の変(杉村文一) | 1878年7月27日 | 1878年5月14日 | 犯行当時は18歳(少年死刑囚)、上記共犯で斬首刑に処された(18歳没)。1889年に大赦。 |
梅吉殺人事件(稲イシ) | 1878年10月3日 | 1878年1月21日 | 夫の不倫を疑い、夫の就寝中に13か所に傷を負わせ刺殺。1878年10月14日に死刑執行。 日本国内最後の女性梟首(獄門)囚 |
竹橋事件(三添卯之助) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 小島万助、長島竹四郎を誘って反乱を起こした罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(小島万助) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 三添卯之助の発意に乗り、各部隊を誘って反乱を起こした罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(長島竹四郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 三添卯之助の発意に乗り、各部隊を誘って反乱を起こした罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(広瀬喜市) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(野中与吉) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(高橋小三郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(藤橋吉三郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(松本久三郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(水上丈平) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(馬場鉄市) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(新熊安三郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(谷新四郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(金井惣太郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(宮崎関四郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(松宮弁次郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(小川弥蔵) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり深沢巳吉大尉を斬りつけた罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(辻亀吉) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり官金を窃取、更に深沢巳吉大尉を斬りつけた罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(田島森助) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり宇都宮茂敏少佐を殺害した罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(岩本久造) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(浅見綾次郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(松居善助) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(近藤祖舟) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(笹井常七) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(見山今朝治) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(山本丈作) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(今井政十郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり、捕縛の際に士官に抵抗した罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(堤熊吉) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり宇都宮茂敏少佐を殺害した罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(沢本久米吉) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり官金を窃取した罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(宮崎忠次) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 兵卒を誘って反乱を企てた罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(真田兼松) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 兵卒を誘って反乱を企てた罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(高見沢卯助) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 兵卒を誘って反乱を企てた罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(鈴木直次) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 兵卒を反乱に誘った罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(横山昇) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(是永虎市) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(伊藤丈三郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(桜井鶴次) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(布施千吉) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(久保田善作) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(木村円解) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(菊池作次郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(永合竹次郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(佐藤種五郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(本橋兼次郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(吉田定吉) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(新家仲吉) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(浦塚城次郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(高橋竹四郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(羽成常助) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり深沢巳吉大尉を殺害した罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(門井藤七) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり深沢巳吉大尉に斬りつけた罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(中沢章治) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり放火した罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(山中繁蔵) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり大砲を発射した罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(山部七蔵) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり官金を窃取した罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(木島次三郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり官金を窃取した罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
東京・浅草蔵前古物商強盗殺人事件(高橋お伝) | 1879年1月31日 | 1876年8月23日 | 1879年1月31日に死刑執行。 |
竹橋事件(平山荆) | 1879年4月10日 | 1878年8月23日 | 小島万助らの賞典減給に不平を抱いており、横山昇らが反乱に加わった際にはこれを制止せず、様子を見て自らも加わろうとした。即日死刑執行[61][62]。 |
竹橋事件(梁田正直) | 1879年4月10日 | 1878年8月23日 | 小島万助らの賞典減給に不平を抱いており、様子を見て自らも反乱に加わろうとした。即日死刑執行[61][62]。 |
1880年代
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
千葉媒酌人一家6人殺害事件(横森末吉) | 1880年4月22日 | 1879年2月27日 | 横森は妻と不仲になったため仲直りをしようとしたが、媒酌人に妨害された上、罵られたことに憤怒し、媒酌人の殺害を決意。脇差を持って被害者宅に侵入し媒酌人を殺害したが、その際に妻子も目覚め出したため精神錯乱状態に陥り、手当たりしだいに切り付けて被害者の妻子5人も殺害した。一審の東京上等裁判所は、本来は斬罪であるところ情状を酌量し終身刑を言い渡した。検事は判決を不服として上告。大審院は妻子まで殺害したことに情状酌量の余地は無いとして一審を破棄、被告に斬罪を言い渡した[63]。 |
堤上村老人強盗殺人事件(篠塚直十) | 1880年7月9日 | 1868年7月17日 | 土川與五郎(1877年死刑判決)らと共謀し老人を殺害して金を奪う。被告は事件後金を酒のツケ返済に充てて逃亡したが、1879年に賭博で逮捕され、その過程で過去の殺人を詳細に自白した。一審の熊谷裁判所前橋支庁は事件を殺意が低い“闘殴殺”に近いものとして認定した上で、改定律例頒布以前であることを酌量し懲役10年を言い渡した。検事は判決を不服として上告。大審院は殺意を認めて一審を破棄、被告に斬罪を言い渡した[64]。 |
大蔵三等属一家4人強盗殺人事件 (岩尾竹次郎) | 1881年 | 1881年2月 | 1881年7月27日に死刑執行。九代目山田浅右衛門による最後の斬首刑[55][65]。 |
大蔵三等属一家4人強盗殺人事件 (川口国蔵) | 1881年 | 1881年2月 | 上記共犯者、1881年7月27日に死刑執行。九代目山田浅右衛門による最後の斬首刑。 |
養父母謀殺・放火事件(柳井鶴松) | 1883年7月11日[66] | 1882年10月14日 | 養父母を殴殺し、家屋に放火。 |
養父母謀殺事件(會田佐十郎) | 1883年7月23日[67] | 1883年3月3日 | 1883年7月20日頃死刑執行(28歳没)[68]。 |
愛媛県管生村持凶器窃盗未遂・故殺事件(山中道太郎) | 1883年7月24日[69] | 1883年1月21日 | 被害者宅に窃盗目的で侵入し、住人を殺害。 |
煙草店強盗殺傷事件(表谷嘉十郎) | 1883年8月25日[70] | 1882年8月18日 | 煙草店に宿泊した夜、同店管理人を殺害、雇人に重傷を負わせ、金五十圓を強奪。死刑執行[71]。 |
養母謀殺事件(寺田善吉) | 1883年9月4日[72] | 1882年9月1日[73] | 実家から持ち出した脇差で養母を殺害。 |
島根県本郷村強盗殺人事件(藤野天丸) | 1884年6月10日[74] | 1882年8月12日 | 被害者宅に押し入り、家人を縛っている際に同家の養子が裏口から逃げ出し、隣家に助けを求めようとしたため、追いかけて殺害。 |
島根県本郷村強盗殺人事件(田中其太) | 1884年6月10日 | 1882年8月12日 | 上記共犯者。 |
斬首謀殺事件(佐伯京藏) | 1884年6月11日[75] | 1882年10月18日 | 佐伯は明治14年以来、脱獄や強窃盗、殺人等10個の罪を犯した。その内被害者を食事中に裏庭に呼び出して斬首した謀殺の罪で死刑判決。 |
賭博仲間謀殺・金品強奪事件(神長吉五郎) | 1884年10月10日[76] | 1883年12月17日 | 賭博中に被害者が不良品のサイコロを使用したとして口論になったため、熟睡を窺って殺害し、金品を強奪。 |
賭博仲間謀殺・金品強奪事件(神長百藏) | 1884年10月10日 | 1883年12月17日 | 上記共犯者 |
大阪府長興寺村夫婦強盗殺人事件(清水藤吉) | 1884年10月29日[77] | 1882年11月8日 | 夜、氏名不詳の4名と共謀して被害者宅に押し入り、夫婦を殺害、同家に居合わせた一名に傷を負わせ、金品を強奪した。 |
秩父事件(田代栄助) | 1885年2月19日 | 1884年10月31日-11月9日 | 政府に対する武装蜂起。1885年5月17日に死刑執行(52歳没)。 |
秩父事件(加藤織平) | 1885年2月19日 | 1884年10月31日-11月9日 | 上記共犯として死刑執行(37歳没)。 |
秩父事件(高岸善吉) | 1885年2月19日 | 1884年10月31日-11月9日 | 上記共犯として死刑執行(37歳没)。 |
秩父事件(坂本宗作) | 1885年2月19日 | 1884年10月31日-11月9日 | 上記共犯として死刑執行(32歳没)。 |
秩父事件(新井周三郎) | 1885年2月19日 | 1884年10月31日-11月9日 | 上記共犯として死刑執行(24歳没)。 |
秩父事件(菊池貫平) | 1885年2月19日 | 1884年10月31日-11月9日 | 上記共犯で死刑判決を受けるも、逃走中だったため欠席裁判となる。1886年に強盗教唆で逮捕されて収監されるが、大日本帝国憲法発布の大赦で免罪、別件で無期懲役。1905年に出獄、1914年死去。 |
秩父事件(井上伝蔵) | 1885年2月19日 | 1884年10月31日-11月9日 | 上記共犯で死刑判決を受けるも、逃走中だったため欠席裁判となる。北海道で変名で生活し、1918年に死去。 |
人力車夫殺害事件(赤井景韶) | 1885年6月9日[78] | 1884年 | 高田事件で重禁錮9年の判決を受けて服役中に脱獄し、逃走中に人力車夫を殺害して逮捕された。1885年7月27日に死刑執行[79](27歳没)。 |
加波山事件(富松正安) | 1886年8月12日 | 1884年9月23日 | 栃木県令三島通庸の暗殺未遂。1886年10月5日に死刑執行(38歳没)。 |
加波山事件(保多駒吉) | 1886年8月12日 | 1884年9月23日 | 上記共犯で死刑執行(27歳没)。 |
加波山事件(琴田岩松) | 1886年8月12日 | 1884年9月23日 | 上記共犯で死刑執行(25歳没)。 |
加波山事件(小針重雄) | 1886年8月12日 | 1884年9月23日 | 上記共犯で死刑執行(23歳没)。 |
加波山事件(杉浦吉副) | 1886年8月12日 | 1884年9月23日 | 上記共犯で死刑執行(43歳没)。 |
加波山事件(三浦文治) | 1886年8月12日 | 1884年9月23日 | 上記共犯で死刑執行(31歳没)。 |
加波山事件(横山信六) | 1886年8月12日 | 1884年9月23日 | 上記共犯で死刑判決を受けるが、執行前の1886年9月3日に肺病のため獄死[80](24歳没)。 |
「青森の亭主殺し」事件(小山内スミ) | 1886年11月6日 | 1886年8月18日 | 12月に死刑執行。浮気相手(小野長之助)と共謀し、青森県陸奥国中津軽郡鬼沢村(現在の弘前市)で自分の夫を殺害した女性死刑囚。法に反して公開で斬首刑に処されたという。地元では数え歌が作られたり、『鬼沢新聞・枕の刃』という覗きメガネが作られた[81]。 |
「青森の亭主殺し」事件(小野長之助) | 1886年11月6日 | 1886年8月18日 | 12月に死刑執行。上記共犯[81]。 |
「ピストル強盗[82]」事件(清水定吉) | 1887年8月[83] | 1882年 - 1886年 | 日本最初のピストル強盗。1887年9月7日に死刑執行[83]。 |
尻無川事件(佐野義一) | 1888年10月16日 | 1887年1月2日 | 大臣暗殺を企て上阪したが、尻無川で金銭のもつれから高知県人を縊殺[84][85]。1889年4月15日に死刑執行[86]。 |
1890年代
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
強盗殺人事件(長島高之助) | 1893年5月12日 | 1893年7月24日 | 強盗目的で侵入し、犯罪の発覚を恐れて斧で須崎光太郎に重傷を負わせ死に至らしめ、長嶋に飛び掛かってきたキミ(光太郎の妻)を殺害。更に、当時4歳だったコト(光太郎の娘)を泣き出したことを理由に殺害した。 その後、捕まり、裁判では強盗殺人ではなく須崎光太郎から賭博で貸した金の催促の際、口論となって殴っただけであると主張したが、最終的に東京控訴院により死刑判決が確定する[87][88]。そして、長島が死刑執行の3日間の猶予を懇願し、号泣しながら一寸も微動だにせず、看守らにより形場まで引き連れた上で、1893年7月27日に執行された。しかし、執行用の縄が2回とも外れ長島高之助が地上から落下してしまい、3回目でようやく執行するという事故が発生している[89][90][88]。 |
山座峠強盗殺人事件(河野才蔵) | 1893年5月20日 | 1893年4月9日 | 1904年6月13日に死刑執行[91]。 |
連続針金強盗殺人事件(貝原喜勢冶) | 1897年3月 | 1894年 - 1897年 | 連続強盗殺人犯、途中で共犯となった高橋金作は無期懲役、なお、高橋金作は広島護送死刑囚脱獄事件には参加していない、処刑場に護送中に脱獄し警察官と格闘した際の傷で1897年12月死亡[92]。 |
連続針金強盗殺人事件(福永友三郎) | 1897年3月 | 1894年 - 1897年 | 上記共犯、護送中に一緒に脱獄し警察官と格闘し首を切り落とされ1897年6月死亡[92]。 |
連続針金強盗殺人事件(湊蔵貞) | 1897年3月 | 1894年 - 1897年 | 上記共犯、護送中に一緒に脱獄したが、再逮捕され広島監獄に収監[92]。 |
連続針金強盗殺人事件(明石章吉) | 1897年3月 | 1894年 - 1897年 | 上記共犯、護送中に一緒に脱獄し、以後消息不明[92]。 |
西導寺バラバラ殺人事件(黒田水精) | 1898年6月20日 | 1896年12月 | 下記共犯者である妻と共謀して、水精の従弟を金銭目的で睡眠薬を飲ませた後に殺害、その後にバラバラに解体し自分の寺である西導寺の境内に埋めた[93][94]。 |
西導寺バラバラ殺人事件(黒田華尾) | 1898年6月20日 | 1896年12月 | 上記共犯者、女性死刑囚。 |
山陽鉄道列車強盗殺人事件(岩永元吉) | 1899年2月27日 | 1898年12月2日 | 走行中の夜行列車で陸軍大尉を殺害、列車内の殺人は日本国内では最初[95]。1899年10月30日に死刑執行。 |
山陽鉄道列車強盗殺人事件(中島多次郎) | 1899年5月3日 | 1898年12月2日 | 上記共犯者、一審は無期だったが、検察が控訴し逆転死刑判決。1899年10月30日に死刑執行。 |
稲妻強盗事件(坂本慶次郎) | 1899年10月6日 | 1898年11月15 - 1899年1月23日? | 連続強盗殺人犯、日本刀やピストルを用いて強盗目的で連続的に殺害、犯行の範囲が広い事から「稲妻強盗」や「稲妻小僧」の異名を持つ。1900年2月17日に死刑執行。 |
ミルラー事件(ロバート・ミルラー) | 1899年12月23日[96] | 1899年7月17日 | 就寝中の日本人女将と店員の日本人女性(いずれも当時24歳)、アメリカ人青年(当時18歳)の3名を殺害。1900年1月16日に死刑執行[97]。日本の法律に基づく在留外国人の死刑執行第1号。 |
大和九人斬り(血塗騒動)(尾崎留吉) | 1894年4月 | 刀で一家8人を惨殺(胎児も含めると9人)[98][99][100]。 |
1900年代
1906年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
青森連続放火事件(E) | 1905年3月3日 | 1904年12月19日 - 1905年1月12日 | 快楽目的で連続的に放火、犠牲者は出なかったが、放火の罪で死刑判決[101]。 |
「紬屋殺し[102]」事件(大久保時三郎) | 1906年11月17日 | 1905年11月8日 | 紬屋1人を誘い出し殺害。そして紬屋仲間1人を偽の書状で誘い出しこれも殺害。反物を質に入れ400円を得る。さらに2人に借金をしたが返済がないと嘘を言い、家人をだまし現金を得ようとした。共犯の妻は無期徒刑となった。また、別件で詐欺もしている[103]。1909年4月23日に死刑執行[104]。 |
堀江六人斬り(中川萬次郎) | 1906年2月16日[105] | 1905年6月21日 | 親族ら6人を刀剣で斬り付け、5人を殺害。1907年2月1日に死刑執行[106]。 |
強盗殺人(矢野袈裟松) | 1906年5月25日 | 1907年4月22日に死刑執行[107]。 | |
強盗殺人(坂本善作) | 1906年7月20日 | 1908年5月16日に死刑執行[108]。 | |
強盗殺人(込山林三) | 1906年11月13日 | 1908年5月12日に死刑執行[109]。 | |
強盗殺人(東文雄) | 1906年12月7日 | 1908年5月26日に死刑執行[110]。 | |
謀殺(佐藤爲蔵) | 1906年12月7日 | 1908年5月27日に死刑執行[111]。 | |
北海道一已村一家7人殺害事件(神谷勇松) | 1906年12月18日 | 謀殺罪で死刑判決。1908年5月15日に死刑執行[108][112]。 | |
大阪貰い子殺人事件(箕形イチ) | 1906年12月25日 | 1896年 - 1906年[113] | 女性死刑囚、1906年春以来数十名〜200名以上の貰い子を殺害。残虐性極まりない犯行から「悪婆」の異名を持つ。1908年5月26日に死刑執行[110][114][115]。 |
大阪貰い子殺人事件(川原あきの) | 1906年12月25日 | 1896年 - 1906年 | 女性死刑囚、上記共犯者、1908年5月26日に死刑執行。 |
大阪貰い子殺人事件(田畑忠平) | 1906年12月25日 | 1896年 - 1906年 | 上記共犯者、1908年5月26日に死刑執行[116]。 |
強盗殺人(松田廣吉) | 1906年12月25日 | 1908年8月6日に死刑執行[117]。 |
1907年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
謀殺(石田菊次郎) | 1907年2月5日 | 1908年5月29日に死刑執行[118]。 | |
強盗殺人(黑川己之吉) | 1907年4月15日 | 1908年6月13日に死刑執行[119]。 | |
強盗殺人(中村才一郎) | 1907年4月15日 | 1908年6月13日に死刑執行[119]。 | |
強盗殺人・強盗傷人・放火(山村富太郎) | 1907年4月22日 | 1908年5月17日に死刑執行[120]。 | |
謀殺(藤井正太郎) | 1907年4月26日 | 1908年5月29日に死刑執行[118]。 | |
強盗殺人(田畑忠市) | 1907年5月15日 | 1908年5月26日に死刑執行[110]。 | |
伯父謀殺事件(鶴田才藏) | 1907年6月7日 | 1906年1月10日 | 伯父で予備陸軍軍曹の男性を殺害[121]。1909年10月4日に死刑執行[122]。 |
肝取り勝太郎事件(馬場勝太郎) | 1907年6月14日 | 1905年 - 1907年 | 謀殺既遂、謀殺未遂、故殺既遂の罪。1908年6月18日に死刑執行[123]。 |
強盗殺人(有吉義良) | 1907年6月25日 | 1908年6月1日に死刑執行[124]。 | |
中国天津豪商強盗殺人事件(石附宇吉) | 1907年9月10日 | 勲八の軍人であったものの、清国滞在中に馬賊に加わって略奪を行い、更に同僚2人とともに天津の豪商を殺害し、軍票二千円を強奪[125]。1908年6月3日に死刑執行[126]。 | |
野口男三郎事件(野口男三郎) | 1907年10月10日[127] | 1905年5月14日 | 3件の殺人と1件の文書偽造で起訴。うち薬店店主殺害事件と卒業証書偽造が有罪となる。1908年7月2日に死刑執行。 |
茨城県島名村実父殺害事件(根本茂平) | 1907年11月21日[111] | 1905年4月20日 | 恋仲にあった女性が妊娠したため、両親に結婚を認めてもらおうとしたが、父親が認めなかったため、日本刀で斬殺。1908年5月30日に死刑執行[128]。 |
1908年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
強盗殺人(鈴木芳太郎) | 1907年2月14日 | 1908年8月4日に死刑執行[129]。 |
1909年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
強盗殺人(山口虎彦) | 1909年6月17日 | 1909年10月18日に死刑執行[130]。 | |
栃木県南摩村一家3人強盗殺傷事件(岩本初三郎) | 1909年10月22日 | 1908年12月27日 | 貧困による金銭欲しさで被害者宅に侵入。夫婦を日本刀で斬殺し、長女に重傷を負わせた[131]。1910年2月15日に死刑執行[132]。 |
栃木県片岡村夫婦殺害事件(小滝恵比之助) | 1909年10月29日 | 1907年6月10日 | 1907年6月10日深夜、栃木県塩谷郡片岡村(現:矢板市)で夫婦が殺害される事件が発生。同居していた被害者夫婦の娘婿で養子の小滝恵比之助(29)は、「二人組の賊に縛られて脅された。その後被害者らが就寝する奥座敷で悲鳴が聞こえた。」旨証言。しかし小滝は、訴訟を繰り返したり、温泉宿を開くといい金を放蕩する被害者夫婦らと折り合いが悪かったことが判明。その後取り調べの結果、共犯者の平山卯三郎(29)とともに逮捕された。2人は1908年4月に死刑判決を受けたが、1909年7月10日、東京控訴院で小滝は死刑、平山は無期徒刑に減軽された。同年10月29日、小滝の上告は棄却され死刑が確定。1910年2月3日、小滝の死刑が執行された[133][134]。 |
生坂村惨殺事件(矢花酒造恵) | 1909年5月25日 | 下記共犯者である平林親子と矢花の3人で共謀し強盗目的で生坂村の一家5人を刀で惨殺。1912年3月4日に執行死刑[135][136]。 | |
生坂村惨殺事件(平林林蔵) | 1909年5月25日 | 上記共犯者、下記の共犯者は林蔵の息子である。1912年3月4日に執行死刑[137]。 | |
生坂村惨殺事件(平林幹雄) | 1909年5月25日 | 上記共犯者、上記共犯者は幹雄の父親である。1912年3月4日に執行死刑[138]。 |
1910年代
1910年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
伊藤博文暗殺事件(安重根) | 1910年2月14日 | 1909年10月26日 | 関東都督府法院(二審制)で一審死刑判決。控訴せず確定。1910年3月26日に死刑執行。 |
佐賀貰い子殺人事件(百武栄一)[139] | 1910年6月7日[140] | 1902年〜1905年 | 下記共犯者である妻と共謀して、療育費をだまし取る目的で生後6ヶ月の幼女を餓死させた。しかし医師が自然死の死亡診断書を書いたので事件は発覚しなかった、これに味をしめた夫婦は、行商人の松本ツエと共に、近隣各県から私生児を10円〜25円の療育費で引き取っては殺害し土に埋めた、なかには生き埋めにされた新生児もいた、夫婦と行商人の松本ツエは逮捕され、犠牲者は60人よりも少し多いと自供した。事件発覚後に3人組の犯行に激怒した近隣住民が夫婦の家を破壊したと言う。夫婦に死刑判決、なお犯人達は「鬼」と呼ばれこの事件は当時の世間を騒がせ、多くのメディアが「鬼の顔を人目見たい」と懇願までした、アメリカやイギリスの新聞にも取り上げられた。1913年2月8日死刑執行[141]。 |
佐賀貰い子殺人事件(百武タカ) | 1910年6月7日 | 1902年〜1905年 | 上記共犯者、女性死刑囚、1913年2月8日死刑執行。 |
東京府森元町乾物商夫婦強盗殺人事件(竹内徳藏) | 1910年11月28日 | 1910年2月1日 | 同家の雇人2名による犯行。もう一人は懲役12年に処された。1911年4月12日に死刑執行[142][143]。 |
阿弥陀堂堂主強盗殺人事件(岩上洪治[144]) | 1910年12月22日 | 1910年3月24日[145] | 阿弥陀堂に忍び入り、呼びとめて問いただしたことを理由に金火箸で堂守の僧侶を20か所余りの傷を負わせせて殺害し、米5升と4円[注 1][146]の金銭を窃盗する。1911年7月13日に死刑執行。[147]執行時の年齢が数え年で18歳(少年死刑囚)であったため、旧刑法制定して以来、20歳未満で初めて死刑執行された人物となり、30年ぶりに20歳未満の者が死刑執行された[148][149][145]。 |
1911年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
幸徳事件(幸徳秋水) | 1911年1月 | 1910年6月 | 天皇の暗殺を計画した大逆罪[注 2]の首謀者として死刑、判決6日後の1月24日に死刑執行(39歳没)。ただし実際には死刑判決を受けた24人(12人は恩赦減刑)のうち、陰謀に加担[注 3]していたのは5人のみであり、幸徳秋水も含む19人は冤罪だったと言われている。政府による社会主義者弾圧事件であったとされている。 |
幸徳事件(管野スガ) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 女性の社会運動家、彼女のみ1月25日に死刑執行(29歳没)。実際に陰謀に加担していた。 |
幸徳事件(森近運平) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 1月24日に死刑執行(30歳没)。実際は陰謀に加担していたと言われている。 |
幸徳事件(宮下太吉) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 1月24日に死刑執行(25歳没)。実際は陰謀に加担していたと言われている。 |
幸徳事件(新村忠雄) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 1月24日に死刑執行(23歳没)。実際は陰謀に加担していたと言われている。 |
幸徳事件(古河力作) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 1月24日に死刑執行(26歳没)。実際は陰謀に加担していたと言われている。 |
幸徳事件(奥宮健之) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 1月24日に死刑執行(44歳没)。 |
幸徳事件(内山愚童) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 僧侶の社会主義者。1月24日に死刑執行(36歳没)。 |
幸徳事件(大石誠之助) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 1月24日に死刑執行(43歳没)。 |
幸徳事件(松尾卯一太) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 1月24日に死刑執行(31歳没)。 |
幸徳事件(新美卯一郎) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 1月24日に死刑執行(32歳没)。 |
幸徳事件(成石平四郎) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 1月24日に死刑執行(29歳没)。兄も同罪として死刑判決を受けたが恩赦減刑。 |
幸徳事件(高木顕明) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 住職を務める和歌山県の浄泉寺で幸徳の談話会を寺で開催したことを咎められ死刑判決。後に恩赦減刑されたが1914年に自殺(50歳没)。判決前に僧籍剥奪処分を受けたが1996年に僧籍復帰の名誉回復が行われた。 |
幸徳事件(峯尾節堂) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 死刑判決後、恩赦減刑されたが1919年に獄死。 |
幸徳事件(岡本一郎) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 死刑判決後、恩赦減刑されたが1917年に獄死。 |
幸徳事件(三浦安太郎) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 死刑判決後、恩赦減刑されたが1916年に自殺。 |
幸徳事件(佐々木道元) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 死刑判決後、恩赦減刑されたが1916年に獄死。 |
幸徳事件(成石勘三郎) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 弟平四郎とともに同罪として死刑判決を受けたが弟処刑後に恩赦減刑された。1929年仮出所、1931年死去。 |
幸徳事件(坂本清馬) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 死刑判決後、無期懲役に恩赦減刑。1934年仮出所、1947年特赦[注 4]。1961年に再審請求したが1967年に最高裁で棄却。1975年死去[150]。 |
幸徳事件(崎久保誓一) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 死刑判決後、無期懲役に恩赦減刑され、1929年に仮出所、1955年死去。 |
幸徳事件(武田九平) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 死刑判決後、無期懲役に恩赦減刑され、1929年に仮出所、1932年に事故死。 |
幸徳事件(飛松与次郎) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 死刑判決後、無期懲役に恩赦減刑され、1925年に仮出所、1953年死去。 |
幸徳事件(小松丑治) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 死刑判決後、無期懲役に恩赦減刑され、1931年に仮出所、1945年死去。 |
幸徳事件(岡林寅松) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 死刑判決後、無期懲役に恩赦減刑され、1931年に仮出所、1948年死去。 |
1912年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
岡山県勝田郡強盗殺人事件 (J) | 1912年2月6日 | 1911年7月8日 | 勝田郡梶並村で、孫(当時32歳)が住居侵入罪の罰金20円が支払えず労役場留置処分を免れる為に金策協力を頼んだ祖父(当時74歳)に断られた。そのため祖父のへそくり50円を奪う為に殺害。1914年2月7日に死刑執行[151]。 |
鴨川右岸交際相手母殺害事件(上杉惠津郎) | 1912年3月12日 | 1911年3月19日 | 名古屋投宿中に母娘を誘い出し3人で生活。母娘ともに情を通じていたが、3人の間で嫉妬による喧嘩が発生。娘との仲を娘の母が邪魔していると邪推し、娘の母を京都府鞍馬口村の鴨川右岸で絞殺。後に各地で短銃強盗をしていたことも判明。殺人罪等で死刑が確定し、1914年1月28日に死刑執行[152][153]。 |
1913年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
岡山県上建部村実母殺害事件(溝口彭太) | 1913年5月6日 | 1912年10月12日 | 日頃から疎ましく思い食事を十分に与えていなかった母が豆を無断で食べたことから殺害を決意。手拭で絞殺し、家の下を流れる河原に遺棄。1913年12月24日に死刑執行[154][155]。 |
亀戸警察官電殺事件(Y) | 1913年12月9日 | 1913年4月4日 | 強盗目的で警察官を感電死させた。 |
1914年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
強盗致死(木島長德) | 1914年2月6日 | 1915年8月17日に死刑執行[156]。 | |
強盗致死(塩津要之助) | 1914年5月30日 | 1915年8月23日に死刑執行[157]。 | |
岡山県高松町強盗殺人事件(小林磯平) | 1914年6月24日 | 1914年1月21日 | 酒飲みたさに借金を申し込んだが断られたため棒で殴打し計百六十円を強取。1915年4月30日に死刑執行[158][159]。 |
強盗致死(藤岡重信) | 1914年9月28日 | 1915年8月23日に死刑執行[157]。 | |
愛知貰い子殺人事件(坂倉しげ) | 1914年10月21日 | 1898年 - 1913年 | 養育できない私生児を金銭とともに引き取りながら殺害する貰い子殺人常習犯。犠牲者は200人以上とされる。共犯2人とともに1915年9月9日に死刑執行。 |
愛知貰い子殺人事件(沖つた) | 1914年10月21日 | 1898年 - 1913年 | 上記共犯者。 |
愛知貰い子殺人事件(猪飼なか) | 1914年10月21日 | 1898年 - 1913年 | 上記共犯者。 |
丹生山中の二人殺し(桑田芳平) | 1914年12月3日 | 1913年12月15日 | 借金の返済を免れる為に被害者を射殺。更にその報酬を要求してきた共犯者も射殺[160]1915年9月17日に死刑執行[161]。 |
殺人(伊原淸太郎) | 1914年12月8日 | 1915年8月23日に死刑執行[157]。 | |
岡山興除村一家3人殺害事件 (徳山黒太) | 1914年12月16日 | 1914年9月26日 | 未亡人A(当時52)は養子一家が家督相続することを不満に思っていた。そこで情夫B(当時55)に借金230円の棒引きと400円の報酬を約束し、養子一家殺害を指示し自身は事件当日外泊しアリバイ工作をしていた。また近所には自分が虐待されているといった虚偽の噂を立てていた。1915年8月27日に死刑執行[162]。 |
岡山興除村一家3人殺害事件 (枝広勝) | 1914年12月16日 | 1914年9月26日 | 女性死刑囚の可能性?上記共犯者。なおBは殺害の手助けをCにさせていたが、Cは懲役10年になった。主犯Aとともに1915年8月27日に死刑執行[162]。 |
1915年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
青森実父殺害事件(葛西三九郎) | 1915年4月30日 | 1914年9月5日 | 犯行当時18歳(少年死刑囚)、嫌な嫁を貰わせられ、離婚したがっていたが、父親がこれを渋ったため、小刀で刺して溺死させ、強盗の仕業に見せかけた[163]。1915年8月16日に死刑執行[157]。 |
強盗致死(澤口萬吉) | 1915年6月19日 | 1915年8月16日に死刑執行[164]。 | |
岡山県長尾村未亡人強殺・放火事件(兼近治之助) | 1915年10月9日 | 1915年6月11日 | 情交関係にあった未亡人の首を絞めて財布を強奪し、布団に放火。1909年に内妻を殺害した罪で服役し、出獄したばかりだった。1916年6月24日に死刑執行[165][166]。 |
小石川七人斬り事件(大岩寅次郎) | 1915年10月22日 | 1915年3月15日 | 東京電燈小石川出張所において、同社主任以下7人が襲われ、5人が死亡した強盗殺人事件。2人とも1916年8月12日に死刑執行[167]。 |
小石川七人斬り事件(香取彦次郎) | 1915年10月22日 | 1915年3月15日 | 上記共犯者、1916年8月12日に死刑執行。 |
1916年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
大米龍雲連続殺人事件(大米龍雲) | 1916年5月22日 | 1905年 - 1915年 | 僧侶による連続強姦強盗殺人事件。犯行手口として舌を抜く、目玉をえぐり出す、陰部を生け花用バサミで突き刺すなどといった猟奇的な犯行から「和製の切り裂きジャック」の異名持つ、被害者の多くが尼僧であったことから「殺尼魔」とも報道された。6月26日に死刑執行[166]。 |
一家四人死刑事件 (細山要太郎) | 1916年7月8日 | 1914年12月30日 | 一家の父親が殺された事件について、一審では被害者の姑と妻、2人の息子の4人全員が死刑判決を受けた。控訴審では長男の単独犯行とされ、他の3人は無罪となった。死刑を維持された長男は、犯行は外部犯によるものとして無実を訴え続けたが1917年12月8日に死刑執行[168]。 |
名古屋市妻保険金殺人事件(種村見道) | 1916年11月6日 | 1915年12月28日 | 市会議員の男(41)が、保険金目的で妻(35)を絞殺し、強盗の仕業に見せかけた。男は妻がありながら放蕩して負債を負ったことから壮年会の金を使い込んでおり、その返済のための犯行だった[169]。1917年7月20日に死刑執行[170]。 |
東京・柳島自転車商一家殺人事件(M) | 1915年3月30日 | 犯行当時は15歳の中学生(少年死刑囚)、東京の柳島に住む自転車商一家が玄能で滅多打ちにされ虐殺された。警察は事件とは全く無関係な下記の人物を取り調べたことで冤罪事件を生じさせ、少年Mを検挙することが出来なかった。しかし逮捕から5年後に1920年7月24日に犯人のMは籠いっぱいのナスを畑から盗み逮捕された[171]、その後にMが毎日のように夜に奇声を上げて魘されているため、警察が「四人殺しをやったのは自分だ!と叫んでいたが本当か?」と余罪を追及すると一家殺しを自供し、自ら「申し訳ありません、犯人は確かに私です。」と認め、警察から「しかしよく考えてものをいいなさい、今年君は20歳だ、柳島殺しがあったのは5年前だから、当時君は15歳だ、そんな大それた事がやれるかね?」と言われたが容疑を否認することなく「いえ私です。あれ以来、もう生きていても生きた心地がしません。どうか私を死刑にしてください。」と激しく反省し犯行を認めた。 | |
東京・柳島自転車商一家殺人事件(H) | 1916年6月14日 | 1915年3月30日 | 冤罪事件、1916年6月14日に再審請求で無罪確定。 |
1917年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
歌人夫婦殺し事件 (石井藤吉) | 1917年1月31日 | 1915年6月17日 | 横浜市在住の歌人O宅に強盗に押し入り、Oとその内縁の妻二人を殺害。その後石井は1915年7月13日に愛知県にて警官1名を殺害、同年11月から12月に掛けて共犯のSと共に2件の強姦強盗事件を起こした末に12月11日に逮捕。その取り調べの過程で鈴ヶ森おはる殺し事件に関する秘密の暴露を含む供述を開始した。石井は本件と鈴ヶ森おはる殺し事件の2件の死刑判決を受け、1918年8月17日に死刑執行[172]。 |
広島養父母殺害事件(小池幸二) | 1917年10月1日[173] | 1916年9月7日[174] | 5人で共謀し、財産目的で養父母を殺害。2名死刑、2名無期懲役判決。1918年2月18日に死刑執行[173]。 |
広島養父母殺害事件(中元三一郎) | 1917年10月1日 | 1916年9月7日 | 上記共犯者、1918年2月18日に死刑執行。 |
イルマ殺し (田中徳一) | 1917年10月26日 | 1917年2月26日[175] | 日独戦ドイツ兵捕虜となった夫と面会をするために来日していた女性に対する強盗殺人事件。夫は妻の後を追って自殺。1917年4月8日に逮捕され[176]、死刑判決後の1918年3月11日に長崎刑務所で死刑執行[177]。 |
「二十四人の嬰児殺し」事件 (S) | 1917年[178] | 不明 - 1917年[178] | 貰い子殺人の一種、1917年12月19日に死刑執行[179]。 |
1918年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
鈴ヶ森おはる殺し事件(石井藤吉) | 1918年3月30日 | 1915年4月30日 | 同時期に検察は同じ事件で「単独犯」として2人の裁判を進め、一人は無罪になった。真犯人とされた石井は1918年8月17日に死刑執行[172]。 |
神戸山中妻殺害事件 (K) | 1918年5月15日 | 1917年4月6日 | 養子を虐待する妻との離婚話がこじれた為、岡山市の男が神戸市の山中に連れ出して殺害。男は養子を実家に預けたあと外地に逃亡。1918年2月になって朝鮮から中華民国の青島へ逃亡しようとしていたところを逮捕。1919年2月19日に死刑執行[180]。 |
1919年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
岡山巡礼女性殺害事件 (上田仁作) | 1919年12月2日 | 1916年4月ごろ | 1916年4月に京都の寺院に巡礼に出かけるとして行方不明になっていた広島県高田郡の主婦が1917年4月18日になって岡山県都窪郡の廃坑で白骨死体として発見された。犯人として金銭目当てに被害女性の夫を広島県深安郡に呼び出し、山陽本線大門駅付近の山道で殺害しようとした殺人未遂の罪で服役中のAが逮捕起訴された。Aは殺害を否定し被害者は情夫の妻に殺害され自身は何者かにはめられたと主張したが、該当する人物は存在せず、そのうえAが妻に胴着するようにと渡した羽織が被害者が持参していたものと判明。それらを証拠に死刑が確定。1923年8月21日に死刑執行[181]。 |
1920年代
1920年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
斎藤実朝鮮総督暗殺未遂事件(姜宇奎) | 1919年9月2日 | 1920年11月29日に絞首刑執行。 |
1921年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
岡山県池田村母子強盗殺人事件(橋本玉男) | 1921年1月14日 | 1920年5月12日 | 従妹にあたる女性(39)とその長男(2)を殺害し預金通帳を強取。1916年6月24日に死刑執行[182][183]。 |
鈴弁殺し事件(山田憲) | 1921年3月10日 | 1919年5月31日 | 1921年4月2日に死刑執行。 |
福岡・大分連続強盗殺人事件(山口豁) | 1921年4月28日 | 1920年9月 - 10月 | 福岡県内の飲食店で手提げ金庫を盗んだ際に主人が目を醒まし捕らえようと背後から組み付いたため、出刃包丁で斬りつけ殺害。翌月には大分県佐伯町の旅館を襲撃し宿泊客23人の金品を盗んだ際、捕らえようと背後から組み付いた1人を短刀で刺し殺害。1921年6月21日に死刑執行[184][185]。 |
名浜郡貰い子殺人事件(鈴木小三郎) | 1919年7月26日-1920年10月5日 | 貰い子殺人の一種、按摩正悦こと鈴木小三郎は田辺幸次郎と共謀して、1919年7月26日から1920年10月5日にかけ10人の嬰児を療育費目当てで受け取りその後に絞殺するなどとして殺害。第一審は無期懲役であるが、第二審では逆転死刑、田辺には懲役15年[186]。 | |
高知貰い子殺人事件(赤パッチ事件)(中△丑△郎[187]) | 1920年1月 - 1921年3月 | 貰い子殺人の一種、9人の嬰児を殺害した罪で死刑判決[188]。 |
1922年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
六反池バラバラ事件 (S) | 1922年1月[189] | 1920年12月6日[190] | 1922年6月に死刑執行[189]。 |
広島県赤坂村一家3人強盗殺人事件(横田勇) | 1922年6月1日 | 1921年8月12日 | 赤坂駅前の運送店で男性(28)と同妻(23)及び同息子(3)を殺害。1923年3月24日に死刑執行[191][192]。 |
1924年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
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栗林公園・蓮池投げ込み殺人事件(U) | 1924年4月 | 1923年7月1日 | 公園へ散歩へ行こうと連れの女性を誘って蓮池の前で下駄で殴り気絶させた後に絞殺。日は不明だが1924年7月に死刑執行[193][194]。 |
虎ノ門事件(難波大助) | 1924年11月13日 | 1923年12月27日 | 摂政宮(後の昭和天皇)暗殺未遂で大逆罪により有罪(法定刑は死刑のみ)。確定2日後の11月15日に死刑執行。 |
1926年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
朴烈事件(朴烈) | 1926年3月25日 | 1925年 | 天皇暗殺を計画したとして無政府主義者の朝鮮人が有罪になるも4月5日に恩赦により減刑。1945年10月に釈放され韓国国務委員に就任したが朝鮮戦争の最中に北朝鮮へ連行され、1974年死亡(田中清玄によると処刑という)。 |
朴烈事件(金子文子) | 1926年3月25日 | 1925年 | 女性死刑囚。無政府主義者で朴烈の愛人。共犯として死刑宣告も4月5日に恩赦で減刑。7月23日に獄死(当局発表は縊死)した。 |
ギロチン社事件(中浜哲) | 1926年 | 1923年-1925年 | 企業への恐喝、殺人未遂を繰り返したギロチン社の頭目。無政府主義者。1925年5月28日の一審では無期懲役が言い渡される[195]も、1926年3月6日の二審では死刑。直後に上訴権を放棄[196]、1926年4月15日、大阪刑務所内で死刑執行[197]。ギロチン社関係者は1人も殺害していない(中浜は殺人未遂の実行役ですらない)状況での死刑言い渡し、言い渡しから約1ヶ月後の死刑執行は戦前でも異例。 |
関東連続少女殺人事件(吹上佐太郎) | 1926年7月2日 | 1922年 - 1924年 | 27人を強姦し、うち6人を殺害。1926年9月28日に死刑執行。 |
ピス健事件(大西性次郎) | 1926年9月25日 | 1925年 | 1925年11月、大西は強盗目的で小学校校長宅に押し入り同居していた訓導を射殺、その後、警戒中の警察官を殺害して短銃を奪取。さらに関西方面に逃走しながら強盗殺人を重ねる。手口と偽名から「ピス健」の名で全国に知れ渡った。同年12月に神戸市内で逮捕[198]。1926年9月25日、大阪地方裁判所で死刑判決が言い渡されると控訴を放棄[199]。同年12月6日、大阪刑務所で死刑が執行された[200]。 |
観音丸事件(伊文致) | 1926年2月14日 | 朝鮮人、船上で2人を惨殺、その後に伝馬船で逃走した、その後に観音丸が漂流している所が発見され、観音丸には被害者の血が大量に付着していたため、当時は幽霊船だと思われ、大きな話題を呼び、騒ぎとなった、1927年6月2日に死刑執行。 |
1927年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
龍野6人斬り[201](T) | 1927年5月17日 | 1926年5月17日 |
1928年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
台中不敬事件(趙明河) | 1928年7月18日 | 1928年5月14日 | 久邇宮邦彦王(香淳皇后の父)暗殺未遂事件。台湾総督府の高等法院上告部において死刑判決。不敬事件は一審制のため即日刑が確定し、同年10月10日に死刑執行。 |
1929年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
広島県高村老夫婦強殺・放火事件(政木村吉) | 1929年2月9日 | 1928年1月26日 | 男性(76)及び同妻(62)を殺害し家に放火。貪欲冷酷な仕打ちに怒っての犯行。1929年7月26日に死刑執行[202][203]。 |
1930年代
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
上海天長節爆弾事件(尹奉吉) | 1932年5月25日 | 1932年 | 1932年12月19日に死刑執行。 |
大岡山連続殺人事件 (G) | 1931年4月20日 | 1925年9月6日・1928年8月19日 | 下記Tと共同で一家3人を殺害し、さらに3年後にもTとともに夫婦を殺害した。この間に大岡山事件の犯人として起訴されていた男性は、裁判中に獄死している。Gは控訴せず一審で確定し、1933年3月7日に死刑執行[204]。 |
大岡山連続殺人事件 (T) | 1932年4月5日 | 1925年9月6日・1928年8月19日 | 上記Gの共犯。最高裁まで争うも確定し、Gと同じく1933年3月7日に死刑執行[204]。 |
日大用務員殺害事件 (D) | 1932年8月29日 | 1930年12月 | 上告棄却。元用務員の男が日本大学に侵入し用務員を殺害し670円を奪った[205]。 |
桜田門事件(李奉昌) | 1932年9月30日 | 1932年1月8日 | 昭和天皇暗殺未遂犯。1932年10月10日に死刑執行(32歳没)。 |
目黒貰い子殺人事件(川俣初太郎) | 不明 | 1932年-1933年 | 養育費目当てに貰い子を引き受けて乳児や幼児を殺害。1929年に一度発覚して懲役4年の判決を受けるが、恩赦により3年の服役で出所。出所後は、貰い子を再開して25人を殺害、遺体を現在の西郷山公園などに遺棄した。1933年3月10日に逮捕、1934年9月23日に死刑執行[206]。 |
十三釣堀屋事件 (F) | 1933年3月8日 | 1931年3月1日 | 愛人の男と共謀し、夫を殺害した女性の被告人が死刑に処された事例。1934年6月28日に死刑執行。共犯の愛人は無期懲役[207]。 |
安田銀行玉島支店強盗殺人事件 (O) | 1933年10月30日 | 1933年6月18日 | 現職警察官による銀行ギャング。1934年7月30日死刑執行[208]。 |
濱口首相遭難事件 (佐郷屋留雄) | 1933年11月6日 | 1930年11月14日 | 一審では殺人罪が適用され死刑、二審では殺人未遂罪が適用され死刑。1934年に恩赦で無期懲役に減刑され、1940年に仮出所。 |
隅田川コマ切れ殺人事件 (K) | 1934年9月19日 | 1934年6月 | 10月に死刑執行[209]。 |
福岡刑務所囚人殺害事件 (D) | 1934年11月7日 | 1933年10月28日 | 上告棄却。殺人未遂で懲役20年、恩赦により刑期短縮も1929年に殺傷事件を起こし無期懲役になった受刑者が同囚の者に「死に損ない」と罵られたことに腹を立て刑務活動中に刺殺[210]。 |
鳴海荘一家惨殺事件 (N) | 1935年3月18日 | 1933年1月19日 | 上告棄却。6月23日に死刑執行[211]。 |
原宿パス屋殺し事件(後藤もと) | 1936年3月30日 | 1931年8月27日 | 家業の利益目的で夫を殺害した女性の被告人に死刑判決が言い渡されたが、後に無期刑に減軽され、1943年ごろに獄死。被告人と共謀したとされていた愛人の男性については、一審の死刑判決が控訴審で無罪へ覆った[212][213]。 |
二・二六事件 (香田清貞) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 特設軍法会議(一審制)で死刑判決。1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (安藤輝三) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (栗原安秀) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (竹嶌継夫) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (村中孝次) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1937年8月19日に死刑執行。 |
二・二六事件 (磯部浅一) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1937年8月19日に死刑執行。 |
二・二六事件 (対馬勝雄) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (中橋基明) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (丹生誠忠) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (坂井直) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (田中勝) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (中島莞爾) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (安田優) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (高橋太郎) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (林八郎) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (渋川善助) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (水上源一) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
浅草青酸カリ殺人事件 (U) | 1936年8月3日 | 1935年11月21日 | 足袋屋経営の男が、顔なじみの小学校校長を喫茶店に呼び出し、紅茶の中に入れた青酸カリで毒殺。区役所から小学校へ運んでいた教職員の給料3050円を奪った[214]。日本における青酸カリによる殺人事件第1号であり、青酸カリ自殺のブームを引き起こした。裁判は一審、二審ともに死刑判決、大審院は上告棄却しで死刑が確定。事件発生から8か月余りの最終判決決定は、当時でも記録破りの短さであった。1937年10月26日に死刑執行[215][216]。 |
荏原区八幡宮祭礼女児殺害事件 (Y) | 1937年7月12日 | 1935年5月27日 | 八幡宮の祭礼時に元印刷工の男(31)が、巡査の長女(10)を絞殺した[217]。 |
二・二六事件 (北輝次郎(一輝)) | 1937年8月14日 | 1936年2月26日 | 1937年8月19日に死刑執行。 |
二・二六事件 (西田税) | 1937年8月14日 | 1936年2月26日 | 1937年8月19日に死刑執行。 |
松山城放火事件 (F) | 1938年 | 1932年 - 1936年 | 西日本各地で公共施設45箇所を放火。1939年9月15日に死刑執行。 |
川口チフス菌カステラ連続殺人事件(T) | 1938年7月4日 | 1936年10月18日・1936年11月23日 | 耳鼻咽喉科医院長である犯人Tが、実家で病気静養中の妻(28歳)に見舞いと称してチフス菌入のカステラを送り、保険金5000円を手に入れようとしたが失敗、後に耳鼻咽喉科にも、チフス菌入のカステラを送り、カステラを食べた看護婦三名が発症して死亡、恩赦により無期懲役に減刑[218][219]。 |
保険魔事件(K) | 女性死刑囚、連続して2人の夫を亜砒酸で毒殺、保険金目的の連続殺人であったため、犯人Kには保険魔の異名がついた[220]。 | ||
おりう・とらゑ事件(富上りう) | 女性死刑囚、共犯者3名、そのうちの共犯者の北野とらゑは無期懲役に減刑された[221]。 |
1940年代
1944年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
ゾルゲ事件(リヒアルド・ゾルゲ) | 1944年1月20日 | 国防保安法違反、軍機保護法違反、軍用資源秘密保護法違反、治安維持法違反の罪で死刑判決1944年11月7日に死刑執行。[222]。 | |
ゾルゲ事件(尾崎秀實) | 1944年4月5日 | 国防保安法違反、軍機保護法違反、軍用資源秘密保護法違反、治安維持法違反の罪で死刑判決。1944年11月7日に死刑執行[222]。 | |
浜松連続殺人事件(N) | 1944年6月19日 | 1941年8月-1942年8月 | 1944年7月24日に死刑執行。 |
1945年死刑確定囚(10人?)
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
仕返し農夫殺し (白鳥由栄) | 脱獄後に畑泥棒と勘違いされ、集団リンチにされたため、過剰な正当防衛で農夫を刺殺。死刑判決が言い渡されたが、死刑判決を言い渡した裁判官らに仕返しをしようと思い、もう一度脱獄、後に懲役刑に減刑された。 | ||
三重県上野市山林内主婦強盗殺人事件 (K) | 1945年2月20日 | 1944年 | 死刑執行日は不明。 |
札幌一家3人強盗殺人事件 (T) | 1945年3月23日 | 1944年12月17日 | 1945年8月24日に死刑執行。 |
茨城県柳河村一家4人強盗殺人放火事件 (S) | 1945年7月3日 | 1944年8月29日 | 1945年12月22日に死刑執行。 |
樺太・西柵丹強盗殺人事件 (S) | 1945年7月7日 | 1944年10月22日 | 樺太で発生した強盗殺人事件。死刑確定後、樺太がソ連軍に侵略され、公判記録が滅失し死刑執行手続きが不能になった特殊事情により、1949年12月24日、個別恩赦。無期懲役に減刑された[223]。 |
東京洲崎人夫強盗殺人事件 (I) | 1945年8月3日 | 1943年12月3日 | 殺人前科(懲役5年)。1945年12月20日に死刑執行。 |
大阪戦時強盗致死事件 (M) | 1945年9月5日 | 不明 | 詳細不明。1945年11月20日に死刑執行。 |
同性愛少年友人一家殺傷放火事件 (S) | 1945年9月5日 | 1944年7月29日 | 犯行当時は未成年者(少年死刑囚)。1947年2月18日に個別恩赦。 |
戦時強姦致死事件 (T) | 1945年11月25日 | 不明 | 詳細・死刑執行日とも不明。 |
兵庫県岩岡村朝鮮人2人強盗殺傷事件 (M) | 1945年12月4日 | 1945年1月20日 | 犯行当時は未成年者(少年死刑囚)。1946年2月6日に死刑執行。少年では確定から執行までの最短記録(2ヶ月と2日) |
茨城県強盗殺人事件 (O) | 1945年12月18日 | 不明 | 詳細不明。1946年2月17日に死刑執行。確定から執行の戦後最短記録(1ヶ月と30日) |
戦時強盗殺人事件 (Y) | 1945年12月18日 | 不明 | 詳細・死刑執行日とも不明。 |
磯部村5人斬り(平田義雄) | 1945年12月25日 | 1945年9月20日 | 三重県磯部村の一家5人を強盗目的で殺傷し、そのうち4人を殺害、1947年4月18日死刑執行。 |
1946年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
戦時強盗殺人事件 (T) | 1946年1月14日 | 不明 | 詳細・死刑執行日とも不明。 |
強姦殺人事件 (F) | 1946年2月12日 | 不明 | 詳細・死刑執行日とも不明。 |
第二鬼熊事件 (S) | 1946年3月7日 | 1944年9月5日 | 1946年11月30日に死刑執行。 |
新居浜老夫婦強盗殺人事件 (K) | 1946年4月12日 | 1945年9月4日 | 死刑執行日は不明。 |
静岡県葉梨村老女強盗殺人事件 (A) | 1946年4月15日? | 1945年9月21日 | 犯行当時は未成年者(少年死刑囚)。死刑執行日は不明。 |
強盗殺人事件 (N) | 1946年4月18日 | 不明 | 詳細・死刑執行日とも不明。 |
父島人肉事件 (立花芳夫) | 1946年5月-9月 | 1945年 | 父島人肉事件こと小笠原事件の主犯格のB級戦犯の死刑囚、戦争中に食料に困ってないのにもかかわらず、米軍捕虜を真鍮のステッキで殴るなどとして拷問にかけて殺害して、その遺体の手足などの人肉を調理して、宴会を開いて下記共犯者の五人達(M・Y・N・I・森国造)と一緒に食べた、戦争とはいえ猟奇的である事から死刑判決が言い渡された[224]。 |
父島人肉事件 (M) | 1946年5月 | 1945年 | 上記共犯者。 |
父島人肉事件 (Y) | 1946年5月 | 1945年 | 上記共犯者。 |
父島人肉事件 (N) | 1946年5月 | 1945年 | 上記共犯者。 |
父島人肉事件 (I) | 1946年5月 | 1945年 | 上記共犯者。 |
蘭印作戦後捕虜虐待事件 (森国造) | 1946年5月 | 1945年 | 上記共犯者であるが、父島人肉事件では無期懲役判決が下されたが、蘭印作戦後の捕虜虐待容疑では死刑判決が下された。 |
確定年不明
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
松山農家強盗殺人事件 (K) | 不明 | 1945年10月29日 | 1949年7月30日に死刑執行。 |
京都一家3人強盗殺人・口封じ殺人事件 (I) | 1946-1947年 | 1946年2月28日-3月1日 | 1947年6月10日に死刑執行。 |
中間町一家6人殺害事件 (T) | 1946-1947年 | 1946年4月13日 | 1946年7月および11月当時、22歳[225][226]。 1946年4月13日、福岡県遠賀郡中間町岩瀬北町(現:中間市岩瀬)で質屋兼飲食店経営者の一家6人が惨殺された[227]。現場は日本炭礦高松一坑の近くで[228]、被害者は家主の男性(当時40歳)と妻(同43歳)、長女(同11歳)、次女(同9歳)、三女(同4歳)、長男(同2歳)で、事件は同月16日、14日から人気がないことを不審に思った隣家の住民が6人の他殺体を発見したことがきっかけで発覚した[229]。被害者は戦時中、炭鉱の独身寮で寮長を務めていたが、炭鉱夫たちをタコ部屋労働同然に酷使しており、戦後結成された労働組合からこれを問題視されて追放されたが、その後も炭鉱近くで炭坑夫相手に博打のための金貸しを行っていた[230]。 その後、近くの質屋に被害品の衣類が質入れされたことが確認されたことを手がかりに事件が解決した[231]。犯人は炭鉱夫の男Tで、遠賀郡水巻町高松在住[226]。Tは大阪市住吉区出身で、12、13歳のころに母親と死別して以来、母親の遺骨を持ち歩きながら宇部や筑豊の炭鉱を転々としていた[232]。Tは事件前夜に被害者の男性と博打を打って大敗し、一張羅だった軍服を抵当に13日夕方までに返済する条件で100円を借金したが、その100円も遣い込んでしまい、抵当の服も売られてしまったため、怒りのままに仕事道具の鶴嘴で男性一家を皆殺しにした[233]。 強盗殺人罪に問われ[226]、1946年7月8日に福岡地裁飯塚支部で死刑判決を受けた[234]。同年11月19日に福岡控訴院でも求刑通り死刑判決[226]。 1948年1月27日、広島刑務所で死刑執行[235]。当時は福岡刑務所に死刑執行施設がなく、広島刑務所に移送された上で死刑を執行された[236]。 |
宮城貨物経理課長強盗殺人事件 (S) | 1946-1947年 | 1945年11月3日 | 1947年9月5日に死刑執行。 |
五島貨物船船員2人強盗殺人事件 (N) | 1946-1947年 | 1946年2月13日 | 1947年12月15日に死刑執行。 |
1947年死刑確定囚(33人)
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
島原一家4人殺害事件 (H) | 1947年2月14日 | 1946年8月4日 | 1947年10月30日に死刑執行。 |
奈良県大淀町夫婦強盗殺人事件 (Y) | 1947年3月8日 | 1945年11月21日 | 1948年8月24日に死刑執行。 |
大分県判田村拳銃強盗殺傷事件 (K) | 1947年3月12日 | 1946年7月10日 | 1948年7月27日に死刑執行。 |
名古屋市港区真砂町煙草屋強盗殺人事件 (O) | 1947年3月18日 | 1946年10月8日 | 1947年9月17日に死刑執行。 |
久留米母子3人殺害事件 (I) | 1947年3月19日 | 1946年8月28日 | 1948年10月20日に死刑執行。 |
広島県西志和村老女強盗殺人事件 (S) | 1947年3月24日 | 1946年2月28日 | 1948年10月5日に死刑執行。 |
中野ラジオ商夫婦強盗殺人事件 (O) | 1947年4月9日 | 1945年9月5日 | 1948年8月25日に死刑執行。 |
医大生殺し (K) | 1947年8月 | 1946年7月9日 | 下記Sの共犯、兵庫県芦屋市春日町在住、三菱造船職工[237]。北アルプス・烏帽子岳登山口の「濁小屋」で東京慈恵会医科大学山岳部の男子学生4人を襲い[238]、2人を惨殺した[237]。 強盗殺人罪に問われ、1946年11月9日に長野地裁松本支部で開かれた第2回公判で、Sとともに死刑を求刑された[237]。同年11月28日、長野地裁松本支部で両被告人とも死刑判決を言い渡された[239][240]。 1948年7月13日に死刑執行。 |
医大生殺し (S) | 1947年8月 | 1946年7月9日 | 上記Kの共犯、兵庫県神戸市林田区東尻池町、無職[237]。1948年7月13日に死刑執行。 |
名古屋医師ら2人射殺事件 (R) | |||
一勝地村農家6人殺害事件 (H) | 1946年8月29日 | 朝鮮人であるHと下記共犯であるCとRは炭鉱夫として来日しており、終戦後に帰国しようとするが、帰国費用が無いため、帰国費用欲しさに強盗を決意、3人は「帰りが遅くなってしまったので泊めてもらえるでしょうか?」と懇願した、被害者一家は親切に受け入れ、HとCとRは親切なもてなしを受けた為、申し訳ないと感じた為この夜には犯行を決行出来ずにいた、翌日の夜に前日のお礼ということで酒を持って被害者宅に乗り込み、家人が寝静まったのを見計らって、家族6人を虐殺、その後にたんすの中から15800円を盗み、証拠隠滅の為に家を放火して逃走した、しばらくして佐賀県鳥栖市で逮捕され、HとCに死刑判決、Rには無期懲役判決が下された。1952年1月20日に死刑執行[241]。 | |
一勝地村農家6人殺害事件 (C) | 1946年8月29日 | 上記共犯者、朝鮮人。1952年1月20日に死刑執行。 | |
兵庫県奥吉川村住職夫婦強盗殺傷事件 (K) | |||
福岡県川崎町金物商夫婦強盗殺傷事件 (T) | |||
中津市朝鮮人一家殺害事件(R) | 1947年8月13日 | 1946年9月14日 | 朝鮮人。犯人であるIことRは度々、被害者宅へ上がり込んでは食事にありついていた。被害者であるSの妻が不機嫌そうに食事を出したところ、Rが文句を言ったため、Sと口論になり、Sの妻が短刀とハンマーを持ってきたので、ハンマーを取り上げて、Sの妻を殴った、その直後にSの妻が泣いて逃げ、その後にSと格闘になり、Sをハンマーで撲殺、その後に逃げたSの妻を海岸までに追い詰めて、短刀で刺殺、口封じの為にS夫妻の子供2人も絞殺、一家を虐殺した後にS一家の所持金2000円を盗んで逃走し全国指名手配された。1948年12月24日に死刑執行。 |
四日市伯母夫婦強盗殺人事件 (K) | |||
戸畑引揚者強盗殺人事件 (T) | |||
久留米母子3人殺害事件 (O) | |||
北海道奈井江村一家5人強盗殺傷事件 (K) | |||
京都一家3人強盗殺人・口封じ殺人事件 (O) | |||
知人一家3人強盗殺傷事件 (T) | |||
福岡県山田町男性強盗殺人事件 (A) | |||
徳島県三名村山林内ブローカー強盗殺人事件 (S) | |||
大阪市大正区古物商一家3人強盗殺傷事件 (R) | |||
半田ブローカー強盗殺人事件 (M) | |||
伊達夫婦強盗殺人事件 (F) | |||
宮崎県野尻村母子強盗殺人放火事件 (C) | |||
愛知県鳴海町一家3人強盗殺人事件 (O) | |||
窃盗団長崎署刑事射殺事件 (O) | |||
富山県大家庄村老婆殺害事件 (T) | 1947年12月3日[242] | 1946年10月25日[243] | 事件当時22歳[243]。1946年10月23日12時ごろ、男N(当時22歳)・男S(同25歳)・男M(同24歳)と共謀して楠見郵便局(和歌山県和歌山市)に忍び込み、小包などを盗んだ[243]。翌24日に和歌山を発ち、25日正午ごろに入善駅(富山県下新川郡入善町:北陸本線[注 5])に到着、同駅から大家庄村(現:朝日町)へ行ったが、金がなかったため、1人暮らしをしている老女[243](当時61歳)[244]宅に侵入して米を盗もうとした[243]。19時ごろ、就寝中の老女宅に侵入し、広間にあった米俵から米を出していたが、被害者が目を覚ましたために4人がかりで絞殺し、死体を農機具置き場に運ぶとともに、米(約1石)、現金1,150円を盗んだ[245]。 窃盗・強盗殺人の罪に問われ、1947年5月9日に富山地裁で開かれた第2回公判で、N・Sの両共犯とともに死刑を求刑される[246]。同日、被告人Tは死刑判決を[242]、N・Sの両被告人は無期懲役の判決を受けた[246]。 Tは同年10月15日に名古屋高裁でも死刑判決[注 6]を言い渡され、上告したが、同年12月3日に取り下げて確定[242]。 |
奈良県船倉村農家強盗殺傷事件 (U) | |||
寝屋川の一家六人惨殺事件[注 7](正井孝太郎) | 1947年12月17日 | 1945年12月18日[247] | 大阪府北河内郡寝屋川町(現:寝屋川市)で一家6人が惨殺され、自宅庭先の防空壕に埋められた[248]。被害者はベルトレーシング製造工場を経営していたが、事件発生当時は経営不振で休業状態だった[249]。 1946年2月13日、事件当時被害者一家と同居していた工場の工員(当時30歳)が逮捕され、主人たちから冷遇されたことを不満に思い、一家を殺害して家財を強奪しようと決意した後、一家5人を金槌で殴ったり出刃包丁で刺したりして殺害した旨を自供した[250]。 1947年12月17日に大阪地裁で死刑判決を言い渡された[251]。1948年12月15日に死刑執行[251]。 |
北海道古丹別古物商強盗殺人事件 (M) | |||
甲府雑貨商強盗殺人事件 (A) |
1948年死刑確定囚(41人)
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
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友人強盗殺人事件 (Y) | 1948年1月28日 | 1946年2月24日 | 友人を鉄棒で撲殺。1948年12月6日に死刑執行。 |
京都雇い主強盗殺人事件 (U) | 1948年2月12日 | 1946年6月21日 | 雇い主を斧で殺害。1948年12月10日に死刑執行。 |
京都一家3人強盗殺人・口封じ殺人事件 (S) | 1948年3月9日 | 1946年2月28日-3月1日 | 1949年7月20日に死刑執行。 |
母妹殺し(邑神一行) | 1948年3月12日[252] | 1946年9月16日[253] | 1927年(昭和2年)1月10日生まれ[252]。犯行時19歳8か月の少年死刑囚[253]。 本籍地および住居は広島県佐伯郡吉和村字妙音寺原2228番地[252]。 勤務先の金を費消して辞めさせられ、実家に帰っても真面目に仕事をせず、母(事件当時49歳)と妹(当時16歳)から邪魔者扱いを受けていた[253]。 1946年9月16日、夕飯を用意してもらえなかったことに逆上して母と妹を藁打ち槌で撲殺し、遺体を古井戸に遺棄した[253]。 尊属殺、殺人、死体遺棄の罪に問われ[254]、1947年5月23日に第一審の広島地裁で無期懲役の判決を受けたが、同年8月25日に控訴審の広島高裁で死刑判決を受けた[253]。 1948年3月12日に最高裁大法廷(塚崎直義裁判長)で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[255]。同法廷はこの判決で、死刑制度は残虐な刑罰を禁止した日本国憲法第36条に違反せず、合憲であると判示した[256]。 1949年7月27日、福岡刑務所で死刑執行(22歳没)[257][258]。 |
名古屋愚連隊殺人事件 (K) | 1948年3月11日 | 1947年6月21日 | 犯行時17歳(少年死刑囚)。強盗に入った家人2人を布団で縛りつけ窒息死させた。主犯Aが死刑(控訴取り下げにより死刑確定)であったが犯行時17歳であったため、少年法改正により1949年3月23日に無期懲役に減刑。 |
神奈川県吉浜町重役夫婦射殺事件 (K) | 1948年3月27日 | 1946年7月7日 | 強盗に入った家で夫婦を射殺。1948年12月8日に死刑執行。 |
百田駐在所巡査殉職事件 (R) | 1948年4月8日 | 1947年3月35日 | 逮捕を免れるため、男性警察官(当時53歳)を拳銃で射殺した[259]。 殺人と銃刀法違反の罪に問われ、1947年4月11日に甲府地裁で死刑判決を受けた[259]。控訴したが、同年11月12日に東京高裁で死刑判決を受けた[259]。1948年4月8日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[259]。 1948年12月20日に死刑執行。 |
山口県国木峠農家老夫婦強盗殺人事件 (G) | |||
東京都中野区女性・北海道江部乙村農家連続強盗殺人事件 (M) | |||
名古屋古着屋強盗殺人事件 (Y) | |||
名古屋古着屋強盗殺人事件 (G) | |||
名古屋古着屋強盗殺人事件 (S) | |||
岩手県広瀬村老女強盗殺人事件 (K) | 1948年6月4日 | 1947年9月14日 | 共犯2名は一審死刑、控訴審無期懲役判決。量刑の均衡のため1950年7月29日、個別恩赦により無期懲役に減刑。 |
岐阜県清見村一家3人殺害事件 (R) | 1948年6月8日 | 1947年4月9日 | 犯行時17歳。雇い主の妻(29歳)から受けた仕打ちへの恨みから、彼女と子供2人(7歳男児、3歳女児)を包丁で刺殺した[259]。 殺人と窃盗の罪に問われ、1947年7月16日に岐阜地裁高山支部で無期懲役の判決を受けたが、同年11月25日、名古屋高裁で死刑判決を受けた1948年6月8日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[259]。 少年法改正により18歳未満に死刑が適用できなくなったことから、1949年3月23日、個別恩赦により無期懲役に減刑。 |
広島県乃美尾村知人姉妹絞殺事件 (N) | |||
丸亀老夫婦強盗殺人事件 (O) | |||
丸亀老夫婦強盗殺人事件 (T) | |||
愛媛県石城村農業会宿直員強盗殺人事件 (Y) | |||
都島煙草屋一家3人強盗殺人事件 (K) | |||
都島煙草屋一家3人強盗殺人事件 (Y) | |||
北海道奈井江村一家5人強盗殺傷事件 (A) | |||
神戸刑務所戒護課長殺害事件 (S) | 1948年7月7日 | 1947年6月9日 | 殺人で懲役15年に処された前科がある。 服役中の処遇の恨みから、戒護課長の男性(年齢不明)を斧で殴り殺した[259]。殺人罪に問われ、1947年7月18日に神戸地裁で死刑判決を受けた。控訴したが、1948年7月1日に大阪高裁で死刑判決を受け、確定[259]。 1949年2月18日に死刑執行。 |
呉沖洋上ブローカー2人射殺事件 (A) | |||
鶴見時計商射殺・浦賀署巡査部長射殺未遂事件 (K) | |||
芦別歯科医一家3人強盗殺人事件 (T) | |||
千葉県大柏村叔母一家殺害事件 (A) | |||
栃木県城山村老女強盗殺人事件 (H) | |||
明石2女性強盗殺人事件 (N) | 1948年9月4日[260] | ||
熊本県花房村飛行場跡ブローカー強盗殺人事件 (A) | |||
三重県荻原村近隣女性強盗殺人放火事件 (N) | 1948年9月21日[261] | ||
淡路島古物商ら強盗殺人事件 (T) | |||
愛知肝取り殺人事件 (H) | 1948年10月18日 | 1948年4月1日 | 自分を結核だと思い込んだ男(23)が、過去に朝鮮人から「人間の肝は結核に効くのですよ。」と教えてもらった事を思い出して、行商人の女性を絞殺、その後に解体し肝を抽出したが、あまりの見た目に気分が悪くないそのまま遺棄した。1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。 |
長崎県時津村夫婦強盗殺人事件 (S) | 1948年10月21日[262] | 1949年7月28日に死刑執行[262]。 | |
長崎海上強盗殺人事件 (Y) | |||
大阪看板屋父子殺害事件 (N) | |||
小平事件(小平義雄) | 1948年11月16日 | 1945年5月25日 - 1946年8月6日 | 女性7人(17歳から22歳)を次々に強姦した上で絞殺した[259]。 殺人、強姦致死、強姦、窃盗の罪に問われ、1947年6月18日に東京地裁で死刑判決を受けた[259]。控訴したが、1947年2月27日に東京高裁で死刑判決を受けた[259]。1948年11月16日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[259]。 なお、小平は軍隊時代に山東出兵に派遣された際に現地の婦女子を殺害(軍規違反に問われず)したうえ、1932年に前妻の義父を殺害し懲役15年(二度の恩赦により8年で仮出所)を受けた前科を有していた。 1949年10月5日に宮城刑務所で死刑執行(45歳没)[263]。 |
豊中競馬誌編集人長女強盗強姦殺人事件 (U) | 1948年11月20日[264] | ||
鹿児島一家3人強盗殺傷放火事件 (A) | 1948年12月5日 | 1947年12月18日 | 犯行時17歳(少年死刑囚)。少年法改正により18歳未満に死刑が適用できなくなったことから、1949年4月6日、個別恩赦により無期懲役に減刑。 |
福岡県筑紫村夫婦強盗殺人事件 (H) | |||
福島県若松市ブローカー一家5人強盗殺人事件 (S) | 1948年12月11日[265] | 1948年2月21日[266] | |
福島県若松市ブローカー一家5人強盗殺人事件 (S) | 1948年12月11日[267] | 1948年2月21日[268] | |
亀戸情婦母子3人殺害事件 (O) | 1948年12月27日[269] |
1949年死刑確定囚(76人)
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
徳島県阿野村雑貨商夫婦強盗殺傷事件 (O) | |||
姫路母子強姦殺人事件 (N) | |||
和歌山県地蔵峠古着商射殺事件 (K) | |||
柏原旅館一家4人殺害事件 (山田憲) | 1949年2月1日[270] | 1921年4月2日に発生した鈴弁殺し事件の犯人と同姓同名。 | |
徳島県三庄村叔母一家4人殺傷事件 (F) | |||
岡山下宿先老女強盗殺人事件 (Y) | |||
荒尾隣人夫婦殺害事件 (K) | 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。 | ||
和歌山県船着村逆恨み母子殺害事件 (Y) | 未成年(少年死刑囚)。 | ||
警視庁巡査による通行人射殺・母親と甥射殺事件 (U) | |||
阿倍野一家4人強盗殺傷事件 (H) | |||
十条友人の妹強盗強姦殺人事件 (I) | |||
神奈川県共和村老夫婦強盗殺人事件 (K) | |||
鈴鹿署巡査部長射殺事件 (O) | |||
諫早尼僧強盗殺人事件 (H) | |||
伊達夫婦強盗殺人事件 (E) | 未成年(少年死刑囚)。 | ||
毒殺強盗団事件 (H) | 1949年3月19日[271] | 1946年 - 1947年[272] | 1952年8月11日に死刑執行[273]。 |
毒殺強盗団事件 (K) | 1949年3月19日[274] | 1946年 - 1947年[272] | 上記の共犯。 |
毒殺強盗団事件 (K) | 1949年3月19日[275] | 1946年 - 1947年[276] | 上記の共犯。 |
三重県鈴鹿郡老女強盗殺人事件 (K) | |||
三重県鈴鹿郡老女強盗殺人事件 (K) | |||
川崎ブローカー強盗殺人事件 (H) | |||
千葉県二宮町老女強盗殺人事件 (S) | |||
神奈川県大野町砂糖売買強盗殺人事件 (I) | |||
横浜運転手強盗殺人事件 (O) | |||
鹿児島県西南方村小切手強盗殺人・神戸キャバレー経営者射殺事件 (C) | |||
熊本県郡浦村知人女性強盗殺人事件 (S) | 1949年3月20日[277] | 未成年(少年死刑囚)。 | |
千葉県遠山村強盗強姦殺人事件 (K) | |||
兵庫県小野尻峠隧道強盗殺人事件 (T) | |||
鹿児島県東市来町恩人夫婦強盗殺人事件 (N) | |||
関西の小平事件[278](K) | 1949年4月28日 | 1947年11月17日・1947年12月10日・1948年3月30日・1948年6月3日 | 朝鮮人であるMことKは1930年(当時16歳)に大阪府在住の兄を頼って朝鮮から渡来するが、やがて盗癖が身につき逮捕される、逮捕されたKは1943年に出所した後に名前をMに変えると、ブローカーとして働き初め、終戦後には莫大な利益を手に入れていた。しかしそれも長く続かず、仕立て業を始めるが上手くいかず、空き巣を繰り返す、1947年11月17日には西宮市に住むブローカー宅に押し入り妻と長女の首を絞め金品を強奪、妻は息を吹き返すが長女は亡くなる、その後、以前商売を手伝い大きな利益を得たのに約束した報酬を支払わなかった知人を恨み殺害を決意、1947年12月10日にその知人宅に宿泊し、深夜に寝室に侵入すると知人夫婦を匕首で刺殺、ついでに女中も絞殺し、金品を強奪し放火。翌年3月30日に母子を脅迫し絞殺し金品を奪って逃走、1948年6月3日には女性を絞殺し、衣類を盗んで逃走、その後に盗品を売ったことで足が付き、さらには過去の犯行を記録した日記が発見され、連続殺人事件の犯人である事が発覚し逮捕された。1951年11月17日に死刑執行[279][280]。 |
福島県若松市ブローカー一家5人強盗殺人事件 (S) | 1949年4月30日[281] | 1948年2月21日[282] | |
東淀川親族強盗殺人事件 (S) | |||
滝川老女強盗殺人事件 (S) | 未成年(少年死刑囚)。1954年1月15日、個別恩赦。 | ||
千葉県旭村白米取引拳銃殺傷事件 (I) | |||
笠岡情婦殺害事件 (F) | 内妻(事件当時45歳)の中傷により情婦に逃げられたことを恨み、内妻を手拭いで絞め殺した[283]。強盗殺人罪で起訴されたが、殺人罪を認定され、1949年5月14日に岡山地裁で死刑判決を受けた[283]。控訴せず確定[283]。 | ||
栃木県国本村一家4人強盗殺傷事件 (M) | |||
奈良県平城村兄弟強盗殺人事件 (S) | 1949年5月28日[284] | 1946年12月11日[284] | 強盗団4人組による犯行。Dを主犯として死刑が確定し、後に死刑執行されたが、1958年に出所した「従犯」が本当の主犯を恐喝して逮捕されDは濡れ衣であったという真相が発覚[285]。 |
熊本県龍峯村老夫婦強盗殺人事件 (Y) | 1949年5月31日[286] | 1947年12月28日[287] | 未成年(少年死刑囚)。 |
海南ブローカーら強盗殺人事件 (K) | |||
海南ブローカーら強盗殺人事件 (Y) | |||
別府男性・奈狩江村老女強盗殺傷事件 (T) | |||
岩手県巻堀村母娘強盗殺人事件 (S) | |||
栃木県氏家町恩人女性強盗殺人事件 (K) | |||
栃木県東那須野村ブローカー強盗殺人事件 (I) | |||
福岡県宝珠山村飲食店女性強盗殺人事件 (H) | |||
長崎県加津佐町いとこ夫婦強盗殺人事件 (O) | |||
姫路母子強盗殺人事件 (M) | |||
長野刑務所看守殺人事件 (T) | |||
山下村男女強盗殺傷事件 (O) | |||
横浜朝鮮人青果商一家殺傷事件 (S) | |||
福島県津島村古着行商女性強盗殺人事件 (K) | |||
北海道淕別村家族3人殺害事件 (K) | |||
横浜市金沢区父親ら3人殺害事件 (M) | |||
奈良県榛原町朝鮮人強盗殺傷事件 (R) | |||
奈良県榛原町朝鮮人強盗殺傷事件 (R) | |||
広島県田森村酪農一家強盗殺人事件 (H) | |||
大垣飲食店強盗殺人事件 (N) | |||
大津野村強盗殺人事件 (K) | 1949年7月13日 | 1945年12月18日 | 架空の商談話でおびき出した2人を殺害。共犯5人のうち2人が死刑に。 |
大津野村強盗殺人事件 (K) | 1949年7月13日 | 1945年12月18日 | 上記共犯。 |
和歌山県上名手村祖母・孫娘強盗殺傷事件 (K) | |||
滝川老女強盗殺人事件 (S) | 1954年1月15日、個別恩赦。 | ||
兵庫県東志方村住職兄妹強盗殺人事件 (M) | |||
兵庫県東志方村住職兄妹強盗殺人事件 (Y) | |||
兵庫県東志方村住職兄妹強盗殺人事件 (H) | |||
北海道南尻別一家3人強盗殺人事件 (Y) | 未成年(少年死刑囚)。 | ||
新発田青果商番頭強盗殺人事件 (S) | |||
宇多津拳銃強盗夫婦殺傷事件 (M) | |||
茨城県吉田村蓮乗壕内殺人事件 (Y) | |||
和歌山一家8人殺害事件 (O) | 1949年8月18日 | 1946年1月29日 | 母親を虐待した兄嫁を恨み、兄一家8人を虐殺。死刑確定後の1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。1968年春に仮出獄。 |
三重県柿野村内妻殺害事件 (N) | 殺人予備前科(懲役1年6月)、殺人前科(懲役8年)1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。 | ||
荻窪美容師強盗殺人事件 (P) | |||
北海道鵡川村老兄弟強盗殺人事件 (S) | |||
福島県江名町雨宿り強盗殺人事件 (A) | |||
藤沢姉一家3人強盗殺人事件 (W) | |||
前橋警察官連続殺傷事件 (K) | 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。 | ||
北海道古平峠ゴム長靴商強盗殺人事件 (O) | |||
滋賀刑務所看守部長殺害事件 (T) | 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。 | ||
佐賀県境野村銀行員日本刀強盗殺人事件 (H) | 1948年1月20日・1949年2月14日 | 1947年10月16日 | 1947年10月16日、佐賀県神埼郡境野村(現:神埼市)の県道上木壽橋付近で通行人を脅して金品を奪おうと日本刀を持って通行人を待ち伏せ、偶然通りかかった日本勧業銀行佐賀支店貸付係男性(当時43歳)に日本刀を突きつけて脅迫するが、騒がれたため頭部、胸部、腹部など十数か所を切りつけて財布1個(550円在中)などを強取し、男性を肺動脈切断で失血死させた[288]。<r/>強盗殺人罪に問われ、1948年1月20日に佐賀地裁で、1949年2月14日に福岡高裁でそれぞれ死刑判決[289]。同年2月20日付で死刑が確定[290]。 |
1950年 - 1954年
1950年死刑確定囚(23人)
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
八幡市脳みそ嗜食強盗強姦殺人事件 (W) | 1950年1月8日 | 1949年3月25日 | 大師堂守夫婦宅に居候していた犯人W(58)は、夫婦を殺害して家財を売り払おうと計画。夫(68)を殺害後に、その妻(58)も陵辱後に殺害して24個に解体。解体中に刑務所で「人間の脳味噌は体にいい。食べると長生きする」と聞いた事を思い出し、夫の脳みそを味噌汁に調理して食べた。取り調べでは「体にいいと聞いて食べたがそんなに美味いもんじゃなかったよ」と自供した、控訴せず確定。1950年7月5日に死刑執行[291][292]。 |
和歌山市自転車店老女強盗殺人事件 (H) | 1950年1月31日 | 1949年6月8日 | 無関係の人物を絞殺。控訴取下げ。1950年4月26日に死刑執行。現行の刑事訴訟法下で確定から執行の最短記録(2ヶ月と26日) |
愛知県上郷村呉服商母娘強盗殺人事件 (N) | 1950年2月2日 | 1948年6月9日 | 強盗殺人罪に問われ、1948年4月13日に名古屋地裁岡崎支部で、1949年7月13日に名古屋高裁で死刑判決を受けた[293]。1950年2月2日に最高裁第一小法廷で上告棄却判決を受け[294]、同日付で死刑が確定[293]。 1953年4月10日に死刑執行。 |
第二小平事件 (K)[295] | 1950年2月3日 | 1946年(3月31日・11月9日・12月21日)[296] | 1910年(明治43年)12月20日、茨城県猿島郡五霞村で生まれた[297]。埼玉県と茨城県で以下の事件を起こした。「第二の小平」[298]「第二小平」[299]「小平二世」[300]「埼玉小平」と呼称された[299]。
また逮捕後には、1935年2月15日、知人関係にあった東京都墨田区の女工(当時24歳)を茨城県猿島郡五霞村元栗橋浅間下地内田圃に連れ出して絞殺し、ハンドバッグや原因などを奪った事件や[299]、1946年4月29日、埼玉県入間郡名細村で元娼婦の女性(当時19歳)を扼殺したという事件も自供した[298]。 |
志和堀村両親殺害事件 (M) | 1950年2月21日 | 1948年6月11日 | 犯行時19歳(少年死刑囚)、上告を取り下げにより死刑が確定したが、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約恩赦で無期懲役に減刑。 |
呉拳銃強盗殺人事件 (W) | 1950年4月7日 | 1948年4月10日 | 控訴取下げ。死刑執行日は不明。 |
埼玉県本畠村母娘強盗殺人事件 (S) | 1950年4月18日 | 1947年6月9日 | |
横浜朝鮮人青果商一家殺傷事件 (Y) | 1950年5月9日 | 1948年2月24日 | |
横浜朝鮮人青果商一家殺傷事件 (Y) | 1950年5月9日 | 1948年2月24日 | |
修善寺2女性強盗殺人事件 (I) | 1950年5月18日 | 1948年9月23日 | |
横須賀ガソリン売買強盗殺人事件 (H) | 1950年5月30日 | 1946年11月20日 | 1951年1月23日に死刑執行。 |
横須賀ガソリン売買強盗殺人事件 (N) | 1950年5月30日 | 1946年11月20日 | 1951年1月23日に死刑執行。 |
秋津村未亡人強盗殺人事件 (O) | 1950年5月23日 | 1949年5月11日 | 控訴取下げ。1950年11月28日に死刑執行。 |
国際ギャング団連続強盗殺傷事件 (K) | 1950年6月23日 | 1946年(1月12日・3月2日) | 年度は不明だが、12月28日もしくは29日に死刑執行。 |
愛知県岡田町飲食店男女強盗殺人事件 (R) | 1950年6月30日 | 1949年3月25日 | 1951年1月16日に死刑執行。 |
戸塚寄宿先家族強盗殺人事件 (K) | 1950年7月25日 | 1947年10月5日 | 控訴取下げ。1951年1月29日に死刑執行。 |
水俣沖船頭夫婦強盗殺人事件 (S) | 1950年7月28日 | 1947年4月8日 | 1954年9月24日に死刑執行。 |
日立雑貨商強盗殺人事件 (T) | 1950年7月29日 | 1949年8月8日 | 上告せず確定。1951年2月2日に死刑執行。 |
3人組拳銃強盗殺人事件(大谷高男) | 1950年9月5日[304] | 1946年4月23日[305] | 1955年2月11日に死刑執行[304]。死刑執行前に最後の言葉として「極楽では私の方が先輩ですからね」と言い残したことや、死刑執行前の会話を録音したテープが存在していることで有名。 |
静岡銀行留守番老女強盗殺人事件 (T) | 1950年10月5日 | 1949年3月13日 | 兄の難病を治す薬を買う為に強盗殺人、1951年5月21日に死刑執行。 |
三河島三味線師母子強盗殺人事件 (S) | 1950年10月31日 | 1948年1月11日 | |
福岡雇い主強盗殺人事件 (I) | 1950年11月22日 | 1950年4月6日 | 控訴取下げ。1951年7月31日に死刑執行。 |
佐賀県切木村強姦殺人事件 (I) | 1950年11月30日 | 1949年4月24日 | 殺人未遂前科(懲役4年)。 女性(当時20歳)を強姦した上、犯行の発覚を免れるため、手で口をふさいで窒息死させて殺害した[283]。 強姦致傷と殺人の罪に問われ、1949年6月24日に佐賀地裁で死刑判決を受けた[283]。控訴したが、1950年5月2日に福岡高裁で控訴棄却判決を受けた[283]。同年11月30日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[283]。死刑執行日は不明。 |
北海道枝幸町一家3人強盗殺人事件 (O) | 1950年12月14日 | 1948年6月4日 | 最高裁が下級審の判決を破棄し死刑判決。 |
1951年死刑確定囚(40人)
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
島根県湯里村老夫婦強盗殺人事件 (Y) | 1951年1月8日 | 1950年1月3日 | 控訴取下げ。1951年に死刑執行。 |
佐賀県龍光寺住職一家7人殺傷事件 (Y) | 1951年1月23日 | 1950年10月5日 | 控訴せず確定。1951年12月14日に死刑執行。 |
三重県安濃村老女強盗殺人事件 (T) | 1951年1月26日 | 1949年4月1日 | 1951年9月13日に死刑執行。 |
鶴見老夫婦強盗殺人事件 (K) | 1951年1月30日 | 1949年3月7日 | 死刑執行日は不明。 |
矢野村強盗殺人事件 (F) | 1951年2月2日 | 1947年5月23日 | 未成年(少年死刑囚)。兄弟で犯した強盗殺人について死刑判決を受けた弟が「主犯は兄である」と主張していた。兄もそれを裏付ける主張を行っていたが、弟の再審請求は容れられず、1953年2月20日に死刑執行。 |
福井県遠敷村老女ピストル強盗殺人事件 (K) | 1951年2月16日 | 1949年10月5日 | 死刑執行日は不明。 |
福島県鳩花温泉旅館強盗殺傷事件 (K) | 1951年3月6日 | 1948年12月4日 | 死刑執行日は不明。 |
千葉県富里村商売仲間女性強盗殺人事件 (T) | 1951年3月30日 | 1949年2月20日 | 死刑執行日は不明。 |
大分市元町強盗殺人事件 (S) | 1951年4月18日 | 1949年1月20日 | 1959年6月10日に死刑執行。 |
大分市元町強盗殺人事件 (N) | 1951年4月18日 | 1949年1月20日 | 1959年6月10日に死刑執行。 |
土浦老人強盗殺人事件 (O) | 1951年4月26日 | 1948年1月12日 | 死刑執行日は不明。 |
福島県鮫川村一家3人殺傷事件 (S) | 1951年6月8日 | 1949年6月28日 | 死刑執行日は不明。 |
鷺宮元陸軍大佐夫人強盗殺人事件 (Y) | 1951年6月15日 | 1948年11月5日 | 上告せず確定。1955年7月に死刑執行。 |
今里新地タクシー運転手強盗殺人事件 (Y) | 1951年6月19日 | 1949年10月24日 | 一審は無期懲役。死刑執行日は不明。 |
江東区友人の母強盗殺人事件 (Y) | 1951年7月5日 | 1949年11月21日 | 死刑執行日は不明。 |
福島県高久村一家4人殺害事件 (O) | 1951年7月6日 | 1949年6月3日 | 未成年(少年死刑囚)。死刑執行日は不明。 |
山梨県昭和村一家3人強盗殺傷事件 (S) | 1951年7月10日 | 1947年1月26日 | 死刑執行日は不明。 |
菅野村強盗殺人・放火事件(山本宏子) | 1951年7月10日 | 1949年6月10日 | 戦後日本で死刑の言い渡しを受けた女性[306]、および死刑確定者となった女性(女性死刑囚)はいずれも彼女が初で、女性への死刑確定は戦前の1939年以来だった[307]。 1969年9月2日付で死刑から無期懲役に恩赦減刑(当時54歳)[308]。その後は八王子医療刑務所や和歌山刑務所で服役したが、1978年3月4日、奈良県大和郡山市の国立療養所[注 8]で病死(62歳没)[308]。戦後、恩赦で無期懲役に減刑された女性死刑囚は彼女が唯一である[306]。 |
板橋母娘強盗殺人事件 (K) | 1951年8月6日 | 1949年11月24日 | 上告取下げ。死刑執行日は不明。 |
兵庫県東谷村老女強盗殺人事件 (T) | 1951年8月9日 | 1949年10月2日 | 一審は無期懲役。死刑執行日は不明。 |
熊本県宮内村煙草屋強盗殺人事件 (I) | 1951年8月9日 | 1950年4月20日 | 1952年6月19日に死刑執行。 |
熊本県菱形村社長夫妻強盗殺人事件 (U) | 1951年8月31日 | 1949年12月15日 | 1958年4月14日に死刑執行。 |
北海道弟子屈町母子3人強盗殺人事件 (K) | 1951年9月3日 | 1950年3月14日 | 上告取下げ。 |
千歳母子強盗殺人事件 (K) | 1951年9月4日 | 1950年7月19日 | 上告取下げ。 |
小田原一家5人殺害事件 (S) | 1951年9月6日[309] | 1949年9月14日[309] | 事件当時18歳4か月(少年死刑囚)[309]。大量殺人犯だが、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑[310]。1970年3月に仮出獄したが[310]、1984年7月8日に殺人未遂事件を起こし[311]、同年12月19日に東京地裁刑事第15部(柴田孝夫裁判長)で懲役8年の実刑判決(求刑:懲役12年)を受けた[312]。これに伴い、仮釈放も取り消され再収監された[310]。 |
宮城刑務所看守殺害事件 (N) | 1951年9月6日 | 1949年7月29日 | 強盗強姦罪で無期懲役が確定し服役中。1952年6月19日に死刑執行。 |
福島県小塩江村老女強盗強姦殺人事件 (P) | 1951年10月8日 | 1950年3月28日 | 内妻との同棲資金欲しさから、知人女性(67歳)を強姦した上で杵で殴り殺し、現金約850円などを強取した[313]。 強盗強姦、強盗殺人の罪に問われ、1950年11月22日に福島地裁白河支部で死刑判決を受けた[313]。控訴したが、1951年4月28日に仙台高裁で控訴棄却判決を言い渡された[313]。 1951年10月8日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[313]。死刑執行日は不明。 |
宮城一家強盗殺傷事件 (A) | 1951年10月18日 | 1950年4月26日 | 金銭欲しさから無関係者3人(43歳男性・20歳男性、35歳女性)を鉈や鉞で殴打し、女性を殺害したほか、男性2人も負傷させ、現金約10万円などを強取した[314]。 強盗殺人罪に問われ、第一審の仙台地裁では1950年12月7日、無期懲役の判決を言い渡された[314]。しかし控訴審の仙台高裁では1951年5月18日、死刑(原判決を破棄自判)の判決を言い渡された[314]。 1951年10月18日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[314]。1955年1月29日に死刑執行。 |
強盗計画者による家人射殺事件 (P) | 1951年11月8日 | 1949年10月15日 | 1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑された。 |
八熊事件[注 9] (T)[315] | 1951年11月30日 | 1947年2月10日・1948年4月15日 | 1946年春ごろから1948年4月15日までの間、愛知県名古屋市熱田区・中川区一円で11人の女性が夜間一人で歩いていたところを背後から首を絞められて強姦され、金品を強奪されるという事件が続発した[315]。生活費欲しさから夜間に通行中の女性(当時18歳)を陵辱した後に手拭で絞殺したほか、後に面識のない女性(当時20歳)を扼殺し、現金約120円などを奪った[314]。最終的に1948年5月12日に宝くじの番号から特定し逮捕された[315]。 強盗、強盗殺人未遂、強盗殺人の罪に問われ、1948年10月20日に名古屋地裁で死刑判決を言い渡された[314]。控訴したが、1951年3月12日に名古屋高裁で死刑判決を言い渡された[314]。 1951年11月30日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[314]。 |
長瀬村一家3人殺害事件 (Y) | 1951年12月7日 | 1948年12月19日 | 1924年(大正13年)3月12日生まれ[317]。 1948年12月18日、長野県小県郡長瀬村(現:上田市)で雑貨煙草商の男性A1(当時63歳)と妻A2(64歳)、A1の母A3(同84歳)の一家3人を肉切り包丁で刺殺し[318]、現金約4万円などを強取した[314]。動機は借金の返済資金欲しさで、A1・A2夫婦とは知人関係にあった[314]。事件発生から1年3か月後に食品衛生法違反容疑で別件逮捕され、現場に遺されていた指紋とYの指紋が一致したことから逮捕された[319]。 強盗殺人罪に問われ、1950年6月15日に長野地裁上田支部で死刑判決を言い渡された[314]。控訴したが、1951年5月25日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[314]。 1951年12月7日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[314]。上訴中に獄中死したとする文献もある[319]。 |
高知県大川村拳銃強盗殺人事件 (Y) | 1951年12月18日 | 1949年11月12日 | 借金返済のための資金欲しさに無関係者の男性(当時46歳)を拳銃で射殺し、雑魚などを強取した[314]。 銃砲等所持禁止令違反などの罪に問われ、第一審の高知地裁では1950年9月7日に無期懲役の判決を言い渡された[314]。しかし控訴審の高松高裁では、1951年6月17日に死刑(原判決を破棄自判)の判決を言い渡された[314]。 1951年12月18日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[314]。死刑執行日は不明。 |
帯広一家3人強盗殺傷事件 (O) | 1951年12月20日 | 1950年3月26日 | |
大阪連続強盗強姦殺人事件(生野の小平事件) (K) | 1951年12月21日 | 1947年11月30日・1948年3月29日 | 未成年(少年死刑囚)。懲役15年(強姦致傷罪)刑執行停止中。死刑執行日は不明。 |
東住吉主婦強盗強姦殺人事件 (北山義信) | 1951年12月21日 | 1950年3月10日 | 一審は無期懲役。1954年5月6日に死刑執行。 |
免田事件(免田栄) | 1951年12月25日 | 1948年12月29日 | 1983年7月に再審で無罪が確定した冤罪事件。 |
栃木県須賀川村老婆強盗殺人事件 (山口仙次) | 1951年12月25日 | 1950年4月9日 | |
姫路知人2人強盗殺人事件 (O) | 1951年12月27日 | 1950年2月20日 | 死刑執行日は不明。 |
姫路知人2人強盗殺人事件 (T) | 1951年12月27日 | 1950年2月20日 | 死刑執行日は不明。 |
宇治博徒仲間強盗殺人・鉄道轢断事件 (K) | 1951年12月28日 | 1948年11月14日 | 一審は無期懲役。1957年6月27日に死刑執行。 |
1952年死刑確定囚(34人)
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
福島県清水峠拳銃強盗殺人事件 (A) | 1952年1月22日 | 1949年7月15日 | 死刑執行日は不明。 |
福島県清水峠拳銃強盗殺人事件 (T) | 1952年1月22日 | 1949年7月15日 | 死刑執行日は不明。 |
福島県清水峠拳銃強盗殺人事件 (H) | 1952年1月22日 | 1949年7月15日 | 死刑執行日は不明。 |
島根県連続強盗殺傷放火事件 (M) | 1952年1月23日 | 1951年5月25日/29日 | 1952年10月22日に死刑執行。 |
静岡雇い主一家3人殺害事件 (R) | 1952年1月23日 | 1950年6月25日 | 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。 |
大分県駅館村雑貨商一家強盗殺傷事件 (N) | |||
兵庫友人兄弟強盗殺人事件 (G) | |||
兵庫友人兄弟強盗殺人事件 (N) | |||
水戸露天商夫婦強盗殺傷事件 (Y) | |||
神田知人父娘強盗殺人事件 (I) | |||
大分県上井田村内妻一家3人刺殺事件 (S) | 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。 | ||
九段老女・太秦タクシー運転手連続強盗殺人事件 (O) | |||
栃木県落合村幼児強盗殺人事件 (N) | |||
宮城県吉田村3人組母子強盗殺人事件 (O) | |||
宮城県吉田村3人組母子強盗殺人事件 (T) | |||
市川博徒仲間殺害事件 (Y) | 1952年3月28日[320] | 1948年5月17日[320] | 1970年7月17日、個別恩赦減刑[320]。その後病死。 |
石岡強盗殺傷事件 (S) | |||
淀川堤防タクシー強盗殺人事件 (M) | |||
柳井元日通職員強盗殺人事件 (T) | |||
池袋カルピス毒殺事件(第二帝銀事件) (N) | 1948年9月5日 | 共犯者2名と共謀し、強盗目的で青酸カリ入りのカルピスを被害者に言葉巧み飲ませ、殺害、現場的にも帝銀事件と近く、犯行内容・手口も似ていたため、第二帝銀事件とも呼ばれた。共犯者2名は懲役刑。逮捕日は1948年11月5日 | |
福岡連続強盗殺人事件 (S) | 1952年4月9日(控訴審判決日)[321] | 1951年(5月15日・6月3日)[322] | 事件当時19歳10か月(少年死刑囚)[321]。福岡県内(福岡市および八幡市)で男性2人を殺害[323]。逮捕後、「『ソウさん』という共犯者(=当時逃亡中の古谷惣吉)がいる」と主張したが、警察はほとんどその共犯者(=古谷)について追及せず[324]、1951年11月7日に福岡地裁で死刑判決[323]。控訴したが、1952年4月9日に福岡高裁で控訴棄却判決を受け死刑が確定[321]。1953年に死刑執行[325]。 共犯者・古谷惣吉はSの死刑執行後に逮捕され、懲役10年の判決を受け服役したが[326]、出所後に8人連続殺人事件(警察庁広域重要指定105号事件)を起こして死刑確定(1985年〈昭和60年〉8月1日に死刑執行)[327]。 |
埼玉の小平事件 (T) | 埼玉県比企郡松山町(現:東松山市)の家畜商[328]。金銭欲しさから通行人の女性(当時21歳)を強姦した上で扼殺し、現金約1500円などを強取したほか、同種の強盗強姦、強盗殺人2件を犯した[329]。
3. 事件後の5月31日に逮捕され、6月11日に1. と2. の事件を自供した。またこれ以外にも暴行未遂3件や、群馬県でも若い女性を暴行・絞殺したことを自供した[330]。犯行手口が小平義雄と共通していたため[330]、「埼玉の小平」として埼玉県北部の若い女性に衝撃を与えた[331]。 | ||
国鉄職員による小山駅女性全裸殺人事件 (I) | |||
栃木県粟野町住職夫妻ら強盗殺人事件 (K) | |||
茨城県軽野村一家3人強盗殺人事件 (T) | 1952年7月10日 | 1950年2月19日 | 1956年11月10日に名古屋拘置所で死刑執行。 |
蔵前元雇い主親子強盗殺人事件 (K) | |||
宮城馬喰強盗殺人事件 (H) | |||
平戸幽霊船大生丸殺人事件 (U) | 1951年9月17日 | 1950年5月17日 | 共犯の兄NM(26)と共謀して船を乗っ取りをはかった強盗殺人犯、船長KT(50)と機関長KK(42)を殺害して、海に投げ込み、鮮魚と船を強奪。共犯の兄は無期懲役、再審請求を行っていたが、ある日突然執行された、1952年9月20日に死刑執行[334]。 |
貸しボート上暴力団抗争射殺事件 (T) | 1952年、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。 | ||
茨城連続強盗殺人事件 (W) | |||
和歌山・奈良2女性連続殺人事件 (M) | |||
福岡・神戸警察官ら連続射殺事件 (H) | 1951年5月[335]。 | 1954年9月10日に死刑執行[336]。 | |
埼玉県大門村一家5人強盗殺傷事件 (I) | |||
佐賀県小城町玩具商父娘強盗殺傷事件 (W) |
1953年死刑確定囚(26人)
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
北海道穂別村老夫婦強盗殺人事件 (I) | |||
新潟八百屋夫婦強盗殺人事件 (K) | |||
富良野住職夫婦強盗殺人放火事件 (H) | |||
北海道永山村飯場仲間一家ら6人殺傷事件 (I) | |||
長崎若妻強盗殺人事件 (K) | |||
鳥取県大宮村林業従事者殺人窃盗事件 (M) | 1953年、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。 | ||
矢板山林売買強盗殺人事件 (T) | |||
伊那老女強盗殺人事件 (N) | |||
千葉県富勢村ヤミ屋一家3人強盗殺人事件 (Y) | |||
千葉県富勢村ヤミ屋一家3人強盗殺人事件 (M) | |||
杉並老女強盗殺人事件 (S) | |||
元巡査による架空取引強盗殺人事件 (N) | |||
福岡県筑紫村牛目的強盗致死事件 (U) | |||
上伊那郡朝日村農協強盗殺人事件 (S) | |||
倉敷時計商親子強盗殺人事件 (H) | |||
長野県七貴村強盗殺人事件 (N) | |||
長野県七貴村強盗殺人事件 (S) | |||
北海道津別町一家5人強盗殺傷事件 (T) | |||
福島県白方村一家6人殺傷事件 (K) | |||
横浜火薬廠守衛長夫婦強盗殺人事件 (S) | |||
横浜火薬廠守衛長夫婦強盗殺人事件 (Y) | |||
共同事業者青酸ビール毒殺事件 (S) | 1954年、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。 | ||
御殿場町役場宿直員強盗殺人事件 (K) | 未成年(少年死刑囚)。 | ||
茨城県磯浜町一家5人殺傷事件 (S) | 1954年、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。 | ||
天草一町田村強盗殺人事件 (Y) | |||
東京松沢マーケット商人強盗殺人事件 (S) |
1954年死刑確定囚(20人)
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
大阪看板屋父子殺人・広島強盗事件 (N) | 1954年1月23日[337] | 1952年11月29日に脱獄するも2日後に神戸で逮捕される[337]。
1957年6月27日に死刑執行[337]。 | |
香川県山内村一家4人殺害事件 (W) | |||
香川県山内村一家4人殺害事件 (N) | |||
淀川堤防タクシー強盗殺人事件 (N) | |||
淀川堤防タクシー強盗殺人事件 (W) | |||
熊本県柿迫村炊事婦殺害事件 (M) | |||
横須賀材木商強盗殺人事件 (F) | |||
石巻図書館司書殺害事件 (A) | |||
別府内妻両親強盗殺人事件 (T) | |||
秋田一家3人殺害事件 (Y) | |||
茅ヶ崎知人の妻強盗殺人事件 (Y) | |||
岡山県和意谷叔父一家4人殺傷事件 (M) | |||
埼玉県幡羅村パチンコ店留守番強盗殺人事件 (A) | |||
水戸無尽会社宿直員殺傷事件 (H) | |||
神戸巡査夫人強盗殺人事件 (Y) | |||
福岡県添田町質商夫婦強盗殺傷事件 (H) | |||
金比羅丸事件 (I) | 1946年8月23日 | 炊事係、船長、船員の3人で生成された海賊による強盗殺人事件、最初は金比羅丸を襲う計画はなく、元々は朝鮮半島への密輸を目的としていた、しかし渡海中に金比羅丸を発見し、懇願し乗船し、しばらくして現金の場所を聞いた後に金比羅丸の船員3人を射殺、船員の内の1人は身を隠し犯人らによって発見されることは無く、生き残った。 | |
兵庫県多加野村農協事務員強盗殺人事件 (F) | |||
千葉の母娘殺し[338](栗田源蔵) | 1954年10月21日[339] | 1952年1月13日[340] | 秋田県雄勝郡新成村(現:羽後町)生まれ[339]、千葉県千葉市検見川町在住[340]。1952年1月13日23時ごろ、検見川町の民家に侵入して室内を物色していたところ、家人の女性(当時25歳)に騒がれたため暴行を加えた上でタオルで絞殺、さらに女性の母親(当時65歳)も出刃包丁で腹を刺して殺した[340]。また強盗、殺人未遂などの余罪もあった[340]。 この事件では強盗殺人罪などの罪に問われ、1952年8月13日に千葉地裁で死刑判決を言い渡されたが[340]、控訴中に下記の余罪が判明した[341]。 |
おせんころがし殺人事件(栗田源蔵) | 1954年10月21日[339] | 上記と同一人。1948年2月、静岡県で闇米屋をしていた時に知り合った女性を殺害した[342]。1951年8月8日には栃木県小山町で天理教布教師の妻(当時26歳)を殺害し[341]、同年10月11日2時ごろには[343]、千葉県安房郡小湊町(現:鴨川市)[注 10]の「おせんころがし」で[342]、子供3人(9歳長女、6歳長男、3歳次女)を連れた女性(当時32歳)に関係を迫り、拒まれたため母子4人を数十メートル下の崖下に突き落とし、結果的に生存した長女を除く3人を殺害した[343]。それらの事件の裁判では1953年12月21日、宇都宮地裁(菅原裁判長)で死刑判決を言い渡された[344]。これらの犯行から「第二の小平」として世間を震撼させ[339]、小平義雄にも劣らない殺人鬼と評された[342]。 両事件とも死刑判決を不服として東京高裁(久礼田裁判長)へ控訴していたが[345]、1954年10月21日付でいずれも控訴を取り下げ、死刑が確定した[339]。その際は自ら早期の死刑執行を望む旨を語っていたが[346]、死刑確定後の1955年8月10日、宇都宮地裁で審理された事件のうち、おせんころがし事件については取り調べを行った国警栃木県本部の捜査官から「どうせ死刑なのだから事件を背負って行け」と強要されて自供したものであるとして、宇都宮地裁に再審請求した[347]。また1957年7月には千葉の母娘殺し事件でも、取り調べで拷問を受けた影響で第一審の公判中に真実を述べることができなかったことや、被害者の女性(当時25歳)とは夫婦約束があり、自分は犯人ではないこと、そして被害者宅に侵入した当時は友人と一緒だったため単独犯ではないとの理由から再審請求した[340]。しかし同地裁は1958年5月12日付で、栗田の犯行前後の行動は審理尽くされており、単独犯と認められるとして、再審請求を棄却する決定を出した[340]。 1959年10月14日、宮城刑務所で死刑執行(34歳没)[342]。死刑執行前の1956年から1957年にかけ、国会で死刑存廃問題が取り上げられた際、死刑存置論者は栗田を引き合いに「こんな男でも死刑にしてはならないのか」と訴えていた一方、晩年は一般の女性に獄中から手紙を出して同情を求めるなど、有害な行動も多かったという[342]。 | |
大宮女性郵便局員殺害事件 (S) |
1955年 - 1959年
1955年死刑確定囚(19人)
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
広島刑務所副看守長殺害事件(I) | 1955年2月2日 | 1953年5月29日 | 控訴取下げ。殺人前科あり。1957年2月4日に死刑執行。 |
京都脱獄囚による一家3人強盗強姦殺人事件 (U) | 1955年3月16日 | 1953年10月24日 | 上告取下げ。死刑執行日は不明。 |
横浜市金沢区留守番男性強盗殺人事件 (F) | 1955年3月22日 | 1952年1月28日 | 死刑執行日は不明。 |
帝銀事件(平沢貞通) | 1955年4月6日 | 1948年1月26日 | 1987年5月10日獄死(95歳没)。 |
大阪港機帆船船長兄弟殺害事件 (Y) | 1955年4月12日 | 1954年2月17日 | 上告せず確定。死刑執行日は不明。 |
蕨隣家夫婦射殺・茨城2人射殺未遂事件 (S) | 1955年6月9日 | 1947年12月30日・1951年12月25日 | 死刑執行日は不明。 |
三鷹事件(竹内景助) | 1955年6月22日 | 1949年7月15日 | 村野薫|1993|p=57}}。 |
栃木雑貨商一家殺害事件 (K) | 1955年6月28日 | 1953年3月17日 | 上告棄却、白内障を患った母親の治療費欲しさに近所の雑貨商に侵入し、一家3人と使用人を殺害。最高裁上告中に脱獄、後に確保され、1955年6月28日に最高裁が上告を棄却。同年11月22日宮城刑務所にて死刑執行。死刑確定から執行までの期間は戦後最短とする文献もあるが、これは誤りで、昭和20年代には確定から2か月前後で執行された者もいる。 |
湯島・羽生連続強盗殺人事件 (H) | |||
福島県黒土村強盗殺人事件 (F) | |||
宮崎老夫婦強盗殺人事件 (T) | |||
兵庫県若狭野村遠縁3人強盗殺人事件 (N) | |||
北海道標茶町内妻実家放火殺人事件 (A) | |||
大阪市住吉区銭湯一家4人強盗殺人事件 (S) | |||
神戸洋服商殺人事件(孫斗八) | 1955年12月16日 | 1951年1月17日 | 上告棄却、以前オーバーコートを購入した洋服商店に上り込み、夫婦2人を殺害。 |
新宿家政婦殺害事件[348] (F) | 1955年12月20日 | 1951年5月25日 | 上告棄却、金銭の貸主宅に侵入し、同家の家政婦を殺害。 |
福岡県豊津村一家8人殺害事件 (N) | 1955年12月26日 | 1954年9月7日 | 殺人未遂前科(懲役4年)あり、日頃から交際相手に対して暴力を行っていた美容師である犯人Nは別れ話を切り出された事に激怒し鍬で交際相手一家8人を虐殺、殺害後に家で仮眠をとって休憩した後に逃走、電車に乗って逃走していた所を警察に逮捕された。上告棄却 |
喜多方巡査殺害事件[349] (S) | 1955年12月26日 | 1953年5月7日 | 上告棄却、一審は無期懲役。駐在所巡査を殺害。成人4日後の犯行。死刑執行日は不明。 |
長野県松尾村医師見習強盗致死事件[349] (M) | 1955年12月26日 | 1954年9月5日 | 上告棄却、1人を刺殺。死刑執行日は不明。 |
1956年死刑確定囚(22人)
名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
門司幼児3人殺害事件 (K) | 1956年1月6日[350] | 1952年4月21日[351][352] 1952年5月13日[353][352] 1952年5月19日[353][352] |
1901年(明治34年)4月21日生まれ[354]。1952年4月21日 - 5月19日にかけ、福岡県門司市(現:北九州市門司区)内で幼児3人(5歳男児2人と8歳〈小学校2年生〉女児)[355]を相次いで殺害し[356]、死体を肥つぼに遺棄した[357]。 同事件で殺人罪・死体遺棄罪に問われ[354][358]、刑事裁判で弁護人は責任能力の問題(心神喪失もしくは心神耗弱)を主張したが、第一審の福岡地裁小倉支部で、1955年1月19日に求刑通り死刑判決を言い渡された[358]。その後、同年7月4日に福岡高裁で控訴棄却の判決を受ける[358]。K本人は上告審で、3件とも無実を主張したが[351]、同年12月26日には最高裁第三小法廷(島保裁判長)で上告棄却の判決を受け[359]、1956年1月6日付で死刑が確定[350]。 確定後、死刑執行まで計14回にわたり、約2か月おきに再審請求を繰り返していたが、死刑確定から2年3か月後の1958年4月12日に福岡刑務所[注 11]で死刑執行[362](56歳没)。これを受け、福岡高裁第4刑事部(柳田躬則裁判長)[注 12]は同月22日付で「請求人が死刑を執行されたため、(再審の)請求権[注 13]は消滅した」として、再審請求を棄却する決定[注 14]を出した[注 15][362]。 |
福島県田人村母子強盗殺人事件 (K) | 一審は無期懲役。 | ||
旭川通運宿直員強盗殺人事件 (H) | |||
旭川通運宿直員強盗殺人事件 (K) | |||
福岡事件 (N) | 1956年4月17日 | 1947年5月20日 | 1975年6月17日に死刑執行(60歳没)。 |
福岡事件 (I) | 1956年4月17日 | 1947年5月20日 | 1975年6月17日に個別恩赦で無期懲役に減刑。1989年仮出獄、2008年11月7日に死去(91歳没)。 |
宗像坑木商強盗殺人事件 (O) | |||
京都母親強盗殺人事件 (K) | |||
宮城県利府村一家6人殺傷事件 (S) | |||
熊本市長安寺町女性強盗殺人事件 (T) | |||
延岡タクシー運転手強盗殺人事件 (T) | 控訴取下げ。 | ||
半田伯父ら連続強盗殺人事件 (I) | |||
福岡県八木山峠中学女性事務員強盗殺人事件 (T) | |||
福岡県八木山峠中学女性事務員強盗殺人事件 (Y) | |||
相模原質店強盗殺人事件 (S) | |||
文京区小2女児殺害事件 (S) | 1956年10月25日 | 1954年4月19日 | 1957年6月22日に死刑執行(享年22)。 |
茨城恩人強盗殺人事件 (M) | |||
藤井寺旅館母子殺傷事件 (M) | |||
銀座母娘殺し事件(別府似男[注 16][366]) | 1956年12月5日[367] | 1956年1月18日[368] | 1956年1月18日、東京都中央区銀座東七丁目(現:銀座七丁目13番)の弁護士・磯部常治(東京第二弁護士会副会長)方で、磯部の妻(当時52歳)と次女(当時22歳)が殺害された事件[369]。事件当時28歳[370]。まず妻をネクタイで絞殺、次いで帰宅してきた長女の胸小刀で刺して殺害し[371]、現金約800円などを強取した[366]。同月20日[368]、故郷の愛知県挙母市(現:豊田市)の挙母警察署長興寺派出所へ出頭して逮捕され[372]、同年2月7日に強盗殺人罪で起訴された[368]。 強盗殺人、窃盗、詐欺の罪に問われた[366]。1956年11月20日に東京地裁で死刑判決を言い渡された[242]。控訴せず[364]、同年12月5日付で死刑が確定[367]。被害者遺族である磯部は死刑廃止論者で、別府が罪を悔いて裁きを受けるならば彼の弁護を引き受けるという意向を示したが、事件関係者である磯部が弁護人になることは不適切とされ、実現しなかった[373]。 1960年7月17日に宮城刑務所で死刑執行[374]。 |
名古屋守衛夫人強盗殺人放火事件 (K) | 一審は無期懲役。 | ||
帯広一家3人強盗殺傷事件 (S) | |||
大阪市松屋町主人一家4人殺害事件 (M) | 未成年(少年死刑囚)。 | ||
東海銀行・大阪連続強盗殺人事件(権善五) | 1956年10月22日 | 1954年〜1955 年 | 第二審で控訴棄却、1957年9月に肺結核で病死。 |
1957年
1957年(昭和32年)に死刑判決が確定した死刑確定者は27人である[375]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
函館金塊事件 (M) | 1957年1月 | 1954年8月22日 | 二審判決が確定。 |
財田川事件(谷口繁義) | 1957年1月22日 | 1950年2月28日 | 高松地方検察庁で保存されていた捜査資料が破棄され死刑執行手続きが不可能になったうえに、古畑種基による証拠鑑定の杜撰さや被疑者に対する拷問といった問題点が明らかになった為、1984年3月12日に再審無罪となり放免された。 |
大分県野津町叔父夫婦強盗殺傷事件 (Y) | 1957年2月27日 | 1955年8月15日 | 鎌と棍棒で殺害し強奪。犠牲者1人、上告せず確定。 |
兵庫女性強姦殺人事件 (I) | 1957年4月5日 | 1954年12月1日 | 通行人1人を強姦の上刺殺。少年犯罪、一審は無期懲役。上告棄却。 |
保土ヶ谷女性強盗殺人事件 (U) | 1957年4月18日 | 1953年12月31日 | 通行人1人を強姦の上扼殺。上告棄却。 |
我孫子女子中学生殺害事件 (S) | 1957年4月26日 | 1955年9月12日 | 通行人1人を扼殺。控訴取下げ。1959年11月11日に死刑執行[376](28歳没)。 |
八王子マダム福笑い殺人事件 (Y) | 1957年6月27日 | 1955年2月3日 | 1人を縄で絞殺、控訴取下げ。 |
佐賀雇主一家強盗殺傷事件 (W) | 1957年6月27日 | 1952年11月3日 | 知人1人を日本刀で惨殺。 |
和歌山県九重村一軒家母娘強盗殺傷事件 (T) | 1957年7月13日 | 1956年8月2日 | 死刑執行日は不明。 |
福岡県糸田町幼女殺害事件 (T) | 1957年7月16日 | 1955年3月7日 | 殺人未遂前科(執行猶予中)。1959年12月3日に死刑執行。 |
三越部長夫人強盗殺人事件 (T) | 1957年7月18日 | 1954年7月1日 | 下記Yの共犯。死刑執行日は不明。 |
三越部長夫人強盗殺人事件 (Y) | 1957年7月18日 | 1954年7月1日 | 上記Tの共犯。死刑執行日は不明。 |
人違いバラバラ殺人事件 (F) | 1957年7月19日 | 1954年9月5日 | 一審は無期懲役、控訴審最終尋問で証人を負傷させたことが問題に。1959年5月27日に死刑執行(40歳没)。 |
神戸生田神社通行人2人強盗殺人事件 (O) | 1957年7月24日 | 1956年6月30日 | 控訴取下げ。 |
藤本事件(藤本松夫) | 1957年8月23日 | 1952年7月6日 | 1962年9月14日に死刑執行(40歳没)。死刑囚がハンセン病患者であったため、当時から捜査と裁判の不正さ、冤罪の可能性が指摘されていたが、国の委託を受けた日弁連法務研究財団[377]は、2005年に調査報告書で、「手続的保障が十分に尽くされ(ていた事件かという)視野に立った場合、藤本事件は、到底、憲法的な要求を満たした裁判であったとはいえないだろう」と指摘した[378]。 |
北海道・千歳質店夫婦強盗殺人事件[379] (Y) | 1957年8月30日 | 1954年11月27日 | 一審は無期懲役、侵入先で夫婦を惨殺し子供1人を負傷させる。犯行時18歳4か月(少年死刑囚)で確定時も21歳。 |
十二銭五厘強盗殺人事件[380] (I) | 1957年9月3日 | 1955年12月9日 | 手提金庫にあった硬貨を掴んだ際に83歳女性にみつかり「口封じ」のために殺害しボストンバッグを持って逃走。硬貨は法的には既に通用しない古銭だった。 |
鹿児島雑貨商夫婦殺害事件 (Y) | 1957年9月12日 | 1955年6月28日 | 1960年8月31日に死刑執行。 |
栃木建設局員強盗殺人事件 (T) | 1957年9月12日 | 1951年5月20日 | 下記Iの共犯。死刑執行日は不明。 |
栃木建設局員強盗殺人事件 (I) | 1957年9月12日 | 1951年5月20日 | 上記Tの共犯。死刑執行日は不明。 |
宮城県利府村ハイヤー運転手強盗殺人事件 (M) | 1957年9月17日 | 1956年3月9日 | 死刑執行日は不明。 |
福岡県名島老女強盗致死事件 (A) | 1957年10月10日 | 1952年6月25日 | 死刑執行日は不明。 |
大分県鶴崎町青酸カリ毒殺事件 (K) | 1957年10月18日 | 1947年12月19日 | 別件殺人罪(懲役13年)服役中に発覚。1960年9月14日に死刑執行。 |
横浜一家6人殺傷事件 (O) | 1957年10月25日 | 1951年6月16日 | 死刑執行日は不明。 |
梅田事件など(北見・留辺蘂営林署員連続強盗殺人事件) (H) | 1957年11月14日 | 1950年10月10日 1951年6月11日 |
Hは2件の強盗殺人の首謀者であるが、無関係の第三者を2人も巻き込み、そのうちUが無期懲役で服役し後に再審無罪になった冤罪事件でもある。青地晨の「魔の時間」によればHはUを巻き込むことで共犯を守ろうとした可能性を指摘している。1960年6月20日に死刑執行(37歳没)。 |
1958年
1958年(昭和33年)に死刑判決が確定した死刑確定者は25人である[375]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
須坂連続親族毒殺事件 (H) | 1958年1月16日 | 1954年11月5日-1955年8月14日 | 1960年10月14日に死刑執行。 |
蒲田・磯子連続強盗殺傷事件 (K) | 1958年1月16日 | 1954年12月22-23日 | 共犯のNは1955年8月30日自殺。死刑執行日は不明。 |
岩見沢女性祈祷師強盗殺人事件 (H) | 1958年2月21日 | 1956年1月5日 | 死刑執行日は不明。 |
大宮公園強盗殺人事件 (T) | 1958年3月11日 | 1955年4月11日 | 死刑執行日は不明。 |
八王子老女強盗殺人事件 (S) | 1958年3月18日 | 1957年7月9日 | 控訴取下げ。死刑執行日は不明。 |
函館金塊殺人事件 (S) | 1958年4月10日 | 1954年8月22日 | 死刑執行日は不明。 |
東京高校小使殺害事件 (Y) | 1958年4月10日 | 1956年6月22日 | 死刑執行日は不明。 |
葛飾区神社殺人事件 (I) | 1958年4月15日 | 1957年3月31日 | 上告せず確定。死刑執行日は不明。 |
穂高一家4人殺害事件 (K) | 1958年4月17日 | 1949年10月3日[381] | 下記Mの共犯[381]。長野県南安曇郡南穂高村在住、第一審判決時点で36歳[381]。 下記M(第一審判決時点で21歳)や同郡東川手村の高校2年生(同18歳)と共謀し、1949年10月3日、南穂高村重柳で農家の一家4人を皆殺しにしたとして強盗殺人罪に問われた[381]。 長野地裁松本支部は1950年3月31日、KとMを死刑、高校生を懲役12年(いずれも求刑通り)の刑に処する判決を言い渡した[381]。1962年に死刑執行。 |
穂高一家4人殺害事件(死刑受執行業務不存在確認請求) (M) | 1958年4月17日 | 1949年10月3日[381] | 犯行時未成年の少年死刑囚。長野県東筑摩郡生坂村在住[381]。上記Kの共犯[381]。1962年に死刑執行。 |
八戸通運店員強盗殺人事件 (H) | 1958年4月17日 | 1955年5月30日 | 一審は無期懲役。死刑執行日は不明。 |
八戸通運店員強盗殺人事件 (K) | 1958年4月17日 | 1955年5月30日 | 一審は無期懲役。死刑執行日は不明。 |
神奈川県牧野村飲食店女性強盗殺人事件 (O) | 1958年4月17日 | 1954年7月26日 | 一審は無期懲役。1961年7月13日に死刑執行。 |
墨田老女強盗殺人事件 (M) | 1958年5月10日 | 1957年2月12日 | 控訴取下げ。死刑執行日は不明。 |
江戸川運転手殺害事件 (M) | 1958年6月13日 | 1956年4月5日 | 江戸川区で運転手を殴り付近のハス田に投げ込み窒息死にし約2500円を奪った[382]。1960年に死刑執行。 |
中野質屋夫婦殺傷事件 (T) | 1958年6月13日 | 1955年11月4日 | 遊興費に窮した男が質屋に押し入り、妻をナタで撲殺し夫は重傷。500円と腕時計を奪う[382]。死刑執行日は不明。 |
兵庫県戸倉峠強盗殺人事件 (K) | 1958年6月24日 | 1956年5月9日 | 死刑執行日は不明。 |
浅草夫婦強盗殺人事件 (O) | 1958年6月27日 | 1952年12月30日 | 1959年11月28日に死刑執行。 |
小金井少女強姦殺人事件 (K) | 1958年7月11日 | 1957年2月26日 | 控訴取下げ。求刑は無期懲役。死刑執行日は不明。 |
牟礼事件(佐藤誠) | 1958年8月5日 | 1950年4月13日 | 実行犯による証言のみ。物的証拠がないため冤罪との指摘がある。再審請求8回。1989年10月27日、くも膜下出血のため死亡(81歳没)。 |
津新町駅長夫人殺害事件 (N) | 1958年12月18日 | 1956年8月27日 | 一審は無期懲役。1962年11月8日に死刑執行。 |
1959年
1959年(昭和34年)に死刑判決が確定した死刑確定者は14人である[375]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
北海道連続強盗強姦殺傷事件 (K) | 1959年3月12日 | 1953年9月5日 1958年1月3日 |
控訴せず確定、侵入先一家3人を惨殺。 |
杉並重役夫人殺害事件[383] (H) | 1959年4月16日 | 1957年4月24日 | 一審は無期懲役で上告棄却、侵入先で1人を刺殺。 |
銀座雑貨商殺害事件[383] (S) | 1959年4月16日 | 1955年3月5日 | 上告棄却、侵入先で1人を殺害。1960年9月7日に死刑執行[384]。 |
長野一家4人殺害事件 (O) | 1959年4月23日 | 1956年12月30日 | |
札幌重役夫人殺害事件 (W) | 1959年4月28日 | 1957年1月30日 | |
横浜母子強盗殺人事件 (A) | 1959年6月9日 | 1957年5月17日 | |
八王子マダム福笑い殺人事件 (O) | 1959年6月16日 | 1955年2月3日 | 犯行当時は未成年者(少年死刑囚)。共犯のYは1957年6月27日に控訴取下げで死刑確定。 |
宇部市兄一家4人殺害事件[385] (S) | 1959年9月18日 | 1957年3月6日 | 上告棄却、同居していた兄嫁と子供3人を惨殺。 |
品川トランク詰殺人事件 (N) | 1959年9月18日 | 1956年6月28日 | 男性に青酸カリ入りの寿司を食べさせて毒殺し、逃亡。共犯の女性Oは懲役15年(求刑無期懲役)。 |
中野友人殺害事件[385] (T) | 1959年9月18日 | 1956年12月1日 | 上告棄却、ネクタイで友人を絞殺。共犯は有期の懲役刑。 |
鹿児島接客婦殺害事件 (K) | 1959年10月22日 | 1957年12月18日 | 控訴取下げ。1960年3月1日に死刑執行。嘱託殺人前科(懲役1年)、殺人前科(懲役20年)。 |
北海道・羽幌強盗放火殺人事件[386] (O) | 1959年12月4日 | 1956年4月4日 | 上告棄却、金に困り侵入先一家3人を惨殺。 |
第二の小平事件 (A)[387][388] | 1959年12月15日 | 1954年7月4日[389] 1954年10月26日[388] |
山口県徳山市出身の土工、前科3犯[387]。1944年7月21日に山口地裁で戦時強姦未遂、戦時住居侵入罪に問われ、懲役7年の判決を受けて岩国少年刑務所に服役したが、1945年8月17日に脱走した[390]。 1954年7月4日未明、国電鶴見駅(神奈川県横浜市鶴見区)付近で帰宅途中の女性(当時37歳)を襲って乱暴、絞殺した[389]。また同年10月25日夜、東京都大田区安方町で女給(当時28歳)を絞殺して乱暴した[388]。これ以外にも1953年6月から1954年12月までの間、神奈川、埼玉、静岡で婦女暴行致傷、同未遂など29件の余罪あり[387]。犯行手口は主に、25歳から27歳までの女性を国鉄や私鉄の駅で待ち伏せて尾行し、暗闇の中で襲撃するというものであった[390]。 殺人、婦女暴行、強盗など8つの罪状に問われ[388]、「第二の小平」として注目された[391]。1958年7月7日に横浜地裁小田原支部(雨宮裁判長)で死刑判決[387]。量刑不当を理由に控訴したが、同年12月24日に東京高裁刑事第7部で控訴棄却判決[389]。1959年12月15日に最高裁第三小法廷(島裁判長)で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[388]。 |
大分県山香町伯母夫婦ら3人殺害事件 (O) | 1959年12月25日 | 1955年12月15日 - 16日 | 1962年2月21日に死刑執行。 |
1960年 - 1964年
1960年
1960年(昭和35年)に死刑判決が確定した死刑確定者は33人である[375]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
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鹿児島2女性井戸投げ込み強盗殺人事件 (M) | 1960年1月6日 | 1958年11月26日 | 上告せず確定。1962年8月10日に死刑執行。 |
豊中運転手強盗殺人事件 (I) | 1960年2月5日 | 1956年7月12日 1957年2月14日 |
死刑執行日は不明。 |
霧島山一家4人強盗殺人事件 (Y) | 1960年2月24日 | 1957年1月4日 | 控訴取下げ。1962年8月10日に死刑執行。 |
松島パークホテル殺人事件 (H) | 1960年2月26日 | 1956年8月14日 | 死刑執行日は不明。 |
高知証券融資会社社長殺害事件 (T) | 1960年3月3日 | 1956年4月2日 | 死刑執行日は不明。 |
横浜重役夫人殺害事件 (S) | 1960年3月8日 | 1958年6月12日 | 死刑執行日は不明。 |
稚内牧場強盗殺人事件 (U) | 1960年3月15日 | 1958年2月18日 | 未成年(少年死刑囚)。死刑執行日は不明。 |
秋田県花矢町一家4人強盗殺傷放火事件 (S) | 1960年3月17日 | 1956年12月24日 | 1962年8月23日に死刑執行。 |
茨城県八郷町土地詐取殺人事件 (H) | 1960年3月17日 | 1955年3月10日 | 1963年2月5日に死刑執行。 |
盛岡一家3人殺害事件 (K) | 1960年3月24日 | 1958年4月18日 | 死刑執行日は不明。 |
江戸川船頭一家4人殺傷事件 (M) | 1960年3月31日 | 1958年11月9日 | 上告せず確定。死刑執行日は不明。 |
刈谷母娘強盗殺人事件 (K) | 1960年3月31日 | 1958年7月7-8日 | 1963年2月19日に死刑執行。 |
呉雑貨商夫婦強盗殺人事件 (K) | 1960年4月8日 | 1956年7月7日 | 死刑執行日は不明。 |
田川小6女児身代金誘拐殺人事件 (K) | 1960年6月9日[392] | 1957年12月17日 | 未成年(少年死刑囚)。1962年2月21日に死刑執行。 |
日光中宮祠事件 (P) | 1960年6月10日 | 1946年5月4日 | 朝鮮人、強盗放火殺人、犠牲者6人も警察は一家心中と処理し、1955年まで真相が判明せず。1974年6月6日に死刑執行。 |
日光中宮祠事件 (C) | 1960年6月10日 | 1946年5月4日 | 朝鮮人、上記共犯。1974年6月6日に死刑執行。 |
京都・大映部長一家4人殺害事件[393] (K) | 1960年6月21日 | 1957年12月6日 | 1962年に死刑執行。 |
別府銀行員強盗殺人事件 (N) | 1960年6月28日 | 1956年9月5日 | 1973年5月11日に死刑執行。 |
宮城自動車販売店外交員殺害事件 (I) | 1960年7月15日 | 1955年11月4日 | 購入したオート三輪の支払いに困り、代金の取立てに来た販売店の外交員を殺害し、手形を奪い死体を近所のりんご畑に埋めた[394]。死刑執行日は不明。 |
熊本質屋女性主人殺害事件[393] (I) | 1960年8月4日 | 1958年10月30日 | 1963年2月14日に死刑執行。 |
広島・八本松タクシー強盗殺人事件(T)}} | 1960年8月4日 | 1957年1月29日 | 銀行強盗に使おうとタクシー運転手を射殺しタクシーを強奪[395]。また1961年4月3日に拘置所から脱獄し18時間後に拘束される事件も起こした[396]。死刑執行日は不明。 |
ブローカー連続殺人事件 (Y) | 1960年8月30日 | 1952年4月10日 1952年7月11日 1954年3月14日 |
殺人前科(無期懲役、講和恩赦で懲役20年に減刑)。1969年11月病死。 |
ブローカー連続殺人事件 (N) | 1960年8月30日 | 1952年4月10日 1952年7月11日 1954年3月14日 |
上記共犯。1970年10月30日に死刑執行。 |
札幌元雇い主夫人強盗殺人事件 (W) | 1960年9月7日 | 1959年12月28日 | 控訴取り下げ。死刑執行日は不明。 |
小松元警官による女性殺害事件 (H) | 1960年9月22日 | 1952年11月13日 | 1962年11月9日に死刑執行。 |
富士宮農協強盗殺人事件 (K) | 1960年10月13日 | 1958年6月22日 | 1967年10月27日に死刑執行。 |
松山事件(齋藤幸夫) | 1960年11月1日 | 1955年10月18日 | 強盗放火殺人事件であるが、再審で捜査当局によって証拠の捏造と自白の強要が証明され冤罪として無罪になったのは、1984年7月11日であった。 |
富田林姉弟殺害事件 (K) | 1960年11月5日 | 1959年9月21日 | 控訴取下げ。死刑執行日は不明。 |
江戸川愛人の叔母強盗殺人事件 (K) | 1960年11月8日 | 1958年12月24日 | 死刑執行日は不明。 |
伊東老夫婦強盗殺人事件 (T) | 1960年12月2日 | 1958年5月4日 | 共犯は無期懲役。死刑執行日は不明。 |
水戸クリーニング店一家3人殺害事件 (H) | 1960年12月9日 | 1957年7月5日 | 死刑執行日は不明。 |
柏老夫婦強盗殺傷事件 (P) | 1960年12月15日 | 1959年2月16日 | 共犯は無期懲役。死刑執行日は不明。 |
島田事件(赤堀政夫) | 1960年12月15日 | 1954年3月10日 | 女子児童誘拐殺人事件であるが、自白調書作成と証拠鑑定[注 17]で問題が数多くあったことが再審で判明、1989年1月31日に無罪判決。静岡県警察警部であった「拷問王」紅林麻雄による冤罪犠牲者[注 18]のひとりとされている。 |
熊本饅頭屋夫妻殺人事件 (M) | 1960年12月16日[397] | 1956年1月12日 | 上告審で被告人側弁護人が「死刑が相当」と「求刑」したのが問題に。1962年12月21日に死刑執行[397](26歳没)。 |
大牟田・老女と幼児強盗殺人事件 (N) | 1960年12月20日 | 1959年2月26日 | 1965年2月25日に死刑執行(27歳没)。 |
吉良の醸造業夫婦殺し (H) | 1960年12月23日 | 1958年2月15日[398] | 愛知県幡豆郡吉良町宮崎西ノ前(現:西尾市吉良町宮崎)在住[399]。 1958年2月15日夜、愛人との結婚資金を工面するため近くの吉良町白浜新田、味噌醤油醸造業「大岡屋」へ侵入し、奥8畳の間で寝ていた男性(当時57歳)とその妻(同38歳)を鉞で滅多打ちにして殺害し、現金1000円と背広などを奪った[398]。現場は三河湾に面した家で、江戸時代から代々味噌・醤油を醸造しており、被害者男性の祖父の代には愛知県下でも屈指の富豪だったという[400]。被害者夫婦の妻は戦前からこの家に女中として勤めており、事件の約3年前に夫の後妻になっていたが、Hは被害者夫婦のうち、結婚前の妻と親しくしていた[401]。事件発生翌日の2月16日夜、Hは宝飯郡形原町(現:蒲郡市形原町)の形原温泉で逮捕された[401]。 強盗殺人罪に問われ、1959年3月26日に名古屋地裁岡崎支部(永田裁判長)で死刑判決を言い渡された[398]。 控訴審では自首したことなどを主張したが、同年11月19日に名古屋高裁(小林裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[399]。 1960年12月23日に最高裁第二小法廷(池田裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[402]。1963年2月に死刑執行。 |
1961年
1961年(昭和34年)に死刑判決が確定した死刑確定者は22人である[375]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
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和歌山愛人ら爆殺事件[403] (H) | 1961年2月2日 | 1954年10月15日 | 元愛人ら2人をダイナマイトで殺害。裁判時は62歳。死刑執行日は不明。 |
三鷹タクシー運転手強盗殺人事件 (O) | 1961年2月21日 | 1958年3月26日 | 1967年10月26日に死刑執行。 |
”白昼の通り魔”事件 (K)[404][405][406] | 1961年3月2日[407] | 1957年12月17日[406][405] | 1922年(大正11年)9月5日生まれ[408]。 1954年3月から5月に強盗など4件の犯罪を犯した後、同年6月に京都地裁で強盗罪などに問われ、懲役3年6月の判決を言い渡されて服役したが、これら4件は当時は立件されなかった[404]。出所後の1957年10月から1958年1月にかけ、山口、広島、岡山、兵庫、京都、三重、愛知、千葉など11府県で31件の強盗殺人、強盗致傷、婦女暴行などの罪を犯した[404]。特に1957年12月17日には兵庫県西宮市今津浦風町の民家に押し入り、主人の妻(当時23歳)と女中(同16歳)の2人を出刃包丁で刺殺、現金27000円と衣類を奪って逃走した[406]。警察庁の特別重要犯人全国指名手配の対象となり、1958年1月に逮捕された[406]。 起訴された罪名は10におよび[406]、1959年5月18日、神戸地裁(山崎裁判長)は被告人Kに対し、確定判決前の強盗など4件について懲役8年、確定判決後の強盗殺人など31件について死刑とする判決を言い渡した[404]。 控訴したが、1960年3月16日に大阪高裁(小川裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[405]。1961年3月2日、最高裁第一小法廷(斎藤裁判長)で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[406]。 死刑執行日は不明。 |
滝野川左官屋夫婦殺害事件 (N) | 1961年3月24日[409] | 1958年8月4日 | 1934年(昭和9年)4月14日生まれ[407]。 1958年(昭和33年)12月17日に東京地裁刑事第12部で死刑判決を受け[407]、1960年3月22日に東京高裁第4刑事部で控訴棄却の判決を受けた[407]。1961年3月24日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[409]。 死刑執行日は不明。 |
下関養父母殺害逃亡事件(連続身代わり殺人事件) (0) | 1961年3月30日 | 1955年6月1日 1956年2月7日 1958年1月11日 |
養父母殺害後、身代わりにするため2人も殺害。1965年3月2日に死刑執行。 |
高岡質屋女性主人殺害事件 (I) | 1961年6月6日[410] | 1960年3月14日[411] | 1937年(昭和12年)5月5日生まれ[412]。 1960年(昭和35年)3月14日、富山県高岡市定塚町で[411]、質屋の女性経営者を殺害し[413]、現金23,000円と時計[414]、衣類などを奪った[411]。 強盗殺人・窃盗・詐欺未遂の罪に問われ、1960年6月29日に第一審(富山地裁高岡支部)で死刑判決を宣告された[410]。同年11月10日に名古屋高裁金沢支部で控訴棄却の判決を、1961年6月6日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決をそれぞれ受け、死刑が確定[410]。 1967年10月22日に死刑執行。 |
葛飾守衛強盗殺人事件 (T) | 1961年6月9日 | 1959年1月1日[415] | 1958年12月31日(大晦日)、かつて自分が収容されていた東京都葛飾区上平井町の更生施設「自誠会」に侵入し[416]、年が明けた元日の1959年1月1日3時ごろ、守衛室で仮眠していた守衛の男性(当時50歳)の首を小刀で刺して殺害し、男性のポケットや机にあった現金約2000円などを奪って逃走、帰りがけに出会った初詣帰りの同会寮生にもスパナで頭を負傷させて金を奪った[416]。 強盗殺人罪に問われ[417]、1959年5月20日、東京地裁(岸裁判長)で死刑判決を言い渡された[416]。 控訴したが、同年12月28日に東京高裁(三宅裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[415]。当時、死刑事件の被告人が犯行から1年以内に控訴審判決まで受けた事例は珍しいものとされていた[415]。 1961年6月9日に最高裁第二小法廷(池田裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[418]。 死刑執行日は不明。 |
奈良少女強姦殺人事件 (K) | 1961年7月11日 | 1957年11月20日 | 1927年(昭和2年)3月14日生まれ[419]。1959年(昭和34年)6月10日に奈良地裁葛城支部で死刑判決を受け[409]、1960年5月16日に大阪高裁第5刑事部で控訴棄却の判決を受けた[420]。1961年7月11日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[421]。1962年9月15日に死刑執行。 |
名古屋老夫婦強盗殺人事件 (I) | 1961年7月19日 | 1956年2月29日 | 一審は懲役15年。死刑執行日は不明。 |
名古屋老夫婦強盗殺人事件 (I) | 1961年7月19日 | 1956年2月29日 | 一審は無期懲役。死刑執行日は不明。 |
昭和郷アパート放火事件 (I) | 1961年7月31日 | 1957年10月27日 | 死者8人。 現住建造物等放火、詐欺の罪に問われ、1959年7月6日、東京地裁八王子支部で無期懲役の判決を言い渡された[422]。1960年10月26日、東京高裁で原判決を破棄自判され、死刑判決を言い渡された[422]。上告したが、1961年7月31日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[422]。戦後日本で、強盗殺人罪・殺人罪や致死罪に問われず死刑が確定した唯一の事例。 1970年に死刑執行[注 19]。 |
阿久比町2人殺害事件 (K) | 1961年8月10日[425] | 1960年11月6日[426] | 1928年(昭和3年)3月20日生まれ[427]。強盗未遂、窃盗の罪など前科6犯[427]。 1960年11月4日、空き巣目的で愛知県知多郡阿久比町の民家(直前まで働いていた飯場の世話人だったの男性宅)に侵入したが、同日23時ごろ、同家の長女(当時15歳)に発見されて怪しまれ、警察に通報されたため、床下に隠れてやり過ごした[426]。そのまま6日1時ごろまで床下に隠れていたが、家人たちが寝静まったころを見計らって金品を物色していたところ、男性の養母(64歳没)が物音で目を覚まして自身の犯行に気づいたため、首を絞めて殺害した[428]。直後、男性の三女(1歳没)が目を覚まして泣き出したため、犯行の発覚を恐れて絞殺し、タンスの中にあった中古テトロン社カッターシャツを盗んだ[429]。 強盗殺人罪に問われ[430]、1961年4月22日、名古屋地裁刑事第4部で死刑判決を言い渡された[431]。同判決を不服として同月28日に弁護人が、同年5月2日にK自身がそれぞれ控訴を申し立てたが、同年8月10日付でK自身が控訴取下申立書を提出した[425]。後に弁護人の鷲見弘は、Kは極度に異常な精神錯乱もしくはそれに近い精神状態で控訴を取り下げたため、取り下げは無効であるとして控訴取下無効申立書を提出したが、名古屋高裁第4部(小林登一裁判長)は1963年10月31日、Kが控訴取り下げ前の控訴審公判で原判決に不服はなく、死刑を受け入れる旨を表明していたことなどから、控訴取り下げは有効であると判断、訴訟はこの取り下げによって終了しているとする判決を宣告した[425]。鷲見は上告したが、最高裁第二小法廷は1964年9月25日の判決で、Kの控訴取り下げは有効であり、その取り下げをもって第一審判決は直ちに確定したというべきであるとして、鷲見の上告を棄却する判決を言い渡した[432]。 1967年10月23日に死刑執行。 |
小松川事件(李珍宇) | 1961年8月17日 | 1958年4月20日 1958年8月17日 |
犯行時18歳の少年死刑囚[433]。朝鮮人で、事件当時は都立小松川高校の定時制1年生だった[434]。 1958年4月20日、東京都江戸川区鹿骨町の水田で、日産化学工業内鴻池運輸の賄婦を殺害した[434]。また同年8月17日夕方、小松川高校屋上で同校定時制2年の女子生徒(当時16歳)を絞殺、乱暴した[433]。 同年9月1日、女子生徒殺害事件の犯人として逮捕されたが、逮捕前に新聞社に電話を掛けたり、警察に被害者の遺品を送りつけたりするなどの異常な振る舞いで世間を騒がした[433]。その後、賄い婦殺しについても女子生徒殺害事件の取調べ中に自供したため、2件の婦女暴行致死罪と殺人罪で起訴された[434]。 少年犯罪であったため、いったん家庭裁判所へ送致されたが、犯行の悪質性から逆送致され、東京地裁で公判にかけられた[434]。1959年2月27日、東京地裁(関谷六郎裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[434]。 弁護側は婦女暴行の事実はなく、犯行動機に関する判決理由にも不服な点があるとして控訴したが、東京高裁(三宅裁判長)は同年12月28日、原判決に事実誤認はないとして控訴棄却の判決を言い渡した[415]。同判決に対し、李本人は「犯した罪の重さを考えると死刑も当然だ。早く罪の償いをしたい」と述べ、上告しない意向を弁護人の朴や教誨師に伝えたが、李の両親が上告期限日の夜、締め切り時間直前に自由法曹団の弁護士・大塚一男を通じて上告手続きを取った[435]。 1961年8月17日に最高裁第一小法廷(飯坂裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[433]。 死刑確定後の1961年8月末に身柄を宮城刑務所へ移送され、1962年11月16日に同所で死刑執行(22歳没)[436]。死刑執行時は乱れた様子はなく、落ち着いた態度だったという[436]。なお、裁判中には拘置所でキリスト教に入信しており、聖書を読み耽る毎日を送っていた一方、東京都立大学教授の旗田巍、作家の大岡昇平らが中心となり、助命運動の会を結成していた[436]。 |
佐久島の真珠技師殺し (Y) | 1961年8月17日 | 1958年11月16日[437] | 愛知県幡豆郡一色町佐久島(現:西尾市一色町佐久島)生まれ[437]。 1958年11月16日夜、佐久島漁協組合事務所へ押し入り、出張で三重県志摩郡大王町(現:志摩市大王町)から来ていた天光真珠造殖所現場主任の男性(当時26歳)を鉄製のモンキーレンチで殴り、タオルで絞め殺して腕時計1個を奪ったほか、漁協の金庫を開けるため隣家にいた金庫番の男性宅へ出刃包丁を持って押し入ったが、騒がれたため逃げた[437]。同月30日、静岡県磐田市大立野で民家に侵入し、家主の妻(当時44歳)を脅し[437]、ビニールバンドで縛った上[438]、布団や自転車などを奪った[437]。 強盗殺人罪に問われ、死刑を求刑されたが、名古屋地裁岡崎支部(永田裁判長)は1959年8月6日、無期懲役の判決を言い渡した[438]。同判決は被害者に対する殺意を認めなかった[437]。 検察官が控訴したところ、名古屋高裁(小林裁判長)は1960年10月4日に原判決を破棄自判し、Yを死刑とする判決を言い渡した[437]。同高裁は、Yが就寝中の被害者をいきなりモンキーで9回連続して急所を殴打した上、とどめを刺すためにタオルで首を絞めた事実から、殺意を認めなかった原判決には事実誤認があると認定した上、Yが未遂も含めると続けて3度の強盗事件を起こした点から[437]、凶悪かつ計画的な犯行であり、動機にも同情されるような点は認められないと判断した[433]。当時、第一審の懲役刑が二審で死刑となる事例は極めて少ないとされていた[437]。 Yは上告したが、1961年8月17日に最高裁第一小法廷(斎藤裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定した[433]。 1967年10月25日に死刑執行。 |
相模原精肉店夫婦殺害事件 (M) | 1961年9月8日 | 1958年9月1日 | 死刑執行日は不明。 |
相模湖町若妻殺害事件 (O) | 1961年9月14日 | 1958年7月28日 | 死刑執行日は不明。 |
尼崎周旋業夫婦強盗殺人事件 (K) | 1961年10月13日 | 1958年2月23日 | 死刑執行日は不明。 |
立川宿直員強盗殺人事件 (S) | 1961年10月31日 | 1959年5月11日 | 死刑執行日は不明。 |
1962年
1962年(昭和37年)に死刑判決が確定した死刑確定者は14人である[375]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
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横浜のダルマ船長父子殺し (M) | 1962年2月16日 | 1959年2月8日 | 中国国籍で、神奈川県横浜市中区寿町在住[439]。1959年2月8日23時ごろ、同区松影町の中村川に停泊していたダルマ船を訪れ、顔見知りの船長(当時46歳)に借金を申し込んだが断られたため、出刃包丁で船長とそばに寝ていた長男(当時17歳)の2人を刺殺、現金1200円と預金通帳、トランジスタラジオなどを奪った上、船内のランプで放火して船室を焼いた[439]。 強盗殺人、放火の罪に問われ[439]、1959年8月7日に横浜地裁(吉田裁判長)で死刑判決を受けた[440]。控訴したが、1961年5月18日に東京高裁(岩田裁判長)で控訴棄却の判決を受けた[441]。上告したが、1962年2月16日に最高裁第二小法廷(藤田裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[442]。 |
釧路ハイヤー運転手強盗殺人事件 (T) | 1962年2月20日 | 1957年11月5日 | 一審は無期懲役。 |
児島の幼女殺し (K)[443][444] | 1962年3月31日[444] | 1960年2月19日[445] | 岡山県児島市下之町萱刈生まれ[443]。第一審判決時点では47歳、住所不定、無職、前科14犯[443]。 1960年1月ごろから児島市内の清水山で寝起きしていたが、近隣住民たちから相手にされずひがんでおり[443]、このことへの報復を動機に犯行におよんだ[445]。 1960年2月19日正午ごろ[445]、清水山に松葉かきに来た萱刈2区の人夫(当時37歳)の長女(当時6歳)[注 20]と次女(同4歳)が「泥棒がいる」と言っていたのを聞き[443]、2人を山奥へ連れ込んでいたずらした[443]。その後、次女をナイフで刺殺し、長女も首を絞めて失神させ[445]、重傷を負わせた[443]。 殺人、同未遂、強制わいせつの罪に問われたが、岡山地裁で開かれた公判では「自分を死刑にしなければ裁判所の権威がない。無期懲役にでもなれば刑務所の気に入らない看守を殺す。もし出所できれば萱刈地区の人たちに報復する。死刑になれば控訴しない」と発言した[443]。岡山地裁(藤原裁判長)はいったん結審した後に審理を再開する異例の措置を取り、Kの実姉を証人尋問してKの生い立ちや性格を聞くなどして死刑を回避する情状があるか否かを慎重に検討したが、1962年3月16日の判決公判では残虐な犯行態様、Kに改悛の情が認められない点、社会防衛の観点などを理由に、Kを求刑通り死刑とする判決を言い渡した[443]。岡山地裁における死刑判決は1951年以来、11年ぶりだった[443]。 Kは判決後、同地裁に「死刑判決に服す」と申し立て[444]、控訴期限の同月31日0時までに控訴手続きを取らなかったため、死刑が確定した[444][445]。 |
岐阜鉱山主殺害事件 (P) | 1962年4月6日 | 1957年9月16日 | 在日コリアンによる事件。一審は無期懲役。1970年10月23-24日に死刑執行。 |
佐世保雑貨商夫婦強盗殺人事件 (K) | 1962年5月8日 | 1959年4月14日 | 1970年9月19日に死刑執行[446]。 |
女雑貨商殺し (M) | 1962年5月29日 | 1955年9月28日 | 長崎県南松浦郡奈留町泊郷の渡船機関長[447]。愛児を身請けする金に困ったことから、1955年9月28日3時ごろ、一人暮らしで金を持っていると考えた同町の女雑貨商(当時52歳)宅に侵入し、目覚めた被害者を斧で数回殴って死亡させ、5万円を奪った[447]。 強盗致死罪などに問われ[448]、1957年12月25日に長崎地裁(臼杵裁判長)で死刑判決を言い渡された[447]。一・二審で死刑判決を受けた後、1962年5月29日に最高裁第三小法廷(垂水裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[448]。 1974年1月24日獄死。 |
小千谷農家強盗殺傷事件(島秋人) | 1962年6月1日 | 1959年4月6日 | 凶悪事件の累犯であったが、農家の妻を殺害。裁判中から死刑囚の感情を読んだ短歌を歌壇に数多く発表、島はその筆名である。本名は中村覚。1967年11月2日に死刑執行(33歳没)。 |
山口同僚強盗殺人事件 (H) | 1962年6月29日 | 1958年10月10日 | |
生き仏連続殺人事件(I) | 1962年7月17日[449] | 1946年7月17日 1946年12月28日 1947年4月22日 |
生活に困窮した夫婦が4人を連続して殺害。被害者はすべて闇屋で、サッカリンの取引を持ちかけて現金を用意させ、自宅に誘い出し殺害するなどの手口だった。人から感謝されることもあったため生き仏と呼ばれたりした。事件発覚後逃亡し11年後に逮捕。一審は共に無期懲役だったが、犯行を持ちかけたのは妻であったにもかかわらず夫が逆転死刑。刑が確定し離ればなれになる際2人は対面し、お互い感謝の言葉や謝罪の言葉を述べ離れた。1967年11月16日に死刑執行[449](68歳没)。 |
加計町強盗殺人事件 (Y) | 1962年10月9日[450] | 1957年7月12日 | 被害者3人。 |
加計町強盗殺人事件 (O) | 1962年10月9日[450] | 1957年7月12日 | 上記共犯。 |
赤平母子殺害事件 (K) | 1962年10月18日 | 1960年1月17日 | |
静岡の老婆殺し (T) | 1962年12月11日 | 1960年12月30日 | 1960年12月30日3時ごろ、静岡県駿東郡清水村八幡で知人女性(当時78歳)宅に押し入り、目を覚ました女性をナイフで刺殺、現金1万円と腕時計1個を奪った他、窃盗6件、強盗傷人1件を犯した[451]。 |
大阪の重役夫婦殺傷事件 (U) | 1962年12月14日 | 1959年3月16日 | 1959年に大阪府箕面市の会社重役(当時48歳)夫婦を殺傷した。犠牲者1人。1962年12月14日に最高裁第二小法廷(池田裁判長)で死刑判決に対する上告棄却の判決を受け、死刑が確定[452]。 |
1963年
1963年(昭和38年)に死刑判決が確定した死刑確定者は17人である[375]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
バー・メッカ殺人事件(正田昭) | 1963年1月25日 | 1953年7月27日 | 当時のマスコミはアプレゲール犯罪の典型として大きく報道した。共犯2人も有期の懲役刑、なお正田は獄中で小説家として名声を得ていた。1969年12月9日に死刑執行(40歳没)。 |
西宮雇い主一家3人殺害事件 (K) | 1963年2月8日 | 1958年8月7日 | 犯行時19歳(少年死刑囚)。死刑執行日は不明。 |
葉山主婦強盗殺人事件 (M) | 1963年3月28日 | 1959年4月21日 | 死刑執行日は不明。 |
中野刑務所看守殺害事件 (S) | 1963年3月28日[453] | 1961年1月21日 | 共犯(無期懲役)と共に看守を殺害して脱獄。1967年10月26日に死刑執行。 |
女性連続毒殺魔事件(杉村サダメ) | 1963年4月24日[454] | 1960年12月(6日・14日・18日・28日) | 強盗殺人、同未遂の罪に問われ、1961年6月27日、熊本地裁で死刑判決を言い渡された[455]。控訴したが、1962年8月29日に福岡高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[455]。上告したが、1963年3月28日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡され[455]、判決訂正申立も同年4月24日付の同小法廷決定で棄却され[454]、死刑が確定[456]。菅野村強盗殺人・放火事件の犯人・山本宏子に次ぎ、戦後日本では2番目に死刑が確定した女性(女性死刑囚)となった[456]。 1970年9月19日に福岡拘置支所(現:福岡拘置所)で死刑執行(58歳没)[457]。戦後日本では日本閣事件の小林カウに次ぎ、2番目に死刑を執行された女性死刑囚である[458]。 |
北海道豊頃村一家4人殺害事件 (K) | 1963年4月12日 | 1960年8月26日 | 下記共犯Sも死刑。死刑執行日は不明。 |
北海道豊頃村一家4人殺害事件 (S) | 1963年4月12日 | 1960年8月26日 | 上記K(死刑)の共犯。死刑執行日は不明。 |
神戸重役夫人殺害事件 (Y) | 1963年4月23日 | 1958年12月8日 | 死刑執行日は不明。 |
看護婦強盗殺人・共犯内妻刺殺事件 (H) | 1963年4月30日 | 1960年10月23日 - 24日 | 控訴するも直後に取り下げ。死刑執行日は不明。 |
岩槻一家7人殺害事件 (A)[459] | 1963年4月30日 | 1959年7月22日[459] | 1959年7月22日未明1時ごろ、貧困と家庭不和から自暴自棄になり、埼玉県岩槻市の自宅のカヤにガソリンをかけて放火し、1棟30平方メートルを全焼させ、就寝中の家族7人(75歳義祖父、63歳父、28歳妻、4歳長男、1歳次男、生後2か月三男、10歳姪)を焼殺、逃走して自殺を図るが未遂に終わり、逮捕された[460]。浦和地裁は1960年2月25日、死刑求刑を退けてAに無期懲役の第一審判決を言い渡したが[459]、東京高裁刑事第5部(小林裁判長)は1962年6月27日、原判決を破棄して死刑判決を言い渡した[461]。最高裁第三小法廷(垂水裁判長)は1963年4月30日に上告棄却の判決を言い渡した[462]。死刑執行日は不明。 |
熊本警官毒殺・タクシー運転手射殺事件 (T) | 1963年5月10日 | 1961年5月31日 | 顔見知りの警察官に毒入りジュースを飲ませ毒殺し、奪った拳銃でタクシー運転手を射殺。犯行時18歳6か月(少年死刑囚)、1969年1月18日に死刑執行[463]。 |
一宮女性事務員殺害事件 (M) | 1963年5月14日 | 1961年6月30日 | 1969年に死刑執行。 |
松島老堂守殺害事件 (M) | 1963年6月25日 | 1961年4月15日 | 1審は無期懲役。死刑執行日は不明。 |
上尾老夫婦殺害・放火事件 (N) | 1963年6月27日 | 1959年6月23日 | 死刑執行日は不明。 |
東伊豆町の一家5人爆破殺傷事件 (H) [464] | 1963年9月5日 | 1960年10月9日[465][466] | Hは宮城県刈田郡蔵王町出身で[467]、伊東下田電鉄工事建設のため[468]、静岡県賀茂郡東伊豆町大川の飯場に住み込みで働いていた[465]。事件前の1959年3月には窃盗罪に問われ、東京地裁で懲役1年、執行猶予5年[469]の判決を受けていた[470]。 1960年10月8日夜、東伊豆町大川の農業男性(当時57歳)宅に侵入して現金9000円と衣類を盗んだが、男性の妻(当時51歳)に顔を見られたことから殺害を決意し[465]、深夜、建設作業員宿舎の火薬取扱所からダイナマイトを盗んだ[464]。10月9日2時ごろ[465]、先述のダイナマイトを民家の裏側押入れの下に仕掛けて爆発させた[464]。爆発したダイナマイトは2本で[465][466]、家の主人が死亡、4人が重軽傷を負った[464]。 Hは事件後の10日朝に無断で飯場を出た一方、家宅捜索でHの物入れ木箱から被害者宅で盗まれた女物ウール時の着物1枚が発見された[470]。静岡県警捜査一課と下田警察署の特捜本部は事件後、Hを殺人容疑で指名手配し[468]、Hは同月20日に山口県で逮捕された[464]。 殺人、殺人未遂、爆発物取締罰則違反、建造物損壊、業務上横領、窃盗の罪に問われた[466]。第一審の静岡地裁沼津支部(山本裁判長)で1961年12月15日に死刑判決を受けた[469][471]。弁護人の又木は事件当時、Hは多量に飲酒していたため心神耗弱状態にあったと主張したが、地裁支部は殺人計画が綿密であることから、精神状態は平常だったとして主張を退けた[465]。同年に同地裁支部で言い渡された死刑判決は、駿東郡清水村の老女殺しに次いで2人目[465]。 Hは事実誤認(犯行時は心神耗弱だった点、犯行動機は脅かすことが目的だった点、殺意の不存在など)を主張して控訴したが、1962年10月26日に東京高裁刑事第1部(長谷川裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[466]。1963年9月5日に最高裁第一小法廷(入江裁判長)で上告棄却の判決を言い渡されたことで死刑が確定[472][467]1967年11月9日に死刑執行。 |
福岡県立築上西高校警備員2人殺害事件 (Y) | 1963年10月1日 | 1960年1月19日 | 共犯は無期懲役、1967年10月21日に死刑執行。 |
1964年
1964年(昭和39年)に死刑判決が確定した死刑確定者は9人である[375]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
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目黒母子殺害事件 (I) | 1964年1月7日[473] | 1963年1月17日 | 1942年に満州で上官を射殺未遂した罪により、軍法会議で無期懲役の前科あり。1957年に刑を免除されていた。 殺人、同未遂、窃盗の罪に問われ、1963年12月20日、東京地裁で死刑判決を言い渡された[473]。控訴したが、1964年1月7日付で自らこれを取り下げ、死刑が確定[473]。 1966年、死刑執行。 |
南千住宿直員父子殺害事件 (M) | 1964年1月8日 | 1960年5月14日 | 上告取下げ。 |
大阪市住吉区の実母殺害事件 (O) | 1964年2月7日 | 1960年6月8日 | 強盗殺人の従犯で懲役15年(7年で仮出所[474])の前科あり[475]。 尊属殺人、死体損壊、同遺棄の罪に問われ、1962年3月29日、大阪地裁堺支部で死刑判決を言い渡された[473]。控訴したが、1963年5月6日に大阪高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[473]。上告したが、1964年2月7日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[473]。 1967年11月16日に死刑執行[449](42歳没)。 |
大和タクシー運転手強盗殺人事件 (K) | 1964年2月18日 | 1954年12月11日 | |
一宮大叔母強盗殺人事件 (N) | 1964年4月2日 | 1961年12月4日 | |
伊那たばこ店老夫婦毒殺事件 (M) | 1964年7月14日 | 1956年4月1日 | |
新潟新聞販売店一家3人殺害事件 (A) | 1964年7月16日 | 1960年4月24日 | 下記Sと共謀し、かつて勤めていた新潟市の読売新聞販売店[476]に押し入り、店主と養母、女中の3人を殺害したが、たまたま通りかかった消防車のサイレンに驚き逃走した。 2人とも住居侵入、強盗殺人の罪に、またAは窃盗の罪にも問われ、1961年12月1日、2被告人とも新潟地裁で死刑判決を受けた[430]。控訴したが、1963年6月6日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[430]。上告したが、1964年7月16日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[430]。1967年11月13日に死刑執行。 |
新潟新聞販売店一家3人殺害事件 (S) | 1964年7月16日 | 1960年4月24日 | 上記Aの共犯で[477]、住居侵入、強盗殺人の罪に問われた[430]。裁判経緯はAと同一[430]。1967年11月13日に死刑執行。 |
愛媛老夫婦強盗殺人事件 (H) | 1964年12月8日 | 1960年6月13日 | 愛媛県南宇和郡城辺町で発生した事件。 住居侵入、強盗殺人の罪に問われ、1961年3月10日、松山地裁宇和島支部で死刑判決を言い渡された[478]。控訴したが、1964年3月30日に高松高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[478]。上告したが、1964年12月8日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[478]。 1972年に獄死。 |
1965年 - 1969年
1965年
1965年(昭和40年)に死刑判決が確定した死刑確定者は7人である[375]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
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三浦タクシー運転手強盗殺人事件 (S) | 1964年12月25日 | 1962年6月5日 | 下記Mの共犯。強盗殺人罪に問われ、1962年12月11日、横浜地裁で死刑判決を言い渡された[478]。控訴したが、1964年1月24日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[478]。上告したが、同年12月25日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡された[478]。判決訂正を申し立てず、翌1965年1月5日に死刑が確定。 |
三浦タクシー運転手強盗殺人事件 (M) | 1965年1月29日 | 1962年6月5日 | 上記Sの共犯で、裁判経緯はMと同一[478]。こちらは判決訂正申立を行ったが、翌1965年1月29日付の決定で棄却され、死刑が確定[479]。 |
新宿婦女暴行殺人事件 (C) | 1965年1月22日 | 1962年9月14日[480] | 朝鮮生まれ[480]。 1962年9月14日10時ごろ、東京都新宿区柏木一丁目のアパートにあった知人宅を訪ね、留守番をしていた知人の内妻(当時22歳)に乱暴した上、タオルで絞殺した[480]。傷害致死前科(懲役3年・執行猶予5年)。 強姦致死、殺人、強盗、恐喝、傷害、詐欺、窃盗の罪に問われ、1963年9月9日、東京地裁で死刑判決を言い渡された[473]。控訴したが、1964年2月26日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[473]。上告したが、1965年1月22日に最高裁第二小法廷(奥野裁判長)で上告棄却の判決を受けたことで死刑が確定した[480]。 死刑執行日は不明。 |
横浜一家3人殺傷事件 (F) | 1965年6月29日 | 1963年4月16日[481] | 1962年4月16日2時ごろ、金に困ったことから以前勤めていた横浜市西区藤棚町のミシン加工業者男性(当時68歳)宅に押し入り、裁断用の文鎮で男性と妻、そして夫婦の孫娘(当時9歳)を殴打し、孫娘を殺害、夫婦にも重傷を負わせ[481]、現金15000円[注 21]を奪った[483]。盗みの前科2犯があり、1962年8月に横浜市の保護施設に収容された後、2か月間被害者の下で働いていた[481]。 強盗殺人、同未遂、住居侵入の罪に問われ、横浜地裁で開かれた第一審の公判では殺意の有無が争点となった[481]。Fは死刑を求刑されたが、同地裁(大中裁判長)は1963年10月10日、殺意の存在を認定しながらも計画的ではなく、Fには反省の態度も認められるとして、無期懲役の判決を言い渡した[481]。検察官が量刑不当を理由に控訴したところ、東京高裁刑事第1部(長谷川成二裁判長)は原判決を破棄し、Fに死刑判決を言い渡した[482]。Fは上告したが、1965年6月29日に最高裁第三小法廷(横田正俊裁判長)で上告棄却の判決を言い渡されたため、死刑が確定[483]。 死刑執行日は不明。 |
クリーニング店主夫婦殺し (O)[484][485] | 1965年7月13日 | 1963年6月17日[484] | 1963年初め、東京都世田谷区北沢のクリーニング店主(当時32歳)の妹の世話で同店に住み込みで働くようになったが、妹との結婚を店主から反対されたことなどから退職した[484]。その後、遊興費に困ったことや店主から立て替えた背広代金を払うよう要求されたことから、同年6月17日1時過ぎに店へ押し入り、2階で寝ていた店主とその妻(当時28歳)の2人を縛り上げ、電気アイロンで滅多打ちにした上で絞殺し、タンスから現金116000円を奪った[484]。 強盗殺人罪に問われ、1964年5月29日に東京地裁刑事第10部(渡辺裁判長)で死刑判決を言い渡された[484][485]。控訴したが、1965年6月28日に東京高裁刑事第9部で控訴棄却の判決を言い渡された[486]。上告せず確定[478]。 死刑執行日は不明。 |
清水一家4人殺傷事件 (O) | 1965年7月20日 | 1960年2月3日[487] | 台湾生まれ[487]。静岡県清水市西久保(現:静岡市清水区西久保)の男性(事件当時59歳)の長女(同20歳)と同居しており、彼女と内縁関係にあったが、自身の女性関係がふしだらであることなどから破談にされた上、彼女の実家からも追い出されたことを恨み、1960年2月3日3時ごろに男性宅へ行き、寝ていた男性とその妻(当時56歳)、長女、次男(同17歳)の4人に手斧で切りつけ、男性を殺害したほか、3人の頭などにそれぞれ重傷を負わせた[487]。 1961年12月26日、静岡地裁(石見勝四裁判長)で死刑判決[487]。控訴したが、1964年6月29日に東京高裁刑事第5部(小林裁判長)で控訴棄却の判決を受けた[488]。上告したが、1965年7月20日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[473]。 死刑執行日は不明。 |
横須賀廃品回収業者殺害事件 (U) | 1965年9月17日 | 1961年2月13日 | 1961年、神奈川県横須賀市池上町の廃品回収業男性(当時76歳)に借金返済を迫られたため、自宅を訪れた男性の頭を斧で殴って殺害し、死体を近くの畑に埋めた上、額面20万円の預金通帳を奪い、139000円を引き出した[489]。 強盗殺人、死体遺棄、私文書偽造行使、詐欺の罪に問われ[490]、第一審の横浜地裁横須賀支部(大平裁判長)では死刑を求刑されたが、1961年11月28日に無期懲役の判決を言い渡された[491]。検察官が量刑不当を理由に控訴したところ[492]、東京高裁刑事第5部(小林裁判長)は1964年6月29日、原判決を破棄自判してUに死刑判決を言い渡した[489]。同高裁は判決理由で、犯行の残虐性や計画性を指摘した[492]。上告したが、1965年9月17日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[478]。 死刑執行日は不明。 |
通江ちゃん殺し (W) | 1965年12月17日 | 1963年6月16日 | 長野県南佐久郡八千穂村で生まれ、16歳で上京し、東京・大森の金物店や神奈川県横浜市鶴見区の旭硝子工場での勤務を経て、川崎市中瀬町の小松製作所川崎工場に移ったが、事件前の1952年2月、石炭ストーブの火勢を強めるために石油を入れた際、体に着火して下半身を大火傷し、川崎市立病院で2年間治療を受けた[493]。火傷が原因で歩行が不自由になっていたため[494]、1961年5月ごろから身体障害者として横浜社会福祉協会で保護を受けていた[495]。 1963年6月16日10時30分ごろ、散歩の途中で横浜市神奈川区の三ツ沢公園正門前まで来たところ[494]、付近の市営バス「グラウンド入り口」バス停で[495]、バスを待っていた捜真小学校3年生の女児(当時8歳)[注 22]に出会って乱暴しようと思った[494]。Wは自身の足が不自由なことを理由に、女児に「おじちゃんを便所に連れて行ってくれ」と話しかけ[494]、女児を公園内の市慰霊塔前公衆便所に連れ込み、タオルで首を絞めて仮死状態にした上で乱暴し、大便所内の便壺に投げ込んで窒息死させた[496]。Wは事件前から、三ツ沢公園の女子用便所覗きの常習犯として「ビッコの痴漢」と呼ばれており、被害者の死亡推定時刻(16日11時30分ごろ)に現座の便所前にある砂利山の陰から出てきたところなどを目撃されていたため、同月18日に逮捕された[493]。 婦女暴行致死、殺人罪に問われ、同年9月8日に横浜地裁で第一審の初公判が開かれたが、Wは第4回公判で自白を強要されたとして犯行を全面否認したため、当時としては異例となる取調検事ら3人を法廷で証人尋問して自白の任意性を確認するなどの証拠調べが行われた[496]。またWは公判中、自身に不利な証言をする証人に対し「嘘をつくな」と大声で食って掛かるなどした[496]。1964年5月8日、横浜地裁(大中俊夫裁判長)はWの犯行を認定し、残虐な犯行や無反省な態度から死刑を選択するほかないとして、Wに死刑判決を言い渡した[496]。横浜地裁管下で言い渡された死刑判決は1953年以降で、Wが18人目だった[496]。 Wは犯行を否認して控訴したが[494]、1965年3月22日、東京高裁刑事第5部(小林裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[497]。上告したが、同年12月17日に最高裁第二小法廷(奥野健一裁判長)で上告棄却の判決を言い渡されたため、死刑が確定した[495][494]。 死刑執行日は不明。 |
釧路甥保険金殺人事件 (A) | 1965年12月21日 | 1959年11月5日[498] | 1959年5月、兄の息子にして自身の甥である男性(当時20歳)を災害特約つき養老保険に加入させ、同年11月5日正午過ぎ、甥を北海道釧路市武佐の草地に誘い出した上、棒で滅多打ちにし、出刃包丁で首や胸を十数回刺して殺した[498]。その後、死体が警察に見つからなかったため、身元不明人として処理されては保険金が受け取れないと思い、自ら死体のある場所を釧路警察署に知らせた[498]。殺人未遂前科(懲役3年・執行猶予3年)。 第一審・控訴審で死刑判決を言い渡され、1965年12月21日、最高裁第三小法廷(田中裁判長)で上告棄却の判決を言い渡されたため、死刑が確定[498]。 死刑執行日は不明。 |
1966年
1966年(昭和41年)に死刑判決が確定した死刑確定者は13人である[375]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
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釧路の雑貨商殺し (M)[499] | 1966年2月4日 | 1963年11月6日 | 犯行時19歳の少年死刑囚[注 23][500]。事件当時は北海道帯広市西一条在住のバーテン見習いだった[500]。 事件前はパチンコマニアだった[499]。1963年11月6日1時ごろ、パチンコ代欲しさから北海道釧路市大楽毛番外地の雑貨商男性(当時74歳)宅に侵入し、室内を物色したが、男性が寝返りを打ったことに驚き、咄嗟に持っていた手斧で男性と妻(当時60歳)の2人の頭などを手斧で殴って殺害し、タンスから現金18000円と信用組合預金通帳(305000円)、腕時計などを奪った[500]。 住居侵入、窃盗、同未遂、強盗殺人の罪に問われ、1964年4月27日に釧路地裁で無期懲役の判決を言い渡された[501]。1965年4月22日、札幌高裁で原判決を破棄自判され、死刑判決を言い渡された[501]。1966年2月4日に最高裁第二小法廷(奥野裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[500]。当時、少年時代に犯した罪で成年5に死刑が確定した事例は戦後日本で33件目とされていた[500]。 1967年に死刑執行。 |
戸塚の土建業組長夫妻殺し (C) | 1966年3月13日[502] | 1964年8月5日[503] | 本籍地は朝鮮・慶尚南道威安郡北面洞月村、前科1犯[503]。 1964年8月5日未明[504]、かつて住み込んでいた神奈川県横浜市戸塚区矢部町の土木請負業者男性(当時43歳)宅で男性とその妻(当時44歳)を出刃包丁で刺殺した[505]。その後9か月間逃亡していたが、指名手配中の1965年5月9日、長崎県佐世保市早苗町の妹の家に立ち寄ったことを長崎県警に把握され、同市有福町で逮捕された[503]。被害者2人はいずれも韓国人で[504]、動機はCが被害者の家族から冷たく扱われたことや「前科者」と罵られたことだったと報じられていたが[503]、判決では借金の申し出を断られたこととされている[502]。 殺人罪に問われ、1966年2月26日に横浜地裁(河原裁判長)で死刑判決を言い渡された[505]。判決後、関係者から複数回にわたって控訴を勧められたが「犯した罪を償うのは当たり前」と聞き入れず、控訴しなかったため、同年3月13日付で死刑が確定[502]。同日付で身柄を東京拘置所へ移送された[502]。定住外国人死刑囚としては昭和時代最後の事例。 1969年に死刑執行。 |
四国連続強盗殺人事件(森吉幸喜) | 1966年3月31日 | 1964年10月2日 - 20日 | 第一審判決時点では高知県長岡郡大豊村日浦在住、前科3犯の43歳[506]。6人殺害。軍隊時代に脱走する際看守を殺害しようとしたとして軍法会議で無期懲役になった前科あり。 1963年10月14日、徳島県三好郡池田町で一家6人を殺傷した(5人殺害、1人殺害未遂)ほか、同月2日から20日までの間に徳島・高知・香川の3県で強盗・殺人4件を犯して1人を殺害、3人に重傷を負わせた[507]。 住居侵入、強盗殺人、同未遂、強盗強姦、強盗の罪に問われ[501]、1964年3月3日、徳島地裁(黒川裁判長)で死刑判決を言い渡された[506]。1965年8月5日に高松高裁で控訴棄却の判決を言い渡され[501]、事実誤認、量刑不当で上告していたが、1966年3月31日、最高裁第一小法廷(入江裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[507]。 1970年10月29日に死刑執行。 |
洋子さん殺し事件[注 24] (K)[509] | 1966年4月8日 | 1963年6月22日 | 1963年6月22日22時ごろ、神奈川県高座郡座間町入谷(現:座間市)の道路上で、帰宅途中だった緑屋原町田店店員の女性(当時20歳)に「家まで送ってやろう」と声を掛けてライトバンの助手席に乗せたが、高座郡綾瀬町中原の草地に連れ込み、乱暴した上で絞殺、遺体を埋め
たほか、腕時計を奪った[509]。 |
門司の強殺・放火事件 (H) | 1966年5月31日 | 1963年2月22日[514] | 1963年2月22日、福岡県北九州市門司区で知人男性宅に借金をするため訪れたが、応対した内妻(当時28歳)に申し出を断られたため乱暴してショールで絞殺し、現金5000円を奪って放火、3棟を焼いた[514]。同年1月から2月にかけ、北九州市小倉区・門司区や岡山県倉敷市などで盗みや傷害、放火の余罪あり[514]。 強盗殺人、強盗強姦、現住建造物等放火、死体損壊、窃盗、傷害、住居侵入の罪に問われ、1963年9月2日、福岡地裁小倉支部で死刑判決を言い渡された[501]。控訴したが、1965年9月6日に福岡高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[501]。1966年5月31日、最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を受けたため、死刑が確定[514]。 1969年2月5日に死刑執行。 |
旭川連続短銃殺傷事件 (S) | 1966年5月31日 | 1964年6月15日 1964年6月17日 1964年6月18日[515] |
強盗殺人、死体遺棄、強盗殺人未遂、銃砲刀剣類等所持取締法違反、火薬類取締法違反の罪に問われ[501]、1964年12月24日、旭川地裁(金裁判長)で死刑判決を言い渡された[515]。控訴したが、1965年6月17日に札幌高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[501]。1966年5月31日、最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を受けたため、死刑が確定[516]。 死刑執行日は不明。 |
西口彰事件(西口彰) | 1966年8月15日[501] | 1963年10月18日 1963年11月19日 1963年12月29日 |
元同僚ら5人を殺害した。 強盗殺人、殺人、詐欺、同未遂、窃盗の罪に問われ、1964年12月23日、福岡地裁小倉支部で死刑判決を言い渡された[501]。控訴したが、1965年8月28日に福岡高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[501]。上告したが、1966年8月15日に自ら上告を取り下げたため、死刑が確定[501]。 1970年12月11日に死刑執行(44歳没)。 |
日南刑務所仲間両親強盗殺人事件 (N) | 1966年8月26日 | 1965年9月29日 | 下記U(1967年に死刑確定)の共犯。重過失致死や傷害致死の前科2犯。 尊属殺人、強盗殺人の罪に問われ、1966年8月11日、宮崎地裁で死刑判決を言い渡された[517]。控訴せず確定[517]。 1969年12月19日に死刑執行。 |
日本閣事件(小林カウ) | 1966年8月29日[518] | 1952年10月2日 1960年2月8日 1960年12月31日 |
ホテル経営者夫妻を相次いで殺害。 戦後2番目の女性死刑確定囚。1952年にも前夫を毒殺していたことが発覚。[要出典]。小林と大貫は殺人、死体遺棄の罪に問われ、宇都宮地裁は1963年3月18日、小林を死刑、大貫を無期懲役とする第一審判決を言い渡した[517]。1965年9月15日、東京高裁は原判決を破棄自判し、小林・大貫の両被告人をいずれも死刑とする判決を言い渡した[517]。小林・大貫はいずれも上告したが、1966年7月14日、最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡された[517]。2人とも判決訂正申立を行ったが、これらの申立も同年8月29日付の同小法廷決定で棄却され[518]、死刑が確定。小林は戦後日本で3番目の女性死刑囚(死刑判決が確定した女性)である[519]。 1970年6月11日に小菅刑務所(現:東京拘置所)で死刑執行(61歳没)[520]。女性死刑囚への死刑執行は、戦後日本では初のことであった[520]。 |
日本閣事件(大貫光吉) | 1966年8月29日[518] | 1960年2月8日 1960年12月31日 |
上記小林の共犯[520]。1970年6月11日に小林とともに東京拘置所で死刑執行(41歳没)[520]。 |
厚木一家4人殺害事件 (H) | 1966年12月1日 | 1964年10月25日[521][522][523] | 1944年(昭和19年)10月3日生まれ[524](事件当時20歳)。神奈川県厚木市厚木444番地[注 25]で[522]、大工見習いとして働いていたが、普段から厳しく叱責してくる雇主夫婦を恨み、「雇主一家を皆殺しにして恨みを晴らすと同時に、金品を奪おう」と決意[526]。1964年(昭和39年)10月25日、雇主(当時34歳)と妻(同33歳)、長男(9歳)・長女(7歳)の一家4人を玄能や薪割りなどで撲殺し、金品を奪った[527]。 1965年(昭和40年)6月28日に横浜地裁第4刑事部で死刑判決を[524]、1966年(昭和41年)5月24日に東京高裁第6刑事部で控訴棄却判決を受けた[528]。同年12月1日に最高裁第一小法廷(岩田誠裁判長)で[523]上告棄却の判決を受け[529]、死刑が確定。 1969年に死刑執行[530]。『刑事裁判資料』第189号[531]および、同資料を引用した永山事件の上告趣意書 (1983) では少年死刑囚(事件当時18歳)とされている[532]が、これは誤り。両資料とも、事件発生日が「1962年(昭和37年)10月25日」と誤記されている[注 26][531][532]。 |
「九州の小平」事件 (S) | 1966年12月8日 | 1952年9月10日 1962年1月23日 1962年3月26日 |
九州北部で次々と若い女性を殺害し[534]、「九州の小平」と呼ばれた[535][536]。 1952年9月10日、佐賀県唐津市にあった炭鉱で女性(身元不明、推定当時21歳)を絞殺、死体を近くの窪みに遺棄した[537]。1962年1月23日、福岡県北九州市で白タク営業中に小倉区小森の女性(当時20歳)を乗せ、同区高津尾の埋め立て地で金のことで口論になったことをきっかけに絞殺した[537]。そして同年3月20日ごろには長崎県長崎市新橋町のキャバレーホステス(当時20歳)を誘い出して旅館を転々としたが、同月26日、福岡県山田市熊ケ畑の山林で大阪方面へ逃げようと誘ったところ、断られたため絞殺した[537]。 殺人、死体遺棄に加え[537]、横領、詐欺(2件)、婦女暴行致傷の罪で起訴され、1965年9月28日に福岡地裁飯塚支部で死刑求刑を受けた[538]。11月9日に福岡地裁飯塚支部(江藤裁判長)で死刑判決を言い渡された[539]。控訴したが、1966年5月14日に福岡高裁(岡林裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[534]。上告したが、1966年12月8日に最高裁第一小法廷(入江裁判長)で上告棄却の判決を言い渡された[537]。翌年1月12日に判決訂正申立棄却で確定。 殺人前科あり(懲役8年)。 1970年6月20日に死刑執行。 |
1967年
1967年(昭和42年)に死刑判決が確定した死刑確定者は14人である[375]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
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中野のクツ屋殺し (O) | 1967年3月24日 | 1958年2月17日 | 栃木県那須郡馬頭町生まれ[540]。以前、自身が間借りしていた場所の近く(東京都中野区本町通り)に住んでいた被害者の靴修理業者男性(当時54歳)が一人で貯金していることを知り、1958年2月17日夜、宛もなく上京して金を使い果たしたことから被害者宅へ侵入[541]、帰宅を待ち伏せて被害者の頭を薪割りで殴り、首を絞めて殺害した[540]。殺害後、被害者の遺体と2週間にわたって同居し、家や家財をすべて売り払った他[注 27]、遺体をトランクに詰め[541]、栃木県那須郡馬頭町の竹藪に遺棄した[540]。 強盗殺人、死体遺棄、詐欺の罪に問われ[542]、1959年10月29日、東京地裁(横川裁判長)で死刑判決を言い渡された[541]。控訴したが、1965年12月20日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[542]。上告したが、1967年3月24日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[540]。 |
福神丸事件 (K)[543][544] | 1967年3月16日 | 1965年3月23日 - 24日 | 大分県北海部郡佐賀関町の一本釣り漁船「福神丸」(4.87トン)の乗組員だったが、九州近海で操業中に義母が死亡したことを知って帰港を申し出、船長(当時39歳)もKの頼みを受諾した[544]。しかし船は途中で嵐に遭い、口永良部島の本村港に避難した[544]。1965年3月23日夜[543]、早く出港するよう船長に申し出たところ喧嘩になり、包丁で船長を刺して死亡させ、死体を錨に縛り付けて海に沈めた[544]。また、この喧嘩を止めに入った機関長(当時29歳)と炊事係(同19歳)を刺し、2人が船室に逃げ込んだところ、Kはドアを釘付けにすることで2人を閉じ込め、船底の栓を抜いて2人を水死させ、海難事故に遭遇したよう偽装した[544]。 福神丸は「当て逃げされ3人行方不明」と届け出、25日午後には屋久島東方約100 km沖で和歌山県東牟婁郡那智勝浦町の漁船「第一慶福丸」に救助され[545]、27日9時には宮崎県油津海上保安部の巡視船「こしき」に曳航されて日南市の油津港に入港したが、保安部が調べたところ他の船に衝突された痕跡はなく、また船室から2人の遺体が発見され、船尾のプロパンガスから船室へゴム管が引かれていた[546]。Kは帰港後、西鹿児島駅前のホテルで睡眠薬約100錠を飲んで自殺を図ったが失敗に終わり[546]、後に逮捕[547]・起訴された。 1965年10月28日、鹿児島地裁(藤田哲夫裁判長)で死刑判決を受けた[543]。被害者3人に対する殺人罪で起訴されたが、同地裁は船長を刺した行為についてはKの供述以外に殺意を認める証拠がなく、また船長との間に4年以上の交際があったこと、格闘時に偶然手の届く場所に包丁があったことなどから、船長への殺意は認めず、傷害致死罪を認定した[543]。しかし船長の腹部を2箇所突き刺し、応急処置もせず放置したことは殺人に等しい行為と評し、また2人を殺害した行為の残忍性、船長の死体を数千メートルの海底に沈めて遺骨の収拾もできない状態にした行為の悪質性などを指摘した[543]。 Kは同判決を不服として控訴したが、福岡高裁宮崎支部(木下裁判長)で1966年8月18日に控訴棄却の判決を言い渡された[548]。上告したが、1967年3月16日に最高裁第一小法廷(長部謹吾裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[544]。 1970年10月29日に死刑執行。 |
品川バーマダム強盗殺人事件 (K) | 1967年4月7日 | 1965年9月17日 | 出所したばかりの男が自分が住むアパート内の部屋を物色中にその部屋で寝ていたバーの雇われマダムを刺殺し2000円を奪った。ほかにも窃盗事件8件の余罪あり[549]。 強盗殺人、窃盗の罪に問われ、1966年2月26日、東京地裁で死刑判決を言い渡された[542]。控訴したが、同年7月28日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[542]。上告したが、1967年4月7日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[542]。 |
日南刑務所仲間両親強盗殺人事件 (U) | 1967年4月11日 | 1965年9月29日 | 上記N(1966年に死刑確定)の共犯。 尊属殺人と強盗殺人の罪に問われ、1966年8月11日に宮崎地裁で死刑判決を言い渡された[550]。控訴したが、1967年4月11日に自ら取り下げ、死刑が確定[550]。 1969年12月19日に死刑執行。 |
雅樹ちゃん誘拐殺人事件 (M) | 1967年5月25日[551] | 1960年5月16日 - 18日 | 小学校2年生の男児(当時7歳・慶應義塾幼稚舎2年生)を身代金目的で誘拐し、2日後に殺害して逃亡。前職は歯科医師。 営利誘拐、恐喝未遂、殺人、死体遺棄の罪に問われ、1961年3月31日、東京地裁で死刑判決を言い渡された[550]。控訴したが、1966年8月26日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[550]。上告したが、1967年5月25日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[550]。 1970年10月29日に東京拘置所で死刑執行[注 28][552]。 |
西成幼女殺害事件 (K) | 1967年5月25日 | 1960年2月13日 | 強姦致傷、猥褻誘拐、強制猥褻致傷、強制猥褻、強姦致死、殺人の罪に問われ、1963年10月4日、大阪地裁で死刑判決を言い渡された[550]。控訴したが、1966年3月14日に大阪高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[550]。上告したが、1967年5月25日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[550]。 |
盛岡・強盗殺人放火事件 (Y) | 1967年7月14日 | 1965年1月14日[553] | 1965年1月14日13時ごろ、知人である岩手県盛岡市上田西下台のアパート管理人男性(当時32歳)宅を訪れ、殺して金を奪おうと、持っていた薪割りで頭を滅多打ちにした上、台所にあった包丁で男性の左手首を切って自殺と見せかけ、現金7000円を盗み、男性の車を奪って逃げた[553]。15日1時30分ごろには犯行現場に戻り、証拠隠滅目的で男性の死体の付近に買ってきたガソリンを撒いて放火、逃走した[553]。 強盗殺人と非現住建造物等放火の罪に問われ[542]、第一審の公判で死刑を求刑されたが、1965年8月9日に盛岡地裁(菅家裁判長)は無期懲役の判決を言い渡した[553]。その後、1966年9月29日に仙台高裁で原判決を破棄自判され、死刑判決を言い渡された[542]。1967年7月14日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[542]。 |
船橋夫婦殺害事件 (O) | 1967年7月25日 | 1964年2月27日[554] | 下記K・Tの2人と共謀し、1964年2月27日夜、Oの遠縁にあたる千浜県船橋市高根町の男性(当時66歳)宅を訪れ、男性と妻(当時59歳)を絞殺、現金9000円と衣類、有価証券(140万円余相当)を奪った[554]。 3人はいずれも強盗殺人罪に問われ、1965年5月15日に千葉地裁(石井謙吾裁判長)で3被告人とも死刑判決を言い渡された[555]。3人とも控訴したが、1966年3月29日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[542]。1967年7月25日に最高裁第三小法廷(下村裁判長)で3人とも上告棄却の判決を言い渡され、死刑判決が確定[554][556]。1事件で3被告人に対し死刑判決が確定した事例は戦後4件目だった[556]。 |
船橋夫婦殺害事件 (K) | 1967年7月25日 | 1964年2月27日[554] | 上記Oおよび下記Tの共犯で、裁判経緯は同一[542]。 |
船橋夫婦殺害事件 (T) | 1967年7月25日 | 1964年2月27日[554] | 上記OおよびKの共犯で、裁判経緯は同一[542]。 |
静岡の少女殺し (M) | 1967年9月22日 | 1965年10月14日 - 15日 | 成長期に不遇な環境に育ったことから僻み根性があり、また数回にわたって刑事罰を受けるなど不良性があったことから、事件当時は妻に生まれたばかりの長女を連れられて逃げられており、離婚調停をされて自暴自棄になっていた。[557]。 1965年10月14日20時ごろ[557]、自身の妻が経営する静岡県静岡市馬淵のバー[注 29]の前を通りかかった近所の少女[559](当時14歳:雙葉学園中学校2年生[558])を店内の部屋に連れ込み[559]、手足を縛り付け、翌日未明に乱暴した[557]。翌朝6時過ぎ、アイロンコードで少女を絞殺し、死体を床下に隠した[557]。 監禁、強姦致傷、殺人、死体遺棄の罪に問われ[542]、死刑を求刑されたが、1966年3月8日に静岡地裁(石見裁判長)で無期懲役の判決を言い渡された[557]。同地裁は犯行が偶発的なものである点、犯行後に睡眠薬で自殺を図ったことから良心の呵責に苦しんでいることがうかがえる点を指摘し、死刑を回避した[557]。 検察官が控訴したところ、東京高裁刑事第9部(松本勝夫裁判長)は同年11月28日に原判決を破棄自判し、Mに死刑判決を言い渡した[558]。Mは上告したが、1967年9月22日に最高裁第二小法廷(奥野裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[559]。 |
八王子金融業者夫婦殺害事件 (Y) | 1967年9月29日 | 1963年7月5日 | 強盗殺人と死体遺棄の罪に問われ、1964年8月15日に東京地裁八王子支部で死刑判決を言い渡された[542]。控訴したが、1966年11月30日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[542]。1967年9月29日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[542]。 |
吉展ちゃん誘拐殺人事件(小原保) | 1967年10月13日 | 1963年3月31日 | 見ず知らずの幼児を誘拐後、殺害。自供したのは2年後の1965年のことだった。 営利誘拐、殺人、死体遺棄、恐喝の罪に問われ、1966年3月17日、東京地裁で死刑判決を言い渡された[542]。控訴したが、同年11月29日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[542]。1967年10月13日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[542]。 1971年12月23日に死刑執行(38歳没)。 |
1968年
1968年(昭和43年)に死刑判決が確定した死刑確定者は11人である[375]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
札幌建設会社社長強盗殺人事件 (Y) | 1968年4月5日 | 1966年9月8日 | 警察の名を騙って被害者を呼び出した上で殺害、小切手帳などを奪い死体を原野に埋めた[560]。共犯者は無期懲役。 強盗殺人、死体遺棄、詐欺の罪に問われ、1967年8月25日、札幌地裁で死刑判決を言い渡された[561]。控訴したが、1968年3月21日に札幌高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[561]。上告せず死刑が確定[561]。 |
下松ホステス路上強盗殺人事件 (S) | 1968年4月12日 | 1963年7月12日 - 22日 | 強盗殺人、殺人未遂、強盗致傷、強盗、準強盗、窃盗、同未遂、住居侵入の罪に問われ、1965年2月12日、山口地裁で死刑判決を言い渡された[561]。控訴したが、1967年1月30日に広島高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[561]。上告したが、1968年4月12日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[561]。 |
国分寺主婦強盗殺人事件 (H) | 1968年4月26日 | 1966年5月21日 | 会社員宅に押し入り、同家の妻を刺殺、現金2020円とネックレスなどを奪った[562]。 住居侵入、強盗殺人、強盗、窃盗、強盗致傷の罪に問われ、1966年11月28日、東京地裁八王子支部で死刑判決を言い渡された[561]。控訴したが、1967年5月17日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[561]。1968年5月2日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[561]。 1971年11月9日に死刑執行。 |
Nさん兄弟殺し事件 (N)[563][564] | 1968年5月2日 | 1964年10月7日[565] | 愛知県岡崎市滝町本部の石材業[566]。 1964年10月7日夜、嫌がらせのため商売敵の男性が経営していた採石場のドラム缶からガソリンを抜き取ろうとしたが、男性の長男(当時30歳)と次男(当時27歳)に見つかったため、ナイフで兄弟2人を刺殺した[566]。兄弟を殺害することを事前に計画し、兄弟が盗難防止のために張り込んでいた石切場へ果物ナイフを持って忍び込んだものである[563]。被害者兄弟2人のうち、弟は犯人Nと同姓同名である[566]。 殺人罪に問われ[566]、1965年6月22日に名古屋地裁岡崎支部(植村裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[563]。事件発生から8か月という早さで言い渡された判決で、同地裁支部における死刑判決は幡豆郡吉良町宮崎(現:西尾市吉良町宮崎)の別荘で発生した強盗殺人事件以来、5年ぶりだった[564]。判決公判は当初、同年5月3日に予定されていたが、これが延期されたため、独房の中で喚いたり「早く殺せ」と怒鳴るなど、一時錯乱状態になっていたという[564]。 同判決を不服として控訴したが、1967年7月31日、名古屋高裁刑事第2部(小淵裁判長)で「鑑定の結果では精神異常は認められない」として控訴棄却の判決を受けた[567]。 1968年5月2日に最高裁第一小法廷(長部裁判長)で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[565]。 1973年に死刑執行。 |
岩手の雑貨商夫婦射殺事件 (Y) | 1968年5月2日 | 1964年12月17日[568] | 岩手県下閉伊郡川井村川井(現:宮古市)在住[569]。1964年12月15日と17日、川井村江繋の薪炭業兼雑貨商の男性(当時50歳)[注 30]に対し[568]、手持ちがないのに木炭を買い取って欲しいと嘘を言って15万円を騙し取った[569]。このことを自身の父親から責められたが、借金返済の見通しがつかないことに加え[566]、警察に通報されることを恐れたため、17日23時30分ごろ、自宅から猟銃を持ち出して男性宅に侵入、物音で目を覚ました男性とその妻(当時50歳)を猟銃で射殺し[568]、4万6500円余りを奪った[569]。また同月19日には近隣住民が自分を犯人として疑っていることを知り、数人に対し「おれを犯人と疑っている者はただではおかない」と脅迫した[568]。 強盗殺人、住居侵入、脅迫、詐欺などの罪に問われ[569]、1965年8月9日に盛岡地裁(菅家裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[553]。控訴審で弁護人は犯行時、Yが心神耗弱状態にあったと主張したが、仙台高裁(矢部孝裁判長)は1967年9月11日に控訴棄却の判決を言い渡した[568]。1968年5月2日に最高裁第一小法廷(長部裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定した[566][569]。死刑が執行されたかは不明[570]。 同事件の被害者夫婦には当時高校3年生の息子と高校1年生の娘がいたが、2人は当時村外に下宿していた[571]。夫婦の娘(2024年4月時点で75歳)は事件後の2014年、埼玉県狭山市で犯罪被害者を支援するために「犯罪被害者等支援の会オリーブ」を設立し、代表理事を務めており、2024年2月には犯罪被害者の支援を通じて男女の人権尊重に積極的な役割を果たしたとして「県荻野吟子賞」の大賞を受賞した[572]。 |
静岡の母子殺傷事件 (N)[573] | 1968年5月2日 | 1966年4月20日[569] | 静岡県焼津市八楠生まれ、住居不定[566]。 1966年4月20日朝、静岡県静岡市青木の民家に強盗目的で侵入したところ[569]、家主の妻(当時27歳)に騒がれたためナイフで刺殺し[566]、その背中に背負われていた長女(当時生後10か月)にも10日間の怪我を負わせた[569]。また同事件の3日前には清水市の住宅で、住人の男性(当時44歳)の腹などを同じナイフで刺して3週間の怪我を負わせ、現金2000円を奪う事件を起こしておりらそれ以外にも窃盗11件の余罪があった[573]。 強盗殺人、同未遂、強盗致傷、住居侵入、窃盗、同未遂の罪に問われ[569]、1966年12月27日に静岡地裁(石見裁判長)で死刑判決を言い渡された[573]。控訴したが、1967年8月25日に東京高裁刑事第3部(石井裁判長)で控訴棄却の判決を言い渡された[574]。1968年5月2日に最高裁第一小法廷(大隅裁判長)で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[569]。 死刑執行日は不明。 |
名古屋埠頭タクシー運転手強盗殺人事件 (I) | 1968年5月10日[561] | 1967年4月17日 | 強盗殺人、同時傷害、強盗、窃盗、強盗致傷、強姦致傷の罪に問われ、1968年4月19日、名古屋地裁で死刑判決を言い渡された[561]。控訴したが、同年5月10日付で自ら取り下げ、死刑が確定[561]。 1971年11月18日に死刑執行。 |
智行ちゃん誘拐殺人事件 (K) | 1968年7月2日[575] | 1964年12月21日 | 元映画俳優。 身代金目的拐取、殺人、死体遺棄、拐取者身代金要求の罪に問われ、1965年4月5日、仙台地裁で無期懲役の判決を言い渡された[576]。1966年10月18日、仙台高裁で原判決を破棄自判され、死刑判決を言い渡された[注 31][576]。1968年7月2日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[576]。 1974年7月5日に死刑執行。 |
葛飾路上税理士強盗殺人事件 (N) | 1968年7月16日 | 1966年10月2日 | 殺人前科(懲役10年)。 強盗殺人、窃盗の罪に問われ、1967年1月27日、東京地裁で死刑判決を言い渡された[561]。控訴したが、同年10月30日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[561]。上告したが、1968年7月16日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[561]。 |
高山友人強盗殺人事件 (D) | 1968年12月13日 | 1961年8月12日 | 横領、強盗殺人、死体遺棄、私文書偽造、同行使、詐欺の罪に問われ、1967年5月25日、岐阜地裁高山支部で死刑判決を言い渡された[577]。控訴したが、同年12月6日に名古屋高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[577]。上告したが、1968年12月13日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[577]。 1972年2月2日に死刑執行。 |
名古屋埠頭タクシー運転手強盗殺人事件 (K) | 1968年12月24日[577] | 1967年4月17日 | 強盗殺人、同時傷害、強盗、窃盗、強盗致傷、強姦致傷の罪に問われ、1968年4月19日、名古屋地裁で死刑判決を言い渡された[577]。控訴したが、同年12月24日に自ら取り下げたため、死刑が確定[577]。 1971年11月18日に死刑執行。 |
1969年
1969年(昭和44年)に死刑判決が確定した死刑確定者は11人である[375]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
熊本雑貨商一家3人強殺事件 (K) | 1969年3月25日 | 1958年2月18日 | 強盗殺人、同未遂、住居侵入の罪に問われ、1966年12月20日、熊本地裁で死刑判決を言い渡された。控訴したが、1968年3月29日に福岡高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[577]。上告したが、1969年3月25日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を言い渡され[577]、同年4月15日付で最高裁第一小法廷から上告審判決に対する訂正申立棄却の決定を受けた[578]。共犯は無期懲役。1975年7月11日に死刑執行。 |
秋田元同僚強盗殺人事件 (S) | 1969年4月25日 | 1966年2月21日 | 強盗殺人罪に問われ、1967年8月29日、秋田地裁で死刑判決を言い渡された[577]。控訴したが、1968年9月12日に仙台高裁秋田支部で控訴棄却の判決を言い渡された[577]。上告したが、1969年4月25日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[577]。 |
田無・春日部連続強盗殺人事件 (N) | 1969年6月28日[577] | 1966年9月3日 1966年9月16日 |
住居侵入、強盗殺人、同未遂、強制猥褻、強盗強姦、現住建造物等放火、同未遂の罪に問われ、1969年3月24日、浦和地裁で死刑判決を言い渡された[577]。控訴したが、同年6月28日付で取り下げ、死刑が確定[577]。 1973年10月12日に死刑執行。 |
兵庫衣料品店夫妻強殺事件 (K) | 1969年7月11日 | 1968年5月24日 | 強盗殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反の罪に問われ、1968年11月12日、神戸地裁姫路市部で死刑判決を言い渡された[577]。控訴したが、1969年6月26日に大阪高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[577]。上告せず確定[577]。 |
鶴見上司バラバラ殺人事件 (N) | 1969年8月22日 | 1966年12月17日 | 強盗殺人、窃盗、死体遺棄の罪に問われ、1968年4月8日、横浜地裁で死刑判決を言い渡された[579]。控訴したが、同年12月20日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[579]。上告したが、1969年7月11日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[579]。1969年8月22日付で最高裁第二小法廷から上告審判決に対する訂正申立棄却の決定を受けた[580]。 |
門真一家3人殺害事件 (M) | 1969年10月21日[576] | 1968年8月7日 | 元同棲相手の家族を殺害した。 殺人罪に問われ、1969年10月4日、大阪地裁で死刑判決を言い渡された[576]。控訴したが、同月21日付で自ら取り下げたため、死刑が確定[576]。 |
少年ライフル魔事件 (K) | 1969年10月2日 | 1965年7月29日 | 神奈川県で警官を殺傷した後、渋谷の銃砲店に籠城した。犯行時18歳(少年死刑囚)。 強盗殺人、同未遂、脅迫、公務執行妨害、強盗、監禁の罪に問われ、1967年4月13日、横浜地裁で無期懲役の判決を言い渡された[579]。1968年11月12日、東京高裁で原判決を破棄自判され、死刑判決を言い渡された[579]。高裁の死刑判決を受けて211ページにわたる上告趣意書を提出、殺意が無かった旨を主張したが、1969年10月2日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡された[581]。同月23日付で、最高裁第一小法廷から上告審判決に対する訂正申立棄却の決定を受けた[582]。 1972年7月21日に死刑執行(25歳没)。 |
東京切り裂きジャック事件 (T) | 1969年11月14日[576] | 1967年 - 1968年 | 第一審判決時点では29歳、住所不定、元洋服仕立職[583]。 殺人前科あり、連続猟奇殺人事件。 1967年8月2日、東京都台東区浅草の飲食店で経営者女性(当時41歳)をナイフで刺殺し、1968年1月1日には東京都渋谷区の旅館で近くの簡易料理店の女給(当時34歳)をナイフで刺殺した[584]。また同年7月、東京都新宿区三光町の簡易料理店で女性経営者を刺して3週間の怪我を負わせた[584]。殺害された被害者の遺体には91ヶ所以上の切り傷や刺し傷があり、内蔵がえぐり出されていたため、犯行内容がロンドンの切り裂きジャックに類似していたため、犯人Tは東京の切り裂きジャックと呼ばれた。被害者2人(自供では5人)。 殺人、窃盗、傷害、銃砲刀剣類所持等取締法違反の罪に問われ[576]、1969年10月29日、東京地裁刑事第2部(服部一雄裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[583]。Tは精神鑑定の結果、精神病質者と診断されたが、同地裁は完全責任能力を有していたと認定した[584]。控訴したが、同年11月14日に自ら控訴を取り下げ、死刑が確定[576]。 死刑確定後、中学1年生だった1953年4月18日に北海道旭川市で義父の住み込み先だった旅館の女中(当時36歳程度)の顔を湯船に浸けて窒息死させたこと、翌1954年5月4日に旭川市立大成小学校の便所で同校1年生の女児(東寺6歳)を刺殺したこと、同年10月24日ごろに旭川市内の映画館の婦人便所で幼女(当時5歳)を果物ナイフ(刃渡り約10 cm)で刺殺したことを告白する手記を東京拘置所内で書いて知人に渡していた。これら3件の事件のうち、2件目は同級生による過失致死事件とされ、また3件目はTとは別の精神障害を有する少年が被疑者として取り調べられていたが、手記に綴られていた犯行経緯や凶器、被害者の着衣などはほとんど事実と符合していたため、Tは東京地検特捜部から事情聴取を受けた[585]。 1972年8月に死刑執行。 |
宇都宮保険金殺人事件 (O) | 1969年11月6日 | 1967年4月19日 | 栃木県宇都宮市内の友人を誘ってお互いが受取人になる生命保険に加入後、睡眠薬入りのカクテルを飲ませた上で交通事故死に見せかけて殺害した[586]。 殺人、死体遺棄の罪に問われ、1968年7月10日、宇都宮地裁で死刑判決を言い渡された[576]。控訴したが、1969年1月29日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[576]。上告したが、1969年11月6日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡された[576]。同年12月3日付で、最高裁第一小法廷から上告審判決に対する訂正申立棄却の決定を受けた[587]。 |
八戸農婦強姦殺人事件 (I) | 1969年12月5日 | 1966年4月14日 | 強姦、殺人、強制猥褻致傷、殺人未遂の罪に問われ、1968年3月18日、青森地裁八戸支部で死刑判決を言い渡された[576]。控訴したが、1969年1月28日に仙台高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[576]。上告したが、同年12月5日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[576]。 |
昭島老女強盗殺人事件 (S) | 1969年12月16日[453] | 1965年2月19日 | 東京都昭島市で71歳女性を絞殺して1万円を奪った強盗殺人の容疑で逮捕。1965年4月から八王子拘置支所へ入所したが、同年9月23日、「世間の空気を1日でも良いから吸いたい」として他の収容者2人とともに脱走。2時間余り後に再逮捕された[588]。 住居侵入、強盗殺人、窃盗、同未遂、加重逃走、傷害、公務執行妨害の罪に問われ、1966年6月17日、東京地裁八王子支部で死刑判決を言い渡された[579]。控訴したが、1968年9月11日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[579]。上告したが、1969年12月16日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[579]。 |
脚注
注釈
- ^ 岩上洪治執行前年にあたる1910年(明治43年)で大卒銀行員が30円、巡査初任給が12円、大工の日当が1.1円、白米1升で13銭であった。これらを現在の価値で換算した場合、約7.5万〜約1.1万円となる。
- ^ 未遂に終わったとしても法定刑は死刑しか規定されていない刑罰。戦後廃止された。
- ^ あくまでも構想のみであり、実際に犯行計画を進めていないため、日本では罰則規定が現在もない共謀罪であった。
- ^ 大逆罪廃止による。
- ^ 現:あいの風とやま鉄道線。
- ^ 旧刑事訴訟法適用事件であるため、「控訴棄却」ではない。また、名古屋高裁金沢支部は1948年(昭和23年)の設立である。
- ^ 『大阪府警察史』では「枚方の一家六人惨殺事件」となっているが、発生地は寝屋川町(現在の寝屋川市)である。
- ^ 現:国立病院機構やまと精神医療センター。
- ^ 名古屋の小平事件[315]、中京の小平事件[316]とも呼ばれる。
- ^ 夷隅郡興津町とする文献もある[343]。
- ^ 福岡刑務所では1948年11月11日に刑場が完成し、同日から死刑囚の収容・執行を行っていた[360]が、同刑務所は1965年(昭和40年)4月16日に福岡市外へ新築・移転したため、以降は同拘置所跡地に移転した土手町拘置支所特別舎(現:福岡拘置所)にて死刑囚の収容・執行を行っている[361]。
- ^ 陪席裁判官は青木亮忠・尾崎力男[363]。
- ^ 刑事訴訟法第439条第1項:「再審の請求は、左の者がこれをすることができる。(中略)4. 有罪の言渡を受けた者が死亡し、又は心神喪失の状態に在る場合には、その配偶者、直系の親族及び兄弟姉妹」
- ^ 決定全文は以下の通り。
主文
本件の再審請求を棄却する。
理由
記録に編綴されている当庁、三浦書記官補作成の電話聴取書によれば、再審請求人は昭和三十三年四月十二日、すでに死刑の執行がなされたことが明らかである。
従って、本件請求権は消滅したものと認め主文の通り決定する。
昭和三十三年四月二十二日
福岡高等裁判所刑事第四部
裁判長 裁判官 柳田躬則
裁判官 青木亮忠
裁判官 尾崎力男 — 『実録・福岡の犯罪〈下〉』 (1993) [362] - ^ またKについては、同年4月25日・5月8日に福岡地裁小倉支部が、それぞれ別の再審請求(いずれも死刑囚本人が生前に提出)を棄却する決定を出している[363]。
- ^ 別府欣男[364]、別府佽男(としお)[365]とも表記される。
- ^ 東京大学教授の古畑種基による被害者の殺害方法についての鑑定が、再審時の鑑定とまったく一致しないばかりか、目撃証言と元死刑囚の体格が一致していなかったことが判明。
- ^ 拷問と虚偽の捏造した証拠によって自白調書を作成する捜査手法をとることで静岡県警で「捜査の神様」といわれた紅林の関わった冤罪事件は幸浦事件、二俣事件、小島事件など多数あるが、死刑判決が確定したのは島田事件が唯一だった。最高裁でも見向けなかったのは古畑の誤鑑定の評価ミスだった。もっとも現在では証拠能力を否定する刑事訴訟法の法理である違法収集証拠排除法則が確立しているため、真実の自白や証拠であったとしても証拠能力が否定され刑事裁判の維持が不可能になる。
- ^ 『昭和45年版 犯罪白書』には「昭和40年から44年までの5年間に死刑を執行された人員は,49人であるが,これを罪名別にみると,強盗殺人が40人,殺人が9人となっており…」と記載されている一方[423]、『昭和46年版 犯罪白書』には「最近5年間における死刑執行人員は,71人となっている。この71人の罪名をみると,強盗殺人が54人,殺人が16人,放火が1人となっており,(中略),放火の1人は,保険金詐取の目的による放火によって,焼死8名,重軽傷6名の被害を発生させたものである。」と記載されている[424]。
- ^ 1962年4月時点で8歳[445]。
- ^ 17000円との報道もある[481][482]。
- ^ 女児は燃料商の四女で、日曜教会帰りだった[496]。
- ^ 犯行時は20歳の誕生日を10日後に控えていた[499]。
- ^ 洋子さん事件とも[508]。
- ^ 現:厚木市寿町三丁目1番3号[525]。
- ^ 永田憲史 (2010) は、この死刑囚Hについて資料中における事件発生日の誤記や、犯行当時の新聞報道で成年として報じられていることから、Hを少年死刑囚の一覧(「最高裁において第二次世界大戦終戦後に犯行当時少年の被告人に対して確定した死刑判決一覧」)から除外している[533]。
- ^ 現金6000円、預金額105000円余りの預金通帳2冊、株券などが被害品[540]。
- ^ 名古屋矯正管区長の高橋良雄は、1970年(昭和45年)11月13日に愛知県蒲郡市にて開催された中部矯正医学会における講演の際、雅樹ちゃん殺しの歯科医Mは、先月(1970年10月)29日に東京拘置所で死刑を執行された。今日はMが死亡してからちょうど15日になる。Mは処刑の前夜に自分宛ての別れの手紙を書いていたが、その文面を見る限りは、かつてMが拘禁反応を起こしていたとは思えない、という旨を述べている[552]。
- ^ Mの自宅でもある[558]。またM自身が経営していたとする報道もある[557]。
- ^ 男性の在住地を川井村小国、年齢を当時50歳とする報道もある[553]。
- ^ 『下級裁判所刑事裁判例集』第8巻第10号1313頁登載[576]。
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- ^ 『最高裁判所刑事裁判書総目次 昭和四十四年四月分』最高裁判所事務総局、1969年4月、23頁。「刑事雑(全) > 判決訂正申立 > 事件番号…昭和四四年(み)三 事件名…住居侵入、強盗殺人、同未遂 被告人又は申立人氏名…KS 裁判月日…昭和四四年四・一五 法廷…三 結果…棄却 原審…(空欄) 原本綴丁数…二三九」 - 『最高裁判所裁判集 刑事』(集刑)第171号巻末付録。
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- ^ 『最高裁判所刑事裁判書総目次 昭和四十四年一〇月分』最高裁判所事務総局、1969年10月、29頁。「刑事雑(全) > 判決訂正申立 > 事件番号…昭和四四年(み)九 事件名…強盗殺人、同未遂、脅迫、公務執行妨害、強盗、監禁 被告人又は申立人氏名…KM 裁判月日…昭和四四年一〇・二三 法廷…一 結果…棄却 原審…(空欄) 原本綴丁数…八五」 - 『最高裁判所裁判集 刑事』(集刑)第173号巻末付録。
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参考文献
死刑・事件全般の文献
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- 築地警察署史編集委員会 編「第七 昭和後期(戦後)の警察 > 二 警察組織と活動 > (二)管下の重要事案、事件等 > ウ 特異事案 > (三)築地署管内の主要事件の概況」『築地警察署史』警視庁築地警察署、1973年8月10日、591-594頁。doi:10.11501/9634407。NDLJP:9634407/320。
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- (編著者)村野薫『日本の死刑』(第1版第1刷発行)柘植書房、1990年11月25日。ISBN 978-4806802983。 NCID BN05675848。国立国会図書館書誌ID:000002143452。
- 弓削信夫・中島義博・笠井邦充 著「門司の幼児3人殺し 〈昭和二十七年・門司市〉」、フクオカ犯罪史研究会 編『実録・福岡の犯罪〈下〉』(初版第一刷)葦書房、1993年3月15日、7-17頁。ISBN 978-4751204818。 NCID BN0918257X。国立国会図書館書誌ID:000002260431。 - 『福岡犯罪50年史 戦後編』(夕刊フクニチ新聞社、1976年3月1日第1刷、doi:10.11501/10262013)に、新たに1976年(昭和51年)以降の重要事件を増補した書籍。
- 村野薫『戦後死刑囚列伝』宝島社、1993年11月1日。ISBN 4-7966-0736-6。
- 村野薫『増補・改訂版 戦後死刑囚列伝』宝島社 2002年
- 『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』東京法経学院出版、2002年
- 佐久間哲『死刑に処す-現代死刑囚ファイル-』自由国民社、2005年
- 村野薫『死刑はこうして執行される』 む-27-1(第1刷発行)、講談社〈講談社文庫〉、2006年1月15日、120-124頁。ISBN 978-4062753043。 NCID BA75304430。国立国会図書館書誌ID:000008051816。
- 永田憲史『死刑選択基準の研究』(第2刷)関西大学出版部、 日本:大阪府吹田市、2012年6月15日(原著2010年9月30日:第1刷発行)。ISBN 978-4873544991。 NCID BB03488346。国立国会図書館書誌ID:000011019880 。
- 深笛義也『増補新版 女性死刑囚 十四人の黒い履歴書』(初版第1刷)鹿砦社、2013年12月16日。ISBN 978-4846309794。 NCID BB15913176。国立国会図書館書誌ID:025046549。 - 一覧表1番(菅野村強盗殺人・放火事件の山本宏子)から14番(大牟田4人殺害事件の死刑囚K)の女性死刑囚14人を取り扱った書籍。戦後日本の女性死刑囚(同書発行時点で14人)を死刑確定順に収録している。
- 原著『女性死刑囚』(国立国会図書館書誌ID:023153955、ISBN 978-4846308469、NCID BB07746636)は2011年11月刊行(収録対象は一覧表13番まで)。
- 死刑合憲判決 1948年(昭和23年)3月12日最高裁大法廷判決 - 最高裁判所事務総局刑事局「死刑と日本國憲法: 尊屬殺殺人死體遺棄被吿事件(昭和二二年(れ)第一一九號 同二三年三月一二日大法廷判決 棄卻)」『最高裁判所刑事判例集』第2巻第3号、最高裁判所判例調査会、1948年、191-202頁。
- 「死刑無期刑刑事事件判決集」『刑事裁判資料』上巻第56号、最高裁判所事務総局刑事局、1951年。
- 「死刑事件判決集(昭和35・36年度)」『刑事裁判資料』第197号、最高裁判所事務総局、1972年2月。 - 『刑事裁判資料』第197号は朝日大学図書館分室、富山大学附属図書館、日本大学法学部図書館に所蔵。また『死刑事件判決集』(昭和35年・36年度)は、明治学院大学図書館(白金)に所蔵。
- 「死刑事件判決集(昭和37・38・39・40年度)」『刑事裁判資料』第193号、最高裁判所事務総局、1971年2月。 - 朝日大学図書館分室、東京大学法学部研究室図書室、富山大学附属図書館、日本大学法学部図書館に所蔵。
- 「死刑事件判決集(昭和41 - 43年度)」『刑事裁判資料』第189号、最高裁判所事務総局、1970年1月。 - 朝日大学図書館分室、富山大学附属図書館に所蔵。
- 「死刑事件判決集(昭和52・53・54年度) 付録 死刑事件判決総索引」『刑事裁判資料』第227号、最高裁判所事務総局刑事局、1981年3月、NCID AN00336020。 - 『刑事裁判資料』第227号は朝日大学図書館分室、富山大学附属図書館、東北大学附属図書館に所蔵。戦後、第一審から上告審までいずれかの審級で死刑判決を言い渡され、1979年(昭和54年)までに判決が確定した者(後に冤罪が判明した者、最終的に死刑以外の判決が確定した者、裁判中に死亡して公訴棄却となった者も含む)の一覧表が収録されている。
- 「検察官の上告趣意:別表 犯時少年の事件に対し死刑の判決が確定した事例」『最高裁判所刑事判例集』第37巻第6号、最高裁判所判例調査会、1983年、659-689頁。 - 永山以前に戦後、死刑が確定した少年事件(少年死刑囚)の一覧表(事件および裁判の概要・被告人の年齢など)が掲載されている。
- 「昭和30年(あ)第2384号 判決 本籍:福岡県嘉穂郡宮野村字桑野287番地 住居:門司市白木崎涼町三丁目100番地、現在 福岡刑務所在所 日雇人夫 K・T 明治34年4月21日生」『最高裁判所裁判集 刑事』第111号、最高裁判所、1955年、1179-1186頁、doi:10.11501/1349117、国立国会図書館書誌ID:000001203693。
- 門司幼児3人殺害事件(1956年1月6日に死刑確定/上記『実録・福岡の犯罪〈下〉』を参照)の死刑囚K(1958年4月12日に死刑執行)への上告審判決を収録。1179 - 1180頁は判決本文、1181 - 1183頁は被告人本人の上告趣意書、1185 - 1186頁は弁護人(戸倉嘉市)の上告趣意書である。
- 裁判所ウェブサイト:最高裁判所第三小法廷判決 1955年(昭和30年)12月26日 集刑 第111号1179頁、昭和30年(あ)第2384号、『殺人、死体遺棄』。
- 最高裁判所裁判官:島保(裁判長)・河村又介・小林俊三・本村善太郎・垂水克己